2005年12月31日土曜日

ぼくの人生処方詩集

 寺山修司はいうのです。

私が忘れた歌を
だれかが思い出して歌うだろう
私が捨てたことばは
きっとだれかが生かして使うのだ

だから私は
いつまでもひとりではない
……

いうまでもなく私たち一人一人は小さくはかなく有限で、そうしたことを思うとき、空しさや悲しさに押しつぶされそうな気がします。ですが、もし私が失われたその先に、私の忘れた歌や捨てたことばを生かして使う誰かがいるというのなら、ただそれだけのことで、悲しさや空しさに耐えることもできるだろうと思えます。

最初に紹介した詩は、寺山修司の『ぼくの人生処方詩集』のなかの一編「ひとりぼっちがたまらなかったら」。この詩に添えて寺山修司は、恋人をつくるほうがもっとよく効くことでしょうだなんていっていて、それは確かにそうかも知れません。けど私には恋人では耐えられない瞬間があるように思えて、それはやはりその恋人も有限で、命にもかぎりがあれば、愛にもかぎりがあるだろうだなんて思っているわけなのですが、まあこんなこといっているからいけないんだというのはわかっているので、そうっとしておいてやってください。

私はこのBlogの他にもサイトを持っていて、その日々の書き散らかしは誰も目にせず、気に留められることもなくほうっておかれるのが大半ですが、ですが中には私の書き散らかしを拾ってくださる方もいる。このBlogにしてもそうです。誰かが読んで、その人のために、あるいはその人の知る別の誰かのために役立ててくれる、なにか思いが兆したところを別のかたちにしてくれる人もいる。

そうしたことの断片を伝え聞くことがあるたびに、私は無理してでもサイトを続けていた意味があったと思えるのです。

2005年も今日で終わり。明日からは2006年がはじまります。それをひとつの区切りとして、私は保留してきたすべての権利の一部を開放してみようかと思います。果たしてそれがどれだけの意味を持つのかはわかりませんが、ですがこれが私の言葉を拾う人にとって少しでも意味のあることだとすれば、躊躇はありません。

私が捨てたことばを生かしてくれる誰かがいるかぎり、きっとわたしはひとりではありません。

引用

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