2007年2月5日月曜日

J. S. Bach : Inventions and Sinfonias, BWV 772-801 played by Glenn Gould

 グレン・グールドというピアニストはとにかく変わった人であったそうで、コンサートは死んだといって演奏会活動を一切やめちまったというのもそうなら、レコーディングに際し継ぎはぎ等の編集を駆使することのメリットを公言するなど、まあとにかくいろいろ逸話のある人であります。そんなグールドの音楽への取り組みっぷりもまた変わったものがありまして、それこそあげていけばきりがないんですが、なにかあげろといわれたら、私はやっぱり『インヴェンションとシンフォニア』に関するものを選ぶかなあ。ってのはですね、このアルバムはいわく付きなんです。この人お定まりのうなり声にとどまらないきわめつけの瑕疵がある。いや、瑕疵というのはちょっと違うか。でも、人によっては我慢のならない欠陥と感じられるのではないかと思います。

『インヴェンションとシンフォニア』における瑕疵というのはなにかといいますと、ピアノがおかしいんです。アクションががたがたで、音の出も均一でなければ、変な二度打ちみたいなのも散見されて、到底まともな調整のされてるピアノが使われているとは思えないありさま。これ、よっぽど注意深くないと気付かないとかそういうレベルじゃなくてですね、ずいぶん前のことですが、コンピュータに入れっぱなしにしていたグールドの『インヴェンション』をたまたま聴くことになった姉がですよ、なんだあのへたくそな演奏はと文句をいってきた。それくらいにがたがたなんです。まずもって、普通にピアノに取り組んできた人間からすれば我慢のならないレベルなのではないかと思います。

でも、グールドはこれが気に入ってるんだそうですよ。なんでそんなことがわかるかといいますと、このレコードが出たときに「ピアノについて一言」という小文がライナーノートに付されていたからで、まあなんでこんな文章を書かないといけなかったかというのもいわく付きなのですが、ピアノメーカーが依頼したのだといいます。だって、どう聴いてもがたがたのピアノです。スタインウェイでなくとも難色を示すというもので、どうかリリースは断念して欲しい、どうしても出すというならせめて断り書きを云々。つまり、この文章は、ピアノががたがたなのはスタインウェイのピアノのせいじゃなくて、好き勝手に調整したグールドが悪いのですよという、責任の所在を明らかにするために書かれたのです。

曰く、こんな感じ:

バッハにとってかくべからざる響きであるノン・レガートの響きである直接的で明瞭な響きを得るために手術がおこなわれたのたが、その後作用として比較的ゆるやかなテンポのパッセージでの中音域においてわずかの神経質なけいれんがしゃっくりのようにきこえる現象が現れてしまった。だがその後作用はこのピアノに寄せる熱意の前ではさほど重要でない。むしろクラヴィコードがそなえているヴィブラートみたいなもんだ。

みたいなことを書いてます。まあ、本当にこのリバウンドについて問題なしと判断していたかというとちょいと疑問ではあるのですが(同じ文章ではっきり短所と明言してますから)、けど結局録音してリリースしてしまってるわけですから、そりゃスタインウェイも困ったでしょう。実際問題として、がたがたのアクションに鼻歌うなり声がまじって、なんともいえぬ珍盤奇盤となっています。

でも、同時に名盤でもあるという、非常に困ったアルバムでもあるのです。私はこの演奏を聴けばそのつど、ピアノのがたがたっぷりに苦笑してしまうのですが、けれどそれと同時にがたがたのはずの発音の向こうにある確かな音楽も聴き取ってしまうのです。音楽はいうまでもなく音と音の織りなすコンポジションでありますが、しかしそれは単純に音に還元されるものではない現象です。すべての音楽家そして聴取者にとって、美しい音、素晴らしい響きというのは悲願であるでしょうが、けれどこのアルバムを前にすれば、音楽はただの美しい音ではないということがわかる。例え発音において無視できない傷が見受けられるとしても、それを越えて圧倒的な音楽の世界があればそうした問題はたやすく克服されるのだということを思い知らされます。こうした特質を持つグールドの『インヴェンションとシンフォニア』、これはまさしく大変にまれな作品であると思います。

SACD

引用

  • グレン・グールド「ピアノについて一言」黒田恭一訳,『グレン・グールド大研究』〈大研究〉シリーズ2(東京:春秋社,1991年)所収【,135-137頁】。

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