2006年6月30日金曜日

安部窪教授の理不尽な講義

 いやはや、世の中にはいくらでも私の知らない、面白いもの、ことがあるのだと思います。私は『安部窪教授の理不尽な講義』なる漫画の存在を知らなかったし、その作者である滝沢聖峰という人についてもまったく知らなかった。けれど、帰りに寄った書店にてこの漫画を見つけて、その背表紙、おそらくはタイトルに興味を引かれて立ち止まって、そうしたら立ち読み防止用の透明の帯が付けられていなかったのです。私は引き寄せられるままに本を手に取り、ざっと一話を荒く読んでみて、買おうと決めた。そうですね。それはなんでかといえば、この安部窪教授とやらのスタンスにやられたのでしょう。そう。私は幽霊をはじめとする怪奇があってかまわないと思っています。ただそれを怪奇として放っておきたくないとも思っています。知りたい。明らかにしたい。懐疑心を常に抱きながら、現象を明らかに見ようというスタンス。ああ、格好いいじゃないの。と、私はこの教授のキャラクターにこそ惚れてしまったのでしょう。

しかし、つくづく漫画にせよなんにせよ、大切なのはそのアプローチであるなと思うのです。『安部窪教授の理不尽な講義』はスタイルとしては非常にありきたりであるのですが、というのは、変わり者で趣味人の教授が、よくできた女子学生と軽い男子学生をともに、奇妙な現象の謎を解くというパターンが基本形としてあって、男子学生が狂言回しを演じているという点でもよくあるケースであろうかと思います。

けど面白い。おそらくこの作者は、よくあるスタイル、形式などなどを持ち寄って、アサンブラージュするみたいにしてこの漫画を作ろうとしているのでしょう。でもこのやり方は、過去に積み上げられた様式美を利用できるというメリットのある反面、ありきたりという印象を与えかねない危険もあって、けれどこの漫画に関してはうまくそのあたりを処理して、オリジナルの風合いを出していると思います。そしてそのオリジナリティは、作者の手跡そして工夫に発しているのだと思います。

工夫は、教授に持ち込まれる事象の見せかたと、その事象に対する教授のアプローチにあるのであろうと考えています。いやそうかな。それらも結局は突き詰めればなんらかの類型の中に解消されそうなものであろうかというもので、しかしそうした類型の集積になりかねないところがよい塩梅でもってオリジナルとして成立している。やはりこれは、作者の手跡が少しずつこの作者のらしさを作り上げているとしか言い様のない世界であると思います。

けれど、この漫画の一番の楽しみといったら、好奇心旺盛で深い洞察と多彩な特技を持ったタフなおっさんが、どんな風にかっこうよく描かれるのだろうかという、そこにこそあるのではないかと思います。うん、これはあれだね。おっさん萌えの漫画だと思う。教授の活躍を楽しむのが一番面白い漫画であると思います。

ところで思ったんだけど、教授とよくできた女子、できの悪い男子の構図って、昔の学習漫画を彷彿させますね。させませんか? そう思うのって私だけ?

2006年6月29日木曜日

レナード現象には理由がある

 川原泉は、なんか雰囲気がえらく違っちまったなあ、だなんて思うんです。絵がシャープになったというか、若干固くなってしまったというか。けど、見た目の雰囲気こそ変わってしまったけれど、その漫画の醸し出す雰囲気にはやっぱり川原色があるのだとも思います。よりよく生きようと、不器用ながらもがんばる人のささやかな喜びがつまっている。決して大それた仕合せやなんかを欲しがるのではなく、自分の身の丈にあった仕合せを求める人たちの物語なのだと思います。大きすぎず、また小さすぎず、あつらえの身にきっちりとあった服の気持ちよさがあるといったらよいでしょうか。こうした仕合せのかたちを称して小市民的というのかも知れないけれど、不相応に過分な富やらなにやら求めて、いつまでたっても満ち足りない不安を思えば、小市民的のなにが悪いのか。他の誰がなんといおうと、自分の求める仕合せをきちんと見つめられる人こそが人生をよりよくいきる人なのだと、川原の漫画からはそうした哲学が感じられます。

そして私はそんな川原漫画で満ちたりるのですね。『レナード現象には理由がある』は表題作の他に、「ドングリにもほどがある」、「あの子の背中に羽がある」、「真面目な人には裏がある」を収録して、これらはそれぞれが独立した短編でありながら、ひとつのシリーズとしても機能しています。無類のエリート校、私立彰英高校を舞台にして、けれど「レナード現象」、「ドングリ」を除いては、あんまりそうしたエリート校うんぬんといった設定は表に出てこないよね。もう、普通の、川原的ほのぼのペースに持ち込まれてしまって、けどこのちょいと穏やかにしてのんびりがいいんだ。川原はアップダウンの大きな物語を描いたりもするけれど、けどその本質にはこの穏やかさがあるのだと思います。きっと最後にはうまくいくさ。きっと最後には報われるよねと、思わずそう信じたくなる人のいじらしさというのが川原色です。

さて、白泉社のいうにはこの本はちょっぴり変わった4つの恋のお話なのだそうですが、そうだったのか! ってわざとらしく驚いてちゃいけませんやね。けど、川原泉の漫画って、ラブコメのようでラブコメのようであらずけど実はやっぱりラブコメという、友達以上恋人未満的なシチュエーションが多くて、そういうところがなんだか私は安心してしまってほのぼのと嬉しくなってしまいます。とはいっても、白泉社のいうように、この漫画ではそれぞれの話の主人公たちがちょっとしたできごとをきっかけに近づいて、相手を見直してみたり、必要と感じてみたり、憧れを深めてみたり、誤解をといてみたりの結果、とても仲よくなってみたりして、けどそのなんだか変に健全で、なんだか変に落ち着いた様が面白くて、このちょっと枯れたみたいなカップルのありかたというのはむしろ理想的かも知れないね、なんて思います。

でもそうかと思えば、「真面目な人には裏がある」の最後の最後のト書き。すっごく意味深だよなあなんて思ってにまにましたりさせてくれちゃったりなんかして、でもまあとにかくいい話ばっかだよなあ。

食欲魔人シリーズみたいにして続いてくれたら嬉しいななんて思っていたら、人気あるんでしょうか、『メロディ』10月号には「その理屈には無理がある」が掲載されるらしくって、ああこのタイトルのつけかたを見れば関連作っぽいじゃありませんか。私がこのシリーズを好きと思ったように、同じく好きと思っている人がたくさんいるということ。ささやかだけど、本当に嬉しいことだと思います。

引用

  • 白泉社の最新刊

2006年6月28日水曜日

さんさん録

  税金を納めに市役所にいくついでにと、漫画に強い書店にも寄ったのでした。って、実は嘘。税金の方がついでだったというほうがきっと正直で、今日は『さんさん録』の発売日だったから、どうしても本屋にはいっておきたかったのです。『さんさん録』を描いたのは、このBlogにおいて何度もそのお名前を紹介してきたこうの史代。優しくやわらかでしなやかで健全で、ときにぴりりと一味かえて懐の広さやいたずらっぽさも披露されるところが実に楽しい。そうですね。昨日の表現を使うなら、私は間違いなくこうの史代という作家についたファンです。だから、きっと間違いなく『さんさん録』も手もとに置こうというのです。

『さんさん録』。このあまりに不完全な人たちを描いた漫画。しかしその完全でない人たちっていうのがこれほどに魅力的に映るのはなんでなんだろうと、そんなことを思うのです。考えてみれば、こうの史代という人の漫画に出てくる人というのは、みんなどこか引っ込み思案だったりして、自信に満ちあふれている人というのはない感じなんですよね。けど、これはそうした人たちが卑屈だとか駄目だとか、そういうことを意味しません。自分のことに自信を持てなかったり迷ってしまったりはあるけれど、けれどそれでもこういう自分が自分なんだと自然に受け入れているというような、そういう強さがあるように感じています。そして多分この強さは、こうの史代という人がその芯に、支えみたいにして持っている強さなんじゃないのかななんて思うのです。

正岡子規という人が『病牀六尺』という本の中で、悟りということを誤解していたといっています:

悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。

そうなんですよね。そして私はこうの史代の漫画からは、そうして平気に生きている人の強さを感じるのです。

とはいっても、人間というのは弱いものだから、いつでも平気というわけにはいかないし、そしてそのいつでも平気でいられないということをよく知っているのがまたこうの漫画であると思います。弱さを知っているから、誰かを好きになろう、好きになりたいという気持ちも涌くのだろうし、そして誰かの悲しみだとかつらさとかを放っておけない気持ちにも繋がるのだと思うと、こうの漫画の優しさ、やわらかさはここに発するのであるなと思わされます。

けど、本当のところをいうと、私が『さんさん録』2巻を読み終えて本当に思ったのは、なんて自分は不完全なんだろうということ。誰も愛さず、誰からも愛されず、自分で決めたことすら守ることのできない薄弱な人間で、けれどその弱さゆえに誰かを愛したいと思うのだということに気付いた。そして、やはり私はこうの史代はただ者ではないと。『さんさん録』においては苦手を描こうと自ら高いハードルを設定されて、そしてそいつを見事に越えてみせられた — 。

私は『さんさん録』は、生きるということを真っ当に真っ正面から真面目に描いた、泣き笑いの素敵な漫画、傑作であるといってはばかりません。

  • こうの史代『さんさん録』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。
  • こうの史代『さんさん録』第2巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。

引用

  • 正岡子規『病牀六尺』,「病牀六尺」からの孫引き。

2006年6月27日火曜日

ちびでびっ!

 えー、ファンと一口にいいましてもいろいろございまして、作品につくファンがいるかと思えば、作者につくファンというのもございます。で、私はといいますと後者のたちでありまして、前々から申しておりますとおり、これだと思うところがあらば、その作者の既刊を集めて集めて集め倒してしまう。そういう類いの、作家からしたら非常にありがたい金づ……、げふんげふん、けど一歩まかり間違うと頭にスのつく困ったちゃんにもなりかねない、ありがたかったり迷惑だったりという、微妙なタイプなのですね。

さて、『ちびでびっ!』という漫画。これが私にとっての寺本薫初遭遇でありまして、おおっ、なんだかいいじゃんと、なかなかにくるものがあったのです。で、私の困った習性から、全部集めちまおうという意欲が出たのですが、その時点で刊行されていたものはなし。で、後に出た『ふるーつメイド』ですが、なぜかこれには手が出ませんでした。なにがいけなかったんだろう……。メイド? あるいは主人公に尽くす女性というのがいかんとでもいうんでしょうか?

その点、『ちびでびっ!』は尽くすというような要素が少なくて、だから私もはまりやすかったのかも知れないですね。基本的に気ままな母、姉、同居人、友人ばかりが出てくる漫画で、そうした人たちに振り回されるヒロインの悲哀たるやいかなるものであるか。そう、この漫画の主人公は女性なんですね。凛々しいタイプのヒロインで、女の子からモテモテでという、最近はやりの百合ものとまではいかないものの、けどどことなしにそうした空気をまとわりつかせているのはうまいところであると思います。

私は寺本薫という人に詳しいわけではないのでいいきることはできないのですが、多分、この人は基本的なお約束を守ろうとするタイプの漫画家なのだと思います。例えば『ふるーつメイド』では、メイドとご主人様という定型を使い、そこにツンデレであるとかどじっ娘であるとかを配置する。こうした約束ごとがはまれば強い訴求力を持つのではないかと思いますが、残念ながら私にはこの定型が決まらなかったのです。対して『ちびでびっ!』はどうかというと、軽度の百合っぽさというのはすでにいいましたが、これに加えてツンデレ要素を多分に加えて、基本的に私はツンデレとやらには興味がないのですが、けれどなんでか『ちびでびっ!』に関してはこれが効きました。いや、ツンデレじゃないか。ちょっといびつな恋愛模様に、かわいい嫉妬を加えましたって感じなんだと思うのですが、こうしたラブコメであってラブコメでなく、けどやっぱりラブコメというようなところがとてもよかったのだと思います。

さて、『ちびでびっ!』第1巻には販促用小冊子が付けられていまして、それには凛子とラキの小エピソードが入っていて、このちょっといつもより百合色強めというのは非常にいい感じでした(けど、私にはあと三段くらい突っ込んでくれてもよかったかなあなんて思います。直球というより微百合ですよね?)。

小冊子は、私のいつもいっている書店、グランドビル30階の紀伊国屋書店にて入手。まだ残っていましたので、例によって例のごとくお知らせまで。

蛇足

残念ながら、いつものような蛇足って感じじゃないので、はてどうしたものか。特定のキャラクターが、というよりも、登場人物全体の関係が醸し出す空気が好きって感じです。

  • 寺本薫『ちびでびっ!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年6月26日月曜日

卒業アルバム委員長の窓

 写真を趣味にしている人はたくさんあって、それぞれが抱く写真への思いはさまざまです。写真という、瞬間を切り取るそのものが好きな人。カメラという精密にして精巧な機械に魅せられた人。被写体が好きな人もいるだろうし、写真を撮る自分が好きな人もいて、これは十人十色といっても差し支えないのではないかと思います。私自身、写真を撮りますが、それはなぜかといわれると、一口にはいえないものがあります。流れる時間、移ろう季節の中に暮らして、一向にかえりみることのなかった自身を反省してカメラを手にした、 — 刻一刻とありようを変える世界を感じていたかったのだといえば、あまりに格好付けすぎだと思います。けれど、一番最初にカメラを手にするきっかけとなった瞬間ははっきりと覚えています。あの朝、電車の窓から見た風景、その風景を見つめていたいと思った。その風景を見つめる目になりたかった。そうした思いが募って、私ははじめてのカメラを買ったのでした。

『委員長お手をどうぞ』は「卒業アルバム委員長の窓」のヒロイン、実田花乃([みのるた]じゃなくて[じった]です、でもミノルタだよね)のスタンスというのは、もしかしたら私に似てるのかも知れないなあと、この話を読むたびにどきりとして、嬉しくなったりどぎまぎしたりと大変です。なにがこんなにもドキドキさせるんだろう。それは多分、一歩世界から距離を置いているようかのようにクールである花乃が隠している情熱、高揚が伝わるから、だと思います。

花乃はいいます。

わたし
みんながどんな風に世界をみているのか
ずっと知りたいと思ってた

写真というのは本当に不思議なものであると思います。その時、世界に向けた思いをそのまま凝縮するようにして結実する写真は、その思いをありのままに残すのです。あの止まった画面に、強く生き生きと結晶する誰かの思い。私は写真を撮り、その写真を見る人は私の思いを感じてくれるだろうか。そして、あなたの写真を通して、私は他でもないあなたの思いを知りたいと思う。写真にはそうした色合いが確かにあるのです。

私は花乃の言葉に、私が思ってきたことがあからさまにされているのを見て、きっとこの人は私の思いを受け取ってくれる、そして私はこの人の思いを受け止めたいとそのように感じたのです。そしてドキドキと胸が高鳴る — 。写真とは、そうした交歓を確かに媒介します。

そして、牧名二子の存在が秀逸でした。花乃が世界を見つめる視線として写真に関わるのだとすれば、二子は対象への思いゆえに写真に関わったのではないかと思うのです。花乃の思いが世界を捉え尽くしたいというものであらば、二子のそれはあなたに触れるほどに近づきたいという思い。ここに写真の究極的な思いの両極が出会って、響きあうかのように感じられて、そして私はこの一連のシーンの描き方にじんとする。そう、写真というのは究極的には愛だと思うのです。あなたへの愛、世界への愛。その立つ位置、スタート地点は違ったとしても、きっとゴールはおんなじなのではないかと、そのように感じさせたこの漫画は、限られた紙幅でもって写真の本質、人の思いのありようを充分に描いてしまった — 、とそんな風に私は思います。

  • 山名沢湖「卒業アルバム委員長の窓」,『委員長お手をどうぞ』第2巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2005年。

引用

  • 山名沢湖「卒業アルバム委員長の窓」,『委員長お手をどうぞ』第2巻 (東京:双葉社,2005年),148頁。

2006年6月25日日曜日

はれた日は学校をやすんで

  『はれた日は学校をやすんで』。私が好きだったころの西原理恵子がここにはあります。遥かなる叙情性。心の揺れ、マイノリティの悲しみがここには描かれていて、しかしただ悲しむばかりではなく、その心揺れ動く季節に空を見上げるような悲しみに向けられた視線のあたたかさ。マイノリティというのは、ここでは、大勢に溶け込むことのできない人のことと捉えてくださるとよいと思います。人の和に入ろうとしてはいれない人。皆の中に入りたいと思うのだけど、あるいは入っているのだけど、そこになぜか落ち着くことのできないタイプの人間というのはあるのです。私もそうです。けれどひとりぽっちが楽しいわけもないのです。どうして自分は皆と同じにすることができないんだろう……。そういう悩みに直面したことのあるという人は、きっと少なからずあると思います。

そうした悲しみを共有できる人には、きっとこの漫画は優しく、懐かしく、そして暖かく感じられるのではないかと思います。傷つきやすい心がそっと、けれどそのままにまっすぐ描かれていて、ああここには私のもうひとつの心があると、そのように思えるのではないか。そんな風に感じることもあるのではないかと思います。

あまりにナイーブすぎるこの漫画に触れて、西原理恵子という人の過激さとのギャップに戸惑う人もあるのではないかと思いますが、けれどこのナイーブさは過激さと表裏一体にあるのだろうと私は思います。ナイーブであるがゆえに、あたりさわりのよい適当を選ぶことができなかった。表現するに際して、開き直りともいえるめちゃくちゃさを選択してしまわざるを得なかった。そうした過激さ、アグレッシブな表現に傷つきやすさを隠しているのだと思うのです。そしてその過激さは再びナイーブでデリケートな心象に返っていくのだろうと思います。

誰しもの心に訪れる傷つきやすい季節。私はその季節から未だ抜けきれずにあって、そうした顔を隠すべくさまざまな手練手管を身に付けて、そうした人はきっとたくさんいるでしょう。けれど、ときに深く色濃く立ちこめる悲しさに胸がいっぱいになっているときには、たくさんいるはずの思いを同じくする人のことを忘れてしまいがちです。自分以外の皆はなんの問題もなく普通にいられるのに、自分ばかりがこんなに悲しいなんて……。そんな風に思うときには、この本を手にするのがよいのではないかと思います。私は、そしてあなたはひとりではないと、その悲しい思いを言葉にせずとも共有している、顔も名前も知らない友人がきっといることを思い出させてくれる。『はれた日は学校をやすんで』とは、そうした本であると思います。

2006年6月24日土曜日

武術の創造力

  私は甲野善紀という人が好きで、テレビやなんかで見ると、すごく得した気分になれるのです。なにが得かというと、動いている甲野善紀が見られるということ。古武術を通して身体を再発見、再構築していった甲野善紀が、その所作をあからさまに見せてくれるのですよ。現在、私たちが当然のように思って、疑問をさしはさむこともしない動きの常識を真っ向から崩してくれて、すごい!

私の、人やなにかを好きになる条件のうち最大のものはなにかというと、私の知や思いが届かない世界を垣間見せてくれるということなのです。自分はこんなにも知っていなかった、まったく考えがいたらなかったということを思い知らせてくれる人。甲野善紀はまさしくそうした私の敬愛して已まない人物のひとりであります。

で、『武術の創造力』を取り上げてみたわけですが、それはなんでかというと、たまたま手に取ってしまったからというのが最大の理由です。実は、テレビで甲野善紀がいろいろやっているのを見てしまって、もう嬉しくてたまらなくなってしまって、甲野本でなんでも書いてみたいと思ったのでした。実は以前『ちちんぷいぷい』で古武術を介護に応用するというのを見たときにも同じように思ったんだけど、この人の本に書いて、テレビやなにかで話して、そして実践していることについて、わかったわかっているとは到底思われないものだから躊躇してしまって書けなかった。だから、今日はなにも気張ることなく、手に取って読んでしまった本『武術の創造力』でいいやと、そんないい加減な理由で決めました。

『武術の創造力』は時代劇、時代小説なんかが好きで、はまってしまっている人にはきっと面白いのではないかと思うのです。甲野本では身体の使いかたがメインになることが多く、そしてそれは『武術の創造力』においても同様なのですが、けれどこの本はそれだけでなく、日本の刀剣についての知識、常識、そして逸話やなんかがちりばめられていて、面白い。私は高校に通っていた時分に日本刀に興味を持って、図書館でいろいろ読んでみたりして、だから当時は刃文の種類とか沸、匂がどうたらこうたらとか、結構覚えたりしていたんですが、なにしろ読んで覚えただけの知識だからすぐに抜け落ちまして、いまでは村正茎やら三本杉やら、そうした特徴的なところしか覚えていません。日本刀を振ったこともなければ持ったことさえないのですからそうしたこともしかたがないとあきらめてしまっていますが、けどそうした半端知識の私にさまざまな実際の感覚も含めて教えてくれるこの本はすごくありがたく面白いのです。

この本は甲野善紀ひとりで書かれた本ではなく、多田容子との対談になっています。多田容子は柳生十兵衛を主人公とした『双眼』でデビューした作家ですが、このデビュー当時の印象があんまりに独特だったから、普段ハードカバーを買うことの少ない私が珍しく買ってしまっているんですね。で、今回の本も多分多田容子だったから買ったんじゃないかと思います。書店の店頭で多田容子と甲野善紀の名前がそろったこの本を見て、なにしろ多田容子は自身手裏剣を打つという人ですから、こりゃ面白いに違いないと思って、この直感は間違っていなかったと思っています。

多田容子の興味や個性、やっていることがうまく加わって、他の甲野善紀本にはない味が出ている本であると思います。甲野善紀をまだ知らないという人には向かないかも知れないけれど、甲野善紀を知っていて、時代劇にも興味があって、より深く広くを求めたいという人にはよい本なのではないかと思います。

そうそう。昨日取り上げていた『燃えよ剣』についても少し触れられています。このことについてもちょっと嬉しくなったので、余談ながら。

2006年6月23日金曜日

燃えよ剣

   新撰組について興味が出たら、まあこの本から読んでみるとよいよといわれるスタンダード中のスタンダードというと、やっぱり司馬遼太郎の『燃えよ剣』なんだろうと思います。実際、新撰組に関するブックガイドなんてのを見てみるとまず間違いなく『燃えよ剣』は入っているし、そもそも新撰組に関する記述を追えば、そこかしこに『燃えよ剣』の影を見つけることができます。その語り口であったり人物像だったりに、司馬遼太郎の影が見える。『燃えよ剣』の影響力は絶大であったのだと驚くほかないですね。

でも、読んでみればわかるんです。なんでこれだけの影響力を持つにいたったか。面白い。人物が生き生きしている。そして土方が格好いいんですよ。新撰組という組織をただただ強くすることを目的に生き、そして新撰組をもろとも抱いて転戦転戦、ついに箱館の地に斃れる男土方歳三義豊の姿のまぶしさよ。この本を読むと、まあ土方ファンになるでしょうよ。それくらい魅力的に書かれていて、実際あれだけ隊士を率いていた隊の副長であったのですから、カリスマも並々ならぬものがあったのだろうと思います。

実をいうと、私は最初、それほど新撰組は好きではなかったのですよ。というか、アンチだった。瓦解寸前までに古びてしまった旧体制を守らんとする彼らの姿に、私は多少のロマンを感じつつも、時代に取り残された、変化についていけなかった者たちの固陋さを思ったのです。けれど、この本を読んでみると、多少なりとも見方が変わる。むしろ土方たちに同情的かも知れない。特に後半分のくだり。主に捨てられるようにして行く先を見失おうとする隊は解体の憂き目に遭い、しかしその逆風に敢然と突っ立ち自らの進退を明らかにしてゆく土方歳三はかっこうよくて、生き方としては不器用なのかも知れないけれど、その意固地なまでに自分の生き方を貫こうとする姿には憧れさせるものがあります。浮き草のように目的もあやふやにあちらこちらふらふらとする私のような人間には、まぶしすぎるくらいにぎらぎらと輝いていて、やっぱりこの本を読むと土方歳三にとりつかれるのだと、そう思わないではおられません。

  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』上 (新潮文庫) 東京:新潮社,1972年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』下 (新潮文庫) 東京:新潮社,1972年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』東京:文藝春秋,1998年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』上 東京:文藝春秋,1973年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』下 東京:文藝春秋,1973年。
  • 司馬遼太郎『新潮現代文学』第46巻 東京:新潮社,1979年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』第1巻 (大活字本シリーズ) 東京:埼玉福祉会,2005年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』第2巻 (大活字本シリーズ) 東京:埼玉福祉会,2005年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』第3巻 (大活字本シリーズ) 東京:埼玉福祉会,2005年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』第4巻 (大活字本シリーズ) 東京:埼玉福祉会,2005年。
  • 司馬遼太郎『燃えよ剣』第5巻 (大活字本シリーズ) 東京:埼玉福祉会,2005年。

2006年6月22日木曜日

Bedtime Puzzler

 私はナムコのゲーム『もじぴったん』が大好きです。PS2版はずいぶん以前に買ったというのに、時間がなくてほとんど遊べていないのが残念で、しかも途中でどうしてもクリアできなくなった状態で頓挫しているというのも心残りで、余裕ができたらまた遊びたいなあ。ちょっとずつでいいからクリアしていって、いずれは全ステージを終了させるのが私のささやかな夢となっています。

さて、その『もじぴったん』。音楽が素晴らしいと繰り返すようにいってきました。そしてBedtime Puzzler。以前私が聴いていて、涙がこぼれそうになるといったこの曲、当然のように胎教のためにとセレクトした音楽の中に収められて、重要な位置を占めています。

なんだ、なんだ、胎教ミュージックだとかいってるの、アニメやゲームばっかりかよといえば、そういうわけでもないんですよ。Jazz, Folk, Classicalとできるだけまんべんなく、偏りないように選んだのですが、そうした中にどうしても載せたいと思ったのが『この愛を未来へ』でありRaspberry HeavenでありBedtime Puzzlerであったのです。これはもしかしたら、胎教=リラクゼーション音楽=クラシカルといったような風潮への反抗なのかも知れません。でも、たとえ反抗なのだとしても、私はこれらの曲が、数百年を淘汰されて残ったクラシックの名曲に劣るものだとは決して思いません。富士に月見草どころの話ではなく、どれも違ってどれもよいでもなく、負けていない。音楽の優劣、価値は勝負ではないのだけれども、だとしたら、これら小品は小品なれどマスターピースに匹敵する実質を持っているのだと、そんな風に思うのです。

こんな小難しい小理屈は抜きにしても、Bedtime Puzzlerは美しい。さいわいなることに、ナムコ『もじぴったんうぇぶ』はおまけコーナーダウンロードページにてMP3のダウンロードが可能です。もし試聴して、よいと思ったら、サントラを購入するのもよいかも知れません。本当によい曲が次から次へと飛び出してくる、素敵なアルバムに仕上がっているのです。

参考リンク

引用

2006年6月21日水曜日

Raspberry Heaven

 胎教ミュージック、だいにだーん。今日はRaspberry Heavenの紹介です。もうこの曲についてはあれこれ説明する必要もないんじゃないかと思いますが、かの有名な漫画『あずまんが大王』がアニメ化されたときにEDテーマとして使われたのがRaspberry Heavenでありました。OPテーマの『空耳ケーキ』も素晴らしかったとは思うのですが、こちらは少々元気すぎるかも知れない。というわけで、穏やかでロマンティックで、なんだか聴いているうちに涙がこぼれそうになってしまうRaspberry Heavenを選んだのでした。

Raspberry Heavenは本当に美しい本当によい曲であると思うのですよ。『空耳ケーキ』だっていいですよ。けど、私にはRaspberry Heavenがすごく耳に残り、あのアニメを見て、なにはなくともこの曲だけは手にしなければと思った。そしてマキシシングルを入手して、聴いて、そうしたらやっぱり素晴らしい。詞もよい、メロディもよい、アレンジもよければ、その歌声もよくて、ここ数年における大ヒットであると思ったものでした。

変拍子といえば『空耳ケーキ』にこそ顕著ですが、ところがRaspberry Heavenにおいても拍子の工夫がされていて、それはリフレインにおけるヘミオラ。ヘミオラとは3拍子の曲を2拍子で取ること、またはその逆Raspberry Heavenのリフレインでは2拍子系と3拍子系の異なるリズムが、一小節ごとに交代してあらわれ、独特の推進感を生みだすことに成功しています。メロディはポップに跳ね、そうかと思うとしっかりと拍を刻み、この緩急の妙! 音楽の魅力はリズムにこそ生まれる。音楽の根源であるリズムを実によくつかんで膨らませることに長けた人たちであると感心しました。そして、そうした理屈でははかれない、大変な魅力を持ったこの曲を知ることができてよかったと、本当にそんな風に思ったものでした。

引用

2006年6月20日火曜日

この愛を未来へ

妊娠している人が、胎教にいい音楽を見繕ってよこせというのです。といわれてもなあ。胎教なんていうけど、結局は母親がその音楽についてどう感じるかが大切なわけだから、そんなに簡単単純なもんじゃないんです。本人が好きなもの、趣味指向、好みによって全然変わってくるわけで、じゃあそこでなにを選んだものかと考えれば考えるほど、無難な線に落ち着こう落ち着こうとするのが人情というもの。ほら最近モーツァルトがむやみに流行っていますが、そういう定番どころでお茶を濁そうだなんて考えも浮かんでこようというものです。

でも、同じモーツァルトでも、ちょっと一ひねりしたいよね。と、そういう向きには『この愛を未来へ』がうってつけであると思われます。

岩崎宏美が益田宏美だったころ、あるいはまだバブルの残照が残っていたころ、日本テレビ系で『ママは小学4年生』というアニメが放送されていて、このエンディングテーマが『この愛を未来へ』でありました。モーツァルトのピアノソナタ K. 545を(ほぼ)そのまま伴奏として採用し、そこへとうとうと流れる益田の歌声はあたたかで叙情的で、そしてまたドラマティックで、私の好きで好きでしかたがない歌のひとつです。だから、胎教だなんていったとき、最初に思い浮かばれるべきはこの歌で、きっと間違いなく私はこの歌を選曲の重要なポジションに配置することでしょう。この歌こそが核になるのです。

音楽として清浄で美しく、そして歌として親が子に向ける愛のひとつのかたちを真摯に写し取ろうとする思いに溢れるようで、内容実質としても母になる人が聴くにはふさわしいと感じます。

2006年6月19日月曜日

つかぬことをうかがいますが…

  この間、表紙のイラストのために本を買う、というようなことをいっていました。いわゆるジャケ買いみたいなもの? といえば似ているようでちょっと違って、というのもですね、ジャケ買いっていうのはジャケットでもって中身をはかり購入するということでしょう。ところが私の場合は、ジャケのみで買ってるといった有り様なのです。

まさしく表紙のイラストが目的で買った本。そういうものは過去にもやっぱり数冊あって、その中でももっとも表紙依存率が高かった本といえば、『つかぬことをうかがいますが…』であろうかと思います。

表紙の、表紙の女の子がかわいかった。眼鏡、ロングヘア、白衣、完璧だ……。いや、別にそういうフェティシストというわけではないんです。ただどうしてもこの表紙にはあらがえず買ってしまった。

表紙依存性が高いといいましたが、それでも内容に興味があまりにもないような場合、購入にいたらないのが私の中途半端といわれるゆえんです。だから、この本を購入した私にとって、書かれた内容は少なからず興味があったということに他なりません。内容は、身近にあるような疑問とそれについての回答。なのですが、答えている側というのはどういう人なんでしょう? それは一般有志なんです。イギリスの科学雑誌『ニュー・サイエンティスト』のコーナーで読者からの質問を掲載し、そしてその回答も読者からつのるというものがあるのだそうで、その成果がこの本なんですね。

読んでたら、思いがけない質問があって、また驚くような答えが返ってきます。この本の一番最初に掲載された質問、体が冷えることと風邪をひくことって、関係あるんですか? ないのなら、上掛けなしで寝たり、隙間風の吹きこむところで寝ると風邪をひく、とよくいうのはどうして? このまさしくのっけから驚きでした。だって冷やすと風邪を引くのは当たり前じゃんと思ってたら、その回答がまったく関係ありません。ええーっ! 私はてっきり後の回答者が否定してくれるものと思い込んでいたんですが、とんでもない。皆同じように答えるのです。そうかあ、身体を冷やすことと風邪を引くことは関係ないんだ……。まあ、身体を冷やすと体調を崩すというのは別のメカニズムだからのけるとして、確かに風邪に関しては冷えとは関係ない。納得したのでした。

こうした衝撃の質問と回答の連続で、わくわくしながら読み進めてしまう、そういう類いの本です。素朴な質問に親しみやすい回答。回答者によって見解が異なり、異論反論が提出されるのも面白く、こういう皆で和気藹藹としているその雰囲気からが楽しくてまた釣り込まれてしまいます。

私は気付いていなかったのですが、この本の続編が出ていたのですね。幸い同じイラストレーター(水玉螢之丞)、そしてまだ絶版にはなっていない模様。これは買わなくっちゃだわ。

引用

2006年6月18日日曜日

ハリー・ポッターと賢者の石

 今日はちょっと恥ずかしい話。

昔、新聞のテレビ欄に『ふしぎの海のナディア』の新番組予告を見て、添えられた白黒の小さなワンカット。こ、これは萌えだ! と思ったね(もちろん、当時にはこういう表現はなかった)。いそいそと第一話を録画すべくビデオをセットし、楽しみに見てみたら、それはジャンという少年! ああ、やられたっ。

それと同じことを後にも経験したのです。人気児童文学の映画化、話題作ですからテレビもがんがん押していまして、宣伝番組にちらりと見かけたかわい子ちゃんの姿(もちろん、この時点ですでに死語でした)。そしたら、それがハリーでした。ああっ、またかよ!

私はハリー・ポッターの原作を読まず、映画もテレビで第一作目だけを観たという、実に不熱心な人間なのですが、宣伝やらなんやらを見てみて思うのは、ハリーは第一作目のあのちんまいころが一番よかったよねえ、というもの。そしてこれはハーマイオニーにおいても同様で、テレビにてハーマイオニーを見たとき、こ、これだっ、と思った。ぼさぼさの髪、ちょっと意固地でへんこな性格。素晴らしい、完璧じゃないか。けど、ハーマイオニーもどんどん育って、なんか普通にきれいな娘に育って、つまんないなあ。こんなの私の愛したハーマイオニーじゃないっ、といわれてもハーマイオニーも迷惑だよな……。

ハリー・ポッター人気も一定のペースで落ち着いて、一時の非常な盛り上がりこそ見なくなりましたが、それでも人気は人気なんですよね。残念ながら私はまったく目を向けてこなかったので、それこそこの映画を一本見ただけというだけなんですが、あの映画だけでも面白かったと思ったのは事実です。イギリスの伝統の児童文学典型というのが見えるところも、ああそれっぽいなあと嬉しくなったし、基本的に健全で前向きである物語も好ましいと思った。いつか読んでみたい本ではあります。

ハリー・ポッター映画の旧作は今や千円で買えるまでになっていて、こうなればそろえてみてもいいかななんて思います。ちょっと文庫を買うような感覚で、かわいかった頃のハリーやハーマイオニーをいつでも見られるようにしたい、というとなんだかお稚児趣味でもあるんじゃないかといわれたりしそうですが、けどあの頃が一番かわいかったというのは誰もが口をそろえていうところであります。メインストリームに背を向けているつもりの私にしても、気付けば本流にあるのだなと気付く。幅広く訴えるいい子役である、そしていい配役を得たよい映画であると、そんな風に思います。

2006年6月17日土曜日

ニュースおじさん

その頃はテレビで『世にも奇妙な物語』というのが放送されていて、ちょっとした怪奇ものとか、ホラー、スリラー、ミステリーが人気を博していた時代でした。とはいっても、怪奇ものというのは古今東西常に人気のある題材ですから、この時代が特別だったというわけでもないんですけど。テレビで観る怖い話といえば、古典的色合いの強かった『あなたの知らない世界』が優勢だった時代が先にあって、ここに比較的ドライでおしゃれ色の追加された『世にも奇妙な物語』が登場してきたのですから、実に新鮮で、本当に大人気でした。私も見ました。当時は高校生だったか、とにかく毎週のように見ていたものでした。

さて、『ニュースおじさん』というのはなにかというと、『世にも奇妙な物語』においてドラマ化された怪奇短編でありまして、発端は妻がテレビのニュースにいつも出ているおじさんを見つけたというものでした。ニュースの関係者じゃないのか? などの夫の疑惑は、偶然でないとそこに居合わせないような現場であっても出ているなどなどの反証により次々クリアされていって、そしてその夫婦がドライブの途中、ニュースおじさんを見つけてしまったところからドラマは急転直下。きゃーっ、どうなるのーっ。

ごめん、この先はネタバレになるからちょっと書けない。

実をいうと、私、この原作になった短編をすでに読んでいたのでした。それは『奇妙劇場』というオムニバスに収録されていて、タイトルも同じ『ニュースおじさん』。しっかり覚えています。

で、それがドラマになるということで楽しみに見たんですね。それでその翌日、仲のよかった図書館司書さんとぶーぶー文句をいった。ラストは原作の方が断然よかった! 『世にも奇妙な』はなんでわざわざああいったいらん演出を加えるのか! ドラマの評判は散々でした。

ニュースおじさんというちょっと不思議な存在を登場させ、そしてそのおじさんに出会った夫婦の感じた心理的圧迫の描写、そしてあのぱっと世界が転倒するかのような見事なラスト。あれは面白かったです。全部通して読んだはずの『奇妙劇場』ですが、中身を思い出せるものは今や『ニュースおじさん』くらいしかなく、それくらい印象的であったと思っていただければありがたい。面白かったですね。また読んでみたい好短編であると思います。

2006年6月16日金曜日

グレン・グールド著作集

今日撮った花の写真が青くて青くて困ってしまったのでした。現実にはむしろ紫だというのに、写真にすれば鮮やかに青く写ってしまって、これはカメラの癖なんでしょうか。しかし、この色の違いというのは私の目にしか残っておらず、だから後から写真を見た人はこういう色なんだと思ってしまうことでしょう。そして現実の花の色はわからなくなってしまって、結局は残ったものが現実のすべてみたいになってしまうのかも知れません。

と、そんなことを思いながら、ふとグレン・グールドについて思い出して、彼はもしかしたらそれを狙っていたのかも知れないなと思ったんです。かの矛盾に満ちた天才的ピアニストは、演奏以外にもたくさんの著述、言説を残していて、まさにメディアというものを意識した活動を繰り広げていた。そしてそこにはいくつものグールドの像が、ときには食い違い齟齬を来しながら群れている。本当に不思議な人であったと思います。

多分グールドは、他人に対していい格好をしたかったというわけではないのだと思います。ただ彼は、違う自分でありたいという願望をどこかに隠していて、それがわかりやすいかたちをとったものが一人二役ならぬ一人多役の録音、映像、インタビューなのでしょう。しかし、グールドにはそうしたあからさまな変身願望以外にも別の自分を装いたいという思いがあると見えて、それは例えば彼がいっていたことと現実の彼の行動の矛盾なんかにうかがえると思っているのですが、いうならば彼は文章をはじめとするメディアの上に、理想的な自己像を築きたいと思っていたのではないか。それが意図的であるかどうかはわからないけれども、彼は現実の自分を強烈に意識しながらも、こうありたい自分というものを遠くに眺めていた。そのように思うのです。

グールドは幸い現在の人でありましたから、周囲の人の証言も得ることができ、また映像、録音というリッチメディアが捉えた彼の姿を目にすることも可能です。もしこれが百年二百年前の人物であれば、伝説の中にその姿をくらませてしまったかも知れない。けれど私たちは、グールドと彼を取り巻くメディアが共謀して作り上げた伝説の向こうにかすむ彼の横顔を窺うこともできる。それもかなりの距離にまで近づけそうに思えるほどで、それは私の写真が捉えた花の青を眺めながら、その向こうに真実の紫を見ることのできるという可能性があり続けているということに同じであると思います。

けど、そうはいっても、私の目が見た紫が間違いなのかも知れないという可能性もあり、人の目には紫に見えるけれど、その光線をまっすぐに捉えることさえできれば真実の青があらわれてくるという、そういうこともあるかも知れません。だとすれば、グールドの真実の姿というのはどこにあるんだろう。多分それは、私も、皆も、そしてグールド自身さえも、つかめそうに思いながら決定的な確信は持つことができない、そういう彼岸にこそ見いだされるものなのではないかと思います。

2006年6月15日木曜日

ウルティマ — 恐怖のエクソダス

『ウィ・ラブ・ウィザードリィ』で思い出したのだけど、Wizardryがファミコンで登場したころは『ドラゴンクエスト』が引き起こしたRPG大ブームの真っ直中で、それは粗製乱造期であったということもできると思うのですが、とにかくやたらRPGが出たのですよ。新作もあれば、PCにおける名作の移植なんてのも盛んで、まあPCからの移植で成功したものが少なかったというのはなんか皮肉であるなあ。PCユーザーからすれば、あるいはPCに憧れを持ちながら手を出せずにいたユーザーからすれば、中途半端な移植、中途半端な改変がやる気を減退させたものだし、また一般のライトユーザーからすればシビアなバランスがまたやる気を減退させた。

Wizardryが成功したのは奇跡的だったと思います。そしてWizの成功の影に『ウルティマ』がありました。『ウルティマ』はWizと並ぶRPGの始祖として知られたゲームでした。最近の人だとMMO化した『ウルティマ』で知っているという人の方が多いんじゃないかと思います。

『ウルティマ』は中途半端移植の典型例だったのかも知れません。私は、実は発売日にこのゲームを買うほどに期待していた口で、けれど発売日を待つ日々のこと、ご存じ『ファミコン必勝本』にて移植の度合い、状況を負うごとに不安はつのるばかり。だってね、種族の概念、エルフとかドワーフとかホビットとか、確かこのホビットが問題になったのだと記憶しているのですが、著作権の絡みからこの名称を使用できなくなって、妖精族だとかそういう名称に変わってしまったのでした。ホビットはJ. R. R. トールキンの創作した種族で、トールキンの没年は1973年ですから、ばっちり著作権は有効です。とこういった風な変更点が何度か伝えられて、そのせいなのかどうかはわかりませんが、なんとも中途半端な有り様になりましたという話です。

『ドラゴンクエスト』という優秀な国産RPGに触れていた私たちには、『ウルティマ』はやっぱり大味だったのですよ。キャラクターのデザインもそうなら、町の住人の台詞も、全体に詰めが甘いという印象で、やっぱり『ドラゴンクエスト』はその辺の処理がうまかった。鳥山明という当時絶大な人気を誇った漫画家をキャラクターデザインに起用し、世界観をひといろにまとめるのに成功していた。その点、『ウルティマ』はやっぱり甘かったなあと、そんな風に思います。

ベースが洋ゲーだから、難度もちょっと高かったかも知れません。『ウルティマ』の世界には月がふたつあって、そのふたつの月の満ち欠けによって開くムーンゲートを利用して移動する必要があるのですが、開くタイミング、そして行き先は月の満ちかけ次第。法則は何度もチャレンジしているうちにわかるのですが、月齢待ちをしているうちに食料がつきて体力が落ちはじめる。いやあ、笑った。山の中に取り残されて、町に帰りたいのに帰れないのよ。でも、こういう困難が今から思えば面白かったなあと思います。地下迷宮も、地上では見下ろし型のビューをとってるのに、一旦潜ればワイヤーフレームの地下迷宮になって、わお、Wizardryかよ! けど、最終的には慣れましたね。ノート一冊を『ウルティマ』迷宮マッピング用に用意していて、アイテムだったか魔法だったかでもってざっと迷宮の地形を表示して、それを写して、宝箱とかそういうのは手でチェックしていって、山ほど宝箱が落ちているフロアがあるから、そこでもって荒稼ぎしたのも懐かしい。

アンブロシアには、どうやっていったんだろう。そうだ、渦に巻き込まれたんだ。船をとって、船ごと渦に巻き込まれたらアンブロシアに漂着して、その神殿でレベルをあげるんだったっけ(いや違う、パラメータをあげるんだ)。こうしたルールの分かりにくさ、そしてトライ&エラーを要求する仕組みがハードだったかも知れない。けど、やってればわかるんだけど、これはこれで楽しかったんですよ。Wizardryの時にもそうだったっていってたけど、Wizardry以上に多様な職業が用意されている『ウルティマ』を楽しむべく、またもやキャラクター表なんてのを作ってたりして、けど一番強かったのは基本職業だったなあ。

と、こんな感じで『ウルティマ』で懐かしんでみたのですが、実はサントラについて書きたかったのでした。『ウルティマ』は後藤次利が音楽を付けていて、私はこれも牧野にダビングしてもらって、面白いことに声優の日高のり子が歌を歌っていて、『瞳のナイフ』となんだっけ? そうそう『ハートの磁石』だ。懐かしいなあ。これもまた私は何度も何度も聴いたのですよ。

『ウィ・ラブ・ウィザードリィ』が復刻されるのだったら、『ウルティマ 恐怖のエクソダス』も復刻して欲しいなあと思います。できたら、復刻の暁には、テーマソングはUltima Mix Versionとノーマル・バージョンのそれぞれを収録して欲しい。復刻が無理なら、iTMSあたりでリリースされたら喜んで買うのに。だって、ウルティマの愛は瞳のナイフ、なんですよ。今再び聴くことができたらば、どんなに嬉しいだろうって思います。

2006年6月14日水曜日

アポロン ゲームミュージックBOX ~メモリアル・サウンド・オブ・ウィザードリィ

あれは私が中学生の頃だったかね。仲間内でWizardryが流行りまして、私もずっとずっと欲しいと思っていたんですが、なにしろ当時は(今もだけど)裕福ではなかったから、簡単においそれとゲームソフトを買うというわけにもいかなかったんです。けど、Wizはいつか買うぞと心に決めていて、当時購読していた『ファミコン必勝本』を見ては心をわくわくさせて、そしてWiz入門みたいなパンフレット(アスキーのかな?)を枕元においてまたわくわくさせて、パーティーの編成はどうしようだなんて、紙にキャラクターの名前や職業なんかを書いて、いつか買う日のことを夢見ていた。その時の、私たちにとってのWizardryというのはファミコン版のWizardryで、ROMカセットならではのレスポンスとバッテリーバックアップによる絶妙のセーブ。遊びました、遊びました。あの頃のデータ、ROMカセットとターボファイルIIに残してあるけど、多分どちらからも消えているでしょうね。ああ、我が懐かしの冒険者たちよ、さらばさらば。

このころ、ゲームミュージックというものがまさしく発見された時代でありまして、『ドラゴンクエスト』がNHK交響楽団を使って録音したレコードが大人気を博して、その影響で次から次へとサントラが出ました。そんなうちのひとつが『ウィ・ラブ・ウィザードリィ』。そういや『ファミコン必勝本』の投稿に、音楽室からWizの音楽が聴こえてきた話なんてのがありましたっけ。誘われるままに音楽室にいくと、先生が音楽室のオーディオを使って『ウィ・ラブ・ウィザードリィ』を聴いていた。「やっぱり、ちゃんとしたので聴くといい音だなあ」みたいなことをいっていたみたいな話だったと記憶しています。

そんな風に、いい大人までをも魅了したゲームWizardryの、また同様にいい大人を魅了してやまなかったサントラ『ウィ・ラブ・ウィザードリィ』が復刻されるということで、あああ、欲しい! 欲しいけど高い! ばらで売ってくれ。またも私は身もだえせんばかりに苦悩しているのであります。

『ウィ・ラブ・ウィザードリィ』だけ聴いたことがあるんですよ。牧野がこともあろうにCDをもってやがりましてね、その当時、CDは高かったんですよ。レコードとカセットは2500円、CDは3000円。そのCDを持っていた。そして私はこれをカセットにダビングしてもらいまして、いやあ、聴いた聴いた。何遍聴いたことかわからない。もうとにもかくにもかっこうよくって、ゲームの音楽をそのまま収録しているんじゃなくて、シンセサイザーを使ってしっかりと作り込んであって、それが本当に格好いいのですよ(一曲一曲解説していってもいいけど、きりがないからやらないけど)。演奏は作曲者でもある羽田健太郎。特典は、全曲譜面付解説書とロゴステッカーですよ。って、なんでこんなに詳細に覚えているかといえば、私はピアノ編曲された楽譜を買って持ってるから。その本にサントラの広告が載っているんですね。

サントラをリリースしていたレーベル、アポロンはもうなくなってしまいました。だから、この機会を逃してはもう『ウィ・ラブ・ウィザードリィ』の入手はかないません。買うか? 欲しいよな? でも一万円を超えるのはきついよ。せめてドラマCDの抱き込みは勘弁してお呉れでないかい!?

ファミコンの音源で聴いて聴いて聴きまくったシナリオ2や3のサントラを手に入れることがかなうというなら、思い切るのもいいかも知れない。どうしようか、まだちょっと迷うことにします。

2006年6月13日火曜日

楽譜の風景 / フィルハーモニーの風景

 日本を代表する指揮者で、積極的な新作初演や執筆活動を通じてクラシック音楽のすそ野を広げたNHK交響楽団終身正指揮者、岩城宏之さんが13日午前0時20分、心不全で死去した。73歳だった。

指揮者の岩城宏之さん死去 エッセーでも活躍

指揮者の岩城宏之氏が逝去されたというニュースを聞いて、私はしばし茫然。そうか、亡くなられたか。73歳が若いかどうか、私にはもうよくわからないのだけれども、以前からずいぶんお体悪くされて、手術したり持ち直したり、がんばっていらっしゃるなと思っていたのだけれども、けれども時は過ぎゆき、人も過ぎてゆきます。

私の岩城宏之との出会いは、おそらくはテレビとかそういうのだったと思うのだけれども、というのはだって、吹奏楽をやっていたし、N響アワーみたいな番組もよく見ていたし。それに、岩城宏之という名前、周辺から耳にすることも多かった。一般の、普通程度にしかクラシックに触れていない人たちにとって指揮者といえば、カラヤンとかバーンスタインとか、そして日本人だったら岩城宏之だったんじゃないだろうかと思うんです。そんな風に、生活の中で聞くことがある名前だった。ほら、山本直純がお茶の間に広く知られていたように、その友人である岩城宏之だって同じように知られていたのでしょう。

そして、私が岩城宏之にはまったのは、高校の頃、図書室の書棚に見つけた本がきっかけでした。『楽譜の風景』、『フィルハーモニーの風景』。どちらを先に読んだのかな。もう覚えてない。けど、その内容の端々は、細々と断片に散りながら、私の中にはっきりと残っています。

カラオケの話があったのですよ。どの本だったか思い出せないけど、カラオケの話があって、楽隊の連中と一緒にいくとみんな本当にうまい。自分のスタイルというものを見つけていて、それでもって本当にうまく歌うんだうんぬん。私は、今でもカラオケを歌うにせよなにをするにせよ、自分のスタイルとはなんだろうかということを考えて、それは紛れもなく岩城宏之の話に影響を受けているからです。

ベームの振りを真似しようとしてウィーンの団員に怒られた話。これは『フィルハーモニーの風景』かな。若いうちは、がむしゃらに力いっぱいやらんといかんのだと思った。ステージマネージャーの話にも感動した。一席一席に腰掛けて、指揮者との位置関係を見、照明のあたりも見、表面を繕うのではなく見えない向こうにこそ仕事はあるのだという話も岩城宏之の本で読んで、私の少年期青年期において、氏の影響がどれほどに大きかったかわからない。好きだった、好きだったのですよ。

私は暗譜が苦手で、けれど試験ではどうしても覚えないといけないから、岩城式の目に焼き付ける方法を試したこともありまして、あの話はメルボルンのオケで『春の祭典』を振り間違えた話が繋がっていて、その時、氏は演奏を止めて、自分が振り誤ったと聴衆に告げて少し前からやり直した。仕事には誠実さが求められる、ごまかすべきではない。私が岩城氏にお会いしたのはほんの数回にすぎず、私は群衆のうちの名も無いひとりに過ぎなかったから、こんなの会ったうちになんて入らないのだけれど、一度、大阪フェスティバルホールの楽屋に訪ねて手帳にサインをいただいたこと、嬉しかった。何度でも思い出せる。氏の笑み、そして握手。氏が本に書いていた、嬉しいサインのねだられかたを実践したつもりで、けどきっとぎくしゃくしてたには違いないけど、もしかしたら本を読んでいるファンだと気付いてくれたかも知れない。

岩城宏之の本はたくさんあって、全部読むにはいたらなかったのだけど、高校大学と通してずいぶん読んで、細かなエピソードがいろいろ頭に浮かんできて、全部ここに書くことはできないし、それをしても意味がないってわかっているからやらないけれど、そういう知ったエピソードの分だけ氏の身近にいれたというような気分になれた。そして、こういう私のようなファンはきっと多いと思うのです。

73歳。この年が若いのかどうか私にははかりかねますが、ああ、後が続かないや……。いいたいことはいっぱいあるんだけど、言葉にしたくない……。だから短めに。さよなら、お疲れさまでした。きっと私も後からいきます。それまでどうぞお元気で。

引用

2006年6月12日月曜日

派遣です!

  おおた綾乃という人は、実に独特の雰囲気を醸しだす人であると思うのです。明るく朗らかで、はじけるように元気で、そしてあたたかでにぎやかな、祝祭的彩りに満ちた漫画を描かれる人です。それは、どの漫画を見ても同様なのですが、やはり私には『派遣です!』が一番しっくりときて、きっとこの漫画が私にとってのおおた綾乃入門となった漫画だったからでしょう。

けど、実をいうとですよ、私はこの漫画を最初、それほど好きではなかったのです。明るさを能天気すぎるとでもとったのか、なにしろ私は陰性の男でありますから、ヒロインあかりのほがらかさがあまりにコントラストを持って遠く感じられたのかも知れません。けど、能天気、いいじゃんかね。辞書で調べたら、happy-go-luckyだそうですよ。ハッピーでラッキーでなにが問題があるんかと思います。

さてさて、一応おさらい。ヒロイン星野あかりは派遣戦士、じゃないや、有能な派遣OLで、それはそれは有能で、仕事も速く完璧なのですが、その実体は食べることが大好きのちょっととぼけた天然系お嬢さんなのであります。

あ、そうか、だから最初私はそれほどこの漫画にひかれなかったんだ。やっぱり私には氷の女王様とか、そういう要素がないと駄目なんだと思います。

閑話休題。最初はなんかイージーだと感じたんですよね。そりゃ有能ならいいよね、ふーん、みたいな意地悪な気持ちがあったかも知れない。私は実は、そんな風に頑なところを持っているんですが、この漫画を読んでいるうちに、いつしか馬鹿馬鹿しい頑なさは溶けて消え去ってしまっていました。読んでれば楽しくて、肩の力も抜けて、すごく穏やかな気持ちにさえなれたりする漫画なのに、なんで私はそんなに肩肘はって読もうだなんて思っていたのでしょう。本当に馬鹿な態度をとっていたものだと、振り返っては恥ずかしくなります。

そう。そんな風に華やかでけれど穏やかなこの漫画は、巻を重ねるごとにどんどん登場人物を増やして、その人の増えたことがなおいっそうお祭り的な感じをもり立てて、常に花が咲いて光の照っているようなそんな様子なのです。第5巻ではあかりの秘密を探る新人篠原も大活躍で、どことなくずれた人たちがずれたままに受け入れあって、楽しそうにやっている。ああ、見てるだけで嬉しくなるなあ。

力を抜きたいとき、ちょっと仕合せな気持ちになりたいときにいい漫画だと思います。ゆったりとリラックス気分になれて、夜もよく眠れそうな感じです。

  • おおた綾乃『派遣です!』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2001年。
  • おおた綾乃『派遣です!』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2002年。
  • おおた綾乃『派遣です!』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • おおた綾乃『派遣です!』第4巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • おおた綾乃『派遣です!』第5巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年6月11日日曜日

微妙なお容姿頃!!

  先達て紹介しました『ぽこぽこコーヒー気分』の笹野ちはるが『まんがタイムラブリー』にて連載している『微妙なお容姿頃!!』。『コーヒー気分』が小さな店長さんであるなら、こちらは大きなOLもの。身長180センチのヒロイン横山克巳がとにかく男に間違えられたり、女性から惚れられたりという、そういう感じの漫画です。

しかし、実際背の高い女性からすればその背の高さというのはコンプレックスなのだそうですね。身長170センチくらいの知り合いがいましたが、背が高いねとか大きいねとかいわれるのはすごくいやだといっていまして、なら180センチの克巳はなおさらでしょう。けど、実をいうと私自身は背の高い女性というのも嫌いではありません。街で見かけると、ああ素敵だねって思う。つまるところ、好きなのですね。

ええーっ、あんた、こないだは背の小さな人が好きだっていってたじゃん! ええ、いってました。けどよくよく確認してくださいましよ。

私は背の高い人も好きですが、背の低い人もかなり好きなのです。

ほら、ちゃんと背の高い人も好きっていってる。

もしやあんた、標準身長も好きというじゃあるまいな、といわれたら、残念ながらイエスと答えねばなりますまい。なんだっていいんじゃん! うん、まあ、身長のどうこうに関してはあんまりこだわりがないっていうか、もっと他に大切なものはあると思います。けど身長だけにしぼるなら、背の低い人が好き。次いで背の高い人、最後に標準がくる。つまりここから導き出されるのは、私は標準からの偏差が大きい人を好きになりやすいということ。いや、これ実際そのとおりであるようで、私の変わり者たるゆえんであると思われます。

私の話はどうでもいいや。けど、この克巳様という女性、決して魅力がないとは思わないんだけどなあ、っていうのが私の感想。凛々しい女性をさしてハンサムと褒めるのは欧米では普通ですし、けど日本ではそうでもないのかしら。でもですよ、背の高い女性がさっそうとしている様というのは、見ていて実際ほれぼれとさせる魅力に溢れていると思うのです。

この漫画は、そうした前提があるから、克巳様が散々に男みたいだとかいってコンプレックスを助長するような方向にネタを展開しても、それほど嫌みにはならないのかも知れないななんて思っています。とはいうものの、ジェンダー論のうるさ方からすればとんでもない設定であるのは間違いないんでしょうけど、まあOLという半分死語になりかかってる(よね)前提を含む四コマ文化の真っ直中にある漫画だから、そのへんのちょいアナクロなところも含めて楽しむのがきっとよいのだと思います。

そんなわけで、私はこの漫画は好きです。克巳様とその友人典子の関係が好きかな。結婚しちゃえばいいのに、なんて思いながら読んでます。

  • 笹野ちはる『微妙なお容姿頃!!』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 笹野ちはる『微妙なお容姿頃!!』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

引用

2006年6月10日土曜日

白衣な彼女

 最近買った四コマ。芳文社のも買ったんですが、それよりも前に『白衣な彼女』について書きたいと思いました。だってこないだ話題に出したところだし、それに新刊が出たところでもあるし。

『白衣な彼女』のヒロインは華山桜子。名前こそはお嬢様っぽいけれど、とんでもない乱暴者キャラクターで、『主任がゆく!』の北見主任の同類といえます。そういえば、『白衣な彼女』に北見主任がゲスト出演したことがありましたが(あれ? 逆だっけ?)、同系列のキャラクターと見える二人が共演したとしても決してキャラクターが被っているようには思えず、これはきっとそれぞれがそれぞれに違った味を持っているという証拠でありましょう。そしてこのことは、これら両タイトルにそれぞれの持ち味があるという証拠でもあるかと思います。

(画像はたかの宗美『主任がゆく!』第5巻)

『白衣な彼女』は『みこすり半劇場』掲載の四コマなので、それなりにエロ、それなりに下品にできています。けど、そんなにいうほどでもないかな? 読んでみればわかることですが、エロや下品というよりも、はっちゃけてるという感じの方が強いのですよ。たかの漫画のヒロイン(動物系は除くかな?)は、皆が皆といってもいいかと思いますが、結構はっちゃけていて、それは華山さんにおいても同様。けど、一点違いを見いだすとすれば、華山さんのはっちゃけ方は仕事の方面に向かうのではないということ。超人的有能という設定から彼女は自由であるようなのですね。かといって無能ではない。普通に有能。そういう感じのキャラクターであると思います。

けど点滴台をスケート代わりに走り回ったりするような非常識キャラクターだから、他のたかの漫画を読んで、そうした非常識系大暴れに面白みを感じたという方ならきっと楽しく、面白く読めるかと思います。『主任がゆく!』においては主に東と繰り広げられる男女の能力論争ですが、『白衣な彼女』では傲慢な医者と看護師間に存在する主従関係が問題にされることもあって、けれど鼻につくほどではないから、楽しく読める。職業としての看護師ネタ、エロや下品を含むネタ、そして大暴れはっちゃけネタがバランスよく配置されているから、この辺も読みやすさに繋がる要素なんじゃないかと思います。

けど、あんまりこういうことを考えながら読む漫画じゃないですね。華山、大暴れ、面白いなあ、というような、肩の力抜いて楽しむ、そういう類いの漫画。そしてやはり私は好きです。

蛇足

華山さんと仲のいい同僚、畑中さんがよいです。黒髪、ショート、地味、そんでちょっと猫背? 実にいいキャラクターであると思います。

  • たかの宗美『白衣な彼女』第1巻 (ぶんか社コミックス) 東京:ぶんか社,2003年。
  • たかの宗美『白衣な彼女』第2巻 (ぶんか社コミックス) 東京:ぶんか社,2004年。
  • たかの宗美『白衣な彼女』第3巻 (ぶんか社コミックス) 東京:ぶんか社,2006年。
  • 以下続刊

2006年6月9日金曜日

オタク女子研究 腐女子思想大系

 今日は最初に謝っておきます。ごめんなさい、私はこの本買っていません。基本的にこのBlogでは自分の買っていないものは扱わない、例外的にDVD-BOXやコンピュータソフトウェアなど、内容は知っているけど買うにはいたらないというようなものもありますが、基本的には買っています。ところがこの本に関しては買っていない、さらにいえばちゃんと読んでいない。

実をいいますとね、書店で見かけて手に取って、ちょっと読んで見て、買おうかなあどうかなあ、って迷ったんです。なにしろ今日の私の手持ちは200円だったものだから買うに買えないという事情はあったのですが、買わなかったのはそれだけが理由ではありません。それはなにかといいますと、いやな予感がちょっとしたんですよね。

ほんのちょっとだけ読んでみての感想ですが、結構面白いとは思ったんです。ほら、私は腐女子といわれるようなおたく娘が大好きだと前々からいってきています。それゆえにこうした本にも興味を示したというところなのですが、ざっと冒頭あたりを読んでみたらそうした私好みの女性像が説明されていて、そうそう、そんな感じよねー、みたいに相槌うったりなんてして、とそんな具合に楽しかったんです。

私にはおたくの友人が多いです。漫画系の人がいれば特撮系の人もいて、ジャンルは重なり合いながら個々人の趣味指向によって広がりを見せて、そうした人たちの話を聞くのは本当に面白い。カップリングについて話を聞いたり、昔の事件について聞いてみたり、またライフスタイルについての話も面白いのですよ。こうした話はこの本にも含まれています。ライフスタイルについてが主かな? おたく女子はおたく男子と違って服装にも費用を投じなければならないから大変だという話。やっぱりおたくとみなされるのはいやだから(世間にいうステレオタイプなおたく像に当てはめられ蔑視されるのはいやだから)、ちゃんとした格好をしたいというようにみんないっています。そのへんいうと、私は無頓着なほうだなあ。いかんなあと反省したりして、私の話はどうでもいいや。この本にはまさに私の趣味指向にマッチした話が収録されている。だから欲しいかもって思ったんです。

じゃあ最初にいってたいやな予感ってなんなのさ。いやな予感というのは、私の経験上、こうした本の面白さというのは最初に集中していて、読み進むにつれてぼんやりと面白さがぼやけていく。深まらず、ただ広がるだけというか、そういう傾向がなんとなく感じられて、読んだ、面白かった、それで……、どうしたもんかなあ、みたいな感想になりそうだという予感がしたんですね。別にその程度でいいといえばいのですが、そのために千五百円を払えるか……。いや、表紙のイラストの女の子のために払え……、ないよなあ。

迷ったときはアマゾンのレビューですが、これまた見事に別れてしまっていて困ります。私が感じた危惧は辛口の評に、私が面白いかもと思った要素はべた褒めの評にそれぞれ当てはまるように思うのですが、正直私の直感ではそんなに悪くいわれないかんような本でもないけど、そんなに褒められるような本でもないんじゃないかなあというもので、でも通して読んだわけじゃないから私がこんなことをいったらいかんよね。

買えば、友人間でのちょっとした話題にはなるでしょう。これを入り口として、友人のケースを深く聴いてみるというのはきっと面白い。人間なんて十人十色、この本との差異が個々の事例をはっきりとさせるということは充分にあるかと思います。だから買ってもいいかなあ。どうしようかなあ。

というわけで、この本についてなにかお思いの方がいらっしゃったら、ふにゃふにゃ煮え切らない私にアドバイスくださると非常にありがたいです。

2006年6月8日木曜日

上海問屋SDカード

釣堀.netさんからトラックバックをいただきまして、なんの記事に対してのトラックバックかといいますと上海問屋のSDカードでありました。SDカードやコンパクトフラッシュの価格が下がっている、そういう趣旨の記事であるのですが、やっぱりこういう安いメモリを見ると誰しも相性やなんかが不安になるようで、確かに私も上海問屋のSDカードを買う際には、一通り調べてみましたからね。

検索してみるとわかるのですが、初期不良が多いという意見もあれば、大丈夫、使えますというものもあって、量を比較すると問題を認めるという記事の方が多いように感じます。ですがこれはおそらく問題のない人はあえて書かないからなんじゃないかなあ、そんな風に私は思っていて、じゃあ私はといいますと……。これもなにかの役に立つかもわかりませんので、私の環境における上海問屋SDカードの状況についてちょっと書いてみようと思います。

私が今使っているSDカードは、60倍速1GBのもの。東洲斎写楽といったほうがぱっとわかりやすいかと思います。カメラはGR DIGITAL。コンピュータはMacintoshがメインですが、Windows(Dell Inspiron 6000)でも一度使っています。MacintoshではGreen Houseのマルチカードリーダ/ライタGH-CRDA13-U2を経由、Dell機は本体にSDカードのスロットがついているのでそれを使いました。使用開始日は2006年5月26日、それから毎日使っているので、今日で二週間使用したことになろうかと思います。

その間、認識されないあるいは書き込まれないというトラブルは皆無です。撮影したデータが消えたことも一度もありません。一度、スリープから復帰する途中にカードをリーダにセットしたことがあって、その時はなかなかマウントされないことがありましたが、本当にそれくらい。おそらくこれはコンピュータ側の問題で、カードには責任はないでしょう。カメラも普通に認識すれば、Macintosh、Windows両環境において問題なく認識、読み出し書き込みができています。

上海問屋のSDカードには相性保証というサービスがあって、カメラ等機器との相性に問題があって使用できない場合には返品ができるのです。購入後二週間以内ということなので、今日でその期限が終わりました。もう返品はできませんが、これだけばっちり使えているのですから返品する必要もありません。ただ、相性やいろいろ、そうした情報が得られない状況においてはこの制度は非常にありがたく、購入するに際して大きなポイントであったことは確かです。

というわけで、相性保証に関しては行使することなく終わりました。後はデータ復元ソフトを使う日がくるかどうかですが、今の感じだと多分大丈夫なのではないかなとそんな風に思います。

以上、雑感程度でしたが、なにかの助けになりましたら幸いです。

また、よいタイミングでトラックバックくださった釣堀.netさんには感謝いたします。本当によいタイミングでした。

2006年6月7日水曜日

ラディカル・ホスピタル

 今日はちょいと病院に行ってきました。といっても、どこか具合が悪いとかそういう話ではなくて、見舞いです。まあ別段深刻な状況ではないと聞いていたのでさほど心配もなく見舞って、実際そんなに気をもむようなこともなかったので安心したのですが、そりゃそうと、着いて最初にいわれたのが「あんたが来るんやったら、なにか本を持ってきてもらえばよかった」。すなわち、私がいくとは思われてなかったということでしょうね。

さてですよ、入院している人に差し入れる本はといったら、いったいどういうのがいいんでしょう。私としては『まるっと病院パラダイス』なんて面白いと思うんですが、実際に入院してる側からしたら微妙かも知れない。ううーん、ちょっと考えて、やっぱりここは『ラディカル・ホスピタル』の出番じゃないのかなあと思った。いや、別に病院ものにこだわる必要なんてなにもないんですけどね。

『まるっと病院パラダイス』が微妙というのはですね、その内容が結構過激なものですから、不安がらせちゃいかんよなあとそういう理由です。だって、本当にあった病院のすごい話、というタイトルでも充分通用する内容です。とにかく面白いんですが、健康なときでないとちょっと厳しいかも知れません。

白衣な彼女』なんていうものもありますが、これもちょっと過激なものですから差し入れには向きませんな。作者は女性、ご存じたかの宗美でありますが、男性向けの表現が多く含まれている漫画ですから、ちょっとね。

ということで『ラディカル・ホスピタル』かなあと思うのです。タイトルにこそ過激だなんて書かれていますが、内容はというと実に穏当。丁寧なネタ運びに、ちょっと心温まるようなところもあって、これを読めば医師や看護師が身近に感じられるようになるんじゃないかと思われます。たまには医療における問題点なんかにも触れながら、けれど深入りしすぎてどろどろになるというようなこともなく、非常によいバランス感覚で乗り切っていく。夢もあれば希望もある、そういう病院漫画なのです。

多分、患者が読んでも面白いと思います。健康であっても面白いと思います。それに、多分、医師や看護師が読んでも面白いと思います。だから、差し入れるのならこういう漫画を、そして回し読みなんかしてもいいんじゃないかと思います。

よし、ちょっと買いにいってこよう。

2006年6月6日火曜日

反社会学講座

 新聞は嘘ばっかり書いている、捏造ばっかりしているっていう人、いますよね。実は私もおんなじように考えています。いや、別に朝日新聞のことをいっているわけじゃないので、そこのところ早とちりしてくださらないでくださいましよ。私がいっているのは新聞です。新聞というメディアが嘘ばかりいってるっていっています。そしてテレビも。私が知りたいのは、その時、そこで起こったことはなんだったのか、ということ一点だけなのですが、なんでかわからんのですが彼らマスメディアが伝えたいことは私のニーズを満足させてくださいませんで困っています。まず思潮とやらがくるからややこしい。真実があって、分析のプロセスを経て、最後に評価がくるのが真っ当な手続きだと思うのですが、なんでか最初に思潮があって、評価がきて、分析があって、終わり。あれ? 真実は? ええ、本当にどこにいったんでしょうね。

そうしたマスコミが扱うものというのはなにかというと、やはり主には社会における事象であるわけで、つまり統計やなんかが使われます。その統計をうまくごまかすことで、ありもしないことをあるかのように装えるというのですが、こうしたマスコミがよくやる嘘を見抜く力というのをメディア・リテラシーといったりしますね。あるいは統計の嘘ならばリサーチ・リテラシーといいます。さて、私みたいに頭っからつま先まで素直でできているような人間はどうにもだまされやすくていけないものですから、批判力を鍛えなければならないわけです。で、お勧めの本はといいますと、真面目な人向けには谷岡一郎の『「社会調査」のウソ』がよいかと思います。真面目といいましても、固いばかりの本ではない、新書だから価格もサイズも手ごろで、実際読みやすい好著であると思います。

で、それよりももっとお勧めしたいのはパオロ・マッツァリーノの『反社会学講座』。この本はちょいと危険な香り、皮肉や毒があちらこちらにうんとこさちりばめられていて、しかしですねその手続きは非常に真っ当なものであると思いますよ。大上段に振りかぶってマスコミ批判をしようというような本ではないけれども、事実を事実として扱おうとしない不埒を笑い飛ばそうという覇気に溢れていて、読めば大笑い、そうかそうかそんな細工がされておったのか、いやいや本当に嘘ばっかりいってやがんだなあ。けれどさ、冷静になって考えてみてくださいよ。普段真面目腐って、世論の引っ張り役でございという顔でえらそぶってやがる連中の欺瞞がここにあらわにされているのです。この現状をかんがみれば、マスコミ・メディアは毒であるといわねばなりません。毒は適量なら薬にもなりましょう。この本に書かれているようなことであらば口に苦い程度で済むというものですが、しかし私たちは普段、まったくのドブドブに毒まみれになった言説を浴び続けているのですよ。そして私たちはいつしか致死量を超える毒を飲み込んでしまうのです。そうなればもう終わり、目の前に提示されるものの裏を一顧だにせず、鉄の規律、すでにできあがった鋳型にはめ込まれるままに、無味乾燥の機関の一部に組み込まれてしまうのです。そこには精神の自由も意志もなく、まして真実などあるわけがなく、状況を支配しようとする輩の走狗として使われるのが落ちといったところでしょう。

反社会学講座はWeb上でも読めます。けれど、書籍版の方が分析や批判力に優れていてお勧めです。まずは少年犯罪の推移を追って見せる「キレやすいのは誰だ」あたりから読まれるのがよいのではないでしょうか。とにかく私はこれを読んで、笑いに笑って、そして自分の実感が誤っていなかったことに安心したのでした。

しかしよ、常に気をつけるべきはその裏側にある思惑であることは忘れないでください。私はこの本を信用しろとはいってない。この本の論旨、データの扱い方にも疑問がないわけではないのですから。重要なのは、この本が一般に流布される言説に向けた批判的な態度です。読むとともに学ぶべきはその姿勢であって、この本がいわんとしていることもまさにそこでしょう。真に危険なるは盲従するその態度にほかならないことだけは、常に心のどこかにとどめておかんといけません。

参考

2006年6月5日月曜日

Englishman in New York

 私だって人間、意味もなく悲しくなったり寂しくなったりすることはあります。そんなときに聴きたくなる曲はなにかというと、悲しさの種類によっても違うのですが、例えば今私がとりつかれている悲しさの種類でいうとEnglishman in New Yorkが聴きたい、そんな感じです。

Englishman in New Yorkは、アメリカはニューヨークに暮らすイギリス人が、自分の今までのスタイルをかたくなに崩さずにいるといったような、そういう内容を持った歌なのですが、それがただ頑なだったり意固地だったりというわけではなく、受け入れられなさを嘆くでもなく、自分にとっては異郷の地ニューヨークにおいて、合法的な異邦人として存在している自分を見つめ、そして自信を持って自分を支えようとするかのような自負が感じられる。そういう詩的でセンチメンタルでロマンティックで、そしてソリッドな歌なのです。

つまり、私の今感じているという悲しさ、寂しさというのは、今私の暮らしている地に対する受け入れがたさに苦しむ類いの悲しさであり、そして私の今暮らしている地が私を受け入れないとわかってしまった、そういう寂しさであり、まるで私はここにいてここにいないみたいな感じなのです。私はこの国に生まれて、この国に育って、この国以外のどこも知らないというのに、この国において自分が異邦人のようであるかに感じている。こういうときにEnglishman in New Yorkを無性に聴きたくなるのです。

この、外界と自分の皮膚の間に隙間が空いたかのような違和感、一体なんなんだと思うのですが、意外に私はこれをよくよく感じていて、メランコリーの一種でしょうね。例えば大勢での会合において、あるいは酒の席、その帰り道において、強烈な孤独感と、言い様のない周囲への違和感を感じるのです。まるですべてが嘘みたいで、自分自身が空白で、しかしその空白と感じている私は間違いなくそこにいて、私はその空白から私自身を見つけようとしてひとりで旅しているように孤独です。そして結局は私は私でしかなく、私の築いてきた私なりのスタイルは崩せるものではなく、たとえ外界に対し行使しえないものだとしても、私の内には守っていきたいと思う。こうしたものと同じような感覚を、ある日テレビに聴いたEnglishman in New Yorkに見つけて、それ以来私はこの歌を自分の心の支えみたいにして大切に思っています。

DVD

2006年6月4日日曜日

A Faire to Remember

 以前、Scarborough Faireについて書いたときに紹介しましたBrobdingnagian Bardsのアルバムが、日本のAmazonからでも購入できるようになったみたいで、これは実に嬉しいことです。とはいっても、そもそもが日本で購入できなかった理由がよくわからないんですが、だって私はもうずいぶん前にこのアルバムを入手しているのですから、輸入障壁があったわけでもあるまいに、だからもっと前から購入可能になっていてもおかしくはなかったのです。でもまあ、いずれにしても、ひいきにしている演奏家のアルバムが簡単に入手できるようになったという状況はありがたい限りであると思います。ここは素直に喜んでおきたいと思います。

私がBrobdingnagian Bardsの存在を知ったのは、先にいったScarborough Faireのヴァリアントを調べていてなのですが、その結果として行き着いたBrobdingnagian Bardsのバージョンはなかなかにスリリングで、私のお気に入りになってしまいました。スリリングというと変ですが、違ういいかたをするならワイルドで力強い。土俗的な力、匂いを感じさせて、いうならば彼らの演奏によって私はサイモン&ガーファンクルの呪縛を抜けたといえるでしょう。そうか、Scarborough Faireは美しく、清浄であらねばならないわけではないんだ……。

さてさて、Scarborough Faire目当てであったBrobdingnagian Bardsですが、アルバムを丸ごと聞いて見れば、実に面白くわくわくさせる曲、演奏の連続で、私はなおさら彼らが好きになったのでした。伴奏楽器はオートハープ、そしてリコーダーがメロディやオブリガートを演奏して、そしてボーカルですね。このボーカルが強いと思います。人間の声がばっちり濃厚に存在していて、ああいいねえと思います。さながら酒場やなんかで演奏されている、そういうつんとすましたりはしない人間臭さがあるのだと思うのですね。

Brobdingnagian Bards、日本語読みにするとブロブディンナジエン・バーズになるんでしょうか(公式サイトによるとbrob-din-nahg-EE-en、録音も用意されている用意周到さ!)。公式サイトにはMP3のフリーダウンロードのリンクなんかも用意されていて、しかもアルバム未収録のものもあったりして、覗いてみればきっと楽しいのではないかと思います。スコットランドやアイルランドのフォークソングファンならなおさらでしょう。

というわけで、私の一押しの二人組です。よければ聴いてみてください。

以下、amazon.com

公式サイト

2006年6月3日土曜日

妄想少女オタク系

 私はおたく娘が好きだというのは以前からいってきましたとおり。例えば、駅のホームにじゃれあっている中学生男子を見て転げ回らんばかりになっている(この感覚をもにょると表現するみたいですね)人を見たことがありますが、心がほのかに温まる素敵な瞬間でありました。って、大概私も変態的ですね……。

さて、おたく娘はだいたい二種類くらいに大別されるのではないかと私は思っています。漫画やアニメに没頭するがゆえか、現実のことに関しては妙に純粋培養的に育って、そしてその様が傍目にもわかる純情系。そしてもうひとつは、過激な漫画に踏み込んでしまったがゆえか、どんな過激な漫画だろうがなんだろうがどんとこいと豪語して見せる、こっちはなんっていったらいいんだろう、とにかくそういう系。『妄想少女オタク系』のヒロイン浅井留美は前者に分類されるタイプのおたく娘であろうかと思われます。

私はこの本を書店で見かけて、一冊だけ立ち読み可能にされていたものだから、読んで見て、そしてその場でざあっと読み切って、しかも買って帰る電車内でまた読み切って、うちに帰ってからもまた読んでと、こんな具合にヘビーローテーションしてしまって、つまり気に入ってしまったということなのでしょう。筋金入りの腐女子に関わりを持ってしまい、いつしか恋に落ちてしまったという少年の物語でもあるのですが、ちょっと夢見がちではあるものの、よく描けていて面白いんですよ。浅井がはまっているのが『鋼の王子様』、略して『ハガプリ』。わお、どっかで聞いたような名前だな。こういう端々にも小ネタが転がっていて笑えるし、まあ私も多少はおたくでありますから、突っ込みたいところも少しばかりあったりするのですが、けどそうした瑣末なことなど意に介させないくらいに本編がおかしい。これはなかなかのヒットなのであります。

掲載誌は『コミックハイ!』です。私の記憶が確かならば、この雑誌は女子高生縛りをかけていたはず。つまり掲載漫画のすべてが学園ものであるということなのですが、しかし最近は見かけなくなりました……。最初の二号くらいまではコンビニで見た覚えがあるんですが、本当に見かけなくなりました……。

でも、そうしたマイナー系であるためか、掲載されている漫画はなかなかに一般メジャー系では見受けられないようなのも多そうで、だから結構な穴場なのではないかなというように思っています。確か『委員長お手をどうぞ』も『コミックハイ!』掲載だったはず。コアといえばコアかも知れないけれど、なかなかに見過ごせない漫画がありそうな気がします。

蛇足

男子浅井がどうにも好きな模様。一番好きなコマは、お願いしますよダンナ!ってやつです。

  • 紺条夏生『妄想少女オタク系』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。
  • 以下続刊

引用

2006年6月2日金曜日

デュープリズム

 このBlogをはじめた当初に、素晴らしいゲームが、素晴らしい音楽があるというのに、絶版してしまったためにそれを皆に知ってもらうことができない。欲しいと思っているものもいるというのに、手にすることができない。なんて不幸なことだろう。受け取り手としての私たちにとっても不幸なら、作品にとっても不幸だと嘆いたことがありました。その音楽というのは『デュープリズム』。ゲームとしても素晴らしかった。なんどもなんども遊んで飽きることがなかった。そして音楽も素晴らしかった。美しく透明感のある音楽。心を沸き立たせる音楽。そしてときには涙も……。

その『デュープリズム』のサントラ7月19日に再発されます!

スクウェア・エニックスのサイトで確認すると、再発サントラの品番はSQEX-10074-75です。今手もとにある旧盤はSSCX 10036。そうか、当時はまだスクウェア・エニックスになってなかったんだ。

アルバムは二枚組。DISC RUEとDISC MINTに分けられるこの構成は、ゲームの主人公が二人であったということを思い起こしてみればなるほどと思えるもので、そしてその両方が素晴らしくて、そうですよ、だってゲームからしてもそうでした。悲壮感の強いルー・シナリオ。ギャグの色合いが濃いミント・シナリオ。そのどちらもがよくて、そのどちらもに胸を打たれて、いやあ泣いた泣いた。そして笑い、あたたかな気持ちになって、このゲームを繰り返しプレイするごとに、私は少しずつ仕合せの感触を強めていった。

サントラにて音楽を耳にすれば、あの時のあたたかな気持ちがじんと胸に落ちます。

曲目を見れば、再発盤は旧盤に同じで、ジャケットイラストも変わりないようです。これがすべて旧盤に同じ仕様で出れば、当時買い逃したという人も嬉しいでしょう。だから、私はできる限り旧盤に同じ仕様で出てくれれば嬉しいと思います。

さて、この再発を喜んでいる人は私以外にもたくさんいらっしゃるようで、なかには、旧盤も持っているけど再発盤も買うんだなんておっしゃってる方もいらっしゃって、けれど私はその人を馬鹿だと笑うことはできません。だって、きっと私も欲しくなるでしょう。ものとしてアルバムが欲しいんじゃないのです。『デュープリズム』というゲームとその音楽、そしてルウやミントと過ごしたあの世界が大好きだということを伝えたい。そしてあの素晴らしい世界のあったことを皆に広めたい。

『デュープリズム』は名作でした。音楽もそうならばゲームとしてもそうです。もしよろしければ手に取ってくださると幸いです。

2006年6月1日木曜日

ナツノクモ

彼女はメリノー。
ガウルのことが
大好きで大好きで
大好きで大好きで
大好きで大好きで
大好きで大好きで
大好きで大好きで
でも、愛されない女のコ。

でも、それでも、愛して欲しいばっかりに無茶をしてしまって、余計こじらせてしまったりして、こういう経験は誰にでもあるんじゃないかと思います。愛したい、愛されたい、思いが募るままに気持ちだけが慌ただしく駆け出してしまって、そして後悔は海よりもうんと深い……。メリノー見てると私は、好きになるってことは本当にしようがないなあって思います。

『ナツノクモ』第6巻には、ちょっと困ったちゃんなメリノーの傍らにあって、いつもなにか世話を焼いてくれているギーコちゃんが園にやってきた頃のエピソードが収録されていて、私はこれを見て、メリノーのことも、そしてギーコちゃんのことも、今まで以上に好きになったのでした。好きという気持ちを持て余して、嫉妬に苦しんだりけれど折に与えられる微笑みにとろけたりという、仕合せな時間が園にあったということがすごく身にしみて、なにしろ第6巻はこれまで以上に園に起こった事件に踏み込んでみせた巻でありましたから、正直こうしたほのぼのとしたあたたかな時間を最後に残してくれなければつらい、つらすぎると思うのです。

人生においての仕合せとは、結局のところは所有することではなく、自分の中のいろいろを受け止めてくれる誰かがいるということ、そして同じくうちにいろいろを抱いた誰かを見つけることなんじゃないかと思います。けれど、悲しいかな私たちはそうした機会を見つけることに慣れていなくて、まれに目の前に現れるチャンスにひるんで背を向けることさえあって、この漫画の登場人物というのは本当にそういう人ばかりなのだと思えば、私はやはりこの漫画を最後まで見届けないといけない、他でもない自分自身のために見届けないといけないという思いに駆られます。

メリノーを見て、ギーコちゃんを見て、そしてガウル、クロエ、トルクを見て、不器用な彼、彼女らが本当にいとおしく感じられます。そしてもし、私が私のすぐ目の前にそんな彼らを見つけたら、きっと手を差し伸べないではいられないと思う。けれど、その私の手は彼らを助けるためのものではなく、きっと彼らを手放さず、自分の所有として囲い込もうとする手なのだと、私は私の執着心を知っていますからそのようにも思えて、だからやはり私はこの漫画に描かれることをしっかりと見続けたいと思うのです。

そして、そのようなことを思いながらの帰り道に撮った写真:

Tranquillite tres lointaine

月は西洋においては女性性やカオスの象徴とされるけれど、けれど悲しく切ない私たちを導く燈であってくれればよいと、その先にやすらぎがあってくれればよいと、そのように感じて撮った写真です。

  • 篠房六郎『ナツノクモ』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第5巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第6巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 以下続刊

引用

  • 『IKKI』2006年7月号 小学館,523頁。