2007年1月31日水曜日

世界樹の迷宮

 世界樹の迷宮』、やっとこさ開始です。ということは、すなわちNintendo DS Liteが買えたということなのですが、ええとですね、実は先週金曜日の時点でDS探索は断念していたのです。それがなぜ買えたのかといいますと、ええと、至極単純な話。予約したんですよ。土曜に予約をして、最悪二週間待ちかななんて思っていたら、水曜には買えました。わお、最初からそうしたらよかったよ! 何日もゲーム店日参して(いや、たった五日ですが)、その日入荷した形跡はあれどものはなしなんて状況に面食らって、で予約したらあっという間。いやあ、今DS探している人は、売っているところを探すんでなく、予約を受け付けている店を探すべきであろうかと思います。いや、本当に。

『世界樹の迷宮』について書く前に、スクリーンガードについて少々。これ、すごく貼りにくいみたいにいわれてましたけど、さほどでもないかなあというのが貼ってみての印象です。確かに埃が厄介だというのには同意しますけど、これは一度に粘着面のシートをはがさないことで対応可能だと思います。液晶面の埃を、粘着力の弱いテープかなんかでとってですね、それから少ーしずつシートをはがしながら、貼り付けていく。貼り付けの際には、指で軽く押さえながら密着させてやればいいんじゃないかと思います。シートが斜めになる問題は、左の辺を合わせてやることで対応できるんじゃないかと思います。厳密にいうと、私のシートも少し斜めになってしまっていますが、はみ出るというほどのことはありませんでした。ただ、貼り直すと駄目ですね。貼り付け最初にちょっと手間取ったせいで、左側に少し埃が入り、そのため小さな浮きが認められます。でも、ゲームを開始すると見えないから、とりわけ問題になるようなことはないようで、まあいいや、次やったらきっと完璧だなと、そんな感じです。

さて、『世界樹の迷宮』ですよ。はじめましたよ、はじめましたね。これ、面白いですよ。Wizardryと違いロストがないから気楽に楽勝にいけるかなあなんて思っていたんですが、大間違い。力押しすると地下一階で死者の出るタイプのゲームであると思います。面倒くさがらずに回復させて、戦闘時も常に最大戦力で対処するくらいのつもりで取り組むのがよいのだと思います。とはいえ、本当に最大戦力で戦い続けたら全然先に進まないので、適度に調整してやらないといけないのは当たり前ですけどね。

とりあえず地下一階のマップは完了(いや、厳密にいうとそうじゃないけど)。マップ書いてみての感想は、こりゃ想像以上にいいよ、ってなものでした。ペンでぴーっと線を引いたら迷宮の壁がぴしっと入って、方眼紙に書くよりも楽です。けど、自分の位置というのがしっかりトレースされるから、楽すぎるかなって感じもします。でもまあ、オートマッピングになれた人からすればこれでもずいぶん難しいと思いますし、今風にちょっとくらい簡単になってもいいのかなあという感じです。あ、私はオートマップ、オフにしてます。

マップはただ線を引いて色を塗って、階段やらのオブジェを配置して終わりではなくてですね、自分なりのメモを残すことも可能なのです。これが面白い。メモは地図上で参照できるだけでなく、迷宮でそのポイント直前にくれば自動表示してくれるんです。だから、隠し通路見つけたときなんかにも大活躍。イベントポイントはその座標に立っただけでは不充分で、東西南北、ちゃんと向きを合わせてやらないといけないから、見逃しそうなやつを思い出させるための覚えに使えます。まさしくメモ。こりゃ実にいいと思います。

このゲーム、はじめたらまずギルド名を決めないといけないのですが、ここでちょっと迷いまして、結局「19の連座」に決めました。なんで19? フォークデュオ? いえいえ、むしろ『ヌイーゼン』を思い浮かべていただきたいところです。まあ、意味ないんですが。連座というのも、ギルドは一蓮托生って感じで適当につけて、イメージは円卓の騎士のはぐれもの版みたいなつもりでいたんですが、連座っていうのは一人の犯罪について特定範囲の数人が連帯責任を負って罰せられること。まきぞえ。ってことだそうですから、こりゃもうなんだ、イメージ悪いなあ。でもいいです。結構気に入ってますんで。

パーティはソードマン(斧持ちだけど),パラディンレンジャーメディックアルケミスト、つまりはもっともオーソドックスな編成です。名前は、きさらぎ,たまゆら,たかのは,それいゆ,るなーる、です。ええと、グラフィックは赤毛女,金髪おっさん,短髪女,眼鏡おっさん,眼鏡女、です。ええと、これって女の子なんだよね。私にはかわいい男の子にしか見えんのですが……。実は控えにダークハンターもいるのですが、ええとですね、6人でパーティが組めるのかなって思いまして、そしたらやっぱり5人パーティなんですね。前衛3後衛2か前衛2後衛3かが選べるのを、前3後3がいけると思って6人目を作ってしまったんです。ええと、名前はたちがけ(鞭使いなのに!?)、グラフィックは青髪男です。

遊んでみた感じは、非常にオーソドックスなRPGらしいRPGだと思います。先に進めばおそらくはストーリーというものも見えてくるのでしょうが、今はまだ単発のクエストをこなすのが精いっぱいで、とりあえずはひとりも死人を出さないことを目標に進めていきたいと思います。

あ、そうだ、これはいっとかなくちゃ。ファミコン版WizからPSに移り、かつXTHを遊んだ現在の私にとって、『世界樹』はちょっと操作性の面で問題ありと感じられて、例えばステータス確認時、次のメンバーに切り替えるショートカットとかあってもよかったんじゃないかとか、スキル使用のショートカットがあってももよかったんじゃないか、などなど。小さな不満ですが、ちょっとそうしたことを思うことがありまして。特に、キャンプコマンドがYというのは、まあ街でも同じ操作でキャンプに移行できるからいいとはいえ、じゃあ迷宮でほぼ使用しないBがもったいない。そんなことを思うんですね。

でも、遊びはじめて、なれればそのへんの不満はへっ込みます。むしろ問題は、十字キーの位置が微妙なために、親指付け根が痛くなることじゃないかと思います。

引用

  • 広辞苑』東京:岩波書店,第4版;1993年

2007年1月30日火曜日

ルーンの書

 私は占いなんて非科学的なこと、まったくもって信じちゃいない人間なのですが、けれどタロットで占ったりします。って、なんじゃその矛盾は。いやね、ずいぶん前のことなんですけど、予測不可能な介入がために計画を瓦解させられた経験がありましてね、ああもうちきしょう、なんでこうも狙い撃ちするように邪魔が入るんだ! てな感じで荒れたことがあるんです。避けようがある邪魔ならともかく、あり得ないような偶然で向こうから飛び込んでくるようなのはもうどうしようもないわけで、もうすっかり荒んだ私は、意地の悪い偶然を退けるための手段として超自然的な手法を採択したのです。それがタロットで、それから数年いろいろ本を読んだり、いろんな人を占ったり。おかげさまで、よく当たるだなんていわれるようになったのですが、けれど占いの欺瞞は占っている私が一番よくわかってる。そんなわけで、今ではすっかり占いから離れています。

さて、そんな私がまだ占っていたときの話。知人に、昔、ルーン文字の書かれた石で占いするという本があって、欲しかったんだけど高くて買えなかったという話をしたらですね、なんとその人がその本を持っているというではありませんか。その本というのは『ルーンの書』。ルーンを用いた占いの本にルーンの刻まれた石がついていて、この、石がついているというのがいいんですよ。もちろん占い本だから占ってもいいし、なんか面白オブジェとして手もとに置いておいてもいいといった具合で、そして今この本は私の手もとにあります。ありがたいことに、使ってないからあげるよといってくださった。私はとても喜んで、石を並べてみながら、本を頼りにいろいろ試して、けれどその石をがちゃがちゃやって壊しちゃいやだからと大切にしまい込んだら、どこにしまったものかわからなくなってしまいました。ええ、本はあるんです。けど石がない。なんだか頭の悪いリスみたいな話ですが、基本的に私にはこういうところがあって、大切にしようと思ってしまい込むと、あんまりきちんとしまってしまうからなのか、後から見つけられなくなるんですね。いやあ、ほんと馬鹿馬鹿しい話だと思います。

占いに疑問を持ち、また欺瞞を感じるとまでいいながら、私がタロットやルーンを否定しないのは、偶然によって取り出されるカードやルーン文字をきっかけとして、行き詰まっている現状や沈滞する思考を打破できる可能性があるということを知っているからです。私はこれらを占いの道具とは考えておらず、むしろこれらの役割は発想を助けるものであると、そのように見ています。私はなんらかの問題を抱えている人を前にして、カードを引き、並べ、そしてカードの意味を示しながら、その指しているものはなんだろうと問い掛けることからはじめます。そうなんです。問題の答やヒントは常に自分の中にあり、カードはその答えないしヒントにたどり着くための手がかりに過ぎません。カードやルーンの持つ象徴が、思いもかけない結果を引きだします。けれど私はそれを占いの成果とは思いません。それは、象徴の検討を通して、自分自身の内面に分け入りついには気付きにいたった、その本人の内省のたまものであると、そう考えているからです。

そんなわけで、久しぶりにルーンの本を引っ張り出してきました。けど、ちょっと探してみたのですが、やっぱり石が見つかりません。でも、石は別にこの本についてきたものでなくてもいいわけですから、自分で作っちまうのがいいかも知れないなと思います。自然石に刻んでもいいし(きっとすごく大変でしょうけど)、陶土でもって作ってもいいし、壊れにくいように木を彫ってもよさそうです。こういうものは、それくらいのフランクさでつきあうのがきっといいのだと思います。

  • ブラム,ラルフ『ルーンの書』関野直行訳 東京:ヴォイス,1991年。

2007年1月29日月曜日

にこプリトランス

 ROM-レス。』に続く白雪しおんの単行本『にこプリトランス』。突如押しかけてきた妹弟(双子)に翻弄されるお兄さんの話、といったらなんだそりゃー、って感じにも思えますが、実はこのふたり、せすとりんすはアンドロイドだったのです。って、そりゃなんだー。なんというか、いくらなんでも狙いすぎというか、基本形すぎやしませんかみたいな気もするんですが、それがなんだか妙に気になるというか、月に三誌も出るきらら系列誌(フォワード除く)の、変に入れ替わりの激しい四コマ群に埋もれることなくきっちりと記憶に残っているのですから、やっぱりそれだけ人の興味を引きつけるなにかを持っているのだろうと思います。この感覚は『ROM-レス。』でも同じでした。また、これは連載はされていないのですが、『レンタルきゅーと』も同様で、以上をかんがみるにどうも白雪しおんという人の漫画は、私の記憶に残りやすくできているみたいと感じます。

で、買ったわけさ。改めて一話から読んでみると、どことなく微妙な感じの漫画だなあという印象がやっぱりあって、なんてったらいいんでしょう、基本に忠実すぎるギャグ、キャラ付け、それから展開も。私はKRコミックス読むときはまず表紙をはいでみるのですが、中表紙表裏に小さい文字で本編の解説がありまして、こういうところに妙に同人系のペーパー読んでるときみたいな感触を得ましてね、けどこれが悪くないんですよ。楽しんで描いてらっしゃるのだなということがひしひしと伝わっている感じ。なんか人柄から伝わってくるというか、作者も読者も一緒になってひとつの漫画の世界を軸にして楽しもうという、輪のような、独特の空間が成立してるという感じなんです。実際、この楽しいという感覚が、私をこの人の漫画に繋ぎ止めているのだと思うのです。そして、おそらくはこの楽しいという感覚が、この人の漫画に出てくる人たちを膨らませて、漫画のキャラクターという記号的な位置から浮上させている — 。ええ、読み進めてみればわかることかと思いますが、回を重ねて動き出した登場人物たちは、規定のレールをはずれたすえに独自の躍動を備えて、 — それは間違ってもどこかの誰かが作ったような感じではない — 、皆で楽しもうという雰囲気で満たしてしまうのです。

理屈やなんかで分析的に捉えようとすれば、おそらくその感じというのは散り散りに消えてしまうんじゃないかと思います。だから、私はこの漫画を理詰めでは読むことができず、ただ感じるままにほのぼのとせす、りんすの生み出す雰囲気にほだされて、にこにこと読んでしまっています。ほだされたのは多分私だけではなくて、ふたりに振り回される騎士ないとにしてもきっとそうで、それから生徒会の人たちもそうだな。気がついたら、なんかみんなほんわかと馴染んでしまっているというような感じが嬉しい漫画だと思います。ぬるいといえばぬるいのかも知れないけれども、私はこれを暖かいと感じたいな、そんな風に思います。

蛇足

ええと、りんす、というのはあまりにも狙いすぎだと思うので、弥深子やみこというのもなんか逃げを打ってるような気もするので(いや、好きですよ、この人。あのなんでも赤飯になるという、勢いでできたとしか思えない設定、大好き。あと「思ったよりもできない」って言われるところとかも!)、なのでせす、といいたいところですが、私も狙いすぎると萌えない口なので、特に誰というのは保留しておきたいと思います。というか、ちょっと選べません、騎士その他も含めてあまりに威力が強すぎますので……。

  • 白雪しおん『にこプリトランス』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

引用

  • 白雪しおん『にこプリトランス』第1巻 (東京:芳文社,2007年),26頁。
  • 同前,34頁。

2007年1月28日日曜日

ウィザードリィ エクス — 前線の学府

  Wzardry XTH、クリアしました。ええ、ようやく。購入及び開始は2006年9月でしたから、丸々四ヶ月かかったというわけですね。ああ疲れました。とりあえずしばらくはWizardryはもういいや、って感じ。けど、このクリアというのはシナリオクリアでしかないから、きっと私はこれからもまだXTHを遊ぶでしょう。今回のクリアにあたり、主力パーティこそはかなり強化されていますが、最前線に出すには力の不足しているサブパーティを強化する必要もありますし、さらにサブのサブを強化する必要もあります。それにアイテムもまだ揃っていなければ、未踏のマップだってあります。出会っていない敵、クリア後のクエストもまだまだ。というわけで、クリアしたというにはほど遠い状態。いうならば、一段落つきましたといったところでしょう。そんなわけで、XTH2に移行するのはまだもう少し先のことになりそうです。

ネタばれになってもいやなので、さらっとだけ書いておきましょう。私はそのロードに出現するマップを踏破するまで次に進まないと決めていましたので、最終戦におもむく条件が揃っているにも関わらずかなりの時間足踏みして、装備の充実とパーティの強化を図って、でもちょっと鍛えすぎたかも……。まさかそれが最終戦とは思わない状態で最終戦に挑むことになったのですが、最後の最後、1ターンキルってどうでしょう……。一体どれほど強いものかとびくびくしながら、君主の献身に重ねてディルモアで後衛を守るという策を講じて、けど攻撃らしい攻撃、くらわぬままにクリア。参ったなあと思いながらも、けど安全に安全を重ねたい私らしい終わりようだとも思います。

ストーリーはあってなきが如しといっていいくらいに薄味でしたが、けれど正直なところしんみりとしたなあ。このままゲームを終わらせたくないという感傷もあったためかも知れませんが、けどそれ以上になんか割り切れなさが残ったというか — 、けどこの割り切れなさはシナリオが引きだしたものであることは間違いないのですから、やっぱりいいシナリオだったんだと思います。大上段に振りかぶって感動やなんかを押し付けてくるようなシナリオだったら辟易したかも知れないけれど、ちょっと薄めに仕上げて、けれど心に引っかかるものがある、なんか一抹の寂しさや悲しさ、すまなさや割り切れなさ、そういうのが残って、今もなお思い出すたびにしんみりとした思いにとらわれます。ああ、終わっちゃったんだな、学徒たちとともに数百時間を生きた世界の状況はすっかり変わってしまったんだなと、そんな感慨にふけってしまいます。

でも、メインのシナリオは終わったけれど、まだゲームは終わっておらず、とりあえずクリア後のクエストに参戦。そうしたら、いやあ参った、めちゃくちゃ厳しいでやんの。すっかり舐めてしまって、楽勝楽勝なんて感じで進めてみたら、死にそうになった。複数のクエストを同時進行させたのですが、そうしたら途中であわや全滅の危機? みたいな状況が見えたから、とりあえずクリアした分だけでも報告しようとロールフェルト逃げをはかるも失敗。なんで!? もしかしてイベント戦ってあらゆる手段使っても逃げられないの? やられた。仕方がないので腹をくくって、フォーレスとフォーフィック使いまくって、盾役の君主のACを-70まで下げて、後はもうマディア、ディアマハン使いまくり。一時などは神女以外全員状態異常に陥ってパーティとしての機能はもはや壊滅状態といっていいくらいに追いつめられて、このときほど君主,神女,盗賊,司祭,僧侶,魔術士という編成に感謝したことはありませんでした。僧侶呪文使えるやつが多いからなんとかなったという話。ケアルフォを重視したのがここにきて生きてきたという感じですよ。

死ぬ思いでクエストこなしたら、またまた掲示板に依頼があがっていて、とりあえず全部受けたんだけど、進めるのはもう少し先になると思います。難度の低いのならいいけど、星が多いやつは死人が出かねない。そういうのはちょっとご勘弁って感じですから。

と、こんな具合にまだまだはらはらさせるイベントはたくさんあります。だから、今はまず戦力の増強を。まだ手にしていない上級の武器防具を探しながら、ぼちぼちとパーティを強化していきたいと思います。

2007年1月27日土曜日

新世代ロボット戦記ブレイブサーガ

  ゲームにかぎらないのですが、そのハードを買いたいと思わせるものをさしてキラータイトルとかいったりしますが、私にとってはどうやらそれは地下迷宮ものが該当するようなのです。まあ、ファミコンを買った頃にはWizardryどころかRPGなるジャンルさえ知らなかったので、この例には該当しないのですが、PlayStationを買うと決めたのはWizardryがPSで出るという情報を得たからですし、ゲームボーイポケットを買ったのもWizardry外伝やりたさのため、Nintendo DSだって『世界樹の迷宮』が原因と、こんな具合に私の興味は常に地下迷宮に向いているようなのです。といいながら、ひとつのゲームハードを地下迷宮専用機にするのもどうも忍びない。というか、プラットフォームが整備されてしまうとあれもこれもと目移りするという悪い癖が頭をもたげてきて、そんなこんなで買ったゲームが『新世代ロボット戦記ブレイブサーガ』でありました。

(画像はコミック版『ブレイブサーガ2』)

たしか、当時パソコン通信かなんかで、勇者シリーズ(『勇者エクスカイザー』に始まり『勇者王ガオガイガー』にいたるロボットシリーズアニメ)のコミュニティみたいのに入っていたんですよ。そこでですね、今度勇者もののゲームが出るらしいよ、という情報がもたらされましてね、しかも悪いことにPS。ああーっ、こないだハードを買ったところじゃねえか。正直実際のところ、私はWizardry以外にゲームを買うつもりはなかったのですが、けれどプラットフォームがあり金もないわけではないとなれば欲しくなっちゃうじゃないですか。というか、欲しくなったんですよ。しかも悪いことに、この当時すでに限定版商売というのは開始されていまして、『ブレイブサーガ』の初回限定版には主人公ロボ・バーンのフィギュアがついてくる! ああ、買ったさ、買ったよ。限定版には昔っから弱いんですってば。

ファミコン以来まともにゲームをしていなかった私をしても、このゲームは非常にぬるいと感じられました。スクエアに区切られたフィールドに、勇者シリーズのロボット(以下勇者)たちを配置し、敵を殲滅するのが基本線。けれど、倒してしまうと味方にならないとか、条件分岐によって味方になる勇者が変わるとか、つまり何度も遊んでね、みたいな要素があるんですが、正直きつい。ゲームとしてはぬるく、そのわりに一戦が長いという要素が足を引き、さらに悪いのはテレビシリーズを意識した構成であるためにきっちり48話あるんです。勇者シリーズを『勇者エクスカイザー』から『勇者指令ダグオン』までフォローするためユニット数はかなりのもので、しかも合体前の成長を合体後は引き継がないために、またレベルをあげなければならないという涙ものの仕様(『ブレイブサーガ2』ではあらためられました)。でもユニット多いのは楽しいんですよ。それぞれのタイトルに応じたエピソードや展開が挿入されるから、往年のファンとしてはもうたまらんって感じで、それこそ月面決戦だなんて鼻血でそうだった! コアな勇者ファンであれば長さも辛さもさほど意識されることはないかも知れません。

でも、二度はクリアできなかったです。それは結局は購入するゲームが増えてきたという事情によるのでしょうが、ひとつのタイトルで何ヶ月も持たせるなんてことができたのは、それこそ最初の一年間だけだったのだと思います。その証拠といったらどうか、『ブレイブサーガ2』はクリアせず仕舞いでした。他に遊びよいゲームがあるものだから、そちらへ流れてしまった。この点において、他のゲーム事情を知らないうちにしっかり最後まで遊べた『ブレイブサーガ』とは仕合せな出会いをしたのかもなと、そんな風に捉えることも可能かと思います。

余談ですが、『電撃PlayStation』の表紙が『ブレイブサーガ』だぜという情報を得て購入したその号に『Lの季節』の紹介記事がありまして、ここで私ははっきりと断言することができるのですが、これが私の人生の転換点でした。この記事こそが私をディープにゲームの世界に引き込むきっかけであったのです。一言でいえば恋に落ちた。あれほどの強烈な印象は、その後にもなかったのではないかと思います。

  • 一式まさと『ブレイブサーガ2』第1巻 (ブロスコミックス) 東京:エンターブレイン,2000年。
  • 一式まさと『ブレイブサーガ2』第2巻 (ブロスコミックス) 東京:エンターブレイン,2001年。

2007年1月26日金曜日

ETERNAL RING

 今更というべきなのでしょうか、Nintendo DSに興味を持ったのをきっかけにして、ゲーム店をうろつくようになりました。WiiPlayStation3、新ハードが出てきて、活気づいているというのがひしひしと感じられる売り場の空気に触れて、ああなんだかちょっとまたゲームやりたいなあ。それも新ハードの能力というのが感じられるものがいいなあ、なんて思っている私の興味はなんというかPlayStation3に向いていてびっくりです。ゲームはグラフィックスじゃないだとか、スペックだけじゃ語れないなんていっている私ですが、でもやっぱりハイスペック機というのは、それがハイスペックであるというだけで魅力を感じさせるものです。

私が今ちょっと興味を引かれているゲームというのは『アーマード・コア4』だったりしまして、こういうチョイスが出てくるところからも、私の嗜好はWiiよりもPS3向きということが理解されるのではないかと思うのですが、でも、正直今『アーマード・コア』を遊ぶのは無理だと思います。オートロックオンという概念が存在しない、ハードシューティングゲーム。私の初ACはPS用のMOA体験版で、本格的に取り組んだのはというとPS2で出た『アーマード・コア2』だったのですが、ありゃあてこずりましたよ。なにが起こってるかわからないのです。戦闘開始時に目の前にいた敵ACが、戦闘がはじまるやいなや視界からきれいさっぱり消え去って、以上おしまいっていう感じ。とりあえずどっかから撃たれていることはわかるのですが、どこを向いても敵を捕捉できない。わお、こりゃ駄目だと思ったんですが、AC2買って一日数時間、歯を食いしばりながら頑張ったらですよ、なんとハードモードででも戦えるようになるんですから人間というのはすごいです。その後、『アナザーエイジ』も買ったのですが、残念ながらこれはクリアするにはいたりませんでした。難しいとかいうんじゃなくて、時間がとれなかったのが最大の敗因です。とにかく戦って戦って、チャレンジの連続から勝機を見いだすというようなゲームですから、まとまった時間を費やす必要があったのですが、それが無理でした。残念です。たまに遊びたいと思うこともあるのですが、もう私は敵をターゲットサイトに捉えることさえできなくなっていることでしょう。残念です。好きなゲームなのですが遊べない。ああ、無限の時間が欲しいです。

さて、『アーマード・コア』を作っているフロム・ソフトウェア。私が最初に買ったこのソフトハウスのゲームは、奇しくも、というか順当にというか、初めてのPS2用ゲーム『ETERNAL RING』でありました。一人称視点のファンタジー系RPGです。ひたすらにストイック。美しく描画された謎の島を探索し、最後の敵を倒すという実にオーソドックスなゲームであるのですが、しかしこれがアクションRPGなんですよね。参りましたよ。足もとが実に不案内で、崖から落ちて死ぬ。水にはまっても死ぬ。敵と戦っているうちに追いつめられて、あ、落ちた。敵と戦う前に地形を把握して足もとを確保するのが重要という、ある意味戦闘の基本みたいなものを要求されるところは面白かったと覚えています。

このゲームは、名前にリングとはいっているように、指輪が重要な要素でありまして、装備している指輪の種類によって使える魔法が変わるという、そういうシステムなのです。指輪の種類もたくさんあって、しかしそれは探して見つけるだけでは不充分。アイテムと合成し、より上位の指輪を作り出す必要があるんです。

この合成という要素は面白かったんですが、どうも私はけちにできていましてね、アイテムによほどの余裕ができないと合成をしないんですよ。だからまったくもって非力な指輪でもってストーリーを進めるという、開発者が見たら嘆きそうな遊び方をしていて、だって塔の頂上で出会う竜を倒したときに使った指輪、一番低いレベルの火の指輪だぜ。二時間くらい戦ってるの。音を頼りに敵の攻撃を避けながら、ちまちまちまちまとダメージを与え続けるの。もうどうしようもない。けど、ボス戦にはある一定の特殊装備であるとかがないと勝てないという、そういう造りになっていないというところには好感が持てました。そういえば私の愛したゲーム『デュープリズム』なんかにもそういう要素がありました。ミントは魔法使いだというのに、蹴りだけですべてのボスを始末できる! すばらしい。やっぱりゲームはこうでなきゃ。と思う私はやっぱり変わり者なのだと思います。

『ETERNAL RING』は、とりあえずクリアするだけはしたのですが、けれど指輪をすべて合成するにはいたりませんでした。また、クリア後のおまけダンジョン(もちろん上級ダンジョン)もすべて歩くにはいたりませんでしたっけね。というわけで、遊び尽くしたとはいえない状況であるのですが、けど楽しかった思い出が今も残っています。今からやればもしかしたら粗いところも見えるかも知れないPS2最初期のタイトルですが、けれどあの当時、PS2の能力というものを体感させてくれた最初の魅力的なタイトルでありました。もし無限の時間があったならば、きっとまた遊びたいゲームであると思います。

CD

2007年1月25日木曜日

Herring, taken with GR DIGITAL

Herring三人姉妹の長女が飼い猫にタラを与えました。猫は喜んで食べました。次女はイワシを与えました。やっぱり猫は喜びました。末の妹はニシンを与えました。ですが猫は喜びませんでした。なぜでしょう? っていうなぞなぞがあるんです。確かルイス・キャロル作のなぞなぞだったと思うのですが、さてこの答えはなんでしょうか。タラとイワシを食べてお腹一杯だったからではありませんよ。答はですね、末娘の与えたのはherring(ニシン)ならぬher ring(彼女の指輪)だったからでした。ええーっ、なんじゃそりゃ、駄洒落かよって、だって仕方ないじゃないですか。言葉遊びとナンセンスの大家であるルイス・キャロルの名前が出てきた時点で、こうした落ちは覚悟する必要があったんですよ。けど、日本人には厳しい問題だと思います。だって、翻訳された時点でニシンと指輪の共通点は失われてしまいますから。

さて、この写真。

Herring

これはGR DIGITALを購入した頃に撮られた写真で、なんでこんなのを引っ張り出してきたかというと、おなじみGR BLOGのトラックバック企画”我が家”に参加するために、なんでもいいから我が家を思わせる写真が必要だったのです。でも、意外に我が家という雰囲気をさせる写真ってないんですよね。そもそもうちのなかで、うちのものを撮るということがありませんから、かろうじていつも座っている位置から撮られた居間の写真なんてのを見つけたのですが、けどこんなの面白くない。じゃあ他にはなんだろう。食だな。いつも使っているまな板、包丁、そして家族の人数分用意された切り身。こうした何気ないものの影に、家族というものがイメージされるとしたらそれも悪くないなと思ったのでした。

我ながらすごいこじつけだと思います……。でも、まあ、確かに間違いなくこの写真にはある日のうちの夕食の影があるわけだから、そんなに外してもいないかな。いや、それでも苦しいよな……。

この写真見て、多分今ならこういう風には撮らないんだろうなと、半年あまり毎日なんでもいいから撮ってきて、少しずつ好みというか見方というか、そういうのが変わっていると感じられる一枚でした。むしろこの一枚が意味を持つとしたらそれはほかならぬ私自身にとってであろうかと思われて、そしておそらくは、もっと時間が経った先になお一層の意味を私に対して突きつける写真なのではないかと、そんな予感をしています。

2007年1月24日水曜日

乱世を生きる — 市場原理は嘘かもしれない

 実はずいぶん前に読んでいたんだけど、その時にはどうも書くに書けなくて、その感覚というのは、頭のなかには確かにあるんだけれどもどうにもつかみあぐねているというような、思うところはないわけじゃないんだけれどもそれがかたちにならないんだよというもどかしさといったら多分一番それっぽいんじゃないかと思うのですが、漠然とした思考が堂々巡りしながら行き着くところを見いだせないというような感じであったのです。多分、この感覚はこの本の独特の筆致に影響されてのことなんだと思うのです。ひとりの人間の思考のプロセスがそのままかたちになったような本です。ああでもないこうでもないと逡巡しながら進んでいく、そういう文体構成が読んだ私に影響したのだと、そんな思いがします。本を読むということは他人の思考法で考える行為であるだなんていいますが、橋本治の本を読んでいるときほど、それを実感することはありません。

だから、すごくわかりにくい。なれた思考プロセスではないですから。ひとつ仮説が提出されて、それを巡る実例が物語られて、しかしその説と例が一致しているのかどうか読んでいるうちにぐるぐると混乱してきて、読んでいるうちになれるのですが、それまではつらい本かも知れません。論じるという感じじゃなく、一緒に僕の頭で考えてみましょうといった感じなんだと思うのですが、だからこの人の本を読むと、私にはない発想や考えの流れというのが体感できて、なんだかちょっと他の本では味わえない独特の感触というのがあるのだと思います。

そして、その私のものではなかったはずの思考というのは、ちょっとばかり私の頭の中にも残っているようでして、それは数日前から開始されたNintendo DSを探す行脚においてふと思い出されて、ああ橋本治のいっていたことというのはこういうことだったのだと体感的に納得したのでした。例えば、私は先達てこんなことをいっていました。

ネットショップ見ると、[Nintendo DSを]定価の五割増しくらいで売ってる店がある理由もわかりましたよ。[中略]アメリカでは誰もが欲しがるものはプレミア価格がついて、定価より高くなるのが普通だったんだそうです。けど、昭和の頃とは違い、今の日本ではプレミア価格も珍しくなくなって、ああこれこそ需要と供給のパワーバランスだよなと思ったのでした。つまり、需給バランスの崩れている現状においては供給が強気の値段つけてくると、そういう訳ですね。抱き合わせ販売が関の山だった昭和を思えば、今はずいぶんと時代が違っているのだと感慨も深くなります。

そして橋本治はこういっていました。

スーパーマーケットが日本に根を下ろすためには、インフレの物価高を必要としましたが、それもまたたいした追い風にはなりませんでした。なぜかと言えば、昭和三十年代に「商店街」という日本経済を成り立たせていた日本人は、「我慢」という現状に抗する力を、まだ持ち合わせていたからです。

昭和から平成に移る過程で、確かに私たちは我慢というものを失ったのかも知れないと腑に落ちたのです。とにかく欲しいと思えば定価より高くでも買うという発想が、とりわけ特殊ではなくなっているのですから、確かに、少なくとも私のうちには我慢というものはなくなってしまって、「いるのかいらないのか分からないが、自分はそれを“ほしい”と思う」というくだらない「欲望」の侵蝕を食い止めることができなくなっている訳ですね。この本を読んでいたときに、ふんふんなるほどねえだなんてわかったようなふりしていた私ですが、真に見つめるべきものは自身の中にあったんだと、昭和の価値観の中で我慢をしてきた私自身が、いつしかそうした価値を捨て去り、欲望に突き動かされるままに行動してしまっていることを理解したうえで、もう一度この本に向き合うべきなんじゃないかと、そんな風に思っています。

この本に書かれていることは特に真新しいことではなく、現実に起こっていることを、橋本治はこのように見て考えているのだという、そのプロセスが面白い本です。得られた結論も特に新しいことではなく、けれどいわれていることだけを見ればそうかも知れませんが、けれどこの本の見るべきところはもっと別のところにある。それは、おそらくはそこへたどり着く過程なのだと思います。この本で橋本治は、自分の思考を開いて見せて、そしてそれから先をどう考えるものか促しているわけで、とすると、これはちょっとした挑戦みたいなものなんでしょう。ずいぶんマイルドな挑戦ではありますが、それでもなんだかスリリングだったかもなあ。そんな気もする不思議な一冊であると思います。

引用

2007年1月23日火曜日

ニンテンドーDS Lite専用 スクリーンガードDSライト

 Nintendo DS、まだ見つかりません。ピンクは人気ないそうだからあまってるんじゃないのみたいにいわれたりもするんですが、なんのなんの、全然ありませんって。見つからない場合は足で探せが信条ですから、とにかくゲーム屋おもちゃ屋見かけたら入って物色するというのが日課というか、しかしこんな日参しなければならないというのは正直なところつらいなあ。せめて入荷のパターンでもつかめればいいのにと思ったので、ちょいと店員に聞いてみることにしました。けどただ捕まえて聞くのも野暮だから、ここはひとつ買い物しておこう。となると、DSには必須と思われる液晶保護シートが手ごろです。なにしろ、タッチペンで液晶表面をこすらせる仕様ですから、傷でもいったらいやじゃないですか。とのことで購入。店頭には二種類あったのですが、任天堂のライセンス商品だというキーズファクトリーの商品を選択しました。

でも早まったかも。てのはですね、この記事起こすためにAmazon.co.jpで調べてみたら評判が悪いんだ。なんか貼りにくいらしいですね。でも、そうかと思えば使用感はいいみたいなコメントもあって、じゃあついでに他社製品も見てみたら、やっぱり一長一短があるみたいです。貼りやすさなどなど総合的にホリ製が優れてるみたいなレビューが目立ちますが、でもこればっかりは自分で貼ってみないとわかんないなあ。というわけで、まったくもって意味のない記事であることが露呈してしまいました。ええ、貼りたいのはやまやまなんですが、貼る対象が手もとにないもので……。

シートを購入する際に、DSはコンスタントに入荷するのか問い合わせてみたらですね、だいたい一週間から二週間のスパンで入荷するらしいことを教えてもらえました。入荷したら店頭に入荷と張り出しますとのことなので、いちいち店内に入ってうろうろする手間がないのはありがたいと思います。とりあえず予約は不可、取り置き駄目ということなので、本当にこれは日参する必要がありそうですね。正直なところ、ゲームにそんな一生懸命にはなりたくなかったんですけどね。ぷいっと店にいって、おうこれこれってな感じで気楽に手に取ってレジにいくというのをやりたかったのですが、今のDSを取り巻く状況はそれを許してくれません。

てなわけで、DS入手がなるまでは『世界樹の迷宮』のサントラでも聴きながら期待を膨らませておきたいと思います。

あ、そうそう。DSだかDS Liteだか、中古で扱っている店は一件ありました。強気の一万三千円台! 同じ棚に『世界樹の迷宮』も中古であって、ええーっ、えらい早いじゃないか、と驚いたのですが、これはきっと好みにあわなくて売っぱらったんだろうと、そんな感じがします。

2007年1月22日月曜日

ニンテンドーDS Lite

 甘く見ていました。聞きしに勝るとはまさしくこのことです。どこにいってもない。なにがないって、Nintendo DSですよ。大阪梅田で四店舗回って全滅。地元最寄り駅はもちろんのこと、途中下車までしたというのに、まるできれいに掃いたみたいに売り切れ。どこにいっても次回入荷は未定です。ああ、もう疲れた。しかしなにが疲れたかというと、ゲームをめぐる状況の変化だと思います。だってね、子供時代を除き私が一番ゲームを遊んでいた時期というのは前世紀末から今世紀初頭にかけての数年であると思うのですが、その頃にはむしろ乱立していたといっていいゲーム専門店が、もうことごとくありません。実際、私の最寄りの駅前にはゲーム専門店が三店舗ほどあって、ちょっと足を伸ばせば後三四店舗ほど見つかったというのに、今はただの一店舗しかありません。梅田にしても、紀伊国屋書店はゲームの取り扱いをとうにやめてるし、ホワイティ(梅田の地下迷宮)にあったゲーム店も、消えてなくなっていました。ええと、先週にはあったと思うんですが……。こういう状況見せつけられると、ゲームが娯楽の花形だった時代は終わったんだなと実感させられます。いや、その割りにはDS、Wiiは馬鹿売れしていて、一体どこで売れてるんだろう。これだけゲーム機が売れるのなら、どうしてあんなにたくさんあったゲーム店は撤退しなければならなかったんだろう。うらぶれた冬の夜、そんなことくさくさ考えながらの道中、いやあ本当、余計に疲れましたよ。

さて、なんでNintendo DS探してるのかというと、ええと、昨日いってたゲーム『世界樹の迷宮』を遊ぶためです。ええーっ、買えたのあのゲーム!? って買えたんですよ。でも、ネット上ではどこの店も売り切れてて、ということは梅田にあった? いや、ありませんでしたよ。きれいさっぱり、ありませんでした。ということは — 、そうオークションですよ。定価より高く買いました。正直あるかないかもわからない状況で歩き回るというのなら、少々高くても確保してしまったほうが気が楽だという判断をしたのです。というか、戯れに入札してみたら落札しちゃったんだ。後悔こそはしてませんが、こうして私は道を踏み外していくのだなと、我ながら自分のあほさに落胆する思いです。

でも、ソフトこそは高値で買ったとしても、ハードは正札で買うつもりで、それに出たところのソフトこそ売りきれてるとしても、ハードならなんとかなるだろうと思ったんですね。まあ、甘かったわけですが。ネットショップ見ると、定価の五割増しくらいで売ってる店がある理由もわかりましたよ。あるかどうかわからんゲーム機探してほっつき歩くこと思えば、金でかたをつけたほうが早くて楽という判断はあっておかしくありません。今回私はそういう決着のつけ方はしないつもりですが、でも金はあって時間のない人、子供にせっつかれているとかの理由でもって、とにかく早く欲しい人、そういう人ならプレミア価格払うよなあ。そうそう、このプレミア価格ですよ。昔ファミコンが全盛だった頃、アメリカ人が日本の状況を見て、あれほど品薄の人気ゲームであるというのに定価より安く買えるというのはすごいと驚いたらしいと聞いたことがあります。そうなんですよ。アメリカでは誰もが欲しがるものはプレミア価格がついて、定価より高くなるのが普通だったんだそうです。けど、昭和の頃とは違い、今の日本ではプレミア価格も珍しくなくなって、ああこれこそ需要と供給のパワーバランスだよなと思ったのでした。つまり、需給バランスの崩れている現状においては供給が強気の値段つけてくると、そういう訳ですね。抱き合わせ販売が関の山だった昭和を思えば、今はずいぶんと時代が違っているのだと感慨も深くなります。

『世界樹の迷宮』の品薄は明らかに初版の少なさに起因していると見るのですが、それに加えて手に入るかどうかわからないという不安から複数注文をする人も多かったと見えて、例えば私の落札したものもそういう類いの重複購入ものであるようです。でも、売れるかどうか不安含みの新作ソフトならともかく、発売から二年、DS Liteからでも一年程度の時間が経ってるDSがこんなというのは正直驚きました。作りすぎて在庫がだぶつくのを怖れてのことだと思いますが(ファミコン時代は、ほら、おそろしく値崩れしたりしたでしょう)、でも消費者としてはもうちょっと出荷を増やして欲しいなあというのが正直なところです。

ソフトは明日届きますが、果たしてハードはいつになることか。ゲーム店に日参しながら、長期戦を決め込もうと思います。

2007年1月21日日曜日

世界樹の迷宮

 ああっ、出遅れた、というのは実にいつも通りの話であるのですが、はてさて今回はなにに対して出遅れたのかといいますと『世界樹の迷宮』。Nintendo DS用のゲームです。このゲーム、とあるゲームの掲示板でちょろっと触れられていまして、わざわざここに書いたってことはもしやっ! と思って検索してみればドンピシャですよ。地・下・迷・宮v やあ、これはきましたよ。久々にきましたよ。キャラクターこそはかわいらしく、なんか今風のCRPGぽく見せていますが、どうやらその本質はオールドスタイルである模様。迷宮は3D、ファーストパーソン視点で描かれていて、しかもなにがすごいといっても、タッチペンでマッピングなんだそうですよ。うほ、こりゃ実に私向けじゃないですか! こりゃ、こりゃ買っとかんといかんなと、ちょっとなんだかひとりでハイテンションになってしまっています。

けど、ここで問題がひとつ。DS持ってない、ってのは些細なこと、正直どうでもいいんですが、このゲームにはどうやら早期購入者特典というのがあるようなのですよ。しかも、発売三日目にしてすごい売れ方をしているらしく、どこもかしこも品切れ。けどオークションには山と出ている。わあ、最悪だ。

そうなんですよ。私が出遅れたというのはこのことだったんです。特典付きならきっと高騰するだろうと見込んで買い占められたとでもいうのか、異様な品薄状況を前にして、茫然です。やられたー。こりゃ、ちょっと特典付きは手に入らないかも知れないなあ。いやな予感がしています。

特典ってなにかというと、古代祐三によるアウトテイクのサントラ。ブックレットもついて、キャラクターデザインの日向悠二によるイラストが満載。ぎゃーす、欲しくなるじゃないですか。古代祐三ったらあれですよ、カルドセプトの音楽を作った人で、私、この人の作曲は結構好きなんです(サントラ買いましたもの)。それがついているかどうかは、正直ものすごい差があると思います。

ネット上で特典付きを手に入れるのは、正直なところもう不可能であると思います。となれば、後は足で探すしかありません。そんなわけで、明日、私は大阪は梅田の地下迷宮を探索することになりそうです。正直仕事する気分なんかじゃないんですが、けどゲーム買いにいきたいから休んでいいですかとはさすがに切り出せそうにありません。ああああ、買えるかなあ、買えないかなあ。

と、こんな感じでひとりハイテンションになっています。

2007年1月20日土曜日

バビロン再訪

 フィッツジェラルドについてはなんの予備知識もなしに、いきつけの本屋に見かけたタイトル、『バビロン再訪』という響きにただただひかれて買ったのでした。バビロン再訪。表紙には子供と連れだって歩くコートの男の後ろ姿。どことなく寂しげで、この表紙だけでなにか不安に耐えて人生を歩もうとする父子の悲しさがわかろうというもの。再訪という言葉の意味はなんなのだろう。そしてバビロンとは一体。こうした謎めいた言葉にひかれて買いはしたものの、この本は憐れ不遇にも私の書架の片隅を占めて数年かえりみられることもなく、けれどこれまたなにが私の背を押したのか、戯れに手に取られたことをきっかけとして、この年始に読まれることとなったのでした。

『バビロン再訪』には表題作の他短編が二作収録されていて、『メイ・デー』そして『富豪青年』。そのどれもが、かつての栄華が過ぎてしまったあとのことを描いていて、時代はというと第一次世界大戦が終わった後であるとのことです。そんなにも昔。今から一世紀近く隔たった時代世相の一側面をかいま見て私は、なぜだか変に共感を覚えるところもあって、それは私もうたかたの狂乱の時代を過ぎた後、あくせくと暮らすもののひとりであるからではないかとそのように思うのです。

でも、私はその狂乱の時代を直截には知らない世代です。私が高校に上がったくらいに景気は後退しはじめて、だから私はそうした時代のうま味を知ることなく大学を出て、定まった職にも就かずふらふらと。こうした世代をさしてロスト・ジェネレーションという向きもあるようですが、そもそもこの言葉の指した世代というのはフィッツジェラルドをはじめとする1920年代の作家たちであったと聞き及びます。となれば、私がどこかにうらぶれた匂いを漂わせているフィッツジェラルドの短編に共感めいたものを感じるのもそれほどおかしくないのかも知れません。

栄光の過去とうらぶれた今との対比がとりわけ切なくさせると感じるのです。大恐慌で失ってしまったもの。あるいは狂乱のうちに取り落としてしまったもの。時代の空気が変われば、人も変わっていく。それは大人になるということであったり、あるいは不況がために冷や水浴びせられたように熱が引いたということでもあったりして、そうした変化をもろにかぶって沈み込むものあらば、取り残されて自らの有り様に戸惑う姿もある。けれどもっとも切なさを感じさせるのが『バビロン再訪』。過去の影が今もつきまとってくる。きっぱりと縁を切ったつもりでいても、向こうからやってくる。馬鹿げた時代になした馬鹿げたことの数々が、正気を取り戻した今に返ってくる。これを読んで、ああ人は過去からは逃げられないのかと、私も人の子だから、やはり昔には馬鹿なことのひとつやふたつやっていて、そうした過去が今に返ってくるのかも知れないと怖れて暮らしているものだから、こうした仕打ちを受けるチャーリーが不憫と感じられて仕方がなかった。かつて酔いしれただろう幻想の全能感が、今の自分のほんの身近のことすらもコントロールできない無力を生み出しているのかと思うと、果たしてそれはそれほどの酬いを受けなければならないほどのことであったというのでしょうか。けれどもそれはやはり自ら蒔いた種であるというのですから — 、人生というのはどれほどにうまくいかないものだろう、どんなにか悲しく侘びしいものであろうかとため息する思いでした。いつか彼の望みが成就し、彼の求める仕合せが仕合せのまま続けばどれほどよいだろうかと、そう思うまでに私は見知らぬ彼の身の上を自分のことのように感じないではおられなかったのです。

2007年1月19日金曜日

鈴木先生

 書店でこの本見かけて、なにかひかれるところがあって購入にいたったのですが、その判断は誤っていませんでした。しかし、私は気付いていませんでした。突然、いつも通りすがりに通り抜けていく書店の棚に現れたものだから、新刊書かと思っていたのですが、この本、実は昨年夏に出版されていたのですね。奥付を見れば第3刷。地味ながらも徐々に版を重ねているようで、実際この漫画はそういう着実な売れ方をする本であると思いました。決して派手にぱあっとは売れないだろうけれど、この本の持っている空気、真面目そうで、固そうで、けれどまっすぐにこちらを見つめ返してくる強さにその袖を引かれるものはきっとあると思うのです。ちょうど私がそうであったように、何気なく手に取って、どうにも捨て置くことができずに蔵書に加える、そういう出会い方をする本であると思います。

内容は……、固いよ。真面目で、誠実で、教室で起こるできごと、事件にまっすぐに向き合って、決して目を背けない。そんな教師、鈴木先生が主人公です。けど、決して目を背けない、だなんていうと、なんだか熱血教師ものみたいですが、あるいはすごくエネルギッシュな人格者を思わせたりもしますが、でも実はそうじゃない。鈴木先生は自身迷いながら、見つからない答えを探そうとする、どこかに答えを見つけているという実感があるから、その実感を自分のものとしたい。まさしく探究者然とした姿を見せてくれるのです。そしてその姿が、迷いも含めて、鈴木先生の、この漫画の魅力となっているのではないかと思います。

鈴木先生の姿はおそらく作者のスタンスを投影しているのだと思います。日常に、些事になおざりに流してしまうようなできごとを拾い上げて、そのものの持つ意味を考える。その積み重ねが、この漫画のコマの隅々にまで行き渡っている。そういう感じがします。そうした感触は鈴木先生の苦悩苦心とその末に導き出される答えにも濃厚で、思いがけないことを言い出したかに見えたとしても、その奥には熟考がある。言葉が分厚いのです。これは、他人の発した言葉をただそのフレーズに憧れをもって引っ張ってきたようなのとは違う。その人の奥からかたちを成して押し出されてきた、他でもないその人自身の言葉であると、そう感じさせるだけの実質を持った強さに満ちています。

この漫画が面白いのは、こうした実質を持った言葉が戦いあう物語であるからだろうと思います。面白い? そう、面白いのです。投げ掛けられた問題、それは謎であり、あるいはそもそも答などないような問題であったり、しかしその絡み合い込み合った筋道を整理し、そこに自分なりの答えを見いだそうとあがく。そのプロセスのスリリングなことったらないですよ。上質のミステリーを読んでいるかのような気持ちになるといったらいいすぎでしょうか。いや、私はその感覚は決して間違えていないと思っています。渾身の力をもって投げ掛けられた命題を、誠心誠意をもって受け取らんとするそのまっすぐさ加減。時に常識に挑戦してでも、納得のいく落とし所を見つけようとする。でもそれは鈴木先生が教師だからじゃない、大人だからでもない。それはこの人の誠実たらんとする資質によって生み出される美徳であると思います。そしておそらくは、この美徳は作者に発しています。

  • 武富健治『鈴木先生』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。
  • 以下続刊

2007年1月18日木曜日

マルコヴィッチの穴

  今朝新聞見ていたら、関西では本日深夜に『マルコヴィッチの穴』をやるみたいではありませんか。7.5階のオフィスで見つけた謎の穴。そもそも7階でも8階でもない中途半端な1/2階にオフィスがあるという点からどっかおかしいのですが、その穴です、穴がですよ、ジョン・マルコヴィッチの頭に繋がっているというとんでもない発想が実にきてれつで素晴らしい。マルコヴィッチ(実在の俳優です、しかも名優)がまずあってこの発想が出たのか、あるいはこの発想を実現するにあたってマルコヴィッチが選ばれたのか、そのへんちっともわからないのですが、でもこれ、マルコヴィッチというちょっと耳慣れない音の響きがすごく効果的に働いているように感じます。原題はBeing John Malkovichジョン・マルコヴィッチになるとでも訳したらいいのか知れませんが、しかしそれを『マルコヴィッチの穴』としてしまった邦訳スタッフの発想も素敵です。穴! タイトルを見て内容が想像できない映画のトップクラスではないかと思うのですが、しかし本当に穴なんだから仕方がない。シンプルにして力強い、屈指の名タイトリングであると思います。

この映画、1999年の映画なんですね。そんなに前だったっけかー、とえらく驚いてしまうのですが、DVD発売は2001年。私、内容もろくに知らないというのに、タイトルのインパクト、そして黒地にマルコヴィッチの顔がばばーんと浮かんでいる装幀にすっかりやられてしまいまして、買った。買いました。思い起こせば、このころ、いろんな映画をDVDで買って見るというのに凝っていた時期でした。いろんな映画を見たのですが、なかでも『マルコヴィッチ』のインパクトはなかなかのもの、いずれまた見たい映画として記憶に残っています。

この映画、ストーリーはすごくシンプル。マルコヴィッチというプラットフォームにただ乗りして儲けてやろうという商魂たくましい連中が、次第に最初の素朴な興味や興奮を失っていくというところがなんだかすごくリアルで、人間の汚さやら悲しさやらがよく表れていると思います。人間は環境や条件さえ揃えば、自らの欲求をとことんまで追求してしまうんだろうなと思わされる。その欲求というのも、金であるあるかと思えば、性的快楽もそうで、また名誉もそう。貪欲に貪欲に、どこまでも利己的に振る舞う彼らは、マルコヴィッチを搾取し踏み台にして、けれど暴走はとどまるところを知らない。ああ、なんてかわいそうなマルコヴィッチ!

この映画基本的に喜劇、コメディなんですが(ああ、そりゃもう大笑いさ)、どこか悪夢に似た異様な肌触りを残して、また時にいやに現実味のある描写もあって、笑いながらも芯になにか気持ち悪さや嫌悪の感情がある、そんな多面性のある味わいが魅力です。多分に悪趣味で、シニカルだけど悲しくて、いろんな感覚がほんとごたまぜにされているからいかようにも解釈できそうな、だからあえて解釈せずにその感じたままを飲み込んでおこうかなと思いたくなるような、まれに見る奇作であります。

2007年1月17日水曜日

 私が一番児童文学に傾倒していた時期はというと、そりゃもちろん子供時分であるんですが、実はもう一時期ありまして、それは高校から大学卒業にかけての数年間。児童文学作家になりたかったのでした。一体なにが私に働き掛けたものだか、いろいろ読んで調べて、高校卒業してからお金を貯めてワープロ(シャープの書院でした)買ったら、とにかく書いては、投稿して投稿して投稿して、得られたものはというと独自の癖のタイピングだけ。力及ばずといった感じでありましたが、楽しかったといえば楽しかったのかも知れません。もしかしたら、あれが私の青春だったのかもなあ、そんな風にも思えます。投稿熱は大学が忙しくなるに従って薄れていったのですが、けど児童文学を読む楽しさは残りました。大学の図書館には福音館のシリーズがあって、次から次に読んで、その一冊が『ニワトリ号一番のり』。これにははまりました。もう、この本読むだけではおさまらず、いろいろ海事について調べはじめて、こんなにも船や海にはまってしまうだなんて、思いもしないことでした。

(画像はビジュアル博物館『難破船』)

調べるといったら基本的に図書館で、けれど私の通っていた大学は海事になんてちっとも関わっていないから、図書館に行っても資料なんてない。だから最寄りの公共図書館にいきまして、そうしたら結構あります。いろいろ読んだのですが、楽しかったのはやっぱり図鑑ですね。ビジュアルの訴える力といったらいいのでしょうか。船が、模型やなにかの写真を使って説明されていて、細かなところを知るのに大変役立ちました。そうだ、このときはまだ書いてました。書き上げたかどうかはさだかではないですが、一番最後に書いたのが船の話じゃなかったか? だから船についてのディテールを知りたくて、その要求によく応えてくれたのが同朋舎出版のビジュアル博物館のシリーズ『船』でありました。

ページ見開きを使って、ひとつの事柄を扱うこの本は、その真ん中に対象の写真を大きくどんと据えて、細かな部分の名称を教えてくれるところがお気に入りでした。ほら、普通知らないでしょう、船の構造なんて。船首楼とか船尾楼とか、あるいは羅針盤だとか左舷灯右舷灯、そうしたものをいろいろ教えてくれて、ま、図鑑ですからざっくりとした説明にとどまるんですが、けど見てるだけで楽しいということはやっぱりあるのですよ。私の目当ては帆船、まさしくティークリッパーだったのですが、こいつは船の花形ですからもちろん出ていて、模型をどんと置いてですね、半分に切って内部の構造もわかるようにしてくれているのが嬉しかった。船倉がどんな具合になっているかがわかります。船室がどのへんにあるかもわかります。もちろん模型で構造や名称を説明するだけじゃなくて、船をとりまく状況事情なんかも説明されていて、こういうの、眺めているだけなのになんでこんなに面白いのでしょう。そうした場に立ちあったかのような思いになるというか、空想癖ですかね、妄想癖でしょうかね。とにかく楽しかったのです。

そういえば、私は子供時分から図鑑を眺めるのが好きな子供でした。子供向けの図鑑を何度も何度も繰って見て、動物、特に魚なんか好きでした。あの図鑑は親戚の子にやっちまったんですが、今から考えるとすごく惜しいことをしたと思います。場所は塞いだかも知れませんが、今ああいうのってちょっとないんじゃないでしょうか。きっと捨てられていると思うと、ああなんであげることに同意したんだー、と子供の頃の判断の甘さに歯がみする思いです。

2007年1月16日火曜日

フィンガーピッキング・ギター・チューン

 以前、京都は大宮のきんこう楽器にいったとき、楽器の試奏が目的だったのですが、ただ弾くだけ弾いて帰るじゃ申し訳ない、なんか買っていきましょうということで楽譜を二冊買ってきたのです。一冊は『カントリー・ギター・ライン』。カントリー音楽で使われる典型的なフレーズが収集されている本で、こういうフレーズさらっておくと、意外なところで役立つこともあるだろうとそういう理由で選択。そしてもう一冊が『フィンガーピッキング・ギター・チューン』。こちらはアメリカンスタイルギターチューンの曲集。ひとりで伴奏もメロディもやるという、ソロギターの本ですね。

さて、はじめにを見てみますと、本書フィンガーピッキング・ギター・チューンは、Tommy Flintのアレンジによる、サザン・スタイルのギター・ソロ曲集ですとのこと。サザン・スタイルというのはアメリカ南部における演奏様式なのでしょう。続けて引用しますとカントリー、サザン・ブルース、黒人スピリチュアル霊歌などアメリカ南部の音楽の古典ともいえるものが中心であるそうです。

私がこの本を選んだのは、ひとえにレパートリーを増やしたかったからです。なにかの折りに弾けるような曲を用意しておきたかった。けどそれだけじゃありません。私はギター音楽のなんたるかを知らない。奏法も様式も、まったくといっていいくらい知りません。だから、とにかくいろいろ曲をさらってみて、どうやって弾くかを知りたかったのです。知れば発展させることもできるでしょう。応用も可能でしょう。いつか自分のやりたい音楽のスタイルを見つけたときのための基礎をかたちづくっておきたかった。いやむしろそうではないのかも。自分のスタイルを見つけるためといったほうがいいのかも知れません。

弾いてみて、一言。難しいですね。伴奏は基本的にオルタネイト・ベースで、まれにモノトニック(単音じゃなくて重音でもモノトニックでいいのかね?)。親指はリズムを刻み、メロディは中指そして薬指。それを一度にやるわけです。これは、これはきついわ。

昨年の年末、クリスマスのイベントがすんで当座練習しなければならないものがなくなったので、この本を引っ張り出してきたのでした。最初はそれこそ、こんなのどうやったらええんじゃと途方に暮れる思いでしたが、けれどタブ譜がついているからなんとかなりそう。えっちらおっちら弾き出して、最初は到底音楽の体をなしていなかったのが、段々とそれっぽくなってきて、今ではなんとかゆっくりと、本当にゆっくりと、一曲を通せるようになってきました。だから後は数でしょう。数を弾く。まずは一曲目。暗譜はしました。ギターさえあればどこでも練習できるという状況にして、弾く。タブ譜には指番号なんてついてないから、正しいかどうかなんてわからないまったくの我流で弾く。頭で覚えたものを、指に覚えさせる。これを十五曲分おこないます。おそらく2007年中には終わらないでしょう。とりあえずさらって、それっぽく弾けるようにしたら、次は音楽的に弾けるようにしないといけない。来年かね? 年が明けたとこだというのにこんなこといったら鬼が笑うかも知れませんね。

けど、焦ってどうなるものでもありませんから、長期戦でいこうと思います。こればっかりというのもなんだから、いろいろ併用しながら、少しずつ上達していきたいと思います。

引用

2007年1月15日月曜日

鬼切丸

  一体どこで読んだものやら、その記憶は不自然なほどに希薄であるのに、物語に触れてみれば確かに読んだとわかる『鬼切丸』。それくらいに印象は鮮やかに、焼き付くみたいにして残ってるのに、しかしなんでどこで読んだのか思い出せないのか、そのことが逆に腑に落ちません。今日、心待ちにしていた『鬼切丸』の文庫第3巻が出ていたものだから喜んで買って読んで、そして、やっぱり知っているのです。文庫3巻は「鬼髪の章」からはじまります。この話、確かアニメになっていたんではなかったかな。いや、けれど「鬼髪の章」なんてビデオは出ていないわけで、だからやっぱり私の記憶は混濁しているというのです。

読み進めてはっきりしたのは、第3巻に収録されている話はすべて読んだことがあるということです。つまり少年サンデーコミックスでいうところの8巻までは読んでいて、けれどさすがに9巻は読んでいないはず。「鬼結城誕生史の章」ではじまる第9巻、そうした話を読んだという覚えはないのですから、つまり私はどこで借りたか、読ませてもらったものか、少なくともここまでは読み進めているのです。第8巻の出版は1996年だから今から十年ほど前のことです。私が院に入ったのは1997年だったから、だいたいそれくらいの時期に読んでいたのか。バイト先? いや、バイト先に『鬼切丸』は置いてなかったと思う。じゃあ、一体誰に借りて読んだんだろう、そもそも借りたのだろうか、立ち読みではないと思うんだけれども。本当に、これだけはっきりと話の内容を覚えていて、しかしどこで読んだか思い出せないというのは私には珍しくて、本当に一体どうしてしまったのだろうと不思議になります。

文庫第3巻の大半は鬼結城にまつわるエピソードで占められています。私、この話、読んでてすごくつらかったんですよ。それこそ、なんの落ち度もない、ただその時その場にいた、居合わせたというだけの不運でもって、このうえない不幸な目に合わされる女子供が痛ましくてならなくて、けれどおそらくはこの理不尽さが鬼の鬼たる所以なのだろうなと思うのです。人を選ばず、時も場所も選ばず、ただそこに居合わせたという不運でもって命を落とすということは、現実にも間々あることです。それは事故であり、事件であり、災害であって、そうしたことに巻き込まれたものにとってはただ居合わせた不幸というほかない。病もそうでしょう、ほんのちょっとした巡り合わせがその人の人生に無視できない影を落とす。取り返しのつかない傷をつけてしまう。古来人はこうしたことを間が悪いと称して、努めて避けようとしてきました。こうした不運不幸に与えられた姿、人格が鬼であるというのなら、楠桂が描く鬼の物語が理不尽なのも致し方のないことなのだろうと、むしろそうでなければ鬼を描く意味はないのだろうと、そんなようにも思います。

『鬼切丸』を読んで、それがあまりに残酷であると心を乱しながら、それでも読んでしまうのは、そこに起こる理不尽を目の当たりにし、人の心に差す魔にうろたえながらも、とにかく一人でも助かって欲しいという救いや希望を見たいという思いのあるためなのではないかという気がします。鬼というかたちをとって描かれるそれは、私たちの心の奥で怖れているこの世の理不尽に反響反照する、寓意としての意味を持つのかも知れません。だとすれば、楠桂の鬼もまた古くより人が伝えてきた鬼の寓意に連なるものであるのでしょう。

  • 楠桂『鬼切丸』第1巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2006年。
  • 楠桂『鬼切丸』第2巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2006年。
  • 楠桂『鬼切丸』第3巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第4巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第5巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第6巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第7巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第8巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第1巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1992年。
  • 楠桂『鬼切丸』第2巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1993年。
  • 楠桂『鬼切丸』第3巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1993年。
  • 楠桂『鬼切丸』第4巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1994年。
  • 楠桂『鬼切丸』第5巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1995年。
  • 楠桂『鬼切丸』第6巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1995年。
  • 楠桂『鬼切丸』第7巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 楠桂『鬼切丸』第8巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 楠桂『鬼切丸』第9巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 楠桂『鬼切丸』第10巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 楠桂『鬼切丸』第11巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1997年。
  • 楠桂『鬼切丸』第12巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1997年。
  • 楠桂『鬼切丸』第13巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1997年。
  • 楠桂『鬼切丸』第14巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1998年。
  • 楠桂『鬼切丸』第15巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1998年。
  • 楠桂『鬼切丸』第16巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1999年。
  • 楠桂『鬼切丸』第17巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1999年。
  • 楠桂『鬼切丸』第18巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2000年。
  • 楠桂『鬼切丸』第19巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2000年。
  • 楠桂『鬼切丸』第20巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2001年。

DVD

VHS

2007年1月14日日曜日

ウィザードリィ エクス

  今日ちょっとお出かけしてきましてー、ええとですね、本を買いにいったのですが、その本というのは『大神』というゲームをモチーフにしたものでして、『大神』、なんか評判いいですよね。私のひいきにしているサイトさん、Blogさんなんかでは結構おされていまして、面白い、犬がかわいい、ともかく評判がよいようなんです。私の回っているサイトというのもそもそもそんなに多くなく、なのに複数のサイトでこのゲームに関する言及を目にするということは、それだけ『大神』が広く愛好されているのか、あるいは類は友を呼ぶ類いであるというのか。いずれにせよ、この事実は『大神』は私向けのゲームということを示しているかと思われます。前者なら万人にお勧め、後者なら特に私にお勧めということなのですから。

さてだ、そうはいいながら『大神』にはすぐに手を出せない。てのは、まあ単純な話でして、『Wizardry XTH』の終わりがまだ見えないものですから。ええと、本シナリオはほとんど佳境といっていいくらいのところまでいってると思うのですが、でももしかしたら消化率にして六割くらいかなあ、とにかく無理を押せば、今の状況でどうにかクリアすることも可能かも知れない、みたいにも思いながら、基本的に私は無理を押さないタイプです。

なぜ無理を押さないのか? 単純な理由です。死んだりするのいやだから。WizardryにはCRPGにおいても独特のシステム、ロストがあって、それはXTHにも健在です。死ぬ、蘇生失敗する、灰、蘇生失敗する、ロスト。以上の経過をたどってキャラクターは失われてしまいます。いや、多分なんらかの手段でもってロストから救う方法もあるのかと思うのですが、状態変化をもたらすアイテムをロストしたキャラクターに対して用いることで、ロストから最低灰に戻すとか、そういうの可能そうだと思うんですが、まだそういう感じのアイテム持ってないからわかりません。あるいはマハンマハンで蘇生か? マハンマハンはオリジナルにおけるマハマンなのですが、XTH1ならレベルが1下がる、XTH2ならレベル7呪文の使用回数を0にするというものなので、仮にレベルが下がるとしても金でどうにでもできるXTHなら問題なく使えるものなあ。てなわけでマハンマハンで蘇生が正解か? とかいうものの、やっぱり死なないほうがいいわけです。でもって、死なないためには余裕を持った行動、レベルは高めに、少しずつ進めるが王道でしょう。石橋は叩いて渡れ。マハマピックでフロアの状況を下調べし、ちょっとでも危ないと思ったら帰還。こういうプレイングをしていると、全然終わりが見えないわけです。もう三ヶ月やってますが、一向に終わろうという気配が見えません。

そもそもさ、マップは全部踏破しようとか、アイテムは全部揃えようとか、全職業全種族使いたいなあとか、そんなこと考えてるのも悪いのです。ええと、メインのパーティの他に、サブパーティがふたつ、サブのサブがみっつ、けど第六パーティはマップ全踏破のための戦略特殊部隊であるため、決してサブとはいえない。そんな感じで、すべてのパーティにそれぞれのよさ、特殊性みたいのを込めてみましたって感じで、で、こいつら全員カンストするまでレベル上げるの? 上げるんでしょうね。上げるんだと思いますよ。だから、『XTH2 無限の学徒』を開始するのは夏くらいになるかな? なくなっちゃいやだから早めに買いはしたんだけど、全然プレイできそうな状態ではないですよ。実際、開封こそはしましたが、まだディスクをゲーム機にセットしていません。だって、やっぱり遊ぶならXTH1を充分に遊んでからにしたいじゃありませんか!

つうわけで、『大神』には興味もあるのだけど、実際ゲーム店店頭で何度か手にして、どうしよっかなあ、みたいに思ってきたんですけど、2007年中にはきっと遊べないんじゃないかと思います。けどソフトがなくなってもいやだから、買っとくべきかなあ。と、こういう無茶な消費行動が見られるのが私という人間の業であろうかと思います。

2007年1月13日土曜日

EGBRIDGE

 一太郎ATOKで知られるジャストシステム全国一斉!日本語テストを開催しています。ええと、2月28日までということですが、別にその日を過ぎたからといって受けられなくなるということはないんじゃないかと思います。昨年実施された日本語テストの第一回はまだ受けることができて、なので私はこの第二回テストを受けてその後、遅まきながら第一回も受けたのでした。昨年は、面倒くさがって受けなかったんですね。でも今年はどうした風の吹き回しであるのか、受けてみようと思った。受けてみて思ったのですが、第一回は第二回よりもちょっと難しかったと思います。

テストの結果。第二回は86点、第一回は79点でした。ちょっと悔しいなあ。特に第一回、後一問あってたら八十点の大台だったというのに。でも平均より上だったからいいとすっかあ。

さて、このテストですが、ちょっとしたアンケートもついてましてね、いやなに、そんなに細かいことは聞かれません。年齢と在住の都道府県くらい、そしてATOKを使っているかどうかが聞かれます。つまりですね、このテストはATOKの宣伝の一環であるというわけです。日本語を書くに際して、あやふやだったり間違いやすいところなんかは、ATOKが教えてくれますよって理解でいいんでしょうか。でもなあ、私はATOKは使ってないんですよね。多分これからも使わないと思う、というのは私の愛用しているIMというのがMacintoshでは古参のソフトウェアEGBRIDGEであるからです。

EGBRIDGEを導入したのは、iBook SEを買ったときでした。あの貝殻っぽいかたちをしたiBookですね。それまではことえり一本だったのですが、ことえりというのはMac OSに標準搭載のIMで、あんまり賢くないとかいわれていたのですが、まあこれはこれで便利に使えてました。結局はどうしたら目当ての字が出るかという癖がわかっていればいいだけの話ですから、別にことえりで構わんといえば構わんかったのです。とかいってる癖して、EGBRIDGEを買っているのはなんでかというと、もしかしたらこうしたIMを導入すれば変換効率は上がるのではないか、もっとよりスムーズに文書を作成できるのではないかという期待があったからでした。

実際、期待通りといっていい結果だと思います。といっても、これあんまりフェアな比較ではなくてですね、iBook買う前に私の使っていたMacintoshは漢字Talk 7.5.5、そこから一気にSystem 9に移行したわけですから、それはそれは大変化だったわけです。そりゃIMの能力も飛躍的に上がっていて、実際ことえりも2くらいになれば結構賢く変換してくれると聞いています。ですが使ってるのはEGBRIDGE。そうなるとことえりは使われない。その変換の様がわからない。だから、ここでEGBRIDGEを褒めるのはあんまりフェアではないと思います。

私がEGBRIDGEでよかったと思ったのは、電子辞典ビューアが搭載されているところ。クラシックMac OS時代、私はシステムソフトエディタを使っていて、これは残念ながらOS Xには対応しない古いアプリケーションでした。このソフトにはEPWINGに対応した辞書ビューアがついていて、それが本当に便利だったので、OS Xに移行する際に代替のアプリケーションはあるんだろうかと危ぶんだところ、EGBRIGEが電子辞典ビューアを用意、もうこれは私のためにあるソフトウェアなんじゃないかと錯覚したくらいに嬉しかった。

EGBRIDGEのよいところは他にもあって、OSやハードウェア(PPCからIntelに変わったときですね)が変更されると、即座に対応版を出してくるという、そのフットワークの軽さ。しかもバージョンアップ期日が過ぎていたとしても、在庫があるうちは対応してくれるというところもありがたくて、ずいぶんお世話になっているなという感じがします。今、私はまだUniversalにはアップグレードしていなくてバージョン15のままなのですが、もし今後Intel Macintoshを買うことがあったら、バージョンアップすることは間違いないかと思われます。

それとちょっと余談ですが、私がWindowsで使っているIMは標準搭載のMS IMEです。正直、仮名漢字変換に関しては、あれくらいで充分だと思います。だから多分私はことえりでも充分満足できる口なんじゃないかと思います。

2007年1月12日金曜日

はいぱー少女ウッキー!

 らいか・デイズ』買って、『だって愛してる』買って、その上『がんばれ! メメ子ちゃん』まで買って、とくれば当然『はいぱー少女ウッキー!』も買うわけです。ええっ、おまえ、むんこファンか!? といわれれば、いやとりわけファンというほどでもないとは思うのですが、でもまあ嫌いなのに単行本を揃えるわけもありませんから、好きといえば好きなのでしょう。私が特に好きだったのは、『らいか・デイズ』の初期の頃だったと思います。まだらいかがクールだった頃、まれにあったサイレンスでの展開。あれ見て、うまい作家だなあって思って、それからむんこを注目しています。今ではなんだかずいぶんと雰囲気が変わってしまったように思うけれども、それでも楽しく読んでいます。

『はいぱー少女ウッキー!』は双葉社の『まんがタウン』に掲載されている四コマで、私はこの雑誌購読していますから、つまり第一話からきちんと追って読んでいたわけです。最初、印象は悪かったなあ。てのはですね、私はがちゃがちゃした子供が嫌いなんですよ。利かん気で、落ち尽きなくて、乱暴で、そういう子は嫌いなんですよ。まあ、自分がそういう子供だったもんだからねえ。昔を思い出すのかねえ。思い出ってやつはなんだかいやだねえ。

でも、読んでいるうちに馴染んできたかなと思うんです。これは多分、漫画自体がこなれ、子供たち同士の繋がりもできてきたことで、最初のちょっときつく感じられた部分が表立たなくなったことも関係しているのかも知れないと思っています。子供たちには子供たちの関係があって、外に出て走り回ってほたえて、友情というのとはなんか違うな、同士というのもなんか違うな、強敵と書いて友と読むとでもいったらいいのか、繋がりをどんどんと深めていく様子がわかるようで、ああなんかほほ笑ましいやねとそんな気分になれるのは悪くないです。そんなこんなで、子供たちが仲を深めたようにして、私も馴染んでいった、そういう過程があったように思います。

けど、この漫画はヒロイン(とはなんだかいいたくないなあ、むしろヒーロー?)卯月たちの活躍にとどまらないところが多分面白い。お母さんですね。お母さんはどちらかというとおっとり系、おとなしい系でして、卯月には振り回されっぱなし。このお母さんが迷ったり、悩んだりしながら子育てに直面しているというその姿がなんかいいんです。お調子者でいちびりの夫に、時にはあきれたりもするけれど、でも実は信頼していて、甘えてみせたりもしてみたいなのがあるのもほほ笑ましくて、そして手のかかる娘への愛情も。

この漫画の面白さは、関係に生まれていると思います。友達同士の関係、母子父子の関係、姉弟、夫婦、いろんな関係があって、普段はやんちゃして怒られたりしてるけれど、でもその奥にはしっかりとした情の繋がりがある、それが読んでいてわかるのがよいのかと思うんです。全体に昭和の匂いがするような雰囲気があるからか、なんだか自分の子供時分を思い出してしまう、そんな感じもする漫画、決して自分の過去にはなかったことなんだけれど、でも同じような経験、思いはあったような気もする。そんなちょっと思い出まじりみたいな感覚で読める漫画です。

2007年1月11日木曜日

誕生

  風邪を引きました。熱は計ってないけど(だって、誰も寝てなきゃダメじゃないですか!!って怒ってくれないし)、なんだかだるくて熱っぽくて、まあ頭痛や腹痛、吐き気がないのは幸いだと思います。風邪の引き始めというやつ、葛根湯を飲んでなんとかやり過ごそうとしているのですが、しかし私というのはどうもこういう風邪やらにやられやすくっていけません。まあ、睡眠時間を削っているのが一番悪いのですが、それにしても人間恋愛状況に入ると免疫力が上がるだなんて一体誰がいってたんだか。全然効かない、っていうか、やっぱり想像や妄想、疑似的なものではあきませんか。ああ、なんという侘びしくも情けない言動。人はひとりにしておくと馬鹿なことばかり考えていけません。

馬鹿なこと考えながら帰りの車内、ふと中島みゆきの歌を思い出していたのでした。その歌いだし:

ひとりでも私は生きられるけど
でもだれかとならば人生ははるかに違う

この歌思い出したのは、独り身の侘びしさをこの一身に浴びているからではなくて、フィッツジェラルドの『富豪青年』読んでたせいもあるんだと思うのですが、でもこの先確かにひとりで生きていくことだろうと半ば覚悟する私にしても、誰かがそばにいてくれればきっと私の人生もがらりとその色を違えることだろうと、そんな気がしてならないんですね。いや、弱気になってるんでしょう。病は体をともに心も弱らせるものです。けれど、その一緒にいてくれる誰かというのも、それこそ誰でもいいってわけではないというのが人間のまた悲しさであると思うのですが、とにかくそんなことを思って思い出すのが中島みゆきの歌というのも面白い話なのではないかと思います。

『誕生』に限らないのですが、中島みゆきのすごいところは、いわれてみれば確かにそうとしか思えない当たり前のことを、当たり前に歌詞にして、それが当たり前のレベルにとどまっていないというそこであろうと思うのです。『誕生』しかり『Maybe』しかり、歌詞の伝えることは、誰の身にも起こりそうな日常にまつわる感情の揺れ、悲しさ、決意等々なのですが、しかしそれが中島みゆきを通して現れれば、ちっとも大振りになんて構えちゃいないその言葉がなんと生き生きとして力強く、それを聴く私の胸に届いてくることか。歌はすごい、そのメロディが、歌いようが、すごい。歌詞とよくマッチして、この歌詞でなければいけない、この歌詞にしてもこのメロディ以外には考えられないという、決して分けてなんて考えられない一体感を持って、しかしそのメロディにせよ歌詞にせよは、それぞれ独立したとしてもなんら力を失うことがない。実際私の中のどこかに残った中島みゆきの言葉は、なにか些細な日常のできごと、思いをきっかけにして、ふっと立ち上がってくる。それも凛々しく、弱った心を支えるようにして現れてくる。すごいことだと思います。こんな作詞作曲が出来る人はそうそういるものではないでしょう。

『誕生』は私がカラオケにいったらよく歌う歌のひとつです。ただ歌うんではなく、そこに居合わせた誰かのために、自分のために、まだ見ぬ誰かのために歌えたら最高じゃんね、とか思いながら、けど歌えば好評なのはありがたいこと。その好評をしめる大部分が中島みゆきの功績であることは疑うべくもないことです。

引用

  • 白詰草話,04-11
  • 中島みゆき『誕生』 ポニーキャニオン PCCA-00558,CD【Singles II

2007年1月10日水曜日

ななみまっしぐら

   世に遊戯はいろいろあるけれど、私がかかわりを持たないものといったらそれはギャンブル。馬船自転車には興味がないし、パチンコだって同様。だからコンビニ雑誌の棚を埋めるパチンコ、パチスロ誌のいろいろはまったくの素通り。理由は簡単。負けるのいやだから。もし確実に勝てるなら私だってギャンブルのひとつやふたつたしなみますわー、って勝率が100%になったらそれはもうギャンブルとはいいませんね。こんな感じにギャンブル遊戯に縁を持たない私ですが、かろうじて関わりを持っているとしたら、それは漫画だと思います。『ななみまっしぐら』。パチンコ店を舞台に繰り広げられる、ほのぼのアットホームコメディです。

でも、私が『ななみまっしぐら』を読むのは、パチンコの興味とはまったくといっていいくらいに関係ないような気がします。というのも、『ななみまっしぐら』はパチンコ店が舞台ではあるものの、パチンコという遊技に関するネタは極力控えめになっている。まったく知らなくてもわかるとまではいえないかも知れないけど、パチンコというのが出玉でもって景品交換する遊びで、釘の具合が勝ち負けに大いに関わる、そしてこれ重要なのですが、交換前の出玉はドル箱と呼ばれる箱に入れてスタックされる。この程度の知識があれば充分に楽しめる親切設計です。むしろこの漫画を楽しむ場合、パチンコの知識よりも一昔前の漫画特撮をめぐる空気がわかるほうが重要かも知れません。といった具合だから、私みたいな非パチンカーでもあっても問題なくついていくことができるのですね。

主人公はパチンコ店店長ななみ、女、年齢不詳、身長132センチのどう見ても子供、でも大人。ドル箱を運ぶ途中転倒して、自ら数メートルすっ飛びながら出玉ばらまく、まっしぐらと呼ばれる現象がタイトルの由来でしょう。こうしたどたばたドジっ娘ギャグを軸としながら、個性的な店員、常連客を絡めた和気藹藹とした雰囲気が楽しくて、なんか本当にこんなパチンコ店があるんだったら通ってもいい! って気分になります。打ったら出るのにいつもお茶ばかりしている常連客ノリさんの設定がお気に入りで、他にもお気に入りキャラは多数。一時期は、掲載誌の要請だったのか、女性キャラクター男性キャラクターのカップリングネタみたいのが集中したけれど、最近はそういう傾向も薄れて、長年かけて連載されてきたうちに育ってきたキャラクター(それはもうたくさん)、増えた設定があちこちに顔を出しては読者をにやりとさせ、けど決して一見さんお断りといったような敷居の高さを感じさせない、読みやすさ、かわいらしさ、それでちょっとマニアックな香りをバランスよく配合した、四コマらしい四コマだと思います。

しかし、連載当初からパチンコ固有のネタは薄めの漫画でしたが、巻が進めば店を出た先での話も増えて、いよいよパチンコ固有ネタは薄くなって、だからこの漫画の読者はパチンコ打ちよりも普通の漫画好きの方がきっと多いんじゃないかと思っています。私なんかは、その典型例といえそうですね。

  • みやさかたかし『ななみまっしぐら』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • みやさかたかし『ななみまっしぐら』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • みやさかたかし『ななみまっしぐら』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • みやさかたかし『ななみまっしぐら』第4巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • みやさかたかし『ななみまっしぐら』第5巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年1月9日火曜日

パティシエール!

 四コマ誌というのは家族ものであったりオフィスものであったり、あるいは若い人向けのものなら学校ものと、そういうある程度決まった方向性というのが雑誌ごとにあったりするのですが、『パティシエール!』はちょっと単純にそういう枠ではくくれない感じです。製菓の専門学校を舞台に繰り広げられる学生たちの日常は、販売が中心になるケーキ店ものとははっきりと趣を違えていて、もう完全にプロフェッショナルの世界。ケーキ作りの裏側、苦労もろもろが面白おかしく、けれど真面目に伝わってくる専門職ものとしての雰囲気があるのです。でも、それだけじゃない。もう一度いいますと、舞台は製菓の専門学校。そう、主人公は学生です。専門職ものにして学生ものという、ハイブリッドが実現しています。

そして、このハイブリッドを束ねる要となるがヒロイン森山まさこ、二十五歳。十九歳の同級生にねえさんねえさんと慕われて、私はこの設定の妙にはたとひざを打ちますね。ひとり、まわりの学生たちとは違った位置に立っているねえさんは、時には学生たちのよい保護者として、またある時には皆と同じく未熟な製菓の学生として、そしてまたまたある時にはプロ中のプロである講師たちとの接点として、普通なら簡単に分離してしまいかねない場を繋ぐ軸のような役割を担っているのです。このポジションはおいしいですよ。読者はまさこねえさんの視点を通して場に参加することで、まだ子供っぽさの残る学生たちとも、学生たちから見ればずっと大人である講師たちとも、対等の目線で向き合える。もしこの人が普通の十九歳の学生であったら、例えいくら大人びて描かれたとしても、今この漫画が感じさせている一種深みを出すことはできなかったであろうと思います。大人の立ち位置、態度を持ちながら未熟な学生でもあるという、異なるふたつの状態の境界線上にあるねえさんは、その両者ともに完全には交じり合えないというハンデを背負いながらも、その両方の面白さに立ち会うことができるという、絶好のおいしいとこ取りキャラとして成立しているのです。

でも、この人は実際ただ年長者であるだけでなく、ふところ度量の大きなよいねえさんであると感じさせるに充分な描かれ方をしていて、このへんのキャラクターの作り方がうまいなと思うのですよ。頼りになって包容力もあって、なにより余裕があるところがいいですね。年齢のギャップを感じて自虐的になったりもするけれど、それがいき過ぎることのないのは、森山まさこというキャラクターがもっている余裕のためなんだろうと思います。子供っぽさを発揮して失礼きわまりない植竹に対しても、それをいなして受け止められるだけのおおらかさがある。やんちゃな男の子たちも持ち前の姉御肌でドーンと面倒見て、それでもってそれが講師をも引き込んでみんなを身近にしてしまうという、なかなかに魅力的なねえさんが楽しい『パティシエール!』。単行本が出ると知ったときは嬉しかった!

キャラクターに力があって、お菓子のネタも面白い、全体に調和のとれたこの漫画、弱点があるとしたら地味ってとこなんじゃないかと思うんですが、でも底からぐうっと支える地力みたいのが感じられて読んでいて飽きない。いい漫画だと思います。私は好きです。

  • 野広実由『パティシエール!』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年1月8日月曜日

白詰草話

 昨年末の購入なのか、今年明けての購入なのか。新年一日に到着したPCゲーム『白詰草話』をクリアしました。とはいっても、達成率を100%までもっていったわけではないのでクリアというにはまだもう少し足りないのですが、でもまあ三人それぞれのラストを見たからいいかなって。でも、いいかななんて言いながらも、見ていないルートがありそうな気がしてならないので、もう少し回転させるんじゃないかと思います。ええと、このゲームはオートモードはあるけれどスキップはないようで、32倍速でぶんまわしてやるとだいたい三十分でエンディングまでたどり着きます。けど、本当ならこういう見方はしたくないなあ。なんて思いながらも、ルートを把握するまではこういう作業になってしまうのも仕方ない? いや、でもいやだなあ。なんか申し訳ない気がするんですよ。

初回プレイは特別なものだと思います。まったくわからない状況で、それこそ手探りで物語にあたっていくという感じがあるから、私は特にこの初回を大切にするのですが、その際には必ず決めていることがありまして、それはなにかといいますと、なるたけ自分らしい選択肢を選ぶということです。でも、これって実は両刃の剣でして、私が私の思うままに選択していくと、なぜかイベントが成立しないのです。もう、それこそ呪いでもかかってるんじゃないかというほどにイベントが発生しません。おそろしい健全プレイが実現した初回。もしかしたら、一周目はそうしたシーンが出ないように調整されてるんじゃないかと思っているのですが、でも本当かなあ。いや、でも二周三周とやってみて、やっぱり初回には調整が入ってるんじゃないかという思いを強めて、ですが実際のところそういう調整がなかったとしたら、 — やっぱり呪いがかかっているのかと思います。

このゲームにおいて物語られようとしているものというのは、一体なんなんでしょう。実はちょっとつかみあぐねています。人と人の繋がりが問題にされているようなんですが、運命論といったようなモチーフも見えて、かといえば自由というキーワードもあって、とにかくてんこ盛りにいろいろが入っているから逆にぼやけてしまっているような気がします。でも、この物語は、多分、自分はなんのためにいるんだろう、みたいなことをいおうとしているように感じます。

情けないことなんですが、主人公である津名川のいう空虚さみたいなものって、妙に共感できてしまったりするんですよね。なんというんでしょう。あれだ。プレイしている間、妙に『ナツノクモ』を思い起こすことがあったのですが、そうそうこれこれ、この台詞です:あいつが俺にすがりついてた間だけ、俺はみじめじゃなかったんだ。私は津名川の空虚さにそういった必要とされないことへの惨めさ、誰ともなにとも繋がっていないことへの悲しさ、自分の存在しているということへの疑念といったようなものを感じ取って、だから彼がエクストラたちを必要とする気持ちがわかるような気がしたのでした。いや、イベントを発生させると、自分の立場を利用しやがって、こいつは本当にひでえやつだって話になって、今話していることの前提がぶち壊れてしまうのをひしひしと感じないではおられんのですが、あ、そうか、私自身がそういう感覚でプレイしていたから、イベントがちっとも発生しなかったのか! 津名川がエクストラたちを必要とし、またエクストラが津名川を必要とすることでお互いに充足しているという、その関係は私に今欠けていることをあらわにするようで、だからむやみに感情移入してしまうのかも知れない。卑怯であるかも知れないと思いながらも、私が求めてやまない人との繋がりというものをこのゲームの中に見るようで、けれどこうした匂いは、以前にもいっていたけれど、前世紀末から二千年代当初の数年にはいたるところで感じられたように思って、だとしたらみんな寂しかったのかも知れないねえ。ええ、少なくとも私は寂しい。自分の空虚さに足を取られてしまうこと、今ではさほどではなくなったとはいえど、やはりありますからね。近代の自我の悲しさというやつなんでしょうか。

ゲームをやっていて思ったこと。もうちょっと戦闘シーンが多いのかと思ったら、そうでもなくてちょっと残念。オープニングのアニメにあったような市街戦、あんなのが本編でもあったらなあ、なんていうんだけど、それはあの物語の運びないしテーマからするとちょっと無理。あったとしても、見ている私が受け入れないでしょう。本来は予定されていたのがそういうテーマになって立ち消えたのかな。どちらにせよ、ああいう見どころがあると思っていたからちょっと意外だったのでした。

クリアして、数周してみての蛇足、やっぱり透花が好きです。ちょっとネタバレになっちゃうけど、自分の熱を申告するときにわざと高めにいうとですね、悪くなってるじゃないですか! って怒ってくれるんですよ。これはどの娘にもいえるのだけど、シリアスな、険しい表情が映えるよね。オープニングの銃を撃たんとするシーンの沙友もそうだし、とにかく私はああいう凛々しいというか、シリアスな表情というのが好きなようです。特に、普段との落差があると格別よねー、ってなわけで、本当にどうでもいい話でした。

Dreamcast

Book

Toy

引用

2007年1月7日日曜日

リセット

 もうずいぶん昔のこと、友人にビジュアル系の好きなのがありまして、その彼がぜひ聞いて欲しいとCDを貸してくれたのです。一枚は確かMALICE MIZER(ピエロだったかも……)、もう一枚は、こちらはしっかりと覚えています、Plastic Treeです。思い起こせば、まともにビジュアル系を聞いたのはこのときが初めてだったかも。マリスだったかピエロだったかの方は、世界観ががっちりと作られているという感じで、こういったらファンの人は怒るかも知れないけど、男宝塚と思った。対してPlastic Treeはというと、アルバムと聴いたら想像するスタイルを保っていて、聴きやすいといえば聴きやすかった。だからというわけじゃないんですが、借りている間はPlastic Treeをヘビーローテーションしていて、それは気に入った歌があったからなんでしょうね。それが『リセット』です。いや、多分『リセット』だと思う。実をいうと、もうずいぶん前のことなので、はっきりとは思い出せないのです。思い出せるのは歌詞だけ、なのです。

その歌詞というのが強烈でした。バイバイバイ全部リセットというフレーズがリフレインして、これが覚えやすいというか、耳に残るというか、気付いたら口ずさんでいるというか、本当に強烈な印象を残してくれたのでした。私はこのへんのジャンルに関してはまったくもって不勉強で、今も昔も全然よくわからなくて、Plastic Treeにしても、今どうされてるかとかその後どうであったとかちっとも知らないのですが、それでも名前が記憶に残った。それは、この『リセット』という歌のインパクトと覚えやすさの勝利であると思っています。

それで、実は先だってのiTunes Storeフリーダウンロードコードをゲットした時にですね、この曲をダウンロードできないかなと思って探したんです。結局ダウンロードできていないところからもおわかりかと思いますが、残念ながら収録されていなくて、もし収録されていたらダウンロードしていたのは間違いないと思います。それに、今あやふやに『リセット』だったと思うなんていっていますが、それがばっちりと『リセット』だったと言い切ることもできたと思う。それに、もう少し詳しく印象を伝えることもできるのではないかと思うのですが、なにぶん耳に残るのはバイバイバイ全部リセットのリフレイン。けど、もう何年も聴いていないのにふとなにかあるとこのフレーズが耳によみがえってくるのですから、どれほど深く印象を刻んだかということがわかります。

また聴いてみたいな。というか、不案内ゆえに足を踏み込めず、踏み込まないために不案内にとどまり続ける、まさしく悪循環にとらわれてしまっている私とビジュアル系の関係。これを打破するなにかきっかけが欲しいなあ、と思わせたのはアリプロの『嵐ヶ丘』でした。もしかしたら、私はビジュアル系に親和性が高いのではないかなんて思ったりしているんです。ほんとかなあ? でも聴いてみないとわかんないでしょう? てな具合に、興味だけは持ちつつも足踏みしている次第です。

2007年1月6日土曜日

インターネット図書館 青空文庫

 著作権の保護期間延長に反対します新しく年が明けて一週間が経とうとしています。さて、いきなりで申し訳ないのですが、皆さんは著作権というものに興味をお持ちでしょうか。ご自分でサイトをおもちであったり、また同人活動なんかをされている方だったら、著作権がどういうものか多少なりともご存じのことと思います。著作権は著作者の権利を保護するための枠組みで、いうまでもなく大切な考えです。著作物が勝手に複製して売られたりすると、本当なら著作者が手にするはずだった利益がなくなってしまいます。そうなると生活できなくなってしまうかも知れません。ひいては優れた著作物の作り手が出なくなってしまうかも知れません。そうなってしまっては文化は成り立たないので、著作権が必要なのです。今、日本では、著作権は、著作者が死んでから五十年のあいだ保護される決まりになっています。

保護期間が過ぎた著作物は、共有著作物となって、自由に利用できるようになります。翻案して新しい作品に仕立て直したりも自由にできるようになります。映画になったり、舞台にのったり、あるいはまったく違った姿で現れることもあるでしょう、『ロミオとジュリエット』が『ウェストサイドストーリー』となり、『じゃじゃ馬ならし』が『マイ・フェア・レディ』や『プリティ・ウーマン』の大本となったように。

創作という営みは、なにもない状態 — まったくのゼロからおこなわれるのではなく、過去から綿々と伝えられてきた作品の海からはじまります。ここに作品を紹介したシェイクスピアだって、いきなり物語を作りだしたわけではありません。彼の作品は伝承されたフォークロアから生まれました。だから、著作権の保護が切れた作品も、それでその命を終えるということはありません。新たな作品の土壌となって、新たに生み出される作品を待ちながら、その作品自身も伝えられてゆくことでしょう。

今、著作権の保護期間を延長しようという議論がなされています。著作権の保護期間を今の50年から70年に延長することで、著作物から得られる利益をより長く確保しようという考えからです。確かに、売れる作品を守るためにはそういうこともいいのかも知れません。ですが、著作物には売れるものがあれば、売れないものもあります。ですが、売れないからといってその著作物に価値がないというわけでもありません。価値があるが売れないというものもあるのです。そして、そうした作品は売れないために出版されず、誰の目にも触れないまましまい込まれてしまうというようなことも珍しくありません。

そうした作品をよみがえらせるにはどうしたらいいのでしょうか。私は、青空文庫の活動がおおいに参考になると思っています。青空文庫は、著作権の保護が切れた作品をデータにして、インターネット上に公開しています。このやり方だと、本にして出版するよりもずっと安価に作品を流通させることができます。こうした試みは青空文庫だけにとどまりません。海外ではProject Gutenbergが同様の活動をしています。Delcamp.netは著作権の切れたギター作品の楽譜を公開し、それら作品の音源を用意しようとしています。

インターネットを離れて商業活動に目を向けてみると、サン=テグジュペリの著作権保護が終わったことで、多様な『星の王子さま』の翻訳が出版されました。私は倉橋由美子による訳を買ったのですが、他によさそうなのがあれば買ってもいいなと思っています。

著作権の保護期間が今の50年から70年に伸びてしまうと、こうした活動をするのに少し支障が出てしまいます。生まれるはずだった作品が生まれないかも知れません。外国作品なんかだと、新しい訳がなされる可能性も少なくなりますし、まあ今ある翻訳がよかったらいいのですが、もし悪訳だったら!? みたいなことも思ったりしますし。著作権の管理者が翻案を嫌って許可を出さないということもあると聞きますし、そもそも今誰が著作権を管理している(引き継いでいるか)わからないために、どうにも手の出せない著作物もたくさんあると聞き及んでいます。

著作者が、著作者の権利が守られることが大切ということは重々わかっています。だから私は、なるたけ借りず、中古も利用せず、著作者に利益が還元されるようなやり方でもって著作物を入手しているのですが、ですがそんな私でも、死後70年の保護期間はあまりに長すぎると感じるのです。いや、実をいうと50年でも長いと思っている。生きてる間だけでいいじゃないかと思ってる。

保護期間が延長されることで得られるものがあれば失われるものもあります。そのふたつを天秤にかけたら、失われるものの方がはるかに大きいと私は感じるものですから、私は著作権保護期間の延長には反対します。

青空文庫が、著作権の保護期間延長に反対する署名活動を始めています。締め切りは2007年4月30日です。私ももちろん署名します。知り合いの間を、用紙を持って回ろうと思います。そして、できるだけ多くの人に、このことを伝えたいと思っています。

この記事を読まれた方の中で、私もなにかしたいと思われた方がいらっしゃったら、署名するだけでなく、サイトやBlogでこのことに触れてください。なるたけ多くの人にこのことを伝えて欲しいと思います。

2007年1月5日金曜日

グーグル八分とは何か

 今日の記事は私の友人のために書きます。私が彼と出会ったのはネット上に構築された仮想世界で、興味や発想がとても似ていたものですから意気投合し、さまざまな情報を交換しあったものでした。出会った時期は2006年初頭、具体的にいえば2月中旬です。その彼があるときいいました:自分のサイトがGoogleの検索結果から出てこなくなった。そのころ、ネット上で少し話題になった事件に、GoogleがBMWのサイトをインデックスから削除したというものがあり、そうした事例もあるらしいこと、その事例はBMWが検索エンジンSPAM行為をおこなっていたためになされた、いわば制裁であることを説明しました。でも、彼はそういうことはやっていません。彼のサイトを見ても、普通の日常雑記といった風で、とりわけSPAMやなんかに加担しているような訳でもないのです。そこで私はもうひとつの情報を出して、それはGoogleのインデックスを任意に削除する方法というのがあるらしいという話です。

私がそうした事例を知ったのは、手話コーラスについて調べ、考えてみたというサイトに掲載された情報このサイトへの悪質な妨害行為においてでした。この情報は私にとっては大変にショックなもので、なんらかの手段によって特定の検索エンジンのクエリ結果から特定のサイト(ページ)を消すことができるというのですから、Web上に散らばりひしめく情報群から目的の情報を得るためにそうした検索エンジンを日々使用している私にとってはたまらない話です。グーグル八分という言葉を知ったのは、それからほどなくしてのことであったと記憶しています。

グーグル八分(はちぶ)とは村八分という言葉から作られた言葉で、Googleの検索結果から外してしまうということを指します。私は当初、この現象はGoogleのSPAMサイト排除の仕組みを悪用しておこなう、ハックの一種であると思っていたのですが、その後そうではないらしいということが明らかにされて、またここで驚きました。というのは、Googleが削除申請を受けてインデックスからページを削除するという事実が確認されたからで、つまりこうしたことはGoogleが把握しにくいコンピュータシステム上の問題ではなく、Googleが事象を把握しおこなっている検閲であるというのです。あの時の私の失望ぶりは今も鮮明ですよ。一瞬にして価値が色あせるという体験でした。

グーグル八分は、現在では割合と知られるようになってきていますが、それでも知られていないといっていいくらいに認知されていない問題であると思っています。まず話しても、興味を引きにくい。ふーん、みたいな感じで聞き流される。けれど、私は実際に削除されたというページにたどり着いてその事象についての情報を得て、さらに私の友人がそうした制裁を受けていると知って、これは他人事ではないなと思ったのです。なにしろ、私もWebサイトのオーナーですから、検索結果に自分のサイトが表示されることの重要性は認識しています。ちょっと想像してみてください。検索結果として表示される可能性があらかじめ剥奪されている、かつては表示されていたページがある日を境に表示されなくなったなど、そうしたことが起こればきっとショックでしょう。私みたいに、アクセス数になどさしてあくせくしていない人間でも、やはり誰かと繋がる可能性を奪われるというのはショックなのです。

グーグル八分に関する本が出ているのを知ったのは昨日のことです。駅前の書店で見かけて、あ、そういえば本が出るとかいってたっけっか。ちょっと中身を見て、前半の事象に関してはそこそこ知っていたものの、これは応援したいなと思ったものですから買いました。買っただけじゃありません。読みました。読むスピードの遅い私には珍しいことです。昨日買って今日読み終わっている。どれほどの意気込み、期待があったかということを察していただければ幸いです。

この事実が書籍という媒体で世に出たのは、大きなことであると思います。グーグル八分の問題は、ネット上でこそわずかに見ることができるとはいえ、まだまだ認知されているとはいえません。かてて加えて、ネット上の情報は個人がなんらの審査も経ずに出すことができるために、うさんくささがつきまといます。それに、こういっちゃあ悪いですが、グーグル八分に関する最大の情報集積所であり本書の母体でもある悪徳商法?マニアックスというサイト自体がなんかうさんくさい。そもそも自らトップページに日本で最大の、アングラサイトですなんて書いてるんだもの。このうさんくささは、自らを正義の存在にしないための制限であるのですが(と私は思ってるんですが)、そのあたりの事情を知らない人にこのサイトをいきなり紹介すると、このサイト自体に問題があるんちゃうん、みたいな反応が得られたりして、またグーグル八分について説明しても、そらGoogleもこんなのとかかわりあいたくないやろ、みたいにいわれたりもします(というか、実際にいわれました)。

こんな状況だからこそ、本になったことが大きいのです。

本になるということ、そして流通に乗るということは、それだけでひとつの権威となりえるからです。読者は普段あまり意識しませんが、本になる、あるいはメディアに乗るということは、なんらかの組織がこの情報は世に出すに値すると判断したのだということを感じています。特にそれはそのメディアが成熟している場合に顕著です。いや、実際の話、本なんて結構簡単に出して流通にのせたりできるんですが(売れるかどうかは別)、けれどそれでもWeb上に公開されているものと比べると、本のほうが情報がしっかりしているように感じる。偏見ですよ。情報の善し悪しは、結局そのものに触れて、検証する以外に判定する方法はないんですから。ですが、本というメディアが持つ力が加わったことは馬鹿にできないと思っています。

これでグーグル八分の問題を俎上に載せる用意が整ったと感じています。つまり、議論はここにようやくはじまったということです。少年誌風にいえば、僕たちの戦いは始まったばかりだ! といった感じでしょうか(縁起悪いな)。グーグル八分が知られることで、なぜか過大に評価されていると感じるGoogleの価値に少しでも疑いのまなざしが注がれ、なんらかの浄化作用が生まれるならそれはよいことだと考えます。またあるいは、Googleの検索結果に対し削除を要求できることを知った人がばんばん削除を申請して、グーグル八分が今以上に衆目にさらされるようになってもいいと私は考えています。そうなれば、問題はもう他人事ではない。情報を求める自分自身の尺度が一企業の恣意性によって揺らぐことの危険性を、実感として得られるだろうと思うからです。

最後に、私の見解を示しておきます。以前書いた文章の引用ですが、この問題に対する私の意見を端的に表現していると思います:

 僕は、権利を声高に叫ぶことは好みません。権利とは、本来われわれが持ちえている普遍的なものであると信じたいからです。ですが、権利が侵害されることがあったならば、権利を守るために立ち上がることを厭いません。

図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。

 これは、僕の好きな言葉のひとつです。図書館は、資料収集、資料提供の自由を有し、あらゆる検閲に反対します。この図書館の自由を、われわれの自由と読み替えることは不可能でしょうか?

 僕は、お仕着せの判断や基準なんて望みも求めもしません。自分の発信する情報を規制するものは、自身の良心だけです。得る情報を規制するものは、自身の判断だけです。

引用

2007年1月4日木曜日

新釈ファンタジー絵巻

 本当は今日は、先達てちょっと紹介しましたゲーム『白詰草話』で書こうと思っていたのですが、えっととりあえずクリアしましたって、それから、ちょっとプラネタリウムに行きたくなりましたって。『ごんぎつね』読んでちょっとうなぎが食べたくなりましたっていうようなひでえ感想ですが、いきたくなったんだもの仕方ないじゃないか。というのは置いておいて、突発で『新釈ファンタジー絵巻』で書きたいと思います。いや、今日仕事始めでしょう、世間一般的に。それで私も街に出まして、そうなると本日発売の『まんがタイムジャンボ』を買わないわけにはいきません。と、すると、2007年開幕スペシャルと銘打って『新釈ファンタジー絵巻』がストーリーの形式で掲載されているようではありませんか。ああこれは嬉しい。だって、以前ゲストで載った羊の執事サフォークの話があんまりにもよかったもんだから、今回も期待できそうって思ったんです。

そして読んで、よかったですよ。思いがけなかった。まさかこうくるとは。確かに表紙には、本編でのヒロインであるかぐやの父母の絵があって、なるほどこうくるのはすでに予告してあったというべきでしょうか。でも、やられましたね。まさか二人の馴れ初め話とは思いませんでした。高校、でしょうね、で出会った二人の、不器用でけれどどことなくほほ笑ましさも感じられる素敵なボーイ・ミーツ・ガール・ストーリー。乱暴狼藉働くタイプのクールビューティお姉さまであるかぐや母の若かりし頃は果たしてどうだったのか、それはこれから『ジャンボ』を手に取ろうという人のために気を使って、ここでは書かないでおきたいと思います。

舞台設定がよかったんだと思います。父、ギイの所属する天文部(そう、ここで冒頭のプラネタリウムが繋がる!)、星、宇宙に対するロマンがギイの台詞の端々に感じられて、ああやっぱり! 作者ナントカのバックグラウンドに広がる素養というのが腑に落ちた気がしました。これまでもあったのですよ。地球の海をはじめてみた月面人が驚いて叫んだ台詞、海が水没してる!!? もう大爆笑。これって、月の海っていうのを知らないとわからないネタだと思うんですが、こういうのが出てくるところ、ただ者じゃあない。科学的な視野がある。その傾向は天文から生物、そしてちょっとオカルトにも向かっていて、どことなくSF者の匂いがするんですがどうでしょう。おじいさま、おばあさま、かぐや、そして最近ではミニの四人家族がほのぼのとしているだけの漫画ではない、その裏に広がる広範な視野にロマン。四コマ誌では異色だと思います。けどその毛色が面白い。ほのぼの科学もの(ちょっとオカルトでシニカル)が好きなものはきっと気に入るはずだと断言してしまいます。

この人がストーリースタイルで描くと、ちょっとしんみりもさせて、ちょっといい話にもして、けどその随所随所には件のナントカらしさも忘れずに、それはこの人には珍しいちょいラヴストーリーであった今月掲載作にも健在です。そして果てしないロマン。自然に対するワンダー、見果てぬものへのロマン、気になる異性への視線、 — 友情! 詩的だった、素敵だった、やるじゃん! ナントカさん!! もうっ、年収三億とかになったら、絶対『ナントカ全集』出すからな、覚えとけよー!

ちょっとだけネタバレ、ごめんね。かわいい友人ウイを守る若かりし頃の母サイを評してギイは地球と月みたいだねと例えますが、これ、ウイを地球に見立ててサイがまわりを回っているという様子をだけではなく、月が盾となって隕石から地球を守っているという説をほのめかしてるんだとすると、やっぱりナントカってすごい! って思えてきて、いや、多分これ正解なんじゃないかと思うんですがどうでしょう。ああっ、もう、最高! サイちゃんったらデレのないツンデレだ!

ところで、ウイちゃん、サイちゃん、ギイ、頭をとったら、ウサギですね。これもちょっとびっくりした。

追記

地球と月の例えって、もしかしたらまわりを回りながら常に地球に向いているってこと!? ああとも思える、こうとも思える、すごくいい感じ。ナントカトーク、四時間とかいけそうな気分です。

参考

  • ナントカ『影ムチャ姫』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 以下続刊

引用

  • 桑原ひひひ『きつねさんに化かされたい!』第2巻 (東京:芳文社.2005年),53頁。
  • ナントカ「新釈ファンタジー絵巻」『まんがタイムジャンボ』第12巻第9号(2006年9月号),171頁。
  • 同前,148頁。

参照

2007年1月3日水曜日

飛んでイスタンブール

  iTunes Storeフリーダウンロードコード話もこれにて最終回。全九曲の最後を飾る曲は庄野真代の歌う『飛んでイスタンブール』でありました。しかしなんで『飛んでイスタンブール』なのか? まあ単純な話なんですが、私、結構この歌好きなんですよ。子供の頃、テレビやなんかでよく耳にしていたような気がします。まさしく歌謡曲といった雰囲気、iTunes Storeにおけるカテゴライズも歌謡曲で、最近こういった雰囲気の歌ってあんまり聞かないなあ。なんて思っていたんですね。でも、iTunes Storeで選んだ理由はそれだけなのか? いえいえ、それだけではないのです。もうひとつ、大きなきっかけがあったのでした。

フリーダウンロードコードには期限がありまして、その最終日の夜のことです。とにかくなんでもいいから選ばないとと焦る時間にそのきっかけは訪れました。テレビ、コマーシャルに映し出された風景にキャプションがつけられていた — 、それがイスタンブール。私たちの世代は、イスタンブールと聞くと自動的に『飛んでイスタンブール』が思い浮かぶのです。イスタンブールがトルコの都市であるとかそういう知識なんてまったくなかった頃から、イスタンブールと聞けば自動的にあのメロディが浮かぶのです。三つ子の魂百までというものかも知れません、あるいはインプリンティング? とにかく私たちの世代においてイスタンブールといえばなにはなくとも『飛んでイスタンブール』なのです。

でも、だからといって迷いなく『飛んでイスタンブール』をダウンロードしたわけじゃないんですよ。対抗の歌があったのです。それは『異邦人』。ああ、これもいい曲なんだ。久保田早紀のデビュー曲らしいですね。ほら、最近テレビコマーシャルでもやっていましたでしょう。こうした曲はもう私たちの感性に染みついているのです。ちょっとと呼びかけられたら、すかさず振り向いてみただけの異邦人と答える。ほんとです。私たちの子供時分にはこういう受け答えの約束事があったのです。

でもね、『異邦人』はiTunes Storeに入ってなかったんですよ。あるにはあったんですが、カバーだけで、私が聞きたいのは久保田早紀なんです。だからここで対抗は消えてしまって、『飛んでイスタンブール』と決したのです。とここでもうひとつ問題があって、『飛んでイスタンブール』が二種類あったんですね。はて、どちらをダウンロードしたものか。『ベスト・シングル・コレクション』と『ベリー・ベスト』の二種類。音声ファイルに埋め込まれるジャケットでいうと『ベリー・ベスト』の方が魅力的で、けど私は普段iTunesなりiPodなりで音楽を聴いているときにジャケットを気にしたことがない。なので、両方聴き比べて決めよう。試聴しまして、そうしたら『シングル・コレクション』のほうが若干レベル(音量)が大きかった。かくして『シングル・コレクション』に収録されたものをダウンロードしたのでした。

しかし、この時分の歌謡曲は馬鹿にできないですよ。何度繰り返し聴いてみても、ああいいなと思えるのですから。もしかしたら刷り込みがそう思わせているのかも知れませんけど、でも多分そうじゃありません。ほんといい曲なんだ。実際リバイバルしたりもして、これらはもうスタンダードの域に達しているといってよいんじゃないかと思います。

2007年1月2日火曜日

白詰草話

 年が明けるとなんでか新しいゲームをやりたくなる。こういうことってないですか。厳密にいうと私の場合そうした衝動は年末に現れて、けど大抵年の瀬も押し迫っているような状況ですから、購入入手は年明けになるとそういうパターン。以前、いつだったっけかは『マール王国の人形姫+1』を買いに大阪日本橋までいきました(近隣では売り切れてたんですよ)。新春セールで『逆襲のシャア』買って遊んだこともあったっけ。直近の例では『ウィザードリィエクス2 — 無限の学徒』もそうでした。ええ、これ昨年末の話。でも、エクスは『前線の学府』がまだ終わってないから — 、というわけでもないのですが、別のゲームに手を出してしまいました。それは『白詰草話』。ええと、廉価版が出ててすぐに手に入りそうな具合だったので衝動的に注文してしまったのです。

どれくらい衝動的だったかと申しますと、注文日が昨年末12月30日。まあ届くのは三日四日ってとこかなと思っていたら、なんと新年1月1日に到着! 驚きました。しかもおかしいのが、商品発送のメールが届いたのが今日なんですよ。本日商品を発送しましたって、いや、もう昨日についとりますが……。なんか年末年始のばたばたが伺えるエピソードです。

突然『白詰草話』を欲しくなったわけではないのですよ。というのはですよ、ほら以前にもいっていました、『リトルウィッチファンディスク』の時ですよ:私の目下の問題は、ファンディスク買ったおかげで『白詰草話』、『リトルウィッチロマネスク』に興味が出てきてしまっている。そうなんですよ。年末にですね、「魔女っ娘クライシス2006」やっちまったんです。ほいで、興味がぎゅーんって高まって、どうしようか迷ったんですが、ほら廉価版。これ値段が安い代わりに音楽CDはついてこない。けどサントラなら別に買えそうだからというわけで……、買っちゃった。ああ、わかりやすい。私のいつものパターンからいうと、『リトルウィッチロマネスク』も買うな。きっと買う、というか必ず買うんじゃないかと思います。ああ、もうこの駄目人間。

『白詰草話』、昨日届いて昨日少しプレイしてみて、いやあ、結構長い。まだ話の核心にもたどり着いておらず、あまりに眠くなったのでギブアップして中断して、だからクリアはもうちょっと先になるのではないかと思います。

私がこのソフトに興味を持ったのは、キャラクターの魅力(私は大槍葦人の絵が好きなのです)もあったのですが、もうひとつの力点はというとやっぱりフローティング・フレーム・ディレクター(略称FFD)でしょう。年末に『Quartett!』にかこつけていっていましたが、コンピュータをプラットフォームに漫画を展開するなら、このFFDはひとつの解答となるのではないかという話、そのFFDが他作品ではどう使われてるのか興味を持ったわけです。で、プレイしてみての感想は、逆に『Quartett!』の表現が際立って優れていたことに気付いてしまったというか、いや、『白詰草話』の表現はまだFFDを縦横に駆使するとまではいっていないとそう思ったのです。固定背景が何枚か用意されていて、そこにカットインされるコマと吹き出し。単純な立ち絵にテキスト枠という既存のイメージは打破していますが、『Quartett!』を先に見てしまっている私には移行期のものという印象が拭えませんでした。

でも、面白くないかといえばそんなことはないのですよ。あまりにストーリーに寄りすぎてしまっていたと感じられる『Quartett!』よりもゲームっぽさが感じられる『白詰草話』は、けれどそれでもストーリー重視のものだといえるでしょう。テレビアニメーションを彷彿とさせる趣味性の高い組立、アバンタイトルがあり、オープニング、本編Aパート、アイキャッチ、Bパート、そしてエンディングが用意されていて、私は第一話のエンディングのスタッフロールを見たときには、正直バッドエンドかと思いました(だって選択肢なんて一度しかなかったんじゃないか?)。けどやりたいことがわかってからは楽しんでみて、なにしろ私はムービーを何度も見さされることに関してはあんまり苦にならない、というか、楽しんで見ている口なのでこのスタイル、結構馴染んでいます。そして雰囲気。こういっちゃあ怒られそうな気もするけど、時代を感じさせますね。あまりに内省的な主人公、謎をはらんだ組織とそこで研究開発される兵器、多用されるバズワード。こういったの、前世紀末から二千年代当初の数年にわたってすごく見受けられたように思うのですが、世相だったのかなあ。まさしくそうした時代の空気というのを感じるような、そんなゲームだと思います。

内容に関してはまだコメントできる段階にないからパス。恒例の蛇足っぽいのをやっとくと、三人娘なら透花、その他を含めるなら上代まりかと思う、ってなんで公式では上代の紹介はないんだろう……。あと、品藤ってしなふじって読むのね。ずっとしんどうって読んでたよ……。

Dreamcast

Book

Toy

引用

2007年1月1日月曜日

THE NEVER ENDING STORY

 年をまたいでお送りしています、iTunes Storeフリーダウンロードコードを使ってダウンロードした曲の紹介。その第七曲第八曲目は、坂本美雨の歌うTHE NEVER ENDING STORYです。坂本美雨を知らないという人でも、この曲を聴いたらわかるんじゃないかと思います。HONDAのコマーシャルで使われている曲ですよ。元の歌は、いわずと知れた映画『ネバーエンディング・ストーリー』の主題歌ですが、それが透明度の高い歌唱を伴って復活。その美しさ、清浄さから人気が出てベストセラーとなったとかそういう話を聞いています。宣伝で聴いて、あ、この曲いいなあと思って買い求めるというのはよくある話ですが、それは基本的に流行りに背を向けている私のような人間にしても例外ではないようですよ。

そもそもこの曲をダウンロードしようと思い立ったのは、友人の日記にこの曲のシングルを買いましたー、という報告があったのを思い出したからなのです。あ、そうだそうだ、こういうときにこそこういうはやりの曲を入手するチャンスではありませんかと思って調べてみたら、なんと何種類も出たもんだ。ひとつはアルバムに収録されている版、シングルでリリースされた版、そしてCMバージョンです。アルバム収録とシングルリリースはおそらく同一でしょう。となるとCMバージョンとフルバージョンの二種類があるという模様です。

さて、困りましたよ。こういうときにどっちをダウンロードしたものか。もし一曲だけといわれれば、フルバージョンをダウンロードしたくなるのが私という人間です。ですが、一般に市販されているフルバージョンと違い、CMバージョンはiTunes Storeでしかダウンロードできない模様、とくれば、より一層レア感の漂うCMバージョンが欲しくなってくる。でも、心情としてはフルが……、と悩んであっちこっちとページを移動しながら試聴していたら、レビューに気になる記載が。ふむふむ、どうやらCMバージョンはフルバージョンを再構成したものではなく、それぞれがそれぞれ録音された、まったく違うものであるようです。そうかあ、で迷いが失せました。そう、両方ダウンロードです。迷ったときは両方いっとけの法則を発動させて、そして微妙な差異を伴うほとんど同じ曲をダウンロードしたのでありました。

聴いてみて、ちっとも後悔はしませんでしたよ。それぞれの違いというものを聴き分けるほどに聴き込んだわけではないですが、前進し盛り上がりに向かう力に満ちたフルバージョンに、より静かでデリケートと感じられるCMバージョン、どちらも悪くないと思いますし、やっぱりCMで聴いていい曲だと思っていた曲ですから、やっぱりダウンロードしてみてよかったと思う。美しい歌い方です。ああ、清浄だなあと思う。低音を刻む弦が心地よく響いて、ずいぶん昔に流行ったこの曲のまた違った魅力を感じ取って、やっぱりこの曲は名曲であったのだと思う反面、こうして歌に新たな息吹を与える歌い直しという営為の素晴らしさも思ったのでした。

で、ここで私は思い立って、JTのCMに使われている『青春の光と影』がもしかしたらダウンロードできるようになったりはしてないかななんて期待して探してみたですよ。なかったですよ! なんでも思い通りにはいかないという話だと思います。でも、JTのあのバージョンは美しくて人気もありそうだから、絶対CD出したら喜ばれると思うんだけどなあ。残念です。