2005年2月6日日曜日

頑張らない派宣言

 私はがんばるのが嫌いです。ひねくれてるんです。がんばること自体が嫌いなのではなくて、がんばっているということを見せるのが嫌い。どんなにしんどかったり苦しかったりする状況でも、しれっとした顔をし続けたい。なんでもないように見せたいのです。けれどこういうのは損な性分で、世間一般というやつはがんばった顔をしている人間を評価することが多いもんだから、私はどうも評価されにくい — といえば、あまりに自分を買いかぶりすぎてますね。けれど、私はがんばっていますというアピールを好む人がいることも事実。けれど私にはそういうのはどうにも理解できないんです。

だって、わざわざがんばっていますって喧伝するやつって、どこかうさんくさいじゃないですか。だまされてるんですよ。あんた、だまされてるんですってば。

木野評論の第31号は「頑張らない派宣言」を題目に、がんばることが求められた時代から、そういう価値が薄れた現在への移行を特集していまして、面白いタイトルですよ。がんばらないということを最初にいってしまうことで、本当ならあかんことを正当化しようとしているわけです。しかも正当化の理由がちっとも見えてこないから、これはもうモットーの押し付けですね。

けど、がんばらないということは、つまりどこかにがんばることを意識していることであるとは思いませんか。がんばらないという価値に対して、がんばるという価値があることを前提にしている。だから、これは結局は、求められるがんばりに応えることができないといっているだけかと思うのです。わざわざいうわけですから、がんばらないといけないような気持ちがどこかに隠されている。そういう、ちょっとややこしさがあって、がんばることが嫌いな私はやっぱりがんばらないことも嫌いです。

私にはもっとシンプルなほうがいいです。人は、自分の好きなことをしているうちは誤らないっていったのは森巣博だったかなあ。例えば、自分の読んで面白いと思う本は、ずっと集中して読みふけっても、それは楽しいからそうしているわけで、がんばってるわけじゃないんです。ギターを弾くのも、それが楽しくて、上達すると嬉しいからやってるんです。傍から見たら、何時間も同じことをやり続けて、なにが面白いのかと思う。だから、がんばってるなあと思うかも知れないけど、本人は別にがんばってるつもりなんかない。だって、苦痛じゃないもの。確かに疲れるししんどいかも知れないけれど、それがいやじゃないんだもの。

がんばっているという意識があるうちは、どこかに無理があるんだと思う。そういううちは駄目なんじゃないかと思います。

すべての人に、こうやって楽しんでできるなにかがあれば、きっと世の中はもうちょっと生きやすいんじゃないかと思ったんです。生きることはしんどいかも知れないけど、しんどさの反面、同じくらい楽しいことがあればそれでとんとんです。空しさを埋めるための空虚な快楽じゃなくて、自分の手にずしりと感じられる楽しみや喜びがあったら、がんばる気などなくても、乗り越えられることは増えると思います。

生きることに取り組まないといけないだなんて思っている人は、そうした喜びやなにかを見付けられなかった人なんじゃないかと思います。だからがんばって生きようとして、そんでもってがんばりすぎるから、ぽきりと折れてしまうんじゃないでしょうか。

がんばらなくったっていいのに、そんな必要どこにもないのに、なんて思うのは、私がただ恵まれているからなんでしょうか。

  • 木野評論』第31号 京都:京都精華大学情報館,2000年。

ちょっと蛇足

「頑張らない派宣言」といってるこの本を読むのにがんばらんといかんのは、なんか問題かと思う。それにしても、たった五年で状況は驚くほど様変わりしたんだなと、時間の経つ早さ、ものごとの古びる早さには恐れ入りました。

蛇足その二

木野評論というのは京都精華大の出している雑誌で、どちらかといえば学術系に属するようなものだと思うんですが、そういう感じはあんまりしません。なんだかサブカル系学芸誌といった感じ。けれど開いてみると、やっぱりちょっと臭いね。ぐちぐちと物事をこねまわしたがるような匂いがするから、あわない人にはあわない本かと思います。

0 件のコメント: