2006年3月31日金曜日

ウルトラマンのできるまで

普段なら絶対見ない類いの番組、『特撮TV大全集』をいうのをなんだか見てしまいましてね、これ『生物彗星WoO』っていうNHK制作の特撮の番宣番組といったらその雰囲気もわかるかと思うのですが、けどしっかり過去の円谷系特撮を扱ってくれていたもんだから食い入るようにして見てしまいました。というと、さも私が特撮に興味があるかのようですが、実はそうでもないんですね。実は、ほとんど覚えていません。ウルトラマンは覚えています。何度も再放送を見ましたから。けどほかので覚えているウルトラマンってほとんどないのです。セブン、好きだったはずなんです。タロウ、一番好きだったはずなんです。歌える歌もあるのですが、なのにほとんど覚えていない。

小学生の頃、クラスの男子が特撮の再放送に夢中であるのを横目に見ながら、馬鹿馬鹿しいと思っていました。それが、あとになってこの手のものへの興味をつのらすことになろうと誰が思ったものか! ああ、そうなのです。私は特撮に関してはまるっきし耳学問なんです。

そんなわけで、私の特撮耳学問の書を二冊ほど。それは実相寺昭雄の『ウルトラマンのできるまで』と『ウルトラマンに夢見た男たち』なのですが、実はこれでもう打ち止めといっていいくらいに私は特撮を知らない。いや、まったく知らんわけじゃないんですよ。バルタン星人は当然として、ダダもわかればジャミラもわかる。キングジョーもエレキングも、きちんと番組を見て、当時の絵本や文庫(コロタン?)を見て覚えたんです。でも、肝心の内容を覚えていない。いや、ウルトラマンは覚えているんです。だいぶあとになって再放送を見ましたから。けれど、その他を覚えていない。

最初に、特撮特番について普段なら絶対見ない類いの番組という表現を用いましたが、見たら懐かしいと思う、けれどそれ以上のなにかを思い出すことができないというジレンマがいやだから見ないんです。でも、見たいんです。本当はこんな特番なんかじゃなくってですよ、本編で見たい。けれど、時間もなければ金もない。見ようと思っても思うようにはいかず、だからこういうものは時間のある学生時分に見とかなければならなかったのだと、今になって後悔する思いです。

ああ、肝心の本について書けなかった。これらの本、ウルトラマンの制作に関わってきた実相寺が、当時を振り返って書いた本で、曳光弾に自前の背広を台無しにされる男の話であるとか、思ったように特撮が成功してしてやったりという気持ち、そしてその逆の悲しさとか、そうしたものがつづられていて、その筆致があたかもその聴き手を前にして語られるかのような躍動、喜びにあふれていたものだから、私はそれを読みながら、より以上に特撮を好きになった、そういう特撮への思いを深めるきっかけとなった好著です。

これらの本が、私が高校生だったころに出た本が、今もまだ入手可能というところを見ても、どれだけ多くの人に愛されているかわかるかと思います。それはひいては特撮を愛する人の多さに繋がるのだろうと思います。

2006年3月30日木曜日

HAL — はいぱあ あかでみっく らぼ

 同じ職場で一年間働いてきた人間がこの春で契約が切れてしまいます。春は別れというがごとし。荀子がいったのでございます。君子贈人以言、庶人贈人以財。君子は人に贈るに言を以てし、 庶人は人に贈るに財を以てす。立派な人はものやお金じゃなくて言葉を贈るのだという意味であります。なので私もこれに習って、けれど私の言葉なんぞ贈られたってなんも嬉しくありやしないでしょうから、ものと言葉の間にある、本を贈るのでした。正しい科学の知識を身に付けるのじゃぞという思いをともに、あさりよしとおの漫画を贈りました。科学の知識ということは『まんがサイエンス』かと思いきやさにあらず『HAL』であります。まさにこの本こそは、科学に親しむ大人が正しい知識を得るためにふさわしい一冊である。私はそう信じて疑うところがありません。

読んだ頃合いを見計らって、正しい科学の知識は身についたかねと問い掛けたらば、正しい科学の使い方は身につかんかったという返事があって、なんかぱっとせん受け答えやなあ。それどころか、電波とはなんだ電波とは。と憤慨して見せてはいますが、それこそ狙ったとおりの反応が得られて嬉しいことで、それになにより面白がって読んでくれたみたいだからなおさらです。こんなことを書いたら、はなっから正しい科学の知識うんぬんなんて嘘なんじゃないかというような感じも受けられるかも知れませんが、そういうわけでもないのですよ。これが正しい科学の知識を得るためのよい漫画というのはあながち嘘ではなくてですね、ある程度正しいものの見方のできる人間ならば、表現の裏っかわにちゃんと思いをいたらせてですね、つまりはなにが正しいかわかるはずなのです。危ないのは、なんでも無批判無思考的に、書いてあることを書いてあるまま受け取る手合です。そういう人にはあさりよしとおなんて危なくて勧められなくて、だから私がこの本を贈ったというのは、その人の見識にある程度安心しているという証拠でもあるのです。

と、あさりよしとお自身もそういうスタンスで描いていたんだと思っていたんですが、あとの話になればなるほど正しい知識による突っ込みが頻繁になってきて、そしてきわめつけは新装版のおまけに見える一文「思考停止」 ある種の人間には幸せなのかも知れんが… 世間にゃ迷惑だな、というのを読めば、最初は人の判断力に信頼を寄せていた著者が、だんだんその不信の度合いを強めたのではあるまいなという気もしないでもなくて、だとすれば基本的にはウソばっかりです親切にも書き添えられた断りも皮肉であります。

私は『HAL』の面白さは、科学知識をもてあそんで作った皮肉よりも、神妙面して科学をもてあそぶ人間に向けて投げつけられる皮肉にこそあると思っています。その皮肉とは、思考停止してしまったものへの皮肉にほかならず、これらは徹頭徹尾冷たく突き放されて、氏の科学に向けられるあたたかな情愛とは正反対の質であります。

私はあさりよしとおにどのように思われようが、どのように見られようがなんとも思いやしないけれども、でもそうした思考停止はしたくないと思っています。この漫画は、正しい科学の知識を得るにも有用でしょうが、それにもまして、正しい科学とのつきあい方、つまりは思考をやめないという姿勢を学ぶに適した教材であります。教材といっても堅苦しくなんかない。楽しんで読めばいい。けど、これを楽しんで読めない人もいるかも知れないことはあらかじめ断っておきたいと思います。

  • あさりよしとお『HAL』(Gum Comics Plus) 東京:ワニブックス,新装版,2006年。

引用

  • あさりよしとお『HAL』(東京:ワニブックス,新装版,2006年),199頁。

2006年3月29日水曜日

兄妹はじめました!

 まさか妹もので書く日がくるとは、自分自身のこととはいえ、ついぞ予想だにしないことでありました。そう、『兄妹はじめました!』はそのタイトルの示すように兄と妹ものでありまして、けれど妹萌えというのとは一線を画しているところが私にはよかったのだと思います。作者は『1年777組』の愁一樹で、どうも私はこの人の漫画が好きなようです。ぱあっと目を引くような華やかさはなくて、内容的にも派手さはない、どちらかというと淡々と進んでいくようなそういう感じの漫画なのであるのですが、けれどいつのまにか毎回を楽しみにしている、ないとなんだか物足りない。こんな感想を持つのですね。私にしても、単行本を読み返してきっちり最初から読んでいたことを確認して、けれどはっきりと好きになったのはいったいいつだったのでしょう。そのへんをきちんと把握できていなかったりするのですね。

どのあたりが好きなんでしょうね。漫画としては、既刊の『1年777組』よりも地味という印象で、けれど現実味の点でいえば『777組』よりもずっと現実性のある話だから、私には読みやすいかと思います。設定は、幼なじみの二人が両親の再婚により兄妹になってという、有名どころでいえば『みゆき』パターン。ただこれが『みゆき』と違うのは、『みゆき』では兄貴のみが血の繋がっていないという事実を知っていて妹は知らない(ことにしている)、『兄妹はじめました!』は兄妹ともにちゃんと理解している。あと、『みゆき』では兄貴には同級生の彼女がいるけど、『兄妹はじめました!』ではそういう複雑な関係にならない。

よくも悪くも、さらっとして、ドラマとしての盛り上がりよりもふたりそしてクラスメイトたちを取り巻くシチュエーションを楽しむための漫画であると思います。

読んでると、なんだかにやにやしてしまいますな。だから、これは誰もいないところでひとりで読むのが正しいのではないかと思うのですが、血の繋がっていない妹に恋愛感情をくすぶらせている純情少年と、その気持ちを知ってか知らずか、あるいは知っているからこそなのか、うまく自分のペースに兄を巻き込んでしまう妹。この構図はよいなあと思ってしまうのですよ。妹ものに見られる盲目的お兄ちゃん大好きシチュエーションとは逆といってもいいのかな。でも、兄は妹に対しては盲目的でありつつも自分を失うようなところもなく、このへんは、好きだといってしまったら今の関係を壊してしまうかもしれないと怖れる、友達以上恋人未満の合間で揺れ動く少女漫画的シチュエーションに似てますね。恋人未満で兄妹であるというのがこの漫画の肝であるのです。

掲載誌である『まんがタイムきららMAX』の五月号で、妹のクラスメイト傍若無人系の萌葱(この人も妹)のスペシャル版があって、なんとその月は萌葱が主人公! ということで萌葱好きの私としては楽しみに読んだのですが、それでもなんだかちょっと物足らなくって、というのはやっぱり私がこの漫画に求めているのは、主人公兄茜と主人公妹葵を取り巻くいろいろなのであろうなあと再認識したのでした。そんなわけで恒例の蛇足:

蛇足

高坂葵、妹です。ぎゃーっ、新しい扉が開いてしまったような気がします!

  • 愁一樹『兄妹はじめました!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年3月28日火曜日

暴れん坊本屋さん

  昨日は『看板娘はさしおさえ』で書いたから、ははあ、今日は『棺担ぎのクロ。』か、あるいは『えすぴー都見参!』かなどという予測をされた方もいらっしゃるかも知れませんが、さにあらず、今日の題目は久世番子のベストセラー『暴れん坊本屋さん』の第二巻です。

実はですね、私、この本を、職場最寄りの駅前書店で見つけまして、平積みですね。あ、出ると聞いてた二巻が出たんだと思って、即座に買おうと思ったんだけど思いとどまりました。というのはですね、その日はそれから梅田に出ることがわかっていたからで、目的地はグランドビル三十階の紀伊国屋書店。ここは独自の特典をつけていることがあるから侮れなくて、もしかしたらという予感があったんですね。そうしたら、あたりましたよ、めったにあたらぬ私の予感が見事に的中したのです。

特典がついているというのは遠目から見てもそれと知れるくらいで、それはなにかというと暴れん坊本屋さん軍手だ! 書店向け販促グッズで一般販売はされていない軍手。紀伊国屋書店で配っていたのはピンクの軍手に書名と作者の名前、そして番子ペンギンがプリントされていて、素敵! これで冬のコーディネートもばっちりだわ、ってもう春だしなあ。

ちなみにうちに持って帰ったらば、大掃除するのにいいじゃないかといわれて、えーっ、なにゆうてんの。これゆうとくけど、非売品のレアもんやで、ってレアだから価値があるかどうかについては不明。うちにはそういう微妙なレアものが結構あります。

閑話休題。とにかく買って最初に読みはじめたのがこの漫画でありました。なんでかというと、気に入っている漫画だからという他ないのですが、なにぶん私も本が好きで、それが高じて図書館で働いていたこともあったくらいで(本屋は働こうという意思はあったけどはたせなかった)、そして私の知人にも本好きは多いから、あちこちで勧めまくり。ちょうど、この本を買った前日に会った人にもお勧めしていたんですね。本屋で本を物色しているその作法を見ていると、その人の本好きの度合いがわかるんだってさって『暴れん坊本屋さん』の作者がいってたんだよー、みたいに切りだして、そうしたらあとは私の本好き話みたいになって、崩れている山があれば詰み直し、順番がおかしくなった棚があれば並べ直し、本を買うときには六面きっちり確認する(あ、ごめん。これ私だけ)。なんか、普通の人からしたらなんなのこの人って思われてもしかたがないなと思うのですが、だってやらずにはおられないんだからしかたがないじゃん。

と、その日話したこうした話が、第二巻にそっくりそのまま収録されていて、ちょっと笑ってしまいました。そうか、やっぱり私だけじゃないんだって、そして果てしない共感が広がって……。この本を面白く感じるその根底には、そうした共感性がきっとあるだろうと思います。

と、そんなわけで、私の友人連中は、きっとこの本を面白く読めると思います。ぜひ、一度手に取ってみてください。

  • 久世番子『暴れん坊本屋さん』第1巻 (Un poco essay comics) 東京:新書館,2005年。
  • 久世番子『暴れん坊本屋さん』第2巻 (Un poco essay comics) 東京:新書館,2006年。
  • 以下続刊

2006年3月27日月曜日

看板娘はさしおさえ

 当初は月に一冊、多くて二冊であったまんがタイムKRコミックスですが、このところではなんと四冊も出るのですね! でも、四冊全部買うわけでもないからいいやみたいに思っていたら、今月は全購入ですよ。ああ、あかん、人としてなんか、どんどんあかんようになっていると、そのような気もしますが、まあ今更嘆いたふりしてみせてもね!

今月刊行の四冊の中で、私が堂々これが一番好きといえるのは鈴城芹の『看板娘はさしおさえ』でありまして、どんどんその系列誌を増やしていく『まんがタイムきらら』にMAXが登場した当初、私にとってあたかも真空地帯と感じられた誌面に見いだされたオアシス、それが『看板娘はさしおさえ』。他にも面白いと思った漫画はあったのですが、群を抜いて楽しみにしていたのが『看板娘はさしおさえ』でありました。

看板娘はさしおさえ。質屋を舞台とした一見ほのぼのファミリーコメディでありまして、さしおさえというのは差し押さえではなくって、主人公の女の子の名前であります。それを絡めたギャグもありますから、よろしかったら本編でお確かめください。

漫画がはじまった当初を見返すと、なんだかほのぼの色が強くて驚かされてしまうのですが、そうなんですね、見た目可愛らしいキャラクターとほのぼのとした雰囲気を前面に押し出して、その中身はというとずいぶんシニカルなギャグでもって構成されているのが味になっています。当初は隠し味といった感じだったシニカルさも、気がつけばそっちがメインみたいになっている。それに加えて、おりに織り込まれるマニア向けのネタや設定の数々もぴりりとよく効いて、ええ、これは構成と表現の勝利であると思います。

舞台こそ質屋というレアケースでありますが、基本形はそれこそスタンダード、オーソドックスの域にあるといっていいのではないかと思います。ですが、それでありながら、ありきたりに終わらないというのは作者の腕の見せ所なのでしょう。辛辣があって、皮肉があって、けれどそれはちっとも嫌みじゃなくて、こうした行き過ぎると逆効果になりかねない部分をうまく処理しているのもさすがなら、逆に両親の仲のむつまじさを書くことで屈折した面白さをだし、かつ表立たない色気も出して、バリエーションの豊かなために読んでいて飽きない。うまいなあと思います。

そしてここからはちょっと余談。マニアやおたくの潔癖性および溺愛性をうまく刺戟するキャラクター設定が壺を心得ています。それは誰かというと小絵のお母さん桜子さんで、誰よりも辛辣、誰よりもマニアック、誰よりも人でなし(いやごめん、人でなしなら五十鈴ちゃんのお母さんの方がずっとひどい……)、けれど純情路線という、そのよさはぜひ本編でお確かめくださいますよう、ということで恒例の蛇足:

蛇足

桜子さんです。いや、本当。読んで確かめてください。

  • 鈴城芹『看板娘はさしおさえ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年3月26日日曜日

ル・パティシエ タオルケーキ

四月に誕生日を迎えられる人に会う機会があったので、なにか贈り物をと思いましてね、こういうときに私は花を贈るのが恒例で、やっぱり喜ばれますし、あとに残らないところもいいし、そんなわけで重宝しているのであります。まあ、男相手にだったら花なんて全然駄目ですけどね……。

けど、いつも花というのも芸がないと思いまして、なにか気の利いたものはないかなと思っていたところに聞き及んだのが、タオルケーキですよ。タオルケーキというのはなにかというと、タオルで作られたケーキでして、もちろんタオルですから使用可能。見た目はケーキだから印象もいいと、よしこれだーと思い至って、今年はこれに決めたのでした。

でもね、残念、その機会というのも待ち合わせやなにかというものではありませんで、そうなんですね、お会いできなかったんです。しかたがないから、その日あった友人に差し入れして、そうしたら思いのほか喜んでもらえて、ああ、やっぱり私の策はあたった、大当たりでした。

私の策というのは、ケーキに見えるタオルをよりケーキに見せるために擬装するというもので、まあ単純な話ですよ、ケーキの箱に入れたのです。購入前に放っていた斥候からの報告によれば、百貨店では扱ってない、ロフトにならあるそうだということなので、梅田ロフトにいきましてね、そうしたら結構いろいろ種類があって目移りするのですが、箱に入れるのですからあんまり大きいのはいけません。私のチョイスは苺のショートケーキ、ダークチェリーのチョコレートケーキ、チーズケーキ。これらを入れるル・パティシエのロゴ入り箱はと思って探したらですね、これが置いてなくて、しかたがないから店員さんに聞いたら、六階ラッピングコーナーへ案内されました。

ケーキが四百円弱なのに、箱が450円ってどうでしょう……。いや、ネタのためならこれくらいの出費はいといません。

プレゼントって難しいのですよ。あんまり高いと、贈るほうも大変だし、もらうほうも気を使うし、後々まで残るものもなんかいやだし、消えものがいいといっても食べ物は好き嫌いもあればアレルギーやなにかもあるしで、生活雑貨やなんかがお手軽ですが、それもなかなか気の利いたものは少ない。だから私は花を贈るというのですが、そんな選びにくいプレゼントの中で、このタオルケーキは光っていました。気が利いているし、生活雑貨であるし、好き嫌いとかアレルギーとかもあんまりなさそうだし、ちょっとした話題にもなりますでしょうしね。その時、ああこいつ手の込んだことしてだましやがって、と笑ってもらえるのが嬉しい。今回差し上げたお嬢さんたちも面白がってくれて、喜んでくれたからそれが嬉しい。これを選んで本当によかったと思います。

私の姉の友人は、紅茶まで用意してさあ食べようとしてところでようやくタオルということに気付いたそうで、暗いところで出されたり、あるいは目が悪かったりしたら、そういうこともあるだろうなあという秀逸のできです。

参考

2006年3月25日土曜日

日本語プログラミング言語「なでしこ」

 私は実はコンピュータを使うとき、ハードウェアにはこだわりがなく、そしてOSについてもそれほどこだわらず、結局最終的なアウトプットさえ整えられればなんでもいいと考えているような人間です。だから、マルチプラットフォームで展開されているアプリケーションは本当にありがたいと思いますし、そしてそれがフリーならなおさら。最近ではOpenOffice.orgとか、かなりいい線いっていると思います。

いい線いっているといえば、日本語プログラミング言語「なでしこ」がかなりのものだと思います。コンピュータをよりよく使うにはなんらかのプログラミング言語に親しんでおいたほうが絶対いいというのが私の持論で、私はそれでPythonに傾倒してしまっているのですが、ところがプログラミング言語というのはやっぱり敷居の高いものなんですね。なにがハードルになるかといえば、可読性の低さでしょうか。Pythonの可読性はかなり高いとはいえ、ベースが英語ですからやはり厳しい。と、そうした状況を打破する可能性を持つ言語が「なでしこ」です。

「なでしこ」の可能性はなんといってもその可読性の高さでしょう。なんでか? その名前がすべてを表していますわね。日本語プログラミング言語「なでしこ」。なんと日本語でプログラムができるのです。言語としてはインタプリタ型だからPerlやRuby、Pythonと同様で、コマンドラインでの利用も可能なら、GUIの利用についても非常によく考えられていて、正直心底まいってしまっています。

詳しくはですね、私のつたない記事を読むよりも「日本語で10行プログラミング」をご覧になったほうが速いと思います。プログラムといえば難解で、山ほど、たくさんコーディングしなくちゃいけなくて、みたいに思っている方もいらっしゃるかと思いますが、それが誤解であるとお気付きになられること請け合い。だって、こんなことを十行プログラムでやってしまえるのか! と本当に目からうろこが落ちます。同じことを他の言語でやろうと思えば何倍もの行数を費やす必要があると思います。

「なでしこ」には気の利いた機能が多いんですよ。GUIはそもそも装備されているし、最近のアップデートではパブリックドメイン(!)のRDBMSであるSQLiteを同梱してしまって、はっきり言ってこれはものすごいことだと思っています。データベースなんてのは扱いに関してはどうしても簡単ではないから、ちょっと導入してみようなんて気にはなりにくいものなのですが、それが「なでしこ」に同梱されていて、スクリプトから利用できる。それもものすごく簡単に! SQLを覚えないといけないから簡単ではないとは思いますが、それでもその労力を上回るメリットがあるかと思います。「なでしこ」は、インストールと設定さえしてやれば、CGIとしても問題なく使えて、つまり掲示板やなにかをRDBつかって実現できる! ああ、素晴らしい! 私の使っているサーバにも「なでしこ」入らないかしら! 本気でそう思うほどに「なでしこ」の可能性はすごいものがあります。

英語圏の子供たちは、PerlやPythonをはじめるとき、私たちが「なでしこ」に感じるような印象をもって取り組むことができるのでしょうね。関数やメソッドなんかにしても、語の意味を知っているからすっと入ってくる、意味を丸暗記することなんてない、これは大きなことであるなと「なでしこ」を見て思いました。

残念ながら、現時点において「なでしこ」はWindows版しかリリースされていないのですが、これはつまりWindowsユーザーは「なでしこ」を使わないと損だということですよ。「なでしこ」の存在ひとつで、日本語ネイティブのWindowsユーザーは大きなアドバンテージを持っているのです。まずなにはなくとも「なでしこ」を導入し、そして「日本語で10行プログラミング」を読んで、こうしたスクリプトを使える便利を知っていただきたいと思います。本当に、使える言語がひとつでもあれば、コンピューティングは様変わりしますから。私は実際、半日以上かかっていたような作業を二分に短縮して、プログラムの使えるという優位を周辺にアピールしてきて、そうなんですよ、なんでもはじめてみればいいのです。

プログラム入門にさいして、「なでしこ」はきっと力になってくれると思います。その後、Perlにいく、Rubyにいく、Pythonにいく、それは自由です。でもまずはハードルの低い「なでしこ」からチャレンジして見られると如何でしょう。コンピュータを使うということの意味が見えてくること間違いありませんから。

2006年3月24日金曜日

ヤダモン

 チビッ子魔女がやってきた! そうなんですよ、ついに『ヤダモン』のDVDが発売されまして、そしてそれが今まさに私の手もとに! すばらしい! 待った、待ちに待ちました。整理の悪いテープをジャグリングすることもなく、傷んだテープの乱れ踊る劣悪な画質にやきもきすることもなく、ストレートに、スマートに視聴することができる! ああ、嬉しい。

私は、正直考えなしに注文したことを悔いたりしたりもしていて、というのもDVD-BOXというのは私にとって決して安い買い物ではないからなのですが、一旦見始めるとそんなしょうもないことは吹き飛んでしまいますね。ああ、青春の日々よ、再び! 生き生きと動いてしゃべるヤダモン、タイモン、ジャン、ジャンパパ、ジャンママ、ハンナなどなど、再びこうしてまみえることができて、どんなにか嬉しいことでしょう。ああ、本当に嬉しい。ちょっと最近、こんなに嬉しいことはなかったというくらいに嬉しいです。

BOX 1に収録されているのは、五話構成の中編です。DVDは六枚。箱はSUEZEN書き下ろし、小冊子にはちょっとした設定資料等々収録されて、各ジャケットにはエンディングテーマで用いられたあの繊細にして美しいイラストが! そして本編。残念ながら画質は少々甘く、そりゃさすがにデジタルリマスターだ! みたいにはいかなかったのでしょう。各話冒頭にオープニングは一度だけ、エンディングテーマこそは毎回収録ですが、オープニングがはしょられてるのは残念としかいいようがなく、けれど中身はしっかり収録されているのだからこれでよしとしましょうよ。

マニアックな指摘をしますと、エンディングテーマはテレビ版ではなくて、あの十本だけ出たビデオ版が採用されていて、だからテレビ版が脳裏に染みついた私にはちょっと新鮮。テレビ版しか知らない私ですから、こうしてビデオ版のエンディングを知ることができたのはよかったかも知れない。けど、できればBOX 2にはテレビ版が収録されるといいなあ。なんて思います。

とりあえず、ちびちび見ていきましょうかね! ああ、見終わるまでが楽しみです! そしていずれの日にかBOX 2が出てくれれば、私はまた嬉しさに転げ回るんでしょうな!

VHS

CD

書籍

  • 面出明美『小説ヤダモン』上 ちいさな魔女がやってきた! (アニメージュ文庫) 東京:徳間書店,1992年。
  • 面出明美『小説ヤダモン』中 砂の迷宮 (アニメージュ文庫) 東京:徳間書店,1993年。
  • 面出明美『小説ヤダモン』下 地球の詩がきこえる (アニメージュ文庫) 東京:徳間書店,1993年。
  • SUEZEN『ヤダモン』前編 (アニメージュコミックス) 東京:徳間書店,1993年。
  • SUEZEN『ヤダモン』後編 (アニメージュコミックス) 東京:徳間書店,1994年。
  • ヤダモン』第1巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1992年。
  • ヤダモン』第2巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1992年。
  • ヤダモン』第3巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1993年。
  • ヤダモン』第4巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1993年。
  • ヤダモン』第5巻 (アニメージュコミックススペシャル — フィルム・コミック) 東京:徳間書店,1993年。

2006年3月23日木曜日

Sweet Memories

  いつぞやはまってしまったMMO(多人数参加型オンライン)型ゲーム『ときめきメモリアルONLINE』。正式サービスが今日の14時に開始されて、けれど私はもうあの場に戻ることはできないのではないかと思っていたのです。レジストレーションコードは残っているし、30日間の無料プレイも可能だし、じゃあなにが問題なのか。時間? いや、時間も自由ではないとはいえ、そういう経済的ないしは物理的ななにかが問題になっているわけではないのです。

問題は、一度覚めた夢を再び見ることができるのかという、心情に根ざすものであります。私は、一度でも場を離れると戻れないという厄介な性質を持っておりまして、これをもって帰巣本能が低い、帰属意識が極めて低いといってもいい。再び参加して、戻りました、戻ったは戻ったのだけれど、心はここにはいないというようなことになることを怖れていたのです。

松田聖子のヒット曲『Sweet Memories』に次のような歌詞があるのです:友達ならいるけどあんなには燃えあがれなくて。……そうなんですね。まわりには確かに以前と同じように友人たちがあって、しかし私は変わってしまって、もうあの日のようではない。ああ、でもこれは『Sweet Memories』のテーマじゃないや。むしろ『あの素晴らしい愛をもう一度』にこそふさわしい:あの時風が流れても変わらないと言った二人の心と心が今はもう通わない。ええ、私の心は変わってしまった。そういう現実に直面するのではないかと私はひたすら怖れたのでした。

『Sweet Memories』が流行った頃、私はまだ子供で、サントリーのペンギンのキャラクターがコマーシャルでこの歌を歌っていて、その情景がすごく心に残っています。サントリーのビール工場見学、開始時刻を過去のCM上映を見ながら待っていたときに、このCMを見て、一度に心は子供時分に戻って見せて、なんかすごく懐かしく、涙が出そうな気にさえなって、失った夢だけが美しく見えるのはなぜかしら、どんなにいやなこと、つらかったことがあったとしても、過去は振り返ればいつも美しく輝いて、過ぎた悲しみだけがきれいに見えるのはきっと涙のせいでキラキラ光るから

けど、そういうややこしいことを考えているのは結局自分ひとりであって、他の誰もそんなことは考えてなんてなくて、だから私はこれまでも、なにも考えることなくどーんと飛び込んでいったらよかったのかも知れないと、そんな風に思います。考えすぎて駄目にしたものはたくさんあっただろう、もっと気楽にいけば、今失っている(今失ったと思っている)ものも手もとに残っていたかも知れない。

そのように思えるできごとがあったのでした。

引用

  • 松本隆『Sweet Memories
  • 北山修『あの素晴らしい愛をもう一度
  • 松本隆,前掲
  • 武田鉄矢『思い出が手を振る

2006年3月22日水曜日

世界文学にみる架空地名大事典

 世の中にはいろんな本があるというのはいうまでもなく当然のことで、知ってみれば、へー、そんなのまであるんだと驚くようなのもあるんですよ。例えばそれは、私にとっては『架空地名大事典』で、これ、図書館司書の資格を取ろうと勉強していたときに知った本なのですが、まあ書名を読めばわかりますよね。架空の地名が列挙されている本です。この本、出典を記すにとどまらず、結構詳しいデータまで載っている(それもあたかもその地が存在しているかのように!)のだからまたびっくりで、手もとに一冊あっても面白いだろうなと思ったものでした。まあ、買ってはいないのですが。

これ、大きな図書館(特に図書館学を学べる大学図書館など)には所蔵されている可能性が高くてですね、なんのためにあるかというと、地名について聞かれたときのため、リファレンスツールとして蔵書されているのですね。実際、聞くほうはその土地が存在しているしていないなんてわからないわけですから、図書館としては存在する地名、架空の地名双方に対応できるよう備えているのです。

図書館司書課程を経験された方ならわかると思うのですが、実習があるのですよね。例えばリファレンス。いろいろな問い合わせ例が出題されて、さあ諸君、答えたまえ。ただし、自分の知識で答えてはだめじゃぞ。きちんと典拠を示さなければ失格じゃ。答えはすべて図書館にて見つかるであろう! とやられる。で、その問題の中に罠があるんですよ。ケア・パラベルってどこにある都市であるか、なんてのが普通に紛れ込んでいて、ここで、ああ地名だから『世界地名大事典』で調べようと思ったらドツボにはまります。ええ、ケア・パラベルは現在映画化もされて大人気の古典文学『ナルニア国ものがたり』はナルニア国の首都であります。だからこういう場合には迷わず(いや迷ったとしても)『架空地名大事典』にたどり着かなければならないというわけ。架空地名の可能性に気付かないと、延々世界地名地理関連のリファレンスツールから脱することができずに、時間ばかり費やすというはめになるのです。

まあ、私には楽勝だったわけですが! というか、この授業は本当に面白かったですよ。図書館の蔵書のだいたいを前もって把握しておいて、問題が出た瞬間に頭の中で蔵書検索。答への到達可能性の高く、そして他の人がなかなかたどり着かないだろう順にソートするのですよ。そして図書館へゴー。皆が見当違いのことをしている間に、中くらいの罠をクリア、皆が第一段階の罠を抜けた頃には第二段階、第三段階の罠を突破して、一番最後に素直な問題をやっつけるようにすれば時間的ロスが最小ですみます。こうして私は居残りなんかしたことなかった!

でも、この作戦が効くのは結局自分の鼻が利く分野限定ですから、得意な範囲からはずれたものが出たときにはてこずりましたね。でも、そういうときにはよくしたもので、ちょうど得意分野を違えた同類が頼りになるんですね。つまり、情報をリークしあうわけですよ。あの地名なら『架空地名事典』を探すといいぜ、あらサンキュー、じゃああなたの探している事件に関する情報を教えてあげるわ、うんぬん。こうして役割分担して、更なる時間短縮をはかるのでした。

ああ、あの授業は本当に楽しかった。まさに情報系生物である私にとってはご馳走といえるような時間で、自分の持っている情報が役に立って、そして自分の知らない情報を教えてくれる人がいて、ああ、私は私の知らないことを知っている人が(そしてそれを出し惜しみしない人が)大好きです!

ああ、もうっ、図書館でまた働きたいなあ。それでリファレンスを山ほどしたい、ブックトークなんかもしたい。はたせぬ夢なんですけどね!

2006年3月21日火曜日

メイプル戦記

 第一回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)にて日本が優勝! っていっても、実は私は予選リーグの時点ではほとんど興味がなくて、ちゃんと見たのは準決勝の日韓戦のみ(しかもこれも偶然だった)。決勝の日本キューバ戦は明日だと勘違いしていたから、九回裏からしか見てないという……、だめじゃん。でも、やっぱり日本が優勝したというのは喜ばしいことで、そんなわけで今回は野球に関する漫画を取り上げたいと思います。

といっても、私はそもそもがあんまりスポーツに興味があるほうじゃないから、野球に関する漫画も本も皆無といっていいくらいに少ないのですよ。野球漫画といえば川原泉の『甲子園の空に笑え!』、そして『メイプル戦記』。あとは『究極超人あ〜る』くらいかあ。あと、一冊大リーグものの小説を持ってた。ピッチャーがヒロインという話で『赤毛のサウスポー』といったっけ。

といった具合に、私の野球に関する蔵書は非常に偏っているのですね。

(画像はロスワイラー『赤毛のサウスポー』)

『メイプル戦記』も『赤毛のサウスポー』同様、ヒロインがピッチャーをつとめるという漫画でありまして、いやピッチャーだけじゃないな。チーム全員が女性であるというスイート・メイプルスが日本シリーズに向けて驀進する様を描いて、しかし内容は軽佻浮薄を装ってひたすら深く、そうして私はまたべそべそ泣くわけだ。

川原の漫画にいったいなにがあるというんでしょう。私は、先にもいったようにスポーツものにはあんまり興味を持てない人間だから、『メイプル戦記』というのが野球の漫画だと知ったときに少し腰が引けたのですよ。てっきりファンタジー系戦記ものだと思ったりなんかしたんですよ。ところが野球もの。でも買いますわな、ファンですから。で、読みますわな、ファンですから。そして私は自分の不明を恥じました。偏見によって狭く世界を見ているということを恥じました。

広岡監督(といってもあの広岡監督じゃない、この漫画の主人公広岡真理子監督だ)がおっしゃるんですよ:

…いーじゃないっすか 人間にはいろんな道があるんだから オカマになろーが オナベになろーが 本人の自由って事で…

いやいやどーせなら選択の幅の広い人生の方が楽しいザンスよ

やっぱ世の中面白くなくちゃ

そして私はこのフレーズだけで泣けるのです。私は世界を狭く見つつ、狭く小さく生きてきて、けれど最近はずいぶんと広く見渡すことができるようになってきたと思います。きっとおそらく、こうした資質を川原泉の漫画からも得たりしたというのでしょう。ええ、川原の漫画には小うるさくせせこましい枠組みなんてものを超えた大きさがあって、それゆえに面白く、それゆえに深く、それゆえに胸を打ちます。『メイプル戦記』でもそうです。野球というスポーツジャンルを描いて、複雑にして多様なジェンダーの問題、いやジェンダーなんて小さなカテゴライズじゃないですね、人間が生きていくうえでの大切なこととはなにであるかを表現していて、だから私は泣く、一巻冒頭から泣き始めて、三巻すべてを読み通すまで泣き続けるのです。

でも、どうか勘違いしないでくださいましよ。私が泣くのは、これがお涙頂戴だからじゃないのです。むしろその逆ではないかと思います。強い漫画です。しなやかにして強い漫画です。友情が描かれ、恋愛が、そして人の尊厳が描かれ、人が自分の人生を生きるということ、人が人に向き合うということの大切さが描かれて、この漫画は川原泉漫画の初期における集大成であると思うのです。

本当に集大成だから読んでみなさるとよいですよ。時系列にしたがって既刊を読んで、そしてこの漫画にたどり着くと、ああそうかとわかるものもあります。そして、そうした表にあらわれやすいものの向こうにも集大成があることに気がつかれると思います。ええ、大きくて広いよい漫画なのです。

  • 川原泉『メイプル戦記』第1巻 (白泉社文庫) 東京:白泉社,1999年。
  • 川原泉『メイプル戦記』第2巻 (白泉社文庫) 東京:白泉社,1999年。
  • 川原泉『メイプル戦記』第1巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1992年。
  • 川原泉『メイプル戦記』第2巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1994年。
  • 川原泉『メイプル戦記』第3巻 (花とゆめCOMICS) 東京:白泉社,1996年。

引用

  • 川原泉『メイプル戦記』第1巻 (東京:白泉社,1992年),45頁。

2006年3月20日月曜日

Le Petit Prince

  NHKフランス語講座のテキストを買ったら、2006年度応用編第一期は「『星の王子さま』を読もう」ときました。私は、ラジオが壊れて以来フランス語講座を聴くことはなくなって、かつては毎日毎日聴いて勉強したものでしたが、いつの間にかそうした情熱が失われたようで、駄目ですね、人間は低きに流れます。ですが、今回の企画にはちょっと興味をひかれましてね、というのもちょうどフランス語のてこ入れをしたいなあと、なんか小テキストを読んでみようかなと思った矢先だったものですから、って読むというのなら手もとにあるLe Petit Nicolasから読めってなものなのですが、どうも人間低きに流れていけません。

すらすらと読める言語がひとつでもあると、慣れない言葉でつっかえつっかえ読むというのがどうにも苦痛に感じられて駄目なのです。読みたいものはいくらでもあるのに、慣れた言葉ならこの数倍の早さで、もっとしっかりと読み解けるというのに、フラストレーションがたまりにたまって駄目なのです。あ、私の場合、すらすら読める言語というのは日本語です。

でも、今回、フランス語講座のテキストに抄録されたLe Petit Princeをみたかぎりでは、それほど難しいフランス語ではないのです。すらすら? とはいかないだろうけど、ちょこっと辞書を引きながら程度で読み進めそうで、だから私はまずはテキストを読んでいこうと思います。土曜日曜にでもその週の分を読んで、なにも翻訳しようってわけじゃないんです。読むだけ。あんまり最初からハードルを高くすると長続きしませんから。それで、読めてきたら、サン−テグジュペリのフランス語に慣れてきたら、本文にチャレンジすればよい。

本当は一気に読み進んでしまったほうがいいんですけどね。けど私の場合は時間が継ぎはぎだから、ちょっとずつ長くやらないともたない。で、あんまりハードルを高くしたらもたないのです。

『星の王子さま』は好きで、日本語版は何度も読み返してあらかた頭に入っていますから、フランス語で読めば日本語が仏語にがっちりぶつかってくれるかも知れない。それで、日本語の理解を仏語の発想に置き換えることもできるかも知れない、なんて期待したりしちゃいますわ。

でも、こうやって期待すると途中で投げ出しちゃうんだ。期待せずにはじめてみるのが私の場合はよさそうです。

  • Saint-Exupéry, Antoine de. Le Petit Prince. Collection Folio Junior. Gallimard, 1997.
  • Saint-Exupéry, Antoine de. Le Petit Prince. Harvest Books, 2001.
  • Saint-Exupéry, Antoine de. Le Petit Prince. Harcourt Childrens Books, 2001.
  • Saint-Exupéry, Antoine de. Le Petit Prince. Gallimard, 1997.
  • Saint-Exupéry, Antoine de. Le Petit Prince. Graded Readers. Houghton Mifflin College, 1970.

2006年3月19日日曜日

High Germany

  Amazonから還元ギフト券というのが届いたので、以前からちょっと気になっていた本を購入してみました。それはOne Hundred English Folksongs。タイトルがそのものずばり内容を表していますね。イギリスの民謡本です。届いてみれば、内容は実にしっかりとしたもので、鍵盤楽器による伴奏譜つき。でも、願わくばコードネームが欲しかった。とはいっても、どうせ弾く際には移調したりするに決まってるんだから、コードネームに関してはしかたがないとあきらめましょう。ピアノ譜みながら拾っていこうと思います。

この手の曲集を買ったときには、手始めに目次を読むところからはじめます。いったいどんな曲が入っているのか、自分の知っている曲はあるのか。そうしたら見つかったのはHigh Germany、そしてScarborough FairScarborough Fairに関してはあまり知られていないバージョンです。今はよく知られた方の練習中ですが、それが一段落ついたらこちらにも挑戦しましょう。でも、多分その前にHigh Germany、こちらを歌うことになるのではないかと思います。

私がHigh Germanyを知ったのは、ペンタングルの『ソロモンズ・シール』でなのですが、ジャッキー・マクシーの歌うこの歌がまたよいのですよ。透明度高く美しい声でもってとくとくと歌われて、その歌い回しも実によく耳に残り癖になるようなよさがあります。いい歌だなあと思っていたのですが、内容はというと戦争にいかねばならない男の歌で、なんかすごく不幸な感じ。歌われる情景は違えど、ロシア民謡の『黒いカラス』に匹敵する悲しさがあります。まあ悲しさからいえば『黒いカラス』の方が上かも知れん、だってまさに死のうとするその時の歌なんだから。けれど、戦争を忌避する気持ちには変わりがなく、これらはいつか私のレパートリーにしたい歌だと思っていたのだから、目次に見つけたときは嬉しかったのです。早まって音を拾いはじめなくてよかった! ってなんて横着者なのでしょう。

High Germanyはマーティン・カーシーのアルバムMartin Carthyにも収録されていて、またこれもいい感じなのですよ。地味で質素な様、そして私と同じ男声であるということからしても、こちらはずいぶんと参考になって、拾うのならこちらからだなと思っていた。さいわい楽譜が手に入って拾う必要はなくなりましたが、でも参考にするのはこちらであろうかと思います。民謡にせよなににせよ、音楽は楽譜だけではわからないことが多すぎて、そういうときにこうした音源は大きな助けとなります。発音や譜割りといった実用面に始まり、歌そのものへの理解にも大変な助けとなって、どれだけいろいろな歌い手の版を聴き、どれだけ自分でも歌ったか、これが歌を練り上げるための最重要事項であると思います。

2006年3月18日土曜日

スノボキッズ

 トリノオリンピックが盛況のうちに終わって、そして数日が経ちましたでしょうか。姉が聴くのですよ。スノーボードのアルペンをみたかって。ああ、みたよ、で薮から棒になんだいと聞いたら、久しぶりに『スノボキッズ』をやりたくなった。ええ、うちにはPlayStationをプラットフォームとしてリリースされた『スノボキッズプラス』がありまして、これ、電撃PS誌の付録に収録された体験版が面白かったものだから買ってきたというもので、思えば、このゲームのためにコントローラを買い足したんでしたっけ。で、一時は姉と対戦したり、母と対戦したり、結構楽しめるよいゲームでありました。

このゲームは、少なくともプレステ版は、難易度が低めだから初心者にも敷居が低いところがよくって、姉や母はコアにゲームをするような人ではなく、姉に関しては、ゲームをするのもたまにというようなライトをさらにライトにしたようなゲーマーで、けれどこんな感じのライトゲーマーでも楽しめるというのは本当によいゲームであったと思います。

キャラクターが数名あって、それぞれにスピード型やトリック型等の性能差を持っているのですが、結局グラフィックの好みで選ぶというのがらしくていいですね。私はパメラがお気に入りで、姉はだれだったっけかなあ、とにかくずいぶん忘れてしまっているのですが、基本的にはスピード勝負で、けど途中途中でトリックを決めることのできるポイントがあって、ジャンプを決めて、トリックを決めて、アイテムをとって、スピードアップしたりライバルの邪魔をしたり、とにかくそうしてわいわいやるのが楽しかった。ステージもいろいろあるし、ポイントをためてウェアやボードを購入したり、楽しめる要素も結構ありました。

NINTENDO DS版が出ているんですね。残念ながら私は携帯ゲーム機を持っていないし、これから買う予定もちょっとないから、これを遊ぶ可能性はないのではないかと思います。でも、もしこれがDSといった携帯ゲーム機ではなくて、据置型のゲーム機用に出たら、ちょっと欲しいと思うかも知れない。いや、基本的なゲーム性の変更はいらないのですよ。キャラクターもそのままでいい(というか、そのままいい)。期待するのは、新ハードの処理能力ですね。グラフィックの描画を緻密に、高速にして、そして画面分割対戦時にも処理落ちしないというのが誰もが考える希望でしょう。逆にいえば、プレステ版でほとんど完成していた。あとは処理の問題だけといったところであろうかと思います。

実際にはキャラ差が少なく、難易度も低めだから、全キャラクリアをしようとしたらだれてくるという問題もあって、けどこれはライトユーザーには関係のない話です。大切なのは、誰もが参加できるということ。みんなでわいわいと遊べるということ。このゲームは間違いなく、一時のブームを支えました。これ以降に、これほどに盛り上がったゲームはありませんでした。

2006年3月17日金曜日

あの素晴らしい愛をもう一度

  あの素晴らしい愛をもう一度』をもう一度。ついに練習を始めました。ここでついにという表現を使うのには理由があって、私はこれまでこの曲を弾きたいと思いながらも弾けない理由があって、というのは技術上の問題でした。

ギターにはスリーフィンガーという奏法があって、ブルースやフォークでよく使われるものなのですが、親指人差し指中指の三本を使って弾く。フォークにおいては特に軽快なリズムを刻むことができ、はつらつとした印象が得られる、なかなかに悪くない奏法です。なのですが、まあ簡単ではありませんということで、私もゆっくりだったらできたのですよ。でも、この曲の伴奏は速いスリーフィンガーであったために、途中で右手が酷いことになる……。

技術上の問題が、ここにきてようやく改善の兆しを見せたのです。さすがに私はフォーク世代ではなく、スリーフィンガーに必要以上の憧れを抱いたりはしないのですが、でもできないのも悔しいし、できたほうがいいに決まってるしで、少しずつでもちょこちょこ弾いてきて、それがここ最近になって実りはじめた気がするんですね。実際、以前よりも安定して、スリーフィンガーを刻めるようになってきて、そうじゃ『あの素晴らしい愛をもう一度』をやろうと思い立って、その時手近に楽譜がなかったから、とりあえずin Cで少しずつコードを拾いながら、ゆっくりゆっくり弾いてみて、まだ途中でつっかえます。コードを覚えてないのもあるし、腕が痛くなるのもあって、無理はできないのですが、これはいけるという感触を得たのですね。

腕の痛みが出てくれば練習は中断、負担の少ない曲に切り替えるなどしなければ、腱鞘炎にまっしぐら。だからこの曲を弾けるようになるまで、普段以上の時間をかけるつもりでいます。で、そうして歌ってみて思ったのですが、この歌が愛される理由がわかります。いい歌なんです。曲調、メロディも起伏に富んで、そして描かれる情景の物悲しくもほろ苦い様は胸にさしますね。うん、昔、愛し合っていた頃のことを歌っていたと思ったら、今はもう通わないという現実が突然に、端的に投げ込まれて、これがすごく鮮やかで、どきりとする。一気に曲の悲しみを深めて、じんとします。

今はもう通わない。私はこの一言のためにこそこの歌を練習するのだと思います。私たちは永遠不滅なんてことを夢想しますが、しかしすべては移ろいゆくのだ、変わっていくもの、失われるものは確かにあると知っています。知っているからこそ、今を大切にしたい。でもその大切にしていたはずのものをもう通わないといって振り返る日のくるかも知れないと思えば、どきりとします。そうして、空を仰ぎたくなります。

引用

  • 北山修『あの素晴らしい愛をもう一度

2006年3月16日木曜日

J. S. Bach : Sechs Choräle von Verschiedener Art (Schübler-Choräle), BWV 645-650 played by Marie-Claire Alain

  今回は演奏者であるマリ=クレール・アランにはあんまり関係のない記事です。前もってあしからず。

大学生であった頃、突然雨に降られたことがありまして、仲のよかったオルガン科のお嬢さんに傘を借りたのでした。ロッカーに置き傘があったのですね。マリ・クレールの花柄だけどいい? ええ、傘全面に美しい花柄が見事に咲き誇っていて、けど私は気にしやしません。ありがたくお借りしたのでした。で、家に帰ったら、干してあるこの傘をマイ・シスターが見つけまして、これ誰のん!? って借り物ですがな。私のやったら取るつもりやったんやろうという話で、私はオルガンでマリ・クレールというと、必ずこのエピソードを思いだします。

私はオルガンには詳しくなかったから、このお嬢さんにいろいろと教えてもらって、オルガンもちょっと弾かせてもらって、聞き覚えのシュープラー・コラール『目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声』を単音でちょろちょろ弾いてみたら、オルガンをやっているっていうといっつもこの曲を弾いてくれっていわれるの、席を代わるようにいわれると、その場でざっと通して弾いてくれたのでした。ちょっと嬉しかった。いや、かなり、すごく嬉しかった。

私は確かこの時点では『シュープラー・コラール』のCDを持っていなくって、だからやっぱりこのお嬢さんに教えてもらって、誰がいいの? その時私が知ってたオルガン奏者といったら、ヴァルヒャ、コープマン、マリ=クレール・アランくらい? その時にお嬢さんのいったのは、マリちゃんの演奏はあんまり私の好みじゃないの。浮世離れしたお嬢さんで、そういうところがちょっと好きだったかも知れない。変わった人だったけど、いろいろと魅力的だったなあ。と、そういうことをいいたいのではなくて、けど私が最初に買ったのはそのマリ=クレール・アランの演奏で、でもその人のいうお気に召さないところというのはついにわからず仕舞いでした。思えば、最初にマリ=クレール・アランを選んだのは、その人の嗜好や傾向いろいろを知りたかったのかもわからないですね。

『シュープラー・コラール』は教育実習でも教材に使って、だからちょっと思い出深い曲であったりします。有名な話ですが、この曲はもともとはカンタータの中のコラール(カンタータ『目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声』BWV 140の「シオンは物見らの歌を聞き」)で、それが抜き出され、オルガンで演奏される作品となって、こういう曲は『シュープラー・コラール』以外にもたくさんあります。有名どころでは『主よ人の望みの喜びよ』なんかもそうですね。

そして最近では『ときめきメモリアルONLINE』でこの曲に出会って、まさに私が聞き覚えて、オルガン科のあのこに弾いてもらって嬉しかったという『目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声』。教会に入ると流れていたこの曲に、これまでこの曲を仲立ちとして出会ってきたことごとがわあっと押し寄せるように思い出されて、はたしてあの人はお元気でいらっしゃるのだろうか。もう何年も音信やりとりは途絶えてしまっていて、お元気ならばよいのにと思った。一曲の裏表に思い出される人はたくさんあって、なかにはこうして懐かしみつつ、再びお会いしたいと思う人もあります。

でも、過去ばっかり振り返っててもいけないね。前向きにいきませんとな。でもあの人のことは、美しい思い出としてこれから先も忘れられることは決してないと思います。

2006年3月15日水曜日

なごり雪

  『なごり雪』は私の昔から好きな歌で、出会いは中学での卒業メドレーであったように覚えています。そうなんですよね。この歌は卒業式の定番で、中学でやったように、高校でもやって、また私は卒業うんぬんを関係なしにこの歌を大切なレパートリーにしています。

この歌を歌ったのはフォークシンガーのイルカで、この歌を作ったのは伊勢正三で、けどイルカの作詞作曲と思っている人も多いんじゃないでしょうか。ええ、私も以前はそうでした。

高校の卒業式でやったというのは、多分私が二年生だったときの三月で、というのは先達てお話した音楽の教師と一緒にこの歌を選んだ覚えがあるからなのですね。なんでそういうことになったのか、誰もいない音楽室で、放課後だったのか、いや放課後だったらクラブがあるよ。いや、土曜の放課後か。なぜそういう状況になったものかつまびらかには思い出せませんが、なぜか教師と私の二人が音楽室で、『なごり雪』の検討をしていて、先生は明らかにこの歌を気に入っていらっしゃらないご様子で、特に譜割りに文句がおありのようでした。

それはですね、なごり雪も降る時を知りが「降る時/お尻」に聴こえるだとか、君のくちびるが「さようなら」と動くことがが「さよ/おなら」に聴こえるだとか、おっさん、下ネタかいな! 明らかにクラシックでもって育っていらっしゃった先生には、このへんがお気に召さなかったのかも知れませんね。あと、それから、拍子が四分の二になるところも納得がいかないといって、四分の四に直しちゃって、ええ、なんか懐かしいですね。このときの情景ははっきりと覚えていますよ。しかも、『なごり雪』歌うたびに、この話が先生の口ぶりとともに思い浮かばれてきて、私はお尻やおならとたたかわないといけない。意識的にそう聴こえないように歌おうとしますからね。

先生、昨日おとついは雪が降りましたよ。春だというのに雪が降って、なごり雪も降る時を知り、私はまた先生のことを思いだしましたよ。

イルカ

伊勢正三

引用

  • 伊勢正三『なごり雪

2006年3月14日火曜日

はげまし希望

私だって人間なので、落ち込んだりふさぎ込んだり、寂しかったり悲しかったりするあまりに誰かにすがりつきたいだなんて思ったり、泣きたくなったり人恋しかったりすることもあるのです。そんなときにかけられる言葉があるということはなんとありがたく、嬉しいことであろうかと実感して、人というものに背を向けてきたかのような自分のこれまでを悔やみます。だから願わくば、私も誰かの力になれるといいと思う。うつむいている人があれば、そっとはげましの言葉をかけられるような人間になりたいと、そんな風に思います。

浜田隆史氏の歌に『はげまし希望』という歌があって、この歌に流れる叙情性が胸に迫るようで、私は好きなのです。けれど、歌詞を読めばわかるのだけど、これはおそらく、これまで同じ道を歩んでいた人に向けられた歌で、違う道へとはずれていってしまう私を笑顔で送りだしてくれないかと頼む歌なのですね。不安があって、けれどその不安を越えていこうと決めた私をはげましてください。そういう歌なのだと思うのです。

こんな歌詞があるんです。

言葉はとても大事なもの
それはわかるけど
言葉でうまく言えない時は
ただ黙ってしまうのです

私にもあるのです。思うことが言葉にならないということは、往々にしてあるのです。けれど、それがもし私が落ち込んでいるときであれば、素直な思いを — どんなに稚拙であったとしても — そのまま言葉にしたい。そしてそれがもし誰かが落ち込んでいるときならば、そのそばにありたいと思うのです。誰かが、私の思うところをはかってくれて、そばにいてくれることがあれば、それはきっとなににもましてありがたいことではないかと思います。だから私は弱気でいる人があれば、そうしたいというのです。

落ち込んでいるとき、そばにいるよと告げてくれる人がいることは、なににもましてありがたい。これは、本当のことなのです。

引用

  • 浜田隆史『はげまし希望』 オタルナイ・レコード OTR-010R,CD【私の小樽】

2006年3月13日月曜日

さんさん録

 私ももう人生の折り返し点を過ぎて、そういうには早すぎるようにも思いますが、いったいいつ私の人生が終わるのかがわからないでは、遅いも早いもなくってですね、昨夜、高校時分の部活の顧問であった先生が逝去されたという連絡を受けまして、もうお歳であったからそうかと思う、その程度なのですが、しかしこうして私のまわりから、櫛の歯が抜けるように、知った人、お世話になった人がいなくなっていって、寂しいなあ、悲しいなあ、私はたまらなくなります。

そんな時に、ちょうどこうの史代さんの『さんさん録』が出ていたのは、私にとってはすごくありがたいことで、自分の中にわだかまる悲しさやらなんやらを客観的に見つめるきっかけとなってくれました。主人公参さんは妻に先立たれて気力をなくしたところを息子夫婦のうちに呼ばれて、それからのつつましやかな家庭での暮らしが語られることのほぼすべてです。日常の事々、家事、ちょっとしたことがきっかけとなって、隣にいたはずの妻を思う。寂しげであったり、悲しげであったり、そして時に深く優しげであったり。亡くなった人は、どこかへゆくのではなくて、私たちの傍らにこそあるのかも知れないと思った。流れもしなければ、消えもしないのかも知れないと思いました。

さんさん録、これは生前に妻、おつうさんが書きためた奥田家の記録の一部をなす、夫さんさんにまつわる記録です。参さんは分厚い奥田家の記録をひもとき、空虚に流してしまうところであった残された日々に生活を取り戻してゆくのですが、その過程は死者との対話に似て、荘厳で清浄でけれどとても人懐こく、微笑みもあれば暖かみもあって、こうした時間を追って思うことができれば私たちも死を怖れることはないかも知れない、いや、それでも私は死を怖れます。私自身の死ではなく、私が大切に思う人の死を怖れます。

もしまた愛した人を失うことがあったら、私は立ち直れないかも知れない。けれど私は心の壊れそうな思いにさいなまれる可能性を思いながらも、きっといつか時がそれをいやすだろうということも勘定していて、そして完全にいやされることがないということもわかっているのです。後ろを振り返るなよ。前を向いていこうや。そう思うし、もし私が先に死ぬことがあれば、残される人にはそのようにいっておきたい。そう、残された私たちも、いつか追いつくのですから。少し先にいらっしゃっただけで、私たちもいずれそこへたどり着くのですから。けれど、それまでの時間がつらくて悲しい。果たして私に耐えることができるだろうかと思うとき、きっとこの漫画は、ありうることをあらかじめ私に予測させて、いわば一種の覚悟をさせるのではないかと思います。

すまんね。辛気臭いね。けど、こうの史代の漫画は、そんな辛気臭いということがないから安心してください。確かに寂しさや悲しさを感じさせることはあって、けれどそれと同じくらい仕合せを感じさせて、世界の、人の優しさ暖かさがしみるようです。参さんを案じる人があるように、私を思う人もきっとあるでしょう。参さんが案ずる人のあるように、私の思う人もやはりあるのです。だから、そうした人たちのために生きることができたらば、そうした人たちとともに生きることができたらば、残りの人生もきっとずっと素晴らしいことであるでしょう。

私はそのように思います。そのように思えるようになったのは、私にとってなにより大切な人たちのおかげで、そして心に染みる本、漫画たちのおかげであろうかと思います。そして、その漫画の中にはこうの史代の漫画がそうっと、けれど確かに位置を占めています。

  • こうの史代『さんさん録』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。
  • 以下続刊

2006年3月12日日曜日

ファイナルファンタジーXII ポーション

 ええと、お試しBlog初の試み。今日扱うのは飲み物についてです。ついに食品にまで進出して、でもきっと今後食品を扱うことなんてなさそうだから、カテゴリどうしよう。飲み物(Boissons / Beverages)カテゴリを新設するのは簡単だけど、今後一件も追加されないというのはあんまりに悲しすぎる。なので、雑貨に押し込んでみました。というか、本当に押し込みだなあ。

さて、無理矢理に押し込んでみました本日のアイテムはなにかといいますと、今巷で話題沸騰(?)のポーションです。ファイナルファンタジーXIIの発売に向けてリリースされた飲料で、サントリーから絶賛発売中。絶賛というのは言葉の綾やなんかではなくて、地域によってはかなり入手困難である模様。コンビニ何店舗も回って一向に見つからない、空の棚があざ笑うようだよ、みたいな情報も寄せられて、でも、あれ? 私の身の回りにはごろごろだぶついているがごとく大量にあるのですが。

基本的に私の性格からすると、この手のものには手を出さないというのが相場なのですが、あまりに周囲で盛り上がっているものですから、いっちょ飲んでみようかねと思って入手してみました。

買うにあたってですね、私も一通り情報を集めてみたんです。でも、色についての情報を得ることができず、だからここはまず自ら確かめてみなければなるまいと、愛用の脚の低いワイングラス(どこで使われるものであるかおわかりの方もいらっしゃるでしょうが、これ、盗ってきたわけじゃありませんから。いただきもので、四客そろっています)に注いでみてびっくり!

FFXII Potion

青い! コーチ、青いです!

原材料を確認してみたところ、これ、青色1号ですね。思うんですけど、着色する必要はないでしょう。しかもよりによって青(というかシアン?)はないよ……。

色の時点でかなり腰が引けたのですが、せっかく買ったものですから飲まないわけにもいきません。というわけで勇気を出して飲んでみてまたびっくり!

甘い! コーチ、甘いです!

これ、めっちゃくちゃ甘いですね。原材料名の筆頭に果糖ブドウ糖液糖が記されてるのは伊達じゃありません。ちなみに次点は砂糖。これは甘いわ。甘さにへこたれそうになります。

飲んでみた感想はといいますと、素直なところをいいますと、ラムネ(飲み物じゃなくてお菓子の方)を液体にして飲んでいるといったような感じで、エリカさんは思わずタンスをかじったね、とそんな具合に甘い。確かにあとくちにはほのかにハーブが香るのですが、でも正直これならそのままハーブティーを飲みたいなあ。ええ、コーヒーにも紅茶にも、もちろんハーブティーにも砂糖を入れずに飲む私には、ポーションは甘すぎました。

けど、まずいってことはないと思いますよ。それ以前に甘すぎるというだけで。この甘さがなくなったら特になんともなしに飲める飲み物だと思います。あ、甘さをなくすなら一緒に着色料も抜いて欲しい。糖類を抜いて、着色料も香料も抜いて、そうしたら私にはいい感じかも知れません。

一応記念だから、原材料名他を抜き書きしておきます。

●品名:清涼飲料水 ●原材料名:果糖ブドウ糖液糖、砂糖、ローヤルゼリー、プロポリスエキス、エルダー、カモミール、セージ、タイム、ヒソップ、フェンネル、マジョラム、マンネンロウ、メボウキ、メリッサ、酸味料、香料、カフェイン、保存料(安息香酸Na)、リン酸塩(Na)、ビタミンB6、ビタミンB1、青色1号 ●内容量:120ml ●賞味期限:ラベル下部に記載 ●保存方法:直射日光をさけて保管ください。 ●販売者:サントリーフーズ株式会社

引用

参考

2006年3月11日土曜日

愚者の楽園

今日はコメントSPAMの対処やらなんやらで疲れてしまって、くさくさして、なにに対してもやる気を失ってしまって、そんないやな気持ちでいっぱいになってしまったのですが、こういうときには川原泉の漫画が効くのです。なかでも私には『愚者の楽園』が優しくて、思えばこれは私がはじめて読んだ川原漫画でした。

詳しくは、以前書いた文章を読んでくれ、ていうのもなんだからちゃんと書きますよ。ああ、駄目だ、思い出したら泣きそうになってきた。そうなんですよ。川原の漫画は心の奥底にすっと入り込んで、日頃はかたくなな私も、思わずほだされ、素直になってしまうのです。普段からため込まれているようななにかがどうっと一度に洗い流されるように消え去って、こうしたことをカタルシスといいますが、確かに川原の漫画にはカタルシスがあります。決して大げさなそぶりを見せないのに、大きな波となって押し寄せるようなカタルシスがあります。

『愚者の楽園』を一言で表すとすれば、けなげであると思うのです。私たちは与えられた状況の中で、自分にとって少しでもよい状況を得ようとして四苦八苦しながら生きているわけですが、川原の漫画の登場人物においてもそれは同様。ただ普段はぼんやりとにこにことして見せているからそれと知れないだけなのです。けれど表にあらわれた穏やかさをそうっとのけて見てみると、悩んだり苦しんだり戦ったりしているんですよね。でもその大変なさまを大変な風に見せないから、川原の漫画とその登場人物たちはすごいと思うのです。

『愚者の楽園』のヒロイン麻子さんはまさにそうした人の典型です。この漫画は珍しく(といっていいのかな?)苦境というほどの苦境に立たされていないのですが、それはつまり一般的等身大の少女の悩みというのが素直に表現されているというわけで、恋愛にゆれる心模様もあり、しかし川原らしい苦境に立ち向かうシーンもきっちりと用意されていて、短編ながらも読みごたえのある素敵な小品に仕上がっています。そして私は、最後の最後、小さな人間たちが無力さに打ちひしがれることなく、自分たちにとって大切なものを守ろうと奮闘する姿に感動して、泣いたり、鼓舞されたり、もう大変なことになってしまうのです。

川原の漫画を読めば、大変なことを大変に取り組む必要はないのだと、ただ自分の大切にしたいものに向かって進んでいくことが大切なのだと、たとえ不器用でも、時に自分のちっぽけさにへこたれそうになりながらも、一歩一歩をあきらめないで歩むことが大切なのだと、そんな風に思えてきます。だから、私の心の健康には川原が欠かせなくて、それはちょうど今日みたいな日に実感するのですね。

  • 川原泉『美貌の果実』(白泉社文庫) 東京:白泉社,1995年。
  • 川原泉『美貌の果実』(白泉社文庫) 東京:白泉社,1987年。

SPAMに負ける

こととねお試しBlog[旧お試しBlog]は、本日四百を超えるアクセスを記録しました。もちろん過去最高記録です。でも私は全然喜んでいません。なぜかというと、この内訳にありまして、おそらく三百以上がコメントSPAMの投稿にともなうアクセスでありまして、残る百程度はSPAMコメントを削除するために私がリロードした回数だからです。そう、数百のコメントSPAMが投げ込まれ、その対処で大わらわであったのです。

以前にもいっていましたが、ここ数年のSPAMの主流はBotnetであり、乗っ取られた憐れなPCから大量のSPAMメールやらSPAMコメントやらが発されています。今回のケースでは、朝の8時43分から45分にかけての数分間で数百のコメントがポストされていたのですが、この事例からもBotnetの威力は容易に知れるでしょう。今回はたまたま私のBlogがそのターゲットとなったわけですが、もちろんBotnetの対象は私のBlogだけでなく、防御の甘いBlogや掲示板があれば簡単に攻撃対象になりえます。一種社会問題化して久しいのですが、あからさまにBotnetであるという証拠もなかなか出ないものですから、一般的な認知度はまだ高いとはいえません。

防御の甘いBlogが狙われるといっていましたように、このBlogのSPAM対策は極めて脆弱です。投稿の拒否をしようにも、発信元のIPアドレスに対してブロックするのがせいぜいで、だからIPが変わると投稿可能。このアクセス制限手法は、Blogを荒らす人間が個人である場合にのみ有効で、こういえるのもプロバイダの変更は簡単にはなされないだろうという希望的観測が根拠、どうしようもなく希薄な根拠に基づく考えです。

Botnet出現以前のSPAM行為も、個人による攻撃行為同様に、特定の端末から発されるのが一般的で、仮にそれがどこかを踏み台にして身元を偽装していたとしても、発信元はある程度しぼれました。だから、IPアドレスでもってブロックするという対処法も少しは使えたわけで、でもこれでも万全ではありませんね。プロバイダを変えたら、踏み台を変更したら、それでもう駄目です。でも問題ユーザーを常に抱えるようなプロバイダもある程度絞れるので、そういうプロバイダを中心に対処することで、多少の効果も期待できます。

ですが、Botnetだとそうはいきません。Botnetの場合、敵は全世界に転がっているゾンビPCです。プロバイダなど特定できるわけもなく、事実今日このBlogが受けた攻撃もとは、アメリカ、イギリス、ロシア、中国、台湾など広範囲にわたり、昨年12月から講じてきた攻撃もとIPを含む65,536IPを制限するという対策は、まったく無意味、焼け石に水でさえなかったということを改めて明らかにしました。いや、わかってたんですよ。でも、わかっていながら対処のしようがなかったのです。

コメントSPAMにはある程度のパターンがありまして、主に検索エンジンにコメントを読ませるのが目的であるそれらには、攻撃者が保有するサイトのURIが含まれています。a要素を含んでいるのも多く、また一部のBlogや掲示板で採用されているリンクを作成するための記法を含んでいることも多いです。だから、もし禁止語句を設定することができるなら、そうした特定のフレーズを取り締まることで被害を激減させることができます。ですが、私の使っているBlogサービスにはそうした備えがなく、複数のユーザーからクレームは寄せられているはずだと思うのですが、改善される気配さえもなく、ただむざむざと攻撃されるままになっています。

なお、サポートはメールフォームのみ。今日、あまりにあまりと思ったからついに電話に踏み切ったら、その窓口ではインターネット接続に関するサポートのみしか扱わないとのこと。ホスティングとBlogはメール・サポートのみですといわれ、しかしメールを出してもまったく返事さえよこさないような状況だから電話したわけですが、いったいこの利用者を舐めた態度はなにかと、仕事に対してやる気があるのかと、さすがの私も頭にきました。

と、以上のような経緯から、最後の手段でもって対策することにしました。現在、当Blogではすべてのコメントを拒否しています。これは実に苦渋の決断で、数少ないコミュニケーションの手段を閉ざすことは本当にしたくなかった。コメント自体は少ないといえども、やはりコメントがあれば嬉しく、Blogというのはただ一方的に記事を書いて公開するだけではなく、読者からのレスポンスによって支えられている仕組みなのだと、自分でもBlogを運営するようになって実感したものですから、本当に全拒否などはやりたくなかった。

ですが、次に大規模なコメント攻撃を受けたら、私はBlog自体を放棄するかも知れないと思ったものですから、拒否せざるを得ませんでした。だってね、コメントを削除するだけで一時間以上かかるのです。攻撃者はほんの一二分で数百をポストしますが、削除にはその百倍ほどの時間がかかるのです(コメントの管理しにくさも当Blogサービスの問題であると考えていますが、ここではあえて問題にしません)。

なんとかコメント受付は維持したかったのですが、今回ばかりは負けました。禁止語句の指定機能がつくまで、当Blogはコメントを受け入れることができません。ですがトラックバックの受付は可能なので、もしなにかありましたら、トラックバックしてくださるとありがたいです。それらは私にとってどれほどのなぐさめになるかわかりません。

2006年3月10日金曜日

カレーの王子さま

今、私の職場にはとにかくカレーが好きだという男がひとりあって、朝昼晩三食カレーでも飽きないみたいなことをいっているものですから、そんなことじゃいつかキレンジャーになるぞなんていってたりする。ともあれ、カレーが伝来し日本洋食化し、私たちの食卓に乗れば子供たちは喜んで、まあ、私も喜びますよ。でも、きっと姉の方が喜ぶだろうな。思い返せば、姉は本当にカレーが好きでした。

で、なんでカレーについて延々書いているのかというと、今日、大阪は南港ATCにいってきまして、そこでカレーを食べまして、そのカレーというのは日本カレーよりもオリジナルに近い。昼食のバイキング、バイキングとなればどうにも食べ過ぎてしまう傾向にありまして、案の定食べ過ぎました。ええ、夜になってもお腹がこなれず、まさに午後はカレーにどっぷりと浸ったかのようであったのです。

なので今日はカレーにどっぷり浸った男の話。川原泉の『カレーの王子さま』です。ひとつの食べ物に執着してしまうという吉川弘文(これってどう見ても吉川弘文館! ちなみに妻はみすずだ)が物語であり、彼が今まさに執心するのはカレー。日本カレーなのでありますね。

けどこの漫画はカレーという食べ物をモチーフにしながら、いわゆる料理漫画食通漫画におちいらず、若い(?)新婚夫婦の仲むつまじい(?)日常を描いて、ほのぼのと明るく暖かい小品に仕上がっています。私がこの漫画にはじめて出会ったのは高校生の頃、部活の同期が貸してくれたのがきっかけで、しかし少女漫画にこういう独特の世界があるとはこのときまで知らなかったのです。

川原泉は紛れもなく固有の価値です。よく男にもファンの多いなんていわれる川原ですが、それは男とか女とかのカテゴリをまたぎ越しているからで、どことなくドライで、けれど人情は深くしみじみと、この背反の性質がひとつところに調和してすごく素敵。そう、きっと私が川原にひかれてやまないのは、こうしたところにあるのでしょう。

『カレーの王子さま』は、惚れた腫れた好きだ愛してるということなしに、妻へ夫への愛をほのかに感じさせて、私はこういうところになんだかじんとしてしまいます。泣きはしないさ。楽しく読めるコメディだもの。けれど、なんだか心の奥底にほっとしてゆったりとした時間が生まれるような感じがします。

ええ、間違いなく私は、川原のこういうところにひかれています。私にとって川原とは、疑いもなく固有の価値であるのです。

2006年3月9日木曜日

欺術(ぎじゅつ) — 史上最強のハッカーが明かす禁断の技法

 なんかここ最近、Winnyを介した情報漏洩というのが相次いでいまして、それも名だたる大企業や公的な組織 — 学校、警察、自衛隊がそうした被害に遭っているようです。ん? 被害? 実をいうと私はこれらは被害だとはちっとも思っていません。だってね、そもそもファイル交換ソフトと機密性の高い情報を共存させるのがいかんのですよ。それを新聞やなんかはあたかもWinnyという特定のソフトが悪いような見出しを付けて、ですがこれは悪いバイアスですよ。Winnyに感染みたいな誤謬丸出しの見出しを付けた記事も見ましたが、ですが当然のことながら、Winnyはインストールされないことには入りません。ウィルス感染は確かにあったのでしょうが、しかしそれでも漏れて問題になるような情報をそうしたファイル交換ソフトインストール済みの端末に置くというのが問題で、とにかく理解しがたい状況であるとしか言い様がありません。

仕事に使うPCならファイル交換ソフトなんて必要ないでしょう。私用のPCなら、そんな機密情報をなんで持ち帰ってるの? って話にもなります。CNET Japanで読んだ記事によりますと、自治体の情報セキュリティにおける最大の懸案事項は職員の意識なのだそうですが、しっかりしろよ公務員なんてものではなくて、昨今の状況を見るかぎり、問題があるのはすべての職種、すべての職場であるといってもよいのではないかと思います。

というわけで、今日紹介しようというのはソーシャル・エンジニアリングを扱った本。著者のケビン・ミトニックというのは有名なクラッカーでしてね、いろんな企業やら組織やらに侵入して機密情報をいただいたりした人です。そのために捕まって有罪判決を受けたのですが、それでもなんだか不思議と人気のある人です。ちなみに映画にもなったりして、まあそれがまたださいタイトルで、しかも一方的な視点から書かれた本が原作だからと、いいたいことはたくさんあるのですが、やっぱり悪いことして捕まった方が悪いのだということなのでしょう。

で、そのミトニックさんですが、出所後はセキュリティ専門家としてご活躍とのこと。で、彼が明かすクラッキングの手法というのがソーシャル・エンジニアリングなのです。ソーシャル・エンジニアリング、日本語では社会工学と訳されたりしますが、これはいったいどういうものかといいますと、言葉巧みに近づいて情報を聞きだしたりといった、そういう作業のことをいうのです。他にもいろいろ、例えばゴミをあさってみたりというのもソーシャル・エンジニアリングの一手法で、なりすまして電話をかけたり、メモやなんかを盗み見てみたりと、とにかく地道な捜査をするのですね。

私自身はクラッキングに興味はないので、こうした手法を試したことはないのですが、でも実感としてはかなり有効であること疑いなしと思っています。私たちは普段気をつけているつもりでも、存外不用心なものなんですよ。例えばあなたの職場でですよ、事務所をぐるりと一回りして目に付くログインユーザー名とパスワードはいくつありますか? 不用意に出しっぱなしにされているパスワードリストはありませんか? あなたは同僚との会話の最中に、そうした情報を口にのぼしたりはしてませんか? 電話での問い合わせにうっかりパスワードを答えたりしたことはありませんか?

私が昨今話題の情報漏洩のニュースを目にして思ったのは、ちょっとソーシャルな方法で探りを入れたら、きっとざくざくお宝情報が手に入るんだろうなということでした。だから、そうした情報に興味のある方には、ミトニック氏直伝の『欺術』がお勧めです。なにしろここにはソーシャル・エンジニアリングの基礎技術がしっかり紹介されていますからね。

余談

こうした本を一番読むべきなのは、情報を守るべき側であるのはいうまでもないのであって、本文の反語的表現を額面どおり受け取ったりするのは、本当によしてくださいよ。

参考

2006年3月8日水曜日

漱石全集(第二次刊行)

  私はむかし図書館に勤めていたことがあって、そこではなにがよかったといっても、書店の外商さんをとおして本を買うと一割引だったというところでしょう。だから私はここで結構高い本をそろえまして、例えばそれは『阿部謹也著作集』で『新校本宮澤賢治全集』で、そしてその最後にくるのが『漱石全集』。漱石全集は1993年版の第二刷が出るということで、図書館用にどうですかとチラシが入ってきたのを見つけて、よし買った! といっても図書館用にではなくて、私の個人用としての購入。こう書くと見た瞬間に購入を決めたようにみえますが、実際には結構迷いまして、予約締め切りぎりぎりまで悩んだんじゃなかったかな。けど、これは持っておいてもいいかなと思ったものだから購入に踏み切ったのですよ。

でも残念ながら、『漱石全集』第二次刊行の完結を待つことなく私は図書館をやめて別のところに移っていって、だから手もとには中途巻までの『漱石全集』が残ったのでした。けれど、私こういうときにはなんというのか執念深くて、いつか必ずそろえてやろうと、なんかの弾みで図書券や図書カードをもらえることがあれば、『漱石全集』用にと決めて取っておいて、少しずつでもそろえていくと決めたのです。

以前、調べてみれば2005年の1月22日のこと、大阪のジュンク堂にいって買ったのは何冊分でしたか。確か六冊か七冊だったと思います。このときは第18巻の漢詩文までをそろえて、それから一年あまりたって、京都のジュンク堂でようやくまた五冊を購入。第23巻、書簡の中巻までが手もとにきたのでした。

残すは書簡の下巻、別冊上中下、総索引、そして別巻。あと六冊かあ、結構あるなあ。

岩波書店にはこれらの在庫があることを確認していますが、けれどこれらはとりあえず刷った分だけしかないのも確かで、だから早いうちに、少なくとも今年の夏あたりにはそろえたいと思います。そろえてどうする、研究者でもないくせに、という思いもないわけではないのですが、それでもそろえようと思ったこと、そしてそれが不可能ではないということ、なにより漱石を深く知りたいと思うこと、これらが自分の中にわだかまる疑念を払拭させるのです。

とか格好いいこといってるけど、少なくとも「漢詩文」だけは一生読まないと思う。正しく言い換えるなら、読めないと思う。だから、これは孫子の代に積み残したいと思います。私の子は、すらすら漢詩も和歌も読めるように育ってくれればよいなと。まあ、私が私ですから、このうえなく無責任な発言ではあるのですけどね。

  • 夏目金之助『漱石全集』第1巻 東京:岩波書店,2002年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第2巻 東京:岩波書店,2002年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第3巻 東京:岩波書店,2002年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第4巻 東京:岩波書店,2002年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第5巻 東京:岩波書店,2002年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第6巻 東京:岩波書店,2002年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第7巻 東京:岩波書店,2002年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第8巻 東京:岩波書店,2002年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第9巻 東京:岩波書店,2002年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第10巻 東京:岩波書店,2003年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第11巻 東京:岩波書店,2003年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第12巻 東京:岩波書店,2003年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第13巻 東京:岩波書店,2003年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第14巻 東京:岩波書店,2003年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第15巻 東京:岩波書店,2003年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第16巻 東京:岩波書店,2003年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第17巻 東京:岩波書店,2003年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第18巻 東京:岩波書店,2003年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第19巻 東京:岩波書店,2003年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第20巻 東京:岩波書店,2003年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第21巻 東京:岩波書店,2003年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第22巻 東京:岩波書店,2004年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第23巻 東京:岩波書店,2004年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第24巻 東京:岩波書店,2004年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第25巻 東京:岩波書店,2004年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第26巻 東京:岩波書店,2004年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第27巻 東京:岩波書店,2004年。
  • 夏目金之助『漱石全集』第28巻 東京:岩波書店,2004年。
  • 夏目金之助『漱石全集』別巻 東京:岩波書店,2004年。
  • 夏目金之助『漱石全集』補遺 東京:岩波書店,2004年。

2006年3月7日火曜日

Microsoft Office Access 2003

 MS Accessに関しては私は運がよかったのだと思います。出会いは以前の職場。配備された端末にはMicrosoft OfficeのProfessionalがインストールされていて、ちょうどデータを扱う仕事であったことから、見様見まねでRDBに入門したのでした。しかし、私がそれまで触ってきたデータベースというのはもれなくカード型データベースであったものですから、どうもAccessはピンとこず、そこへ同僚が魔法使いの開発工房を発見。この情報を得て、だから私はAccessの魔法使いニキータさんの弟子なのです。

あの、はじめてAccessをさわりはじめたあの頃は、バージョンも2000。気がつけば二十一世紀。現行のバージョンは2003であります。

RDB、リレーショナル・データベースといえばそのどれもが重量級のサービスで、いくらMySQLやらが軽いといったとしても、ちょっと手軽に使ってみようと思える代物ではありません。ところが、この仕組みとしては結構高度なRDBを手軽に扱える環境がある。それがMS Access。実際、AccessはMS Officeにおける肝であり、まさにキラーアプリケーションといえる存在であります。

ですが、時間がたってですね、その優位も揺らぎはじめてきているといいますか、OpenOffice.orgがバージョン2になって堂々データベースアプリケーションBaseを引っさげてあらわれてきたかと思えば、日本語プログラム言語「なでしこ」がパブリックドメインのSQLアプリケーションSQLiteを同梱するなど、ここ数年、RDBMSをめぐる環境は一変しているといっても過言ではない。選択肢が一挙に広がって、RDB花盛りといった様相を見せていると実感します。個人ユーザに関しても企業ユーザに関しても、RDBの敷居は確実に下がっていると思います。

個人ユーザに関しては、MS AccessとOOo Baseの一騎打ちという感じでよいと思うのですが、このふたつを比べると、やはりAccessには一日の長があるというか、実際MSはいい仕事をしていると思うのです。上位バージョンを使いはじめた時は気付かないんですが、途中で旧バージョンをさわるようなことになると、そのあまりの使いかっての悪さに辟易します。かつて私のゆりかごであったAccess 2000はもう手狭で使いにくいと感じられて、Access 2002に関してもそれはもう同じ。私にとってAccessは2003でとどめを刺しています。それくらい進化している。残念ながら、OOo BaseがAccess 2003の域に食い込むのは後数年を待つ必要があると判断せざるを得ないでしょう。

Accessの優位はなにかというと、その手軽さであることは間違いなく、これはその登場当初から変わりありません。でかいシステムを組むほどではないけれど、Excelやなにかで管理するには荷が重すぎるというようなものは、もうAccessで決まりですよ。私は職場のメールの管理をAccessでやり、人員の管理もAccessでやり、差し引き簿もAccessで作り、そしてやっつけ仕事にもAccessは最適です。

とりあえずデータをCSVで用意した。これをなんとか分析、整理して欲しい。こういう仕事が投げられることがまれにあるのですが、こういうときはなにはなくともAccessにぶち込んで、SQL書きまくります。私の最初の導師がニキータさんだったとすれば、次のステップアップは稚内北星学園短期大学の丸山不二夫氏のおかげでなりました。稚内北星学園短大に公開されている「UNIX データベース入門」を読んで、私はSQLを自分でも書けるようになり、だからこういうのですが、AccessはSQLを書けるようになると、数段使い勝手があがります。

SQL書きまくって、書きまくって、書きまくって、分析、整理して、最初は渾沌としていたデータが徐々に明らかになり、最後には正規化される。この楽しみはちょっと言葉にはしがたいものがありますよ。もちろんうまくいかないことも多いのですが、けれどしっかり使えるデータベースができたときの喜びはなかなか他に換えがたいものがあります。

だから、私はその資質があると思われる人があれば、RDBの使用を勧めます。金持ちだったらMS Access。そうでないなら、OOo Base。そして、これぞという人にはなでしこを勧めます。

2006年3月6日月曜日

ぱにぽにだっしゅ! ボーカルベストアルバム 歌のザ・ベストテン

 以前私は『黄色いバカンス』を評してこりゃ、買いますね。シングルになるかアルバムになるかはわからんけど、絶対買いますねなんていってましたが、じゃあ買ったのかというと、買ってません。あー、この有言不実行のていたらく。で、この度ふたたび『ぱにぽにだっしゅ!』の話題です。

ほら、以前いっていました。最近のアニメはよくわからん私にとっては、こうしたボーカルコレクションとかが出るかどうかというさじ加減はわからんって。で、先日梅田に出たときに、偶然店頭にてボーカルベストアルバムが出ているのを発見しましてね、うわー、これは買いかー、と思いまして、けどちょっと手持ちがないものだから断念しました。もしこれが昨年夏に出てたらなー、絶対買ってたよなー、なんていいながら、自分の不実を棚上げしております。

さてさて、不実とはいっておりますが、それでも欲しいなという気持ちはあるのですよ。価格は三千円。ちょっと高いとは思いますが、シングル数枚分と思えばまあ妥当とも感じます。だから買ってもいいかなという気持ちは揺れに揺れて、なにしろ私はこの手の歌が結構嫌いじゃないものですから、しかも実際に聴いてみて『黄色いバカンス』は悪くないといってしまったくらいですから、やっぱり今でも揺れるのです。

そんなわけで、Amazonのレビューなんて読んでみたりして、そしたらドラマパートが入っているみたいなことが書いてあって、うわあ余計なことしてくれちゃって。というのはですね、私、アニメみてないから、ドラマパートなんていらんのですよ。純粋に歌だけ聴きたいじゃありませんか。だから、もしこの非歌唱トラックが独立していなかったりしたら! 買ってから血涙かもなあ。

レビューを読んでみたら、どうもサントラもなかなかよいできらしいという話で、そういうなら一度は聴いてみたいなんて思ったりなんかしていまして、そうなるとこちらは完全にレビュー買いになっちゃいますか? けど、やっぱりちょっと私は踏み切るに度胸がなく、これがもし昨年の夏、せめて秋なら、と思わないではおられません。

とかいって、どうせアニメみてないんだから、夏も秋も関係ないんだけどさ。余裕があったら買いたいなー。

参考

2006年3月5日日曜日

クオレ

 私の町には、一時に比べれば減ってしまったのですが、結構個性的な書店がそろっていて、漫画や趣味性の高い本をうまくそろえている書店があると思えば、児童文学やなんかをそつなく扱う書店もあって、まれに用があっていったりすると、必ずなにかしら欲しくなってしまうのですね。そのどちらもが私の行動範囲からはずれているのが残念というかさいわいというか、でも品揃えにて個性を主張している書店が身近にあるというのは、本当に仕合せなことであると思うのです。

その、後者の書店にいく機会がありまして、めったにはいかないから店内をぐるりめぐりまして、それでやっぱり欲しくなってしまいました。以前ここで買ったのは『秘密の花園』で、今欲しくなったというのは『クオレ』です。『クオレ』、世界的に知られ、愛されている児童文学です。日本では知名度はさほどではなく、けれど『母をたずねて三千里』といえば多くの人がそれと気付くはずです。名作アニメ『母をたずねて三千里』は、『クオレ』に収録された小エピソードであったのです。

私が『クオレ』を読んだのは、いったいいつごろのことであったでしょうか。もう思い出せないくらい昔。多分、高校に上がる前、きっと小学校の高学年くらいであったのではないかと思います。その頃は、人から借りたり、あるいは図書館で借りたり、なにしろ本も安くありませんからね、借りて本を読んでいました。ゲームにも熱中して、一日ゲームで遊んでいたような子供だったはずなのに、思い出せば結構本も読んでいたのです。児童書。全集の分厚い一冊を、一日かけて少しずつ進めて、それが本当に楽しかった。今ではもうなにをどれだけ読んだかもはっきりしなくて、けれどそうした思い出せないような記憶が今の私の心であったりの基礎を作っているのであるというのでしょう。だから、『クオレ』も私の大切な一部としてしまい込まれているのだろうと思います。

『クオレ』。私はもうすっかり忘れてしまいました。『飛ぶ教室』と混同してしまったりして、けれどこれらは全然違う作品で、それくらいに私は『クオレ』について覚えておらず、けど読んだという記憶ははっきりしているのです。

その記憶の中で『クオレ』はよい作品の棚に収められていて、だから私はまた読みたいと思うのです。また読みたい。読みたい。もし買うとすれば、偕成社の上下巻を買うでしょう。けど、私にはまだ読んでいない読みたい本がたくさんあって、けど、それらと同じくらいに読んだけどまた読みたい本があって、『クオレ』は間違いなくそんな一冊です。

お金があったら、買ったんですけどね。私は衝動買いするたちだから、あんまりお金を持たないことにしてるんです。けど、きっと来月には買っているのではないかと思います。そんな気がします。

  • デ・アミーチス,エドモンド『クオレ 愛の学校』上 矢崎源九郎訳 (偕成社文庫) 東京:偕成社,1992年。
  • デ・アミーチス,エドモンド『クオレ 愛の学校』下 矢崎源九郎訳 (偕成社文庫) 東京:偕成社,1992年。
  • デ・アミーチス,エドモンド『クオレ』矢崎源九郎訳 (少年少女世界文学館) 東京:講談社,1988年。
  • デ・アミーチス,エドモンド『クオレ物語』塚原健二郎編纂 (世界名作童話全集) 東京:ポプラ社,2000年。
  • デ・アミーチス,エドモンド『クオレ』杉浦明平訳 (世界文学の玉手箱) 東京:河出書房新社,1993年。
  • デ・アミーチス,エドモンド『クオレ—愛の学校』上 前田晁訳 (岩波少年文庫) 東京:岩波書店,1987年。
  • デ・アミーチス,エドモンド『クオレ—愛の学校』下 前田晁訳 (岩波少年文庫) 東京:岩波書店,1987年。
  • デ・アミーチス,エドモンド『クオレ』赤沢寛訳 (大学書林語学文庫) 東京:大学書林,1960年。

2006年3月4日土曜日

J. S. Bach : The Art of Fugue, BWV 1080 played by Glenn Gould

  アートという語は本来技術、技法という意味であり、それが今では芸術をさすものとなっています。これはつまり、芸術は本来的に技術に根ざすものであったということを示していて、そして今日はバッハの『フーガの技法』。技法はドイツ語ではクンスト、英語ではアートと表示し、つまりここでこれらの語の指す意味は芸術ではありません。フーガという楽式に用いられる技法を駆使して作られた一連の作品群。それが『フーガの技法』であります。

ピアニストとして知られるグレン・グールドは『フーガの技法』にてオルガンも演奏して見せて、彼の履歴をみると確かにオルガンも習ったことがあったみたいなのですが、彼のピアノが型破りであるようにオルガンもまた横紙破り。けれどそういうところがやっぱり彼らしいのではないかと思われます(甘やかしすぎかな?)。

グールドは『フーガの技法』を愛していました。楽器の指定のないこの曲こそは、まさに音楽の構造美の行き着く場所であるうんぬん、みたいなことをいってたんじゃなかったかな。さまざまなバージョンを聴いた、サクソフォンによる演奏も聴いた、そのどれもが素晴らしかった。そのように語る彼は自説を検証するように、オルガンでも演奏し、そしてピアノによる録音も残しています。

『フーガの技法』は単一の主題により作り出されたフーガやカノンによって構成されて、その曲順は出版者や演奏者によってばらばら。けれど私は思うのですが、この曲が楽器を指定しないというのなら、曲順も無指定でいいじゃないか。実際のところは演奏される楽器も想定されていたとする説が有力であったりするのですが、たまには謎を謎のままにしておくのもロマンティックでよいではないかと思ったりして。そんなだから私はいつも異端だなんだっていわれるんです。けど、気にしやしません。

象徴的に響くのは、未完のフーガでしょう。グールドのアルバムではContrapunctus XIV (Fuga A 3 Soggetti) unfinishedと記されていて、未完の語も実に趣が深く感じられます。

この未完というのは本当に未完で、演奏を一度でも聴いてみればわかります。グールドのピアノが奏でる神秘的でメランコリックな対位法の美がしんしんと降り積むようにして、振り返れば来し方足跡がてんてんと見えるというようなそんな曲。さあ、その曲がこれからいかにして終わりに向かうのだろう、美しいフレーズが終わりを予感させ、そしていよいよと思ったところですぱっと終わります。いや、終わったのではない。終わりがもぎ取られたかのようにして止まるのです。

そして沈黙。

美しい、本当に美しい曲です。

2006年3月3日金曜日

あおいちゃんとヤマトくん

   師走冬子の漫画では散々書いたような気がしていたのですが、まさかそれが『スーパーメイドちるみさん』でしか書いていなかったとは思いもよりませんでした。しかも『ちるみさん』で書いたといいながら、実質は『おサケの星座』について書いたようなもので、だからこれが私の初師走冬子関連文書ということになるのでしょうか。なんだか本当に意外な感じがします。

私にとって師走冬子とは『女クラのおきて』の作家でありまして、『まんがタイムラブリー』で『女クラ』がはじまったときには、まさかこれほどにまで人気の作家に成長されるとは思いませんでした。いや、好きなんですよ、『女クラ』。でもこんなにメジャーどころになって、ばんばかあっちからもこっちからも単行本が出るようになるだなんて思いもしなかったものですから、まるで自分のことのように喜んでいます。

師走冬子の代表作となると、やっぱり『ちるみさん』なんでしょうかね。けれど、どじっこメイドが大暴れ(?)という『ちるみさん』は一般人には少々ハードルが高く、『女クラ』にしても奇人変人オンパレード際物設定漫画だから、やっぱり一般層には受けない気がします。ですが『あおいちゃんとヤマトくん』は違います。本屋にてアルバイトする大学生の女の子、男の子が主人公で、ちょっとほのぼのとしたラブコメ風味? けどやっぱり師走冬子だから際物設定は健在で、けど他の漫画に比べれば充分許容範囲に収まるでしょう。

ラブコメ風味といいますのは、ラブコメというまでにラブコメ展開するわけでなく、けれどそれはそれで二人が互いを意識しあってるような節もあってという、そういうほのかな恋愛感情みたいのがふんわりと漂うのが私にはちょっと心地いいんです。ほら恋愛ものって、怒濤の展開みたいになっちゃったりするでしょう。あれね、私もまだ若くて元気だったらいいんだろうと思うんですけど、もう、そういうの疲れちゃったんです。なんというのかなあ、十年連れ添った夫婦みたいな感じでいいじゃないですか。好きだ、けれどすれ違い、そこへライバル登場! ってそんなの若いうちだけの話ですってばよ、と思う。こんな私に『あおいちゃんとヤマトくん』は妙に優しく響きます。本当に貴重な漫画と思うのです。

蛇足

香澄さんですな。いや、でも、ヤマトの妹で強烈なブラコンのかえでちゃんが気になるだなんて口が裂けてもいえない。口が裂けてもいえません。

香澄さんです。香澄さんが最高です。

2006年3月2日木曜日

でりつま

 『でりつま』ってタイトルはデイリー妻ってことだったのか。さすがにデリバリー妻とは思わなかったけれど(嘘、ちょっと思った)、デイリー妻とは思いませんでした。デリシャスなのかなって思ってましてね、いや、これも大概無理のある解釈であると思います。

『でりつま』は私にとって山名沢湖遭遇となった作品でありまして、これが購読している『まんがタウン・オリジナル』にあらわれたときは衝撃的でありました。異常に可愛い絵柄にシュールな内容。内容のシュールさは絵柄でカバーして、メルヘン? に持ち込んでいるけど、これ、結構シュールだよなあと思っていたら『白のふわふわ』などはその比ではなかった。いや、とにかく、結構衝撃だったのです。

以前からいっていますように、私ははまると既刊を全部買い集めるタイプです。ですが、その時点での既刊は『いちご実験室』一冊で、しかも絶版なんですか? どこにいっても売ってない。いわゆる出版社在庫なしの状態なのですが、これ、絶版とどう違うというのでしょうか。とにかく買えなくて、中古市場とか探すとおそろしい高値で(足下みやがって)、とにかくいろいろ手を尽くして入手がかないませんでした。

お願いですから、講談社さんは『いちご実験室』を増刷してください。いや、本気でお願いしますから。

『でりつま』がよかったと思うのは、現実味が程よくなくなるまでにふわふわに描かれた内容で、読むたびに、こんな夢みたいな感じで生きたいなあという気持ちがじんわりと涌いてくるんですね。決して非現実を追求するような漫画ではなくて、結構現実的な色合いも出しているんですが、メインヒロインのももえさんのズレっぷり、ふわふわ感が効いているのだと思います。ええ、効きます。とにかくいろいろとお疲れ気味の私にはいやになるほど効いて、もう中毒一歩手前というような感じでありましたものね。

でも、多分ヒロインがももえさんひとりだったらこんなにも効かなかったのではないかと思います。ヒロインは三人、ももえさん、すみこさん、たまよさんの、それぞれ性格や色合いを違えた三人が三様にあらわれてきたから、話にも膨らみが出て、私もその膨らみにそっと乗っかることができたのだろうと思うのです。

優しい空間だと思います。優しいというのは、ただひたすらに優しいというのとはちょっと違って、心地よくちょっと刺戟もあって、けどやっぱりくつろげるというような気持ちよさです。ひだまりっぽい。そういう気持ちよさがあふれているというのは、やっぱり作者の人となりであったりするのでしょうか。もしそうなら、私はこれからもきっと山名沢湖を追い続けるだろうと思います。

蛇足

すみこさんですね。すみこさん。ちょっと凛々しい感じのお姉さんって感じで、もうどうしたらええのんっ、て感じになります。

よいですわ。

  • 山名沢湖『でりつま』(アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。

2006年3月1日水曜日

特ダネ三面キャプターズ

 海藍の『特ダネ三面キャプターズ』が出版されて、私、これは非常に嬉しいです。この人の漫画が好きということもあり、またまとめて読める機会を得られたわけでもありまして、そうして読んでみれば、何度も本誌を繰り返して読んでいたはずなのに、あまりはっきりと覚えていないものもあって、初出一覧をみても『まんがタイムラブリー』にすべて掲載されていたはずだというのに、はっきりしない。もしかしたら、一時的に四コマ漫画につかれていた時期があったのかも知れません。買い漏らしなどはないはずですから、すべて手もとに残っているはずなのですから、そうとでも思わないと説明がつきません。

そうしてまとめて読んでみて、想像以上に面白くて改めて驚きました。いや、連載時に読んでいたんですよ。それで面白いと思っていたんですよ。しかもかなり面白いとまで。なのに、単行本になってまとめて読んでみれば、今まで感じていた以上に面白くて、これはいったいなにごとなんであろうかと思いました。

いや、そりゃ確かに連載で細切れに読むよりも、単行本でまとめて読んだほうが面白いものってありますよ。でもそういうのは大抵ストーリー漫画だったりして、そう『特ダネ三面キャプターズ』は四コマ漫画です。しかもストーリー展開などはしない。一回分をひとつのエピソードでまとめるタイプの四コマでありながら、それがひとつにまとまるとこんなに面白くなるんですね。ええ、口元から笑みの絶える暇がないほどに面白かったです。

この漫画は間違いなく刷を第二第三と重ねることでしょう。そして、もしかしたらそのうちに帯はなくなってしまうかも知れません。帯には、表にはずっと高二(幸)、裏にはずっと高二(辛)。この違いはいったいなんなんだ! という理由は帯をくまなくちゃんと読めばわかるはず。帯にまでネタがあって、しかもそのネタがかなりいかしていて、海藍さんのこりようには頭が下がります。だから、もしこの漫画にちょっとでも興味を持っている人がいたら、この帯のあるうちに買うべきなのではないかと考えます。マニアやおたくの類いで、とにかくチラシだろうが広告だろうが見たいというタイプの人は、この帯を確保すべき。でないといつか後悔する日が来ないともかぎりません。

細部にまで意識の張り巡らされていることのわかるネタの数々。これはもちろん本編四コマにおいても同様です。私は、この人のこういう丁寧に細部までを処理するところが好きなのだろうと思います。それで、ネタの向かう方向がきっと私の好きなところにゆくのですから、これで嫌いになれるはずがありません。

そんなわけで、出てくる女性陣が(一人をのぞいて)すべて辛辣な『特ダネ三面キャプターズ』。これはもう本当に最高であります。

蛇足

たからですね。冴木たから。最高じゃありませんか。特に、あの中学時分のボブ! ボブ! ボブ!

引用