2006年11月30日木曜日

SONY GPSユニット GPS-CS1K

 企業には大きく分ければ二種類あると思うのです。イノベーションマインドの有無がその評価の分かれ目であると思うのですが、新技術を、あるいは既存の技術を思いもしないかたちで応用することで、これまで思いもしなかったことを現実のものにする。それができる企業あるいは個人はすごいなと私は思います。例えば、AppleなんてのはiPodでもって、音楽を聴くというスタイルを変化させてしまって、けれど忘れちゃならない。この変化の第一歩は日本のSonyが先鞭をつけたのでした。Walkmanですよ。で、そのSonyがなんか面白いものをリリースして、ちょっと興味ありありです。それはなにかというと、携帯GPSユニット。今自分のいる位置情報を取得してくれる、そういうガジェットです。

GPS使って、自分の居場所を緯度経度で記録して、一体なにになるっていうんだろう。そう、これ単体ではそう思うのも無理ないと思います。つまりこれは別のものと連携する目的で作られている。そして連携するものといえば、写真です。

flickrという写真共有サイトがありますが、ここが、夏ごろにGeotagという位置情報タグに対応、写真を地図に重ねて表示できるようになっています。けど、それ以前にアルプスがflickrの写真を地図と連動させるサービスを開始しています。私はこのアルプスのサービスを知ったときに、試みとしては面白いけど、緯度経度を調べるのは正直骨だと思って(占星術の関係で自分の生誕地の緯度経度を調べたことがあるんですが、ありゃ面倒くさいよ)、これが盛り上がるためには緯度経度の取得を簡単にできるような、そんな仕組みがないと駄目だと思ったものでした。

はい、これで私のいわんところが読めたんではないかと思います。そうです。GPS-CS1Kで取得しておいた位置情報をもって写真と地図の連携を図りましょうという話ですよ。私はGPS-CS1Kを『日経パソコン』の記事で知って、面白いのが出てきたなあと感心したのです。それで、これがSonyから出てきたと知って、ちょっと嬉しくなった。だって、私もSonyにはイノベーションでもって勝負して欲しいと思っている一人ですから。知財の囲い込みもいいですが、そういうのじゃなくて、わあ、こんなのできると面白そう、こんなのやりたいと思ってたんだ、なんて思わせてくれるそんな企業であって欲しいじゃないですか。だからGPS-CS1Kには感心しました。これ、まさしくソリューションってやつだと思います。

現状では、まだこうしたアイテムが普及するにはいたらず、よって便利に連携させるためのツール群も整備されていないと、そういう状況ではありますが、いずれ整備されたら面白いんじゃないかなあと思うんです。調べたところによると、GPS-CS1K付属のソフトGPS Image Trackerが写真にExif情報として追加してくれる緯度経度を利用できるのは、同じく付属ソフトであるSuper Mapple Digital Ver.7 for SonyとGoogle Picasaくらいみたいですが、将来的には増えてくるだろうし、もしかしたらflickrにアップロードした写真にGeotagを追加してくれるようなソフトも出てくるかも知れない。そうなったら面白そうだなあ。そんな風に思うのです。

でも、現時点では移動体や地下、屋内での位置情報取得には難があるらしいので、まあでもこのへんは仕方ないのかも知れません。でも理想は、どんな状況でも情報をしっかり取得してくれて、後でがっさりと情報を追加できるという、そんなフロー。いや、さすがに日常の写真全部に位置情報つける必要はないと思うのですが、例えば旅先で撮った写真であるとかに位置情報がついたら、さぞ面白いんじゃないかと思います。もっとこういう機能が発展してくれたら面白いことになりそうだぞ、なんて思っています。

参考

2006年11月29日水曜日

コンプレックス

   帯に載せられた栗本薫のあおりラストでは必ず泣きますに、よくも悪くも興味をそそられて、楽しみにしていたまんだ林檎の『コンプレックス』第3巻を買いました。そして読みました。で、帯の惹句に対する感想をば。このあおりには乗っちゃいけないと思います。いや、個人的な感想ですからどのように書いてあっても文句はいえないとは思うんですが、なにしろ私のこのBlogからしても、なんだよ、そんな感想にはならなかったぜ、いいかげんなこといってんじゃないよ、という意見もあるでしょうしね。だから栗本薫のあおりにしても、そういう感想があってもいいとは思います。でも、私はそうは思わなかった。少なくとも、やけにクローズアップされているラストでは必ず泣きますは違うと思ったのでした。

なぜなら、私は泣くよりもむしろ自省をともに深く感じ入ってしまったからです。そしてここで再び栗本薫の惹句を引用。

優しくて深い,傷を抱いて生きる人々が素敵です。ヤオイもBLも越えた愛のかたちに,ラストでは必ず泣きます。

このあおりにおいて重要なのは、ヤオイもBLも越えた愛のかたちという部分であろうかと思います。おそらくこの話がスタートしたときには、こういう展開をするだなんて誰も思っていなかったんじゃないかと思うのです。ですが、こうしてすべての話が揃ってみれば、これは間違いなく本質的な愛のかたちを描こうとした試みであったと、そのように思えてきます。

私が深く感じ入ったというのは、紆余曲折を経てお互いの愛を確認しあった達也と淳一の晩年におけるあり方。静かで穏やかであり、しかしそれはただ凪いでいるだけのものではなく、なお情熱もあらば広がりを見せ強靱で、深みが動揺を寄せ付けず凪いでいるかに見せるというものなのでしょう。まさしく人生の伴侶というにふさわしいあり方を、揺るぎない説得力でもって提示しえた。これは泣くというようなものではない。もっと、もっと、違う、大きななにかなのです。

以前、この漫画で書いたときに触れた、息子の代の恋愛模様。これがあったことで、この物語の深さがより増したのだと思います。愛というものを模索し確認するような手続きが、真摯に丁寧に物語られることで、もうひとつの愛のあり方も掘り下げられ、深みを増したとそのように思うのです。私はこの一連の愛の物語を見て、読んで、自分がそうしたものから隔絶されているという不幸を思いました。愛されない不幸ではなく、愛さない不幸について、愛に歩み寄ろうとしない不幸について思ったのです。私は異性愛者ですが(多分)、そうした表現のあり方の違いを問わず、胸の奥、心の底にまで届く強さのある漫画でありました。涙を浮かべながらも、泣くなどというありきたりの表現ですますことのできない、そうした大きさを持つ漫画であったと思います。

  • まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第2巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第3巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,1996年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第2巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,1998年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第3巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,2000年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第4巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,2002年。

引用

  • まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (東京:朝日ソノラマ,2006年),帯。

2006年11月28日火曜日

ダーティペア 謀略の005便

 ダーティペアOVAシリーズでテンションを大いに下げてしまった私にとって、最後の希望といえるもの、それは『謀略の005便』でありました。ジャケット裏を見ればオリジナルスタッフが再結集と謳われており、総決算であるらしい。ううん、ちょっと不安かも。というのは、こういう原点回帰を売りにしようというパターンは、もうそのものが衰退期に入ってしまった時に、爛熟を過ぎ、消え逝こうとしていく時期に現れることが多いような気がする。そういう学習をしてしまっているからです。ですが、私は見て思ったのです。確かにこれはこれまでの『ダーティペア』を総括しうる力を持ったものでした。面白かった。ちっとも終わりなんかじゃない。本当に面白かったと思います。

ストーリーはというと努めてシリアス。絵柄がずいぶんとアニメっぽくなっているため、むしろ戸惑いを感じてしまうくらいにハードな内容で、そのチャレンジぶりは見るものに挑戦するがごとくです。まさしくSF・ミステリーの系譜にあるアニメであると実感しました。無茶はせず、丁寧に、しかし状況の許す限りのダイナミズムを追求していることがわかる。よく視聴者を翻弄し、予想を裏切りつつ期待には応え、最後までぐうっと引っ張っていこうとする意志が感じられます。完全無欠かといわれると、さすがにそこまではいいませんが、けれどエンターテイメントとしては充分以上の出来であったと思います。私はこれを見てすうっと溜飲を下げて、けれどかわりにずいぶんと切なくなりました。これで一連の『ダーティペア』連続視聴、いうならばお祭りともいえるような時間が終わってしまったということに加え、ストーリーのシビアさに揺さぶられてのダブルパンチであります。

『謀略の005便』、アイデアとしては、正直なところをいうと、あまり新鮮とは感じられませんでした。私は事前に読んだ惹句に、そして冒頭の流れからも、ずっと既視感に似たものを感じ続けていて、それは有り体にいえばTVシリーズ「うっそー!消えた463人?」及び「やったね!出てきた463人」です。この話と使われたトリック、それがずっと頭の中にあって、だから少し意地悪な視聴者だったかも知れません。TVシリーズで問題にされた部分がどう扱われるか、また逆にTVシリーズで無理したと思われる部分をどう処理するか、そういうことを考え続けていて、またあのトリックとは違う可能性も考えて、ずいぶんと忙しく頭を働かせながら見ていました。

このモチーフの似通っているのを見て、残念と思う気持ちもあり、けれど逆に、あの話を違うように取り扱って膨らませてみたリベンジなのかも知れないと思うところもあり、見終えてみては後者の印象が強いです。そういうところも含めて、『005便』は総括、総決算なのかも知れないと、そんな風にも思ったのです。

モチーフや着想には新鮮味はなかったですが、その分ドラマ、見せ方には力が入っていたと感じられます。そのせいか爽快感は少なめ、ずいぶん重い話になってしまったようにも思いますが、こうした暗さ重さは嫌いではありません。強い印象を残して、ちょっと忘れ難い話であると、そういう感想を持ちました。

小説

2006年11月27日月曜日

ダーティペア(OVAシリーズ)

  連休を創出して、その持てる時間の大半を『ダーティペア』にて費やしたというのは、この数日の記事を見ていただければおわかりのことであろうかと思います。もちろんアニメだけ見ていたというようなことはなく、他の日課もそれなりにこなしてはいたのですが、でもさすがに体はなまったようです。今日、久々に仕事に出たら、つらいつらい。朝、通勤の車内ですでに疲労が色濃く、仕事はやるにはやりますが、なにぶんふらふら。なので、疲れてしまっているので、今日も『ダーティペア』で書いてしまおうと思います。ただ、今日はOVAシリーズについて。ほら、昨日いっていた、正直これはあんまりだと思ったOVAシリーズについてです。

でも、OVAシリーズについてがっかりだみたいにいっていますが、全部の話が悪いと思っているわけではないのです。OVA第1話なんかは、ちょっとTVシリーズではなかったような雰囲気を出して、この先どうなるんだろうとわくわくさせる出来であったのは確かです。往年の名画007シリーズを彷彿させるような新兵器を開発する博士があって、これまでほとんど描かれてこなかったWWWA内部での人間関係みたいなものも描かれそうな雰囲気もあって(これは第2話が顕著ですね)、ほー、OVAシリーズはこういう和気藹藹としたアットホーム感でいくのかなー、こういうのも面白そうだなあなんて思ったんです。それになにより、第1話の敵地への降下シーンなんかは、素直に面白いと思えたものです。こういう、なんかちょっとしたアイデアというのが毎回出るんだったら楽しそうだなあ、そんな風に思ったんです。

でもさあ、後がいけないよ。正直、ダーティペアがプロレスやってる絵を出したかっただけじゃないのとか、最近の親子関係うんぬんについてコメントするような台詞しゃべらせたかっただけじゃないのとか、そういう着想だけみたいな話が気になったんです。

着想というのは、創作においては種子にあたるような大切な要素であると私は思っています。着想があり、そしてその着想をかたちにする段階で、幹ができ、枝葉が育ち、それらあってこそ花も実もつけようというものです。種子から草木を大きく健やかに育てる、よりよく作品を作るということは、そういう園芸に似た手間や努力が必要であると思っています。

作品がよい花、実をつけるには、種子だけでは不充分です。それがどんなによい種であったとしても、痩せた土地にそのままに放置されているようでは枯死してしまいかねません。よい土壌に植え、手をかけて育てるからこそよい作品になるんじゃないのかね。こんな、今更私がいわなくても誰もが知っているようなことを、私は今更ながらに思ったのです。あまりに荒っぽい筋立て、横着としかいいようのない話の運びに、私はげんなりと退屈して、正直早送りして二倍速三倍速で見たいと思ったのは、『ダーティペア』では初めてでした。

OVAシリーズで気になったのはもう一点あって、それは作り手のバックグラウンドがすでに違っているんじゃないかということでした。TVシリーズなんかは、SFやミステリーを知ったスタッフがその素養でもって作ったという感じがするのですが、OVAシリーズはというとそうした素地が感じられず、いうならば既存のアニメの枠の中で作ったと、そんな風なのです。過去の作り手が試行錯誤の中で作り上げてきた蓄積から生まれた語法やお約束を、そのまんま導入しているみたいっていったら言い過ぎかな? 自分の言葉で語っていない。人の言葉をどこかから持ってきて無理矢理に継いでみました、どっかで見た名シーンを切り取ってきて貼り付けてみましたというような違和感が感じられて、なんにも伝わってこないという話が多かったように思います。だから見てて全然面白くない。私は見ていてすごく悲しくなって、見なきゃよかったと後悔した — 。

これがBOXの一部でよかったと思っています。もし単品で、一枚二枚とDVDを買っていった最後にこの感想にたどり着いたのだとすると、それはより以上に怨嗟に満ちたものとなったことでしょう。重ねていいます。すべてが悪いわけではなかった。ですが、悪すぎる話が良い点を塗りつぶしてなおあまりあるほどにひどかったと、私はそういっています。

小説

引用

2006年11月26日日曜日

ダーティペア【劇場版】

 この連休を利用して、連日『ダーティペア』を見て見て見まくるという、そういう贅沢なんだか自堕落なんだかわからない生活を送ってきました。久しぶりに見た『ダーティペア』はというと、すごく面白くて、やあ張り込んでBOXを買った甲斐があったなあ、そんな感じでありまして、テンションは連日上がるあがる。その勢いでもって、以前値段の高さで見送った『劇場版』まで購入し、さらには小説版も買おうかどうかと迷うなど、まさしくDVD-BOXを呼び水として私の眠っていた部分が活性化されたと、そんな有り様であったのです。ん? あったのです? 過去形ですね。ええ、過去形です。というのは、実は今ちょっとテンションが下がっているものですから……。

なんで下がってるかといいますと、ええと、OVA版見ましてね、正直これはあんまりだと思ったんです。キャラクターとキャラクターを配置するシチュエーションばかりを重視しすぎているからなのか、ストーリーがおざなりで見ていて悲しくなって、正直つらかった。と、このあたりの怨嗟は今度書きます。で、今回は劇場版。思えば、こうしたキャラクター重視、シチュエーション(雰囲気と言い換えてもいいかな)重視の流れは、『劇場版』くらいからはじまっていたんじゃないかなあ、なんて一応一通り見てみて、そんな風に思っているのです。

以前、私は『劇場版』を評して、こんな風にいっていました。

劇場版はワッツマン教授という悪役が、なかなかにいかれてていい味を出していたのでした。

これ、確かにいい味は出していたと思います。けど、この人、ただただいかれていたばかりで、悪役としての深みはないなあ、魅力にも欠けるなあ。改めて全編を見直してみた現在、そのように評価するよりないというのが正直なところです。

さて、さっきいってたキャラクター重視、雰囲気重視というのは、このあんまりにも典型的すぎるいかれた科学者ワッツマン教授の人となりにも現れていると思うのですが、他にもいろいろ。だってね、捜査中にいくら体が汚れた、髪が汚れたからといって、現場でのんきに風呂になんぞ入るもんかね? 安全の確保もされない状況で風呂に入って、結果的に装備一式を失うってどうよ。そいつはプロじゃあねえだろうよ、って突っ込む私はあんまりに風情を解しない朴念仁であるのかも知れませんが、はっきりいってこういう部分、なんじゃこりゃあっていってちゃぶ台をひっくり返されても文句は言えないくらいの甘さなんじゃないかと思います。

『劇場版』は全体的に、物語よりもアニメという表現形式に重みがよっているから、困難な事件に立ち向かってそれを克服するというような、ドラマ的要素を楽しみたい人にははっきりいって向かないと思います。けど、キャラクターがよく動いて、サービスカットもたくさんあって、みたいなのを期待する向きには充分に応えてくれると思います。そうですね、映画館の大きなスクリーンで、ユリとケイがはつらつと暴れ回るというお祭り的要素が前面に出ていて、だから見ていて楽しいのは間違いなく、そういうアニメ的楽しみの追求という点において、いい映画であると思います。

なんか奥歯にものの挟まったような言い方してますね。はっきりいいますと、私の『劇場版』に対する評価は:

  • 結構好き、嫌いじゃない
  • でももうちょっとストーリーどうにかならんかったの?
  • サービスカットだかなんだかでシリアス or シビアさがだいなしにされるのは嫌だ
  • ワイン振り回すなよ、澱が舞ってひどいことになるぜ

以上をもって、八千円は高すぎると思います。5,040円を4,032円で買えていたら、まあこんなもんかなあ、ちょい高いとは思うけど、というような評価であったと思います。図らずも、思い出はいつもキレイだけど、を実感する結果となってしまい残念でした。昔テレビで観ていたときは、もっと面白かったと思ったんだけどなあ。久々に『ダーティペア』を見られるっていう喜びで評価が甘くなっていたのかなあ。

小説

2006年11月25日土曜日

ダーティペアの大勝負 ノーランディアの謎

 ダーティペア』漬けの毎日です。ええと、昨日いっていましたとおり、本日TVシリーズを見終わりまして、流れるように『ノーランディアの謎』に移行。ここで『劇場版』待ち、食事をしたりギター弾いたりサイトのXHTML化したりしていたら、なんと知らぬ間に届いていたのでありました。Amazon.co.jpって、DVD一本だけだと、佐川のポストインになるんですね。早いうちに気付いてよかったです。いや、別に気付かなくってもいいっちゃあいいんですが。そんなわけで、本日は『劇場版』を見終えて、OVAシリーズに突入。うまくすれば明日には『ダーティペア』を見終わりますね(FLASHは別勘定していることにご注意ください)。

はじめて見る『ノーランディアの謎』。聞いた話によりますと、これが原作の設定にもっとも近いものなんだそうです。冒頭、ユリとケイの見る念視が物語の導入になり、そして上司はグーリィ主任ではなく部長(ソラナカ部長?)、ラブリーエンゼルのデザインもムギの色も違っているし、そしてブラッディカードの存在。けど、このへんの違いが積極的に物語に関与しているかといわれると大きく疑問だと思います。なので、このへんはちょっとしたヴァリアントとして処理してしまうのがいいんじゃないかな。むしろ人によっては、大人びた風貌を持つユリとケイの方が問題になるんじゃないかと思います。

私はこれを見て、『ダーティペア』というの作品の取り上げられかた、表現のスタイルの多様さが面白いと思ったのです。なにぶん私はTVシリーズに親しんだものですから、『ダーティペア』といわれるとあのTVでおなじみの二人、『ロ・ロ・ロ・ロシアンルーレット』の二人を思い浮かべるのでありますが、でも『ノーランディア』も決して悪いとは思わなかった。むしろ、こういう表現のヴァリアントがもっとあってもいいんじゃないかとさえ思って、例えばですよ、賛否両論になること間違いないでしょうが、実写版があってもよかったのかも知れない(あくまでも過去形でしゃべっているところに注意)、ハリウッドなんかごめんだけど、海外版とかあってもいいんじゃないかなんて思ったりして、いうならばそういう幅広い表現の揺れを許容しうる基盤となれるくらいに成熟した世界が『ダーティペア』にはあるんではないかと、私をしてそんな気分にさせたのが『ノーランディアの謎』でした。

話としては、シリアスな方面でオーソドックスであったんではないかと思います。ストーリーの多様さ、演出手法の多様さを思えばTVシリーズには比べられないですが、それは単発OVAという媒体ゆえの仕方なさでしょう。でも、ギャグ風味を抑え、誇張も極力抑えながら、けれどそうした抑えの利いた表現の面白さが出ていたと思います。抑えた表現だから生きるシックな描写、抑えた表現でやるからこそ逆に面白く感じられるギャグ。だからやっぱりこのOVAには、このOVAに独特のスタイルによって出ている味というのが間違いなくあって、人によっては地味といって好かないかも知れないけど、私には非常に楽しめたとそんな感想を持っています。

けど、これはちょっと不満かも知れないけど、最後、ええーっ、なんかすごく重要そうな伏線だと思ってたあれが、あんな風に使われるのーっ、みたいなところがあって、私は度肝抜かれたというか、やっぱりこのアニメはこういう風にならんといかんのかと、感心したというかあきれたというか。けどしゃあないんでしょうな。でもあんまりだよな。いろいろ思うところがあって、そういう感傷を寄せ付けないところというのは、もしかしたら原作風なんでしょうか? だとしたら原作手に取るのがちょっと怖くなります。とはいえ、それをもって嫌いになったってことはないので、時にきっとまた見たくなるような感じがしています。

小説

2006年11月24日金曜日

ダーティペア

    今日は一日休みを取って、朝から七時間くらいぶっ通しで『ダーティペア』みたらば、さすがに気持ち悪くなった。なまったなあ。昔は一日十二時間くらいアニメ見ても平気だったんですが、さすがによる年波には勝てないようです。頭くらくらする。目もチカチカする。でも、そのおかげでTVシリーズは明日見終わります。で、多分『ノーランディア』を見終えたころにペリカン便の兄さんがAmazonの箱を届けてくれる。実にみっともないことなんですが、覚えられちゃってるのですよ。またAmazonからですよー、みたいな届き方がして、いや、どんな届き方をしてもいいんです。とにかく明日『劇場版』が届く。それが一番大切なことなのですから。

(画像は『ダーティペア』原作表紙)

さて、ここでちょっとニュースを紹介。といってもオリコンの記事なんですが、「『ダーティペア』一挙リリースで再ブームの予感!?」とのこと。まあ、売れているっていう記事じゃなくて、DVDが一度にどかっと出るから、これはちょっと流行るかもよー。って記事ですね。でも、実際流行るとは思いますよ。だって、この私にしたって、DVD一枚に八千円も払えるか! と思って買い控えていた劇場版を、このBOX効果で借っちゃいましたから。そうしたらですね、昨日注文したときには確かに8,190円だったのに、一夜明けた今日、6,962円に値下がりしてる! ってなんでやねん! 私が買うの待っとったんかいっ、って思ってキャンセルして再注文しようと思ったら、発送処理に入ってたから不可。ちっきしょー。まあいいや、明日届くことの方が重要だ。結構な値下がり具合なので、興味あったけど買い控えていたという人は、ぜひどうぞ買ってみてください(そしたら、後で廉価版が出たりしてな。ははは、笑いごっちゃねえよ)。

さてさて、今日は『ダーティペア』の原作版について調べてみました。といっても、Wikipediaの項目にあったリストをまとめただけなんですが。でも、さすがというかなんというか、Wikipediaの項目、結構充実しておりまして、なかなかの読みごたえ。まずは小説から入り、それからアニメへと展開させていくのですが、違いをわかりやすくあげ、私みたいなアニメ版しか知らない人間にも小説版への興味を抱かせることに成功しています。なお、小説といえば『ダーティペアの大盛況 DVD-BOX』のライナーにも小説が載っていて、まだちっとも読んでいないのですが、きっと私は小説に手を出す前にこれをまず読むことでしょう。それで買うかどうか決める。というか、もうほとんど決まっているようなもんですが、しかしありがたいのはどれも絶版していないということであろうかと思います(Amazon、ジュンク堂等を見れば、まだ在庫があるようです。でもFLASHも本当に買えるのかな? 2巻3巻だけ届いて1巻キャンセルとかになったら暴れますよ)。

そんなわけで、他についてはいざ知らず、少なからず私の周辺(というか私一人)に関しては『ダーティペア』再ブームであるという話でした。というか、正直こんなにはまるとは思わなかった。だって、アニメが面白いんだ。一通り全部見たはずなんですが、さすがに最後に見たのが中学生だったころだから、細かな筋とかまでは覚えていないんですね。だからほとんど初めてみるかのように新鮮で、だから面白くって面白くって、もうどうしようもない。いやもう本当に健康をむしばむくらい面白いのですから、これはもう本物です。

あ、一応断っておきますが、『ダーティペア』見るために休みを取ったわけではありませんから。たまたまです。たまたま。ほんとです。

小説

アニメ関連

引用

2006年11月23日木曜日

ダーティペア

 正直なところ、私はもう駄目だと思う。昨日、『ダーティペア』のDVD-BOXが届いて、ちょいとだけ見ようかと思って休日の半分をこれだけで終わらせてしまいました。本当だったら、こういう同一品目で連日更新するみたいなやり口は嫌いなのです。ですが、インプットがひとつに限られている以上、当然アウトプットにも期待できないというわけで、この状況を打破できるまでこのBlogは『ダーティペア』一色に染まるかも知れない……。いや、できるだけそうならないように心がけます。というか、今現在、精神生活の大半が『ダーティペア』に染まってるものなあ。おそろしい破壊力であります。

(画像は『ダーティペア コンプリートアートワークス』)

自分自身を省みて駄目だと思うところもう一点。ええとですね、買ってしまいました。『劇場版』。ちなみに、Amazon.co.jpからは商品発送のメールをもらっています。『ノーランディアの謎』と『謀略の005便』ですな。けど、まずはTVシリーズを全部見るのが目標です。ええと、計画としてはこんな感じ:

  1. TVシリーズ
  2. OVAシリーズ
  3. ノーランディアの謎
  4. 謀略の005便
  5. 劇場版
  6. (このへんで多分『ドリームハンター麗夢
  7. FLASH

この順番で見たら発表順になるのかな?(違う、OVAシリーズ及び『謀略の005便』は『劇場版』より後)

『ダーティペア』、TV版の半分も見られていない現時点でこういうことをいうのも危険だけれども、この1985年に作られたアニメーションが、今もって通用するような状況を描いているというのは正直驚くところで、例えば「愛こそすべて命賭けます逃避行!!」におけるジョアンカの存在は、数年前から社会的に認知されるようになった性同一性障害を彷彿とさせるものでありますし、エネルギー問題に触れているようなものだってあります。そもそも第1話「コンピューターの殺し方教えます」からしてもコンピュータによる集中管制の脆さといえるような話で(けれどこのモチーフはSFにおいてはポピュラー)、SF者たちの未来予測力というのは実際馬鹿にできないと恐れ入る次第です。

けどその反面、SF者たちの予測も追いつかなかったものがあって、それは以前にもいった情報通信技術についてです。世界中に張り巡らされたネットワークが一般個人に開放されて、メールや動画音声、さまざまなデータがばんばん送受信されているというこの状況は、さすがに誰も思い描けなかったんではないかと思います。また携帯電話の存在。今や社会人大学生どころか、小中学生も普通に携帯電話を持って、しかも通話用端末としてだけではなくメールの送受信、アドレス、スケジュール管理、さらには前述の広域ネットワークに接続したりゲームを楽しめたりと、ちょっとしたハンドヘルドコンピュータです。

SFにはポピュラーな存在であるエアカーや宇宙船などは一向に身近にはなりそうにないけれど、その反面レトロSFに思い描かれた以上の現実を手にしてるのだなあとそんな感慨にふけってみたりしたのでした。

感慨といえば、これ、明日にとっておいたほうがいいのかなと思ったけれど、そういうのはがらじゃないから書いちゃおう。『ダーティペア』のエンドクレジットを見ていたら、逝去された方のお名前を見つけて、ひとりしんみりとしてしまって、こうした少し昔のアニメ、参加されていた方、時間が経って、鬼籍に入られる方がぽつりぽつりと出始めて、切ないですね。思えば、映画の黎明期を知っているファンの方たちは、映画スターがひとりまたひとりと逝かれるのを知っては、私の感じたものに似た思いを抱かれたりしたのかも知れませんね。彼らが感じた思いは、今私たちアニメファンが引き継ぐのでしょう。アニメが盛り上がり、成長し、世界的な広がりを見せるにいたるまでの黎明期、成長期を支えた人たちを思って、そしてこれからを思って、私はより以上にこれら作品をいとおしく思って、それらは私の生きていた時間にとってかかすことのできないものでありますから、万感胸に迫って苦しさにむせぶほどです。

あ、そうそう。今度出るという『ダーティペア コンプリートアートワークス』買いました、つうか予約か。この勢いだと、原作も買っちまうんじゃないかなあ。いやいや、危ないなあ。正直買い物しすぎで危険信号が点灯しているような状況なんですが、でも私のこの勢いは危ない、こうなってしまったらとまらないかも。我ながらおそろしいものがあります。

2006年11月22日水曜日

ダーティペアの大盛況 DVD-BOX

 本日、Amazon.co.jpから荷物が届きまして — 、やりました、Amazonのジンクス、希少品を予約しても一方的にキャンセルされてしまうという呪いを打ち破って、我が家にDVD-BOXが届きました。ええと、『ダーティペアの大盛況 DVD-BOX』と『ドリームハンター麗夢 DVD-BOX』でありますね。来た! なんだかそれだけで満足している私がいるのですが、でも本当のところそれだけで満足するわけないじゃないですか。見た、見ましたよ。とりあえず両方。第1話から。で、やっぱりこの時分のアニメはよいなあと思った。と、そんなわけで『ダーティペア』。いや、やっぱり私、『ダーティペア』が好きなようでありますよ。

そういえば、私、以前こんなこといっていましたね。

好きだった昔のアニメを今見直して、ええーっ、こんなだったっけ! と思う可能性を怖れているんです

正直、今回、この怖れは大きかった。これまでに買ったBOX、『ガンバルガー』にしても『ヤダモン』にしても、実は手もとに本放送時のビデオテープを残しているから、それがどういった内容であるかは、思い出によらずとも簡単に思い出せるのです。ですが『ダーティペア』を最後に見たのはいつであったか、ましてや『ドリームハンター麗夢』は一度ずつしか見ていない……。そんな状況でありますから、記憶の中で実物以上に美化してしまっているという怖れがなくもないではないですか。

ドキドキしながら見ました。そして、勝ったと思いましたね。まさしく来た見た勝ったの心境です。もう、オープニングのアニメから感動の渦じゃないか。ちっとも美化してない、美化なんてしてませんでしたよ。

第1話見て思ったんですが、私この話覚えていますよ。多分、全話余さずに見てますね。実をいうと、私、『ダーティペア』を全話見たことがないと思っていたのです。だってね、テレビの情報誌を見て、再放送状況をチェックしてみたいなことをついぞした記憶がありませんでしたので、だから私のパターンはといえば、朝見る新聞テレビ欄に番組名を偶然発見する、きゃっほう、喜び勇んで見始める、それが常でした。だから、第1話を見られるかどうかは本当に運なのです。そもそも毎日テレビ欄を見るわけでもない、見たとしても気付くかどうかわからない。そんな状況で、よく第1話から見ていたものだ。本当、私は強運だったのだと思いました。

『ダーティペア』を見てみての感想。これ、正直、非常にレベルの高くセンスのいい作りだと思います。今見て、古くささを感じませんもん。確かに画面は懐かしいセルアニメの雰囲気、でも内容はどうだ。面白いよ。たった三十分で、焦るでもなく詰め込むでもなく話をきっちり展開させて、活躍の見せ場も作ってさ、面白いなあ。懐かしさを上回って面白かったのですから、それはよっぽどでしょう。おそらくきっと、これを前情報なしでぽんと見せられても私は好きになったことだろうと思います。

久しぶりに見て思ったくだらないこと。昔私は、ロングヘアーのお姉さんが好きな子供だったのですが、最近はどうもそうではないようで、ボーイッシュで活発な娘さんが好きな模様です(このBlogを蛇足で検索してみよう)。だから今『ダーティペア』見たら、ユリよりもケイの方が好きだったりするのかなと思ったりしていたんですが、ところがどっこいやっぱりユリの方が好きだわ。これ、三つ子の魂百までってやつかね? いや、もちろんケイもいいのよ、魅力的なのよ、でもちょっと癇の強そうで女くささもケイ以上のユリがやっぱりよいようで、ああやっぱり買ってよかった。何度でも見よう。ことあるごとに見よう、そんな気持ちで一杯です。

そんなわけで、今日の私は壊れ気味です。いや、いつもどおりといえばそのとおりなんですが、けど今日はいつも以上だと思います。ああ、明日からどうやって時間を作ろうかな。

2006年11月21日火曜日

アーケードゲーマーふぶき

 ゲーム検定ってのがあるんだそうですね。お友達に教えてもらいました。私、実はこういうの結構嫌いじゃなくってですね、特に設問を答えさせる類いのもの、こういうのを見せられるとがぜんやる気が出てくる、そういうタイプなのです。だからまずはやってみて、問題は全部で百問。懐かしのファミリーコンピュータからNintendo DSPSPまでの実に幅広い出題範囲。わ、わかんないよ……。特に、私はスーパーファミコンからPlayStation初期中期くらいにかけてが苦手で、というのも、その頃、ゲームやってないんですよね。ハードを買わなかった。私はファミコンからPlayStation SCPH-7000までジャンプしたのです。だから、その間はまさしく空白期間であって、おのずと検定は私にとって非常に過酷なものとなったのです。

ちなみに結果はこんな感じ。

+++ ゲーム検定 成績発表 +++

あなたの総合得点は65点  全国平均 56点

全国順位(11月21日 21時現在)
3803位(20333人中)

--ジャンル別得点表------------
            0_________50__________100%
ハードウェア       ■■■■■■■■■■■■■■■■
ゲームシステム&テクニック■■■■■■■■■■■■
キャラクター       ■■■■■■■■■■
ビジネス         ■■■■■■■■■■■■■
雑学           ■■■■■■■■■■■■
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--講評---------------------
あなたは「ゲーム大臣」
これだけの知識があれば、たいていのゲーム好きの人間とは楽しく会話ができるはず。しかし、この先、もっと深く広い知識を得ることで、世界はさらに広がるだろう。
貴方がもっとも詳しいゲームのジャンル:
   ハードウェア
貴方がもっとも詳しいゲームの年代:
   90年代後半から現在にかけての熟成期
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でも、これでもまだ平均を上回っているようで、驚きました。しかし、得意なジャンル、ハードウェアってのもなんか変な感じだなあって思うんですが、けどハードウェアが得意というのは裏返せばゲームそのものに関しては無知ということでありますから、私のゲーム離れしていた時期というのは、思いのほかに豊かであったようですよ。

さて、『アーケードゲーマーふぶき』。私がこの漫画の存在を知ったのは、ファミ通のCDロム付き本に連載されていたから。つまりCDロム付きのファミ通を買っていたわけで、それはなんでかというと、『カルドセプト』の追加マップが収録されていたからでありまして、こうして思いがけぬ出会いをしたというわけです。

この漫画読んだとき、プレステ誌だというのにアーケードゲーマーってのもなんか変だなあと思ったのですが(もちろん本編ではプレステでも遊んでます)、なんか昔懐かしいものを感じさせましてね、それはこの漫画が『ゲームセンターあらし』へのオマージュであり、また私が子供の頃に読んだ『ファミコンロッキー』だとか『ファミコンコンボイ』だとか、そういうのを彷彿とさせたからだと思うのです。

ファミコンロッキー』は『コロコロ』連載で、『ファミコンコンボイ』は『ボンボン』連載でしたっけ(しかし、『ロッキー』、復刊されてたんだ。今となってはちょっと読みたい)。とにかく、ファミコンでもって対決するというその発想は『高橋名人vs毛利名人』のそれですが、しかし、なんか必殺技合戦したりドットチェンジしたりと、まさしく子供だましだったなあ。

『アーケードゲーマーふぶき』もまさしくそういう子供だましだったような必殺の要素を(もちろん意識的に)盛り込んでみて、しかもある程度の年齢層を想定してちょいエロまじりでね、けどそうしたなんだか昔を懐かしませるような要素をサービスするというのは、ゲームに関する時間がそれだけ積み重ねられたということの証拠で、その時間に自分も多少なりとも関わっていたんだろうなと、そんな風に思うとなんか感慨深いものがあります。

2006年11月20日月曜日

センス・オブ・ワンダー

 私がレイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』にはじめて触れたのは、意外に遅く、大学に通っていた頃のことでした。当時私は、自分の学校の学祭に寄りつかないという、一種ひねくれた学生であったのですが、ところがなにを思うところがあったのか、よその学校、なんの縁もゆかりもない大学の学祭にいこうと思ったのです。目当ては、学祭執行部の執り行う催しでした。写真とギター、そして『センス・オブ・ワンダー』の朗読をおこないますという、そのいうならば地味な催しになにか引かれるものを感じて、いったこともない土地の、いったこともない大学に足を運んだのでした。

『センス・オブ・ワンダー』はいうまでもなく、科学者レイチェル・カーソンが、子供の自然との出会いに驚きをもって向き合う様を描くことをとおして、驚きを忘れずにいることの大切さを説こうとした本です。驚きの心があれば、世界は常に輝きをもって私たちの目の前に現れるというのに、悲しいかな私も含めて人はそうした心を忘れがちで、慣れに感覚を鈍らせて、出会うもの、ことを日常の些事として流してしまうこともしばしばです。ですが、これから出会うすべてに対し思いを新たにすることができれば、世界には驚きや感動が溢れていると再び気付くこともできるに違いない、そういう思いがしたものでした。

私はこのとき愛用のカメラを下げて、だから終演後に話をしたギター奏者は、私が写真家のファンかなにか、そうした関係で訪れたものと思われたようでした。ですが実際はそうではなく、音楽に、朗読に、もちろん写真に、それぞれ興味を持っていたのです。私は自分の身分を明らかにして、学生手帳にサインをもらい、しばらく話をして、その時間はなにか清浄なものであったと思います。日常の真っ直中、大学の学舎のロビーでのことだというのに、まるでそうした日常とは切り離された、特別な、まさしくワンダーな時間が流れていたと覚えています。

それからしばらくして、私は思ったのです。センスとは感覚でありまた同時に意味そのものであります。すなわち、あらゆるものはセンスをもって存在しており、そのセンスに気付くには、自分自身の内にあるセンスをもって近づくよりなく、いわばそこにセンスの呼応しあう様を感じたように思ったのです。だから、もし誰かが、そんなことには意味がないと簡単にいってしまうとしたら、それは意味に気付くことのできるだけの感覚を持っていないと自ら白状しているに同じなのではないか。なら私は、意味がないとあきらめてしまう前に、そこにある意味をすくい取りたい。これはその後の私のモットーになっています。

2006年11月19日日曜日

日本民謡集

  パブリックドメインは宝の山です。パブリックドメインとは共有地、誰のものでもなくなった著作物は共有地に帰り、誰かに使われる日を待っています。それらは読まれ、語られ、歌われ、出版され、録音され、戯曲になり、映画になり、さまざまに姿を変えながら新たな息吹を持って私たちの前に現れます。そうしたPD作品を、文学を軸に収拾しようとしたのが青空文庫Project Gutenbergプロジェクト杉田玄白で、ギター音楽を軸にしたものがDelcamp.net、そしてパブリックドメイン中のパブリックドメインといえる民謡を対象としたものがRoger McGuinn's Folk Den。このようにたくさんの人たちが、おのおののテーマに従って、パブリックドメイン作品の収集公開にいそしんでいらっしゃいます。

もちろん上にあげたものはごくごく一部に過ぎません。私は詳しくないので見送りましたが、ピアノ作品を収集公開している人たちもいらっしゃると聞き及んでいますし、民謡にしても、個人有志を中心として、ネット上にはもう把握しきれないほどの情報が公開されています。その民謡というのも、各国各地の民謡がいろいろ出ているようで、ただ残念ながら私はそれらを網羅的に知るわけではないのです。たまたま興味のある民謡を調べていたら発見したというものが中心で、ですが悲しいかな、こうした収集はどこかに要となるようなものがあるわけでもないようで、だから分散多発個別的になされているというのが現状であるようです。

私はギターを持って歌を歌おうというものですが、なじかは知らねど心民謡に向かって、それは以前にも紹介しました、Folksongs of Britain and IrelandOne Hundred English Folksongsの購入というかたちで現れをなしているのですが、しかしなんで日本人の私が民謡といってヨーロッパのそれもイギリスの民謡を歌おうとするの? おまえ、それでも日本人? 日本人ならやっぱ日本民謡だろうみたいにいわれそうな有り様。そう。私も実はそう思っています。同じやるなら、日本民謡もやりたいのですね。

でも、日本民謡に手を出そうとしても、実にリソースが少ないのです。以前、私は音楽系の学生で、それ専門の研究機関にも関わっていたこともあったのですが、しかしそれにしても日本民謡のリソースは少ない。いやいや、日本各地の民謡わらべ歌を集成したような本もあって、それこそ各県別に出ているようなでっかいのもあるんです(例えば『日本わらべ歌全集』)が、けどそれでもなにか違うんです。なにが違うんでしょうね。それは、多分楽譜や音源の有無なんじゃないかと思います。

私、以前、京都の民謡伝承歌の音源のデジタル化に関わったことがあるのですが、それはそれはすごかった。各地のお年寄りに聞き取り調査をした記録の集大成といった感じで、各地各地に歌詞や節回しを少しずつ違えた歌が伝わっていて、こんな歌があるのか、こんな歌もあるのか、おいおいこの歌、歌詞がやばいよ、あ、これは知ってるわ、という感じで聞いて聞いて聞きまくって、けれどそうしたリソースって表に出ることは少なくて、けど本来なら私たちが伝承するはずのものだったんかもなあなんて思ったりもして、そのあたり、非常に複雑な気分です。

日本の民謡についてちょっと知ろうと思えば、岩波の『日本民謡集』あたりが手ごろでよかったりするんですが、けどこれは主に歌詞だけ、楽譜のついているのもありますが、けれど実際にどのように歌われているかを知ることは難しいなというのが私の実感です。昔、岩城宏之がいってたんです。追分のフレーズが使われてる邦人作品を海外オケで取り上げたときに、フルートが結構いい感じに吹いたものだから欲が出た。いろいろアドバイスしたんだそうです。そうしたら、アドバイスすればするほど追分から遠ざかっていってしまって、失敗だったというようなエピソード。楽譜だけではこうなる怖れがあるのです。特に私みたいに西洋音楽で学んできているような人間は危険で、ヨーロッパの民謡でさえ同様、なら日本の民謡ならなおさらでしょう。それくらいに私は自分の文化に伝えられてきている音楽について無知なのです。

昔は民謡歌手なんていう人たちがいて、今でもいらっしゃるんだとは思いますが、でもテレビやラジオで聴いたりするようなことはほとんどなくなりました。こうして民謡は忘れられていくんだろうかと思うと、悲しくなります。危機感もつのります。だから、どこか保存に努めているところがあらば、それを誰もがアクセスできる場に公開してはもらえないものだろうかと、そんな風に思います。

じゃあ、あんたがやれよというのはなしね。私は今、別のPD関係に携わっていて、リソースがいっぱいいっぱいなんです。でも、もし日本民謡の蒐集公開に関われるのなら、参加してみたいなあ。そんな思いもあるから、非常に危険です。

  • 町田嘉章,浅野建二編『日本民謡集』(岩波文庫) 東京:岩波書店,1960年。
  • 町田嘉章,浅野建二編『日本民謡集』(ワイド版岩波文庫) 東京:岩波書店,2004年。

2006年11月18日土曜日

azur

 青空文庫の本を読むならば、Webブラウザで読んでももちろんいいのですが、できたら専用のビューアを使いたいところ。なにしろWebブラウザというものは欧文文化において誕生進化してきたものですから、日本文を読む用途にはちょっと万全とはいえないところもあります。え、なにが足りないの? といわれると、そうですね、例えば縦書きとか縦書きとか縦書きです。いや、冗談でなくて、本当に日本文というのは縦書きにマッチするものなのですよ。さて、数ある青空文庫対応ビューアの中で、特に私がお勧めしたものはなにかというと、ボイジャーがリリースするazurです。azur、アジュールとはまさしく空の色、青のことであります。この名前をはじめてみたときには、いい名前を見つけたなあと感心しました。しかもソフトウェアを起動してびっくり、なんとazurとはaozora unique readerの頭字語であるようではないですか。ほんと、うまい名付けだなあとまたここで感心したのでした。

青空文庫を読むに際し、なぜ私がazurを推すかというと、その表示の能力でしょう。実はazurは、これ自体がWeb上にある文書を読みにいくことができるのです。htmlやxhtml文書を読み、表示し、ハイパーリンクをたどりながら目的の本を開くことができる。この機能は、ぱっと見には地味ですが、大きな可能性を持っています。それはなにか。それは、azurをテキストブラウザとして利用できるということに他なりません。

ちょいと、この画像を見ていただきましょう。

この文章は、ほかならぬ私のサイトこととねの序ともいえる文書『こととねのこころね』ですが、azurで開いてみてびっくりしました。なんか、いつも見てるWebブラウザ上の文章とは一味違うように感じられて、うはあ、これが縦書きの威力かあと驚いたのでした。他にもいろいろ読んでみたりしたのですが、特にレイアウトに凝るようなことをしていないこととねの文章を読むに際しては、azurに優るものはなしと痛感しました。もちろん欧文の多いページを読むにはazurは向きませんが、けれど日本文にはazurは使えると、そんな風に思ったのです。

azurのwebをめぐる際のメリットはもうひとつあります。それは栞の機能です。一般にWebブラウザのブックマークは、ページ単位でしか保存することができません。ページの途中をブックマークしようと思えば、そのページにid属性が設定されている必要があって、ということはつまり自分の好きなところを好きなようにブックマークすることはできないということです。

ですが、azurは違います。普通に、文章の途中でブックマークできるのです。まさしくこれは長文を読むことを前提に開発されたソフトウェア故の機能でしょう。そして気の利いていることに、azurを開くと、以前読んでいたページがちゃんと開いてくるところもすごい。もちろん、文書が開くんじゃなくて、読んでいたそのページ、途中が開かれてくるのです。これはいい機能だと思いました。長文はWebには向かないといわれてきたその常識を打ち破る機能であると思いました。ここに、Web上に新たな文学の可能性をうかがうことができる! とそんな風に思ったのです。

そんなわけでこととねを閲覧する際のブラウザはazurで決まりです。もちろん、azurにも向き不向きがあって、できることできないことはあるのですが、けど普通の用途にはWebブラウザ使えばいいじゃんか。けどそうではなく、文章を読みたいという時にはazurがいい。Webブラウザのそばに常にazurを待機させておいて、この文章を読みたいと思ったら、URIをazurにドラッグ&ドロップ。そしてゆっくりと文章を読むというのは、ちょっとした贅沢体験です。文章の贅沢を味わえる、azurとはそんなソフトウェアであると思います。

2006年11月17日金曜日

インターネット図書館 青空文庫

 昨日もちょっと触れました青空文庫。ご存じのないかたもいらっしゃるかも知れませんので、改めてもう一度説明したいと思います。青空文庫というのはインターネット上にある本の集積所です。いろんな本が集まっていて、それは主に古典、私の好きな夏目漱石や宮澤賢治などを読むことができます。でも、なんでこういうことが可能なんでしょう。それは、それら収録されている作品については、著作権が消滅しているからです。現行の著作権法では、著者(著作権者)の死んで五十年がたつと、著作権が消滅します。著作権の切れた作品は共有著作物(パブリックドメイン)となって、私たちが自由に利用することのできる共有財産となるのです。つまり、青空文庫には、自由に利用できるようになったパブリックドメインの著作物が収録されているというわけです。

ですが、ちょっと考えればわかることですが、著作権が切れたとしても、それで自動的に本が電子データになったりはしません。でも青空文庫にはテキストデータ(やXHTML文書)が収録されています。これ、一体どういう仕組みになっているのだろう。そもそも青空文庫ってどういう組織なんだ? っていう疑問もわいてくるかも知れません。そもそも青空文庫の本は自由に利用ができる、お金を取らないわけですから、一体どうやって運営されているんだろうなんて思います。

『インターネット図書館 青空文庫』は、そうした疑問に答えてくれる一冊であると思います。

この本を読めば、いや読まずとも、ちょっと青空文庫に興味を持って、サイトを深く読んでみれば、青空文庫っていうのがボランティアベースで運営されている活動であるということがわかると思います。呼びかけ人があって、呼びかけに呼応してテキストの入力や校正をおこなう人がいて、そうした人たちの地道な活動の積み重ねが、今の五千冊を超える蔵書として結実しています。私はこの活動について知ったときに、これはまさしく中世の図書館と同じなのだと思いました。本が高価で特権階級の持ち物だった時代、図書館は知の集積所であると同時にステータスでありました。当時知の中枢であった教会は図書館を構えて、多くの書写僧たちにより書き写された本が図書館を充実させ、知の発展、文化の発展に寄与してきました。けど、これら中世の図書館には青空文庫とは決定的に違う点があります。それはなにかというと、それら図書館は閉鎖されていたということです。先ほどもいいましたが、本は特権階級の専有品でした。知が独占され、外部に公開されるということはありませんでした。貸し出しなんてもってのほか。自由に読みたい本を読めるという、今の私たちが想像する図書館とは根本から違っていたのです。

青空文庫は万人に開かれています。ボランティア諸氏によって打ち込まれたテキストは厳密なチェックを経て公開され、そしてその仕事は独占されることなく、自由に使ってもよいのです。個人的な読書の楽しみに使う人がいます。読み上げや点字出版の元データにもなります。研究や用例参照に使う人もいます。そして、これを印刷製本して販売する人もいます。おそらくもともとは本当にささやかな試みであったろう青空文庫の活動は、その輪を広げながら、多くの人と関わりを持ちながら、一言では言い表せないほどの大きな価値に育っています。そしてこれからもより広がりを見せることでしょう。この仕事は、決して派手ではありませんが、文化への寄与という点において、無視できないものであると思います。それこそ、中世の教会図書館が古代ギリシャ・ローマの古本を写本として今に伝えたのと同じくらいに、といったらあんまりに大風呂敷を広げすぎかも知れませんが、ですが私は、そうした営為に匹敵するほどの可能性を秘めた活動であると思っています。

私は、青空文庫の本が出たと知って、たまらず買ってしまいました。そのあらましや著作権の保護期間延長問題についてはそこそこ知っていたものの、なにより青空工作員としてこの活動に参加している人たちの思いを知りたくてしょうがなかったんです。買って、読んで、そして感動しました。いや、私は最初から予想していたのです。この人たちを突き動かすものがなにであるか、この人たちを駆り立てたものはなにであるのか。私はただ確かめたかったのです。

思ったとおりでした。いや、思った以上でした。私はこの本を読めば、なんだかどうしようもなく泣けてきて、なんせ苦労もあったろう、いろいろ問題も残っている、けれど私はそうしたものを抱えながらも本に、テクストに向かい合おうとしているこの人たちの姿勢に感動します。

2006年11月16日木曜日

総索引,漱石全集第28巻

 以前、漢文だけは読めないといっていた『漱石全集』。じゃあ、残りは読めるというのか? 総索引なんかあんた読むのか? と問われると正直ちょっと微妙でしょうね。だって、私は研究者じゃありません。特定の語句をめぐって、全集の中をさまよおうなんてことは、よっぽどのことがない限りできるものじゃありませんからね。でも、索引というのはすごいものです。探しているものを必要なときに効率よく見つけるために用意されるもの、それが索引です。よい索引が整備されていれば、研究にも読み解きにも役立つ、これは本当です。これに関しては間違いありません。

以前、私は論文で漱石を引用したことがあるんですよ。論文というのは、グレン・グールドというカナダ人ピアニストについてのものだったのですが、この人が漱石の『草枕』のファンでして、だから彼の考えを読み解く助けとして『草枕』の読み解きみたいなこともしたのでした。

論文ではですね、いいかげんなことは書けないわけです。それこそ推理小説で犯人追いつめるようなものでしてね、どこそこに証拠がある、誰それがそう証言していると、逐一きっちり証拠証言を集めて揃えて突きつける必要があるんです。論文の場合、主にその証拠というのは他の論文や書籍に求めるわけで、ほら、このBlogでもたまにやってるみたいに、引用の出典を作者、書名、出版社、出版年、そしてページを記すという、そういう必要があるんです。だから、私もやりましたよ。証拠探しは現場百回ではありませんが、関連する資料を何度でも読みます。それこそ覚えるくらい読みます。さっきの例でいえば、グールド関連の本は当時出てたものほぼすべて読んだと思います。それで、頭の中にインデックスを作るんです。どの本のどのへんにどういうことが書いてあるということを把握するんです。でも、やっぱり限界ありますから、私はびりびりにちぎった紙を附箋代わりにして、このページ重要と思ったところにはさんでいって、だからもう資料は紙だらけ。でも、これでも書き出してから、あああのエピソードどの本だったっけー、っていうことは何度もあって、運が良ければ見つかりますが、運が悪いとなんべん探しても見つからない。焦って探すのも悪いんでしょうけど、とにかく見つからない。この本かこの本のどっちかなんだよ、このへんのページにありそうなんだよ、なんて思うんですが、なのに見つからない。だから泣く泣く削ったものもあります。だって、証拠を提出できない。確かにそのエピソードは読んだのです。どこかにあるのです。けど、きっちり引用ないし参照元を示さないことには、それはないのと同じなのです。

もしグールドに関する索引があったならば、ずいぶん違ったのかも知れないなんて思いますよ。でも、今はもう昔の話。懐かしく思い出すエピソードになっています。

索引の威力をちょっと示してみましょうか。例えば、こないだ『草枕』について話したときに持ち出した非人情という用語ですが、果たしてこれってどこで扱われてるのかなー、なんて思ったときは索引です。ええと、3巻の11, 12, 15, 16, 34, 111, 112, 113, 114, 154ページに出てきますね。それと14巻の索引、22巻の558, 566, 569, 27巻の131ページにも出てますね。これ、第3巻は『草枕』の収録巻だから出てくるのも当然ですね。14巻は文学論です。22巻は書簡、27巻は別冊です(短評雑感あたりかな?)。こんな風にすると、ひとつの用語をめぐって漱石がどう考えたのかをめぐる足がかりが見えてきそうな感じでしょう? で、それを読んで理解を深める。だから索引は一読者にだって意味のないものではないのです。

実はこういう索引は今やインターネットでも利用できます。例えば青空文庫。Googleで青空文庫を対象に非人情で検索してみるといいのです。すると19件出てきます。夏目漱石に限ってみると『草枕』と『坑夫』に出てくる。でも、『坑夫』のは非人情ではなくて理非人情だからちょっと違いますね。Googleが表示する検索語周辺の文脈をちょいと見てみると宮本百合子の『婦人と文学』が漱石の非人情に言及していることがわかります。宮本百合子はというと『婦人と文学』以外でも非人情を使っていて、それは『パァル・バックの作風その他』、『沈丁花』、『写真に添えて』。後のふたつはあんまり漱石に関係なさそうだけど、『パァル・バックの作風その他』はどうも関係しているっぽい。どれ、読んでみようか — 、なんてことにもなります。

こんな風に、よく整備された索引はさまざまな情報を繋ぎ合わせてくれます。これまで誰にも気付かれなかった関係が、索引によってあらわにされます。万葉集の研究でコンピュータを導入して解析している人がいるのだそうですが、これまで千年以上も気付かれずにあった関係性が見つけ出されたと、そういう例を聞いたことがあります(多分、「古典和歌からの知識発見」に紹介されてる事例だと思います。PDFです)。この万葉集の研究は、単純な索引作成では到達できないものではありますが、それでも索引が使えるようになるということだけでも、大きな効果を得られるのではないかと私は期待しています。

具体的には、Google Book Searchあたりに期待しています(例えば、jabberwockという用語を含む本を調べてみると即座に1450ページという結果が返ってくるのですよ! 信じられない!)。そしてほかならぬ『青空文庫』に期待しています。資料を電子化して、インターネット上に置くだけでも大きなメリットが得られます。検索容易性に加え索引を用いた全文検索、本当に素晴らしいと思います。だから、私は、より多くの作品が電子化されて、広く利用できるようになればいいと思っています。もしすべての本を横断的に検索することができるようになれば、スーパーな読書体験の世界が開けることが単純に想像できて、なんだかわくわくしてくるのです。

  • 夏目漱石『漱石全集』第28巻 東京:岩波書店,1999年。

2006年11月15日水曜日

単行本書誌,漱石全集第27巻別冊下

 もらった図書券が溜まってきたので、買い漏らしていた『漱石全集』を買ってきました。本当だったら三冊だけのつもりだけだったのですが、岩波のサイトで確認すると第24巻書簡下と別巻漱石言行録が在庫僅少。これは危ない、急がないと買いもらしが出るかも知れないと思って、残りを一気に購入すると決定。二万四千円なりです。あいたたた、としか言い様のない価格ですが、でも全集が欠けることを思えばこれくらいどうってことないでしょう。そんなわけで、本日『漱石全集』をコンプリート。2002年に第二次刊行が開始されたわけですから、足掛け四年かかったというわけですね。

購入した書店はジュンク堂大阪本店。私は以前の職場で『漱石全集』をジュンク堂外商に注文しておきながら、刊行完了を待つことなく転職を余儀なくされて、だから私の『漱石全集』は未完のままにされて、でもいつか揃えるんだという話は以前したとおり。けど、ジュンク堂に頼んでおいて、途中からよそで買ったりなんぞしたら、そりゃ仁義にもとるってものですよ。だから、『漱石全集』買うときはジュンク堂でと決めていたのです。

二万円の買い物をしたら、コーヒーチケットを二枚もらえました。なので、三階喫茶コーナーにて紅茶をいただきながら読書。ちなみにこんな感じ。

Tearoom

紅茶もおいしかったです。

Tea

さて、全集などという分不相応なものをもってどうしようというんでしょう。読むのか? といわれると、いやこれが結構読めるのですよ。そもそも私が漱石を全集で買おうと思ったのは、この人の小文雑文も含めたいろいろを、とにかく余さず読みたいと思ったからでして、文庫なんかにも収録されているものはありますけれど、余さずっていうのはちょっと難しいですよね。こういうときに役立つのが全集なのです。全集なら、とにかく細大漏らさず文章が収録されて、学生時代のレポートから書簡から、とにかくそういう驚くようなものまで入っていて、実にうはうは気分。そして、今日斜め読みしながら、これは面白いと思ったのが意外や意外、漱石の「単行本書誌」であったのです。

この書誌は、漱石の著書・全集・合著集等についての書誌であり、明治・大正期に刊行されたもの(漱石作品の翻訳書等は除く)を対象とし、一部昭和期のものを参考として取り上げたものです。これ見ればですね、本当にいろんな形態で出版されていたということがわかります。初刊があり、その後縮刷版が出たりもしているのですが、そうしたさまざまの本の表紙印影を見ているだけでも楽しいのですが、けれどさすが全集というべきか、それぞれの本への言及が細かくて、それがまた面白いのです。印刷日発行日発行所なんてのは当たり前の情報として、体裁があれば構成もあって、ルビの有無まで言及されます。また重版についても記載されて、そして解説。書名の記法の揺れや、重刷にともなう字句修正などの本を取り巻く情報が盛り込まれて、本当に読んでいて面白いのです。漱石に関する情報としても貴重でありましょうが、明治大正期の出版を取り巻く状況がどんなもんであったかも知ることのできる、本好きならわかる面白さのある資料であると思います。

さてさて、漱石のデビュー作『吾輩は猫である』ですが、これ当時ベストセラーだったといいますね。その状況はこの書誌からもうかがえます。『吾輩ハ猫デアル』上編を見ますとね、1905(明治38)年10月6日に初版初刷が出て、翌月11月20日には第3版(刷?)が出ているのですから、結構な売れかたをしているようじゃありませんか。中編はもっとすごくて、1906(明治39)年11月4日に初版発行、同月25日に第3版。まあ、刷り数とかわからないから一概にはいえないとは思うのですが、いずれにせよ人気作家だったのだろうなというのがうかがえるように思います。

こんなデータを読んで面白いと思えるかは本当に人それぞれですが、私には本当に面白く、これだけでも全集買ってる意味があったなと思えるほどでした。けど、人には勧めません。

  • 夏目漱石『漱石全集』第27巻 東京:岩波書店,1997年。

引用

  • 清水康次「単行本書誌」,『漱石全集』第27巻 (東京:岩波書店,1997年),440頁。

2006年11月14日火曜日

草枕

 昨日読んだ『杜子春』というのは、人の世の空しさに気付いた主人公が人の世を捨てようとして、けれど結局は捨てきれなかったというような話であると思うのです。これ、ちょっと漱石の『草枕』の冒頭に似ているなと、そんなことを今日の帰り道に急に思って、ええ、この部分。

人の世を作つたものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向ふ三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作つた人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行く許りだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくからう。

杜子春は、仙人の境涯に向かって結局は人の情によって帰ってきたのですが、漱石は向かうまでもなく人でなしの国は住みにくいだろうと推察して、住みにくい世を住みにくいと受け入れて、その住みにくさをどけたところにある美しいものを取り上げるのが芸術だと、そういうことをいっています。ただその芸術をなす際には、ただただ情にほだされていては駄目であるらしく、ここに漱石は非人情という用語を提示しています。

この非人情という用語ですが、ちょっとこれだけではわかりにくい。けど、この非人情というのはこの本のあちこちにとにかく頻出するから、これがわからないではこまる。そこで私は、この非人情というのは、距離感の問題なんじゃないかというような捉えかたをしています。

なにに対しての距離感かというと、それはやはり世間なんじゃないかと思っています。『草枕』冒頭にいう、智に働けば角が立ったり、情に棹させば流されたり、とにかく意地を張るにも窮屈で住みにくい世の中を、実際まったく離れてしまえば住みにくいどころではないから、うまく折り合いをつけながら、けれど距離は置いておきたいという欲求。こういうのが非人情という語にあるんじゃないのかなあと思ったりするんです。

とかく人間は簡単に人情世界に馴染んでしまうものです。実際私にしても同様で、数年前、実にまったく世間に背を向けるようにとんがって生きようとしていた私でしたが、けどそれは今のかりそめの安定の中でずいぶん鈍磨してしまったとそんな風に思うことが増えました。けど、それは結局かりそめで、ちょっとバランスが崩れれば失われるような見せかけの安定に過ぎなくて、そういう現実を以前は諒解していたというのに、今はすっかり目を背けてしまっているなと気付かされて、ああみっともないなあ。俗世に落ちたと感じました。非人情の境涯を求めたいと思っていた昔の思いなんてとうの昔に消えてしまっていたのだなと、情けなくなりました。

気付けばずいぶん日和っているとは思いませんか。丸くなったのかも知れないね。けどそれは結局は鈍磨したことにおんなじで、常識人ぶった物言い、振舞いの影には臆病と打算が透けて見えてげんなりします。私はそんな自分自身の位置が嫌でたまらないから、今からでも非人情を取り戻せるだろうかなんて思った、今日はそんな日だったのです。

この本のいうには、芸術家というのは 四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むような人間のことだそうですよ。いうなら芸術家とは非常識な人間であるということで、別に私は芸術家ぶりたいだなんて思ってやしないけど、けれど常識に取り巻かれて自由を失うのはまっぴらごめんで、だから少しでも自由であるためにも常識の一角を取っ払いたいなあなんていうのですね。

  • 夏目漱石『草枕』青空文庫。
  • 夏目漱石『草枕』(ワイド版岩波文庫) 東京:岩波書店,2006年。
  • 夏目漱石『草枕』(漱石雑誌小説復刻全集;第4巻) 東京:ゆまに書房,2001年。
  • 夏目漱石『草枕・二百十日』(角川文庫) 東京:角川書店,2000年。
  • 夏目漱石『漱石全集』第3巻 東京:岩波書店,1994年。
  • 夏目漱石『夢十夜;草枕』(集英社文庫) 東京:集英社,1992年。
  • 夏目漱石『草枕』 東京:岩波書店,1990年。
  • 夏目漱石『草枕』(岩波文庫) 東京:岩波書店,1990年。
  • 夏目漱石『夏目漱石全集』第3巻 東京:筑摩書房,1987年。
  • 夏目漱石『草枕』(新潮文庫) 東京:新潮社,1968年。

引用

  • 夏目漱石『漱石全集』第3巻 (東京:岩波書店,1994年),3頁。
  • 夏目漱石『漱石全集』第3巻 (東京:岩波書店,1994年),34頁。

2006年11月13日月曜日

杜子春

 なんだか自分で自分を見失っているなと思うところがあったので、『杜子春』をちょっと読んでみたいと思ったのです。『杜子春』は芥川龍之介の短編で、『蜘蛛の糸』に並んでよく知られている話です。この話を有名にしているのは、国語の教科書なんかに収録されていることが多かったからなのではないかと思うのですが、唐の洛陽を舞台に、青年杜子春の身に起こった不可思議なできごとを追体験することで、人間の生の空しさに思い至り、そして空しい人生において大切なことというのは一体なんなんだろうかということを立ち止まって考えるきっかけになるのではないかと思います。

正直なところをいいますと、少年時代、思春期、青年期、そして今と、何度となく私はこの話を読んできて、年を取るごとにその感慨は深まっているとそんな風に感じるのです。子供の頃は子供の頃で、杜子春の冒険にも似た人生の紆余曲折にわくわくしたりはらはらしたりしたし、思春期青年期には、人生の空しさを悟った杜子春の荒野の試練にも似た苦境にて見せる精神性の高さに崇高さを感じ、しかしどのような精神の強さがあったとしても克服できない人の情の深さに感じるところがあり、でも今読めば、そういう理屈やなにかでない、悲しみのようないとおしさのような気持ちが湧き上がってきて、胸を突かれるような思いに締めつけられます。

感想が読むたびごとに印象を違えるのは当然ではありますが、私にとって『杜子春』がより深みを増していくように感じられるのは、おそらくは私と私のまわりの人たちの関係が変化している、そのためであると思います。昔は、父も母も若く元気でありましたが、年月を経て老い、私自身もいつまでも若いわけでなく、また、物語冒頭の杜子春ほどではないですが、貧しさ、暮らしにくさを感じることもないではない、そういう微妙な立場に立たされて、けれど私は割合この位置を楽観的に受け入れています。金が欲しいわけでなく、地位が欲しいわけでもなく、けどそれでもどこかに欲はよどんで残っていて、その欲はよく見てみれば屈折した名誉欲、承認への欲求であると、そんなようなのです。

でも、そんな自分の身の丈にあわない虚像を求めてどうしようというんでしょう、私は。そんなことよりも、私はもっと身近にあるものを、人を、ことを大切に考えなければならないのではないかと反省して、だからこういうときに『杜子春』を読みたくなります。何度目かはわかりませんが、こうして『杜子春』を読んで、私は大切なものを取り戻すことができたのか。今はまだわかりません。すぐにぶれて、簡単に揺れる、そういう薄弱であるのが私です。けれど薄弱ながらも、変わらぬ大切なものへの視線は持ち続けたいとそのように思っています。

2006年11月12日日曜日

暴れん坊本屋さん

   暴れん坊本屋さん』の第3巻がでています。といっても『ふたりめの事情』と一緒に出たのですから、今ごろそんなこといっても今更感が漂うってなものですが — 。ええと、実をいいますと、本日地上三十階の書店で『暴れん坊本屋さん』の作者、久世番子さんのサイン会があったのでした。ええ、私ももちろんいったのですよ。並びました。時間にして二時間。待ってる間、なにか気の利いたことをいおうと思っていろいろ考えていたんですが、なにしろ私は不調法ものときておりますから、気の利いたことどころか真っ当な挨拶さえできたかどうか自信がない……。ああ、なんて気の小さいことでしょう。でもいいんだ、サインもらえて嬉しかったから……。

『暴れん坊本屋さん』3巻も出て、サイン会もあって、いやあますます大繁盛、いよいよこれからが楽しみだ、というような盛り上がりを見せている状況に見えますが、実をいいますと『暴れん坊本屋さん』は3巻で完結です。このことを知ったときは、ちょっと寂しかった。けど、こういう実体験をベースにしたものというのは、長く続くほど内容に無理が出てくるところがありますから、3巻で区切りをつけたというのは、よい見極めだったのかも知れません。これまで私もいろいろな本を読んで、もちろんこういう実録系のものも読んで、後になるほどネタ出しに無理しているなという感じが濃厚になって、なんだかいたたまれない感じになったりします。最初は自然だったテンションも、最後の方はもう空元気が息切れ起こしてるみたいな感じだったりして、それが好きな本なら好きであった分だけ余計につらい。『暴れん坊本屋さん』は乗りのいい頃合いに、人気をつかんだまま終わることができて、本当にいい引き際だったと思います。

『暴れん坊本屋さん』は新聞や雑誌でも紹介されて、実際話題書といったような感じがありましたが、これだけ話題になったのは、本好きに訴える要素が多かったからだろうと思っています。本好きなら、なんとなくでも近しく感じている本屋さんという職業の花の部分とその裏側に広がる影の部分が面白おかしく表現されていて、へーっ、そうなんだー、って思えるところがきっとよかったのでしょう。でも、多分この本は本の愛好家よりも書店員にこそ受けていたんだろうと思います。昔、私の職場の同僚に書店員だったのがいたのですが、その人の語ってくれる本屋の苦労話裏話が面白かったりショックだったりで、でも面白かった。で、私とその元書店員がこの漫画を読んだとしたらどうでしょう。この二人が受ける印象は大きく違ってくるはずです。私は親しみを持ちながらも詳しくは知らない世界をかいま見るのが関の山、たいして元書店員は、あんなこともあった、私の場合はこうだったと、共感を持ちながら、あたかも対話するようにして読めるはずで、その共感の分だけ私よりも深く面白さを感じられることでしょう。

実際、この漫画の愛読者には本に携わる人が多かったようです。第3巻の一番最後、増補版に、本の愛好者だけでなく書店員や図書館員からも応援の声があったらしいことをうかがわせるコマがあります。そういえば私も図書館員でした(私が排架した棚は、本が抜けないといってすこぶる悪評だったさ! だって狭いんだもん。ぎゅうぎゅうに差さないと本が出せないんだってば)。だからそれゆえに、この本を読んでいると昔のことを思い出したりして、懐かしかったり、思い出し怒りしてみたり、でも書店員も図書館員も、結構ハードで報われない仕事にも関わらずその職場に愛着を感じてしまうのは、やはりそれだけ本が好きだということなんだと思います。だから、すべての本に携わる人、作家、出版、印刷、取次、書店、図書館、そして読者はみな本を仲立ちにして繋がる、戦友みたいなもんなのかもなあ(時には角突き合わせたりもするけどね)。だから、それゆえに共感しあい、ともに面白がることのできるというわけで、そうした体験の結晶のひとつがこの『暴れん坊本屋さん』だとしたら、それ自体がすごく素敵なことなんじゃないかという気もするのです。

蛇足

私は新世界の本屋となる!!というフレーズを見たときに、通天間近くの書店!? と思ったのは多分私だけではないと思います。

引用

2006年11月11日土曜日

メイド諸君!

 きづきあきらの新刊が出ていたので買って参りました。その名も『メイド諸君!』。タイトルからもわかるように、ここ数年流行のメイドを題材にした漫画です。けど作者がきづきあきらだからなあ(どうも警戒しないではおられないらしい)。おそるおそる読みはじめてみれば、舞台がメイド喫茶。一種おとぎの世界にふと迷い込んできた、これまでおたく業界とはまったくといっていいほどに関係なかった女の子がヒロインです。で、私は最初面食らってしまったんでした。この漫画はどのように読んだらいいんだろう。つうか、いったいなに? 出てくる人たちの大半はおたくで、しかもきづきあきらフィルタを通ったおたくで、どちらにしても受け入れがたさが先に感じられて、なんなんだろうこの違和感は……。と、初読の感想はこんな具合であったのです。

あまりに受け入れられない場合は、ちょっと間を置いてみるというのが私の常です。で、間を置いてみての感想は、この漫画はもしかしたらいわゆるお約束をテーマにしているのだろうか、というものでした。舞台となっているメイド喫茶というものがそもそもある一定のお約束をベースにして成立している空間であるわけで、ここで提供されるサービスというのは、喫茶などではなく、お約束どおりにロール(役割)を演じるということに他なりません。そうした、求められるロールを果たすということの重要性は実際この漫画においても語られています。

と、そこへお約束を諒解していない人間(ヒロイン)が投げ込まれることによって、ここに劇的要素が生じるのかなと思いまして、ヒロインが反定立(アンチテーゼ)とすれば、定立(テーゼ)はお約束をなによりも大切に考える人、あるいはこれは領域の問題と考えてもいいかも知れない。決められた領域の中で、決められた型どおりに振る舞うということは、ある一定の範囲にとどまるならば有用で、規範からの逸脱は問題となるケースもあります。ですが逆に、あまりに行き過ぎたお約束は、その下にある個別の事例をすりつぶす肉挽き機のようなものでしかないのかも知れない。こうした、お約束をめぐる境界線の問題がテーマなんじゃないかなどと思ったわけです。

いや、わかりませんよ。私がそんな風に思ったというだけの話で、実際のテーマがどうかは2巻以降をまつ必要があるでしょう。

けれど、やはり私はこの漫画をお約束をめぐる物語として捉えようとしています。お約束は普通と捉え直してもいいかも知れない。普通にとどまること普通から逸脱すること。逸脱したものに対し、普通の冷たくあたること世の常の習わしといってよいくらいに頻繁で、すなわちここに普通は見事個別の事例をすりつぶす肉挽き機として機能します。普通とはその成員に対し同質であることを求めるプレッシャーで、そのプレッシャーがあるがゆえに、外れものは迫害される。ここまで書けば言い過ぎかも知れませんが、あまりに普通であるものたちは、自分たちの残酷さに気付いていない、私にはそんな風に思えてならないんです。

『メイド諸君!』がどのような漫画であるかは、この先を待ちましょう。私のこの記事は、迷惑な先入観にもなりかねません。だから私自身もこうした見方を、心のどこかにとどめたまま、読むたびごとに新たな気持ちで向き合いたいと思います。しかし、この先は一体どうなるんだろう。この先が、私の想像だにしない世界だとしたら面白いとそんな風に思っています。

  • きづきあきら,サトウナンキ『メイド諸君!』第1巻 (ガムコミックスプラス) 東京:ワニブックス,2006年。
  • 以下続刊

2006年11月10日金曜日

眠れる惑星

  なんだか妙に気になるんだけど、なぜか集めようという気持ちにブレーキのかかってしまうのが陽気婢という人なのです。繊細そうな絵柄で、ちょっとファンタジー、ちょっとサイエンスフィクションをやる人というような印象が私にはあって、そしてもう一点はずせない印象はというと、ちょっとエロまじりってところでしょうか。絵柄からも話からも思うんですけど、多分この人は生真面目な人で、その感触は決して悪くないと思うんですが、買おうかどうかかなり迷ってしまいます。なんでなんだろう。はまる人はきっと容易に抜け出せないくらいにはまってしまうというようなタイプの漫画家だと思います。だから、私はそういうのを怖れてるのかも知れません。あるいは、なんか見透かされたような気持ちがするから、ちょっと距離を置きたいと思っているのかも知れません。

けど、偶然本屋で見つけた『眠れる惑星』の第2巻、なんだかひかれるものがあって、数日迷ったんですが、結局買ってしまいました。これ、どういう話かというと、ある朝突然、主人公淳平少年以外のみなが眠りから覚めなくなった、とそういうお話。このへん、実にSFチックであると思います。こうした異常事態下における人間の行動うんぬんというのは、結構SF古典で見られるテーマだと思うのですが、私はSFに詳しいわけでもないのでぼろが出ないうちに黙っておきます。して、この主人公以外が目覚めないという状況を打破する方法はなにかというと、これがさっきエロまじりだといった陽気婢の面目躍如だと思うのですが、淳平が関係を持つことで相手を覚醒させることができる、とそういう話になっているのです。

なんて都合のいい! っていったらまあそのとおりで、まさしくハーレム状態なのですが、けれどこうしたハーレム状況を成立させながら、話を純愛系に向かわせようというところが、やっぱり最初にお話したように、この人の繊細で生真面目であるという所以であると思います。

これ、主人公を楽天的な性格に置いているからそれほど悲壮感もなくて、ちょっとコメディっぽかったりもするんですが、もしこういうシチュエーションに自分が置かれたらどうなんだろうなあなんて思うと、私は基本的にネガティブな方向に引っ張られている人間ですから、きっとものすごい破滅的なことになっちゃうんじゃないだろうかなんて思ったりなんぞして、けど、そういう不安をまったく描いていないというわけでもないから、読んでいて非現実感にくらくらするというようなことはありませんでした。特に、なぜ人は覚めない眠りに落ちてしまったのかということがまったく解明もされず、謎のままに置かれている(第2巻時点)ため、目覚めた登場人物の一部にはやみくもに不安が募ったりと、こういうところの描写は結構好みです。不安の中、それぞれがそれぞれの思うあり方を探し、選ぼうとしているというのでしょうか。確かに鍵こそは淳平少年でしょうが、淳平少年という軸を離れたところで触れられる個々人のエピソードに妙に実感のこもるところを感じて、むしろ私の興味は周辺にこそあるという感じです。

けど、やっぱりこの漫画の軸には淳平少年があって、そして彼には常にセックスがつきまとうわけで、だから私はこの漫画を読んで、なんのかんのいっても人間はとどのつまりセックスなんだろうかと思って、悲しくなってしまったのでした。別に私は性的営為を否定したりはしないのですが、けれどそればっかりというのはどうなんだろうと、なんだかぼんやりとした空しさが残ります。

一体どの口でいうてんの? って感じでしょうが、本当にそう思ったんだからしょうがありません。けど一体なんでこんなことを思うんだろうと考えれば、それはこの人の漫画になんだか無常観みたいなのを感じるところがあるからかも知れません。と、最後まで人のせいにしておこうと思います。

  • 陽気婢『眠れる惑星』第1巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 陽気婢『眠れる惑星』第2巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 以下続刊

2006年11月9日木曜日

リトルウィッチファンディスク — ちいさな魔女の贈りもの

 ずいぶん前に、一体なにがきっかけで知ったんだったか、Littlewitchがファンディスクを出しますよということを聞きまして、あ、ちょっと欲しいかもと思ったのでした。Littlewitchというのはこないだ、そして昨日もお話した『Quartett!』の開発元でありまして、つまりそのファンディスクには『Quartett!』関連のおまけシナリオも含まれています。だから、欲しいと思ったんですね。でもさ、発売日がいつかというのをついチェックし忘れてて、その後大阪日本橋にいったとき、また偶然にも店頭にリトルウィッチファンディスク発売というポスターを見て、あ、買わなくちゃと思いながらまた忘れて、買ったのいつかといいますとPS2版『Quartett!』を買ったその同日ですよ。このファンディスク、もう生産完了していましてね、だから店頭在庫がなくなる前に買わないと入手が困難になるというわけで、だからちょっと奮起してみたとそういうわけです。ええ、私の消費はいつもこんな感じでなされます。

インストール後、最初に開いたのはもちろん『Quartett!』の後日談でありました。シニーナさんを主役としたエピソードです。正直私は、この話だけでもとはとれたと思ったほどです。内容はといえば、進路に悩む学生がよく突き当たるような話でありまして、だからよくある話ともいえるし、また私自身にも同じく起こったことでもありました。自分の望む道が困難であるため、より平易な方向へと流れたことはありませんか? 自分は駄目だと決めつけて、本当の気持ちを押さえつけてしまったことはありませんか? 私はあるんです。私は学生時分、実技系の学科に学んでいたのですが、その先、卒業後の進路を決めるにあたり、より平易な道を選んだのでした。もう夢なんて見ない。普通に就職して、ただただ日々を送ろう、なにも望まず、ただ平穏に暮らそうと決めたのでした。けどこれが悔いになったんですね。自暴自棄とまではいわないけど、無為に暮らして、空しさに気付かないようにしていたのですが、それでもどうしてもあきらめきれなかったのか、最初の道に戻ってきてしまいました。長い寄り道。十年弱ですか? 失われた時間は大きかったと思います。ですが、私にはこの時間が必要だったのかも知れないなと思います。無為だったかも知れないけど、無駄ではなかったと思います。

『Quartett!』の後日談は、まさしく私が突き当たったことをなぞるようで、だから感情移入も並大抵ではありませんでした。昔のことを思い出して、自分は現実的な選択をしたんだと思い込ませながら打ちひしがれたことを思い出して、けど本心は納得なんてしてなかったからその思いは悔いに変わった。ヒロインシニーナのコンプレックスや心の揺れ動きを追想することで、私は再び思いを新たにすることができたと思います。もっともっとがんばろう、まだまだがんばれるという気持ちにもなって、だから私にはこのゲームは本当によい買い物であったと思います。

このエピソード、もしかしたら開発元のどなたかのエピソードなのかも知れませんね。それくらいよくある話で、けどそれゆえに共感できる話であると思います。

湿っぽい話終わり。

ファンディスクに収録されているのはこうしたサブエピソードだけではなくて、他にミニゲームもあるのですが、ミニゲームというには結構しっかりしている「魔女っ娘クライシス2006」、これが結構面白かったです。さいころを振って、出た目の分だけすごろく上のフィールドを移動し、対戦相手を見つけてカードバトルをするというゲームなのですが、相手を打ち負かしますとボーナスグラフィックGetだぜ! というそういうわけなので、自然むきになってカードバトルに精を出します。……ごめん、ちょっと嘘。実はこのゲームにはバグがあって、キャラクターを捕まえてもカードバトルに突入せず、主人公が勝ったことになってしまうという、そういうバグなのですが、まさに私の環境ではこれが発現して、一度も戦うことなく全員蹴散らして、もちろんボスもですよ、楽勝で蹴散らして、あっという間にクリアしてしまったのでした。ひどいユーザーもいたもんだよ。

最初、なんでカードバトルが始まらないんだろうと焦って、あ、そういえばパッチが出てたなあと思い出しながらも、そんなのダウンロードしてません。どうしようかと迷った揚げ句、とりあえず全要素をオープンしてからパッチあてようと決定。なので、クリア後、改めてやり直している次第です。

真面目にやってみた感想、カードバトルって結構面白いですね。火水植物の三属性が三すくみになっていて、攻撃点を防御点で相殺、相殺しきれなかったポイントがプレイヤーのダメージになるというそういう仕組みなのですが、相手のスタックを破壊したり、相手を眠らせて一回休みにしたりなどの特殊カードもあって、結構奥が深いです。多分、こういうのが普通のトレーディングカードなんでしょうね。私、カードバトルといえば『カルドセプト』しかやったことがありませんでしたから、このシステムが新鮮で、流行ったのもわかるような気がします。面白かった。自分でも類似システム作れないかなあなんて思ったりなんかするくらいに面白くて、これはちょっとしばらく遊んでみたいと思うようなものでした。

さて、そんな私の目下の問題は、ファンディスク買ったおかげで『白詰草話』、『リトルウィッチロマネスク』に興味が出てきてしまっているというところだろうと思います。『魔女っ娘クライシス』でのやり取りいろいろ見てるとなんだか面白そうに思えてきて、いかん、すっかり相手の策にはまってるじゃないか、とそんな具合なのです。なお『白詰草話』は先日ロットアップしましたので、店頭在庫がはけると入手困難になりかねません。 — まずいですね。私の決断の条件が揃っているような気がしてなりません。

参考

2006年11月8日水曜日

Quartett!

  先日お話しました『Quartett!』のPlayStation 2版が発売されていたという話題の続きです。えっと、結局買ってしまいました。わはは。買おうかどうか迷って、迷って、迷ったのですが(前回の記事の書かれた10月4日から今日までの時間でもってはかってくださるとありがたいです)、後で入手困難になってから探すのも嫌だし、入手にしくじって後悔するのも嫌だしで、買っとくかあ、とそんな具合に決断しました。私の決断はいつもこんな感じでなされます。

買ったのは限定版です。限定版は箱入りで、イラストカードがついてくるんですが、正直ちょっと得した気分(いや、その分の代金はちゃんと支払ってるのですが)。いろんな作家さんが参加されていて — 、だからひいきの作家さんがイラストかいてらっしゃるとか、このゲームのマニアとかでなければ通常版でいいかな? っていう感じです。限定版と通常版はパッケージイラストが違いますが、イラストカードに通常版のイラストも収録されていますので、相当のマニアでない限り限定、通常双方を購入する必要はないかと思われます。

PlayStation 2版を遊んでみた感想。フローティング・フレーム・ディレクター(略称FFD)は相変わらずいい感じに仕上がっているなあという感じです。PS2とPC版の最大の違いは、PS2版が全年齢向け、そして全員に声が入っている、というその二点であろうかと思うのですが、その声の入るタイミングも含めて、うまく仕上がっていると感じさせます。

私のこのゲームの遊びかたは、徹頭徹尾オートモードで、という完全観賞スタイルなのですが、PS2版はよりこのスタイルに向いていると思います。声がついているおかげで、テキストの読み落としというのが基本的にありませんからね。なのでより一層観賞している感は強まっています。

表示に関しては、やっぱりそりゃPC版の方がいいんですが、ほらPCは800×600ピクセルのフルカラーまでいけるでしょう。たいしてテレビは640×480のインターレースだから、ちょっと文字が読みにくかったりするんですね。だから、なおさら声がついてくるというのはありがたい、というかないと困るかも。肝心の絵はというと、思ったよりも問題なくて、これは水彩風の塗りのおかげなのかも。ともあれ、PS2版があるならPC版は特に遊ばなくてもいいかも知れないよ、といっていいんじゃないかなあと思います(PC版はついこないだロットアップしたので、どんどん入手困難になっていくことでしょうし)。

けど、PS2版が最高とはいわないですよ。問題というかなんというかもないわけではありませんから。例えばひとつは文字が読みにくい。フォントがわりに細いから、よりちらつきやすいといえるかも(けど、ボールド気味のフォントなら雰囲気壊しちゃうでしょうけどね)。もうひとつは、ディスクのシークがすごいんです。これはもうFFSの宿命としかいえないでしょう。普通一般の、背景がありキャラクターの立ち絵があり、そしてテキストウィンドウが……、というスタイルのゲームとは一線を画していて、話の流れに沿って画面にコマが現れ、台詞は吹き出しがそれを話している人物のそばにひとつひとつ配置され、そして吹き出しが出るのと同時にPS2版は声が出ます。この、それぞれのデータを読むのがよほど大変とみえますね。ひっきりなしにディスクシークが発生して、正直うるさい。ずっとがたがたいっていて、私の初期型PS2は壊れたりしないだろうかと心配になるくらい。ハードディスクの威力は偉大であると実感しますよ。ほんと、なんでPS2には標準でハードディスクがついてなかったんだろう。もしPS2にハードディスクがついていたら、先行してデータを読んでキャッシュしてみたいなことも可能なわけで、ほんとこのゲームがハードディスクに対応していないということが残念です(私はPS2用HDDを持ってるのですよ)。

あともう一点。先にもいいましたように、私はこのゲームをオートモードでプレイしているのですが、オートモードであることを示す表示が結構でかくて目立って邪魔。もうちょっと小さく、目立たないようにして欲しかったなというのが正直な感想です。あ、それとできたら、選択肢でオートモードが停まるのはいいんですが(停まらないと困る)、選択後にオートモードがOFFになってるのは嫌かもなあ。まあ、そのつどL1を押したらいいだけの話だし、このゲームに選択肢はそれほど多くないので、問題は少ないと思います。

そうだ。PC版で触れていたインターフェイスについても書いとこう。画面には基本的に無駄な要素が表示されません。だからセーブやロード、設定変更といった各種操作はコントローラーの対応するボタンを押すことでなされます。私はこういうのきちんと覚えられないのですが、まあ頻繁に操作を要するようなゲームではないから大丈夫。オートモードとキャンセルとオプションが使えればそれでいいや。

というわけで、ファーストプレイは、メインキャラクターのシャルロットルートでいくつもりが途中ユニに寄り道してしまって、分岐はばっちり覚えているつもりだったのですが結構忘れてしまっています。しかし、風邪のシーンのユニの独白は何度聞いてもしんみりしますな。彼女の問題は、私が学生時代に失敗した問題に嫌になるほど重なっているから、その分感情移入が激しくて参ります。いや、そのつまり、ここはユニに参っていると解釈してくださって間違いないと思います。

そんなわけで『Quartett!』はPC版、PS2版にそれぞれ長所があるというお話です。だから、PS2版がPCに逆移植されたりしたらきっと私は買っちゃうだろうなと、そんな風に思いますですよ。あ、その際には全年齢版でかまいません。

P. S.

内容についてちっとも書けなかったので、また書くかも知れません。

PC

書籍

CD

2006年11月7日火曜日

女クラのおきて

   『女クラのおきて』がはじめてラブリーに掲載されたときの印象は最悪で、なんじゃこの勢いばっかりの設定漫画は、だなんて思っていたのですが、気付いたら好きになっていたというのですから、人間の好みというものはいいかげんなものです。そうなんですね。私ははじめ、『女クラのおきて』が嫌いでした。なんか雑な漫画だなあと思っていて、いずれ消えるさなんて意地悪なことさえ考えていたのですが、どこがどう人気があったというのか連載は続いて、そしていつしか私はこの漫画を読むのを楽しみにするようになっていたのです。もう完敗といっていいと思う。その、私にとって師走冬子という漫画家を好きにならしめるきっかけとなった『女クラのおきて』の最終巻が本日発売されました。そうですか。終わってしまったのですね。振り返ってみれば連載の期間こそは長かったですが、なんだかあっという間だったようにも思えます。

この漫画、はたして時間の流れはどうなっていたものか。これだけ長い期間連載されて、季節恒例のイベントも繰り返されて、けれど彼女らヒロインが卒業するとか、この漫画が終わるとか、そんなことは一度も考えたことがありませんでした。味わいを違えながら、面白さの質も変化させながら、その勢いが衰えているようにはまったく感じられず、なのに終わった。人気のあるうちに終わった。いい時機だったのかも知れませんね。新キャラは何人も出ましたが、彼らが漫画の面白さを損なったことはなく、最終巻にも新キャラがひとり。いいキャラクターでした。話に広がりが出たと思います。そしてその広がりを持続させたまま終結。なんだかしんみりしてしまいました。またそれが、しんみりさせるようないい終わりかただったと思うんです。

この人の漫画は、基本的に非常識な人たちが繰り広げる騒動によって引っ張られるタイプに属します。それは特に『女クラ』に顕著で、元気者、マッドサイエンティスト、金持ち高飛車のヒロイン三人が、クラス担任を振り回して、ああもう散々だという感じで終わるというのが基本形としてあったのですが、だんだんとどたばた以外の要素も増えてきて、気持ちがあたたかになるというか、ちょっとなんかいい話聞いちゃったんだというか、そういう気分になれるようなことも珍しくなくなってきて、だからあのラストは集大成だったのかも知れませんね。これまでの時間、変わりながら、膨らみながら、積み上げられてきたものがいざ閉じられようとしたときに、ああいうかたちを欲したのかも知れません。変わりつつ、変わらないもの。変わらずに変わっていくこと。もしこれが、これまでの数年を経ずして出会ったラストであればきっと私はなんとも思わずに流したことだろうと思うのです。けれど、これまでの時間がこのラストをただ見過ごしにすることを許さなかった。私の胸中に生まれた感傷は、彼女らの日常が決してもう物語られることがないだろうということを知っているからで、そして同時に彼女らの日常は変化をともにこれからも続いてゆくだろうということを思ったからなのだろうと思います。

ところで、変わったといえば螢のブラコン設定っていつごろ出てきたんだろう。初期には確かになかったと思うんですが……。なお、私の一番好きだったのはほかならぬ螢です。

  • 師走冬子『女クラのおきて』第1巻(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 師走冬子『女クラのおきて』第2巻(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 師走冬子『女クラのおきて』第3巻(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 師走冬子『女クラのおきて』第4巻(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。

引用

2006年11月6日月曜日

Hazy moon, taken with GR DIGITAL

Hazy moon今日家に帰ると、株式会社リコー GRブログ事務局から封筒が届いておりまして、なんだろう、あ、手拭いか! そう、手拭いでした。早速封を切って、けど透明の中袋を開けるにはいたらず、まだ未開封のまま、中身の確認さえしていません。だって、なんだかもったいないんだもの。といっても、手拭いは使わず置いておいたら黄ばんでしまってだいなしなので、いずれ封を切りたいと思います。ただ、なにに使うかは未定。浴衣着るわけでなし、だからといって手拭いを手拭いとして使うようなこともなし。けど、いずれは袋から出したいと思います。ともあれ、この度は結構なものをいただきまして、ありがとうございました。

さて、本日の記事は手拭いへのお礼がメインではありません。じゃあなにが目的かといいますと、それはGR Blogにて定期的におこなわれます、トラックバック企画への参加です。なお、トラックバック企画は今回で14回目。お題はモノクロであります。

今日、家に帰る途中、雨上がりの薄く煙った空に月が出ていましてね、そしたらそこにうってつけの看板が! よし、この看板を三脚がわりに撮影しようと思って撮影したのが冒頭の月の写真です。で、その後、歩きながら考えたのは、今の絵なら特に色がなくってもいいんじゃないか。そうだ、今回のトラックバック企画はモノクロだった。よし、戻ってモノクロで撮り直して、トラックバック企画モノクロに参加しよう。

わざわざ引き返して撮影したのがこの写真です。

Hazy moon

思ったよりよくなかったなあ。素直な感想をいえばこんな感じです。もっと露光時間を長くしたらよかったのかな? それ以前の問題のような気もしますが、とりあえずこれが私のGR DIGITAL初モノクロ。モノクロというのは研究しがいのありそうなテーマだなと思いました。

2006年11月5日日曜日

ときめきメモリアルONLINE

 以前私は『ときめきメモリアルONLINE』を評してやってみたらめちゃくちゃ面白いんですよなどといっていました。ですがここに状況の変化を告白し、前言を修正します。『ときめきメモリアルONLINE』、正式サービスが始まってみればなんだか微妙な雰囲気です。面白くないとはいわない。ログインすれば一時間二時間はすぐに経ってしまうくらいに面白いのですが、しかしその面白さというのが『ときめきメモリアルONLINE』というゲームに発するものかというと極めて疑問なのです。私はあそこにログインすれば、なにしろ第一期生であったわけで、また今や希有といえるログイン人口の多いクラスに属していることもあって、ひとりやふたり話のできる人がいる。話す、面白い、長居する、けどそれだけかも。私はあの場にログインしてなにをしているのかといえば、結局はチャットでしかなく、だからTMOとは私にとってキャラクター付きのチャットでしかありません。

ゲーム内でなすべきことというのが曖昧なのが問題なのかなあ、なんて思うんですね。授業に出る、すなわちクイズをするということですが、クイズを答えた先になにがあるかというとそれがさだかじゃないんです。部活に出る、すなわち戦闘訓練をするということなんですが、キャラクターのレベルを上げて強化したところでそれがなにに繋がるかわからない。アイテムが出る、といっても、アイテムはキャラクターの見た目を変化させるものが主だから、別に必需品というわけでもないし、一通り話題になったら集束して終わり。なんか、クイズしても戦闘しても、なんなんだろうなー、っていう空しさがどこかに漂っている、そんな感じがします。

その空しさを埋めるのがチャットなのですが、ゲーム内でできることがあんまりに少なすぎるから、その足りない部分をよそに求める人が多く、それが問題視されていたこともありました。伝言機能がないためSNSが大はやり、肝心のチャットも使い勝手が悪いとのことでメッセンジャーに逃げるユーザーが多く、知りあって気の合った数人とメッセンジャーで会話しながら部活動なんて人もあったそうです。それをされると、新規参入者がなにをどうしていいかわからない。ただでさえメンバーに流動性の少ないゲームです。編入されたクラスに馴染めないとなれば、それはもう楽しみようがないというわけで、クラスに馴染めない人たちが多目的教室に集まって、行き場のない空しさを埋めようとしていた、なんてことさえありました。

以上が夏に入る前の状況です。現在はどういう状況にあるかというと、より過疎が進んで、チャットをするとかしないとか以前に、まったく人がいないというようなクラスも散見される(むしろこちらの方が多い?)とか。学校(サーバ)レベルで過疎というような話も聞いているのですが、こうした状況を受けて、学校が統廃合される運びとなりました。つまり複数のサーバを集約して、過疎を改善しようという訳です。

統廃合は来週の水曜日におこなわれるとのことで、この土日が統廃合前の最後の週末となりました。また、クラス単位で記念撮影をしようという話も出ていて(もちろん有志による自主イベント)、今日明日明後日はちょっとした盛り上がりがありそうな予感がします。

おそらくこの統廃合が、よくも悪くもこのゲームの分水嶺となるかと思います。人が集められて、体育祭という公式イベントが大々的におこなわれて、けれどどちらに転ぶかはすでに参加していない私にはわかりません。キャラクターこそは温存しながら、もうずいぶんログインしていないものですから。ただ、そんな私にも多少の感傷はあるようで、この最後の時間を見届けるために課金するか、再構成された学校で新しい人間関係を見いだすべく再びアクティブになるか、少し迷いながら、けれどもうがっかりするのはいややからなあと突き放した気持ちでもいます。

余談

統合後の学校名が振るっていまして、はるかぜ高校ひだまり高校。は、春風高校って!!

学校上げてサバゲーするなら、私は絶対参加します。前線に躍り出て、見事散って見せますよ! (もちろん死亡は自己申告です)

引用

2006年11月4日土曜日

0からはじめましょう!

 『まんがタイムきらら』にて『ねこきっさ』に出会って以来、ととねみぎをひいきにしております。かっちりちんまりとしてかわいらしい絵に、若干ブラックなギャグが妙にマッチしているととねみぎの漫画は、一体どうして私の好みにあったというのか、それがどうもうまく言葉にならないものだから、これまで避けてきた模様です。当然書いていると思っていた『ねこきっさ』で検索してみたところ、なんと検索結果が0。あれー? もしかしてなんかの間違いで記事が消えたのかと思って、各巻の発売日前後を目視で探してみたのですがそれでも見つからず、本当に一度も書いていなかったようですね。なんてこったい。こりゃ本当に0からはじめましょう! ではないですか! ……いや、ごめんなさい、つまんなかったですね……。反省してます……。

ととねみぎでなにか書こうとして結局書けずに終わるのは、多分私がこの人の漫画から突出したなにかを感じとることができずにいるからなんだと思います。キャラクターはかわいいですし、個性化もうまくできています。ギャグもいい感じに小ネタからブラックジョークまで多様に繰り広げますし、全体を緩く繋ぐストーリーにも面白みをうまく加えているしで、世界観をそつなくまとめて、その範囲でうまく読ませると、そういう感じがするのです。けど、これが! というようなポイントを私にはうまく見つけることができず、だからうまく表現することもできずにいると、そういう状況にあるのです。

だってね、確かに面白いのですが、読んでみろ、読めばわかるからっ、みたいなこといわれても困るでしょう。それに、ルーシアちゃんがかわいいんだよー、みたいな話になれば、読者様の中にお医者様はいらっしゃいませんか? って聞いてまわらないといかん気にもなろうというものです。

素直なところを素直にいうと、漫画に出てくる一人一人の嗜好であったり目標であったりがうまく整理されて表現されているところがよいんだと思うんです。これをもってキャラクター付けがわかりやすいといってもいいかと思うのですが、このおかげか、漫画全体がすかっとして風通しよく、さっぱりとした明るさが読後に残るのです。私は多分、この感覚が好きなのです。さっきいってた、ルーシアちゃんうんぬんにしても、彼女のキャラクターがさっぱりさばさばとしたものだから私は好きといってるのでありまして、だから私がととねみぎの漫画に感じるよさというのは、まさしくこの爽やかな風合いによるのだと思います。

読んでいるあいだは、面白く、笑って、読み終わればさらっと離れることができる。これをあっさりしていると取るか、すっきりしていると見るかは人次第だと思います。少なくとも私は、このべたつかない感じが好きで、そしてこの感触は『0からはじめましょう!』からも同じく感じ取れます。

幽霊や死というネガティブなネタを扱いながら、むやみに暗さを追求するのではなく、あくまでも明るいままでいるという、この感覚は悪くない。じめじめとした湿っぽさや陰鬱さはすっかり払拭されていて、こんな幽霊なら友達に何人か欲しいもんだよと、そう思うくらいのすがすがしさなのです。

蛇足

日下部神無がよいですね。クールなところが魅力的です。次点はトイレの花子さん。

2006年11月3日金曜日

がんばれ! メメ子ちゃん

 らいか・デイズ』でブレイクしたむんこの竹書房における連載が『がんばれ! メメ子ちゃん』でありまして、けれど私は名前は知れど中身は知らず、だから今回の単行本を読んではじめてどういう漫画であるか諒解したのです。OLものだったんですね……。私はてっきり子供を中心としたファミリーものと思っていて、けどファミリーものにしてはカバーデザインが解せません。なんでトンボがついているんだろう? それにCMYKの段だらはなんなんだ? 読んでみて疑問は氷解しました。そうかあ、DTP部門につとめる新人OLの話だったんか。名前にしても、手書きで××子だったのが、写植で間違えられてメメ子にされたわけでもないようです。で、さて、感想はといわれると、いやちょっと微妙かも知れません。

面白いか面白くないかと言われたら、はっきり面白かったと答えるところなのですが、なんか一味足りないかなあという感じがしたものですから、感想は微妙だなんて煮え切らないことをいっています。子供に間違えられるほどに小柄だけれど、才能があって努力家でもあってというメメ子と、メメ子を取り巻く人たちの織りなす日常ドラマと諒解したらいいのだと思うのですが、まんまメメ子が子供じみてるというのはどうしたもんかと……。それに、まわりの対応もまんま子供に対するのに似ていたりというのもどうかなあと。ほら、猫かわいがりしたりとかさ、なんかゆうべきこともゆえへんとかさ、いや別にええんやけどさ、けどなんか職場ものという感じの漫画じゃなくて、みんな大人になりきれてないというような、そういう釈然としなさが残ったんです。

だから、これは私の読み方が間違えているとしか言い様がないのだと思います。これがもし、メメ子というキャラクターに対する私の印象がもっと違ったものであれば、きっともっと素直に楽しめたのだろうなと。クールさよりも甘さ、シビアさよりも穏健さ、そういうほんわかムードを無条件で楽しめるコンディションであったらば、きっともっと私はこの漫画を好きになれたと思います。けど、今はちょっとそういう気分じゃなかった — 、そういうことだと思います。

もしかしたら、私はむんこに初期らいかにあったシビアさを期待したいと思っているのかも知れません。けど今の流行はその逆であるようだから、その穏やかで和気藹藹とした雰囲気を楽しんでしまえというのが多分正しくて、けれど、これほどまでにハッピーな印象の漫画が求められている背景に、現実の生活のシビアさあるのだとしたら — 。もしそれが本当なら、やっぱりメメ子はこうでなければならないのかも知れないな、そんな風にも思います。

2006年11月2日木曜日

Nintendo Wii

 まだそいつがRevolutionと呼ばれていた頃から、私はひそかに興味津々でした。そいつとは任天堂の新ゲームハードNintendo Wii。先行するX-BOX 360やゲーム機の枠を越えようとしている(らしい)PLAYSTATION 3を差し置いて、私はWiiを高く評価しています。それはいったいなぜなのか。それは、ゲーム、アミューズメントという経験を、簡素に、わかりやすく、より身体に近しく表現できるハードはWiiなんじゃないだろうかという予感がするからなのです、けどもうひとつ理由があります。それは、ファミコンやPCエンジン、メガドライブといったハードにおいて発売されたオールドゲームを遊べるようになりますよというアナウンスです。そう、私は、新しいゲームももちろん嫌いではないのですが、古いゲームもやっぱり嫌いではないのです。たまに遊びたくなったりしますよね。それを、正当な方法で、おそらくは簡単なやり方で提供してくれるに違いない。そうした期待が、私の目をWiiに向けさせたのです。

さて、今日は11月の2日。Nintendo Wiiの発売まで後ひと月ですね。このタイミングで、任天堂はWiiで遊べるオールドゲームの初期ラインナップをアナウンスしてきて、いやあ、実にいいタイミングだと思います。というわけで、まずは以下の記事を読んでいただきましょうかね:

【Wii】バーチャルコンソールのタイトルラインナップを発表 - CNET Japan

で、第一期ラインナップにこれというようなのはあったの? と聞かれると、ちょい微妙かなというのが私の答えです。ひとつ選べといわれたら、間違いなく『ゼルダの伝説』ですよ。他は? と聞かれたら『アイスホッケー』ですかね。もっとないの? うーん、『邪聖剣ネクロマンサー』か『ダンジョンエクスプローラー』? でも、アクションならともかく、この頃のRPGをあえて遊びたいかといわれると微妙かも知れません。

大一揆に、もとい第一期に有名どころを出してくるのはある意味正しいと思うんですが、ひねくれものの私にはちょっと訴えない。例えばですよ、あの頃、興味はあったんだけど裕福じゃなかったから買えなかったのよ、というような二線級があると嬉しいんですよ。ほら、『ゼルダの伝説』の影に隠れて不遇に泣いた『謎の村雨城』とか、ええとね、『夢工場ドキドキパニック』も欲しいな(でもこれは多分無理。出るなら『スーパーマリオUSA』でしょうね)。リンク(ゼルダ)ものなら、『リンクの冒険』の方が好き。サードパーティなら『悪魔城ドラキュラ II 呪いの封印』とか、欲しかったけど手に入らなかった『東海道五十三次』、しっかり遊び込んでみたい『つっぱり大相撲』、そこにトンキンハウスの『ソフトボール天国』あたりが加わったらうはうはかなあ。『ブリーダー』は友達と集まれない今やるには多分ちょっと厳しいですが、やってみたいかも。『19(ヌーイーゼン)』は評判よかったからいっぺん遊んでみたいし、いっぺん動かしてみたいといえば『アップルタウン物語』もそうですね。あと、動くパズル『キネコ』もやりたい。あの人もだまされたという『水晶の龍』もやってみたいかなあ。あとは、なんだろう、なんだろう、『カリーンの剣』とかどうでしょう。最終面までいきながら音符を見つけきれなかった『オトッキー』にもリベンジしたく思うし、地下に街が広がっていて驚きの『ディープダンジョン』もシリーズ通して遊んでみたい — 、とこんな風に夢が広がるディスクシステム、なのですよ。

『迷宮寺院ダババ』とか『エスパードリーム』は出るかなあ。この頃のコナミはよかったよー。好きだった。『エスパードリーム』は、途中、列車の話が好きでした。なんか、全体に哀愁が漂っていたような気がして、あれはゲームをディスクで残してたかなあ。2までは名作だった『SDガンダム ガシャポン戦記』も出るなら出て欲しいし(ディスク版と書き換え版、マップコレクションに2、3まで持っています)、掘り起こしていけばまだまだ出てきそうな勢いですが、とにかくあのオールドゲームの群れは本当に大きな遺産であると思うのです。

ファミコンが出てもうじき二十年ってとこでしょうか? だから後三十年ほどすれば、だんだんとゲームがパブリックドメインの領域に入ってくるはずで、けど私は正直それまでは待てない(だって六十のじじいだぜ)。できる限りのオールドゲームを楽しみたい、それも正当な手段で、となれば、当時随一のプラットフォームホルダーである任天堂に期待したいというのは当たり前ではありませんか。

なかには権利者である会社が消滅してしまっているゲームもあるだろうから、どうにも出せないケースもあると思いますが、それでもできるだけ多くのゲームをすくい上げて欲しいと思います。

2006年11月1日水曜日

家族ゲーム

 看板娘はさしおさえ』の鈴城芹が『電撃PlayStation』にて四コマを描いているというのを聞いて、うわあ、もう電プレは買ってないよ。過去の事例をかんがみると、電プレの漫画は単行本にはならないみたいから、きっとこれを読むことはかなわないんだろうなあ、なんて思っていたんです。そうしたら、書店にて発見! わお、こいつは買わなくちゃ、一も二もなく買ってきて、買ったのは例の地上三十階書店だったのですが、残っていたのはたったの一冊。一冊!? あの規模の書店で? その残りかたの異常さから、なにがなんでも買っておかないとという思いで確保したのですが、確かにその後よそでは一度もこの本にお目にかかっていません。買っておいてよかったなと本当に思います。

過去に何度もいっていますが、私は作家につくタイプのマニアです。ひとつの漫画が面白いと思ったら、次々と既刊から新刊から、同じ作家のものを買ってかって買いまくるタイプの漫画読みで、だからすなわち私は鈴城芹にそれだけはまっているのだと思っていただいていいと思います。それだけ『看板娘はさしおさえ』が面白かったんです。私の好きなタイプの漫画の条件にもばっちり該当していて、女性が生き生きとしていて、男性に対して容赦がないというタイプの漫画。そうなんですね。『家族ゲーム』もそうしたくくりで捉えられる漫画だと思います。女の子中心で、たまに出てくる男性はというと、ちょっと影が薄く、結構ひどい仕打ちを受けている。一番ひどい仕打ちを受けているのはお父さんで、この辺も『看板娘はさしおさえ』に同じであると思います。

けど、『さしおさえ』とはやっぱり違う味わいがあるのがいいですね。『さしおさえ』は質屋縛りで、マニア向けネタを絡めながらも一般的ネタを軸に展開していますが、たいして『家族ゲーム』は掲載誌がゲーム専門誌で、すなわちゲーム縛り。ゲームに関するネタが軸になって、実に突っ込んだ面白さがあると思います。プレイ時に暴れてしまう人。遊びきれないくらいゲームを買ってしまったり、迷宮に潜って気付いたら新聞屋のバイクの音が聞こえてきたりだとか、そうした人ならきっと面白い。現に新聞屋の話は私のことですが、読んでて笑える人ほど駄目人間だと思う。きっと駄目人間であればあるほどに面白いんじゃないかと思います。

ゲームが暇つぶしとかじゃないんですよね、こういう人って。あくまでゲームは主目的で、面白さを知ってる、楽しみかたを知ってるから、ずぶずぶとはまってしまって、しかも悪いことに引き際を間違ってるから、興味のあるのは全部押さえてしまう。積みゲーとかいいますね。うちにもありますよ。開封さえしてないゲーム、開封したけど一度もプレイしたことのないゲーム、オープニングのムービーだけ見たっていうのもあるなあ。いや、けど、遊んだゲームの方が断然多いのですよ。それに、遊びはじめたらよほど面白くない限りクリアしますから。それで面白ければ、クリア後も何度も繰り返し遊びますから。

こういう、ずぶずぶだけど、ゲームのコアな楽しみかたを経験したことのあるという人は、この漫画に出てくる人の感覚を体感的に追想することができると思うから、きっと面白いと思います。ゲームで駄目になってる人を、遠巻きに、珍獣見るみたいにじゃなくて、そうそう、それ私もやっちゃうよー、みたいな感じで、苦笑しながら、共感しながら、またゲームもやりたいなあ(今もやってますが)っていう気持ちにもなって、嬉しかったり懐かしかったり、そんな感じの面白さにちょっと参ってしまっています。もっと続きを読みたいです。

蛇足

中学生おかん……、じゃなくて、真言、ってやっぱり中学生じゃないか。

蛇足に余談だけど、父娘で同じ話題で盛り上がれるって素敵なことだと思います。たとえそれがBLであっても……、というわけで、もし私に娘があったら、ともにBLで盛り上がれるようがんばりたいと思います。

  • 鈴城芹『家族ゲーム』(電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。