2007年1月20日土曜日

バビロン再訪

 フィッツジェラルドについてはなんの予備知識もなしに、いきつけの本屋に見かけたタイトル、『バビロン再訪』という響きにただただひかれて買ったのでした。バビロン再訪。表紙には子供と連れだって歩くコートの男の後ろ姿。どことなく寂しげで、この表紙だけでなにか不安に耐えて人生を歩もうとする父子の悲しさがわかろうというもの。再訪という言葉の意味はなんなのだろう。そしてバビロンとは一体。こうした謎めいた言葉にひかれて買いはしたものの、この本は憐れ不遇にも私の書架の片隅を占めて数年かえりみられることもなく、けれどこれまたなにが私の背を押したのか、戯れに手に取られたことをきっかけとして、この年始に読まれることとなったのでした。

『バビロン再訪』には表題作の他短編が二作収録されていて、『メイ・デー』そして『富豪青年』。そのどれもが、かつての栄華が過ぎてしまったあとのことを描いていて、時代はというと第一次世界大戦が終わった後であるとのことです。そんなにも昔。今から一世紀近く隔たった時代世相の一側面をかいま見て私は、なぜだか変に共感を覚えるところもあって、それは私もうたかたの狂乱の時代を過ぎた後、あくせくと暮らすもののひとりであるからではないかとそのように思うのです。

でも、私はその狂乱の時代を直截には知らない世代です。私が高校に上がったくらいに景気は後退しはじめて、だから私はそうした時代のうま味を知ることなく大学を出て、定まった職にも就かずふらふらと。こうした世代をさしてロスト・ジェネレーションという向きもあるようですが、そもそもこの言葉の指した世代というのはフィッツジェラルドをはじめとする1920年代の作家たちであったと聞き及びます。となれば、私がどこかにうらぶれた匂いを漂わせているフィッツジェラルドの短編に共感めいたものを感じるのもそれほどおかしくないのかも知れません。

栄光の過去とうらぶれた今との対比がとりわけ切なくさせると感じるのです。大恐慌で失ってしまったもの。あるいは狂乱のうちに取り落としてしまったもの。時代の空気が変われば、人も変わっていく。それは大人になるということであったり、あるいは不況がために冷や水浴びせられたように熱が引いたということでもあったりして、そうした変化をもろにかぶって沈み込むものあらば、取り残されて自らの有り様に戸惑う姿もある。けれどもっとも切なさを感じさせるのが『バビロン再訪』。過去の影が今もつきまとってくる。きっぱりと縁を切ったつもりでいても、向こうからやってくる。馬鹿げた時代になした馬鹿げたことの数々が、正気を取り戻した今に返ってくる。これを読んで、ああ人は過去からは逃げられないのかと、私も人の子だから、やはり昔には馬鹿なことのひとつやふたつやっていて、そうした過去が今に返ってくるのかも知れないと怖れて暮らしているものだから、こうした仕打ちを受けるチャーリーが不憫と感じられて仕方がなかった。かつて酔いしれただろう幻想の全能感が、今の自分のほんの身近のことすらもコントロールできない無力を生み出しているのかと思うと、果たしてそれはそれほどの酬いを受けなければならないほどのことであったというのでしょうか。けれどもそれはやはり自ら蒔いた種であるというのですから — 、人生というのはどれほどにうまくいかないものだろう、どんなにか悲しく侘びしいものであろうかとため息する思いでした。いつか彼の望みが成就し、彼の求める仕合せが仕合せのまま続けばどれほどよいだろうかと、そう思うまでに私は見知らぬ彼の身の上を自分のことのように感じないではおられなかったのです。

0 件のコメント: