2007年1月30日火曜日

ルーンの書

 私は占いなんて非科学的なこと、まったくもって信じちゃいない人間なのですが、けれどタロットで占ったりします。って、なんじゃその矛盾は。いやね、ずいぶん前のことなんですけど、予測不可能な介入がために計画を瓦解させられた経験がありましてね、ああもうちきしょう、なんでこうも狙い撃ちするように邪魔が入るんだ! てな感じで荒れたことがあるんです。避けようがある邪魔ならともかく、あり得ないような偶然で向こうから飛び込んでくるようなのはもうどうしようもないわけで、もうすっかり荒んだ私は、意地の悪い偶然を退けるための手段として超自然的な手法を採択したのです。それがタロットで、それから数年いろいろ本を読んだり、いろんな人を占ったり。おかげさまで、よく当たるだなんていわれるようになったのですが、けれど占いの欺瞞は占っている私が一番よくわかってる。そんなわけで、今ではすっかり占いから離れています。

さて、そんな私がまだ占っていたときの話。知人に、昔、ルーン文字の書かれた石で占いするという本があって、欲しかったんだけど高くて買えなかったという話をしたらですね、なんとその人がその本を持っているというではありませんか。その本というのは『ルーンの書』。ルーンを用いた占いの本にルーンの刻まれた石がついていて、この、石がついているというのがいいんですよ。もちろん占い本だから占ってもいいし、なんか面白オブジェとして手もとに置いておいてもいいといった具合で、そして今この本は私の手もとにあります。ありがたいことに、使ってないからあげるよといってくださった。私はとても喜んで、石を並べてみながら、本を頼りにいろいろ試して、けれどその石をがちゃがちゃやって壊しちゃいやだからと大切にしまい込んだら、どこにしまったものかわからなくなってしまいました。ええ、本はあるんです。けど石がない。なんだか頭の悪いリスみたいな話ですが、基本的に私にはこういうところがあって、大切にしようと思ってしまい込むと、あんまりきちんとしまってしまうからなのか、後から見つけられなくなるんですね。いやあ、ほんと馬鹿馬鹿しい話だと思います。

占いに疑問を持ち、また欺瞞を感じるとまでいいながら、私がタロットやルーンを否定しないのは、偶然によって取り出されるカードやルーン文字をきっかけとして、行き詰まっている現状や沈滞する思考を打破できる可能性があるということを知っているからです。私はこれらを占いの道具とは考えておらず、むしろこれらの役割は発想を助けるものであると、そのように見ています。私はなんらかの問題を抱えている人を前にして、カードを引き、並べ、そしてカードの意味を示しながら、その指しているものはなんだろうと問い掛けることからはじめます。そうなんです。問題の答やヒントは常に自分の中にあり、カードはその答えないしヒントにたどり着くための手がかりに過ぎません。カードやルーンの持つ象徴が、思いもかけない結果を引きだします。けれど私はそれを占いの成果とは思いません。それは、象徴の検討を通して、自分自身の内面に分け入りついには気付きにいたった、その本人の内省のたまものであると、そう考えているからです。

そんなわけで、久しぶりにルーンの本を引っ張り出してきました。けど、ちょっと探してみたのですが、やっぱり石が見つかりません。でも、石は別にこの本についてきたものでなくてもいいわけですから、自分で作っちまうのがいいかも知れないなと思います。自然石に刻んでもいいし(きっとすごく大変でしょうけど)、陶土でもって作ってもいいし、壊れにくいように木を彫ってもよさそうです。こういうものは、それくらいのフランクさでつきあうのがきっといいのだと思います。

  • ブラム,ラルフ『ルーンの書』関野直行訳 東京:ヴォイス,1991年。

0 件のコメント: