2005年7月31日日曜日

高木ブーの楽しくウクレレ

 よつばと』の英語版が届いて、うちではにわかに『よつばと』ブームが起こっております(といっても、私一人ですが)。『よつばと』というのは、なんだかのんびりとした時間が流れる実に心穏やかにしてくれる漫画なのですが、特に私は「あさぎのおみやげ」の回にそうしたのんびり感を強く感じまして、こののんびり感というのは作者の沖縄に感じる時間の流れなのでしょうか。あずまきよひこって、どうも沖縄ファンみたいですもんね。

で、あさぎが買ってきた沖縄のCDに沖縄っぽさを感じた風香がウクレレ弾いたりするんですが、これって実際いい感性だと思いますよ。私も、ウクレレ練習するとき沖縄らしさを感じて、沖縄の音階で、それっぽいのをやったりしてますもん。

というわけで、今日は私のウクレレ入門に役立った本を紹介したいと思います。

『高木ブーの楽しくウクレレ』は、ウクレレ入門ではあるのですが、技巧書としての入門書ではなくて、ウクレレの楽しさ、面白さを伝えようとする一般書、読み物ととらえるのがよいのではないかと思います。徹底的にわかりやすさ、親しみやすさを押し出しているから、これからウクレレを学ぼうという人には物足りないのではないかと思います。ええ、私も当初はそう思ったものでした。

けれど、ウクレレというのはそもそもがやさしい楽器で、もちろん高度なこともできるし、高い音楽性のある楽器であるのも確かなのですが、入門しやすさは弦楽器中随一であるといっていいと思います。そうしたウクレレの親しみやすさや、楽しみというのを、まず知りたいという向きにはこの本はとても向いていると思います。ウクレレという楽器の説明があって、どういうふうに楽器が作られるかという記事もあって、そして簡単な奏法の解説。楽譜も掲載されているから、ちょっと心得のある人ならほどなく弾けるようになるでしょう。

こんなふうに、ウクレレという楽器を知って、親しむために必要なものが、いいあんばいに用意されているのがこの本のよさであります。

そして巻末の二章、高木ブーを離れてのコラムがよかったですね。ウクレレのよさを再確認することができ、さらにはフラについてもちょっと知ることができて、ウクレレにまつわる世界が一気に広がったように思えます。

ウクレレ入門、特に速習的なものを求めるなら向かない本であると思いますが、まずはウクレレを好きになって、長くつきあっていきたいなと思う人には良い本なんではないかなと、そんなふうに思います。

2005年7月30日土曜日

甲子園の空に笑え!

高校野球の予選をなんとはなしに見てみたら、なんと我が母校が決勝戦に進出しておりました。在学中のことを思い返すと、とてつもなく弱くて予選第一回戦敗退が基本、部員にしてもあんまり好くやつのないといった、そんなコメントしづらいことばっかり思い出すのですが、知らない間にずいぶんと育ったものだと感心しました。

我が母校の野球部は、残念ながら決勝戦で敗退して、一時はもしやと思う場面もあったのですが、やはり現実の甲子園というのは、厳しくそして遠いのですね。よく、連戦を戦い抜きました。お疲れさまでした。

『甲子園の空に笑え!』は、川原泉の描くスポーツもの。川原でスポーツものというのもなんか意外な感じがしますが、けれど川原はスポーツを扱ってもいい漫画を描くのですよ。

そうした川原スポーツ漫画の特徴といったら、やはりそれは現実離れしたご都合主義と、けれどそのイージーさを越えて豊かな情緒であると思うのです。ですがその簡単さについては読者も作者も、さらには登場人物さえも理解して、けれど川原の漫画の中心はスポ根ドラマにではなく、事象に向かおうという人の心の中にあるのだから、劇的要素はそれほど必要ではないのです。

川原の描いた夢の甲子園はやはり美しくて、苦労や努力を最前面に押し出すような暑苦しさにはちょっと遠慮してもらって、そうした要素が影に隠れた最後に表れるのは、幸運と、その幸運にあぐらをかかないひたむきで素直な心ばかりなのです。その心がけがあんまりにまっすぐだから、たとえ最後に現実の厳しさが理想の美しさを破ったとしても、その夢のはかなさに微笑みでこたえることもできるのです。

私たちの人生は、理想が現実の前に破れるという悲しい体験の連続で、けれどそうした悲しさを、ささやかな物悲しさと微笑みで緩和できれば、きっとまた明日には元気になれることでしょう。

こうしたエッセンスが川原の漫画にはきっと含まれているものだから、私は川原の漫画が好きなのです。誰もが笑顔のかげに努力と悲しさを隠していると思えて、なんだか泣きたくなるのです。

  • 川原泉『メイプル戦記』第1巻 (白泉社文庫) 東京:白泉社,1999年。
  • 川原泉『メイプル戦記』第2巻 (白泉社文庫) 東京:白泉社,1999年。
  • 川原泉『メイプル戦記』第1巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1992年。
  • 川原泉『メイプル戦記』第2巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1994年。
  • 川原泉『メイプル戦記』第3巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1996年。

2005年7月29日金曜日

屈折リーベ

 なんか、眼鏡盗というのが出たんだそうですね。中学の時に友人から眼鏡を貸してもらい、よく見えるようになったのが快感になり、盗むようになったと、ものとしての眼鏡そのものへの偏愛がうかがえるコメントを残していまして、これこそフェティシズムの極まれるところであると恐れ入りました。しかしこういう非現実的な事件というのも世の中にはおこるのですね。ある種、アメイジングな気持ちに襲われております。

で、このニュースを見て最初に思ったのが西川魯介で、この人は漫画家なのですが、眼鏡好きを公言し、眼鏡着用者への偏向をあからさまにした漫画を書くことでことさら知られています。眼鏡への偏愛をそのままテーマとした漫画もありまして、それが『屈折リーベ』です。

けど、実は私は『屈折リーベ』は一読者としては好きであるといいながら、けれどあまり高くは評価していません。なんというんでしょう。これはフェティシズム的傾向にある少年が、そのフェティシズムゆえに人を好きになって、けれど最後にそのフェティシズムを越えようという物語なのですが、最後の最後、その昇華に向かう動因が少し希薄であったと思うのです。劇というのは、対立する要素が戦い、その果てに止揚してみせる(止揚 = Aufheben:矛盾する諸要素をまとめて乗り越え、より高い位置でそれら矛盾を解決しひとつにしてしまうこと)発展的運動にほかならないのですが、この漫画では、今対立する両要素を乗り越えようというそのときに、いまいち乗り越えるのに必要な勢いが足らず、結局ひとつの要素には遠慮してもらいましたという、そういうちょっと煮え切らなさが感じられたのです。

けど、それでも私はこの漫画が好きです。不器用な少年、不器用な少女の、不器用な恋愛模様が、みていてとても歯がゆく、けれど懐かしかったりほほ笑ましかったりして、胸の奥がくすぐったくなる。こういった感じというのは、もう長い間忘れてしまっていて、けれどこういった漫画を見ればちょっとはよみがえってきて、その移ろう季節を遠くにみるような感覚が好き。『屈折リーベ』にはギャグやらなにやらがちりばめられて、表向きにはなんだか騒々しいところもありますが、そうしたにぎやかしの向こうに見える繊細な情景をとてもいじらしいと感じるのです。

西川魯介の漫画といえば、このところみるのはどうにもエロが過剰だけれど、またたまにはこういうのも描かれたりはしないものでしょうか。私は、これくらいの時期に描かれたものの、ほのかな叙情漂う作風がお気に入りだったのです。

  • 西川魯介『屈折リーベ』(ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2001年。

引用

参考

2005年7月28日木曜日

長い道

 道さんみたいな女に惚れられるのだとしたら、いいじゃありませんか。いや、惚れられてるのかどうかはわからないけれど、けれどひとつ屋根の下に暮らして、寝食を共にして、かいがいしく働く道さんを見て、それであの仕打ちとは荘介どのは人が悪い。例え道さんが自分の理想に描く女性と違っているからといって、あのように粗末にしては罰が当たります。

もし私が荘介どのの立場であったら、道さんのような女性から敏行どの、敏行どのと呼ばれたりしたならば、私はきっとその人のためになんでもしてあげたいと思うだろう。私の心を砕いて、その人のために差し出すこともいとわない。もし道さんの心が私のもとにないと知ったとしても、それでも私はそっと寄り添い続けたいと思う。疑うなどと、ましてや裏切りを働こうなどと、きっと私は露ほども思いはしないでしょう。

すまんの、ぜんぶ嘘じゃ。

人間は、誰しも人生で三度くらいはもてる時期がくるんだとかいいますね。実際私にもそんな頃があって、私は男女比率が異常なところで青春時期を過ごしましたから、それはそれなりに私に思いを寄せようなどという奇特な女性もいたのです。

けどよ、私はそうした娘たちを寄せ付けないで、今から考えるとまったくもってもったいない話であるのですが、けれどその頃の私はちっともそうした状況に甘んじることがありませんでした。

私の得意技は気付かないふりでした。いかに秋波送られようと、思わせぶりをいわれようと、気付かぬ知らぬ存ぜぬを決め込んで、けれど時にはなにも知らない無邪気ゆえの喜ばしなんぞ口にする。いや、ずいぶんとひどい仕打ちじゃないか。わかっていたなら応えてやってもよかろうに — 。いや、わかったからといっておいそれと応えることができないのが男女の仲であろうかと。

……だから私に、道を邪険に扱ってみせた荘介を非難できるわけなど、これっぽっちもありゃせんのです。

けど、自分にはちょっと堪え性がなさ過ぎたかなあと思います。日本においての男女のことは、愛というよりもむしろ情で、三日でも飼えば情が移る、ましてやそれが自分を慕う女なら可愛く思わぬわけがない。それをわかっていながら、いやわかっていたからこそか、危ないと思って最後の距離を見極め続けて、— その先に起こるいろいろを怖れていたんでしょうね。

『長い道』は、愛というよりもやはり情で、これがヨーロッパ人の書いたものなら『存在の耐えられない軽さ』みたいになるのかも知れないけれど、こうの史代はやっぱり日本の女性だから、しっとりとした情の世界が描かれて、私の心はすっかりほだされてしまいました。

私は、道さんのような人は好きだと思います。けど私が荘介であれば、自分の心の最終線を決して道が越えることのないように、距離を、距離を測り続けるだろうと思います。いや、あるいは、今ならどうだろうか。今なら、その最後の距離を詰めようと動くこともあるだろうか、あるいは否か。

と、このようなことを考えさせられた漫画でありました。

  • こうの史代『長い道』(アクションコミックス) 東京:双葉社,2005年。

2005年7月27日水曜日

姉妹の方程式

  私の野々原ちき初遭遇は『もんぺガール小梅』であったのですが、正直なところあまりいい印象は受けなかったのでした。かわいらしいキャラクターが非常識な行動をして人を困らす漫画と思って、最初の数ヶ月はなんかのり切れず読んでいたのですが、楽しみ方をわかってからは、がらりと印象が変わってしまいました。一コマ一コマの絵に、せりふに面白さが盛り込まれているのですね。特に小梅の、友人である動物に対する仕打ちみたいのは毒が効いていて面白かった。こうした小梅的キャラクターは、『姉妹の方程式』では来来軒の悪魔あたりに受け継がれています。

そんなわけで『姉妹の方程式』。まんがタイムきららに連載されている漫画なのですが、四コマ漫画としてのまとまりをきっちりつけながら、一話としての膨らみを持たせることにもよく長けている、実に良質の漫画です。

なにがいいといっても、細部細部にまでよく神経が行き渡っていると感じさせる丁寧な作りです。ぱっと見にはシンプルで、あるいは地味な漫画に見えるかも知れませんが、絵に、せりふに、必要充分の情報がしっかりと盛り込まれているから、食い足りないということがありません。けど、多くの情報をあの小さな一コマに盛り込んで、あれだけすっきりまとまっているというのはすごいことだと思いますよ。手に余る情報を扱って処理しきれず、破綻しそうになっている漫画も多い中、野々原ちきは違います。たくさんの情報を画面上に配置しながら、読みやすく伝わりやすいように整理されていて、このまとまりはセンスや構成力のたまものでもあるのでしょうが、漫画をよりよいものにしようという練り上げ (elaboration) の工夫努力が並ではないのでしょう。

野々原ちきの漫画の洗練を支えているのは、要はその描きぶりであると思うのですが、構図の取り方もうまければ、デフォルメのしかたもうまい。一コマの持つ表現力がかなり高いのです。

例えば、衣装の選択なんかが秀逸で、服装は、わざわざ説明するまでもなく、それを選んだ人間の趣味嗜好、人となりを雄弁に説明するものでありますが、だとしたら野々原ちきがキャラクターに着せる服の選択はよくよくの熟考の末になされているものと思われます。いや、だって、服装をはじめとする小物が、キャラクターたちの個性を本当によく説明するのですよ。仮にそうした工夫に気付かなくとも、その意味は読み手に伝わります。

そしてきわめつけは描線。野々原ちきの漫画表現について考えるなら、描線の持つ色気に触れないわけにはいかないでしょう。野々原ちきの描線は出色です。対象の固さ柔らかさを線のレベルで描き分けていて、布地の厚み風合いみたいなものまでがこちらに伝わってくる。これは正直いってすごい。服地の素材さえわかりそうなくらい。この描線に支えられた画面ですから、そりゃ表現力が違ってくるのも当然だろうと思います。

私は、野々原さんを非常に高く買っています。そして、少し残念に思っています。私は野々原さんは非常に高い能力のある人だと思っているのですが、ですがその能力を完全には発揮できていないんじゃないかと思うところがあって、それどころか、小さくまとまろう、小さくまとまろうとするような傾向も感じてしまうのですね。

もし野々原さんがご自身のできることの広さ、大きさに気付かれたなら、その時にはさらに高次の漫画表現が開かれるんじゃないかと、その将来にひそかに期待しています。

蛇足:

十子ちゃんが好きです。 — 死んだら会いに行けるかな……。

  • 野々原ちき『姉妹の方程式』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 野々原ちき『姉妹の方程式』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 以下続刊

2005年7月26日火曜日

作品の哲学

夢落ちってどうにもこうにも嫌われる要素ですが、いったいなんでなんでしょう。実をいうと劇作にもえらく嫌われた技法というのがありまして、それはデウス・エクス・マーキナ(機械仕掛けの神)といわれるやつなのですが、これまで物語られてきた世界の外から突如やってきた唐突な要素が、劇の動因となっていた問題を解決してしまうようなエンディングを特にこういうのです。佐々木健一曰くデウス・エクス・マーキナと言えば、それだけで悪口になるほどである。ですが、本書では「完結の技法としてのデウス・エクス・マーキナ」と題し、機械仕掛けの神による終始が劇になにをもたらしているかが論じられます。私にはこの説明があまりに鮮やかだったので、すっかり気に入ってしまい、デウス・エクス・マーキナによって幕を下ろす作品を弁護する際に、ずいぶん利用させてもらったものです。

けど、「完結の技法としてのデウス・エクス・マーキナ」は、この本のごく一部、全部で九章あるうちの一章にすぎず、他の章においても興味深い議論がなされています。作品の統一性であるとか、作者と作品の関係であるとか、本当に参考になることがいっぱいで、学生時分美学じみたことをやっていた私にとっては、非常にありがたい本でありました。

夢落ちが嫌われるように、ぱくりというのも嫌われますね。ぱくりというのは剽窃とか盗作についてをいうのでしょうが、けれど本当にぱくっているとはどういうことかという議論は意外に浅く、結局は自分が以前に見たなにかに似ている、実際比べてみれば確かに似ている、だからぱくり。こんな感じの、薄弱な根拠にもとづく批判もしばしばあるように思います。

こういうぱくりうんぬんというのは、結局は作品のオリジナリティとか、自立性とかの問題に関わってくるのだと思うのですが、独創性や自立性を論ずるのは簡単ではないのですよ。なぜかというと、料理しかたに独創性が見られるかわりに、素材は借り物というような例があります。逆に、目の付け所はぴか一なんだけれど、その描き方は特に非凡というわけではないという場合もあります。前者、後者どちらにオリジナリティを見いだすかといわれれば、簡単には言い切れないのですよね。

そんなわけで、作品が独り立ちしているかどうかというのは極めて難しいことなのでありまして、こうした厄介な問題を扱おうという際に、この本はきっと力になってくれるのではないかと思います。少なくとも、考えるヒントを与えてくれるのではないかと思います。

さて、冒頭の夢落ちについてですが、実は私は夢落ちはさして悪い技法とは思っていません。夢落ちは、デウス・エクス・マーキナの一種に過ぎませんから、まさにこの本で確認したデウス・エクス・マーキナの三類型を参考にすることができます。つまりはこんなふうにです:

私は夢落ちが、登場人物の一喜一憂する様で読者を楽しませる目的で、作品世界を壊しかねないような出来事を用意した場合に使われる分には、別にかまわんのじゃないかなと思うんです。本来ならあり得ない出来事によって引き起こされるどたばたも見ることができたわけですし、結局のところだしに過ぎなかった事件にいつまでも居座られても困ります。その上で、夢の非日常と日常のコントラストが、次なる状況に進ませる動因となるようなものであったらなおさらよいと思います。

とまあ、こんなふうに考える私ですから、夢落ちだからといって単純に否定するような見方も芸のないことなのではないかと思ったりするんですよ。

  • 佐々木健一『作品の哲学』東京:東京大学出版会,1985年。

引用

  • 佐々木健一『作品の哲学』(東京:東京大学出版会,1985年),141頁。

2005年7月25日月曜日

「教養」とは何か

  「教養」と聞いて、一般的に思い起こされるイメージは、ものをたくさん知っているであるとか、高度な学問を受けていたであるとか、そういうものなんじゃないかと思います。私にしてもそれは同じで、ガキの頃に、ちょっとまわりの子よりもものを知っていたことで、わぁ物識りねと誉めそやされて、私は鼻高々で、けれどものを知っているということがすなわち教養には結びつかないということを知ってからは、ただ知識が多いだけということは恥ずべきことである。みっともないことであると思うようになりました。

『「教養」とは何か』は、阿部謹也の精力的な世間研究に基づいて書かれた本で、『「世間」とは何か』の続きであるといってもよいかと思います。私は、世間を見つめ直そうと試みて、阿部謹也に行き当たりました。そして教養とはなにかという問題を提示されたその時、私は答えも持たず立ち尽くしたのでありました。

教養とはなにか。この、まるで読み物のように編まれた本を読み通して、ひとしきり揺さぶられて、教養というのは自分を取り巻く関係において自分はどのような位置にあるかを知っているということ。そして教養人とは、自分はなにをなせばよいか知り、実践している人のことをいうのではないかと思い当たりました。

自分の位置を知っているというのは、自分がある種の地位にあると任じていることをいいたいわけではありませんよ。例えば、私は会社の部長なのだ。だから偉いのだ、部下には命令するのだ、けれど取締役にはぺこぺこするのだ、とかそういうのんじゃあないんです。私のいいたいのは、家族なら家族を構成する一人としての自分を理解し、家族の中でなにができるかを知り、それをおこなっているということ。例として出したのは家族でありましたが、ほかに地域社会であるとか、友人関係であるとか、そうしたさまざまな関係の中で、独りよがりなんかではなく自分をきちんと評価し、成すべきことを成している人こそ教養人だと思います。もちろん、そういうことのできる人はなかなかいない。けれど、かなりいい線いっている人というのは少なからずいて、私は例えば自分の身の回りにそういう人を見つけたりするとすごく嬉しくなる。そういう人を見習って、その人のようにすることができたら、私も少しは教養ある人間に近づけるんじゃないかと、前向きな気持ちになるのです。

私の知っている人に、それはそれはお偉い方がいらっしゃるのですが(皮肉です)、けれど私は、その人が休日には普通のおじさんの恰好して、面が割れないように野球帽かぶり、地域清掃活動をしているということを聞いて、その人を見損なっていたと恥じました。駅前が見る見るきれいになることの喜びや、一仕事を終え、一緒に働いた子供たちにジュースを買ってやることの嬉しさについて話したその人は、紛れもなく世間的地位から離れて、自分の成すべきことを成そうとしている人だと、正直ちょっと尊敬しました。

ボランティアだから感心したんじゃないですよ。自分の成すことで、人が喜び、自分も喜べるというところが素晴らしいと思ったんです。見習わんといかんと思ったのです。

2005年7月24日日曜日

もしもあなたに会わなければ

 先日のぶしつけきわまりないミュージカル・バトンのパスをこころよく受け取ってくださったtsawada2さん(感謝します!)のミュージカル・バトンに、気になる文言をみつけました。その文言というのはアニソンという言葉でくくってしまいたくないです。ええ、この言葉には私も同感することしきりです。

世の中にはアニメを頭っから馬鹿にしてるような人が少なからずいるのですが、そういう人には見つけられない素晴らしいものがアニメにはたくさんあります。それは物語であり、劇であり、絵であり、そして音楽も然り。アニメには隠れた名曲が多いというのはおそらく多くの人が知っていることで、アニメから離れてもなお輝きを消さないだろう名曲もまれではありません。ですが、これは本当に口惜しいことなのですが、アニメの曲だからという偏見がそれら輝きを隠してしまっていること数多く、人口に膾炙することなく過去へ過去へと送られていってしまう — 。

うう、本当にくやしい。宮崎駿とデーズニーばかりがアニメじゃないぞ、ギャピー、とでも叫びたくなるではありませんか。

『勇者警察ジェイデッカー』は、勇者シリーズの第五作目。続発するロボット犯罪に対抗すべく、警察が変形合体ロボットを導入するというアニメなのですが、ロボットの製造現場に迷い込んだ少年との出会いにより、心を持たないはずのロボットが心を持ってしまった — 。このプロットがそのまま物語のテーマでありました。『ジェイデッカー』は、心とはいったいなんなのかという、決して簡単じゃないテーマに真正面から取り組んで、しっかり描ききった名作中の名作です。

このアニメの挿入歌が『もしもあなたに会わなければ』。男性ボーカルによるスローなバラードで、『ジェイデッカー』のプロットやテーマをしっかりと反映させながら、それだけにとどまらない深さ、豊かさを持つ名曲です。

『ジェイデッカー』を知る人間が聞けば、この歌には警察で働くロボットの心情がそのまま表れているとすぐさま気付くことでしょう。あなたと呼びかけられているのは、それぞれのロボットに深く関わっている人であり、ロボットはそうして人と関わる中で心を深め、その心に戸惑いながら、大切な人のために戦います。この歌にはそうした情感がたっぷりとしています。

ですが、大切なあなたを守りたいという気持ちから困難に立ち向かうのは、彼らロボットだけではなく、それは心を持つもの誰もに共有される感情です。そして、 — こうした感情を扱って、この歌は普遍性を勝ち取ることに成功しています。

『もしもあなたに会わなければ』は、さながらラブソングであり、その愛は実直で紛れもなく純粋です。自分の大切な人の仕合せを思い、その人とともにあることを喜び、そして不幸がその人の心を曇らせないようにと願う思いは清く、けれどあまりにまっすぐなものだから口に出すには照れがあります。

ですが、こういうことが、照れも気後れもなしに歌われているのはいいものですよ。

参考

引用

2005年7月23日土曜日

機動戦士ガンダム戦記

 こととね掲示板に『ジオニックフロント』の話題がでて、これ、2001年のゲームなんですが、面白いんですよね。なんか超がつくくらいストイックで、難易度も高めだもんだから、一見さんにはお勧めできない。ですが、私はこれがガンダムゲームの最高峰だと思っています。といった感じで、『ジオニックフロント』を取り上げようと思ったんですが、なんともう書いてたんですね。オーマイ! なんか追いつめられてる気分がしやがるぜ。

そんなわけで、今日は『機動戦士ガンダム戦記』を取り上げようと思います。

『機動戦士ガンダム戦記』は、ミッションクリアタイプの純粋アクションゲームです。ジオン編と連邦編がそれぞれ用意されていて、各ミッションが微妙にリンクしているところが面白いんですよ。ジオン編だと撃破目標として設定されているビッグトレーが、連邦編では防衛対象になっているといった、こういった裏と表が用意されてるのは、ささいなことですが面白いと思います。

私は先ほど、『ジオニックフロント』が最高だといっていましたが、総プレイ時間で考えれば『ガンダム戦記』のほうがよく遊んでいます。なんでか? それは単純に手軽さでありまして、『ジオニックフロント』よりも手軽にスタートし、手軽にミッションクリアし、手軽にSランクを並べ、手軽にモビルスーツの活躍を満喫することができるというところは、ある種欠点であり、反面長所でもあると思います。

取っつきやすいのですよ。この手のアクションゲームに慣れた人ならば、一日二日でコンプリートできるゲームで、だから『ジオニックフロント』とは違い、普通のガンダムファンにもお勧めできます。実際、私にはこのゲームはちょっと簡単すぎて、けれどそのおかげで、ちょっとガンダムゲームで遊びたいなあという時にはうってつけ。それこそ、なんべんクリアしたかわかりません。

私は「戦いは火力だよ、兄貴」という人間ですので、基本的にはバズーカ、ビーム系兵器を愛用しているんですが、これだとなおさら難度が下がるんですよね。狙う→打つ→当たる→おいしい、てなもので、だからたまにはマシンガンで出ようかとも思うのですが、気付けばバズーカに戻っている。というのもそりゃそうで、バズーカ装備はシャアのとった戦術そのものであります。マシンガンだとなかなか敵を倒せないものですから、結局は格闘に頼ることになってしまい、だったらグフかイフリートを使えばいいじゃん、というようなはめにもなるんですね(もちろん格闘オンリーはやってますよ。ミデアが落ちなくて困るんだ)。

と、こんな感じに、好みやなんかで毎回テーマを決めて遊べるのがいいと思います。

参考

2005年7月22日金曜日

よつばと!

   あんまりにも書くことがなくてうんざりして、サイト巡りをしては、Amazonに立ち戻るということをやっていたら、おすすめ商品にNegima, Vol. 2が出てきてびっくり。『ネギま』なんて、読まねえようと思ったら、すぐその下に Yotsubatoの文字を発見! よつばと! そうか、『よつばと!』の英語版がでてるのですね。これは早速買わねばならんと思いましたよ。

そもそも私は、あずまきよひこの漫画が好きでして、説明するまでもない有名タイトルとなった『あずまんが大王』も当然のごとくに押さえていて、ゆかりちゃんが好きでしたね。ゆかりちゃんは最高でした。

ゆかり賛はそこそこにして『よつばと!』でありますが、漫画としての広がりは『あずまんが大王』以上であると思っています。親一人子一人の漫画は数多くあれど、とーちゃんとよつばの関係は、なかなかほかには見られないものがあると思っていて、なんというんでしょう、日本的なんだけれど、日本的ではないのです。その芯は外国の物語に出てくる親子関係みたいで、表面に現れてくるのは日本的なおとうさんと娘なんですね。この不思議な、からっと乾いていて、けれど乾燥はしていない、西でも東でもない感覚が『よつばと!』の魅力なんではないかと思っています。

お隣さんとジャンボがいい味出してますよね。お隣の三姉妹は、それぞれにいい感じの娘さんたちで、私は以前恵那Loveだなんていってましたが(いや、娘には恵那みたいのがいいだろうなという話だったんですが)、お父さん似の、あんまり飾らない自然体が気持ちいい風香もよいと思います。とかいってますが、最近になりましてね、長女のあさぎがいいなあなどと思うようになって、あの傍若無人なところ、のびのびと奔放なところがいいなあなどと思って、なので私は三姉妹の母が好きです。

そういえば、ちゃんとフローリストやってたジャンボが素敵でした。いつもは馬鹿みたいなことばかりいったりやったりしてる人なんだけど、ナイフ片手にオアシスに花を生けているジャンボは恰好よくて、仕事をしている男性はかっこいいという意見ももっともだと思ったり思わなかったり。いずれにせよ、あの花の回はすごくよかった。読んでるこちらの心が洗われるようで、こうした読むとなんか心が晴れ渡るような感覚が『よつばと!』の持ち味であると思います。

英語版、花火を見にいって迷ったよつばのせりふは、やっぱりI'm Yotsuba Koiwai. Yotsuba Koiwai.なのでしょうか。手もとに届くまで、このせりふはどう訳されるんだろうとか考えるだけでも楽しいですね。ええ、翻訳は面白いものだと思います。

  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 1. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 2. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 3. Texas : Adv Films, 2005.
  • あずまきよひこ『よつばと!』第1巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2003年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第3巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第4巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2005年。
  • 以下続刊

2005年7月21日木曜日

星の王子さま

 先達て亡くなられた倉橋由美子の手になる『星の王子さま』が欲しくて、行きつけの書店ならきっと置いているに違いないと思っていったら、案の定置いていたので買ってきました。『星の王子さま』は、もう今更説明する必要もない古典ですが、意外と読んでいる人は少ないかも知れません。挿絵がかわいらしく魅力的で、さっと読める短い話なので簡単な本と思う人もいるかも知れませんが、ところがどっこい、簡単だとか平易だとかちょっといって欲しくありません。ここにはある種の生き方の理想があって、人生を豊かにする秘密が語られています。だから私はこの本こそもっと広く読まれて欲しい。 — けど、通じない人には、まったく意味のない本になるかも知れないなあとも思います。

私が高校生の時ですね。学校まわりの劇団が上演する『星の王子さま』を見たのが、この物語に触れた最初でした。なんだか取っつきやすいようで謎に満ちていて、こりゃ一筋縄ではいかないぞと思ったことを思い出します。けど、最初私は、それは演劇仕立てにしたからだと考えていました。その時すでに、この本が子供向けではないということは知っていましたが、まだ読んだことはなく、だからこの劇をきっかけにして原作を読もうと思ったのでした。

本を読んだ感想は、やはりここには大きな謎があるというものでした。いうまでもなく、物語は平易です。けれど表現がシンプルであることと、内容がわかりやすいということは違うのです。特に、目の中に梁があるような類いの人間にとっては、この物語は謎に満ちたものとしか見えないでしょう。

私は、自分の目から梁を取りのけるのに、ずいぶんと時間をかけてしまいました。私は本当に俗物で、いろいろな欲を捨てただなんて口ではいいながら、最後の最後に名誉欲を残しています。私は結局は、王子さまが出会った王様であるといおうか、あるいは地理学者といおうか、そうした人間につながるもので、けどそうしたことがばかばかしいということはもういやになるほど味わっているのです。

この物語を久しぶりに読んで、私がかつて関わっていた業界には、地理学者がうようよと跋扈していたことを思い出しました。本当に心を向けなければならない対象がすぐそこにあるのに、そっぽ向くように目をそらし続けていた人たちがいて、私はなんてばかげているんだろうとずっと思っていました。私らが目を向けねばならないものは、すぐ目の前にあるのです。なのにみんなはその目の前のことについて話すのに、伝聞に頼っているのです。私はそれがずっとずっと歯がゆくて、結局そんな彼らについてくのがいやんなって抜けてしまいました。あの、抜けると決めた瞬間、私は少し王子さまに近い考えをしていたんじゃないかと思います。

でも、もし本当の地理学者なら、王子さまが箱の中に自分の小さな羊を見つけたように、本の山からだって、伝聞からだって、ほんとうのことを見つけ出せるはずなんです。だから私はもしかしたら見限るのは早すぎたかも知れない。実際素晴らしい成果を挙げている地理学者たちはいて、彼らはまごうことなく本物であるのですから。

私は、今、ほんとうのことに向き合う手段こそは違えてしまいましたが、見つけたいものにはしっかりと目を向けていると思います。見るだけじゃなく、その奥に進みたい。肝心なところにたどり着きたいと思う気持ちは、いつわりなく本物であるとうけがえます。

倉橋訳は、旧訳に比べてもずいぶんと簡素で引き締まった印象があります。子供向けであることは最初から問題ではなく、まっすぐ大人のための本として訳されているのですが、それは文章が難しいということではありません。平易です。ですが、その平易にするすると頭に入ってくる文章には力があって、きっとなにかが揺り動かされる。旧訳とは違った響き方がすると感じられました。

けれど、私はもうすっかり大人の側に足を踏み入れた人間だから、王子さまの言葉にはすべてうなずくことができず、ですがそれも仕方がないと思います。しかし、それでも王子さまとの別れを経験しようという頃には、王子さまのいわんとするほんとうのことはしっかり胸にとおっていました。私はその時、特別になったたくさんのものや人に囲まれていると、しっかり感じることができて、自分のいかに仕合せであるかを思っていたのです。

  • サン=テグジュペリ,アントワーヌ・ド『星の王子さま』倉橋由美子訳,東京:宝島社,2005年。

中国が通貨切り上げを実施

 中国人民銀行は21日、米ドルとの間で事実上の固定相場を続けてきた人民元の水準を切り上げた。新たな為替レートは1ドル=8.11元で、これまでの同8.28元からは約2.1%の切り上げ。また、この措置に合わせ、為替管理方法をドルから主要通貨バスケットに基づく管理フロート制に移行する。

テレビを見ていたらニュース速報がでて、どうやら中国が人民元を切り上げると決めたようです。アメリカが長く切り上げを求めているのは知っていましたが、中国は自国の利益を優先し、アメリカの要求を突っぱねるんじゃないかとか思わないでもなかったので、思ったよりも早く切り上げが実施されるということに驚きました。いや、しかし、これが本来のありようだろうとは思います。今までが不当に低く押さえられていたのだと思います。

しかし、人民元の切り上げが私たちの生活にどのように影響してくるかが心配ですね。日本は生産コストを下げるため中国の安価な人件費に頼ってきたわけでありますが、こうした構造は今後少しずつ変わるだろうと思います。心配することではないかも知れませんが、わからないことはやはり心配です。まあでも、くよくよ悲観的なことをいっててもしかたないので、ここはうまくいってくれることを願うばかりです。

それはそうと、Eastmanは今が買いかも知れない。通貨切り上げがおこなわれた暁には、値上がり必至でしょうし。

引用

参考

2005年7月20日水曜日

ときめきメモリアル

 行きつけのサイトさんの日記にてときめきメモリアルキャラメイクお試し版というのが紹介されていて、そうかあ、ついにときメモではキャラクターの外見も選べるようになるんだと、その進化っぷりにちょっと感慨深くなったりしました。実をいうと私の『ときめきメモリアル』歴は、第一作の時点で終わっていまして、しかもその第一作というのも、スーパーファミコン版という実に謎の入り方。その後、バイトをやめるときに後輩からPCエンジン版『ときメモ』をプレゼントされたりしているので、遊ぼうと思えば遊べるのですが、なんとなくそのままおきっぱなしにしています。そういえば以前「魔法のエンジンで遊ぼう」という文章を書いたことがありましたが、これは実際『ときメモ』を遊べる環境をいかに整えることができるだろうかという、それだけのために書かれたものでありました。

白状します。私は『ときめきメモリアル』をクリアしたことが一度もないのですよ。私はどうも、この手のパラメータを上げるタイプのゲームには向いていないようで、途中で必ず飽きるのです。だいたい一年目は無難に過ごし、すなわち二年目が山となります。ええ、二年目でやめてしまうのです。

私が好きだったキャラクターというのは、如月未緒と見せかけて美樹原愛だったのですが、確か美樹原の出現は一年目のクリスマスが最速で、次がバレンタインデーだったはず。だから美樹原が出て、ぐぐぐーっとときめき度が美樹原よりに傾いた頃にゲームに飽きてしまうのですね。もうわけわからん。ゲージがたまったんなら、そのまま突き進めばいいじゃねえかという気もするんですが、残念ながら私の持続力のなさはかなりのようで、こうしてまたも二年目のジンクスを乗り切れないんですね。

そんな、途中で投げてばかりの私だというのに、『ときメモ』についてはいやに詳しくて、というのは、昔のバイト先にフリークといっていいほどにコアな『ときメモ』ファンがおったのが原因です。そいつは全イベント及びクリア条件を網羅するばかりか、設定やキャラクターのプロフィールにも精通していた。なんといっても、コントローラで電話がかけられるんですからね(意味わかります?)。私はそいつの気合いの入ったプレイを見せられて、駆け出しメモラーくらいにはなれたんじゃないかと思います。ええ、ちょっとかじった程度のメモラー相手なら、私の方がずっと詳しいですよ、きっと。って、それにしてもいびつな話だな。

私は気がついていなかったのですが、冒頭のキャラメイキングというのは、『ときメモ ONLINE』のものみたいですね。私はてっきり、『ときメモ2』で自分の名前を呼ばせることができたような、そういうのだと思っていました(私はこれを、体験版で試しました。シンイチロウという友人がおったのですが、これがシニチロウと発音されちゃうんですよね。発売された版ではどうだったのでしょう?)。

しかし、『ときメモ』がオンラインゲームですか。学園の中で学生としての役割を演ずるわけですから、まさに正統的なRPGといえそうですが、けれどこれはいったいどういうゲームになるのでしょう。なんかイベントが適当な頃合いを見て企画されて、後はクラブ活動に励んだり、勉強にいそしんだり、あるいは知りあった友達とどうこう。うー、私はきっとものすごい勢いで飽きるだろうな。駄目なんですよ。具体的に明確な目的の示されないゲームは、どうも私には向かないみたいなんです。Wizardryなら平気で何年でも遊ぶのに、どういうわけかほかのゲームではうまくいかないのです。

さて、冒頭で申しましたキャラメイク話。一応私も試してみたのですが、どうも輪郭の自由度がまだ少なくて、特に男子。やっぱり輪郭は、あの突き刺さりそうなくらい鋭角なのがいいじゃありませんか(福本伸行みたいなんじゃないっすよ)。それが、どうもあごのしっかりした輪郭しかなくて、うーむ、これじゃ萌えません。

けど、頑張って作ってみましたよ。私の好みを以下に示しましょう。

男子は上から「1,1,メガネ(無しあるいはほくろ1でも可),2,2,1,1,5,1,4,無し,3,2,無し」、女子なら同じく上から「1,1,メガネ,3,1,2,1,6,2,1,無し,1,3,無し」。

男子で眼鏡は邪道だとか思ったのですが、つけてみたら意外とよかった。女子は眼鏡を外すとものすごく地味顔になって、それがおそろしく素敵。しかし、思うのですが、眼鏡とほくろが択一になってるのはどうかと思います。眼鏡とほくろは同時選択したかった(特に女子)。なんというんでしょう、泣きぼくろってなんかいいじゃありませんか(はっ、もしかしてジュリーの影響!?)。

あ、そうだ。私、一度だけ『ときメモ』クリアしたことがありましたよ。ほら、体力をがんがんに上げるとときめき状態に陥ってくれるキャラクターがいたじゃありませんか。いや、清川じゃありません。外井雪之丞ですよ! え、誰かわからない? 外井ですよ、外井。伊集院レイに付き従っている外井。思い出しました?

実は、彼も攻略対象キャラクターだったんですよね。と、そんなわけで私は唯一外井とのエンディングを見て、いや、この表現は微妙に嘘ですね。外井の愛を勝ち取っても、伝説の木の下に女の子が待っていなかったらバッドエンド扱い。しかしそれにしても、ひどい扱いですよね。外井がかわいそうだ。

蛇足:嫌いなキャラクター

それは、こいつだ! 正直、敵だと思っている。

Windows

PS / PS2

PCエンジン

2005年7月19日火曜日

それでも君に言おう

多分、本当だったらこの間のミュージカル・バトン企画で取り上げるべきだった曲。

私がフランスの歌手パトリック・ブリュエルの歌を聴いたのは、NHKラジオのフランス語講座入門編でのことで、昔、ラジオフランス語では毎週木曜にフランスの歌を取り上げて紹介していたのでした。この企画は私にはすごく嬉しくて、このBlogを読んでいくとその証拠を見つけられるのではないかと思いますが、ひとつ言葉を学ぼうと思うごとに私は聴く音楽の範囲を広げていったのです。なかでも中国語とフランス語は私のうちに大きな割合を占めていて、そのどちらもが私にとっての大切なものとなっています。あの時取り上げたのが中国語の歌だったからといって、私の中でフランス語の歌、パトリック・ブリュエルの『それでも君に言おう』の価値が劣っているなんてことは断じてなく、この歌は、今も、昔も、等しく私の愛してやまない歌であることに変わりません。

私がこの歌の収録されたアルバムを探したのは1999年のことだったのですが、この時点ですでにアルバムは廃盤、入手不可能という状況でありました。ですが私はあきらめが悪くできていて、中古レコード店や海外ショップなどあちこちを探してみて、けれどそれでも見つからない。手に入りそうな気配さえもない。正直、一度はあきらめてしまったのでした。

ですが、2001年に再び探してみたところ、なんとか見つけることができて、こうしてやってきたAlors Regarde。あの時は、頭っから見つからないものだと決めつけていましたから嬉しかった。本当に嬉しくて、支払った額は結構なものでしたが、けれどちっとも惜しいとは思いませんでした。

この歌は、本当に静かに、語りかけるように歌われる名曲で、すごく素敵なのです。それでも君を愛していると言おう — 、もう別れようというそのときに声を荒げるでもなく、感情をむき出しにするでもなく、本当に静かに告げられる « Je t'aime » の一言。この言葉が心に沁みるのは、ブリュエルの歌声に感じやすく傷つきやすい心を見てしまうからかも知れません。あるいはフランス語という言葉の力でしょうか。いずれにせよ、私はこの歌に繊細なる青年の像を思うのです。

蛇足

今、Patrick Bruelで調べてみたら、結構アルバムが出ていて驚きました。以前は本当に情報が少なくて、パトリックで調べたらパトリック・ヌュジェばっかり出てきてまいったものです。このときのことを、後にヌュジェ氏に直接文句いったらば、ブリュエルについていろいろ教えてもらえてちょっとラッキー。

パトリック・ブリュエルは一時期調子を悪くしていたのか、メディアに登場しなかったのだそうですが、復帰後は活躍されているようで私も少し嬉しくて、だからちょっとずつでもアルバムを買い集めてみましょうか。そんな気持ちになっています。

2005年7月18日月曜日

E. T.

 昔の映画パンフレットを出してきて、なんだか懐古的気分に襲われてしまったので、今日は『E. T.』でも取り上げてみようかと思います。あ、大丈夫。明日は『フラッシュダンス』とかいうことはありませんから、安心してください。

E. T.は、もはや説明不要のSF古典映画であると思うのですが、若い人だと知らなかったりわからなかったりするでしょうか。一人地球に残された地球外知的生命体を、大人の手から守ろうとする少年たちの奮闘がみずみずしくも感動的な、素晴らしい映画でした。E. T. ウチカエル (E. T. Go Home)は流行語にもなりました。そして、あの指先を合わせる印象的なしぐさを皆してまねして、ええ、あの頃の日本はE. T.に夢中でした。

どれほど日本人が『E. T.』という映画に夢中であったかは、その配収を知ればわかるのではないかと思います。その記録的配収は96億円! 1150万人の動員を記録したのでした。この記録は1997年公開の『もののけ姫』に破られるまでの十五年間、まさに映画の金字塔として燦然と輝いていたのでした。ちなみに『もののけ姫』の配収は113億円。1350万人を動員しています。

ちなみに、邦画の記録は『南極物語』の59.5億円。邦画、洋画のチャンピオンを見に行った私は、さながら当時の標準的な日本人であったわけですが、『もののけ姫』は見に行きませんでした。この十年あまりの間に、私の身になにがあったのでしょうか。ま、そんなのはどうでもいいことです。

『E. T.』は、主役のエリオット少年がけなげだったんですよね。子供たちで集まって、E. T.を隠すというそのギャングエイジ的シチュエーションもわくわくするのですが、そんな中で深くE. T.と心を通わせていたエリオット少年がやっぱりよかったのです。

エリオットは、本当にE. T.のことを好きだったことが伝わってくるのですね。うちに電話したいというE. T.とともに通信機をこさえ、そしてE. T.の危機には憤然と食い下がり、そして彼ら子供はE. T.を自転車のかごにのせ、大人たちの世界から逃げだすのです。

こうして、言葉にすれば陳腐かも知れません。あまりにありきたりのストーリーと思われるかも知れません。ですが、見ればきっとわかる。見ればわかるのです。彼らの間にあった絆は言葉で語れるものではなく、それは実際に見て、その細々としたしぐさ、表情のやり取りの中に見つけ出されるべきものなのです。そして一旦その友情の深さに気付けば、もう引き返せませんよ。我々視聴者はE. T.、エリオット少年とともに空を飛び、そして切ない別れを経験することでしょう。

あのとき、まだ子供だった私は泣きました。映画館で、大人子供の区別なくすすり泣く声を聴いたのを、私は今も忘れません。

2005年7月17日日曜日

南極物語

  七月も中旬から下旬に向かおうとする今日、京都では祇園祭のハイライトともいえる山鉾巡行がおこなわれました。私は学生の頃には、毎年のように祇園祭にいっていたのですが、この数年はまったくといっていいほどいっていません。今年も、テレビで中継を見るだけですませてしまいました。

祇園祭、祇園祭といえば忘れられない印象があります。子供の頃に家族総出で見に行った映画『南極物語』に祇園祭の京都が出てきて、私は幼稚園児の頃から祇園祭が、あの鉾というのがもう本当に好きでしたから、このシーンがすごく印象的で鮮やかで、大人たちが難しい話をしているという以上に理解できなかったこのシーンを、はっきりと胸に刻みつけるほどに鮮烈にとらえたのでした。そんなせいか、今となっても祇園祭の季節になれば、南極の冬を越えた二頭の犬のことを思い出します。

私がタロとジロのことを知ったのは、いったいいつごろのことでしょうか。私の育った七八十年代には、南極に泣く泣く置き去りにされた十五頭の犬のことを扱うメディアは多かったように思います。それは特に子供向けの本雑誌において顕著で、例えばそれは学研の科学であるとか、そういった雑誌だったのかも知れません。珍しくはっきりと覚えているのでは、学研のひみつシリーズ『犬のひみつ』でしょう。ですが、この本は従姉の持ち物でした。だから、今は残っていないのではないかと思います。

さて、タロとジロの物語は、当時の子供ならまず知っているといっていいほどに有名な物語でしたから、映画になったというときに見に行こうということになったのも当たり前のような話でした。製作がフジテレビ、学習研究社、蔵原プロであったことから考えても、テレビでのプロモーションもあれば、学研の学習雑誌でのプロモーションも盛んだったことでしょう。おぼろげな記憶を探れば、私は南極に置き去りにされた犬たちの名前や性格を熟知していたような覚えがあります。それが果たしてメディアのためなのか、あるいは映画館で買ってきたパンフレットのためなのか、そこまでは定かではありませんが、少なくとも私はあの犬たちと、犬たちの立ち向かった運命に、大きく心を動かされていたのです。

この映画で素晴らしかったのは音楽もそうで、多分テレビからだと思うのですが、『E. T.』や『フラッシュダンス』といった映画音楽を録音したカセットテープというのが手もとに残っていまして、今やカセットデッキも壊れてしまっているので聴くことはかなわないのですが、ですがこれらの音楽は本当に宝物のように思って聴いていました。そして、この中に『南極物語』のテーマ曲もあったのですね。

私が子供の頃は、今みたいに簡単にDVDやビデオで、好きな映画を好きなときに見るということがかなわない時代でしたから、こうしてテーマ曲を聴いて、パンフレットを読んで、好きだった映画の追想をするというのが普通でした。そうして私はいったい何度南極の過酷な自然に立ち向かった犬たちの物語を追想したことでしょう。それはあたかも、自分がその場に立ちあったかのような思いで振り返ったのだと思います。

DVD

CD

2005年7月16日土曜日

ARIEL

  そんなわけで『ARIEL』。って、単純やな!

『ARIEL』といったら、私が高校の図書室に通っていたときに、好きで借りだして読んでいたシリーズで、巨大女性型ロボットを駆り地球侵略をたくらむ悪い宇宙人と戦う美人三姉妹(一番上は従姉なんすけどね)という、実にマニア心をくすぐる設定が魅力のノベルです。なにが面白かったといえば、序盤に見られたハイテンション・スラップスティック系ギャグやパロディなんかもそうですし、中盤から後期にかけての微妙にシリアス展開もよかった。けどなにが一番いいといっても、敵方の宇宙人も含めた魅力的なキャラクターでしょう。侵略する側される側が、それぞれの事情思惑でもって慣れあったり、けどやるときはやってみたりという、そういうメリハリのあるどたばた展開が面白かったなあと思います。

私が高校の頃に読んだのは、多分第7巻までですね。宇宙海賊パスク・ダ・ルーマーとか、覚えてますからね。でも、この頃で好きだった話というと、第5巻収録の修学旅行編。だって、舞台が京都ですよ。嵐山渡月橋付近に降下兵が降りる場面なんかは、なにしろ嵐山にはうちの墓がありますから、庭みたいなもんですよ。道路沿いの商店の並び、松の枝ぶりまで目の前に浮かぶかのようで、すごい臨場感。めっちゃくちゃ面白かったですね。それに倒錯美少年ニコラスとの会見のシーンもよかった(シモーヌが可愛いんだ)。目茶苦茶お気に入りの話でした。

あとお気に入りといえば、第6巻のシモーヌ結婚編もよかったなあ。この話、地球をはるか離れたところで展開されるもんだから、全然ARIELとか出てこないんですが、こういう宇宙人側のいろいろがすごく楽しいのですよ。艦長がシモーヌをさらいに(?)単騎乗り込む場面の描写などは、まさに逸品。もう大興奮でしたよ。

とまあ、こんなふうに『ARIEL』は各巻ごとに見せ場があって、それがすごく面白くて、一級のエンタテイメントでありますよ。でもただ楽しいばかりではなくて、後に出てくる原爆を積んだボックス・カーが現代に迷い込む話みたいにちょっとシリアスなのもあって、特にタイムトラベラー、ユリのからむ話はなんだかしんみりさせるものが多かったような覚えがあります。うん、あのへんの話も好きですよ。

ほかにも見どころはいっぱいあります。クレスト・セイバーハーゲンの強烈なインパクトにも酔いましたし、宇宙怪物(古代兵器でしたっけ?)との電子戦にも燃えたっけなあ。ともあれ、どの巻にも燃える展開があって、私は大学卒業してから『ARIEL』を買いそろえたのですが、司書の資格を取りに通う道々で読んだ『ARIEL』の懐かしいこと。いや、懐かしんではおられないですね。なんといっても番外編が出ているようですから、また買ってこないといけません。

『ARIEL』の旬は、間違いなく平成が一桁台の時分で、だから今のアニメファン、漫画ファンからすると、ちょっとなじみにくいところはあるかも知れません。ですがこのちょっと古い感じもしないでもない『ARIEL』が星雲賞に輝いたというのは、やっぱり私みたいな、長い間この作品に触れてきて、当時の友人やら過ごしてきた季節やら、思い出にまみれてなんだか言葉にできないような感慨にとらわれるやからが多かったからなんじゃないかと思ったりします。

思えば長いですもんね。二十年弱に渡って展開されてきて、いや、本当に長い間お疲れさまでした。

蛇足

また一巻から読み返してみよっかなあ。

  • 笹本祐一『ARIEL』第1巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,1987年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第2巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,1987年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第3巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,1988年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第4巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,1989年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第5巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,1989年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第6巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,1990年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第7巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,1991年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第8巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,1993年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第9巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,1995年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第10巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,1996年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第11巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,1996年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第12巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,1997年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第13巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,1998年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第14巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,1999年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第15巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,2000年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第16巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,2001年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第17巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,2001年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第18巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,2002年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第19巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,2003年。
  • 笹本祐一『ARIEL』第20巻 (ソノラマ文庫) 東京:朝日ソノラマ,2004年。
  • ARIEL読本』東京:朝日ソノラマ,2004年。
  • 笹本祐一『侵略会社の新戦艦』(ソノラマ文庫;ARIEL番外編第1巻) 東京:朝日ソノラマ,2005年。

第36回星雲賞受賞作品リスト

遅まきながら、第36回星雲賞受賞作品のリストを入手しました。情報を提供くださった無名の有志の方には、感謝いたします。

私にとって嬉しいのは川原泉の『ブレーメンII』が選ばれた(祝!)こともそうですが、同様に笹本祐一『ARIEL』が日本長編部門を受賞したこともやっぱり嬉しくて、好きで読んでいた作品がこうして評価されるというのは、読者にとっても喜ばしいことであると素直に思います。

第36回星雲賞受賞作品リスト

日本長編部門
笹本祐一『ARIEL』朝日ソノラマ
(小川一水『復活の地』早川書房)
日本短編部門
飛浩隆『象られた力』早川書房
(小林めぐみ『食卓にビールを☆伝説のスネークマスター篇』富士見書房)
海外長編部門
イーガン,グレッグ『万物理論』山岸真訳,東京創元社
(ウィリス,コニー『犬は勘定に入れません — あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎』大森望訳,早川書房)
海外短編部門
スタージョン,シオドア『ニュースの時間です』大森望訳,早川書房
(マーティン,ジョージ・R・R『アイスドラゴン』酒井昭伸訳,早川書房)
メディア部門
『プラネテス』監督:谷口悟朗,サンライズ
(『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』監督:ピーター・ジャクソン,配給:ヘラルド=松竹)
コミック部門
川原泉『ブレーメンII』白泉社
(道原かつみ『ジョーカー・シリーズ』新書館)
アート部門
新海誠
(加藤直之)
ノンフィクション部門
前田建設工業株式会社『前田建設ファンタジー営業部』幻冬舎
(山本弘『トンデモ本? 違う、SFだ!』洋泉社)
自由部門
国際交流基金『おたく:人格=空間=都市ヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展 — 日本館出展』
(国立天文台(阪本成一他)『有名望遠鏡ペーパークラフト』)
星雲賞特別賞
矢野徹

(括弧書きは次点作品)

受賞作もそうなのですが、惜しくも賞を逃した作にしても、こうしてずらりと並びますと、読んでみたい、見てみたいという興味が湧いてきますね。

なんか、私も読んでみましょうかね。なんかわくわくしますね。

出典

川原泉『ブレーメンII』が第36回星雲賞(コミック部門)を受賞

我が敬愛する漫画家川原泉が、『ブレーメンII』にて、第36回星雲賞を受賞したとの報を受けました。まだ未確認情報ではありますが、詳細がわかり次第、続報をお知らせします。

星雲賞については、日本SFファングループ連合会議星雲賞についてを参照ください。

参考

2005年7月15日金曜日

くじら日和

 今日、仕事帰りに書店によったら『ホームメイド』の二巻が出ていて、もちろん買いました。『ホームメイド』の作者谷川史子は、私の好きな漫画家の最上位級に常に位置していて、私はこの人に魂を捧げても悔いないと、そういいきれるくらいに好きな漫画家です。

で、家に帰って、メールを出しました。私の、昔の職場の人で、大学の先輩で、たしか『愛はどうだ』だったと思うんですが、二冊買っちゃいましてね、一冊目がちょっと傷んでたんですよ。だから買い直し。私には、小さなことには頓着しない時期と、ささいなことにも一喜一憂する時期がそれぞれ別個にあって、ちょうどその頃ナーバスな時期だったんですね。だから、裏表紙についた傷に我慢できず、二冊目を買って、その最初の一冊を件の人にあげたのでした。そうしたら、もうドンピシャというか、その人も谷川ファンにならはりまして、ええ、それ以後、新刊が出るたびにその人にメールで知らせているのです。

私が谷川史子を発見したのは、ちょうどりぼん本誌で『くじら日和』が連載されているのを見たのがきっかけで、私はその頃ちょっとわけあってりぼんを購読していたのでした。りぼんは少女漫画なので、やっぱり甘くきらきらした、いかにも少女漫画ですという絵柄にあふれていて、けれどそんな中に異彩を放っていたのは谷川史子でありました。

悪くいえば地味なのかも知れません。お話もあまり派手さはなく、きっちりと少しずつ進めていくタイプ。当時のはやりだった、魔法とか変身とかプリンセスとかそういうとっぴな設定もない、本当に身近な世界をていねいに描いていくという、そういう堅実さが感じられて、私はこの人はいいなと思いました。

けど、その頃はそこまで。私が『くじら日和』を単行本として買ったのは平成10年。大学院の二回生の頃。その頃私はなんだか空しさがいっぱいで、なんか悲しくって、そうした苦しさをなんとか埋めたいと思って、その時に読んだのが谷川史子をはじめとする少女漫画であったのです。いろいろ買って、読んで、そしてやはり谷川史子はよいと、論文に向けて心をやせ細らせる一年を、こうした漫画に支えられて越しました。

谷川史子のよさは、朗らかであること — 。ほのぼのとした明るさがあって、そしてその向こうにセンチメンタルにゆれる心があるところ。谷川のヒロインは、みんなすごくけなげだと思う。思いが受け入れられないつらさを見つめ、苦さを噛みしめ、時には迷いにぶれながらでも、けれどまっすぐに自分の望む未来に手を伸ばそうとする。そうしたヒロインは本当にりりしくて、決して折れないしなやかさなこころの持ち主だと思います。こんなふうに私は『くじら日和』のヒロイン勇魚に理想を見て、なんと気持ちがいいんだろうと思って、そうして谷川史子ごと好きになったのです。

谷川史子の絵に表れる笑顔は、とってもいい笑顔で、ちょっと他にないあたたかでやわらかな気持ちがあふれています。どんなに泣いても、苦しんでも、最後にそうした笑顔があるから、私は谷川の漫画にひかれるのだと思います。

蛇足

今日買った『ホームメイド』第2巻。なんと、表紙にかすかな傷がいっていて、大ショック。書店では気付かなかったんですね。指で触れてもわからないような傷で、真っ正面から見てもわからないような傷で、けど光にかざすと見えるんですよね。

ううう、ヒロインの、日和子の顔にななめにいってるというのが耐えられないような気がします。二冊目を買って、また谷川ファンを増やせというご神託なのでしょうか、これは!

  • 谷川史子『くじら日和』(りぼんマスコットコミックス) 東京:集英社,1993年。

2005年7月14日木曜日

メイキャッパー

   先日、『鉄鍋のジャン』を評して、少年チャンピオン連載の面目躍如だなんていっていましたが、今日紹介しようという板垣恵介もまさに少年チャンピオンらしい作家です。板垣恵介は『グラップラー刃牙』でよく知られた漫画家で、この『グラップラー刃牙』というのもまたすごいのです。格闘の漫画なんですが、世にあふれ返る格闘漫画とは一味も二味も違って、まさに独特の価値、孤高の位置を確立しているといってもよいでしょう。絵がすごく、せりふまわしがすごく、そして表現がすごい。あまりにも強すぎる灰汁のせいで、嫌い、読めないという人も少なくないと思いますが、しかし少年チャンピオンという雑誌は、こうした灰汁の強さに決してひるむことなく堂々掲載してみせて、ほかにはない個性を主張するかのよう。その誌面は強烈にして芳醇。軽佻浮薄のはやりすたりなど意にも介せぬ名作の森といってよいかと思います。

さて、今や板垣恵介といえば『バキ』の人みたいになってしまっていますが、デビュー作は格闘漫画ではなかったのです。そのタイトルは『メイキャッパー』。メイクアップ、すなわち化粧を題材とした漫画で、その時はまたチャンピオンではなく『ヤングシュート』という雑誌に連載されていたのだそうです。

しかし、メイクアップが題材といっても、さすが板垣恵介というべきか、他に類を見ない、独自の味を出しています。デビュー作ということもあって、まだ絵もあっさりとしていますし、話も非常に素直にできているのですが、しかしそれでもやっぱり板垣恵介だ、と思わせるのだから、よほど最初から歩もうという道を決めていたんだなあということがわかります。

『メイキャッパー』の基本線にあるのは、自信を持てというメッセージなんだと思うんですね。どうしても弱気になってしまうところを、まずは見た目を整えてやるから、堂々といけよというそういうメッセージがあって、こういうシンプルさは嫌いじゃないです。そして自信を勝ち取るためには努力を惜しむなというメッセージが続く。ええ、こういうメッセージも嫌いじゃないです。

私ははじめて板垣恵介の経歴を見たときに驚いたのですが、この人が漫画家になろうと決めたのは二十五の時というのですね。いうならばレイトスターターで、けれどこの人は十年後には結果を出していたのです。おそらくはレイトスターターであることの不利も感じたでしょうし、焦りもあったのではないかと思います。ですが、それでも不断の努力を続け、目指す位置にたどり着いた。そうした、ありたいと思う自分にたどり着くための努力、そして獲得した自信というものが『メイキャッパー』にはほのかに漂っていると感じられます。

ちなみに私は『メイカー』に度肝を抜かれた口です。『メイカー』は『メイキャッパー』第3巻に収録されています。『メイキャッパー』とはちょっと違っていて、けれどこれにも板垣恵介らしさは満ちていて、— すごいですよ。本当にこの人はただものではないと思いますから。

  • 板垣恵介『メイキャッパー』第1巻 (少年チャンピオン・コミックス) 東京:秋田書店,1997年。
  • 板垣恵介『メイキャッパー』第2巻 (少年チャンピオン・コミックス) 東京:秋田書店,1997年。
  • 板垣恵介『メイキャッパー』第3巻 (少年チャンピオン・コミックス) 東京:秋田書店,1997年。

引用

2005年7月13日水曜日

ウッドストック — 愛と平和と音楽の3日間

 かつてアメリカで、ウッドストックという音楽フェスティバルが開かれたことはさすがの私も知っていて、いったいどこでそんな知識を仕入れたのかはわからないのですが、中学生か高校生の頃にはこの名前を耳にしていたはずです。ですが、当時の私にはウッドストックとラブ&ピースは知識だけのもので、長くその実態を知らぬままにしてきました。ところが、今やなんとそのウッドストックを記録した映画が千円ちょっとで買えてしまうのですね。こんな歴史的な大イベントを、自宅で好きなときに好きに見られるというのは、ものすごい贅沢であると思います。私が子供の頃には思いもしなかったような、そんな時代に今自分はいるのだと、嘘いつわりなく思います。

ウッドストックを、映像によって追体験してみて、私は本当に圧倒されるような思いがしました。音楽が社会のまっただなかにその存在を主張していて、若者は音楽に自分の迷いも誇りも、問題意識も、喜びも、なにもかもを託していたんだと実感して、これは本当の奇跡であると思いました。

ニューヨーク郊外の特設会場に、全米から集まった四十万の若者という、その数もすごいのですが、そんな状況の中で特段の混乱も引き起こすことなく、本当に音楽を楽しんで、音楽をよりどころにひとつの価値、意味を共有し合ったのだということが奇跡です。流れてくる音楽は、今も通用するようなものばかり。Crosby, Stills & NashやThe Whoの歌などは今でも普通に耳にしますし、Joan Baez、Jefferson Airplane、Santanaなんかも最高。Sly & The Family Stoneのパフォーマンスは必見ものの素晴らしさで、そしてしめのJimi Hendrix。もう、こりゃたまりませんよ。この時代の音楽にちょっとでも興味があるなら、これを見ない手はありません。もう、宝の山といえるでしょう。

登場アーティストの中で、私が知っていたのはようやく半分というところでしょうか。しかし私の知らなかった人もやっぱり素晴らしくて、Richie Havensは私にとっての大発見でした。時代が時代だから、エレアコなんてのは使われてなくて、エレキギターにしてもエフェクターに凝らない本当にシンプルでソリッドな音を出していて、こうした素朴さと、それを素朴と感じさせない奥に秘められた力、音楽の力と伝えたいものがあるという強さが素晴らしくて、私はやはりこの時代とこの時代の音楽が好きなのだと再確認しました。

思い返せば、この頃がアメリカが一番輝いていた時代なんだと思います。1969年ですから、アポロ宇宙船が月に着陸したのがこの年です。ベトナム戦争のまっただ中で、前年にはソンミ村虐殺事件が起こっていたものの、まだアメリカの勢いは続くと信じられていたのがこの年(この妄信は『ウッドストック』のインタビューからも感じ取れるはず)で、そして二年後にはニクソン・ショック、スミソニアン合意。— アメリカはその勢いに陰りをみせ、混迷をいよいよあらわにしてゆきます。

そういえば、ウッドストック・フェスティバルの前年にサイモンとガーファンクルが空っぽである苦しさに悩む若者を主題に歌っていました。彼らのアメリカを探す若者たちの歌はアメリカの黄金時代の終わりをすでに見越していて、とすれば、ウッドストックの若者たちも同様に空っぽの苦しみに耐えかねて、アメリカを見つけるためにあの場所に集まったんじゃないかなんて思えます。

だとすると、あの奇跡のような三日間というのは、本当にアメリカの理想や夢がかたちになった、最後の輝きであったのかも知れません。

余談ですが、このDVD、なんと両面です。私ははじめて両面ディスクを見ました。Side Aが終わればB面にひっくり返しにいくのですが、こういうのがなんかLDを思い出させて、そういうところもちょっと懐かしさというか、心をくすぐってくれますね。

2005年7月12日火曜日

鉄鍋のジャン

  世に料理漫画は山とありますが、中でも『鉄鍋のジャン』は群を抜いて独創的です。まずなんといっても出てくる登場人物が尋常ではありません。主人公からして悪役としか思えない風貌、言動、行動を連発して、カカカカカーッという高笑いはどう考えてもおかしい。だって、これ料理漫画ですよ。料理で勝負して、勝ち負け決めてというのは前世紀末の流行ではありましたが、それにしてもこれほどまでに異常性を発揮した漫画は他にありませんでした。さすがは少年チャンピオン連載の面目躍如といったところでしょう!

けど、そんなジャンから目が離せないんですよね。いや、ジャンだけってことはありません。なんといってもこの漫画に出てくる料理人は、片っ端からおかしなやつばかりですから、もうやることなすことに釘付けです。それこそ連載のごく初期にいた、他の料理漫画だったら主人公のライバルとかをやってそうな程度の料理人は、あっという間にモブ扱いですよ。『鉄鍋のジャン』においては、まともなやつから脱落すると決まっているようです。

そういえば、見た目、言動はまともそうなヒロイン五番町霧子も、中身は決してまともじゃないもんなあ。この漫画の主要登場人物で、回が進むほどにまともになったのっていったら、五番町睦十の外見だけ(外見だけ)じゃないかなんて思ったりします。

私はチャンピオンをちゃんと読んだ期間というのは極めて短く、だから私が『鉄鍋のジャン』を本誌で読んだといったら、血の卵のデザートから文庫にして一冊ちょっと分くらい。ほとんど『鉄鍋のジャン』については知らないといいってもよいかと思います。ですが、たったこれだけしか読んでいなかった私にも、ガツンと一撃を食らわせて、特別な漫画として意識させ続けて、結局文庫を買っちゃってますからね。後から効くのは、まさに秋山の魔法なのでしょう。目が離せない、先を先を読みたいという欲求に突き動かされて、買わずにはおられなかったのです。

さて、今日は面白い記事をちょっとご紹介。

このBlogのリンクにもありますが、『もの好き もの子のモノ日記』の記事が実に秀逸で、なにがいいかといっても「美味興奮顔」分析。大谷日堂(料理評論家でもちろん異常)をモデルに、西条真二の描く「美味しくて興奮してる顔」がシンプルに分析されているのですが、やられました。まさに、こら、うまいでぇ、というよりない見事な分析でした。

ちなみに私が一番好きな表情は、豆腐料理の課題で秋山の魔法が炸裂した直後に見せる、ケペル・ハインツ・ルンメニゲ(栄養学が専門、意外と普通の人)の期待にあふれたあの顔。これを一気にすすりあげるんだな、ふむふむというせりふも相まって、妖しさが爆発しております。もう本当に素敵なので、皆さんもぜひ一度ご覧になってください。

  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第1巻 おやまけいこ監修 (MF文庫) 東京:メディアファクトリー,2005年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第2巻 おやまけいこ監修 (MF文庫) 東京:メディアファクトリー,2005年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第3巻 おやまけいこ監修 (MF文庫) 東京:メディアファクトリー,2005年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第4巻 おやまけいこ監修 (MF文庫) 東京:メディアファクトリー,2005年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第5巻 おやまけいこ監修 (MF文庫) 東京:メディアファクトリー,2005年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第6巻 おやまけいこ監修 (MF文庫) 東京:メディアファクトリー,2005年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第7巻 おやまけいこ監修 (MF文庫) 東京:メディアファクトリー,2005年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第8巻 おやまけいこ監修 (MF文庫) 東京:メディアファクトリー,2005年。
  • 以下続刊
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第1巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1995年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第2巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1995年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第3巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1995年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第4巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1995年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第5巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1996年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第6巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1996年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第7巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1996年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第8巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1996年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第9巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1996年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第10巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1996年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第11巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1997年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第12巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1997年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第13巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1997年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第14巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1997年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第15巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1998年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第16巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1998年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第17巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1998年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第18巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1998年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第19巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1998年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第20巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1999年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第21巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1999年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第22巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1999年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第23巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1999年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第24巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,1999年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第25巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,2000年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第26巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,2000年。
  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第27巻 おやまけいこ監修 (少年チャンピオン・コミックス ) 東京:秋田書店,2000年。

引用

  • 西条真二『鉄鍋のジャン』第7巻 (東京:メディアファクトリー,2005年),251頁。

2005年7月11日月曜日

ミュージカル・バトンのまとめ

数夜にわたって展開してきましたミュージカル・バトン企画。ここにそのまとめと、最後の質問への答えを記そうと思います。

と、その前に挨拶を一言。ミュージカル・バトンは、なかなか簡単には答えられないものではありましたが、けれどそれだけに面白かったです。あらためて自分の音楽履歴のようなのを振り返るきっかけになって、いつものお試しBlogとはちょっと違った発想が得られたと思います。うん、楽しかったです。

では、ここに数日にわたるミュージカル・バトンのまとめをいたしましょう。

Q1 コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量
30.63GB
Q2 今聞いている曲
Black Shoes from ZENPEN/COWHEN
Q3 最後に買ったCD
振り返るには早すぎる
Q4 よく聞く、または特別な思い入れのある5曲
ラモーのガボット
かえらなかった時計屋さん
河は呼んでる
サムライ
寫一首歌
Q5 バトンを渡す5人
……

これが、これがちょっと難しいんですよね。

そんなわけでどうでしょう。もしこの記事を読んで、ミュージカル・バトンも面白そうだと思った方がいらっしゃいましたら、どうぞご自由に参加なさってみてください。その際には、どうぞこの記事にトラックバックとかコメントをくださるとかしてくださると、私も嬉しく思います。

ところで、これは本当にルール違反ぎりぎりというか、もう私のわがままであるのですが、もしtsawada2さんがこの記事を読んでくださっていたら、どうかバトンを引き継いではくださらんでしょうか。もしtsawada2さんが受けてくださったら、私はそれだけで仕合せになれることでしょう。むりにとはいいませんが、できましたら!

あ、そうだ。タカジロウさんもぜひ! タカジロウさんの音楽傾向はなんだかものすごく知りたいです。現在93%の充電率ということは知ってますが、100%になった暁にはぜひお願いしたく存じます。

というわけで、どんどん調子にのったりなんかしまして、世代さんにもできればお願いしたかったりなんかして。それにshimio3さんもいかがでしょう? もの子さんは今もこのBlog見てくださってますか?

もちろん駄目だとか、気乗りしないとかいう場合は、どうぞ黙殺してくださいね。

寫一首歌

ミュージカル・バトン企画最終夜。問四「よく聞く、または特別な思い入れのある5曲」の五曲目は、台湾の歌手、順子(Shunza)の歌う『寫一首歌 (April 5, 1969)』。ギターがアルペジオにて奏でるイントロに、しなだれかかるようにかぶさってくる順子の歌声。極めて美しく官能的で、けれど順子の魅力はこれだけではありません。わずかにハスキーがかった声はまるで身に触れてくるかと思わせるほど存在感にあふれ、けれどエッジの立った歌声の小気味いい粒立ちも気持ちがよい。はつらつとしていた声はまるで若草のように伸びやかで、そこになまめかしい声の魔力が燐光を発して、— 私はあらがえませんでした。そもそも中国語というのは言葉そのものが音楽的であり、そこに順子の歌唱が加われば、なんぞ抵抗などできるものではないのです。

私がこの歌を知ったのは、1999年のNHK中国語会話の一コーナーであった「中国大茶館 我愛中国音楽」にて紹介されたのをきっかけにしてでした。今やはっきりとは覚えていませんが、街を歩く順子にオーバーラップして表示される、ギターのコードダイアグラムが印象的で、私はその頃にはまだギターは弾いていなかったのですが、この曲が私にギターをはじめさせたのは間違いなく事実です。私は、いずれこの曲を弾きたいと思っていて、美しい漢語の響きはメロディを超えてなお音楽的で、私は私の言葉にはないまた違う音楽の美しさを、中国語に感じて身震いをするかのごとくであったのです。

私には王菲も印象的でしたが、順子にはとにかくやられて、この年の近辺はもう中国にめろめろでした。中国はよいです。可能性にあふれています。そしてそれは音楽にこそ、と私は思っていて、今、私はその可能性はすべての言語に等しくあると思っていますが、ですがやはり音楽における中国語の魅力は一種魔力を秘めていると感じられてしかたがありません。その魔力にはもうあらがいがたく、順子は、順子はやはり最高であるといわずにはおられません。

ところで、『寫一首歌』のPVを収録したVHSが昔出ていて、私はこれをHMVで発見して、きっとNHKで取り上げられたものに違いないと思い注文、到着を心待ちにしていたのでした。けれど、待てど暮せどビデオは届かず、そしてついに届いたメールには! 絶版につき入手不可能との悲しい文言が記されていたのでした。

DVDで復刻してくれないかなあ。絶対買うんだけどなあ。本当にあれは、素晴らしい映像だったんですから。

2005年7月10日日曜日

サムライ

 ミュージカル・バトン企画第六夜。問四「よく聞く、または特別な思い入れのある5曲」の四曲目を紹介します。

私は、以前も話したことがあるのですが、子供の頃、沢田研二のファンでした。あの妙にでろんとした色男がなんで好きだったのか、今となってはなんでかまったくわからないのですが、とにかく好きで、どこにいっても片手にピストル 心に花束と歌う子供として近所では知られたものでした。もちろん好きだったのはこの歌だけじゃなくて、『勝手にしやがれ』や『6番目のユ・ウ・ウ・ツ』も思い出深く、後には『TOKIO』なんかもよく歌ったのですが、けれど子供時分の私はとにかく『サムライ』であったようで、片手にピストルと歌ってうんぬん、親からは歌詞付きで昔話を聞かされるのが常でした。

以前書いた文章をちょっと引用してみましょうか。

 幼稚園の頃、私のアイドルはジュリーであった。ジュリーとはいうまでもないことだが沢田研二である。近所で私は、どこに行ってもマジンガーZとジュリーの片手にピストルを歌う子供として有名であった。大人が歌わしていたわけではなく、自ら進んで歌っていたと聞いている。あまりのジュリー好きが高じて、親戚のおじさんを勝手にジュリーに仕立て上げ崇拝していた。似ていたわけでもないのに、子供というのは時として理不尽である。

とまあ、こんな具合だったんですね。大人の集まる寄り合いといえば、京都なんかには地蔵盆という風習がありますから、あれってね最後には大人が集まって酒飲みながら、祭の締めというのか、そういうのをしているんですが、多分そういう場にてててっと出ていって歌ってたんだと思います。

親戚のおじさんといえば、つい去年だったかおととしだったかに会ったときに、子供の頃勝手にジュリーにしていたということをばらしたんですが、いやしかし今更そんなことを聞かされても意味不明ですよね(いや、当時でも一緒か)。実際そのおじさんはちょっと色男風なんですが、そんなこんなで勝手にジュリーにして、勝手に崇拝対象にされて、まあ私もおじさんは沢田研二ではないことはさすがにわかっていたのですが、けど沢田研二をあまりに身近にしたいために、近所の手ごろな人をジュリーの依り代に祭り上げていた。まさに、ジュリーは子供時代の私のアイドルだったのです。

そして、子供だった私のもう一人のアイドルといえば郷ひろみなのですが、郷さんに関してはちょっとよこしまな読み替えがあって、アイドル郷ひろみの方が副次的な存在であったから、ちょっと素直に振り返りにくいのです。

なので、やはり子供時代のスターとなれば、私にはジュリーしかいなかった。今活躍する三十代くらいの人がその漫画とかでジュリーを取り上げたりしてるのを見ると、今でもああジュリーはかっこいいなあと思い嬉しくなります。ジュリーはこんなにも深く性根に刻まれているんだなあと、われながら驚いたりもするんですけどね。

そんなわけで、私は今もジュリーが好きです。あの人は、ほんとに最高だと思います。

引用

2005年7月9日土曜日

河は呼んでる

 ミュージカル・バトン企画第五夜。問四「よく聞く、または特別な思い入れのある5曲」の三曲目は、おそらく私が覚えているかぎり、最も古い時期に学んだ曲についてです。

私が通っていた幼稚園では、音楽に関係する特別なクラスがあって、放課後(っていうの、幼稚園でも?)に希望者だけが集まって、楽譜の読み方を習ったり、鍵盤の並びを習ったりすることができました。鍵盤といっても鍵盤ハーモニカだったのですが、このクラスの集大成が『河は呼んでる』。やたら大きな五線譜にならんだやたら大きな音符、階名も書かれていたことを思い出します。

私はこの三拍子の小品がたいへん気に入っていまして、今も階名で歌うことができます(って、そりゃ当たり前なんだけど)。ピアニカで吹いて、ピアノでも弾いて、小学校でリコーダーを習えばそれでも吹いてと、ただメロディをなぞるばかりではありますが、それでも気に入っていたことに違いはないのです。

さて、『河は呼んでる』ですが、私はこれがどういう曲であるかとかをずっと知らずにいたのですが、この正体がわかったのは大学を卒業してからのこと。テレビで見ていた『フランス語会話』でこの曲が取り上げられたのです。

忘れもしない名コーナー「ファビエンヌと歌おう!」に『河は呼んでる』が取り上げられると知って、私は色めき立ったのを覚えています。なんといっても、好きだったあの曲が歌であったことも驚きなら、それが私が好きで学んでいたフランス語の歌詞を持っているというのも驚きで、そう、『河は呼んでる』はフランスのシャンソンだったのでした。もともとは同名の映画『河は呼んでる』のテーマソングで、どうも世界的にヒットしたのだそうですね。特にテーマソングは広く歌われて、シンプルで親しみやすく、どこかトラディショナルに通じる雰囲気もあって、愛唱されたのでしょう。メロディも、初学者向けの練習曲として今もさまざまに用いられているようで、その広がりの多様さをうかがい知れようというものです。

実をいうと、私はこの歌はこの歌だけで知っていて、映画は見たことがありません。歌詞はフランス語会話のテクストをしっかり残しているから、いずれ私はこの歌をギター伴奏で歌えるようにするでしょう。

その日はいったいいつでしょうね。楽しみですね、楽しみですね。

DVD(映画)

CD

2005年7月8日金曜日

かえらなかった時計屋さん

ミュージカル・バトン企画第四夜。問四「よく聞く、または特別な思い入れのある5曲」の二曲目にまいりましょう。

思い入れのある二曲目は、やはり子供の頃の記憶に関わってきて、思い出のレコードの思い出深いあの歌。それは『かえらなかった時計屋さん』です。子供向け番組『ポンキッキ』の歌で、町外れで時計屋を営んでいるおじいさんが、ひょんな事件をきっかけに帰ってこなかったという、悲しいストーリーをもつ佳曲でありました。

ひょんな事件 — 悪いロボットが昔の勝負をつけようと、おじいさんのいる町にやってきたのでした。昔の勝負? そう、おじいさんはかつて正義の味方だったのです。ですが、寄る年波には勝てず、今は引退した身。それを知ったロボットは勝ち誇って乱暴狼藉を働くのでありました。

その時、町の平和を守るためにおじいさんがとった行動。それは気高さにあふれるものでありました。おじいさんの行動によりもたらされた結末は、子供心に深く突き刺さって、当初コミカルに思われたこの曲の奥に息づく物悲しさや情の深さが一時にあふれて、なんだか祈りたいような、そんな気持ちになったものでした。

さて、この曲なんですが、調べますと作曲がかのかまやつひろしなんですね。わーぉ、そいつは驚きだ(道理で名曲なわけだぜ)。作詞小橋洋司、作曲かまやつ、編曲川上了 、そして歌唱は若子内悦郎。若子内氏の主宰するMEGでは、『かえらなかった時計屋さん』を聴くこともできて、私はこうして広くこの名曲を紹介できることを心から嬉しく思います。

シンプルで、大きなエモーションにあふれた曲です。子供にも大人にも等しくうったえる、よい曲であると思います。ぜひ一度聴いてみてください。

2005年7月7日木曜日

ラモーのガボット

そんなわけで、マイ・ミュージカル・バトンもいよいよ佳境に入ろうとしています。すなわち、今日から問四「よく聞く、または特別な思い入れのある5曲」に答えていこうというわけです。佳境だなんて書いてしまっていますが、もし読んでみて面白くない場合は、コメントに面白くないぞと書いてくださってもいいですが、できればそうっと放っておいてください。

特別な思い入れのある曲として最初に思いついたものというと、子供時分に聴いたレコードに収録されていた曲、ラモーのガボット。オーボエとチェンバロのごく短い小品なのですが、ちょっと哀愁のある旋律とオーボエのきらきらしてけれど物悲しさも感じさせる音色がすごく素敵で、子供時分といわず今でも好きな曲のひとつです。

でも、問題があるんですね。作曲者はラモーとわかっています。しかし、この曲がどんな曲集だとか組曲だとかに含まれているかがわからないのです。世の中にはよくしたもので、『音楽テーマ事典』というテーマから曲を調べるためのツール(全三巻)もあるのですが、これで調べてもわからず。バロックを得意にしている職業演奏家に聞いてみてもわからず、とこんな感じで未だに謎の曲であるのです。

問題のレコードは今も手もとにあるのですが、詳しい解説の書かれた本文はもうすでに手もとにはなく、けれどその本文にしてもそれほど詳しい情報を与えてはくれなかったと記憶しています。そもそもこのレコードが、小学生向けの学習百科事典の付録であったことを考えて、初等教育向けの音楽鑑賞教材なんてのも調べたこともありましたがそれでもわからず。未だに謎のままなのです。

私は大学に入るときの試験で、小論文のテーマこそは忘れましたが、この曲について書いたのでした。子供時分に好んで聴いていたこと、しかし詳細はよくわからないこと。ガボットといえば有名なのはゴセック作曲のものであるが、私には断然ラモーの方が美しく、魅力的であったことなどなど。このときからざっと十年以上が経過していますが、未だに同じ思いを持ち続けているように思います。

あるいは腰を据えてラモーの全集みたいなものを片っ端から調べればわかったのかも知れませんが、そこまで調べなかったのは、この曲の正体があらわになることを恐れていたからかも知れません。けれど知りたい思いもあり、いや、やはり知りたいのだと思います。

こういったものは、いったいどこに問い合わせたものなんでしょうね。

2005年7月6日水曜日

振り返るには早すぎる

ミュージカル・バトンというのを見かけることも多くなって、あちこちのBlogやら日記やらPodcastやらで公開されていますね。人の回答を見るというのは結構面白いもので、この人はこんな曲も聴くのかと意外であったりするのが楽しいです。特に問四の「よく聞く、または特別な思い入れのある5曲」というのがいいですね。まあ、答えようとなると簡単でないのもこの設問なんですけど、それだけにみんな苦労するからか、面白いものができるのもこの設問であると思います。

でも、今日はまだ答えやすい設問です。問三「最後に買ったCD」。これはもうなにも考えなくても決まっているものですから、考えたりひねったりする必要がありません。

私の一番最近買ったCDは豊田勇造氏の30周年記念ライブ盤『振り返るには早すぎる』。2005年6月25日土曜の夜、京都方面行き最終列車を待つ阪急十三駅のホームで出会った人が豊田勇造氏。来週、拾得でライブをやるからおいでよと誘われて、いったその拾得にて買ったのがこのアルバムでした。

私は豊田勇造氏のことは、駅で出会ったその日までまったく知らずにいたのですが、けれどライブは本当によかった。なんというんでしょう。拾得という場の持つアットホームな雰囲気、聴衆たちは知らない人とかどうとか関係なく打ち解け合うような親しさがあって、私がこれまでいったどのライブとも違う空気が流れていました。そしてステージがはじまれば、この雰囲気は勇造氏の持つ暖かさみたいなもんもあるんじゃないかと思って、パワフル! クール! そしてリリカル。そこには本当の歌がありました。言葉とメロディが互いに互いを必要として寄り添ってできあがるものが歌であると、私は思わずにはおられませんでした。

アルバムは拾得についたその時にもう買っていて、帰りにサインをしてもらいました。紙ジャケットの飾らぬ三枚組。けれどこれがまたいい。拾得でのライブ音源をメインに編まれているのですが、その日の空気が伝わるようではありませんか。7月の2日に私が体験したような高揚やなにかは、やはりその日にもあったのだと、そしてそれはその日限りの、特別なものであった。そういうライブ感が感じられる好アルバムでした。

収録曲ももちろん素晴らしく、なんだろう、 — これは本当の人間の声です。本当の人間の歌です。

2005年7月5日火曜日

ZENPEN/COWHEN

 私が最初にミュージカル・バトンを知ったのは、masatsuの旦那から打診を受けたのがきっかけで、けれどその時は、なんとなく流してしまいました。なんというんでしょう、乗ろうかなと思わなかったわけでもないのですが、きっと次に回す相手で苦労するだろうなと思い、また旦那の配慮もあったもんですから、流してしまったのでした。

しかし、いかな私も、その後二名からバトンを渡されることになろうとは思っていませんでした。一人は同じ大学に通っていた友人チッヒー。もう一人は、読む漫画の好みが似ている縁で知り合った水島猫月氏。これだけバトンが回ってきているというのに、まったく応じないというのも野暮というもの。なので、ちょいと私もミュージカル・バトンとやらをやってみますよ。

ではでは、まずは問一に答えましょう。問一は「コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量」。iTunesを開いて確認すれば、30.63GBと出ました。8,368曲、全曲聞くと23.4日かかります。

私のiTunesライフに関しては、iTunesライブラリの完成もあわせてご覧くださいな。

問二、「今聞いている曲」。これは、バトンを受けた時点に聴いていた曲で答えましょう。BAHOのDVD『ZENPEN/COWHEN』に収録の、Black Shoes。この曲は二人のお気に入りなのか『East vs West』や『BAHO de Tremendous』にも収録されていて、そのそれぞれがそれぞれの持ち味で面白く、ああこれってライブの醍醐味だよなあと思います。

私はBAHOのDVDは一応すべてそろえてみて、それで一番気に入ってるのはこの『ZENPEN/COWHEN』。演奏される曲のバリエーションも豊富で、アコースティックだけでなく、エレキもありという幅広さ。けど、ストラトがあるのに「スモーキー」をアコースティックギターでやって、そしたらアームがないもんだから、ネックベンド(ネックをぐーっと力で押して、音程を下げる荒技。下手するとネックを折るのだ)を決めて、めっちゃくちゃ恰好いいですよ。もうすごいの。見ないと損よ、といいたいぐらいにクールなのだ。

『ZENPEN/COWHEN』の次にお勧めなのは『BAD HOT SHOW』なんですが、実質このふたつに差なんてあるもんじゃありません。どっちも恰好いい。どっちもクール。ただその質、傾向がちょっとずつ違うというだけの話です。

さて、私はわがままにも、ミュージカル・バトンを数日にかけて書いていこうかと思います。というわけで、明日に続きます。

参考

2005年7月4日月曜日

花の湯へようこそ

 私の四コマの好みはどうも微妙なラインに寄っているようで、単行本が出たり出なかったりするような、そういうところに位置する漫画が好きで困ります。そうした位置を占める漫画というのは、ネタにせよ見せ方にせよ穏当なものが多くて、私はそういう穏当さを求めているところがあるから非常に合うのですが、穏当ということはパンチにかける、あるいは地味ということにもつながって、面白いのにもったいないと思うことはよくあります。

渡辺志保梨もそういう微妙なラインなんじゃないかと思っていたので、『花の湯へようこそ』が単行本化すると知ったときには、嬉しかったです。

渡辺志保梨はまんがタイム系列誌では連載を三本持っていて、『花の湯へようこそ』、『ごちゃまぜMY Sister』、『大人ですよ?』とあったのですが、この中で一番私が好きだった『大人ですよ?』は『ごちゃまぜMY Sister』に押し出されるかたちで連載終了してしまって、これは私に好かれた漫画は早々終了するジンクスのためなのか!? でも『ごちゃまぜMY Sister』も決して嫌いじゃないから、どれを選べといわれても困ります。だから、どれもを読めた時代というのは仕合せであったなあなどと、昔を懐かしむのでありました。

『花の湯へようこそ』は、『まんがタイムナチュラル』に連載されていた漫画で、ナチュラルがなくなったときに、雑誌ごと消えてしまうのではないかと危ぶまれたのを思い出します。基本的にシンプルな四コマが連続する、ある種昔気質の四コマ漫画なんですが、すっかりレギュラー化している銭湯花の湯の常連たちは、おなじみさんの醸し出す親しみやすさなんてのを読者にも感じさせてくれて、こういうところが人好きのする理由になっているんじゃないかなと思います。

ほの暖かい感じが微温的ギャグとあわさることで、ほっとできるリラクゼーション空間を、— なんていったらうまいこといいすぎですが、実際、渡辺志保梨の漫画のよさというのは、この穏やかなところ、落ち着けるゆったりとした流れの心地よさにあると思っています。

ところで、『花の湯』は銭湯を舞台とした漫画だから、それこそ女湯も出てくるんですが、渡辺志保梨の絵にはいやらしさとかがみじんもなくて、そういう穏健なところもいいですね。

これは、もう渡辺志保梨の持ち芸というほかないでしょう。ちょっとまねして出せるような雰囲気ではないと思います。

  • 渡辺志保梨『花の湯へようこそ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 以下続刊

2005年7月3日日曜日

放送禁止歌

  『放送禁止歌』というショッキングなタイトルがあって、それだけを聞くと、なんだか放送にのせられない歌を紹介して、 — いや、その理解は正しいのですが、けれど反面正しくない。というのが、私がこの本をはじめて読んだときの感想でした。放送禁止にされる歌というのは、性的なタブーに触れる歌、あるいは政治色が強いもの、反社会的なものという印象があり、そしてそれは一種事実でもあるのですが、でもそれだけではないのです。そして、この本を読むまでそこに考えのいたらなかった私は、まことにあさはかであったというほかありません。

放送にのせられない理由には、差別にまつわるからというものがあります。いや、歌が誰かあるいはなにかを差別しようというものであれば、そうした対処もいたしかたないといってもいいのかも知れません。ですが、この本が問題としているのは、かつては名曲として歌われていた歌が、突然メディア上から消えうせてしまう。なぜか。クレームがあったからではなく、まして糾弾があったわけでもなく、 — そう自主規制されてしまうから。この本では、メディアにおけるタブーと自主規制にいたるプロセスがとてもていねいに扱われていて、特に部落差別に関係するとして葬られた歌を主題に深く踏み込んでいく様子は、むしろ感動的でもあり、今私たちが置かれている状況について考えるきっかけにもなって、私はこの本を読んでよかったと心から思った。いや、曲がりなりにも歌を歌う人間としては、読んでおかなければならない本でありました。

『竹田の子守歌』という歌があります。フォークムーブメント吹き荒れた日本においてブームとなり、そうして広く知られるようになった歌で、ですがこの歌は放送できないのだそうです。なんでか。それは本当に先に挙げた理由があるからで、しかしこの歌はむしろ被害者であるんじゃないかという印象を持ちました。ええ、私はこの歌こそが被害者であると思っています。

この歌はこの間放送されていたNHKの趣味悠々『あの素晴らしいフォークをもう一度』のテキストに収録されていて、だから今ではそうした放送禁止といったタブー視はされないのかも知れません。親しみやすく美しいメロディーに、情緒深い歌詞はやはり名歌だなと思います。だから、私はいずれこの歌を歌うこと日がくるだろうなと思っているのですが、その時にもしこの歌の背景を知らなかったらどれほど私の歌は軽く弱いものになることでしょう。背景もすべて引き受けて、歌の中に流れている(あるいは、いた)感情を知って歌われる歌には強さがある。ですが、もし表層を歌うだけであったらと思うと、— 歌というものは、それがどのような歌であったとしても、生半可に歌うものではないという思いを強めるきっかけになったのがこの本でした。

というわけで、私は今日、この曲を演奏してきました。いや、歌ったわけではないのですが、人の伴奏で。で、私はこの本を読んで、この歌にはある種思い入れができてしまっていたものですから、なおさらしっかりやろう、しっかりやろうと思っていたのだけれども、最後の最後、本当に最後の最後で足を出してしまいました。

ううー、ショックだよー。いや、ほんまにショック。

  • 森達也『放送禁止歌』(知恵の森文庫) 東京:光文社,2003年。
  • 森達也『放送禁止歌』デーブ・スペクター監修 大阪:解放出版社,2000年。

2005年7月2日土曜日

演奏能力開発エクササイズ アコースティック・ギター

 私は本当に運がよかったと思うのですが、ギターをはじめた当初に、偶然書店にこの本が置かれているのを見つけまして、中を見てみれば結構しっかりした内容です。DVDもついているし、音の出し方やフォーム、手指の使い方についても学べるのではないかと期待できます。しかし、ギターに限らず、音楽系の雑誌が充実しているわけでもない普通の駅前の書店で、こんなちゃんとした内容の本を見つけることができたのですから、やっぱり私は運が良かったと思います。実際その後も、この本が補充されることはなかったのですから、本当に縁というものは不思議です。

この本が扱う内容は、基本的に伴奏に使うようなフレーズなので、最近はやりのフィンガースタイル・ソロ・ギターを志向する人にはあまり向かないかと思います。シンプルなアルペジオからはじまり、ハンマリング・オンやプリング・オフ、スライドなどを取り混ぜたフレーズに発展して、けれどやっぱり一貫してこれはバッキングギターのための教本だと思います。

私がこの本を使いはじめたのは、本当にギターをはじめた最初の頃でありまして、だからひとつの単元を終えるのに何ヶ月もかけていました。それこそ簡単なものなら一週間もかければなんとかなったのが、難しいものとなるとひと月とかかかりましたからね。けれどやっていればだんだん上達してくるので、今では、難しいものは別ですが、手も足も出なくて困るというようなことはへりました。

とはいいましても、弾けるということはどういう状態であるかは難しい問題かと思います。私は、ただ単に譜面に書いてある風に弾けるだけでは弾けるとは考えませんので、そういう意味では私は未だこの本をちっとも弾けません。実際進捗にしても亀の歩みで、二年かけてPart 4までしかたどり着いておらず、折りに頭に戻り、復習と確認の日々。それに私はホセ・ルイス・ゴンサレスの『ギター・テクニック・ノート』をメインに取り組んでるもんだから、『演奏能力開発エクササイズ』を練習できない日も多く、— 後数年は楽しめそうだと思っています。

『演奏能力開発エクササイズ』では、ジャズ系やブルース系など、いろいろなスタイルが紹介されているので、それも楽しみのひとつです。ひとつのジャンルに偏るんじゃなくて、まずこの本で概略みたいなものをつかんでみて、興味のあるものがあれば、あらためて深く取り組んでみるというのもよさそうです。

そういう点では、導入にも非常に適した本だと思います。

あ、そうだ。ギターの伴奏中心の本といっても、ピックを使ったストロークとかは扱われていないので、そういうのを求めている人には向かない本だと思います。

2005年7月1日金曜日

トルコで私も考えた

  今朝の新聞に、高橋由佳利の『トルコで私も考えた』番外ともいえるような愛・地球博レポートが掲載されているのを見つけて、例のごとく確保しました。『トルコで私も考えた』というのは、漫画家高橋由佳利の異文化体験漫画でありまして、当初はツーリストとしての視点から、そして現在はトルコ人の夫をもつ日本人としての視点から、トルコ的なものがいろいろ紹介されていきます。

私は異文化体験漫画が大好きなのですが、それはおそらく私の中に異文化に対する憧れがあるからなのでしょう。私にとって『トルコで私も考えた』は、『中国いかがですか?』と双璧をなす愛読書であります。

私が『トルコで私も考えた』と『中国いかがですか?』の二冊を好きだというのは、そのどちらもから、対象の文化に対する愛情というかすごく親しく思っているという感情が、非常によく感じられるからなんです。日本からしたらまったく理解しがたい状況があったとしても、まずは歩み寄ってみるという人懐こさも魅力なら、良いところを見つけたときの、心からの喜びを表そうという態度も素晴らしいと思います。そして、一番大切なところは、向こうの文化に染まりきっていないというところなんじゃないでしょうか。トルコべったりではなく、もちろん日本べったりでもないという、絶妙の距離がいっそう魅力を高めています。飲み込まれず、突き放さずという距離は、民俗学をする際に最も求められるものなのでありますが、高橋由佳利も小田空も、そうしたバランス感覚に長けているものだから、自然漫画のできもよくなるのだろうと思っています。

『トルコで私も考えた』といえば、私は当初によく出てきた、現地のお兄さんやお姉さん、おじさんを少女マンガタッチで描いたコマというのが好きでした。基本的に、シンプルな描線で、あっさりと描かれたデフォルトタッチで進む漫画の中に、しっかりと力の入った華やかな絵! 私はほれぼれしましたね。特に、あのおじさんたちが素晴らしかった。私はこうした絵からも、作者のトルコに対する親密さみたいなのを感じ取ったのだと思います。絵に、対象に向けられた愛が満ちているのです。

そういえば、私は学生の頃、トルコ人学生と文通をしていまして、その時にこの漫画を読んでいたら、きっともっと深くやり取りをできたろうなと思います。

懐かしいことを思い出してしまいました。大学は出ちゃっただろうから、もうあのメールアドレスじゃ届かないだろうなあ。— 連絡は取れないながらも、あの人が今も元気だったらよいなと思います。

  • 高橋由佳利『トルコで私も考えた』第1巻 (ヤングユーコミックスワイド版) 東京:集英社,1996年。
  • 高橋由佳利『トルコで私も考えた』第2巻 (ヤングユーコミックスワイド版) 東京:集英社,1999年。
  • 高橋由佳利『トルコで私も考えた』第3巻 (ヤングユーコミックスワイド版) 東京:集英社,2002年。
  • 高橋由佳利『トルコで私も考えた』第4巻 (ヤングユーコミックスワイド版) 東京:集英社,2005年。
  • 以下続刊