2006年1月19日木曜日

グールドを聴きながら

  昔、グレン・グールドというピアニストがおりまして、ですが彼の名声はただの演奏家にとどまりませんでした。その原因には、たくさん書かれた文章とその先見性もあるのでしょうが、やはり彼の奇矯性によるところが大きいのではないかと思います。演奏家としてまだまだこれからという時期に、突然もうコンサートなんてやらないよと宣言して、実際それ以降彼が舞台に現れることはありませんでした。こうした行為、そして演奏における解釈のあまりに独自であることなど、とにかくグールドは物議を醸す人だったそうでして、ですが、そういうスタンスが逆に人気を高めるんですね。グールドはカナダは当然として、アメリカ、フランス、そしてこの日本でことさら人気で、その人気は彼の死後、陰るどころか、ますます高まるような勢いです。

私は思うのですが、グールドの演奏はあんまりに個性的であるために、逆にわかりやすい、取っつきやすいものになっているんです。他の誰とも違うし、彼自身が自分の演奏について語った文章、コメントも多いしで、特に理屈っぽいのが好きみたいな人に支持されているような気がします。あるいはですね、アウトローの格好良さっていうんでしょうか。そういう人気もあるように思うんです。古い楽壇に反旗を翻した反逆者、革命家としてのグールドとでもいいましょうかね。このグールドの神格化される様は、ロマンティック・ドイツにおいてベートーヴェンが英雄としてもてはやされ、どんどんその神格を肥大化させたという事例を彷彿とさせます。

吉野朔実は『グールドを聴きながら』において、こうしたグールドを信奉する年ごろの少女をうまく描いたなと、本当にそう思いました。グールドの音楽にではなく、とかいったら機嫌を損ねられる方もいらっしゃるかも知れませんが、ええ、音楽にというよりもむしろ彼の考え方や振舞いに惚れてしまうという、そういう時期はあるのではないかと思うんです。J Popよりも洋楽、という背伸びしたい年ごろみたいにいってもいいのかな。そういう、他より頭ひとつ出ているんだよということを自分自身に対して主張したいという、若さゆえの青さみたいなものを感じたのでした。

で、そういう背伸びしている人にまた憧れるという関係があるのだと思います。結局のところをいうと、背伸びしようがありのままだろうが、進んでいようが遅れていようが、結局自分のテンポで歩める人というのが自律した一個人というものだと思うんですが、けどそうした自分に自信を持てない時期というのは確かにあって、そんな揺れ動く季節には誰かなにかを自分を支えるよすがにしたいというものなんでしょう。この漫画にはグールドというピアニストの名前は確かにあるけれども、けれどグールドがメインなのではなく、一歩先に進んだ人への憧れ、揺れる思いを描いているのだなと、そういう気がします。そしてその揺れる思いは、揺れに揺れて、果たしてどこに落ち着くのか。

私は思うのですが、グールドのいっていた人間を陶冶する体験としての音楽を理解すれば、そこにもはや揺れ動こうと動揺しないわたくしを見いだすことができるのではないかと思うんです。でも、この辺はこの漫画には関わらないことだとも思うから、余談でした。

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