2005年6月4日土曜日

懐古的洋食事情

     市川ジュンの漫画はとてもセンシティブだもんだから、私はどうしても心引かれてやまないのです。心の機微に触れる細やかさと最後の一歩を踏み込む大胆さ、鋭さを合わせ持っていて、その上しなやかであるところが気に入っています。このしなやかであるというのは大変なことで、市川ジュンは女性の自立であるとか権利であるとかの固く重いテーマを扱って、しかしそれが萌える芽吹きの息づきを常に忘れないものだから、すごく心にしみてきます。類いまれな才能と表現力だと思うのですが、あんまりメジャーなところに躍り出てこられないのがひたすら残念です。

さて、市川さんの漫画の人気テーマはなにかといいますと、どうやら料理と明治大正昭和であるようで、こういった事情を反映してか、先達てYOUで始まった連載『ひまわり』も、第二次大戦後の東京を舞台に屋台を開く女性の物語でありました。ああ、そうだ。市川さんの重要なテーマとしては、女性の生き方というのがありますね。

『懐古的洋食事情』は、以前紹介しました『陽の末裔』のサイドストーリーで、『陽の末裔』の登場人物がいろいろに登場しては、洋食事情と絡み合うという構成がすごく面白いと思ったものでした。庶民も華族も皆一様に料理、食事のことごとに興じて、ともすればシリアスに過ぎた『陽の末裔』をうまく朗らかに補っていたのでした。私はこれら小エピソードが持つ暖かさがすごく好きで、具体的にどれが好きかとはいちいち書きませんが(だって、そんなことしたら連載になるほど長くなりますぜ)、本編ではあまり光の当たらなかった人や不遇であった人が、ここでは仕合せに包まれている。

私は、たとえそれがかりそめであったとしても、人生に暖かな優しい光が当たっている様を見て、すごく穏やかな気持ちになれます。苦闘の連続であった人生に、それでも慰め、喜びはあったのだと、願わくば闘いの終わったそれからは、こうした仕合せが長く続いて欲しいものだと、思わないではいられなくなるのです。

私は、はじめて買った『YOU』本誌で「ライスカレーの永遠」を読み、その後、行きつけの書店に並んでいたこのシリーズを少しずつ買い集めて、けれどその時はまだ『陽の末裔』は知りませんでした。シリーズを読み進んでいくうちに、だんだん見えてきたのは、この小エピソード群を貫くひとつの流れがあるということ。あちこちに現れる名前がある。何度も出てきては、その存在感を見せつける人たちがいる。このシリーズが『陽の末裔』に関わっているということを知って、私は本編を買い求めました。

だから、私は『陽の末裔』に関しては、裏道から入ったのです。読み始める前には、あの仕合せな物語たちの夢を壊しやしないかとはらはらしていて、けれど本編を読み終えて、本当によかったと思ったものでした。確かに、『陽の末裔』は仕合せ一辺倒の話ではなくて、苦しみや悲しさ、つらさがいたるところに顔を出して、仕合せが華やかに色づいた『懐古的洋食事情』とはずいぶん違っています。けれど、それでも『陽の末裔』の根底には『懐古的洋食事情』と同じ流れがあって、私はこれらの素晴らしい物語を、どちらかしか知らないというのは非常にもったいないことであると思います(どちらも知らないというのは論外ですけどね)。

『懐古的洋食事情』を読んで、私はあの明治大正という時代の躍動を見た思いがします。確かに、差別や偏見、不公正、不公平は今よりもたくさんあって、決して生きやすい時代ではなかったと思います。ですが、それでも、新たな風を取り入れようと大きく開かれた窓の気持ちよさはきっと例えようもなく素晴らしかったはずで、市川さんの筆によって描かれた食卓厨房の輝きは、そうした当時の情景を、— 未来を信じ、模索し、努力を惜しまなかった私たちの先人の生を、いきいきと伝えています。

参考

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