2005年9月30日金曜日

Macromedia Fireworks

 画像を編集するソフトといえば、Adobe Photoshopなんかが一般的ですが、しかしなにぶんPhotoshopは高くて……。いや、プロツールであることは重々承知していますから、高いのもしかたないと思うのですが、しかしそれにしても高い。私は以前、大学で働いていたときにアカデミックで買おうと思って、けれどそれでも挫折しました。

そんな私が使っている画像編集ソフトはなにかといいますと、MacromediaのFireworksで、Dreamweaverと込みで安く売られていたバージョン3から愛用しています。ちょこっと画像をいじくるにも気が利いていて、私にはとても使いやすいソフトなのです。

私がFireworksを触ってみてなにが向いていると思ったかというと、使い勝手がドローツールのそれに近いんですよね。画像に矩形や文字をぺたぺた張り込んでいくんですが、後からいくらでも編集できるし、大きさも場所もピクセル単位でいくらでも動かせるしで、どうもPhotoshopのレイヤー概念にいまいち親しみづらかった私にはとてもありがたく思ったものでした。

でも、やっぱり専門家からしたら文句もあるツールだそうで、ピクセル単位での編集をやるには欠かせないけど、書き出される画像の質には疑問がうんぬんなどなど。なのでやっぱりプロはPhotoshopも使って、けれどPhotoshop、Fireworksを併用しているという人も少なくない模様です。だから、MacromediaはAdobeに買われてしまいましたが、それでもFireworksは残って欲しいという声が聞こえたときは、私は嬉しかった。一Fireworksファンとして嬉しく思ったものでした。

もしFireworksがなくなってしまったら、きっと私は困ると思います。だって、これに慣れてしまっているものですから、なかなかほかのものをという気持ちにはなれません。

2005年9月29日木曜日

Jack Orion

 『ジャック・オライオン』はイギリスの伝承歌。フィドル(ヴァイオリン)奏者ジャック・オライオンがその技芸でもって王女の愛を勝ち取るも、不実な従者の裏切りによって王女を奪われ、王女を失い、そして従者を道連れに死を選ぶという、実に悲しくもセンセーショナルな内容が歌われています。バラッドらしく、シンプルなフレーズが延々繰り返されて、演奏時間たるやなんと十八分。けれど、ペンタングルによる演奏は、ギターの技芸、歌唱の充実によって、その長丁場を飽きさせません。むしろ、何度でも聴きたいと思わせるような、本当の魅力をたたえた名演です。

『ジャック・オライオン』が収録されているのは、全編トラッドで構成された『クルエル・シスター』で、私はそもそも『クルエル・シスター』(こっちは楽曲名、さっきのはアルバム名ね)聴きたさにペンタングルのアルバムを揃えたのですが、『クルエル・シスター』のみならず、『ジャック・オライオン』にもすっかり魅了されてしまいました。

『クルエル・シスター』はA面のラストナンバー、そしてB面は『ジャック・オライオン』一曲という素敵構成。音楽はぴしっと楽曲を貫いて、緊張と弛緩を巧みに使い分けながら、ぐいぐいと聴き手を引っ張ります。歌うのはギタリスト、バート・ヤンシュ。ジャッキー・マクシーも加わって、本当に贅沢な仕上がり。私は、この人たちの演奏を聴くと、自分もいつかこういう境地にいたりたいと思い — 、この思いは当時ペンタングルに影響された多くの人たちも同様に抱いた思いであろうと思います。

2005年9月28日水曜日

お菓子な片想い

 私にとって阿部川キネコとは、『明智クン!!』の作者であり、『辣韮の皮』の作者であり、『WAKI WAKIタダシさん』の作者であり、こうした漫画の作風こそが阿部川キネコらしさと思っているから、『ミス&ミセス』には驚きました。同人畑で培われたであろう幅広いスタイルの片鱗を見ることができ、引き出しがたくさんあるなあと思ったものでした。

そして、その感想は再び繰り返されます。『お菓子な片想い』はちょっと昔風のラブコメで、70年代とか80年代なのかなあ、甘少女誌風の匂いをがんがんさせています。挿入されるポエムもかなりポイント高く、けど、私にはなんかずっと、なんかパロディを読んでるような気持ちが抜けなくて……。入魂のあとがきをめくったところに本当の後書きがあるのではないかと疑ったというのは内緒です。

甘ラブコメの皮をかぶった『お菓子な片想い』で、そこはかと漂う甘酸っぱさに私はすっかりやられて、息も絶え絶えで、つらいよ、つらいですよ、悪い冗談みたいです。これはそういうギャグかなんかなのか、なんて思ったりしても、多分これはこういう表現の試みなのだろうと思います。だから、阿部川キネコの引き出しのひとつとして楽しむのが正しい読み方なのかと思うのですが、やっぱりどこかむずむずします(二重の意味でね)。

『お菓子な片想い』からは昔少女誌の匂いがするといいましたが、けれど昔風ばかりではないのが阿部川キネコの阿部川キネコたるところで、とりわけ毒舌な友人エーコたんあたりに、キネコ的辛辣がびりびりと発せられています。それどころか、親友ルイ子からもあやしげなオーラが感じられて、こうした辛口と甘表現が交錯するところに、やっぱりこれは阿部川キネコの漫画なのだという思いを強めます。

そうした思いが強まるほどに、なんかパロディを読んでいるという感じも強まるのは、ちょっと困ったところではあるのですが、そうした複雑な感触に揺さぶられるのもまた面白いものではないですか。だから、私はこの漫画、結構好きだと思います。それに結局、ちまと手塚くんの恋の行方はどうなるのだろうと思っていたりするのですから、すっかりペースに巻き込まれてしまっているようです。

  • 阿部川キネコ『お菓子な片想い』第1集 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2005年。
  • 以下続刊

2005年9月27日火曜日

殺し屋さん

 先月だったかに発売と聞いていた『殺し屋さん』。私はこの漫画が出るのを楽しみにしていたんですが、私の行く書店書店どこにも置いてなくて、出版されなかったのかな、発売日が延びたのかななんて思っていました。そうして、もうだめかと思いはじめて、この頃では探そうという気もなくなりつつありました。

ところがですね、本日ついに書店に並んでいるのを見つけて、その瞬間に確保。そうかあ、やっぱり発売日伸びてたんだあ、だなんて思ったんですがこれが大間違い。なんと、第二刷でした。売れてたんでしょうか。そうですね、やっぱり面白いですからね。ちょっと嬉しくなりました。

『殺し屋さん』というタイトルからもわかるように、主人公は殺し屋。しかも日本一の殺し屋です。狙った獲物は逃さない。依頼があれば必ず殺すが、依頼がなければ虫も殺さず、人には親切で、きれい好きで、うぶで純情な好青年、ってなんか変だぞ。ですが『殺し屋さん』とはそういう漫画です。

殺し屋というハードボイルドなモチーフに、場違いなほのぼのやだじゃれ、脱力するようなギャグをミスマッチに合わせて、そうですね、ナンセンスジャンルの漫画なんです。私は、なにしろキャロリアンですから、ナンセンスには目がありません。だから、こうの史代の『さんさん録』とはどんな漫画なのか興味に思って垣間見た『漫画アクション』に『殺し屋さん』を見つけたときには、これだと思った。その日以来、いつか『殺し屋さん』の単行本が出て欲しいものだと心待ちにしていたのでした。

私が心奪われたのは、あのけんけんぱの回でした。簡潔さが力強い! べたなネタもありますが、ですが私はべたは嫌いじゃありません。シンプルこそが第一で、繰り返し現れる同系のギャグを心待ちにして — 、こうしてまとめて読めて私はいま仕合せです。

  • タマちく.『殺し屋さん』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2005年。

2005年9月26日月曜日

人生が二度あれば

 『人生が二度あれば』という歌を聴いたときに、私は自分の父を思って、その時はまだ仕事に出ていた父でした。仕事に打ち込む人でなく、むしろ仕事嫌いの人ですが、それでも一人で家計を支えて、定年を迎えたのはつい数年前のことです。

母は子育てから手が離れたときに、趣味で絵を描いてみたり、陶芸をしてみたりと、それなりに趣味をする人でしたが、父はそういうそぶりをまったく見せず、私から見たらなにが楽しみかわからないような人です。けれど父の人生も無為ではなく、今仕事から離れて、いったいなにを求めようとしているのか。父の仕事以外の人生とはなんなのだろうと、時に思います。

私も、自分の人生の折り返し地点を過ぎて、いったい自分の人生とはなんなのだろうかと。私はいうまでもなく、妻もめとらず子ももたず、仕事にしても打ち込むでなし、それこそ無為一歩手前の境涯に暮らして、私の人生こそなんだろうと思います。やりたいことは山とあって、けれどそれを成すでもなく、時間が足りない足りないというばかり。けれど、その時間が足りぬという私には、人生が二度あればと望む資格はないのですね。

私はこの一度きりの人生を、一度きりと観念して、がむしゃらに生きないといけない。やりたいことがあるとうそぶくのなら、それをやってみせろという声がどこかから聞こえてきて、なにしろ私は、家族のためでなく父母のためでもなく、ましてや妻子のためでなく、私一人のために人生を費やす仕合せを身いっぱいに浴びているのですよ。それを無為一歩手前で無駄に過ごして、それでもう一度の人生を望むというのなら、その一度きりの人生さえも充分に暮らせなかった人が怒ります。

人生が二度あれば、あの人にもう一度、自分のために生きることのできる時間が与えられたら。これは人生を精いっぱいに、しかし自分のためには充分に時間を費やせなかった人にこそふさわしい願いであると思います。

2005年9月25日日曜日

DVDレンズクリーナー

私はこれまで光学ピックアップの汚れというのをいい加減に考えていて、だもんだから、PlayStation 2の読み込みに不良が出たときも、経年による劣化かと思ってそのまま放置していました。最初に読み込み不良が起こったのは、ナムコの名作格ゲー『ソウルキャリバー II』で、このときもディスク固有の癖とかそんなのかと思っていました。

けれど、気付いたらこうした読み取り障碍というのが頻繁に起こるようになってきて、例えばそれはDVDビデオを見ているときもそうで、『フルハウス』でも起きて、それどころか、DVDレコーダーで作成したものなどは最初から認識しません。

私のPS2は初期型だから、モーターだかサーボだかがへたってきたんだろうなと思っていました。

けれど、その認識は大きな間違いでありました。

ことのはじめは『カルドセプト・セカンド・エキスパンション』を遊んでいたときのことで、ストーリーモードのマップ選択画面で突然BGMが途切れたり、あるいはほこらでメドロス様を呼び出したときの待ち時間が尋常じゃなくなったとか、多分、じゃじゃじゃーんっていう効果音の用意が追いつかないんでしょうね。とにかくプレイに支障が出るは、精神衛生に悪いはで、なんとか対処しないといかんと思ったのです。

PS2の修理っていくらくらいかかるんだろうとの疑問を解消すべく、Googleにて検索してみました。そうしたら、私の持っているのと同じ初期型SCPH-10000の修理風景を公開しているページを発見。興奮しつつ読み進めた私は、重要な説明を見つけるにいたりました。

EVOは読み込みが悪いと相談された場合、必ず「レンズのクリーニングをしてみてください。」と言います。

読み込まないPS2の半分はレンズ汚れだからです。

この説明は、私には僥倖のように思われました。同サイトによれば、PS2の光デバイス交換は9,450円かかるのだそうです。ですが、うまくレンズのクリーニングをできれば、そうした大きな出費を避けることもできそうです。

そんなわけで、私は早速DVDレンズクリーナーを買ってきました。私の購入したものはmaxell乾式/湿式ダブルパックで、ほこり汚れを除去した後、油膜汚れをやっつけようという腹でこいつに決めました。

maxellのダブルパックにしたのは、たまたまいった店にこれしかなかった(ほかのはmaxellの乾式とTDKタイガースだけでした)からで、けれど乾式、湿式両方を買うつもりだった私にはうってつけでした。湿乾両用というからどういう構造になっているのかと思えば、ディスクが二枚入っていて、それぞれを用途に応じて使い分けよとのこと。盤面中ほどに小さなブラシがついている、シンプル構造であります。

それで結果はというと、良好です。これまで読めなかったディスクも読めるようになり、ゲーム中にストレスを感じるようなこともなくなっていい感じではないですか。

自分は機械運がいいほうだからついついメンテナンスをいい加減にしてしまうけれども、そういうのはいけないのだなと本当に思いました。これからは気をつけたいと思います。

引用

参考

2005年9月24日土曜日

秘密の花園

    つい先日のこと、突然脳裏にアーチボルトという名前が浮かんで、アーチボルトといえばクレイブンと続くのが世の習いであります。けれど私にはそのアーチボルト・クレイブンというのがいったいなんであったか思い出せず、しかたがないからGoogleでもって検索したのでした。

アーチボルト・クレイブンとは、秘密の花園の登場人物。メアリーの病弱ないとこ、コリン・クレイブンの父でありました。そうだ、秘密の花園だと思って、私はいつもの書店に走って、『秘密の花園』を探そうとしたのでした。

子供の頃、親がどこかから児童向けの文学全集を一冊ずつ借りてきてくれて、私はそれで『秘密の花園』だとか『足長おじさん』だとかの、名作中の名作を読んで、けれどあの全集はいったいどこの社の、なんて全集だったんでしょう。親に聞いても忘れてしまっていて、うちの子は全然読まないんだから、代わりに読んでくれて嬉しいわという言葉をいただいたことは覚えているんですが、はたしてそれが誰だったのか。私にしてもそれ以上のことは思い出せません。

あの年ごろに読んだ本に立ち現れた秘密の花園は、うっそうと緑の匂いも濃密で、その萌える息吹の鮮烈さが今も心のどこかに残っているんです。木の芽が、今にも開かんと膨らんでいるその描写は、みずみずしくて息がむせぶほどに生命感があふれていました。そうした本に、今になって再び触れたいと思い立って、そうなったらもう矢も楯もたまりません。

ですが、悲しいことに私の行きつけの本屋には『秘密の花園』が置いてなくて、探し方が悪かったのかも知れません。けれど岩波少年文庫を見て、偕成社文庫を見て、フォア文庫を見て、福音館の棚も見て、案外新潮文庫はあったのかも知れませんが、私はそこまで見ることなく引き下がりました。

今になれば、オリジナルを読むべきなのかも知れません。わからないながらも本を楽しみ、そうして言葉を少しずつ覚えたみたいにして、英文で読むべきなのかも知れません。

  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』上 山内玲子 (岩波少年文庫) 東京:岩波書店,2005年。
  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』下 山内玲子 (岩波少年文庫) 東京:岩波書店,2005年。
  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』谷村まち子 (ポプラポケット文庫 — 世界の名作) 東京:ポプラ社,2005年。
  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』猪熊葉子,堀内誠一 (福音館文庫) 東京:福音館書店,2003年。
  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』野沢佳織 (西村書店) 東京:西村書店,2000年。
  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』猪熊葉子,堀内誠一 (福音館古典童話シリーズ) 東京:福音館書店,2000年。
  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』谷村まち子 (ポプラ社文庫 — 世界の名作文庫) 東京:ポプラ社,2000年。
  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』上 竜口直太郎 (ニュー・メソッド英文対 (シリーズ) 東京:評論社,1996年。
  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』下 竜口直太郎 (ニュー・メソッド英文対 (シリーズ) 東京:評論社,1996年。
  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』前田三恵子,中山庸子 (少年少女世界名作の森;第12巻) 東京:集英社,1990年。
  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』上 茅野美ど里 (偕成社文庫) 東京:偕成社,1989年。
  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』下 茅野美ど里 (偕成社文庫) 東京:偕成社,1989年。
  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』竜口直太郎 (新潮文庫) 東京:新潮社,1954年。

2005年9月23日金曜日

つうかあ

 風邪をひいたときなんかには、加藤さんご夫妻を思いだして、さみしさとうらやましさの混じったような変な気持ちに浮かされていけません。加藤さん夫妻、かーさんが夫で、つーさんが妻。お互いに好き合っていることが伝わってくるラブラブカップルなんだけれども、べたべたと愛を確認しあうような湿っぽさはなくて、独特の距離のうちに、お互いの気持ちの温度を測りあえるような、そういう関係がうらやましいな。特に、大風邪の変に見られるようなのがうらやましくて、気持ちが弱ったときに寄り添っていてくれる人がいるというだけでも、人生は大きく違うのではないかと思います。

でも、私の側に寄り添ってくれる人がいないというのは、ひとえに私が悪いのであって、うらやんでもしかたがない話です。そもそも私はせっかちで、つーさん、かーさんのような関係、あるいは『ぽっかぽか』の田所夫妻のような関係を憧れながら、育てる手間を嫌ってきた。そうなんですよ。理想的な関係というのは、相性や性格の問題もありますが、それよりもやはりそうした関係ができあがるまでの時間が必要なのだと思います。その育てる時間をパスして、良い結果だけは欲しいというのは虫のよすぎる話です。

最初から『つうかあ』だったわけじゃない

話して 動いて 世話して されて

10年かけて『つうかあ』を育ててきたのでした

この言葉の持つ意味こそを、私は噛みしめるべきなんだろうなあと、この年になって思うんですから気付くのが遅かったといわざるを得ません。

自分の行為の報いとはいえ、今日みたいな日には効きますなあ。

  • 入江紀子『つうかあ』(YOUコミックス) 東京:集英社,1997年。

引用

  • 入江紀子『つうかあ』(東京:集英社,1997年),144-145頁。

2005年9月22日木曜日

Culdcept

    私の最も愛したゲーム。RPGでは『Wizardry』、ノベル系なら『Lの季節』。じゃあ対戦系ならなんだろう。それは、疑うべくもなく『カルドセプト』です。電撃PS誌についてきた体験版で一気にはまり、『エキスパンション』を購入。もちろん『プラス』も買ったさ。それどころか大会にも参加し、遠く埼玉にまで行って、ですが私の戦いは地方大会で苦汁をなめて終わりました。でも、残ったものがたくさんあります。大切な友人があちこちにできたのは『カルドセプト』のおかげで、その幾人かは、今もつきあいが続いています。よいものはよい機会を与えてくれるというのなら、『カルドセプト』は最高のゲームです。そういいきってなんら私は恥じません。

その『カルドセプト』が漫画になるということで、セプター(カルドセプトのプレイヤーをこういいます)はみな興味津々でその仕上がりを待ったものでした。ですが、当初の興味の中には、多少の意地悪さも混じっていたことをいっておかねばならないでしょう。誰しも経験があるのではないかと思うのですが、自分の好きなものが別媒体にて展開されてみたら、もうひどい出来に仕上がって最悪だーってことはよくある話です。だから、とりわけ『カルドセプト』は私にとって思い入れの深いゲームだったから、見る目はそれだけシビアになって、ちょっとでもだめなようならもう許さんからね、と、私は本当に意地悪な姑の気持ちで第1巻の出版を待っていました。

けど、出てみたら、そんな意地悪な気持ちは消し飛びましたね。いい漫画なんだ。ゲームからエッセンスをうまく抽出して、漫画という媒体にそぐうように大胆アレンジがされていて、けど、そのアレンジがいやじゃないんです。これは作者の調理のうまさでしょう。『カルドセプト』の世界観やゲームの根底に流れているらしさをうまくつかんで、大きく膨らませるのに成功しています。ストーリー展開は縦横無尽で、設定に縛られない自由さがむしろ気持ちよく、本当にいい漫画だ。あまりにもいい漫画だから、私これを読んでると、知らん間に涙が出てしまっている。それで読み終えたときに、よし自分もがんばるかあと思える。本当にいい漫画です。

セプターじゃない人には、いまいちわかりづらいところもあるのではないかと思いますが、それでもぐいぐい読み手を引っ張る物語の強さがあるから、きっとカルドセプト未体験でも大丈夫。で、漫画を読んで少しでも『カルドセプト』というゲームに興味を持ったら、その時にはどうぞゲームにも触れていただきたい(『セカンド・エキスパンション』が現役です)。そうすれば、きっと漫画の面白さもいや増して、異世界リュエードをもっと愛せるのではないかと思います。

ところで、今回の記事用にずらりと表紙を並べてみて、第4巻がないのが残念。私は、あの4巻表紙の、祝祭的雰囲気が大好きなんですよ。ぱぁっと明るくて、なんか楽しげなあのイラストレーションが大好きで、だから4巻表紙だけ画像がないと知ったときにはちょっとショックでした。

なので、皆さんには、お持ちの方はご自分の蔵書で、お持ちでない方は書店で(できればご購入いただいて)、あの祝祭的雰囲気とそして物語の極まりに触れていただきたいものだと思います。

余談

ダゴン様があんなにチャイルドセクシー(略してチャイセク)なのは、反則だと思います。

おやつ係に応募しようかなあ。

  • かねこしんや『Culdcept』第1巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2000年。
  • かねこしんや『Culdcept』第2巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2001年。
  • かねこしんや『Culdcept』第3巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2002年。
  • かねこしんや『Culdcept』第4巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2004年。
  • かねこしんや『Culdcept』第5巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2005年。
  • 以下続刊

第4巻表紙は、こんなところにあったよー。第5巻表紙のゴリガンにはマブチモーターがついてて、細かいところにもギャグが光っています。素敵です。

2005年9月21日水曜日

J. S. Bach : Goldberg Variations, BWV 988 played by Glenn Gould

 グレン・グールドの弾くゴルトベルク変奏曲の録音は意外にたくさん残されていて、1953年のデビュー盤ザルツブルグにおけるライブ盤、そして1981年の盤というのが私の知る頃の相場だったのですが、それ以降もいろいろ出ていたみたいで、CBCでの録音やモスクワでの抜粋版など、もう私にはおいきれるものではありません。

グールドは演奏会活動をやめたことで知られるピアニストですが、聞いた話によると、録音をやめると発表して自分の未発表録音を高騰させようという「隠し財宝計画」なるものもあったとか。ですがこれは笑い話やなんかではなく、グールドをめぐる状況 — 録音の発掘や復刻盤などなど — を見ていると、世の中は彼の意図したとおりに動いていると思わないではいられません。

グールドのゴルトベルク変奏曲で一番有名なのは、疑いなく1981年の新録音であると思います。あるいは、グールドの残した仕事で最も知られるものが1981年のゴルトベルク変奏曲であったといいかえてもいいかも知れません。いずれにせよ、ゴルトベルクでのレコードデビュー以来、グールドにはゴルトベルク変奏曲のイメージが抜き難く、そしてそのイメージは死を間近とした最晩年のゴルトベルク変奏曲の録音で確定します。グールドといえばゴルトベルク、それどころか、ゴルトベルクといえばグールドという図式で語る人も少なくありません。

私は、グールドを1981年録音のゴルトベルクで知りました。買ったときはグールドという人のことを知らず、好きなバッハの好きなゴルトベルク変奏曲を、ピアノでの盤でもひとつ聴きたいものだと、そういう動機で買ったのがグールドのゴルトベルク変奏曲。ライナーノートに書かれた演奏中にグールド自身のうなり声や歌う声が収録されておりますが、自らの音楽表現に没頭するあまりの“演奏行為”であり、雑音ではありませんなる文言にも驚きましたが、グールドは実際こうした奇矯性でも知られた人で、ですがその奇矯性は広く受け入れられて、グールドをより特別な演奏家にしているのではないかと思います。

グールドを聴きはじめた頃は、変わり者ピアニストくらいの印象しか持っていなくて、うなり声入りのレコードにしても、夜中に一人で聴いてると怖いよねみたいな笑い話みたいにしてたのですが、それがまさか後に論文を書くまでにいたるとは思いも寄らず、ましてや全集(Glenn Gould Edition)を揃え、LDも箱で買うなどとは、論文に着手したときでさえ想像だにしなかったことでした。今ではすっかりグールディアン気取りですからね。ほんと、あの時たまたま買おうと思ったのも不思議な縁で、グールドのゴルトベルクは、私の人生を変えた演奏であるいっていいすぎではありません。

余談

私の最初のグールドのCDはちょっと特別で、普通変奏曲となると各変奏ごとにトラックを切るのに、このディスクはなんと1トラックです。一時間近くある変奏曲が丸ごとそのまま入っていて、一度聴きはじめるとノンストップで最後まで聴かないといけない、まさに本気盤。ですがこの仕様はちょっと気に入っています。

引用

  • グールド、グレン『バッハ:ゴールドベルク変奏曲』のライナーノート Sony Records FCCC-30028,CD,1992年。

2005年9月20日火曜日

Dissonanzen: Musik in der verwalteten Welt.

 Dissonanzenとはなにかというと、ドイツ語で不協和音のこと。二十世紀ドイツを代表する哲学者であり音楽批評家でもあったアドルノが、当時の音楽を取り巻く状況を観察し、絶望し、嘆いたという、そういう本であります。その内容たるやすさまじいもので、芸術音楽こそを絶対の価値と捉え、娯楽音楽は外道中の外道と断ずるアドルノの筆の強さよ。流行音楽に躍らされるようなものは俗物であり、愚物であり、思考する力などそもそもない動物のような輩なのだ、って書いてある。本当に書いてあるんです。

けど、こんなこというと誤解されてしまうかも知れませんが、私、結構アドルノのいってることは好きで、そいつはいいすぎだよ、とか突っ込みながらも、面白がって読んだものでした。

私がアドルノを読んだのは、ほかでもなく修士論文を書くためで、最初はおっくうだなと、正直手を出す気にはなれませんでした。

というのもですね、アドルノは難解で知られた人で、なにが難解といってもその文章からが難解。なにをいいたいのかわからないもってまわった文章で、けれど音楽学、とりわけ美学や近代音楽を研究対象に選んだような人間は、この人の難渋文に付き合わなければならない運命なのです。

だから、つきあいましたさ。けど、読んでみると、事前に思っていたほど悪くはなかった。それは、訳の力だったのかも知れません。あるいはこの『不協和音』がたまたまわかりやすかったのかも知れません。いずれにせよ、私はアドルノの著書に触れて、そりゃあんまりいいすぎだといいたくなるような当てこすりも読んで、それでもやはり読むべきものではあると感じたのでした。

さて、私の読んだ『不協和音』は日本語訳でしたが、論文を書くときには、日本語訳だけでは不充分です。原文にあたることが望ましいんですね。ですが、大学の図書館には『不協和音』の原語版がなかった。しかたないから、他大学の図書館の蔵書を調べて、借りてもらったんです。こういうのをILL(図書館間相互貸借)っていうんですが、この場合、送料はもちろん私持ち。当然ながら往復分を負担します。

ILLでは宅配便が使われるのが一般で、だからあの時は1,600円くらいとられましたね。でもね、『不協和音』の原語版はペーパーバックが出ていて、1,200円くらいで買えたんです。

私は後からこのことを知って、どれほど悔しがったか。洋書は高いという思い込みから犯してしまったミスで、まさに痛恨。手もとには1,200円の値札のついたペーパーバックが届いていて、けど、それは借り物です。しかたがないから、さらにお金払って、必要なページをコピーして……、苦い思い出だなあ。

苦いといえば、アドルノのドイツ語は、初歩ドイツ語しかやっていなかった私にはあまりにも厳しくて、せっかくコピーしたのに、ただ眺めて終わった……。やっぱり苦い思い出だなあと — 。

けど、こうした苦さも振り返ればよい思い出であると思えるのだから不思議です。

2005年9月19日月曜日

空談師

   私の篠房六郎の最初は『篠房六郎短編集』で(こども生物兵器の方ね。『家政婦が黙殺』ももちろん持ってるけど)、巻末に収録された前後編の中編『空談師』にそこはかとなく漂うリアリティがすごく鮮やかで、だから私はその後の連載された『空談師』にも手を出して、けれど、その頃にはもう終わってしまっていたんですよね。ずうっと三巻でとまってるから、変だなあと思っていたんですが、まさか三巻で完結しているとは思わず、人気が振るわなかったのでしょうか。私にはものすごく面白い漫画だったのですが……。

オンラインゲームものなんですよね。私はオンラインRPGで遊んだ経験はないのですが(だって、危険すぎるもの)、それでもこの漫画の面白さはわかりました。ゲームという、私たちの住む実相とはかけ離れた仮想世界に暮らす人々のかりそめの日常が描かれて、しかし私たちはややもすればその存在しないはずの架空世界に心を移して、現実との境目を超えてしまう。肉体では感じられない、痛みも嗅覚もない世界 — しょせんゲーム — であることはそこに集まる誰もが理解していて、けれどそれでも私たちの心は、非現実という壁を超えて、その向こうにいる人たちに心をはせてしまう —。

そういう危うさとロマンティシズムが描かれていて、私にはすごく通じる漫画なのです。

ネットワーク越しに感じる誰かの息遣いや、垣間見得る心模様に、誰かを好きになったり、嫌いになったりということはもはや珍しいことでもなんでもなくって、特にゲームという、ある種の高揚を伴う媒体で出会ったのなら、吊り橋効果も手伝って、よほどありえることでしょう。オンラインのたちの悪さは、あの時、心がつながったと感じたあの人が、漫画やアニメ、非オンラインのゲームとは違い、このラインの向こうに確かに存在しているということです。ラインの交錯する場には、友情も愛情も、怒りも嫉妬も喜びも悲しみも間違いなくあって、応えるものもいない真っ暗な空間に投げ掛けられる呼び声が今も聞こえています……。

切ないですね。

  • 篠房六郎『空談師』第1巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2002年。
  • 篠房六郎『空談師』第2巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2003年。
  • 篠房六郎『空談師』第3巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2003年。

2005年9月18日日曜日

山月記

  きっと私は虎になってしまう。中島敦の『山月記』を読むたびに、この掌編に自分の弱さと言い訳がしっかりと刻まれていることに気付かされて、おののいて、この李徴という男は私であると、息苦しい思いとともに認めないわけにはいかなくなります。

きっと私は虎になってしまう。自分には才能があるとうぬぼれて、そのくせその才能を披露もせずにうちへうちへと引き籠もって、いつかは武者修行に出るつもりさ、ただ今はその準備中だからと言い訳にばかり一生懸命で、 — だから、私はきっといつか虎になってしまうだろうと思います。

人生は、なにもせぬままやり過ごすには長すぎて、しかし反面ひとつなにかに取り組めばあまりにも短すぎると、これは私がここ数年思っていることで、しかしこれは李徴の言葉でもあります。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い。そして、続く言い訳までもがあまりに私の心中に渦巻くそれにそっくりだからいやになります。

私は山月記に見える人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情であるとの言葉に、私の業のひとつでもあるタロットのとあるカードを思い出し、それは11番のと呼ばれる、一般にライオンを手なずける女性の図像で知られるカードです。私はこのカードの意味するところを、うちなる猛獣、猛り荒ぶる心を御することのできる精神の強さと解釈し、故にそれは私たちをして李徴のようにあってはなるまいとする心の働きということもできるのではないでしょうか。

WizardryにはWeretigerという、人が虎になった怪物があって、私は彼らに出会うたびに、虎になった青年を思いだします。詩人を志した彼の、芸術と人間性との狭間に揺れる心と悔いを思いながら、その哀れな人虎たちを殲滅して、私は今おこなったように、自分の中にいる虎を調伏し、決して放ってはなるまいと、時にしみじみ思います。

引用

2005年9月17日土曜日

Wizardry #1 : Proving Grounds of the Mad Overlord

 また『Wizardry』かよとは、どうかおっしゃらないでくださいましよ。Wizardryは私にとっては特別なゲームで、中学高校大学、そして今になっても綿々と遊び続けているゲームというのはまさにWizardryだけで、いや、ゲームだけじゃありませんね。今まで生きてきた時間を振り返ってみて、一番長くつきあったものといえば、それはWizardryをおいてほかには考えられない。あらゆるジャンルのあらゆるものを退けて、Wizardryは私の側に、時に現れ、時に影をひそめるようにして、そっと寄り添っている、 — いや私の心の中心にあるといってもいいくらいです。

私の心の中心、英語にすればHeart of my Heartといったところでしょうか。Wizardryというゲームの中に広がる世界観は、私の心の中に、あたかも現実の記憶に同等であるかのように流れ込んでいます。適材適所、善悪の戒律の戒め、そして一度起こったことは取り返しがつかないというシビアさをもって、私は私の精神を鍛えることができたのではないか。私はそういってなんら恥じるものではありません。

一度起こったことは取り返しがつかない。私はリセットを封じているのです。

ファミコン版でのWizardryは、セーブが特定のタイミングで自動でおこなわれました。城での毎行動時、キャンプでの毎行動時、そして戦闘終了時。このタイミングを逃せば、いくらリセットしようと事は記録された後なのです。

キャンプ中に蘇生呪文をしくじると、その時点でセーブされてるんですよね。もちろん寺院でも一緒です。だから確実な蘇生は、戦闘中にHamanないしMahamanで蘇生させた後にMalorで逃げる(いや、呪文使用者のレベル低下をいとわないなら、そのまま終了させてもいいんですが)。けど私はHaman, Mahamanを禁じ手にしているから、寺院で蘇生してましたね。ええ、ロストしたら受け入れましたよ。

よくいわれる話ですが、Wizにおける死は、他の凡百のRPGとは違い極めて重いものです。死からの蘇生にしくじるとキャラクターは灰になり、灰からの蘇生にしくじると失われます。これをロストといい、キャラクターに愛着があればあるほど、ロストさせたときのショックは大きい。ペットロスに匹敵するといったら言い過ぎと思う人もあるかも知れませんが、実際それくらいのショックを味わうのです。

なので、Wizardryの基本はキャラクターを殺さないに尽きます。殺さないためには、慎重さを身に付ける必要があり、状況を見極めて、時には引くことも覚えなければなりません。例えば、宝箱の罠。テレポーターの罠により石の中に送り込まれてしまうと、パーティは全滅します。ファミコン版ではいしのなかにいる!のメッセージ表示中にリセット、ぼうけんをさいかいしてキャンプをとかずにMalorで一階に移動という回避技もありましたし、そんなずるをしなくても、全員死亡状態で城に送り届けてくれるという親切設計でした。ですが、本来的にはやはりこれは全滅で、例えば私の今遊んでいるLlylgamyn Sagaでは、由緒正しき作法に則って、全員その場でロストします。

私は、今Wiz #4をやっていますが、これに疲れるとWiz #1に戻るんですよね。私はWiz #1はどうも遊び過ぎたようで、Murphy's Ghostの居場所も覚えていますし、B1からB10、Werdna様の玄室までの最短路などは指が覚えています。けど、ここまでしっかりと覚えていても、面白さは変わらないんですよね。

今私は、マスターレベルに満たない冒険者を2パーティほど面倒みているのですが、地下十階に行ってはちまちまレベルをあげています。とりあえず、Poison Giantが徒党を組んでるのを見かけたら即逃走決定というくらいのレベルで、だってこんなの相手にしたら敗走必死、下手したら全滅です(こいつらに驚かされるのは、Greater Demonに驚かされるよりもきつい。Mage死亡は覚悟、下手すりゃ全滅もあるしな)。ファミコン版だとMakanito一発で塵と経験値に化けたこいつらは、なんとLlylgamyn Sagaでは生意気にも呪文無効果を決めてきやがるので、尋常じゃない強さになっていやがるのだ♥。だから、逃げる。Greater Demonからも逃げる、Maelificからも逃げる、Dragon Zombieも数が多かったら逃げる。まあ、Wizってのはそんなゲームなのですよ。勝てるか勝てないかを見極めて、戦闘の継続回避を選択する。選択のミスはパーティの壊滅を招き、城まで戻れれば御の字、下手をすれば迷宮に取り残されて、帰り道はもはや存在せず、進めば全滅という状況にまで陥ります。

今、私は2パーティの面倒を見ているといいましたが、つまりはそういうことなのですよ。もしどちらか一方が遭難すれば、もう一方のパーティが捜索隊として出動する手筈になっているのです。だから、どちらかが主力、どちらかがサブということは決してあり得ず、どちらもが主力。#3までキャラクターが継承されることを考慮して、片一方は善、もう一方は悪のパーティです。

そういえば、今のパーティ、善のパーティには中立がいるけれども、悪のパーティは全員悪だわ。#3での転送時って戒律を選べたはずだけど、もし無理だったら善のパーティ全滅時に助けにいけないな、って、これは余談ですね。

幸い、ここ数年は捜索隊の編成をせずにすんでいますが、それは私がよっぽど慎重に事を運んでいるからであって、いつ緊急事態に陥るかはわかりません。こういうところがWizの面白さの根幹であるというのですね。

緊急事態を怖れる私は宝箱の罠にも気をつけて、盗賊が鑑定する前にCalfo(だって、触っただけで発動することがあるから)。少しでもテレポーターの匂いがすれば、解除は断念して立ち去ります。だってよ、発動したら全員ロストの憂き目に遭うかも知れないんですよ。はっきりいってリスクが高すぎます。だから、私はアイテムがなかなか揃わなくて、両パーティの装備を見ても武器はBlade Cusinart'が一本、あとはLong Sword +2とかLong Sword +1ですもんね。実をいうとMuramasa Bladeが一本あって、けど、侍が一人もいないもんだから、ただの荷物に成り下がっています。Boltacに売っちまってもいいんですが、そうすると買い戻せないかも知れないから手放さない。いずれ頃合いがくれば、侍に転職するつもりでいる。丸わかりですよね。

そういえば、私の独自ルールでは、Boltacでは通常アイテム以外は購入しないというものがあって、なんといってもうちのBoltacにはなんでもあるから、ここでぽいぽいいろいろ買いはじめると、途端に宝箱が色あせてしまうというもんさ。だから買わない。アイテムは宝箱から見つけて、Boltacで鑑定して不要なら即売却。だからなかなか金も貯まらなくて、でもWizでは金はそれほど重要な要素ではないから(あ、死んだら別か)、これでいいのだ。

そういえば、今日地下迷宮をさまよっていたらDragon Slayerを見つけまして、ああ、Wizではこの剣、それほどたいしたことのない剣なんですよ。けどその時点で戦士Piscatoが装備していたのはLong Sword +1だったから、さすがにちょっと迷った。このくらいのレベルの武器となると、正直いってどちらが強いかどうかとか覚えていないんですよね(Wizではドラクエなどと違って武器の強さは表示されないのだ)。なのでMurphyを三体ずつ試しに斬って、どちらが強いかを調べたりして、こういうのもWizの楽しみだと思います。

ちなみに結果は、Dragon Slayerが平均ヒット数1.57回、平均ダメージ9.14ポイント、つまり1ターンで14.35ポイントのダメージが期待できそうだとわかりました。対してLong Sword +1はというと、平均ヒット数1.92回、平均ダメージ8.4ポイント、1ターンでのダメージ期待値は16.13ポイントといったところでしょうか。Dragon Slayerはドラゴンへのダメージ倍付けが魅力ですが、#1ではそれほどドラゴン出てこないし、Fire DragonだったらMadalto重ねがけで対処するから、やっぱりそれほどの剣じゃない。Long Sword +1を継続して使うことになりました。

ちょっと、長くなってしまいましたね。なので、最後に一言。

Wiz #1の迷宮にはエレベータがあるのですが、はじめてこのことを知ったときには軽いカルチャーショックを受けました。あの時に私は、ファンタジーに限界はないと悟ったのです。似非中世ヨーロッパに押し込められる似非ファンタジーの貧しさを思い、本当のファンタジーの豊かな広がりにおののいた瞬間でした。

おののくといえば、Blade Cusinart'ってフードプロセッサなんだそうですね。おお、ファンタジーに限界はない!

註釈

Haman
魔術師の呪文。Lv. 6。特殊な効果を期待できるが、代償として1レベル低下する。ちなみに死者を生き返らせる効果はMahamanにしかないので、蘇生にHamanとかいってるのは大きな間違いだ。
Mahaman
魔術師の呪文。Lv. 7。死者を生き返らせるならこちらを使う必要がある。もちろんレベルの低下を引き起こす。シナリオによってはKadortoが戦闘中に使えるから、こちらを使うのもあり。失敗したらリセットは、ずるだけど有効。
Malor
魔術師の呪文。Lv. 7。パーティをテレポートさせる。異動先の座標設定をしくじるとパーティが全滅してしまう素敵な呪文だ。
いしのなかにいる!
テレポーターの罠やMalorによって石のブロックに移動してしまうと、こういう悲惨な結果になる。Malorでの全滅にはいろいろなパターンがあるので試してみるのも一興だけど、私はやらない。
Murphy's Ghost
モンスター。地下一階にこいつが必ず現れるポイントがあって、低レベル冒険者が経験値かせぎに利用する。友好的であることが多いので、誤って性格を反転させてしまったときにも利用される。ちなみに私は先日、悪のパーティでこれをやってしまった。三十分は戦っていたかなあ。
Werdna
#1における最後の敵。でも、Greater Demonの方がずっと怖い。#4では主人公だ!
マスターレベル
Lv. 13をマスターレベルという。Mage、Priestがすべての呪文を使えるようになるレベル、といっても冒険者としてはまだまだ。Wizはマスターレベルからが本番だ。
Poison Giant
モンスター。地下十階に現れる強敵で、毒のブレスを吐く。WizにおけるルールではブレスのダメージはHPの半分と決まっており(運が良ければさらに半分)、Poison GiantのHPは81である。洒落にならん。
驚かされる
敵の先制攻撃を受けること。敵の先制攻撃時に表示されるメッセージがThe Monsters Surprised You!であることから。
Greater Demon
モンスター。徒党を組んで出現し、その上仲間を呼ぶ。強力な攻撃呪文と高い防御力、呪文無効果率95%を誇る大悪魔であり、毒麻痺を伴う攻撃で冒険者を圧倒する。Wizのルールでは先制攻撃時には呪文が使えないので、先制攻撃を受けた場合に関してはPoison Giantよりまし。
Mage
魔術師。魔術師の呪文を使え、HPは少ない。
Makanito
魔術師の呪文。Lv. 5。敵を一瞬で死亡させる呪文で、有効範囲は敵全体。Lv. 8以上の敵およびアンデッドには効かない。
Maelific
モンスター。悪魔の親玉で、Wiz #1における最強攻撃呪文Tiltowaitを使ってくる。なぜかアンデッドなのでZilwanで吹き飛ばせるが、先にTiltowaitを使われるとパーティは全滅しかねない。それにPoison Giantまで連れてるから……。
Dragon Zombie
モンスター。ドラゴンのゾンビ。エナジードレインのブレスを吐くは、呪文を唱えるは、その上呪文を無効果するはと手がつけられない。でもPoison GiantやGreater Demonと比べたら、比較にならないくらい楽。
Calfo
僧侶の呪文。Lv. 2。宝箱の罠を95%の確率で見抜くことのできる、非常に重要な呪文。盗賊の鑑定とCalfoの結果が一致すればまず間違いなくその罠で決まりだが、両者ともが同じ間違いをしていることもまれにあるから洒落にならない。
Blade Cusinart'
#1においては、戦士系の職業が装備できる最強の武器。
Long Sword +2
戦士系の職業が装備できる武器。これよりも劣るLong Sword +1よりも売価が安いのはちょっとした謎だ。私の中では、Sword of Slashingと翻訳される。
Long Sword +1
戦士系の職業が装備できる武器。中程度の強さ。私の中では、Sword of Slicingと翻訳される。
Muramasa Blade
#1における最強の武器。その威力は驚異的で、これさえあればGreater Demonにも太刀打ちできるかも、という気持ちにさせてくれる。侍しか装備できない。
Boltac
正式名は、Boltac's Trading Post。道具屋で、買い取りだけでなく呪いの解除やアイテムの鑑定までしてくれる。買い取り価格は売価の半額で、呪いの解除や鑑定も売価の半額とられるから、ここを利用しているかぎり金の貯まりは遅い。
Dragon Slayer
戦士系の職業が装備できる武器。中程度の強さ。ドラゴンには有利。
Piscato
私のパーティにいる戦士の名前。何語かはわからない。
Fire Dragon
モンスター。炎のブレスを吐き呪文を唱えるが、呪文無効果能力はないので助かる。ただしこいつに脅かされると洒落にならない。
Madalto
魔術師の呪文。Lv. 5。効果範囲は敵1グループ。Tiltowaitに次ぐ強力な攻撃呪文で、これが使えないなら迷宮十層は歩かないほうがいい。冷気の呪文なのでFire Dragonには特に相性がいい。ちなみにGreater DemonはMadaltoを使いまくってくる。
Tiltowait
魔術師の呪文。Lv. 7。効果範囲は敵全体で、まさに最強。これが使えるようになると、なんでもきやがれという大きな気分になれるが、Greater Demonが相手だと心もとない。核爆発という常識外れの設定は有名。
Zilwan
魔術師の呪文。Lv. 6。攻撃範囲は敵一体と狭く、さらにアンデッド以外にはなんの効果もないが、決まれば一撃で敵を葬ってくれる素敵な呪文。敵が使ってくれると、得した気分になれる。

2005年9月16日金曜日

セラミック水性ボールペン

私の愛用の筆記具は、大学在学中はもっぱら万年筆で、けれど卒業してからはボールペンに鞍替えしました。万年筆は確かによかったのですが、日常の用には少々使いにくくもあり、特に冬期、寒い屋外から暖かい室内に移動したときなどに、カートリッジ内の空気が膨張してインクが吹き出すのには困りました。

私が万年筆に求めたのは書き味で、一般にボールペンといって予想される、あのきちきちと粘る書き味は嫌いな私には、あのすーっと線が引ける軽くしっとりとした触感があっていました。ですが、こうした書き味は万年筆だけではなくボールペンでも得られるようになって、それが京セラの水性セラミックボールペンでありました。

私は、大学を卒業して、院も出ようかというときに、このボールペンを見つけました。見つけて、書き味を試して、その時はすごく迷いました。それまで使ってきた道具を新しいものに換えるわけですから、その迷いはいかほどであったか。しかし、何度か通ううちにどうしても買っておきたいという思いが高まり、結果、そのボールペンは私の手もとに今もあります。常に持ち歩いて、私の日頃の筆記における重要なものとなっています。

私は、そのボールペンを皆さんに紹介したいと思ったのですが、残念ながらそれはもうかないません。というのは、京セラのサイトを見ても、セラミック水性ボールペンカテゴリに私の使っているボールペンの型を見つけることができないからです。

2002年には確かに存在したのですが、この数年で廃盤となった模様です。私は、このことを非常に悲しんでいます。

職場で、私のボールペンを見て、いいペンだとおっしゃった方が二方いらっしゃいました。私は即座に自慢して、少し太めの軸を握ったときの感触がいいこと、重さのバランスが絶妙であること、そして書き味が格別であることをいうのですが、最後には、残念ながら、この軸を失うともう同じものは二度と手に入らないと思います。そうした悲しいことを告げねばならないのでした。

道具に限らず、すべてのものは一期一会です。私は、筆記具に関してはよい出会いに恵まれたと、あの時の出会いを無駄にすることがなかったと、今もそのように思っています。

  • 京セラ:セラミック水性ボールペン,ゴールドカラーストレートボディ

2005年9月15日木曜日

中山式快癒器

今日は、マッピングには関係ありません。

中山式快癒器というのは、肩だとか背中だとかを押すのに使う器具で、プラスチックのボディに、銀色の出っ張りがぎょろりとでているその特徴的な姿をご存知の方はたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

私、かなり肩凝りがひどいたちでして、どうにもならんと愚痴をいったら、こういうのを使うといいよと、親がこの快癒器を貸してくれたのでした。なので、それ以来、快癒器は私の寝室に置かれていて、寝ようかというときに背やら肩を押して、ちょっとでもひどい凝りが和らぐようにとつつましい努力を続けています。

私は長い間この器具の正しい名前を知らずにいたのですが、調べてみると中山式産業 株式会社が販売している中山式快癒器というのだそうですね。

しかし驚くのがですね、この快癒器の発売されたのが昭和22年。ものすごいロングセラーで、今もなお健在という壮健ぶりが素晴らしい。昨年の春に亡くした祖母の部屋にも、快癒器があったことを思い出します。祖母の快癒器はプラスチックではなく、陶磁製の年代物で、色合いは薄くクリームがかって手に持ち重りのするものでした。

私の今使っているものは、4球式の中山式快癒器パールソフトだと思うのですが、祖母の世代が使っていたものを、母の世代、そして孫の世代も通じて使っているというのも面白いことで、長く続く商品というのはそうした世代をまたぎ、真新しいものであってもどこかに懐かしさを感じさせます。

2005年9月14日水曜日

土地家屋用三角スケール 15cm ポケット用

私の迷宮ライフの友はコピー用箋だけではありません。そもそもマッピングというのは、紙があって筆記具があって、そして定規があるものなのです。いや、定規を使わないという人もいるかも知れませんが、ですが私には定規が必要で、私が現在愛用しているのはウチダドラフトの土地家屋用三角スケールです。

三角スケールとはなにかといいますと、三角の棒状になっている定規でありまして、各面両側にはそれぞれ縮尺の違う目盛りが入っています。本来は製図用の定規だそうで、建築や土木系の図面を扱うような事務所にいくと、でかいのから小さいのまで三角スケールが用意されていて、うわあ、プロの道具だ、という思いがします。

私が以前マッピングに使っていたのは、小学校の頃の半円型分度器でした。あれ、透明だから書かれた地図を見ながら線を加えることができて、間違いが少なくて便利だったのですね。小さいから取り回しも便利だし、ということで本当に愛用していました。

けれど、三角スケールを見つけてからはこちらに乗り換えてしまいました。なんでかといいますと、この三角スケール。三角とはいいますが、三角ではないのです。三角の各面がへこんでいて、だからスケールを置いたときの接地部分が非常に少なくなります。これが私にはよかったのでした。

私はマッピングにはシャープペンシルを使います。間違ったら消せるようにということからシャープペンシルなのですが、これ、接地面の大きい分度器を使っていたときには、結構こすって汚してしまっていました。分度器は本当に使いやすくてお気に入りだったのですが、この点だけはちょっと気になっていて、だから三角スケールを見つけたときに、なんてマッピングに便利そうな定規だろうと思ったのです。

三角スケールのいいところは、接地面積の小ささだけではありません。頂点のひとつが上に出っ張っているから、手に取りやすいんですね。私の使っているのは15センチと小さなものですから取り回しも楽ですし、それに軽い。本当にマッピングには重宝します。

けど、これ、本当はプロ向けツールなんですよね。なのに私はこのかたちだけをもって便利といっているのですから、メーカーが聞いたら泣きそうな話です。でも使いやすいんだからしょうがない。どうにも手放せないよい道具なのです。

参考

2005年9月13日火曜日

PPC用原稿用紙A4タテ7mm方眼ブルー刷り50枚

私の地下迷宮ライフを語るうえで、決して外していけないものといえばそれはコピー用箋。深遠なる迷宮を一歩一歩少しずつ明らかにしていく作業 — 一般にマッピングと呼ばれるあの作業 — の友。人によればそれは方眼紙やグラフ用紙なのでしょうが、私にとってはコピー用箋で決まり。さまざまな用紙を試した結果、PPC用原稿用紙にたどり着いたのであります。

なかでも私のお気に入りは、コクヨ製の7mm方眼。コピー用箋はその名のとおり、最後にコピー(PPC、静電複写機ってやつ)することを目的にしているので、その罫はコピーに写らない薄いブルーで引かれています。この、薄いブルーというのがいいのです。マッピング時に邪魔にならず、けれどしっかりと作業をサポートしてくれる憎いやつ。私は、今やこれがなければ地下迷宮には潜らないぞというくらいに気に入って、手もとには常に一冊ストックされているくらいです。

7mm方眼というのがいいのですよ。グラフ用紙とかだと1mm方眼なんかが一般的で、それはグラフを書くにはいいんですが、地下迷宮には細かすぎてちとうるさい。迷宮向きの方眼とは、大きな罫が引かれていて、その中は真っ白というやつです。コピー用箋が最高というのは、そういう理由からなのです。

コピー用箋には5mm方眼もあるのですが、私には5mmじゃちょっと小さすぎ、かといって1cmじゃ大きすぎるのですよね。そのあいだってないのかなあというと、それがちゃんとあるのだから世の中は素晴らしい! 7mmという大きすぎず小さすぎずの絶妙のバランスは、まさに私の迷宮ライフにうってつけ。このサイズに出会ったときには、マッピングの神様に心からの感謝を捧げたほどでした。

私の手もとにあるPPC用原稿用紙の品番はコヒ-117で、現行品は古紙中紙配合のコヒ-117Nであるようです。

この品番は大切です。忘れないようにしなければなりません。

2005年9月12日月曜日

Wizardry #4 : The Return of Werdna

  ファイナルファンタジー』が呼び水となって、再びゲームへの情熱が高まっております。今回のテーマは昔のRPG。というわけで、案の定私の心はRPG中のRPGである『Wizardry』に向かって、しかも、こともあろうに凶悪との誉れ高いシナリオ4をプレイしているのであります。

実は私、シナリオ4はほとんど時間がなくて遊ぶに遊べず、買っただけで置いてありました。マップを書き書き地雷原までたどり着いたのはいいものの、そこで進行はストップ。当時、その頃に生活のパターンががらりと変わったため、ゲームに費やす時間をとれなくなってしまったのですね。けれど、放りっぱなしもくやしいから、いつかまたチャレンジしてやると決めていました。だから、ここに満を持してのワードナの逆襲が開始されます。

今、私の手もとにあるWiz #4は、プレステでリリースされた『ニューエイジオブリルガミン』でありまして、もちろん私はアレンジ版など見向きもせず、クラシック版を楽しんでおります。

Wiz #4。このゲームはWizと名がついていますが、他のシナリオとは大幅にシステムから雰囲気からなにからなにまで違えていて、そもそもプレイヤーキャラクターというのがかの悪名高き魔道士ワードナ様であります。#1にて、狂王トレボーの差し向けた冒険者に殺され、地下深くに封じられてしまっていたワードナ様が、今まさによみがえって、仕返ししようというのですからいかします。地下第十層から、魔方陣を見つけ魔力の回復を図りながら地上に向かっていくワードナ様の雄姿。

正義の味方どもよ、覚悟するがよい!

って、どんなゲームやねん! ちなみに、上の文句は本当にゲーム中に出てくるせりふで、ほかにもなかなか味わい深いコメントの数々が爆笑を誘います。死ね、異教徒ども!とかって、ほんまにいいんかなあ。いや、私としてはオールオッケーなんですが。

このゲームは、Wizardryを自らパロディにしているところがありまして、そもそも主人公がワードナ様であるということは、敵は私たち冒険者であるというわけです。戦闘画面なんてのを一度でも見てみればわかるのですが、Wizardryのシリーズにおいてプレイヤーキャラが表示されていたところにはやっぱり冒険者のステータスが表示されて、それもおなじみのステータス表示だもんだから、名前から属性から職業からAC、Hits、行動内容までわかるという徹底ぶりです。たいしてワードナ様率いる魔物の群れはどこに出るかといえば、画面上部の魔物の欄にしっかりこれまで同様のやり方で出ております。違うのは、ワードナ様のACやHitsが表示されているところ、そして今までなら敵キャラが表示されていたところに冒険者のグラフィックが並ぶというくらいじゃないでしょうか。

とりあえず、私は情報を封鎖して、とにかく自力でクリアを目指したいと思っています。とはいっても、例えばこの記事を書くためにいろいろ検索してみたGoogleの結果表示ページに、ちょっとした攻略情報をちらっと見てしまって、しまった一生の不覚なんてことにもなったりしているのですが(そして、私はこういう情報をまた忘れないんだ)、けれど大筋はまったくわからないという中、少しずつでもいいから進んでいきたいと思います。

しかし、このゲーム、なにがおかしいといっても、魔物が逃げやがるんだ。冒険者をやっていたときに出会ったときは、おまえら逃げなかっただろうというのに、なんで味方になったときにはじゃんじゃん逃げやがるんだ。アンデッドは死を怖れないだろうと思っても、それでも逃げるという理不尽。おいおい、ワードナ様ったら、よっぽど人望がないのかなあ。

ま、魔物は自分の盾で使い捨てと思っていらっしゃるような御仁ですから、こうした仕打ちに会うのも当然かも知れないなあ、って、そう思ってるのは私自身だったりするんですけどね。

2005年9月11日日曜日

ファイナルファンタジー

  最近の携帯はゲームもできるんですって。などと、なにを今更なことをいいだすのかといえば、実は今、人の携帯電話でもってゲームをしているからでありまして、いや、本当にこれはすごい。昔のゲーム、それこそファミコンくらいのものなら、ほぼ完全に再現できるんじゃなかろうかと思うほどすごい。技術というのは、知らぬ間に、ずいぶんと進んでいたんだなあと実感させられる話です。

で、なんのゲームをしているかというと、『ファイナルファンタジー』なのであります。ファミコン時代にスクウェアがリリースしたRPGで、その続編は今もなお出ているから、ゲームに興味がある人なら、名前を知らないということはないだろうというタイトルです。

今やってみて思うのですが、『ファイナルファンタジー』、かなりよくできて、面白いんですよ。実際、発売された当初から注目のタイトルで、なにしろ当時は『ドラゴンクエスト』一強時代でありましたから、そこに切り込んでいったスクウェアの意気込みというのはきっとかなりのものだったのでしょう。『ドラクエ』タイプといわれる、フィールド見下ろし型のRPGでありながら、明らかに『ドラクエ』とは違う要素を多数盛り込んで、私ら、ゲームキッズ(というのもなんだかな)の目を引きつけに引きつけたのです。

『ドラクエ』なら、なにも考えずにレベルをあげていけば覚える魔法が、『ファイナルファンタジー』ではショップで購入せねばならず、しかも各レベルごと(つまり、魔法はWizardryスタイルであるわけだ。MPは常に不足するから、そこは道具で補え!)に魔法は四つあるのに、覚えられるのは三つという制限もあって、友人間で、どの魔法は買いで、どの魔法はいらないなんて話をしたもんでした。

そして、乗り物の数々も思い出深い。船を入手したときの、あの爽快感! 船は徒歩移動の二倍の速度で走るのですよ。そして飛空艇。飛空艇の速度はなんと徒歩の四倍! 目が回るような速度で飛ぶ飛空艇に、私らはもう翻弄されまくり。この速度の快感を知った後は、『ドラクエ』の遅い船や鳥、気球なんてかったるくて乗ってられねえや、てなもんであります(いや、本当に)。あとは、カヌーとか潜水艦とかもあって、こうした乗り物の出番がそれぞれに見せ場として用意されているのは(というか、クリア要件だし)、子供心にもわくわくさせられたものでした。

そして、度肝を抜かれたのはラストでした。ネタバレになるのでここには書きませんが、しかし最終戦へ向かうあの時、あの瞬間の興奮は、今思い出しても胸が熱くなるようで、もしかしたら、子供の頃に感じたあの感触を取り戻したくて、私は今、携帯片手に、一生懸命『ファイナルファンタジー』に精を出しているような気もするのですね。

そういえば、最終戦に向けての戦いの連続の中で、どうしても、どうしても突破できずに弱っていて、その時の私のパーティは、ナイト、忍者、白魔道士、黒魔道士であったのですが、とにかく忍者があんまりぱっとしなくて、このままじゃどうしてもクリアできないと絶望的でした。迷った揚げ句、戦士、モンク、白魔術師、黒魔術師で一からプレイを再開。そうしたら、あっという間にクリアできてしまったという逸話があります。

私、どうしても最初はモンクに魅力を感じなくて、なんといっても修行僧ですよ。それがクラスチェンジしたら、スーパーモンク。ださい! だもんで、シーフ→忍者を選択して、クリア前で行き詰まったてな話でありました。

今、私のパーティは戦士、モンク、白魔術師、黒魔術師の黄金パーティですが、いや、徒手空拳でばしばし敵を撃破していくモンク、かっこいいですね、しびれますね。と、この二十年で私の嗜好はこんなにも変わってしまったという話でもあります。

プレステ

GAMEBOY ADVANCE

ワンダースワン

ファミコン

2005年9月10日土曜日

夏乃ごーいんぐ!

 最初は『まんがタイムラブリー』しか読んでなかった私が、あるときを境に次々と購読誌を増やしていって、そして『まんがタイムスペシャル』にたどり着いて出会ったのが『夏乃ごーいんぐ!』。これがもうひとつのはじまりになろうとは思いませんでした。たかの宗美にはまって、既刊を買いそろえるは、さらに購読誌を増やすはと、もう後戻りできない道に……、といったら大げさですね。

そんなわけで、マイ・ファーストたかの漫画は『夏乃ごーいんぐ!』でした。声も体もとても小さな、けれどそんなハンデをものともせず、持ち前の強引さでもって営業成績を上げていく夏乃陽子の活躍する四コマ漫画です。

多分、私が夏乃陽子にはまったのは、自分の過去にも原因あってのことなんだろうなと思うのですが、ともあれ私はこの漫画をきっかけにして、背の低い人の魅力を再発見したのでありました。いや、ただ背が低ければいいってもんじゃなくて、それでもってかわいこぶるところがないであるとか、なるたけ中身はしゃっきりしてるほうがいいであるとか、そうですね、まさに夏乃陽子的女性がよいなと思っているのですね。

鶏が先なのか卵が先なのか、私のこうした好みは夏乃陽子に啓発されることで発揮されるようになったのか、あるいは最初からこうした傾向があったから夏乃陽子にはまることになったのか、そのへんはどうだかわかりません。ただ今のこの時点ではっきりといえることは、『夏乃ごーいんぐ!』は面白いということで、特にその外見とのギャップが極端に極端に強調して描かれるところがよく、したたか万歳といったところ。ネタはシンプルで、それゆえ強く、それはたかの宗美のらしさといってもいいのかも知れません。見せ方がうまいんでしょうね。自分の持ち味がなにであるか、どうすればそれが伸びるのか、わかってらっしゃるのだと思います。

さて、『夏乃ごーいんぐ!』第2巻には、夏乃が他社営業を出し抜くために出したなぞなぞの答えが載っていて、それは昼間は広くて夕方狭くなるものなーんだ!?というものなのですが、私はもうこれがわからなくて、通勤の車内で読んで以来、数日の間この問題が頭から離れず、いろいろ人に聞いてみても、インターネットで調べてみてもわからない、一時はそもそも答えなんてないんじゃないかとさえ思い、そのうち私は考えるのをやめた、といった代物でした。

けれど、その答えがわかって、けれどそれがちっとも強引じゃなくて、よくできている! 数年来の胸のつかえがようやくおりたようですよ。

  • たかの宗美『夏乃ごーいんぐ!』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • たかの宗美『夏乃ごーいんぐ!』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。

引用

2005年9月9日金曜日

かみさまのいうとおり!

  最初は、それほど意識することなく読んでいた漫画で、けれど第一回からしっかり記憶には残っているのですから、やはりそれだけの力がある漫画だったんだろうなと、今振り返ってみて思います。それぞれに異なった宗教的バックグラウンドを持つ女校生のコメディなのですが、そうしたちょっと特殊な設定が無駄にされることなく、よくよく効果的に使われているのだから好感もてます。それになにより、個々のキャラクターもうまく機能していて、この人の漫画はうまいなあと、ほんと、うまいなあと思います。

なにがうまいかといっても、定番ギャグの使いどころなんかは実にそうで、それは例えばエロ妄想して鼻血を出すという古典的なものであったりするのですが、そうした定番を使いながら定番を感じさせず、マンネリもうまく回避しているところは、やっぱりうまい。毎回決まったギャグがあるけれど、そこにたどり着かせるまでを工夫しているから、むしろその手腕を楽しみにしてしまう。ギャグは定番を持つと強いといいますが、本当にそうだと思いました。そして、ギャグのベタさを克服する練り上げには毎回毎回感心します。

お決まりのギャグというのはほかにもあって、虚弱僧侶(もちろん女学生)の死亡系ネタであるとか、担任教師(この人は男)のアレげなネタとか、これらもやはり定番系で、けれど定番ならではの安定をうまくひきだしながら、その安定に安住していないところがさすがです。ぱっと見には地味で目立たない作風と思うかも知れませんが、長く読んでいるとじわじわと効いているのだなあと、いや、本当にそういう感じの漫画です。

ところで、第一回から読み返してみると、上に挙げたような定番ネタというのはむしろ出てこなくて、おとなし目のネタが続くのですが、そのネタもうまいなあと思わせるものが多くて、例えばそれは主よ、この者の傲慢をお許しください…とかトラピスチヌ教会クッキーとか…うわ罪悪感とか、学生の宗教上の理由は最大限これを尊重するとか。どれも今読んでもしっかり面白いし、そのはじめて読んだときの印象もちゃんと覚えているものなあ。

覚えているといえば、1巻2巻の巻頭描き下ろしのカラー漫画が、ちゃんと伏線を張って、それを生かしているのもうまいなあと思いまして、ところで、このカラー漫画ってちょっと凶悪だとは思いませんか。

蛇足:

今までのパターンを踏襲すると、山伏実希代といきたいところなのですが、ここにいたっては鳥居くり子なのであります。

2巻の表紙は凶悪です。

引用

2005年9月8日木曜日

Maurice Ravel's La Valse played by Glenn Gould

 モーリス・ラヴェルの有名曲といえば、第一に『ボレロ』が思い浮かぶのではないかと思われますが、『ラ・ヴァルス』も『ボレロ』に負けず劣らず有名で、そして非常に美しい曲であります。この曲、もともとはバレエのための音楽として作られたのだそうですが、依頼主(かの有名なロシア・バレエ団のディアギレフ)がどうも気に入らなかったようで、結局は演奏会用のオーケストラ作品として定着しました。ラ・ヴァルス、 — ワルツと題されたことからもわかるように、この曲は三拍子の絢爛豪華たるワルツであるのですが、ですがヨハン・シュトラウスのウィンナ・ワルツのような軽快さ、沸き立つような興奮はなく、むしろゆったりとして、情緒のたゆたうような幅広の作品に仕上がっています。

『ラ・ヴァルス』、もとはオーケストラの作品でした。ですがこれを我らがグレン・グールドが演奏しています。自らピアノに編曲しての演奏が、録音に残されています。

グールドの弾くラヴェル — 、はじめに断っておきますが、決しておかしな演奏ではありません。グールドらしいエッジの立った演奏は、確かにオリジナルとは違った雰囲気を醸しだしていて、清廉で潔癖、ですが、気位の高ささえ感じられるような高雅さは確かに『ラ・ヴァルス』です。しかし、やっぱりそこはグールドで、グールドのピアノから放たれる『ラ・ヴァルス』には、思わず駆け出したくなるような情動がたわめられたかのように充満していて、私は心から揺すぶられて、こうしてはいられないという思いに後押しされるかのように活気づかされます。

もし、手もとにオーケストラ版があればあわせて聴いてみて欲しいのですが、色彩も豊かで非常にきらびやかと感じられるオーケストラの前では、グールドの演奏もさすがに色を失って、まるでモノクロームの映像を見るようにさえ感じられてしまいます。この印象は、おそらく録音の質も関係していて、モノラルのもっさりとくすんだような感触がもどかしい。けれど、そうした悪条件をものともせずに疾走し前進していくこの力はなんでしょう。音楽の、前へ前へと向かう力強さが確かだから、その勢いに駆られて、聴いている私もつい釣り込まれて前のめりになって、 — 目の前にはグールドの音楽一色になってしまうのです。

グールドの『ラ・ヴァルス』は、彼の残した演奏のなかでも屈指の名演で、私はこの演奏が本当に好きで、これをポータブルのプレーヤーに詰めて、都市の雑踏の真っ直中で聴けば、言葉にし尽くせない感覚に襲われます。まるで都会が舞踏会のように、 — だなんていうと妙に気恥ずかしくて馬鹿馬鹿しくなるので、この例えは取り消しましょう。

けれど、日常を上から塗りつぶしてしまうような魔法が感じられる、そういう演奏だというのは本当ですから、ぜひ一度試してみてください。

2005年9月7日水曜日

LOVE ME DO

 そりゃあ、ジョージさんがいけないよ。甘やかすだけ甘やかして、はなっから小娘にうまくあしらわれて — 、でもこっちのジョージさんはそのことに気付いてるんですよね。『痴人の愛』の河合譲治に比べたらこっちのジョージさんの方が卑屈さがなく、それは現実感が希薄だからなのか、あるいはジョージさんもそこはかとなく黒い要素を持っているからなのか、ともあれ『LOVE ME DO』は悲壮感が少なく軽くできてて、さらっと読めるよい漫画だと思います。

『痴人の愛』の譲治さんと『LOVE ME DO』のジョージさんの一番の違いは、自分の妻に対する割り切り方の違いにあると思うんですよ。『痴人の愛』だと、譲治はナオミを美しく賢い女性に育てて、しかもそれを自分の支配下に置いておきたかったというもくろみがあって、まあそのもくろみは見事破綻して、奔放な女の支配下に置かれてしまうわけで、だから譲治からしたら望まぬ関係であったわけです。

ですが、『LOVE ME DO』だとそうじゃないんですね。ジョージはアイを育てようなんて頭はまるでなくて、ただアイが可愛いから、とそれだけしかない。はじめからこういう関係になることを諒解しているわけです。このへんの割り切りのよさが、ジョージさんから悲壮感を消し去っている大きな要因なんだと思います。

『LOVE ME DO』はヒロインのアイが、お手伝いロボ(犬型メイドロボ)のモンちゃんや、隣人のハナにゃん、レモンくんらと、毒吐きながら淡々と流れていく変わるところのない日常、というか、その会話を楽しむ漫画といったほうがらしい感じがします。だから、四コマの基本は起承転結だ、それ以外は認めないとか考えている人には向かないかも知れません。なにげにひどいこといってる、そういう様と会話を、だるく楽しむのがこの漫画の読み方でありましょう。

こういう漫画ですから、適当に手に取って、適当に開いたところから読みはじめて、飽きたら適当に閉じる。こういう読み方が普通にできる漫画というのも、日常のなんでもない時間をゆっくり過ごしたいときには必要で、だから『LOVE ME DO』は私にとってはちょっと特別なタイトルになっています。

『LOVE ME DO』は、長く『まんがタイムきらら』誌の巻末に位置して、読み疲れを軽く締めてくれる漫画として、非常にいい仕事をしてきたと思います。『LOVE ME DO』にたどり着いたら、ああ読み終わったという気にしてくれる。なんとなく締めてくれる。だから『LOVE ME DO』がなくなったら、きらら誌の読後感は大きく違ってしまうだろうと思います。

  • 新条るる『LOVE ME DO』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 新条るる『LOVE ME DO』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。

2005年9月6日火曜日

痴人の愛

 そりゃあ、譲治さんがいけないよ。甘やかすだけ甘やかして、はなっから小娘にうまくあしらわれてることに気付かず、それで結局はあれだよ。もう、情けないったらないね。もう、情けないやらみっともないやら、これが身内なら勘当だよ。友人だったら縁切っちまうよ。

けど、そもそも恋だ愛だという話は厄介なもので、どうしても心の平衡が崩れがちになってしまうもんですから、いざとなったら譲治さんみたいになるというのもあながちないとはいえません。私にしても、惚れた腫れたのついぞ今までありませんでした、とは口が裂けてもいえないわけで、いや、しかし、そうした状況を脱した今から振り返ると、傍目にもこっけいな姿がちらついて、譲治さんのことをどの口でいいやがるかという話にもなりそうで、つくづくいやんなります。

そもそも若い時分に恋愛を、たとえごっこみたいなんでもいいからそれなりにやっておかないと、譲治さんみたいになるんですよね。誰しも最初は恋愛に幻想を抱いたりして、それこそ、あの女と添い遂げられないんだったら、あいつを殺して俺も死ぬみたいな、そういう苛烈な恋愛感情は若いうちになんとかしとくもんなんだろうなあと思うんですよ。それを、子供みたいな恋愛観をいつまでも引きずっているから、年取ってからの色恋は狂うというんです。って、実はこれはうちの母親の訓えで、私はそんなふうに昔から聴かされてきて、そしてそれは実際であるなあと思って、そうしたものにはなんだか醒めてしまいました。

けど、私は実際譲治さんみたいな性格だから、もしこの先、現実のナオミが私の前に現れるようなことでもあれば、おお、ぶるぶるっ、その時こそは気をつけねばなるまいなと身震いするのですよ。

この本読んでいて思うのですが、ナオミがある種のセックスシンボルとして機能した時代に、まさにそうしたものに憧れる一男子として読んだのだったら、私の感想も違ったのだろうな。けど、少なくとも私はナオミみたいな女にはどうにも萌えないときているから、正直な話譲治さんには感情移入もなんもなかった。なに馬鹿やってんのさ、みたいな感じで遠くから伝聞するようでしかなくて、だから私には『痴人の愛』はさほどの感銘もなくって、つまりは結局は春琴師匠のほうがずっとよかったという話でしょうか。実際、そうだと思います。

  • 谷崎潤一郎『痴人の愛』(新潮文庫) 東京:新潮社,1985年。
  • 谷崎潤一郎『痴人の愛』(角川文庫) 東京:角川書店,1952年。
  • 谷崎潤一郎『痴人の愛』(中公文庫) 東京:中央公論社,1985年。

2005年9月5日月曜日

少年少女日本の歴史

    コミック・バトン企画もついに最後のタイトルにたどり着きました。『少年少女日本の歴史』。小学館が少年少女向けに発行した日本史漫画で、全二十巻。うちには全巻そろっています。

子供の私があまりに漫画に傾倒して見せたものだからか、あるいは学研ひみつシリーズの効果があまりに目覚ましかったからか、親がそろえてくれたのでした。私はこの漫画を実に重宝して、高校生になっても参考に使っていた、 — いや、実は今でもたまに参照している — というのは内緒です。

ずらりとリストを作成してみれば実に壮観でありますが、ハードカバーの漫画をざっと二十冊並べてみてもなかなかのものでして、子供の頃にはこの漫画が書棚の一段を占拠していて、それはそれは見事でした。今はその場所は違う本が奪ってしまって、『少年少女日本の歴史』はオーディオ・スピーカーの隣にうずたかく塔になって積まれているのでありますが、それでも結構な量があって、けれどそれだけの価値はあるなといえる内容です。

漫画を読めば、その時代その時代の雰囲気というものがざっとつかめて、こうした感じをつかみ取るのは教科書なんかでは難しいものでありますから、子供の私にはきっとよかったんだと思います。ほら、以前いってましたでしょ。漫画『日本の歴史』に戦艦保有比率のどうのこうのが図示されていたうんぬんって。こうした図版や例えはきっと教科書にもあったに違いないのですが、けれど今頭の中に残っているのは漫画に出てきたほうがずっとずうっと鮮やかで、これはそれだけ繰り返して読んだ証拠であると思うのです。

全二十巻。私が好んで読んだのは第1巻。古代縄文弥生時代の日本が断然面白くて、漫画に描かれた縄文人弥生人はそれは実に生き生きと、そして卑弥呼も印象的だったと思うのです。次いで好んだのはお江戸元禄から幕末にかけて、そして明治大正昭和でありました。

多分、私は、だれかしらのビッグネームがぐぐいっと時代を動かしてというようなものよりも、民衆大衆がわいわい出てくるのが好きだったのだと思うんですね。だから江戸の町衆や近代日本の大衆が出てくるところに興味を持って読んでいた。確かに歴史的事件よりも、その時代の風俗を楽しむところは今も同じです。こういう傾向は、子供の時分にもうできあがってたんですね。

引用

2005年9月4日日曜日

いる?いない?のひみつ

 学研のひみつシリーズといえば学習漫画として広く知られているのでありますが、ところが中には異色作もあって、とにかくひとつ異色作を挙げてみなといわれれば、誰もが思いつくのは『いる?いない?のひみつ』なのではないかと思います。

『いる?いない?のひみつ』、いったいなにがいるというのか、いないというのか。それは、宇宙人・怪獣・ゆうれい・超能力者なのです。オーマイ! オカルトじゃんかこれ。宇宙人の章では、日本で目撃された小型UFOやFBIに連行される宇宙人といった定番もの、怪獣章ではニューネッシー、シーサーペント、イエティ、それからビッグフットあたりもいたかも知れない。いたかも知れない? なぜ私がこんなあやふやな言い方をするかといえば、この本は私の手もとに残っていないからなのです。子供だった私にはあまりにおそろしい内容を含んだ本で、それはそれは何度も読んだのですが、どうしても手もとに置くのはためらわれて、従姉妹にあげてしまったのでした。あの物持ちのいい従姉妹のことだから、もしかしたら残してくれているかも知れないけれど、けれどさすがに捨ててしまったでしょう。だから私は今になって後悔しています。

なにが怖かったのかというと、やっぱり幽霊なんですよね。ですがある一事例を除いてほとんど覚えていません。あんまりにその一人のインパクトが強すぎたから、他の幽霊に関する事例は吹き飛んでしまったようで、そのただひとつの事例というのはかの有名な霊媒ピアニスト、マーガレット・ブラウンです。

マーガレット・ブラウン。ある夜、リストの亡霊が彼女のもとを訪れて憑依したのだそうです。翌朝隣人がいうことには、奥さん、ピアノがお上手なんですね。ブラウン夫人それに答えて、いえ私ピアノは子供の頃に少し習った程度なんですよ……。

そう、あの夜のピアノは、十九世紀の大ピアニスト、フランツ・リストが弾いていたのでした。

キャーッ!!!

それからというもの、ブラウン夫人の家にリストはたびたび訪れて、しかも時にはお友達のショパンさんやシューベルトさんたちを連れてきてくれて、って、おいおい正気かよ! けれど、時代というのはおそろしいもので、この突拍子もないものがレコードに吹き込まれて出版されていたのですよ。『いる?いない?のひみつ』にはこのレコードジャケットの写真が紹介されていて、ブラウン夫人が大作曲家たちと交霊したことの証拠とされていました。

私は大学に入って、音楽なんかの勉強をしていたわけですが、時折、なにがはずみとなるのか、この霊媒ピアニストによるレコードを思い出すのでした。しかしその頃にはすっかり彼女の名前を忘れてしまっていたものですから、探すに探せず、調べるに調べられず、きっと一生わからぬままであろうと思われたのでした。

ところが、出会いというのは不思議です。私が修士論文のテーマに選んだグレン・グールドがやってくれました。彼の著作集にブラウン夫人のレコードに対する評が収録されているのです。その名も「ローズマリーの赤ちゃんたち — ローズマリー・ブラウン「交霊演奏会」(レコード評)」! いかすぜ、グールド。愛してるよ、グレン!

グールドの評に付された註釈によると、このレコードはPhilipsから出ていたらしく、その番号はPHS 900256、1970年の出版でした。グールドの評は微妙に屈折して複雑怪奇で、けどまあつまるところ夫人のピアノはうまくないといってるんですが、ともかくも私はこの情報をもとに調べてみて、ですが残念ながら、まだ耳にすることはかないません。

ローズマリー・ブラウンの作品(おっと失礼、作曲演奏はフランツ・リストでしたな)もさることながら、私はもう一度この漫画を読んでみたくて仕方がありません。どうにか買い戻したいと思って、せめてそれがかなわぬなら、新訂版でも構わないと思っています。

まさに、思い入れの深い一冊なんですよ。

2005年9月3日土曜日

からだのひみつ

 恐竜研究が進んで恐竜観も様変わりしてしまったという話をしましたが、さすが人体となればそれほど見方の違いもないらしく、新訂版にも旧版の漫画がそのまま収録されているようです。こうしたところはオールドファンには嬉しいのですが、けれどさすがに二十年の違いは大きかったようで、新ひみつシリーズでは刷新されてしまいました。歳月流るる如し。私は自分の子供時代をまるで昨日のように振り返りますが、けれど実際にはもうずいぶん昔のことなんですね。ぞっとします。

『恐竜のひみつ』は私が最初に買ってもらったひみつシリーズでした。『からだのひみつ』は『恐竜のひみつ』と一緒に家にきたのですが、こちらはもともと姉のものでした。けれど、こうした漫画は姉弟で共有するようにして読んでいましたから、そのうちに所有がうやむやになって、今ではまるで私の漫画のようになっています。ですが、それでも私はこれは姉の本であると思っています。

漫画を通した知識の獲得や学習効果を考えると、ひみつシリーズは非常によい教材であったと思います。『からだのひみつ』は人体に関する基本的な知識を扱っているのですが、私は実際この漫画を読んで得た知識をベースに、後の学校教育をかなり有利に切り抜けました。

消化器や循環器の働きを知るというようなことも大切でしたが、においや温度に関する感覚などのあやふやさ — 慣れてしまうということ — なんかは、日常の生活の中で、自分の感覚や身体の作用を観察して評価する姿勢をはぐくむのに本当に役に立ったと思います。今の私の、状況事態を観察して、その観察をもとに結論を知ろうとするスタンスは、間違いなく子供の頃に読んだ、科学漫画から得た知識とその知識を確かめようとする過程でできあがったといえるでしょう。

しかしだよ、しかしだよ、最初に読んだひみつシリーズが『恐竜のひみつ』と『からだのひみつ』。そしてこの後に読んでいくものも、主に科学系、技術系。『発明発見のひみつ』とか『海のひみつ』、『地球のひみつ』、『動物のひみつ』、『飛行機ロケットのひみつ』、『NHKハテナゲーム魔法実験のひみつ』などなど。『忍術手品のひみつ』あたりとなると異色ですが、それでも私の好みは圧倒的に自然科学系に偏っていたということがわかります。

その偏りには子供の時点ですでに気がついていて、後に『漢字のひみつ』を偏向を正す目的で購入して、これはこれで楽しく読んだのですが、けれど科学系漫画のような面白さは感じ取れませんでした。どうも私は根っから科学の子であったみたいで、多分これは今も変わってないと思います。

  • 藤木輝美『からだのひみつ』(学研まんがひみつシリーズ) 東京:学習研究社,1972年。
  • 横田弘行,藤木輝美『からだのひみつ』(学研まんがひみつシリーズ) 東京:学習研究社,1972年;新訂版:1992年。
  • 井上大助『からだのひみつ』吉田義幸監修 (学研まんが新ひみつシリーズ) 東京:学習研究社,2005年。

2005年9月2日金曜日

恐竜のひみつ

 科学というものは着々と進歩して、私が子供の頃には常識として理解されていたものが、今では誤りとされることもしばしば。こうした変化を実感するのは、私の場合でいえば、恐竜に関することでしょうか。私が子供だった時分の恐竜は、ゴジラよろしく直立姿勢でもって尾を引きずり引きずり歩く鈍重な爬虫類どもという描写が普通だったのですが、『ジュラシックパーク』そして『恐竜惑星』を経験した私たちは、もはや恐竜たちをそのようにはとらえなくなりました。今私たちが恐竜に持つイメージといえば、さながらエメリッヒの『ゴジラ』のようです。

イグアノドンの親指は、かつて鼻の先についた角として復元されたという逸話がありますが、私の恐竜に関する知識の今昔は、イグアノドンの親指を彷彿とさせるほどに違っていて、私はここにある種の感慨を感じないではいられません。

と、このように恐竜に関する常識が様変わりして、『恐竜のひみつ』も大幅に書き換えられてしまいました。この新たな版には、私が愛したエースマンの居場所はもはやなく、こうしたところにも時代の移り変わりを感じないではおられないのが私です。

知識が変わったんだ、版改訂も仕方がない、当然のことだと私も頭では理解しながら、けれど一抹のさみしさも感じて、こういう人はきっとたくさんいるのではないかと思います。

『恐竜のひみつ』は、漫画の部分も思い出深く、私はそれこそ何度も読み返し、各ページ柱の豆知識まで網羅するほどに読み込んで、そして最後には色刷りの恐竜図鑑のページを眺めてうっとりするのが常で、あの濃密な総天然色的イラストレーションは、子供心に恐竜の存在感をひしひしと刷り込むのに充分でした。もちろん最近の研究が反映された今のスマートな恐竜像も格好よくて素敵なのですが、昔のあの泥臭く鈍重でそしておどろおどろしささえ漂わせた恐竜の存在を忘れることはできなさそうです。

そういや、変わったといえば、ブロントサウルスもそうですね。ブロントサウルスという種が消えて、アパトサウルスに統一されたのは1903年のこと。ですが私が子供だった頃は、まだブロントサウルスの方がとおりがよかった。

ですが、今はアパトサウルスの方がずっと一般的なんですから、時代の変遷はこんなところからも感じられます。

  • 川崎てつお『恐竜のひみつ』(学研まんがひみつシリーズ) 東京:学習研究社,1972年。
  • たかや健二『恐竜のひみつ』(学研まんがひみつシリーズ) 東京:学習研究社,1972年;新訂版:1993年。

2005年9月1日木曜日

ドラえもん

 私が最初に読んだ漫画は、紛れもなく『ドラえもん』。第16巻、父がよそからもらってきたのでした。私がまだ幼稚園児だった時分で、それまで本といえば絵本くらいしか知らなかった私は、漫画という表現にはじめてであって、ぶっ飛ぶほどの衝撃を感じました。もしあの時、父が『ドラえもん』をもらってこなかったら、きっと私の人生は大きく変わっていた。おそらく漫画を読むよりも文字の本を好み、いや、どうだったものでしょうか。人生にもしもはありませんから、結局はどちらでも同じであったのかも知れません。けれど、私にはあの時の出会いがなければ、今はきっと違っていたとしか思えないのです。

なにが変わっていたか。きっと私は、今ほど漫画を読まず、少年時代は取り分けそうだったでしょうから、科学に対する憧憬を育てる暇はきっとなかったろうと思います。私の中生代の生物に対する憧れは間違いなく漫画でもってはぐくまれ、それは例えば第16巻に見る「宇宙ターザン」であり、そして映画『のび太の恐竜』であり、明日語られるだろう『恐竜のひみつ』で — 、私の知識や知恵の大半は、漫画というメディアを通じてもたらされたことは疑いないのです。

なかでも『ドラえもん』は芳醇でした。サイエンスやテクノロジーへの憧れがあり、憧れとともに反省と批判があり、それらは豊かなエモーションとともに、まだ子供であった私に注がれたのでした。世の中を見る目は、憧れだけでは妄信となり、反省批判だけでは萎縮して自由さがない。ですが、藤子不二雄の目は今から考えても確かであったと思うのです。藤子不二雄は『ドラえもん』という漫画を通して、科学技術がもたらすものを見据え、よいものはよい、悪いものは悪いとちゃんと答えました。そして、人間が生きるうえで大切にすべきものがなにか、ちゃんと答えました。私はそうした藤子不二雄の語りかけを『ドラえもん』から感じて、こうして育って、私の情緒の根底には『ドラえもん』が抜き難く存在しているというのです。

世の中には漫画は数多あり、素晴らしいものもそうでないものもたくさんあって、漫画家だってそうです。私はそうした漫画や漫画家に思いをはせるとき、きっと藤子不二雄を思わないではいられません。藤子不二雄は紛れもなく私にとっての最初の漫画家で、漫画という世界の創造者のごとき位置にあるのです。いや、そりゃ私も漫画の発展した道を知っています。手塚治虫もほかの偉大な漫画家も知っていますが、ですがそれでも私にとっては藤子不二雄こそが第一で、藤子不二雄だけは私の魂を構成する重要な一部になっています。

ほかの漫画家 — あるいは作家でも作曲家でもかまいません — がいなくとも、私の今は変わらなかったろうと思います。けれど私の魂から藤子不二雄を取り去ろうとすれば、きっと大出血とともに絶命します。

  • 藤子不二雄『ドラえもん』第16巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1979年。