2006年9月3日日曜日

ぶどう・むらさき

 最近うちには種無しの西瓜があって、これもらってきたものだかなんだか、いずれにせよ私が種のあるのを面倒くさがって西瓜にせよ葡萄にせよ食べないものだから、こういうものはありがたいよねと食後いただきながら、でもなんだか自然に反してるようにも思えてきて、そしてふとその種無しというキーワードが入江紀子の漫画を思い起こさせたのでした。『ぶどう・むらさき』。ある夏休み、東京からきた若い叔母をめぐるちょっとしたエピソード。主人公は薫、この子の視線を通して、私たち読者は叔母ゆかりの一夏を垣間見るのでありました。

私は『アサハカな夜』という単行本を手にして、それまで入江紀子の一部しか知らなかったということに気付いたのですね。それまで私が知っていた入江紀子とは、『つうかあ』とか『やもめスケッチ』、それから『ただいま』。アットホームで穏やかで、そういう優しげな感じが好きだったんです。だから『アサハカな夜』には驚かされて、なかでもショックだったのが所収の『ぶどう・むらさき』、このタイトルは焼き付くようにして私の記憶に残ってしまったのです。

夫とけんかして家を出てきたゆかり。その理由やなにかははっきり語られることなく、すべてが曖昧の向こうに隠されたようで、けれど私たちは薫の見つけたものの向こうに、ゆかりの秘密を嗅ぎ取ることができる。果たしてそれは私たちの下世話な思い過ごしか、それともやはり思ったとおりであるのか、曖昧でありながらも答えははっきりしていると感じさせて剣呑。いや、むしろ剣呑であるのはゆかりその人であるのではないかとも思えてきます。読んでいると、私の胸もなんだかちくりと痛むようで、それがゆかりの働いた罪のせいであるのか、それともゆかりが長く胸の奥にしまい続けていた悲しみめいたものを感じるからなのか、それもあくまでおぼろげに、はっきりとかたちをなさいままにうずいています。

物語の軸を薫という子供の視点に押し込めたのが実に効果的であったのだと思います。偶然に、また子供らしい無邪気さのために、まわりの大人がだれも知ることのなかったことを知ることができた薫は、なにかがあるということを直感的に気付きながらも、なにしろ子供であるから見聞きした事々を繋ぐ糸を読むことができず、またその先にあるものがなにか気付くことができません。けれど、私たち読者は違います。私たち読者は、薫の見たことごとを大人の視点で読み解いて、その先に思いをいたらせることもできます。そして、そのままでは救いもなにもないようなドライな感じが残ったかも知れないところを、薫の朗らかさが和らげてくれている。物語こそはゆかりのものでありましたが、そこに薫が加わることで何層にも厚みを増したと感じられるのです。

入江紀子は改めてすごいなと、思いを新たにしたのがこの短編でした。私の一のお気に入りであります。

  • 入江紀子『アサハカな夜』(YOUコミックス) 東京:集英社,1995年。

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