2007年2月28日水曜日

メイドアンソロジーコミック — Maid in Wonderland

 正直、こういう売り方は勘弁していただきたい。いや、ほんま。『観用少女』を買いにいったときの話なんですが、朝日ソノラマの平積みをざっと見回したその時、おおっと、気になる表紙を発見。『ロンド・リーフレット』じゃないか。『ロンド・リーフレット』というのはLittlewitchからつい先達てにリリースされた18歳未満はプレイできない呪いのかけられたゲームで、もちろん持ってるんだけど(持ってるんだ……)、その『ロンド・リーフレット』の漫画が出てたんですね、 — と思ってよく見たら、アンソロジーコミックと銘打たれていて、そうかあ、公式アンソロジーの類いかあと思ってよくよく見たら、ん? なんか変だぞ。だって、タイトルは『メイドアンソロジーコミック』。『ロンド・リーフレット』のロの字もないのです。じゃあ、一体これはどういった類いの漫画なんだろう。

答えは帯にありました。

巻頭カラー
リトルウィッチ『RONDO LEAFLET』
メイド・イラストギャラリー

そう、これはただのタイアップ、企画ものなんですよ。さらには少女マンガ家が織り成す7つのメイド譚とのこと、少女マンガ家と謳って表紙巻頭にアダルトゲームを持ってくるあたり、チャレンジャブルというかそも乱暴というか、混乱ぶりがかいま見えるような気がします。

収録作はメイド縛りで、今どきメイドというのもなんだかなあという気もしますが、だって有り体にいえば過ぎ去ったブームじゃないですか。そこにあえてメイドアンソロを『メイドアンソロジーコミック』というひねりもなにもあったもんじゃないタイトルで出してきて、ほんま、売る気あるのか、と問いたい私は結局この本買っています(買ったんだ……)。

でも、作家は豪華ですよ。せっかくだから、収録作品を書きだしてみましょう。

  • 三原ミツカズ『天国と地獄』
  • 秋乃茉莉『Bitter or Sweet』
  • 川原由美子『観用少女・御喋りな墓標』
  • 柴田昌弘『さえらの付き人』
  • 吉田ふらわ『影を慕いて』
  • 時友美如『Do!!? Doll! Doll!?』
  • 島本麻衣子『カエルのメイドさん』

このうち、川原由美子と柴田昌弘以外は全て単行本未収録作で、未収録と聞くとちょっと得した気分になるのは正直なところ。けれど、本文184ページ中『観用少女』が76ページを占めていて、しかもその話というのが同日購入の『観用少女』〈夜香〉収録だから、この辺はすごく損をした気分……。まあ、どっこいどっこいかなあ。

読んでみて、知っていた作家も知らなかった作家も、結構面白かったり、それなりに面白かったり、読み物としてはそんなに悪いばかりでもないというのは実際のところです。ただ、短い話は8ページで終わったりして、正直物足りなさ、食い足りなさというのが強く感じられたり、こういうバランスの悪さというのはどうしたものかな……。短いから悪いとはいわないんですが、短い中できちんと話を構成して読ませてくれるのもあるから別にいいといえばいいんだけど、けど柴田昌弘のは続きを期待させるような振りして終わりという、ああ、なんてつれない、すごく殺生な気がします。正直、なにかの前日談的エピソードを思わせるような内容だから、ほんと、本編があるようなら買おうと思ったんだけどなあ。

という感じ。気に入った感じの漫画もありましたし、これまで知らなかった作家に出会うこともできたなど、漫画に対する視野も少し広がったように感じるのですが、この本を一冊きりで評価するならすごく微妙であると思います。人には勧めません。でも買って後悔もしていません。こういうところも実に微妙です。

引用

2007年2月27日火曜日

教艦ASTRO

 Amazon.co.jpにいったらですよ、お勧めがあるっていうんです、お勧めが。ほんで、トップページに表示されたうちの一冊が『教艦ASTRO』ときましてね、おおお、なかなかの選択じゃありませんか。ちょうど今日、この漫画、買ってきたところでありますよ。というわけで、今日は『教艦ASTRO』。この漫画、『まんがタイムきららキャラット』にて連載されている学園ものなんですが、実はちょっと異色です。主人公が教員、メインの四人でいうと保健体育科、国語科、外国語科、そこに養護教諭が入って、学生そっちのけで教員同士の楽しい世界を繰り広げている。いや、まあね、そりゃ漫画だからちょっと現実的な話からしたらどうよってなところもあったりなかったりするんだけど、でもそんなの振り切るぐらいに面白いから気にならない。むしろ、これ読んでると、こんなに教員が楽しいなら今からでも教員目指しちゃおうっかなあなんていう気にもなって、いやいや、危険です、危険。なにしろ私は教員という職には向かないのですから。

四コマって単行本を出せるまでページが溜まるのにずいぶん時間がかかるから、久しぶりに見た初期の『教艦ASTRO』、すごくシンプルでむしろ子供っぽさの感じられる絵に驚いてしまいましたよ。はじまってから、もう二年近く経つんですね。これまで経過した時間の分だけキャラクターはよりその存在感を明瞭にして、奥行きというか屈折の度合い? というかも増して、まあいっちゃえばどんどん生々しくなってるなあとそんな感じがします。実際、その生々しさというかは四コマ誌の中では異色だと思います。表紙見ていただいてもわかると思いますが、頭身の高いキャラクターは幼さも抜けて、だから雑誌の傾向からしたらちょっとチャレンジ気味なのかも知れません。いや、そうでもないか。ちょっと年配(三十代くらい)のマニア向けとしか思えない小ネタが踊る漫画があちこちに見受けられるきらら系であるから、むしろ狙いとしてはありよね、って思う。実際私は、読むごとにこいつは悪くないなあって思ってきたわけですから。

この漫画の面白いところってのは、いい大人が大人としての分別忘れて、自分の趣味やら楽しみやら優先でわいわいいやってるまさにここだと思うんですね。ただわあわあ騒いでるのなら、高校生ものでも大学生ものでも可能っちゃあ可能でしょうけど、それが社会人ものとなるとやっぱりちょっと違ったニュアンスというのが出てきて、けど職業人ものといえるほどに教職色が強いわけでもないから、なんか独特の雰囲気が出ています。いい大人が体面やらいろいろ取り繕いながらも駄目な部分をちょいちょい見せてるという、まあ私も自分で社会人といいきれるほど社会人らしいわけじゃないですからね、そういうちょい社会人ぶってる大人の自適ぶりが真っ向から描かれている漫画読んで、共感覚えるのもまあおかしかないよなあ、なんて思っています。

さて、この漫画、意外と皆さん体育会系で驚かされて、バスケ、弓道、テニス、卓球ってとこかい? 作者がスポーツ好きなのかなあ。けど、なんか健全な感じがしていいんじゃないでしょうか。で、その反面、特に牧兄貴がその方面を強調するんですが、不健全ぽいネタもあって、このあたりもきらら誌じゃ異色だよなあと思いながら読んでいて、けど私はわりと嫌いじゃないです。でも、一番好きなのといえば、やっぱり烏丸先生牧先生がらみかなあ、後は南雲先生妄想爆発、荒井先生のゲーム絡みのネタも共感性高くていい感じです。デモムービー中に話しかけるなあ!!!は至言かと思いました。

蛇足

烏丸先生がいいな、と思っとります。いや、なんつうか、凛々しさとかわいさのハイブリッドがすばらしいです。

  • 蕃納葱『教艦ASTRO』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

引用

  • 蕃納葱『教艦ASTRO』第1巻 (東京:芳文社,2007年),100頁。

2007年2月26日月曜日

電脳やおい少女

  私はこないだこんなこといっていました。

以前つとめていた職場にいた人もそんなだった。仮面ライダーの変身前の写真集を買ってらして、やっぱり萌えるらしい。旦那には内緒らしい。昔の集めた同人誌は実家に隠してあるらしい。そして私はそういうところに萌えるのです。

そんなというのはどんなかといいますと、ひとえにいえばおたく的傾向を持っているということなんですが、この以前同じ職場にて出会った方というのは、既婚者で子供もいるんだけれども、子供に仮面ライダーを見せていたら思わず昔の血が騒いでしまったらしく、写真集が欲しい、けど旦那には知られたくない、そうだネット書店で買って職場に送ってもらおう! そんなこんなで、私にネット書店での本の買い方を指南してくれなどとおっしゃったものだから、その趣味がばれたのです。余談ながらその本というのは、私の記憶が確かならば『MASK OFF』といったはずで、その後どうしてらっしゃるんだろう。年賀状のやり取りだけは続けているのですが。

変身ヒーロー系にはまってしまうお母さんにはだいたい二種類あるようで、ひとつはそれまでまったくそういうものには興味がなかったのに、という新たに目覚めるパターン。そしてもうひとつというのは、私の先ほど紹介しました方の例のように、昔からそうした方面に接近していたというパターン。後者に関しては、独身時代から綿々と趣味を続けているというのと、いったん離れてたんだけど再燃という二種類の型があるみたいです。

さて、その再燃型のあの人に、こんな漫画が出ましたよ、なかなかお身につまされるのではないですかといって、当時出たところの『電脳やおい少女』をお貸ししまして、その頃すでに四コマ漫画を読んでいた私は、書店の新刊平積みにこの本を見つけて、タイトルを見た瞬間に購入を決定したのです。今でこそやおい少女本というのも珍しくもないですが、『となりの801ちゃん』とか『妄想少女オタク系』とか、また本なんかでは『オタク女子研究』というのもあって、それこそ一般におたくであること腐女子であることを告白するのに、昔ほどのハードルの高さはなくなったんじゃないかと思うのですが、いや、そうでもないか。けど、世間一般におけるおたく少女の認知度は、誤解毀誉褒貶いろいろあれど、著しく進んだなと、そんな風に思うのです。

『電脳やおい少女』は、女おたくであることをひた隠しにしている女の子が主人公で、インターネットに乗り出したことがきっかけで少しずつその状況が変わっていくという、そうした設定がちょっと件の人に似ているんじゃないかと思ったんですね。今から思えば、ネタにしても表現にしてもずいぶんとマイルドで、そういうところに移行期ののりというものを感じたりもするのですが、けれどこうした一般人の顔と趣味人の顔を二枚重ねに生きているという暮らしぶりはなかなかに読者の共感を呼んだようで、私にしても面白いと思いましたし、そして件の人もずいぶんと気に入られたようで、お金はちゃんと払うからこの本をゆずって欲しいとおっしゃって、問うてみれば、一般人の顔に趣味人の顔を隠して暮らしている友人にこの本を贈ってやるんだといった話で、こんな具合に、おたくの顔を隠している人には訴えるところが大きい漫画であったのではないかと思います。

以上のような経緯で私はこの漫画を手放してしまって、その後買い直すつもりでいたのですが、後で後でと思っていたら、ついつい今の今までそのまんまにしてしまっていました。気付けば知らないうちに2巻も出ていたようで、思い出したのを機にまとめて買っちゃおうかなあ。久しぶりに表紙を見たらば、なんだか先が気になるところもあるものだから、ちょっと余裕が出たら買ってみようと思います。

  • 中島沙帆子『電脳やおい少女』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2002年。
  • 中島沙帆子『電脳やおい少女』第2巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2003年。
  • 以下続刊

引用

2007年2月25日日曜日

At night in Chengdu, taken with GR DIGITAL

Taxies waitingRicoh GR BLOG恒例のトラックバック企画第17弾夜景です。夜景かあ。むっつかしいテーマだなあと思いながらも、縁があったら撮れるでしょうと気楽に構えておったらば……、撮れませんでした。たまたま居合わせたところのものをちょいと撮影してそれっきりを基本にしている私はですね、夜景というお題を受けても自ら出歩くわけでなし、これという魅力のスポットを探すでもでなしといった具合で、これで夜景が撮れてたらその方がむしろ不思議だ — 、といっちゃうのもつまらないから、過去の写真を探してみまして、ましなのをピックアップ、トラックバック企画夜景に参加できるよう体裁を整えたのでした。

けど、撮っているつもりで意外と撮っていないものなんですね、夜景って。夜暗くなってからでも写真撮ってるんだけどなー、という私の撮っているものというのは、夜の工事現場の一部とか、そういうのばかり。もうちょっと風景に目を向けたら夜景なのかも知れないけれど、これじゃただの夜間撮影だといわんばかりで、だからせめて夜景らしいものをと探してみたらば、まず大阪は阪神百貨店を望むタクシー乗り場越しの風景。私は結構気に入っている写真ではあるのですが、でももうちょっとなんか趣が欲しいよねということでさらに探索を続けて、そして見つけたのが成都の夜のスポット。錦里の写真です。

Chengdu

昨年の秋にいった中国旅行での一枚で、とにかく写真に困ったら旅先写真を引っ張り出してごまかしちまえってな感じがばればれですが、けれど、ちょっと日本では見られない風景、石造りの門を越えた先に、提灯が点々とともる不思議な空間がかいま見えるというような、そんな雰囲気が面白かったらいいなというのが選んだ理由です。

写真が変に傾いてるのは、多分スローシャッターでぶれないように街灯かなにかを支えにしたせいなんじゃないかと思うのですが、あるいは中央左に立っている人を注目しすぎたのかも。全体をみないで撮ったと思しい傾き具合ですが、けど私はこの傾き具合は意外にも許容できています。

旅先の夜景ついでに、昔撮った写真から夜景をちょこちょこピックアップしてみました。残念ながら使用機材はGR DIGITALじゃありません。

Firenze

一枚目は、フィレンツェ市街です。食事に出てその帰り、投宿先のホテルに向かう途中です。カメラはMINOLTA SR-T101、レンズはMC Rokkor 55mmF1.7です。

Roma

次の写真はローマです。ヴィットリオ・エマヌエーレ二世記念堂ですね。一眼レフで、決して明るいレンズでもないのに、ええい撮っちゃえと撮った写真が意外にきれいに撮れてて、どんな状況でもこれと心が動いたものは撮るべきなんだということを強く思ったものでした。使用カメラはMINOLTA α-507si、レンズはAF24-85mmF3.5-4.5、広角よりも標準よりくらい?

Roma

で、最後の一枚も、同じくローマ、ナヴォーナ広場です。これはカメラをベンチにおいて撮影したはず。夜のローマの、活気を残しつつも穏やかな表情が撮れてたらいいなあと思います。カメラ、レンズはさっきと一緒。これは広角ですね。28mmかあるいは24mmまで引いてるかも。

写真というのは、どんな写真であってもまず撮るところからはじまると思うので、夜景でも手ぶれでも、これと思ったときには撮るのが大切だなと思います。そういえば、以前夜景で撮影するときのいろいろを書いたことがありましたっけ。ああ、こっちの写真の方がよかったかな……。

けど、今回は成都の夜を推したいと思います。

2007年2月24日土曜日

ナツノクモ

 ナツノクモ』、来月最終回。ええーっ、なんだってー。いや、本当。実は、この流れはすでに先月に予告されていて、前回の次回予告が次回、衝撃のエンディングへ……!! ええーっ、ちょっと待って、プレイバックプレイバック、いやほんと、今の言葉プレイバックやっちゅうねんとばかりに取り乱してみたりしたんですが、確かに今月号を見てみれば来月で最終回であるようです。次号、最終回!! ううー、来月で終わっちゃうのかあ。正直、今の流れになった当初には、いよいよこれからがクライマックス、種明かしだというように感じて期待をどんどんと膨らませていたものだから、このあまりに突然と感じられる最終回の告知には戸惑いが隠せないというのが正直なところです。

でも、ここ数回はすごく緊張感に満ちていて、読んでいてわくわくしたりはらはらしたり、息詰まるという表現が実にしっくりくるというような展開が続いていたのですが、実はこれが最終回に向かってなだれ込もうとする怒濤のラッシュであったのかと思うと、ほんと、後一回で充分に語りきれるのだろうか、そんな不安も感じないではないのです。第2巻の後書きなんかを思い出してみればですよ、第1話は実にガウルとミカオを助けるところまで描く予定だったらしいところが、第2巻に収録されている第9話時点ではまだガウルとミカオ編は終わっていないというのですから素晴らしい。こういう、情熱に突き動かされるままに広がる物語世界みたいなのが見たいと思っていたものだから、その広がりが期待できそうな状況を前にして終わるということが無性に残念と思われてなりません。いや、本当、無理に冗長にするのでなく、自然な感じで、後半年くらいは膨らませられたと思うのですが、けどあえてそういう手段をとらなかったのには理由があるのでしょう。今は、静かに最終回になにが語られるかを待ちたいと思います。

しかし、実際にここ数回は怒濤の流れであったと思います。これまで丁寧に、むしろ余裕を持って語られてきたと感じられるボード上の物語であったというのに、最後の最後、これでどうなるという詰めまできたところで、一気に流れが変えられてしまった。その転換の鮮やかさに私はうなって、こうきたか、じゃあこれからどうなる、どうもっていくと、終わりを予感しながら楽しみに毎月を読んできて、毎回の揺さぶりっぷりにもうめろめろ、もっともっと揺さぶって呉れい、とばかりに飢餓感を募らせるその展開の妙は、改めて『ナツノクモ』の良さというのを再確認させてくれたと感じています。

けれど、正直なところをいうと、私はまだもう少し振り回して欲しかったと、そういう風に思っています。だから、来月号の『IKKI』は、丸ごと『ナツノクモ』でもいいと、いや、丸ごと『ナツノクモ』がいいと、そんなわけのわからん無茶を思ったりして、けど、本当に最後の一回、どういう風に運ぶのか、私のこれまで心を重ねて、その一挙手一投足、心の揺れ動くたびたびに一喜一憂してきた、漫画の中のネットの向こうの愛すべき人たちが、仕合せな未来を手にすることができるのか。さまよっていた彼らの思いの行方の描かれることを、心から楽しみに来月を待ちたく思います。

  • 篠房六郎『ナツノクモ』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第5巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第6巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第7巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 以下続刊

引用

  • IKKI』2007年3月号 小学館,484頁。
  • IKKI』2007年4月号 小学館,492頁。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (東京:小学館,2004年),217頁。

2007年2月23日金曜日

Unplugged

 昔、サクソフォンを吹いていた私が今はギターを弾いている。この転向にいろいろ理由はあるのですが、どうもそうした理由を手繰っていくとエリック・クラプトンにまでさかのぼることができるのではないかなあと、そんな風に思っています。そもそも私は最初は自分の歌を伴奏できる楽器(ピアノのようなんじゃなくて、持ち運べるやつで!)をやりたいと思っていただけで、ギターと決めていたわけではないのです。ですが巷ではギターがブームで、ブームであるがゆえに私はギターに背を向けて中国の楽器琵琶(ピパと読みます)をやりたいと思ったんですが、結局は環境の充実しているギターに落ち着いたとそういう経緯があります。で、その環境の充実の理由というのは、MTVで放送されたエリック・クラプトンの番組、『アンプラグド』が大当たりしたために引き起こされた世界的なアコースティックブームに由来しているようなのです。

きっと業界は諸手を上げて歓迎したのでしょうね。話に聞けば、エレキがブームになって以来、アコースティック楽器業界は低迷していたという話で、あの老舗マーチンでさえエレキに手を出したとか、そういう話も聞いています。日本国内にたくさんあったギターメーカーもばたばたとつぶれて、けれどそうした冬の時代を切り開くかのごとく現れたのが、エレキギターの雄クラプトンだったというのはちょっと意外な気もします。

クラプトンの引き起こしたアンプラグドブームというのは、電気を通さない生音の音楽を復権させたかと思えば、ギターという楽器にも再び光を当てて、このアルバムがリリースされてもう十年以上にもなるのですが、表舞台に躍り出たギターという楽器は再びスタンダードの位置を勝ち得たのか、下火になることなく、落ち着いたブームを保っているように思います、というのは、もしかしたら私自身がギターを弾いているからそう思うだけかも知れないのですが、客観的にはどうなんでしょう。

私はなににせよかたちから入る人間ですから、ギターをはじめて最初に買ったアルバムというのも実にスタンダード、つまりクラプトンの『アンプラグド』を買ったということなんですが、このアルバムはギターを聴きつけない私にとっても非常に楽しめる、濃すぎもしない、もちろん薄すぎもしない、そういう絶妙なバランスを持った一枚でした。このへんが一般の音楽ファンにも広く訴えたのだろうなと思うのですが、けれどそれはマニア筋にはつまらないといいたいわけではなくて、だってやってる曲はビッグ・ビル・ブルーンジーとかロバート・ジョンソンとか、戦前ブルースだもんなあ。もともとは泥臭かったりするそうしたブルースがいやに洗練されて聴きやすく感じられるのは、やっぱりクラプトンのアレンジとかセンスとかがあるんだと思いますが、聴きやすい中にもマニアックな面白さがあるというのはさすがだなあと思うのです。

で、私はこのアルバムをまずCDで聴いて、ああこりゃ無理だなと思ったんですが、なにが無理かというと、自分がこれからギター練習してもこういう風には弾けないなってことなんですが、けどあきらめるのもなんだから頑張ってるわけですが、でも耳で聴いている分には一体どうやって弾いているかがさっぱりわからないわけですよ。だから、やっぱり映像が必要だなあと思っていたら、DVDが割りとお手ごろ価格で出ていたから、ちょっと迷った末に確保。そんなわけで、私はCDとDVD、二種類の『アンプラグド』を持っています。

もしこれから『アンプラグド』を聴きたいという人がいたら、私は間違いなくDVDをお勧めします。CDではわかりにくい楽器の使い分けや、奏者同士のコミュニケーションが見えて、ずっと楽しく見ることができるだろうと思うからです。開始当初にはクールで端正な面々も、最後の方にはいい感じに砕けてきて、見てるだけでも楽しい。特に私のお気に入りは、パーカッションの眼鏡のおじさんで、『ローリン・アンド・タンブリン』でのあのノリは本当に素敵。ああ、楽しそうだなあ。やっぱりセッションはよさそうだなあと思えてきて、自分もギター頑張ろうと思えるんです。

なんて書いてたら、また見たくなってきちゃったい。明日か明後日か、見ようと思います。

CD

DVD

絶版CD

2007年2月22日木曜日

Luciano Berio : Coro

 大学は四回生の夏休み、誰でもいいからひとり作曲家を選んで、その作品を聴きまくれという課題が出たんです。でもさあ、誰でもいいからといって本当に誰でもいいってわけじゃないから難しいのです。例えばですね、おとついモーツァルトで書いていましたが、こういうビッグネームを選んだら最悪でしょう。だって、全集が複数あったりするような人ですよ。全集ひとつ聴き終わるだけで夏休み終わってしまうっちゅうねん。というわけでこの手のメジャーさんはパスしましてですよ、誰にしようかなあ、ジェズアルドはどうだろうかな、この人の曲、極度の緊張をはらんで美しいんだよなあ、なんて思ったんですが、この人はこの人で問題があって、それは録音が極端に少ないんです。当時、三枚とか五枚とかしかなかったんじゃないかな。一日で課題終わりますね。というのも問題だから、音楽史上無視できない作曲家で、程々にレコードが出てるような作曲家、そしてなにより私が興味を持てる人、誰かいないかなー、と考えた末に決まったのがイタリア人作曲家、ルチアーノ・ベリオでありました。

まあ、知らんよね。この人は1925年生まれの作曲家だから、普通の古典派ロマン派どまりのクラシックファンなら存在も知らないという、そんなことも普通にあり得ます。管楽器奏者には結構知られているんですけどね。『セクエンツァ』というシリーズがありまして、管楽器を含む多様な楽器用に書かれた作品群、特に有名なのはトロンボーンのために書かれた5番と声のために書かれた3番なんじゃないかと思うんですが、あっと、今調べてみたら11番がギターらしい。こら、いっぺん聴いとかんといかんな。いっちょ調べて、CD出てるようなら買って聴こう。

夏のベリオ漬けは非常に楽しい体験でした。私のイメージにあったベリオ像を裏打ちするような作品群 — 『セクエンツァ』をはじめとする — があったかと思えば、シンセサイザーやテープを用いた電子音楽も非常にいい味を出していて、ヴァイオリンのための二重奏曲なんかも面白かったしで、実にたくさんの発見がありました。知っているつもりで知らなかったベリオのいろんな作風に触れて、やっぱりまとめてたくさん聴くという経験は大切なんだと思ったものです。で、その収穫の中からなにかを選べといわれたら、私は『コロ』を選びたいと思います。オーケストラと合唱のための作品なんですが、神秘性とダイナミズムが混沌としながら徐々に内圧を高めていくような感じを持っている(我ながら、わけわかんないな)ものだから、聴いていてすごく引きつけられるのです。朗々と響く声があるかと思えば、ささやき声がさざめくようなシーンもあって、人間の声も、楽器の音も、全てが交じり合い、震えながら呼びかけてくる、そんな雰囲気に、これはぜひ手もとに置いておきたいと思ってCDショップに走ったら、国内盤がもう絶版。わお。仕方なしに輸入盤を買ったのですが、こればっかりは国内盤で欲しかったなと、今でも思っています。あまりに声が交錯するために聞き取りが困難である歌詞は、インディアンやポリネシア人、アフリカ人やユーゴスラヴィア、イタリアなどなど、さまざまな文化を背景に持つ多様なテキストの集積であり、その歌詞の持つ意味を知りたければ歌詞カードを見るほかない — 、日本語で読みたかったなあ。まあ、私の持ってる盤には英独仏訳がついてるから、頑張ったら読めないこともないんですけど、やっぱ身に付いた言葉のほうがいいってわけで……。

私の持っている盤は、独グラモフォン(ポリドール)のもの、ケルン・ラジオ・シンフォニーオーケストラが演奏しているものです。私がこの課題に取り組んだときには、どうやらこれくらいしか出ていなかったようで、ですが、今では他に何種類かあるようです。

正直、この曲はこうした作品に慣れていない人には受け付けないと思いますので、お勧めしようとは思いませんが、ベリオという作曲家を知っているという方ならきっとよさをわかってもらえるんじゃないかと、そんな風に思います。

2007年2月21日水曜日

この星のぬくもり — 自閉症児のみつめる世界

  一般に流布される自閉症のイメージというのは明らかに偏っていて、というほどに私は自閉症について知っているわけではないのですが、けれどそれでも自閉について語られるときには、ある一定の傾向の認められることが多いように感じています。そこには多分に誤解が含まれており、内向きにこもる傾向を自閉症と例えるなど、明らかに知られていない、自閉という言葉に引きずられるままに誤って捉えられている。そんな風に感じています。けど、仮に名前を変えたとしても、精神分裂病が統合失調症に、痴呆症が認知症となったように、自閉という語を避けて違う名前を使うようにしたとしても、おそらくは大きな成果は得られないのではないかと思います。結局はその病気について知られていないことに根ざす問題なのですから、また違う誤解やなにかが生まれるのではないかと、そんな風に思うのです。

私は特に自閉症について深く調べたりしたことがあるわけではなく、主に大学在学時に受けた心理学の授業で得た知識がベースとなっており、そこにいくつかの本やなにかで得られたものが加わった程度の、一般レベルにとどまる知識しか持っていません。ですが、そんな私に大きな意識の変化を迫ったのが、パソコン通信での自閉症者との出会いであした。彼もしくは彼女は自身をサヴァンあるいはアスペルガーと説明し、非常に高い数学の能力やプログラミングの技術を持っていることを説明しました。そして、自身の障碍についても。私たちは他人の心、気持ちの動きがわからないので、自分が見、知り、思ったことをストレートに発言することが往々であること、相手の欠点や落ち度であってもずけずけと、なにしろ事実を事実に即しそのまま話すわけですからずけずけととられても仕方がない、話すことで怒らせることもままあるのだが、私にはその相手の怒る理由がわからないのだと、そうしたいろいろを教えてもらえました。私の自閉症に対する理解は、彼彼女との文字越しでの交流で、著しく進んだと思っています。

けど、私はたまたまラッキーだっただけで、自閉症者との出会いを持たない人も多いわけで、そうした人が自閉症についての理解を深めるには、やはり本であるなど、そうしたメディアの力を借りるのがよいのではないかと思います。私がはじめて読んだ自閉症関連の本はドナ・ウィリアムズの『自閉症だったわたしへ』で、この本には続編も出てるんですが、残念ながらそこまではまだ踏み入れていません。気付いたときには、もう何冊も出ていたんですね。二冊くらい読めよ、って感じもするんですが、そうかたった二冊か、読めますね。余裕ができたら、揃えて、一から読み直してみようかと思います。

本よりも漫画が優れていると感じるところは、なによりも読みやすいところ、イメージが絵によってもたらされるため、読者がより具体的に状況を把握することができるところ、そして文字によって論理的に説明することもできるというところだと思うのですが、『この星のぬくもり』においてはそうしたメリットが十全に活用されていると感じます。状況は主に絵という漫画的手法によって、内面は淡々と語られるモノローグによって伝えられることで、その時起こっているできごと(目に見えること)と自閉症者の内面で起こっていること(目に見えないこと)が、どれほどにかけ離れているか諒解することができます。彼らがパニックに陥っているとき、彼らは極度の怯えや圧迫感に支配されていることがわかる。興味を持ったものにまっすぐに向かう行動があるために、どういう状況が引き起こされたか。こうした状況はこれまで多くの自閉症者が説明を続けてくれたおかげで広く理解されるようになってきたものの、過去においてはまったくの無理解による悲劇的な決着がなされることがあまりに多かったように思います。多かったという根拠は、私の出会った彼彼女も結局は場から排斥されてしまったからという、そういう事例に立ち会っているからで、そしてそうした例はこの地上のいたるところで生じているに違いないと感じたことに起因しています。そして、この漫画にも、他の自閉症に関する事例の紹介においても、無理解に発する悲劇的な状況が語られることがあまりに多いのです。

『この星のぬくもり』が文庫で出ていたので、買って、読んで、取材協力に名前のあがっている森口奈緒美という人がモな〜Qという名義で活動されているミュージシャンであると知って、驚きました。というのは、私は以前テレビでモな〜Qの活動を見たことがあったからで、気になっていたものですから、思いがけないところに繋がりを見つけてちょっと喜びを感じました。

参考

関係ないけど、私も36点でした。

自己診断テスト得点計算結果

あなたの得点は36点です。

社会的スキル
10点
注意の切り替え
9点
細部への注意
7点
コミュニケーション
5点
想像力
5点

閾値を越えています。

その傾向はあると思ってたから、なるほどねって感じです。

2007年2月20日火曜日

W. A. Mozart : Sonatas and Variations for Piano and Violin KV 379 (373a), KV 304 (300c) and KV 454 played by Andras Schiff and Yuuko Shiokawa

昨年はモーツァルトの生誕二百五十年だったかなんかで、まあいわゆるモーツァルトイヤーってやつですね。なんかいろいろ催しやら特集やらがあったようでしたけど、実は私こういう盛り上がり好きじゃないので、まったくといっていいほどかかわり合いを持ちませんでした。そうそう、モーツァルトイヤーといえば私の音楽に傾倒しはじめた時期というのがちょうどそんな頃で、その時は没二百年でしたか。で、同様に催しやら記念盤やらいろいろあったみたいなんですが、さっきもいいましたように私こういう盛り上がりが好きじゃないから、まったくといっていいほどモーツァルト聴かなくて、その影響が今もなお残ってるんですよね、実は。

一体どういう影響かというと、ほとんどモーツァルトを聴いていないという、そういうの。そもそもモーツァルトは私の好みにあわんかったのかも知れませんが、一般における知名度でいえば第一にベートーヴェン、次いでモーツァルトというのが定番だろうというのにさ、そのモーツァルトをよう知らないというのです。これは実にまずい。モーツァルトの美であるとか、最近でいえばなんかモーツァルト療法とかゆうてますね、そんな話を振られてもですよ、はあそうですか、はあ、はあと生返事するばっかりで、ちっとも乗り気でない。こんな具合に、がっかりさせてしまうことは頻繁です。

でも、それでもやはりモーツァルトというのはすごいなと思うのは、聴けばやっぱり美しいと思うんですよ。跳躍音形は粒立ちきらめき、流麗なパッセージは軽く転がっていく。きらびやかかと思えば、憂鬱に沈む下降線の豊かな美しさも現れて、いやもうただただ美しいと思うこともありますよ。あんまり、日頃から好かん好かんゆうてるもんだから、なんか悔しくてならない。けど、それでも美しいものは美しい。だから、なおさら悔しいよのさ。

そんな私の2006年モーツァルトイヤーは、母の買ってきたヨーロッパ土産でありました。オーストリーはザルツブルグにいったらしく、モーツァルトミュージアムでCD買ってきてくれまして、ピアノとヴァイオリンのためのピアノソナタで、演奏者はアンドラーシュ・シフと塩川悠子です。で、このアルバムの売りはなにかといいますと、使われているヴァイオリンとピアノというのがモーツァルトのものなんだか同時代のものなんだか、とにかくいわゆるピリオド楽器であるというところです。録音は1992年の1月27から29日にかけてで、だからちょうど私が音楽を聴きはじめる頃に録音されたというわけで、没201年ですね。

ちょうど1990年代くらいがピリオド楽器による演奏が定番になった頃だと思うのですが、当初はバロックのレパートリーを中心にはじめられた試みが、徐々に古典派、ロマン派へと広がりを見せていく。そういうなかでのピリオド楽器による演奏だったのかも知れません。

モダンピアノで弾かれれば、倍音も豊かに絢爛、きらびやかに鳴り響くモーツァルトが、ピリオド楽器で演奏されるとまったくといっていいほどに表情を違えます。こつんこつんと、むしろ硬い響きが印象的で、今の音響になれた耳にはむしろモノトーン、枯淡の味わいと感じられる、そんな演奏なのです。ヴァイオリンに関しても同様で、両者ともに派手さを廃し抑制的です。対話するように組み合わされる音形は、丁寧に声部とその関係をあらわにして、音楽のかたち、骨格はよりいっそう明確に、モーツァルトの古典的な側面もいやおうないしに際立つから面白い。聴きなれたモーツァルトではないからいきなりだとぎょっとすることもあるけれど、けど今の楽器が持つ輝きに隠れる美もあるのだと思える、そんな名演です。

残念なのは、このアルバムはどうも現地での限定版らしく、レーベルはオワゾリールだから普通に売ってそうな気もするんですが、少なくともAmazon.co.jpでは見つけられませんでした。このシリーズが他にもあるんだったら、ちょっと聴いてみたいなと、そんな風にも思ったからちょっと残念です。

  • W. A. Mozart : Sonatas and Variations for Piano and Violin KV 379 (373a), KV 304 (300c) and KV 454

2007年2月19日月曜日

少女魔法学リトルウィッチロマネスク

  基本的に、ことゲームに関しては、プレイしていないものに関しては書かないという姿勢を貫いてきたのですが、ここでちょっと方向性を変えて、やったこともないゲームで書いてみようと思います。というか、持ってはいるんですけどね。初回限定版。これにはCDがついてきましてね、ミニアルバムなんですが、ちょっとしたサントラみたいなもんですね。私はこれを先行してiPodにつめて聴いて、そしたらこれがまあいい感じなんですよ。魔法の塔というちょっと古風なファンタジーめいた世界を彩るのに、これまたしっかりと中世臭さのする音楽を持ってきたよなあというのが最初の驚きで、最初の曲Magician's Towerなんか、まさに中世、まさに土俗的な臭さを混ぜ込んであって、いやあ、なんだろうね。ショーム? ちょっと粗野なリード楽器のドローン(保続低音)が気持ちいい。しかし、まさかゲームの音楽聴いて、こんなに嬉しくなるということも珍しいと思います。いや、実際、ポイント高いと思います。

けど、ただ音楽が古い感じだったらいいってわけでもないんですよ。問題はゲームにて描かれる世界と音楽がいかに調和するかというそこなのですから、まだゲームをプレイどころかインストールさえしていない私にはそのあたりを評価することなど到底できないわけで、けどこのサントラを聴くかぎりにおいては、かなり期待できそうだと思うのです。

なにがはたして期待させるのかというと、やっぱり様式感が感じられるというそこですよ。ゲームでもテレビでもなんでもいいんですが、中世っぽい世界を描こうとしているわりに音楽が妙に様式外れで、中世なのにバロックかよ! みたいなこともままあるから油断できなくてですね、そりゃね、昔なんかは、音楽は美術や建築といった視覚芸術よりも遅れて発達したために、ゴシックにはルネサンス音楽が、ルネサンスにはバロック音楽が似合うのだみたいなこといってる人もいましたけど、でもそりゃいくらなんでも駄目ですよ。様式音痴を自ら暴露しているに等しい発言で、ほんと、美術に遅れて云々だなんて、レオニーヌスあるいはペロティーヌスあたりを百回聴いて出直していただきたい。三度を欠いた空五度のストイックにして分厚い響きのこだまするかのような多声音楽の世界。ものすごく高度の音楽世界が十二十三世紀には存在していたということがわかりますから。そして、そうした音楽を聴いて思うことといえば、音楽は美術建築などに劣ってなどはいないというまさにそこで、尖塔の天を衝かんとそびえるゴシックの聖堂の精神は、テノール声部上に積み上げられる重層の声の絢爛に重なり合っている。人間の感覚、精神は視覚も聴覚もともに同じ時代の潮流に揉まれ、より高みを目指してきたと知れる瞬間があります。

閑話休題。『リトルウィッチロマネスク』の音楽は、むしろ世俗の音楽に接近して、例えばそれは『カルミナ・ブラーナ』。ちょっと粗野、ちょっと猥雑で、けれど人間の臭さというものを濃厚にまとったそうした時代の空気というものを音楽から感じさせて、けれどその音楽には間違いなくいまの感覚があって、ただ古さを装っているだけではないという、そこが一番に私を嬉しくさせたところであるといってよいかと思います。古い雰囲気も、新しい感覚も、いろいろが角突き合わせることなく調和的に共存している面白さ。どうやらこれは期待できそうだぞと、やっぱり思ってしまうのです。

そんなわけで、PS2版も買いました。多分、明明後日でしたっけ? まあ、順当にうちに届くことでしょう。もう、どうしようもねーなー。

あ、そうだ。メーカー在庫が切れないうちにサントラ買っとかないとなあ。これはこれは、まあ、なんという散財でしょう。ほんと、もう、どうしようもねーなー。

PlayStation2

PC

CD

2007年2月18日日曜日

パティスリーMON

  私は結構長期にわたり集英社のレディーズコミック誌『You』を購読していたのですが、この数年ほど、どうにも読める漫画が少なくなってきたと感じるようになってきて、だから購読するのをやめたんです。もう、私は対象層から離れちまったんだなあという一抹の寂しさをともに……。けど、読んで面白いと思う漫画が少なくなったということイコール、雑誌全体がつまらなくなったということでもないから困ります。やっぱりなかには面白いと思える漫画もあって、先を、続きを楽しみにしていた漫画もあったのです。そうした漫画の筆頭がきらの『パティスリーMON』でした。私はこの作者とは『You』で出会って、やっぱりこの人こんなに面白い漫画を描く人なんだと思って、それからは結構なファンでいます。

『パティスリーMON』は、そのタイトルが示すようにパティスリー、ケーキを作り売りするお店が舞台。乙女チック思考の音女ちゃんが昔の家庭教師の先生と再会して、その縁で、パティスリーMONで働くことになりました。そういう漫画なのですが、やっぱりこの漫画の肝というのは、オーナーシェフの大門と元家庭教師の土屋、いい男ふたりの間で揺れ動く乙女心! ってやつでしょうかね。けど、音女心は恋憧れに揺れながらも、お菓子作りというハードな仕事に取り組むに際しては実にしっかりとしているものだから、愛だ恋だと腑抜けたこといってる暇があったらしゃんと仕事せえよ、だなんて感想はあり得ない。仕事に真面目に取り組む姿がきちんと描かれているからこそ、応援したくなるというものなんだと思うのです。

で、問題はどちらを応援したらいいんだろうってことで、ええと、私は大門派なんです。寝癖頭で職場に現れる、ちょっと無愛想、ちょっと頑なそう、けど笑うとすごくかわいい、みたいなそんな男が大門。ちょっとずれたところみたいなのもあるんだけど、そういったところも含めて魅力という、そういう男が大門。堅物でないし、真面目そうだし、結構誠実そうなところもポイント高いし、それに、2巻で明かされる大門の真実。これまでの大門の — 、おおっと、これ以上はネタバレになるからいわねえよ。とにかく、ここで重要なのは私が大門ラブであるということです。

私が『You』の購読をやめた号には、ちょうど第1巻に収録された最後の回が載っていまして、だから第1巻が出たときには第2巻の発売を心待ちにしましてね、この後一体どうなるんだろう! って、だってどんどん大門という男がクローズアップされていって、音女との距離もどんどん縮まって、だから第2巻が出た時には、わー、やったー、って感じだったですよ。というか、なんで毎月出るんだ。いや、嬉しいけど、めちゃくちゃ嬉しかったけど。

第2巻読んで、私はやっぱり大門派です。

  • きら『パティスリーMON』第1巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2006年。
  • きら『パティスリーMON』第2巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2007年。
  • 以下続刊

2007年2月17日土曜日

ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド

  地上三十階の書店では二ヶ所で平積み、他の書店でも結構押されているタイトルで気になっていたのですが、なにが困るといっても、タイトルから中身がどうにも推し量れなくて、それで買うのが遅れました。とりあえずヴァンパイアもの、怪奇ものだろうとは思ったのですが、バンドとついているものですから、ええーっ、これって音楽もの!? 一瞬クラウザーさんを思い出して、いや、違う違う、bandじゃない。表紙にちゃんとbundって書いてあります。じゃあ、これは一体どういう漫画かというと、ヴァンパイアたちが大挙して日本に設けられた租借地に移住してくるという話。構成はシンプルだけど結構読ませる、あたりと思える漫画でした。

この漫画読んでてなにが心地いいかというと、そのもっともらしさですよ。ヴァンパイアなどといった西洋妖怪が日本に大挙移り住んでくるというその設定、ちょっと聞いただけではあまりに非現実的、ありきたりと感じるところではありますが、ところがどっこい、それが実にしっくりとはまっていていい感じだからたいしたものです。そもそもなぜ日本国がヴァンパイアに租借を許すにいたったか、その理由をはじめとする端々にリアリティ — それっぽさがうまくちりばめられているから、漫画全体のありそう感も非常に高くなっています。しかし一番私が感心したのは、細かく説明しようとすればぼろも出そうなところをすべて、人知の及ばぬところに押しやっているところです。説明可能なところはなるたけシンプルに骨太に語り、ややこしくなりそうなところは怪奇神秘のベールで隠してしまう。うまい! 其方ら人間風情が我らヴァンパイアのすべてを伺い知れるなどとは努々思わぬことじゃ、分をわきまえるがよい、とでもいいたげな様子が痛快。ほんと、うまいです。やってくれます。

話の運びもなかなかのものです。数回単位でくくれる小エピソードを単位とするクライマックスと解決があり、これら小エピソード群をまとめる大きな流れがその背後に用意されています。小エピソードは結構シンプルに語られるものだから、登場人物の動機もうかがいやすくぶれも少なくなって、わかりやすく読みやすい、おいてけぼりになるということがないから安心して読み進むことができます。そして、これらエピソードは別のエピソードとかかわりを持つことで、より大きなストーリーを感じさせるから、小ぶりであるとか物足りなさであるとかは感じない。1巻2巻に収録されたもろもろの事件はそれぞれ趣を違えているけれど、このすべてが繋がりひとつになることで序章を構成しているといえば、その感覚を表現できるかな。気張りすぎず、けれど軽すぎるということもないという、そのバランス感覚がよくこの漫画世界を支えていて、非常にいい感じであると思っています。

ただ、気になるところ一点。ネタバレになるから、未読の人は気をつけよう。

心が全てを支配するヴァンパイアは、誰もがその本性に見合った真の姿を持っているとのことですが、それで姫さまの真の姿があれだったというのをはたしてどう受け取ればいいのか、ちょっと現在保留中です。由紀曰くきれい……であるその姿が、姫の善性や高潔さを表しているというのなら、ちょっとがっかりかも。けれど、一見そのように思わせながら、まったく違った内面を表現するものだとしたら、してやられたー、って感じに私は喜びそうです。

そうした多義性、多面性、多様性を持つがためにあれが選ばれているのだとすれば、私はすでに作者の術中にはまっています。そうだったらいいなあ。

蛇足

ツェペッシュやメディチといういかにもな名前があって、どうにもこうにも期待したものだから、デルマイユで検索してみたんです。そしたらガンダムばっかり出てきてびっくりだ! もしかしたらボルジャーニもガンダム由来? ボルジア家あたりを思い浮かべたんだけど、どうなんだろう。でも、このへんは多分語られることないでしょうね。

引用

自ら売ったらいいんじゃないかな

パワーレベリングとは、一般的に、手数料を徴収する代わりにプレーヤーのアカウントを引き継いで希望のレベルに到達するまでゲームに取り組むサービスのこと。サービス対象は、数あるオンラインゲームのすべてとなる。

需要のあるところには供給があるんだと感心したニュース。

レベル上げ代行業に関し、ゲームの提供側は静観を決め込んでいるようですが、リアルマネートレード(RMT)にせよレベル上げ代行にせよ、お金払ってでもゲームを有利に進めたいという需要があるとわかってるなら、ゲーム提供側が積極的にそのへんをサポートしたらいいのにな、なんて思います。つまり、アイテムも経験値も金で買えるシステムにしたらいいんです。どうせなら、ゲーム内通貨も購入できるようにしたらいい。通貨流通量が増え過ぎてインフレが起こることを心配するなら、ゲーム提供者がゲーム内通貨の取引を仲介すればいいんじゃないかな。ゲーム提供者がゲーム内通貨を現金買い取りして、別の人に現金でおわけする。手数料とってもいいしとらなくてもいいし、変動相場制にしたっていい。

アイテムや経験値、通貨が購入可能になれば、RMTやレベル上げ代行業者に流れていた資金はまるまるゲーム提供者のものになるわけで、悪い話じゃないと思うんです。アカウント乗っ取りや詐欺などといったトラブルも減るだろうし、なによりこうしたサービスを利用するプレイヤーが後ろめたさを感じなくてもすみます。

金はないけど時間はあるというプレイヤーがいれば、金はあるけど時間がないというプレイヤーもいるわけで、時間を充分に割ける人は自力で経験値でもアイテムでも稼いだらいい、時間がないからゲームのエッセンスだけでも楽しみたいという人は金で解決する。金も時間もある人は好きに選んだらいいし、そのどちらもないという人は、まあこりゃどうしようもないか。

プレイスタイルなんてのは各人それぞれで違っていて当たり前、他人にとやかくいわれる筋合いなんてないんです。ゲーム魂を捨てただなんてそれこそどうだっていい話で、自分の楽しみ方と違う楽しみ方をしている人がいるんだなあ、ってそれだけのこと。ずる、ごまかし、不正だとか、ほんと余計なお世話ですよ。

引用

ケータイ持たない理由

 今やケータイを持たない人は「よほどの、持たない理由や主張がある人」くらいになりました。

ええーっ、それはないよ。

私はまさしくケータイを持たない人であるわけですが、持たない理由はというと、かけることもないし、かかってくることもないから。すなわち、持つ理由がないというのが持たない理由であるわけです。

私が今、一緒に働いている人の中にはケータイ持たない人が二人ほどいますが、それらの人たちも別によほどの理由があってそうしているわけではないと思います。

引用

2007年2月16日金曜日

つっこみ力

 その昔、私は実は学問をする人になりたくて、その学問を志した先になにがあるかはわからないものの、先へ先へと進みたいと思っていました。けど、その思いがあんまりに漠然としていたからか、いや実際のところ成績が悪かったのが悪いのですが、進学の望みは無残にも断たれてしまいました。まあそれでもあきらめたわけではなく、力を蓄えていつかまたきっと挑戦しようと思って、語学に精を出したりしたものの、水は低きに流れるとはよくいったものです。ええ、低きに流れちゃったんですね。いま、私は学問を志そうなんてちっとも考えてなくて、やっぱあれだよ、ギター弾いてるほうがずっと楽しいよな。なんでもそうなんだろうけど、瀬に降り、そのものに触れているほうがずっといいと思う。人間は確かに頭、脳を発達させてきたけれども、けれど、それでも、最後にはその体に感じることが真実なんだと思って、そしてその実感に発する思いというものがその人のなによりの力になるのであると思います。

さてさて、今日はうさんくさいイタリア人パオロ・マッツァリーノの『つっこみ力』を読んでみました。そう。『反社会学講座』のあの人ですよ。私は、『反社会学講座』があんまりに面白かったものだから、マッツァリーノの二冊目の著書となる『反社会学の不埒な研究報告』を買おうかと思って、けどなんとなくやめちゃって、というのは、第一作がむやみに面白かった場合ってどうも第二作は不作に終わることが多い、そういう印象というか偏見があるせいなのですが、前よりももっと面白くしないといけないとか、そういう力みがあるんでしょうかね。なので、面白さに陰りがあったりするといやだなあと思ったので、あえて二作目は保留したのでした。

『つっこみ力』は三冊目。これは既刊と違い新書としてリリースされて、値段もお手ごろ、買いやすかったものだからムラムラっときて買ってしまいました。って、ムラムラってなんだー。いや、この著者がインセンティブを説明するのに、自分だったらムラムラ感と言い換えるなんていうものですから、私もそれに倣っただけです。でも使っておいてなんですが、この場合はあんまりインセンティブとは関係なさそうに感じます。

そして、話は冒頭に戻ります。私が学問をやろうと思っていたとき、なんというか、すごいジレンマがあったんですね。私のやってた学問というのは昔は理系、今は文系に分類されるものなのですが、この文系学問ってやつはですよ、はっきりとした白黒がつかないのですよ。もう、どうとでもいえちゃう。私にはその曖昧さが我慢できず、けれど二回目の論文を書こうと悪戦苦闘する中でちょっとわかったつもりになったんですね。結局は、論文にせよ説にせよ、こういうものはもっともらしさなんだって。自分の中にある実感や確信、あるいは疑問や問題意識でもいいや、そういうものを明らかにしようといろいろ証拠集めて並べて透かして考えて、なんとかして説得力を持たせようと努力することが学問なのかもなあ、そんな風に思ったんです。

まあ、それでもどうしても言い切れないなんてこともありまして、それをアクロバチックな強行手段で乗り切るような人もいたりしてがっかりだったりもするんですが、そうだ、アクロバチックっていえば、当時仲の良かった研究者にプーランクというフランス人作曲家を研究していた人がいたのですが、その人、しょっちゅう論文に書くネタを探していたものですから、ちょっとこんなのそそのかしたことがあるんです。その人、チェンバロも弾く人で、チェンバロ曲の重要な作曲家にクープランというのがいるんですが、この二人の類似性を論じてみたらどうでしょう。いろんな側面から比較検証してみてさ、もう微に入り細をうがつような詳細な検証してみてさ、それで結局似ていたのは名前だけでしたってやったら痛快じゃないですか。うけたけど、却下されました。残念。面白いと思ったんだけどなあ。

閑話休題。『つっこみ力』を読むと、改めて学問のあやふやさに思い至ります。この本の扱う範囲は社会学でありますが、社会学というのはデータという一見中立公正確実と見えるものを扱いながら、結局は解釈いかんによってどうとでもいえちゃうもんなんだと、そういうことが書かれています。だから、結論は最初にあるということなんでしょう。最初に思いつきがあって、それをデータでもって説明してみようとする。まあここまではいいですわな。けど、いつも検討の結果が自説にとって都合がいいわけでもないでしょう。こんなとき真っ当な学者や研究者なら思いつきを引っ込めるのだと思いますが、解釈でどうにかしちゃうこともあるんじゃないかと思います。あるいは、思い込みがあるためにデータを読み違えるということもあるでしょう。こうした読み替えや錯誤によって実態から離れるケースなんていうのは実際にありえることだと思います。また、その検討が妥当であっても、実態のすべてを説明しきれるとは言い切れない。ひとつの側面に光を当てるのが関の山なんだと心得ておくのが健全なんだと、そういうことなんだと思います。

マッツァリーノが槍玉に上げる対象というのは、常にべき論・べからず論で物事を論じようという輩なんだと思います。世の中はこうあるべきなのだ、と持論をぶつような類い。ひとつの考えに固執するあまり、その他の考えやあり方を認めないようなそんな輩をこそ笑おうとしているのだと思います。

そうした輩は、持論自説を補強し説得力を持たせるために、データを持ちだし、あれこれともっともらしい理屈をつけて、で、このデータがくせ者なんだという。見かけの一致や解釈の違い、統計の嘘、ごまかしなんかをうまく使って、ありもしない事実を作り上げ、自分の理想に都合の悪いものを押さえつけようとする。けれど、そうした理屈でもって自説をごり押ししてくる連中に対し、真っ向から戦うのはあんまりいい考えとはいえないと、そんなことをマッツァリーノはいっています。

ここで、書名の『つっこみ力』ですよ。日本にはつっこみという伝統がある。つっこみどころを見つければ、即座につっこんで笑いに昇華してしまうのがいいのだといっているんですね。そのためには、勇気が必要だなんていって、つまり権威や権力にひるんじゃいけないといっています。

以上が前半。けれど、私には後半が効きました。後半、残念ながらマッツァリーノは自らの説く『つっこみ力』を充分には発揮できずにいて、そこには皮肉屋の顔も冷笑的な態度も薄れて、むしろ情熱的といったらいいのか、思いに突き動かされるままに筆を走らせたという、そういう高揚が強く感じられます。憤りなんだと思います。目先にとらわれすぎるあまりに、見るべきものが見落とされている現実に対する憤りがこの高揚を生み出しているのだと思います。あるいは、これは私のまったくの邪推でありますが、政策の失敗とその失敗を隠蔽しようとするかのように流布されるもっともらしい話、そうした共犯関係に対する不信や怒りがあったんじゃないかとそんな風にも感じられて、まあこれは私の邪推ですから本当のところはわかりません(なにしろ、陰謀論はどこにでもわくものですから)。

後半、章でいいますと「第二夜 データとのつきあいかた」におけるマッツァリーノは、私がこれまでこの人に対して持っていた印象を、ちょっと変えてしまいました。人によっては必死さをあらわに熱弁ふるうマッツァリーノを笑うのかも知れませんが、けど私はこの本読んで、この人のことがずっと好きになった。マッツァン、いいやつじゃん。だから私は今日の帰りに紀伊国屋に寄って『反社会学の不埒な研究報告』を買ったのでした。いやなに、ちょっとムラムラってしただけの話ですよ。

  • マッツァリーノ,パオロ『つっこみ力』(ちくま新書) 東京:筑摩書房,2007年。

参考

2007年2月15日木曜日

Beethoven : Piano Sonata No. 1 In f, Op. 2, No.1 played by Glenn Gould

 グレン・グールドはやってくれるなあ、ってとりわけ思うのは、他でもない、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ聴いているときじゃないかと思うんです。ベートーヴェンというと、自立した音楽家の走りであり、耳が聞こえなくなるというハンデを克服した意志の人。その表情には色濃く苦悩がにじみ出て、俺の音楽を聴けといわんばかり。かくしてベートーヴェンの作品たるや、堂々とそびえ立つ金字塔か、いや大伽藍か。荘厳にして偉大、堅牢にして剛健、重厚、雄大、などなど、そういう表現がこれほど似合う音楽家もなかなかいないのではないかと思うのですが、それをグールドという人は、コケティッシュというかなんというか、非常に愛らしく弾いてみせて、その異質さぶりにはあきれるやら笑ってしまうやら。けれど、それが決して馬鹿馬鹿しいおふざけに終わっていないところに彼の価値というのがあるのだろうと思います。

いや、しかし驚きますよ。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第1番、あの、たったったったたーりらりら、という、打ち上げ花火式に上昇して下降する音形。いや、確かにあれはある程度の軽快さはあっていいと思うのですが、けどそこまでやる必要ってあるのか? と疑問に思うくらい軽快で、一音一音の歯切れも実に際立っていて、そして時に挿入されるアルペジオや装飾音。実にこれがベートーヴェンとは思われない。バロック・ベートーヴェン? それともロココ・ベートーヴェン? でも紛れもないベートーヴェンなのです。ただ、耳慣れない響き、解釈、表現であるというだけで、総体を見ればやはり紛れもないベートーヴェンであるのです。

しかし、痛快ですよ。グールドが活躍していた時代っていうと、19世紀的ロマンチックの時代を抜けて、徐々に作曲家の真実を求めようという古典派返り咲きの時期にあたると思うんですが、この人、そんなことまったく意に介していませんから。ロマンチックの時代、すなわち演奏家の情念が音楽に込められてジャジャジャジャーンみたいな時代であっても、こんな、グールドみたいな演奏をする人はいませんでしたし、作曲家の意図するところを再現しようという動きにあってもそれは同様で、なぜあえてベートーヴェンをこんな風に弾かねばならんのかが疑問といった具合で、相当批判されたらしいんですが、結局グールドはねじ伏せるでも説得するでもなく、こんなのもありなんだ、ってな具合に我が道をいってしまったんですね。エキセントリックなグールドという評判を追体験したければ、この人のベートーヴェンを聴くかあるいはショパンを聴くか、このへんが双璧だと思うのですが、いや、本当に一般に浸透しているらしさに挑戦する演奏でたまげます。

ですが、最初こそは驚くものの、私はこの人の残した録音を聴いて、聴いて、そしてこういうのでいいんだと思うようになった。いや、もうちょっと正確にいうと、こういうのがいいんだと思う。だって、私たちは結局はベートーヴェンの真実を知らない。伝聞や資料が彼の当時の音楽を間接的に伝えてくれるとはいえ、それは結局は鳴り響いた音とは違うわけで、今私たちの耳の奥に響くベートーヴェンらしさの妥当性なんてのもほんとのところはどうだかわからんのです。ベートーヴェンの時代から現在に至るまでの数百年の間に、彼の像はどんどん偉大に立派に肥大化してきたのだし、それは音楽においても同様で、より堂々と、よりアグレッシブに変容してきた過程が存在する以上、そうした後に積み上げられてきたベートーヴェン像にあえてそっぽを向くようなグールドのアプローチはむしろなくてはならなかったのだと思います。確かにやり過ぎかも知れません。けど、まだバロックやロココの趣味が残ってただろうあの時代、ベートーヴェンの同時代人たちは彼のソナタをどのように受容したのか。ましてや初期ソナタです。このように考えると、グールドの演奏のもっともらしさというのは馬鹿にできない。こんなのもあっていいかも知れない。学究的態度や伝記、伝説の類いを尻目に、音楽という素材に向き合って、ベートーヴェンはこんな風にも演奏できるんだとやってみせたあの鳴り響きの面白さ。やっぱり、私はこれほどにスリリングで痛快な演奏はないと思うのです。

2007年2月14日水曜日

こどものじかん

   さすがに、限定版は買いませんでしたよ。私屋カヲルの『こどものじかん』第3巻には通常版の他に限定版もありまして、通常限定の違いはどこにあるかというと、限定版にはフィギュアがついてくる。あと、細かいところをいうと、表紙が違う(通常版では枕を抱いているところが熊のぬいぐるみに変わっている)のと、カラーピンナップ? が追加されている。問題はですね、この追加分にいくら払えるかでありまして、その差額は1,200円。ちょっと高いよねー、と思った私は通常版を選択したのでした。おそらくコアなファンは両方買うのでしょうね。けど私は、この漫画に対しては内容をこそ重視したく思ったので、限定版という作られた希少性に発するアウラにたいし対価を支払うのはやめておこうと考えたのです。

『こどものじかん』に関しては以前にちょっと触れたことがありますが、もちろんロリコンとでも勘違いされたらことだからだなんていうのは冗談で、というのも、この漫画の内容を知っている人から見れば、『こどものじかん』=ロリコンという単純な図式が描かれることはおそらくないだろうと思うからです。ませた女の子が新任男性教諭に過激なアタックを繰り返すという扇情的な描写は、意図的に持ち込まれているのでしょうが、こうした見せ方や煽り方を多用しながら、そのまた違った側面に読ませる部分を用意しているという多層感は、多様な読者層に働き掛けて引きつけるうまい手法であると思っています。

そうした構造を持つ漫画であるため、こうした場で語られる場合には、教師という職業に対する描写であるとかがクローズアップされることが多く、苛酷な労働時間、荒れる学級や子供との関係への苦悩等々、実際私が子供であった頃からすればこうした荒れ方というのは想像できないものでありますが、でも今はやっぱりそうなのかなあ。実は私も教員免許保持者で、中学ではありますが実習にもいって、そこで得た感じというのは、教師の力量によって教室の状況は大きく変わるというものでした。だから、『こどものじかん』を学校ものとして読むならば、主人公青木が同僚教師やほかならぬ子供たちとかかわりあう中で成長していくストーリーを期待するところなのであろうかなと思います。が、第3巻に収録された話、第20話なんかを見るかぎり、あんまり彼の成長は期待できそうにないなあ。なんて考える私は、実は教師という職業人にたいする憎悪に近い偏見を持っています。

第1巻では主に青木対りんという構図が濃厚でしたが、巻を重ねるにつれ、りんのバックグラウンドが徐々に明かされ、またストーリー上あまり重要な位置についていなかった人が表に出てくるようになってくるなど、関係性が徐々に複雑に、密になってきています。少しずつ明らかにされる各人の人間性や他者に向ける視線が少しずつ異なっているところが私には実に面白く感じられ、それは神経質で取っつきにくく描かれてきた白井教員と黒の繋がりであるとか、あるいは主役各でいえばりんとレイジの互いに向けられた視線のすれ違い。こうした、誰かが誰かに向ける視線、思いの明らかになり変化していくことが、これからの物語にどのように関わっていくのだろうと思うと、なんだかちょっと面白そうだと、そんな風に思ってしまうのです。

というわけで、すまんけど、青木教員はあんまり眼中になかったりする。りんを巡る物語を動かすための、ちょうどいい位置に置かれたアクセントみたいにしか見られなかったりして、いや、ほんと申し訳ない。宝院教員に対しても同様かも。あ、いや、ボサボサすっぴんどてらは最高だったと思っているのですけれども。

  • 私屋カヲル『こどものじかん』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2005年。
  • 私屋カヲル『こどものじかん』第2巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。
  • 私屋カヲル『こどものじかん』第3巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2007年。
  • 私屋カヲル『こどものじかん』第3巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2007年;特別限定版.2007年。
  • 以下続刊

引用

2007年2月13日火曜日

悪魔城ドラキュラ

 この数日、ファミコン時代を懐古するかのごとき、懐かしゲーム話を繰り広げておりますが、なんだかスイッチが入った状態とでもいえばいいのでしょうか、今日はコナミの誇るアクションゲームのビッグタイトル『悪魔城ドラキュラ』を思い出してみたいと思います。『悪魔城ドラキュラ』はその第一作がディスクシステム用ゲームとしてリリースされて以来、あらゆるハードを征服しようとするかのごとき広がりを見せているようで、MSX2版があるのは知ってましたが、アーケード版やX68k版まであったとは! 今日のこの記事を書くためにざっと過去作を眺めてみれば、あるわあるわ。それこそ主要ハードほぼすべてを押さえているんじゃないでしょうか。実際の話、3DOとかTowns、NeoGeoあたりを押さえればコンシューマハードはほぼ制覇なんじゃないかと、そんな思いにとらわれるような広がりように驚かされます(あ、DreamCast忘れてた)。でも、例によって例のごとく、私の遊んだことのあるドラキュラというのは、やっぱりディスクシステム時代に限られていて、それはつまりは『悪魔城ドラキュラ』オリジナルに『ドラキュラII 呪いの封印』であります。

『悪魔城ドラキュラ』がリリースされた当時、なにをおいてもまずはその異色さが話題になったと覚えているのですが、それはつまりですね、それまでゲームといえば、ましてやファミコンといえば、子供向けを意識したグラフィック、健全で明るく軽快という世界観が支配していたところに、ゴシックホラーを意識するダークでハードな世界観がどしんと提示されたわけですよ。敵はドラキュラ。古城に潜入したバンパイアハンター、シモン・ベルモントはを手に、並み居る西洋妖怪どもを蹴散らすのであります! って、なんで!? しかも蝋燭聖水!? あ、いや、こういうキーワードに反応したの私だけじゃなくって、本当に当時こういう反応があったんですって。って、こんなの書いてたの『ファミコン必勝本』くらいだったんじゃないだろうか……。今から考えると、あの雑誌、子供の教育にはめちゃくちゃ悪かったな。

私がこのゲームを遊んだのは、発売後ずいぶんたってからだったのですが、借りましてね、散々遊びまして、いやあ、難しかったけど精進したものだから結構スムーズにクリアできるようになって、けどこれは私の手柄じゃなくて、やっぱり『ファミコン必勝本』のおかげであったりするのです。『ファミコン必勝本』の誇るバラモス中野氏の攻略がぴか一であったのです。ボスの攻略を主眼に置いたその記事は、なんと聖水ですべてのボスを倒す! というもの。『悪魔城ドラキュラ』における聖水とは、放物線を描いて落下し床で発火、足止め効果を持ち革鞭三発分の威力という、なかなかの代物であるのですが、しかし基本的に効果があるのは床に接する敵というのがセオリー。地面をはいずり回るタイプのメデューサやマミーならともかくよ、空飛んでるオオコウモリや画面狭しとテレポートして鎌を飛ばしてくる死神に有効なのかい? というと、これが実に有効。特に死神ですよ。一般に対死神戦では十字架を投げて鎌をかき消しつつ本体を攻撃というのが定石、しかしこれでもなかなか勝てないといわれた強敵なのに、聖水を使うと一歩も動くことなく楽勝で始末できるというのですから画期的でした。せむし男とペアで現れるフランケンシュタインも楽勝、マミー、メデューサなどはいうまでもないという強烈なインパクトを持った攻略記事でありました。

でも、この攻略にはやっぱり越えなければならない山というのもありまして、それが最後の対ドラキュラ戦。ふいと現れたと思うや、火炎弾だかエネルギー弾だかを三発撃って消えるやつを鞭だけで倒す必要があるんですね。そのためには、1・2・3・4の4で鞭を使うのじゃという極意のリズムを体得する必要があり、いや、ほんと練習しましたよ。練習して、練習して、ついにノーダメージでドラキュラをしばけるようになったときに私のクリアは確定したんでした。すべてはドラキュラ本体を楽勝に始末するための訓練であったといえるでしょう。最後の最後、正体を現したドラキュラ、その出現地点に聖水をまくのですよ。そうしたら、一歩も動くことなく倒すことができる! わお、すごいよ、この攻略。この記事をものしたバラモス中野氏の株は際限なく上がって、もう偉人級であったと記憶していますね。いやあ、ほんと、あの記事は感動的でした。

ドラキュラシリーズでは微妙な扱いの『ドラキュラII 呪いの封印』も借りて遊んだのですが、当時はなんでもかんでもRPG要素を盛り込んだ時代で、『呪いの封印』もその例に漏れず、ちょっと微妙といえば微妙、けど面白かったと思うのですよ。1と同じく横スクロールアクションで、なんか街とかあって、人が行き来している、買い物なんかもできるのですが、夜になると途端に状況一転して、街中怪物だらけじゃないか! という、その転倒ぶりが面白かったと思うのですよね。なんか独特のおどろおどろしさがあって、恐怖におののいてしまうというほどまでいかない、その微妙さが好きでした。

そういえば、『呪いの封印』にはにんにくというアイテムがあって、これ使うとどうなるんだったかなあ。思い出そうとしてもさだかではないですが、そのわりには『ファミコン必勝本』のにんにくのアルミホイル焼きネタははっきりと思い出されて、と、このように私のファミコン時代の回想には、常に『ファミコン必勝本』がからむのです。よくも悪くも、『必本』とともにあった少年時代であったのでした。

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2007年2月12日月曜日

ゼルダの伝説

  昨日は『メトロイド』で書いたので、今日は『ゼルダの伝説』で、というと、どうせディスクシステム版第一作が最高だっていうんだろという突っ込みが聞こえてきそうですが、はい、まあ、当たらずとも遠からじだと思います。というか、私、『ゼルダの伝説』のシリーズって、オリジナルと『リンクの冒険』しか知らないんですよね。だって、ハード持ってないんだもん。私が持っていた任天堂ハードは、ファミコン及びディスクシステムからゲームボーイポケットを飛び石にNintendo DSまでジャンプしておりまして、つまりその間の『ゼルダの伝説』シリーズについてはまったくもって知らないといってもいいくらい。虫取りできるらしいっていうのは知ってるんですけど、ほんと、それくらいです。ううむ、ちょっと寂しいねえ。どうせなら、『ゼルダの伝説』の歩みをともに体験したかったよ、という私はWiiを買って、バーチャルコンソールで遊ぶのがよさそうです。

『ゼルダの伝説』というのは、ディスクシステムと同時にリリースされたゲームで、平面マップ見下ろし型のアクションRPGになるのかな? 敵を倒して金を集め、その金でもって買い物をして装備を強化したりライフを増やしたりしながら、分割されたトライフォースを集めて敵の親玉を倒すという、実にオーソドックスなスタイルのゲームであったと思います。

けど、ストーリーの大筋こそはわかりやすいけど、ゲームとしては極めて難しかったなあと思うんです。なにしろ、ヒントがほとんどなかったような気がするくらいに突き放された状態でスタートする序盤。洞穴があるから入ると、剣をもらえるのだったかな? ともあれ、導入はこれくらい。後は自分自身で切り開け! といわんばかりのほったらかしっぷりで、隠された商店を探すべく爆弾をあちこちで炸裂させる様なんかは、お前、爆弾魔か! と突っ込み入れたくなるほどで、で、この爆弾というのも金を貯めて商店で買わないと手に入らなかったんじゃないかなあ。そういえば、同じ品物でも店によって値段が違ってるというところが妙に印象的で、そうだ、印象的といえば商店主のカタカナの台詞ナンカコウテクレヤがすごく流行った覚えがあって、同じく話題になったといえば次作『リンクの冒険』におけるチョット ヨッテ イカナイ?もそうでした。なんつうか、怪しすぎます。家の中でなにやってんだー、みたいな突っ込みがあちこちでこだましたという噂です。

私は『ゼルダの伝説』をクリアするのに『ファミコン必勝本』の助けを借りてしまったのですが、もしこうした助けがなかったらクリアできたものか非常に疑問です。『リンクの冒険』にしても同様で、とにかく難しいんですってば。これをノーヒント、自力でクリアしたという人は本当に偉大だと思います。で、偉大ついでにいうと、当時、確か『ゼルダ』の最初にもらえる剣をあえてもらわずにクリアした人がいたはずです。落ちてる爆弾を拾って、それで金をまた拾って、爆弾集めて、敵倒して金拾って……、とにかく爆弾でもって進んでいくというのが基本線だったと記憶していますが、やり方教えてもらっても真似しようだなんて一度も考えませんでした。

もし、今また『ゼルダの伝説』、『リンクの冒険』をプレイする機会を持てたとしたら、今度こそノーヒントでチャレンジしようと思います。さすがの私の記憶もまっさらといっていいくらいにとんでますから、初プレイと同じといっていいくらいと思いますから。当時の、それこそ説明書にあった情報くらいを頼りに、手探りで進めていくというのをやってみたいと思います。これ、実現するとしたら、きっとすごく贅沢な体験だと思いますよ。

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2007年2月11日日曜日

メトロイド

  ファミコン時代、夢の装置としてリリースされたディスクシステムは、そのキャッチフレーズ夢が広がるディスクシステムを体現するかのように、面白いゲームが次々とリリースされて、当時のゲームキッズはいつかあの夢の装置を手にしたいものだと思ったものでした。というわけで、私ももちろんディスクシステムを持っていて(現在も稼働するはず)、最初に買って遊んだのは『ゼルダの伝説』でしたが、その後、名作と名高いゲームを次々とプレイして、そのほとんどは友人から借りたりあるいは書き換えで入手したものだったので、今手もとに残っていないのが残念です。

そんな、手もとに残っていない名作ゲームで記憶に色濃いものといえば任天堂のリリースしたアクションゲーム『メトロイド』なのではないかと思います。宇宙海賊に奪われた生物兵器メトロイドを奪還すべく、サムス・アランが敵地に乗り込み大暴れ、みたいなストーリーでしたっけ? まあ、そのへんはどうでもよいんですが、当時大容量を誇ったディスクシステムの利点をフル動員した広いマップを駆け抜け、丸まり、爆弾、バリア、ミサイル、アイスビーム、波動ビームといった装備を入手、パワーアップしながら最後の敵マザーブレインを目指すという、そののりは大好きでした。あれ? タイトルはメトロイドなのに、最後のボスはマザーブレインなんですね? なんてつっこみは当時からあって、けど途中に遭遇するメトロイドにまとわりつかれたときの恐怖はおそらくはボス以上。あんなに倒しにくい雑魚敵というのも珍しかったのではないかと思います。とはいえ、倒し方がわかればなんてこともないんだけど。

私がプレイした『メトロイド』は上記ファミコンディスクシステム用ゲーム、つまり第一作と、それからゲームボーイを買ったときに遊んだ『メトロイド 2』でして、子供時分にえらく苦労してクリアした記憶があったものだから、2はなんだかクリアしやすかったように思います。迷路もそれほど複雑じゃなかったし、そんなに技巧を求められるところもなかったような、という印象があるから、やっぱり遊ぶなら第一作だよななんて思う私はちょっと懐古が過ぎるかも知れません。

ファミコン時代の『メトロイド』には、クリアタイムによってエンディングのサムスの格好が変わるいうお遊び要素があって、厳密なクリア時間は忘れましたが、早い順にビキニ、レオタード、ヘルメットなし、通常、後ろ姿と五種類だったかな? 私は結局レオタードくらいまでいったと記憶しています。

スピードクリアするにはコツがあって、不必要なアイテムはとらない、最低限のアイテムだけを集め、一直線に中ボスを倒しにいって、ミサイルのストックを増やすだなんてまったく考えずに、メトロイド始末しながらミサイルためてマザーブレインをやっつける、といった具合の無駄を省きに省くプレイスタイルが要求されるのでした。ここで重要なのは、『メトロイド』といえば波動ビームというくらいに印象的なあの武器をとらないということで、つまりアイスビームが最強ってな話であります。アイスビームで凍らせて、爆弾で殺す。この繰り返しが最短クリアへの道だったんじゃないかな。

今、ゲームボーイアドバンスやNintendo DS用にリリースされた『メトロイド』の新作を遊ぶことができますが、ここで私が買うとすればファミコンミニの『メトロイド』、あるいは『プライムピンボール』なんじゃないかと思います。アドバンス用にリリースされた『メトロイド』はなんか簡単になってるようで、多分私はそういうの好まないと思いますし、『プライムハンターズ』はFPS(一人称視点シューティング)になってるそうだし、となればオリジナルかピンボールかなあ。って、そんな理由です。実は、ピンボール好きなんですよ。WindowsがMacintoshに圧倒的に優っている点は、デフォルトで3Dピンボールが遊べるという、そこだと思うような人間ですから、多分『プライムピンボール』は楽しめそう。Amazonのレビューに見える、初心者お断り的なニュアンス、実に面白そうだと思います。

あ、そういえば、漫画が出ていましたね。私は店頭でざっと眺めて、迷った末に買わなかったのですが、読んだら面白いのかな。でも、なんか抵抗があって素直に手を出せずにいるのでした。

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2007年2月10日土曜日

コナミワイワイワールド

今日もまたコナミです。実はですね、昨日『パロディウス』でもってちょいと書いてみたところ、無性にやりたくなってですね、引っ張り出してきて遊んでみたんです。そしたら、そしたらですよ、もうめちゃくちゃ下手になってるの。よもやこれほど! と思うくらいに駄目になっていて、まず、一面がクリアできません。その後少しプレイして、なんとか二面のボスまでいけるようになったのですが(もちろんコンティニュー併用だ!)、けどそのボスが抜けない。駄目だ! 駄目になった! でも、駄目になったのも当たり前というか、ギターを弾くようになってから極力手を疲れさせないためにアクション、シューティングの類いをあまりやらないようにしているのですが、その効果が覿面といったところです。さて、今日はこんな感じに懐かしいコナミを再確認してみたところで、さらに懐かしいタイトルに思いをはせるのでした。それはコナミキャラ大集合を謳ったゲーム、『コナミワイワイワールド』であります。懐かしいですね。わたし、このゲームを発売日に買ったのですよ。

なにしろ中学生の頃の話ですから、まず発売日に買うというのがよほどのことだったといえるでしょう。なんといっても、金持ってないわけですから、おいそれとゲームなんて買えないところを、あえて発売日に買っている。よほど以前から楽しみにして、計画的に動いたということがわかります。まあ、このゲームの発売日は1月14日ですから、お年玉を使ったということなのですけどね。

でもって、当時は成人の日が1月15日に固定されておりまして、翌日に散々遊ぶことができたわけです。そのせいか、私は翌日にはもうクリアしてしまって、これにはちょっと拍子抜けでした。けれど実際には結構凝ってたゲームで、アクションだけど成長(経験値制ではなくダメージ軽減アイテムを取得する等で)や仲間集めの要素があったりしてですね、このへんがちょっと難易度を下げていたかな? というのは、最初はコナミマン、コナミレディの二人しか操作できないのが、さらわれたコナミキャラを助けることで使えるキャラクターを増やし、しかもそのキャラクター、プレイ中随時変更可能でありますから、うまくすればノーミスでステージクリアも可能という塩梅です。当時のアクションらしく穴に落ちれば即死ですが、ダメージ制を採用しているからそれほど難易度も高くなく、またいろいろなキャラクターを使えるという面白みも手伝って、友人と遊ぶにはうってつけのゲームであったと覚えています。

このゲームはパスワード制のセーブシステムを備えておりまして、このためミスをしても一からやり直す必要がない=難易度をマイルドにしているともいえるのではないかと思います。で、このパスワードなんですが、実は私今でも忘れてなくて、マンミオイ ヒケニアオ ヘンテヘで全員揃ったラスト直前からはじめることが可能です。つまり、これくらい遊んだってことですよ。友人と遊ぶときなんかは、この最強状態からはじめて、各種ステージを回ってみてもいいし、ビッグバイパーとツインビーに搭乗してシューティングを軽くいなした後、ラストステージを攻めてもいい。そういう気楽に遊べるというのが嬉しいゲームでありました。

なお、余談ですが、パスワードを覚えているゲームはもうひとつありまして、それは『ドラゴンクエスト』です。とむてめす くでひまもふま やるじそよ ねぞひ。これで、最強装備Lvl. 23の勇者として復活できます。まあなんというか、無駄なことに記憶力を費やしていたということがわかる逸話だと思います。

2007年2月9日金曜日

パロディウス

    今、コナミといえばなにが目玉なんでしょう。『Quiz Magic Academy』? それとも『ときめきメモリアルONLINE』? 残念ながら私には今のコナミはちっともわからないのでありますが、けど昔はコナミには明確なイメージがあったように思います。『グラディウス』や『ツインビー』に代表される良質なシューティングゲームをリリースするメーカーといったら、そうそうといってくれる人も多いんじゃないかと思います。シリアスでハードなシューティングを志向するなら『グラディウス』のシリーズが、ポップでキュートなシューティングだったら『ツインビー』がお勧めといったところなのでしょうが、これ、どちらも結構難しかったんですよね。特に『グラディウス』はシリーズが新しくなるごとに難易度を増し、『グラディウス3』などは完全上級者仕様であったと聞いています。聞いていますというのは実はプレイしたことがないからで、というのは私はシューティングゲームの上級者ではないからなんですが、じゃあなにを遊んでいたのかというと、もっぱら『パロディウス』だったんじゃないかと思います。

『パロディウス』はその名前が示しているように、コナミによる『グラディウス』のセルフパロディ作で、横スクロールのシューティングゲームです。ちょっとポップ、ちょっと悪趣味のお祭り騒ぎ的な面白さのあるシューティングで、出てくる敵の馬鹿馬鹿しさも手伝って、見ているだけでも楽しくなってくる。そういうところが受けたのか長期にわたってリリースされる人気シリーズとなりました。

私がプレイした最初のパロディウスはPCエンジンでリリースされたもの(『パロディウスだ!』)で、最初はチチビンタリカさえ越えることができず、ずいぶん悔しい思いをしたものでしたが、その後なんとかここを抜けられるようになり、けどステージが進むごとにどんどん苛酷になっていくから、クリアできそうには到底思われないのでした。なので、助けてゲーム先生! ってな具合に、当時ゲームに詳しかったのにいろいろ教えてもらって、オプションを増やすたびに敵の攻撃が熾烈になるからふたつに制限とか、バリアは張らずにぎりぎりまで粘るとか、そういうのを実践した結果、ついにクリア。ああ、あの時は嬉しかったねえ。

このときの記憶は私の中にしっかりと刻まれたようでして、『パロディウス』はちょっと特別な感じのシューティングなのです。だから、遅まきながらPlayStationを購入したときに、これで遊べる『パロディウス』を持っておきたいものだと思って、そうして購入されたのが『実況おしゃべりパロディウス — フォーエバー・ウィズ・ミー』でした。これ、八奈見乗児と小原乃梨子による実況がプレイを盛り上げてくれるというのが売りでして、けどさあ、実際の話、落ち着いて聞いてる暇ってあんまりないんですよね。だから、やられてしまったときとか、そういうときの台詞ばっかりが記憶に残ってる。けど、こちらがなにかアクション起こしたときにタイミング良く実況が入ってくるから妙に笑えて、けど実況をはじめとするちょっと調子のり気味の受け狙いの連発に笑ってるとあっさりやられるという、ちょい難し目仕様がいい感じであります。まあ、この辺はオプションでなんとでもなるんで、簡単にしてもいいし、激むずにしてもいいんですけどね。

『パロディウス』の嬉しいのは、自機の種類が豊富であるところであるでしょう。『実況パロディウス』だと十六種類。それぞれにパワーアップの種類が違っているから、好みのキャラクターを選ぶだけでも楽しいのです。私は基本ビッグバイパーもしくはロードブリティッシュであるのですが、けど一番好きなのはペン太郎なのです。POTONミサイルとS. GUNの威力はなかなかに凄まじいものがありますよ。分身揃えてS. GUN撃ちまくったら、もう前面の敵は一網打尽ですわな。やっぱ、ゲームは破壊力だよなあ。なんて思ってしまう。もう、爽快感が全然違っているのです。

基本ビッグバイパーなら、パワーアップのしやすさからスゥを選ぶという手もあるのかも知れませんが、けど、なんでか妖精は使いにくく感じるんですよね。どうも、パワーアップゲージの位置を感覚で覚えてしまっているために、パターンが変わるととっさに間違えてしまう。そんな感じで、やっぱり私はオーソドックスにビッグバイパー使うか、破壊の魅力にとりつかれてペン太郎使うか、どちらかなのであります。

PSP

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QMA探して途中下車

QMA探して夜の街をうろついて、今日は途中下車。特急停車駅。そこは大都市とはいえないけれど、そこそこ繁華な街であるからゲームセンターも何店舗もあったはずで、私はそこに期待をかけたのでした。

見つけられなかったよ……。あれー、確か以前はこの辺にあったんだけどなあ。駅近辺をぐるりと回ってみるのだけれど、それっぽい店舗は見つからず、電飾にひかれて寄っていけばパチンコ屋が相場。あれえ、おかしいなあ。確かにこの辺にあるんだけど。

ぐるぐる回って、駅に戻ってきたらばそこにコナミのロゴを発見! おおっ、と思ったところがこれがコナミスポーツクラブ。すまん、スポーツとかフィットネスには興味ないねん。

Amusement arcade

かつてゲームセンターだったところは見つけたのですが、現在稼働中の店舗には行き当たりませんでした。けど、確かにこの辺にあるはずなんですが。駅前三分のところにあるはずなんですが。

2007年2月8日木曜日

烏丸学園ガンスモーキーズ

  駅前の書店、漫画の棚にたもりただぢという名前を発見して、お、これは私には無視できない名前ではありませんか。こいつは買っておかないといけないなという気になって、最初に見つけたのがSide B。B面っていうことは、つまりは2巻ものってことかと諒解。こりゃSide Aを探さないといけないなあと思って再び棚を見たらば、一冊とんでSide Aがあったのでした。ありがたい。かくして購入と相成ったわけですが、そのたもりただぢって人、いったいどういう人なのか? 私がこの人の名前に反応した理由というのは……。

ずいぶん昔のことなんですが、インターネット上で妙に気になる画像を発見したことがありまして、それはPCゲームのイベントグラフィックと思しいものだったのですが、それがなんだかものすごく気になったのですよ。絵が好みだったんでしょうね。赤毛の女の子が妙に印象的で、私の好みではないはずのキャラクターだというのに、心を捉えて離さなかった — 。

でも、私には手がかりがまったくなくて、なにしろ絵だけですからね、検索するにもキーワードがなく、もうまったく手がないという状況で、一体私はどういう手段を使ったというのか、そのゲームのタイトルにたどり着くことができたのです! あーっ、思い出した。雑誌だよ、雑誌。知人にもらった古雑誌見てたらソフト紹介ページがあって、ページの半分だか四半分だかのスペースの記事、画像を見て、これだーっ、って気付いたんでした。ここまで書けばもう充分かと思いますが、そのゲームの原画を担当していたのがたもりただぢ氏。そう、あの日、あの瞬間にたもりただぢという名前は私にとっての特別になったのです。

いや、これ決して大げさな話でなくて、本当で、結局このゲームが私のはじめて買ったPCゲームになって、しかも手もとにWindows機を用意したのもこのゲームやりたさのためだったんですから、本当に馬鹿にできないインパクトがあったんですよ。

『烏丸学園ガンスモーキーズ』、まったくなんの予備知識もなしに読みはじめて、いやはや驚きました。学園ものでアクションという、よくあるといえばよくある設定で、伝統校の秩序を守るべく強権を振るう生徒会に対し果敢に戦いを挑む少年が主人公。おじさんはちょっと『コータローまかりとおる』を思い出してしまいました。

けど、よくあるといえばよくある設定を駆使して、独特の感じを作ってるというのはいいなと思いました。バトルものをベースに、ロミオとジュリエット的要素が加えられていたり、そうかと思えば至極真っ当なメッセージが高らかに謳い上げられたり、そして独特の世界観、ルール。学生が自分の主張をとおさんとして戦うというその構図に私は『奏(騒)楽都市OSAKA』をちょっと思い出して、けどそうしたいろいろに似ていると感じさせながらも、そのどれとも違っているという、不思議な位置に独自の味わいを持つ漫画であると思います。

他の漫画やノベルとの類似性が感じられるのは、この漫画が採用している設定やなにかというのが、オーソドックスや王道といわれるようなものであるからかと思います。先にいいました、強権的な生徒会や敵味方に分かれて戦うヒーローとヒロインという構図、そしてバトルものといういわばはやりのギミック。こうした要素がこれでもかこれでもかと畳みかけるように押し寄せてくる、その押し寄せようが半端ではなく、あれよあれよという間に話が進んでいくのですが、この力技とも思える見せ方、けれどこれは案外うまいやり方かもなあと思ったのでした。

疑問に対し突っ込んでいる暇がないのですよ。戦いに競技用なぎなたはともかく弓矢はまずいだろうとか、真剣はいくらなんでも言語道断だろうとか(まあでも様式美といえば様式美です)、ゴーグルしてない相手に銃向けちゃ駄目だろとか、そもそもなんで飛び道具のアドバンテージを自ら殺すような近接戦をやるの? とか、いろいろ思うところが出てきたとしても、突っ込む暇がないから気にならない。落ち着いた頃にはもうそうした突っ込みポイントはみんな過去に押しやられてますから、なんとなく丸め込まれた気になってまして、こういう強引さが受け入れられる人なら楽しく読める漫画なんじゃないかと思います。私には、結構面白かった。そうですね、『奏(騒)楽都市OSAKA』に似てるっていうのは、きっとこの強引さなんだと思います。多少のことは力技と疾走でクリアしていくっていうその感じ、まさかたもりただぢの漫画で感じられるとは思いも寄りませんでした。

どうでもいいこと

A面帯には眼鏡+学園ラブコメ+パンチラ・ガンアクションと書かれてましたが、パンチラが売りになるほどのパンチラはなかったと思います。けど眼鏡は本当。主要人物のうち眼鏡着用者は実に過半を越えていると思われます。つうか、実際越えている。

どうでもいいこと2

制服の生地がとにかく厚くて重そうなのがよかった。あと、踏み込み時にスカートの裾が少し折り返る表現、これ結構お気に入りです。裏地が白く見えたりとか、ほんとならあり得ないんですが、けどこれがなんかちょっとかっこいい。

引用

現金書留を受け取る

今日、生まれてはじめての現金書留を受け取りました。

生まれて初めてというのもなんかすごいような気もするのですが、私の経験した個人間での送金手法というと、銀行振込や郵便振替、定額小為替、切手、nifty送金代行システム、iREGi、Yahoo!かんたん決済と、こうして列挙してみると結構いろいろやってるんだなあという気もするのですが、しかしもっとも基本的な手段である現金の書留便がないというのは意外なものであります。

現金封筒は二重に閉じられ、しかも割り印が付されているという厳重さで、さすが現金書留という風格。ペーパーナイフで外封を開け、いざ内封をと思ったらどうにも取っ掛かりがなく、はさみを入れると現金とそして信書が出てきました。

私は最初、現金書留なんて手間がかかって大変だのにと思ったのですが、こうして受け取ってみて、なんだかあえて現金書留という手段が選択された理由がわかったような気がしたのでした。もしかしたら違うのかも知れないけれど、こうした手間のかかる手を用いることで礼を尽くしてくださったのかも、そんな風に思って、ああ私はというと送り状も添え状もなしに現物そのまま送っちゃったよ! 私の使った手段は冊子小包だったのですが、冊子小包では信書を送ることができないという頭があって、けど今調べてみたら添え状・送り状は同封できるらしいじゃありませんか!

おおおお、非常にぶしつけでありました。ちょっと反省した。

引用

QMAデビュー……?

つい先日、IVが稼働しはじめたというQuiz Magic Academy友人の書くプレイ記録があんまりに面白そうなものだから、ここは一丁参戦してみようかと思いましてね、大阪梅田はロフト前のゲームセンターにいってきたのですよ、今日。そしたらどうだったか!

人が一杯でした……。

人気あるんですね。ちょっと順番待ちしようという気にはなれませんでした……。

デビューはまだまだ先になりそうです、というかその日は果たしてくるんでしょうか?

2007年2月7日水曜日

ひがわり娘

 ストーリーやるでなく、恋愛に走るでもなく、がっつりとネタで勝負する小坂俊史の代表作っちゃあ代表作、『ひがわり娘』の最終巻は本日発売です。てなもんで買いましたよ。いやあ、あとがきによれば七年半続いたそうでして、改めて振り返ってみれば長い連載だったんですね。けど、毎回毎回をすごく新鮮な気持ちで楽しみに読むことができたものですから、正直こんなに長い連載だなんて今日の今日まで思いもしていませんでした。けれど思い起こせば、私が前の職場にいた頃に、すでにこの漫画は中堅の位置を占めていたのですから、やっぱりそれだけの時間が過ぎ去っていたんだなあ。そう考えると、なんだか感慨深いものがあります。

さて、『ひがわり娘』っていうのがどういう漫画であるかといいますと、ジャンルとしてはナンセンスコメディ、あるいはシチュエーションコメディといってもいいのかな。登場人物は希代のへっぽこヒロイン笹木まみに、飯田ナツコと中尾みちえがサブを固めるというトリオスタイル。以上。これだけわかっていれば、充分楽しく読むことができる漫画です。

この漫画の面白いところは、登場人物が固定されているだけで、舞台設定をはじめとするシチュエーションが毎回がらっと変えられるところにあります。笹木さんは基本的にフリーターで、だから毎回仕事が違ってる。けど笹木さんの変化はそれだけにとどまらなくて、あるときはコメディアンだったり歌手だったり、またあるときはスポーツマンだったり新聞記者だったり、職業の違いにとどまらず幼稚園児だなんてこともあったりして、笹木飯田中尾の三人組の関係も、毎回毎回ちょっとずつ違いがあったりするものだから、もう開けてみるまでその面白さがわからない。『ひがわり娘』はこんな感じにスリリングな構造を持った漫画でありますが、けれど読んでみるとすごく馬鹿馬鹿しくナンセンスで、笹木まみのこのうえもないろくでなしっぷりが実によく脱力させてくれてるという塩梅。とにかく読んでみればわかります。面白いんです、めちゃくちゃ面白いんですから。

でも、実をいうと私は笹木まみ的生き方に憧れているようなところがあるような気もします。笹木まみ的とは、打たれ強さでありしぶとさであり、明日は明日の風が吹くさと、なにがあろうとからからと笑って暮らしていくような無頼の生き方なんじゃないだろうかとそんな感じがして、だって転がる石には苔は生えないというじゃないですか。重なっていくキャリアやなにかは確かにないかも知れないけれど、積み重なって重く重くなっていく年月の垢やしがらみなんかからは自由であると思えるものだから、なんかそういう生き方だってあっていいよね。むしろこういう生き方を選択できない時代、こういう生き方が不幸に直結していると思えるような社会っていうのが不健康なんだって、そんな風に思うのです。

そんなわけで、私は笹木まみ的生き方を応援したいと思っております。かっこいいよ、笹木さん! 本当にそう思うのであります。

  • 小坂俊史『ひがわり娘』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2001年。
  • 小坂俊史『ひがわり娘』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2002年。
  • 小坂俊史『ひがわり娘』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 小坂俊史『ひがわり娘』第4巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 小坂俊史『ひがわり娘』第5巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。

2007年2月6日火曜日

CYNTHIA_THE_MISSION

    私のお気に入りの書店では第1巻の第1話だけを読めるようにしてまして、つまり気に入ったら買ってねということなのですが、そこでずいぶん前に『CYNTHIA_THE_MISSION』の第1話を読んだのです。見た目ちびっ子の女高生シンシアが主人公。実は彼女は幼少から暗殺者としての訓練を受けたキラーエリートだったのです、という設定なのですが、まあ結構面白いかなあと思ったもののその時は購入を見送ったのでした。見送るのにたいした理由はなく、そういう気分じゃなかったからというのがもっとも適切な説明なのではないかと思います。で、今年の頭、第4巻が出版されまして、いろいろな書店に既刊揃えて平積みで展開されているのを見ましてね、ああ、あの時の漫画だ、人気あるんだなあ。で、一体あの後話はどう展開したんだろうと興味が出てきまして、既刊一揃えで購入に踏み切ったのでした。これにたいした理由はなく、まあそういう気分だったからといえば充分なんじゃないかと思います。

で、読んでみての感想。後味がとにかく悪いね……。特に3巻から4巻にかけてのあたり。なんていうの、拷問っていうか、そういうのはちょっといただけなかったですよ。そもそも私がしくじったと思ったのは第1巻の時点でして、この漫画タイトルが『CYNTHIA_THE_MISSION』でありますから、当然シンシアがヒロインだと思っていたのですが、物語の流れにおいて、シンシアってあんまり重要じゃないんじゃないかなって気がしてきます。いや、シンシアがいなければ成立しない動きは確かにあるんだけど、しかしそれにしてもシンシアの影が薄い。むしろ高野果苗(弑・四方犠しい・よもぎ)の方がメイン位置に立ってるんじゃないのという存在感で、でこの人と久我阿頼耶くがあらやが双璧って感じ。この二人、どんなキャラクターかといいますと、高野果苗が多重人格の暗殺者、久我阿頼耶はボクサーとやり合えるだけの技術を持った天才的ストリートファイター。

以前、ちょっと年齢上の人と話してたときなんですが、ある程度年を取ってくると、ライトノベルが読めなくなってくるという話をしたんです。これはたまたまライトノベルについて話してたからノベルを例に出しているだけで、ゲームでも一緒、同じくらいの層を対象にした漫画でも、もちろんアニメでも一緒。なんというのか、そのストーリーや演出が持っているテンポであるとか、スピード感であるとか、けれん味であるとか、そういうのに乗り切れなくなる瞬間っていうのがあるという話です。この瞬間を迎えてしまうともう最悪で、それまでちっとも問題と思わなかった粗が目に付いて仕方なくなり、こうなると乗れるとかどうとかいうレベルではなく、その世界を受け入れられなくなってくるのです。積極的に身を遠ざけようとまではいわなくとも、なんかすごくよそ事になってしまったと感じられて、ふーん、勝手にやったら、みたいなそんなくらいの冷淡にまで落ち込むことさえあります。

『CYNTHIA_THE_MISSION』はそこまでじゃありませんでしたが、けれどもう十歳、せめて五歳若ければ、もっと乗れたのかも知れないなあなんていう感じがしまして、自分があわないと思ったのは、最初にいいましたが必要以上に残虐と感じられる場面や展開、そして暗殺稼業を生業とする一族の末裔であるシンシアをしのぐ強さを持つ日本人女学生の存在、あと加えるならば、その彼女らが放つ必殺技(?)や通り名等々。けれん味たっぷりなのはこの手のエンターテイメントならむしろサービスでありますが、でも私はそのサービスを心地よいと感じられるだけの若さを失ってしまったのだなと痛感した次第です。

でも、私、『CYNTHIA_THE_MISSION』は買い続けるよ。意地とかじゃなくてさ、やっぱり展開は気になるじゃんか。4巻ラストでは団体戦が予告されたから、果たしてその戦いがどんな風に運ぶのかとか、見ないわけにはいかんよなって気分です。いうならば乗りかかった船、途中で降りる気にはちょっとなれません。一番最初の第1話の、結構いいかもと思ったあの感じが戻ってくる可能性はいまだ消えていないという感触があるから、私は、よほどのことがないかぎり、最終話までつきあうだろうと思います。

  • 高遠るい『CYNTHIA_THE_MISSION』第1巻 (ZERO-SUM COMICS) 東京:一賽舎,2005。
  • 高遠るい『CYNTHIA_THE_MISSION』第2巻 (ZERO-SUM COMICS) 東京:一迅社,2005。
  • 高遠るい『CYNTHIA_THE_MISSION』第3巻 (REX COMICS) 東京:一迅社,2006。
  • 高遠るい『CYNTHIA_THE_MISSION』第4巻 (REX COMICS) 東京:一迅社,2007。
  • 以下続刊

2007年2月5日月曜日

J. S. Bach : Inventions and Sinfonias, BWV 772-801 played by Glenn Gould

 グレン・グールドというピアニストはとにかく変わった人であったそうで、コンサートは死んだといって演奏会活動を一切やめちまったというのもそうなら、レコーディングに際し継ぎはぎ等の編集を駆使することのメリットを公言するなど、まあとにかくいろいろ逸話のある人であります。そんなグールドの音楽への取り組みっぷりもまた変わったものがありまして、それこそあげていけばきりがないんですが、なにかあげろといわれたら、私はやっぱり『インヴェンションとシンフォニア』に関するものを選ぶかなあ。ってのはですね、このアルバムはいわく付きなんです。この人お定まりのうなり声にとどまらないきわめつけの瑕疵がある。いや、瑕疵というのはちょっと違うか。でも、人によっては我慢のならない欠陥と感じられるのではないかと思います。

『インヴェンションとシンフォニア』における瑕疵というのはなにかといいますと、ピアノがおかしいんです。アクションががたがたで、音の出も均一でなければ、変な二度打ちみたいなのも散見されて、到底まともな調整のされてるピアノが使われているとは思えないありさま。これ、よっぽど注意深くないと気付かないとかそういうレベルじゃなくてですね、ずいぶん前のことですが、コンピュータに入れっぱなしにしていたグールドの『インヴェンション』をたまたま聴くことになった姉がですよ、なんだあのへたくそな演奏はと文句をいってきた。それくらいにがたがたなんです。まずもって、普通にピアノに取り組んできた人間からすれば我慢のならないレベルなのではないかと思います。

でも、グールドはこれが気に入ってるんだそうですよ。なんでそんなことがわかるかといいますと、このレコードが出たときに「ピアノについて一言」という小文がライナーノートに付されていたからで、まあなんでこんな文章を書かないといけなかったかというのもいわく付きなのですが、ピアノメーカーが依頼したのだといいます。だって、どう聴いてもがたがたのピアノです。スタインウェイでなくとも難色を示すというもので、どうかリリースは断念して欲しい、どうしても出すというならせめて断り書きを云々。つまり、この文章は、ピアノががたがたなのはスタインウェイのピアノのせいじゃなくて、好き勝手に調整したグールドが悪いのですよという、責任の所在を明らかにするために書かれたのです。

曰く、こんな感じ:

バッハにとってかくべからざる響きであるノン・レガートの響きである直接的で明瞭な響きを得るために手術がおこなわれたのたが、その後作用として比較的ゆるやかなテンポのパッセージでの中音域においてわずかの神経質なけいれんがしゃっくりのようにきこえる現象が現れてしまった。だがその後作用はこのピアノに寄せる熱意の前ではさほど重要でない。むしろクラヴィコードがそなえているヴィブラートみたいなもんだ。

みたいなことを書いてます。まあ、本当にこのリバウンドについて問題なしと判断していたかというとちょいと疑問ではあるのですが(同じ文章ではっきり短所と明言してますから)、けど結局録音してリリースしてしまってるわけですから、そりゃスタインウェイも困ったでしょう。実際問題として、がたがたのアクションに鼻歌うなり声がまじって、なんともいえぬ珍盤奇盤となっています。

でも、同時に名盤でもあるという、非常に困ったアルバムでもあるのです。私はこの演奏を聴けばそのつど、ピアノのがたがたっぷりに苦笑してしまうのですが、けれどそれと同時にがたがたのはずの発音の向こうにある確かな音楽も聴き取ってしまうのです。音楽はいうまでもなく音と音の織りなすコンポジションでありますが、しかしそれは単純に音に還元されるものではない現象です。すべての音楽家そして聴取者にとって、美しい音、素晴らしい響きというのは悲願であるでしょうが、けれどこのアルバムを前にすれば、音楽はただの美しい音ではないということがわかる。例え発音において無視できない傷が見受けられるとしても、それを越えて圧倒的な音楽の世界があればそうした問題はたやすく克服されるのだということを思い知らされます。こうした特質を持つグールドの『インヴェンションとシンフォニア』、これはまさしく大変にまれな作品であると思います。

SACD

引用

  • グレン・グールド「ピアノについて一言」黒田恭一訳,『グレン・グールド大研究』〈大研究〉シリーズ2(東京:春秋社,1991年)所収【,135-137頁】。

2007年2月4日日曜日

図書室のお兄さん

 今、BLというのは書店においては避けることのできないジャンルであるらしく、ちょっと漫画に力を入れているような書店となると、がっつりとコーナーが設けられていたりしまして、つまりはそれだけ人気なのだと思います。こういう状況を見て私の古い知り合いは、男性向けなら弾圧されるが女性向けは一般書店の棚にも我が物顔、このダブルスタンダードには我慢ならないなんていっていたのですが、それはつまり女性向けばっかり優遇されてずるい、ってことをいいたいのだと思います。けど、女性向け男性向けという、性差における区分というのももうなんだかずいぶん古くさいわけかたであるわけで、だから私は文句いう前に積極的にかかわりたいと思っています。書店に入れば、一通り女性向けといわれる棚も物色して、あ、これよさそうと思わせるものがあればたまには購入して、『図書室のお兄さん』もそのようにして手にした一冊でした。

でも、ちょっと勘違いしていたみたい。というのもですね、私はこの本をコアでハードな性描写に溢れた漫画であろうと思っていたのですが、いざ読んでみればそうじゃないのですよ。この本に収録されたのは純愛の光るものばかりで、表題作こそは性描写にも大きくページが割かれており、またギャグっぽい落ちも楽しいのですが、けれどそうした表現を繋ぐのは純愛であると思います。美しいと感じた人、そしてついには愛するにいたった人への憧れ、尊敬、慈しみ、そういったまっすぐな思いが悪ぶっているお兄さんの心を射止めてしまうというところがなんかほほ笑ましくて、いい話だなあ、まさしくハッピーエンドだよって思ってしまうのです。

先ほどもいいましたが、この本に収録されているものは純愛ものです。それでもって、ボーイズというよりメンズ。そんななか、シチュエーションとして一番萌えたのはメンズ中のメンズというかむしろおっさんが主人公の「Little by Littele」でした。表紙めくったところのカラー口絵がこの「Little by Littele」だったのですが、私、この絵を見たときに、ああしくじったと思ったんです。ちょっと無精髭でちょっとごつい金髪のおっさんが笑っていて、でもこれが、読んでみたらいいんだ。ちょっとしょぼくれたばついちのおっさんが、なんというか、すっごくかわいく感じられるんだからもうどうしようもない。私、この本で少し人間としての幅が広がったような気がします。

そして、一番好きな話が「ホワットエヴァー」。女性型メイドロボットを注文したつもりが、やってきたのは男性型だったという、『グリーンゲイブルスのアン』のちょうど逆バージョンといったような話で、けれどこの話というのが恐ろしく感動的であるからBLというジャンルは侮れないのです。これは一言でいえば、愛を探すアンドロイドの話なんだと思う。アンドロイドというにはあまりにも人間的すぎるサリー。彼がマスターであるミッキーに、機械や道具としてではなく、人格を有するものとして遇されたことで育まれた感情。彼はこの感情をかたちとして返したいと思って失敗し、そして少しこっけいでけれどすごく美しいラストへ。ああ、この話に出会えて私はよかったなと、そんな風に思った。これは、直接的に愛を描かず、しかし充分に愛というものを表現している、そんなとっておきの素敵な漫画であると思います。

2007年2月3日土曜日

ぴたポン!

今日は、関西在住者、特に大阪に住んでいるという人以外にはあんまし関係のない内容です。なんでか? いやあ、だって大阪でしか買えないものでありますから。それに、おそらくは大阪に暮らす人以外にはこのキャラクター知られていないと思われまして、はて、じゃあそれは一体なにかといいますとぴたポン!です。ぴたポン!大阪市交通局OSAKA PiTaPaをアピールすべく打ち出してきたキャラクター、それがぴたポン!。カードを自動改札にぴたっと当てるとポンっと開くからぴたポン? ともあれ、ICカードの利用者を増やすべくぴたポン!は大阪市営地下鉄のあちこちに出没中で、その愛らしい子狸キャラクターにやられた人が急増中。ああ、もうかわいい、なんかグッズ作ってくれという要望の声があまりに多かったのか、少しずつグッズ化が進められてきて、この二月にはなんとぬいぐるみも発売。やったぁー。

てなわけで、私、買いましたよ。ぴたポン!キーホルダーにはじまり、ぴったんこメモ、マウスパッド、そしてもちろんぬいぐるみも! ぬいぐるみは心持ちぺったんこで全体に扁平顔ではあるんですが、けどいい線いってると思いますよ。しかし、私ぬいぐるみもキーホルダーも使わないし、マウスパッドだってもうそういうのが必要とされる時代は終わったと思ってるし、じゃあメモくらいかな実用的なの、って私は裏紙愛用者だからそもそもこういうのは使わないでなあ。じゃあなんで買ったのかというと、欲しかったからだとしかいいようがなく、つまりそれだけぴたポン!というキャラクターが好きだということなんだと思います。

思えば、今まで電車乗ろうとしてぴたポン!見かけるその度に写真撮ったりしてきたわけで、ぴたポン!の使われてるPiTaPaパンフレットとか見ると即座に確保してきたわけで、こんな私ですから、そりゃもうもちろんグッズが出たら買うわけですよ。知人やなんかには、あのキャラクターはいける、グッズが出たらきっと買うと公言していて、私は常に有言実行でありたいと思っているから買った。それだけの話であるのです。だって、ぴたポン!かわいいじゃないか。どれだけかわいいか、ぴたポンのなんでもチェック!を見てくださいよ。って、あれ? あんまり画像がないなあ。ううむ、残念。というわけで、やっぱりこれは在大阪の人にしか共感を得られない記事じゃないかと思うのです。

そんなわけで、ちょいと写真をば。

Raccoon dog

Raccoon dog

ついでに買ったものも。

Key chain, mouse pad, memo pad

Stuffed raccoon dog named Pitapon

ああ、もう、かわいいなあ。2月3日時点でぬいぐるみは売り切れだそうですが、大阪市交通局はもっと増産するべきだと思います。あと、できたら絵本とかそういうのを出してくれたら嬉しいな。とにかく、現在赤字で困窮している大阪市ですから、このぴたポン!でもってがっつり稼いで、赤字解消の足しにしていただければと思います。

あ、そうそう、ぴたポン!のデザインはアランジアロンゾだそうですよ。

2007年2月2日金曜日

ひだまりスケッチ

  『ひだまりスケッチ』がはじまったころ、普通に面白く読んで、普通に楽しみにしていた、そういう感じの、強烈な印象であるとか読者に次号を待ちわびさせる飢餓感みたいなのとは無縁の漫画であったのですが、それがあれよあれよと人気が出て、巻頭カラー、表紙、そしてついにはアニメ化。驚きました。おそらくは芳文社初のアニメ化された漫画で、そのためか芳文社はちょっと浮き足立っている模様。というのはアンソロジーが出たり、ファンブックが出たりと、正直なんかちょっと危ういなあなんて風にも思うのですが、けどできれば成功して欲しいものだと思います。なんでもかんでもアニメ化される風潮がいいとは決して思わないけど、けれど真摯な取り組みによって生み出されたよい漫画に日の目が当たるというのは、やっぱり悪い気がしません。私はアニメ見なくなって久しいから、一体どういうできであるかとか知らないのですが、けどこうした盛り上がりがあるのは四コマにとって悪いことではないと思っています。

さてだ、私は『ひだまりスケッチ』についてはすっかりもう書いたもんだと思っていて、けど調べてみたら書いていなくて驚いた。あれー、なんでだろう。でも、この漫画について書こうとしなかったのはわかるような気がします。私はどちらかというと頭優先で分析的に漫画を読んでいるようにとられがちなのですが、それはおそらくは思ったところを文字にする過程でそういう部分だけがこしとられて残るからだと思うのです。つまり、情緒的な部分、感覚感性的な部分は文字にならずに流れ去ってしまっている。そして『ひだまりスケッチ』という漫画においては、その私が常に流してしまっている部分が重要だと感じているものだから、きっと文章にはなりにくかろうという判断がなされたのかも知れません。

でも、本当はそうではないと思うのです。書こうと思えば書けるはず、けれど書かずに距離を置いているのは、その感覚的に受け取っているものが文字に変わることで固定されるのを嫌っているからなのだと思います。そう、『ひだまりスケッチ』という漫画は、繰り返されるギャグや宮子に代表される常識外れ系キャラクターの不思議な言動行動を軸に話を進めながらも、常に力点は彼女ら登場人物の関係のうちにあると思うのです。それは非常に近しく親しげで、穏やかで温かで、そうしたところがおそらくは受けたのであろうと思っているのですが、この不定形であるがためにいとおしいと思えるような関係性は言葉にされることでひとつのかたちを持ってしまう。そのかたちをなさしめることに抵抗があったのだろうと感じています。

『ひだまりスケッチ』の舞台は美術学校であるのですが、同じく美術科を扱った『GA』とは趣を違えて、『GA』が美術の専門領域の層にフォーカスするものであるとすれば、『ひだまり』は学園あるいは寮生活を通して営まれる人間関係にフォーカスしていると感じられます。けれど、それはこの両者がまったく乖離するかのようなあり方をしているわけでなく、『GA』に専門性を離れた学校生活の一コマが光ることもあれば、『ひだまり』に芸術に取り組まんとする学生の意地プライドが見えることもあり、すなわちこれらは異なる視点から美学生の青春を見つめているということなのでしょう。美術という題材をモチーフにしながらこのように味わいの異なる漫画がひとつの雑誌に共存しているというのがすごく面白い巡り合わせと感じられ、またどちらがよい悪いといえない両者ともの質の高さ。今、四コマ漫画は確かに豊かなジャンルになったのかも知れないと、そんな風に思います。

蛇足を忘れていた

沙英さんですね。クール系だけどクール一辺倒じゃないのがいいじゃないですか。

  • 蒼樹うめ『ひだまりスケッチ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 蒼樹うめ『ひだまりスケッチ』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 蒼樹うめ『ひだまりスケッチ』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊
  • ひだまりスケッチアンソロジーコミック』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 蒼樹うめ『ひだまりスケッチブック — ビジュアルファンブック』(まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。

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