2006年1月31日火曜日

あの素晴らしい愛をもう一度

  七十年代、日本中に吹き荒れたフォークムーブメントを懐古しようとすると、どうしても欠くことのできない曲というのがあるようなんですね。もちろん、人によって違うと思います。好みというのは人それぞれ千差万別で、思い出思い入れも各人各様なのですから。ですが、七十年代フォークの代表といえる一曲があるようなんです。それは『あの素晴らしい愛をもう一度』。NHK趣味百科『アコースティックギター入門』の冒頭を飾った曲であり、同じくNHKのギター入門『あの素晴らしいフォークをもう一度』では、七十年代フォークの雰囲気を喚起させるキーワードとしてタイトルにも盛り込まれています。タイトルに盛り込まれたといえば、あのイタチョコシステムの『あの素晴らしい弁当を2度3度』を忘れるわけにはいかないでしょう!

つい数年前からGSやフォーク時代の曲がカバーされたりしてきましたが、『あの素晴らしい愛をもう一度』は、そういった流行が起こる前から綿々と取り上げられてきて、だから曲名でもって検索してみると、いろいろな人によって歌われたバージョンを見つけることができると思います。この曲がどれほど愛されているかということの証拠になると思うのですが、でも実をいうと、私はこの歌結構苦手でした。

学校の教科書に収録されていたんですね。私が学生だった頃にはすでに、教科書にポップスが載っていたのですが、そうしたなかの一曲に『あの素晴らしい愛をもう一度』があったのでした。

私は、教科書に載ってる歌を、ピアノでコード押さえながら歌うというのが好きだったものですから、この曲も一通り歌っているんですが、どうもなにか健全な感じがしましてね、だから苦手でした。私が好きな歌というのはだいたい決まっていて、えーと、暗い歌? オフコースの『さよなら』とか、好きでよく歌っていましたね。私の嗜好はこんなもんだから、長調で歌われるこの曲が苦手に感じたのも当然だったのでしょう。ですが、その後歌詞をちゃんと読んでみて、がらりと印象が変わってしまいました。以前はあんなに通いあっていた心が、この思いは永遠とまで思っていたというのに、今はもう通わない。曲調の明るさに隠されている分、悲しさが余計につらく響きました。心変わりというテーマを自分のものと引きつけられるようになったのか、確かに若いころは一途で向こう見ずで、だからこの歌の向こう側に思いが向かわなかったのもしかたなかったのかも知れません。ですが、年をとって、ようやく心変わりの悲しさを感じ取れるようになった。若い頃にはわからないこともあるのだと思ったものでした。

デアゴスティーニが『青春のうた』創刊号の第一曲目にこの曲をおいたのも、うなずけるというものです。

2006年1月30日月曜日

限りない欲望

 先日ゆうておりましたM-Audio製のオーディオインターフェイス買いました。MacintoshでもWindowsでも使えて、早速録音もしてみたり。で、最初の壁にもぶちあたってみたりして右往左往気分なのですが、それでもやっぱりちゃんとした機材というのはすごいものです。私の買ったマイクはPulsarという、コンデンサーマイクの中でも最安価といっていいくらいの製品なんですが、それでもあんだけしっかり綺麗に録れる。じゃあ、十万超えるようなマイク、RodeのClassic II(衝撃特価:149,800円)とかならどんなことになるんだろう!

とまあ、そんな感じに人間の欲望というのは限りがなくて、私は楽器向けのマイクを買ったところだというのに、もうボーカル用のマイクを欲しいだなんて思ってる。このあたりは、もう本当に業といってもいいかも知れないところで、人間というのは手に入るまでは恋い焦がれるようにして胸高鳴らせているというのに、一旦その手に落ちれば、もう心は次のところへ向かっちゃってたりしたりするんです。

こういった人間の身勝手な欲望を取り上げて、井上陽水は『限りない欲望』なんて歌を書いているんですが、しかし本当にすごい歌詞だと思います。子供時分にはじまり、大人になり、そして死ぬその時まで欲望から逃げることはできない。手にするまでは焦がれてやまず、手にすればもう次のなにかに心は飛んでいくという身勝手さが実によく現されていて、しかもこの歌詞についた音楽もすごくマッチしているのです。この歌が作られた頃の陽水の歌い方はまだ若々しくて力強くて、絶叫調に歌われるそのエネルギー、パッションがびりびりと響いてきて、もうめろめろ。後期陽水の歌しか知らなかった頃の私は、アルバム『断絶』を手にして面食らうやら度肝を抜かれるやら、すごい歌手だと、おそろしい幅の広さを持った人だと、さらに関心を深めたのでした。

こういう歌を聴いて思うのは、歌の題材に限界はないということです。私なんかは、こざかしい知識でもって、自ら歌の限界を狭めてしまっているなと、本当に反省する。ええ、機材や物品なんかじゃなく、自分の可能性に対してこそ欲望を向けるべきだというのに、私の心はつまらないところにとどまってしまっている!

反省しなさい。

2006年1月29日日曜日

マヤ

本日、須藤真澄さんの漫画が私に向いているんじゃないかというお勧めを受けまして、いやあ本当にびっくり。だって実際、私は須藤真澄さんの漫画が好きなもんですから、本当にピンポイントに急所を突かれたような、はっとするような思いがしましたよ。須藤真澄さんの漫画は『てぬのほそみち』で出会って、それから少しずつ買っていって、けれど全部買っているわけじゃないんですね。というのも、予算に問題があるものですから、どかっと一度には買えないでしょう。いや、一度に買う必要ないじゃんかという意見もあろうかと思います。ですが、一度に買わないと書店で持っているかどうか迷うんです。その怖れがあるものですから一度にどかっと買いたい。でも買えない。ああ、すごいジレンマですよ。

でも、やっぱり新刊が出てたりすると買っちゃうんですね。常に買うわけじゃないのが微妙なところで、やっぱりその時の経済状況に反映されます。いいわけですね。いいわけです。

『マヤ』は単行本未収録作品をもって編まれた短編集で、帯にあるもう、逆さに振っても出ませんという文句が本当に小気味よく感じられて、これは買わないとという思いに突き動かされるように買ったのでした。私、実はこういう初期短編集みたいなものが好きでしてね、なぜかというと、第一作にはその作家のすべてが含まれているという説を信じているからなんです。初期短編集には作家の、この場合は須藤真澄という漫画家のあらゆるエッセンスがちりばめられているはずで、で、須藤真澄はこの期待を裏切らないんですよ。

『マヤ』には、須藤真澄らしいコメディタッチがあり、ファンタスティックがあり、心躍るようなみずみずしさがあり、そして可愛さがあり、悲しさも寂しさもわびしさもつらさもあり、それらに負けないくらいの楽しみも喜びも安らぎも暖かみもあって、素晴らしいですよ。でもこの短編集には、ちょっとシリアスに傾いた作品が多いかも知れません。私はこれら初期作品に触れるまで、須藤真澄が隠していた厳しさを長く知らずにいたんですね。ところがこの一冊で価値観が転倒するような思いを持った。なんと深い人なんだと思った。それで、より以上にこの人のことを好きになったんですね。

実をいうと、私は今日、須藤真澄の人の悪さで書こうと思っていました。ですが、私はとんまなもんですから、そのための題材を間違えてしまい、ええ、『マヤ』と思って持ってきたら、私の当初考えていたのは『あゆみ』だったんです。

だから、私はまた近々にでも『あゆみ』でひとつ書くことでしょう。私、須藤真澄でならどれだけ書いてもかまわないなんて思っているんですから。

  • 須藤真澄『マヤ』東京:創英社,2004年。

引用

  • 須藤真澄『マヤ』(東京:創英社,2004年),帯。

2006年1月28日土曜日

私の1997

今日は、昔、一緒に中国語を習っていた人たちと会ってきました。もうみんな大人で、私が一番か二番目かくらいに若いという会で、仕事をリタイアしたという人の方が多い。そういう会です。

私が中国語を習っていたのはまだ学生だった頃の話ですから、もう何年前のことになるんでしょう。大学院に入ったのが1997年のことだから、多分、その翌年くらいにははじめてたんじゃないでしょうか。その、私が中国語を始める数年前に、中国でヒットした歌がありまして、艾敬(アイ・ジン)という人が歌っていた『私の1997』です。1997というのは、香港返還の年。1997年の7月1日に、香港は中国に返還され、香港に住む人はこの日が来るのを戦々恐々として待ち、対照的に本土の人たちは、夢の香港に行くことができるようになると楽しみに待った。『私の1997』はそうした希望に胸を焦がした少女の思いが歌われて、だから同じ思いを抱いた人たちに支持されたのでしょう。

iPodのシャッフルはやってくれます。今日、会場へ向かっている時に私はiPodで音楽を聴いていたのですが、ちょうど最寄り駅におりたときにかかった曲というのが、アルバム『私の1997』に収録された『独りぼっちの長い夜(長夜不停的電話)』だったのでした。この選曲の妙! iPodは神がかった選曲をするとよくいわれますが、実際にそうだという思うことはやっぱりあるんですね。

『私の1997』は、私のはじめて買った中国Popsのアルバムでした。忘れもしません、四条烏丸の十字屋で、SAJUの『missing』と一緒に買った。SAJUは想像していた以上に中国色を感じさせず、むしろ広くアジアというものを感じさせるものでしたが、『私の1997』は実に中国のポップスという色合いを出していて、ちょっと古い感じの、あるいはあかぬけない、そういう感じがするんですね。

今でこそ西側の音楽がじゃんじゃん入ったりしているのでしょうが、90年代ではそういう状況はなかったんだと思うんですね。そんな中でポップスであるとかロックであるとかにチャレンジしていた人は、少ない情報、決して最新とはいえないものでもなんでも聴いて、吸収して、よりよいものを作り出そうと本当に頑張ったんだと思います。そうした一枚が『私の1997』なのでしょう。今聴くと、もっさいと思えたりする。特にアレンジあたりにそれは顕著で、けれどそれは日本も通ってきた道で、個体発生は系統発生を繰り返すというではありませんか。中国のアーティストたちは、系統発生、進歩の道筋をたどって、そして今はもはや往時の面影はありません。すっかりおしゃれになってしまいました。

そうなってみて、やっぱり古い頃のあかぬけなさもよかったなんて思うのは誤りでしょうか。けれど、去年だったかおととしだったかの日本で起こったGSリバイバルみたいなものは、きっと中国にも起こると思います。音楽として劣っているわけではないのですから、新たなアレンジで異なる息吹が吹き込まれることもあるでしょう。よい歌は決して死に絶えることはない。そう信じる私には、いつかまたくるだろう日も楽しみと思えます。

2006年1月27日金曜日

ことはの王子様

 『ことはの王子様』は、ことはの王子様であるところのせのお様が『まゆかのダーリン』からスピンオフするかたちでできあがった漫画で、つまりこの漫画の主役であるせのお様はもともと『まゆかのダーリン』に出ていたキャラクターだったのですね。おおっと。よく考えたら主役はことはか。すっかり勘違い。

閑話休題。『まゆか』に出ていた頃は、金持ち風をふかせる生意気お坊ちゃまで、まゆかに恋するあまりりょうおにいちゃんにいけずをするという、そういう役柄であったのですが、『ことは』ではだんだんとことはの献身にほだされて、というか籠絡されてずいぶんと丸くなられた。とはいっても、ことはがお屋敷の坊ちゃんを手練手管で手なづけてあんなことやこんなことを、という漫画ではありませんのでご安心を。ほのぼの路線の、心温まるラブコメディでありますよ。

さて、私は自分では自覚していないのですが(おおっ、冗語だ)、渡辺純子のマニアであります。で、私が渡辺純子にひかれるというのは、あざとくありながらもそのあざとさを微妙に覆い隠しているところなんだと思うんです。ある意味、読者の期待に応えているともいえます。こうきたらこうだろ、という展開、反応、要素をばっちりと盛り込んで、しかしともすればどぎつくなりかねないそれら表現を、なんとなくマイルドにしてしまっている。例えば『ことはの王子様』では、お屋敷付きメイドのちとせ(巨乳、眼鏡そしておたく)にあざとさを集約することで、漫画全体のあざとさを軽減する。いや、軽減できてるかなあ? ええ、軽減できていると信じます。少なくともここではできていると言い張ります。

『ことはの王子様』を楽しむには、やはりこうした漫画の語彙語法を知っているに越したことはないと思います。知らなければ、この漫画の価値を見誤る可能性が高く、というのも、そうしたあざとい表現を羅列するばかりの漫画と思われかねない。うわ、露骨と思って終わってしまうかも知れません。

私が思うに、『ことは』のひいては渡辺純子の漫画の面白さというのは、一般に萌えと信じられているジャンルにおける語彙語法をうまく使うところにあるんですね。ある種のお約束を露骨に用いることで、それら語彙語法本来の効果を得て、なおかつパロディとしてのおかしみも追加して、いや本当にうまいと思います。それこそ一粒で二度おいしい。まずは本来的な楽しみに耽溺し、再読時にはパロディ的なおかしみに遊ぶ。時々の気分、趣味志向の向かい方によって、いくとおりにも読めそうな広がりがあります。だからうまいというのですよ。

ですが、正直、万人には勧められない漫画です。それこそ、萌え的要素を感じ取れば脊髄反射的におえーっ、というような御仁は読まないほうがよろしい。勧めたほうも勧められたほうも不仕合せになるに違いないのですから。ですが、それこそ『きらら』誌を愛読するような人なら、あるいはそうした風潮になれている、抵抗がないという人なら、きっと楽しめるんじゃないかと思います。コアであればコアであるほど、楽しめる漫画であると思います。

蛇足

かづきさんです。ツンデレ? ツンデレ萌えですか?

いや、正直、冗談抜きで、渡辺純子の創出したキャラクターの中でも最高度に可愛いと思っているのですが。トップクラスというか、単独トップというか、突出しているというか、もうどうしようもないくらいに可愛いと思っているのですが!

  • 渡辺純子『ことはの王子様』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

ローレンス・レッシグを批判するWiki

ローレンス・レッシグ教授を批判するためのWikiが開設されている。

開設したのは、他でもないローレンス・レッシグ教授本人。この一見すると不思議とも感じられるWikiの目的は、自分の作品を補足するテキストを構築するというもので、この試みは、不特定多数が作業に参加できるというWikiの利点を最大限に引きだすものの好例だと思います。

しかし、教授は自分自身に対するアンチサイトを立ち上げたわけでして、この振舞い、私にはちょっとまねできないかも知れません。とはいえ、批判といってもここでいう批判とはクリティークする(criticise)ということに他ならず、つまり研究室やゼミナールでおこなわれているようなことなんですね。論旨に問題がないか、見落としはないか、もっと適切な資料や例はないかなど、検討批判されることで作品(論文)は練り上げられます。批判、批評とは、よりよい結果を手にするためには不可欠な行為なのです。

2006年1月26日木曜日

荒野の蒸気娘

 図らずも、三夜続いて機械の身体を持った美少女ものを扱うはめになってしまいました。本日ご紹介しますのは、ご存知あさりよしとお。『まんがサイエンス』や『HAL』にて知られた人気漫画家で、代表作はというと『宇宙家族カールビンソン』に『 ワッハマン』。今、『アフタヌーン』にて連載されている『るくるく』も人気です。

そんな人気作家あさりよしとおのお送りする『荒野の蒸気娘』。機械の身体を持った美少女姉妹の物語で、私は始めこのタイトルを聞いたときには、西部開拓時代のテイストに元気いっぱいの、そうさな、『るくるく』でいうところの数みたいな娘が大活躍するどたばたコメディかと思っていたのですが、実際手にしてみたらそうじゃなかった。少女たちのテイストはむしろイギリス風。りりしくしっかり者の姉アンに、花や動物を愛する心優しき妹アリス。荒野を旅する二人の少女が一人の青年に出会ったところから物語は動き始めます。

しかし、さすがあさりよしとおといいますか。昨今の美少女ブーム(って昨今か?)をいかんなく取り入れ、あさりよしとおらしく調理。その手口、いやいや手腕はまさに円熟の粋に達しているかと思われます。この話を読みはじめて、ピンときたのは『ただいま寄生中』でした。『ただいま寄生中』も実にいい作品でしてね、当時流行の戦う美少女という要素をいかんなく取り入れ、あさりよしとおらしく調理。その切れ味はなかなかのものでありました。しかし、広く知られることなく埋もれてしまって、私はあさりの、そして『ただいま寄生中』の大いなるファンでありますから、その埋もれているということが残念でなりません。

『荒野の蒸気娘』は実にあさりよしとおらしい、まさに円熟といいましたが、実はこれはちょっとリップサービスが入っていまして、私は氏の実力はまだまだこんなものではないと思っています。とりあえず読んでみて、あさりよしとおらしいなあとおかしくなって、けれどどこか煮え切らなさも残って、あさりよしとおならもっともっと面白くできるはずだと感じたんですよ。少なくとも一巻の時点では、この漫画が持てる可能性を発揮できているとは言い難い。なんですが、巻末に進むに従って、だんだんと筆がのってきたとでもいいましょうか、うまく転がりはじめたような風なんですね。

きっと二巻はもっと面白いと思います。この、美少女ロボット姉妹が繰り広げる、愛と感動のハートフルストーリー。すべての人にお勧めです。見てください!

  • あさりよしとお『荒野の蒸気娘』第1巻 (GUM COMICS) 東京:ワニブックス,2006年。
  • 以下続刊

2006年1月25日水曜日

ぼくのマリー

    昨日、『ぼくのマリー』でもって書いたのが呼び水となって、なんだか無性に読みたくなってしまったんですね。なので、結局発掘作業をおこなってしまいました。その結果、事実誤認がいくつかあったとわかったので、訂正をかねて異例の更新です。

事実誤認のその一は、封印したから状態がよいという発言。『ぼくのマリー』は書架に並んでいました。ただ、奥の列に押し込められていたので見えなかったんですね。で、思ったよりヤケていて、だいぶ読み込んだのでしょう、一巻二巻あたりは結構傷みがありました。事実誤認その二。昨日一貫してマリーと呼び続けていたその呼び方が大間違い。マリでした。伸ばさない。マリです。その三。おたく少年の都合のよい夢をかたちにしたような漫画という表現。これは違います。最初は確かにそうだったかも知れませんが、雁狩ひろしはいずれ自分の中だけに広がる理想の世界を厳しい現実に突き合わせることで、現実を見つめ直し、肯定し、前に向かって進みはじめます。自分の思いと現実と、そのともすれば相反するものをすり合わせて確かめながら、登場人物は皆成長していったのです。素晴らしい漫画でした。私は、思っていた以上に密度の濃かったことも再確認し、今までの事実誤認をわびたい。そして、最後のひとつ。機械仕掛けの神による終止。これは確かにおこなわれたこと自体はそうだったのかも知れませんが、けれど本来のテーマを打ち消すようなことはなく。そうですね、ずうっと頑張り続けてきたマリへのご褒美、ボーナスと考えたほうが粋だと思う。そんなラストでありました。

そして、私が『ぼくのマリー』を直視できなくなったその理由もわかったような気がします。雁狩が真理さんとの出会いを追想し、そして真理さんへと向けられるモノローグ。そこに現れた言葉、真理さん — 僕はあなたのおかげで人間になれた — あなたのおかげで僕は「現実」の形にさわる事ができた。「僕自身」というもののリアリティを確認できた — 。

実は、私自身にもこれと同じような出来事があったんですね。

大学の、三回生から四回生にかけての一年半ほど。笛の授業だったかな、で知りあった私と同姓の女性。私はその人を大学の姉と慕っていたのでした。ちょっと変わり者で、他の誰とも違う雰囲気を持っているその人は、物静かで、ちょっとスローで、けれど明るい視点を持った独特の人で、私はその人に助けられたと今でも思っています。

でも、恋愛とか、そういう話には発展しなかったんですね。その人にはつきあっている男性があって、その人もすごくいい人で、私は大学の姉にいろいろなことやところにつきあわせられて、デパートとか梅田ロフトとか。梅田阪急の最上階のパーラーやら阪神地下のワイン立ち飲みやら。同じ授業をとったりして、いつだって一緒にいて、私は本当にその人を慕っていた。けれど、私の中には尊敬はあれど恋愛はないと思っていたんですね。

教育実習にいったのは四回生の夏前でしたか。私にとっては二度目の教育実習で、本当にやる気がなくて、必要充分をやけになってやっつけたようなものですから、まわりから見ればなんだか余裕があったように見えたのだそうです。大変な二週間、みんなもう戦友みたいな感じで、で、最後の日に学校近くの店で打ち上げをしました。そこで、どういう話の巡りだったのか、大学の姉の話になって、そこで私は話しながら突然涙を流してしまって、泣いたとかではないんです。ただ、涙が流れた。

やっぱり私は、大学の姉を姉ということにして防波堤にして、けれど本当は好きだったんだろうなと思います。

紛れもない恋だったんでしょう。雁狩の場合は自分の中に息づく恋に気付いていた。私は、そうした気持ちをさえも押し殺してしまっていた。自分自身にさえ気付かせなかった。けれど、多分傷ついていたのでしょう。昨夜中をかけて『ぼくのマリー』を読み直して、すっかり忘れてしまっていたと思っていた大学の姉のことを思い出し、そしてかつて同じことを思ったことも思い出しました。時間がすぎた分、今の方がずっと冷静に振り返ることができる。大学卒業後、結婚して東京へといってしまった音信不通の大学の姉。私は、そのことに傷ついていたのだと思います。そして、最初から手が届かないとあきらめていたことにも傷ついていたのだと思います。

若いということは恥ずかしいことだと思います。いや、今だって恥ずかしいことばかりなんですが、けれど若い頃の話は格別で、私はこの恥ずかしさに耐ええないから、昔のことを思い出させる『ぼくのマリー』を遠ざけてしまった。おそらく、こうした心の動きがあったものと思われます。

私は大学の姉のおかげで、少しは人間らしくなれたと思っています。狭い自分の世界が広がったことを感じます。その後お会いはしていませんが、おかわりはありませんでしょうか。お元気でいらっしゃいますでしょうか。私はあの後、また非人間的真空地帯に戻ってしまいましたが、あの時のことは今でも感謝しています。

  • 竹内桜『ぼくのマリー』第1巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1994年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第2巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1994年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第3巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1995年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第4巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1995年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第5巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1995年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第6巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1995年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第7巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1996年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第8巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1996年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第9巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1996年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第10巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1997年。

引用

2006年1月24日火曜日

ぼくのマリー

    なんかすごく唐突なニュースと思えたのですが、『最終兵器彼女』が映画化されたんですね。CMで見てええーっと思って、その後書店で平積みになった漫画も見て、うへえ、本気かよと思って、大きい書店にいったら映画予告がじゃんじゃん流されていて、勘弁してと思った。断っておきますが、私は高橋しんの描く絵は好きで、『最終兵器彼女』に関しても、実写より漫画のちせのほうが数百倍可愛いなあと思ったりするくらいなのですが、でもどうにも『最終兵器彼女』は受け入れがたくて、なんというんですか、あの、突然私兵器にされちゃったのという設定をどうしても飲むことができないんですよ。二巻くらいまでは読んだんですが、どうにも先に進むことができず、だってさ、いくらなんでも無理矢理過ぎます。機械の身体がどうじゃこうじゃとかいう前に、この重大な人権蹂躙に対してなんらの声を上げるべきでしょうよ。ある日二人に圧倒的な現実が降りかかる、とか悠長なこといってる場合じゃないですよ。私だったら人類の敵に回るな。自分の身体が動く限り、復讐の限りを尽くすな。

というわけで、今回は竹内桜の『ぼくのマリー』です。

『ぼくのマリー』は、私にとってのヤングジャンプ黄金期に連載されていた漫画で、筋といえば、もてない男雁狩ひろしが、憧れの真理さんを思うばかりに、持てるロボット工学の技術を存分に奮い、真理さんそっくりのアンドロイドを作り上げた! それがマリー。というような話なんです。もうここまでいえば後は想像の範疇といったようなもので、真理さんとマリーが雁狩ひろしを巡って火花を散らす恋愛コメディ……、まあ厳密にはちょっと違うけど、大筋ではそれであっていると思います。

おたく少年の都合のよい夢をかたちにしたような漫画といえばそれまでだと思います。けれど視点はおたく少年を軸にしているというよりもむしろマリー寄りで、私はだからか結構この漫画が好きだったんですね。単行本全部揃えて、数年経ったら読むに堪えなくなったから、どっかに封印しているからヤケもほとんどない。非常によい保存が保たれているんじゃないかと思います。

読むに堪えなくなったのは、なんでなんでしょう。あんまりに筋が都合よすぎたのか。最初は高嶺の花だった真理さんが、結局雁狩にひかれていったからなのか。あるいは、真理さんの代用品であることに苦悩するマリーが、その苦悩の原因を消し去られ、オリジナルである真理さんと対等の位置に着けるというご都合主義のためか。いや、なんのかんのいって結局、あまりに憐れすぎる雁狩のためだけに用意された狭い世界の息苦しさのためか。正直なところ、私がこの漫画を読めなくなった理由はよくわからないのです。

つい先日、『ストップ!! ひばりくん!』に関して話していて、もしあのまま頓挫することなく続いていたら、どういうラストを迎えたんでしょうね、なんてこといってたんです。ひばりは男だから耕作と結ばれるというラストは、特にあの時代だからあり得ないだろうし、けれど耕作とひばりが結ばれないでは終われない、少なくとも読者は納得しない。このせめぎあい、まさにテーゼとアンチテーゼが劇的に戦う局面に立ち向かい切れなかったのが中絶の原因なんかなあ。けど、最後に機械仕掛けの神の登場を願って、実はひばりくんは女の子だったんです、なんてのはなおさら駄目だし、じゃあ本当に神様を引っ張り出して、耕作、ほらぼく完全に女の子だよ、なんてのはもうきわめつけに駄目でしょう。

で、話題は機械仕掛けの神にシフトして、劇が劇足る要因を最後の最後になかったことにしてしまうことで、それまでの劇的緊張を消滅させ、喜劇のおかしみ、それまで繰り広げられていたコメディタッチの軽さのみを残すという劇作上の技法なんですよなんて話をして、その時に例として出したのが『ぼくのマリー』でした。

『ぼくのマリー』は、本当に理想的に機械仕掛けの神を使って物語を完結させたのでした。もうお手本のようだといってもいいくらいの綺麗さで物語を終わらせて、ラストこそは少し未練が残る潔しとしないものではありましたが、でも私はあれは非常によかったと思います。真理さん派ではなく、マリー派であったこともあって、なおさらよかった。でもまあ、マリーはいいけどユリはどうなんだなんてことを思ったりもして、不公平じゃないか……、いやそのへんはまあいいんですが。

長く遠ざかっていて、これだけはっきりと思い出せるんですから、きっと私は『ぼくのマリー』を本当に好きだったんでしょう。それで、多分今も好きです。久しぶりに発掘して読んでみたくなりましたが、あれって今どこにしまってあるのかなあ。

  • 竹内桜『ぼくのマリー』第1巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1994年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第2巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1994年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第3巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1995年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第4巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1995年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第5巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1995年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第6巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1995年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第7巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1996年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第8巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1996年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第9巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1996年。
  • 竹内桜『ぼくのマリー』第10巻 (ヤングジャンプ・コミックス・スペシャル) 東京:集英社,1997年。

2006年1月23日月曜日

もっけ

  私の楽しみにしている漫画『もっけ』の新刊が発売されていたので買ってきました。帰りの電車で待ちきれないとばかりに読みはじめて、あれよあれよと読了。後で落ち着いた頃に、また再び読むことでしょう。

私はこの漫画を非常に買っていて、地味で今の主流をなすような漫画ではないと思ってはいるのですが、けれど昔、私らの祖先が見て感じていたものが描かれているのかも知れないと思うと、それだけで嬉しくなるんですね。私には見えず、感じることさえできないものを見て、触れ合える姉妹が主人公なのですが、そうした彼女らをうらやんでみるのが私という人間です。嫌というほど、そうしたものたちが見えることのリスクも描かれているというのに、それでもうらやんでしまう私は、いま目にするものの向こうにも、なにか知らない世界が広がっているということを信じたくてしょうがないのでしょう。

この漫画に描かれている風景というのは、かつて日本のどこででも信じられていたような素朴な宗教観であって、宗教というのもちょっと違うかも知れません。アニミズムというやつなんですが、我々の祖先は身の回りにあるあらゆるものことに霊や魂を見て、敬い、そして怖れてきたんですね。確かにアニミズムは宗教の一形態ではありますが、系統だったものというよりも、民間に伝承されるもっと原初的な信仰のかたちであります。

思い返せば、私も子供の頃はこうした宗教観をしっかり受け継いでいて、夜、トイレに立った帰り、窓の向こうにごうごうと揺れる木の影に怖れを抱いたもので、また熱に浮かされながら、寝床の脇に精霊の影を見たことも一度や二度ではなく、そしてこのあらゆるものに魂を思うがゆえに未だにものを捨てることはためらわれます。私にとってはこうしたアニミズム的信仰は弱まりながらも生きていて、けれどこうした感覚を共有しているという人はきっとたくさんあるに違いないと信じています。

けど、今私たちがこうした感覚をだんだん失っているのは間違いないのだと思うのです。私にしてもそうで、季節の行事が忘れ去られていくのは、それら縁起であったり厄除けであったり、あるいは神事そのものであったりを必要としない感性が、古い感覚を覆い隠してしまっているからなのでしょう。私は正月の初詣や節分こそはしますが、盆の送り火迎え火などは焚いたことがなく、このようにだんだんと季節の行事は失われていきます。

怖れを失っているんでしょうね。小学生の頃、どんど焼きを神社でやったことがあったように思います。けれど、その後はとんと知らず、祭ももう長く関わりを断って、私は無味乾燥の地に立っているなと。けど、これは私一人のことではなく、全国的な傾向であることもわかっています。

そんな傾向にあらがうようにして、私が霊や魂に心を向かわせるのは、きっと寂しさを感じているからなのだと思うんです。かつては私たちを取り巻いていた数多の神様やあやかしが科学的見地から否定されて、どんどん消え去っていて、気がつけば人間がこの世にただ一種の叡知を持った霊長であるかのように振る舞って……、けれどそれは私たち人間はどうしようもなく孤独であるということなんだと思うんです。かつて私たちの隣にあった彼らはもういないんですね。そう思うと、寂しさにたまらなくなります。

私がこの漫画を好きだというのは、そうした寂しさを埋めることのできる暖かさがあるからなのだと思います。けれどその暖かさにはオソレも常に伴うもので、本当に暖かいだけなのか、肝を冷やされるような思いもさせられるには違いなくて、けれどそこには人間という種がこの世界の頂点にあるという傲りはなく、きっとだから私は隣に彼らの影を感じていた頃のほうがずっと自然でよかったのだと思っています。少なくとも、孤独な王様ではなかったのですから。

けれど、もう後戻りはできないということもわかっています。私がことさらに寂しく思うのはそこなのです。

  • 熊倉隆敏『もっけ』第1巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2002年。
  • 熊倉隆敏『もっけ』第2巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2003年。
  • 熊倉隆敏『もっけ』第3巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2004年。
  • 熊倉隆敏『もっけ』第4巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2005年。
  • 熊倉隆敏『もっけ』第5巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2006年。
  • 以下続刊

2006年1月22日日曜日

M-AUDIO Fast Track Pro 4 x 4 Mobile USB Audio/MIDI interface with Preamps

 今年に入って、私はちょっとやる気です。先日公開したオーディオファイルに好意的なコメントをいただいたのでちょっと調子に乗ってみようかと思ったんです。つまり、録音環境のアップグレードを考えていると、そういうことです。

私の使っているコンピュータはiBook G4とDellのInspiron 6000。この間の録音はDellを使用したのですが、あんまりにもいろいろごちゃごちゃ繋がないといけないのが面倒で、同じ面倒ならちゃんとした機器でもって録音したいなあと思ったのでした。で、以前にもちょろっと話していたオーディオインターフェイスの出番となるのですが、FA-66は機能の充実ぶりは素晴らしいけどちょっと高価で手を出しにくく、じゃあもうUA-25に決めちまおうかと思っていたところへ、M-AUDIOから新しいオーディオインターフェイスが発売されたとの報を得ましてね、それがFast Track Proなんですが、なんか妙に手ごろで機能も充実しているのですよ。これだ! と思いましたね。だもんだから、今、楽器店に問い合わせ中ですよ。

UA-25と比べてFast Track Proが優れているのは、入出力のチャンネル数がUA-25が2チャンネルなのに対し、Fast Track Proは4チャンネル。いや、そんなにあんた使わんだろうという気もしないではないのですが、でもまあ後々将来的のことを考えたら可能性を残しておいたほうがいいかなとも思いまして。

対して、UA-25が優れているのは、アナログ・リミッター回路がついているということでしょう。これ、なにかといいますと、過大な入力があったときに自動で入力ゲインを落としてくれるんですね。加入力が起こるとクリップ・ノイズというのが起こってしまうんですが、そいつを避けることができる。便利!

だから私はUA-25かFast Track Proかどちらがいいかと考えて、UA-25はローランドの製品だから気心知れているしというメリットもあったんですが、ここは思い切ってM-AUDIO製かなと。いずれにせよ私はマイクはM-AUDIO製のものを買うつもりでいまして、同価格帯に定評のあるマイクは数ありますが、定評があるということで選定していけば、結局先行製品が選ばれるに違いないんです。M-AUDIOは新興メーカーらしく、まだ定まった評価がされるまでにはいたっていない模様。Webをさまよっても、レビューが少なくって、全然情報が集まらんのですよ。けれど、私はチャレンジャーを応援したいという気質があるようで、だからマイクはM-AUDIOと決めていたんです。

最初考えていたのはNovaでした。アップルストアで扱われているのを見たのが最初で、それから長い時間かけていろいろ評判を見聞きして、これを試してみたいと思うにいたって、そうやっているうちに時間ばかり過ぎて、そうしたらアコースティック楽器向きのPulsarというのが出たんですね。

マイクとオーディオインターフェイスのメーカーをそろえるつもりはさらさらなくて、オーディオインターフェイスはEdirol製にする気でいたから、ここでM-AUDIOを選ぶというのは私にとっても意外なことでした。後は楽器店からの返事次第。ともすれば近日中に私はこれらを手にしているんではないかと思います。楽しみです。

あ、そうだ。M-AUDIOといえば、録音に関する入門ガイドを出していまして、その名もRecord Now QuickStart Guide — Choosing and Using Microphones。英語版だけですが、かなりわかりやすい解説が魅力的で、ここに紹介しておきます。といって、実はこれは自分用の覚書であったりもします。

2006年1月21日土曜日

ラ・ファミリア・ロドリゲス - ペルー・アンデスの詩と郷愁

   今回は、記事タイトルと本文の関連性は薄いです。というのはですね、記事タイトルになっているアルバムをAmazonで探そうとしたらまったく見つからず、演奏者であるラ・ファミリア・ロドリゲスで検索したら出てきたもので代用してしまったからです。ラ・ファミリア・ロドリゲスというのはどういう人たちかといいますと、南米の民俗音楽、フォルクローレを演奏するグループなんですよね。昔、万博公園の民族博物館でフォルクローレ展がもよおされたときにこの人たちのステージがあって、大変素晴らしかった。その時に買ったアルバムが『ラ・ファミリア・ロドリゲス - ペルー・アンデスの詩と郷愁』なのですが、今から思えば、サインもらっておけばよかったなあ。娘さんが可愛くってね、ステージの終わった後にちょこっと会話したりなんぞもしたのですが、さっぱりとしていい人たちばかりで、音楽も人柄も本当に気持ちのいいよいグループだという印象が今なお残っています。

今、なぜファミリア・ロドリゲスを思い出したのかといいますと、クラシック音楽のレーベルであるNaxosが提供するPodcastでアリエル・ラミレスの『ミサ・クリオージャ』が紹介されていたからで、アリエル・ラミレスというのは南米はアルゼンチンの作曲家で、フォルクローレの語法でもって作曲をする人なんですが、この人がミサ曲を書いたわけです。それが『ミサ・クリオージャ』で、ポピュラーでもクラシックでも見つかるという、なかなかに素晴らしい脱境界的扱いを受けています。ええ、私これ皮肉やなんかでいってるんじゃなくて、本気で素晴らしいと思っているんですよ。クラシックとかポピュラーとかいう息苦しい区分は、まさに今生起して生き生きと響きをあげる音楽には必要ないんじゃないかといっているわけです。

音楽に生き生きとした生命力を感じたのは、ファミリア・ロドリゲスのステージを観たときも同様でした。美しい歌声が重なりあうことで生まれるハーモニーの広がり、多様なリズムが生み出す躍動感、楽器も声もすべてがひとつの音楽として交じり合い、自分のすぐ目前に音楽の実体があると感じられるんですね。目には見えません。手に触れることもできません。ですが、確かにあると感じられるんですよ。死んで乾物になったような音楽ではなく、ろう細工みたいな音楽でもなく、すぐそばで生きて動いている。暖かみもあれば、力強さもある。そんな音楽があるんです。

フォルクローレでは、ギターをはじめとする撥弦楽器が重要な役割を担っていまして、あのからりと乾いて、まるで光の粒がはねっかえるみたいな響きがすごく魅力的で、私もあんな風にギターを弾きたいなあと思うんですが、なかなかまねできるものではありません。それに、あのリズム。しっかりと地に足がついているのに軽くはねるリズム。そしてハーモニーの美しさ、声の美しさ。素晴らしいものがあります。で、これらは過去から綿々と積み上げられるように育まれてきた民謡であり、そして今もなおいきている音楽なんですよね。

ああもう、私は嫉妬します。嫉妬します。

  • ラ・ファミリア・ロドリゲス - ペルー・アンデスの詩と郷愁

2006年1月20日金曜日

Takashi Hamada / Climax Rag : Classic Rag 1899-1999

私はすっかり小樽のギタリスト浜田隆史氏のファンです。浜田さんに関しては、そのギターの技巧にも目を見張らないではおられないのですが、それ以上に音楽を楽しんでいるという姿勢そのままの演奏が素晴らしくて、ギターをやる人間なら聴いておくべき人だと思うのです。自然と揺れるスウィングの心地よさに加えて熱狂のグルーヴ。その音楽はしなやかで強靱で、実をいうとCDでは物足りなく感じます。それよりも、ライブにおける演奏がすごいんですね。他にはない、まさに浜田氏の音楽を堪能するにはライブだと、私はここにはっきりと言い切っちゃいますね。

私が浜田氏の演奏にはじめて触れたのは、忘れもしない2005年4月1日の高槻市でのライブでした。ささやかな喫茶店で、輪になるようにして浜田氏の演奏を聴いた。PAの必要はなく、ギターの音そのものに触れるような感覚はすごくピュアで新鮮で、あの一時は本当に素晴らしかった。端正というよりは粗削りな感じもある演奏ですが、それがすごくライブ映えするんですね。ぐうっと引き込まれて、わーっと心が掻き乱されて、もうじっとしてなんかいられん、辛抱たまらん、そんな風に高揚するのであります。

その浜田氏が、また大阪にいらっしゃいます。先日の来阪は、いきたかったのですが都合がつかず断念して、今シーズンは聴かれなかったと残念に思っていたものですから、本当に嬉しい。今度こそ、なんとしてもいきたいなと思っています。

2006年1月19日木曜日

グールドを聴きながら

  昔、グレン・グールドというピアニストがおりまして、ですが彼の名声はただの演奏家にとどまりませんでした。その原因には、たくさん書かれた文章とその先見性もあるのでしょうが、やはり彼の奇矯性によるところが大きいのではないかと思います。演奏家としてまだまだこれからという時期に、突然もうコンサートなんてやらないよと宣言して、実際それ以降彼が舞台に現れることはありませんでした。こうした行為、そして演奏における解釈のあまりに独自であることなど、とにかくグールドは物議を醸す人だったそうでして、ですが、そういうスタンスが逆に人気を高めるんですね。グールドはカナダは当然として、アメリカ、フランス、そしてこの日本でことさら人気で、その人気は彼の死後、陰るどころか、ますます高まるような勢いです。

私は思うのですが、グールドの演奏はあんまりに個性的であるために、逆にわかりやすい、取っつきやすいものになっているんです。他の誰とも違うし、彼自身が自分の演奏について語った文章、コメントも多いしで、特に理屈っぽいのが好きみたいな人に支持されているような気がします。あるいはですね、アウトローの格好良さっていうんでしょうか。そういう人気もあるように思うんです。古い楽壇に反旗を翻した反逆者、革命家としてのグールドとでもいいましょうかね。このグールドの神格化される様は、ロマンティック・ドイツにおいてベートーヴェンが英雄としてもてはやされ、どんどんその神格を肥大化させたという事例を彷彿とさせます。

吉野朔実は『グールドを聴きながら』において、こうしたグールドを信奉する年ごろの少女をうまく描いたなと、本当にそう思いました。グールドの音楽にではなく、とかいったら機嫌を損ねられる方もいらっしゃるかも知れませんが、ええ、音楽にというよりもむしろ彼の考え方や振舞いに惚れてしまうという、そういう時期はあるのではないかと思うんです。J Popよりも洋楽、という背伸びしたい年ごろみたいにいってもいいのかな。そういう、他より頭ひとつ出ているんだよということを自分自身に対して主張したいという、若さゆえの青さみたいなものを感じたのでした。

で、そういう背伸びしている人にまた憧れるという関係があるのだと思います。結局のところをいうと、背伸びしようがありのままだろうが、進んでいようが遅れていようが、結局自分のテンポで歩める人というのが自律した一個人というものだと思うんですが、けどそうした自分に自信を持てない時期というのは確かにあって、そんな揺れ動く季節には誰かなにかを自分を支えるよすがにしたいというものなんでしょう。この漫画にはグールドというピアニストの名前は確かにあるけれども、けれどグールドがメインなのではなく、一歩先に進んだ人への憧れ、揺れる思いを描いているのだなと、そういう気がします。そしてその揺れる思いは、揺れに揺れて、果たしてどこに落ち着くのか。

私は思うのですが、グールドのいっていた人間を陶冶する体験としての音楽を理解すれば、そこにもはや揺れ動こうと動揺しないわたくしを見いだすことができるのではないかと思うんです。でも、この辺はこの漫画には関わらないことだとも思うから、余談でした。

2006年1月18日水曜日

小松未歩 2nd 〜 未来 〜

 私は女声ボーカルの曲が好きで、けど進んで誰かのアルバムを買いそろえようとか、そういう風なのはあんまりないんです。小松未歩においても同様で、もし『Lの季節』というゲームに手を出していなかったら、私は小松未歩をほとんど聴くことなく終わったのではないかと思います。

『Lの季節』の主題歌は小松未歩の『2nd 〜 未来 〜』に収録されている『手ごたえのない愛』で、私は当初この曲を目当てとしてこのアルバムを買ったのでした。ですが、聴いているうちにだんだんと小松未歩の歌自体にひかれるようになって、ええ、確かに私は小松未歩の歌が好きでした。

小松未歩の歌が好きというと、私の歌に対する嗜好が少しずつはっきりしていくように思えます。女声ボーカルが好きといったのは確かにその通り。それに加えて、独特の歌い癖があることがポイントなんだと思います。小松未歩の歌は、女声ボーカルであるものの、非常に中性的な表現で、少年っぽさが感じられたり、幼さと若さの両方に触れつつも交わることのない固さもあったりして、こういうところが私の嗜好に非常によくあったのだと思っています。

固さというのはなんでしょうね。アルバムの収録曲を見て、例えばそれは『チャンス』や『氷の上に立つように』、『願い事ひとつだけ』なんかから感じられるように思えて、いや無論その三曲だけに限ったことではないのですが、歌詞などを読めば一種大げさな表現があるようにも思えるのに、実際に聴いてみると、小松未歩の突き放したような歌い方のためだと思うのですが、それを大げさであるとは感じないのです。エモーションの大きさがあるかと思えば、情緒に振れないクールさもあって、そういうとらえどころのないような曖昧な位置に固さがある。思い詰めたような、それでいて凛々しくあろうとするかのような、そういう少年の姿を向こうにみるのですね。

2006年1月17日火曜日

帝立第13軍学校歩兵科異常アリ!?

 もう一昔前といっちゃっていいのかな。かつて空前の、といってもいいくらいに格闘ゲームが流行したことがありましたが、あの頃にはお遊びで漫画やノベルの登場人物紹介にコマンド表がついていることも珍しくありませんでした。私は結構格闘ゲームが好きだったものですから、そういうのを見るたびに、これらが本当のことであったらきっと楽しいだろうなと思って、実現しないことを残念がっていたりもしたのでした。

その当時からすでに同人の格闘ゲームは存在していて、私はそういうものを見るたびに、自分にも技術があればいいのにと悔しい思いをしたものでした。最近でもそうです。『帝立第13軍学校歩兵科異常アリ!?』の表紙カバーをとると、主人公クリスの固有技表があらわれて、こういうのを現実のものとできないのが悔しいなあと思いました。ええ、最近も最近、昨年九月のことですよ。

でも、そういう悔しさというのもちょっとだけのことで、しばらくすれば忘れちゃうようなもんなのですが、今回は少しばかり違いましたね。ほら、『行殺!スピリッツ』ですよ。先日もいいましたが、私はこのゲームを一通り遊んでみて、そのできに感心してしまって、ああ楽しいなあ、こんなのが作れるというのはいいなあとうらやんでしまったんですね。

中でも悪かったのが永倉です。いや、永倉新が悪いってんじゃないですよ。悪かったのは彼女の武器でして、ええと、大木槌なんですよ。これがうまいこと『帝立第13軍学校歩兵科異常アリ!?』のヒロインクリスの得物にかぶっていて、クリスの使う武器というのは攻城用の大金槌なんですね。だから私は永倉新を見て、使ってみて、クリスの固有技はゲームにおいて再現可能だという思いを強めてしまった。ああ、技術さえあれば実現可能なんだと知った。ですが、私には技術がないのです。ええ、ええ、技術がないんですよ!

同人に極めて近いところにまで寄りながら、私が同人に作り手として参加することがないのは、結局は技術の問題なのだとわかります。ゲームは作れない、絵は描けない、漫画はネタが練れない。けど、作りたいと思う気持ちだけはあるもんだから、彼らの気持ちはわかります。それはひとえに、作品への、あるいは登場人物へのです。ええ、ええ、なのです!

ああ、もし私に技術があったらば、クリスをPC上で動かしてみせるというのに! 帝立第13軍学校を、そのわずかの部分にすぎないにせよ、かたちにしてみせるというのに!

余談

本当の愛は、ない技術をもって制作に飛び込ませ、技術を会得しつつ完成に達するものであると思います。ああ、私には愛が足りない!

Creative Commonsから小包が届いた

Creative Commonsから小包が届いた。

昨年末にいっていたCreative Commonsが寄付を求めているという話の続報。

今日家に帰ると私の座椅子に大封筒が鎮座ましましていて、縁には飛行機に乗ってきましたと主張するかのような赤青のだんだら模様が目にも鮮やか。いったい誰からだろうと見てみれば、Creative Commonsの名前とロゴが左肩にあって、ああ、あの寄付の関係かと思った次第。とるものもとりあえず開封しました。

出てきたものは以下の数点:

  1. 礼状
  2. Tシャツ
  3. ステッカー(大)
  4. ステッカー(小)
  5. 缶バッジ

果たして私のしたことにどれほどの意味があるのかはわかりませんが、これらは自分にとってのちょっとした自負となってくれるのではないかと思います。そうそう、寄付が目標額に達するかどうかやきもきしていた最中にもたらされた一報は私を小躍りさせるに充分なもので、かつては敵のように思っていた彼らと和解できたような気がしたものでした。そうですね。例えていうならば、

おのれマイクロソフト、今日から友達だ!
天晴れ!
グッジョブ!
夢をサンキュウ!!

といったような感じ。

冗談はさておいても、昨年末の騒動は、今まで参加しようかどうしようかと迷っていたCCを選ぶ大きなきっかけとなってくれて、さらには長く誤り続けてきた行いを省みる踏ん切りをつけるのにも役立ってくれました。私はなにかまっさらな気持ちでこの2006年を始めることができたように感じていて、背を推してくれたCCには本当に感謝の気持ちを惜しみません。

2006年1月16日月曜日

正法眼蔵

   旅に出ていました。行き先は福井県。温泉がメインの旅行でしたが、東尋坊にも寄り、そして曹洞宗大本山である永平寺にも詣でました。永平寺については私はまったくといっていいほど知らず、禅宗で有名な寺だと聞いて、それでもピンとこなかったのですが、寺内に展示された木版の古本を見てようやく思い出しました。その本というのは『正法眼蔵』。私は読んだことはないのですが、かつて図書館にて整理の仕事をしていたときに、私の前をこの本が流れていたのははっきりと記憶に残っていて、著者は道元。日本曹洞宗の開祖であります。

残念ながら私はこの本を読んでいません。図書館の整理の業務においては、本の内容を知るのも仕事のうちですから、ざっと目を通して、拾い読みして、私とこの本のつきあいとはその程度のものでしかないのですね。ですが、おそらく『正法眼蔵』をルーツとした考え方には触れていて、少なからず影響されていると、永平寺を詣でてみて思ったのでした。参詣者に向けて展示されるパネルやなにかを見れば、その考えは私にとって新しいものではなく、かつて幾度も聞いたことのあるようなもので、それはやはり聞いたのでしょう。法話によってなのか、本によってなのか。いずれにせよ、『正法眼蔵』の考え方は、知らず私の生活にも流れているのだなと思ったのでした。

例えばですね、私がよくいう、なにをするかではなく、いかにおこなうかが重要なのだというのがそうでして、いずれすべて失うということや、足ることを知ることの大切さ、そして知るとわかるは違うということ、これらもすべて道元禅師の言葉に見えるのですね。上に挙げたようなことはいずれ私一人の頭から出たものではなく、過去からの流れの中で、私のうちに残ったもので、そのように考えれば、私の考えにはどれほど禅の影響があるのか。私という人間にとって、禅的な考え方というのは知らず重要なものになっているのです。

私はこれまで『正法眼蔵』をただタイトルで覚えていた程度でしたが、これをすべて読み通してみれば、なにかまた知れることもあるかも知れないと思います。それでもって実践する。そうした行為のうちにはじめてわかるがあるのでしょう。

私は私の生きている間にどれだけのことをわかることができるでしょう。途方もないことのように思えますが、わかろうということをあきらめてしまえばそれは生きるということをあきらめるのと同じなのではないかと思うのです。だから、私はいつかこの本を読み、わかるための行為をはじめることができればよいなと思っています。

  • 道元『現代文訳 正法眼蔵』第1巻 石井恭二訳 (河出文庫) 東京:河出書房新社,2004年。
  • 道元『現代文訳 正法眼蔵』第2巻 石井恭二訳 (河出文庫) 東京:河出書房新社,2004年。
  • 道元『現代文訳 正法眼蔵』第3巻 石井恭二訳 (河出文庫) 東京:河出書房新社,2004年。
  • 道元『現代文訳 正法眼蔵』第4巻 石井恭二訳 (河出文庫) 東京:河出書房新社,2004年。
  • 道元『現代文訳 正法眼蔵』第5巻 石井恭二訳 (河出文庫) 東京:河出書房新社,2000年。
  • 道元『正法眼蔵』第1巻 増谷文雄訳 (講談社学術文庫) 東京:講談社,2004年。
  • 道元『正法眼蔵』第2巻 増谷文雄訳 (講談社学術文庫) 東京:講談社,2004年。
  • 道元『正法眼蔵』第3巻 増谷文雄訳 (講談社学術文庫) 東京:講談社,2004年。
  • 道元『正法眼蔵』第4巻 増谷文雄訳 (講談社学術文庫) 東京:講談社,2004年。
  • 道元『正法眼蔵』第5巻 増谷文雄訳 (講談社学術文庫) 東京:講談社,2005年。
  • 道元『正法眼蔵』第6巻 増谷文雄訳 (講談社学術文庫) 東京:講談社,2005年。
  • 道元『正法眼蔵』第7巻 増谷文雄訳 (講談社学術文庫) 東京:講談社,2005年。
  • 道元『正法眼蔵』第8巻 増谷文雄訳 (講談社学術文庫) 東京:講談社,2005年。
  • 道元『正法眼蔵』第1巻 水野弥穂子訳 (岩波文庫) 東京:岩波書店,1990年。
  • 道元『正法眼蔵』第2巻 水野弥穂子訳 (岩波文庫) 東京:岩波書店,1990年。
  • 道元『正法眼蔵』第3巻 水野弥穂子訳 (岩波文庫) 東京:岩波書店,1991年。
  • 道元『正法眼蔵』第4巻 水野弥穂子訳 (岩波文庫) 東京:岩波書店,1993年。
  • 道元『正法眼蔵』第1巻 水野弥穂子訳 (ワイド版岩波文庫) 東京:岩波書店,1993年。
  • 道元『正法眼蔵』第2巻 水野弥穂子訳 (ワイド版岩波文庫) 東京:岩波書店,1993年。
  • 道元『正法眼蔵』第3巻 水野弥穂子訳 (ワイド版岩波文庫) 東京:岩波書店,1993年。
  • 道元『正法眼蔵』第4巻 水野弥穂子訳 (ワイド版岩波文庫) 東京:岩波書店,1993年。
  • 道元『正法眼蔵』上 衛藤即応校注 (名著/古典籍文庫 — 岩波文庫復刻版) 東京:2005年。
  • 道元『正法眼蔵』中 衛藤即応校注 (名著/古典籍文庫 — 岩波文庫復刻版) 東京:2005年。
  • 道元『正法眼蔵』下 衛藤即応校注 (名著/古典籍文庫 — 岩波文庫復刻版) 東京:2005年。
  • 道元『正法眼蔵』第1巻 石井恭二訳 東京:河出書房新社,1996年。
  • 道元『正法眼蔵』第2巻 石井恭二訳 東京:河出書房新社,1996年。
  • 道元『正法眼蔵』第3巻 石井恭二訳 東京:河出書房新社,1996年。
  • 道元『正法眼蔵』第4巻 石井恭二訳 東京:河出書房新社,1996年。
  • 道元『正法眼蔵』別巻 石井恭二訳 東京:河出書房新社,1998年。

2006年1月15日日曜日

キョウハクDOG’s

 松の内も終わりますな。なので犬にまつわるものをまた取り上げてみようと思います。

Amazonにいきますと、おすすめ商品がありますなんていわれることがありますが、ある日私に対するおすすめ商品としてリストされていたのが『キョウハクDOG’s』でした。なぜこの商品がピックアップされたのかという、おすすめの理由を見ることもできるのですが、なぜかその頃のAmazonはおすすめの理由の表示に失敗することが頻繁で、だからどうしてこの漫画が私向きとして判断されたのかはわかりません。おそらくは以前買ったYotsuba&!Tori Koroあたりが影響しているのでしょう。あるいは、このBlogを書くためにAmazonをうろうろするそのせいかも。いずれにせよ、数日にわたっておすすめされたもんだからすっかり覚えてしまって、ついに買ってしまった。そういうわけなのです。

おすすめされて買ってみて、それでいったいどうだったのかというと、第一印象は最悪でした。なんか読んでらんないんですよね。評価としては、出来過ぎというのが妥当かと思います。あまりにも作られたお約束の世界のなかで進む物語は、とりあえずその外部にあるものを疎外するものでありまして、そう、私は一歩も立ち入れないで終わるかと思いました。

終わるかと思った? そう、終わんなかったんですね。買ってしまったものですから、ちらっと見て抵抗感じて本閉じて終わりというのもなんですから、ちょろちょろと適当にめくったページから読んでみたりするんです。そんなこと繰り返しているうちにだんだん最初の疎外感も薄れてきて、そうなれば普通の漫画として読めるようになります。ええ、結構面白いですよ。出来過ぎている感は相変わらずですが、ですがパターンを踏襲すること自体は悪くありません。酷い言い方をすればおたくの夢をそのままかたちにしたような筋、展開、キャラクター(とりわけヒロイン)なのですが、でも期待にこれだけしっかり応えているというのはさすがで、結構売れてるんじゃないかな。

次巻が出れば、私も多分買うと思います。

  • しゃあ『キョウハクDOG’s』第1巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2005年。
  • 以下続刊

2006年1月14日土曜日

行殺♥新選組ふれっしゅ

 NHKでやってた『新選組!』を見ていたときにも思ったことなのですが、ドラマにせよ映画にせよ、あるいは本にせよ、その舞台となった地を知っているかどうかというので面白さは大きく違ってきます。今日読んでいた短編『理心流異聞』もまさにそんな感じで、京都三条大橋についての描写、こんにちでこそ、この家並みの背後には疎水が流れ、土堤には京阪電車が通っているが、沖田がこの現場に立った当時は、そのようなものはなかった。家並みの背後はジカに崖になっている。とびおりれば、鴨川のしらじらとした磧である。今はもうここに京阪電車は通っていないのですが(地下に潜っちゃった)、けれど昔を思い出せば、司馬遼太郎のいう景色が目に浮かぶようで、そうそう、NHKの大河では池田屋事件の件がそうでした。八坂神社を出て三条小橋の池田屋にたどり着くまでの道のりは私の足が覚えています。だから隊士の足取りを自分の足の感覚でもって計ることができたのです。

で、なんでそんなことをこの『行殺♥新選組ふれっしゅ』というゲームに関する記事においていうというのでしょうか。ええ、このゲームにおいても、京都に暮らしているというそのメリットが得られるからなのですよ。このゲーム、新撰組の主要人物を女性に変えてしまったという一種斬新な設定が売りでして、で、好きな隊士と組んで京都の町に出ることができるのです。そこでなにをするかというと、京の町を荒らすキンノー浪士をやっつけて治安回復に努めたり、あるいは組の財政を豊かにするため商店に話をつけてお金を借りる、 — 押し借りってやつなんですが、その話のつけ方というのがクイズなのです。

押し借りクイズはいわゆる三択で、けれどその出題の幅広さったらたまりません。私は人から無駄な知識を満載にしているなんていわれる質の人間なのですが、しかしそれがまったくといっていいほど歯が立たないのです。出題にはジャンルがいろいろあって、得意もあれば不得意もあるのは当然で、けれどそのことごとくが不得意ってどういうことですか。掛け金を決めて、クイズに答えるたびにダブルアップしていくという仕組みなので、はっきりいって二三度答えられても全然実入りにならない。やっぱり規定の五問を連続で正解だ、てなぐあいにやってのけたいのですが、それがままならない。だいたい五問目が山ですね。三問目クリア、四問目もなんとか通って、ぎゃあ、五問目は問題のいっている意味がわかりません! で、隊務金が底を突いて、しかたがないからキンノーを襲って巻き上げて、それでまたチャレンジする。

私、このゲームではクイズばっかりやってますよ。なんか間違ってるような気もしますが。

唯一といっていい私の得意分野は、京都ジャンルなんですね。京都ジャンルは宮古一番堂で出るので、はっきりいってここは私の猟場です。もちろんわからない問題もあるんですが、やっているうちに覚えます。その効率が、他の店舗に比べると段違いなんですね。

だってさ、げんじとりといったらなにか、って、げんじがクワガタのことって知らんよなあ。いや、私は子供の頃にげんじげんじいうて野山かけまわってた口ですからちゃんとわかりますが、でもこういうレベルの問題が出るわけです。

と、こういうゲームでございます。ちなみに、昨年十二月Wiredの記事取り上げられたBlogで問題視されていた『行殺!スピリッツ』はこの『行殺♥新選組ふれっしゅ』をベースにしています。

『行殺!スピリッツ』、私も遊んでみましたが、なかなかよくできて面白いゲームです。特に、あの確定しなければダメージが加えられないというシステムは斬新で、どんなに攻撃を受けても確定されるまでは負けではないから、体力残り数ドットというような苦境に追い込まれても果敢に攻めていけるのです。終盤になってもチキン戦闘が発生しない、撮影を必死で回避しての大逆転も狙えます。

最後まで熱いゲーム。なかなかにお勧めなのですが、なにぶん確定の方式がアレなもんですから、どうも勧めるに勧めにくいのがこまりものです。

蛇足

原田、土方、藤堂。以上。

引用

仕様変更への再度問い合わせ

昨年十二月に突然変更されたBlog[旧お試しBlog]本文中の&の扱いについて、プロバイダに問い合わせしてみたものの一向に返事が得られないので、再度問い合わせてみました。

以下に問い合わせの本文をのせておきます:

昨年十二月にも同じ件で問い合わせましたが、お応えが得られませんでしたので再度問い合わせます。

Blog本文中における実体参照の扱いについてです。昨年十二月に突然本文中の&を&と変換して出力するよう仕様変更されたのはなぜでしょうか。&はHTMLにおいては実体参照に用いられる重要なメタ文字でありますが、それが&と変換されてしまうため、実体参照を用いることが不可能になりました。

実体参照が使えないので、<(&lt;)や>(&gt;)を表現することができず、またHTMLの文書型定義において定義されている多様な記号を使うこともできません。以前にも申し上げたとおり、こうした記号を取り扱うBlogにとっては致命的です。

この仕様変更の理由をお教えいただけませんでしょうか。また、早急に以前の仕様に戻していただけませんでしょうか。

なにとぞよろしくお願いします。

以前問い合わせてからも、コメントスパムについてなどいろいろやり取りしているのですが、そちらではちゃんと返事がもらえているんです。多分問い合わせの量に違いがあるためなんでしょうが(コメントスパムに対しては定型文が用意されているということをいっています)、でも実体参照が使えないのも困りものです。

正直、ほったらかしはつらいものがあります。

2006年1月13日金曜日

だんだら

 私はきらという人の描く絵だけは知っていて、そしてその作風に触れたのは『シンクロオンチ!』がはじめでした。シンプルな描線によく整理されてわかりよいコメディ。この人が描く男は本当に色気があって恰好いい。そんな風に思っていたものですから、『だんだら』を読んだときには驚いてしまいました。わかりにくい。一筋縄ではいかない。題材として新撰組が選ばれているのはわかりましたが、新撰組はただの口実に過ぎないこともわかりました。沖田のうちに去来する、今現在私たちが暮らす時代の精神と、幕末動乱に生きた人斬り沖田のふたつの人格、記憶。いったいどちらが本物なのか、それは読んでみて、追想してはじめてわかるものなのかも知れません。

作者は表紙折り返しのコメントに、描きたかったテーマはひとつですという言葉を残していて、けれど私は思うのですが、そのテーマというのはあくまで作者にとってのテーマであって、解答ではないのだろうなと。おそらくこの漫画には明確なひとつの解というのはなくて、読んだものが、自分の読んで得たものをよすがにして、自分にとっての意味や結末を描くべき開かれた作品としてのかたちをもっているように思います。

題材としては新撰組をとっていますが、描かれるのは徹底的に現代的な意識であって、だから私はこの漫画を新撰組ものとはちっとも感じていませんでした。これを読んで、新撰組に思いをはせることはできない。だから、私は昨日の昨日まですっかり忘れていました。忘れていたではないですね。新撰組というキーワードでは『だんだら』を拾えなかったのです。

新撰組を取り上げて新撰組ものではないという『だんだら』ですが、ではなにであるのかというと、それは結局は私たちの時代の精神の問題が流れているのであると思っています。幕末なんかではなく、今の私たちの時代の物語であると思っています。

  • きら『だんだら』(マーガレットコミックス) 東京:集英社,2002年。

引用

  • きら『だんだら』(東京:集英社,2002年),表紙折り返し。

2006年1月12日木曜日

秘密の新選組

 昨日の記事が『裏事情新選組』だとすれば、今日は『秘密の新選組』。いったいなにが秘密というんだー! 新撰組の秘密とは、ホールモーンに働きかけることで男性を女性化させてしまう薬の存在。いや、違うな、そんなもんじゃない。新撰組がどうしても隠さなければならない秘密とは、その薬によってなんと五人もの隊士が女性化してしまっているということなのです!

って、のっけから腰が砕けそうなとんでも設定が飛び出してきてしまいましたが、だってそういう漫画なんだからしかたがないじゃないですか。近藤勇のいたずら心がきっかけとなって、土方はじめ、沖田、藤堂、原田は、男でありながら女の乳房を持つ身となってしまって……、え? 一人足りない? ああ、それは近藤さんです。どうなる新撰組!? という漫画です。

しかしこの漫画のすごいところは、こんな脱力するようなとんでも設定だというのに、描く内容は至極真っ当なものということです。ホルモンの影響で女性化してしまった隊士は、その身体だけでなく心までもに変調を来して、土方は妙に嫉妬深くヒステリックな性格をあらわにするし、藤堂は藤堂で……、ってあんまりここで書いちゃ面白みがなくなります。続きは漫画で読んでくださいな。

私はこの作者、三宅乱丈という人を知らず、かろうじて『大漁! まちこ船』をちらっと見たことがあるというくらいだったのですが、この漫画で読んでみて、なんと今まで知らなかったのが惜しまれるほどの良作家ですよ。私は日頃から、物語とは題材やなんかが問題なのではなく、大切なのはその物語り方であるのだと思っているのですが、その考えをさらに強めましたね。だって、新撰組の主要人物を女性化させてしまうなんて、いったいどうしたらこんなこと思いつくんだという奇抜な発想であるのに、物語はしっかりと揺るぎなく、堂々と紡がれていくんです。もうそれこそ、本当にこうしたホルモンの影響があったんではないかというほどの説得力を持ってです。これは物語り方の勝利というしかない。私はもう、この表現の強さに参ってしまったんですね。

で、私がこの本を知るきっかけとなったのは、たびたびこのBlogでも紹介している、もの子さんのBlog記事だったのです。しかし、もの子さんの目利きにも恐れ入ります。本当、私の狭い見識が広がるわけで、実にありがたいことであります。

  • 三宅乱丈『秘密の新選組』第1巻 (fx comics) 東京:太田出版,2005年。
  • 以下続刊

2006年1月11日水曜日

隊士は見た! 裏事情新選組

 私の読んだことのある新撰組ものといったら『大夫殿坂』くらいしかないといっていましたが、対象を小説から漫画に向けると状況は多少ましになるかも知れません。例えば、ついこの間も紹介しました松山花子の『診療再開! 小さく弱い人たちへ』には新撰組を描いた読み切りが収録されていて、けどこれをもって新撰組ものを読んだというのもどうかなあ。というのは、やはり松山花子的なカリカチュアライズがされていまして、カテゴリとしてはパロディとかに含まれるんじゃないかと思うからです。だって、タイトルからして『隊士は見た! 裏事情新選組』ですから。いったいその裏事情というのはなんなんだと、そんな突っ込みのひとつも入れたくなるじゃありませんか。

ですが、さすが松山花子と思わせるものでもあるから素敵です。描かれるのは文久二年の浪士募集から翌年九月の芹沢粛正まで。主役は土方歳三。小石川伝通院にて出会った芹沢鴨に武士の理想を見いだした彼のうちで、いったいいかなる変化が起こって、ついに暗殺するまでに至ったのか。土方の胸のうちが描かれるときは結構シリアスでナイーブな、ちょっと読ませるものであるのですが、ところが最終的な判断の動因はもう完全にギャグそのもので、そうした落差も含めて松山花子らしさが満ちています。

でも、やっぱり松山花子らしさは、シニカルなところに見いだしたいものであります。醒めて対象を遠巻きに見るような視点はこの漫画にも健在で、そうした見方はギャグといって片づけてしまうには惜しいものがあるのです。

土方の武士への憧れと自らの出自に対するコンプレックスが結実した法度。自分は本当の武士ではないという思いが、もうすでに過去のものとなっていた武士らしさを声高に叫ばせたのだろうなあと。対して、他の隊士の思いはいかなるものであったのか。松山は近藤以下全員を皆考えの浅いものであるように描いていますが、確かに幕末の行き詰まりの中で、将来に展望を見いだせない若者が、自分の腕を振るえる機会がきたと募集に群がり、後は付和雷同の如し。こういう見方は、新撰組のファンからしたらあんまりにあんまりなものであるのでしょうが、けれど私はそういう考えもあながち間違ってはおらんのではないか。そんな風にも思うのです。

自分が松山花子の描く新撰組像を面白く受け入れられるのは、私自身が新撰組に好意的ではない事情があってのことかも知れません。新撰組への興味は尽きないものの、かといって彼らにシンパシーを感じるわけではないのです。これまでもずっとそうでしたし、これからもきっとそうでしょう。

こんな私ですから、松山の新撰組は非常に楽しめるものでありました。

2006年1月10日火曜日

大夫殿坂

 私は今、猛烈に新撰組に関する本を読みたくてたまらない。という書き出しもなんだか唐突ではありますが、だって本当にそう思うんだからしかたがないじゃない。そもそも私の新撰組に関する知識は極めて浅く、まとめて見たといったら、こないだの大河ドラマが関の山。あとは竜の印は正義の印ってやつと、ほんで士道不覚悟切腹よくらいかね(われながら偏ってるとは思います)。実をいうと、私は新撰組をはじめとする幕末ものはあんまり好きではなかった過去をもっていまして、それは多分父親の趣味を反映していると思うのですが、だって新撰組の小説とかもってないかと聞いたら、幕末ものはどこが面白いかわからないという力強い答えが返ってくるんだもんなあ。『鬼平犯科帳』とか全巻揃えてるくせに! というわけで、私は新撰組ものを自力で渉猟せねばならないはめに陥りそうなのであります。

そんな私が読んだことのある新撰組の小説といえば、ご存知司馬遼太郎の『燃えよ剣』、ではなくて、『大夫殿坂』だけなんですね。この話、新撰組がメインの話ではなく、けれど新撰組はばっちり関わってくるという、いわゆるサイドストーリーなのでありますが、私は実にこういうやつに弱いんです。メインのストーリーを追って、そしてそこに関わってくる多くの人たち。サイドストーリーが多ければ多いほど、メインの話を軸にした膨らみは豊かに広がるもので、その広がりこそが物語の質感になるのだと思います。あたかも、その時代、その場所に立ち会い、その人たちに出会った、あるいは直接伝聞したかのようにしっとりと手に感触が残るような気さえする! だから私は『大夫殿坂』にやられてしまった。これはもうずいぶん前のことで、NHKのドラマよりも前で、局を抜けたら切腹よを知るよりも前でした。

『太夫殿坂』では、いわゆる大坂角力事件に触れられていて、いやでもこれは主題ではありません。公事宿の手代が語る新撰組の行状、そこに件の事件が出てきて、これは初代局長芹沢鴨の仕業であったわけですが、その描写がすさまじい。

一団の首領が抜き打ちに斬りすてたのである。力士は斃れても笑顔のままだったというから、斬り手の腕は凄まじいものとみてよい。

私はこれを始めて読んだときには、ああお相撲さんがかわいそうだと思ったものでしたが、それと同時に、デカダン酔いしれる芹沢鴨のファンにもなった。いや、この物語中では芹沢の名は出てこないんですけどね。でも、この事件の記憶は私の脳裏にかっきりと残って、だからドラマを見たときには、この事件を起こすのは佐藤浩市演ずる芹沢だとわくわくして、いつかいつかと待っていて、その日がきたときにはやったと思った。ええ、ここにきて、かつての幕末音痴は消え去ろうとしていたわけです。

でまあ、私は新撰組に関する本を読みたいわけです。まずは『燃えよ剣』あたりでしょうか。でも全集は高い! だったら文庫で買え文庫で、って話なんですが、なにぶん文庫で買うとサイドストーリーを追い切れない可能性もあって、それは私の性格からすれば非常にまずいわけです。でも全集68冊は買えないなあ。

できればいろいろな本を読みたいと思っています。『大夫殿坂』ではおどけた力士は抜き打ちに斬られたわけですが、力士が暴言を吐いたところへ芹沢が殴りつけたという話もあるではありませんか。こんな風に、いろいろぶれのある物語をたくさん読んで、自分なりの幕末を描いてみたい。ええ、私は新撰組がとりわけ好きというわけじゃあないんですよ。そうじゃなくて、幕末という時代を感じてみたい。あの時代の空気がどうだったかを追想してみたいというのです。その手がかりとしてまずは新撰組。ええ、いい取っ掛かりであるとは思いませんか?

引用

  • 司馬遼太郎「大夫殿坂」,『人斬り以蔵』(東京:新潮社,1969年),316頁。

2006年1月9日月曜日

しあわせは…あったかい子犬 / Happiness Is a Warm Puppy

  犬といったら決して忘れてはならないやつが一匹います。そう、世界で最も知られたビーグル犬、the world famous beagle Snoopy ですよ。スヌーピーは、その登場するカートゥーン『ピーナッツ』を知らない人にもよく知られていて、今やもう説明の必要はないでしょう。愛らしくしかしシニカルな子供たちと犬の繰り広げるちょっとシュールな物語は、なんだかおかしくもあり、けれどそのうちに彼らが自分の身の回りにいる親しい人たちであるかのようにも感じられるようになって、そうなったらもう他人事ではないんですよね。

『しあわせは…あったかい子犬』は、『ピーナッツ』の子供たちが出てくる絵本で、これもまた説明の必要もないくらいに知られたものです。子供たちが一人一人出てくる。そしてしあわせは…という問に、一人一人違った答えがあらわれて、しあわせのかたちというのはどれほどにたくさんであることでしょう! しあわせは誰もの胸にそれぞれ違ったかたちであって、それゆえに世界は豊かであるのだと思います。ともすれば、ものがたくさんあって、お金がたくさんあって、それがしあわせといいかねない時代でありますが、ですが本当のしあわせとはもっとささやかで、もっと根源的なものであるはずだと、この本を手にすれば思うようになるのではないかと思います。

そして、多分、この本を読んで、自分にとってのしあわせのかたちを思い描いてみるのがよいのだと思います。人と同じでなくてもいい。誰にも理解されないかも知れないけれども、それでも自分にとってのしあわせのかたちを描ける人というのは、いつかしあわせを自分の胸に抱くことができる可能性を持った人なのだと思います。

2006年1月8日日曜日

犬を飼う

 戌年の犬特集をするにあたり『犬を飼う』は常に念頭にあった本なのですが、なぜか私が扱っちゃいけないような気がして、今の今まで先送りにしてしまいました。先送りというのも変ですね、同ジャンルが並ばないようにという配慮もあったし。でも、やっぱり私には簡単に書いちゃいけないような気がして、いや、他の漫画や音楽やなんかは簡単だといっているんじゃなくて、なんといったらいいんでしょう。なんか、私のキャラクターにはそぐわないんじゃないかという、そんな感じがするんです。

でも、この漫画を嫌いということは決してないのです。この漫画は、一匹の犬をとおして人の暮らしや町の移ろいを描いて、その果てに生きるということはどういうことなのかも描いて、筆致はあんなに静かなのに深く響いて、私は二の句を継げなくなってしまいます。

『犬を飼う』は「犬を飼う」だけでは終わらずに「そして…猫を飼う」、「庭のながめ」、「三人の日々」と続いて、それぞれは独立した短編で、それぞれに違ったテーマと結尾を持っているのですが、しかしこれらのシリーズを通して表現されるテーマもあるようで、それはやはり生きるということなのかなと思います。生きるということは人間を含んだ生物が生命活動をおこなうということでありますが、人間にとっては決してそれだけではなく、生きている間に関わる人やもの、こと、場所、すなわち暮らしそのものであると思うんです。

その暮らしを、透徹した目で持ってみれば、こうした表現になるのかと思います。よいことはよいように、けれど決してきれい事や上っ面だけじゃなく、煩わしいことや、本当なら恰好つけてなかったことにしてしまいたいような感情も描いて、それは本当に淡々と、声を荒げることもなく、ドラマを盛り上げようと細工をするようでもなく、けれどその淡々とした様が逆に大きな説得力を持って、私の胸に迫ったのですね。だから、私はそれを受け止めるのにうっとなって、その重さを下ろすに下ろせず、今も、そして多分これからもずっと抱えて、けどその重さはこの漫画の重さではなく、この漫画を介してあずけられた人生を描出する目によってようやく見つめられた、自分自身の人生の重さであろうと思います。

私は、自分の人生を一枚の紙っぺらよりも、空気よりも軽いものとして感じたいと思っていて、けれどそれは目をそらしているだけに過ぎない。私の人生にも、暮らしがあり、暮らしは決して軽々しいものではないんだろうなあ。私の自分自身を見つめる目の甘さは、この漫画と対照されることで際立って、本当、駄目だと思います。

  • 谷口ジロー『犬を飼う』(小学館文庫) 東京:小学館,2001年。
  • 谷口ジロー『犬を飼う』(Big comics special) 東京:小学館,1992年。

2006年1月7日土曜日

ポチの群れ

 犬特集は続きます。

元日紹介の『まりといっしょ』に続き、今回もまた宙出版がお送りするたかの宗美漫画です。Amazonでたかの宗美をキーワードにして調べてみるとわかるのですが、結果におけるエメラルドコミックスの比率はかなりのもので、この人の漫画の人気の高さがうかがわれます。

多分この人気を支えているのは、たかの宗美の、一般向けというにはちょっとマニア好きするところや、かといってマニア向けというほどとんがりすぎてもいないという、絶妙の立ち位置なのではないかと思うんです。マニア向けというのも、漫画やアニメのマニアではなく、鳥のマニアなど、とにかく多様な層に働き掛ける懐の広さがあって、それは『ポチの群れ』に関しても同じではないかと思っています。

『ポチの群れ』をはじめて読んだとき、これは他のたかの漫画とはちょっと違うなと、そういう感想が強かった。主人公は中山家に飼われているポチ。淡々としてマイペースで、そんなポチが人間の暮らしを観察し漏らす感想の面白さ。とにかくマイペースで、ちょっとずれていて、それですごく素直なものだから、なんだか目からうろこ的な気分になることもあって、そういうところがこの漫画の面白さなんでしょう。

実際、このポチの視点が人間のものであれば、人生に達観しているといったような印象を与えるんじゃないかと思います。そういえば昔キュニコス(犬儒派)という哲学の一派がありましたっけ。もちろん、ポチの視点は彼らの視点とは違っているんだけど、たまには人の視点から離れてみれば、また違った世界の見え方があるかも知れないと思ったりして、でもまあそこまでいけば考えすぎというものでしょう。この漫画は、もっと気楽に素直な気持ちで読むほうが、絶対いいと思います。

  • たかの宗美『ポチの群れ』第1巻 (エメラルドコミックス) 東京:宙出版,2004年。
  • たかの宗美『ポチの群れ』第2巻 (エメラルドコミックス) 東京:宙出版,2006年。

2006年1月6日金曜日

犬の生活

 今の若い人はもうそんな言葉知らないかも知れないけど、昔はルンペンなんて言葉があって、浮浪者とか失業者を意味するドイツ語なんですが、私はこの言葉を聞くとどうしてもチャップリンを思い出してしまいます。ぼろは着てても心は錦というか、権力大嫌いでけれどぶったところはなく、人間臭くて、紳士で。喜劇王だなんていわれていましたね。無声映画の時代にたくさんのフィルムを撮って、その後トーキーにも進出して、短編であっても大作であっても、そのどれもに心が通っていて、特に中期から後期にかけての作品は素晴らしい。でも初期の短編にも見るべきものはたくさんあって、『犬の生活』もそんな中のひとつです。

チャップリンがですね、群れからつまはじきにされた一匹の犬をですね助けまして、それから一人と一匹で一緒くたになって暮らすという話。基本はどたばたのコメディです。いかに日々の糧を手にするかとか、そういう試行錯誤、チャレンジの連続が面白いといった短編なんですが、考えてみればそうして暮らしているチャップリン演ずる放浪紳士がすでに人の群れからつまはじきにされた一人であるんですよね。

チャップリンは後に文明批判や反戦といった、現状に果敢にプロテストするような映画を撮りますが、そういった視点はすでにこうした短編時代に見受けられるのかも知れません。

昔、平成がまだ一桁だった頃、NHKのBSでチャップリンが大量に放送されていて、長編もやれば短編もやる。それこそ、十把一絡げにされそうな、ほとんど知られていないような短編も放送されていて、私のうちには当時まだ衛星放送を見られる設備がなかったから、見たくて見たくてたまらなくて、人に頼んでビデオに撮ってもらっていたりしました。そのテープは今もちゃんとしまわれていて、でもこのところは些事に追われてすっかり忘れてしまっていました。

チャップリン、好きでした。高校の図書室にチャップリンの自伝を見つけて、それを読んで、映画を撮っていたときの話やなんかを読んで、貧しい暮らしを表現しようと演ずるマイムで笑いをとるはずが、共演女優に涙を流させてしまった話などいろいろ。チャップリンは、笑いの中に人間が人間として生きる悲しさを込めた人でした。

犬の生活もそういう色を出していて、この映画では、犬と一緒に眠るチャップリンの絵が妙に記憶に残っていて、あの冷たい外界に対し、一人と一匹身を寄せあっている切なさと暖かさが一緒になった素敵でほほ笑ましく、そして一抹の悲しみも感じさせる名シーンであったと思います。

2006年1月5日木曜日

名探偵ホームズ

  いつだったかもさだかでないくらい昔。私は『名探偵ホームズ』のアニメが好きで、ええ、あの犬のホームズです。確かテレビ朝日だったと思う。私のことだからきっと本放送では見逃して、けれど当時は頻繁におこなわれていた再放送で虜になって、ほら夏休みになったら朝の九時半からやるでしょう。ああした時間に、それこそ何遍見たかわからないほど見ました。その後、NHKの衛星放送でもやるようになって、私はビデオにとってまで見て、その頃の私の趣味(というか病気)は全話ビデオ録画でしたから、もちろんこのときもチャレンジしたのですが、私を部屋から追いだした姉がBSチューナーのチャンネルを変えるという暴挙に出たせいで泡となりました。

けど、DVD-BOXが出ていて、それが19,950円か。いける! この値段ならいける!

けど、この先、ちょっと高いDVD-BOX購入の予定があるので、今回はじっと我慢の子です。ええ、この作品は今買い逃したとしても、きっとまたいつか発売される。そんな気がします。だから大丈夫です。

イギリスの小説シャーロック・ホームズのシリーズを、登場人物すべて擬人化した犬に変えるとは思い切った演出でした。私は本放送の時、この犬の擬人化という手法を嫌って見ていなかったのだと思います。ですが、一度でも本編を見れば一瞬で恋に落ちる。それこそ、ハドソン夫人が誰からも愛されるように、私の友達といえる人たちは、みんなこの犬のホームズを愛しているのです。

主題歌もよかった。ダ・カーポが歌っている静かで優しい情感漂う佳曲は今も私の耳に残っています。BGMがよかった。羽田健太郎作曲の、コミカルでとぼけたような、けれどやはりこれも耳に心地よく馴染んで、私は好きでした。そして、広川太一郎のはまり役。主人公ホームズの独特の言い回しの小気味よさもあれば、他の登場人物もまた大変味わい深い人たちで、本当なら極悪人のモリアーティ教授でさえも人懐っこく、あのあたたかで気持ちよくさっぱりとした人たちを嫌いになれる人などいないんじゃないか。私はそう思います。

マスターピースという表現がありますが、このアニメこそはまさにその表現に恥じない大傑作で、だから私はこれを手もとに置いたとしても誰にも恥じることはないでしょう。そういうアニメは昔はたくさんあって、いや、今に傑作が生まれないといっているわけではないのです。ですが、私の好きだったアニメの時代は、これら『ホームズ』みたいなのが毎日毎週放送されていたあの頃でした。

CD

2006年1月4日水曜日

地獄の猟犬がつきまとう / Hell Hound on My Trail

 戌年だから犬特集、……はいいとしても、三が日を終えていきなり地獄の猟犬ときましたよ。犬なんて、それこそいくらでも出てきそうな題材で、なのに正月からHell Hound。もうどうしようもないですね。実際の話、他にも二三候補はあったはずなんですが、なんでか今のこの瞬間に頭に残っていたのがこれだけで、だからしかたがない。まあ、昨日の『アンダルシアの犬』の時点で逸脱していたといえば逸脱していたので、もうどう繕おうと手遅れという気もします。

Hell Hound on My Trailは、近年、伝説的ブルースマンとして妙にもてはやされるようになったロバート・ジョンソンのブルース。ロバート・ジョンソンは今や漫画にもなって、そのタイトルも『俺と悪魔のブルーズ』。Me and the Devil Bluesという歌もあるんですね。もちろんロバート・ジョンソンのブルースです。

Hell Hound on My Trailは二分半そこそこの短い曲で、けどロバート・ジョンソンの時代に録音された曲で何分も延々繰り返されるなんてのもないから、それが普通の長さ。技術的な制約であるといったほうがいいかも知れないですね。その当時のレコードはあんまりたくさん吹き込めなかったんです。

その当時の、モノラルの、音もあんまりよくない録音が、今では普通にCDで買うことができて、私も持ってるんですが、このプリミティブそのものといった感じの歌が多くの人に影響を与えたんだっていいます。こういう話になるといつも引き合いに出されるのがエリック・クラプトンで、この人もHell Hound on My Trailを録音しています。

歌の内容は、ちょっとクリスマスが関わっていたりするのですが、毎日不安でいてもたってもいられないとばかりに切迫した感情が歌われていて、女が必要だなんていうんですが、それはつまり今が孤独なんでしょう。孤独の中で追いつめられた気持ちになっている歌は、妙に淡々として、寂しげで、独特です。多分、ロバート・ジョンソンを知らない人が聴いたら、そのあまりのセンシティブな様に驚くかも知れません。一人で、地獄の猟犬に追われるような不安にさいなまれるという、その神秘性も手伝ってのことかも知れませんが、とにかく独特な雰囲気のある歌であると思います。

Book

2006年1月3日火曜日

アンダルシアの犬 / Un chien andalou

 戌年犬特集三日目です。

本日紹介しますのは『アンダルシアの犬』。オールド映画ファンならご存知であるかと思います。かのシュールリアリズムの巨匠サルバドール・ダリが脚本に関わっていることでも知られるこの作品は、それ以上に、内容のシュールさがものすごく、まさしく強烈なイメージの海。もう、一回見たら忘れられませんから。

内容について触れようと思っても、イメージの断片についてしゃべるのが精いっぱい。だって、ストーリーがあるわけでなく、そもそも各シーン各シーンの連続になんの意味や関連があるかわからない。いや、多分わからなくて正解なんでしょう。それこそ悪夢そのものといった映像世界が広がっています。

私は学生時分にこの映画を何度も何度も見て、それはなんでかといいますと、これはトーキーじゃないんですよ。だからBGMはビデオ制作者次第でありまして、それこそ版によって全然違った音楽がつけられています。音楽によって内容はいかに違って感じられるかというのを知るために、何種類もの『アンダルシアの犬』を見たのでした。けど、どれを見ても内容の強烈さは変わりませんからね。直視しにくい場面もあれば、なんだかシュールさが極まって笑ってしまいそうになるシーンもあって、けど基本的には人間の嫌悪するものがつまってるような映画ですから、見る人は選ぶでしょう。でも、一度でも見たら忘れられない。忘れようとしても忘れられない、まさに名画であると思います。

この映画、たった17分、短い映画です。それに三千円以上を払えるか。私は微妙ですが、でもテレビとかではきっとやらないタイプの映画です(やるとしたらNHK教育とかBSくらいかなあ)。だから、実をいうと欲しいんですよね。たまにはあの強烈なインパクトに触れたいと思うこともあるのです。

あ、そうだ。この映画、タイトルに犬という言葉が含まれてはいますが、本編には犬、出てきませんから。そういうところも含めてのシュールなのでしょう。

DVD

VHS

2006年1月2日月曜日

春の猟犬

 戌年なので、犬にまつわるものを紹介しています。

吹奏楽をやっていた人には懐かしく感じられるかも知れないタイトルに『春の猟犬』というのがあります。作った人はアルフレッド・リード。吹奏楽作品を多数書いている作曲家で、現在のレパートリーには欠くことのできない名前です。その彼の作品の中でも人気の高い『春の猟犬』。ええ、私も何度かやったことがあります。けど、一番しっかりとやったのは、大学に入ってからじゃないかな。そういや、中学高校ではやったことがなかったような気がします。

序曲『春の猟犬』は、聴いた感じにはトリッキーな変拍子の曲に感じられるのですが、実際にやってみると意外にちゃんとした小節線が引かれていて、はじめて楽譜を見たときに私はその整然とした様に驚いてしまいました。しかし、それ以上に驚いたのは演奏の難しさで、拍節感とかをちゃんと意識してやろうとすると、えらい難しいんです。でも、耳で覚えたのをなぞるだけというのはなんか許せないものがありますからね、必死で練習して、で、それでうまく演奏できたかどうかは、どうなんでしょう。あんまり自信はないのですが、なんとかなっていたとしたら嬉しいです。

聴くとやるでは大違いという曲はたくさんありますが、自分にとっては『春の猟犬』がその筆頭といった感じで、はっきりいって舐めていたものですから、すっかりしてやられた。どんな曲もいい加減にやっていいってもんじゃないのだなあと反省しました。

アルフレッド・リードは中高吹奏楽部とかでもよく取り上げられますが、アクセントや強拍の移動が多く、変拍子も頻繁に使われるものだから、ちゃんとやるのは実は難しくて、だから私は長いこと、それっぽくやってただけだったんですね。それを気付かせてくれたのは『春の猟犬』と、この曲をやることになった吹奏楽の時間。いろいろと学ぶところも多かった。今になってみると、あれらは確かに貴重な時間であった、そんな風に思います。

ところで、私ははじめてこの曲のタイトルを聞いたとき、意味がまったくわかりませんで、それで人に聞いたら、犬の猟犬っていわれて面食らいました。原タイトルはThe Hounds of Spring。そのままです。

英語では春の猟犬という言葉にそれなりの含みがあるようで、でも私にはちょっとその背景を見通すことはできないから、残念ですね。本当に残念だと思います。

2006年1月1日日曜日

まりといっしょ

 新年明けましておめでとうございます。今年は戌年。そんなわけで、ちょっと犬に関係したものを取り上げたいと思います。

たかの宗美は、これまでも散々いってきましたが、私の好きな漫画家の一人です。そのたかの宗美がつい先達て『まりといっしょ』という単行本を上梓されて、おや? 奥付を見れば2006年1月10日って書いてある。本では実際の発売日と奥付の日付が違っていることが往々にありますが、これもそうした類いなのでしょう。しかし、戌年正月に犬の漫画が出版とは、なかなか縁起のよい話なのではないでしょうか。『まりといっしょ』、柴犬のまりが主人公の、西洋アンティークショップ四コマです。

まりが主人公といいますが、実際のヒロインは西洋アンティークショップ人形の夢の店主美幸さんですね。基本的な登場人物は美幸さんにまり(本名マリアテーゼ)、そして人形の夢の隣で喫茶店を営むキリタの三人。後は店のお客といったところでしょうか。この最小構成ともいえる人数で、細く長く続けられてきたのがこの漫画であるようです。

で、ここで重要なのは美幸さんの性格なのだろうと思います。美幸さんは西洋骨董なんて扱うから、エレガントで夢見がちな女性、だなんて風貌を与えられてはいるのですが、実体はそうした印象とはまったく違っていて、まさにこれこそがたかの宗美的であると思うのですよ。たかの宗美的とは、乱暴で強引といったらいいのかな。こんな言い方をするとなんだか悪口みたいですが、やり手でさばけているといえば悪くはないでしょ。腹の割って話せる気の置けない友人といった感じが、この美幸さんからもするのですね。

多分、こうした雰囲気というのは、作者の人となりが反映されてこそのことなのだと思います。といっても、私は作者の知人でもなんでもないのですが、でも、単行本カバー折り返しなどに見える著者近況(?)なんかを見ていると、きっとこうした漫画に出てくるちょっと強引でけれどすかっと気持ちのよいヒロインたちに通じるものをお持ちであるように思えてくるんですね。

とはいっても、勝手に人間像まで構築されてしまうのだから、作者というのは大変です。たいへん失礼いたしました。

  • たかの宗美『まりといっしょ』(エメラルドコミックス) 東京:宙出版,2006年。