2005年10月31日月曜日

Cruel Sister

 訳を読んでいてあれれというのは意外にたくさんあることで、例えば私の愛するトラッドナンバー『クルエル・シスター』でもそういったことがありました。

『クルエル・シスター』、日本語に直すと「残酷なお姉さん」ってな感じだと思いますが、私はあえてこれを「ひどいや姉さん」と訳しています(全姉連の皆さん、ご覧になってますか?)。歌の内容はというと、騎士の愛を勝ち取らんがために、妹を殺してしまう姉の話なのですが(全姉連の皆さん、姉弟でなくてごめんなさい)、はたしてこの姉の殺意というのは衝動的に沸き起こったものであったのか、あるいは用意周到仕組まれたものだったのか。裁判においては、犯行における計画性の有無が争われそうなケースです。

姉の殺意が衝動的なものであったか、あるいは計画に基づいた殺人であったか。私がこのようなことを考えるようになったのは、『ブルースマンの幻想』というエッセイを読んだことがきっかけでありました。この非常な名文の後段に引かれた『クルエル・シスター』の訳詩が問題であったのです。ちょいと、引用してみましょう。

クルエル・シスター

北海の海辺に一人の女が住んでいた
(雑草で箒を作っていた)
彼女には二人の幼い娘がいた
(ファラララララララ)

妹は太陽のように明るく育ち
姉は墨のように暗い娘になった

一人の騎士が二人の家を訪れた
遠くからきて二人に言い寄った

彼は一人を手袋と指輪で口説いたが
心から愛したのは今一人の方だった

お姉さん 海を行く船を見に
私と一緒に行きましょう

彼女は姉の手を取ると
北海を見下せる岸辺へ連れて行った

風が吹く岸に立ったとき
黒い娘は妹を突き落とした

(強調は筆者による)

黒田史朗氏の訳を見れば、犯行現場となった岸辺に行こうと誘ったのはであり、この解釈に基づくかぎり、犯行は衝動的な殺意によって引き起こされたものと見ることができるだろう。

異議あり!

私の手もとには黒田氏の解釈とは正反対の訳詩があるのです。同じく引用してみましょう。

[略]

妹よ わたしと
(愛し 愛される)
海を行く船を見に行かない」
(Fa la la……)

彼女は妹の手を取り
(愛し 愛される)
海岸まで連れ出した
(Fa la la……)

風の強い海岸に着くと
(愛し 愛される)
姉は妹を海に突き落とした
(Fa la la……)

(強調は筆者による)

若月真人氏、狩野ハイディ氏の訳を見ればわかることですが、海岸に行こうと妹を誘ったのはであり、ここに彼女の計画的な殺害の意図は明らかです。

ところがですね、オリジナルの歌詞を見るとどちらの解釈が正しいのかというのはどうにもわからないんです。日本語では、姉、妹と姉妹の上下を区別しますが、英語ではどちらもSisterで、確かにelderとかyoungerとかいって区別はしますが、では肝心の歌詞ではどうなっているかというと、わからないんです。同様に引用しましょう。

[…]

"Oh sister will you go with me
(Lay the bent to the bonnie broom)
To watch the ships sail on the sea ?"
(Fa la la…)

She took her sister by the hand
(Lay the bent to the bonnie broom)
And led her down to the North Sea strand.
(Fa la la…)

And as they stood on the windy shore
(Lay the bent to the bonnie broom)
The dark girl threw her sister o'er.
(Fa la la…)

(強調は筆者による)

原文からは、船を見に誘ったのが姉であるのか妹であるのかをうかがうことができず、故に疑わしきは罰せずの原則をもってあたるべきではないでしょうか。

ちょっと待った!

ここに『クルエル・シスター』のバリアントを提出します!

The Cruel Sister

There were two sisters sat in a bour,
Binnorie, O Binnorie;
There came a knight to be their wooer,
By the bonny milldams of Binnorie.

He courted the eldest with glove and ring
But he lo'ed the youngest aboon a' thing.

He courted the eldest with broach and knife,
But he lo'ed the youngest abune his life.

The eldest she was vexed sair,
And sore envied her sister fair.

The eldest said to the youngest ane,
Will ye go and see our father's ships come in?

She's ta'en her by the lilly hand
And led her down to the river strand.

The youngest stude upon a stane,
The eldest came and pushed her in.

(強調は筆者による)

歌詞をご覧になればわかるように、妹を川辺に誘いだしたのは紛れもなくなのであります!

バラッドに限らず、解釈をうんぬんしてみるのって、面白いですね。

引用

2005年10月30日日曜日

Yotsuba&!

  先日の、猫の人と会ったときのこと。『よつばと!』の話になって、買いましたとの由。おおー、買いましたか。そういえば私のところにも第三巻が届きましたよ、英語版の。って話になって、そして解釈論に。というのはですね、英語版、訳に引っかかるところがあったのですよ。いや、まるっきり誤訳ってわけじゃないんですが、どうも私との解釈の違いがあらわれていて、私はこれを広い意味での誤訳(誤解釈)であると思ったわけです。それで、旦那はどう思う? ってな話になったというわけです。

問題の箇所というのは、第二十話の「よつばと花火大会?」。英語版では "Yotsuba & the Fireworks Show?"。長女あさぎの台詞です。

日本語版137ページの第3コマ目、大丈夫、お父さんよという台詞を思い起こしてください。この台詞、英語版ではIt's alright. He's our dad.と訳されています。

私、はじめこの英訳が、いったいなにを表そうとしているかちょっとわからなかったんですね。あさぎの台詞を日本語に訳すと、「大丈夫、彼は私たちのお父さんよ」となりますが、いや、え、なんで? みたいな感じでちょっとした混乱を起こしたのでした。

というのもですね、私はここのあさぎの台詞は、「大丈夫、風香はお父さん似よ」と解釈していたからで、つまり現在話題になっている、あさぎがお母さん似、恵那はお父さん似というシチュエーションを引き継いだ台詞と思っていた。対して英語版の台詞を考えると、135ページから136ページ、誰!?から続く文脈で理解されているんですね。私は正直、この解釈をするには、「誰!?」コンテクストは遠すぎると感じました。それよりも直近の「お父さん似」コンテクストで理解した方が、日本語として自然だと思ったのです。

とこういう話をして、日本語の状況依存性の高さを説明するには非常によくできて、面白い例ですね。日本人だったら、「お父さん似」コンテクストで解釈するのが自然ですもんね、っていったら、いや私は「誰!?」コンテクストで理解していましたという返事が返ってきて、あれーっ!? って私がびっくりしてしまいました。

だって、あのあさぎの台詞のあいまいさを補強すべく、137ページ第1コマの風香は目も細く髪ぼさぼさで、ことさらお父さん似に描かれているぢゃないですか!

てなわけで、私はやっぱりあの台詞は「お父さん似」コンテクストに属していると思っているわけですが、皆さんはいかが解釈されましたでしょうか、というお話。いや、別に解釈の優劣だとか、正しさだとかをはっきりさせたいってわけじゃないんですよ。『よつばと!』は、自由にいろいろに読み解ける良作であると思っていますから、いろんな読みがあっていいんです。

ただ、一般にあの台詞はどう理解されたのか興味が出てきてしまったというわけで、だからよければコメントやらトラックバックしてくださったりしたら嬉しいな。

  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 1. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 2. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 3. Texas : Adv Films, 2005.
  • あずまきよひこ『よつばと!』第1巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2003年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第3巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第4巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2005年。
  • 以下続刊

引用

  • あずまきよひこ『よつばと!』第3巻 (東京:メディアワークス,2004年),137頁。
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 3 (Texas : Adv Films, 2005), p. 137.
  • あずまきよひこ,前掲,135頁。

2005年10月29日土曜日

女子校育ち

『女子校育ち』というタイトル、掲載誌が『みこすり半劇場』というところから、いったいどんなエロ漫画なんだと思ったり思わなかったり。けれど作者は吉田美紀子で、帯を見れば4コマ史上最大の死亡者数!?という物騒な文句もあって、いったいどういう漫画なんだ。表紙を見れば、可愛らしい女の子(といってもOL)が二人、実に華やかな感じであるのですが、中を見ればずいぶん印象が違っていて、ああ、いうならば、あの表紙は罠だな。ついでにいえば、各話扉も実に華やかな雰囲気で、けどこれも罠だな……。

罠だ罠だといっていますが、そもそも吉田美紀子は複数誌に連載を持つ四コマ作家で、もちろん私もいろいろ読んできて、その芸風は知ってるわけです。だからわかっていて罠に落ちたと、そういうわけです。

シンプルで可愛らしい絵柄で、けれどネタは妙にシュールだったり身も蓋もなかったりして、こういうところが実に私好みであるわけです。絵が可愛いといっても、いわゆる萌え絵とはちょっと違っている。だから、そういった方面を忌避される方にもお勧めなのではないかと思われます。

しかし、吉田美紀子の芸風は知っていたつもりではありましたが、なかでもこれは格別のすさみようです。帯の死亡者うんぬんという文句は伊達じゃありませんね。死体、流血の惨事が適当に出てきて、適当に扱われて、この淡々としかいいようのない雰囲気は大好きです。けど、こうしたのは結局はギャグで誇張であるわけだから笑ってすましてしまえるとしても、まれにギャグや誇張じゃないようなネタもあって、そういうのはなかなかに笑いが凍りつくようで、いや、私はこういう感覚も大好きです。

私は昔、就職試験で女学校の最終にまで残ったことがあったのですが、あの時落ちたのはよかったのかもなあと、そんな風に思わせるようなところもあって、けどよく考えたら私自身が『女子校育ち』みたいな時期を過ごしたことがあるもんだから、実際のところ平気かも知れません。うん、この漫画のネタにしても、そうそうそんな感じっていうのが多かった。実際、とんでもない話、結構聞かされたものなあ。

『女子校育ち』、いい漫画です。

  • 吉田美紀子『女子校育ち』(ぶんか社コミックス) 東京:ぶんか社,2005年。

2005年10月28日金曜日

猫めくり2006

今日、友人と久々に会いまして、その友人というのは毎日猫の写真を撮っている人なのですが、なんとその人の写真というのが、来年度のカレンダーに収録されたというのですよ。いやあ、これはちょっとした快挙であるなと思います。ゆうても、一年は三百六十五日と決まっていて、加えてかなりの応募もあったはずで、それで掲載にまでこぎ着けたわけですから、まさにあっぱれであります。

して、そのカレンダーというのはどんなのかというと、カミンの出している『猫めくり』で、これ、私が知っているくらいですから、猫好きの間では知られた名前であると思います。

で、今日はそのカレンダーを実際に見せてもらったのですが、思っていた以上に大きく、分厚く、だからびっくりしてしまいました。カレンダー本体はリフィルになっていまして、しっかりとした土台に取り付けるというスタイルなのですが、それにしてもでかい。卓上に置くにしても、あるいは壁に下げるにしても、結構な迫力であると感じました。私の、ものがたくさん乗っかってるような狭苦しいワークスペースだと、ちょっと大きすぎると、それぐらいの大きさです。

でも、多分、ちゃんと整理された机とか棚とかに置かれたら、ちょっとした部屋のアクセントみたいになっていいんでしょうね。大きい大きいといいますが、実際に部屋に置いてみての感想ではないので、実際室内に配置されたら感想は変わるんじゃないかと思います。

そういえば、私は今年はカレンダーはコンピュータ内にはありますが、普通の、卓上にせよ壁掛けにせよ、まったく使っていませんでした。実は、ひとつ買っていたりはしたのですが、いつの間にかしまい込んで、見れば三月四月で止まっていて、ああ私にはこういうカレンダーというのは向かないのかなあ。

でも、ちょっとした生活の彩りにカレンダーがあったらと思うことはやっぱりあるので、きっと2006年のカレンダーも、ひとつふたつ買うんじゃないかと思います。猫めくりになるかどうかはわかりませんが、買うんじゃないかと思います。

2005年10月27日木曜日

帝都雪月花 — 昭和余録

 『帝都雪月花』と書いて、『ていとゆきつきはな』と読むのだそうです。作者が書いてました。作者、辻灯子。私はこの人の大いなるファンでありまして、例えばそれは、私が今までここで書いてきたことを振り返っていただくだけで充分証拠となりましょう。だから、今日、『まんがタイムきらら』系の単行本が出るこの日、私が取り上げるのが『帝都雪月花』と見抜いていた人は多いのではないかと思います。

『帝都雪月花』の舞台は、昭和二年の東京。そう、私が好きだという時代ですよ。私は以前いっていました。明治大正という時代の躍動を見るのが好きって。昭和二年は確かに不況で、取り付け騒ぎやらなんやら、時代の混乱は社会科の教科書、グラフでも見たとおりです。ですが、そんな暗い時代でも、どっこい元気に生きていた。『帝都雪月花』には、そうした元気が見え隠れするから私はどうにも好きなんですね。

『帝都雪月花』は四コマとしては異色であるといってよいかと思います。妙に色濃く描かれた時代のディテール。昭和二年という時代を、史料をひもとき、その史料をもって背骨とし、なかったことをあったことのように肉付けしていこうとするかのごとき情熱。静かながらもしっかと一本筋が通っているようで、私が好きだというのはこうした気骨に対しても同じであります。

けれど、あくまでも四コマとしては異色で、四コマというフォーマットの気楽さ、テンポのよさを犠牲にしていて、だからある種通好み、マニア向けの様相を呈しています。けど、私はそれでいいんだと思う。わかりやすさだけ、単純さだけが四コマではないぞ。ちょいと読み解きにつきあおうかねといった風情があってもいいじゃないかと、この漫画を見れば思うはず。少なくとも私はそうした口で、仕掛けを読み解きながら、個性的で気持ちのいい風が吹きつけてくるような人たちのコメディを楽しみたいと思って、ええ、これは非常に良質の漫画であると思っています。ええ、だからもうちょっと楽しんでいたかったかもなんて、そんな風にも思っています。

蛇足

恒例の蛇足ですが、もう野暮なこといいっこなしですよ。

私は、辻灯子の描く、すかっと気持ちのいい女性たちが大好きです。

2005年10月26日水曜日

The Gould Variations : The Best of Glenn Gould's Bach

 昔、海外でグレン・グールドに関するマルチメディアタイトルが出たことがあって、それは"The prospect of recording"(「レコーディングの将来」)にて提唱された「キット」としての音楽を体現するものらしいという話だもんだから、私はもう興味津々で、海外のリリース元にFAXで注文を出したりしたりして大わらわだったのです。けれど、あのソフトはその後いったいどうなったんでしょう。一向に送ってくる気配もなく、そもそも完成したのかどうなのか。まあ引き落としもなかったからいいといえばいいのですが、もしリリースされていたとするとちょっと心残りではありますね。

とまあ、私にはそんな過去があるもんですから、エンハンスド仕様になっているバッハコレクションCDを見つけたときには心躍りました。だって、パッケージに貼られたシールに interactive musical experience!! なんて書いてあるんですよ。キット・コンセプトのことかー!! そう思った私は、ためらいもなく買いました。

買って、帰って、わくわくしながらコンピュータにCDをセットしたところ、私の見込みが違っていたことがわかりました。キット・コンセプトのキの字もありません。まあ、インタラクティブといえばインタラクティブではあるのですが、楽譜を表示させながら音楽を聴けたり、あるいはムービークリップを観賞できたり。けど、グールドのLDボックスを持ってる私にとって、これらムービーは特段重要なものではなく、だからこれはしくじったってやつですね。

でも、iPodを買って状況はちょっと好転したのでした。新しい動画も見られるiPod用の動画を用意する際に、私の手持ちのリソースはといえば、エンハンスドCDに収録されたムービーファイルがあるくらいで、そう、ここでようやくこのCDの価値が発見されたのです。

動いているグールドをいつでもどこでもiPodで観賞可能という素晴らしい状況が出現して、とりあえずクラシックファン向けのデモンストレーションでは大人気。なんせグールドは映像映えする演奏家ですからね!

2005年10月25日火曜日

『フルハウス』セカンド・シーズン

 本日たのみこむからメールがきまして、ふむふむなになに、『フルハウス』のセカンド・シーズンが出るんですか。ふーん。てな感じで実にクールなもんです。だって、当然出るはずのタイトルで、私にしても当然買うに決まっているものですから、いちいち騒いだりするようなことはございません。息をするように自然。太陽が東から昇り、西に沈むくらい自然。そりゃまあ、昇る朝日の美しさに嘆息することもありますよ。けれどそれでも、それはわあわあと騒ぎたてるようなことではないのです。

ただ一人、よいものに触れることができたと、胸の中にしまっておきたいような、そういうものだといえば伝わるでしょうか。いや、多分伝わらんな。まあ、変なこといってるのはわかってますから、放っておいてやってください。

そもそも、私にたのみこむからメールが届くというのは、ひとえにファースト・シーズン日本語版を買ったからなのですが、いやあ、『フルハウス』はいいドラマですよ。今更私がいう必要もないくらい広く知られた事実ですが、『フルハウス』は本当にいいドラマです。

『フルハウス』の面白さというのは、特定のある年代にしか通じないような、そういう偏狭なものとは一線を画しているんです。高校に通っていた時分の私が見て、おじさんになった私が見て、当時壮年で今は老境にさしかかろうとしている父母にしても面白いといって見ている。あらゆる年代に通じる幅の広さは恐るべきものがあります。ギャグ、コメディの切れもよく、そしてちょっとしんみりさせるシーンも、欠くことができない『フルハウス』のエッセンスです。こうしたエッセンスが、そもそも国境も越え、基底となる文化も違えている日本において受け入れられているというのは、どれだけ『フルハウス』の扱うことごとが普遍的なものであるかを語っていると思います。そして、これは素晴らしいことだと思うのです。

セカンド・シーズンのリリースは来年二月といいます。ことさら急ぎはしませんが、その日が来るのが楽しみというのは紛れもない事実です。

2005年10月24日月曜日

ATH-CK5 audio-technica インナーイヤーヘッドホン

 iPodを買いました、ってなわけで、さっそく通勤のお伴に連れてでたのですが、いや悪くないんですよ。悪いのは私のコレクションといったところでしょうか。記念すべき通勤一曲目は『幻想交響曲』の第二楽章で、いやあ、音が小さい。クラシックはですね、特にオーケストラ作品は音量の幅が広いもんだから、電車内で聞くには向かないんです。特にピアノやピアニッシモ中心の曲、楽章が危険で、弱音にあわせてボリュームを大きくしたりなんかすると、曲が変わったときに大ダメージを被ります。私がオケものを聴かなくなったのがなんでか、思い出してしまいましたよ。

けど、せっかくiPodを買ったのに、オケものを締めだすというのももったいない話です。なので、遮音性に優れるというカナル型のイヤホンを導入することに決めました。

一口にカナル型のイヤホンといっても、そこはこの頃はやりのものでありますから、いろいろなものが出ています。一万円前後を中心に、安いものなら二千円ちょっと、高くなれば数万というのもあります。でも、携帯プレーヤーに使うのに数万は払いすぎ、一万円でも高いと思います。てなわけで、二三千円程度を予算と決めて、どれがよいかと調べてみたのでした。

こういうときに、インターネットというのは便利だと思います。いろいろな評を目にできます。音質、傾向、使用感もろもろ。評判がいいのはSHUREのE2CとかEtymotic ResearchのER-6iとかですが、これらはちょっと高い。予算オーバーです。予算に収まり評判もなかなかよさそうという点からみると、PHILIPS SBC-HS740やaudio-technica ATH-CK5あたりでしょうか。というわけで、このふたつから選ぶことにしました。

といっても、もの見て選んだわけじゃないんですけどね。話によると、PHILIPSのイヤホンは海外向けらしく、国内では手に入りにくいとか。いや、本当のところはどうなのかわかりません。ですが、ある意味消耗品といえるイヤーピースを交換するときに入手しにくいというのは困る。こういう場合に日本のメーカーを選ぶメリットがありますね。そんな感じでATH-CK5に決まったのでした。

とりあえず使ってみた感想はといえば、音が少々硬め、思ったほど遮音性は高くないというものでした。音が硬いというのは、iPod付属のイヤホンでも感じたことなのでさして問題とは思わないのですが、ちょっと聴いていて疲れやすいかも知れません。とはいっても、聴いているうちに硬さはとれてくるという話ですから、これからに期待するのがよさそうです。

遮音性に関しては、結構耳栓効果はあるんです。水に潜ったみたいな、そんな感じがします。そこに音楽が聴こえてくる — 、なんかちょっと変な感じです。慣れれば多分聴き方もわかると思いますし、上手な装着の仕方もわかるでしょう。だから実際、これからだと思います。

遮音効果には不満ありといいましたが、そもそもまったく無音になるわけなんかないんだから、無茶いってるんですよ。現状程度でも電車内での聴きやすさは格段に違いますし、音量をむやみに上げる必要もないから音漏れも少ないだろう、耳にも優しかろう、悪くないと思います。

今まで車内では聴き取れなかったような細かな音の動きを追えるというのは大きなことで、だからこれから起こるだろう変化には大いに期待しています。

そういえば、イヤーピースをSonyのEP-EX1にするといいなんていうらしいですね。今度試してみようかな、いや、今は標準で頑張ってみたいと思います。

2005年10月23日日曜日

百年分を一時間で

 今朝、いつもの通りにメールの確認でもしようとiBookの目を覚まさせると、インターネットがまったく使えなくなっていることを発見しました。ADSLモデムの不調だろうと、電源を切って再起動させても状況は改善せず、いろいろ手を尽くしてみても問題はわからない。使っているプロバイダがこけたのかと思いサポートに電話をするもそういう事実は無く、どうやら私の利用している電話回線にノイズが発生しているらしいという疑いが濃厚でした。

ああ、昨夜まではなんの問題もなく働いていたというのに。ネットから切り離されてみて、いかに自分がインターネットというものに依存しているか気付かされました。別段、普段なら、そんなに気にしないメールだというのに、なにか大事なものが届いてるんじゃないかと不安になる。ダイアルアップで確認し、けれどいつも通りの便利は得られないわけで、復帰するまでどうしようとまた不安になる。

山本夏彦翁いわく、なかった昔には戻れない。ええ、もう私はインターネットのない状況には戻れないのだろうと思い知りました。

文春から出ている新書は山本夏彦の入門には実にうってつけで、『百年分を一時間で』は二冊目にあたります。最初のは『誰か「戦前」を知らないか』。私の入門は、この一冊目からでありました。1999年に出た本ですから、いかに最近の読者であるかということがうかがえます。

文春新書に収められている三冊は、あるひとつのテーマを軸に、夏彦翁と工作社の若き社員が和気藹藹、話した言葉のその調子を残しているから読みやすくわかりやすく、だから私はこれが山本夏彦入門にいいというのです。

わかりやすいからといって、中身が薄いだなんてことはまったくなく、確かにコラムほど濃密ではないけれど、それは調理の仕方が違うだけのこと。山本夏彦の面白さ、飄々として、しかし時に厳粛さものぞかせる、万華鏡のような人柄を充分堪能できるでしょう。これが面白いと思ったら、他の著書にも手を出して、翁の名人芸とでもいうべきか、寄せては返す波の音を堪能されるとよろしいでしょう。

さて、なぜ今日『百年分を一時間で』を取り上げたのかといいますと、この本に収録された最後の話「電話」が振るっているからです。文明の利器、電話があらわれて世の中は変わった。会いにいくのにアポイントメントが必要になった。人間関係を変えた。時間と距離をゼロにしたいという人類の切望を電話はかなえて、時間は浮いたはずなのに世の中は慌ただしくなる一方。

電話を例にあげてはいますが、電話はただの口実で、近代文明を批判しているんです。私の文章じゃ夏彦流のすごさは出ないから、ぜひ新書でお読みください。

この「電話」という短文に、インターネットに挑戦するという夏彦翁の言葉があったのですよ。政治経済倫理を根底から揺るがしかねない魔物のようなインターネットのデテールを知り、本質を見たいというのです。私もそうした立ち位置を身に付けるべきだと思い、氏の話を再読しました。インターネットが止まっただけで暮らしが立ち行かないみたいに動揺するのはなぜなのか、今やその根っこの不安を知るには自分の目だけが頼りなのですから、便利の一面にただ飲まれるばかりの無批判であっていいわけがないのです。

2005年10月22日土曜日

iPod (fifth generation)

  10月13日朝に注文したiPodが本日到着しました。先日発表されたビデオも見られるというiPodで、第五世代にあたります。そして、私にとっては記念すべき初iPod。かつての、カセット式のウォークマンをはじめて使ったときの感動はありやなしや。あの、耳元に響く臨場感に恐れを抱いたあの時の感覚を、iPodでも体験できるかどうか。けど、これがわかるのは実際に持ち出してからの話ですね。だから、まずは月曜日。月曜には、iPodの真価が判明するんじゃないかと思います。

とりあえず、iPodを手にしていろいろ機能を使ってみてみて、やっぱりこれはミュージックプレイヤーであると、そういう感想です。ビデオは見られますし、カレンダーもアドレス帳も使えるけれど、これらはおまけ。実際、ビデオを見ることはあんまりないように思いますし、それよりも使いやすいミュージックプレイヤーという感覚が強いのです。至極まっとうなミュージックプレイヤー、これが私のiPod観であります。

さてさて、iPodを手にして、そそくさとパッケージを開けていろいろ操作してみて、ところで今度のiPodは傷がつきやすいという話があるんだそうですね。nanoの傷つきやすさは以前からあちこちで問題にされていて、アメリカでは集団訴訟(!)にまで発展しているとかいう話ですが、新iPodではどうなんでしょう。基本的なデザインは新iPodもnanoもかわらないようですから、だとしたらやっぱり傷がつきやすいのかも。でもアップルいわく、iPod nanoのディスプレイは第4世代iPodと同じ素材でできている。この問題は実際に起きているが小さなものであり、[中略]この問題の影響を受けたのは出荷済みiPod nanoの0.1%未満に過ぎないのだそうです。

私は結構傷やらなんやらは気にするたちなのですが、でも正直保護フィルムを貼ったりするというのは好きじゃないんですよね。なんというか、日常の使用でつく傷はそんなもんだと割り切った方がいいとおもうんですね。よくみればピアノも傷だらけだし、あの病的に大切に扱っているギターにしても傷がないわけではありません。でも道具というのはそういうもんだと思うんです。

けど、傷に対して脆弱となれば話は別です。普通に使う段には問題ないものならまだしも、普段の使用で無視できないような傷ができるとなればやっぱりいやなもんで、で、そこのところどうしようか。

迷いますね、迷いどころですよ。

あ、そうじゃ。ヨドバシ梅田の店頭展示品ですが、別段気にするような傷み方はしてなかったっけ。クリックホイールの押し込み具合がものによって違うのは気付いたのですが。じゃあ、保護フィルムはいらないかな。

引用

2005年10月21日金曜日

不思議な少年

    昔、萩尾望都の漫画にはじめて触れたときに感じた感覚、これはすごいぞという驚きと興奮、次から次へ目の前に展開する物語の沸き立ちに、心奪われるのは当然至極のこと。今、私は山下和美の『不思議な少年』を前に、その時に変わらぬ感動を覚えています。幅広く豊かな表現は確かで、その一コマ一コマ、台詞の一語、描線の隅々にいたるまで力強い躍動がみなぎっている。すごい漫画家だ。山下和美はすごい漫画家だ! 私はそう叫びたくなるほどの衝動に突き動かされて、たとえそこが街の雑踏のただ中であっても! 高揚が、高揚が満ちるのです。

雑誌『モーニング』に最初の『不思議な少年』が掲載されたとき、私はこれが続くとは思っていなかったから、とにかく矢も盾もたまらず雑誌を買ってきて、読んで、打ちひしがれる思いでした。私がこれまで読んできた山下和美の延長にある漫画でありながら、これまで読んできた山下和美とは違って、その表現が極まったと思わないではいられなかったのです。

多分、同じ思いを抱いた人は多かったのだと思います。暗く重く難解な『不思議な少年』は、その後も掲載されて、単行本が出、版を重ね、巻を重ねています。

『不思議な少年』は暗い? 重い? いや、そんなことはありません。この漫画には私たち人間の世界のありようが時に淡々と、時に幻想的に、そして狂乱に似た高揚をもって描かれていて、私はそうした表現に対峙させられて、あたかも山下和美の問い掛けに立ちすくむようです。テーマは常に人間で、人間ほど難しいものはなく、また面白いものもなく、美しくて汚い人間の奥底をさらうみたいに掘り起こす山下和美の筆は遠慮も容赦もあったもんじゃない。なのに、この表現が最後にはしんと心に広がるのだから、山下和美という人は本物であるというのです。

山下和美は大いなるものではあるけれど、偉大というのとはちょっと違って、昔、本で読んだスピンクスのような威風を感じさせます。それも、すごくチャーミングなスピンクスだと思う。私、こんなスピンクスになら命をとられてもかまわないなあ。この人の漫画を読むときには、そんなドキドキを胸にしているのです。

  • 山下和美『不思議な少年』第1巻 (モーニングKC) 東京:講談社,2001年。
  • 山下和美『不思議な少年』第2巻 (モーニングKC) 東京:講談社,2002年。
  • 山下和美『不思議な少年』第3巻 (モーニングKC) 東京:講談社,2004年。
  • 山下和美『不思議な少年』第4巻 (モーニングKC) 東京:講談社,2005年。
  • 以下続刊

2005年10月20日木曜日

Filippa Giordano

 フィリッパ・ジョルダーノ。はやりましたね。最初はクラシック好きあたりにアピールしたのでしょうか。オペラのアリアやなんかをですね大胆にアレンジして、ずいぶんとポップな感じにしてしまって、賛否両論だったかどうかは知りません。なにしろ私ははやりには疎くて、というか、はやっているときには目を向けず、一般向けの新聞雑誌みたいなので騒がれていれば、もう知らぬ存ぜぬを決め込む始末。けどまあ、一応私も人の子、一枚だけアルバムを持っているのですね。

いや、ほら、はやりだからとかいうのじゃなくて、ワゴンセールで安くなってたから。こういうところが私らしいというか、私がこういうのに手を出すのは結局はやりが過ぎてから。いつもだいたいそんなものです。

で、しかも私は悪いことに、買うだけ買って聴かないんですよ。数年寝かせて、実際iTunesに読み込み大作戦をおこなっていなければ、きっと今もまだ眠っていたことでしょう。はやりが過ぎたどころではないですね。私はもう、買ったことすら忘れていました。

さて、そんないい加減な聴き手である私はフィリッパ・ジョルダーノをどのように聴いたかといいますと、割りと悪くないじゃんというか、結構こういう毛色違いは楽しいものだと思います。私は普段音楽をiTunesのパーティシャッフルでもって聴いているのですが、クラシックの中に入っても、ポップスやロックに紛れ込んでも、それなりになじんで、それなりに異質という独特のポジションにつけていることが理解されます。

クラシックスタイルからすれば、あまりにもかけ離れたアレンジが異彩を放って、かといってポップスから見れば、その重厚な歌唱は一種特別な雰囲気を醸しだします。このどちらでもありどちらでもないという、そういう境界線上に位置するバランスが受けたんじゃないかと思います。ごりごりのカテゴライズ主義者には受けが悪いかもは知れませんが、そうではなく、あいまいに推移するグラデーションの上に生活している我々には、こうした多様式の混交はむしろ歓迎であって、非常によくできたフュージョン感が面白みを出しています。

2005年10月19日水曜日

薔薇の名前

 薔薇の名前』はウンベルト・エーコの著した小説で、世界的ベストセラー。日本版も上下分冊で出ていて、私はこの本を買って、読んで、映画はだめだ、浅いみたいに思ったのですが、これはちょっと誤っていたなと、この度映画を見直して反省しました。

映画『薔薇の名前』は、ジャン=ジャック・アノーが丹精込めて作り上げた映像美の世界であり、中世の修道院を現在によみがえらせようというかのごとき情熱は素晴らしく、それだけでも充分評価するに値するものです。DVDは実に私好みで、音声解説もドキュメンタリーもついていてうはうはなんですが、監督自身による音声解説によれば、アノーは修道院大好き少年だったのだそうです。私はこうしたエピソードを聞いて、中世の断片が随所に残されたヨーロッパへの憧れを今まで以上に強めて、ええ、私はあの中世の空気が好きなのです。住みたいとは思えない時代ですが、ですがあの世界の根底には今の私たちの時代の精神になんら変わらぬものが流れています。それも濃密に!

私がこの映画をはじめてみたのは、高校生のころでしたでしょうか。NHK BSだったかで放映されて、けどあの時は途中で寝てしまったのですよ。だから本をめぐる物語であるとか、そういうことは全然わからなかった。もう、本当に序盤で寝てしまったのだと思います。

これを再び見た時にはすでに大学に上がっていて、私がこの映画にばちーんっとやられたのはまさにこのときですよ。濃厚に描かれた中世がうっそうとして、もう鮮烈に鮮烈を極めてびりびりしびれました。そして犯罪をめぐる状況というのが振るっていました。あの、ウィリアムが真犯人と対峙したあのシーンの緊迫感。罪を犯してでも守り抜きたかったものとその理由! 最高です!

けど、あの謎の渦巻く迷宮に関しては、やはり本に譲ります。いや、本で表現できることと、映画で表現できることはもとより違うのであるからして、それを突っ込むのは無粋でしょう。

私が映画に感じる不満は、あの憎むべき異端審問官(彼は傲慢の罪で地獄に送られたことでしょう)の扱いと、そして妙に甘く、ハリウッド風味になってしまったラスト直前のあのシーン。私は原作を読んだときに、うわあ、ハードにしてドライって思ったものでしたが、ですがあれが現実なんだろうと。だから、映画のラストに関しては、ちょっとロマンティックが過ぎるなという感想です。

この映画を見る人は、原作もあわせて読むべきです。映画の理解が大きく違いますし、また映画が本では想像しきれなかった部分をしっかり肉付けしてくれることでしょう。

映画を見、本を読み、また映画も見、音声解説もドキュメンタリーも見て、心を中世にすっ飛ばしてしまうくらいにはまるのがお勧めです。

  • エーコ,ウンベルト『薔薇の名前』上 河島英昭訳 東京:東京創元社,1990年。
  • エーコ,ウンベルト『薔薇の名前』下 河島英昭訳 東京:東京創元社,1990年。

2005年10月18日火曜日

ゴールデン・ポップス

『ゴールデン・ポップス』は隔週刊の雑誌で、付録にCDがついて1,390円。第一号は特別価格490円! って、どこかできいたフレーズですよね。そう、デアゴスティーニですよ。デアゴスティーニのお送りするオールディーズの名曲集。全部集めると、1950-1970年代前半のヒットチャートを飾った名曲のコレクションが完成します。

とはいえ、本当に全部集めきることができるかが問題なんですけどね。というか、そもそも何巻まで予定されてるのでしょう。とりあえず二十二号までは出るみたいなんですが、現時点では全然全貌が見えてこないんですけど。十冊ファイルできるバインダーが三巻分は出るみたいですから、少なくとも三十号くらいは出すのでしょうか。

私がこのシリーズを買いはじめたのは、知らないわけでもないけど詳しくもないという、アメリカン・オールディーズをガイドライン付きで聴いてみたいと思ってみたからなんですね。誰もが知ってるというようなVacationとかSurfin' U.S.A.が第一号には収録されて、こういう親も子も楽しめるというようなラインナップってやっぱり魅力じゃありませんか。昔を思いつつ聴けば、新しい発見もあるかも知れません。温故知新ですよ。やっぱりいろいろ幅広く聴くことが、結果的に音楽の楽しみを深めることになるのだと思うんです。

というわけで、創刊号だけでなく第二号も買ってみました。多分、クリスマス特集もエルヴィス特集も買うかと思います。

2005年10月17日月曜日

iPod nano

  今さらながらiPodの認知度の高さには驚かされます。職場でも遊びにいった先でも、必ず一人は欲しいと思っているという人がいて、けどやっぱり実際のところがわからないから躊躇しているという感じでしょうか? あと、今どういうモデルがあるのかがいまいち把握しにくいというのもあるようで、私なんかは結構網羅している口なんですが、やっぱり普通はわかりにくいですよね。そんな中、iPod nanoの知名度は抜群で、名前も知られているし、これはやっぱりCMの威力なのだと思います。あのCMを見て、欲しいと思ったという人が少なからずいるみたいです。たいしたものだと思います。

昨日お出かけの帰り、梅田のビッグマン前でiPod nanoの販促がおこなわれていまして、柱にぺたぺたと実物大のプレートが貼り付けられていて、ご自由にお持ち帰りくださいとのことです。私も早速もらってきました。

これ、電器店でモックアップや実機に触れたときの印象よりもさらに小さい感じがして、不思議なものですね。電気屋では実際に操作してみたりもしたのですが、それが街中に持ち出されると、まったく違った印象に見えるのだというのを疑似体験したような感じです。

iPod nanoに対する女性と男性の感覚の差というのを思ったのは、やっぱりその外観に対する意識の違いかと思います。男性からは特にカラーについての質問を受けなくて、どちらかといえばスペック、なにができるのかというような興味のほうが強いみたいなんですね。ですが女性だと、開口一番に何色があるのとくる。白と黒の二色。そうなると、iPod miniのカラーバリエーションが懐かしいなんて声も出て、けど多分、ほらshuffleで出てた着せ替えシートみたいのんが出るんじゃないかなあ、なんていっていたらありました。その名もiPod nano Tube。カーボンナノチューブを意識した命名がいいですね。

透明、ピンク、ブルー、パープル、グリーンの五色が用意されているようで、もし私がこれを使うなら、まずは透明、次いで、ブルー、グリーンあたりかなあと。けれど、こういう製品がいろいろ出てくると楽しそうだなと思います。私はこれはサードパーティ製かと思っていたのですが、思いがけず純正で、けど多分サードパーティからいろんなバリエーションがリリースされることだろうと思います。いったいどんなのが出るのか、考えるだけで面白そうじゃありませんか。

私は新しいiPodを購入したので、nanoを買うことはないと思いますが、現在この記事を参考に、iPod保護ケースを発注中。いや、目鼻をつけたり首から下げたりということは意図しないので、おそろしくシンプルなケースになるはずです。

2005年10月16日日曜日

書芸呉竹

こないだ墨がなくなりまして。ほら、私は筆で字をかく練習をしているのですが、その墨です。墨がなければさすがに字を書くどころではないので、近所のスーパーの文具売り場にいったら、なんと売ってないのです。あれー、おかしいなあ。以前はここで買ったんですが、取り扱いをやめてしまったみたいです。

私のいう墨とは墨汁のことです。墨を硯でというのが理想的だとは知っているのですが、日常の生活にそれだけの時間を割り込ませることができず、結局私は墨汁を使って、けど、墨汁ならなんでもいいってわけじゃないんですね。

スーパーでも買えて便利だと思っていた墨ですが、それが買えなくなってショックで、一時はもうなんでもいいやとばかりに、学童用みたいな適当な墨汁を選ぼうとまで思って、いやいや、それはいけないや。ちゃんとした文具店も回ってみよう。明日はせっかくの休みぢゃないか。

そうして、文具店巡りをするはめになったのでした。といっても、二件目で見つけたんですけどね。

私の探していた液体墨とはKuretakeから出ている書芸呉竹で、この墨のなにが違うかといいますと、まず純油煙を用いているところ、そして天然にかわを使っているというところです。結構ちゃんとしてそうな墨汁でも合成のりを使っているのがあって、油断できないんですよね。はたして私にどれだけ違いがわかるかは不明ですが、でも買ってみて、ありゃあこりゃやっぱり違うとなったら悲劇です。なので、私は教室推奨(もちろん理想はちゃんとした墨ですよ)だった書芸呉竹がよかったのです。

書芸呉竹。私がこれまで使ってきたのは紫紺系黒だったのですが、店には純黒と超濃墨しか置いてなかったので、超がついてるようなのはちょっと躊躇しますよね。純黒にしました。はたして違いがわかるかといえば、確かに書いたときに雰囲気は違って感じて、なんというのがちょっと平板に感じたのですが、それが本当にそうだったのか、あるいはたまたまその日の気分がそんな感じだったのか、正直よくわかりません。

書芸呉竹はにかわを使っているので、長く放置していると腐ります。なので、あんまり大きなボトルは買わないようにしています。

2005年10月15日土曜日

熱血最強ゴウザウラー

 恐竜をモチーフにした作品はないかと、さながら悪い子を探すなまはげのようにして記憶のなかをさまよっていた私ですが、いやあ、忘れていました。『熱血最強ゴウザウラー』が、まさにその恐竜をモチーフにしたアニメであったではないですか。

『ゴウザウラー』というのは、『絶対無敵ライジンオー』を皮切りに三年続いたエルドランシリーズの最終作でありました。人気あったんですよね。アニメ誌でも結構取り上げられたりして、またファンも結構多かったりして、私は第二作の『ガンバルガー』をこそ好んだ人間ですから、その人気の出方には嫉妬したものでした。

私が『ゴウザウラー』を忘れていたというのもしかたがないのですよ。私はこのアニメを見はじめて、なんでかどうしても水が合わなくて、ドロップアウトしてしまったのでした。勇者シリーズは見ていたわけですから、アニメに飽きたとかそういうわけでもないんですよね。じゃあ、いったいなにが悪かったんでしょう。

エルドランシリーズは最初の『ライジンオー』で人気が沸騰して、ところがその人気のポイントを読み誤ったサンライズは翌年の『ガンバルガー』で惨敗。作者をして平成のカルトアニメといわせたほどであったのでした。で、サンライズも挽回をはかるわけですよ。『ライジンオー』ファンが求めていたものはなんだったかを再度洗い直したのでしょうね。そうして『ゴウザウラー』は、再びクラス全員で戦うという、学校ロボットものアニメとして成立したのでした。

と、そこまではいいんですが、妙にマニア向け臭くなったのはいったいなんでなんでしょう。いったいどこがといわれれば、YoumexからStarchildに移ったといったらわかってくれる人はわかってくれるんじゃないかと思います。まずキャラクターの設定がそうで、そこにくっついてくる声優がそうで、もう私はうえーって感じになって、最初からいやな感じはしていたんですが、そうした感触を払拭できないままドロップアウト。まあ、本当に相性が悪かったということなのでしょう。

けど、サントラは持ってます。長く聴いてなかったんですが、というかほとんど聴いたことなかったんですが、iTunesにぶち込んでパーティーシャッフルで聴いていたら、やっぱりいい曲もあって、もしかしたらあん時のあのドロップアウトは間違いだったんじゃないか。もしかしたら、今見直したら、結構好きになれるんじゃないかと思って、けどそうしたらドラマパートがはじまって、やっぱりうえー。

相性というのはあるもんだと、本当に思います。

2005年10月14日金曜日

勇者エクスカイザー

  『勇者エクスカイザー』は八年続いた勇者シリーズの第一作で、それぞれに個性の違う勇者シリーズにおいて、核となるような要素を確立させた記念作であります。私はこれの予告編を見たときに、きっとつまんないだろうなと思ってまったく期待をしなかったのですが、ところがどっこい、第一話を見てビデオに録らなかったことを後悔しました。面白い! アニメとしては子供向けの部類であるとは思いますが、それでも私にはすごく面白くて、一年を通して見たアニメの最初となりました。といいましても、当時はまだ高校生で、部活があったりビデオが壊れたりで、途中に抜けはあったのですが、それでもアニメというのは、一年を通じてストーリーを展開するものなのだということを知った最初であったのは違いなく、実際『エクスカイザー』をきっかけに、私はアニメにどっぷりはまることとなるのでした。

一種、人生を変えた番組であると言い切ってよいかと思います。

『エクスカイザー』をこのタイミングで紹介する意図はといいますと、敵メカが恐竜をモチーフにしていましてね、ボスのダイノガイスト(ティラノサウルス)を筆頭に、プテラノドン、ブロントサウルス、トリケラトプス、ステゴサウルスと、人気恐竜そろい踏み。ちなみに『エクスカイザー』は1990年作品なので、恐竜ブーム以前に展開された、いわば恐竜ブームの先駆をなすアニメ(なのか?)でありまして、それゆえ、ダイノガイストはゴジラスタイルの直立獣脚類であります。それともうひとつ、ブロントサウルスがいるというのもポイント高いです。というのもですね、ブロントサウルスという名前は今ではもう使われていないのですよ。今では、アパトサウルスというんですね(詳細は、福井県立恐竜博物館FAQを読んでくださいな)。

ブロントサウルスは、カミナリ竜という意味で、『エクスカイザー』に出てきた彼はサンダーガイストという名前でした。ええ、確かにブロントサウルスであったわけで、私は彼を思いだすことで、ちょっとノスタルジーに浸ることができるのです。

なんか、恐竜だけで話が終わってしまいましたが、『エクスカイザー』は一年という時間をかけて、友情という宝物を扱った大変な良作です。私は最後の三回分だけビデオに残して、最終話を見ればそのテンションに打ち震えて、あの月面決戦の興奮。主役グレートエクスカイザーも格好良ければ、敵方ダイノガイストもすさまじい切れ味で、私はやっぱりこのアニメを抜きに自分の来し方を振り返ることはできそうにありません。

だから、きっとこれは、またいつか書くことになるな。だって、全然いい足りないんだもん。

2005年10月13日木曜日

本気じゃないのに…

 1993年というのは、本当に恐竜ブームの渦中だったということがうかがえます。というのも、『ムカムカパラダイス』というアニメがあったのですが、これが1993年作品。ペットショップの娘、鹿谷初葉のもとにやってきた恐竜の子供ムカムカが引き起こすどたばたアニメで、前半は現代の日本、後半は恐竜の住まう異世界が舞台でした。後半は多分にファンタスティックが過ぎる嫌いがあるので、私はちょっと……、という感じは否めませんが、それでもこのアニメ、私は好きでした。いや、初葉が可愛いんだわ。勝ち気で、ボブでキュロットで、しっかりしてて、人情家で、ほんと、最高に素敵な娘さんでした。

「本気じゃないのに…」は『ムカムカパラダイス』の挿入歌で、この一種不思議な世界の真ん中に据えられたテーマというんでしょうか、を非常によく表している歌で、私はこの曲こそは本当の名作であるなと、そんな風に思います。ほら、以前にもいっていましたが、アニメの挿入歌には隠れた名曲佳曲が多いのです。

『ムカムカパラダイス』は、1993年という時代の断片をちりばめながら(イケイケの御殿場蘭華を見よ!)も、その核には懐かしい昭和の風景がありまして、舞台は商店街。近所の姉貴分にやんちゃな少年たち、ムカムカというイレギュラーを加えながらも、そこには子供たちのコミュニティがあり、私がこのアニメで好きだったというのは、この子供社会の雰囲気であったと思うのです。

「本気じゃないのに…」、本当はそんなつもりなんてなかったのに、ついつい友達にいってしまった「絶交だよ」という言葉。仲直りしたいと思いながらも、それを言い出せないという、きっと誰もが子供だったときに通過してきたストーリーが歌われていて、その叙情は抜群です。友達とのすれ違い、焼きもち、素直になれない気持ち、そしてそうした自分へのもどかしさと嫌悪感。こうしたエピソードを、話しかけるように、あるいは思い出すみたいにして描出するその確かさ。私は聴けばきっとしんみりとして、心に潤いを取り戻すような思いがします。

いい歌なのです。いい歌なのですが、シングルカットされたわけでもなく、聴こうと思えばサントラを買うか、あるいは挿入歌集を買うか。いずれにせよ、ちょっと気軽に聴くには高いハードルがあります。

だから私は思うのですが、iTMSはこうした曲こそを収録すべきじゃないのか? 隠れた、けれど誰もの心に訴えうるような名曲をこそラインナップすべきなんじゃないか?

今まで、媒体ゆえに知られず、知られないゆえに埋もれたままになっていた歌に、再び光を当て、よみがえらせることのできるのはiTMSであると思うのです。

よし、今度リクエストしてみよう。いや、本気でいってますよ。

2005年10月12日水曜日

ジュラシック・パーク

 恐竜に関するもので記憶に残っているものといえば、やっぱり『ジュラシック・パーク』を忘れてはいけないのではないかと思います。といっても私は『ジュマンジ』の方が好きなので、『ジュラシック・パーク』についてはそんなに知らないんです。テレビで二三度見たくらいですね。

けど、映画としての『ジュラシック・パーク』にはあまり覚えがないとしても、映像としての『ジュラシック・パーク』となると話は別。凄いという表現に尽きます。この感想は、おそらく一般の人においても同じだったのではないかと思います。

つい先日のこと、恐竜の姿勢について図解で説明していて、私が子供のころは尾を引きずりながら鈍重にずしんずしんと歩く直立姿勢だったのが、今では尾をぴんと伸ばしてすたすた俊敏に走るというのが常識になってうんぬん。そうしたら、これは『ゴジラ』と『ジュラシック・パーク』の違いじゃないですかと突っ込まれてしまって、いや、ちゃうねん。ゴジラには制作当時の恐竜観が反映されてるからあの恰好なわけで……。

そういえば、当時最新の恐竜研究をフィードバックさせたエメリッヒの『ゴジラ』は、時速480キロで走ったっけかなあ。とまあ、これはどうでもいい話。でも、ゴジラに対比されたのがUSAゴジラではなくて『ジュラシック・パーク』であったところに、この映画の知名度がわかろうものです。

以前、コンピュータにまつわる馬鹿話をしていたときに、ほら、昔の特撮ものとかだと、解析不能に陥ったら操作パネルがやおら爆発したりしましたよね。ああいう、自爆装置つけてんのかよみたいな突っ込みをして面白がっていたのですが、その時『ジュラシック・パーク』の話が出たのでした。

劇中でハッカーの女の子が『UNIXならわかるわ!』といって、パークのシステムに介入する場面があるのですが、そのUNIXの画面というのが、3Dで表現された、おいそいつはゲームかよみたいなものだったのだそうです(私は覚えてません)。どこがUNIXやねんって、けれどその人は突っ込みをいれるまでにはいたりませんでした。あまりのことに脱力してしまっていたからです。

そんなわけで、その人(SEです)の中で『ジュラシック・パーク』は、恐竜の映画というよりも、とんでもUNIXの出てくる映画として位置づけられたという話でした。

ところが、世の中というのは実に奥深いもので、ちょっとWikipediaで『ジュラシック・パーク』の項目を見てつかさあい。その他という見出しがあって、本文を読んでみると、ワーオ、あのシステムって実在するんだ! fsnっていうらしいですね。

私はこの事実を、コンピュータ絡みの情報を探している時に偶然発見したのですが、それにしても事実とは小説よりも、いや映画よりも奇なりですよ。この情報を件のSE氏に提供したら、その人はBSD使いなのですが、さすがにfsnは知らなかったとのこと。脱帽したとのことでした。

これできっとその人も、とんでもUNIXじゃなく、恐竜の映画として『ジュラシック・パーク』を観賞できるようになったのではないかと思います。

2005年10月11日火曜日

長いお別れ

 まだ巫女萌えもアンドロイド萌えもなかった頃、そもそも萌えという表現がなかった頃、まあ今から考えると言葉がなかっただけでそうした感情はすでに萌芽していたとは思うのですが、といきなりなにをいいだすのかというと、久しぶりに手にした『(有)椎名百貨店』というのが、実にそういう感じであったのですね。原初の萌えへの傾きが感じられます。

『(有)椎名百貨店』というのは、『GS美神極楽大作戦!!』で一躍ブレイクした漫画家椎名高志の初期短編集で、私はこの短編の時代が一番好きでした。ちょっと昔の漫画っぽい情感があって、けれどおたく・マニア傾向も充分に備えていて、そういうあいまいなグラデーションの時期に揺れていた椎名高志の表現が好きでした。

「長いお別れ」は、そういう時期に書かれた短編で、実のところ私はそれほど好きな漫画ではありませんでした。というのもですね、基本的に私はエロ交じりのギャグを好きませんで、いや、ものによっては嫌いじゃないのですが、なんつうんでしょうね、そのエロが男のエロであればあるほど嫌いというか、そういう意味では椎名高志のエロは私の好みからはかなりはずれていて、だからそういう傾向を一気に強めた『GS美神』はだめでした。

ですが、「長いお別れ」に関しては、好きになれない要素があるといいながら、けれどそれでも嫌いではありませんでした。未来の世界から訪れた使者が、恐竜の群れの再生を願い、過去から、その時代その時代の巫女の手を借りつつ、フタバスズキリュウを送り届けようというストーリー。基本的にはギャグです。なのですが、ところどころにみせるシリアスが叙情的によくきいて、特になぜ恐竜を遺伝子レベルではなく生体で運搬する必要があったかというその理由には、ある種の感動さえもよおすほどでした。

以下にネタバレ:

フタバスズキリュウが歌う、群れに固有の歌。歌は後天的に習得されるものであるため、歌を伝承させるためには、生体である必然があった — 。

この想像力の豊かさ。私は、この発想にこそ打たれたのでした。

本当は、こんなところでつまらないネタバレをしてしまうんじゃなくて、ぜひなにも知らない状態で読んでいただきたかった。けど、これらはもう絶版しているんですね。

いい漫画だったのに、いい漫画だったのに。

  • 椎名高志『(有)椎名百貨店』第1巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1991年。
  • 椎名高志『(有)椎名百貨店』(少年サンデーコミックスワイド版) 東京:小学館,1999年。

2005年10月10日月曜日

恐竜惑星

 私の第一次恐竜ブームが小学生のころであったとすれば、第二期は大学に入るか入らんかといった頃。実際その時分は、恐竜の新学説が一般層にまで浸透しはじめた時期でありまして、ディアゴスティーニが『週刊恐竜サウルス』を展開し、そして映画『ジュラシックパーク』が封切られ大ヒット。1993年でしたね。直近で一番恐竜がホットだった時代といってもいいんじゃないでしょうか。

そして、1993年にテレビで放映されていたのが『恐竜惑星』でした。NHK教育お得意の実験的子供番組『天才てれびくん』内で放送されたSF色の強い実写&アニメ混合作品で、そのレベルの高さといったらもう格別。『ジュラシックパーク』なんか目じゃないぜ! いや、マジでものすごく高度な内容を扱っていて、正直な話、本来の視聴者層であるはずの小学生向けとは思えないハードSFでありました。

『恐竜惑星』を見たときにですよ、私は途中から見はじめて、夏休み冬休みの集中放送で全話を通しで確保することができたのですが、もうぶったまげましたよ。恐竜の常識というのが様変わりしています。私のベースを築いた八十年代の恐竜像とはまったく違ってしまっていまして、私の子供のころの恐竜の中心はティラノサウルスとかアロサウルスといった巨大な獣脚類であったのですが、九十年代の主役はディノニクスやヴェロキラプトルといった知能の高い小型獣脚類に移り、このあたりは『ジュラシックパーク』でもおなじみの面々であるかと思います。

『恐竜惑星』は、序盤はヴァーチャル世界に恐竜を見学しにいくといった、まさにサファリパーク的なのりであったのですが、途中から暴走がはじまって、恐竜から進化した私たちとは異なる人類が関わってきます。トロエドンから進化したギラグール、レエリナサウラから進化したフォロルという対立二種族が戦い、そして将来を志向し、我々哺乳人類との共闘のすえ新たな旅立ちを……。感動しますよね。もう、涙なくしては見られないというか、あの盛り上がりは想像を絶する大波のごときものでありました。

DVD-BOXが出たとき、本当、欲しかったですよ。けど、これを買うと『ジーンダイバー』も買わないといけないし、そうなると当然『ナノセイバー』も買わないといけない。『アリス探偵局』は、まだ出てないのか……。でも、出たらいずれ買うな……。

と、こういう連鎖反応が簡単に予測できたから、買わなかったんです。でも、本当のところいうと欲しいんです!

日本はDVDが高いのう。これが半額なら、私は買ってたかも知れないのに。きっと同じように思う人も多いだろうと思うのに。安値で出して、たくさん売るというそういうやり方は無理なんでしょうか。なんとか米国プライスに近づいてほしいもんじゃと — 。ほんと、切にそう思います。

2005年10月9日日曜日

のび太の恐竜

  はじめて読んだ漫画が『ドラえもん』で、はじめて見た映画が『のび太の恐竜』。こうした刺激に触れることで、私の恐竜への興味は醸成されていったのだと思います。実際、だって、そうでしょう。自分が本当に好きな漫画の、好きなキャラクターたちが憧れてやまない対象がそこにあって、どうして読者である私が同じようにその対象に憧れないことがあるでしょうか。中生代という、はるかな昔に生息していた巨大な生物への思いが、ロマンたっぷりに語られる様をコマ割りの向こうに見て、あたかも刷り込まれるみたいにして、私も同様のロマンを感じるようになったのでしょう。

恐竜は、確かに私の子供時分を語るうえで、決して欠くことのできない大きな要素なのであります。

私は原典主義者といっていいくらいに、正統性だとかオリジナルであるとかを重んじるたちなのですが、なので私にとっての「のび太の恐竜」はあくまでも第十巻の最後に収録された掌編であったのですね。のび太が恐竜丸ごとの化石を手に入れてやると、ジャイアンたちを相手に無茶な賭けをして、そして実際にフタバスズキリュウを、それも生きたかたちで手にするという果てしないファンタジー。考えればですよ、住宅の裏手をちょっと掘っただけでフタバスズキリュウの卵の化石が、ごろんと出てくるなんてことはないんです。けれど、子供のころの私には、もしかしたら君の身近にも、こうしたロマンがあるのかもしれないよというメッセージが鋭く突き刺さりました。そう、この感覚は今も私の中に息づいています。不思議や奇跡も身近にあって構わないという、そうしたロマンを得たのは確かに『ドラえもん』を通じた語りかけのおかげでありましょう。

私にとって、「のび太の恐竜」は、あの白亜紀に首長竜(厳密にいうと恐竜じゃないんですよね)を返しにいった時点で終わっていたのでした。だから後の恐竜ハンターだとかなんとかは、本当のことをいうと蛇足でした。だから私は、映画は破格としても、漫画に関しては自分の決まりを守って、だから『大長編ドラえもん』を買ったのはずいぶん後になってしまいました。もう『ドラえもん』への興味が薄らぎはじめていた時期でしたから、続きを買うまでにはいたらず、だから『のび太の恐竜』だけしかもっていません。けれど、これを読むとやっぱりじんと込み上げるものがあって、だから後のものにしても読めばきっといいなと思うはずなんです。

けど、私が大長編に手を出さなかったのは、やっぱりきっと映画こそが原典でとか思っているからに違いないのです。杓子定規は損をしますね。

  • 藤子不二雄『ドラえもん』第10巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館、1976年。
  • 藤子不二雄『のび太の恐竜』(てんとう虫コミックス:大長編ドラえもん;第1巻) 東京:小学館、1983年。

2005年10月8日土曜日

のび太の恐竜

 普段、あまり恐竜だとか自然科学系の話をしないものだからか、恐竜博に行きたいという話をしたら、多趣味ですねとか意外ですねとかいわれることが大概で、というか、以前『世界最大の恐竜博』(ブラックビューティやセイスモサウルスが来たやつですよ。大阪では1994年に開催されました)を一緒に見に行ったやつにまでそんなことをいわれたのはさすがに心外でした(薄情者め、あん時も私が誘ったんだ)。

私はそもそもからして恐竜が好きなのですよ。はじめて触れた漫画『ドラえもん』第16巻での宇宙ターザンにはじまり、はじめて手にしたひみつシリーズは『恐竜のひみつ』。じゃあ、はじめて見た映画はなんだったかといえば、それは『ドラえもん のび太の恐竜』でありました。

映画ドラえもん。今見れば、当時のものはどう映るんでしょうね。やはり素晴らしい名作と感じるか、あるいは思い出が映画を実際以上のものに膨らませてしまっているのか。あの時劇場で見て、その半年後のテレビ放映で見て、それ以降は一度も見ていないから、また見られるとなればなんだかおそろしいものがあります。子供のころに好きだったものが、今見返せばたいしたことのないものとわかる。私はそれを怖れているのです。

いや、ドラえもんに関してはそうした心配はきっといらない。当時はビデオもなく、映画にせよテレビにせよ、リバイバルや再放送のないかぎり、一度見ればそれが限りでありました。だから、多分当時の私は、そのたった一度の機会を本当に真剣に見て、心に刻むようであったのだと思います。細かなディテールまでは思い出せませんが、あの暗い劇場の雰囲気、そして興奮とともに見たであろう映像の迫力は、胸のどこかに残っているのです。

『のび太の恐竜』は、ずいぶん後になって買った大長編で読み返すことがあるのですが、今から見れば懐かしい直立したティラノサウルスとかが時代を感じさせて、けれど物語の素晴らしさや中生代という我々の想像力をかきたてる魅惑の時代への憧れがびりびりと伝わってくるから、古くささは感じないんですよね。大長編ドラえもんを買うときにも感じた怖れは、こうして杞憂に終わって、だからきっと私は最初の映画ドラえもんを見ても、その質の高さに打たれることでしょう。

思い出は思い出として美しいままに、そして新たな体験としてこの映画を再び見ることもできるのではないかと、そういう予感がします。

ちょっと余談

私の見た『のび太の恐竜』は『モスラ対ゴジラ』との併映で、私がこのとき見た『モスゴジ』で覚えてるシーンというのが、大八車に家財一式乗せて逃げる人たちってのも変な話です。ずっとこのシーンがなんの記憶かわからず、高校のころにテレビで『モスゴジ』をみてようやく気付いた。そんな次第です。

もうひとつ余談

来年のドラえもん映画は『のび太の恐竜』のリメイクだそうですね。ラフスケッチを見ればなんかいいかもと思いますが、けどなんだかおそろしい思いもするのは同じです。

このリメイクを否定的に見る人もいるかと思いますが、私はただ、よい映画になることを祈っています。

  • 藤子不二雄『のび太の恐竜』(てんとう虫コミックス:大長編ドラえもん;第1巻) 東京:小学館、1983年。
  • 藤子不二雄『ドラえもん』第10巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館、1976年。

2005年10月7日金曜日

HAL — はいぱあ あかでみっく らぼ

  明日から恐竜博がはじまるというので、買ってきました前売り券。なんとですね、海洋堂制作のフィギュアがもらえる引換券付き前売りがありまして、割引されたうえおまけがついてくる。そん代わり平日にしか入場できないという諸刃の剣。勤め人にはお薦め出来ない。といっても、まあ私は半勤め人、半遊び人みたいなもんですから、平日限定券でもなんら問題ありません。問題があるとしたら、これペアチケットということで、相手を探さないといけない。中生代の生物に興味があって、なおかつ平日が暇な知り合いなんていたっけかなあ……。

今回の恐竜博のコンセプトは、恐竜が鳥へと進化していく過程をクローズアップしようというもので、ええーっ、恐竜って鳥に進化したの!? なんていっている人はちょっと遅れていますね。今や、恐竜は鳥になったという説が主流を成して、だから私らが身近に見、親しんでいる鳥は恐竜の子孫であるというわけです。ほら、こう考えると、ちょっと中生代が身近に感じられるじゃありませんか。ロマンですね、ロマンですよ。

あさりよしとおの科学漫画『HAL』第一巻には、まさに鳥類の親戚としての恐竜が扱われた回がありまして、これを読めばなおいっそう恐竜が身近に感じられる好短編であります。恐竜の飼い方が紹介されて、さらにはおいしくいただける恐竜料理にも触れられて、鳥に似た恐竜、きっとインコなど鳥類を愛玩されていらっしゃる方なら、上手に育て、うまくすれば手乗りにしつけることも可能なんじゃないかと思います — 。

私はつくづく思うのですが、世の中で最もたちの悪い嘘というものは、真実混じりのそれであると思うのです。思えば私の手口がいつもそれだな……。いや、私のことはさておいても、あさりよしとおの『HAL』は、またちょっと異色の科学漫画として楽しく読んで学ぶことができる良書であると思います。

  • あさりよしとお『HAL』(Gum Comics Plus) 東京:ワニブックス,新装版,2006年。

同じ作者による『まんがサイエンス』をあわせて読まれると、面白さはいっそう引き立ちます。ともにお勧めします。

2005年10月6日木曜日

サンパギータ

 妙に長かった夏も過ぎ去ったようで、この頃ようやく朝夕には秋らしい涼しさが感じられるようになりました(というか、ちょっと寒い)。というわけで、秋のやるドラを紹介してみましょう。記憶喪失のヒロインを軸に、春夏秋冬それぞれのドラマを展開してみせたやるドラ、秋のタイトルは『サンパギータ』でした。私がはじめてプレイしたやるドラです。

なぜ『サンパギータ』が私の初やるドラとなったかは、本当に偶然といっていいようなきっかけでして、ちょうどそのころに買いはじめた電撃PS誌の体験版付き別冊でこれを特集していたという、そういうような具合でした。その時分は、なにぶん久々にゲーム機なんてのを買ったような有り様でしたから、なにをとっても物珍しくて、だってプレステ以前のゲーム機といえばファミコンだったのですから、そりゃカルチャーショックでしたよ。そこへやるドラ。プレステという、決してハードウェア的に恵まれていないプラットフォーム上で、かなり気合いの入ったアニメーションを展開してみせて、私は素直に、これはすごいぞ! と思ったものでした。

私がやるドラに期待した理由というのは『季節を抱きしめて』や『スライディング・ドア』でもう書いたのではしょるとしまして、けれど実際このやるドラというのは、本当に画期的と思われました。アニメーションがかなりしっかりしているというのもありましたが、それだけじゃなく、ゲームらしくなるように分岐やマルチエンディングを用意した上で、ドラマとしての作りをよく考えている。プレステというハードの限界ぎりぎりに挑戦したのだなと感動的でさえありました。

私のやるドラへの傾倒は、サントラを買いドラマCDを集め、ファンブックも揃えたというくらいのもので、それはよっぽど私の好みに合ったということなのだと思うのですが、なかでも『サンパギータ』のファンブックには面白い記述があって、本当はもうひとつエンディングがあったのだそうですね。主人公が、ヒロインマリアを取り巻く人間関係に深く入り込むことでマフィアの一員となってしまうという、そういうエンディング。けれど、残念ながらCD-ROM二枚の容量ではそれだけの展開を収めることができず、泣く泣くカット。確かにそういわれると、『サンパギータ』の終盤はかなり容量不足に泣かされたと思われるようなシーンがあったと思い出されます。

けれど、それでも、あれだけの動画のパートを持ち、あれだけの効果音、台詞を収め、それで演出にも遊びにも手を抜かず、よくやりました。私は本当にあのやるドラというシリーズが好きなのですが、それはこのシリーズに取り組んだ人たちの熱意みたいなものが、ほのかに感じられるからだったんじゃないかと思います。

CD

2005年10月5日水曜日

Chopin : The Nocturnes, played by Claudio Arrau

  私にとってショパンとは、知ってはいるけれどさして重要ではない作曲家でありました。そりゃ、西洋音楽史における位置や重要性は理解していますし、特にあのピアノという楽器においては最大級の作曲家であることはいうまでもなく知っています。ですが、それでも私にはショパンは重要ではなかった。けど、それって簡単にいうと、知らなかっただけなんですね。

アラウの弾くノクターンを聴いていたとき、それまでちょっと感じたことのないような感覚に襲われたのです。美しくてピアニスティック。けれどそれだけでなく、指先がしびれるように感じる。背骨にそって、微弱な電流が流れるような感触がする。目を閉じて深く息をすれば、そうした刺激はよりはっきりと感じられるようになって、それらはすべてアラウの弾くショパンによって引き起こされているのです。

よく、官能的であるとか、そういう風に音楽を評することがありますが、今のこの感覚がまさにその官能的であるということなのだと理解しました。音楽が身体にまで作用することは、これまでに何度も体験してきたことでありますが、ショパンの感触はそれまでのどれとも異なって、静かでソフトで優しい感じがしました。点々と明かりが灯るように、神経に添って流れていく音の粒立ちが、私の深い部分を掘り起こしていく、 — そういう感触が肌に残りました。

ああ、ピアニストがショパンを好むわけだ。ショパンは並の音楽家ではないと、ようやくわかった思いがしました。

2005年10月4日火曜日

らいか・デイズ

  主人公春菜来華は子供からも大人からも頼りにされるスーパー小学生。絶大なる信頼を勝ち取りながらも、ちっとも偉ぶらないいいやつ! 正義に厚く、弱気を助け強気をくじき、けれどもちっとも杓子定規でないクールな少女! というのが最初の印象だったのですが、途中からずいぶん可愛いところが出てきてしまいました。ちょっと古風でずれた嗜好がほほ笑ましく、そして恋には後れを取りっぱなし。完璧でありながら完璧でないところがらいかの魅力なのであろうかと思います。

初期らいかを読んでいた頃、本当にうまい四コマ描きが出てきたなあと、そういう感想を持ちまして、だって、絵柄はシンプル、ネタもシンプル、けれどひねりが効いて、皮肉も批評も小気味よく、これはあれだね、山椒は小粒でぴりりと辛いってやつだ。そう、らいかはまさにそうした透徹した完成者であり、そして孤高であるがゆえのさみしさも知った個人であったのですね。

だけど、その最初の頃の、超越して孤独なヒーローであったらいかも私は好きでしたが、弱点をさらけ出してしまっている今のらいかはもっと好きかも知れません。普段は大人びている癖に妙に子供っぽくて、甘えん坊で、好きなものといえばチャンバラ時代劇とかちょっと変で可愛いキャラクターとか、そういうギャップがたまらないです。恋愛ごとはからきしだめで、ませた友達に振り回されるばっかりで、けれどそういうところが憎めないのだと思います。らいかの友人連中にしても、読者である私にしてもですよ。

私は漫画としては、当初の硬派なスタイルを好むのですが、ですが今のわいわいと楽しくやっているスタイルの方が、ずっとらいかが仕合せそうに見えるから、だから今の方がずっといいと思います。普通の小学生をやっているらいかの方がずっといいと思うから、今の路線で続けばいいなと思います。

  • むんこ『らいか・デイズ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • むんこ『らいか・デイズ』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 以下続刊

2005年10月3日月曜日

ナツノクモ

 体調崩して、仕事を休んだ帰り道。例月どおり、四コマ単行本だけでもと思って寄った書店で『ナツノクモ』を見つけました。『ナツノクモ』は『空談師』の篠房六郎の作品で、私はこの間『空談師』で一文書いたときまで、この漫画のことを知りませんでした。Amazonのレビューやらをみると、またネットワークゲーム上でのことを描いているようで、きっとまだ描き足らないのだろうなと思いながらも、ネットワークゲーム以外のテーマもないだろうかと不足に感じていて、けれど、こうした感想は誤っていました。

『ナツノクモ』は、舞台こそはネットワークゲームですが、テーマは人間です。これまでの、ふたつの『空談師』でも同様、ネットワークを越えたところに息をしている人間を描いていましたが、『ナツノクモ』ではそれが極まっている。私は一度読んで、胸がいっぱいになって、苦しかった。けど、苦しかったけれど、それ以上のなにかが確かに感じられて、それはのどのすぐそこにまで込み上げて、けれどいまだ言葉にはなり得ずにいます。

心を漫画から引き離してみれば、いろいろいうことは可能なのです。例えば、これまで以上にはっきりと表現されている、オフラインでのこと。オンラインとオフラインの違いが意識されている。ロール(役割)を演ずることではたされる、治療や成長、変化。そうした試みはオフラインでもおこなわれていることで、しかしあそこまでオンライン世界が発展したならば、確かにこのような手法でのセッションは可能でしょう。いや、オフライン以上に効果は高いかも知れない。身体という、どうしても意識しないではおれない枠組みを取り払うことのできるオンラインなら、ロールプレイもきっとしやすいに違いありません。

と、こうしたことを書いても、私の心の中にあるものからかけ離れていくばかりで、そうじゃないんです。

ざっくばらんに、例えばアメコミ風の傷つきながら戦うヒーローという構図で見てもいいのですが、けれどそれもやっぱり私の中のものとは決定的に違って、なんというんでしょう。私には、あの園の人たちの気持ちがわかる気がするのです。小さな共同体を築いて、ロールプレイを行いながら、欠けた部分を埋めていく、なくしたものを再び取り戻そうとする。そうしたささやかな場と、それが脅かされることの不快さ。望んでいることは大きなことではなくて、例えばそれは、せめて人並みにとか、そうしたちょっとした願いだったりするんですが、外部の人たちは興味津々で、触れられたくないところにまで踏み込もうとする。けれどそれはどうしようもなく堪え難いことで、けど相手にされないさみしさも悲しさもあって、怒りみたいなものもあって、それは自分でも満足に収めることのできないもやもやしたもので、だから時に爆発させて、うまくやっていきたいのになんでそれが自分にはできないんだろうという鬱屈が深かった。

自分は、あの園の人たちに自己を過剰に投影しているのだと思います。これを読み進めていくことで、自分の中に鬱屈してはらされないままになっているものが、少しでも解消されることを望んでいるといっていいかと思います。 — けど、多分私が一番望んでいることは、多かれ少なかれ問題を抱えている園の人たちが、少しでも彼ら自身の望むようなよりよいものになれるといいなということで、私は漫画という仮想の、さらにオンラインという仮想の向こうに、実存を見つけ出したいと思っているようです。

  • 篠房六郎『ナツノクモ』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 以下続刊

2005年10月2日日曜日

コンコルド和仏辞典

私はベルギー人のお嬢さんとネットで文通なんぞやってるもんだから、折りに触れて仏文したためることがあるのですが、これがもうなんといったらいいか、外国語の苦手な私には大事業なのです。けど、せっかくの機会ですから頑張って仏文書くんですね。内容はといえば、学校のこととか、日本の漫画やアニメのこととか、けど、こういうことを書くのって実はとっても難しい。共有する語彙の問題もありますし、そもそもそうした仏文に親しんでこなかったために、書きようがよくわからないのです。

だから、私は少ない語彙や発想を振り絞って、仏文に取り組んで、そんなときに力になってくれるのはやっぱり和仏辞典であると思います。

簡単な、それこそ覚えのあるものを書くのだったら、和仏辞典はそれほど重要じゃないんです。仏和で該当の単語を引いて、それで直接書いちゃえばいい。実は、こういうスタンスにまで持っていけないと、仏作文というのはできないと思うんです。だってこれって仏語的な発想ができているということですからね。けど、私は日本にすっかり根を下ろしてしまっていますから、フランス人の発想なんてのはないわけで、だからそういうときは和仏辞典に頼らざるを得ません。

私の使っている和仏辞典は『コンコルド和仏辞典』だけです。実はもう数冊買う予定だったのですが、なにぶん和仏辞典は高くて、それで手が出ないまま今に至ります。『コンコルド』で足りない場合は、オックスフォードの辞書があるから、和英→英仏というプロセスをたどります。和英辞典は二冊ありますから、まあなんとか対処できるかな……。いや、結局は訳しきれず、断念することもたくさんあるんですけどね。

以前、ドイツ人が日本語で書き込んだ掲示板のログを読んだことがあります。その文章は、やはりネイティブじゃないからちょっとおかしなところがあるんですが、それでもびっくりするくらいにしっかりした日本語で、私は驚きました、感心しました。ですが、読んでいくとなかなかぎょっとさせる表現がありまして、それはなんというか、やたら古風だったりするんですよ。……なのではありますまいかなんてのが出てくるんですね。

これ、多分、彼の使っている独和辞典にそういう表現が載っているんでしょうね。いや、間違いじゃないです。ちゃんとした日本語です。けど、あんまり使わなくなった日本語ですよね。

私が怖れるのはそこであったりします。私はきっとフランス語でありますまいかなんてやってるに違いなく、けど、私にはその変さがわからない。だから、ベルギーのお花ちゃんは、私のフランス語見て面白がってるかも知れませんね。

2005年10月1日土曜日

J. S. Bach : Prelude and Fugue No. 1 in C major, BWV 846, from The Well-Tempered Clavier (Book 1) played by Glenn Gould

 バッハの曲には広く知られたものが少なくありませんが、なかでもよく知られているのが『平均律クラヴィーア曲集』第1巻に収められたハ長調の「プレリュードとフーガ」でしょう。もう少し正確にいいましょう。「プレリュード」です。「プレリュード」に比べ「フーガ」はあまりに知られていません。

グレン・グールドはバッハが好きだったものだから、もちろん(といっていいのか?)『平均律』の録音も残しています。全曲版もありますし、抜粋もあります。文章にもいろいろ出てきます。

本当のことをいうと、私はそれほどグールドの演奏は好きじゃなかったのです、平均律第1巻ハ長調のプレリュードに関しては。レガートで上昇した後、デタシェに変わる。アーティキュレーションも明確なフレージング。私にはあんまりにこれが明晰すぎて、快活で、好きになれなかったのでした。

けれど、好きとか嫌いとかなしに没頭して聴けば、このフレージングがなにをもたらすかがわかってきます。和声の推移が美しいこの前奏曲の、どの音に力点が置かれているか、グールドがどのように捉えようとしていたか。そうしたことが、実に雄弁に語られています。

昔、まだピアノも弾いていた頃、私はこの曲を弾いたことがありました。今、ギターでも練習中です。演奏あるいは練習する際には、常に音楽を構成する各音の役割を意識し、それら音がどこへ向かおうとしているかを考えているのですが、グールドの演奏はそうした意識がみなぎっていて、演奏者としては分析図を見せられるかのように参考になり、聴者としても新たな姿の立ち上がろうする場に身が引き締まります。

グールドのアーティキュレーションは、きっかりぱっきりとして、ですがそれは判で押したような単調さとは対極に位置するものです。揺れがある、変化がある、そしてまったく違ったフレージングがあらわれる。それはなんでなのか。そうした揺らぎの影には、どういう音楽の要請があったのか。

私は考えます。考えないではおられないのです。