2005年7月26日火曜日

作品の哲学

夢落ちってどうにもこうにも嫌われる要素ですが、いったいなんでなんでしょう。実をいうと劇作にもえらく嫌われた技法というのがありまして、それはデウス・エクス・マーキナ(機械仕掛けの神)といわれるやつなのですが、これまで物語られてきた世界の外から突如やってきた唐突な要素が、劇の動因となっていた問題を解決してしまうようなエンディングを特にこういうのです。佐々木健一曰くデウス・エクス・マーキナと言えば、それだけで悪口になるほどである。ですが、本書では「完結の技法としてのデウス・エクス・マーキナ」と題し、機械仕掛けの神による終始が劇になにをもたらしているかが論じられます。私にはこの説明があまりに鮮やかだったので、すっかり気に入ってしまい、デウス・エクス・マーキナによって幕を下ろす作品を弁護する際に、ずいぶん利用させてもらったものです。

けど、「完結の技法としてのデウス・エクス・マーキナ」は、この本のごく一部、全部で九章あるうちの一章にすぎず、他の章においても興味深い議論がなされています。作品の統一性であるとか、作者と作品の関係であるとか、本当に参考になることがいっぱいで、学生時分美学じみたことをやっていた私にとっては、非常にありがたい本でありました。

夢落ちが嫌われるように、ぱくりというのも嫌われますね。ぱくりというのは剽窃とか盗作についてをいうのでしょうが、けれど本当にぱくっているとはどういうことかという議論は意外に浅く、結局は自分が以前に見たなにかに似ている、実際比べてみれば確かに似ている、だからぱくり。こんな感じの、薄弱な根拠にもとづく批判もしばしばあるように思います。

こういうぱくりうんぬんというのは、結局は作品のオリジナリティとか、自立性とかの問題に関わってくるのだと思うのですが、独創性や自立性を論ずるのは簡単ではないのですよ。なぜかというと、料理しかたに独創性が見られるかわりに、素材は借り物というような例があります。逆に、目の付け所はぴか一なんだけれど、その描き方は特に非凡というわけではないという場合もあります。前者、後者どちらにオリジナリティを見いだすかといわれれば、簡単には言い切れないのですよね。

そんなわけで、作品が独り立ちしているかどうかというのは極めて難しいことなのでありまして、こうした厄介な問題を扱おうという際に、この本はきっと力になってくれるのではないかと思います。少なくとも、考えるヒントを与えてくれるのではないかと思います。

さて、冒頭の夢落ちについてですが、実は私は夢落ちはさして悪い技法とは思っていません。夢落ちは、デウス・エクス・マーキナの一種に過ぎませんから、まさにこの本で確認したデウス・エクス・マーキナの三類型を参考にすることができます。つまりはこんなふうにです:

私は夢落ちが、登場人物の一喜一憂する様で読者を楽しませる目的で、作品世界を壊しかねないような出来事を用意した場合に使われる分には、別にかまわんのじゃないかなと思うんです。本来ならあり得ない出来事によって引き起こされるどたばたも見ることができたわけですし、結局のところだしに過ぎなかった事件にいつまでも居座られても困ります。その上で、夢の非日常と日常のコントラストが、次なる状況に進ませる動因となるようなものであったらなおさらよいと思います。

とまあ、こんなふうに考える私ですから、夢落ちだからといって単純に否定するような見方も芸のないことなのではないかと思ったりするんですよ。

  • 佐々木健一『作品の哲学』東京:東京大学出版会,1985年。

引用

  • 佐々木健一『作品の哲学』(東京:東京大学出版会,1985年),141頁。

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