2007年1月24日水曜日

乱世を生きる — 市場原理は嘘かもしれない

 実はずいぶん前に読んでいたんだけど、その時にはどうも書くに書けなくて、その感覚というのは、頭のなかには確かにあるんだけれどもどうにもつかみあぐねているというような、思うところはないわけじゃないんだけれどもそれがかたちにならないんだよというもどかしさといったら多分一番それっぽいんじゃないかと思うのですが、漠然とした思考が堂々巡りしながら行き着くところを見いだせないというような感じであったのです。多分、この感覚はこの本の独特の筆致に影響されてのことなんだと思うのです。ひとりの人間の思考のプロセスがそのままかたちになったような本です。ああでもないこうでもないと逡巡しながら進んでいく、そういう文体構成が読んだ私に影響したのだと、そんな思いがします。本を読むということは他人の思考法で考える行為であるだなんていいますが、橋本治の本を読んでいるときほど、それを実感することはありません。

だから、すごくわかりにくい。なれた思考プロセスではないですから。ひとつ仮説が提出されて、それを巡る実例が物語られて、しかしその説と例が一致しているのかどうか読んでいるうちにぐるぐると混乱してきて、読んでいるうちになれるのですが、それまではつらい本かも知れません。論じるという感じじゃなく、一緒に僕の頭で考えてみましょうといった感じなんだと思うのですが、だからこの人の本を読むと、私にはない発想や考えの流れというのが体感できて、なんだかちょっと他の本では味わえない独特の感触というのがあるのだと思います。

そして、その私のものではなかったはずの思考というのは、ちょっとばかり私の頭の中にも残っているようでして、それは数日前から開始されたNintendo DSを探す行脚においてふと思い出されて、ああ橋本治のいっていたことというのはこういうことだったのだと体感的に納得したのでした。例えば、私は先達てこんなことをいっていました。

ネットショップ見ると、[Nintendo DSを]定価の五割増しくらいで売ってる店がある理由もわかりましたよ。[中略]アメリカでは誰もが欲しがるものはプレミア価格がついて、定価より高くなるのが普通だったんだそうです。けど、昭和の頃とは違い、今の日本ではプレミア価格も珍しくなくなって、ああこれこそ需要と供給のパワーバランスだよなと思ったのでした。つまり、需給バランスの崩れている現状においては供給が強気の値段つけてくると、そういう訳ですね。抱き合わせ販売が関の山だった昭和を思えば、今はずいぶんと時代が違っているのだと感慨も深くなります。

そして橋本治はこういっていました。

スーパーマーケットが日本に根を下ろすためには、インフレの物価高を必要としましたが、それもまたたいした追い風にはなりませんでした。なぜかと言えば、昭和三十年代に「商店街」という日本経済を成り立たせていた日本人は、「我慢」という現状に抗する力を、まだ持ち合わせていたからです。

昭和から平成に移る過程で、確かに私たちは我慢というものを失ったのかも知れないと腑に落ちたのです。とにかく欲しいと思えば定価より高くでも買うという発想が、とりわけ特殊ではなくなっているのですから、確かに、少なくとも私のうちには我慢というものはなくなってしまって、「いるのかいらないのか分からないが、自分はそれを“ほしい”と思う」というくだらない「欲望」の侵蝕を食い止めることができなくなっている訳ですね。この本を読んでいたときに、ふんふんなるほどねえだなんてわかったようなふりしていた私ですが、真に見つめるべきものは自身の中にあったんだと、昭和の価値観の中で我慢をしてきた私自身が、いつしかそうした価値を捨て去り、欲望に突き動かされるままに行動してしまっていることを理解したうえで、もう一度この本に向き合うべきなんじゃないかと、そんな風に思っています。

この本に書かれていることは特に真新しいことではなく、現実に起こっていることを、橋本治はこのように見て考えているのだという、そのプロセスが面白い本です。得られた結論も特に新しいことではなく、けれどいわれていることだけを見ればそうかも知れませんが、けれどこの本の見るべきところはもっと別のところにある。それは、おそらくはそこへたどり着く過程なのだと思います。この本で橋本治は、自分の思考を開いて見せて、そしてそれから先をどう考えるものか促しているわけで、とすると、これはちょっとした挑戦みたいなものなんでしょう。ずいぶんマイルドな挑戦ではありますが、それでもなんだかスリリングだったかもなあ。そんな気もする不思議な一冊であると思います。

引用

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