2005年1月25日火曜日

幸田文の箪笥の引き出し

 しらたりさんのBlog昨夜の更新がお着物についてだったもので、私もすっかり着物めいてしまい、今日は一日着物気分でありました。いや、気分だけですよ。私は不断着はおろか、余所行きの着物一枚持っていません。着物着た記憶といえば、高校の時分、父の着物で年始の詣でをしたときくらいで、あの頃、気取って懐手なんてしていたら、祖母からみっともないと怒られました。懐手は父の入れ知恵でしたが、その父の母からしたら変に馴染まない風にしか見えなかったのでしょう。とかく、私の世代は着物からは遠ざかってしまっています。ちゃんと着物を着るということがないままに育ってきてしまいました。

けれど、世間を見れば数年前からどうも着物がブームのようで、若いお嬢さんがむかしきものと称して着物を着ているんだそうですね。実際私の知人友人にも着物を着ているのが何人といます。さすがに不断着からというのはないのでしょうが、ちょっとしたおしゃれに着物でお出ましというのはそれほど珍しい風景ではなくなりました。つい先達ても、漫画の会に着物で来ていた人がいて、今そういうのを集めて着付けも習ってと大変楽しそうな様子、私もついつい気分をよくして、ちょっとした財産ですから大切になさってくださいといったところだったのでした。

幸田文は露伴の娘で、青木玉は文の娘です。私が写真に見覚える幸田文は、さすがに堂に入った着こなしで、しゃんとしている。不断の暮らしに着物があった、そういう時代を生きてらしたと髣髴させる、そうした粋がなんだかとてもよく見えて、自分の無粋を情けなく思う、そんな凛々しさというのが着物にはあるのだと思います。

京都の祇園を通りがかると、やはりそういう街ですから、着物をきちんと着た女性を目にすることもたびたびで、ちょっと年嵩の女性が黒地に黒糸で夢と刺繍された帯を締めているのを見たときは、粋だと思いました。さすがに堅気ではないかも知れないと思いながらも、自分の身近には決してない、それと見せない華やかさにため息した。これはもう私が大学生になっていたころの話で、大学といえば、私の同期が卒業式で総代に選ばれて、紋付きの着物で段に立ったときはどうどうとして見惚れました。女の紋付きだなんてその時まで見たことがなくて、その凛々しさに少し心を奪われたのです。

若い女性で着物といえば振り袖というのが私の頃の相場で、けれどこのところの着物のはやりは、気張らずにちょっと着られるような縞だとか格子だとか、私はそういうのはとてもいいと思います。気負いがなくて自然で、柔らかな感じの華やかさがあって、よく身に合っている人を見れば、はんなりとはこういう人のことをいうのだと。正月に会った人がそんな感じでした。しらたりさんもそんな感じかと思います。ちょっとはにかんだ笑顔が娘らしくて可愛らしい。ちょっと打ち解けた風にも感じさせて、これは着物の効用でしょう。

私の友人で、十年も前から着付けを習っているのがいて、白無垢やら十二単やら、そういうのを着たところの写真を見せてもらったことがあって、すごく綺麗でした。不断は化粧気もなくて、ぼうっとした娘なんですが、着物は人を美しく見せます。いや、着物だけでなくて、その娘は実際綺麗なのでしょう。いつもはそれを隠しているんです。あまりに悔しいから、その写真を焼きましては呉れないかとお願いしたら、いややわ、とにべもなくつれない返事。私と会うときには、決して着物を着てくれない。一度でいいから着物を着たところを見てみたいと思うのですが、折悪しく雨が降ったり、そういう向きの用でなかったりして、ついぞその機会を持たずに今の今まできてしまいました。

とこんな風に、着物に縁のない世代であるはずの私であっても、ちょっとたぐればこれくらいの着物の記憶はあるものです。ぱっとしないのまで含めれば、きっとまだまだ出てくるでしょう。けれど、着物をもっと身近にしてきた人の記憶とはその大本が違っていて、私のなんかただの外野の傍観に過ぎません。

今日は、ちょっと横道が多すぎました。明日に続きます。

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