2006年2月28日火曜日

そらのひとひら

 野々原ちきは私の好きな漫画家のひとりで、そのやわらかにはなやいだ描線が紡ぎだす可愛らしく美しいキャラクター群も魅力であれば、そのキャラクターでもってこれを? というような黒いネタを展開する意外性もやはりまた魅力で、どうにも目の離せない感じです。既刊は『姉妹の方程式』。私は『姉妹の方程式』を読んで、そしてこの度『そらのひとひら』を通読してみて感じたのですが、どうやらこの人は黒いネタを追求するほどに面白さを増すのではないか。いや、単純に黒いといってもブラックユーモアみたいなことをさしているのではなくて、もっとなんか、屈折した感情とそのもつれみたいなものを描き出すのが大変にうまいと思うのです。

『姉妹の方程式』でも感じていた感情のもつれっぷりの面白さですが、それは『そらのひとひら』において充分に展開されて、私は途中の回を何度か読んだことはあったけれど、その時には感じなかったもつれが最初から読むともう見事に見えてきて、主要キャラクターの感情のすれ違い、近づくに思わせて近づけさせず、逆に遠ざけることもまたないという絶妙の距離感は面白い。主人公はまれに見るネガティブさでもって、けれどそのうじうじとしたキャラクターが悪くなく、私は彼を愛せると思います。そう思えるのは少年を描写する筆の確かさで、彼のトラウマとなった出来事(そしてそれはいずれ誤解とわかるのでしょうか)や過去を追想し今に戸惑う大隅くんの心をしっとりと大切に扱って、まあその丁寧に描き出されたぶん、かわいそうさはいや増すのではありますが!

野々原さんは人の心の機微を扱うのに長けていらっしゃるのかと思われます。そうっとすくい取られて絶妙のタッチで描き出されるそれは、思わず笑みのこぼれ胸に暖かみをともさせるようなよい話に持っていくこともできれば、残酷にも相をずらすことで泣き笑いのおかしさを生み出すこともできて、だからきっとこれからもおかしかったり嬉しかったりする素敵な世界を提示してくれるだろうという予感がするのです。

野々原ちきは私の一押しです。読んでみればわかる。読めばわかっていただけることと思います。

蛇足

笑顔の春賀さん、眼鏡の春賀さんも最高なのではありますが、とりあえず今は児玉ちゃんに夢中です。い、いや、普通にめちゃくちゃ可愛いですじょ?

  • 野々原ちき『そらのひとひら』第1巻 (ガンガンWINGコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2006年。
  • 以下続刊

2006年2月27日月曜日

忘れません

私が以前から好きだといっている、小樽在住のラグタイムギタリスト浜田隆史氏。氏は深いラグタイムへの取り組みや音楽性、そのギターの技巧によって知られているのですが、その活動のうちにシンガーソングライターとしての顔もお持ちでいらっしゃいます。そう、自作の歌を歌っておいでなのです。当世風の流行に接近するでなく、ラグタイムに向かう姿勢がそうであるように、自分独自の世界観を大切に見つめている、そんな雰囲気のする歌ばかりです。そんな歌の中に『忘れません』があって、これはかつて氏が経験した別れを歌ったものであると聞きました。素朴な歌。ひとりの人が、自分の置かれた状況を見つめて、とつとつと語って見せたみたいな歌。『忘れません』は聴くものを前にして語りかけるように歌われる、すごく心が近しく感じられる暖かい歌です。

別れを歌った歌は数あって、そのどれもが別れの寂しさや悲しさを広く通じる言葉に変えること余念がなく、けれど浜田氏の歌はなによりもまず自身の実感の中に歌をかこって、大切に大切に言葉を磨いたすえにようやく語りはじめるよう。氏の歌に身近さを感じるのは、あなたに話したいことがあるというみたいにしてはじまる、語りかけに似たスタイルのためなのかと思います。確かに、氏の身近に起きたことが追想されるようで、その意味でこの歌は氏の個人的な歌であるでしょう。しかしひとりの人が友人に語りかける言葉は磨かれたことによって、個人的な枠組みを超え、普遍に一歩踏み込んでみせる。それは技術やなにかによってもたらされたことではなく、言葉にして伝えたいという氏の気持ちがまっすぐに通っているからなのだと思います。

私はこの歌を、はじめて参加した氏のライブで聴いて、そのしんみりとした叙情に打たれたのでした。そして歌のアルバムを手にして、やはりいい歌であると思っています。もし氏の許しを得ることができたら、私もこの歌を歌いたいと思う。私がこれまで繰り返してきた別れと出会いを懐かしみ惜しむようにして『忘れません』を歌うことができたら、私はどんなになぐさめられることであろうかと思います。

『忘れません』、ええ、忘れません。あなたのことは忘れません。そうした思いは私の胸にもやっぱりあるのです。

2006年2月26日日曜日

卒業

   私は中学高校と吹奏楽部に所属していたので、なんかイベントがあるとそれに応じた曲を演奏するということになって、ほら、入学式とか体育会とか卒業式とか、そういう式典ではとにかく演奏をしていたものでした。で、中学のこととなるともうほとんどなにをやったかなんて覚えていないのですが、ところが卒業式に演奏したものは覚えています。卒業式用に編曲されたメドレーで、ミュージックエイトだったと記憶しています。そしてその曲目に斉藤由貴の『卒業』が含まれていた。ええ、はっきり覚えています。

私は当時アイドルを追うような少年ではなく、それでも斉藤由貴は知っていました。人気がありました。幼さの残る可愛い感じの女の子として今は思い出されますが、なんせ当時は私も子供でしたから、そうした印象を当時持つことはなかったでしょう。きれいなお姉さんみたいな感じで見ていたのじゃないかな。それも、ほんの少し年上の、そんな親しみのある雰囲気をともなってテレビや雑誌に登場されていたように思います。

今から振り返ってみれば、あり得ないほどに時代を感じさせる歌詞で驚くんですが、今の若い人は卒業式で先輩のボタンをねだったりなんてするのでしょうか。なんか、まだ時代はすれていなくって、中学生や高校生は素朴さを残していた、そういう時代の歌なんじゃないだろうかと思って、けど、こういうプラトニックといったらいいのか、恋愛に純粋性を求めたいみたいな気持ちはきっと今もあるんじゃないかなあ。私がこの歌を聴いてなんか胸にぐっと迫るなにかを感じるのは、そうした恋愛の純粋性に期待したいノスタルジイをどこかに抱いているからなのだと思います。

そういえば、私が卒業するときに後輩たちが演奏してくれた曲はいったいなんだったんだろう。ついぞ思い出すことができず、やはり先輩を送るという印象をともに演奏した曲こそが記憶に残るのかも知れません。いや、ただ単に斉藤由貴が好きだったからという可能性もあるんですが、けど練習していた音楽室の雰囲気も思い出されるようで、これは私には珍しいことです。それはつまり、それだけこの曲が印象深かったということなのかも知れません。

2006年2月25日土曜日

セーラー服と機関銃(夢の途中)

  私くらいの年代だともう合言葉のようだと思うのです。さよならは別れの言葉じゃなくてと問われれば、即座に返す言葉は再び逢うまでの遠い約束。映画『セーラー服と機関銃』の主題歌となった『夢の途中』の歌い出しの歌詞で、その最も耳に残るフレーズこのまま何時間でもとともに、耳の奥にそっとしまわれるように記憶されています。しかし、私は当時こうした若い人向けの風俗に背を向けるようにいた、ある種ひねくれた子供だったのですが、でもそれでもはっきりと覚えているのだから驚きました。映画もテレビで見たんですよ。多分、一度だけしか見ていないけど、それでも最後の機関銃を撃つシーン、はっきり覚えています。私にしても時代の子であったのだと痛く感じ入りますね。

思えば、私、薬師丸ひろ子が好きだったんだと思います。こないだからやってるゲームのベータ版。ドラマパートで塀を乗り越えようとする女の子を下から支えるシーン、「絶対上を見ないで」という台詞に「探偵物語だ」とメッセージを送ったら、「年がばれますよ」って返ってきて、いや、あんたもわかってるやん。いずれにせよ、背を向けていたつもりで私も結構薬師丸ひろ子の映画見てたんだなあ。うん、映画『探偵物語』の主題歌の極めて有名な歌詞、好きよ、でもね、たぶん、きっとなんて、私の言語感覚の深いところに入り込んでるものなあ、たぶん、きっと。

この曲を今紹介しようと思ったのは、さっきもいっていたゲームが原因です。ユーザーが学校に参加し、偶然同じになったクラスの中で授業を受け、おしゃべりをし、そうしているうちになんだか離れがたくなっちゃいましてね、けどこれはベータ版、来週月曜には終わります。そうなればきっと私たちはばらばらになるねって話していて、寂しいねっていいあっていて、けどきっと忘れませんからって。その時に私の脳裏に流れていたのが『夢の途中』、さよならは別れの言葉じゃなくて再び逢うまでの遠い約束……。うん、またいつかどこかで会いましょう、でもね、たぶん、きっと……。

嬉しいことがありまして、ベータ版のキャラクターは正式サービスが開始されても継続使用できるとのこと。そして、これが重要なのですが、クラスが引き継がれます!

この頃でこんなに嬉しいことってあったろうか。それくらい私は喜んだのです。ええ、きっとまた会えるというのですよ。

なので、この曲の紹介を前倒ししました。本当なら明日に書くつもりでいたのです。ところが思いがけない変更が計画の修正を余儀なくさせて。けどこんな変更ならいくらあってもかまいません。ええ、出会った友人たちにまた会えるだなんて、こんなに嬉しいことはないのですから。

薬師丸ひろ子

来生たかお

引用

  • 来生えつこ『夢の途中
  • 松本隆『探偵物語

2006年2月24日金曜日

笑う大天使

昨日紹介しました『3人の写真』ですが、私はこの歌を聴くと自分の学校時分のことではなく、川原泉の漫画『笑う大天使』を思い出してしまいます。『笑う大天使』、川原の大出世作にして、今なおファンをつかんではなすことのない名作で、もちろん私もこの漫画を愛しています。お嬢様学校に入ったものの、どうにもこうにも馴染めない三人娘が繰り広げるどたばたのアクションがあったと思えば、心に深く刺さって涙を絞るシリアス展開もあって、けれどこれらのまったく違ったように見える向きが、ひとつのカラーの中に収まって、すごく馴染んでいるのです。華やかでにぎやかで、あたたかで、私はこのカラーこそが川原泉のらしさであろうと思っています。

『笑う大天使』というのは、学校のあまりのお上品さに馴染めない三人が、というのが基本のプロットであったのですが、その彼女たちは学友上級生下級生を渾身の頑張りでもって助けましてさ、それまでかぶっていた猫なんてなんのそのって感じでもって奮闘して、そしてその心根のまっすぐさが通じたと思える瞬間があるのですよ。彼女らは彼女ららしさでもって、繕ったうわべの笑顔ではなくって、その本当の心意気でもって、自分たちの位置を友人の心の中に作った。私はだからあのシーンも大好きで、誰かのために一生懸命になれるというのは素晴らしいことだと、輝いてるよね川原、なんて感じてしまいます。

さざめくような華やかさだと思うのです。決して派手ではないけれど、川原の描く少女たちは凛々しくまっすぐで、伸びやかな木々の春に芽吹く生き生きとした生命が満ちていて、健やか。そしていつか花開こうとする予感をひしひしと感じさせて、私がひかれるというのはそこなのでしょう。最終話、卒業式のスナップ写真。そこに居並ぶ三人娘のまぶしさはなんか心の奥にきれいな水が涌くような思いがします。清冽な印象は、消えず心に残り続けています。

  • 川原泉『笑う大天使』第1巻 (白泉社文庫) 東京:白泉社,1996年。
  • 川原泉『笑う大天使』第2巻 (白泉社文庫) 東京:白泉社,1996年。
  • 川原泉『笑う大天使』第1巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1987年。
  • 川原泉『笑う大天使』第2巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1988年。
  • 川原泉『笑う大天使』第3巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1989年。

2006年2月23日木曜日

3人の写真

  いよいよ卒業が間近に見えるようになって、これまで級友と一緒に過ごした時間が終わり、慣れ親しんだ学校ともお別れ。私はね、ここにちょっと告白しますとね、これまで卒業式に泣いたことなど一度もなくて、けれどそれは学校を出ることにさばさばとしていたということではないんです。私の学校生活の拠点は音楽室で図書室で、卒業式を終えて、それら思い出深い場所にいってそっとお別れをしてきた。だって、友達とはまた会えるでしょう? だから彼らと別れることはそれほど悲しむべきこととは思えなくて、けれど実際高校時分の友人で今も親交があるのといえば二人しかいないんじゃないだろか。仲のよかったのは他にもいたろうに、あいつらは今いったいどうしてるんだろうなんてふと思うことがまれにあります。

Kiroroの『3人の写真』は、私にとっては『長い間』のカップリングに過ぎず、だからそれほど期待もなく聴いた曲であったのですが、今となってはむしろ『長い間』以上に親しみを感じる曲となっています。『長い間』に見られたピアノによる感傷をかきたてる伴奏や変則の小節がはっとさせるそういう効果は『3人の写真』には見受けられず、その意味では非常にオーソドックスなポップスです。ですが、これらの曲にはKiroro二人の実感がぎゅーっとつまっている。その実感が、わーっと広がるところが私は好きで、そしてその実感の素朴にして確かな『3人の写真』。卒業ソングとして秀逸であるという評価を超えて、私にはまるで自分もかつて感じただろう学校の景色、空気の揺らぎを歌の向こうに見るかに思い懐かしむ、そんな心に染みる一曲として数えています。

もうじき三月。卒業ですね。巣立つ人、見送る人。一人一人の胸に去来する思いが、いつか大切な思い出として振り返ることができるものであればいいと願います。卒業が、もう二度と会うことのない本当の別れになるかも知れないとしても、思い返せば懐かしくいとおしむことのできる記憶となれば、それで友達と過ごした時間は価値のあるものになる。そんな風に思います。

2006年2月22日水曜日

勉強の歌

  森高千里の『勉強の歌』はテレビアニメ『おちゃめなふたご—クレア学院物語』の主題歌として使われていた歌で、その明るくて陽気なところはアニメによくあっていて、そして勉強は嫌いだったけど、もっとちゃんとしておいたらよかった! という内容もすごくマッチしていて、けどこういう後悔はどうしてもその当時にはわからないんですよね。私が『おちゃめなふたご』にはまったのは、まさに高校在学時でしたから、『勉強の歌』は本当に身につまされるような歌で、でもあの時だったらまだ取り戻せたのかもなあ。なんて思います。

私の勉強における一念発起は大学デビューでありまして、そもそも学問するつもりで進学したわけでもなかったというのに、けれど少しでも取り戻すことができたようで、その意味では入学を許可してくれた大学には感謝しています。大学で取り戻すことができた部分というのは主に外国語とヨーロッパ史でありまして、けどそれでも不充分だと思うんですよね。人と話をするときなんかに感じるんですが、ちゃんと中学高校で基本的なところを押さえた人にはかないません。よくご存知で! そんな感じがする。だから私は今からでも教えを請うて、少しでもわかるようになりたいなんて思うんです。

私はこないだ絶対値がわからないなんていっていましたが、さらにおとつい、部分集合がわからないということにも気がつきまして、さらにいっておくと虚数というのもわかっていません(つまりこれは複素数や実数の概念をつかんでいないといってるのと一緒です)。こういったエピソードからうかがえるのは、私のウィークポイントは数学にあるということ。どうもあの記号山盛りで計算をたくさんしなければならない数学が面倒で、あまりに面倒だったから演習とかやらずにいて、余計わからなくなってという悪循環。私は未だその悪循環から抜け出せずにいます。けれど、わからないところでも解説してもらって、おおまかな概念を教えてもらえたりすると、ちょっとだけ進めるんです。一歩かも知れないし、半歩にも満たないかも知れないけれど、少しだけ進む。今からではもう遅いかも知れませんが、それでも少しずつわかる。面白い! 知るということにまさる喜びはないのかも知れないと、本当に心の底から思えます。

ちょっと余談ですが、Wikipediaをさまよっていたときのこと、0.999...が1に等しいことの証明という記事を見つけまして、その証明、1 = 9/9 = 1/9 + 8/9 = 0.111... + 0.888... = 0.999... 、を見たときにはちょっと感激しました。で、この事実について私は知らなかったのですが、やっぱりちゃんと高校時分に勉強していた人は知っているんですよ。ああ、悔しいって思いました。知識で劣っているのが悔しいんじゃないんです。そんなすごいことを今まで知らずに過ごしてきたということが悔しいんです。

世界には面白いことがたくさんあります。知ることは喜びです。本当に思います。

だから、詳しい人、私にいろいろ教えてください!

2006年2月21日火曜日

終末の過ごし方

  次の週末に人類は滅亡だ。『終末の過ごし方』はいきなりそんな極限状態からスタートして、公約通りといいますか、その一週間が過ぎれば世界は終末を迎えておしまい。そんな状況だというの主人公たちは日常を淡々と平時同様に送っていて、いざ世界が滅びます、逃げられませんよ、なんてことになれば実際でもこんな感じなのかなと思ったりもする。そういう妙な感覚が妙に心地よく感じられるゲームで、結構この雰囲気が好きだという人は多いみたいなのですね。もちろん私も嫌いじゃない。絵のはかなげで優しい雰囲気、音楽の繊細さも加わって、悲劇的なはずが悲劇とは感じられず、そうですね、穏やかなのです。残された時間をどう過ごしたらいいんだろうかとぎりぎりまで迷いながら、でもあくせくもせず淡々と。私の人生の最期はこんなだったらいいなと思ったりしたのは秘密です。

一週間というのは長いようで短く、短いようで長く、そんな微妙な時間の感覚というのは、実は人生に似ているように思います。人生は、なにもせずただ過ごすにはあまりに長すぎ、けれどなにかひとつでも目標を持てばあまりに短い。その長く短い生をどのように過ごすかは、その人生を送る本人次第。価値あるものに変えられるか、それとも空しさにため息つくか。本当に、本人次第であると思います。

もしもですよ、後一週間ですと刻限が切られたとしたら、私はいったいどうするんだろうかなんて考えましたらね、きっと、多分、私は今までと同じ暮らしを変えないだろうと思います。ギターを弾いて、仕事にもいくでしょう。そして、できれば残された時間一杯を使って、今まで知りあって、好きになった人たちに会いたい。あって、最後の挨拶をしたいではありませんか。思いがけず世界が終わっちゃうことになりましたよ。いつかくるとは思ってましたが、こんなに早くくるとは思いませんでした。振り返れば短いなりにいろいろあった人生で、そんななかで、あなたにお会いできたのはすごくありがたいことでした。得難いことを得ることができました。あなたと話したこと、あなたと一緒に見たもの、感じたなにか、それらは世界が終わっちゃうのと一緒に消えてなくなってしまうのかも知れませんが、私はそれでも忘れないと思います。

そういう挨拶をしたい。出会えたことへの感謝と、喜びを言葉にして伝えたい。そして最後に、あなたと、あなたのいらっしゃったこの世界が大好きでした。そういってお互い微笑んで別れることさえできれば、— 私は、私が生きて死ぬということを悔いることも嘆くこともなしに受け入れることができるように思います。

なんや、えらい陰気になってしまいました。私はまだまだ生きるつもりだから、あと五百年は生きるつもりだから、この人あやういんじゃないかなんて、どうぞお思いにならないでくださいましよ。それでできましたらば、ああ、この人はシニカルなふりして見せてるけれど世界や人間が好きなんだと感じてくださったりしたら、どんなにか嬉しいことかと思います。

2006年2月20日月曜日

おちゃめなふたご

      学生時代を懐古してみるに、あれは確か高校三年の頃だったと思います。テレビで『おちゃめなふたご—クレア学院物語』というアニメをやっていまして、これがまた仲間内ではやったんですよ。主人公は双子の女の子イザベルとパトリシア。私はこれ偶然病院の待合室で見ましてね、多分春休み。ああ、そうだよ、突然腹痛に襲われて担ぎ込まれた時じゃなかったかな? 思えばこれは虫垂炎で、その後八月に私はきっちり入院します。とまあ、そんな話はどうでもいいのであって、アニメ『おちゃめなふたご』は関西では休み期間に集中放送されましてね、毎日毎日やってくれるもんだからはまったはまった。それでもう集中講義なんていってましたね。ええ、こういう風に呼んでいた人は関西では結構いらっしゃったみたいなんですよ!

で、笑うのは、休みが明けた学校でのこと、やっぱり友人も『おちゃめなふたご』にはまっていまして、それでもう大盛り上がりでしたな。さらには、私は当時図書室入り浸りだったのですが、図書室仲間の下級生も『おちゃめなふたご』に大はまりで、いやあここでも盛り上がりました。私はアニメの絵を写して描くのに長けていたから、当時はやりの絵しりとりでイザベルやらパトリシアやらをがつんと描いて、いいねえとゆわれて、いや、すまん、マニアの昔話になってしまいました。

アニメの『おちゃめなふたご』は明らかに原作よりも高い年齢層を狙っていて、学生や、また中学高校を卒業してしまった人でも楽しめるような内容であったと記憶しています。舞台は全寮制のクレア学院。わがままな双子の姉妹が、クラスの友人たちと過ごす日々の中成長していくという物語はとても丁寧に優しく描かれていたから、もう理想の学院と思えました。全寮制ってなんか憧れませんか? いや、実際にそんなところに叩き込まれたら即日脱走決行すると思いますけど、海外児童文学に見る全寮制の学校ってすごく輝いて見える。ええ、私たちにとってクレア学院はまさに輝いていましたね。憧れましたよ、憧れました。

なので、レッスン先の山科の書店にて『おちゃめなふたご』の原作を見つけたときには嬉しかった。興奮しました。だから件の友人をたきつけて購入させて、授業中に回し読みさ。そういう授業中の出来事も今は懐かしく感じて、そしておしゃまなふたごやそのクラスメイトに起こる出来事の数々も懐かしい。サワーミルクのプルーデンスでしたっけ? ギャングエイジの女の子の世界を垣間見て、うへー、みたいな話もありましたけど、フランスからきたクロディーヌが妹と、こっそり早口のフランス語で内緒話するとか、フランス語の授業でRの発音が奇怪極まるとか、このときにはまだ将来フランス語を自分の主たる外国語にするだなんて思ってなかったけど、思い返せば少なからず影響受けてるんじゃないかと思います。

実は、『秘密の花園』を探していたときに『おちゃめなふたご』が新装版で出版されているのを見つけて、ああ懐かしい、欲しいなと思ったのでした。その時にはまだ『おちゃめなふたご』しか出ていませんでしたが、今では『おちゃめなふたごの探偵ノート』まで出ているみたいですね。でも、買うならやっぱり旧ポプラ社文庫版かな。ええ、今ならまだ間に合いそうじゃないですか。愛らしいカラーの表紙、そして挿絵。ここは思い切って、どーんっといっちゃいましょうか、どうしましょうか。ちょっと迷いますけど、けど私の性格の常で、きっと買ってしまうんだろうなと思います。

  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたご』佐伯紀美子訳 (ポプラポケット文庫) 東京:ポプラ社,2005年。
  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたごの秘密』佐伯紀美子訳 (ポプラポケット文庫) 東京:ポプラ社,2005年。
  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたごの探偵ノート』佐伯紀美子訳 (ポプラポケット文庫) 東京:ポプラ社,2006年。
  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたごの新学期』佐伯紀美子訳 (ポプラポケット文庫) 東京:ポプラ社,2006年。
  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたごのすてきな休暇』佐伯紀美子訳 (ポプラポケット文庫) 東京:ポプラ社,2006年。
  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたごのさいごの秘密』佐伯紀美子訳 (ポプラポケット文庫) 東京:ポプラ社,2006年。
  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたご』佐伯紀美子訳 田村セツコ絵 (ポプラ社文庫—世界の名作文庫) 東京:ポプラ社,1982年。
  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたごの秘密』佐伯紀美子訳 田村セツコ絵 (ポプラ社文庫—世界の名作文庫) 東京:ポプラ社,1983年。
  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたごの探偵ノート』佐伯紀美子訳 田村セツコ絵 (ポプラ社文庫—世界の名作文庫) 東京:ポプラ社,1984年。
  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたごの新学期』佐伯紀美子訳 田村セツコ絵 (ポプラ社文庫—世界の名作文庫) 東京:ポプラ社,1985年。
  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたごのすてきな休暇』佐伯紀美子訳 田村セツコ絵 (ポプラ社文庫—世界の名作文庫) 東京:ポプラ社,1985年。
  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたごのさいごの秘密』佐伯紀美子訳 田村セツコ絵 (ポプラ社文庫—世界の名作文庫) 東京:ポプラ社,1986年。
  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたご』佐伯紀美子訳 田村セツコ絵 (ポプラ社の世界こどもの本) 東京:ポプラ社,1984年。
  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたごの秘密』佐伯紀美子訳 田村セツコ絵 (ポプラ社の世界こどもの本) 東京:ポプラ社,1984年。
  • ブライトン,エニド『おちゃめなふたごの探偵ノート』佐伯紀美子訳 田村セツコ絵 (ポプラ社の世界こどもの本) 東京:ポプラ社,1985年。

2006年2月19日日曜日

M-AUDIO Pulsar

 以前いっていたM-Audioのオーディオインターフェイス先月の末に買ってしまいまして、その際に私が選んだマイクというのは、やはりM-AudioのPulsarでした。まずは楽器を録ろうということで、インストゥルメント・マイクロフォンとわざわざ書いてあるPulsarを選ぶのがまあ間違いもなかろうと、そういう理由からです。

そうしてうちにやって来ることになったPulsarは、驚くほどに小さくスマートなマイクで、けどブラスでできたボディはしっくりと重くて、ちゃちな感じは全然しません。で、早速ギターを録音してみたりしているわけですが、これがなかなか難しくて悩みどころが増えてしまったと感じてます。

なにが悩みどころといっても、まあふたつの録音を聴き比べてみてください。一つ目は適当なフレーズを弾いてみたもの、二つ目はアグアドの練習曲です。

これね、一つ目は音を絞りすぎて、二つ目は大きな音で録りすぎて、あんまりよくないんです。いろいろ試してみたりして、ぎりぎりのところを狙ったつもりなんですけど、それでもうまくないんですよね。デジタル録音は、過大入力があるとクリップノイズというのが発生して、二つ目の録音の全体に渡って聴こえるぷちぷちざらざらした感じがそれです。で、それを避けるにはゲインを小さく絞ってやるといいんだけど、そのへんのノウハウがまだないので、本当にこれからだと思います。

Pulsarを使ってみて、私にとってははじめてのコンデンサマイクで、いいとか悪いとかはいえないんですけど、それでも想像以上にいいというくらいはいってもいいんじゃないかと思います。すごいですよね。はっきり入って、きれいに録れます。当然なのかもは知れませんが、それにしてもコンデンサマイクを一万円台で買えて、自宅で簡単に録音できる時代とは本当に夢のようです。

とりあえず現状は不満の多いに残る録音で、だからこれからギターの技術とともに、録音のノウハウもためていきたいと思います。少しでもよく録れるようにして、少しでもよい録音を公開できれば嬉しいなと思っています。

いや、それにはまず練習だね。うん、練習して、練習して、それで録音。で、この録音というのはいい緊張感をもたらしてくれるから、練習に張り合いをもたせてくれるんです。なかなかいい循環が発生しているんじゃないですか? 悪くないと思います!

2006年2月18日土曜日

卒業 — 泣かないで

 来るべき卒業シーズンに向けて、ちょっと卒業にまつわるものを取り上げてみました。気が早い? いや、一月は往ぬる、二月は逃げると古来から申します。あと十日なんてあっという間ですよ。ええ、楽しい時間は矢のごとくに飛び去っていくものじゃないですか。

あゆみゆいの『卒業』は、その中身も知らないままに購入した漫画で、いわゆる表紙買いというやつです。忘れもしません、香里園の女学を受験した帰り(もちろん生徒としてではない)、坂の途中にある古書店にて購入したのでした。過去の表紙買いを振り返ってみるとわかるのですが、どうも私は真っ正面から見つめる目に弱いようです。

帰りの車内で読んで、不思議な読後感がある漫画だと思いました。物語は卒業式の当日にはじまり、その日のうちに終わります。物語られる内容は、ヒロイン美晴のモノローグであり、入学式からの三年間、印象的なエピソードが繋ぎ合わされることによって、美晴と大樹の関係が明らかになっていきます。

うまい手ですよね。読み切りで三年間を描こうとすれば駆け足になりかねないというところを、時間軸は最終日に固定し、とびとびに起こる必要なエピソードを挿入していくというやり方は、すでに終わっているだけにはらはらさせるでもなく、むしろ美晴の一人称であり続けるから、すごくしっとりとして内省的です。センチメンタルと言い換えてもかまわないかと思います。表にあらわす自分と中に動く気持ちを対比しながら、だんだんと心が動いていく様をモノローグによりはっきりさせて、そして最後にドラマを作る。

激情型にならないのは、すべて出来事が終わってしまった過去として描かれているからなのだと思います。けどそれゆえに穏やかで、不思議に心に染みとおるようで、私はこの感触は好きだなと思ったものでした。

人間というのは不器用で、ぎりぎりにならないことには自分の気持ちさえはっきりしないようなもので、だから私はそういう不器用を見るといじらしいなと思うのでしょう。

さて、私にとってはまずは十日後。いくらなんでも私は歳が歳ですから、その当日ぎりぎりまで自分の中の心の動きがわからぬ、予想もできぬなんてことはないでしょうが、けどきっとなにか感傷的に兆すものはあるのではないかと思っています。

さよならは別れの言葉じゃなくてでしたっけ? ええ、突然なにいってんだって感じに唐突ですが、きっとそんな感じであればいいと思う。ええ、そんな感じであればいいと思います。

引用

  • 来生えつこ『夢の途中』

2006年2月17日金曜日

Inspiration

  ああ、やっぱり『鬼平犯科帳』はおもしれえなあ。役者がいいよ。いい役者をそろえて、もうしっかりと作ってあるから、ぐいぐいと引き込まれて、テレビの中の作り事だっていうのについつい熱くなってしまってさ、もういけないよ。

そう、私はテレビドラマの『鬼平犯科帳』が好きでございましてね、もう心底惚れてしまっています。とはいってもとてもとてもDVD-BOXなんかにゃ手が出ず、だからこうしてテレビでスペシャルででもやるとなったら楽しみにして見るといった次第です。

で、今回は『鬼平犯科帳』ではなくて『インスピレイション』。ジプシーキングスの名曲です。

日本においてジプシーキングスは知る人ぞ知るとでもいったらいいのか、人気であるし曲も有名だし、名前は知らなくても聴いたらわかるという人は多いのじゃないかと思います。例えば、かつてビールのCMで使われて大ヒットした『ボラーレ』。しかしそれ以上に知られているのは、『鬼平犯科帳』のテーマ曲として使われている『インスピレイション』なのではないでしょうか。

ジプシーキングスはヨーロッパにルーツを持つグループで、その中心となる楽器はスパニッシュギター。なぜこのような音楽を時代劇の、それも本格時代劇のテーマ曲に選んだのか、そのセンスにはほとほと感服します。ミスマッチのよさなんてものじゃございません。すごくマッチしている。お江戸の暮らし風俗を写しながら、そこにジプシーキングスの『インスピレイション』をあわせる。神妙で美しいパッセージがひとしきり、そこへはじける火花のようなギターの響きが格好良く、しかし私にはなぜこの音楽がこんなに日本の昔の光景に似合うというのかがわからない。けれど、まるでこのために書き下ろしたかのようにぴったりで、すごい、すごい、本当にすごいと思います。

もし私が『鬼平犯科帳』を見ることがなかったら、きっと私はジプシーキングスを今も知らないままにいて、じゃあもしやしたらギターも弾いていなかったかも知れない。ええ、こんな可能性をぐじぐじいってもはじまらないことは承知しています。けれどさ、『インスピレイション』はギターはじめる前からさ、格好いいなと憧れていた曲なんですよ。いつかこんな曲弾ければいいなあと、今でも憧れている曲なんですよ。だから、もしこの曲に出会っていなかったとしたらなんて思うわけなんです。きっと私の人生は、少なからず違っていたはず、そうまでいうほどに『インスピレイション』は私の中に食い込んでいるんです。

2006年2月16日木曜日

チャーリー・ブラウンなぜなんだい?

  故人の消息を聞くというのは寂しくもあり、悲しくもあり。ですが、忙中閑ありともいうがごとく、寂しさ悲しさの中にも嬉しいと感じる思いもあるものなのですね。以前、何度かこのBlog上でもお話した私の好きな漫画家についてを人づてに知ることができて、今私はそうした、嬉しさをわずかに含んだ悲しさに沈んでいます。私の気性、情緒不安もあるのだと思うのですが、突然涙が出てたまりませんでした。お会いしたこともない方で、ですがディテールが積み重なることで、悲しさはここまで深まるのだと思って、けれどいつまでも悲しがるというのも逆に失礼なのではないかと考え、さいなまれます。

私はそうして涙を流して、その人はすべての命が帰るべき場所に先立っていかれたのだという感じがしてきて、そう思えば人の死はただ悲しむばかりのことではないのかも知れないという気もするのです。いや、それでもやはり死は痛ましく、つらいものにほかならず……、ですが、私もいつかそこへゆきます。私の大切な人たちもみんな、帰るべき場所に帰っていく。その時がしかるべき時であるのかどうかは浅はかな私にはわかりませんが、誰もが逃げることのできないことならば、それはもう受け入れざるを得ない。私たちが生きるということは、来るべき瞬間を受け入れるための準備をするということなのではないかと思ったりします。

今日記事を書くに当たり、そうした気持ちを表すことのできるなにかはないかと考えました。ですが、ふさわしいと思えるものを見つけることはできず、そのかわりというのでもないのですが、『チャーリー・ブラウンなぜなんだい?』を取り上げることにしました。この短い物語は、ともだちがおもい病気にかかったときというサブタイトルからもうかがい知ることができるかと思いますが、病気になった友達にどういう態度で接したらよいか考えさせられるような深みを持っていて、いやしかし、私にはこのタイトルがなにより重く響きます。ライナスが親友のチャーリー・ブラウンに問い掛ける、なぜなんだい、という言葉。いったいどうして、その人がそのような理不尽を抱え込まされなければならないんだという問い掛け。私たちは生きているうちに、いったいどれくらいこのような疑問を持つことでしょう。なぜ、この人が。なぜ、このような目に。なぜ?

理不尽は、人が生み出すものもあれば、人の知を超えたものもあり、そのような目に遭う友人を前にしたとき、私はなぜ以外の言葉を口に上すことができるかどうか。圧倒的現実に打ちひしがれるだけかも知れませんが、それでも励まし力づける言葉を発することができれば、その人の助けになれればどんなにかよいだろうと、そんな思いを巡らせます。

ビデオ

2006年2月15日水曜日

なんちゃってアーティスト

 『まんがタイムジャンボ』で連載されている真田ぽーりんの『なんちゃってアーティスト』がいよいよ最終回を迎えるとのことで、なんかしみじみと寂しさを感じてしまいます。とはいっても、作中ではすでに就職活動が佳境に入っていて、ああ、もうすぐ彼らも卒業なんだなという、そういう寂しさ、晴れ晴れとした寂しさ、うん寂しいんだけどなんか悲しさというよりも微笑みのともなうというようなそういう感じがしていたのです。だから最終回と聞いてもそれほどショックではなく、おひさまデザイン専門学校を卒業していく彼らを気持ちよく送りだすことができるのではないかと思います。

(画像は真田ぽーりん『必殺白木矢高校剣道部』第1巻)

以前にもいっていましたが真田ぽーりんは私の好きな漫画家のひとりで、むやみにエネルギーのある登場人物が見ていてほほ笑ましくて、『なんちゃってアーティスト』もそんな感じなんです。馬鹿でエネルギーにあふれた(持て余した?)男子たち、真面目で常識人の女子たち。そんなクラスの中、ヒロインのあかりは女子なのに男子的だなあ。ともあれ、未来のアーティストを目指して専門学校にて課題に取り組む彼らの頑張りは、たとえその方向性が間違ったものであったとしても気持ちよくて、楽しそうだなあって思えるものばかりでした。だから好きになった。そうですね。真田ぽーりんの漫画は、読んでいてすごく楽しそうなんです。出てくる人たちが生き生きとしていて、エネルギーにあふれています。

『なんちゃってアーティスト』が私の真田ぽーりん初遭遇で、面白いなあって思っていたものだから、書店で『ウチら陽気なシンデレラ』を見かけたときなどは瞬間に確保。どの漫画を見ても明るくて楽しくて健やかで伸びやかで大好きです。そんな私にとってすごく気持ちのいい漫画たちに出会うきっかけとなった『なんちゃってアーティスト』も終わる。……いつの間にか、そんなにも時間がたっていたのだなあとしみじみした思いが兆します。

その『なんちゃってアーティスト』ですが、単行本は出ないのだそうです。こうしてまた私には捨てることのできない雑誌の山が残されて、捨てるに忍びないのですよ。好きだったものがむざむざと消え去り、流れていくままになることが耐えられないのです。私は単行本購入は一票を投じるようなものだと考えているのですが、私の力は及ばなかったのだなと、こちらは悲しい思いで寂しさを感じています。

面白い漫画です。読めばその面白さは必ずわかると思います。だから、ここであきらめてしまいたくない。漫画の登場人物の前向きさを見習って、私は『なんちゃってアーティスト』にも以下続刊と続けたいと思います。この言葉は私にとって希望であり、作品に対する愛です。もっと広く読まれて欲しいという願いであります。

でも、今はまずはお疲れさま、そしてありがとうございました。晴れ晴れとした寂しさをともに、笑顔で送りだしたいと思います。

引用

2006年2月14日火曜日

ヤダモン

以前、出るといいながら全然リリースされる気配のない『ヤダモン』DVD-BOXの話をしていましたが、ここに朗報をお伝えします。出ます! 2006年の3月24日に『ヤダモン』DVD-BOXが出ます!

最初はキングから出ると案内されていたのですが、その後ジェネオン エンタテインメントに変更になったようですね。変更点は他にもありまして、一箱で全話、ではなくて、上下巻にわけてのリリースなのだそうです。聞いた話によりますと、第一巻は85話分を収録。ただし放送順ではなくて、一週間、五話でひとつの話を展開していましたが、まずはそれからのリリースなのだそうです。私としてはこの手法はちょっと疑問で、というのは一週間連続の話と十分一本完結の話に関わりがないというわけではないからです。ちゃんと流れがあるとすれば、その順番に見たいなあと思って、けどまあ、NHKの放送順からがむちゃくちゃだったからいいといえばいいんですけどね。

しかし、嬉しいじゃありませんか。一度は頓挫したかに見えた『ヤダモン』DVDが、なんとか発売にまでこぎ着けられたというのですから。あんまりに発売が伸ばし伸ばしにされるもんだから、権利でもめているだとか、原版が失われているだとか、さらには児ポ法(児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律)の絡みまで噂される始末で、一時はもう本当になにが本当やらわからないというような混乱状態でした。

ところが、それが販売元を違えてリリースされると案内されて、私は正直小躍りする思いで、以前のキングの頃から応援の意味も含め予約していたのですが、もちろんその予約はジェネオン版に持ち越し。購入することは間違いありません。

実をいいますと、私、『ヤダモン』は全話ビデオに録画しています。当時(今もか)、私はちょっと病的で、自分の好きななにかが流れて消え去るままになるというのが耐えられなくて、見ていたアニメのほとんどをビデオにとって残すというようなことをやっていたのですが、まあ、もちろんすべてではなくて、特に気に入ったやつを残すのが精いっぱいで、なかでも『ヤダモン』は苦労しました。なにが苦労するといってもその放送形態で、『ヤダモン』は月曜から金曜の帯番組ですから、それこそ毎日ある。で、私は毎日その時間にうちにいるわけじゃないんですよ。当たり前ですよね。当時はまだニートや引き籠もりはポピュラーではなかったんです。私もいろいろ出歩いていたんですよ。だけど『ヤダモン』は見たい。なので、古いビデオデッキまで動員して、これが二年続きました。なんで二年かというと、まあ『ヤダモン』に詳しい人なら説明するまでもなくご存知でしょうが、一年目には欠番があったんです。しかも、大河展開に入ってすぐに! だから、二年かけて録り続ける必要があった、とそういうわけなのです。

二台のビデオデッキで、それぞれに録ったものだからテープは実に整理されていなくて、新しいビデオデッキで録ったのはラベルが赤字で、古いビデオデッキの方は緑でラベリングされているから、まあ続けて見られないというわけでもないのですが、それでもやっぱり骨ですよ。それに、トラッキングがどうしてもあわない話も出てきていて、視聴に耐えないような回も存在して……。

だから、私はこのDVD発売を、本当に心から楽しみにしています!

VHS

CD

書籍

  • 面出明美『小説ヤダモン』上 ちいさな魔女がやってきた! (アニメージュ文庫) 東京:徳間書店,1992年。
  • 面出明美『小説ヤダモン』中 砂の迷宮 (アニメージュ文庫) 東京:徳間書店,1993年。
  • 面出明美『小説ヤダモン』下 地球の詩がきこえる (アニメージュ文庫) 東京:徳間書店,1993年。
  • SUEZEN『ヤダモン』前編 (アニメージュコミックス) 東京:徳間書店,1993年。
  • SUEZEN『ヤダモン』後編 (アニメージュコミックス) 東京:徳間書店,1994年。
  • ヤダモン』第1巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1992年。
  • ヤダモン』第2巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1992年。
  • ヤダモン』第3巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1993年。
  • ヤダモン』第4巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1993年。
  • ヤダモン』第5巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1993年。

2006年2月13日月曜日

かなり・ハッピー

 私が四コマ漫画について書くときは、大抵芳文社のコミックス発売日にだったりするわけで、そんなわけでこの人は芳文社のファンなんだなというと、実は双葉社のファンであったりもします。芳文社から出ている四コマ誌は『まんがタイム』の名が冠されていて(ホームというのもありますが)、双葉社はというと『まんがタウン』です。『まんがタウン』に連載されている漫画は、あまり派手さがないオーソドックスな四コマが中心で、そんなタウンの連載で私が結構気に入っているのが富永ゆかりです。

富永ゆかりの単行本『かなり・ハッピー』は本日発売です。そんなわけで、早速本屋にいって買ってまいりました。ええ、この日が来るのを結構前から楽しみにしていたのですよ。

富永ゆかりの漫画はどちらかというと派手さはなくアクロバティックでもなくというタイプに属するかと思うのです。基本的な登場人物はヒロインの三沢香実、かなりのライバルである須藤課長。あとはオフィスの同僚たちといったシンプルさで、けれどこの限定されたメンバー、シチュエーションでもってバリエーションのあるネタを展開するのですから、毎月毎月読むごとにたいしたものだと感心しているんです。定番ネタもそつなくこなし、時事流行も取り入れてその時々の旬を感じさせるのですね。絵柄も、今風ではないかも知れませんが可愛くて、必要なだけをさっぱりと描いているから見やすくわかりやすくテンポもいい。本当に毎月面白く新鮮に感じています。

堅実な作風といったらいいのでしょうか、作者に才能があるのは間違いないと思いますが、それよりも努力や工夫、日々の呻吟が感じられて、私にはすごく好感触。でも、苦労やしんどさがにじみだしているわけじゃあないんですよ。漫画はあくまでもさっぱりと清潔で、にこにこ笑っている明るさに満ちています。朗らかさと楽しさが嬉しくて、しかしこうして常に明るさを保っている人というのがその向こうに並々ならぬ努力を隠していることってあるでしょう。そういう感じがあるのです。けれど作者も漫画の登場人物も、誰一人、音をあげることもしなければ大変さをおくびにも出すこともない。私がこの漫画にひかれるのは、こうした清廉の心意気が気持ちいいからということもあると思うのです。

そうだ、まだ好きな理由がありますよ。この漫画は、どじなOLと厳しい課長というパターンを踏襲していますが、この二人の仲はむしろかなり良いのです。なんだか持ちつ持たれつ、戦友とでもいったらいいかな? 互いに互いを認めあっている、理解しあおうとしているような節があって、そういうところも気持ちがいいじゃありませんか。

晴天下の明るさ、洗い立てのシーツの気持ちよさに似た漫画なのであります。

  • 富永ゆかり『かなり・ハッピー』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。
  • 以下続刊

2006年2月12日日曜日

Gone The Rainbow

 またというかなんというか、『ときめきメモリアルONLINE』話になるのですが、だってしかたないじゃない、面白いんだから。と、なんで『ときメモ』からピーター・ポール&マリーが引っ張られてくるかというと、同じクラスの人と話しているうちに、PPMとか好き? って聴かれましてね、ここでいうppmとは濃度を測る単位ではございませんよ。アメリカのフォーク・グループです。ピーター・ヤーロウとノエル・ポール・ストゥーキー、そしてマリー・トラヴァーズによる三人組で、ギター二本を伴奏に歌われる音楽は、シンプルながらも素敵な世界を作り上げていた。日本のフォークミュージックに与えた影響は計り知れず、といいましてもこの人たちの活躍した時代は私の生まれる以前ですから、このへんの話は伝聞にしか過ぎないんですけどね。

私、以前にも何度もいってきたと思いますが、インターネットが発達してなにが嬉しかったというとネットラジオが利用できるということで、一時期はもうネットラジオを付けっぱなしするみたいにしていました。こうして文章を書くときにBGMとして流すんです。聴くのは決まってアメリカの放送局で、お気に入りはクラシックロックやフォーク、カントリー、トラディショナルを流す局なんですが、こういうところでPPMとかを耳にすることは実に多くて、まだギターをはじめる前ですね、すごく憧れたものでした。

ギターをはじめてからは、それまで以上にPPMの名は重要になってきまして、なにしろちょっと古いフォーク絡みの本やら情報やらに接すると、まず間違いなくPPMが出てくるんです。以前勤めていた図書館にはPPMの曲集があって、また別の場所でもPPMの譜が載っている古雑誌なんかもあったから、いや、職場のものだからもらっちゃいけません。雑誌の楽譜はコピーして確保して、曲集はいつかもしかしたら買おうなんて思って、たまには歌ったりなんかして、でもアレンジはギター二本でベースもついててそれで三声合唱だから、一人で歌うと寂しすぎる。誰か一緒に歌ってくれる人はおらんかのう、なんて思う瞬間ですよ(女声はマジで募集してます)。

で、うちにある楽譜というのが『虹と共に消えた恋』、『井戸端の女』そして『パフ(ザ・マジック・ドラゴン)』といった定番どころで、だから今回はタイトルをGone The Rainbowとしてみました。で、今回急にPPM熱が涌いてしまったから、コンプリートBOXとやらに手を出してみようか! なんて思ったりして、思わぬ出会いが新しい興味や発想を生んで、世界を広げ深めるきっかけとなります。もし今回のベータテストに応募してなかったこの出会いはなかったわけで……、オンラインの世界というのは常に有意義な場に変貌する可能性を秘めていると実感しました。人生なにがどう影響するかわからんですね。

2006年2月11日土曜日

ときめきメモリアルONLINE

 以前私は『ときめきメモリアルONLINE』を評してきっとものすごい勢いで飽きるだろうななどといっていました。ですがここに誤りを告白し、前言を撤回します。『ときめきメモリアルONLINE』、やってみたらめちゃくちゃ面白いんですよ。クラブにも出ずドラマイベントにも参加せず、ただただクイズをやっているだけだというのに、それがなんでこんなに面白いんでしょう。クイズの正答率が出るから? いや、違いますね。それなら、今までクイズゲームにはまらなかった理由がつきません。面白いのはですね、間違いなく人です。同じクラスの生徒同士で、授業の合間にいろいろな話をするのですよ。それがもうどうしようもなく楽しいんです。実質はチャットに過ぎないのですが、そのチャットがキャラクターを介するだけで、全然違った面白さになります。みんなで輪を作ってべんとらーべんとらーっていったり、じゃなくて、自己紹介をしてみたり、イベントを自分たちで作ってそれが楽しいのですよ。

まだサービスのはじまっていない『ときメモONLINE』ですが、じゃあなぜ私がその『ときメモONLINE』について書けるのかというと、実はベータテストに応募したからんですね。現在、正式公開に向けてチューニングされている『ときメモONLINE』を一足先に遊んでいるわけです。

で、何度も繰り返しになりますが、面白いのです。授業は十五分ごとに開始されて、全十問の丸バツor四択クイズ形式。楽勝の問題もあれば理解不能の問題もあって、数学ちんぷんかんぷん。絶対値なんてやったっけかなあ。|5|なんて書いてあって、これなに!? そうしたら絶対値って教えてもらえました(授業中、私語オッケーです)。で、絶対値を『広辞苑』&『新辞林』で今確認して見てるんですが、はっきりいいまして、その辞書項目自体が意味不明ですから。と、そんなわけで私の苦手は体育と数学です。

反対に得意なのはなにかというと、国語、芸術、家庭科ですね。そう、家庭科は実際にも得意でした。でも、自分の学生時代には男女別で技術/家庭に振り分けられたので、結局技術をやることになって、まあ技術も好きだったからいいや。あれ? 高校って技術とか家庭科とかってないよね。あれ? あったっけ?

結局クイズは雑学王決定戦になるんですが、意外に馬鹿にできないのが外国語で、思いっきり和訳問題とか穴埋め題とかが出ます。苦手だったなあ、英語。いや、今も苦手ですけど。で、この穴埋めしたり、単語の意味を答えさせられたりするのは役に立ちますね。欠落している知識を埋めることにもなって、真面目に復習しようかという気持ちにもなるんですから、人生間違っています。だってさ、本当の学生時代に復習を欠かさなかったらね、今みたいな偏った知識、穴だらけの知識とはグッド・バイできてたはずなんですよ。それを今になって復習しようか、しかもそれゲームですからって、本当に人生間違えています。

でも、そう思うくらい楽しい。さらに、友達といっていいのかな、ゲーム上の顔見知りもできましてね、オンラインゲームって人間関係とかで難しいんじゃないかと怖れていた私にはすごくあたたかでいい雰囲気で、居心地がいいものだからずるずるとログオフせぬまま時間が過ぎて、もうはまりまくっています。この手の文化にちょっとでも理解がありそうな人を見たら、面白いですよ、正式リリースしたら参加しましょうよなんて誘って、それで自分が参加を見送ったら最悪やな。いやいや、私、今のペースだと、多分正式サービスが始まっても残留すると思います。

ただ、その際に、今のキャラクターを持ち越せなかったら悲しいですね。今はまだ数日だけしか遊んでいないのに、これだけ愛着というのは涌くのです。結局はパーツとパラメータの組み合わせにすぎないというのに、こんなにも大切に思う。いやあ、自分でも意外でしたよ。

コナミさん。持ち越せるようにどうかお願いします。アイテムロスト、パラメータリセットでかまいませんから!

引用

2006年2月10日金曜日

ナースエンジェルりりかSOS

 昔、テレビアニメと少女誌掲載漫画の蜜月といえるような時期がありまして、『姫ちゃんのリボン』やら『赤ずきんチャチャ』やら『ママレード・ボーイ』やら、次々とアニメ原作として少女漫画が投入されて、人気を博して、それなりに話題になったものでした。『ナースエンジェルりりかSOS』はそんな時期が終わろうとする頃に登場したアニメで、原作がかの秋元康であるというところが異色。これ、当時の少女漫画原作アニメがメディアミックスでぱあっと花開いたのに気を良くして、じゃあいっちょう大きくメディアミックスをぶち上げてみようという感じで出てきたものみたいです。だから原作は秋元康。でも、本当にどこまで原作に関わっているのかはわかりません。

私は当時、集英社の少女漫画誌『りぼん』を読んでいたのですが、だから『ナースエンジェルりりかSOS』が出てきたときには目を疑いました。池野恋のあまりにも長かった連載『ときめきトゥナイト』が終わって、そして『ナースエンジェルりりかSOS』がはじまる。私、この設定を見て頭抱えたのですよ。いや、いいんですよ。看護師というのは昔から少女の憧れの職業でありますし、変身して悪と戦うヒロインというのも『セーラームーン』以後はもはやスタンダードです。でも、ナースエンジェルだけはもう駄目だと思った。惑星『ジャ……ゲフン、ゲフン。

『セーラームーン』はセーラー服の戦うヒロイン。その後、ウェディングドレスの戦うヒロインがあって、そしてついに今度はナースか……。私はこの時点で食傷気味で、加えて池野恋の連載を読んで、かつての『ときめきトゥナイト』を知るものとして悲しくもあったわけで、そこでなんで秋元康を引っさげてナースなんだ。もう勘弁して欲しいなんて思ったのは実際のところ本心でした。

でも、アニメの第一話を見たとき、私は自分の認識の甘さを思い知ったのでした。弦楽を主体とした音楽のクオリティは高く、BGMにぴたりと重なり合うようにシンクロする動画も出色でした。物語の開始としてはまさに最高の出来。学園前に止まった黒塗りの車を出迎えんとずらりと並んだ少女たちの制服の裾が風に揺れる、その細部にまで精神が通うかのような計算され尽くした演出は見ていてため息が出ました。素晴らしいと思った。これはミラクルであると食い入るように見たことを覚えています。

でも、二話目からは普通のアニメになっちゃうんですけどね。第一話のあのクオリティはどうしたんだと落胆はあまりに酷く、結局安易なメディアミックス戦略なんてこの程度のものかと消沈しました。けれど、いつかあのクオリティが戻るのではないかと、心待ちに待って待って、でも途中からは、今見ているのはあの第一話とは違うアニメなんだと思うことで納得したのです。

そう考え直してからはずいぶん気が楽になって、それはそれなりに楽しめました。けど、サントラの一枚目は持っているのに、どうもサントラ二枚目は持っていないところを見ると、もうこの時期にはアニメにつかれてきていたのか、あるいはあんまりにショックが大きすぎたのか、でもそのあたりのことは思い出せません。

夏あたりの回で、りりかのことを好きな少年宇崎星夜がウクレレを手にセレナード歌うのですが、このセレナードが私は好きで、コピーしたいなあなんて思ったりもするんですが、ビデオを掘り起こすのも骨なので果たされることはないのではないかと思います。でも、もしサントラ二枚目に入っていたら悲しいななんて思ったりもしたのですが、どうやら入っていなかったようでちょっと安心。でも、『ナースエンジェルりりかSOS』の音楽は本当によくできていたので、サントラをちゃんと買わなかったのはちょっと惜しかったなんて思っています。

そうそう、原作では星夜クンがすごくけなげで可愛いんですよね。一押しです。

2006年2月9日木曜日

委員長お手をどうぞ

  多分、学生時分っていうのは、なんでもできそうなことに挑戦してみて、とにかく試してみる期間なんじゃないかと思うんですね。と、なんでいきなりこんなこというかというと、私は学生時代を多分あんまり正しくないやり方で過ごしてしまって、高校までは、クラブに出たのはまだよいとしても、あとはもう本読んで終わったようなもので、大学となると、授業に出て、レポート書いて、テスト受けて、練習して、もうそれだけだったような気がするんです。学生時分にしかできないということは確かにあるのですが、私はそのほとんどをやらないままに終わってしまって、特に大学がそう。勉強だけして終わっちゃったな、本当にそんな感じなのです。

突然そんなことをいいだしたのはなんでなのかといいますと、学生時分を追体験できるオンラインゲームというのがありましてね、そのベータテストに応募してみたのですが、本当に面白いんだろうかという予想をはるかに上回る面白さで、なに、することといったら、授業と名を借りたクイズと、授業の合間の休みにクラスメイトとするおしゃべりくらいで、いや、他にもクラブ活動とかあるのですが、今はまだクラスが楽しいのでクラブ活動まで手が回りません。

教室という閉じた世界で、はじめて知りあった人たちとぺちゃくちゃおしゃべりして、けどこれってオンラインならではなんでしょうか。私が中学高校生だったころ、教室のあの閉鎖感覚はすごく嫌いで、早く授業終わらないかなあとばかり思っていて、外に出て行くと素行不良だから、本の世界に逃げていた。後ろ向きな青春だったなとちょっと反省しました。

山名沢湖の『委員長お手をどうぞ』は、いろいろな委員長が出てくる漫画で、美化委員長やら風紀委員長やら、でも中には牛乳委員長なんてよくわからないのもあります(もし存在していたらごめんなさい)。委員長たちは、仕事はそれぞれ違えど、自分の本分である委員会の仕事に一生懸命で、その全力投球ぶりがすごくほのぼのとして楽しいんですよ。なにしろ描いているのが山名沢湖だから独特のふわふわタッチで、現実よりも甘くふうわりとした印象は強いのですが、でも、それでももし自分も学生時分に一生懸命全力投球してたら人生ははるかに違ったかも知れない、なんて思います。

でも、もう遅いんですけどね。でも、私は人生にもう遅いなんてことはないとも思うんです。取り返すことはできないし、やり直しも無理だろうけど、けど今を一生懸命に取り組めば、これからの人生が変わるはずだと思うのです。

ゲームやってて反省しているようじゃ駄目ですよね。でも、なんか楽しかったのですよ。そしてその楽しさをどこかで感じたことがあると思っていたら、『委員長お手をどうぞ』を読んだときの印象がそうで……、だからもし学生時分にやり残したことがあるなんて思っている人がいたら、ゲームででも漫画ででもいいから、ちょっとやり直し気分を味わって、リフレッシュしたら現実の今に向かって全力投球するのがいいんじゃないかと思います。

ええ、私は本当にそんな気分なんです。ゲームは一日一時間、漫画もちょっとは我慢して、人生生き切ってみせますよお。

余談

ちなみに、私は高校三年間を通して選挙管理委員をやってました。あれ、楽なんだ!

2006年2月8日水曜日

Scarborough Faire

  最近、ちょっと『スカボロー・フェア』について調べていまして、というのもこの曲はいつか歌ってみたいなあと、そういう理由からなんですが、サイモン&ガーファンクルによる歌唱で世界的に知られるようになったこの歌、実をいいますとイギリスの民謡なのです。パブリック・ドメイン万歳! というわけで『スカボロー・フェア』でもないのですが、なにしろここ数年の私のはやりは民謡でありまして、で、民謡のなにが面白いかというとバリアントなんですね。以前Cruel Sisterの回でも書いていましたが、民謡はその伝承過程で歌詞も違えばメロディも違う発展を遂げることがありまして、『スカボロー・フェア』においてもそれは同じなのです。

バリアント求めてインターネットの旅。そうして見つけた収穫は歌詞のみにあらず、Brobdingnagian Bardsという素晴らしいグループに出会うことができました。

Brobdingnagian Bardsの歌う『スカボロー・フェア』は、メロディは有名な『スカボロー・フェア』に似て、けれどその歌詞はずいぶんと違います。第一バース、第二バースはほぼ変わらず、ですがその後に連なる歌の世界よ! 長い! とにかく歌詞の分量が違う。以前いっていたマーティン・カーシーの『スカボロー・フェア』やその直系であるS & Gのものよりも長く歌われるその歌は明らかにひとつの物語をなしていて、そして歌われ方もずいぶんと違う。力強い三拍子。野太く荒々しい声。まるで私の知っている『スカボロー・フェア』と違うのです。しびれました。日本で聴くことのできる『スカボロー・フェア』のルーツは明らかにS & Gで、静かに幻想的に伸びやかに歌われ、演奏されるものが大半ですが、しかしBrobdingnagian BardsのScarborough Faireはそれらとは違う流れを汲んでいるのでしょう。

私はこうした多様さに民謡の奥深さを感じます。ひとつの正解に収斂することのない、開かれた世界! なんて素晴らしいのだろうと感極まる思いですよ。

以下サイモン&ガーファンクル

2006年2月7日火曜日

エレファント・マン

  なんだか今日は疲れたような気持ちで、なんだろう、傷ついてるみたいなんですね。今月、出歩いたりする機会が多かったものだから、そうした疲れでもたまっているのでしょう。なんだかメランコリックで、感傷的というやつです。寝れば治るでしょう。

こういうときはなにが困るといってもネタがでないんです。対象を引っ張り出すことができず、その上で文章を引っ張り出すことができない。でも書くことはもはや日課だから、書かないという選択もなく、ぼーっとしていたときにふと脳裏に浮かんだのは、イギリス人ジョン・メリックの物語『エレファント・マン』でした。

私が『エレファント・マン』という映画があることを知ったのは小学生の時分で、確か同級のやんちゃ坊主だったかがこの映画を見てきたとでもいうのでしょうか、エレファント・マン、エレファント・マンとうるさくて、彼の言動からは象人間というのが出てくるおどろおどろしい特撮映画らしいと、そういう雰囲気を感じ取っていたのでした。

私がこの映画を見たのはNHK BSでだったから、少なくとも高校生、あるいは大学に通っていた頃でしょう。ざらざらとしたモノクロの映画で、そこに出てくるのは象と人間の合成された半人半獣などではなく、紛れもない人間で、しかしその外観に畸形をともなっていたために非人間的な扱いを受けてきたという、あんまりにも悲しい映画でした。

映画でも触れられていることですが、エレファント・マンの物語は実話です。十九世紀のイギリス人ジョン・メリックという人がその人で、これが十九世紀の話ではなく現代であればどうだったのだろうかと思うことがあります。私たちはもちろん容貌だけをもって人を判断することの愚を知っていますし、十九世紀人よりも進んだ人権感覚も持っています。しかし外貌に対する肥大した意識を捨て去ることもまたできずにいるようで、それは、私自身を省みても明らかです。私は見た目というものにとらわれるべきでないと強く自分に言い聞かせるようにしながらも、しかしそう言い聞かせなければならないほど視覚に左右されます。私がもしエレファント・マンジョン・メリック氏を眼前にしたら、果たして手を差し伸べるのか。嫌悪する感情を表面的に取り繕って人間味あふれる態度でもって応えるのか。あるいは、あからさまに避けようとするだろうか。私は手を差し伸べる人であればよいと願いますが、いいところ第二番目の態度が関の山なのではないかと思います。

映画にはジョン・メリック氏に対し人間的態度で接する人が出てきます。それはおそらく、現実のメリック氏の人生においてもそうだったのでしょう。そうした、対応する相手によって態度を変えることのない人間というのは自然であり、そういう人こそが普通当然なのだなと思います。ですが現実的には、なにか素晴らしい人格者のようにいわれたりすることもあって、しかしそれはあまりにも失礼な評価です。メリック氏には憐れみをかけられるようないわれはなく、普通に相対する人がいたとしたら、それが当たり前なのですから。

しかし、こうして口ではいいことをいう私が当事者なら、いったいどのような態度を示すでしょうか。人間というのはいざとなれば豹変するものです。

人は見た目が9割』という本が話題書として取り上げられたりして、この本はもちろんそうした外観による偏見とかを助長するような本ではないのですが、あんまりに戦略的なタイトルのために誤解過大視されている節も見受けられます。この書名のような標語めいたものを持ち出して見た目の重要性を説いて、結局美醜の問題になだれ込むのだとしたら、人間が持つという理性というのもたいしたものではありません。中学の時のクラスメイトの女の子が、不良というレッテル張りをされるので気の毒でした。背が高くちょっと顔立ちが派手な子で、生まれつき髪が赤かったのですが、本当はおとなしい女の子だったんですけどね。ユニークフェイスというNPOもあります。

『人は見た目が9割』という本のタイトルだけが独り歩きし、ユニークフェイスというNPOが必要とされるという現実は、私にはちょっと悲しい。メランコリックを加速させます。

2006年2月6日月曜日

秘密の花園

昨年九月に、突如思い立って読みたくなった『秘密の花園』。その後無事手にすることができて、私が選んだのはというと、偕成社から出ている上下二分冊の版でした。なぜ偕成社なのかというと、児童書を数多く手がける出版社として知られていること、完訳と謳われていること。それに、そもそも、私はこの出版社好きなのです。堅実な感じがするし、ここのを選んで失敗したと思うこともない。偕成社ならめったなことはないだろう。

ずっと以前の話ですが、『ふしぎの国のアリス』で落丁があったとき、取り換えてくれろと出版社に送ったらば、おわびの手紙に添えてノンタンの絵はがきが数枚届けられて、私はいたく心動かされました。この出版社は読者を大切にしてるなと思いましたよ。よりいっそう好きになったと感じた瞬間だったのです。

さて、『秘密の花園』を読んでみてわかったこと。まずは、この翻訳は子供時分に私が読んだものとは違うというものでした。そして、想像していた以上に物語の中で経つ時間が速いということ。メアリがムアに囲まれたミッセルスワイト屋敷にやってきてからというもの、花園を見つけ、ディコンと出会い、そしてコリンの部屋に迷い込んで、そして、そして、魔法が彼ら彼女らを健やかに育むまでの時間はあまりに短く飛ぶように過ぎて、まるで読者である私もが息せききってかけているかのように感じられるほどに急進的に物語は進んでいくのですね。

この物語で語られることは、世の中は魔法に満ちているということで、そのことに気付きさえすれば人は健やかに暮らすことができるということなのです。ふさぎ込んで、ひねくれているのは、よい考えや素晴らしい思いつきに対し心を閉ざしているからなのだと、まさかこれだけ年を経てなお反省させられることがあるとは思いもしませんでした。それに反省だけではないのですね。私は思いの外感銘を受けて、この物語があまりによくできていて、多分に理想的であることも理解しながら、そこにとどまることがありませんでした。メアリが、コリンが、自然に触れて変わっていくというその様は、暗くよどんだ心の闇をはらい、ついに希望を勝ち取るというそのプロセスは、胸にこんこんと流れこむ気持ちのよい清流のようになって、私のかたくなさを洗ったのでした。

児童文学は子供のものでありますが、同時に大人のものであると思います。私はこの話を、誰か子供に読んで聞かせたいという気持ちにいっぱいになって、それはこうした素晴らしい物語があるということを広く知らしめたいという思いもあらば、また私の胸に兆した暖かい光に似た感情を誰かと分かち合いたいという気持ちもあるからでしょう。

  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』上 茅野美ど里 (偕成社文庫) 東京:偕成社,1989年。
  • バーネット,フランシス・ホジソン『秘密の花園』下 茅野美ど里 (偕成社文庫) 東京:偕成社,1989年。

2006年2月5日日曜日

新釈ファンタジー絵巻

 昨日は『まんがタイムジャンボ』の発売日。ですが、いつものコンビニに見つけることができず、こうなるとあちらのコンビニ、こちらの書店を探さなければならなくて骨が折れます。運良く、ライブ会場近くのコンビニに発見することができて事無きを得ましたが、もしそれで見つからなかったら、今日は原付ドライブとしゃれ込むつもりでした。置いている書店に心当たりがあるんですね。そこでも見つからなければ次は大阪十三に出ると。しかし、四コマ漫画誌を読むだけでも一苦労ですね。

六件めぐってようやく入手できてまずはめでたし、よかったよかった。で、ジャンボ今月号では先日発売された『新釈ファンタジー絵巻』が大プッシュされていまして、というのも『新釈ファンタジー絵巻』の掲載誌がジャンボだからなのですが、巻末近くに載っていた『ファンタジー絵巻』広告のアオリを見たときは我が目を疑いました。この、超〜かわいい表紙が目印だよ! ぎゃあ、これって私がつい先日いっていた余談そのままじゃないですか! いや、本当に参りました。

で、ジャンボ今月号では単行本発売を祝してカラーページ(二色)で登場です。祝祭的雰囲気に包まれて、いつもの連載からしたらちょっとイレギュラーな感じではありますが、こういうのもまた楽しくていいですね。でも楽しい時間はすぐ終わっちゃう。そうなんですね。そして、私が以前いい足りないといっていたことというのは、この終わってしまうということだったのでした。

『新釈ファンタジー絵巻』は、物語が終わりをすでに内包しているのです。月からきたかぐやが帰ってしまえば終わり。かぐやを育てているおじいさま、おばあさまが天寿を全うしても終わります。作者もこのことはわかっていて、そして読者もわかっていて、さらにいえば登場人物にしても気付いているのです。いつかかぐやが帰る日がくる。それをなんとか先延ばしにしたいと思う人たちがいて、けれどいつかは離れなければならないこともわかっていて、この切なさがあるゆえに、この漫画の楽しさというのが際立っているのかも知れないと思うことがあります。

今更いうまでもないことでありますが、すべてのものは有限です。漫画はいつか終わりますし、出会ったものは別れますし、生まれたものもいつか死にます。すべてはうちに終わりをはらんで、そのことを私たちは知っているから、弱気になったり刹那的になったりもするのですが、ですがもしこの悲しい現実を直視することができれば、その時々、一瞬一瞬がかけがえのないものと感じられるだろうと思います。

と、私はこの楽しい漫画を読みながら、こういう悲しいことを思っていたりするのです。悲しさの感じられるからこそ、漫画の中の暖かさや楽しさをいとおしくも思うのですが、ですが今月のジャンボでは、こんな弱気な私に向けた答えとなるような話が展開されて、だから私は本当に嬉しく思いました。季節がめぐるように、すべてはめぐるのだと、それさえわかっていればきっと大丈夫、なにも怖がったりすることはないのだと思ったのでした。

引用

  • まんがタイムジャンボ』第12巻第3号(2006年3月号),199頁。
  • ナントカ「新釈ファンタジー絵巻」『まんがタイムジャンボ』第12巻第3号(2006年3月号),214頁。

2006年2月4日土曜日

『フルハウス』セカンド・シーズン

 おとついの夜、たのみこむからのメールを受け取り、『フルハウス』セカンド・シーズンのBOXを明日発送しますぜという内容。たのみこむで買うと支払いは代引きを選ぶことになるので、早速お金を用意して、しかし物入りだなあ。いや、『フルハウス』の代金を支払うのを惜しんでいるのではないのです。そうではなくて、なんでかこのひと月ほど、あれやこれやと出費することが多くて、節約しないといけないなんて思っているんです。ですが、『フルハウス』のDVDがくるとなればそんなことはいっておられないわけで、そういえば本国ではサード・シーズンのDVD発売がアナウンスされているそうですね。ああ、そうなれば日本版も直きでしょう。もちろん発売が決まった瞬間に注文する気満々でいます。

DVDの受け取りは昨日でしたが、昨夜は思わぬ出会いがあったものですから見る暇を持てず、なので今日ようやく見ることができたんですね。私、いつも見始める前は、一話だけと心に決めているのですが、なにしろ意志が弱いものだから、結局DVD一枚に収録されている分全部を見ないでは気が済まないんです。『フルハウス』のDVD-BOXは四枚組だから、つまり全部見るのに四日かかるというわけです。いや、時間さえ許せば一日二日で見終わりそうな勢いなんですが、『フルハウス』漬けというのもなんですし、なにしろもったいないです。楽しい時間は長く続いて欲しいものじゃありませんか。

『フルハウス』のセカンド・シーズンにはなんとビーチボーイズがゲスト出演しましてね、この回も実に面白く楽しく見ることができました。ジェシーが自分の夢に向かっていよいよ歩みだすというこのシーズンをとおして描かれるテーマも少し絡んで、しかしそれだけじゃないんですね。ビーチボーイズのステージ、そして観客の熱狂も収録されて、すごく広がりのある話でした。

で、ここからちょっとネタバレだから気にする人は読むのをやめていただくとして、ジェシーと組んで曲作りに取り組んでいるジョーイがですよ、ステージ上でビーチボーイズメンバーのポケットにデモテープをこっそり入れているんですよ。この場面を見たとき、私ははっきりいって我が目を疑いました。事前に打ち合わせしてたんでしょうか。あのシーンは正直本編から離れたおまけ、ボーナスみたいなつもりでいたから、本当に驚いて、しかも曲を終えた後に深々とお辞儀した時、胸ポケットからカセットテープがこぼれ落ちている。慌ててそれを拾ってというところもちゃんと録られていて、いくらなんでもこれはハプニングでしょう。けど、こうしたたまたま収録されてけれどあえて語られてない伏線みたいなのがあるというのは面白く、なんかわくわくさせるものがあります。

しかしですよ。タナー一家がステージ上から呼ばれたあのとき、あたかもあのファミリーが本当の家族のような気分がしたんですよね。これはきっとアメリカの視聴者も同じように感じたんじゃないでしょうか。日本の視聴者もきっとそうでしょう。

なんか、こういう虚実がクロスするところに、本来虚であるはずのものが事実のように見えてくる。すごく不思議な気持ちで、そしてこの不思議さはとても嬉しいものです。あの家族を実在のもののように感じている、そんな気持ちを自覚できる瞬間でした。

2006年2月3日金曜日

新釈ファンタジー絵巻

 私は今日という日を待ちに待って、それは二ヶ月前、いや、おととしの暮れ、否それよりも以前のこと、まだ『まんがタイムポップ』が発行されていた頃にまでさかのぼれるのではないかと思います。私の好きな漫画家、好きな漫画がようやく単行本にまとめられるということになって、今日がその発売日なのでした。その漫画家とはナントカ、その漫画とは『新釈ファンタジー絵巻』です。竹取物語に取材した漫画でありまして、月から地球にやってきたうさ耳宇宙人の女の子かぐやがおじいさま、おばあさまに大切に育てられるという、家族愛も優しく暖かい、本当に素敵な漫画であります。だもんだから、単行本化の告知を講読する雑誌に見つけたときには思わず声を上げてしまうほどに喜んだものでした。

基本的にはシンプルな漫画です。四コマ誌に連載の四コマ漫画で、主要登場人物はかぐやとおじいさま、おばあさま。そしてお友達や月のご両親がたまに出てくる。その誰もがかぐやを愛しているというのが読んでいて伝わってくるほどで、こういう慈しみというのは素晴らしいなと思います。

けど、これだけなら、多分、単行本化を焦がれるように待ちわびるほどではなかったかも知れません。ええ、ナントカのよさはこうした情愛を描くだけにとどまらず、少々ブラックでシニカルさもともなっているところにあるのだと思います。シニカルといっても多少です。けど、その多少がいいあんばいに利いているから、面白く、楽しい。扱うネタも手広く、ベースは竹取物語だから日本昔話を基軸としているのですが、西洋の童話やSF、今現在に通ずる時事ネタまで縦横無尽。その多様をひとつの世界観でまとめて破綻しているように感じさせないのだから、本当にいい調理加減だと思います。

けど、六年はちょっと長すぎましたね。単行本を出すにあたり、すべてを収録するより編集を加えたほうがよいとの判断があったのでしょう。ところどころに抜けがあるのが残念で、これは四コマの単行本なら珍しくないことでありますが、それでも少し残念に感じました。きっとこの本がじゃんじゃん売れれば、すぐにでも第二巻をということになって、未収録話も出るようなことになるかも知れないと思って、私は、おう店主、この店にある『新釈ファンタジー絵巻』ぜんぶいただこうか、とかやろうとまで思い詰めたのですが果たせませんでした。アメリカ映画で思いがけない大金を手にした若者がやるみたいに、書店の入り口で、道行く人に単行本を大盤振る舞い、配ってまわるような真似をしてみたかったのですが、しょせん私は小市民、夢のまた夢です。

けど、本当はそんな馬鹿な買い方で売り上げが水増しされるよりも、この漫画を書店で見つけた人が、おっ、面白そうだと思って買ってくれたほうがいいんです。それで、面白かったよと友達に話してくれるような、そんな風になったらどんなにか嬉しいだろうかと思います。

私には夢があります。もし、なんかの間違いで年収三億みたいなことになったら、小さな書店を起こして、目立たないながらもよい漫画を全集にして出版したい。『ナントカ全集』みたいなのをやりたい。これも、また夢でしょうか。でも、埋もれながら消え去るばかりというのは寂しく悲しいことで、だからやっぱり人目に触れて欲しい。

私にとってナントカは、そうした漫画家のひとりであるのですね。そして、ようやくその機会が訪れて、この漫画が多くの人に愛されるようになれば嬉しいなと思うんです。

余談

フェルトで表現された表紙のかぐやが超可愛いですね。いや、うまいこと回避されたとひざを打つ思いで、けどそう思った以上に素敵な装幀だと思いました。

余談2

実はまだ書き足りない。2011年辛卯まで待つか、あるいはそれ以前に書いちまうか? ああ、2011年はあまりに遠すぎます!

2006年2月2日木曜日

DEATH NOTE

   以前にも取り上げました『DEATH NOTE』ですが、巻を重ねるごとに、だんだん乱暴なネタも増えてきたなという感じが強くなってきて、いや、なにしろ連載が『週間少年ジャンプ』ですから、あんまりきちきちのきわどい線をつく必要はないとも思うのですが、それにしてもちょっとなんか無茶すぎるというか、例えていえば、かつての巨大ロボットアニメで見たような荒唐無稽な感覚を強めてしまった。ほら、マジンガーZの最終回ですよ。マジンガーがめちゃくちゃにやられてしまって、すわ地球の平和はどうなるといったその時、あたかもこの見せ場を待っていたとばかりにあらわれるグレートマジンガー! おいおい、だったら最初から出しとけよ!

最近の『DEATH NOTE』からはそうした空気も感じられるような気がしないでもなく、ちょっと受け入れにくいなと思ったこともあったのでした。

でも、そんなことをいいながらも最新刊が出れば、嬉々として買って読むんですから私もいい加減なもんです。そんな私のこのところの楽しみはというと、日本警察内部における人間関係。そう、キャラ萌えでございますな。なんといったらよいか、伊出氏をめぐる人間模様がなかなかにいい感じなのではないかと思ったりするのであります。

伊出氏、真面目一辺倒の堅物、クールで感情をあらわにすることのほとんどない彼です。ところがその彼が、相沢氏にだけはいうのですよ! ああ、でも今日発売の本から引用するのはやめておきます。ですが、いうのですよ! あれは絶対フラグ立ってますって。

伊出氏、真面目一辺倒の堅物、クールで感情をあらわにすることのほとんどない彼です。ですが、その堅物であるがゆえに松田氏にからかわれてしまうのですよ! 普段はあんなにも冷静な伊出氏が、あんなにもむきになって! あんなにも取り乱して!

そんなわけで、目下私のお気に入りは伊出氏という話でした。ところで、これは余談なのですが、私の初期におけるお気に入りレイ・ペンバー氏は、あっという間に死んでしまいました。

ということは、次はもしかして!?

  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第1巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第2巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第3巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第4巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第5巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第6巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第7巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第8巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第9巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2005年。
  • 大場つぐみ,小畑健『DEATH NOTE』第10巻 (ジャンプ・コミックス) 東京:集英社,2006年。
  • 以下続刊

2006年2月1日水曜日

カントリー・ギター・ライン

 今日は、アストリアス研究家の清水さんとお会いする機会がありまして、京都のきんこう楽器にいったのでした。なぜ楽器店なのかというと、アストリアスギターの試奏をしたいからというのが理由でして、実はこれが私にとってははじめての試奏。ボディや材が変わればこんなに違うのだなということを知ることができて、本当によい時間を過ごすことができました。で、弾くだけ弾いて帰るのもなんだから、なんか買って帰ろう。でも、ギターはなにぶん高い買い物ですから、これくださいなんていうわけにはいかない。だから楽譜買って帰ろう。置かれてある楽譜を一通り見て、私の興味を引いたのがこの『カントリー・ギター・ライン』。正月に今年はブルースをやるぞとかいっといてカントリーかよ、てなもんですが、私というのは基本的に行き当たりばったりの人生ですから、その時々で考えも目標も変わるんですね。

『カントリー・ギター・ライン』というのはどういう本かというと、カントリースタイルでよく使われるフレーズを五十収録した本で、これらを覚えてアドリブやターンアラウンド(ってカントリーでもそういうのかな?)に生かしましょうという本です。けれどこういうフレーズ集というのは馬鹿にできなくて、しっかり弾いて指に覚えさせておけば、いざというときに役立ってくれたりするもんなんです。本当は曲のレパートリーからフレーズを抜きだせるようになればいいのですが、たくさん曲をさらうというのも骨ですから、そういうときにはこういうフレーズ集が力になってくれるんですね。

この本には、課題なんてページがあって、C majorないしA minorで書かれているフレーズを他のキーに移調してみましょうとか、発音のタイミングを変化させてみましょうとか、オクターブずらして弾いてみましょうとか、そんな課題が七つほどあって、実際こうしたアプローチは有効だろうなと思います。で、このフレーズ集は単音弾きのリードギターを対象としているから、バンドでやっているわけではない私にはこのままではあんまり勉強にならない。だから、最終的には伴奏をつけられたらいいなと思うんですよ。オルタネイトでもいいしモノトニックでもいいし、まずはベース音を入れてみて、余裕があればコードトーンも入れてみて、まあ今すぐになんでもやってみるんじゃなくて、長いスパンで練習していけばいいかな、なんて思っています。

で、伴奏付けというかソロギターの練習になるようにと思って、『フィンガーピッキングギターチューン』というのも買いました。これについても、またいつか書くことがあるんじゃないかと思います。

あ、そうじゃ、ひとこと書いておかないといけない。『カントリー・ギター・ライン』の楽譜はえらく不思議な印刷がされていて、いや、表記は実にオーソドックス、普通の五線にタブ譜がついているんですが、向きが問題なんです。普通、本を開くと左から右に楽譜はあるもんですが、この本は右ページを下に九十度回して見るようになっているんです。ええ、横向きに印刷されているんですね。いったいどうやって譜面台に立てたらいいのか……。コピーするか、あるいは机において弾くか、とにかくそのまんまじゃ使いにくい本だと思います。