2006年9月30日土曜日

RICOH Caplio R4

 旅行に出ていました。国外、中国、四川省は九寨溝。美しい湖が数多くあるということで知られる地です。映画『英雄 / HERO』の撮影地として選ばれた場所でして、ほら、あの湖上での剣戟のシーン。水の碧も深くして、神秘に満ちたあの湖です。そこへいってきました。もちろん写真も撮ってきています。ご興味お有りの方は、どうぞご自由にご覧ください。ただ、全部で六百枚を越えています……。見るだけでも大変だと思います。

全部で六百枚を越えています — 。ほんと、持っていったのがデジタルカメラでよかったと思う瞬間です。使ったカメラはもちろんご存じGR DIGITAL、そしてCaplio R4でした。実はMINOLTA SR-T101も持っていったんですが、こちらは使う機会に恵まれず、結局重い荷物となってしまいました。やっぱり使いかってのいいカメラが二台もあれば、そちらばっかり使ってしまうというのが人情というものなのかも知れません。

さて、いくら景観に勝れた土地にいくとはいえ、カメラを三台も持っていくとは尋常ではありません。ここに私のこの旅行に対する情熱というか期待というかがうかがい知れるのではないかと思うのですが、とにかく撮って撮って撮ってきたわけです。その枚数、最初にもいいましたとおり、六百枚。これだけ撮れば、さすがにGRとR4のそれぞれのよさというのが見えてくる、とまあそんな風に思います。

そもそもGRがあるのにR4を持っていったというのはなぜかといえば、やっぱり広角単焦点のGRでは撮れないものがあるから、ということに尽きるのではないかと思います。歪みの少なく描写力に優れるというGRの個性というのは、ズームができないというデメリットを上回って魅力的であることは間違いないのですが、ですがそれでもやっぱりズームが欲しいというときもあるのです。そうですね、次の写真を見てください。

Huanglong valley

黄龍での一枚ですが、同じ場所からGRで撮るとこうなります。

Huanglong valley

実は一枚目の写真、こういうのはGRでは撮れないのです。GRには光学ズームはありませんがデジタルズームがついています。じゃあそのデジタルズームで撮ったらどうかといえばやっぱり駄目で、というのは、広角レンズは遠近感を強調する効果があるのに対し、望遠レンズは遠近を圧縮する効果を持っているのです。R4で撮った写真では寺院、人、木々が密集しているかのように見えますが、GRではかなりの隔たりがあるように写っています。この違いを実感して、やっぱりズームの使えるカメラもあったほうが便利だなあと、本気でそんなことを思っています。

ただ、これから買うとしたらR4じゃなくてR5かなと思っています。画素数が問題なんじゃないですよ。私が問題にしているのはカメラの操作性です。R4はボタンが押しにくいんです。特に電源ボタン。シャッターボタン左に電源ボタンがあるのですが、本体に埋まり込むようにデザインされているものだから、押すのにかなり気を使うのです。爪あるいは指先の肉で押し込むようにするんですが、あんまりに力を入れてしまうものだから、ボディ上面が軽くしなるのが怖いんです。対してGRはというと比較にならないくらい頑丈にできているし、ボタンも押しやすくできているしで、もしGRの操作性を持ったR4が出たら買っちゃうなあなんて思ったのです。

多分、R4の操作しにくさについては、多くの人が同じように感じたのでしょう。フィードバックを受けてか、R5ではボタンまわりの配置がずいぶん変更されています。電源ボタンはシャッターの右側に移り、しかも円形のGRでも採用されているようなかたちになっています。他にも、ズームアップダウンの位置が変わるなど、これは果たしてよくなったのかどうかわかりませんが、いろいろ見直しがされていて、ただ画素数が増えただけのマイナーチェンジではないと感じさせます。

でも、これはいってはいけないことだとはわかっていますが、いくらR5が操作性を見直したとしても、GRに比べることはできないでしょう。GRにはアジャストダイアルがついていて、これが非常に使い勝手がいいのです。露出のプラスマイナス補正やISOの変更、ホワイトバランスなどなど、気軽に変更できる操作性の高さはR4の追随を許しません。いや、R4もかなりこうした設定の変更はしやすいと思うんですよ。Adj.ボタンを押して変更するというインターフェイスは非常に優れているのですが、でもGRを知っちゃったらなあ……。というわけで、私はR4に関しては、ほとんどカメラ任せのオートで撮っていました。最初はホワイトバランスがオートになり、次いでISOがオートになりました。でも、カメラ任せでも割合にいい感じに写ってくれるから、特にこれで問題はなさそうです。撮影において細かく設定を変えるのもいいものですが、R4に関しては、カメラ任せでぱっと出しぱっと撮るというスタイルがよさそうだと、そのように感じました。そんなわけで、GRにおいてもいつかホワイトバランスをオートにする日がくるかも知れません。

以上、GRの弱点であるズーム機能を補完できるカメラを併用すれば最高なんじゃないか? っていう話でした。ズームの強さに魅力を感じるならR4やR5を、防水性や20mフラッシュに意義を見いだすなら500G Wideが選択肢となると思います。いや、ほんと、冗談抜きでR5が欲しいです。

最後にR4での作例をもう一枚。写真の出来を決するのはカメラの価格ではないということがわかるのではないかと思います。

Jiuzhaigou valley

2006年9月29日金曜日

ヨイコノミライ

  待ちに待っていた『ヨイコノミライ』最終巻が刊行されて、もちろん買って、そして読んで、 — これは私にとっても大いに考えさせられる漫画であったと思います。読み終えて心が穏やかでないのです。前に私がいっていた心配、救いが漫画の登場人物にまんべんなくもたらされるのかということ。この心配がはっきりとそのとおりにかたちを成して終わったという気がします。でもこのラストはなるべくしてなったのだろうと、二度目を読んで多少の落ち着きを取り戻した私は、ある種の残酷を、そしてある種の現実味を受け入れようとしています。それらは苦く悲しいものかも知れませんが、それをあえて受け入れたいと思わせる、この漫画にはそれだけの力があると感じています。

『ヨイコノミライ』は、漫画好きの少年少女という一種特殊な人たちを扱いながら、けれどたどり着いた先はといえば、ひどく普遍的な、人の生きるということそのものであったのだと思います。私たちは誰もが内に不安や弱さ、コンプレックスを隠しながら生きていて、けれどそれをおおっぴらにはしないでいるというだけなのですが、この漫画の登場人物たちはそうしたコンプレックスとそこから引き起こされる問題行動をあらわに私たちに突きつけます。それはあまりにも剥き出しで、まるで読者に対する挑戦であるかのようなのですが、……でも多分そうなんでしょう。これは漫画家が漫画の読み手に突きつけた挑戦だった。それゆえに厳しくつらく、しかしそうした苦さを飲み込んで越えることができれば、読者にとって大きな意味を持ちうる、そういう漫画であるのだと思います。

この漫画のラストに現れた明と暗の分かれ目を考えてみてもそうなのだと思うのです。自身の問題を乗り越えて前に進むことのできたものがあれば、停滞に飲み込まれるままに沈んでいったものもあった。この差はなんだったのかといえば、自分自身の問題点 — 弱さでありコンプレックスであるといった、誰もが目を背けたいと思っているようなこと — を直視し飲み下すことができたかどうかという一点であったと思うのです。思えばこれは、自分の人生を振り返ってみても同様で、苦い現実を見据えてなおまっすぐに取り組もうとする覚悟があるかどうかが人生の質を決定していると、そんな風に思う私はけれどまだ自分の本気を出さずにいるような気がしてなりません。だから私は青木に「本気を出した自分はスゴイ」そういう事にしておきましょうとあざけられ、挑発される側の人間なのです。

本気を出さないというのは、なにも余裕があるからではなく、むしろその逆なのです。本気を出さずにいれば、負けたとき、失敗したときにいいわけも立ちますが、本気を出してしくじれば自分自身へのいいわけも立たない。だから本気を出さない、出せない……。口でだけはなにとでもいえるから、ああしたい、こうなりたいと夢のようなことばかりいっているけれど、そして今は準備している途中なんだといいわけをして、けれど実際には踏み出す勇気がないだけなんだ。こうしたことを自覚している私には、なおさらこの漫画はつらく痛ましく、そう、他人事ではなかったのです。

だから、漫画研究会の面々に煩わしさや嫌悪も感じつつ、同時に過剰ともいえる感情移入をしたというのも至極当然のことで、とりわけ一部の人たちに仕合せな未来がきてくれればよいと願うような気持ちを抱いたというのもやはり当たり前だったのです。なぜなら、彼ら彼女らは私の一面でもあったから — 。そして私の仕合せになって欲しいと願った人たちは、一部は前へ前へと歩みを進めて、そして私のもっとも引き上げられて欲しいと思った人は落ち込んでしまって、だからなんだか私の胸にはとげが刺さったような感じがしています。こんな気持ちになることも、私の場合まれではないですが、けれどこれほどに深く感じ入ることはやはり多くはないのです。きっと、折りに読み返して、希望や絶望や安堵ややり切れなさを噛みしめることだろうと、そんな予感がしています。そしてその読み返すたびに、また新しい光や闇を見つけ出して、より深く彼らの短い季節に分け入ろうとするのだと思います。

蛇足

青木の天原に投げ掛けた言葉、私、本当の批評家は大好きよ。作品への新しい読み方を提示して、作品と作家と読者に、新しい道を拓いてくれるからは、私をしたたかに打ちました。私は自分自身が批評家であるなどとは露とも思っていませんが、それでも解釈者として、彼女のいうような、新しい読み方を見つけられるような読者であるのだろうかと、これまで自問自答してきた一点を打ち抜かれたかのような気持ちがしました。

だから、きづきあきらは、サトウナンキはすごいと。私の見たいものも見たくないものも、がっさりと底からすくうようにしてあらわにする、すごい漫画家だと思います。

  • きづきあきら『ヨイコノミライ!』第1巻 (SEED! COMICS) 東京:ぺんぎん書房,2004年。
  • きづきあきら『ヨイコノミライ!』第2巻 (SEED! COMICS) 東京:ぺんぎん書房,2004年。
  • きづきあきら『ヨイコノミライ!』第3巻 (SEED! COMICS) 東京:ぺんぎん書房,2005年。

引用

2006年9月28日木曜日

GA — 芸術科アートデザインクラス

 動物のお医者さん』の匂いがするっ! 雑誌に載っているのを読んでいたときには気付かなかったのですが、こうして単行本にまとめられたものを読めば、そこにはなんだか『動物のお医者さん』に通じる雰囲気があるのです。いや、佐々木倫子特有の諧謔やテンポが感じられるといいたいわけじゃないんです。私がいおうとしているのは、一種特別な課程に学んでいる学生たちの日常を描いているという、そのスタイルです。一般に広く知られている訳ではない、いわば業界ネタを扱っている漫画だというのに、それらネタが漫画としての面白さに直結しているというそこが似ているのです。『GA』で扱われているネタは美術やデザインといった、漫画に描くのに非常に向いたものときて、そしてそのネタとしての発展のさせかたが非常にうまい。 — 私がこの漫画に『動物のお医者さん』的なものを感じたのだとしたら、それはひとえにそのうまさに由来するのであると思います。

しかしなにがうまいといっても、美術の知識、 — 色彩や技法に関するうんちくめいたものをちりばめながら、それらを漫画の表現にしっかりと馴染ませているところでしょう。色のネタならば、その色によって引き起こされる効果というのを、目で見てはっきりとわかるかたちで示してくれる。けど、これだけだったらただの教科書や参考書の引き写しに過ぎないといったところですが、『GA』はちゃんとネタにするんですよね。ああ、なるほどそういうことかあ、ってのが実感としてつかめて、面白いなあと思えるのはすごいことです。美術やデザインの技法の奥深さを感じさせつつ、その軸をずらしてみせたところに生じるおかしさも表現して、そして個性的な登場人物のどたばたを交えてちっとも破綻というものがないのですから、このきゆづきさとこという人の構成力は素晴らしいなと、心の底から思えてくるのです。

全体に漂う完成感の高さというのも、『動物のお医者さん』の雰囲気に似ていると思わせた理由なのかも知れません。四コマ一本一本のテンポ、リズムを大切にしながら、一回掲載分の大きな流れもかっちりと作り上げられています。その時限りかと思われたネタがうまい具合に後で回収されているということも頻繁で、頭から最後まで、そして細部からおおまかなインプレッションまで、よくもまあこんなにというほどに気が配られていて、けど変に仕組まれたというような硬直なんてものは皆無。キャラクターそれぞれの人柄なんかはまるでそういう友人を自分も持ったかのように温かで近しくて、彼女らの関係の絶妙なバランスもほのぼのとしてまた時には緊張感も持たせて、本当にうまい漫画家であると思うのです。構成の力強さに、どうすればよりよい表現となりうるかを追求した練り上げの妙が、非常にレベルの高い位置で引きあって、決して派手とはいえないこの漫画をきらきらと輝くような一級作に押し上げています。

蛇足

山口如月、この人いっぽん、といいたいところですが、案の定キョージュも大好きです。でも、一番かわいいと思ったのは、83ページ、これ誰か—、のノダちゃんだったりします。

しかし、それにしても、この漫画の登場人物はみんなみんなかわいいよね。してやられてるとは思うんだけど、あらがえないのはしかたないじゃんか。

余談

とらのあなという店がありますが、『とらだよ。』というとらのあな無料情報誌にも『GA』が掲載されています。その名も『GA材置き場』。私、この漫画のためにとらのあなに通ったりしてたのですが、なぜか店頭に置かれなくなって(梅田店だけ?)、そんなわけで読めなくなってしまいました。

『GA材置き場』も非常にしっかりと作り上げられた良作の一ページ漫画なので、いつか一冊にまとまってくれるといいなあ、なんて思うのですが無理なのかなあ。もしこれが消えゆくばかりなら、そんなにもったいないことはないと思います。

2006年9月27日水曜日

目のうろこ — 尻暗い観音ユーラシアひとり旅

 私は『中国いかがですか?』を読んでこの小田空という人はすごいと思ったのですが、『目のうろこ』を読んでその印象はなお深まりました。この人は本物だと思う。この広い世界を渡って、よいものも悪いものもすべて見て、体験して、そしてそれを自分の糧にして生きていける人だと、本当の意味での個人であると、そんな風に思って、実はちょっと憧れて尊敬しています。

阪神の大震災の年、いつ何時余震がくるかわからないから、ポケットにラジオを入れて聞きながら移動していました。聞くのはNHK、インタビュー番組に出演していた児童文学者の角野栄子がこんなことをいっていたのがひどく印象的でした。塀の上の人。境界線上に立って、向こうとかこちらとか関係なしに、両者を同じく感じることのできる人のことをいっていて、私はまさしく小田空という人がこの境界線上の人だと思います。

この本を読んで感じたこと、まず第一に小田空は変な人だということです。友人である漫画家たちが語る小田空像にもそうした印象はにじんでいて、しかし同時に皆がこの人を好きなんだなということが伝わってくるというのが素晴らしい。子供のように奔放で、かと思えば語学堪能で度胸があって、貧乏旅行で世界のあちこちを回り、普通の人ならしり込みしたり、そもそも思いもつかないようなことをしてきたりするらしいんですが、その自由さというのは私たちがいう常識や分別にこの人がとらわれていないという証拠なのだと思うのです。だから、新しいことでも素直に受け取って、偏りなしにまっすぐ自分の感性ではかることができるんだと。こうした資質というのは本当に素晴らしく、そして希有であると思います。私たちは常識とか普通、当たり前という偏りにがちがちにとらわれていて、なにより心が自由じゃない。自分の狭い料簡にはずれた人やものを見ては、あれは変だとか、あれはおかしいといって、遠く遠くへ追いやろうとする。でも、小田空ならきっと、そうした小さな料簡こそがおかしいというと思うのです。つまらない意固地を取り去ってしまった先には、きっともっと広く豊かで自由な世界があると、この本はそういう大切なことを告げていると思います。

大切なこと、それはなによりも人と人との関係なんじゃないかと、当たり前のことなんですが、この本を読めば本当にそう思えてきて、そして私は泣けてきて仕方がありません。この人は世界のあちこちで、それはそれはいやな思いもしてきたというのがこの本見ればわかるのですが、でもそれでもその国や土地を嫌いになれないのは、いやな気持ちを上回るだけのよいことも経験したからなんだ、 — そしてそれは人と人との交流の先にあったんだと思う……。胸にぐぐぐーと迫ってくるんですよ。この思いはちょっと言葉にはならない。けどひとつはっきりいえるのは、この人の経験してきたことが大変に豊かであるということ。そしてその豊かさは溢れてきて、私の思いも一杯にしてしまうのです。

2006年9月26日火曜日

missing

 その頃は私はSAJUなんて名前さえも知らなくて、だからmissingを買ったのは本当にちょっとした偶然でした。中国語をはじめて、言葉の響きに馴染むにはその言葉で歌われている音楽を聴くのが一番だということで、チャイニーズポップスを買いにいったのです。その時、どうせならもう一枚と思い、余計に買ったのがこのアルバムでした。つまり、ジャケ買いというやつですね。クレジットされている名前も知らなければ、入っている曲がどんなのかもわからない。そもそもジャンルだってわからないんです。だってね、英語の歌とかだったら結構細かくカテゴリが分けられてたりするんですけど、こういう中国語やなんかとなると、十把一絡げにワールドだったりするじゃありませんか。逆にいえば、そういう乱暴なカテゴライズだったから出会えたともいえます。だって私はチャイニーズポップスを買いにいったのですから。SAJUが艾敬のすぐそばにあったというのが巡り合わせというものなんだと思います。

私は未だにこのアルバムがどういうジャンルに含まれるかわかっていないのですが、帯を見ればアンビエント・エスノ・ミュージックとあるから、つまりはそれなんでしょう。エスノといえば民族的なということだから、民族音楽色の強いアンビエント。よくわかんないですね。けど、このアルバム、私が気に入っているということもさておき、実は多方面で受けがよかったりしたのです。私が占いをやっていたというのは以前ちょっといっていましたが、セッションの時、バックグラウンドでこのアルバムをがんがん流していたら、お客さんが気に入ってしまって、CDの番号を控えて帰られた。こういうときは私もなんだか嬉しくなります。自分の興味やなにかが誰かの感性と繋がったみたいな感じがするものですからね。

最初私は気付いていなかったのですが、このアルバムには民謡が二曲含まれていて、それはどれかといいますと、二曲目のrunning towards the west、これは中国民謡、それからsekeraso、こちらはチベット民謡。民謡が含まれていると気付いたのは、ある日NHKの昼の番組で中国からきた民謡歌手が紹介されていたことがあったのですが、その人たちが一曲歌って見せたその歌というのがrunning towards the westだったのです。無伴奏、素直な節回しで歌われるその歌はSAJUのものとはずいぶん印象を違えていましたが、けれどまったく同じ曲であることは一聴すればわかります。つまり、SAJUは原曲に忠実に歌ってみせながら、しかしその歌をアンビエントジャンルに非常によく溶け込ませているのです。これってなんかいいなあ。私は民謡に興味を持っているといっていますが、その民謡とは決してイギリスをはじめとするヨーロッパだけのものではなく、日本のものにしてもそうだし、そして中国にしても同じです。そんな私にとって、SAJUのrunning towards the westはすごく魅力的であるのです。古くからの音楽が新しい様式に出会って調和しているという、それってすごく素敵なことで、だからもっとなされていい試みだと思うのです。

2006年9月25日月曜日

英雄 / HERO

 私はこの映画をテレビで見たのですが、はじめてみたその時、すごい映画が中国から出てきたものだと、本当、あぜんとするかの思いでした。中国の映画というと、往年の香港カンフームービーみたいな頭があって、基本的に師匠の敵、親の敵を討つというのがパターン。よくいえばシンプルなその形式の中で、主人公の体を張ったアクションというのが光る。こうした印象はその後も続いて、映像がきれいになって、映画全体に感じられた泥臭さというのが抜けたとしても、中国(香港?)アクションムービーといえばジャッキー・チェンの初期作品の延長にある作品であるという感じがしたんですね。

ところが『英雄 / HERO』は全然違ったのです。

謎めいた人物、無名が登場して話が動き出すその見せかたがいちいちかっこいいというのはどうしたものでしょう。盲目の老人の弾く琴の調べに合わせ繰り広げられる戦いがあれば、書の世界での心理劇などもあって、それぞれのモチーフとなる芸術なりの思想が前面に押し出されて、桶にたがをはめるように映画を引き締めていく。シーンは二転三転、前提となる条件を違えていって、そのつど私は翻弄されながらも、圧倒的な映像の美と説得力にううんとうならされます。そして無名と王の対話に戻れば、王の突きつける鋭い指摘が再び物語を解体し、組み直させるのです。

黒沢の『羅生門』を思い出させましたよ。起こった事件について語られる証言、それがことごとく食い違ってくるという物語。ですが、『英雄 / HERO』は『羅生門』ぽく感じはしたものの、羅生門的ではないのですね。語られる物語が二転三転するのには理由がある。その理由がなんなのかが語られたときに、物語は一気に透明度を増し、加速していって、そして鮮烈なラストを迎えるのですが、この一連の見せかたのセンスのよさよ。

これからの中国は侮れないと、本気で思いました。真っ正面から取り組んで、見事に映像の美の世界を作り上げることに成功している。ただのアクション映画ではないと、久しぶりにすごい映画を見たと、本当にそんな気持ちにさせられた映画でありました。

2006年9月24日日曜日

中国いかがですか?

  以前にもちょっといっていましたっけね。私が中国語を習いはじめることになった決定的なきっかけというのは、ある日ふらりと立ち寄った本屋で何の気なしに手に取った『Office You』掲載の漫画『中国いかがですか?』があまりに面白かったからだって。実際この話は紛れもない本当で、もう一タイトルの漫画『拳児』とともに、それまでむしろ興味のなかった中国に目を向けさせる大きな動因となったのです。いやあ、実に単純な話でお恥ずかしいのですが、実際私の興味の出方というのはこういう風なのが非常に多いです。

でも、対象に深い愛情を持って取り組んでいるようなものを見れば、しかもそれが面白いとくれば、読み進むうちに、あるいは読み返すうちに、自分も同じくその対象に愛着を持ってしまうのは自然なことなのではないかと思うのです。小田空の漫画に関しては中国であった。それだけのことなのだと思います。けれど、それだけのことと口でいうのは簡単ですが、それをかたちにして示すというのはどれほどに大変なことだろうかとも思うのです。

小田空の場合は、そもそもが魅力的な漫画を描ける人で、しかもエッセイぽいものも得意にされてた人で、そこに中国という土地への情熱が加わったのだから、この困難なことも成ったのだと思うのです。日本では、しかもとりわけ私の育ってきた時代では、到底あり得ないようなことが起こる中国という国が面白おかしく紹介されているのですが、それがただ異郷の地として描かれているわけではないところに、この漫画の真価があります。小田空は日本人の目で、常識で中国を見ながら、同時に中国人の目と常識を自分自身に引き寄せようとしている、とそのように感じるのです。この、ともすれば相反するような価値と常識の狭間で、小田空は中国と日本というふたつの国、文化、風土を等距離に見ることに成功しています。日本の常識は中国の非常識となり、中国の常識は日本での非常識で、しかしそれらを超えたところに、日本も中国もない、本当に大切なことが現れてくる。旅人であり生活者でもある小田空は、多様な文化の入り交じる中に飛び込んで、そしてまっすぐに対象に向き合ってつかんでいると、そんな実感が確かに私にもするのです。

そうした実感があまりに大きかったものだから、私は未だに小田空の影響を抜けることができていないように感じています。私が興味を注いでいる中国という国は、あくまでも小田空が見て、体験した中国なのだと、そんな風に思って、そうなんですね、ただ見て追体験するだけではなく、自分自身でも知りたいとそんな思いがしているのです。中国語を習いはじめたのもそういう動機であったのだと思います。そしてその知りたいという欲求は消えず、今でもおりに沸き起こっては私の興味を突き動かそうとします。そしてその度に私は、少しずつ深みにはまっていくのではないかと、そんな風に思います。

2006年9月23日土曜日

らんま1/2

  私はよくよく考えたら、そんなに高橋留美子が好きなわけでもないのですが、それでもよく見てました。『うる星やつら』のアニメは小学校の時にはじまったんでしたっけね。第1話もしっかり見てます。最終回も見ましたよ。そして『めぞん一刻』。ああ、これは途中までだ。途中で展開のあまりのなさにいやになったんでした。『らんま1/2』がはじまるのはこの後ですね。これも見ましたよ。結構面白かったと思います。呪いの泉に落ちたために、水を浴びれば女になるという宿命を背負った乱馬と、そのいいなずけであるあかねのちっとも進行しないどたばたラブコメ。ああそういえばテレビの最終回ってどんなだったんだろう。思い出せないところを見れば、やっぱりドロップアウトしてるみたいです。

と、こんな書き出しをして、やっぱり高橋留美子はそんな好きじゃないんだなあと自分自身でも思います。でも、それでも見れば面白いと思うところがあるのですから、それはやっぱり、高橋留美子の漫画の面白さというのは、好き嫌いを越えて訴えるという証拠なのではないかと思ったりもするのです。

私がインターネットに本格的に接続をしはじめた頃、せっかくこんなワールドワイドな媒体を利用できるのだからと、一念発起してメール文通をしようと決めたのでした。PenpalならぬMailpalってやつですか? 当時、すでに海外にはMailpalを募集するためのサイトというのができていて、私はそこに登録してメールの来るのを待ったのですが、やっぱり私が日本人だからでしょう、アニメや漫画が好きだという人からのメールが多かったことを記憶しています。

その時に人気のあったアニメというのが、まず『セーラームーン』。これは男女問わず人気でした。そして『らんま1/2』も人気だったのですね。Rumiko TakahashiのMangaが好きだという人がいて、その情熱が慣れぬ英文越しにでも伝わってきたものだから、こないだ出たところの最終巻を見つけたら送るよと約束して、けどなぜかその頃『らんま』の38巻は品薄。数店舗回って見つけられず、ようやく手に入れたころにはメールのやり取りが途絶えてしまっていて、だからその本はまだ私の手もとにあるのです。

こういえばワンパターンなんだといえそうですが、この漫画の面白いところというのは、素直になれない主人公早乙女乱馬と同じく素直になれない天道あかねの、近づいたと見れば離れ、離れるかと思えば近づくという、そういうところなんだろうなと思うのです。見ているほうはそりゃやきもきしてね、ああもう、もうくっついちまえよなんて思うのですが、そう思わせたらきっと勝ちなんだろうなあ。だって、そう思うのはつまり、主人公ふたりのことをほっとけないっていってることと同じじゃないですか。そうなんですね、やっぱり私もこの漫画のこと好きだったんだと思います。ギャグも大目で、あの、誰でもとりあえず呪泉郷に落として、水をかぶればなんかに変身するようになってるという畳み掛けは、ようやるわと思いながらも笑ってしまって、正直私は『らんま』は格闘やらなんやらよりも、そうしたギャグの要素の方を好んでいたのでした。

これは漫画ではなくてアニメなんだけれど、たまに『らんま』が再放送されていたりしたら、なんとはなしに見てしまったりすることも多くて、それであかねがやたらかわいく感じられたりするのはあれだよなあと思ったりして、つまるところ日高のり子はよいといっているのですが、機会があるならまたしっかりと見てみたいなあとそんな風にも思います。

あ、思い出した。私が高橋留美子を好きになれないのは、この人のやるエロまじりのギャグの表現が嫌いなんですね。ほら下着に対するフェティシズムっぽいのをやるでしょう。あれが生理的に受け付けない。そうか。そうだったんですね。

  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第1巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第2巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第3巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第4巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第5巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第6巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第7巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第8巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第9巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第10巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第11巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第12巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第13巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第14巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第15巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第16巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第17巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第18巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第19巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2002年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第20巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第21巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第22巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第23巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第24巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第25巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第26巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第27巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第28巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第29巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第30巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第31巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第32巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第33巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第34巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第35巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第36巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第37巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2 新装版』第38巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2003年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第1巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1988年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第2巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1988年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第3巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1988年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第4巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1988年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第5巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1988年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第6巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1989年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第7巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1989年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第8巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1989年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第9巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1989年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第10巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1990年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第11巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1990年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第12巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1990年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第13巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1990年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第14巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1991年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第15巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1991年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第16巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1991年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第17巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1991年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第18巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1992年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第19巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1992年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第20巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1992年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第21巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1992年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第22巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1992年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第23巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1993年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第24巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1993年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第25巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1993年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第26巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1993年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第27巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1994年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第28巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1994年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第29巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1994年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第30巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1994年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第31巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1994年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第32巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1995年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第33巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1995年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第34巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1995年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第35巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1995年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第36巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第37巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 高橋留美子『らんま1/2』第38巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。

2006年9月22日金曜日

ウィザードリィ エクス — 前線の学府

  最初私は、Wizardry XTHを遊びはじめる日は一体いつになるか、これはちょっとさだかではありませんだなんていっていましたが、いざ実際手もとに届いてみたらですよ、こればっかりやってる。もうー、いつもながら私のいうことは信用できないってことです。でですね、こればっかりやってるというのはどういうことかというと、結構面白いのですよ。これまでやってきたWizardryと同じようにかといわれるとちょっと答に困るのですが、正直なところ、オリジナルWizとは違った面白さのあるゲームであると感じています。迷宮に潜るときの、一歩間違ったら全滅感というのは今のところ感じないのですが、でも下手をしたらいくらでも全滅できるなあという予感はひしひしとしている。というわけで、今回は中間報告をやってみようかと思います。

現在の進行状況はといいますと、第一パーティ第二パーティともにマスターレベルになったくらい。けどシナリオであるとかの進行はほとんど進んでいない。そんな感じかと思います。シナリオ(つまりクエスト)が全然消化されていないのにマスターというのはどういうことかというと、つまり今のところシナリオよりも興味のあるものがある、ということなのです。

それはなにかといいますと、キャラクターの強化というか、そうですね、パーティの強化です。第一パーティは戦士戦士盗賊僧侶魔術師魔術師という極めてオーソドックス感の強い編成です。さて、この編成では問題があります。それはなにかというと、僧侶呪文の不足なんですね。私は宝箱の罠識別時にCalfo(XTHではケアルフォ)を併用するよう決めておりまして、このCalfoというのは僧侶系レベル2呪文でありますから、つまり僧侶系呪文が少ないと宝箱の開閉時にちょいと不安があると、そういうわけなのです。だからとにかく僧侶系呪文を充実させるべく、早めにひとりバルキリーに転職させたかったのです。

Wizardry XTHで驚いたことは、転職(転科)のペナルティが極めて少ないということです。オリジナルでは、H.P.こそ現状維持ですが、各特性値は種族の基本値にまで一気に引き下げられ、さらに五歳ほど加齢します。これがきついからできるだけ転職は避けようという考えも出るのですが、XTHではちょっと違う。特性値持ち越し、加齢なしで転科できるんですね。だからペナルティはといえば、レベルが1にまで下がることとH.P.が半分ほどに減らされることくらいしかありません。でも、レベル10そこそこで転科した場合、失ったH.P.はレベルを5ほども上げれば取り戻せるわけで、だから特性値の上昇を狙って転職を繰り返すのもひとつの手じゃないかと、そんな風に感じるシステムなのであります。

こんな、転科しないと損とでもいえそうなXTHです。だから第二パーティでもひとり転科させてみました。第二パーティは戦士戦士盗賊僧侶僧侶司祭という編成で(なんとまあバランスの悪い……)、はっきりいって魔術師系呪文が強烈に不足しているものですから、戦士をひとり侍に転科させたのです。でも、今回はちょっと大変でした。バルキリーに転科したのは人間で、バランスよく特性値があがってくれたからレベル10での転職もかなったのですが、フェルパーは知恵と運が低めですから、侍の要求するポイントまで持っていくのにえらく時間がかかりました。ええと、レベル12ですね。比較的早くエリートクラスを欲しい場合は、高ボーナスポイント(40とかもでるそうで……)を狙うのをなしにすれば、狙いの職業に則したボーナスポイント割り振りをしたうえで戦士に就ける。その後レベルアップ、転科というのが早いんじゃないでしょうか。え? なんで戦士? 盗賊じゃなくて? ええ、なんとXTHでは盗賊よりも戦士の方が早くレベルアップするのですよ。これは驚きました。だから、促成でレベルを上げたい場合には戦士が便利です。もう、驚くような早さでマスターまでたどり着けると思います。

こんな風にレベルアップ→転科ばっかり考えているものですから、全然シナリオが進行しないわけです。あと、アイテムの生産も一生懸命ですよね。宝箱を開ける、アイテムが出る。XTHではがらくたを修繕して元のアイテムに戻すという技(錬金)があるので、壊れたアイテムを実験室に持ち込んでは、やれ糸と組み合わせたりやれくず鉄と組み合わせたり、これが面白いんですよ。とにかく、がらくたの方がたくさん出てくるから、パーティの強化には錬金が欠かせないという感じで、不要なアイテムは片っ端から分解して素材をとりだしてといった、極めて地味な作業を続けています。

さて、Wizardryといえば戦闘ですが、ちょっとこちらはあんまりかなあというのが印象です。雑魚は非常に弱いです。考えなくボタン連打してたらほぼ無傷で勝てる感じ。かと思えば、通常攻撃のやけにあたりにくい敵もいて、こいつらを倒すには呪文必須だけど、運悪くその時は第二パーティでの探索だったので複数攻撃呪文がなかった — 。もう死ぬかと思いました。相手の唱えてくる睡眠の呪文でパーティの半分が機能しなくなって、やばい逃げようと思ったら逃げられない。回復しては逃走を試みるのにどうしても逃げられない。ほんと、参りました。全滅を覚悟しました。運良く死者ゼロで切り抜けられたのはパーティにバハムーンがいたからで、彼のブレスでもって敵方スペルユーザーを全滅させられたからなんとかなった。もし彼が戦闘不能になっていたら、ひとりふたりは確実に死んでいたでしょう。

この逃げられないというシステムは、ちょっと参りますね。私はWizardryの持ち味は、逃走は九割成功するだと思っているのですが、ちょっと深入りしても命からがら逃げ戻れるというそのバランスがあるから、あの死に対してのシビアさを受け入れられるんだと思うのです。それがあんなにも逃げられない。なんじゃこりゃ、Apple版かよ! ドラクエのしかしまわりこまれてしまったを思い出しましたね。あの、ちょっと強めの敵にあってしまったら最後、泣きそうになるほど逃がしてくれないというのを体感的に思い出して、なんだかいやなゲームかもなあと、このときだけは恨み言を思いました。

その後、逃走アイテムを常備するようにしたのは当然のことでしょう。そう、なんで逃走用アイテムがあるか、なんですよ。それは、そうしたアイテムを使わないと逃げられないってことを如実に物語っていて、こんな単純なこと、もっと早く気付いておくべきだったと思います。

こんな感じでWizardryらしさを残しつつ、Wizardryとは違うらしさを持っているのがXTHであろうと思います。だからWizardryと思ってプレイすると、そのちょっとの違和感に身もだえするかも知れない。だから、Wizardryライクゲームと思ってやるときっと仕合せ。これが現時点における私の感想です。

Apple版

本当の意味でのオリジナルであるApple II版Wizardryは、逃走成功率が異常に低いことで怖れられています。いや、ほんと、しゃれにならないほど逃げられません。勝てない敵にあってしまった=全滅必至、リセットしますか? Y/N、N→全滅確定。と、こう考えていいくらいに逃げられません。

引用

2006年9月21日木曜日

Penguin Eggs

 以前、友人がいっていたのです。Amazonのこの商品を買った人はこんな商品も買っていますにはしてやられてばっかりだ。ほら、Amazonは自分の顧客の動向をデータベース化することで、他の顧客へのお勧め品を自動作成するという機能を持っています。これ、結構大ざっぱではあるんですが、確かに友人のいうように効くんですよね。おお、こんなの出てたのか、知らなかった、買おう。へえ、こんなのあるんだ、知らなかった、買おう。友人にとっても危険なら私にとっても危険であること間違いなく、そうなんです、私もやっぱりしてやられているのです。いや、してやられていると一方的にいっちゃあいけないな。だって少なくともこの機能のおかげで、もしかしたら知ることのなかったものを知ることができているのですから。そうしたひとつの成果がニック・ジョーンズのPenguin Eggs。トラッド色の強いアルバムです。

収録曲9曲のうち、6曲がトラディショナルナンバーです。でも、残念ながら私はどれも知らなくて、まったくの新曲のような気持ちで聴いています。そう、まったくの新曲のように聴けるのです。確かに民謡が歌われているのに、それにこのアルバム自体も1980年にリリースされたものなんですが、全然古さを感じさせません。ちょっとスローテンポ気味に演奏されるギターに素朴に歌われるメロディというスタイルは、もしかしたら地味かもは知れませんが、けどそうしたシックな味わいというのは決して時代の中で古びないのかも知れないということを実感させてくれるアルバムです。本当にこのアルバムに出会えてよかったと思える一枚でした。

私はこのアルバムでニック・ジョーンズを知って、いろいろ調べてみたら、事故が原因で演奏活動から退かれたらしいとのこと。うう、世の中とはままならないものと思います。他のアルバムはというと、どうも今ではPenguin Eggsだけしか流通していないらしく、ですがAmazonのカスタマーレビューによれば彼のサイトから直接買えるものもあるそうです。

しかし、本当にギターと歌が調和していてかっこいい。ギターは決してでしゃばらないのに押さえるところはしっかり押さえて効果的に響き、歌に寄り添うようにしてともに世界を作り上げます。ああ、こういう風に弾けるようになりたいなあ。心の底から思って、どう弾いているんだろうと耳を傾けているうちに、なんだか歌の魅力に心が持っていかれてしまうから、未だによくわからんのです。私は本当に耳コピがだめだと、こういうときに思うのですが、それはひとえに分析的に聴くことを放棄してしまう瞬間があるからなのだと思うのです。なにはなくともその音楽の世界に没頭してしまいたいと、そう思う瞬間が間違いなくあるのです。

2006年9月20日水曜日

がんこちゃん

 萩岩睦美は私の好きな漫画家であるうんぬんとは、これまでも何度かいってきました。例えばそれは『アラビアン花ちゃん』で、そして例えば『パールガーデン』で、でも私が好きなのはこれら旧作だけではありません。以前購読していた雑誌Youに掲載されていた『がんこちゃん』。これが面白かったのです。主人公のがんこ(ほんとは元子と書いてもとこと読むんだけど)という娘はほんとにやんちゃでやんちゃで利かん気で、でも漫画にはがんこの引き起こすできごとの顛末と、振り回されながらもがんばるお母さんの姿、そのどちらもがとてもチャーミングに描かれているから最後にはじんと胸に兆すもののある — 。これは本当に良作です。

実はですね、『アラビアン花ちゃん』の文庫後書きに『がんこちゃん』が少し触れられているのです。作者の発想が『花ちゃん』の時代と『がんこちゃん』の時代とでまるで変わっていない、という話をされているのですが、でもその描き方が全然違っているのでまったく気にはなりません。むしろ同じ発想を根としてこれほどに色合いの違う花の咲くのだなと、いや、どちらが良いと悪いといいたいわけではありません。だって私はそのどちらの花も大好きなのですから。

『がんこちゃん』の本当にいいと思えるのは、日頃がんこの世話に追われて余裕をなくしているお母さんが、なんだか不機嫌だったり怒ってばかりいるのだけど、けど本当は一番がんこの近くにいて、がんこのよさも(もちろん悪さも)がんこの考えも一番に理解しているというそこなんですよね。いや、理解しているとかじゃないですね。お母さんは本来がんこの同類なんです。だから気持ちがわかるのも当たり前で、本当だったらお母さんがやりたい、けどお母さんは大人だから……、とそういう葛藤が描かれたりするのは、見ていてなんだかとてもかわいい。そうですね、こういう描写がなされるのを見て、私はこの漫画はいい漫画だと、この漫画家はいい漫画家だと、心の底から思ったのでした。

ちょっと遊び心があるのもいいですね。『花ちゃん』にて触れられてたのは水族館にてゾウアザラシを逃がすという話なんですが、この話の導入で、お母さんが好きだった漫画、大事にとってしまっていた漫画をがんこがいつの間にか引っ張りだしてきて読んでるというシーンがあるんです。で、その漫画が『プーイ』なんですよ。

そう、この表紙!

『プーイ』も私の好きな漫画で、本当に好きで好きでしかたがなかったから、あの絵を見たときには転げ回るほどに面白かった。で、その後の話というのがまたよかった。作者がいうように荒唐無稽だと私も思います。現実じゃこんなの無理だよなと私も読みながら思ったんです。ですが、萩岩睦美には魔法がある。あり得ないことを、あってもいいよねと思わせる力がある。萩岩睦美の魔法は、こんな風だったらいいなと思うことを素直にまっすぐに描いてみせることで、読み手の心に深く深く働き掛けるのです。

  • 萩岩睦美『がんこちゃん』(クイーンズコミックス) 東京:集英社,2005年。

2006年9月19日火曜日

The Folk Den Project

 クリスマスのイベントで歌うことになりました。ええーっ、クリスマスのイベント! あんたが!? 似つかわしくないという気も確かにするのですが、けど声をかけてもらったんだもの、仕方がありません。それに、なんとか人前で演奏する機会を持たないことには技術の向上も図れないというわけで、珍しく私はやる気を見せているのです。で、ここで問題が。なんといっても私は別れ歌うたいといわれているような人間で、つまりレパートリーはというとやれ別れだとかやれ悲しさだとか、そんなのばっかり、暗いんです。けどさすがにこれをクリスマスイベントでやるほどに私は神経が太くできてはいません。だから、早急にクリスマス用の曲を探す必要があったのでした。

条件はみっつ:

  1. クリスマスの歌
  2. ポピュラーすぎない
  3. パブリックドメイン!

スタンダードなんだけど、あんまりスタンダードすぎはしないもの。いやあ、むつかしいですね。平たくいえば民謡、トラディショナルを探しているんですけど、残念ながら思うようには見つからず、ようやく見つけたのが、前にもちょっと紹介のOne Hundred English Folksongsに収録のThe Twelve Days of Christmas。この歌、ちょっとした仕掛けがありまして、一日目から歌いはじめて十二日目までクリスマスの贈り物がひとつづつ増えていくという仕組みなのですが、ちょっと楽譜を見ただけではどんな風に歌われているかがわからない、ということでインターネットに解を見つけようとして、その探索のすえにロジャー・マッギンのFolk Denにたどり着いたのでした。

わーお、こりゃ宝の山だぜ! マジでそう思いました。

全曲、演奏がMP3で紹介されているだけでなく、歌詞付き、コードネーム付き、ものによっては楽譜までついてる! わー、ほんとに至れり尽くせりってやつだよ。しかも、演奏がうまいんだ。で、ここで私は無知をさらすのですが、私はこのロジャー・マッギンという人を知りませんでした。トラディショナル系のフォークシンガーなのかなあなんて思ってたら、いやいや、元バーズのリーダーというではありませんか。なんと、そりゃうまいわけだわ。恐れ入ったのでありました。

ここからはリンク先の受け売りですが、このFolk Denという取り組みはフォークソングの口伝を目的に開始されたものなのだそうです。1995年に開始され、2005年(つまり昨年)に十周年を迎えた。その十周年の節目にFolk Denで紹介されたフォークソングを四枚組のアルバムにしたと、そういうことなのだそうです。

しかし、1995年とは気の遠くなる昔です。だって、バーナーズ・リーがWWWを開発したのが1991年、日本における商用利用の開始は1993年ですが、残念ながらそれらは一般のユーザーが簡単に参加できるほど敷居の低いものではありませんでした。私が始めてインターネットに接続したのは1996年ですね。あの、なにもかもがしょぼかったけど、なにもかもが輝いて見えた時代。そのWWW黎明期にすでにFolk Denはあったんだ。そう思うとなんか胸が熱くなってきます。

そんな理由からでしょうが、Folk Denの提供するMP3には音質の劣るものも多く、これの高音質版が欲しいなあなんて思っていた私にはアルバムThe Folk Den Projectの存在はまさしく僥倖でした。これは、買うね。きっと買います。今は残念ながら、日本での取り扱いがなされていないらしく、AmazonでもHMVでも見つけることができません。きっとフォーク系の輸入盤専門店みたいなところでは扱っているでしょうが、私はきっとCD Baby買うなあ。いや、ほんと、このアルバムは買いですよ。フォークソング好きならぜひ押さえておくべき盤、名盤だと思います。

さて、肝心のThe Twelve Days of Christmasですが、この曲、私知ってますね。しかも、めちゃくちゃ有名な曲じゃないですが。で、弱ったことに私の手もとにある楽譜は、おそらくこれのより古いヴァリアントなのです。なにが違うかといいますと、一部歌詞が違う、メロディも違う、コード進行も違うで、まあこれは別の曲と考えてもいいんじゃないかな……。

ロジャー・マッギンを手本にポピュラーなバージョンを習ってもいいかなとは思ったのですが、今回はあえて手もとのシンプルバージョンでいこうと決めました。けど、本当にフォークソングとは奥が深いものであるなと痛感したエピソードでした。

将来のためのリンク

参考

抜粋盤

2006年9月18日月曜日

予感の風

昔、『魔法騎士レイアース』というアニメがあって、原作は『カードキャプターさくら』で有名なCLAMP。いわば知るひとぞ知る漫画家であったCLAMPは、漫画、アニメとメディアミックス展開された『レイアース』によって広く知られるようになった……、のだと思います。実際『レイアース』は鳴り物入りで、といってもいいくらいの力のいれようで展開されたのですが、例えば、アニメの宣伝を電車の吊り広告でおこなったといったらそのやる気のほども見えるのではないかと思います。そして、例によって例のごとく、私はアニメを見、漫画を集め、あまつさえCDにまで手を出したのでありました。

『予感の風』は、メディアミックス展開を見せる『レイアース』のキャラクターソング集としてリリースされた『魔法騎士レイアース ORIGINAL SONG BOOK』に収録の一曲、歌っているのは鳳凰寺風を演じる笠原弘子でした。

このアルバム、歌い手の技量もあって全曲をお勧めできるかというと実に微妙なのですが、こと笠原弘子に関してはよいと断言してもいいと思っています。技巧派かといわれれば残念ながらそういうわけでもないのですが、けれど歌というのは技巧だけがものをいうものでもありません。笠原弘子の独特のやわらかな雰囲気は、鳳凰寺風というキャラクターを決定的に確立させ、そして『レイアース』という文脈を抜きにしても、よいと思える曲を作り上げています。ちょっとポップな曲調、しっとりと落ち着いた風合いはこの曲を聴いている私の心を優しく穏やかになだめるかのようで、ああ美しいなあ、いい曲だなあとそんな感じにうっとりします。

実は『レイアース』は、私の最初期のアニメの時代に引導を渡したアニメでした。私は物分かりのいい消費者だったから、ことCD、サントラの類に関しては出る順出る順に買っていって、そしてついにそれら物量は私の把握能力を上回ってしまったのでした。サントラやら関連アルバムやらが次から次へとリリースされた『レイアース』。ちょうどその時代、他のアニメも似たような方向へ走ったのですが、私はそういう風潮になんだか疲れてしまって、アニメもほとんど見なくなってしまったのでした。『レイアース』に関しては、最後だけは見たかな。けど、中抜きだった。行き当たりばったりの展開、各キャラ平等に与えられる見せ場の陳腐さにげんなりして、だから私にとって『レイアース』とは、あえて振り返りたくない過去のものなのです。

でも、それでも『予感の風』は好きです。同アルバム収録の『ずっと』とともに、私の大切な曲として、これから先もずっと記憶されることだろうと思います。

2006年9月17日日曜日

トップをねらえ!

   知人が最近『トップをねらえ!』を見たらしく、その感想を書いていたのを読んだのですね。感想はといえば本当に簡単なものだったのですが、けど、なんだか好きだということが伝わってくるようで、ああ久しぶりに見たいなあなんて思ったのでした。けど、テレビで放映していたのをしっかり全話録画したはずなんですが、一体ビデオをどこにしまったことやら、見つかったものはといえば『風の名はアムネジア』と『究極超人あ〜る』で、見ちゃいましたよ、見ちゃいましたね。けど、当初見たかったはずの『トップ』は一向に見つからず、おっかしいなあ。箱の中かなあ。こういうときですよね、DVDを買っちゃうときって。

『トップをねらえ!』は私が中学生だったころのアニメなのですが、OVAにて展開された全6話のSFもの。パロディでコメディで、けどだんだん内容はハードになっていって、その盛り上がりかたがものすごく、わあ、このガイナックスってのはすごい連中だと思ったのを思い出します。その後『ナディア』で途中失望し、『エヴァンゲリオン』でラストがっかりして、すっかり今ではガイナックスには近寄らないでおこうって感じなのですが、けどそれでも奴らがいいアニメを作るってことはわかってるのが悔しいんですよね。基本的にハイクオリティで、マニア好みのパロディやなんかもばっちり入っていて、見たら絶対面白いって思うのはわかっているから余計に悔しいのです。もう、見ない! 絶対、見ない! って頑なにいいますが、それはきっと盛り上がった後に『ナディア』や『エヴァンゲリオン』みたいながっかりを見せられたらたまらないと、そんな風に思うからなんだと思います。

で、『トップをねらえ!』。これは非常によくできていて、たった6話とは思われない広がりと深みに驚かされます。最初こそは、ロボットで腕立て伏せってなによ、って感じにつっこみ入れて笑っているようなパロディ色強いコメディなのですが、けれどラストに向かっていく勢いはあらがえない魅力がありました。特に第6話。徐々にシリアスを深めていった第5話までから大きくジャンプしたように大シリアスな展開(けどこれもパロディってのが憎いよね)。いきなり白黒ではじまったことにも驚きましたが、けどもっと驚いたのはその内容です。まさしく総決算。第1話から5話までがテレビシリーズだとしたら、第6話は映画での特別編ってくらいに桁がはずれていて、そしてこれまでに蒔いた伏線が一気にここに集約するから、感動させる力も桁がはずれているのです。もう、泣くね、泣きますね。けど、この感動というのは第6話だけじゃわからないと思うのです。馬鹿馬鹿しかった1話から回を追ってみてわかる感動なのではないかと思います。

『トップをねらえ!』最終話といえば、最後の最後、ふたりが地球にたどり着いたときに目にしたあのシーンが印象的であろうとは思うのですが(そして実際、私もおそろしいほどのカタルシスをここで得たのですが)、けど私がこのアニメで一番好きなところというのは、ラスト、ノリコが親友キミコに叫ぶ台詞ごめん、キミコ、もう会えないなのです。これまで、泣きそうになりながらも堪えていたものが、この台詞をきっかけに堰を切ったようにあふれ出して、後はもう慟哭ですよ。私ははっきりいって、この台詞のためにこのアニメを見ているといっていいくらいなのです。

『トップをねらえ!』。名作です。また見たいけど、DVDはなんかリマスター版とかいうのが一年限定で出てたらしいですね。わお、知らんかった。いま、これが出ていたことを知って、あえて通常版を買おうとは思えない。え、なんでって? だって、悔しいじゃん!

というわけで、やっぱり私は自分のビデオライブラリを発掘するしかないようです。いや、見つかるかなあ。見つけたいといえば、『天地無用!』も行方不明なんですよね。ほんと、どこいったんだろう。どうにかならんもんですかね。

2006年9月16日土曜日

パールガーデン

 萩岩睦美の漫画はなんだか独特のファンタジー感覚に満ちていて、『パールガーデン』なんかはそうした路線の典型例なんではないかと思います。主人公は人魚の女の子ピア。彼女が人間の世界に父親を探しにいこうというところから物語ははじまるのですが、後はもう場面状況がくるくると変わっていく、まさしくジェットコースター的展開の魅惑です。しかしその転換の魅惑というのは、ピアだけの話ではないですね。最初にたまたまであった人間グリーンと町で出会ったマルコが大きく関係していまして、ふたりとも詐欺師だったりスリだったりとまったくもってかたぎじゃないんですが、けれどこんなふたりがなんだかいい奴で、こうした人の根っからの善良さが信じられているというのも萩岩睦美の漫画のよさなのかも知れないななんて思うのです。

けれど、この時代の少女漫画って本当にすごいですね。語られるグリーンの昔話。こうした大きな話の膨らませかたは、本当に少女漫画独特であると思うのです。ほら、児童文学の古典なんかに見られるようなちょっと不幸な前提みたいなやつですよ。バーネットなんかがその典型なんですが、両親を失っていたり、出生に秘密があったりといった具合で、萩岩睦美やその時代の少女漫画にはそういう児童文学古典のベースがあるんだと思うんです。

そういえば、ピアにしても出生の秘密ってやつですよ。お父さんに会いたいといって人間の世界にやってくる。そしてそこでの冒険。いや、本当にいろいろあるんですが、ネタバレしちゃうと読んだときに面白くなくなっちゃうからここには書けない……。この限られた条件でなにかいえるとすれば、この漫画に出てくる悪い人というのは皆どこかに悲しみや寂しさというのを抱えているということではないでしょうか。だからその悲しさつらさがいやされれば、きっと元のとおりの優しい善良な人に戻るのだろうと、そういうことを思わせてくれる暖かさに満ちているのです。

そして、物語はラストに向かって急転直下。たとえそこに安易な奇跡と批判できるような要素があったとしても、私はそれを受け入れたいと思います。物語が奇跡を要請していると、そのように思えるからで、 — それはさながら、昔話において幾度も起こされる奇跡が主人公を善く救うことに似ています。けれど萩岩睦美は主人公だけでなく、その他の多くの人も救って、この人の心の洗われるような物語性というのが萩岩睦美の魅力であるのだと、そして児童文学古典に似た味わいを残すところなのではないかと思います。

  • 萩岩睦美『パールガーデン』(集英社文庫コミック版) 東京:集英社,2006年。
  • 萩岩睦美『パールガーデン』前編 (りぼんマスコットコミックス) 東京:集英社,1985年。
  • 萩岩睦美『パールガーデン』後編 (りぼんマスコットコミックス) 東京:集英社,1986年。

2006年9月15日金曜日

ウィザードリィ エクス — 前線の学府

 先日突然思い立って購入した『ウィザードリィ エクス』が届きました。注文の翌日発送で、翌々日着。品揃えという点でも購入の便という点でも、オンラインショップは実店舗を大きく上回っていると改めて実感する結果となって、ちょっと悲しくなったのはここだけの話。いやね、やっぱり実店舗がなくなったりしたら困る訳で、だから私はできるだけ実店舗で買い物をしたいと思っているんですが、でも品物がないでは買えないわけで、こういうところはジレンマですね。いや、またちょっと話がそれ気味。到着した『ウィザードリィ エクス』の話に戻りたいと思います。

到着した『ウィザードリィ エクス』。序盤を遊んでみた感想、いわゆるファーストインプレッションをお伝えしたく思います。

電源を投入ししばらく待っていると豪華なオープニングムービーが始まって、私はこの手のものはスキップせずにきっちり見ることにしているのですが、このムービーを見ている限りにおいては、これからWizardryをしようという気持ちにはどうもならないというのが面白いところです。なんというんでしょう。このへんの風合いは全然違うゲームという印象で、だからムービーが終わって画面に馴染みのWizardryロゴタイトルが出たときには、なんかすごく新鮮な感じがしたものです。なんていったらいいんだろ。虎杢メイプルトップがトレードマークみたいになっているレスポールだけど、それが木でなくて樹脂っぽいいでたちでリリースされているニューモデルをみたときみたいな、クラシックとモダンの共存する意外さ。ああ、全然このたとえ通じませんね。

NPCがチュートリアルをしてくれるというのもなかなか新鮮で、こういうのはなんかはじまるという感じがしてわくわくするものです。アーレハイン聖戦学府にある施設が紹介されて、いよいよキャラクターメイキングをするのですが、種族が増加しただけでなく、基本特性値も見直しがはかられているなど、やっぱりこのへんも新鮮です。キャラクター作成時に、男女性別を選び性格を善中立悪から選択するのですが、このときに就けない職業が明示されるのはちょっとありがたいですね。バルキリーを作りたいと思ったら、女性で中立じゃないといかんのですね。だから二人目は女性で中立です。

キャラクター相性があるというのが難しいところだと思うのです。例えばドワーフとエルフは仲が悪く、同一パーティに両者がいるとパラメータにマイナス補正がかかってしまうなど、こういうのは面白いけど、難しいですね。ノームやホビットなんかだと結構誰と組み合わせても大丈夫だけど、ディアボロスなんて非常に厳しい感じ。ディアボロスのみパーティというのも面白くないし、けどパーティの能力がマイナスになるのは避けたいし、性格での相性で相殺するなど考えるべきことはたくさんありそうです。

あと驚いたのは、一部種族は、基本特性値のみで職業要件を満たすということ。ノームといえば僧侶という頭がありましたが、今作ではノームはむしろ魔術師であるようです。

アイテムについて。初期装備で最初のフロアは大丈夫とのこと。制服上下に短剣。後衛職は杖。実際確かに大丈夫でしたが、ちょっと厳しいですね。でも購買で買える武器は結構高価で、しかも学生は最初文無しだからどうもこうもなく初期武器で戦いはじめて、気分はノーボルタックプレイって感じでしょう。ここは、オリジナルWizと大きく異なるところですね。それに、武器防具は買うより実験室で作ったほうがはやいという発想です。

迷宮は非常に見づらく、最初、壁がないのになんで進めないんだろうと思ったら、どうもそういうフロアは水に浸かっているんだそうで、浮遊の呪文で越えることは可能だけど、はまれば死ぬらしい。まだはまったことはないけど、フロアによっては呪文効果を無効化するようなところもあるから、浮遊して深水域に入ったところを呪文無効化されたら全滅ですか。うへえ、こわ。敵と遭遇して、Palios使われたら終わりじゃんか。ええと、エクスではディスクレアか。でもきっと、迷宮の進行上、深水域を浮遊で越えねばならない状況とか出てきて、そしてそこにはディスクレアを唱える敵がいたりしたりするんでしょうね。もし、そんなんでパーティ全員を失ったら、立ち直れないかも知れない。果たしてリセットせずに越えられるでしょうか。

リセットといえば、セーブタイミングを二種類から選ぶことができて、マニアを選択すると迷宮内でのセーブがなされません。これ、Apple II版のオリジナルWizに倣った仕様ですよね。だから、私は一応こちらを選択。これ、ゲームボーイ版外伝でもあった仕様です。迷宮内でセーブされないのはいいとして、そういうときに電池が切れたらすごくやり切れない気分になれたりしましてね、けどPS2なら大丈夫か。大丈夫よね。

WizardryのWizardryらしさを決定するのは、もちろん迷宮であり、そして戦闘です。戦闘。このシステムはWizardryに同じようでけれど少し違いがあって、そのあたりが気になりました。

気になったのは攻撃対象の選択です。エクスでは、武器の射程の概念がありますから、ショートレンジ武器を装備してると最前列の敵しか攻撃できません。でも、これは織り込み済み。オッケーです。じゃあなにが問題かというと、パーティメンバーがグループ内のどの敵を攻撃するかということです。

オリジナルWizでは、厳密に攻撃対象が決まっているのですよ。敵が三体以上の場合、先頭メンバーは敵一体目を、二人目が二体目を、三人目は三体目を受け持ちます。敵が二体の場合は、先頭が敵一体目、二人目は二体目、そして三人目は再び敵一体目といった具合です。だから、先頭メンバーは一番攻撃力の劣るもの、二番手にはもっとも攻撃力の優るものを置くというのがセオリーなのです。このセオリーからすると二番手には侍が位置しやすい(村正があるため。だから#3以降は関係ないよね)のですが、そうすると危険なのは敵が二体の時に侍がスペルを使用するような場合です。二番手が呪文を使うことで敵二体目への攻撃がキャンセルされますが、だからといって三人目が敵二体目を攻撃するといったようなことはないのです。先頭と三番が敵一体目を攻撃し、そして敵二体目は無傷で残ります。だから侍はスペルを使うべきではないのです。

ちなみに単体攻撃スペルはグループ先頭に向かうというのもセオリーです。

エクスではこのシステムが採用されていないようです。それこそドラクエみたいに、グループ内の敵をコンピュータが自動で選んで攻撃しているみたいな嫌いがあります。期待ダメージ値をもって、もっとも効率良く倒せるように調整してくれてるんでしょうか。でも、正直これまでのシステムで作戦を考える癖のついている私には、こういうシステムだとやりにくいなあと思ったのが本音です。ちょっとドラクエっぽい? ドラクエは嫌いじゃありませんが、敵一グループが最大九体の敵で構成されるWizardryでは、攻撃対象を明確に把握できないのはちょっときついように思います。でも、一撃で倒せない敵に遭遇したときに、効率よく袋だたきしてくれるような仕組みも便利かもなあなんて思わないでもないので、一長一短でしょうね。だって、複数対象スペルから生き残った後列の敵を、あれは自分のターゲットじゃないといわんばかりに放って置かれるというのもなんか釈然としない話ではありますから。

以上、こんな感じ。レベルは3まであがりました。ちなみに魔術師が一度死んでます。いやあ、漏電床を踏むとは思わなかったわ。もうちょっと先にいかないとこういうのは出ないと思ってて、よりよって二ヶ所で踏んじまうとはね。正直このときはリセットしようかと迷って、迷いながら学府に戻っちゃったものだから、リセットが意味なくなってしまいました。しかたないから、アイテムは自力鑑定というルールを破って、初期メンバーのビショップに高額アイテムを鑑定してもらい金を工面。ささやき詠唱祈り念じろで復活させたのですが、RIP(死亡回数の記録)に不名誉の1がついてしまいました。

余談

このゲームではキャラクターに階級があるのですが、死んでも二階級特進はないみたいです。事故死だから? それとも、ロストしないと特進はなしですか?

書き忘れ

はじめて遭遇した友好的な敵。それが友好的であるかどうかがわからず、適当に丸ボタンを押したら、盗賊の性格が悪に、魔術師の性格が中立になってしまいました。わお、中立も変化するのね。しかも善⇔中立⇔悪と変化するのですね。でも、このシステムだと、いつか中立はひとりもいなくなってしまうんじゃないですか?

それはそうと、魔術師(エルフ、女性、眼鏡)は善に復帰してくれたのですが、盗賊が中立に戻ってくれません。おかげでマイナス補正がかかってしまって困っています。

2006年9月14日木曜日

侵蝕プラトニック

 きづきあきらにはまっております。きっかけは『ヨイコノミライ』、書店に並んでいるのを見て、買おうかどうか迷った末に結局買ってしまって、そのぐいぐいと引きつける力にあらがえないままに『モン・スール』を買い、あれを買い、これを買いで、ああもう、こんなことならもっと早くに買ってればよかった。きづきあきらについてはほとんどなんにも知らなかったくせに、なんとなくというような漠然とした苦手意識から遠ざけていた。本当に悔やまれますね。でも、遅くともこの人の描く漫画のよさに気付くことのできて本当によかったと思います。

『侵食プラトニック』は短編集です。最初に『シロクロ』が三話続いて、後は全部読み切り。そのどれもが微妙に重いテーマを扱って、けど最後まで重いままにしないというところに救いがあって、助かりました。だって『シロクロ』は、まま優柔不断なラブコメ主人公に対するアンチテーゼといっていいような漫画で、ほらよくあるでしょう、何人かの女の子に思いを寄せられながら、また自分もその相手を好きであると自覚しながら、はっきりと誰を選ぶこともせずすべてを曖昧のままに先延ばしすることで、ぬるい恋愛をむさぼるというような漫画。都合のよい展開が次々起こり、けど最後には正ヒロインを選んでめでたしめでたし。そうした形式に対する徹底的なパロディと批判が漫画一杯につまっているようで、面白かったです。けど、やっぱり厳しいよね。でも、それでも最後の最後、はっきりと自分のやっている残酷さを突きつけられた主人公に救いが提示されたところに、きづきあきらの優しさというのを感じるのでした。

思えば、『侵食プラトニック』に収録されている漫画は優しいのですね。いや、描かれていることは決して優しいとはいえないものもあるんですが、けどそこに優しさが見え隠れする。傷つきやすい自分を守らんがために頑なを演じたり、あるいは決断をためらったりという、そういう誰しもが持っている弱さを追いつめることで、逆に自身の弱い部分をまっすぐに受け止めさせる。そういうプロセスが描かれていると思うのです。そして弱い自分を乗り越えようとする、否定するのではなく、しっかりと抱きとめて、なお越えていこうとする、そういう健やかさが見られると思うのです。ここが、私は、きづきあきらの優しさであると思います。

読めば、なんだか泣けてくる漫画です。あの独特の硬質なタッチが、心の底に印象をはっきりと残して、その跡がなんだかほのかに豊かになっているというような、少し泣いてがんばろうと思えるような、そんな漫画であると思います。登場人物同様、自分の弱さゆえにしり込みすることの多い私には、すごく厳しく、また優しく触れてくる漫画であると思います。

  • きづきあきら『侵蝕プラトニック』(ガムコミックスプラス) 東京:ワニブックス,2006年。

2006年9月13日水曜日

ウィザードリィのすべて

Wizardryはもちろんアメリカで生まれたゲームなのですが、なんでか日本で大人気。特に初期の4作(#1-#3, #5)の愛されかたは尋常ではなく、この初期型Wizardryのシステムを用いたWizardry亜種が大量にリリースされています。初期にはゲームボーイをプラットホームとした外伝、これは私もやりましたよ。大学生の頃ですね。ゲームボーイポケットを買って、中古で探して、その頃には攻略本なんてもう古書店にでもいかないとないし、インターネットで攻略情報を探すなんて時代でもないし、だから自力でクリアしましたね。Wizardryは攻略情報なしではクリアできないだなんていっている人もいるようですができます。少なくとも初期国産のWizardryなら可能です。リセットを前提としなくてもクリアできるように作られています。

でも、なんでこんなに日本でWizardryが受容されるようになったんでしょうか。今や世界最大のWizardry供給国は日本であり、米国に逆輸入されているものまであるくらい(本当はもっとあるはずなんだけど……)。日本はただのWiz消費国ではなく、多種多様な有り様を模索するかのようにWizardryを探求しているのです。けど、なんでこんなに日本でWizardryが受け入れられるようになったんでしょうか。

ファミコン版の存在でしょうね。本国ではApple IIというコア層向けのハードウェア向けにリリースされたWizardryは、日本ではまずPC88をはじめとするコンピュータをプラットホームとして展開され、そして1987年にファミコン版がリリースされました。でも、正直これが爆発的なヒットをしたわけではなくて、あくまでも時代はドラクエで、同じく1987年12月にはファイナルファンタジーがリリースされて、いや遊びましたね、ファイナルファンタジー。あの飛空艇の速度には……、って今回はそういうのが目的じゃなかった。ともあれ、同年同月に発売されたこのふたつのRPG、人気は明らかにファイナルファンタジーに向けられていました。もしずっとこのままだったら、日本にこれほどWizardryが広まることもなく、ましてや定着することもなく、ひっそりとより狭いマニア向けのゲームという範疇にとどまっていたことだろうと思います。

ここで重要になってくるのは『ファミコン必勝本』という、ちょっと恥ずかしいタイトルの雑誌であろうかと思います。『ファミコンマガジン』全盛期に、私は『ファミコン必勝本』、略して必本(ひっぽん)を購読していました。そしてこの必本のWizardryに入れ揚げることったら、他誌の追随を許さないほど。一体なにがあってWizardryに重きを置きはじめたのか、「ウィザードリィ友の会」なんてコーナーができ、さらにはWizardryをベースとした小説の連載もはじまり、ついにはコミックも! ふうん、Wizardryなんてのがあるのかくらいにしか思ってなかった私も、いつか買うんだ、いつか買って遊ぶんだとその熱に浮かされて、悔しいことに先にはじめたのは友人の牧野で、あいつは私より後に必本を買いはじめたくせに、私より先にWizardryを買ったんだよなあ。悔しいなあ。Wizardryで遊びたいなあ。アスキーの配ったWizardry入門編ともいえるチラシ(今も残っています)を眺めながらもんもんとした日々を過ごし、ようやくWizardryを購入したのは中学三年のころでしたっけね。牧野から借りて先にWizardryに親しんでいた久保見の家ではじめてWizardryを開始したのですよ。キャラメイクでは高いボーナスポイントが出るまで何度もキャラクターを作り直すというのが常道で、私も当時そのようにしたのですが、出ましたね、最高のボーナスポイント29が。おいおい久保見、29が出たよ、といったら、おまえなんで善でしかも人間やねんって罵倒されました。しゃあないやん、最初は善でやりたかったんやもん。というわけで、B.P.29の彼は僧侶となって活躍しました。ターボファイルでもって2、3へと転送されながら、かけがえのない私の仲間として、ずっと記憶に残っております。

って、そんな話するつもりじゃなかった。

Wizardryの攻略本で秀逸だったのが、『ファミコン必勝本』を出していた出版社JICC出版局から出た『ウィザードリィのすべて』でした。この著者、ベニー松山の入れ込みようが素晴らしかった。ただ攻略情報が載っているという本ではなかったのです。WizardryというCRPGの向こうにベニー松山が見た世界が、とうとうと語られています。世界観の考察、見出しは以下のとおり:

  1. 歴史
  2. 生活
  3. 治療と蘇生
  4. 魔法
  5. 武具

あまりにゲーム内で語られる内容の少ない部分を創造力で補って、それをこうして本のかたちで出したことで、この解釈が日本のWizardryにおけるひとつのスタンダードとなったのです。もちろん、解釈や世界観にはほかにもいくつかのバリエーションがあり、エセルナートトゥルーワードという地名や概念が存在するもの(ちなみに私はこちらは大嫌い)もあって、一口にWizardryファンといっても一枚岩ではありません。総本山から枝分かれしたセクトごとに異なる教義解釈を持つ、さながら一宗教のごとくなのであります。

ゲームボーイもスーパーファミコンも買わなかった私は、ベニー松山が著者としてクレジットされた『ウィザードリィのすべて』しか知らないのですが、この最初の二冊は秀逸でした。後に中古ゲーム店で見かけた続刊はというと、もはや普通のゲーム攻略本としかいえないようなもので、いかにベニー松山という人の存在が大きかったということがうかがえたような気がしました。

でも、今となってはただ手放しに褒めることもできないかなとも思うのです。というのも、やっぱりこうしたひとつの解釈があたかも正式なものであるかのように扱われるというのは不健全と思うのです。例えばトゥルーワードなんかは今や公式設定みたいに思われていますし、あくまでもアンデッドであるはずのマイルフィックが悪魔の王のようにいわれるのもおかしな話です(彼が悪魔ならなぜ巨人なんぞを引き連れるのだろうか?)。名匠カシナートの話なんてのもそうだしで、自由な発想が大切といいながらも、どこかに用意された解釈に引きずられているのがWizardryなんかもなあなんて思うと、私も含めてみんな意外に不自由なものなのかも知れないなんて気がするのです。

だもので私は、ベニー松山の『ウィザードリィのすべて』門をくぐってWizardryに触れたのでありますが、今は脱ウィズすべをして、より根源であるWizardryそのものに肉薄したいと思っている最中です。バージョンによって少しずつ違いもあるのだけど、ゲームに表れる情報をなによりの大事として、長いWizardry体験で身に染みついた垢を落とすように、Wizardryの再構成をはかりたいものだと思っています。

でも、こんな考えにいたったというのも、結局は『ウィザードリィのすべて』あってのものだから、結局はベニー松山の影響下からは脱しきれないのかも知れませんけどね。

2006年9月12日火曜日

ウィザードリィ エクス — 前線の学府

 このところまたWizardryにはまっております。ええと、さいころ片手にリセットなしでやるとどうなるかというチャレンジが面白いということもあるのですが、もうひとつ、『Wizardry #4』が面白いんですね。実は私は『ニューエイジオブリルガミン』を発売日(1999年10月28日)に購入しているというのに、まだ一度もクリアせずにおるんです。なんでかというと、自力で『ワードナの逆襲』をクリアしようと思ったのが原因で、そのせいで何度も投げているんですよ。正直『ワードナの逆襲』はものすごいストレスで、一歩進んで二歩下がる。もうほんと、そんな気分であったのでした。でも、私にとっての一番のストレスであった地下8階を突破してからは楽しくて仕方がありません。回転床も市松のダークゾーンももう楽しくてしかたがない。ほんと、今私にとって#4は最高の遊び空間となっています。

で、私は思ったわけです。この楽しさを持続させたいと。それはつまりWizardryをこれからも遊び続けたいという意思の表明なのでありますが、けど、ファミコン版の時代から何度も何度も遊んで、ノーリセットプレイも何度やったかわからない#1-#3に引き籠もるのもつまらない。私は#4を終えれば#5に移行するつもりでいますが、じゃあ#5が終わったらどうするというのでしょうか。本音を言えば、BCF (6) からCDS (7) と進んで最終には8にたどり着きたいところなのですが、今、BCF、CDSの入手は非常に困難ときています。一応うちにはCDSのPS版である『ガーディアの宝珠』があるのですが、できればもうちょっとスマートなので遊びたいじゃないですか。BCFのマルチエンディングを引き継いで開始されるマルチスターティングのCDS。そして8に続く……、というのをやりたいのに、それをしようと思うと強烈に足もとを見られたぼったくり価格を受け入れる必要がある。あるいはオークションでがんばる? 正直そういうのはいやだなあと思ったのでした。

じゃあ、どうしたらいいんでしょう。そうだ、国産Wizに目を向けてみよう! というわけで、多様な国産Wizの中から私の選んだものが『ウィザードリィ エクス』。実は私、このソフトの存在を発売前に知っていて、その時は一蹴したのでありました。

手もとにチラシがあるんですけどね、裏面の煽りはこんな感じなんですよ:ウィザードリィ史上初、学園RPG!学園RPG! 正直びっくりしました。けど、それでも私、そういう設定を受け入れてもかまわないかな、なんて思ったんです。ええと、次の打撃は同じくチラシ裏面のフレーズ:果てしない戦場で、少女は愛を叫ぶ—ハーラン・エリスンかよ! で、きわめつけが種族の扱いでしたね。追加された種族に文句があるんじゃないんです。まあ、ちょっと引用を読んで見てください。

ドワーフ
犬のような顔をした、全身毛むくじゃらの種族。力と信仰心が高く、戦士系や聖職系学科もこなせる。豪快な気質で、繊細なエルフとソリが合わない。

ええと、ちょっと待ってください。なんでわざわざドワーフを犬面人にする必要があったんですか? だって、白雪姫の七人の小人ですよ、ドワーフって。それをラウルフみたいにしたのは……、ああ、髭の処理か……。髭面は学園ものにはあわないものね。でも、犬にするならするで、せめてもうちょっとそのなんだ、ましにはならんかったんですか。せめてフェルパー並にして欲しかった……。

みたいなことを思ったんです。

でも、ゲームとしては非常に気を吐いているという気がしていたんです。日本でWizardryといえば、初期の4作(#1-#3, #5)をベースにした迷宮探索ものというのが基本になっていますが、『エクス』はちょっと違います。迷宮は確かにあって、Wizシステムに則った戦闘がおこなわれるというのは確かにその通りなのですが、それだけでなく、他種族との戦争という要素も入っているらしく、私はその戦争をどのようにWizシステムの中で処理しようとしているのかに非常に興味があったのです。そしてもしその処理がうまくいっているのなら、旧来のWizシステムを踏襲しつつ、新しい領域に大きく踏み出す枝の一本になるんじゃないかなあなどと思って、だからきっとドワーフとノームがあんなじゃなかったら、私はこのゲームを発売日に買っていたかも知れません。

そんなわけで遅まきながら買いました。梅田で2店舗、地元で1店舗回ってどこにも売っていなかったので、ネット通販での購入となりました。おそらく数日中に届くでしょう。遊びはじめる日は一体いつになるか、これはちょっとさだかではありませんが(だって#5がまだ手付かずだ)、いつかきっと遊ぶことだろうと思います。これが面白ければもちろん『エクス2』に移行するだろうし、そしていつの日かBCF、CDS、8が特別な努力もなしに入手できるようになればいいと今はただそれだけを願いながら、『エクス』をはじめる日を楽しみに待ちたいと思います。

引用

2006年9月11日月曜日

川本真琴

 私は川本真琴が好きです、って前にもいってましたね。あの、若い頃の無鉄砲さがそのまんま歌にのっかっているみたいな勢いや躍動が私にはどうにも嬉しくて、まさしく私の川本真琴のイメージはこの人の音楽そのものといっていいくらいにいつまでも鮮烈であり続けています。はじめて川本の歌を聴いたのは一体いつだったことか。おそらくはテレビの歌番組で見たのが最初で、その時の曲は『DNA』だったはず。DNAと聞けばデオキシリボ核酸ですが、この歌においては大嫌いなのに愛しているで、こういう表現の仕方がどことなく青くって、これってやっぱり若さなんだろうなと思ったことを覚えています。で、結局はアルバム買っちゃってるの。なんだ、結局好きなんじゃんって、だから最初にいったとおり好きなんですよ。

このアルバムに収録されている曲、その全部が好きなんですが、なかでも好きなのは『やきそばパン』かなあ。「ひとりぼっちで屋上」という歌詞を長いこと「ひとりぼっちでオークション」と思っていたのは内緒(いや、もちろんそう思い込んでたわけじゃないです。だって意味繋がんないじゃないですか、ってなにいいわけしてるんだろ)。でもこの曲、リフレインが無闇に明るいかと思えば、全体を通しての内容はむしろやるせない日常を歌っていて、こういう両面性が川本真琴の味なんじゃないかと思うんです。明るくて元気で、けどその奥には非常に抑圧された、というか、屈折したような暗さも抱いているという、そういう多義性。このコンプレックス(複合)しているという感覚が非常に私には響いてきたのです。

そしてはつらつとした曲調に混ざる叙情感もよくて、そしてそこにははかなさが隠されているような気がします。『ひまわり』なんて、行き過ぎる夏、行き過ぎる季節、行き過ぎた時間がぎゅっと高密度に収められているようで、聞けば聞くほど切なさが募って、そして『タイムマシーン』です。私はなんだか泣きたくなるような気分になって、そういう切なさの溢れるこの人の歌の世界はなんて濃密なんだろうって思うんです。

で、長く活動を停止していたかのように見えた川本真琴が、今年になって動きを見せているんですよね。『ミホミホマコト』が出たかと思えば、『山羊王のテーマ』というのもリリースされて、ずっととまっていた私の川本真琴熱も再燃しそうなそぶりを見せています。

引用

2006年9月10日日曜日

レス・ポール読本

 人にはどうも好き好きというのがあるようで、それはギターに対しても同じようです。というのもですね、私の知り合いの話なんですが、どうもその人はテレキャスターが好みらしく、テレキャスターばっかり何本も持っているんだそうですね。ええと、三本持っててこないだ四本目を買った? わお、なんでテレばっかり! という私も実は人のことがいえなくてですね、どうもドレッドノートが好きなようなのですよ。最初のギター(Aria AD-35)がドレッドノートで、今のメインのギター(Asturias D. Custom)もドレッドノート。多分次のギターもドレッドノートだぜ、というと実はそうではなく、もしかしたらレスポールになるかも知れない……。ええーっ、なんでまたレスポール!? それにあんた、もうレスポールは持ってんじゃん。ええ、持ってるんですけどね。Epiphoneのですが持ってるんですけどね(Epiphone LPC-80)。

だって、こないだ楽器店にいったら、いいレスポールを見つけたんだ。その名もLtd Les Paul Standard Raw Power EMG。塗装がナチュラルだから、表板メイプルの木目がそのまんま出ていて、しかも虎杢とかそういうんじゃなくて、本当に普通の板目がばーんと出てて、ぱっとみたら、え? なにこれ、作りかけ? って感じにも思えるんですが、それがまたいいんですよ。とにかく、これは買いだと思って、けど手持ちがないから買えなかった。くそう、どうしようかなあ。エレキを弾く機会もないのに、楽器ばっかりそろえてどうするつもりなんだろうという気もしないでもないのですが、そもそもギターというのはそういうものなんです。どんどん増える。しかも悪いことに、好みのモデルが集まるようにできているようなんですね。

と、こんな具合にギターの沼にはまりかけている人にはきっと楽しいのがこの本『レス・ポール読本』であろうかと思います。この本はなにかというと、とにかく一冊かけてレスポールの特集をしていて、年代別にビンテージものをばんばん紹介して、それがまあ絢爛豪華。スタンダードはもちろん、カスタムなんかも取りそろえて、何年まではテールピースがブランコだったとか、ピックアップはどうだとか、そういうのがばんばか載っていて、ギターは弾く聞くだけじゃなくて見るのも好きっていう人にはうってつけの本であろうと思います。

でも、私にはこういう本は目に毒ですよ。だって、年代物のレスポールは数百万から場合によれば数千万するとかいいますが(ほんまなんかね)、そんなの紹介してもらっても困るよ。ってな感じで、これはさながら楽器というより美術品のカタログじみた本であろうかと思います。

2006年9月9日土曜日

ハルコビヨリ

   やっさんとハルコは同棲カップル。アパート暮らしの二人の日常を描いた漫画だというのに、一体なんだ、この色気のなさってのは。もともと色気に関しては絶望的な漫画であるのですが、3巻に至っては風呂上がりバスタオルを巻いたままでコンビニに買い出しにいくという荒技まで持ち出して、それでも壊滅的に色気がないときました。でもそれも、小坂俊史の漫画だからしかたがない。この人の漫画には色気よりも笑いが過剰で、これでもかこれでもかと畳みかけられる登場人物たちの非常識さは、こんなの身近にいたらきっと迷惑きわまりないよねと思いながらも、でも面白くてしかたがないんです。一体なんでなんだろう。こうした破天荒が面白いのは、私のどこかにこうした破天荒に憧れる要素があるからなのでしょうか。

しかし、この人の漫画はどれを読んでもまあ破天荒。それもとにかく主人公が破天荒なのがすごいよね。いや、まれに主人公が常識人というのもあるんだけど、そうしたのはやっぱり少数派で、主人公が破天荒というのも一般なら、登場人物がもれなく非常識というのもあって、やっぱり小坂俊史は破天荒を楽しむための漫画だと思うのです。

というわけで、『ハルコビヨリ』はどうかといいますと、圧倒的にハルコが破天荒、対してやっさんは常識人に近い。だもんで、やっさんはいっつもいっつもハルコにえらい目を見せられているわけなんですが、この人の打たれ強さというのも常人の領域ではないですよね。われ鍋にとじ蓋ではないけれども、よくもまあこんなカップルを成立させてみたものです。まさしく受けの美学が光る漫画で、けど耐えた後に逆転して勝つという訳じゃないのが泣けるよね……。ともあれ、この二人の関係がすでにギャグなのであります。

さて、前段落で少し触れていましたが、この漫画はやっさんがハルコにひどい目に遭わされるというのを基本にしていて、ははーん、道理であんた、この漫画好きなはずよね、と思われたかも知れませんが、実はそうではないのですよ。確かに私は元気な女性が好きで、その女性が理不尽といってもいいくらいに男性をいいように扱うという形式が大好きです。けど、ソコがフシギ発見、なんでかこの漫画に関しては、私のそうした嗜好には引っかからなかったのです。なんでだー!?

それはひとえに私にはハルコがかわいく思われなかったからとしか言い様が……。

3巻110ページの目出し帽かぶったハルコはかわいかったと思います。

  • 小坂俊史『ハルコビヨリ』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2004年。
  • 小坂俊史『ハルコビヨリ』第2巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2005年。
  • 小坂俊史『ハルコビヨリ』第3巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2006年。
  • 以下続刊

2006年9月8日金曜日

リカってば!

 昔、『まんがタイムポップ』っていう隔月誌があったんですよ。ナチュラルとポップが交互に出ていて、私は断然ポップの方が好きで、それこそ性に合っていたというほかないくらいに好きでした。載っていた漫画が好きだったし、雑誌自体の雰囲気も好きだったし、ちょっと宝物気分でまとめて保管されています。で、ポップは結構ストーリーも充実していまして、あ、ポップは四コマ誌なんですけど、四コマ誌だからといって四コマだけしかないって訳じゃなくて、一般誌でもストーリーの合間に四コマがあるように、おんなじくらいの割合でストーリーも載っているのです。ポップに載っていたストーリーといえば、甘夏柑子の『橘さん家の家事的事情』。好きでした。S@ORIの『日日平安。』。これも好きでした。そして『リカってば!』。好きでした。この中で残っているのは『リカってば!』だけですが、これらは今でも好きな漫画です。

『リカってば!』。身長180センチのリカがヒロイン。ええと、がさつで乱暴で鈍くて、ちょっと自信がないっぽいんだけど全然そんな風に見えなくて、そしてなにより無神経ってところかね。ところがこんな女に惚れた男がいるというわけで、それが塚田。背が小さくてかわいいともっぱら評判の男性で、けれどあかんたれでしかも結構ひどい奴よね。この塚田、連載第一回目の時点ですでにリカのことを好きだったというのに、二年も続いてなんで全然進展してないんだろうってくらい話が進んでない。でもそれがいいんかも知れない。ってのも、一見シリアスだけど、やっぱりこの漫画の肝というのは鈍くさい人たちの不器用な生き方の面白さとか悲しさとか、そういうところにあると思うからなんですが、ほんと、なんでこの人たちこんなに不器用なんだろうって思いながら、でも多かれ少なかれみんな不器用なんだからと、他人事でなく暖かく見守りたい気持ちになったりするから不思議なもんですね。

さて、現在の『リカってば!』では、佐倉リカ、塚田に加えて安曇さん、羽鳥君を加えての恋模様が微妙な具合になってきて、さあ気持ちが通ずるかどうかというところでかわされたりなんとかしたりなんかして、でもこの漫画の本来の趣旨からいけば、佐倉塚田がくっつくんだろうと思うんですが、そうなると安曇さんがかわいそうだなあ。だって、あんなにいい子なのに。でも、『リカってば!』が恋愛ものである限り、いつか決着がつかなければならないわけですから、さてこの状態でいつまで引っ張るのか。それとも一旦着地した後にまた違ったアプローチで見せていくのか、そうした近く起こるだろう急展開も含めて楽しみなのであります。

最後に一点。この漫画、私の好みの形式である、女性が強くて男がひどい目に遭わされるというパターンに見事に合致しています。ああ、そりゃ好きなわけだよ。そりゃ気に入らないわけないじゃないですか。

  • 長谷川スズ『リカってば!』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年9月7日木曜日

Spring!!

 四コマ漫画というカテゴリにおいては重要なジャンルであるOLもの。なかでも王道といえるのが、どじOLものであるのではないかと思います。というわけで、今日発売の『Spring!!』もそうしたどじOLというくくりで語ることのできる漫画であろうかと思うのですが、どじはどじでも一味違うように思います。なにが違うんだろう。朗らか、のんき、前向き、主人公のそうした傾向は、この漫画に限らず他でもみられるものなんですけど、けどなんでか『Spring!!』のヒロイン春日晴日は特別なのです。なんだろう。絵のかわいさかな? シンプルなわりに妙に色っぽかったりもする絵柄のせいかな? でも実際のところ、春日晴日の特別さには作風が関わっていると思うのです。素直さやめげない一途さ、健やかな様がありありと伝わってくる、その作風がこの漫画の第一の楽しさなのであろうと思います。

実は私、この漫画の連載第一回を見たときに、これはいいと思ったんですね。それはまさしく恋に落ちたかのよう! 私のはじめての四コマ誌であった『まんがタイムラブリー』。あんなに好きだった雑誌だったのに、いつしかかすかに倦怠を感じるようになっていて、しかしそこに現れたフレッシュな四コマ漫画。そのひとつが『Spring!!』、新鮮でした。明るさに救われた。健やかさにほっとする思いだった。『Spring!!』は目下ラブリーにおける私の好きな漫画の一二を常に争うものとなっています。

でさ、今日単行本が出て、わーい、嬉しいなあ、まとめて読めるぞ、喜び勇んで読んでみたらですよ、驚きました。わお、初期ってこんなにぎすぎすしてたんだ。先輩は嫌みだし、同僚のふゆきもなんか打ち解けてないしで、うわあ、私、こんな漫画のどこが好きになったんだろう — 。と思えるのは、連載が続くうちにだんだんにキャラクターたちがこなれてきて、それぞれのポジションに落ち着いてきたからだと思うのです。このへん、まるで本当の人間関係みたい。最初はどうにも反りの合わなかったのが、なんとなく時間が経つうちにいいところも見えてきたり、なによりつきあいかたがわかってきたりで、いい関係が保てるようになったりするじゃないですか。この漫画もそうなんだと思います。最初は嫌みばっかりだった先輩も今ではいいお姉さんOLって感じだし、ふゆきもどことなく丸くなってつきあいやすくなった。春日にしても駄目一辺倒でないって感じで、これ、連載の二年間という歳月が醸成した味なんでしょうね。若くて浅くて舌にさすようだったのが、ふくよかな奥深さを持つようになって、これから先がなお楽しみになるような本当にいい漫画なんだと思うのです。

蛇足いってみようか。

元ふゆきでした。でした? だって、最近は先輩もかわいくて素敵だし、なにより主人公がまれに見せる無防備な色っぽさも作者にしてやられてるって感じだし、いやはや、本当にいいキャラクターに育ったと思わないではおられません。

ところで、最近の四コマは恋愛展開というのがトレンドみたいですが、『Spring!!』に関してはそういう方向に向かって欲しくないな。軽くて口当たりがよくて、けど味わいはわりあい深いという今の風合いを失って欲しくないと思います。

  • 小池恵子『Spring!!』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年9月6日水曜日

Panasonic LUMIX L1 × SONY α100

  今日、ちょっとヨドバシカメラに寄る用事ができまして、なにかというと、ハクバの折りたたみ液晶シェードが壊れちゃったんですよ。フードの左側のパネルの支柱(といっても細い奴)が折れちゃいまして、とれてしまったんです。軸が折れた以上戻すのは不可なので、しかたない、また買うかあ。また? そう、実はこれで三つ目なんですよ。先月だったかな。シェードを落としてなくしてしまいまして、しかたがないから買い直してるんです。壊れたのはその二代目で、買って翌月で三代目が破損。なんか運が悪いなあとがっかりします。

せっかくカメラ店にいったのですから、ついでにと思って気になっているカメラを見てきました。それはなにかといいますと、PanasonicとSONYのデジタル一眼レフです。PanasonicはLUMIX L1、SONYはα100ですね。

最初に見つけたのは、LUMIX L1でした。これ、一眼レフだけども一眼レフらしからぬフォルムをしていまして、ぱっと見ればレンジファインダーみたいな感じ。これ、私は割りといいなあと思って好感を持っていました。

でも、見てみてびっくりですよ。でかい。そして重い。昔、店頭でCONTAXのG2をはじめて見たとき、でかい、重いと思ったものでしたが、今回はそれ以上でした。手にどっしり持ち重りして、高級感も抜群ですよ。ホールドすると、重さのためか結構安定感があって、悪くない。けど、やっぱりちょっと大きすぎるかなあ。シャッターボタンは軍艦左のダイヤル中央にあるんですが、人差し指をここにかけるのはちょっと大変かもと感じて、まあ結局は慣れの問題といえばそれまでなんですが、けどもうちょっとコンパクトなほうが嬉しいかなあ。そんな印象です。

その後、α100を探してみて、これ、ちょっとボディに安っぽさが感じられるかなあ。といっても、しかたがないとも思います。だってLUMIX L1とは値段が倍も違うわけで、そもそもα100は一眼レフ入門機からミドルレンジくらいまでを対象にしてるはずだから、その対象層が違います。でも、実際持ってみて扱ってみて、特段ちゃちというような印象はなくて、やっぱり基本的なところはかっちり押さえられているという感じがします。シャッターを切った感じも良好で、ファインダーを覗くとすぐさまピントを合わせにいくアイスタートAFは便利そう。実は、私の持ってるα-507siにはアイスタートがついてないんですよね。

α100のボディは、いかにも一眼レフというかたちをしていて、ちょっと普通すぎるような気もします。持ってみれば、グリップから手に添うように配置されたシャッターも悪くなく、ダイヤルでメニューやらを選んでいくというのは割りと悪くなさそう。でも、もうちょっとシンプルなほうがいいかな。で、さっきもいってたことですが、でかくて重いですね。持って、あれ、一眼レフってこんなに重かったっけと驚きました。α100もLUMIX L1もファインダーを覗かず液晶モニタで構図を決めて撮影できますが、でもこれはあんまり現実的じゃないかなと感じまして、というのはですね、やっぱり安定性の問題です。両手でホールドして、ファインダーを覗くその目の辺りでも支えるというのがやっぱり基本で、いくら手ぶれ防止機能があっても、一眼レフはちゃんとホールドする必要がありそうだと思いました。

さて、一眼レフってこんなに重かったっけというわけで、うちに帰ってα-507siを出してホールドしてみて思ったのですが、でかくて重いですね。私はすっかりGR DIGITALに慣れてしまったようです。

今回、一眼レフを触ってみて気付いたことがあります。私はGR DIGITALに限らずデジカメは露出を明るく、オーバー気味にすると感じるものだから、常に-0.3EVで撮影しています。けど、もしかしたらこれは私の思い違いかも知れません。私は写真を撮るときは、常にファインダーを覗いてきたわけで、ファインダー越しの像というのは暗く見えるものです。さらに写真の出来上がりはプリント、写真は一般的にスライドは明るめに、プリントは暗めに見えます。このため、私の写真の感覚は暗めで固まってるみたいです。

けど、今更+-0EVにしたものか、迷いますね。

2006年9月5日火曜日

レインマン

 私は『レインマン』の映画が好きで、テレビで放送されているのでも何度も見たし、それにDVDが出たときにも買ってしまって、一体なにが好きなんだろうといえば、自閉症の兄レイモンドその人と、そして彼と出会って徐々に変わっていく弟チャーリーのその変化していく様なのだろうと思います。最初はそれこそ金のことで頭が一杯だったチャーリーなのに、施設からさらうようにして連れ出したレイモンドとの旅を通じて、自分の中にもあった穏やかさと愛情に気付くというストーリーは、見ている私にしてもあくせくとした心が洗われるような優しく感動的なものなのです。特にラストシーン。私の『レインマン』の印象は、あのラストシーンに凝結しているとそのように思います。

この映画を支えているのが、レイモンドを演じているダスティン・ホフマンであるのはおそらく誰もが同意してくださるところなのではないかと思うのですが、自閉症の兄を熱演してその存在感は圧倒的です。この映画は日本でも大ヒットしたのですが、そのためおそらく多くの人にとってはレイモンドが自閉症者の典型であるかのような印象を刷り込まれてしまったようで、これに関してはメリットもデメリットもあったとそんな風に評価されているみたいですね。

でも、いい映画だったと思います。ちょっとネタバレになりますが、古い映画だからいいですよね。バスタブにお湯が張られているシーンでレイモンドがパニックになるくだりのエピソード。チャーリーが、子供の頃に好きだったレインマンを思い出し、そのレインマンというのが兄レイモンドであったと気付くくだりは何度見ても感動的で、ここがこの映画の重要な転換点になっています。ここから後は見ていて本当に爽快。たまに胸にちくりとするところもありますが、でも兄弟の結びつきというのが欲得を離れた情愛であるということが本当によく描かれていて、そしてカジノでの計略も楽しかった。ここがこんなに楽しく面白く書かれているものだから、なおさらラストが涙を絞るのだと思います。

知らんかったんですが、アルティメット・コレクションというのが出ているんですね。なんだよ、もっと早く出せよー、という気もしないでもないんですが、私には「ドキュメンタリー: “レインマンたち”の世界」というのが興味津々です。おそらくは『レインマン』をベースに、自閉症者たちの世界を扱ったものなのでしょう。見てみたい。私には彼らの世界がどのようなものなのか知りたくてたまらないのです。彼らの見る世界がどのようなものなのか、知りたくてたまらないのです。

2006年9月4日月曜日

雨の降る日はそばにいて

 今日は昔のギターに思いがけず出会って、けれど縁がなかったのか私の手に落ちることはありませんでした。ギターの銘柄はHarptone、調べれば1970年代のアメリカのギターです。70年代といえば日本でもアメリカでも生ギターを手にフォークソングを歌うというのが若者の基本スタイルで、それでふと私は『雨の降る日はそばにいて』を思い出したのでした。太刀掛秀子の作、1977年にりぼんにて連載されていた漫画です。これを私は文庫に収録された版で知って、読んだ、そして涙は滂沱と流れて、しかしただ悲しいばかりじゃなくてなんと健やかな終わりを見せたことでしょう。別れは悲しく、ひたすらに悲しく、けれど別れの悲しさの前には出会いの喜びがあったはず。人生は一期一会、すべては縁のままに回っていくものと存じます。

久しぶりに手にして、見過ごせない台詞があったのでちょっと引用。

何って……

単にメガネを……

ぼくはかけててもかけなくてもかわゆくて好きだけど、はずしたらほかのみんなも美人だとみとめると思って

これ、ヒロインの眼鏡をいきなりとろうとした少年の弁解というか、説明の台詞なんですけど、あんまりだ! 眼鏡をはずしたら美人なんじゃなくて、眼鏡をかけてるほうがずっとかわいいじゃんか。実際、ヒロインみちるに関しては、眼鏡をかけてちょっと硬質だったときの方がチャーミングだったと思います。まあ、眼鏡はずしてもかわいいんですが。

閑話休題。でも実際、この眼鏡をいきなりはずそうとした少年、柴ちゃんはみちるに出会えて報われたのかも知れないなと思うのです。彼にとってもこれほどの出会いはきっとなかった。この漫画はあくまでもみちるの視点から描かれたものですが、しかし柴ちゃんの側にも波乱のドラマが大きく波打ったはずだと思うと、しんみりと悲しさを思いながらも幸いのふるような思いもまたするのですね。

私は、自分自身ギターを持って歌を歌っているのですが、実はずっと相棒を探しています。女声。本当は自分で歌えればいいのですが、自分にはどうしてもそうした声を出すことはかなわず、だから私の代わりに歌ってくれる女性を探しているんですが、これがまあ見つからない。これだ、と思う人には声掛けたりしてるのですが、どうにもうまくはいきませんで、けれどこれこそ縁のもの、一期一会なのでしょう。

人生は一期一会の縁にこそその面白さがあるのかも知れないと、そんな風に思います。縁をつかむのも、手放してしまうのもまたその時々。いつ何時あらわれるかわからない縁に躊躇なく手の届くよう、心構えだけはしっかりとしておくべきなのかも知れません。ほんとです。

蛇足

実際、みちるみたいな娘がそばにいたら、人生は確かに違うと思います。と、そういえば太刀掛秀子がりぼんで活躍していた時代、男子大学生が少女漫画を読むのだといって社会問題化したようなことがありました。あれは、この当時の少女漫画の物語る強さが並大抵でなかったということもあろうかと思いますが、その裏面に、みちるのような娘に憧れるというような男子学生のよこしまな思いもあったのではないかと思います。

かわいくて純粋で、なによりいい子で、ちょっと自信のないようなところなんか、君の素晴らしさは僕が知ってる! 僕が、僕が君の支えになるよっ! みたいな世まい言を叫びたくなってしまうじゃありませんか。そうさ。叫びたいね。そうさ。私もたまには叫びたくなるんですよ。

引用

  • 太刀掛秀子「雨の降る日はそばにいて」,『ミルキーウェイ』所収 (東京:集英社,1998年),152頁。

2006年9月3日日曜日

ぶどう・むらさき

 最近うちには種無しの西瓜があって、これもらってきたものだかなんだか、いずれにせよ私が種のあるのを面倒くさがって西瓜にせよ葡萄にせよ食べないものだから、こういうものはありがたいよねと食後いただきながら、でもなんだか自然に反してるようにも思えてきて、そしてふとその種無しというキーワードが入江紀子の漫画を思い起こさせたのでした。『ぶどう・むらさき』。ある夏休み、東京からきた若い叔母をめぐるちょっとしたエピソード。主人公は薫、この子の視線を通して、私たち読者は叔母ゆかりの一夏を垣間見るのでありました。

私は『アサハカな夜』という単行本を手にして、それまで入江紀子の一部しか知らなかったということに気付いたのですね。それまで私が知っていた入江紀子とは、『つうかあ』とか『やもめスケッチ』、それから『ただいま』。アットホームで穏やかで、そういう優しげな感じが好きだったんです。だから『アサハカな夜』には驚かされて、なかでもショックだったのが所収の『ぶどう・むらさき』、このタイトルは焼き付くようにして私の記憶に残ってしまったのです。

夫とけんかして家を出てきたゆかり。その理由やなにかははっきり語られることなく、すべてが曖昧の向こうに隠されたようで、けれど私たちは薫の見つけたものの向こうに、ゆかりの秘密を嗅ぎ取ることができる。果たしてそれは私たちの下世話な思い過ごしか、それともやはり思ったとおりであるのか、曖昧でありながらも答えははっきりしていると感じさせて剣呑。いや、むしろ剣呑であるのはゆかりその人であるのではないかとも思えてきます。読んでいると、私の胸もなんだかちくりと痛むようで、それがゆかりの働いた罪のせいであるのか、それともゆかりが長く胸の奥にしまい続けていた悲しみめいたものを感じるからなのか、それもあくまでおぼろげに、はっきりとかたちをなさいままにうずいています。

物語の軸を薫という子供の視点に押し込めたのが実に効果的であったのだと思います。偶然に、また子供らしい無邪気さのために、まわりの大人がだれも知ることのなかったことを知ることができた薫は、なにかがあるということを直感的に気付きながらも、なにしろ子供であるから見聞きした事々を繋ぐ糸を読むことができず、またその先にあるものがなにか気付くことができません。けれど、私たち読者は違います。私たち読者は、薫の見たことごとを大人の視点で読み解いて、その先に思いをいたらせることもできます。そして、そのままでは救いもなにもないようなドライな感じが残ったかも知れないところを、薫の朗らかさが和らげてくれている。物語こそはゆかりのものでありましたが、そこに薫が加わることで何層にも厚みを増したと感じられるのです。

入江紀子は改めてすごいなと、思いを新たにしたのがこの短編でした。私の一のお気に入りであります。

  • 入江紀子『アサハカな夜』(YOUコミックス) 東京:集英社,1995年。

2006年9月2日土曜日

小松ちゃん

豊田勇造の歌は実にじんと胸に染みるものが多いのですが、『小松ちゃん』もそうした曲のひとつです。私のはじめて買った豊田勇造のアルバム『振り返るには早すぎる』に収録されているのですが、この歌がやけに耳に残ってしまって、なにがそれほどに私に訴えたんだろう。おそらくは声、この人の声は叙情をうちにはらんで、まるで語りかけてくるみたいに感じて、そしてその語られる内容もよかったのです。

かつての恩人、小松ちゃんのことを歌っているのですが、その人がもう故人であることは一番最初に示されていて、後は出会ったときのことからが淡々とけれど切々と思い出語りするようで、すごくしんみりするのだけれどもけれど同じくらい温かい気持ちになれるのはなんでなんでしょう。伴奏はギター、そしてピアノがかぶさってくる。決して派手にはしない。でもぐうっと静かながらに盛り上がりを見せて、そして胸に迫る。まるで、知らないはずの小松氏を私も知っているかのように生き生きと感じられて、目を閉じればまぶたに浮かぶようで、それは豊田勇造の歌がそれだけ共感性に富んでいるということなんでしょうね。

これがライブにて歌われて、そしてこのアルバムに収録されて、私はライブででも聴いてみたかったなんて思います。ライブにはライブの雰囲気があって、それはアルバムを通してでも感じることはできるとはいえ、もちろんそのすべてに触れることはできません。私がライブででも聴きたかったというのは、私同様に小松氏を悼むようなそれで懐かしむような、そんな気持ちになっている人たちと同じ空気に浸りたかったということなのだと思います。

2006年9月1日金曜日

iAXE393 USB-Guitar

漫然と眺めていたRSSのヘッドラインに、USB端子搭載エレキギターなる文言を見つけまして、これ、実をいうとそんなに珍しいものではありません。実はギブソンからDigital Les Paulというギターが発表されてまして、それにはUSBが……、あれ、ついてないですね。ええと、調べてみると — 、ついてたのはRJ-45 Ethernetジャックでありました。わお、これもびっくりだな。

つまりこれらのギターがもくろんでるのはなにかといいますと、コンピュータを使った音楽制作環境(昔はデスクトップミュージック DTMっていったけど、最近はデジタルオーディオワークステーション DAWっていうらしい)においての使い勝手でしょう。ハイエンドを目指すならGibson Digital Les Paulでしょう(だって、各弦ごとの信号をばらでとれるらしい)けど、そこまではいいわ、ちょっと興味もあるし面白そうだしというくらいの動機で手を出すなら、断然BehringerのiAXE393 USB-Guitarがよさそうです。いうならば、USBオーディオインターフェイス内蔵ギターです。コードの取り回しがUSB一本ですむという手軽さがいいし、定価18,795円というおそろしい低廉価格も魅力だしで、実際中途半端に安ギターに手を出すくらいなら、思い切ってUSBギターというのはありだと思うのです。だって、オーディオインターフェイスがついている分お得感があります。

ギターとしての仕様はというと、22フレットメイプルネック、丈夫なボディ(?)、3シングルコイルピックアップ、トレモロ、5 Wayスイッチ、1ボリューム、2トーンだから、ストラトキャスターモデルと同等ですね。さらにはソフトケース、USBケーブルにストラップ、駄目押しのピック3枚がついてこの価格。これ、パソコンがすでに家にあるのなら、下手なギター入門セットを買うよりもずっといいんじゃないかと思います。ギターアンプはコンピュータが代用してくれるというわけで、安いアンプを小さな音で弾くのなら、絶対モデリングアンプを使ったほうがいいと思います。アンプはどんなに小さな奴でもスピーカーから音を出すのが前程になってるから、ヘッドホン使うとあんまりよくないし、かといって思いっきり鳴らすと近所迷惑になるし。その点、モデリングアンプを使うのなら、出音はヘッドホン(ギターにヘッドホン端子がついてます)、ギターの音は部屋を閉め切れば夜弾いてもなんとか問題ないレベルにまで落とせるでしょう(壁の薄いアパートとかなら無理かな?)。

だもんで、ちょっと欲しくなった。けど、すぐ考え直しました。私はせっかくオーディオインターフェイスもちゃんとしたの持ってるし、ギターもあるんだから、やるならギター - オーディオインターフェイス - PCというのが可能です。モデリングアンプは別途調達する必要があるけど、KRISTALというフリーでも使えるDAWがVSTプラグインを利用できるから、プラグインタイプのモデリングアンプを見つけてくればそれだけで遊べそうです。

とかいうて、私ぜんぜんエレキギターは弾いてないものなあ。私の場合は新しい楽器うんぬんいう前に、ある楽器を弾くことからはじめないといけません。でも、どうにも新しいものっていうのは興味を引くんですよね。悪い癖だと思います。

参考