2005年2月18日金曜日

かもめのジョナサン

  高校の頃、図書館にあるのを見付けて読みました。独特の雰囲気がある本です。登場人物はすべてかもめだというのに、人間となんら変わることない存在として書かれていて、すごく啓示的なストーリーが目の前にちらついて、落ち着かなくなったことを覚えています。かもめにとっては日常の技術である飛行をただひたすらに追い求めた果てに、新たな地平を見つけ出すジョナサン。それは完全なる世界にして、永遠の凝縮されるところでした。すなわち『かもめのジョナサン』とは、ひとつの意識が世界を超越する、解脱体験の物語であるといえるでしょう。

この本が書かれた時代を思い起こすとわかりやすいのではないかと思います。1970年、まさにベトナム戦争の真っ直中、理想を見失った若者がアメリカを探してさまよった60年代がここに凝縮しています。意識によって世界を分析しようとする西洋的思考への疑いが渦巻いた時代でもあり、ヒッピーカルチャーが対抗的に用意した答えは、体験的知の世界でした。世界は分別されるものではなく、全にして個であり個にして全である。そうした禅的思想が若者を捉え、いわばそうした神秘的体験への傾きが『かもめのジョナサン』を書かせたのだろうと想像できます。

神秘的体験、— オイゲン・ヘリゲルが著わした『日本の弓術』に描出される弓術の神髄。チャンのジョナサンに語る言葉:自分はすでにもうそこに到達しているのだ、ということを知ることから始めなくてはならぬ……には、ヘリゲルに向けられた阿波師範の言葉が重なります。

彼らの得たものとは、身体や物理的な制約、空間的距離にとらわれることなく、精神が対象に同一となる体験とでもいえばいいのでしょうか。それはまさに無の境地であって、時間も空間も、世界も自分自身も、すべてがひとつの意識として溶け合い、いやそこには意識さえもないのかも知れません。おそらくはグールドが音楽に求めたエクスタシーもこうした体験であり、すべての行為は突き詰められることで、完全なる調和にいたる手段になりえるのだと思わされます。

とまあ、こんなこといいながら、私はこうした考えにまったく心酔しているわけでもなかったりして、いやはや中途半端なのであります。けれど音楽を、特に聴くだけではなく自らの体験として行うときなどには、こうした感覚に近しいものを得ることがあって、結局はそうしたあやふやな体験をしっかりと掴み取りたいという思いが、私を音楽の場に引き戻したのですから、いってること考えてることとは裏腹に、すっかりとりつかれてしまっているのかも知れません。

あらゆる事物が、無我の境地に達する可能性を隠し持っている。私にとってはそれが音楽であり、すなわち私は六本の弦上で、飛ぶことの練習をしているのかと思います。

Audio Books

引用

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