2006年2月7日火曜日

エレファント・マン

  なんだか今日は疲れたような気持ちで、なんだろう、傷ついてるみたいなんですね。今月、出歩いたりする機会が多かったものだから、そうした疲れでもたまっているのでしょう。なんだかメランコリックで、感傷的というやつです。寝れば治るでしょう。

こういうときはなにが困るといってもネタがでないんです。対象を引っ張り出すことができず、その上で文章を引っ張り出すことができない。でも書くことはもはや日課だから、書かないという選択もなく、ぼーっとしていたときにふと脳裏に浮かんだのは、イギリス人ジョン・メリックの物語『エレファント・マン』でした。

私が『エレファント・マン』という映画があることを知ったのは小学生の時分で、確か同級のやんちゃ坊主だったかがこの映画を見てきたとでもいうのでしょうか、エレファント・マン、エレファント・マンとうるさくて、彼の言動からは象人間というのが出てくるおどろおどろしい特撮映画らしいと、そういう雰囲気を感じ取っていたのでした。

私がこの映画を見たのはNHK BSでだったから、少なくとも高校生、あるいは大学に通っていた頃でしょう。ざらざらとしたモノクロの映画で、そこに出てくるのは象と人間の合成された半人半獣などではなく、紛れもない人間で、しかしその外観に畸形をともなっていたために非人間的な扱いを受けてきたという、あんまりにも悲しい映画でした。

映画でも触れられていることですが、エレファント・マンの物語は実話です。十九世紀のイギリス人ジョン・メリックという人がその人で、これが十九世紀の話ではなく現代であればどうだったのだろうかと思うことがあります。私たちはもちろん容貌だけをもって人を判断することの愚を知っていますし、十九世紀人よりも進んだ人権感覚も持っています。しかし外貌に対する肥大した意識を捨て去ることもまたできずにいるようで、それは、私自身を省みても明らかです。私は見た目というものにとらわれるべきでないと強く自分に言い聞かせるようにしながらも、しかしそう言い聞かせなければならないほど視覚に左右されます。私がもしエレファント・マンジョン・メリック氏を眼前にしたら、果たして手を差し伸べるのか。嫌悪する感情を表面的に取り繕って人間味あふれる態度でもって応えるのか。あるいは、あからさまに避けようとするだろうか。私は手を差し伸べる人であればよいと願いますが、いいところ第二番目の態度が関の山なのではないかと思います。

映画にはジョン・メリック氏に対し人間的態度で接する人が出てきます。それはおそらく、現実のメリック氏の人生においてもそうだったのでしょう。そうした、対応する相手によって態度を変えることのない人間というのは自然であり、そういう人こそが普通当然なのだなと思います。ですが現実的には、なにか素晴らしい人格者のようにいわれたりすることもあって、しかしそれはあまりにも失礼な評価です。メリック氏には憐れみをかけられるようないわれはなく、普通に相対する人がいたとしたら、それが当たり前なのですから。

しかし、こうして口ではいいことをいう私が当事者なら、いったいどのような態度を示すでしょうか。人間というのはいざとなれば豹変するものです。

人は見た目が9割』という本が話題書として取り上げられたりして、この本はもちろんそうした外観による偏見とかを助長するような本ではないのですが、あんまりに戦略的なタイトルのために誤解過大視されている節も見受けられます。この書名のような標語めいたものを持ち出して見た目の重要性を説いて、結局美醜の問題になだれ込むのだとしたら、人間が持つという理性というのもたいしたものではありません。中学の時のクラスメイトの女の子が、不良というレッテル張りをされるので気の毒でした。背が高くちょっと顔立ちが派手な子で、生まれつき髪が赤かったのですが、本当はおとなしい女の子だったんですけどね。ユニークフェイスというNPOもあります。

『人は見た目が9割』という本のタイトルだけが独り歩きし、ユニークフェイスというNPOが必要とされるという現実は、私にはちょっと悲しい。メランコリックを加速させます。

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