2006年8月19日土曜日

ナチ・ドイツと言語 — ヒトラー演説から民衆の悪夢まで

 私はゲッベルスの手腕を大いに認めているものです。ゲッベルスとはナチスドイツの宣伝相であった人物であり、さまざまな手段でもってナチスドイツの思想をドイツ国民に浸透させていきました。その行き着く先が大空襲であったり殲滅収容所であったり、そしてドイツの敗戦であったりするのですが、しかしたとえ結果がそうであったとしても、それらは彼の宣伝の技術の高さをおとしめるものではないでしょう。内容を問わないという但し書き付きではありますが、私はゲッベルスの宣伝技術を買っています。あの技術は使える。だから、私たちは彼の用いた宣伝の手法を大いに知り、学ぶべきものであると考えます。

なぜなら、そうした知識や理解がプロパガンダに抵抗する力になるからです。こういうことをいきなりいうと、こいつ被害妄想なんじゃないかといわれるかも知れないですが、あえていいたいと思います。私たちはプロパガンダとは無縁ではありません。普段何気なく見ているものの中に巧妙に宣伝が紛れ込んでいる。知らない間に私たちは隠されたメッセージを受け取っていて、知らない間にそのメッセージを受け入れてしまっている。私はそうした状況にぞっとします。知らない間に、私の考えが作り替えられていくのです。最初はおかしいと思っていたことが、次第にそういう考えもあるねと変わり、いつの間にかそれが正しいのだと思うにいたる。

これはあり得ることです。本当にあることなのです。

そんなわけで『ナチ・ドイツと言語』を引っ張り出してきました。ずいぶん前に買って、長くご無沙汰していたものですが、読んでみたらやっぱり興味深いなと思わせる内容があって、その内容というのは、ナチスドイツ政権下においておこなわれた宣伝活動とその成果の検証とでもいったらいいでしょうか。プロパガンダが、どのような場で、どのような言葉でもっておこなわれたか。そしてその言葉はどのように受け取られたのか。読めば読むほど、大衆というのはプロパガンダの前に脆いのかも知れないと暗鬱とした気分になれますね。実際気分はもう『ゼイリブ』ですよ。

この本では、ナチスドイツによっておこなわれたプロパガンダだけが取り上げられているわけではありません。反対に、民衆の側にあったアンチナチスドイツの言語(教育、ジョーク、そして夢)も評価されていて、それを見ればあの国全体がナチス思想一色に染まったかのように思える時代が、実はそうでなかったということも見えてきます。けど、良心的な人たちがいて、その人たちが内心反ナチスであったとしても、ナチス化しようとする傾向はとまらなかったということが私にはなによりおそろしく思えるのです。

ジョークについての章に非常に私の心を打つ一節がありました。ちょっと引用してみましょう:

政治的ジョークは[中略]体制への順応にたいする《心理的アリバイ》(H・シュパイアー)としての機能もあったかもしれないという、まことにうがった解釈も出てくる。すなわち、権力からの締めつけに反対して立ち上がろうとはしない反抗の欠落について、深層意識においてひそかに抱かれている自己批判の感情を抑圧し、堪えやすくするためのアリバイかも知れない、というわけである。

心の中ではナチスドイツに反対してるんだけど、その反対を実際の行動に移せないという自分が許せない。そのような人にとっては、ナチス批判のジョークをいうことが、実行力のない自分自身へのいいわけになった。自分は確かにナチスに反対してたんだよという証拠やアピール(とりわけ自分自身への)になったのかも知れない、ということです。

私は自分を恥じます。行動力に乏しく、表立っては声も上げない自分に。そして、そうした自分へのいいわけを用意しているということに、このうえもない恥ずかしさを感じます。そして私のような、声を上げることもしなかったくせに、いっちょまえに反対派を気取っている人間というのも、いわばプロパガンダの共犯であるのでしょう。ここに加えていっておきますが、私は確かにプロパガンダに屈しています。まだそれが正しいのだと思うまではいってませんが、そういう考えもあるねと考えるようになってずいぶんになります。ここでおかしいと思うものに対しておかしいといえる位置まで戻れなければ、完全敗北でしょう。

『ナチ・ドイツと言語』は、いわゆる岩波用語で書かれているので非常に取っつきにくいのですが、内容は抜群に面白いです。こういうことを一般にわかりやすく説ける解釈者が出ればきっとよいのにと思うんですが、なかなか思うようにはいかないものだと思います。

引用

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