2005年1月31日月曜日

がんばれがんばれ

巷にがんばれソングは山とあって、好景気のイケイケの時にはそれなりに元気な、不景気でしょんぼりしているときにはそれなりに癒し効果を狙ったのが次々出てきて、実は私、そうした歌は嫌いです。あんまりあからさまに効きますよみたいな感じでリリースされるものって、作られすぎた感じがしましてね、なんかキャンペーンに躍らされてるみたいに思うんです。だからあんまり好きじゃないし、がんばれがんばれっていわれても、別に怠けてるわけでも気を抜いてるわけでもないよー、これ以上どうがんばれっていうのー、っていう気にもなってしまいます。

いや、昔本当にそう思ったことがあったんです。学生の頃だったと思いますが、いっぱいいっぱいの毎日に、昨日よりもっとがんばってっていわれて、がっくり落ち込んだことがあったのでした。

シオンの『がんばれがんばれ』は、雨の日、駅まで送ってもらう車の中で聴いたのが最初でした。かすれた声で語りかけるように歌われる、その暖かさがすごくありがたいと感じられて、それまで気張って一生懸命すぎた心が、柔らかになったように感じられたのでした。

たまたまラジオでかかるのを聴いただけだったので、曲名なんてまったくわからず、当時はインターネットの時代ではなかったので、歌詞の断片から探すなんて技も使えませんでした。けれど私は運がよかったんですね。この歌を歌っている人がシオンという人らしいという、それだけはどうにか知ることができたんです。シオン、シオン。この名前を頼りに、パソコン通信の電子会議室で問いかけてみたり、大阪のディスクピアやタワーレコードを探し歩いたりしたことを覚えています。

見付かったのはタワーレコードででした。タイトルはまさに曲のとおり、『がんばれがんばれ』。故郷に残った母が、都会でがんばっている息子に宛てた手紙かなにかなのでしょう。いつでもここにいるから帰ってきていいんだよ。— いつでも受け止めてもらえる、帰る場所があると思えることが、どれだけ心の支えになるかわからないと、その言葉だけでどれだけがんばる気持ちが湧いてくることだろうと、田舎に母を残してきているわけでもないのに、私は思ったのでした。

今でも変わらず好きな一曲です。

引用

  • 有森聡美『がんばって!』 スターチャイルド KICS-345,CD【Shamrock】
  • SION『がんばれがんばれ』 テイチクエンタテインメント TEDN-285,CD【がんばれがんばれ】

2005年1月30日日曜日

Les Années 60

 ジャン・リュック・ゴダールに『男性・女性』という映画があるのですが、その映画でヒロインをやっていたのがシャンタル・ゴヤ。作品中では売り出し中の歌手マドレーヌを演じています。映画で使われた歌がこのアルバムに収録されているということで、思わず私は探し回って買ってしまったのでした。

いやあ、そんなにうまい歌手じゃないんですよ。ひいき目に見積もってもせいぜいアイドル歌手って感じでしかないですし、その上60年代のレコードだから、音質や編曲もそんな感じ。最近の音楽みたいなノリだとか、そういうのは期待できません。けれど、古きよきフレンチポップスという感じがあって、この当時の風俗だとかが好きという人ならば、きっとよさがわかるんじゃないかと思います。

しかし、改めて聞き返してみると、本当にうまくないですね。でも、そのうまくないはずのCDを、買ったのはなんでなのか。映画でその歌唱力についてはわかっていたはずだというのに、わざわざ探し回ってまで。それは、それは — 、うー、シャンタル・ゴヤがあまりに可愛かったからなんですね。そう、シャンタルが悪いんですよ。

人には誰にも好みのタイプというのがあると思いますが、そしてそれがフェティッシュなかたちで現れることも往々にあると思いますが、私にとってのフェティッシュは、どうやらおかっぱなんですね。ボブカットっていうんですか、あの髪形がどうやら私にとっての急所であるようで、例えば天羽さんとかがそうでしたね。

以前は気付いていなかったこの急所でしたが、その後のサンプリングや調査の結果から、私はボブカットに弱いということが明らかになって、そういえばシャンタルも実にいいボブじゃないですか。ついでにいえば映画でのシャンタルは、ジャケット写真以上に素敵な娘だったのですよ。だもんだから、そもそも私がその魅力に抗えるわけなどなかったのです。

けれど、これはこのアルバムに音楽的価値がないといってるのではありませんよ。歌というのは、その巧拙、技巧も問題ではありますが、それ以上にどれだけ独自の世界を作り出せているかのほうが重要です。そういう意味では、シャンタルはあのイエイエの時代を背負って、独特の雰囲気を醸し出しています。女臭さを感じさせない中性的な空気をまといながら、けれど時にコケティッシュな色合いをちらりと見せる。はっとして振り向くと、その時にはもう、普通の素朴な女の子に戻ってるんですね。

可愛らしいいたずらっぽさが、少女らしい残酷さを隠してすましている。この感じを魅力と感じられる人には、おすすめであると思います。でも、できれば映画も一緒に観たほうがいいかも知れません。

2005年1月29日土曜日

ナショナリズムの克服

 私の友人がいうんです。その友人は、子供を産んだ友人には必ず産みの苦しみを聞くようにしているのだそうでして、その最新の収穫を伝え聞くことができました。電信柱ぐらいのものが通るような痛みであるという話でして、いやあそんなに痛いものなのか。私は、ちょっとお産は遠慮しとこうかな。

いや、お産の痛みが今回の主題ではありません。私が参ったのは彼女のつけたコメントの方でして、曰く日ごろ男性諸氏がなにやら大きい、だの、立派、だの一喜一憂している事も実に些細な事ではないか。うん、卓見だと思います。そして私は、このコメントをきっかけに、姜尚中と森巣博の対談、『ナショナリズムの克服』を思い出したのでした。

この本は、タイトルから見てもわかると思いますが、民族主義や国家主義を批判しようという意図のもとに企画された対談でして、ここ十年ほど耳にする機会が増えた民族というものに対して、こき下ろそうという本だといえば理解は早いかと思います。

で、なんで最前の話からこの本を思い出すのかといいますと、日本におけるナショナリズムとはなにかを説明するのに森巣博が持ち出したものというのが「ちんぽこ」モデルであったからなんですね。戦後日本における日本・日本人論は一貫して俺のちんぽこは大きいぞ論であったが、バブル崩壊後は俺のちんぽこは硬いぞ論にシフトした。そして最近の流行は俺のちんぽこは古いぞ論である云々。

私の友人のいう実に些細なことを取り上げて森巣がつらつら開陳するのは、ちんぽこの大きさや硬さなどどうでもよろしいと、いい歳したオッさんたちがなぜ気付かないんでしょうか。つまり自信がないんですなあぁということでして、じゃあつまり男の大半は自分に自信をもてないから、大きい、だの、立派、だの一喜一憂する。その光景を傍から見れば、きっとこっけい極まってるんだろうなあと思ったのでした。

以下は蛇足:

私は、思想的にはアンチナショナリズムの立場に立つ人間です。無邪気に地球市民みたいなことを夢想して、国境や国籍という不自由な境界がなくなって、今以上に多様なバックグラウンドを持つ人が交流する時代がくればいいと思っています。だから、この本が最後に掲げる無族協和という考え方は大変いいと思ったのですね。

そんなわけで、私はこの本を読んで非常に面白かった。物事を茶化しながら批判するのは、私もよく使う手ですしね。そういう点でも非常に私向けの本だったと思います。けれど私の別の友人は相手を蔑んで指摘するような心は、いつかまた誰かを蔑むのではと、私のような姿勢をやんわり批判します。

多分、世界はその友人みたいな繊細な考え方を求めているのだと思います。私たちは、よりよい道を探していると思い込みながら、陣取り合戦に躍起になっているだけではないのかと気付かされて、— 私の友人たちの物事を直視することといったら、見習わないといかんですね。

引用

  • 姜尚中,森巣博『ナショナリズムの克服』(東京:集英社,2002年),62頁。
  • 他の引用は友人の日記やコメントから。

2005年1月28日金曜日

スパニッシュ・コネクション

 私はどうも限定とか特別とかそういう文句に弱くて、それと同じくらいに一期一会に弱い。ついこの間、友人と一緒に大阪のジュンク堂いったときの話なのですが、突然背後から拍手が沸き起こったと思うと芳崎せいむさんのサイン会が始まりました。一期一会に弱い私です。もうなんだかわけもわからずうずうずして、ずっと参加したくて仕方ありませんでした。

だったら参加すりゃいいじゃんかという話もあるかも知れませんが、私芳崎せいむさんを知らないんですね。いや、金魚屋古書店は知ってますよ。行く本屋行く本屋で平積みになってて、その表紙がなんだかすごく魅力的じゃないですか。買おうかと思ったりして、けどなんでか買わなかった。とまあ、こんな具合ですから、のうのうとサイン会に参加して、お好きなキャラクター描きますよっていわれてさ、すんません読んだことないんですって謝ることを考えると、申し訳なくってどうにも参加できなかったんです。いや、本心ではちょっと残念なことしたなと思ってるんですよ。

スパニッシュ・コネクションとの出会いもそんな感じだったんですね。大阪のディスクピア(お初天神の向かいにあったやつ)にいったら、なんだか店の入り口がざわざわしてて、いつもは商品が並んでるところにスピーカーやらが並べられてて、いったいどうしたんだろう。見覚えのある店員さんがチラシを配っていて、もらってみればインストアライブというやつじゃないですか。ヴァイオリンとギター、タブラのトリオだということで、これはぜひ聴いておきたいなあと思ったのでした。

この、聴いておきたいというのが運の分かれ目、聴けばそれだけで済むはずがないのが私です。買っちゃいましたね、アルバム。サイン入りで、お名前はって聞かれて、いや名前はいいですと断ってしまった、妙に中途半端なサイン入りアルバムがあるのですよ。このときはまだギターを弾いていなくって、しかもフラメンコギターに興味を持つだなんて夢にも思わなかったのだから、これはもう不思議な縁というしかないでしょう。

フラメンコギターとタブラは基本的にバッキングをやっているのですが、時に前面に出てくるギターのひらめくような輝かしい音色、パッセージの妙味が印象深くて素敵です。私はジプシー・キングスとかが好きなので、もともとそういう受容体があったからだと思うのですが、ギターの魅力にやられっぱなしですよ。

それにタブラも面白いですね。これ、インドの太鼓なんですが、叩き方でいろんな色を使い分けることができるんですよ。ヨーロッパにはない表現だと思います。まるで話すみたいに、歌うみたいにしてリズムを引き締めましてね、だからこれを聴いて、これくらい小さなユニットでやるなら、ドラムセットみたいのはいらないと思いましたよ。ドラムセットに負けない、またラテンパーカッションとも違う独特の雰囲気を醸し出して、実にいいフュージョンの感じを作り上げています。

さて、メロディはヴァイオリンが受け持つことが多いのですが、このアルバムでのヴァイオリンはちょっと真面目にきっちり弾こうとしすぎているようで、拍節がそのまま勘定できそうな感じがするんです。クラシック育ちの端正な雰囲気とでもいったらいいんでしょうか、そこが私にはちょっと物足りないところだったりします。

けれど、サインを貰うとき、ちょっと話した感じでは、きっともっといろいろ出てくるものがあるはずという、そんな感じのする人だったんですね。多分、ライブとかだともっとずっと面白い演奏が期待できると思います。残念ながらその日のインストアライブでは、機器の不調があって、伸び伸びとした演奏にはなっていなかった。無理して鳴らそうとしている、そういう窮屈さが傍目にもわかったんですね。だから私はヴァイオリニストの真価を知らないままでいるんです。残念なことだと思います。

スパニッシュ・コネクションはその後も順調にアルバムをリリースしていますから、これ以外のものを聴いたら、きっともっといろいろな表情が見えるだろうと思います。数年越しの再開みたいな感じで聴いてみたら、きっとすごい変化があって面白いぞ、とちょっとわくわくしてしまいますね。

2005年1月27日木曜日

山下和美短編集

 人間には過去があって、それと同じくらいの大きさで未来があって、そのふたつを繋ぐ今に私たちは生きているわけです。山下和美の短編集は、そうしたことを描きながらも実に自然で、肩ひじ張っていない。けれど深い。本当に力のある作家であると思います。

短編それぞれは全然違った表現の仕方をとりながらも、その根底に流れているテーマは奇妙に整っています。これは多分、山下和美という人が持ち続けている問題意識 — 過去をないがしろにしないこと、未来を志向すること、そして今を生きること — が、背骨のようにして、揺るぎなく通っているからなのでしょう。

山下和美は、無邪気な女の子も、くたびれてけれど時に気骨を見せる親父も、傷ついた女も、謎めいた女も、生活に疲れてしまった女も、そのどれもを実に魅力的に描くんですね。特にこの人の描く男性がかっこいい。若い男を描いても良いけど、特におっさんがかっこいいんです。巷にあふれる、見栄えだけ取り繕って中身は判で押したようなナイスミドルとは一味も二味も違って、たどってきた人生の道筋が感じられるような人間の複雑さが感じられる。これは、特に短編集の二本目「ROCKS」に顕著であるでしょう。

いや、ほんと、恰好悪いおっさんのステレオタイプをそのまんま主役に置いてですよ、情けなさや哀愁をいやというほど感じさせた後に、あそこまでかっこよく変貌させるというのはとんでもない業です。風貌なんかはそのままなのに、とにかく人間が生きている。精神が溌溂として燃焼している。山下和美らしいダイナミックさは、漫画にしてそのまんまロックです。近頃の自称ロックが、過去のロッカーが積み上げてきたイコンを借りただけの張りぼてなのに対して、山下和美は精神そのものがロック。たまたま表現方法が漫画だっただけで、その中身は躍動するビート、オーバードライブするサウンドのあふれるロックそのもの。— だからか、山下和美の描く男が妙に色っぽいのは! 本当のロックミュージシャンを見ると、普通じゃない色気がありますからね。

本当は山下和美の描く、芯が強くミステリアスな女性の魅力について書くつもりだったんですが、なんでかおっさんの話になってしまいました。

でもまあ、山下和美の女性については、以前もちょっと書いたから今回はいいや。今度、機会があったらその時に書くことにします。

2005年1月26日水曜日

きもの

  青木玉の回顧によれば、幸田文が着物を着続けた理由には、自分が着物を着付けた姿と同等のいい恰好に見える洋服に出逢えなかったということがあるのだそうです。1904年生まれの幸田文からすれば、着物が一番身にあっていたのでしょう。日常の暮らしを着物で過ごして、そうした感覚は、戦後生まれの私にはわからなくなってしまいました。

日本ではことさら季節感を大切にしますが、もちろん着物にもそういうのがあって、衣更えの日に季節外れを着ていることは恥ずかしいことだったのだそうです。というのは、幸田文のその名も『きもの』から得た知識で、この小説には、私の知らない着物に関するあれこれが、活き活きと鮮やかに描かれていて、素晴らしく魅力的です。

生活の折々に関わってくる着物。着物は、ただの衣類というにはあまりにも豊かなバックグラウンドを持っていて、それはおそらく、すべての土地の、すべての衣装に共通することなのでしょう。柄のいろいろ、生地のあれこれ、扱い、着こなし、そして好き嫌い。主人公るつ子の着物に対する思いや、その母、祖母の教え振る舞いから、私は着物についてを多少なりとも知って、文化の深さに驚いたのでした。

戦後、しかも高度成長期以後に生まれ育った私には、あまりに日本のいろいろは遠く過ぎ去ったもののように感じられ、そういう文化のあることは知ってはいても、ちっとも身近なものと感じることができません。暮らしのこと、食事のこと、そして衣類のこと。そのどれもを私は本から知って、頭の隅に知識として蓄えるばかりです。知識 — ないよりはましだけど、決して役立たせることのできない事典的項目の積み重ねにどれほどの意義、価値があるというのでしょう。私の知っていることというのは、そのようなものに過ぎません。

幸田文の『きもの』に含まれた情報は、そんな私の無駄な知識とは隔絶して、本を開けば活き活きと目の前に動き出すようです。文章はきびきびと歯切れも心地よく、ぐいぐい引っ張るようで、すごい。そもそもからして私は幸田文の文章は好きで、

 幸田さんの文章は、痩せも枯れもせず、実にふくよかだ。ふくよかといっても、やさしいというのとはちょっと違う。躊躇も容赦もなくずばずばと切り込んでくる凛々しさが気持ちいい。大げさ、けれん味のない清潔な文である。

だなんていってました。それは『きもの』においても変わりなく、説明が説明調におちいらず、ぐうっと胸の奥に入ってくるのですよ。ああ、私は着物のことをいわれても、細かい言葉がわからない。そんな私なのに、どんどん読めるというのは、それはやはりことばがことさら達者で美しいからだと思うんです。

着物の知識のない私には、『きもの』で着物の生きていた時代を、風を肌でうけるようにして感じて、『幸田文の箪笥の引き出し』では口伝えに教えてもらうように知ったのでした。

今着物はブームですが、その着物の背景を知りたい人には本当によいテクストになってくれると思います。多くの人がこうした背景を知って、恰好よく着物を着る人が増えて、ただのブームでなく再び文化として生き返って欲しいなと、そんな風に思います。だって、忘れられてしまうにはあまりに豊かで素晴らしい文化ですから、是非とも身近なものとして長く側にあって欲しいじゃありませんか。

  • 幸田文『きもの』(新潮文庫) 東京:新潮社,1996年。
  • 幸田文『きもの』東京:新潮社,1993年。
  • 幸田文『幸田文全集』第17巻 東京:新潮社,1996年。

引用

2005年1月25日火曜日

幸田文の箪笥の引き出し

 しらたりさんのBlog昨夜の更新がお着物についてだったもので、私もすっかり着物めいてしまい、今日は一日着物気分でありました。いや、気分だけですよ。私は不断着はおろか、余所行きの着物一枚持っていません。着物着た記憶といえば、高校の時分、父の着物で年始の詣でをしたときくらいで、あの頃、気取って懐手なんてしていたら、祖母からみっともないと怒られました。懐手は父の入れ知恵でしたが、その父の母からしたら変に馴染まない風にしか見えなかったのでしょう。とかく、私の世代は着物からは遠ざかってしまっています。ちゃんと着物を着るということがないままに育ってきてしまいました。

けれど、世間を見れば数年前からどうも着物がブームのようで、若いお嬢さんがむかしきものと称して着物を着ているんだそうですね。実際私の知人友人にも着物を着ているのが何人といます。さすがに不断着からというのはないのでしょうが、ちょっとしたおしゃれに着物でお出ましというのはそれほど珍しい風景ではなくなりました。つい先達ても、漫画の会に着物で来ていた人がいて、今そういうのを集めて着付けも習ってと大変楽しそうな様子、私もついつい気分をよくして、ちょっとした財産ですから大切になさってくださいといったところだったのでした。

幸田文は露伴の娘で、青木玉は文の娘です。私が写真に見覚える幸田文は、さすがに堂に入った着こなしで、しゃんとしている。不断の暮らしに着物があった、そういう時代を生きてらしたと髣髴させる、そうした粋がなんだかとてもよく見えて、自分の無粋を情けなく思う、そんな凛々しさというのが着物にはあるのだと思います。

京都の祇園を通りがかると、やはりそういう街ですから、着物をきちんと着た女性を目にすることもたびたびで、ちょっと年嵩の女性が黒地に黒糸で夢と刺繍された帯を締めているのを見たときは、粋だと思いました。さすがに堅気ではないかも知れないと思いながらも、自分の身近には決してない、それと見せない華やかさにため息した。これはもう私が大学生になっていたころの話で、大学といえば、私の同期が卒業式で総代に選ばれて、紋付きの着物で段に立ったときはどうどうとして見惚れました。女の紋付きだなんてその時まで見たことがなくて、その凛々しさに少し心を奪われたのです。

若い女性で着物といえば振り袖というのが私の頃の相場で、けれどこのところの着物のはやりは、気張らずにちょっと着られるような縞だとか格子だとか、私はそういうのはとてもいいと思います。気負いがなくて自然で、柔らかな感じの華やかさがあって、よく身に合っている人を見れば、はんなりとはこういう人のことをいうのだと。正月に会った人がそんな感じでした。しらたりさんもそんな感じかと思います。ちょっとはにかんだ笑顔が娘らしくて可愛らしい。ちょっと打ち解けた風にも感じさせて、これは着物の効用でしょう。

私の友人で、十年も前から着付けを習っているのがいて、白無垢やら十二単やら、そういうのを着たところの写真を見せてもらったことがあって、すごく綺麗でした。不断は化粧気もなくて、ぼうっとした娘なんですが、着物は人を美しく見せます。いや、着物だけでなくて、その娘は実際綺麗なのでしょう。いつもはそれを隠しているんです。あまりに悔しいから、その写真を焼きましては呉れないかとお願いしたら、いややわ、とにべもなくつれない返事。私と会うときには、決して着物を着てくれない。一度でいいから着物を着たところを見てみたいと思うのですが、折悪しく雨が降ったり、そういう向きの用でなかったりして、ついぞその機会を持たずに今の今まできてしまいました。

とこんな風に、着物に縁のない世代であるはずの私であっても、ちょっとたぐればこれくらいの着物の記憶はあるものです。ぱっとしないのまで含めれば、きっとまだまだ出てくるでしょう。けれど、着物をもっと身近にしてきた人の記憶とはその大本が違っていて、私のなんかただの外野の傍観に過ぎません。

今日は、ちょっと横道が多すぎました。明日に続きます。

2005年1月24日月曜日

Edirol FA-66 6in/6out FireWire Audio Interface

 今回は趣向を変えて、新製品情報をば扱いましょう。アメリカで開催された楽器の見本市NAMM Showにて、ローランド(Edirol)から新しいオーディオインターフェイスUA-25が発表されたのだそうですよ。先日紹介しましたUA-25の上位機種にあたりまして、その名もFA-66。FireWire接続で6in/6outを実現する、夢の新製品です。

え、なんで夢かって? そりゃあ、マルチトラックに対応したGarageBand 2に狙いを定めたかのような機種だからですよ! まさに絶妙のリリースタイミング!

FA-66のスペックについてさらりと見てみてみると、UA-25がまっとうな進化をするとこうなるだろうというところにうまく落ち着いていていい感じですよ。

6in/6outの入力系統を見てみると、前面にXLR/TRSを2系統、ファンタム電源を供給でき、INPUT2はハイインピーダンス入力にも対応します。ここまではUA-25と同様です。背面を見れば、RCAピンジャックによるINPUT3/4があり、さらに光端子によるデジタル入力も用意されて、これがINPUT5/6なのでしょう。正直、背面のINPUT3/4は、RCAピンジャックよりもTRS標準ジャックの方がいいと思ったりもするのですが、まあこれは一般の音響機器との連携を考えてのことかも知れません。

出力系統は、入力と違って実にあっさりしています。背面にTRS標準ジャックによる出力が4系統、そして光端子出力、これで6outなのでしょう。前面にはヘッドホンジャックもありますが、これはまあダイレクトモニターに使うものなので別口と勘定するんでしょう。

別口の勘定といえば、ちゃんとMIDI in/outもついています。なので、MIDIに関してもUA-25と同等です。

UA-25同等の機能としては、バスパワー対応とアナログリミッターがありますね。電源に関してはDC INも用意されているので、6ピンFireWireでつなぎバスパワーで使ってもいいし、4ピンでの接続や安定性を考えて外部電源を使うという選択もあるようです。

そして、6in/6outに並ぶ更なるアドバンテージとして、サンプリング周波数の向上があげられます。UA-25では24bit/96kHzだったのが、FA-66では24bit/192kHzにパワーアップしています。って、多分GarageBandは44.1kHzにしか対応してないと思うから、この機能を使い尽くそうと思ったらLogicを買うしかないんでしょうね。私には過ぎた機能であります。

これだけの機能を持った製品がどうも三万円後半、つまり三万六千とか三万八千円とかで買えるだろうとのことです。最初に買うオーディオインターフェイスとしては少々高機能すぎる嫌いもありますが、ある程度のトラック数を使うことがわかっていて、ある程度本気で取り組むつもりであるのなら、充分考慮するに足る製品だと思います。

でも、もしマイクを三本以上接続しようと思ったら、マイクプリアンプかファンタム電源ユニットがいるんじゃないか? これって結構高いんですが、そもそもこれらってRCAピンに繋ぐもんなのか? というか、一般的にはどういう構成にしてるんだろう……。

うーん、わかんなくなってきました。FA-66も考慮に入れつつ、判断は先送りにしたいと思います。まあ、こんな魅力的な製品も出ますよって話でした。

2005年1月23日日曜日

春琴抄

 女性と男性の関係において、私は、ああ、黒子のようでありたいと思うのです。影に日向に付き従いて、荷あらば担い、座らんとすればそっと腰掛けを持ち、靴上着の類いの脱ぎ着にも手を貸して、用あるごとにかいがいしく働きたい。それどころか、それ以上を求めているところまであったりして、実際の話、将来大金持ちになる予定の私の美しい友人に、どうぞその暁には下僕として雇って呉れるよう約束していたりするのですね。いやまあ、まともな会話ではありませんな。お前変態かといわれれば、むう、あるいはそうかも知れんと答えざるを得ません。わかってるねん、わかってるねんで?

(画像は教育出版版『春琴抄・蘆刈』)

とまあ、自分が駄目な人間と諒解している私にとって、谷崎の『春琴抄』は実に楽しく読むことができたのでした。『春琴抄』とは、三味線のお師匠春琴に、あたかも下僕のように仕える一番弟子佐助との、苛烈にして美しい愛の物語なのですが、この春琴の佐助への仕打ちがすさまじい。罵倒程度のことは茶飯事で、打つ殴ることもしばしば。しかしこれもすべて、春琴の佐助に対する深い信頼の情あってのことで、結局春琴は佐助のことを誰よりも身近と感じて、大切に思っていたことは疑うべくもないことでしょう。

だもんだから、私には佐助の立場がうらやましくてならなかったんですね。だってさ、ご主人様の全幅の信頼を得て、また一生を仕えるに足るご主人様を目前にしていたんですよ。これをうらやましいといわずして、なにをうらやましいといいましょうや。私には佐助を他人事とは思わず、一心に感情移入して読みましたね。美しいご主人春琴に仕える佐助の一挙手一投足に心を移し、佐助のうけるすべてを自らのものとしてうけて、いや、やはりこの物語は美しい物語であると思ったのでした。

おそらく、この物語中最も美しい場面である、佐助が主人を思うあまりに、自身も盲目となろうとするところ。この場面の前後を読めば、佐助と春琴の間柄の尋常でない結びつきがわかります。日頃は見せない春琴の佐助への思いがどれほど深いものか、またそれを一身に受け応えようとする佐助の愛のいかに大きなことか。

試みに針を以て左の黒眼を突いてみた黒眼を狙って突き入れるのはむずかしいようだけれども白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔らかい二三度突くと巧い工合にずぶと二分程這入ったと思ったら忽ち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのが分った

なんと美しい場面であるかと思われます。いたいいたいーといいながら、美しさにため息をつきます。

  • 谷崎潤一郎『春琴抄』(新潮文庫) 東京:新潮社,1951年。
  • 谷崎潤一郎『春琴抄・蘆刈』(読んでおきたい日本の名作) 東京:教育出版,2003年。
  • 谷崎潤一郎『春琴抄・蘆刈』(角川文庫) 東京:角川書店,2000年。
  • 谷崎潤一郎『春琴抄・吉野葛』(中公文庫) 東京:中央公論社,1986年。
  • 谷崎潤一郎『春琴抄・盲目物語』(岩波文庫) 東京:岩波書店,1986年。

引用

  • 谷崎潤一郎『春琴抄』(東京:新潮社,1951年),64頁。

2005年1月22日土曜日

レ・ヴォヤージュ

 以前、京大のシャンソンに詳しい仏文学の先生が、日本におけるシャンソン受容に関しての講義をするということがありまして、友人に誘われて聞きにいったことがありました。講座といいましても一般向けのものなので、それほど突っ込んだ内容ではなかろうと予想したのですが、きっとシャンソンがいろいろ紹介されるに違いない。シャンソンは好きだけどそれほど詳しくない私は、どんなシャンソンを聞くことができるだろうと、それを楽しみにしていったわけです。

いってみて、講義を聞いて、内容自体は結構面白かったんですが、ちょっともやもやが残るような内容だったんですね。どうにもすっきりしない、なんかいい足りない、有り体にいえば腹立たしいみたいな気持ちが続いてしょうがないから、喫茶店に入って友人とそのもやもやの正体をはっきりさせようということになったんです。数時間話し合った結果、そのもやもやの正体は、講座の前半での内容 — かつて日本人は先進文化としてのシャンソンに憧れていた — と、後半の主張 — 日本の商業歌謡は子供っぽくシャンソンに見られる成熟が見られない — が矛盾している。現在、多様を極める日本人による日本語での日本市場向けに作られた歌のすべてが、成熟を見ない子供向けのようなものであるかのように言いたげな主張からは、日本は子供だから大人の国フランスを見習いましょうねという、相も変わらぬ日本未成熟論が透けて見えると結論付けることができたのです。

しくじりましたね。講座の後には質疑応答もあったので、この結論がもっと早くに出てたら、ぶつけてみることもできたわけです。自分はいつも後からこういう、あの時これをいえればよかったというのを悔やむたちでして、ええ、このときも悔やみました。

で、なんでクレモンティーヌの紹介でこんなことをいうのかといいますとね、ちょうど講座で、クレモンティーヌが槍玉に上げられたのですよ。WAVE編ペヨトル工房刊のシャンソン特集だかフレンチポップス特集だかに収録された、フランス人による日本のフレンチポップス座談会とかそういうのを引き合いに出しまして、クレモンティーヌはフランス本国ではまったく知られていない日本だけで売り出されている歌手 — すなわち偽物である、あの声量のなさ、歌手としては致命的云々というのを引用し、さらにそれをもって日本人のだまされやすさどうこうをいうにいたっては、先生はいったいなにをおっしゃってるのかとあきれました。

フランスで知られていないフランス人歌手が駄目だというのは、そもそも根拠からしてはおかしい。つまりフランス語歌謡はフランス本国での承認がなければ偽物なのか。じゃあ、海外で活躍する日本文化を紹介する日本人芸術家も、日本本国で知られていなければ偽物、なんの価値もないとでもおっしゃりたいのか。そもそも歌唱のスタイルにしても、マイクロフォンと電気的増幅という近代のテクノロジーが導入されて以来、多様の一途をたどってきている。サロンやホールにやってきた客を満足させるために必要だった声量をテクノロジーが代替することにより、ハスキーな囁き声や呼吸に伴う擦過音など、それまで表現しえなかった表現が可能になったのです。音楽に用いられる表現は急激な広がりを見せ、かつては否定的にしか扱われなかった要素が、積極的に価値を見いだされるような時代になっているのです。

クレモンティーヌについては、むしろテクノロジー時代の恩恵とプロモーションの上手を駆使して成功した歌手として評価するに値する歌手だと思うのです。もちろんこれは、私がクレモンティーヌを聴いてよいと思っているからいうので、ある種バイアスのかかった意見であることは承知しています。ですが、それでもクレモンティーヌを、本国で知られていないから偽物、声量がないため失格云々というのは、間違っていると思うのです。

そして、そんな下世話な座談会を出しに、日本市場の幼稚性云々を論じようというのは間違っています。私はクレモンティーヌの価値を疑いませんし、日本にもよい歌、素晴らしい音楽がたくさんあることを知っています。それを、ただフランス=高級、日本=幼稚と言いたげなる様をみて、やっぱりそれはおかしいんではないかと。そうして外ばっかり見て内にあるよいものを見付けようとしない態度は、大いに間違ってるのではないかと思ったのでした。

2005年1月21日金曜日

フル・モンティ

 そろそろ限界が見えてきたこととねお試しBlog。いくらなんでも書くものがなくなってきましてね、なんだか追いつめられたような気分がします。

さて、追いつめられた気分といえば、不況下のイギリスで失職した男達を描いた『フル・モンティ』が面白くって私好きなんですよ。収入がなくなって息子の養育費を払えなくなった主人公ガズが、親権を取り上げられてたまるかと一獲千金の秘策を編み出すんですが、その逆転を狙うアイディアというのが、みんなでストリップショーをしようというもの。なにしろ自らダンサーになろうっていうんだから、追いつめられっぷりやなかなかのものです。けど、犯罪やなんかに手を染めることを考えると、ストリップの方がずっと健全じゃないですか。人のふんどしで相撲をとろうってんじゃないんです。頼るは自分自身と、友情に結ばれた仲間たち。裸一貫の大チャレンジ精神がきらりと光って、潔さも素敵じゃないですか! 私はその心意気、男気に惚れ込みましたね。ええ、もうめろめろですから。

基本的にはコメディタッチの『フル・モンティ』ですが、ベースにはしっかりとした問題提起があって、考えさせられたりじんとさせられたり、深い映画であると思います。

この映画を見ると、私は男らしさを求められていると信じきっている男の不幸が身につまされるようで、洋の東西を問わず男の甲斐性というのは稼ぎなんだなあと思い、悲しくなりましたよ。けど、この映画のいいたいのはそういうことではないんです。不況下で稼ぎを失って、一緒に自信もなくしてしまった男達ですが、ストリップに取り組むうちに、本当に大事なのは稼ぎではないということに気付いていくんですね。それまでの虚勢を張ってきた、そういう生き方の馬鹿馬鹿しさに彼らは気付いたんだと思います。だから階級階層だとか自分自身へのコンプレックスとか、そういうものは本当につまらないことで、大切なのはどうどうと胸張っていること、自分の大切に思うものや人のためにがんばる — 一緒にがんばることだと気付かされるんですね。

この映画は、もともとはイギリスのものなのですが、人気が出たのでアメリカでミュージカルになって、このミュージカルもまた人気なんですよ。以前、大阪で上演されたとき、チケットの高さにしり込みしながらも、結局見に行きました。いいミュージカルでしたね。映画とはまた違う味付けがされているのですが、やっぱり底には、一生懸命がんばることへの賛歌みたいなものが流れていまして、やっぱり私は好きなのでした。

ええ、一人でがんばるじゃなくて、一緒にがんばるっていうのはいいですね。この一緒にというのは、私の一番欠けてる部分なのですが、だからこそか、あの男達が情けないどん底の気持ちから、自信を取り戻して晴れやかで不敵な笑顔を見せるラストへの盛り上がりには憧れちゃうのです。くじけそうな気持ちを励まし合う、あの性根の暖かさをうらやんでるんです。

2005年1月20日木曜日

CLIMB THE MOUNTAIN

私には姉が一人ありまして、もともとこの漫画は姉の持ち物だったのでした。長い間机の中にしまわれていて、一人でこっそり読んでいやがったのですが(どういう料簡の狭さかと思う)、あるときもういらないからといって、全部私に譲渡されました。しかしなにがすごいといっても、第1巻しかなかったんですよね。絶版してから1巻だけ渡すんじゃない、先が気になって仕方がないじゃないか。

けれど漫画の持つ雰囲気、— 少女漫画らしい荒唐無稽さと繊細なタッチで描かれた絵の可憐さにすっかり魅せられてしまって、私、1巻だけ何度も何度も読んだんですね。何度も何度も読んだんですよ。

とまあ、こんなことをいうとまるで続きを知らないままでいるみたいでありますが、実はそうではなくて、その後ブックオフで第2巻を見付け購入したり、『大阪屋商報』で選集が出版されると知らば、急いで全巻予約してみたり、そうした努力が実って、うちには二種類の『CLIMB THE MOUNTAIN』があるのです。

この漫画はなにがよかったんでしょうね。実は私はうまく言葉にできないんです。ポルノ映画監督の父親と二人暮らしの主人公由貴(よしたか)はちょっとおくてで、女性に対してはからきしで、その彼とお隣の中学生未明(みはる)の淡い関係性がよかったんですね。未明は由貴の父親美由貴(よしゆき)に恋心を抱いていて、けれど一向相手にされない。— こうした二人のすれ違っている気持ちというのがちょっとばかし切なくて、なんか読んでる私も同じく切なくなる。全体にどたばたしたストーリーの中、この二人の周囲だけちょっと違う空気が流れているようで、そのどたばたも細やかな世界も両方好きでした。

ええ、やっぱりうまく説明はできないんです。うまく説明はできないんですが、自分がこの漫画を好きであることはわかっています。本当に好きなものは、言葉にはできないみたいですね。そんな風に思います。

で、なんで急に『CLIMB THE MOUNTAIN』なのかというと(註:本当は違う漫画で書くつもりだったのさ)、今日偶然であった女性が、非常に理想的な風貌とキャラクターをお持ちでして、職場であった技術の人なのですが、裾の広がったスカート、パステルグリーンの裾の長いカーディガン、そして手に下げたかばんはどピンク。私は、一目見て完璧だと思った。ついに見付けた、私の天使よ、—と思った。

と、そんなわけで由貴の父親美由貴を思い出してしまったのでした。うん、未明はやっぱり可愛いなあ(註:その女性と未明は全然似ていません)。

  • 川原由美子『CLIMB THE MOUNTAIN』(ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2003年。
  • 川原由美子『川原由美子選集』第1巻 東京:朝日ソノラマ,1999年。
  • 川原由美子『CLIMB THE MOUNTAIN』第1巻 (フラワーコミックス) 東京:小学館,1987年。 
  • 川原由美子『CLIMB THE MOUNTAIN』第2巻 (フラワーコミックス) 東京:小学館,1988年。

2005年1月19日水曜日

スタイル・アナリシス 綜合的様式分析

音楽作品について理解を深めようとすれば、分析という作業を避けることはできません。分析と一言でいいますが、楽曲分析とは和声分析や旋律分析、リズム分析、様式分析、形式分析などなど、実に多岐にわたるものでありまして、一度でもやってみればわかることですが、大変面倒くさいものです。私、正直なところあんまり好きな作業ではないのですが、というのはですね、楽曲分析というのはある種恣意的な作業でして、自分の主張にとって都合がいいような結果が得られるように手心を加えたりできるわけですね。だから、まず分析ありきという姿勢は好きじゃありません。といっても、よい分析はそれだけで価値のあるものであるのは確かですから、私も必要に応じて、人の分析を参考にしてみたり、もちろん自分でも分析してみたりしたもんでしたよ。

『スタイル・アナリシス』は音楽分析の手法についての本でして、この本が出たときは画期的であるとして大いに好評だったのだそうです。そうですというのは、なにしろこの本が出版された時、私は中学生だかそんなぐらいの頃ですから、当時の状況なんて伝聞でしか知らんわけです。で、伝聞によれば画期的である、— 実際読んでみればわかりますが、分析結果が実にわかりやすくまとめられていて、画期的であるのは間違いないんですね。

なにが画期的であるかといっても、その音楽を徹底的に図式化しようという意欲でしょう。音楽を視覚的にわかりやすく表すために図式化するということは、確かに普通に行われていることではあります。ですが、『スタイル・アナリシス』では、形式を図式化し、音量を図式化し、経過を図式化し、そしてそれら図式はシンボル化された音楽の要素 — 動機、リズム、テクスチャ、言葉など — によって繋ぎ合わされるのです。

この本に紹介されているやり方で実際に分析して、結果を表したとしたら、対象への理解は大いに進むんじゃないかと思います。分析をした本人にとってもそうですし、その結果を手にした第三者にとっても同様でしょう。もちろん、この手法でも分析者の技量による良し悪しは出ます。けれど、それでも説得力あるいは感覚的に把握できる分量はきっと違ってくるはずです。

でも、まあなんというか、この手法は分析によって得られた結果を図式化するという後作業が大変なものだから、ちょっとやってみようという感じにはならないんですね。いや、私がものぐさなもんだからやろうという気にならなかっただけなんでしょうけれど、実際、あれだけすっきりまとまった資料を作成するとなれば、よっぽどきっちり分析できてなければ無理なんです。最初の地道で詳細な分析作業(本当に地道で詳細)を経て、さてここでその結果をもとに資料を作る、 — 疲れ果てますから。

実をいいますと、昔、こととねの更新で、『スタイル・アナリシス』に書いてあることを実践した分析結果を公開してみようと思ったことがありました。けれど、おぼろげに分析してみて、いろいろネタになりそうなところをピックアップしてそれらしい結果を引っ張ってみて、けれど実際にそれをかたちにしようとする段階で挫折したんですね。いやもう大変なんですから。私がやろうとしたのは、日本のポップスの分析だからたいした分量でもないし、だからこそやろうと思ったのでありますが、それでも断念したのですから、それこそ何十分もあるオーケストラの大曲とかだったら死ねると思います。

とまあ、音楽の分析ってのは大変なもんなんです。いや、分析が大変なのは音楽に限った話ではないんですけどね。

ともあれ、かくのごとく大変な分析なのに、それを総合的多面的にやろうとするのですから、さらにはそれを資料にまとめる必要があるのですから、大変さはより以上のものとなります。けれど実際にそうした作業をやっている人はいるのですから、もう頭が下がります。私は、今でも簡単に分析はしますが、当座必要な分だけを、自分にわかれば充分という仕方でもってしかやりませんからね。もう、まったく怠惰なものでして、けれどこんな分析であっても、するとしないでは最終のアウトプットが全然違ってくるのですから、分析というのはやはり重要な作業なのです。

この本は残念ながら絶版してまして、私が学生だった頃にはすでに刷られてなかったんじゃないかと思います。早いうちに入手しなければなくなると思って、ヤマハの売店に買いに走りましたからね。そういえば図書館の資料が盗難にあったりもしましてね、当時はまだ在庫があったから補充できたのですが、そういうことはぜひやめて欲しいものだと思います。

2005年1月18日火曜日

アーマード・コア

   昨日、フロントミッションについて書いたら、アーマード・コアでも書きたくなってしまいました。アーマード・コアというのも、フロントミッションほどではないですが古いゲームでして、初出は初代プレイステーションでした。

アーマード・コアも順調に新作をリリースしておりまして、このことだけでもアーマード・コアの人気の高さがわかります。なんといっても、コアなファンをつかんでしまっていますからね。ACの新作が出れば血が騒ぐというか、どういう機体をアッセンブルしようかと想像するだけで興奮してくるというか、とにかくなにか強烈な求心力を持ったゲームであることは間違いありません。

アーマード・コアはどういうゲームかといいますと、3Dオウンビュータイプのアクションゲーム、パーツを購入し組み上げたロボットに搭乗して、ミッションをやっつけるというゲームなんですね。

このロボットですが、ガンダムではモビルスーツというように、アーマード・コアでも特別な名前が付けられています。アーマード・コア(AC)といいまして、本体パーツに腕パーツや脚パーツをアッセンブルして、強化していくのが楽しかったんです。プレイヤーの技量に応じて、例えば射撃の精度が高いならライフル系を、そうでないならマシンガン系を、さらには格闘に特化した機体にしてみるなど、そういう組立と、自分の好みに応じて戦い方を組み立てるという、二重の構成が面白かった。もう、大好きでしたよ。

アーマード・コアは、達成目的が設定されたミッションと、敵ACと差しで勝負するアリーナの、二種類の舞台が用意されていまして、それぞれに面白さが違うんです。

ミッションはクリアすることも大切ですが、成功報酬を得るのも目的のひとつですから、いかに損害を押さえ弾薬費をけちるかがテーマになってきます。けれど、ミッションも終盤になってくるとそんなこと構っていられなくって、機体はもう破壊寸前、弾も大盤振る舞いでばらまくことになるんですが、そんな強烈に困難なミッションをクリアしたときの喜び、達成感たるや、なかなか他のゲームでは得られないほどに大きいです。

そして、アリーナもまた熱い。アリーナでは弾薬費とか損傷による減額とかありませんから、思う存分強力な装備をそろえて戦いに臨めるんです。まあCPUが相手ですから、まず負けないような卑怯な戦法も存在するのですが、けどゲームというのは楽しむのが目的なんですから、正々堂々と戦うのが面白いでしょう。

もう、CPU連中は異常というくらい強いんですね。特に上位ランカーにもなれば、基準違反機体に強化人間という反則野郎ばっかりで、よっぽどの腕でないかぎり真当に戦っては勝てないでしょうね。けれど、異常といえるくらいの難易度があるからこそ、チャレンジにチャレンジを重ね、ねじ伏せたときの喜びが大きいのですね。

けど、こんなに面白いゲームであるアーマード・コアにも弱点はあります。それは、難しすぎるんですね。ロボットが好きというだけでは付いていかれないほどの難易度。確かにパーツをそろえて、武器をコーディネイトして、すごく楽しいんですよ。けど、その楽しさというのも、ミッションやアリーナをクリアできてこそなんだと思うんですよ。ゲーマーに満たない一般的ユーザーの手に負えるゲームではないということなんですね。

これほど難しいゲームですから、常に鍛練しておかないと腕がなまります。実際私も、間を置いてしまったせいでもう遊べませんからね。敵を追えないんですよ。このゲームには自動照準という概念がありませんから、画面内の照準枠に敵を捉え続けないと、照準ロックがかからないんです。つまり、敵の動きに追従して画面中央に捉えられるだけの技術がなければ、一発の弾も当りません。経験者でさえこのざまですから、初心者だったら敵が今どこにいるのかさえわからないうちに、山ほど弾を浴びて敗退、なにが起こってたか理解すらできず負けるでしょうね。

けど、こんなに難しいゲームが面白いんですよね。知恵熱出してくたくたになりながら遊ぶんですが、でももう今では、そんな風に遊べないですね。すごく残念です。

2005年1月17日月曜日

フロントミッション

   フロントミッションは初出がスーパーファミコンという結構古いゲームなのですが、順調に新作が開発リリースされていて、今も遊べるシリーズです。きっと人気があるのでしょうね。私は第一作を遊んだだけで続編は横目に見ているだけだったのですが、それでも独特の世界観やなにかは興味をそそるに充分でして、実は今でも遊びたいと思っています。そんな具合に、虚構なんだけどリアリティのあるシリアスなストーリーにはまってしまった人は、きっと多かったのでしょう。

フロントミッションはどういうゲームかといいますと、タクティクスタイプのシミュレーション、パーツを購入し組み上げたロボットを投入して、敵部隊をやっつけるというゲームだったのですね。

このロボットですが、ガンダムではモビルスーツというように、フロントミッションでも特別な名前が付けられています。ヴァンツァーといいまして、本体パーツに腕パーツや脚パーツをアッセンブルして、強化していくのが楽しかったんです。パイロットの技量に応じて、例えば射撃の精度が高いならライフル系を、そうでないならマシンガン系を、さらには格闘に特化した機体にしてみるなど、そういう組立と、彼らの個性を生かして戦略を組み立てるという、二重の構成が面白かった。もう、大好きでしたよ。

フロントミッションは、メカやストーリーもよかったのですが、なによりキャラクターが魅力的で、お気に入りキャラを作ってしまうような人にもおすすめのゲームです。ひとりひとりの個性がはっきりしているので、大量のヴァンツァーを投入するような戦局においても、わけがわからなくなるということがなかった。要となるキャラクターがいて、そいつらをうまく使ってやるのが途方もなく楽しかった。いや、本当によくキャラ立ちがしていたと思いますよ。

私がこのゲームを遊んだのはもう五年も前のことになりますが(あるいはそれ以上かも)、はっきりと思い出せるキャラクターはいますからね。

まずは坂田が思い出されますね。この人は射撃に優れていたので重火器を持たせて、精密射撃で敵機の特定パーツを破壊させるのが楽しかったのですよ。腕とか、特定の部位を狙い撃ちすることができるんです。まずは両腕を破壊して武装解除し、脚部を潰して移動力を奪います。これがフロントミッションのセオリーとでもいいますか、敵の戦力を殺いで、後片づけを二線級のパイロットに任せるんですね。つまり、坂田はエースだったわけです。いや、エースなんてもんじゃないですね。ダブルエース、トリプルエースといってもよいというくらいの大活躍で、あまりに強くなってしまったから、私らは鬼坂田というあだ名をつけて重用していました。

あだ名をつけたキャラクターといえば、中国系のお嬢さん、ヤン=メイファを忘れちゃいけませんな。この娘は馬鹿みたいに格闘性能がよくて、とにかく攻撃をよく当てる。特殊スキルの発動も頻繁で、そして攻撃力が高い。もう、めちゃくちゃ魅力的でした。

敵の群がる真っ直中にヤンを送り込んで、片っ端から殴っていくわけですよ。特殊スキルの威力が半端でなくって、文字通り一撃必殺の拳。迎撃能力にも優れているので、群がる敵が次々と再起不能になっていく。あまりの強さに、我々は畏怖の念も込めてどつき姫と呼んでいました。

常に最前線にいたのは鬼坂田とどつき姫で、この二人さえいれば負ける心配はないんですから、もうスーパーヒーローってなもんですよ。主人公がかすんでしまって仕方がないくらいで、矢でも鉄砲でもラスボスでも持ってこいてな勢い。実際、最終戦ですら、この二人の戦場でしかなかった。最強の称号はこの二人のためにあるといってよいでしょう。

けど、これってちょっと問題なんですよね。二人があんまりに強いせいで、他の連中に分け前がいかないんです。このゲームは、戦闘で得た経験値により、キャラクターが育っていくというシステムを持っていまして、つまり敵機を破壊すれば破壊するほど強くなるという仕組みです。なので、どうしても強さが突出するパイロットが出てきてしまいます。特に命中精度、破壊力の高いキャラクターにその傾向は強く、他のパイロットを凌駕する能力を持ってしまったために常に最前線送りになる — さらに強くなってしまう、という悪循環(いや、好循環か)が見られたのですね。

こうした傾向はゲーム中盤くらいから顕著になりはじめるのですが、そうなればまさに第13独立部隊(ホワイトベース隊)の様相を見せはじめてきます。一握りのスーパーエースが戦場を支配し、それを続く中堅が数名、そして多数の力なき一般兵。一般兵は努力次第で中堅に食い込むこともできるでしょう。けれどスーパーエースと中堅の間には、越えられない壁が存在しているのです。

まあ、一口でいえばバランスが悪いということなんですが、けどこういうバランスの悪さも含めて面白かったんですよね。中堅が苦戦しているところへどつき姫が駆けつければ、それまでのことが嘘みたいにひっくり返る。かっこいー! だから、私たちは皆、どつき姫ヤン=メイファに夢中でした。いや、実際キュートなキャラクターだったと思いますよ。

2005年1月16日日曜日

Edirol UA-25 USB Audio and MIDI interface

 GrageBandがマルチトラックに対応だ、といってもマルチトラックレコーディングをするには、それなりのオーディオインターフェイスが必要なので、ちょっと気楽にはじめてみようかというものではないんですね。けれど、幸か不幸か私の使っているMacintoshはiBook G4なので、そもそも音声入力端子なんてないのです。マルチだろうがシングルだろうが、音声を入力しようと思えばオーディオインターフェイスが必要なのです。まあ、iBook内蔵のマイクを使うという手もないではないのですが、それはこの際ちょっと考慮の外に置いておきましょう。

いずれにせよオーディオインターフェイスを買わないといけないのなら、ちょっとがんばっていいのんが欲しいなと思ったのです。入力端子が充実しているものは結構いい値をしていて手が出そうにないから、最初は1inもしくは2inくらいのでいい。けど、できれば高音質のマイクにチャレンジできるのがいいなあみたいに考えていろいろ探していたら、EdirolのUA-25が私の希望にだいたいマッチしているとわかりました。

それなりに手軽で、その割に高機能であることがわかったUA-25。いったいどこが気に入ったか、ちょっと列挙してみましょう。

まず、私が望んだのはファンタム電源に対応していることでした。ファンタム電源ってなにかといいますと、音質面で有利だというコンデンサマイクを使う際に必要となる電源です。マイクによっては電池とか別個に電源を利用できるとか、そういうのもあるのですが、普通一般的にそういうのは少ないから、ファンタム電源というのをなんらかのかたちで確保する必要があるんですね。

ファンタム電源を供給する専用電源ボックスなんてのもありますし、あるいはマイクプリアンプとかミキサーから供給するという手もあります。けど、いきなり最初からいろいろ買いそろえるのは大変なので、ファンタム電源を供給できるオーディオインターフェイスが欲しかった。ファンタム電源を供給できるUA-25は理想的といえました。

私が望んだことふたつ目、入力が複数系統あること。UA-25はステレオなら入力1系統、モノラルにすれば2系統に対応するようです。ステレオで録ることがあればこれで充分、でもはじめはモノラルでしょう。モノラルで2系統いけるということはどういうことかといいますと、ギターと歌、あるいは別の楽器を一度に録れるということなのです。まあ、最初はマイク一本からスタートするのでモノラル1系統からということになりますが、もうちょっと先になればもう1系統欲しい(あるいはステレオで録りたい)と思うかも知れません。その時に、インターフェイスを買い足すのはいやですからね。でも、理想をいえば4inくらい欲しかったりするんですけどね。

私が望んだことみっつ目、OS X標準のドライバCore Audioに対応していること。これ、あんまりいろいろとインストールしたくない私にとっては結構重要なことでして、なのでUA-25がCore Audioに対応しているというのはちょっと嬉しかったです。

私が望んだことよっつ目、値段がそれほど高くないということ。私が払えるお金には限度があるので、あんまり高くないといいなと思っていました。安価で低機能のオーディオインターフェイスでも一万円弱くらいするので、二万円程度だと嬉しい。UA-25はだいたい二万五千円前後で売られていますが、これは実に検討に値する価格でした。本音をいえばもうちょっと安いと嬉しいのですが、私の望む機能がほぼ揃ってるのですから、これ以上の安さを求めるのはいくらなんでも無理でしょう。

先日のMacworld Expoで、アップル製のオーディオインターフェイスが発表されるという噂がありました。Asteroidというコード名を聞いたことがある方もいらっしゃるのではないかと思いますが、これがオーディオインターフェイスらしいというので、私はひそかに期待していたんですよ。

FireWire接続でXLR/TRSの2in対応と予想されていまして、もちろんCore Audioには対応しているでしょう。アップルのやることですから、そつなく必要充分の機能をそろえ、シンプルで洗練された操作性を実現してくれると、私は期待していたのです。XLR/TRS両対応で、ファンタム電源を供給でき、さらにハイ・インピーダンス対応となれば、まさにUA-25のライバル製品となるでしょう。Asteroidの完成度および値段によっては、検討に値する製品であると思ったのです。

けど、Macworld Expoで発表された製品群に、オーディオインターフェイスは見られませんでした。発表が見送られたのは事前に情報が漏れたためだとか囁かれていますが、だとしたら罪なことをしてくれたものですよ。期待していた私にとっては、本当、肩透かしだったのです。

2005年1月15日土曜日

iLife '05

 iLifeというのは、アップルコンピュータのリリースするクリエイティブツールのスイートですが、この2005年版がついにリリースされるのですよ。私はこの日が来るのを待ちに待っていたといっていいくらいでして、なんだかちょっとわくわくする気持ちを抑えられないでいます。

iLifeというのはどういう製品かちょいと説明しときましょう。アップルコンピュータの考える、個人にとってのコンピューティングに必要なツール、— 写真、動画そして音楽を扱うためのソフトウェアがセットになっているんです。

写真の編集や管理にはiPhotoが用意されています。ビデオ編集したいという人には、iMovieとiDVDがきっと力になってくれるでしょう。たくさんCDを持っている人には、iTunesが素敵です。しかしiLifeにはこれらを上回って魅力ある製品が含まれています。その名はGarageBand。Macintoshを強力な音楽制作環境に変貌させる可能性を秘めた製品です。

GarageBandというのは音楽を制作するためのソフトウェアなのですが、そのベースになっている考え方というのが実に斬新で、リリースされたときには結構話題になりました。

Apple Loopsというのが用意されていまして、これはなにかといいますと、自由に利用できる音楽の断片なのですね。ループというくらいなので、ぐるぐるリピートさせて使うのですが、こうした断片をいろいろ組み合わせて、自分好みの曲を作れるんですね。

さらにGarageBandには、ソフトウェアシンセサイザーが搭載されているので、自分で作ったメロディーを組み込んだり、あるいはループを自作したりもできるんですね。さらには、外部からのオーディオ入力を録音することも可能。なので、MTRとして使うこともできたんです。

iLife '05に搭載されるGarageBandはバージョンが2に上がりまして、じゃあ何が変わったのかといいますと、このMTRとしての機能です。

これまでのGarageBandでは、同時入力トラック数がひとつだけだったんですね。ところが2になって、一気に8トラック対応になりました。ソフトウェア音源も含めると9トラック。これはつまりどういうことかといいますと、マイクを八本用意して、小アンサンブルを録音。各パートの音量、バランス調整は後でゆっくりできるということです。

こいつはすげえぜ!

私がこれまでGarageBandを欲しいと思いながら手を出さなかったのは、複数トラックの同時入力に対応していなかったためだったのでした。私は今ギターに一生懸命ですが、ギターといいましても、インストゥルメンタル志向のギターではないんです。私は伴奏がやりたくてギターをはじめて、それは歌の伴奏で、友人の弾く二胡の伴奏で、— なので複数の入力に対応してくれることを切に希望していたのでした。

iLifeの2005年版が出たら複数入力にも対応するんじゃないかという予感から、iLife '04には手を出しませんでした。そのもくろみが見事にあたったというわけですよ。興奮しないほうがおかしいってもんでしょう。

GarageBandはまさにオールインワン仕様で、私にはそれもありがたいのです。レコーディングした素材にエフェクトをかけミキシングしたりしたものを、MP3やAACに書き出す、あるいはCDを作成するのも楽々でしょう。こうしたことを手軽に実現する環境というのは、私の知るかぎりこれまでありませんでした。ある程度の機能を求めると、プロ仕様に限りなく近づくのが大抵でして、機能限定版でも決して簡単ではありませんでした。ところがGarageBandは、専門的に音楽を学んでこなかった人にも音楽を扱えるような環境を実現し、しかもそれが一万円しないソフトウェアスイートに含まれているんです。

私が学生だった頃は、ハードウェアレコーディングをしようと思えば結構な予算を組んで機器をそろえて、けれどそれでもGarageBandほどの機能はなかなか得られませんでした。それこそプロ機材みたいなものに手を出さないと、満足できるような環境は手にできなかったんです。

GarageBandにしても、マルチトラックレコーディングしようと思ったらそれなりのオーディオインターフェイスを買わないといけないんですが、しかしそれも今ではそれほど高くないんです。安価でいいマイクも出ていますし、もう天国のような時代が訪れたものだと思います。

けど、そうはいっても結構お金はかかるので、なかなか手を出せずにいます。2005年中には周辺機器もあわせてiLife '05が買えるといいんですけど、ってなんだか突然消極的だな、おい!

2005年1月14日金曜日

天気予報の恋人

    『天気予報の恋人』は、仲間内で不思議に人気の高かったドラマで、普段はドラマなんてあんまり見ない私も、毎週楽しみにストーリーを追って、来週はどうなるんだろう、二人いるヒロインのどちらが最後に仕合せをつかむのだろうかと、口々に続きを予想し合ったり、感想を交換し合ったりしたものでした。

思い返してみると、なんだか懐かしいですね。ドラマは2000年放映で、あの頃は今とは全然違う環境で、今とは違う楽しみがあった。振り返っても仕方がないけど、たまには来し方を思うのもいいもんじゃないですか。

二人のヒロインは互いに友人同士で、同じ男性を好きになるんだけど、いがみ合ったり取り合ったりといったいやらしさがなかったのがよかったのですよ。私にとってのメインヒロインは深津絵里演ずる金子祥子、ラジオの人気パーソナリティだけど、なんだか容姿にコンプレックスがあるかなんかで、その正体を隠しているという設定がGoodでした。

この、コンプレックスというか男性に対する自信のなさというかがいいじゃないですか。一昔前の少女漫画のヒロインってのは大抵みんなこんな感じでしてね、美人で女らしいお姉ちゃんとか友達とかに比べてなんで自分はこうなんだろう、わたしもお姉ちゃん(もしくは友人)みたいだったらもっと自信が持てたのにみたいに思ってましてね、けど普段の行動はそんなそぶりをみじんも見せず、明るく元気で、憎まれ口聞いたりしましてね、金子祥子もまさにそんな感じ! 素晴らしかった、実に素晴らしくキュートでした。

けれど、途中で私は気付いてしまったんですが、キャストのクレジット順が深津絵里トップじゃなくって、その前に稲森いずみがいたんですね。いや、私稲森いずみも結構好きなんですよ。深津絵里を十好きだとしたら六から七くらい好きかな? 稲森いずみ演ずる原田早知は美人でかわいくってという役柄で、けれどこちらにも男性に対する負い目がありまして、— シングルマザーなんですね。

こんな風に、それぞれ男性に積極的になれない二人が、屈折してみたり、譲り合ってみたりしながら、それぞれの恋愛に揺れるというドラマだったのでした。

金子祥子は、ラジオパーソナリティ — 唯川幸として表立つことを嫌がって、原田早知を影武者に立てた。これがこのドラマの面白さでした。声の唯川幸と容姿の唯川幸がいたわけでして、唯川幸に恋した男が、唯川幸が二人いることに気付かず振り回されるというのがよかったんですね。

けどさ、原田早知が唯川幸と思っているこの男がですよ、だんだん知り合っていくうちに金子祥子こそ本当の唯川幸なんじゃないかと気付いていくわけなんですけど、こういう展開を見せられたら、やっぱり最後に仕合せをつかむのは真実の唯川幸 — 金子祥子だろうと思うじゃないですか。いや、実際私はそう思い込んでいたのです。一歩引いて陰に隠れていた人が真実の思い人であるとわかって、恋は怒濤の急展開、成就しないと思われた愛がかたちを成して、最高のカタルシスをともにドラマは幕をおろすのです!

少女漫画だったらそうですよね、けれど、このドラマは私の予想(いや期待といっていい)をあっさりと裏切ってしまったんですね。クレジット順から稲森いずみが正ヒロインとわかって以来、おぼろげに覚悟はしていたとはいうものの、私、正直なところ、ショックでしたよ。

ドラマは徹頭徹尾コメディタッチで、だからこそ揺れ動く二人の恋心が切なく感じられたのだと思います。それでもって私大好きだったんですが、けれど私の好きなのは常にマイナーといいますか、大ヒットという感じにはなりませんでした。大ヒットしていたら、今もDVDで見ることができたのかも知れませんが、しかし現実はビデオしか出てない上に絶版、さらにいえばビデオは異常に高いという三重苦です。

再放送して欲しいんですが、期待できないもんでしょうか。私は、いつまでも待っているんですけどね。

2005年1月13日木曜日

隣り合わせの灰と青春

   『ファミコン必勝本』という雑誌が昔ありまして、私講読していました。ちょっと変わり者っていうのがわかってしまいますね。っていうのは、当時のメジャーどころはファミマガ、まる勝といったところで、ひっぽんはマイナーというか、コアな人が読んでる雑誌だったんです。その割に、私もひっぽん読んでましたという人によくあうんですが、その誰もが風変わりっていうのはどうでしょう。いや、人のことはいえない、いえない。

ひっぽんがことのほか力を入れていたのが、かの伝説的RPG — Wizardryでした。Wizをモチーフにした小説や漫画が連載されてましてね、それが結構硬派だったのですよ。特に小説の質は高く、まさか掲載がファミコン誌だとは思えないほどの出来。日本のWizファンで、ひっぽん連載のWiz小説を知らないという人はいないんじゃないかというくらい支持されていました。ええ、私も支持した一人でしたとも。

ひっぽんからはWiz関連の名著がいくつか生まれているのですが、その質を支えたのは間違いなくベニー松山氏であったでしょう。Wizardryというゲームに対する深い考察は、攻略本でさえ読み物にしてしまい、豊かな想像力は、Wizの世界にかつてなかったほどにきめ細かなディテールを与えました。そしてひたすらなる愛は、パラメータにすぎないはずのキャラクターたちに、人としての血肉を感じさせる暖かみを、心を持たせるにいたったんですね。

あの時のひっぽんに触れることのできたWizファンは仕合せであったと思います。今や知る人ぞ知るゲーム、マニアやファンがかたくなに支持しし続けているばかりのクラシックなゲームになってしまったWizですが、あのひっぽんが熱かった時代には、幅広い層から熱狂をもって迎えられたのでした。プレイしたのは小中学生はもとより、大学生や社会人といった大人にいたるまで、誇張なくWizを支える厚い層があったのです。

ベニー松山のWiz小説は、シナリオ#1『狂王の試練場』を舞台とする『隣り合わせの灰と青春』、シナリオ#3『リルガミンの遺産』に取材する『風よ。龍に届いているか』、そしてアンソロジーに収録される「不死王」。今入手できるのは、『風よ。龍に届いているか』だけなのでしょうか。集英社から文庫でリリースされた『灰と青春』でしたが、あまり目立たないまま消えていったようで、この物語を正統派のWizとして愛する私としては、少し寂しいのです。

『灰と青春』は、無謀とも思われる冒険に命を懸けて挑む若者たちを描いて、まさに青春の群像がまぶしい物語でした。仲間との別れ、悩みつつ選択された道、交錯する思い、ぶつかり合い火花を散らす信念。青年達の魂はワードナの地下迷宮に、まぎれもなく生きていたのです。そして、ワードナという大魔術師は、なぜあのような奇妙な地下迷宮を造ったのか。このWiz最大の謎といってよい問いに、ベニー松山は真っ正面から取り組んで、ひとつの素晴らしい回答を導き出したのです。

連載当時、私は中学生でした。毎号が楽しみで、単行本ももちろん買って、発売日前に注文しておいたのに第2刷というのはちょっと複雑な気持ちで、その頃私の胸に兆した思いはすべて、大切に思い出の中にしまわれています。

そうした思い出の数々は本を開くたびに、当時の胸の昂ぶりとともによみがえってきて、私はやっぱりWizardryというゲームを愛していた。いえ、Wizを取り巻く人たちや、そのコミュニティの醸す空気があったからこそ、Wizardryはよりいっそう面白く熱中できるものに育ったのだと思います。私がWizから数えきれないほどの宝を見つけ出せたのは、こうした成熟した世界があったからだと思います。

線画と文字で表現されるWizardryの世界をのぞくと、私には万華鏡のような輝きが見えるのです。本当ですよ。

2005年1月12日水曜日

Appleの新製品

巷では、サンフランシスコでのMacworld Expoにおいて発表された新製品の話題でもちきりのようですね。低廉な価格のデスクトップコンピュータMac mini、小型軽量のシリコン型ミュージックプレーヤーiPod shuffle、アップルによる久々のワープロソフトを含んだiWork’05。事前に噂として漏れ聞こえていたものばかりでありますが、実際こうして発表されてみるとやっぱりちょっと興味をそそられますね。

けれど、私にとって一番嬉しかったのは、iLife’05の発表でした。

iLife’05のなにが魅力的であるかというと、まさにGarageBand 2の存在ですよ。バージョン1ではオーディオの同時入力数が1トラックしかなかったのに対し、2では一挙に8トラック(!)に増えました。これはちょっとすごい。バージョンアップで複数トラックに対応する日が来るとは思っていましたが、まさかここまで期待を上回ってくるとは思いもよりませんでした!

こりゃ、こりゃあ、買いだよなあ。GarageBandが出たときにもそんな気がしましたが、2の衝撃はそれを上回りましたね。いや、すごいですよ、これは。

六番目の小夜子

   昔は民放でもジュブナイル・ドラマをやってたんですけど、最近では子供がドラマを見なくなったのか、あるいは大人向けのドラマを見るようになったのか、とんと見かけなくなってしまいました。結構好きだったんですよ。『ハウスこども傑作劇場』というのがあって、主題歌の断片だけ覚えています。「飛ぶんだ跳ねるんだボールになってさ」ってやつで、人のうちにいってもみるくらい好きなシリーズでした。

この後に、私が夢中になってみたのは、NHKでやってる海外ドラマシリーズで、私がここにはまった要素として、ジュブナイルをみることができると思うんです。『素晴らしき日々』なんか、まんまジュブナイルといっていいドラマかと思います。

さて、そんな私がこのところ楽しみにしてるのが『六番目の小夜子』。結構前のドラマなんですが、今再放送してるんですね。結末のわかってる話なのに、それでも毎週の放送が楽しみで、もうまったく魅惑されてるのであります。

『六番目の小夜子』のなにがいいといっても、そのミステリアスさですよ。学校に残る伝説にまつわる事件の数々! 予定からはずれはじめているサヨコ伝説に、振り回されながらもまっすぐ立ち向かう中学生が凛々しくっていいですよ。凛々しいってのは、少年少女関係なく、もうなんというか、それぞれ持ち味を違えながら、それぞれが格好いいんですね。

その凛々しい中学生たちが、二転三転するサヨコ伝説の謎にせまっていくんです。そりゃ、面白くないわけがない。はまります、いや、ほんとはまりましたよ。

NHKだからなのかどうなのか、出演者がみんなうまいんですよね。中学生たちがメインのドラマですが、誰も役に負けていないと思う。それこそ、名前のついている主要な登場人物にいたっては、本当にそんな子がいそうな感じさえしますからね。それくらい自然に演じているのですよ。

二人のヒロインの個性が際立って対照的で、特に明るくてさっぱりした潮田玲(鈴木杏、撮影時はまだ小学生だったらしい、……恐ろしい子!)のキャラクターは、ともすれば重くなりかねない展開に華やかさをそえ、牽引する力になっていました。そして津村沙世子(栗山千明)ですよ。あのミステリアスな雰囲気! いやあ、目を見開いて話すのはちょっと恐ろしげだったりしますが、この硬軟対照をなすヒロインが、ばっちり世界を決定づけています。

ところで、花宮雅子を演じている松本まりかという女優さんが非常によい感じですね。思春期のとんがった感じを出しながら、中性的な雰囲気の中に女性らしいいやな感じも隠していて、しかも一番かわいい。実にいい感じですよ。あといい感じといえば、関根秋役の山田孝之くん。もうなんというか、いいですよ、いいですね、いいですわ! もう凛々しくってね、凛々しくってね、最高です。でも、もう五年経っちゃったから、育っちゃったんだろうなあ。時間というのは残酷だなあ……。

アコーディオン奏者Cabaによる音楽も素晴らしい、まさにこの数年におけるドラマ界最大のヒットといってもいい『六番目の小夜子』。話よし、役者よし、演出よし、音楽よし。もう私にとっては、けちのつけどころがない名作ですから!

2005年1月11日火曜日

海賊版というビジネス

ハウルの動く城』の海賊版DVDにスタジオジブリが法的措置を検討しているかと思えば、実際に海賊版を販売していた露天商が逮捕されたりもしています。

この逮捕は2005年1月1日より施行された改正著作権法に基づいてのもので、この露天商には5年以下の懲役又は500万円以下の罰金という量刑が科せられることとなるでしょう。

けど、本当に怖いのは民事訴訟(損害賠償請求)だと思うんです。コンピュータソフトの海賊版の一事例が参考になると思いますが、これを読んだら本当に一生を棒に振るんだなと思えます。

対局麻雀ネットでロン!

 私はいうまでもなく駄目で駄目で駄目な人なのですが、それはもうこのゲームに関するエピソードをちょいと聞けば、その駄目さ加減もわかろうというものです。

『対局麻雀ネットでロン!』、PlayStation 2初のネット対局対応麻雀ゲームなのですが、私がこいつを買うと決めたのは、ひとえにキャラクターのためであります。小池定路さんの絵が大好きなんですよ。もう、好きで好きで好きで好きで、どうしようもないくらい好きです。好きな絵描きさんはって聞かれたら、誰をおいても小池定路だと答えましょう。それっくらい好きです。

で、秀逸なるキャラクターデザインにめろめろになって、急いでソフトを予約。ネット接続環境をISDNからADSLに変更し、それどころかPS2用HDDユニットまで買っちゃった。もう、ばっかでー、という話ですが、ここまですれば逆に後悔はないものなんですよ。

さらにいえば、オークションでのどうこうだとかいろいろあるんですが、まあその辺は割愛。なぜかうちにポスターが数本あるというのも割愛。まあ、なんといいますか、愛です。ひとえに純粋な愛なのですわ。

まあ、散々馬鹿なこといったところでちょっとまともなことをいうならば、このゲーム、やっぱり対戦が面白かったです。サーバに接続して人を相手に打つと、コンピュータを相手にしていたらわからないような剣呑さみたいのがあって、すごく面白かったんですね。残念ながら、『ネットでロン!』発売後ちょっとしたらネットワークRPGの大作が出て、そちらに人が移動したのか、だんだん参加者が減って、いつしか私もいかなくなって、今から考えるともっと遊んどけばよかったと思います。だって、全然遊びきれてないんですもん。もったいないことしてると思います。

このゲームはオフラインでも遊ぶことができまして、オフラインでは対局者の手牌が全部見えるという、前代未聞の透視対局ができるんですね。もちろん普通に打つんじゃありませんよ。上家にあがらせろとか、ツモあがりせよとか、対面に振り込めとか、そういう課題が決められているんです。

もちろん山牌も全部わかるので、課題達成に向けてゲームを掌握し、最高の展開を構成したらクリアです。けれど、勝ちようにも巧拙が出るようにちゃんと問題が作られているから、結構考える必要があって、だもんだから達成率100%でクリアしたときには嬉しいですよ。ええ、あれは麻雀の流れを理解するということにも有用で、しかも面白かった。さらには、魅力的なキャラクターが織りなす人間ドラマもあって、これもよかった。すごくよかった。私は涙腺のパッキンが壊れてるから、もうだーだー涙流してしまったもんなあ。それくらいよいお話だったのです。

最近は時間がなくてゲームもできないっていってますけど、麻雀半荘くらいならそれほどの時間もかからないから、また遊んでみようかなあ。けど、きっとメンツ集まらないから、CPUと対戦することになるから、それはちょっとつまらないなあ。

2003年9月時点では、『ネットでロン!』サーバはまだ稼働してたんですよね。もしまだ稼働してるようなら、ちょっと遊んでみようかなと思います。もし一人寂しくCPU相手にしてる人をみたら、誘ってやってください。きっと喜ぶと思います。

2005年1月10日月曜日

ぼくのバラ色の人生

 自分の望む自分になれないというテーマは、実に多様な広がりを持っています。例えば、昨日の『陽の末裔』では社会制度の問題として、『アンナ』では恋愛におけるすれ違いの問題として。他にも調べてみればいっぱいあるんでしょうね。なにしろ、自分の望む自分になれることのほうが珍しい。けれど、自分らしくありたいという思いは、誰もの胸の奥にきっとあるのですから、そりゃ様々な手法、表現においてこのテーマが取り上げられるのも当然です。

さて、『ぼくのバラ色の人生』も自分らしさを押しつぶされる悲しさが描かれた映画でして、これを分類すると社会制度の問題になるんでしょうか。でも、多分、単純に制度に押し込むことのできない、深い闇みたいなものが奥底には隠れている。見た目の華やかさ、きれいさの裏には、深刻なテーマがあるなと思わせる映画です。

主人公の男の子リュドヴィックのなりたい自分というのが問題だったんですが、それがなにかといいますと、女の子になりたいというんですね。少女向けのテレビ番組を見てそのヒロインに憧れてみたり、クラスの男の子のお嫁さんになりたいといってみたり、女の子の格好をしてみたりするんですね。

けれど、このささやかなリュドの希望を、周囲が寄ってたかって叩くんですよね。子供同士でのことだけならまだしも、大人も一緒になってさ、もうリュドが可哀相でならないんですよ。私、個人主義の発展したヨーロッパには世間のようなものはないって聞いていたんですけどね、この映画を見て、そんなの嘘だと思った。世間がないといいつつ、実際にはあるんじゃないかと、ヨーロッパの世間に対する疑問が一切合切晴れたという思いがしました。

女の子らしい男の子であるというリュドの個性は、既成の男らしさを押し付けられて、今にもリュドごと潰されてしまいそうで、見てられない思いですよ。特に、リュドに共感的にあれる人にとってはそうなんじゃないでしょうか。男なら男らしくあらねばならないって、いったいどこの誰が決めたんじゃー、と文句のひとつもいいたくなります。そうなんですよ。自分の身の丈に合わない女らしさに息苦しさを感じる女があれば、逆にお仕着せの男らしさに苦しむ男もいるというのは当たり前のことなのです。

ま、結局はその本人らしさというのが大切だといいたいのですが、けれどこの本人らしさというのが難しいですね。自分らしさ世間の求めに大きく逸脱しないならまだしも、かけ離れていたならもう大変。自分らしさを認めさせるにはかなりのエネルギーが必要になって、だから表向きは普通を装って、自分らしさは隠れて求めているという人もたくさんいます。

けどさ、そんな風にしか生きられないとしたら、やっぱり不幸だと思うんですね。しかし、なんであの世間って奴は、自分たちの規範からはずれたものを、ああまでつまはじきにしたがるんでしょう。黙殺してくれるならともかく、なんで憎しみにも似た感情をあらわにして、潰そう潰そうというんでしょう。

日頃から、こんなことを思ってる私にとって、この映画はちょっとした希望ですね。いや、ベストではないんです。ベストではないんですが、あのベターのラストが、ある意味実際を物語っていて、だから私にはあのラストは大変よかった。例え、色褪せて描かれたような場所であっても、心が押しつぶされるよりもずっといい。見た目ばかりきれいなところよりも、ずっと暖かいと思われたのでした。

サントラ

2005年1月9日日曜日

陽の末裔

 昨日一緒に食事をした人が中学時分のことを思い出して、ちょうどその頃はバブル好景気華やかなりし頃、女性の社会進出などが盛んにいわれた時代でありました。で、その人は家庭科のレポートでそうしたことを書いてみたところ、教師から、家庭に入るという仕合せもありますよといわれたのだそうです。目からうろこの落ちる思いがしたとの話でした。

私はいつも思うんですが、家庭に入るという仕合せももちろんあって当然で、けれどそれがこれまで不当にも、女性の仕合せとされてきた — なんでそれが男の求める仕合せであってはいけないのでしょうか。本当の理想は、男だ女だということにかかわりなく、その個々人が望む仕合せのあり方を実現できるということだと思うのです。

『陽の末裔』は、大正から昭和、敗戦にいたるまでの激動の日本を舞台とした、女性とその解放をテーマとした漫画で、ちょっと内容としては固いかも知れません。ヒロインは二人。ともに東北から紡績の工場へ、— 東京に出て、方や華族の華やかな世界、方や記者として女性解放運動に身を投じます。このまったく違った人生を通して、その双方が女性の女性として胸を張って生きる方法を模索し、あがき、一歩一歩進むという、その姿が感動的なんですね。

私は男性ですが、どちらかといえば女性の権利確立であるとか、そういう方面に興味があって、だから彼女らの足取りがあたかも希望であるかのように思えたのでした。考えてみてくださいましよ。世の中はだいたい男と女で二分されますが、そのどちらかになんらかの生きにくさが発生しているのだとしたら、きっともう片っ方にもいびつは生じているはずなんです。慣習やらなんとからしさやらが、本当ならあって当然のはずの可能性を狭めるんです。実際私は、自分が男であるということで、結果的に狭められた可能性があると思っています。同じように、自分が女だからやりたいことができなかったという人もあるはず。つまり私がいいたいのは、個々人の希望やその人らしさより優先して、外側からぎゅうぎゅう締めつけるみたいな枠組みとはいったいなんであるかということなんです。昔からそうだったというだけが価値の慣習の産物に、自分らしさや目指したいことが潰されるんじゃたまったもんじゃありませんよ。

女性解放運動やウーマンリブ、社会進出云々をいう人たちをうさんくさく思う人もあるかと思います。実際私も、そうした人たちの中に、女性は社会進出をはたすことで仕合せになれるという、新たな枠組みでぎゅうぎゅうになってしまった、不自由になってしまった人たちもあると思っています。

その点、この漫画はよかった。この漫画は、社会進出やなにかをテーマにしながら、それだけではない膨らみを持っています。それは華族の世界における咲久子の戦いに見ることができるでしょう。奔放に、ときには利己的に生きる彼女は、はたしていかなる結果をつかんだのか。そして、咲久子の生き方を友人の卯乃はどのように受け止めたのか。

私は、あのラストに、まったく違った世界へ身を投じ、まったく違うやり方で戦ってきた二人が、本当はともに戦ってきた同志であったことを知ったのです。人には人それぞれの生き方があり、人それぞれの仕合せのあり方がある。私は深く胸を打たれ、本当にそのようになればよいと心から願ったのでした。

市川ジュンは目立ちはしませんが、佳作良作の森です。なかでも『陽の末裔』は、燦然と輝く、一個の太陽のようであります。

  • 市川ジュン『陽の末裔』第1巻 (文庫版コミックス) 東京:集英社,1996年。
  • 市川ジュン『陽の末裔』第2巻 (文庫版コミックス) 東京:集英社,1996年。
  • 市川ジュン『陽の末裔』第3巻 (文庫版コミックス) 東京:集英社,1996年。
  • 市川ジュン『陽の末裔』第4巻 (文庫版コミックス) 東京:集英社,1996年。
  • 市川ジュン『陽の末裔』第5巻 (文庫版コミックス) 東京:集英社,1996年。
  • 市川ジュン『陽の末裔』第1巻 (YOUコミックスデラックス) 東京:集英社,1987年。
  • 市川ジュン『陽の末裔』第2巻 (YOUコミックスデラックス) 東京:集英社,1987年。
  • 市川ジュン『陽の末裔』第3巻 (YOUコミックスデラックス) 東京:集英社,1987年。
  • 市川ジュン『陽の末裔』第4巻 (YOUコミックスデラックス) 東京:集英社,1987年。
  • 市川ジュン『陽の末裔』第5巻 (YOUコミックスデラックス) 東京:集英社,1988年。
  • 市川ジュン『陽の末裔』第6巻 (YOUコミックスデラックス) 東京:集英社,1988年。
  • 市川ジュン『陽の末裔』第7巻 (YOUコミックスデラックス) 東京:集英社,1989年。
  • 市川ジュン『陽の末裔』第1巻 (アニメージュコミックスオリジナル) 東京:徳間書店,愛蔵版,1994年。
  • 市川ジュン『陽の末裔』第2巻 (アニメージュコミックスオリジナル) 東京:徳間書店,愛蔵版,1994年。

2005年1月8日土曜日

翻訳仏文法

  日本語一本で育ってきた私には、やっぱりフランス語というのは難しくて、なにしろ耳に入った言葉がすらすらすらと飲み込めるわけでなく、ましてや今やってるみたいに、次から次へとフランス文が湧いてきてなんてことはまずありえないわけです。辞書首っ引きで、一生懸命訳すんですね。そしたら絶対出てくるんですよ、いったいここはなにをいおうとしてるんだろうかって箇所が。直訳してもわからない、意訳しようにも意味がわからんからどうしようもない。うんうん唸っているうちに、ああこういうことかというのがわかってくることもありますが、じゃあそれで解決というわけじゃないんですね。今度は、どうしても日本語にはならない文章っていうのがあるんです。

こういう苦しみを味わったことのある人には、この本はきっと大きな助けになることだろうと思います。

そもそも私からして、この本がためになると思いますよって、友人から紹介されたのでした。でも上下二分冊で文庫としては高いですね、最初躊躇したんですが、買って読んでみたら、いやいやいや、むしろ安いくらいだと思いなおしました。この本の主目的は、フランス語をうまく日本語に翻訳する方法を考えるというものですが、けれどそれは日本語とは違うフランス語の発想に意識的になろうということでもありますから、仏作文にも役立つんです。

私、フランス人の先生とベルギー人の中学生と文通しております、メールで。また、ボランティアで仏文を和訳したりもしています。その折りにやりとりされる仏文、日本語翻訳文の質は、この本を手に取った頃を境に、くっきりと違いが出ているはずです。だって、私にだって違いがわかるくらいなんだもの。でも、おそらくその差を一番よくわかってくれてるのは、二人の文通相手だと思います。

さて、この本ですが、はっきりいって初級者向けではありません。フランス語の基礎的な部分、文法だとかいろいろな約束事だとかをクリアした人が読んで役立つものだと思います。というのも、たくさんの仏文例が提示されて、それに模範訳例がついて、そういう翻訳になる理由、背景が説明されるわけですから、その文例を自分でも読める、訳せる力がないと、そういうものなのねと、ただ通過していっておしまいということにもなりかねません。

だから、児童文学くらいなら辞書首っ引きで読めるよ、と、これくらいの人が読むのが一番いいんじゃないかと思うんですね。というか、私が今ちょうどそれくらいの段階にあるのでそういうんですが、少なくとも私は、更なるステップアップを図るためのよい試練だと思い取り組むことができたわけですよ。

私は本を主に電車で読むので、辞書を手にして訳しながら読むというのをしませんでした。まずは仏文だけを読んで、日本語になるよう努力してみて、その後訳例を見る。そのふたつを対照させながら、また仏文を読むの繰り返しだったので、いやあ、目茶苦茶時間かかりますね。三十分かけて一二節進めばいいほうですよ。場合によれば、おんなじ節ばっかりずっとにらんでる、おんなじ例文に引っかかったままちっとも動かないなんてことにもなります。

けれども、本当はじっくり腰を据えて、辞書を手にきちんと自分でも翻訳しながら、読み進めるべき本であると思います。なので、一度目は上澄みをさらうみたいにして読み終えましたが、二度目以降は、きっちりと覚悟を決めて取り組もうかと、そんな風に思っています。二度三度繰り返し読んで、訳して、フランス語と翻訳に対する経験値をあげる、そういう訓練のための本であると思います。

  • 鷲見洋一『翻訳仏文法』上 (ちくま学芸文庫) 東京:筑摩書店,2003年。
  • 鷲見洋一『翻訳仏文法』下 (ちくま学芸文庫) 東京:筑摩書店,2003年。
  • 鷲見洋一『翻訳仏文法』上 東京:筑摩書店,1985年。
  • 鷲見洋一『翻訳仏文法』下 東京:筑摩書店,1987年。

2005年1月7日金曜日

スライディング・ドア

 人の一生に起こることって、偶然か必然かどっちと思うと聞かれたら、私は絶対に偶然だと言い切ります。だってさ、すべての物事が事前に決められてるみたいな、運命論とでもいったらいいんでしょうかね、そんなの辟易じゃないですか。今日、この日に起こったことは、すべて偶然に起こったことなんです。あなたと会えたのはきっと必然ね、運命を感じるわ、だなんて私はちっとも思いません。

けれどさ、そんなすれっからしの私でも、この映画を見ると、ああ運命だとか必然だとか、引き合う心と心だとか、そういうのを信じてもいいかなあと思ってしまうのですね。

『スライディング・ドア』のテーマは、ちょっとした偶然が人生を左右してしまうということなんじゃないかと思うんですが、ってなんだ、さっきいってたことと全然違うじゃんか。けれど、だって、映画のテーマはそうとしか思えないんだから仕方がないじゃない。地下鉄に乗れたか乗れなかったかというそんな些細な違いが、主人公ヘレンのそれからの人生を大きく揺さぶってしまうんですよ。まあ、偶然って怖いわ、って思ってしまうのは私だけじゃないと思います。

この映画は面白い構造を持っていまして、先ほどいいました冒頭のシーンをきっかけとして、物語がふたつに分岐していくんです。電車に間に合ったヘレンと間に合わなかったヘレン、— 二人のヘレンの物語が、並列して進行していくんですね。

これって、昔ポートピアだったかなあ、科学博覧会に行ったときに見た映画を思い出させます。ポートピアの映画はまったくの喜劇でしたが、各座席に投票ボタンが付いていましてね、時々の分岐点で、観客に投票をさせるんです。AとBの展開どっちがいいですかって。物語は得票数の多かった方へ方へと展開していきます。『スライディング・ドア』はさながらこの分岐を冒頭に持ってきて、ただポートピアの映画と違うのは、そのふたつに別れた展開を両方とも見せてくれるというところでしょう。

ふたつの人生はものの見事に対照的な展開を見せて、いやあ、これは面白いです。あの駅での、階段を駆け降りるときのあの瞬間が人生の転換点だったわけで、実に見事。人生とはこうした偶然の積み重ねであるかと思わせますね。映画の時々に現れる『スライディング・ドア』のメタファも効果的で、それぞれがヘレンの人生の転換点になっているんです。おそらくもちろん最大の転機は地下鉄のドアが閉じたあの時に訪れたのでしょうけど、引き戸が開かれるとき、あるいは閉じられるときに、ヘレンの人生は動揺するのです。これは面白い仕掛けと思いました。

好事魔多しと申します。この映画を見るとき、私はいつもこんな言葉を思い出すんですね。うまくいっていると思ったときにつまづく、これからなのにというところでポシャる。人生にはそうしたアンラッキーな瞬間というのは間々あるなと、運がいいとか悪いとか、人は時々口にするけど、そうゆうことって確かにあると、ヘレンをみててそう思うのです。

なんでそんな感想をもちながら、運命とか必然とかを感じたりするのさという疑問もあるかと思います。うん、そうなんです。どう考えても偶然のいたずらとしか思えない人の一生ですが、ですがこの映画を見終える頃には、本当にそれを偶然と言い切っちゃってよかったのかなと思う。ええ、確かに思うんです。Nobody expectsなラストを見て、私は確かにそう思うんです。

2005年1月6日木曜日

ピーター・パンとウェンディ

  以前トリビアの泉で、ピーター・パンは大人になった子供たちを殺している云々というのが取り上げられたのですが、こんなの児童文学読みにとっては常識じゃないかと私はしばし憤慨しまして、同じように思った人というのはきっと多かったんじゃないかと思います。だって、『ピーター・パンとウェンディ』をちょっと読めばわかりますが、この話はそもそも血なまぐさい話で、ピーターの率いる子供たちは残虐さを隠さず、敵対する海賊とは命のやりとりをしているのでありますから。それにそもそも、フック船長の右手が鉤になっているのはなぜなのでしょう。こうしたことは、ピーター・パンの物語に触れ、魅入られた人であるなら当然のごとく知っていること、— 常識なのです。

子供向けの物語から残虐と思われる記述を薄めようという動きは近代になって顕著でありますが、そもそも『ピーターとウェンディ』の物語は子供向けではなかったということを忘れてはなりません。ピーター・パンははじめ、大人向けのクリスマス劇の主人公として生み出され、だんだんとその物語世界を広げながら、『ピーターとウェンディ』という本になったのです。

だとしても、子供に殺し合いに参加させるとはどうしたことか、— いや私は常に思うのですが、それが子供にせよ大人にせよ、死であるとか残虐な本性であるとかを、まるでないものであるかのように隠蔽することこそいかがなものでしょうか。そもそも私たちはうちに残虐性を抱いて地上に降りて、けれど育っていく課程で、その残虐性の疼きをあらわにしてはいけないということを知っていくのです。それをあたかも目を背けるようにするから、人は自らが残虐であることに気付かないで、しまいには不完全な善人になってしまうのです。善意のもとに行われる残虐、直視されなかったために暴発する残虐性、いちいち実例を挙げるまでもなく、私たちの身の回りに、ありふれてころがっているようで、さすがにちょっと気がめいりますね。

『ピーターとウェンディ』のクライマックスはフック船長との決闘で、あるいは悲しいピーターとの別れでしょう。名場面はと聞けば、きっと返ってくるのは、毒によって死のうとしているティンカー・ベルを助けようと、ピーターがすべての子供たちに呼びかけるあのシーンではないでしょうか。

けれどおそらくは、もちろんこうした場面も素晴らしいのでありますが、この本を手に取って心の昂ぶりをともに読み進めたひとりひとりの胸に、この場面は素晴らしいぞ! と思える場面があるのだと思うのです。

私は、誤ってウェンディを射落としてしまったトートルスが、矢を振り上げるピーターに向かって怖れることなくいった、突いて、ピーター。あやまたずにこの胸を!という言葉を忘れることができませんでした。その、物おじしないまっすぐな態度にうたれたのです。そして、人魚の礁湖にひとり残されたピーターの胸に去来した言葉:死ぬことは、きっとすごい冒険だぞ。

ピーターの物語を読み進めれば、きっとあなたの胸にも残る言葉、場面があるはずです。あるいはあったはずです。どうぞ思い出してみてください。

  • バリ,ジェームス・マシュー『ピーター・パンとウェンディ』石井桃子訳,フランシス・ダンキン・ベッドフォード画 (福音館古典童話シリーズ) 東京:福音館書店,1972年。
  • バリ,ジェームス・マシュー『ピーター・パンとウェンディ』石井桃子訳,フランシス・ダンキン・ベッドフォード画 (福音館文庫) 東京:福音館書店,2003年。
  • バリ,ジェームス・マシュー『ピーター・パンとウェンディ』芹生一訳 (偕成社文庫) 東京:偕成社,1989年。

引用

  • バリ,ジェームス・マシュー『ピーター・パンとウェンディ』石井桃子訳,フランシス・ダンキン・ベッドフォード画 (東京:福音館書店,1972年),115頁。
  • 同前,170頁。

2005年1月5日水曜日

怪奇植物トリフィドの侵略

 子供の頃、市の図書館にいって、児童書のコーナーをさまよいましてね、好きだったのが海外SFを翻訳した子供向け全集でした。タイムマシンとか地底都市とか水棲人間とか、とにかくいろんなのがあって、古典的SFのエッセンスが全部つまってたんじゃないかなと思うんですね。端から順々に読んでいったはずなんですが、なにしろ図書館ですからね、貸し出されていたりするのもあって、読めてないのもあるはずです。

調べてみたんです。そうしたらあかね書房が出していた少年少女世界SF文学全集なのだそうで、そうでした、地底世界の名前はペルシダーでしたよ。懐かしいけど絶版しているので、今読もうとしたら図書館に頼らざるを得ず、私が図書館に期待するのは、こういう良書を蔵書し続けてくれることなんですね。

頭の片隅に、断片がいっぱい残っているのですよ。タイムマシンはヘリコプターを改造したものだとか、水棲人間のえらは脇の下に作られていたとか、けれど一番はっきりと覚えていたのはトリフィドという人間を襲う有毒植物でした。この話は、人間が家畜として栽培していたトリフィドが反乱するという要素に、さらに流星による失明という二重のSF的要素が加わって、追いつめられた人類の命運やいかに! はらはらしながら読みましたよ。

私がこの話を特に好んだのは、多分ラストに希望があったからだと思うんですね。ひどい目にあっている人間が、けれど最後にはよりよい未来をつかめるかも知れないみたいな希望を見て、そういうところが子供心にもよかったのかと思います。

この物語の一番恐ろしいところは、結局トリフィドでも流星でもなくて、災害発生後の荒廃した地上でむき出しにされる人間のエゴだったのではないかと思います。主人公もその一人なんですが、偶然流星の災厄を逃れた人や、あるいは流星雨以前からの盲人は、そのことだけで圧倒的な優位をもって他のものを支配下において—、と、そういうところが怖かった。だからこそ、ラストの次世代に希望を見いだしたいという姿勢が光ったんだと思うんです。

トリフィドの本は、子供向けではなくて、大人向けのものだったというのをはじめて知りました。完訳版は東京創元社からでていて、今も買えるようです。ちょっと買って読んでみようかなと思います。子供の頃のわくわくした気持ちを取り戻せるかも知れません。

2005年1月4日火曜日

ただいま勤務中

 今日から仕事始めで、私も世間の例に漏れず働いてきました。年末年始の一週間、寝て暮らしていたわけじゃないんですが、それでもやっぱり外に出ると疲れますね。

さて、私は複数の職場を一年契約で転々としてきた、実に腰の軽い労働者なのですが、けれど自分にはこうした暮らし方の方が性に合ってるんだとついこないだ気付いてしまいまして、自分でもびっくりでした。今の職場で、中途採用受けてみないかと誘われましてね、そしたら、いいようもないいやーな気持ちが広がったんですね。いってくれたのは組織のナンバー2だったので、よっぽどひどい成績でないかぎりは入れたんではないかと甘い思いを抱いているんですが、けど、断っちゃいました。満たしている要件を満たしてないからといって、断ってしまいました。その時去来したのは、まさにこの漫画のヒロイン春日陽子の言葉、あー、今となっては毎日同じ所に通うのはストレスかなだったんです。

(画像は辻灯子『ふたご最前線』第2巻)

『ただいま勤務中』は、警備士を勤めるフリーター娘三人組の日常を、コメディタッチで切り取る四コマ漫画でして、結構リアル、ああそんな感じかもー、と思わせてくれる、なかなかの良作です。ヒロイン三人は三人ともに個性がしっかり描かれていて、共感できる思いもあれば、身近にいてもおかしくなさそうな感じもあって、辻灯子はこういう現実感を演出するのが実にうまい。あまり大口空けて笑う漫画ではないけれど、すごく静かにおかしみが染みとおってきて、私はこの感覚大好きです。

最初にいった話ではないですが、やっぱりヒロイン達への親近感が嬉しいのだと思うんですね。特に、しっかりと勤めるということがあんまり好きじゃない、フリーター体質とかいったらいいんでしょうか、私は自由が好きなのっみたいな、そういう人には共感できる部分は大きいと思うんですよ。不安定はいやだけど、安定と引き換えにつながれるのはもっといや、みたいなそんな空気が、フリーターの三人娘にはどことなく漂っていて、私の友達ってそんなのが多いから、いやあんたもそうじゃんっていわれそうな気もしますが、ともあれ私の感覚にすごく近いと思える。だからすごく嬉しい。だからどうしようなく好きで、気持ちが寄り添うのです。

この人は勤め人の漫画も描いてまして、それが今度出る『べたーふれんず』なんですが、二人組のOLコメディ四コマで、やっぱりこの二人はどことなく自由な風を吹かせています。いやあ、いいですよ。軽やかでしなやかで、ちょっと豪放なところもあって、でも小市民的で、そうした多面性が面白いの。連載で読んでいたときにはさほど感じはしませんでしたが、本当は勤め人とかフリーターとか関係なく、自由かどうかはその本人の資質なんだろうなと思います。けど自分は真当な勤め人への誘いを断ってしまって(親には内緒です)、これは自分が性根では不自由な人間だってことをきっと気付いているからで、せめてあり方を自由っぽくとどめておきたかっんだと思うんですね。

なので、私みたいな肝っ玉の小さな奴は、着ぐるみに入って傍若無人を働けるくらいにまで精進せんといかんな、とそんな感じ。いや、しかし、あの伝説の着ぐるみコントを単行本で読めるとは、なんと仕合せなことかと思いますよ。

  • 辻灯子『ただいま勤務中』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2002年。
  • 辻灯子『ただいま勤務中』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • 辻灯子『ただいま勤務中』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2004年。

2005年1月3日月曜日

展覧会の絵

  鶏に関係するものをと思って、バル・ビロの絵本『ガムドロップ号』を探してみたら、ちっとも見つからなくてショック。昭和46年刊だから仕方ないのでしょう。好きだった身としては残念この上ない話ですが、仕方ないのでしょう。

なので、急遽違うものをと探して、思い出したのがムソルグスキー『展覧会の絵』。といっても、エマーソン、レイク&パーマーのプログレッシブロック版でいっちゃいましょう。いや、これ結構いいんですから、クラシックが嫌いという人も、プログレが好かんという人も、一度聴いてみてくださいな。

EL&Pの『展覧会の絵』は、聞きなれたムソルグスキーのオリジナルとは随分と変わっています。というのも編曲のせいだけじゃなくて、EL&Pオリジナルの楽曲が挿入されたりして、そういう意味ではやはりこれはEL&Pのオリジナルなんですよ。有名なラヴェル編の華やかさもなければ、もちろんムソルグスキーオリジナルの武骨な力強さもなく、あるのはEL&Pの狂乱に似た興奮とそして独自の美でしょう。いや、プログレというのは美しいんですよ。非常に豊かな歌心があって、その表現力も構成力も半端じゃありません。なにしろアルバム一枚すべてを、ひとつのテーマで染め上げてしまうのですから、その力たるや相当のものという他ありません。

さて、ちょっとここで種明かしというかをしてみますと、EL&Pの『展覧会の絵』というのは、音楽鑑賞の授業の題材として大人気なんですね。ムソルグスキーのオリジナル(オリジナルはピアノ独奏)と有名なラヴェル編、EL&Pのプログレを並べてみて、必要があれば、他にもいろいろあって、冨田勲のシンセサイザー版なんていうのもいいかも知れませんね。ともかく、この聴き比べをすることで編曲がどれだけ曲の印象を変えるかを知ることができるというわけです。私はこの題材を使ったことはありませんが、学生時分、教育実習に行く人に入れ知恵したりして、そうしたら実習先の先生は先刻承知で一枚上手だったり、まあそれくらいポピュラーな題材であるというわけです。

しかし、ここはそうしたこざかしい話はさておいて、どうぞプログレの持つ独特の美に触れていただきたいものです。クラシック第一主義者は、冒涜だというかも知れない。けれども、音楽というのは本来こうした雑多なエネルギーを取り込んで、その幹を肥やすものなんですね。

EL&Pの、猥雑といってもいいくらいのエネルギーは、すごいですよ、圧倒されますよ。正気とは思えないけど、けれどもそういうエネルギーの果てにこういう美しい音楽が出てくるんだから、美というのは本当にあやふやなつかみにくいものなんです。

あ、そうだ。どこが鶏かいっておかないと。

『展覧会の絵』には「バーバ・ヤーガの小屋」という楽章があるのですが、この魔女の小屋には鶏の足がついているのですよ。いや、それだけ。いや、なんかこじつけで申し訳ない。

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2005年1月2日日曜日

めんどり

  酉年にちなんだものを、ということで、本日はジャン=フィリップ・ラモーの「めんどり」でも。

ジャン=フィリップ・ラモーというのは、フランス・バロックを代表する作曲家でして、もうちょっと詳しくいえば、ロココとかギャラント様式というんだそうですね。貴族趣味に彩られた、軽妙な音楽といえばいいんでしょうか。多彩な装飾に彩られて、これぞ盛期バロックというにふさわしい華麗さが素敵です。

この頃の音楽の舞台は、教会、劇場そしてサロンでありまして、ラモーは主に劇場とサロンにて活躍したタイプの作曲家です。劇場ではオペラが主流をなし、サロンでは室内で奏でられるトリオソナタやクラブサン音楽といった器楽が中心でありました。こうした器楽分野では、とりわけクラブサンの曲で知られていまして、クラブサンというのはバロックにおいてオルガンに並ぶ重要な鍵盤楽器、英語ではハープシコード、イタリア語ではチェンバロというので、そちらで聞き覚えている方もいらっしゃるかと思います。

この頃のクラブサン音楽では、なんでか曲にタイトルが付けられているのが多くって、「めんどり」というのもまさにそうした曲なんですね。これは、なんでそういうタイトルが付けられてるか非常にわかりやすい、まさに鶏の形態をよく描写した曲なのですが、もちろん描写といっても曲の様式の中での話ですよ。メシアンの『鳥のカタログ』のようなのを期待すると、ちょっと肩透かしです(って普通は期待しないですね)。

ラモーに限らずなのですが、この頃の標題付き音楽を聴いて、その表題が付けられたわけがわからんのがあるのが面白いんですよ。例えば同じくラモーに「野蛮人」という曲があるのですが、とりあえず聴いてみても、どのへんが野蛮かわかりません。なんといっても、やっぱりソフィスティケートされたものですから、実に華麗で野蛮のヤの字もありません。当時の人ならわかったんでしょうか。

タイトルは音楽の本質ではないので、私は全然そんなのは気にしない、実に軽く見たものなのでどうも具合が悪いのですが、音楽を聴きはじめるのに標題があるとわかりやすいというのは事実でして、そういう点からしても、ラモーの「めんどり」がよく取り上げられる理由というのがわかります。聴きやすい曲でありますし、導入としては実によい。もしそれで気に入ったらば、ラモーの他の曲、あるいは同時代の作曲家もたくさんいい曲を残していますから、そういうのも試して見られるのが面白いと思いますよ。

クラブサン曲集全曲

いいといわれてる盤はたくさんあるんだけど、調べても調べても引っかからない。Amazonはクラシックの検索が馬鹿みたいに弱いから、大変です。

同じ聴くなら、ぜひ全曲盤をお選びなさるようおすすめします。

2005年1月1日土曜日

ニワトリ号一番のり

新年明けましておめでとうございます。今年は酉年だということですので、ちょっと鶏に関係するものをご紹介しましょう。

『ニワトリ号一番のり』は、詩人としても知られているジョン・メイスフィールドによって書かれた海洋冒険もので、十九世紀帆船の旅というのがどういうものであったか、実に活き活きと描写する名著であります。今は船旅もさほどではないのでしょうが、なにしろティークリッパーの時代です。スエズ運河を使えば紅海から地中海までまっすぐ突っ切れるところを、アフリカは喜望峰まわりで二度赤道を越える長旅を余儀なくされました。その船旅の途中、事故により船を放棄せざるを得なくなった船員達が、ボートでの漂流の後に得るものとは —。ああ、これ以上はもうしゃべらない。だって、読む楽しみがなくなってしまいますからね。

ティークリッパーというのはなにかといいますと、中国からはるばるイギリスまで茶葉を運ぶ帆船のことなんですね。有名どころでいえばカティサークなんかがまさにそれで、ティークリッパー中のティークリッパーといっていいと思います。今ではウィスキーの銘柄で有名ですが、本来はお茶に関するものだったのですね。

さてさて、なんでウィスキーにカティサークの名前がついたかという由来を見ますと、

英国における帆船は発見と冒険、そして帝国時代を象徴するもので、中でも1869年進水のカティサーク号は、お茶を中国から運ぶティー・クリッパー・レースで大活躍し、世界最速の船として快速ぶりを発揮していた。

なんてことが書かれています。ティー・クリッパー・レース! そう、『ニワトリ号一番のり』の舞台こそは、このティー・クリッパー・レースであるのです。その年一番の新茶をイギリスはロンドンにいち早くもたらした船こそが勝者であり、莫大な報償と名誉を得たと聞きます。屈強な、一癖も二癖もある海の男達が、苦難に立ち向かい、苦境を乗り越えて勝ち取るものとは果たして名誉であるのか、それとも苦い敗北であるのか。そればかりは実際に読んで確かめていただきたいものと思います。

『ニワトリ号一番のり』は、冒険、競争、ロマンがこれでもかとつまった、傑作中の傑作です。出版されたのは1967年と、私が生まれるよりも前のことですが、今も買うことができるのですね。

こればかりは、福音館書店に感謝しなければなりません。絶版にするのは簡単ですが、それではせっかくの名著が埋もれたままになってしまいます。本にとってそれほどの不幸があるでしょうか。それを福音館書店は、四十年近くも供給体制を維持して、これはよほどのことだと思うのです。本に対する愛、その内容に対する自信がなければ、よくよくできることではないと思います。あるいは、こうして遇される本の力であるのかも知れません。よい出版者、それを支える読書家たちという理想的な状態が揃ってはじめて可能なこと、奇跡のようなことといってよいくらいのことかも知れません。

福音館書店は、そのラインナップも充実して魅力的ですが、その姿勢も実に良心的で、私が愛する出版者のひとつです。

  • メイスフィールド,ジョン『ニワトリ号一番のり』木島平治郎,寺島竜一訳 (福音館古典童話シリーズ) 東京:福音館書店,1967年。