2004年12月31日金曜日

大つごもり

 季節がわからなくなったというこのごろ、気がついたらもう師走も暮れて大晦日の夜です。私なんかは季節のことに無頓着だから、常と変わらぬ日々をすごして、こういうところにも季節感の希薄な現代人というのが見えてくるようですね。

時季の雰囲気を感じ取れなくなってしまった私たちには、樋口一葉の『大つごもり』を読もうと思っても、その背景がわからないかも知れません。そもそも大晦日には、掛け売りの集金が家々長屋の戸口を回るのが常でして、大晦日に電車が終夜運転するのはこの名残であるとか。落語なんかだと、なにしろこの一日を逃げ切れば、借銭の期限は来年に延びるわけですから、集金をめぐる騒動も面白おかしく語られますが、けれど実際のところは樋口一葉の書いたような、切なくてやり切れない気持ちがあったんでしょうね。

高度経済成長の頃でしたか、一億総中流なんて言葉が生まれて、あたかも日本から貧乏が駆逐されたかの勢いがありました。何度かの不況を経験してもその状況には変わりなく、日本の繁栄は約束されたと思った矢先のバブル崩壊でしょう。悪い夢を見ていたんでしょうね。私は、そのバブル崩壊を高校で経験していますから、結局好景気を感じたことは一度もないんです。だから、バブルのころというのが実際どうだったのか、全然実感を持つことができないんですね。

とまあ、バブル崩壊以降日本は不況の道をひた走って、このごろようやくかすかな希望が見えてきたとかどうとかいいますが、いずれにせよ日本の経済はもう駄目だと思った人は多いでしょう。リストラも増え、自己破産なんて言葉が随分と身近に感じられるようになって、自殺者も増える増える。世相は悪化の一途をたどり、日本は精神風土の貧しさだけでなく、本当に貧しくなってしまった。いや、正確にいうと、日本自体はまだ豊かであるが、貧困が再び国のあちこちに見られるようになった。駆逐したつもりになっていた貧乏が、本当はずっと隣に寄り添うようにしてあったと気付かさせられたという、そういう思いがするんですね。

今の時代にこそ、樋口一葉の『大つごもり』は理解されるんじゃないかと思うんです。好景気に沸いて悪い夢に浮かされていた時代なら、ああ日本にはかつて貧乏があったのね、みたいな気持ちで、他人事として読んだことでしょう。けれど、今こうして貧困が他人事ではなくなってくれば、やはりこれは今私たちが目の当たりにする世の中そのものであったりするんです。

もしも私が、お峯と同じ境遇にたたされたなら、果たしてどういう選択をするか。今の私には、非常に現実味を持った問い掛けと感じられるんですね。

2004年12月30日木曜日

交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」

 暮れも差し迫るとベートーヴェンの第九を聴きたくなる、というのは実は日本発の風習でありまして、日本以外で年末に第九を聴くという国はありませんでした。ありませんでした? そう、かつては日本だけの奇習だった年末第九ですが、本場の第九を聴きたいと思ってドイツに行く人があまりに多かったせいで、ドイツでも年末に第九をやるようになったとか、そんな話があるんですね。まあ、こんなのはバブルの頃だとか、日本が好景気に浮かれていた間だけのことだとは思うんです。なので、今もドイツで年末に第九が演奏されているかどうかはわかりません。けど、クラシック音楽も商業主義に無縁ではないことがよくわかる逸話でありますね。

そもそも日本で第九が年末に演奏されるようになったのも、商業主義というかそういうのにかかわりがありまして、ほら、年末になるとなにかと物入りですから、正月を迎えるのに必要な資金を集めるにはどうしたらいいんだろうと、オーケストラ団員も考えたんだそうです。その資金繰りの打開策が第九だったんですね。ほら、第九には合唱団がのりますから、その人たちがチケットを売ってくれるわけですよ。

これで、会場は満員だ! 実際この作戦は功を奏したわけで、うちもやってみようと考えたオーケストラが次から次へと第九をやるようになって、それで暮れの風物詩になってしまったというわけでした。実際、今でも資金難にあえぐオーケストラにとっては福音といえるイベントなんだそうです。

なので、私もその福音とやらにのってみましょう。実はうちには第九の録音は結構あって、けれどそこから真面目に取り上げたんじゃ面白くない。なので、ちょっと面白いものを選んでみました。

1951年7月29日、第二次大戦後はじめてのバイロイト音楽祭の初日に演奏された第九で、こうしたバックグラウンドも手伝ってか、歴史的名盤と名高いフルトヴェングラーの第九です。

フルトヴェングラーをご存じではない? ああ、それは仕方がないかも知れません。フルトヴェングラーは古いクラシックファンにこそよく知られていますが、若い人たちには、カラヤンとかバーンスタインとか、あるいはアバドだとか小澤とかのほうが馴染みがあることでしょう。ですが、かつてレコードがまだ高価であったときは、フルトヴェングラーこそがカリスマにあふれた、トップ指揮者であったのです。

この人の演奏聴きたいがために、名曲喫茶に入り浸りコーヒー一杯で粘ったという方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。いや、残念ながら私はCDの第一世代くらいに位置しているので、名曲喫茶にははいったことさえないのでわからないのですが。

フルトヴェングラーは、まさに演奏がロマンティックであった時代の代表者で、彼の録音を聴けば、確かに情感が端々にまであふれています。ときに激情に駆られるようであり、ときに美に翻弄されるような感動の豊かさが真骨頂でありまして、ですがこのスタイルは、1990年代くらいにはあまり主流ではありませんでした。

今の時代、演奏家に求められるのは、ロマンティックよりもオーセンティックでありまして、どれだけ原典、楽譜に忠実に表現できるかということの方が重視されるように変わってきたんですね。だからその曲が作られた時代に使われていた楽器を、復元復刻してそれで演奏するとか、その頃の演奏慣習を調べてその通りにするとか、そういうのが、私の慣れて育ってきた音楽風潮であったわけです。

ところが、物事には揺り返しというのがありますから、今またロマンティックが復活してきていまして、だからなのか、今フルトヴェングラーを聴くとすごく新鮮で、なによりも美しい。いや、そりゃ録音は古くさいし音質は悪いはモノラルだはで、けれどそうした表面的な部分を越えれば、後は肥沃な音楽の大地が広がっています。ああ、すごく美しい。力強い。暖かく、心が翻弄されるようです。

件の精緻な演奏がはやった時代には、旧時代の演奏、懐古調だといわれたフルトヴェングラーも、どっこいまだまだその精神は生きていますって。結局はやりすたりは繰り返すもので、よいものは死ぬことなく、いくらでもよみがえって輝きだします。そして、我々はこの歴史的名盤を、今も聴くことができる。これはすごく希有なことであると思います。

ああ、そうだそうだ。なにが面白いかいうの忘れてました。この録音にはですね、冒頭に拍手とそして足音がはいっている版があるんです。大抵足音入りとか書いてあるのでそれとわかるのですが、そうした版では第一楽章の前に拍手と、そしてフルトヴェングラーの足音を聴くことができます。

ここにこうして、音楽外的要素である足音が珍重されるという不思議さ、グロテスク。普段は意識がどうとか形而上とか、とかく小難しいことばかりいいたがるクラシック聴きが、結局は指揮者のカリスマにほだされて、その身体性やらを持ち上げているというアンビヴァレンスがうかがえます。つまるところは、クラシックだって俗っぽいんですよ。俗っぽく聴いて楽しんでこそが、クラシック音楽なんですよ。

2004年12月29日水曜日

音楽の体験

『音楽の体験』は、音楽を専門に学んでいない人に向けて書かれた、クラシック音楽の理論書です。私たちが音楽を聴くときに、意識することなく知覚していること、例えばリズムのことですとか和声について説明しているのですが、その説明は(音楽理論書としては)非常に平易で、なぜ私たちがそうした音の連続や関係を、そういう風に知覚するのかということが、理路整然と整理されています。

音楽を専門的に学んでいない人向けとはいいましたが、内容は決して簡単ではないですね。そもそもが大学の教養課程で用いられる本であったためであることもあるんでしょうが、一般的な日本人には、例え大学生であっても難しいでしょう。けれど、例えば大学のオーケストラに参加しているとか、趣味で楽器をやっているという人だとかには、大きな力になる本であろうと思います。

ヴィクトル・ツカーカンドルは、音楽を説明する際に、背景となる事象を用いるのではなく、そこで鳴り響いている音楽そのもので説明しようとします。こうした考え方はエネルゲティカーと呼ばれるもので、私たちが音楽について知ろうというときに、時折感じさせられるもやもやを取り去ってくれる考え方であるといえましょう。

音楽に対するもやもや — 音楽そのもののなかで起こっていることを知りたいのに、調べても、人に聞いても、教えてくれるのはその背景のことばかり。作曲家はどういう人だったか、なんの目的で何年に作曲されたか、初演は誰がどこで、聴衆の反応はああでこうで、でも、私が聴きたかったのはそんなことではないんです。

ツカーカンドルも、後書きで感動抜きに音楽体験はありませんといっていますが、けれどこれは音楽は感動でしか語れないということとは違うのです。私たちが音楽を学ぼうというときに、そこは優しくだとか、もっとメリハリをつけてだとかとアドバイスをもらうことがありますね。その時にですよ、それはどういう根拠に基づいているのか聞いて、答えてもらえるかどうかは大切なことですが、意外と専門的に音楽をやっている人間でも、答えられないことは多いのです。感覚的に音楽をつかんでいるだけで、わかっていないことは普通にあり得ることで、ですがそうしたあやふやな理解で、真に説得力のある演奏ができるのでしょうか。ましてや人に教えるとなれば。そんな中途半端なことでいいとは、私は決して思いません。

『音楽の体験』は、西洋的な規範の中で培われた音楽の理論をベースにして、音楽そのものに向き合おうという試みです。もちろん音楽はそれだけですべて説明されるわけでなく、エネルゲティークの考え方にも欠けるところ、充分でないところはあります。けれど、多くの音楽そのものに向き合おうとしない入門書とは違うのです。この本は、真っ向から音楽に取り組んで、それに答えようとするものです。中途半端なごまかし、美辞麗句で飾って本質に目を背けるような、そういう欺瞞はみじんもない、真摯な態度が一貫する本です。

しかし絶版とは、遣る方ないですね。

2004年12月28日火曜日

グランツーリスモ

 そもそも車嫌いの私が車に興味を持ったのはなんでかといいますと、プレステ買って、『グランツーリスモ 2』をプレイしたのがきっかけだったりしたんですね。そもそも車に興味ないのにレースゲーム買ってるというのも変な話ですが、そこはほら、話題のゲームで、完成度の高さも評判だったわけで、そうなったらちょっと試してみたくなるのが人情じゃないですか。それで、攻略本(というのかな、車種とコースどりやセッティングの基本とかが解説されてる、むやみに本格的な本)と一緒に買ってきて、一時期毎日走ってました。いやあ、面白かったんですよ。他のレースゲームをやったことがないのでこれがどれだけリアルかとかはわかりませんが、それでもFFとFRとかで挙動が変わってくるのとかはしっかり感じ取れました。セッティングを変えたら、応じて走りが違ってくるのもちゃんとわかりました。だもんだから、すっかりはまっちゃったんですね。すごく面白いと思ったんですね。

最初に中古でプリメーラを買いましてね、最初それで走ってたんですが、ライセンスBで必死になって全ゴールドをとったらスプーン S2000をもらえちゃって、それからはすっかりホンダ党になってしまいました。って、これはGT2の時の話ですね。けど、本当にS2000をもらえたときは本当に嬉しくて、全ゴールドの達成感というのもあったんでしょうけど、自分もがんばればできるんだと思った。それまで、自分には自動車なんて駄目だと思っていた、そういう苦手意識が払拭されたんですよ。

まあ、実際のところをいいますと、非常に危ういドライバーであるのは事実なので、不用意に自信をつけたりしないほうが世のため人のため自分のためであるんですけど、でもやっぱりあの時の全ゴールドは自分にとって意味のあるもんだったなあと思います。

この最初のグランツーリスモ体験以降、2001 TOKYOまで買い続けて、確かにプレステ2になってグランツーリスモは、描画とかも含めて大変よくなっていたんですが、ゲームとしての面白さはやっぱり2がよかったんです。車種がとにかくたくさんあって、次はどんなのに乗ろうか考えてるだけで楽しかったし、レギュレーションもしっかりしてて、パワーを抑えないとでられないからカスタマイズは控えてとか、そういう試行錯誤がすごく楽しかったんですね。

残念ながら3では車種が減って(なんでプリメーラがないの!?)、レギュレーションも甘くなってしまったで、ちょっと面白みに欠けてしまった感がありまして、やっぱりグランツーリスモは多彩な車種ラインナップが魅力なんだと思ったんです。だって、現実では乗れないような車をシミュレートできるわけですよ。普通じゃやらないようなカスタマイズをして、尋常じゃない速度で走れるんです。やあ、やっぱこれがグランツーリスモの楽しみなんだと思いました。だから、3ではあまり遊びませんでした。けど、3のグラフィック力に慣れてしまったもんだから2にも戻れなくなって、結局こうしてグランツーリスモ熱は冷めていったんだと思います。

とか思ってたら、グランツーリスモ 4はなかなかやってくれるみたいじゃないですか。プリメーラ復活! プリウスもミゼット IIも戻ってきて、しかもPAOまで収録! いやあ80社650車種を超えるというのはすごいな。なんかこの数字を見ただけでわくわくしてきますよ。

けど、グランツーリスモにも問題があるんですね。それはなにかといいますと、ボリュームがすごいんですよ。とっても遊びきれるもんじゃないですよ。私、一度もエンディングを見たことがないですから。達成率も低いところでうろうろしてますから。けど、こんなへぼいユーザーでも楽しめるのは、グランツーリスモの懐の深さだと思います。実際、2はあんなに面白かった。4もきっと楽しいだろうなあと思います。

だから、問題は時間と体力ですね、時間。生半可な気持ちで遊ぶには、手応えがありすぎるんですよ。

ところで、ルノーのMeganeは収録されないのかなあ。これは重要な車なんですが。

2004年12月27日月曜日

影ムチャ姫

 いや、嬉しや。待ちに待ったナントカの単行本がやっとの刊行です。実は私、あんまりこの本が待ち遠しかったもんだから発売日を一ヶ月勘違いしてしまいましてね、先月に紀伊国屋にいっちゃったんですよ。そしたら当然本は見つかるはずもないわけで、それで思い余って店員に聞いたんです。

— ナントカという人の『影ムチャ姫』は入荷してますか?

— え? すいません、もう一度お願いします。

— いや、ナントカの『影ムチャ姫』なんですが。

— 『ナントカの影ムチャ姫』ですか?

いや、ちょっと違う……。えーっと、ナントカというのは作者の名前でして、ちょっとわかりにくいですかね……。

この人は、ちょっと地味で損をしている人なんだと思うんですよ。というのはですね、結構長く連載している漫画があるにもかかわらず、一向に単行本化する気配がないんですね。その漫画というのは竹取物語のパロディでして、月世界から追放されたうさ耳のかぐや姫が、優しいおじいさま、おばあさまに大切に育てられるという、実に心温まる四コマ、—けどネタは結構ブラックです。

モチーフはおとぎ話のくせして、平気で時事ネタとか盛り込んでくるし、MJ12とかも考証無視で出て来るし、月のお母様は侵略だとかなんとかとにかく物騒だしで、もう私、大好きです。

『新釈ファンタジー絵巻』という漫画です。皆さん、覚えておいてください。テストにはでませんが、単行本がでたら私は買います。よければ、皆さんも買ってください。

さて、このナントカさんの単行本がついに発売の運びとなりました。タイトルは『影ムチャ姫』。昨年くらいからちょっとしたムーブメントになっている萌え四コマ誌『まんがタイムきらら』にて大好評連載中です。

なあんだ萌えかよと思ったあなたは脱落です。というのも、作者はどうもへそ曲がりのたちであるようで、雑誌が萌えに向かえば流れに逆らうかのように忍者コメディを追求し、かといってその独自路線が売りになれば、あえて萌えをネタにしてみる。けど、そうしたいろいろをやってみても、しっかりナントカ色がでているのはすごいことですよ。

まず、ネタがしっかりしている。よく練られた上、落とし所がうまいんですね。ちょっといい話風に落としてみたかと思えば、やっぱりブラックなネタも盛りだくさんで、もう私、大好きです。

さらに、キャラクターが実に魅力的。結構たくさん出て来るんですが、そのひとりひとりがよくキャラ立ちしてるから、見分けがつかなくてややこしいなんてことは皆無。しかも、よく動くんですよ。縦横無尽という感じがして、読んでて実に楽しい。しかもこれでいやな奴というのがいない。もう私、毎月が楽しみで仕方がないですね。

と、こんな感じで、ナントカはネタ、キャラ揃った地力のある作家だと思っているのですが、残念ながら地味なんでしょうかね、結構好きといってる人はいるみたいなのに、単行本化とかがまったくされてなかったんですよ。あるいは『影ムチャ姫』も単行本化されないんじゃないかと、私はひそかに危ぶんでいたくらいでした。

でも、その単行本がついに発売となって、やれ、嬉しや。後はこれが売れてくれさえすれば、続刊も確定、『新釈ファンタジー絵巻』も刊行という運びになるに違いなくって、そしたら私なんかは、もううはうはですよ。なので、この本が売れて、ナントカもちょっとした売れっ子になってくれたりしたら、どんなにか嬉しいだろうと思います。いや真面目な話、こうした中堅どころを支える実力者に日があたらないでは、漫画は駄目になってしまうと思うんです。こうした人らが報われないようじゃ、どの口で漫画は文化だとかほざきやがるかと、わたしゃ思わず毒づいちまいますよ。

  • ナントカ『影ムチャ姫』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 以下続刊

2004年12月26日日曜日

パパラギ

 私たちが当然のものとして享受している文明は、いうまでもなくヨーロッパを源流とするものでありまして、ある意味絶対的な価値を持つものであると、そんな顔をして威張っています。けど、果たしてこの文明ってやつは、本当にどこから見ても素晴らしく無欠なものであるといえるのか。そういう疑念を、文明のただ中に暮らしている私たちに思い起こさせる可能性を持つのがこの本『パパラギ』です。

パパラギ? パパラギというのはサモアの言葉で白人のことです。サモア諸島はウポル島、ティアベア村の酋長ツイアビが、二十世紀初頭のヨーロッパを見聞し語ったとされる話を、ドイツ人エーリッヒ・ショイルマンが編集して発行した。それがこの『パパラギ』という書物で、その新鮮な視点、言説は大いに注目を集め、世界的なベストセラーとなりました。

私たちが享受している文明は、なにしろグローバリゼーションの風に乗って、地球規模に広がろうとするほどに強大で、その広がり方を見れば、ある種の普遍性があるようにさえ感じてしまいます。けれど、その西洋文明の思想というものはこれまで何度も問い直しをされてきて、例えば六七十年代に世界に吹き荒れた禅ムーブメントもそうした問い直しの一環でした。

だとすれば、1920年にドイツで発刊された『パパラギ』も、そうした問い直しの試みだったのでしょう。けれどそうして何度も問い直しながらも、私たちは根本的な変革を迎えることができていないんですね。それは私の生活を見直してみても明らかです。

ツイアビ酋長は「パパラギにはひまがない」というおっしゃる。ああ、そういえばこの数年の私の口癖は時間がないでした。やりたいことはいっぱいあるのに、時間がないからできないというんですね。足りないのは一日の時間だけではなく、人生に残された時間の総量でさえ足りないというにいたっては、これはもう狂気に近いものを感じさせます。けれどツイアビ酋長によれば、日の出から日の入りまで、ひとりの人間には使いきれないほどたくさんの時間がある。ああ、確かにそうかも知れません、私には使い切れないほど時間があるのに、ただそれを見失ってしまったのかも知れません。

ツイアビ酋長は「たくさんの物がパパラギを貧しくしている」とおっしゃる。ああ、確かに私はたくさんのものに囲まれて、けれど魂を貧しくしている、魂の自由を失っています。

十二世紀のスコラ哲学者サン・ヴィクトールのフーゴーは、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人であるといい、その人は世界への愛を消し去ったからだと説明します。その対局にあるのは祖国が甘美であると思う人、彼は世界に愛を固定しており、いまだ繊弱な人にすぎない。そう、ものに愛を固定する私は、繊弱な人なのです。たくさんのものを手にして、けれど本当に欲しいものは手にすることなく、その空虚にあえぐのが私なのです。捨てろ、捨てちまえという声を聞きながら、その最初の一歩を踏み出すことができずにいる。まさにものの奴隷であるのが私なのです。

ツイアビ酋長は「考えるという重い病気」についておっしゃる。ああ、じゃあ私はまさにその病気で、その上かなりの重症だ。私はいらんことばかり考えて、知識ばかり集めることに一生懸命になって、本当に大切な、目の前にあるものを見ようとはしなかった。そのために、本当の大切なものを、みすみす指の間からこぼすようにして失ってきたのですね。そして、それを今また手に取ろうとして、けれどまた考えすぎるばかりに手を伸ばすことができないでいる。これはもう、思考という病気に冒され、本当の判断ができていないということなのではないでしょうか。

ツイアビ酋長がパパラギの文明について下した判断は、もはや代替不能とも思える私たちの文明も、様々な生き方のスタイルのひとつにすぎないと気付かせてくれる警句です。けれど、山本夏彦翁もおっしゃるよう、もはや私たちはなかった昔には戻れないのですから、こうした様々な面倒やまやかしについて、すべてを引き受けた上で新しいアプローチをとるほかないのでしょう。

つまりは、私に関しては、自分の理想を現実のものとするよう、一歩目を踏み出さないといけない。それがすべての始まりであると思うんですね。それは、私にとって、意味のある一歩になるはずなんですね。

引用

2004年12月25日土曜日

ママは小学4年生

  今日は待ちに待ったクリスマス! というわけで、クリスマス特集のおおとりを飾るのは『ママは小学4年生』です。十五年後の未来からタイムスリップしてきた赤ちゃん — みらいちゃんを、小学四年生のなつみが居候のいづみおばさん(おばさんといっても十九歳だ!)と一緒に育てるというお話。どたばたでけれどもどこか感情を揺すぶられないではいられない、感動の名作アニメなのであります。

で、なんでクリスマスなのかって? いや、最終話が放映されたのがクリスマスだったのですよ。クリスマスの今日の日に発生するタイムスリップで、みらいちゃんを未来のなつみのもとに帰そうというんですね。世間の好奇の目に屈することなく、ひとつ目標を達成しようとする子供たちの奮闘を見て、日本中が涙しました。ええ、涙しましたとも。まさにクリスマスの日に、まさにテレビを見ているその日、その時間に、みらいちゃんは未来に帰っていったのだと、虚構と現実の垣根を超えて私たちの心はひとつに重なり合ったのだと思います。

ごめんなさい。嘘ついていました。実をいいますと、関西では放送日時が違ったんです。なんとママ4(こう略して呼びます)は、午前5時15分からの放送だったんですね。いや、午後じゃなくて午前。そんな早朝にやっても誰もみてへんってばよ。なので、関西でママ4を見てたというのは、まあ十中八九マニアないしおたくですね。本来のターゲットであった小学生にメッセージが届くはずもなく、いや、これは悲しむべき事実であると思います。

そしてもうひとつ嘘をついていました。私、最終回を見逃していたんですよ。最終回に向けてどんどんお話は盛り上がっていって、どうなるんだろうと楽しみにビデオをセットしておいたら、なぜか最終回だけ、5時15分からではなく5時45分からの放送だった! 放送が開始されるまでのカラーパターンを呆然としながら見送りました。いったいなにが起こったのか理解できず、放送事故だろうかと新聞のテレビ欄を見て、— 真相を知って愕然としました。

こうして、ママ4は私の心に傷を残して終わったのでした。

心残りでしたね。ええ、心残りでしたよ。だから、後日LD BOXが出るとわかったときに、買わないという選択はなかったのです。ええ、買いましたともLD BOX。この手の商品で一番高い買い物でしたよ、まさに。けれど不思議と後悔はなく、いやむしろ、この素晴らしい作品を第一話から最終話までぶっ通しで見ることができるということに、本当の充足を感じさえするのですね。

『ママは小学4年生』は、今では考えられないほど地味な話で、なにしろこの1992年当時、アニメは玩具メーカーのスポンサードを受けて製作されるのが当然だったのに、こういう変身もしなければ変形合体ロボも出ないアニメというのがよく民放で放映されたものだと、その当時のスタッフ及び関係者には感謝したい思いでいっぱいです。

実際、話の中にはおもちゃとして展開できるグッズが出てきたりして、多少鼻についたのも事実であるのですが、しかし、スポンサーがからんであの程度で済んでいるということの方がすごい。これは、よくよくスポンサーに理解されていたアニメだと思うのです。

小学4年生の子供が、赤ん坊を育て、未来の自分のもとに無事送り届けようという、これだけがすべてのアニメ。けれどそれがどんなにか深いものであったか、このアニメを愛する人は知っています。そしてその深さがなにに由来するのか、その本質を理解していると思います。

CD

主題歌は益田宏美(岩崎宏美)。OP、EDともに名曲だったが、特にEDはモーツァルトのピアノソナタ K545をそっくり使っていて(グノーのアヴェマリアにおける平均律と思っていただいたらわかりやすいかと思います)、実は私、これを教育実習向け授業のテストで歌いました。いや、関西だからね、みんなママ4のこと知らんから安心して歌えてね、結構好評だったんですよ。

ついでにいえば、サウンドトラックには千住明(かのヴァイオリニスト千住真理子の兄で作曲家)が名を連ねていて、今になってびっくり。千住明、結構好きなんですよ、あの人となりはなんともいえません。

書籍,漫画

2004年12月24日金曜日

地上のすべての国々は / Viderunt omnes

 クリスマス特集第五弾は、ノートルダム楽派を代表する作曲家ペロティヌス(フランス語ではペロタン)の『地上のすべての国々は』を紹介しましょう。パリはノートルダム大聖堂において活躍したことから、その活動の拠点である聖堂の名をもってノートルダム楽派と呼ばれます。彼らは、おそらくは音楽史に名を残す最古の作曲家であり、十二世紀にはレオニヌスが、十二三世紀にかけてはペロティヌスが主要な作曲家として知られています。

彼らの名がこうして残されたということは、このゴシックと呼ばれる時代に、匿名の時代から個人の時代に移行しつつあったということを物語っています。うっそうとした森を思わせるゴシックの大聖堂に、彼らの音楽はこだましたのでしょう。そして今私たちは、レコーディングという技術革新により、自宅にいながらにして数百年前を生きた彼らの音楽に接することができる。これは、なんと仕合せなことであるか。私はそのように思わないではいられません。

ペロティヌス、そしてレオニヌスも作曲した『地上のすべての国々は』は、クリスマスの第三ミサに歌われるグレゴリオ聖歌『地上のすべての国々は』を定旋律とするオルガヌムです。このように聖歌というものは機会音楽としての性質も持っていて、特定の日に、特定の目的で歌われるものであるのです。当然、『地上のすべての国々は』は12月25日クリスマスに主を讚えて歌われ、ペロティヌスの『地上のすべての国々は』については、1198年の12月25日にノートルダム大聖堂において歌われたとの記録が残っているのだそうです。

けれど、こうした知識は音楽の力の前にいかに無力でありましょうか。オルガヌムの響きに相対すれば、まさにそうした歴史的知識は後景に押しやられ、眼前には屹立する石の柱、揺らめく蝋燭の光に浮かび上がるのは合唱の僧たち。とうとうと流れる歌声は神秘を讚えながら高みへ高みへと登りつつ響き、地上に残る我々はただその果てしない高空に座する光に憧れを抱くばかりとなるのです。

俗にいわれることですが、音楽は美術や文学に比べ遅れた芸術なので、その時代の精神を表すには、ひとつ後の様式こそがふさわしい。バロックには古典派の音楽が、ルネサンスにはバロックの音楽が似合うなどという言い様の、なんと欺瞞にまみれていることか。ゴシックの時代に生まれたこれらオルガヌムは、数々の尖塔をもって高みを志向するゴシックの建築にこそふさわしく、彼らの音楽の精髄を知った我々に、よもやこれらゴシックの音楽が劣っている、遅れているなどいう謂が通用するものではありません。

ゴシックの音楽とは精緻にして力強く深遠にして芳醇である、まさに天の高い位置を目指す垂直方向に向けられた精神そのものであり、そしてこの精神こそはゴシックという時代に特徴的なものであるのです。

Hilliard Ensemble

The Early Music Consort of London

Deller Consort

ヒリアード・アンサンブルの演奏が、最も神秘性を讚えてデリケートである。ロンドン古楽コンソートは荘重でしかしわくわくと躍動する美しさ、一番聴きやすいんじゃないだろうか。デラー・コンソートのものは、楽器もはいって独特の軽快さを持って面白い。当時、聖と俗の分化がまだ明確でなかったとしたら、このような響きをもって歌われていたのかも知れないとも思えてくる。

2004年12月23日木曜日

ジュマンジ

 クリスマス特集第四弾は、ロビン・ウィリアムス主演の映画『ジュマンジ』です。え、どこがクリスマスかって? えーっ、しっかりクリスマスじゃないですか。物語が完結して実に仕合せあふれるラストは、まさにクリスマスだったではないですか。ロビンもサンタクロースのコスプレしてたでしょ。そしてそこに、ともにジュマンジの苦難を乗り越えた子供がやってきて、ああ、私はあのラストシーン大好きです。一緒にWe Wish You a Merry Christmasを歌ってもいい! と思うくらい好きです。

え、好きの表現がおかしい? いや、いいんですよ。この歌は、あなたとあなたの一族によい知らせをもたらしますよという内容ですからね。まさに、ハッピーなエンディングにはふさわしい曲だと思いませんか。

『ジュマンジ』は、街中をCGの動物たちが走り回る! というSFXのすごさが話題となった映画で、けどこの評判は映画にとってはあんまり良くなかった。と言うのは、そのSFXの派手さばかりが先行しすぎて、あんまり内容が評価されてこなかったような感じなんです。ちょっと切ない扱いですよね。内容も決して悪いもんじゃないのに、けれどあんまりちゃんと見たという人を知らない。だから『ジュマンジ』で話して盛り上がったりなんてことはめったになくって、なんか残念に思います。いや、ほんと残念です。

『ジュマンジ』の扱うテーマというのは、父と息子の確執であったり、けれどメインとなるのは、人間やらねばならんときには逃げずに立ち向かえ、ということでしょうね。ロビン演ずるアランは、ジュマンジの試練を乗り越えて、どこか逃げ腰だった駄目な自分を克服するわけです。実際、父親役のジョナサン・ハイドは二役でヴァン・ペルトもやっていて、やはりこれは厳しい父を乗り越えて少年が大人になるという、成長の物語だったのです。

映画としては佳作であると思います。あんまり感動作を期待してはいけないし、テーマの扱いも普通。けれど、ロビン・ウィリアムス出演の作品が持つ暖かさや親しみというのは『ジュマンジ』にもあふれているわけだから、ロビンファンにはきっと楽しめるはずです。

そして、『ジュマンジ』には私の大好きな要素があります。それはなにか? それは、秘密の共有です。結果的にアランとサラは『ジュマンジ』の秘密を共有し、そしてきっとジュディとピーターに関してもそうではないのでしょうか。残念、ラストはパラドックスをはらんでしまっているためにその真偽は定かではないのですが、あの『ジュマンジ』の試練を乗り越えた四人は、それぞれ自分のうちにわだかまる闇をはらって一回り成長したのだと、そして四人はその秘密を共有しているのだと私は信じています。信じるからこそ、私はこの映画のラストに笑みを隠せなくなるんですね。

2004年12月22日水曜日

キャラメルポップ

 えーっと、クリスマス特集第三弾。白鳥由里の『キャラメルポップ』を紹介することにいたしましょうか。なんで『キャラメルポップ』がクリスマスなのかという疑問をお持ちの方もいらっしゃるかも知れませんので、説明しましょう。

『キャラメルポップ』の第十一曲目「Child again」がですね、クリスマスをモチーフとした曲なんですね。ちょっと悲しげなスロウテンポで始まった曲は、最後の一節で実にクリスマスらしい華やかな曲調にシフトして、そのコントラストがすごく鮮やかなものだから、聴いているこちらの心にもなにやら温かな明かりがともるよう。小品ながら、決して見過ごしにできない素敵な曲なんですね。

よくできた曲だなあとずうっと前から思っていたのですが、それもそのはず、作詞作曲はかの菅野よう子です。うわあ、そりゃいい曲に違いないよ。しかしこの人は、音楽における引き出しの多さも特筆すべきものであると思いますが、歌い手の特性をよくつかんでいるんでしょうね。白鳥由里という人にぴったりとした曲になっていて、そりゃファンは満足するでしょうよ。してやられてますよ。いや、しかし、よい曲であるということに関しては折り紙をつけます。ほんといい曲なんですから。

ちなみにアルバムのプロデュースは新居昭乃。初期白鳥由里アルバム特有の幻想的な空気が発揮されて、どことなく子供の頃に読んだ物語を思い出すような、そんな夢見心地なアルバムです。実際とても無垢な感じがして、ロリだロリだとからかう口の悪い友人(同類)に、馬鹿野郎なにいってやがると無理矢理聞かせた昔を、ついこの間のように思い出します。

特定のリスナーに向けられた独特の世界観を持ったアルバムではありますが、しかしこういう中に名曲があると信じる私です。そして、実際、「Child again」はじめ、数々の愛らしくも美しい曲がたくさんはいっている。嫌いでなければ、ぜひ聴いて欲しいと思います。

2004年12月21日火曜日

Christmas Time Is Here

  クリスマス特集第二弾はチャーリー・ブラウンのクリスマスからChristmas Time Is Here。ヴィンス・ガラルディが、チャーリー・ブラウンの映画のために作曲した曲で、映画のサウンドトラックにはピーナッツの子供たちによる合唱と、ヴィンス・ガラルディ・トリオによるインストルメンタルのふたつのバージョンが収録されています。

けれど、この美しい曲は広く愛されて、今や様々なカバーバージョンが存在しています。

私の手元にあるのは、すべてチャーリー・ブラウンに関わるものばかりで、Patti Austinのカバー(ものすごく美しい! Happy Anniversary, Charlie Brown! に収録)とDavid Benoit & Take 6のカバー(Here's to You, CHARLIE BROWN; 50 Great Years! に収録。こちらは超おしゃれ)の二曲だけですね。

作曲家の南澤大介氏はクリスマスソングの収集を行っていて、その成果は氏のサイトクリスマス・タイム・イズ・ヒアにて公開されています。クリスマス・タイム・イズ・ヒア! そうなんですよ。もちろんサイト名はChristmas Time Is Hereにちなんだものです。Christmas Time Is Hereは氏の著作『南澤大介のアニメ&特撮ソロギター』にも収録されて、私はギター練習中ですから、それだけで欲しくなってしまいます(クリスマス・アルバムというかたちで再編されるとベストなんですが、そうはうまくいかないでしょうね)。

Christmas Time Is Hereは、様々なバージョンがあることはすでにいいました。もちろんすべて聴いているわけではなく、それどころか、カバーバージョンがどれくらい出ているかさえ把握できていないというのが現状です。この状況であえていうなら、私の最も好きなバージョンは、Patti Austinのカバーです。あまりの美しさに絶句したくらいで、私がもし生涯ベストのクリスマスソングを選べといわれたら、これか、あるいはChristmas Time Is Hereオリジナルをあげるでしょう。

オリジナルは、子供たちの歌声があまりにいたいけで、すごく仕合せな気持ちになれるんです。私はこうしてクリスマスの歌をみんなで歌うなんて機会は持ち合わせませんが、アメリカではクリスマスになるとこうしているのかも知れませんね。三人の賢者がヨセフとマリアのもとにやってくるという恒例の劇と、そしてクリスマスの歌。すごく仕合せな風景であると思いませんか。私は、どうもこういうのに、憧れてしまうんですよね。

よし、DVD買っちゃおうかな。

カバーバージョンに関する南澤大介氏の情報と自分で調べてみたものを、ページの末尾にまとめてみました。これ以外にもありましたら、ぜひお知らせくださいな。

from US

from UK

DVD

カバー

Dianne Reeves
Erin O'Donnell
Diana Krall
Kenny Loggins
Shawn Colvin
Chicago

2004年12月20日月曜日

Miracles: The Holiday Album

 クリスマス特集第一弾は、メロウなソプラノサックスの音色が心地よい、ケニー・Gのクリスマスアルバム『ミラクルズ』を紹介しましょう。クリスマスアルバムというだけのことはあって、聞いたことのあるメロディが次から次へと続いて、しかしそれがすごくムーディ。ゆったりと歌うサクソフォンとはこんなにも暖かいものかと、傍らに立ち親しげに語りかけてくる善き隣人の優しい笑顔、友愛の情を思い起こさせるような清浄さに満ちています。

昔を思い出すようでもあります。ずっとずっと昔、本当は自分の身に起こったことではないかも知れない昔、自分はこうした穏やかな金色の時間に包まれて、夢見心地でいた。そんな、心に奥底から懐かしさがわき出てくるような、そして静かにして仕合せな時間を慈しむ気持ちに浸ることのできる、贅沢なアルバムです。

懐かしさというのは、私が昔サクソフォンを吹いていたということにも関わるのかも知れません。なんかあの頃は闇雲に一心不乱で、今思い返すと、こうしたアルバムを音楽として楽しむ余裕はなかったような気がするんですね。なんといったらいいのかな、研究対象というか、一種のお手本というか、そんな感じだったんですね。

コピーするんですよ。耳で聞いてなるたけその通りになるように真似をして、それで技術やフレージングを盗むんです。このアルバムは、すべての曲がスロウで、しかもよく知られた曲ばかりなので、コピーしやすかった。けれど、どんなにがんばってもこんな風にはならなかったですね。そりゃそうだ、一介の学生風情がどんなにがんばろうと、ケニー・Gになんてなれるものか。けれど、その時の自分はサクソフォンに文字通り心血を注いでいたから、無理であろうと無茶であろうと、そのまま我を張って進む以外になかったんです。

そこですよ。その我を張って進むという、その心が間違っていたと、今になれば思えます。もっと音楽を楽しんで、音楽に近くあろうとせねばならなかったのです。それを、ただただ技術の習得を目標とするみたいにして、けれどそれでは歌の心には、音楽の本当には近づけないのですよ。

いま、随分と経ってしまってから、当時教科書みたいに聴いていたアルバムを聴くと、その時気付いていていなかった豊かさに改めて驚かされます。自分はなにを聴いていたんだろうと思います。もったいないことをしたなと思います。

サクソフォンは、専攻を変わって、レッスンや試験がなくなって、なんだか自由な気持ちなれて、その時が一番よかったように思います。多分、大学四回生の夏、日本テレビ系の黄色いTシャツのイベントで、バッハの無伴奏チェロ組曲をやったとき。あれが私の、サクソフォンにおける最高だったと思います。多分、あの時ばかりは、歌う気持ちを抱き留めることができていた。そのように思います。

2004年12月19日日曜日

飛べ!イサミ

  NHK大河ドラマ『新選組!』も無事完結して、いや目出度や。ところで、私らくらいの世代がNHK、新選組と聞いて思い出すものといえば『飛べ!イサミ』と相場が決まっています。小学生の男女三人組(+1)が、新選組の遺産である竜の剣を手に、黒天狗党との立ち回りを演ずるという痛快活劇アニメでして、いやはや年甲斐もなく好きで毎週見てました。漫画が出れば買いましたし、再放送があればビデオに録って残してみたりして、あまつさえ箱を、箱を……、箱を買ってしまってまでいるのでした。

箱といってもDVD-BOXじゃないですぜ。私らの世代で箱といえば、それはもうLD BOXと相場が決まっています。あの、でかくて重い、むやみにかさばる箱が、上下巻そろいで手元にあるのですよ。そもそもLDプレーヤーを持ってるのは、オペラファンかアニメマニアと決まっていまして、ええと、私は残念ながら前者と言い張れるほどオペラに詳しくない。つまり、後者であったわけですね。

マニアの性といいますか、出た関連商品はほとんど押さえています。CDでしょ、漫画でしょ、極め付けのLDでしょ。下のリストには出てないけどCD-ROMもあって、壁紙とかが収録されてるんですね。壁紙は使わないポリシーであるにも関わらず、もちろん買ってます。おそらく公式の出版物はシングルCDと、この度出た(つうても去年だけど)DVD以外は全部持ってるでしょう。

ええい、笑いたければ笑え。マニアというのは、そもそもこういうもんなんです。

『飛べ!イサミ』は、私の好きな要素が実に満載のアニメだったのです。秘密のヒーローに敵味方入り乱れてのどたばたの展開。番組内番組も充実していて、さらに謎の忍者の意外な正体! だいたい敵からしても憎めない気のいいやつらであるわけでして、こういうすっかり出来上がった世界の中でのコミックな展開のアニメは、まさに私の大好物であるわけです。よかった。本当によかった。イサミに匹敵するアニメといえば、『元気爆発ガンバルガー』しかないんじゃないかな。とにかく、お気に入りのアニメだったのでした。

その当時を偲ばせる逸話があるのですよ。第六話「RX95の秘密」は初放映時には第三十七話でありました。なぜかといいますと、タイトルにあるRX95というのが爆発を引き起こす云々という設定が問題だった。というのも、放映の直前にオウム真理教が地下鉄サリン無差別テロを強行しておりまして、時期柄が大変悪いということになった。スタッフは、現実が虚構を追い越していく様に愕然としたといいます。下手したらお蔵入りしたかも知れないのが、この第六話だったのですね。

当然、私ら視聴者は放映当時にはそんなこと知らないわけで、後期も大詰めといった時期に、突然前期のOPでもって登場してくる「RX95の秘密」を見て、ひとしきり動揺した。放送事故かとまで思った。間違えて、以前のテープを回したんじゃないかと番組表やら専門誌(!)やらひっくり返して、いやはや、そんなことも振り返れば懐かしい思い出です。というか、私にもそんな情熱にあふれた時期(そんな情熱はいらんだなんていわないで!)があったんだと、まるで遠い響きをいとおしむような思いがします。

そんなこんなで、思い出懐かしいアニメ『飛べ!イサミ』でした。

あ、そうだ。もう一点、思い出した。

昔、うちに留守電があった頃の話、待ち受けの音声は花丘玲子仕様にしていたのでした。花丘玲子、花丘イサミの母親にしてニュースキャスターです。

『まるごと飛べ!イサミ』に収録の留守電用音声ファイルであります。いや、本当に懐かしいな(ああっ、ごめんなさい、石を投げないで)。

CD

書籍,漫画

  • 長谷川裕一,志津洋幸『飛べ!イサミ』第1巻 (テレビコミックス) 東京:日本放送出版協会,1995年。
  • 長谷川裕一,志津洋幸『飛べ!イサミ』第2巻 (テレビコミックス) 東京:日本放送出版協会,1995年。
  • 長谷川裕一,志津洋幸『飛べ!イサミ』第3巻 (テレビコミックス) 東京:日本放送出版協会,1995年。
  • 長谷川裕一,志津洋幸『飛べ!イサミ』第4巻 (テレビコミックス) 東京:日本放送出版協会,1995年。
  • 長谷川裕一,志津洋幸『飛べ!イサミ』第5巻 (テレビコミックス) 東京:日本放送出版協会,1995年。
  • 長谷川裕一,志津洋幸『飛べ!イサミ』第6巻 (テレビコミックス) 東京:日本放送出版協会,1995年。
  • 長谷川裕一,志津洋幸『飛べ!イサミ』第7巻 (テレビコミックス) 東京:日本放送出版協会,1995年。
  • 長谷川裕一,志津洋幸『飛べ!イサミ』第8巻 (テレビコミックス) 東京:日本放送出版協会,1996年。
  • 長谷川裕一,志津洋幸『飛べ!イサミ』第9巻 (テレビコミックス) 東京:日本放送出版協会,1996年。
  • 長谷川裕一,志津洋幸『飛べ!イサミ』第10巻 (テレビコミックス) 東京:日本放送出版協会,1996年。

2004年12月18日土曜日

十三妹

 大阪梅田の紀伊国屋書店を散歩していたときのことです。平に積まれた文庫の前で、おお、と思わず足をとめて、それがこの『十三妹』。いやいや、表紙に気を取られたのではありませんぞ。私が気にしたのは本のタイトル、『十三妹』でありました。

『十三妹』というのはなにかというと、中国は清の時代に書かれた物語『児女英雄伝』にて主役を張る美女で英雄の何玉鳳が通り名。十三妹と書いてシーサンメイと読みます。血のつながっていない妹が十三人でてくるといったお話ではないので、くれぐれもお間違えなきようにお願いしますよ。

私が十三妹の名をはじめて知ったのは、漫画『拳児』でだったりします。主人公拳児が香港であった美少女閻勇花のあだ名が十三妹であったのです。

『拳児』では、十三妹というのは清代の武侠小説にでてくる美少女の剣術使いの名前中国人なら誰でもしってるくらい有名であると説明されています。なんといいますか、美少女の剣術使いというところがポイント高いではありませんか。いや、剣術使いというところがですよ。凛々しく強い女性が好きという私には、まさに十三妹は理想的ヒロインであるかのように思われたのです。

そんなわけで、私は一度この十三妹の物語を読んでみたいと思っていたのでした。だから、書店で『十三妹』という本を見たとき、探し求めていた宝物を見付けたかのような気持ちになったのでした。

けれど、この『十三妹』は十三妹がヒロインではあるけれど、『児女英雄伝』ではなかったんですね。『児女英雄伝』や『三侠五義』、『儒林外史』といった中国古典をもとにして新たに紡ぎ出された物語が『十三妹』であり、日本で生まれた十三妹異聞、サイドストーリーであるわけです。

じゃあ、その十三妹異聞を読んでどうだったのかというと、すごく面白かった。十三妹はなにより格好いいし、ライバルの白玉堂もなかなかのもの。大立ち回りも爽快で、ときにはちょっとエロチックな描写もある。実に楽しく読めました。

驚いたのは、これが朝日新聞連載であったということで、しかも出版は1966年、私が生まれるずっと前ですよ。しかしその軽快な筆致は古さをまったく感じさせず、活き活きとした描写で思わず釣り込まれてしまいます。小説の性質としては娯楽という色が強いですが、だからこその読みやすさ。なおさら十三妹の魅力にまいってしまいましたね。そのせいか、頼りなくてだらしのない夫、安公子には暖かい目を注ぐことができませんでした。話がこの人メインになると、ええい、安公子はいい、十三妹を映せ、十三妹の活躍ぶりを、とか思ってしまうんですね。いやはや、まったく駄目な読み方をしておりますな。

もとになった物語は、すべて平凡社の『中国古典文学大系』で読むことができますが、これはちょっとした大著なので気楽に買うには高いですね。ちなみに、『児女英雄伝』は47巻、『三侠五義』は48巻、『儒林外史』は43巻にそれぞれ収録されています。

どうしようかな、買おうかな、どうしようかな。ちょっと迷ってしまうのあります。

そういえば、松本零士が『児女英雄伝』をSFにしていたっけ。こっちもどうしたものかな。

  • 武田泰淳『十三妹』(中公文庫) 東京:中央公論新社,2002年。

引用

2004年12月17日金曜日

Azumanga Daioh

  もういうまでもなく皆さんご存じの『あずまんが大王』。ある程度広く漫画を読んでいる人、あるいはちょっとおたく気味である人で、この名前を耳にしたことがないという人はさすがにいないんじゃないかというくらいの有名タイトルです。

アニメにもなりました、映画にもなりました(映画はたった五分だけど)。そしてその名は海外にもとどろいて、出てるのですね、英語版。最初はひっそりWeb上で私家版が公開されていただけだったのが(つまり海賊訳)、ちゃんとした出版者からリリースされて、しかもそこそこ人気のようなのですよ。

私がはじめ見付けたのはフランス語版の私家版だったのです。ほー、ヨーロッパでもあずまんがは人気ですかと思っていろいろ調べてみたら、いろいろわかりました。私の知るかぎり、仏訳私家版が二種類、そしてそのもととなったのは英訳私家版であることがわかりました。なんでか? それはですね、『あずまんが大王』におけるキーパーソンである滝野智の名前が、全部Takino Tomoeになってたからなんですね。翻訳された分量や公開時期から見ても、仏訳私家版が英訳私家版を定本としたのは間違いないといってもよいでしょう。

さて、ちゃんと翻訳されている版ではどうなっているかといいますと、智初登場のシーンにおけるセリフは、実にI'M TOMO TAKINO! うんうん、実によいですね。オリジナルに忠実な訳がついています、って実はこれは名前に関してだけで、ほかに関してはむしろ原典を翻しているのが英訳ライセンス版であったりするのですね。

例えば、同じく智の名前をとってみれば、私家版はすべてTakino Tomoe、姓名の順になっています。さらに細かいところをつけば、完璧超人ちよちゃんの給食について、私家版ではhot lunch、日本の給食の雰囲気を伝えようとしていますが、しかしライセンス版ではCAFETERIAで食べていたといっています。カフェテリアですよ。日本の普通の小学校には、そんなものない! と、私家版がおおむね日本語原典に忠実であろうとしているのに対し、ライセンス版では、より広くアメリカ人に理解されるように、ダイナミックに割り切った訳があてられているのです。

忠実訳をする人たちは、日本の漫画が好きで、ひいては漫画を生んだ背景であり漫画の舞台でもある日本をより知りたいという、そういう欲求に突き動かされているのでしょう。だから、すごく訳が丁寧で、逆にいえば直訳に近く単語数も多い。説明調であったり、コマ外に註釈がつけられていたり、原典をほぼ原典のまま読みたいという気持ちがひしひしと伝わるんですね。ちよちゃんの早口言葉が苦手ですも、Bus Gas Basu Basuですからね。もちろんちゃんと註がついてて、ところが註ではGas Bus Bakuhatsu..になってる。おしい、惜しいんだけど、そういう細かいところにまで心を砕いて日本的なるものに近づきたいという熱い思い、ひしひしと伝わってくるようで、本当にやつらはNice Guyたちだと、嬉しくなってくるんですね。

ほいじゃ、ライセンス版は駄目なの? というと、もちろんそんなことはありません。こちらはやはりプロの手になるもので、簡潔にして、要点を押さえた表現などは、まさに翻訳の醍醐味であります。問題のバスガス爆発はどうなってるかというと、RUBBER BABY BUGGY BUMPERになってる。けれどこうすることで、当のアメリカ人にはずっとわかりやすくなってる。直感的に意味するところに近づくことができる。こうした工夫はあちこちに見えて、そのおかげで米語ネイティブには親しみやすいものとなったと思います。

ところで、黒沢先生のえろえろよーがどうなってるかというと、まあいいや書いちゃおう、AAH, IT'S ALL ABOUT SEX!ですよ。いやあ、これまた思い切った訳がついたものです。あんまりにストレートで、驚いてしまいましたよ。

  • Azuma, Kiyohiko. Azumanga Daioh. Vol. 1. Translated [from Japanese] by Kay Bertrand, Jack Wiedrick, Javier Lopez, Amy Forsyth, and Ai Rodriguez. Texas : A. D. Vision, 2003.
  • Azuma, Kiyohiko. Azumanga Daioh. Vol. 2. Translated [from Japanese] by Kay Bertrand, Amy Forsyth, Javier Lopez, and Ai Rodriguez. Texas : A. D. Vision, 2003.
  • Azuma, Kiyohiko. Azumanga Daioh. Vol. 3. Translated [from Japanese] by Javier Lopez, Kay Bertrand, Amy Forsyth, Brendan Frayne, and Eiko McGregor. Texas : A. D. Vision, 2004.
  • Azuma, Kiyohiko. Azumanga Daioh. Vol. 4. Translated [from Japanese] by Javier Lopez, Kay Bertrand, Amy Forsyth, Brendan Frayne, and Eiko McGregor. Texas : A. D. Vision, 2004.

共著、共訳の場合、四人以上になると代表者一人だけ書いて、残りはet al.(他)にしてしまうのが普通だけど、今回は翻訳者に敬意を表して、全員のっけてみました。

  • あずまきよひこ『あずまんが大王』第1巻 (Dengeki comics EX) 東京:メディアワークス,2000年。
  • あずまきよひこ『あずまんが大王』第2巻 (Dengeki comics EX) 東京:メディアワークス,2000年。
  • あずまきよひこ『あずまんが大王』第3巻 (Dengeki comics EX) 東京:メディアワークス,2001年。
  • あずまきよひこ『あずまんが大王』第4巻 (Dengeki comics EX) 東京:メディアワークス,2002年。

アニメ版主題歌、実は結構名曲。大好きです。

2004年12月16日木曜日

汚れた血

私は、こととねの本家でも本やら映画やらに関することを書いています。本当はそれぞれの役割の違いをきっちり打ち出していくべきなんだろうと思うのですが、なかなか難しい相談です。というのも、実は件のカテゴリーとの差異化を図ろうとして失敗しているんです。本当はBlogでは、もっと気楽で読みやすいものを書こうと思っていたんです。あんまりしかめっ面したものばかりというのもつまらないですからね。

けれど、あんまり違ったものにはなりませんでした。向こうには八百字というしばりがあり、こっちはないからだらだら無駄話も書けるという、たったそれだけの違いになってしまっているんですね。

さて、本家八百字エッセイとお試しBlogにはもう一つ違いがあります。それは評点の存在です。

本家では字数に限りがあるため、結構ぼろくそに書いてるみたいに見えることがあって、本当は結構好きなんだけど、その好きということを盛り込めないことがありました。これって結構ジレンマなのです。いいたいことを全部いうには八百字は少なすぎるんですね。なので、盛り込めなかった分は評点に頼もうと思ったのでした。

最初に評点をつけたのは、『バトル・ロワイヤル』でした。よくできてるなとは思ったんですよ。けど文章を書いて見ると、結構酷評してるみたいになってしまったんです。特にラスト近辺の、装置の解除方法がなんの脈略もなく提示されるという唐突の問題解決。あれはないだろうと思った、云々。けれど本当は映画としてはよくできていると思っていたので、それをちゃんと表したかったのです。そして評点を設置したとはすでにお話したとおりです。

『バトル・ロワイヤル』には4をつけるつもりでした。けれどこういう評点をつけるとなれば基準がなければいけない。ちゃんと決めておかないと後で困ることにもなりますからね。だから、評価をする際の目安というものを決めようということになりました。

けれども、映画に求められることは多岐にわたるので大変です。筋や構成がしっかりしていることも当然ながら、映像や音楽の美しさも大切な要素です。ですがこうした点を踏まえて、なお最上の映画に必要なものはなにかと問うたのです。そしてその答えは、いかに映像が語っているか。言葉ではなく、筋立てや設定でもなく、映画の映画たる要素 — 映像が雄弁であるかどうかが、映画の善し悪しを分けると考えたのです。

その評価基準を設ける際、『汚れた血』がよいモデルとなってくれました。この映画は完璧です。ストーリーが、演出が、役者が、舞台が、設定が、音楽が、そして映像が。ドニ・ラヴァンの疾走するシーン、鳴り響く音楽を超えて、なにより映像が鮮烈でした。美しいかといえばそうではない、むしろ野蛮とさえ感じられるあの映像が、観るものを捉えもろともに飛翔するのです。ああ、そんな言葉ではとても足りない。ですが、あの映像は私の持つ言葉すべてを超えてしまっているので、どういおうとしても足りるものではない。なら私も彼同様に走って見せるしかないのでしょうが、私の足はあまりに弱く、現実の地平を蹴って超越の地点に達することはかないません。結局は、あのシーンはあのシーンでもって語るほかないのです。

『汚れた血』は完璧でした。だから評点は5。プラスもマイナスもつかない、揺るぎない5。これを基準とすれば、『バトル・ロワイヤル』に4をつけることはためらわれ、3 — 標準作という評価に留まりました。

もちろん『汚れた血』のほかにも5をつけた映画はあります。ですがもしより微細に点を分けるなら、それらどの映画も『汚れた血』には達しません。肉薄するかと思われて、ですがそれでも『汚れた血』には一歩届かないのです。

2004年12月15日水曜日

ダンサー・イン・ザ・ダーク

 ストーリーはわかりやすぎるくらいわかりやすいんですが、ちょっと構造は掴みにくいかも知れません。親子の愛情や、友情を軸にしながら、苦境の現実に翻弄される女を描いている映画で、つらい話が苦手とか悲しいのを見ると後を引いて仕方がないタイプの人は、見る時期を選ぶべき映画です。

私はこの映画は劇場で見て、あまりに衝撃的だったからまた見に行って、加えてサントラとDVDを買ってしまったという、すっかりはまってしまってますね。実際私の友人知人間でも評価が高くて、映画における2000年のマイ・ベストは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でした。胸を張っていえます、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でした。

この映画はミュージカルを、ちょっと普通のミュージカルとは違う手法で扱っていて、その見せ方がまず面白いと思ったのですね。私の父なんかがいうにはミュージカルにはどうも馴染めないのだそうでして、なにが馴染めないといっても、突然街中で歌い出したりするそれが駄目だというのです。ですが、この映画のミュージカルシーンはそうしたものではないのです。ミュージカルシーンのすべてはヒロインであるセルマの胸中での出来事であり、ある意味つらい現実に目を背けた、理想的な夢の世界であるともいえるんですね。

皆さんもありませんか。自分に都合のいい空想(妄想といいかえてもいいかも)にふける瞬間というものが。私にはあります。あるから、セルマのミュージカルに逃げる気持ちがよくわかります。

私が、この映画を大変素晴らしいというのは、最後のミュージカルシーンです。これまではある意味自分のうちにこもるようにして展開されていたのが、ラストではセルマの胸中から現実にあふれ出てきて場を支配する。その力強さそして豊かさに私は胸を打たれたのです。

音楽や芸術はつらい現実を忘れさせる一時の娯楽でありますが、しかし音楽や芸術がつらい現実を受け止め乗り越えようとする力になることもあるのだと、その芸術が現実を超えて昇華する有り様を見たように思ったのです。

以上、構造についてお話しました。さて、じゃあ筋についてはどう思ったのかといいますと、神も仏も居らんのかと暗鬱な気分になった。おいおい、司法はなにをしている、正義はどこにいった、警察もちゃんと調べろよ、とむきになった。

そんなこんなで、はじめて見たときは結構後を引きましたね。帰りの電車の中でさえ泣きそうになりましたからね。

2004年12月14日火曜日

本が好き、悪口言うのはもっと好き

 この本は、大学で先生に勧められて読みました。一読してもう大ファンになってしまって、高島さんの本は見付け次第買ってるつもりなんですが、それでも半分も読んでないというのは悲しいですね。ああ、読むべきものはいくらでもあるんです。ただそれに出会えないというのが縁とかなんとかいうものなんでしょう。

この本、なんといってもタイトルが振るっています。本が好きはいいですが、それに続くのが悪口と来ますからね。なんだかいたずらっぽいですよね。そして、私、こういう名前の付け方、大好きなんですよ。

この本の面白いのは、タイトルだけではありません。中身もなかなか、一癖も二癖もあって実に面白いんです。おかしみがあって、けれど内容を見ればちゃんと真面目。けど真面目というのは堅物という意味ではなくって、私なんかは見習わなければいけませんね。軽妙な文体が真面目を真面目一辺倒にせず、中身の充実と面白さを両立させるんです。ときには茶化したりもするのに、それが全然無駄だとか感じない。ああ、こういう本に出会うと私は本当に嬉しくなります。わくわくしながら読みます。それで、こんな風に書けるようになりたいものだなあと思うんですが、まあそうは問屋が卸さない。私の書くのなんて、見た目を真面目に装っただけのがらんどうです。あんこをけちったもなかみたいなもんですな。

高島俊男は中国文学が専門で、加えていろいろ鋭い人だから、読むと自分のいい加減さがはっきりして恥ずかしい。だって、すごく簡単に理路整然と説明されているんですよ。私にはその簡単、当たり前ができていない。おかしい、疑問だといいながら、その根っこを見付け出してはいない。言葉だ文字だ、あれじゃこれじゃと大上段に振りかぶって見せておいて、あちらこちらに隙だらけなのですよ。いや、もう恥じます恥じます、— 恥じますが、この恥を超えて面白さの方が大きいのだからたまりません。

高島さんの本には知る面白さがあります、わかることへの快があります、すっきりとものを考える筋道がたって明るくなります。いいことばっかりじゃありませんか。ええ、いいことばっかりなんです。少なくとも私にとっては、はずせない一冊ですね。

蛇足:

この本に、アメリカで起こったハロウィンの留学生射殺事件について書かれていまして、1992年の事件とのこと。もう十二年経ってるんですね(時のすぎる速さにびっくりです)。この事件に対する高島氏のコメントは、「人の誠意はどこででも通じる」と[……]言う人がある。[……]しかし通じないこともあるというものでした。そういうことのあることを忘れてはいけないという主旨で述べられています。

しかし、今や2004年二十一世紀を迎えてこの国は、外国のみならず国内においてすら人の誠意の通じないところまで落ちてしまったんですね。海外の地で苦境にある人たちをつかまえて、わざわざ石を投げようとする人がいっぱいいる、そんなところまで来てしまっているんですね。

私はこのことをもって、ただひたすら憂えます。日本はもう本当に人でなしの国になってしまったんでしょうか。

引用

2004年12月13日月曜日

吉良上野介を弁護する

 年末恒例といえば歌合戦だったのが、このごろでは格闘技の興行であるようで、実際私も大晦日はどうしようなんて迷います。ところで、暮れにはもう一つ忘れちゃならない興行演目があります。第九? いや、ちゃいます。ヘンデルの『メサイア』でも『くるみ割り人形』(これはチャイコフスキー)でもなくって、もっともっと日本的なもの。そう、『忠臣蔵』ですよ。

四十七士は雪道踏みしめ吉良邸に駆け、一打ち二打ち三流れ、夜陰に響くは山鹿流陣太鼓。とまあ、こんな風に書いてるとあたかも私が『忠臣蔵』を好いてるように見えるかも知れませんが、実は嫌いです。なにが嫌いといっても、吉良の殿様の扱い。もう私は、吉良の殿様がかわいそうでかわいそうでならないのですよ。

いやさ、落ち着いて『忠臣蔵』を見返してみれば、そもそも悪いのは誰かという話なんです。果たしてそれは吉良なのか? いやいや、大体ことの発端はお城の真ん真ん中で白刃振りかざして刃傷に及んだ内匠頭ですよ。だって、今に当てはめて考えてみればこんな具合ですよ。国会議事堂にて党首乱心、他党の党首に突如拳銃発砲。っておいおい、なにがあったか知らんが、いきなり暴力に訴えるとは何事であろうかという話なのです。

実際吉良の殿様は名君として名高い方だったそうで、藩政も安泰、人柄も温厚だったとか。そんな殿様が、内匠頭をいじめていじめていじめ抜いた。イジメかっこわるい! というこのいじめがどうこうというのも今では疑わしいんだそうです。本当にいじめがあったのか、そもそも恨まれるにいたる確執はどうだったのか、丹念に史料を調べると、どうもグレーゾーンに入っていってしまう。いや、むしろ内匠頭の逆恨みなんじゃないかという見方も出てくるんですね。

今やすっかり固まってしまった『忠臣蔵』の構図を、果たして真相はどうだったのかと解き明かすのが『吉良上野介を弁護する』で、まさに吉良の殿様は悪くなかったんじゃないのかい、むしろただただ被害者であったんじゃないのかいという、そうした新しい視点を提供するのが本書なのです。

とはいうものの、この本自体さして新しい本でなし、ましてや吉良の殿様はいい人だったというのはもうずっと前からいわれてることなので、そうした言説を検分する本というほうが正しいでしょう。けれどね、やっぱり世の中は見慣れたものがいいようで、数年前にあった比較的史実にそった『忠臣蔵』は、らしくないといって人気がなかった。

そんなわけで、やっぱり今も吉良の殿様は悪者にされてしまってるんですね。

覚えもないのにいきなり切りつけられたかと思えば、翌年暮れには逆恨みの浪士に押し込まれた上、殺害されるんですよ。あまりに哀れ、踏んだり蹴ったり泣きっ面に蜂の吉良の殿様、今ではすっかり悪者卑怯者みたいにいわれて、だから私はいうんです。

吉良の殿様は可哀相だ、吉良の殿様はかわいそうだというんです。

2004年12月12日日曜日

拳児

  私が大学院の一年生だったときのこと、バイト先の若いのが、いい漫画なんですよ、おすすめですといって貸してくれたのが『拳児』でした。絵柄やなんかはちょっと古くさい感じがする少年漫画。もしおすすめといわれてなければ、自分はきっと見付けられなかった類いの漫画です。つまり彼が貸してくれなかったしたら、今も知らないままにいるということです。

ああ、もし『拳児』を知らずにいたらどういう人生であったことか。私はこの漫画に出会うことができて、大変幸運でした。その若いのにはどれほど感謝をしてもしたりないくらいです。

漫画の題材は中国拳法で、少年拳児が祖父の足跡を求めて中国大陸を旅する、一種のロードストーリーといっていいのかなあ、結構雄大な話です。舞台となる時代はまさに現代でありまして、でも私は本誌でこの漫画に出会ったときは、昔の、それこそ戦後すぐみたいな時代のことかと思っていました(私が古くさいといった所以です)。

拳法が題材でしかも少年漫画なので、拳児がライバルと切磋琢磨し成長していくというのが基本的な流れです。けれど、一番のライバルがなんといってもさわやかじゃないんですね。いきおい読者は拳児に感情移入することになりますが、この拳児と拳児を支える人たちとの関わりがなんだかすごく素朴でよいんですね。拳法というひとつの手段を媒介として、広がる人間の輪がすごく嬉しくさせるんです。まさしく、魅力的な脇役にこそ面白さが感じられる漫画でした。

さて、今でこそ格闘技は広く認知されていますが、ちょっと以前には一部のマニアックな人のものでしかなかったんですね。なので、その時分から格闘技ブームにさしかかるくらいに拳法に興味を持った人は、ほぼ等しく『拳児』の洗礼を受けているんじゃないかと思うんですね。こういう人たちに特徴的なのは、拳法を単なる格闘やなんか手段としてみるのではなくて、心身を高め自己を陶冶するものという考え方です。実際これは近代中国拳法に流れている考え方で、そしてその考えの末流に私も位置しています。

この武術に対するアプローチは、私の場合においては音楽に重なったといってよいでしょう。私が院を修了する際に提出した論文は、まさに『拳児』の影響でなっています。もしあの時に『拳児』と出会えていなかったら、論文の第四章以降は書かれていなかった、あるいはまったく違うものになっていたでしょう。論文に書かれたことは、今でも私の根底に流れているもので、つまり『拳児』は私の人生に影響し、論文という具体的なかたちにおいても、音楽観(私にとってそれは人生観というに等しい)という内面的な価値においても、大切なものとして刻まれています。

  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第1巻 (少年サンデーコミックスワイド版) 東京:小学館,1997年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第2巻 (少年サンデーコミックスワイド版) 東京:小学館,1997年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第3巻 (少年サンデーコミックスワイド版) 東京:小学館,1997年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第4巻 (少年サンデーコミックスワイド版) 東京:小学館,1997年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第5巻 (少年サンデーコミックスワイド版) 東京:小学館,1998年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第6巻 (少年サンデーコミックスワイド版) 東京:小学館,1998年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第7巻 (少年サンデーコミックスワイド版) 東京:小学館,1998年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第8巻 (少年サンデーコミックスワイド版) 東京:小学館,1998年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第9巻 (少年サンデーコミックスワイド版) 東京:小学館,1998年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第10巻 (少年サンデーコミックスワイド版) 東京:小学館,1998年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第11巻 (少年サンデーコミックスワイド版) 東京:小学館,1999年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第1巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1988年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第2巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1988年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第3巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1988年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第4巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1989年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第5巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1989年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第6巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1989年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第7巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1989年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第8巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1989年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第9巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1990年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第10巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1990年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第11巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1990年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第12巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1990年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第13巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1990年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第14巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1991年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第15巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1991年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第16巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1991年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第17巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1991年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第18巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1992年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第19巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1992年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第20巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1992年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第21巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1992年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第1巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2001年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第2巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2001年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第3巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2001年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第4巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2001年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第5巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2001年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第6巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2001年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第7巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2001年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第8巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2001年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第9巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2001年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第10巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2001年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第11巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2002年。
  • 松田隆智,藤原芳秀『拳児』第12巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2002年。

2004年12月11日土曜日

化学物質過敏症

 数年前から話題になっているので、今では随分認知されているんではないかと思います。化学物質過敏症という名前には覚えがなくとも、シックハウスとかシックスクールいう言葉は聞いたことがあるという方もいらっしゃることでしょう。新建材に含まれる化学物質や、あるいは防腐剤、防虫剤の類いに長時間さらされることで、強烈なアレルギーを発症してしまうというやつです。

こうした化学物質に発する過敏症の事例を多数紹介し、その要因や回避に向けてのいろいろを分かりやすく解説してくれるのが本書『化学物質過敏症』です。

暮らしの中で様々な化学物質に囲まれている私たちにとっては、まず知ることで防衛することが必要です。いったいどういうきっかけで化学物質過敏症と向き合う羽目になるのかわかりませんし、なにしろ一旦発症してしまえばもう後戻りはできない。過敏症(アレルギー)というのは、一旦発症すると治癒するという性質のものではありません。アレルゲン(アレルギーの原因物質)を気にし、アレルギーとの長いつきあいが始まります。ほぼそれは、一生つきまとうものだと考えて間違いないかと思います。

実は、私も現代人の例に漏れずアレルギー持ちでして、幸い化学物質のそれではないのですが、まあなんといいますか厄介なものです。子供の時分から自然食で育った背景は、実に私のアレルギーをなんとか押さえるためでありまして、そうした長年の労が実ってか、表向きにはアレルギーが見えるようなことはありません。けど、やっぱり難儀なもんなんですよ。医者に通ってアレルゲンを検査して、後は生活からアレルゲンを追放する戦いです。知り合いには、それを実践しているのが何人もいます。私なんかは無頓着なものですが、本当はちゃんとしたほうがいいんですけどね。

数年前働いていた場所がまさに新築のビルでして、そこで働くみんながみんな、なんかおかしいといっていたのを思い出します。なんというか、室内にいるとなんだか気力が萎えて、だるい感じが続くんです。明確に頭が痛くなるといった症状を訴えるのもいました。最初は仕事へのモチベーションの低さによるものかと思っていたのですが、別室で働く人も似たようなことをいっているんですね。で、みんながみんな、こっそりシックオフィスを疑っていた、ということがありました。

多分、これ、ある程度あたってると思います。壁紙を貼る接着剤からホルムアルデヒドとかが出てたんでしょうか。知らずに触れ、呼吸することで、体調に異変を呈するようになったのでしょうか。詳細まではわかりませんが、こういう風に、知らない間に化学物質被曝をするということがあるのです。

今は私は違う職場に移って、まあそこも褒められた環境とは思えないのですが、空気中の化学物質の量から見れば、前よりずっとましなんじゃないかと思います。けれど油断はできないんですね。なにしろ、本来ならきっちりと調査され、問題物質の使用に関する制限がなされてしかるはずなのに、そういうことをなおざりにしてきた国に私たちは住んでるんですから。

そんなわけで人任せになんてできないから、自分でいろいろ調べて、知っておく必要があるんですね。はあ、面倒な時代ですね。

  • 柳沢幸雄,石川哲,宮田幹夫『化学物質過敏症』(文春新書) 東京:文芸春秋,2002年。

2004年12月10日金曜日

Thinkin'Of You

 私はこの人のことを知らなかったんですが、いや、すごいですね。ものすごく素朴で、ものすごく純な感じに歌うその歌声が、しんみり心に透っていく。こんな感じはめったにあるもんじゃなくって、技巧もすごいんだけどそんな下位レベルのあれこれはまったく感じさせずに、音楽のどうこうというのもなんにも意識させることなく、気付いたら自分は有山じゅんじの世界にすっぽり包まれていて、言葉は胸の奥に静かに着地しているという、そんな感じ。ああ、わからんね。聴いたことのない人にはどうしても伝わらないものと思います。

実は、このアルバムも衝動買いだったんですよ。ある日本屋に行ったついでに楽器屋によったら、このアルバムを流していたんですね。あまりに印象的で、あまりにも離れがたかったもんだから、店員にこれは誰のアルバムですかって聞いたら、有山じゅんじの『Thinkin’Of You』。有名な人なんですかって聞いたら、実際有名なのは確かなようで、私は知りませんでした。知らなかったのがもったいないと思いました。けど、あの日ひょんなきっかけで出会って、本当によかった。知らないままだったら、私は人生を損していた。そんなアルバムです。

なにがいいかといえば、ギターで声で歌詞で歌で、その感じでしょう。基本的にはブルースだとかラグタイムだとか、そういう傾向の強い、だからちょっと懐かしいような響きであろうかと思います。ときにはやんちゃで、ときにはしんみりとさせる雰囲気の移り変わりが楽しくて、なにしろすごく暖かい感じがする。希有です、本当にめったにあるようなものではありません。

ちょっと私事ですが、私は日本語の言葉は音楽には、とりわけ西洋の流れを汲むメロディにはあわないと思っていたんです。ところがだ、この人の歌を聴いたら、そんな下らん考えは単なる言い訳じゃったと気付きました。そうなんですね。この人の歌は、歌が言葉そのもので、言葉もうちに歌を抱えているんです。だから強い。すごくマッチして、すごく自然で、だから心に透るんです。

2004年12月9日木曜日

カラー 図解音楽事典

音楽、とりわけクラシックに関していろいろ調べようとするときは、もちろん事典に頼るのが最も一般的なアプローチでありますね。今、日本語で参照できる音楽事典として、最も大部であるのは『ニューグローヴ世界音楽大事典』でしょう。本巻二十一冊、別巻二冊で、価格は六十万円近い! そんなの個人で買えるわけないじゃん、という場合には平凡社の『音楽大事典』という選択肢もあるんですが、なんだか品切れしてるみたいですね(ちなみに、一冊七千円しました)。ううむ、知らないうちに時代は推移しているのだと実感させられます。

さて、こうした事典は個人で持つにはちょっと大きすぎる嫌いがあります。なにしろ高いし、場所もとるし、ちょっと知りたいと思う以上に詳述されていて使い回しもちょっと悪い。個人で使うには、個人に適した大きさというのがあるはずで、そうした要求を満足させる事典はないものかと探してみれば、ウルリヒ・ミヒェルスの『図解音楽事典』が実によい感触。これは実にみっけもんの事典でした。

私はこの事典は個人向け音楽事典の極め付けと思っています。大きさも手ごろで、内容もしっかりして、実に要点を押さえてまとまっています。扱っている範囲にしても結構広く、音楽諸学、楽器、理論、形式、そして歴史。なにしろジャズやらロックまでカバーしてますからね。実際この一冊があれば、大抵のことには用が足ります。たった677ページに、よくもこれだけ詰め込めたものだと嘆息しますよ。

おっと、今詰め込んだみたいにいってしまいましたが、これはちょっと語弊ありですね。というのも、事典を開いた左ページはきれいな色刷りの図版なんですよ。わかりやすい図解、豊富な譜例、地図もあればもちろんイラストもありますよ。だから実質辞書の半分は図解なんです。それであって、このボリューム、内容の豊かさ。はじめて出会ったとき、うわあ宝の山だと思いました。

はじめてこの本の存在を知ったとき、私はすでに音大生であったのですが、専門的事柄にも充分対処してくれるこの事典には、本当に助けられました。意外とこういう手頃なものというのはないんですよ。小さくてコンパクトなら内容もコンパクトというのが大抵で、ひどいものだと音楽を曲げて伝えているとしか思えないものまであって、ハンディな音楽事典は数多けれど、大半は用に足りません。だからちょっと突っ込んで知りたいと思ったときには、大部の事典に頼るしかないというのが現状だったんですね。そこを、この事典は小柄ながら実にスパルタンで、世界的に大ヒットしたというのもうなづけます。

けれど、スパルタンというのは言い得て妙ですね。スパルタンには質実剛健だけでなく厳格なという意味合いもあります。ええ、ちょっと内容は難し目です。用語はまさに容赦ない専門用語 — けどまあそれはこの事典で調べればよろしい。こんな風に、事典で調べ、わからないものをまた調べすることで、自然音楽に対する造形も深まるという具合なので、学習者の方はぜひ手にして、この厳しい先生に真っ向から向き合っていただきたいと思うのです。

あ、そうそう、それともう一点。この本はもとがドイツのものだから、用語とかは実にドイツ的です。だから悪いとはいいませんが、知識が偏るのもいけないので、この他にももう一冊二冊くらい、事典を持っておいた方がいいですよ。

2004年12月8日水曜日

笑う大天使

矢沢あいの『下弦の月』が映画になったといって驚いていたら、今度はもっと驚きました。川原泉の『笑う大天使』が映画化ですよ、お嬢さん。昭和末期から平成にかけて、日本中の乙女と青少年の心を奪った『笑う大天使』。そしてその最終巻収録の「オペラ座の怪人」では、私もあなたも泣きました(泣かんかった?)。

「…やめろ、その電話にでるんじゃない —ロレンス! —電話を切れ……」

このシークエンスは、川原作品の中でも屈指です。だから私は、他の漫画がいくらよいと思うことがあっても、最後には川原漫画に戻ってきてしまう。あのセリフ一言一言の重さ、コマに凝縮された時間。重苦しくて、息がつまるようで、けれど目を離すことなんてできない。私にとってのマスターピースのひとつとうけがいますよ。

でもまあ、映画の範囲というのはコミックスの一二巻「お嬢様連続誘拐事件」までということですので、残念ながらおハルさんは映画にはでません。けど、果たしてこれが残念となるか、よかったとなるかは、それこそ映画の出来次第なので、今はなんともいえないですよね。

映画化すると聞いて、本当は私は、勘弁してくれって思ったんですよ。実はこれは『下弦の月』でも思った。けれど今回は、『下弦の月』とは比べ物にならないくらいに思った。だってさ、だってね、川原泉のらしさというのは、映像化して出るだろうかと思うんですよ。あの独特の間や雰囲気は漫画でこそ生きるのであって、もしうかつにこれを、単純に映像に移すだけでいいやみたいな安易さが見えれば、きっと台無しです。なので、どうせやるなら、川原のらしさにこだわらず、きっちり映像映画としてのよさを追求して欲しい。川原のタイトルで、当時のファンがついてくるだろうみたいな姿勢が見えれば、もう私は暴れますよ。

『笑う大天使』は川原の大出世作で、それだけに川原のよさが多層的に盛り込まれています。ちょっと周りからはみ出していることへの悲しさ、しかしそれでも人間が好きだという姿勢、決して負けないという不屈の態度、人情もあれば友情もある。あるいはちょっとした恋愛の要素もあったかも知れない『笑う大天使』を私は愛したんです。

なので、うかつには扱ってくださるなよと、けれど出来栄えに興味があるのも事実なんです。なので私は、期待と恐れを込めて映画化を横目に見続けたいと思っています。

  • 川原泉『笑う大天使』第1巻 (白泉社文庫) 東京:白泉社,1996年。
  • 川原泉『笑う大天使』第2巻 (白泉社文庫) 東京:白泉社,1996年。
  • 川原泉『笑う大天使』第1巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1987年。
  • 川原泉『笑う大天使』第2巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1988年。
  • 川原泉『笑う大天使』第3巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1989年。

2004年12月7日火曜日

Me and Mr. Johnson

 あのエリック・クラプトンが、伝説のブルースマン、ロバート・ジョンソンをカバーしたアルバムと聞いて、その頃ブルースにも興味があったもんだから、買っちゃいましたね。いや、なんでか音楽雑誌ばかりじゃなく一般紙にまでロバート・ジョンソンの特集がされたくらいにブルースが注目された時期でして、もちろん私はその勢いに乗っかってロバート・ジョンソンの『コンプリート・レコーディングス』を買ってるんですが、それどころか、実際自分で弾いて歌ってみたりして、いやあ目茶苦茶難しいですね。どうしようもないほど雰囲気がでないんです。いやあ、どえらく駄目で、私はブルースに向いてないかも知れません。

で、さて、クラプトンのアルバムはどうだったかと、ちょっと思ってたのと違ってたせいで、戸惑うやらがっかりするやら。じゃあ、クラプトンはよくないのかというと、そういうわけでもないんですね。

なんか、ロバート・ジョンソンから重厚で泥臭いというイメージがすっかり抜けてしまって、洗練されたバンドミュージックになってしまってるんですね。いやあ、すごく聞きやすいです。実際ギターも歌もうまい人だから出来に関しては申し分ないし、じゃあいったいなにが期待外れかというと、『アンプラグド』でやったみたいな、しゃがれたブルースを聴く気満々であったという、そのせいなんですね。

実際何度か聴いただけで、ちょっとしまい込んだみたいになってしまいました。ああ、もったいない。って、そういう終わりかたはしないから安心してください。

アルバムとしてはちょっと期待外れに思った『ミー & Mr. ジョンソン』が、iTunesでの全曲シャッフルで突然に挟まってくると、非常に光るんです。やっぱりレベルが高いんですね。聴いて、ああこりゃいいわと思う。それどころか、それほど聴いてないはずなのに、イントロを耳にしただけで、ああクラプトンだってわかる。それくらいに、ぱりっとしたいでたちで現れてくるんですね。ちょっとでき過ぎの感もあるけれど、そのちょっとかっこつけたところも含めて、気の利いて粒立ちのする曲がシャッフルプレイを引き締めてくれるおかげで、聴いてるこちらとしてもちょっとハッピーな気持ちになれるんです。

そうして、目からうろこ(耳から?)を取り除いてから聞き直すと、やっぱり大変いいと思う。頭からこういうアルバムに違いないという思い込みは、新鮮な音楽体験を邪魔するんだなあと、偏見に惑わされない境地にいたるのは難しいものと、そんな反省つきのアルバムです。

2004年12月6日月曜日

ポネット

 お母さんが死んでしまった — けれど、ポネットは死を理解するには小さすぎて、現実を受け入れることができずにいるのです。そうしたポネットを思うと、私は切なさに胸の奥がぎゅうと締めつけられるような感じがして、けどこれはきっと私だけじゃないと思います。思い出すだけで涙が出てくるくらいに愛おしい映画で、けれど悲しさや切なさを押し付けくるようなそぶりはまったくなくて、むしろ優しさや暖かさかがしんしんと降るような幸いな世界。寒い冬の日に日だまりを見付けた、ほっと安堵し喜びが胸に満ちてくる。ただ傍らであの子を見守るばかりの私たちからが、あたかも心がきれいに洗い流されたかのように感じられる映画なんですね。

この映画は人の死を扱っていて、ゆえにしめやかで敬虔な雰囲気が支配的です。ただその中で、ポネット一人はその状況に理解を示すことができずにいるわけです。この好対照によって、死の空気は、むしろさらりと描かれているだけだというのに、よりはっきりと際立って、そしてポネットも、まるで色鉛筆で縁取りされたみたいにくっきりとしてくるんです。そのはっきりと表されたポネットの思いの輪郭が、私の心にしっかり跡を残して、まるで他人事でいられない。ポネットの死に対する疑惑を、私自身、ポネット同様に抱くかのように感じられてしょうがないんです。

実際、人の死というのはいつも薮から棒で、突然突きつけられても容易には飲み込めないものなんですね。私もこの春に祖母を亡くしたんですが、養老院でも通夜の席でも、葬儀、焼き場に至っても、果たして生きているという状態から死に移行するということはどういうことなのか、頭にはずっと疑問がこびりついていました。

ええ、私はもう大人ですから、死という事象は理解しているんですよ。けれど理解と腑に落ちるということは違うんです。そして死んだということで、その人の生きていたことはどういうことであったのか、わからなくなるんです。結局私は、仏前にちんまりと座って、心の中祖母に問い掛け続けて、不孝な孫であったことも詫びて、せめてこれからは憂いもなく成仏してくれればよいと、本当に願ったんですね。そうして私は、人は死者とも対話できるのだと、なんとはなしにわかったように思ったのでした。

『ポネット』を見たのは、祖母がまだ元気であった頃で、人の死をリアルには感じず、まるで自分には関係ないように思っていたころで、けれど今になって振り返れば、ポネットの物語は、ほかでもない死者との対話にいたるまでの、心のうちにるる流れてゆく思いのドラマであったのだと思うんですね。ポネットは、亡くなった母親を求めることで、母と対話をしていた。そしてその無言の対話を鏡として、人の心のかたちをうかがったのだと、そういう風に私は思うんですね。

そして、人はそうした思いを、あたかも自分のことのように受け止めることで、死者との対話を追体験する。それがこの映画を見終えて感じられる、清浄さの根拠になっている正体であると思うのです。

2004年12月5日日曜日

話を聞かない男、地図が読めない女

 随分前に話題になった本で、なにを今更いうことがあろうかというくらい有名なタイトルですね。いやあ、このへんは私の悪いところなんですが、ブームだとかなんとかには目を背けてしまうという性質が、見事に災いしています。そんなわけで、私がこの本を読んだのは出版から随分たってから。職場で遅れたブームが巻き起こって、じゃあ自分も読んでみようかという気になったのですね。それで、文庫版が出る直前という、実に悪いタイミングで購入したのでした。

しかし、なにがよくないといっても、文庫版には増補が加えられているというところですね。でもまあ買い直すほどのものじゃないから、ハードカバー一冊あればそれでもう充分といえます。

この本は、副題にあるように、男女の差異を脳の構造の違いに基づいて説明しようというものなんですね。脳の構造が違うために、ものへの注視の仕方が男女で異なり、行動の様式やなんかも変わってくる。ううむ、確かにそのように脳が違うのだといわれると説得力がありますね。基本的に私は、男女の差は身体的(生得的)なものではなく、後天的にかたちづくられる文化的なものだ、という立場に立っているのですが、まあ今でもそう思うところは多いのですが、そんな私でもこの本に書いてあることは、まあそうなんだろうな、というふうに納得して読んでいます。

なぜ私が性差を文化に担わせようとするのか、これはひとえに私自身のキャラクターによるものだと思います。私は、生物学的には男でありますが、好みやなんかはあんまり男性的ではない、と思っています。外でばりばり働いて、ライバルもなにもかも蹴落として、群れのリーダーになるんだ、って実はあんまり思ってません。それよりも、仕事から疲れて帰ってきた愛する可愛い妻をいたわり、暖かい食事を快適な空間を提供し、朝起きたら食事のひとつも作って妻の目覚めを待ち、玄関先で子供と一緒に、お母さん行ってらっしゃい — こういう生活がまさに私の理想なんですね。絵に描いた餅だとはいわんでくださいよ、急に空しくなってきますから。

こういう生活様式を好む私は、この本の説明によれば、男性ホルモン・テストステロンの分泌が盛んでないタイプなのでしょう。なんとなく納得できる話ではあります。

ちなみに、こんな私が男脳・女脳テストをしてみると、きっちり100点をマークして、男脳の範囲に含まれてしまうのです。男脳は0から180点で、150から180の間は男女脳の重なる範囲とされるから、これを考慮に入れても、しっかり男脳です。

うわーん、ショック。私は絶対女脳、せめてオーバーラップする範囲に入ると思い込んでいただけに、やっぱりショックなのでありました。

Web上に男脳・女脳テスト公開してくださってる方がいらっしゃいます。

どうですか? 自分の思ってるような結果が出ましたか?

よければ結果感想を教えてくださいな。

2004年12月4日土曜日

七色いんこ

   手塚治虫といえばアトムであったりブラックジャックであったりを思い出す人がほとんどで、あるいはメルモちゃんやリボンの騎士でしょうか。そうした錚々たる作品のなか、『七色いんこ』はあまりに知られておりません。うーん、この作品、私にとってはブラックジャックに並ぶ名作でありまして、それどころか、好きということに関してならブラックジャック以上であるかも知れないんです。それだけに、もっと知られて欲しいという思いがあります。

『七色いんこ』は演劇の話なのです。本名も素性も謎に包まれたエキストラ専門の俳優七色いんこは、演劇においては名優として観客を魅了し、しかし泥棒としての裏の顔も持つという、まさにピカレスクの匂いが立ちこめるようじゃありませんか。

しかしここは手塚治虫ですから、いんこも悪いばかりじゃない。彼は役者としての自分をも高めつつ、胸の奥に秘めた決意により最後には — いやここは内緒。だって最後の謎をばらしてしまうようじゃいけません。一言いうなら、私は感動したのでした。芸術の目的とは、本来こうであったのではないかと思ったのです。

しかし手塚治虫という人は、多趣味であったからか、実に引き出しが多い。『七色いんこ』にしてもそうで、各話各話が演劇戯曲を下敷きとしたパロディとして作られているんですね。演劇に詳しくない諸氏もご安心を。チャンピオン版にはちゃんと演劇解説も(写真入りで!)付録していて、通し七巻を読むだけで、ちょっとした演劇通にもなれちゃうというおまけ付き。いや実際、私にしてもこの漫画のおかげで演劇に興味が出まして、本当だったら絶対見ないようなものも見て、結局世界が広がりました。そういった意味でも、実によい漫画であると思います。

ところが、ですね。私は、自分用に文庫でそろえてしまいまして、これが大失敗でした。ついてくるはずと思っていた演劇解説が文庫版にはついていないのです! ああ、この演劇解説は、それ自体価値であるだけでなく、漫画の理解も深めさせる必須のものであろうというのに! ひどい、ひどすぎます。

と、こんなわけで、チャンピオン版で買い直したいという思いにとらわれることもしばしば。いや、実際買い直したほうがいいんじゃないかと思っています。

  • 手塚治虫『七色いんこ』第1巻 (少年チャンピオン・コミックス) 東京:秋田書店,1981年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第2巻 (少年チャンピオン・コミックス) 東京:秋田書店,1981年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第3巻 (少年チャンピオン・コミックス) 東京:秋田書店,1982年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第4巻 (少年チャンピオン・コミックス) 東京:秋田書店,1982年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第5巻 (少年チャンピオン・コミックス) 東京:秋田書店,1982年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第6巻 (少年チャンピオン・コミックス) 東京:秋田書店,1982年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第7巻 (少年チャンピオン・コミックス) 東京:秋田書店,1982年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第1巻 (手塚治虫漫画全集) 東京:講談社,1994年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第2巻 (手塚治虫漫画全集) 東京:講談社,1994年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第3巻 (手塚治虫漫画全集) 東京:講談社,1994年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第4巻 (手塚治虫漫画全集) 東京:講談社,1994年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第5巻 (手塚治虫漫画全集) 東京:講談社,1994年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第6巻 (手塚治虫漫画全集) 東京:講談社,1994年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第7巻 (手塚治虫漫画全集) 東京:講談社,1994年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第1巻 (秋田文庫) 東京:秋田書店,1997年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第2巻 (秋田文庫) 東京:秋田書店,1997年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第3巻 (秋田文庫) 東京:秋田書店,1997年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第4巻 (秋田文庫) 東京:秋田書店,1997年。
  • 手塚治虫『七色いんこ』第5巻 (秋田文庫) 東京:秋田書店,1997年。

2004年12月3日金曜日

ジオニックフロント 機動戦士ガンダム0079

 ガンダムのシミュレーションゲーム、ストラテジー(戦略)系の最高峰が『ギレンの野望』なら、タクティクス(戦術)系は『ジオニックフロント』にとどめを刺します。ジオンの一兵卒として、一年戦争の最前線に戦う。その雰囲気の作り方は非常にうまく、アクション系ガンダムゲームのもつお気楽さは皆無です。だって当たり所が悪ければ、砲撃一発でモビルスーツが落ちるんですよ。いくらなんでも、ここまでモビルスーツがもろいガンダムゲームというのはありませんでした。

けど、こんなに厳しいゲームがなんで面白いのでしょう。それは、ゲームのもつ幅広さのためでしょう。どんなに苦しい局面であっても、戦術次第でひっくり返せる。あるいは、敵陣を一機にて駆け抜け重要拠点を撃破、エースここにありという活躍も不可能ではない。こうした、様々なやり方でミッションをこなせるという多様性、懐の深さが魅力なのです。三部隊をフルに活用して負け戦を勝ち抜いていく、そういう悲壮感も魅力に一色そえているかも知れませんね。

しかし、私はいつも不思議に思うんですが、ある程度上級レベルのユーザーが対象のガンダムゲームは、自軍がジオン軍であることが大抵なんですね。だって、『ギレンの野望』もタイトルが示すままにジオン軍プレイが基本、『ジオニックフロント』にいたっては、どうしたってジオン軍ですよ。

ところが普通のアクション系になれば、連邦色が強まっていくんです。昔のガンダムゲームは、当然といった感じでガンダムを自機としていました。最近のものになっても、一般ユーザー層にも訴えようというのになれば連邦が自軍になっていて、ガンダムが山ほど出てくる(そしてげんなりする)。ジオン軍でもプレイできるけど、あくまでもおまけみたいな扱いだったりもしますからね。やっぱ、普通のガンダム視聴者にとっては、連邦が正義だったのでしょう。

しかし、コアなガンダムファンになれば、大半はジオンファンに占められているという現実があります。ネットワークオペレーションをしている知人に、やっぱりジオンですかって聞いたら、当たり前やんかと返事が返ってきた。そんなこんなで、ガンダムマニアはジークジオンな人でいっぱいです。もちろん私もジオンファンですよ。ビグザム量産の暁には、なんていって実際に量産してみたり、ザクとは違うのだよ、とかいってグフでガンタンクをぶった切ってみたり。もうとにかくモビルスーツの面からいっても、人材の豊富さからいっても、ジオンの方が絶対面白い。連邦なんて、あえて言おうカスであると、ですよ。だって乗機はガンダムかジムのバリエーションばっかりでさすがに飽きます。まあ人材に関しては、結構好きな人もいるからなんともいえないのですが、ほら、カイさんとか。

とまあ、ガンダムゲームはマニア向けの色合いが強まるほどにジオンびいきになるというのは、このへんに理由を求めることができそうですね。

2004年12月2日木曜日

ラブレター

  大変珍しい(というほどでもないと思いますが)、習字がテーマの漫画。情熱的で天才肌の成瀬真琴と、沈着冷静で努力家の御前崎薫という二人のヒロインが、切磋琢磨しながら自分自身の書を見付けるストーリー、といえばなんだかものすごく陳腐ですね。いや、けれど見ていただければわかると思うんですが、決して習字一辺倒の漫画ではないんですよ。習字を軸に恋愛も絡めた、ヒロインの葛藤友情もの、といった感じでしょうか。ごつごついろんなところに頭をぶつけながら、むきになって食い下がりながら、自分の可能性を広げる女の子漫画という見方が私は好き。ええ、私はこの漫画、結構好きだったんです。

けどね、ちょっと残念だったのは、途中からラストにかけて失速しているのが目に見えるようで、特に最後の最後、ラストなんかは尻切れトンボみたいな感じがするんです。もしかしたら、この漫画人気がなかったのかも知れません。だから、打ち切りみたいな扱いだったのかも知れません。本来のメインヒロインであったはずの真琴も、結局薫の当て馬みたいになってしまって、元気のあるヒロインも好きな私としてはちょっと消化不良気味でした。いや、正統派ヒロインといった感じの御前崎さんももちろん好きだったので、あの終わらせ方自体には文句はありません。

文句があるとすれば、その展開の見せ方だったのでしょう。失速しているという表現をしましたが、別の言い方をすればすごく雑な感じがしたのです。当初、物語がこれから始まっていこうとするときの膨らませ方とかはすごくうまくて、私はその生き生きとした感覚に魅かれていたのです(そしてその躍動を体現したのは、真琴というキャラクターだったと思うのです)。けれど最終巻あたりではその生命感が失われてしまっていて、なおざりに過ぎる感じがして、序盤から中盤にかけてのノリが好きだった私にはあまりにショックな結末でした。

テーマはしっかりしていたと思います。書を、思いを伝えるためにするか、あるいは文字のもつ意味にとらわれることなくただ字形の美だけを追求するかという対立があって、そしてその劇的対立は文字をすることの本源に立ち返ることにより、誰かになにかを伝えようとする意志として決着するんですね。そこには文字の美があり、しかし文字の力は字形だけではなく、そこに存在する思いにもよるのだという、ああ、だからこそショックでした。もし丁寧にラストの展開が、もっと丁寧に、デリケートに処理されていれば、物語はもっともっとダイナミックに広がって心を打ったろうに、きっともっと面白く心を踊らせる漫画になったはずだろうに。とまあ、そんな風に私は今も惜しんでいます。

この漫画を読んで数年後私は習字を始めるんですが、そして今も続けているんですが、誰かになにかを伝えるために筆をとるということはまずありませんね。なによりまだうまくないということもあるのですが、それよりも唯美的に唯美的に進ませる力が書にはあるんですよ。書字の美は、読める読めないということを超えて、そこに残された痕跡がただ美であるというふうに、いうなれば御前崎薫的姿勢に向かわせるなにかがあるんですね。

これは書に限らず、音楽、文芸、絵画、すべての芸術に見られる傾向で、いわばひとつのロマンティシズムなのですが、それを超えて本質に立ち返るというのは大切なことだなと思います。だからなおさら、『ラブレター』のテーマはひとつの正解であったと思うんですね。

  • じんのひろあき,若挟たけし『ラブレター』第1巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1998年。
  • じんのひろあき,若挟たけし『ラブレター』第2巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1998年。
  • じんのひろあき,若挟たけし『ラブレター』第3巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1998年。
  • じんのひろあき,若挟たけし『ラブレター』第4巻 (ビッグコミックス) 東京:小学館,1998年。

2004年12月1日水曜日

流行語大賞

私は流行語大賞というのがどうもピンとこないんですが、特に今年は例年に増してそうで、「チョー気持ちいい」というのもどこで流行していたんでしょうか。そもそもこれは、それほど大きな言葉ではなかったと思うんです。

それよりも、ほらなんというか、重要な言葉というのがあったと思うんですよ。

知らない人が入るわけにはいかんだろ」だとか「その最大限とは違う最大限」。他にも「自衛隊が活動している地域が非戦闘地域」、気の利いたのはたくさんあったと思うんですが、そういうのがひとつも入ってない。そんなわけで私は流行語大賞のこと、なんだかつまんねえなあと思うんですね、いっつも。

もし私がひとつ推すなら、「大好きな大臣」ですね。出典ご存じでないという方は、5月28日の文部科学委員会議事録をご覧くださいな。

自殺について

 ショーペンハウアーの『自殺について』は、そのタイトルの直截さが興味をそそるからなのか、結構読まれているみたいですね。実際本も薄くて読みやすそうだし、ショーペンハウアーという名前もなんだか聞いたことがあってすごそうだ。けど私がこの本を買った理由は本当に馬鹿馬鹿しくて、岩波文庫で一番安かったから、というものなんですね。総ページ数107ページ、価格は260円(本体252円)。他にも薄い本といえば、有島武郎『一房の葡萄』が114ページで360円。夏目漱石『硝子戸の中』が138ページもあるのに300円。価格でいえば『自殺について』がぶっちぎりです。

限られた予算でいろいろ読みたいという時代があったんですね。まあ、買っただけで読んでないというのも多いので、結局無駄にしてることはいうまでもないんですが。

一時期、ポケットにこの本とモリエールの『人間ぎらい』が一緒に入っていたことがあって、別になにか精神的にどうこうということもなくただ単なる偶然であったのですが、もし今事故に合いでもしたら無理矢理自殺にされてしまうといって、笑っていたことがありました。そもそも『人間ぎらい』は喜劇であるし、ちゃんと中身まで斟酌してもらえれば自殺なんてとんでもないとわかってもらえそうなものですが、えてして世の中というのは表層的なところでもって判断しがちです。

『自殺について』は、ショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』への『付録と補遺』から抜き出された小論なのですが、岩波の表紙によるとその『付録と補遺』というのは主著以上に愛読されたとのこと。私もその例にもれず、というかそれ以上に悪く、なにしろ主著を読んでいません。だって長いし高いし、とこういう読者はきっとたくさんいらっしゃることでしょう。

主著を知らない私にとっては、こうした小論の断片がショーペンハウアーのすべてでありまして、けれどこうした部分だけ見ても、この人は食えない人であったということがわかります。ひねくれてるしさ、それになんだかえらそうです。そういう時代だったのかも知れませんが、なににしても大げささが目に付いて、まあこれは翻訳のせいもあるかも知れません。けれどいっていること自体は確かにその通りでなんですね。ああ、ああ、そうかも知れないねえとうなずいて読める(まあ翻訳がごりごりの岩波文だから、あれなんですが)。結構私たちも実感してるようなことが書かれているわけです。

この本が私に与えた見識といえば以下のようなものでしょうか。曰く、人生はそも虚しい。曰く、苦痛はそれを思えば思う程より苦痛になる。曰く、自殺は悪夢が自ら夢を覚まさせるが如し、苦痛に満ちた生が自ら生をうちやぶってどこかおかしいことがあるだろうか。特に最後の自殺に関する考え方は、私にとって大きなものとなっています。

苦痛があまりにも続いて、どうしようも逃げられないとなったときの最後の逃走手段は自殺なんだと思ったのです。けれどこれはちょっとした逆説で、苦痛というのはそれをとめる手段がわかっていると、つまり限界点というのが見えると、まだもうちょっとがんばろうという気持ちになれるもなんです。ほら、仕事が嫌で嫌でしようがない時とかに、ああもうやめようとか、いつでもやめてやるとか、そういう気持ちになるとなんとか我慢できたりする。人生についてもそんな感じなんだと思うんです。もうどうにも駄目でしようがないと思ったら、その時は死んでしまったらいいと考える。自分はこんな風に考えるようになって、けれど実際に自殺に踏み切ることはなさそうです。

けれど、世の中にはがんばろうがんばろうとする人が多いから、苦痛の臨界点を超えて死んじゃうんだと思うんです。堪え難い苦痛から逃げる手段は、自殺の他にもたくさんあるはずなんです。大抵死ななくっても、なんとか苦痛を和らげる方法というのもあるはずなんです。なのに、そうした方法を逃げとかいって許さない社会がある。がんばれがんばれと煽るだけ煽って、落後者に目を向けない社会がある。私はそれを憎んでいます。

もっと世の中に、やめるチャンスというのがたくさんあって、また、再チャレンジできるチャンスもあったならば、死なずに済んだ人は多いはずなんです。ですが、どうもままならないのが世の中でありまして、だからせめて、いやんなったらいつでも死ねるんだくらいの軽い気持ちで、この思いをお守りみたいにして、最後の一線だけは踏み出さないですむようにして欲しいというのが私のお願いです。

  • ショウペンハウエル,アルトゥール『自殺について 他四篇』斎藤信治訳 (岩波文庫) 東京:岩波書店,1979年。
  • ショーペンハウエル,アルトゥール『自殺について』石井立訳 (角川文庫 — 名著コレクション) 東京:角川書店,1984年。