2007年6月30日土曜日

五日性滅亡シンドローム

 実のところ申しますと、最初この漫画買うつもりはなかったのです。『五日性滅亡シンドローム』。後五日で世界が滅びるという、そういう常軌を逸したシチュエーション。けれどその滅亡というのがどうにも現実味がなくてですね、実際漫画中でもあやふやな噂レベルのものとして描写されているんですが、だったらなんでそんな程度の噂であれだけ右往左往する……? とにかくなんかつかみどころのない、正直なところいいますと、微妙よね。単行本出るとは思ってなかった。出てもきっぱり買う気はなかった。というのになんで買ってしまったのかというと、それはギミックといっていいのかな、漫画自体がというよりも、漫画を取り巻くもろもろも含めて、なんかおさえておいてもいいかなあと思うようなところがあって、半ば衝動的にレジに運んでしまったのでした。

一体なにが私に働き掛けたのかといいますと、口絵だったんですね。まんがタイムKRコミックスでは、冒頭にカラーページが書き下ろされるのが通例となっているのですが、『五日性滅亡シンドローム』はここに漫画をでなく、イラストレーションをおいたのですよ。イラストレーションには状況そして台詞が添えられていて、作者も後書きにていっているのですが、ライトノベルっぽい感じですよね。で、なんでこれで買うつもりになったのかというと、不思議ですよね、なんというかそういうライトノベル的世界観ってのに興味持ったというか、あるいは — 。

小松左京の『日本沈没』の映画リメイクされました。残念ながら私はどちらの映画も見たことはないのですが、以前、ちょっと興味深いレビューを読みまして、それはどんなかといいますと、旧作においては日本国民をいかにして救うことができるかという社会規模での視点があった、そのように主人公は動いていたのに、新作はというとヒロインしか眼中になかったというのですね。日本の国土が失われるという事態に直面して、そうなると日本という国は壊滅だろう、するとそこに住んで暮らしていた私たちはどうなる、脱出がなったとしても、国を失った我々の明日はどうなる、本来『日本沈没』という小説はそういうものをテーマとしていると思っていたんですが、新作映画においてはそういったものは遥か後景に押しやられて、主人公とヒロインの恋愛がクローズアップされるばかり、国家消滅の危機に際してもっとも重要であるのは、国や国民といった約束事ではなく、自分自身の内面にほかならなかったのだ、といった話。

『五日性滅亡シンドローム』は、あるいはライトノベル的とはっていってもいいのかな、その自分自身の内面というのが最大の興味対象であるのだと思います。後五日で世界が滅びる、しかしそういわれてもあまりに希薄なリアリティ。それは当然で、そうした噂に対応しているのは、あくまでも生徒たちに限局されて、まあ多少は周辺のことも描かれるのですが、それは結局は主人公たちが状況を捉えるためのエクスキューズみたいなもの、社会というものを捉えようとする視点がないのにリアリティが生まれるはずもありません。でも、それは最初から求められていないんです。世界が滅びるという噂があって、それを少なくない人が信じています。それだけで充分なのですよ。これだけの約束をベースにして、主人公周辺のもろもろを描ければそれでいい。むしろ、社会状況はどうだこうだいうようなリアリティは邪魔なんだといわんばかりです。

そして、このただでさえ希薄なリアリティはセカンド・シーズンに入ってなお希薄になって、セカンド・シーズンにおける滅亡の根拠なんかも語られるんですが、そうしたの見るかぎり、リアリティのなんのっていうのは端から拒否していることが明らかで、さらにいえば物語ることさえを必要としていません。だからこれはSFでもなければファンタジーでもない。世界は語られるまでもなくあらかじめ失われており、じゃあここにあるのはなにかといえば、主人公周辺の内面のささやかな反響、揺れ動きだけ。故にこれらはセカイ系と呼ばれるのかも、とかなんとか思うところもあったから、ひとつの例として手もとに置こうかなと思ったのでした。

なんかネガティブな文章になったけど、決して嫌いな漫画じゃないですよ。嫌いな漫画だったら、買う買わない以前に黙殺です。けど、おすすめの漫画ではないです。少なくとも、私と同じくらいの年代の人にはすすめられない漫画、っていうのは、私たちの年代っていうのは、まだどこか物語というものを求めているところがあるからで、きっとこの漫画では満足しないと思います。私にしても、これが四コマでなかったら黙殺したろうと思います。

2007年6月29日金曜日

家族ゲーム

日がな半日ゲーム部暮らし』が出てたってんなら、そりゃもちろん『家族ゲーム』も出てまして、ということは、当然買っちゃってるわけです。父一人、母一人、娘二人の遊佐家のほのぼの生活を描いたホームコメディ漫画。ただちょっと違っているのは、家族全員がゲーム大好きだったのです。それも尋常でない好きさで、私らの世代からしたら、こんな家あり得ないって感じなのですが、けれど今の小学生中学生だったら、両親ともにコアなゲーマーというのはあるのかも。でもそれにしても常軌逸してるのは実際で、その突き抜けっぷりが楽しい漫画であったのでした。

でした? うん、過去形でいっちゃっていいと思う。いや、2巻でつまんなくなっちゃったってことではないですよ。相変わらず面白い、けど、面白さの軸が変わったかなって感じで、第1巻時点では前面に出ていたゲームネタが、2巻では後景に退きまして、特筆するまでもない当然の前提となってしまったっていってもいいかなあ、それで今の漫画の中心はといいますと、ずばり人間関係。小学生、中学生に大学生を加えて、ほのかなものからちょっと踏み込んだものまで、恋の花がちらほらと咲かんとしています。こそばゆくなるような芽生えっぽいのがあったかと思うと、届かない思いのちょっと切ないようなのもあって、かと思えば禁断系も出てきて……、ええと、私、禁断系がちょっといいなと思ってます。

禁断っちゃあ、この漫画にて発生している恋愛のベクトル、そのほとんどがアブノーマルよりといったらいえるかもって感じなんですが、ええと表紙めくったら人物相関図があるのでそれを参照しますと、片思いが四つ生じているんですが、そのどれもがちょっとやばい。いや、ひとつを除きさえすれば、それほどクリティカルなものではないんですが、それこそ私の尺度においてはオールオッケーなんですが、けど一般的尺度においてはまずい。 — まずいんですが、そのまずいはずのものがいいってのはどうしたもんでしょう。それも、禁断の度合いが強まれば強まるほどに私は入れ込むようで、そうだ、もっともっとやれ! 特にクリティカルなやつ、追う側の切なさ儚さいじらしさもぐっとくれば、追われる側の葛藤も実にご馳走。ああ、私はもう駄目だ。いや冗談抜きで、こんなにも駄目になっちまったんですよ、おっかさん。まあ、もういいんだけどさ。

なんかこんな書き方すると、恋愛系の漫画みたいですが、ちゃんとそれ以外のネタも展開してますのであしからず。最初にいってたように、ゲーム絡みのネタなどはあまり押し出されなくなったのですが、けれどそれでも一本一本の四コマにかかるネタの流れは丁寧で、見出しまで読みどころ笑いどころになっているのはさすがだなあと思わせるうまさです。「ブリキにタヌキに洗濯機」と下の句読んで、上の句「驚き桃の木山椒の木」を思い起こさせるハイテクニックがあったかと思えば、「40円の価値もない」の醸し出す切なさ、苦さ。面白い見出し、うまい見出しはたくさんあるけれど、私の一番のお気に入りは「12人もいる!!」かなあ。響きで『11人いる!』を彷彿させ、そしてもちろんそれだけじゃないといううまさ。思わずにやりとさせられる、そういう小ネタ含めた展開の妙が鈴城芹の味だと思います。

蛇足

ええと、真言っていってたけど、なんだか由寿が赤丸急上昇中。

  • 鈴城芹『家族ゲーム』(電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • 鈴城芹『家族ゲーム』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2007年。
  • 以下続刊

2007年6月28日木曜日

日がな半日ゲーム部暮らし

 ゲーム好きならきっと共感せずにはいられない『日がな半日ゲーム部暮らし』、熱烈希望していた第2巻が発売されました! わーい、嬉しいな。と、こんなにも喜ぶのは、やっぱりそれだけ好きだからに他なりません。私自身もゲームが好きで、そして漫画に出てくる女の子たちも可愛いし、 — けどそれだけが理由じゃありません。一番の理由は、この漫画に出てくるゲーム好きの彼女らの考えるところ思うところ、そのひとつひとつが、うんうんそうだよそうだよ、とうなずけるくらいに近しく感じられるから。ほんと、他人事じゃないどころの話じゃないんです。ほんと、この子らは私か!? と思ってしまうくらいに思うところが似ていて、というのはやっぱりゲーム好きだから? あるいは作者と私に通ずるところがあるのかも知れないなんて思っています。

似ているところ、通ずるところ、いったいそれはどんなところなんだろうと考えてみたんです。そうしたら、多分、多分ですよ、この漫画の登場人物の持つ憂鬱質、これが私の傾向にすごく同じなんだと思えてですね、普段は変に楽観的で、意志薄弱に目先の楽しさにとらわれて、面白そうにやっているというのに、ちょっと立ち止まって考えてみたりしたらですよ、気鬱な部分がだーって出てくるんですよ。だってね、たかがゲームで自分の死ぬときのこととか、死んだ後のこととか、考えますか? 死ぬまでにどれだけ遊べるかなあとか、好きなゲームが死んだ後に出るのは悔しいなあ、なんで人は死を避けられないんだろうとか。いや、もしかしたら普通の人も考えるのかも知れない。少なくとも、このBlogを読んでくれているような方なら考えそうな気がする。

……私は考えちゃうんですよ。ゲームに限らないけど、漫画とかでも一緒なんだけど、死んだら続きが読めないなとか、死んだ後にも面白い漫画は出るんだろうなとか。ゲームは今はがっつり取り組むだけの時間がとれないから、もうあきらめちゃってるっぽい。買うだけ買って遊べてないゲーム、クリアしてないのなら山ほど、プレイしてないのも結構、封を切ってないのさえたくさんあって、そういうの見ると、すごく絶望的な気分になっちゃう。たぶん、この私の憂鬱な気持ちは、ゲーム部新部長であるみひろも感じたりしてるんだろうなと思う。彼女の言動の端々には、私のものと同様のメランコリーがあって、だからか、すごく引かれてしまうんです。

でも、みひろに比べると私の方がよりひどいとは思う。てのは、みひろのいうのは、死んだ後は出ないで欲しい…くらいなもんだけど、私となると私の死ぬのにあわせて世界も一緒に滅びたらいいのに…ってなもので、ここまでくるとわがままなんてもんじゃない。もう、めちゃくちゃ。けど、こんな思い詰めたようなこというのは、やっぱりそれだけこの世界を愛しちゃってるからなんだと思うんです。ゲームにせよ漫画にせよを仲立ちに、私もみひろも、そしてもしかしたらこの漫画の作者である祥人も、この世界をいとおしくいとおしく、ただひたすらいとおしく感じているんだろうなと思うのです。

えらい大げさな話になったな。なので、ここから小ネタ。

新入生あっきー、なんか妙に余裕のない娘ではらはらするんだけど、その余裕のなさ含めて、えらい可愛いと思ってしまって、なんていうんだろう、やっぱ他人事じゃないですよ。すごい、自分っぽい。人にどう思われるだろうって考えすぎてあたふたして、けどサービスにせよなんにせよ、とことんまでやっちまわないと気が済まなくて、けどそうした態度は人を引かせるのに充分だということも承知しているから、その狭間で右往左往していて、うわ、ほんとに私みたい! いや、ほんと、なにごとにおいても限度があるってことはよくよくわかってるんですが、とまんないんですってば。こと好きなこととなると、ね、ありますよねそういうこと? ほら、好きな漫画のこと話しはじめて、脇道それつつめちゃくちゃ長文書いちゃうみたいな? わかってるんです。わかってるんですけど書かずにはおられない……。ああ、私はあっきーに自分自身の影を見てしまいます。

みひろにせよあっきーにせよ、好きなものを前にすると、どうにも自制が効かなくなるタイプの娘たちが、基本的にはのんびりとマイペースに、けどときおりにテンパって見せたりして、けどそんな彼女たちのそばには、よくそのキャラクターをわかってくれている友達がいるから安心できて、みひろにはかーはら、あっきーにはユウがいて、なんかこういう関係があるのはうらやましい。友情が、あんまり暑苦しくなく、落ち着いてそこにそっとしている感じ。多分、この先もこの子らはなにかと仲良くやってくのかなって感じがあって、そしてその感じに自分も立ち会えているような気になるから、なおさら好きになるのかも知れません。

以上、書きたいことはまだまだあるけど、いくらなんでも常軌を逸しはじめているので、ここらでとめます。ただあと一点だけ。

あっきーの褒め方の話、あれは私の書く文章を読み解くうえで、重要な示唆を含んでいます。まったく同じじゃないけど、私の文章にもやっぱそういう感じのパターンがあって、 — いったいどういうことか知りたい方は『日がな半日ゲーム部暮らし』を読んでみてください。ゲームとか好きじゃないとはまりきれないかも知れないし、ゲーム好きでも気質が違えばあわないかも知れませんけど、意外にゲーム以外の趣味の人にも共通するところはありそうで、そういうところは面白いんじゃないかと思います。

引用

2007年6月27日水曜日

ひろなex.

 本日発売の「まんがタイムKRコミックス」はすかの『ひろなex.』。『まんがタイムきららMAX』に連載中のこの漫画、始まったときにはどう反応したものかちょっと迷った、そんな印象が記憶に残っています。主人公は中村広菜、中学生。ある日見たテレビ番組に触発されて中村探検隊を結成! けど探検するどころか、なんとなくずれた日常を送って、なんとなく楽しげに、なんとなくほのぼのとやっている。このなんとなくという感じが『ひろなex.』という漫画のらしさだと思うんですが、力の抜けた穏やかで自堕落な日常の面白さというか、ちょっと間の抜けてピントのずれた行動言動のおかしさ、楽しさ、可愛さを、なんとなく楽しむみたいな漫画だと思っています。

登場人物、メインは中村探検隊の面々。ひろなの幼なじみにしてしっかり者、いわばつっこみ役の樋川美緒、この人が隊員1号。2号は下級生でひろなに負けず劣らずのおとぼけ娘、いつもにこにことマイペースの山本風優夏。そして3号がひろなの兄貴に恋しちゃってるちょっとクールで、けど実は寂しがりや? 沢木めぐみ。この四人が好き勝手にやってるんですが、基本的にみんなマイペースだから、特にひろなと風優夏の二人がひどいから、それこそ大阪だらけの『あずまんが大王』みたいになってます。実際こうしたタイプの漫画をなんでもかんでも『あずまんが大王』の系みたいにいうのはどうかなあと思っている私ですが、それでもこの漫画からは『あずまんが大王』に感じた穏やかな面白さに似たものが感じられると思います。

けど、ちょっと違うといえば、より微妙なところをつくマニアっぽさかなあ、というか、このところきらら系列誌では、ちょっと時代がかってマニアックなネタをどこかに含めるというのがブームというか、まあ読者が喜んじゃうからでしょうけれど、この漫画にもそういうのがやっぱりちょこちょこっとありましてね、ひろながなんとなく遊び出してしまったゲーム、ハードが3DOだったり、あと試験勉強中の逃避で遊んでたのがバーチャルボーイだったり、よくもこうマニアックなものを出してくるよなと思ってたら、後にはアタリ・ジャガーやらリンクスやら、その存在くらいは知ってるけれど、詳細となるとまったくもって知りません級の懐かしものが登場。けど、このあたりは本筋ではなくてあくまでもおまけ、知らなくったって楽しめます。

キャラクターの可愛さや絵の持つ雰囲気が支配的な漫画なので、明示的な落ちやなにかがないと我慢できないタイプの人は避けるべきでしょう。けれど、投げっぱなしで回収されないネタが織り成す緩急そしてゆるい落ちは、はまればかなり面白く、読み出すととまらない感じ。手近にあればなんとなく読んでしまうといった、そんなやんわりとした魅力のある漫画です。

漫画の雰囲気を知りたいなら、まんがタイムきららWebにて連載されている『だめ×スパイラル』が参考になると思います。漫画としての味わいはちょっと違うけれど、ベースとなる雰囲気は通ずるものがありますよ。

蛇足

考えたこともなかった……。み、美緒かなあ。

  • すか『ひろなex.』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年6月26日火曜日

ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド

  内容も知らず買ってみて、これはあたりだったと大いに喜んだ『ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド』。本日、第3巻が出ているのを見付けたので、当然のごとく買ったのですが、いやそしたら参りました。面白いんですよ。第1巻第2巻の時点でもかなりきてると思いましたが、第3巻はそれ以上かも知れません。本当、第2巻までは状況説明及びプロローグだったのか? と思えるくらいに、ドラマが動いてる。いうならば、これまでに語られたいろいろ、設定までを含めたもろもろに肉がつきはじめたといった様子。しかしこの第3巻時点ではまだ端緒を開いたに過ぎんのでしょう。いまだ踏み込まれずほのめかされるばかりの核心に、この先の盛り上がりのほどを予感して、けれど焦って先を知りたくはない。この今のスリルを味わっていたいと思わせる充実が魅惑的です。

しかし、本当に思った以上でした。主要登場人物はヴァンパイアにワーウルフといったこの世ならぬものたちであり、実際劇中においても尋常ならざる超越したものとして描かれているというのに、それがこんなにも揺れ動きやすい心に戸惑いを見せるなんて思いもしませんでした。正直、見誤ってたと思います。主人公はヴァンパイアの王ミナに忠誠を誓うアキラ少年。いまだ未熟で発展途上にある彼が揺れ動くのならわからんでもないところが、永遠を生きる不死のものたちも同じく揺れ、よすがを求めさまようかと思えば、執着の果てに心を散らしていく。その描写が妙に生々しくて、ああこれら性状はヴァンパイアという不死者ゆえの空しさ、悲しさに起因するものとして描かれてはいるけれど、その根底にある遊離感、虚無感は、今現在を生きる我々にしても変わりないという思いを私はどうしてもぬぐい去ることができず、だからミナ姫殿下をはじめとする永遠でありながら刹那でもある彼らに共感を感じずにはおられないのです。

こうした共感は、超越者の中の超越者であるミナ姫殿下のキャラクターの打ち出し方がゆえかもしれません。ミナはヴァンパイアの王であるゆえに、ヴァンパイアたちの中にあっては毅然として孤高であり続けなければならない宿命を背負っており、しかしならば彼女の揺れる心はどこに漂着するというのか — 。ここに、アキラであり由紀の存在が映えてきます。有限である人間ごときにヴァンパイアが思いをかけることなどあるのかという根底の疑問を、彼らがヴァンパイアでないということをもって鮮やかにクリアして、この異質なものたちの間に対等あるいは特別な関係もなりたつのだと納得させてしまった。そしてこの関係が前提にあるからこそ、物語の主軸に陰謀を巡るきな臭い攻防戦を展開しながら、その側面に学園における友情や恋愛といったセンチメンタルなドラマを描くことができるのでしょう。これら地続きにして対照的なエピソードは、互いに互いを補強して、クライマックスを支えさらに押し上げる力ともなれば、ひとつの山を越えて訪れる決着にとうとうとした安らかさを与えるよりどころともなって、この漫画をかたちづくるための要素として不可欠にして不可分のものとなっています。そしてあるいは、ちょっと切なくてやり切れない、けれど決して軽く流されたりはしない、死や別れをともなうエピソードに多少の救いめいたもの — 私たちが痛ましさをもって受け止めるためのよすがともなってくれるのだと思います。

蛇足

単行本巻末に収録される「ダンス with the ヴァンパイアメイド」は、わりかしシリアス強めでときに殺伐とした展開も見せる本編のすさまじさを埋め合わせるかのようにほのぼのとして、これ読むとなんだかほっとしますよ。まったく本編に関係しない話でもないからなおさら。こうしたちょっとした遊びが後味を整えてくれるところ、私はすごく気に入っています。、百歩譲ってもあれはダブルリーチどまりだと思いますよ、私は!

蛇足2

腐女子は多神教。実にこれ、神表現だと思います。

引用

2007年6月25日月曜日

Morning sun, taken with GR DIGITAL

Latticed window毎月恒例のGR BLOGトラックバック企画が今月も巡ってきました。六月度のお題は。窓といいますと、ストレートに建物等の壁に開いた窓を撮ってもいいし、またなにかを窓に見立るのもひとつの手かも知れない、などと思いながら、結局私はいつものごとく、窓というと即物的に窓しか思いつかないんですね。下手な考え休むに似たりといいますが、私の場合まさにそれ、考えて工夫してみても仕方ないんだから、もうなにがなんでもストレートにやっつけるのが一番なんだと思います。というわけで、今月も懲りずにトラックバック企画『窓』に参加いたします。

私が窓を撮るとなれば、外側から撮るというよりも、うちから撮ることの方が多いようで、これまで撮られた窓絡みの写真は外をうかがうものでありました。一番多いのが車窓。電車の窓から撮られた写真、バスからというのもまれにありますが、とりわけ窓を意識せずにいる私にとって、もっともかかわり深い窓とは車窓であるような気がします。そういえば、写真をはじめたいと思ったのも、電車の窓から見える風景がなんだか美しいなと思ったからでした。

でも、選んだ写真は車窓ではなく、でもちょっと電車絡み。駅の連絡橋、東に面する窓から差し込む朝日がやけにまぶしかったものだから、階段降りざまに撮った。これがその写真。なんてこともない変な写真ですが、結構気に入ってるみたいな一枚です。

Morning sun

2007年6月24日日曜日

バーコードファイター

  絶版書籍、廃盤商品の復刊復刻を実現させたい! といった思いを抱いたことがあるという人は少なくないと思うんですが、そんな時に力になってくれるのが、いわずと知れたたのみこむ、そして復刊ドットコムであります。本が好きという人なら一度や二度くらいはかかわり合いになったことがあるんじゃないかと思うんですが、思い出の本、漫画をもう一度読みたい。絶版になってるレコードをもう一度手にしたいなど、これらサイトを通じて、そうした欲求を満足させた人も多いと思います。そして私もそうしたうちの一人でありまして、復刊なった書籍を手にしたこともあらば、リリースされる日などこないと思われたアニメのDVD化など、その恩恵にあずかること一度や二度ではありません。こうした経験を持つ人は、これらサイトにひとかたならぬ恩を感じたりしているんじゃないかと思います。けど、私は恩を感じながらも、これらサイトにはあまり立ち寄らないようにしています。というのもですね、魅力的なものが多すぎるんですよ。ああ、懐かしい、また読みたいねと思うようなリクエストを見付けたら、思わず投票してしまいますわね。で、実現した暁には買うわけですよ。また、すでに復刊したものも危険で、ええ、買っちゃうんですね。そうなんです。『バーコードファイター』もそんないつものパターンで購入にいたったもののひとつです。

『バーコードファイター』は、懐かしの玩具バーコードバトラーにタイアップするかたちでコロコロコミック誌上で連載された漫画であります(ミニ四駆漫画とかありましたよね、あんな感じです)。けど、なんで私がこの漫画に興味を示すというんでしょう。そもそも私はバーコードバトラー世代ではないし、それにコロコロコミックを購読していたわけでもない。それ以前の問題としてこの漫画が連載されていた頃って私はすでに高校生、コロコロやボンボンといった小学生対象の漫画雑誌を読むというのは、さすがにありませんでした。なのに、なぜ買ったというんでしょう。

一部有名な話なんですが『バーコードファイター』にはちょっとした逸話があるんです。それはなにかといいますと、ヒロインが男というものなんですが、そう、ブッキング版表紙にばーんっとクローズアップされた黒髪赤ボディスーツの女の子が実は男の子。この事実でもって『バーコードファイター』はバーコードバトラー世代以外にも訴える漫画となっているのです。いや、これ半分本当、というか半分以上本当だと思うんだけど、どうでしょう……。

漫画の基本は、バーコードによりパラメータが決まるというバーコードバトラーの設定を踏襲した、ロボットアクションものです。仮想的にロボットに乗り込んで対戦するという、現実のおもちゃを媒介として、子供たちの想像の中でのごっこを大きく膨らませて見せた漫画です。そういえば『プラモ狂四郎』なんかもそんな感じでしたけど、こと少年向けの漫画においてはこうした形式がよくよく使われるようですね。

以上のような関係で、当初には現実の玩具バーコードバトラーにまつわるTipsも多く掲載されていて、どういうバーコードが強いのか、見分け方などがヒロインさくらによって解説されたりしまして、なんでなんでしょうね、こういう解説があるとふんふんと素直に読んでしまったりして、バーコードバトラーもないのに? そもそもバーコードバトラー目当てで買ったわけでもないのに? いや、しゃあないんですよ。攻略情報があると、攻略対象がなくても読んでしまうのは、すべての少年だった人のさがであるんです(本当?)。でも、こういった攻略情報は徐々に背後に押しやられていって、かわりに現れてくるのは世界人類を洗脳し支配下に置こうという敵であったりしまして、こういうのもまた少年向け漫画の王道ですかね。ファミコンものの漫画でも、ファミコンで世界を征服するんだ(どうやって?)っていう組織が出てきたりする。こういう、大風呂敷といえば大風呂敷、雄大というか誇大というか、そういう展開を臆面もなくやれるのは少年漫画のいいところなんじゃないかと思います。いやね、読んでみると結構面白いですよ。リアリティとかなんだとか、こざかしいごちゃごちゃを捨て去ってしまえば、漫画の持つ荒唐無稽の面白さがダイレクトに伝わってくるようで、正直こういう読み方を私が今またするとは、自分自身意外でありました。

以上。これからは余談ですので、読む必要はございません。

で、お目当ての女装少年であるわけですが、有栖川さくら、いくらお目当てといっても、ヒロインが男というだけで漫画を買うほど私も酔狂ではありません。じゃあなんで買ったのかというと、それはこの作者にあります。小野敏洋という人は別の名前でも活動されていて、その名は上連雀三平、ある方面で非常な高名を博している漫画家です。ある方面というのはエロ漫画なんですけどね、なんというか独特のジャンルを形成している人で、まあなんというか、女装少年とかがオンパレードな作風なんです。で、恐ろしいことに私その一冊を持っているのです。

昔、図書館勤めしていた時に、新刊の発売日を案内する冊子なんかを貰えたんですが、そいつを頭っから最後まで読むのを月一の楽しみにしていたんですが、そうしたら成年向けってタイトルが振るっているのが多くてですね、同時多発テロが問題になった時期に『同時多発エロ』なんてのがあったりして(Amazonで調べたら2冊も出てきた! 1冊目2冊目)、最低だ、その上不謹慎、よくもまあこんなタイトルを思いついたもんだみたいなのがとにかくずらずらと並んでいるのが圧巻。それで友人と一緒に、その月に出るものの中で一番馬鹿なタイトルを選出して遊んでいたんです。その時に出会ったのが先ほどの上連雀作品、もちろん馬鹿タイトル of the Month、内容がわかんないよって、いったいどんななんだって、タイトルだけでこちらの理解の範疇を超えていますからね、もうダントツでありましたよ。

悪いことにですね、当時利用していた書店に、この漫画が置いてあったんですよ。で、買っちゃったわけですよ、それで私は内容のあまりの飛びっぷりにノックダウンされて、それで件の友人にこれを見せて、欲しかったあげるよといったら、その人もノックダウンされたようで、いらないです — 、以上のような経緯で私のうちに上連雀作品があったというわけでした。

話に聞きますと、『バーコードファイター』の有栖川さくらがこれら作品にも出ているんだそうですね。なので、引っ張り出してきて確認してみました。わお、先生やってるんだ。ええ、確かに関わっていました。この一点を確認できただけでも満足です。

蛇足

久しぶりに見た上連雀作品、恐ろしいことに、以前ほどに異常さを感じなくなっていて、というかむしろ感動作? 知らないうちに私の受容の幅は広がっている模様です。確かに、『バーコードファイター』読んで、ヒロインが男ということを知ったうえで最後まで読んで、それでもやっぱりヒロインは可愛いわけで、実際現実問題として、こうした人が身近にあったとしても普通に受容するだろうなと思ってたりするから、まあ確かに私は受け入れ幅が広がっているんでしょう。いい傾向? だと思います。

2007年6月23日土曜日

『フルハウス』サード・シーズン

 買うだけは買ったんだけど見るにいたらなかった『フルハウス』のサード・シーズン。もちろん見れば面白いことはわかってるんです。けど、見始めるとこれ一色になってしまうのがわかってるからか、あるいはこの発売された時期、たまたま忙しかったのかも、見ないでいたらフォース・シーズンが出てしまった。けど、もうじきフィフスがうちに届くはず。だからというわけでもないんですけど、ようやっとサード・シーズンを見始めて、いや、やっぱり面白いわ。思い起こせば、私が『フルハウス』を見始めたのはセカンド・シーズンで、決定的にはまったのはサード・シーズンだったように思います。あのハワイロケの回。あの回からビデオに録りはじめたんでしたっけね。いや、懐かしい話です。どうでもいい話でもあるんですが、まあ私にとっては重要な話であったのでした。

サード・シーズンは1枚目を見て、今2枚目を見ている途中。人によって意見は違うとは思いますが、私にとっては一番『フルハウス』らしい時期と感じます。D.J.は中学に上がって、妹(ステファニー)とは違うんだと背伸びして、ステファニーは子供らしい無邪気さにこましゃくれた物言いを装備して、強烈に可愛かった。ミシェルは赤ん坊から子供になろうという時期、いろいろしゃべるそれが可愛いは、面白いは。けどこのドラマの面白さは、子供たちだけではないね。子供も大人も、それぞれがそれぞれの個性をもって楽しませてくれる。毎回毎回、なんらかのテーマをもって話は展開されるけれど、その内容も子供の子供らしい話があったかと思えば、大人の結構シリアスなものもあって、それらがバランスよく配合されているから、大人が見ても見ごたえがある。子供だましじゃないというのが大きいんだと思うのですね。子供も大人も、問題に直面し悩んでいる時の大変さは一緒。そして悩みに取り組み解決しようというその態度が真摯だから、見ているこちらもほだされる、共感するんだと思います。

サード・シーズン、ジョーイのコメディアンの話がなんだか他人事じゃない感じで、見てて面白かったし、結構じんとさせられて、若い頃の夢を思い出して、今自分はなにをやってるんだろうと悩んで、落ち込んで、けど夢は捨てられないって話なんですが、この回をはじめて見た時、もう十年以上も前なんじゃないかと思いますが、その時私は一体どういう思いで見たんだろう、ってもうちっとも思い出せないんですが、けどこうして若い頃、年いってから、そしておそらくはこれから先も、その時々の私が、その時々の思いで見るのだろうと思うと、改めて『フルハウス』の幅の広さがわかるように思います。今はまだ、将来の私が思うことはわからないけれど、きっと胸にこたえる言葉、シーンがある、そんな風に思えるドラマです。

ところで、続きを見てたら、ステフが地震を怖れる話があるんですが、これ、1989年のサンフランシスコ地震ですよね。PTSDってやつだと思う。はじめてみた時はピンとこなかったけれど、こんな風に当時の状況みたいのがわかれば、より深く理解できることもあるかも。あるいは、私も神戸の地震を経験したから、ある程度のリアルさを持って感じられる部分もあったのかも知れません。

2007年6月22日金曜日

危険がウォーキング

突然なんの脈絡もなく思い出してしまった、星里もちるの『危険がウォーキング』。これ、高校生の頃、部活の先輩から借りて読んだのですが、特異体質の女の子がヒロイン、ちょっと微妙な感じかもは知れないんですが、面白かったなあっていうのを覚えています。この当時にはまだ萌えなんて概念はなかったんですが、ヒロインたちが可愛くてですね、正ヒロインの爆発体質の女の子も快活な感じで可愛いんですが、サブヒロインの対人苦手の眼鏡娘がべらぼうに可愛かったんです。人前に顔を出すのがいやだからだったかな、不自然に曇った眼鏡、放送室に立てこもったんじゃなかったかなあ。そこに男の子が、ウサギだったかの着ぐるみきて突入して、あのシーンは本当屈指だったと思う。登場人物の名前、誰一人として思い出せないくらいに過去に押し流された漫画だというのに、あの放送室立てこもりの話、そして卒業式! いい漫画でした。機会があったらまた読みたいけど、知らないうちに出てた復刊、これもう買えないんじゃないかなあ。古本でもいいから探そうかなあ、なんて思います。

で、なんで思い出したか。波長なのですよ、波長。この本借りて、読んで、面白いなあと思って、ありがとうございました、返却したらですね、自分の好きなキャラクターは誰かわかるかいなんて問われましてね、自分っていうのはこの漫画貸してくれた先輩ですよ、で、私は即答ですよ。眼鏡の人見知りの女の子でしょう(もちろん当時は名前で答えましたさ)。そしたらドンピシャ。一瞬ひるんだのがわかりました。お前よくわかったなあ、なんでわかった、なんて聞かれたものですから、私はここで、波長が同じなんですよ、と答えたんです。

そしたら、え、俺波長が同じか、そんなこと思ったことないがなあ、なんてゆわはって、先輩はその女の子と同じ波長と思っちゃったもんですから、今更なんとも訂正できなくて、そうそうなんて適当に話し合わせちゃったんですが、今さらながら白状しますと、あの時波長が同じといったのは、その眼鏡の娘とではなくて私とです、先輩。そう、私もあの眼鏡の娘が一等好きだったんです。これが今なら萌えだとでもいうのでしょうか。けれどあの感じは、萌えの一言でくくれる感じじゃなかった。とにかくなんか他人事じゃない感じで、それにすごく可愛いと感じたものでした。懐かしい。また読みたいなあ。

もし今読んだらどう思うんだろう、なんて思います。幻滅するなんてことはまずないとして、けどちょっと昔風と思ったりするのでしょうか。そしておそらくはあの頃とはまた違った感想をもって、また違った面白さや共感を得て、 — けれどあの最終回で同じように感動するんだろう — 、と思います。壮大な爆発落ち。そしてその後のあのシーン。流れる歌は中島みゆきの『時代』でした。あの時、私はなんだか本当に自分の友人を卒業式に送るような気分になったのです。

  • 星里もちる『危険がウォーキング』第1巻 (少年キャプテンコミックス) 東京:徳間書店,1987年。
  • 星里もちる『危険がウォーキング』第2巻 (少年キャプテンコミックス) 東京:徳間書店,1988年。
  • 星里もちる『危険がウォーキング』第3巻 (少年キャプテンコミックス) 東京:徳間書店,1988年。
  • 星里もちる『危険がウォーキング』第4巻 (少年キャプテンコミックス) 東京:徳間書店,1989年。

2007年6月21日木曜日

Hôtel Normandy

 先日、ちょっといってましたように、母が旅立ちまして、目的地はフランス。ああ、こんなにうらやましい話はないよっていうんです。いいなあ、フランス。だって私は、第一外国語はフランス語と公言しているような人間で、つまりはかなりの親仏派。イギリスも好きだしイタリアも好きだけど、こと言語に関してはフランスが一番性に合っている — 、まあ慣れてるってだけかも知れませんが、学習における意気込み、関わってきた時間の量、そして使用頻度、どれをとってもフランス語が筆頭であることは間違いありません。けど、なにが悲しいといっても、私はフランスにいったことないんですよね。フランスどころかフランス語圏さえない。だから、なおさらうらやましくってならんのです。あああ、いいなあフランス。

母のフランス旅行、立ち寄る先はパリと、そしてノルマンディです。ノルマンディというと、史上最大の作戦で有名な土地でありますが、まあ一口にいうにはあまりに広い土地です。フランスの北部、蕎麦粉のクレープであるガレットと林檎の酒、シードルやカルヴァドスが名物で、ケルトの文化が色濃く残る地 — 、と思っていたら、おいおいそりゃブルターニュだよ。全然違うって。正直ショックでした。フランス語を習っていた時には、ただ言葉を学ぶだけでなく、土地や風物、文化もあわせて学ぶものですが、そんときに得た知識というのは、悲しいほどに揮発してしまっているのですね。恐ろしいことです。今やノルマンディというと、第二次大戦で英米仏連合軍が上陸した土地であるとか海に囲まれて堂々とたつ修道院モン・サン=ミシェルくらいしか思い出せなくて、そしてもうひとつ、パトリシア・カースの『ホテル・ノルマンディ』。この歌は、私がフランス語を本腰いれて学びはじめた時期に耳にした曲。あまりに魅力的であったので、CDを買ってしまった。それくらいに印象深く、好きな歌だったんです。

はじめて耳にしたのは、NHKのラジオフランス語講座。杉山利恵子先生の入門編で紹介されたのを聞いたのですが、あの頃、ラジオやテレビからもたらされるフランスのいろいろはすごくきらきらとしていたっけなあ。言葉にしても、風物にしても、発見の連続というか、知識欲を掻き立てる、そういう魅力にあふれていまして、だから出会う音楽にしても耳に新しく、新鮮であったのでした。

パトリシア・カースの歌う『ホテル・ノルマンディ』は、フランスの歌といえば(狭い意味での)シャンソンとしか思っていなかった私にすごく強い印象を残して、それは陰鬱な響き、シリアスな歌声、圧倒的な存在感。歌の持つハードでソリッドな空気のためだったのだろうと思います。少なくともこの曲は、私にとってのフランスの印象を塗り替えました。フランスといえば、エスプリとかコケットとか、そういうのを思いがちだった私に、より広いフランス曲の地平を見せてくれた。もちろんこの歌一曲だけがそれだけの役割を担ったとはいえないのですが、けれどそれほどに印象に残っている歌であるのは確かなのです。

2007年6月20日水曜日

眠れる惑星

  ある朝目を覚ますと、世界は眠りに落ちていた。眠れる惑星に一人残された少年永井淳平は、この異常な世界をいかに生き抜いていくのか。というのが『眠れる惑星』の骨子だと思っていたのですが、どうも見どころは他にこそあったんではないかというのが3巻を読んでの感想です。というのはね、思ったよりもシリアスな雰囲気で進行していきそうな気配を見せていまして、2巻あたりだと、セックスをすることで眠っている女性を目覚めさせる能力をもつがゆえに、女性たちからちやほやされる淳平の純情恋愛もの、一人の女性に愛を貫くことができるのか? みたいな話が主体と読めたのですが、3巻ではむしろ異常事態下における人間の行動がクローズアップされています。そう、尾美の戦略とその破綻がいよいよ表に出て、対立しこじれる人間模様があらわになってきましたよ。

私は第3巻を読みながら、ずっとリスクマネジメントみたいなことを考えていたのですが、それも特に起こってしまったことに対する対処に関していろいろと思っていたのですが、どういうことかといいますと、社に損害を与えかねないトラブルが発生した時、それにどう対処するのがよいのかというようなことを想像してくださるとわかりやすいんじゃないかと思います。隠蔽して秘密裏に対処するのがよいか、積極的に情報を開示するのがよいか。大きく分ければ二種類のやり方があると思うのですが、果たしてどちらが良い結果を生むでしょう。 — 大抵の人は後者と答えるのではないかと思います。数年前から、リコール隠しや賞味期限切れ食品の再利用等、情報を秘匿するような手法をとったためにより事態を悪化させたケースを私たちはたくさん見てきました。対してトラブルに関する情報を広く公開し、お詫びと周知に努める態度を見せるなど、従来ならば不利益を生じさせかねないとして忌避されてきたこうしたやり方を徹底することで、逆にイメージ戦略として成功したようなケースもありましたっけ。

こうした事例を見てきて、そしていざ『眠れる惑星』を読んだならば、尾美の失敗がわかるのではないかと思うのです。尾美が当初成功を見たのは、周囲に自分の理解者を置いていたから。すなわち、情報を秘匿しがちな態度を見せても、その上で信頼を得られるような状態にあったから。しかし、さまざまな考えを持つ個人を目覚めさせたのが彼女の失敗だったのだなと思います。あるいはより適切に言い換えるならば、自ら変えた状況に対し適切な戦略を選択しそこねたのが失敗だったと思います。尾美は自分自身を評して傲慢と批判しますが、そういう判断をすることがすでに傲慢なのだと思います。おそらく彼女においては、傲慢であったことではなく、怠惰であったこと、臆病であったことの方がより深刻であるはずです。彼女の自身を守るための手段であるはずの沈黙は、いたずらに周囲の不安を煽り、疑心暗鬼を生じさせることで自身を傷つけてしまう。おそらく彼女はこれから先も失敗し続けることでしょう。そしてその失敗が事態の核心に踏み込ませる一歩になるのではないかと予想しています。

『眠れる惑星』はSFやファンタジーというにはあまりにライトであるのですが、けれどそれでも群集の心理の動揺を押し出してくるあたりに、作者のSF者の素養が感じられるようで、読んでいて結構スリリングです。まただんだんと破滅的な匂いもしてきて、かりそめの平和の破られる日は近い — 。対立や軋轢は今後も強まるだろうし、尾美の失敗もまだ終わったわけではないしで、次巻以降シリアスの度合いが強まるだろうことは必至です。私は、そうした展開の行方が楽しみというか恐ろしいというか、けれど本当のところいうと楽しみで、わーいハーレムだ、エロエロだー、と読むのもいいけど、それだけじゃちょっともったいない漫画と思っています。

  • 陽気婢『眠れる惑星』第1巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 陽気婢『眠れる惑星』第2巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 陽気婢『眠れる惑星』第3巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2007年。
  • 以下続刊

引用

  • 陽気婢『眠れる惑星』第3巻 (東京:小学館,2007年),13頁。

2007年6月19日火曜日

Real Clothes

 書店にいったら『眠れる惑星』の3巻が出てましてね、それで今日はこれで書くことになるんだろうなと思ったんですが、てのはね、私の記事をきっかけにして読んでくださった人がいらっしゃるもので、いやもうありがたい話、だから新刊案内は紹介したものの義務かなと思ったんです。けど、そういえば19日は集英社クイーンズコミックスの発売日だったっけと思い出して、そうなんですよ。『Real Clothes』の新刊が出る日なんです。もちろん両方買って、たまらず『Real Clothes』から読んでしまいました。ということで、今日は『Real Clothes』であります。

『Real Clothes』、これはいいですよ。面白い。1巻の時点でも面白いと思いましたが、2巻はそれ以上に面白くて、いやもうそれは予想していた以上。以前私がけれん味みたいにいっていた絢爛豪華カリスマ群にしても、2巻に入ったらもう動く動く。いや、まったくもって予想外。あり得ない孤高の人間、いうことなすことごもっとも、けど嫌みだよねー、みたいなんじゃないんです。なんといっても、田渕優作。やり手バイヤー。つんつんヘアにあごひげ、眼鏡の精悍な男で、最初、うっわー鼻持ちならねーっ、て思ってたら、これがめちゃくちゃチャーミングなんですよ。仕事に対して全力投球、けれどその必死ささえも華麗に、魅力的と見せるのは、間違いなく槙村さとるの技で力なんでしょうね。それに女性たちもかっこいい。神保美姫がかっこいいのはもう当然。婦人服の統括部長。かりかりに研ぎ澄まされたキャラクター。必要なことを必要なときになし、いうべきことを告げる。けれど、ただの完成品とは描かれないんです。これまでに乗り越えてきたものがあったということを感じさせて、そしてそれがこの漫画の鍵になっている。この二人、そして個性を違えつつも自分のなすべきことを理解している同僚たち、みな引き締まってる。無駄なく、表現のためにすべてが機能している。神保美樹の名台詞、「引きしまっている」ということが「カッコイイ」こと、これをこの漫画自体が体現しています。

けれどこれらはあくまでも舞台です。こうした舞台を背負い中央に立つヒロイン。これがまた魅力的と感じます。新たな部署、慣れない環境に放り込まれて一旦戸惑いは見せたものの、上司、同僚の意気込みに刺戟され、ともに走り出そうというヒロイン。まだ迷いがある。問題も山積みだけれど、ヒロインはそれらに真っ向から向き合ってしまった。これまでずっと目をそらしてきたものに、向き直る覚悟をした — 。なんという正統的なドラマを見せてくれることかと思います。すべての仕事をする人間、そして結婚や家庭というものを(男性とはまた違う意味で)考えなくてはならない女性という性に生きるすべてのものに繋がる線が見えるようです。それらの線はきりきりと引き絞られながらよりあわされ、すごく強い導線となって、ヒロインを、そして物語を牽引するのですが、それを読む私自身も引きずられるようにして前に進みたくなってしまう。読むだけで元気になれそうな漫画、問題を意識しながらも目をそらしてきた自分を叱咤したくなる漫画、そしてフレッシュで強靱でしなやかなただただ面白い漫画。

今読むなら、人に薦めるなら、これだと思います。漫画の登場人物が、生きて動いている。物語が息づいて、うずうずと放たれる時を心待ちにしている。いつか来る、物語が放たれるその日を心待ちにせずにはいられない、『Real Clothes』とはそんな漫画であります。

  • 槙村さとる『Real Clothes』第1巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社.2007年。
  • 槙村さとる『Real Clothes』第2巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社.2007年。
  • 以下続刊

引用

  • 槙村さとる『Real Clothes』第2巻 (東京:集英社.2007年),49頁。

2007年6月18日月曜日

ハギワラシスコム SDカード 1GB

 なんか母親がデジカメの撮影可能枚数は何枚だなんて聞いてくるんで、そんなん説明書見んとわからんがな。とりあえず説明書にある目安を見たら、最高画質で約四百枚。まあ普通の用途なら充分すぎるくらいの枚数です。で、もう一度聞かれまして、中国行ったときに何枚撮ったかっていうんですが、ええと、確か六百ちょっと。なんでそんなこと突然聞いてきたのかと思ったら、なんか海外行くそうですよ。フランス、今週木曜からって、えー、知らんかったよ。いいなあフランス。というわけで、急遽SDカードを買うことになったのです。四百じゃ足らんのかといわれたら、まあ足らんでしょうな。中国旅行は四泊五日、それで六百枚。一日あたり百枚ちょっと。けれど、これは撮れる枚数がトータルで七百枚と少ないから、セーブした結果なのです。だから、本気で撮ったら千枚はいくよ! というわけで、もともとの1GBに加え、借り物の512MB、新規購入の1GB。充実の一千枚態勢ですよ!

もしこれがGR DIGITALだったら、七八百枚ってところでしょうね。2GBが欲しくなるところですが、まあ普通に生活しているなかで撮るのなら1GB三百枚でも多すぎるくらいです。けど、ほんのちょっと前まで高価で買いにくかった1GBや2GBが、普通に気楽に買える値段まで落ちていて、正直驚きでした。私はこのSDを家電量販店で買ったのですが、1GBが2180円というんですから。私がGR DIGITALとあわせて買ったSDカードは上海問屋の1GBでしたが、激安で知られた上海問屋SDが当時で四千円程度。ところが今は家電量販店にぷらっといって買ったら二千円。なんじゃそりゃってくらいに値下がりしていて、ネットで買ったら二千円以下ってんだから驚きますよね。正直、次に買うときには2GB(三千円しないってどうでしょう?)もありだなって思うような状況です。

さて、ハギワラシスコムのSDカード、まあCaplio R4で使えないわきゃないだろうって思って試し撮りをしてみたら、なんら問題なく認識して撮影できて、不具合や相性云々の問題もないみたい。安心いたしました。

2007年6月17日日曜日

DoReMiFa

 朝、駅へと向かう車、聴こえてくるラジオ(FM COCOLOだったっけ)。その時流れていたのは、どことなく懐かしい感じの曲。メロウな歌声で、ずいぶん昔に流行ったような曲調。歌詞にしてもマドロスと、最近耳にしないような言葉が使われていて、けれどこれは懐メロなんかじゃないっていうのは、曲全体の雰囲気がしっかりと主張している。懐かしいのに新しい。なんだか不思議な歌だなあと思って、できればまた今度ちゃんと聴きたいと思ったものだから、歌詞の特に特徴的なところを覚えようとしたんですが、曲が終わってからちゃんと曲名が紹介されました。『マドロス横丁』、歌っているのは中山うりです。ああ、中山うりだったのか!

中山うりといったら、iTunes Store恒例のフリーダウンロードで紹介された人ですよ。2006年の9月13日の週。その時の曲は『月とラクダの夢を見た』で、ゆったりたゆたうような曲調に、やっぱりメロウな歌声。雰囲気はちょっとアンニュイ。名前が独特だったということもあるんですけど、しっかり覚えていました。ってのは、やっぱり曲がよかったってことだと思うんです。iTunesで、iPodで、全曲シャッフルして聴いている時、あ、結構好きな感じの曲だと思ったら確認してしまいますよね。そうして、ゆっくり私の記憶に残っていくものは確かにあって、中山うりという人にしてもちょうどそんな具合であったのでした。

さて『マドロス横丁』。これ、なんだかフランスの小唄思い出させるような感じでして、でもこれってきっとアコーディオンのせいだと思うな。私は知らずに聴いていたのですが、中山うりという人はアコーディオン弾く人なんですね。そういや、iTSからダウンロードした『月とラクダの夢を見た』のジャケットでもアコーディオン抱えてましたわ。ちっとも気にしてなかった、って実にいい加減な話。まあ、私なんてそんなもんです。

閑話休題、『マドロス横丁』ってちょっとマヌーシュ・ジャズっぽい響きを持っていて、こういうところに私がちょっと昔風の雰囲気を感じ取った理由があるんだと思います。いや、マヌーシュ・ジャズが古いジャンルといいたいのではなくて、どうしてもこのジャンルを聴くと、ジャンゴ・ラインハルト思い出してしまうものですから。ジャンルがある種の時代を内包している、そんな感じなのです。

だから私はこの歌聴いて、はっとマヌーシュ・ジャズの空気を感じ取ったかと思ったら、写真やら映像やらに見る時代掛かったフランスのカフェの雰囲気を脳裏に思い浮かべてしまったんですね。けれど流れてくる曲、歌われる歌は明らかに新鮮さを持っていて、そしておそらくはこの不思議な感覚の同居感に引かれる人が多いのだと思うのです。フレッシュですごく身近と感じられる感覚があるのだけれども、それでいて異国風で、ちょっと懐かしくて、おしゃれで — 。

このところ、テレビやら街角で耳にするような、売れ線とは雰囲気を異にする曲であると思います。けれどおそらくはそういうところに魅力があるんだと思います。飼いならされてない感じといったらいいか。よくはわかりませんが、けれど聴いているとなんだか嬉しくなってくる、ほっとする。そんな感じなのです。

2007年6月16日土曜日

チョコレート戦争

  先日購入した『まんがタイムラブリー』において、『サクラ町さいず』の作者松田円がこんなこといっていました。エクレアと言えば「チョコレート戦争」を思い出します。内容は忘れても、お菓子の描写は忘れない私。そう、私もしっかり覚えています。S市はすずらん通りにあるという洋菓子店金泉堂のエクレールを食べようというその描写の巧みさを:

エクレール — それは、シュークリームを細長くしたようなもので、シュークリームとちがっているのは、表面にチョコレートがかかっていることだ。

これをたべるには、上品ぶってフォークなどでつついていたら、なかにいっぱいつまっているクリームがあふれだして、しまつのおえないことになる。そばを、つるっとすくってたべるように、いなずまのような早さでたべなくてはならない。

そのため、フランス語でも、この菓子の名前を「いなずまエクレール」というのである。

この名文に続き実際にエクレアを口にする描写が続くのですが、それがまた大迫力。この本を読んだ当時、まだエクレアを食べたことのなかった私は、この未知の魅惑の洋菓子に魅せられましてね、一体どんなにかすごい食べ物なのだろうとわくわくしたんですよ。エクレアとの出会いは後に果たされ、私はこれがかのエクレアか、いなずまのようにして食べなければならないエクレアかと思って、食べて、幻滅した! それくらい、この本に現れるエクレアの表現は素晴らしかったのですよ。そんなわけで、私はいまだに金泉堂のエクレールに優るフランス菓子に出会えていないのです。

けれど、この本はただお菓子が美味しいってだけの話じゃないんですよ。むしろここにはもっと大事なものが描かれていて、それは一言でいえば名誉であると思います。ある日、金泉堂にシュー・ア・ラ・クレーム(金泉堂ではシュークリームを正式にこのようによんでいた)を買いにいって、思いがけない値上がりに買うことのできなかった少年二人が主人公。なんとかならないものか、金泉堂のショーウィンドウ前に立って話していたときに、突然ウィンドウのガラスが割れた! 金泉堂の主人谷川金兵衛氏はふたりを捕まえて、そうここに冤罪が発生したのです。当然やっていないと言い張る少年たち。だけれどおとなたちは二人の言い分を聞こうとはせずに、今や味方は担任の桜井先生ただ一人。こうした状況のなか、少年たちは大人に一矢報いることができるのか!?

わくわくしましたね。なにもお菓子の描写が素晴らしいだけではないといったのは、この自分の名誉を回復しようと少年たちがとった行動だと思うのです。あんまりいったらネタバレになるから、もしこの本を読んでみたいという人は、ここらあたりでお引き取りを。そう、どうしてもこの先、物語の核心に触れないではおられません。だけど、この本をこれから読むという人には、伝聞ではなく、自ら読んで、知って欲しい。それこそ自分自身が体験するように、物語に出会って欲しいと思います。

さて、少年たちの復讐はまずは間違ったやり方でもってなされまして、けれどそのやり方というのが痛快。けれど大人は一枚も二枚も上手だったという、その流れは今となってみれば非常に正しいものであったと思うのです。この本の作者は、仮に相手が大人であったとしても、自分に非のないときにはきっちり戦いなさいよといっているんですね。けど、それは復讐や意趣返しのようなものであってはならない。正々堂々と立ち向かいなさい、清廉な勝利をつかみなさいと、そういうメッセージが利いている。そうなんですよ。一旦は間違った子供たちは、それによって手痛いしっぺ返しを受けて、そして正しい戦い方に切り替えるのです。そして、大人たちに反省を促し勝利を得たのは、他でもないその正しい戦い方であったのです。

正しい戦い方。 — 相手に打撃を与えるために、自分自身の欲求をも抑えて戦った子供たちの心中はいかなるものかというんですね。この戦い方を選んだ子供たちの意気込みは、物語中にきちんと用意された伏線によってはっきりとさせられます。実は、主人公の一人である明は、先の戦いの前にすでに一度負けていたのです。心で負けているのです。けれど、大人たちの手のひらの上で躍らされたと知った彼らは、名誉のために自分の欲を抑えてまで戦うと決めて、そして同志を募り、この戦いを自分たちだけのものとしてではなく、子供たち全員の戦いにしてしまった。名誉と連帯。子供たちにも意地があるんだよということを、それもわがままや意固地ではなくて、正しい意地の張り方があるんだよと、この物語はいっていて、子供の頃にこの本を読んでは痛快に思ったのは、他でもないこの子供たちの意地が大人の思惑を超えてしまうところにあったんだというんですね。

けれど、ここはやっぱり児童文学の素晴らしいところだと思うのですが、絶対の悪人を置かないのです。一度は子供たちに負けた谷川金兵衛氏ですが、彼にしても決して悪人じゃあない。自らの非を認めて彼は太っ腹なところを見せて、そしてより一層金泉堂は繁盛したのでした。そう。最後にはみんな仕合せになってしまう。戦いなんてなかったように和解して、元通りどころかそれ以上に仲良くなれる。これもやっぱり正しい戦い方なんでしょうね。決着ついたら仲直り。こういうところ見ても、やっぱ、児童文学は真っ向勝負で痛快だというんですね。

引用

2007年6月15日金曜日

鬼切丸

  文庫になったのをきっかけとして買いはじめた『鬼切丸』。本日、最終巻となる第8巻を買いました。人の心の闇からたやすく生まれて人に災いをなす鬼と、その鬼を追い、討つ純血の鬼の物語。とうとう終わってしまいました。毎回毎回これでもかと人死にが出るような漫画です。不幸や悲しさ、理不尽が、凄惨ながらも美しい筆致によって描かれて、正直そのむごさというか容赦のなさに読み疲れたこともありました。人間の欲望や憎しみにしてもそれほどバリエーションあるわけでなく、当初ほどの鮮烈さも薄れてきて、面白く上質だけれども、最高ではないと思うこともあって、けれどこうして物語が閉じられてしまうと、それも思いのほかにきっぱりと終わってしまうと、なんかほっとするというよりも、がっくりとくるような、この半年ばかり、毎月の楽しみになっていたこの物語に、もう出会えることはないんだなと思う寂しさが色濃いですね。そうなんですね。私も結局は人の身で、突かれれば血も出る、ちょっとしたことに寂しさを思うこともあるのです。たとえそれが漫画の中の、実際には存在しない人のことであっても、かわらず寂しさを思うこともあるのです。

 『鬼切丸』は平成元年から13年まで続いて、その間に楠桂の描く絵の雰囲気もずいぶんと変わって、文庫第1巻を読みはじめた頃にはそれほどにも思わなかったんですが、第8巻を読み終えた今、再び第1巻を見返してみると、驚くほどに違っています。基本的なところは変わらない、見るものをはっと釘付けにするような華やかさや鬼という非現実を説得力を持って表現するうまさは第1巻の時点ですでに充分すぎるといっていいほどにできあがっていて、だとしたら違うところはなんなのだろう。それはおそらくは洗練でないかと思うのですが、十余年をもって楠桂はずいぶんとスタイリッシュになり、持ち前の華やかさをより一層に強化して、けれどその反面、絵の端々に現れていた生々しさは薄れたように思います。

さっきいっていた、巻を重ねるごとに鮮烈さが薄れてきたというのは、もしかしたらちょっと違いますね。鮮烈の度合いは、後の方が優ってると思う。話にしても、マンネリになりがちなところを工夫して、読むものの予測を裏切りながら意外性を持たせたり、また真っ正面から人の悲しさを取り上げてみたり、バリエーションに関しても深みにしても後期が前期に劣っているとは思われません。でも、もしそこに物足りなさを感じるのだとしたら、おどろおどろしく肌に感じられる気持ちの悪さや恐ろしさ、当初の表現が持っていた生々しさの薄れたためではないかと思います。あるいは、鬼切丸を持った少年が、あんまりに人に馴れすぎてしまったからか。逆に、人があまりにあの少年に慣れすぎてしまったからか。けれど、それでも私は、端っからどこか寂しげで悲しげだったあの少年に、誰かとの繋がりがあってくれればいいと思っていたから、そうした馴れ合いも含めて、嫌だとは思っていませんでした。

最終話は、鬼切の少年に関わってきた人たち、主要どころが勢ぞろいした、いわば仕組まれた舞台で、その仕組まれ方、豪華オールスターキャストといいたげな趣向にはちょっと嫌だなとも思ったんだけれども、それでも読んで、あのラストを見て、いや、ラストじゃないですね。ラストに向かう最後の転換点に見えた、少年鬼の無垢な思いの丈に胸が一杯になって、だってさ、これまでずっとなにかとシニカルに、時に思い詰めたようにやってきた彼があんな表情を見せるだなんて思わなくて、胸に迫るものがありますよ。出来過ぎのラストだったかも知れないけれど、さすがは楠桂というべきか、ご都合主義にはさせないきれいな線の引きかたに、私はいや一層に彼そして人の持っている業や悲しさを感じたのだと思います。

『鬼切丸』、いい話でした。また折りに触れて読むだろう、そんな漫画だと思います。

  • 楠桂『鬼切丸』第1巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2006年。
  • 楠桂『鬼切丸』第2巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2006年。
  • 楠桂『鬼切丸』第3巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第4巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第5巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第6巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第7巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第8巻 (小学館文庫) 東京:小学館,2007年。
  • 楠桂『鬼切丸』第1巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1992年。
  • 楠桂『鬼切丸』第2巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1993年。
  • 楠桂『鬼切丸』第3巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1993年。
  • 楠桂『鬼切丸』第4巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1994年。
  • 楠桂『鬼切丸』第5巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1995年。
  • 楠桂『鬼切丸』第6巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1995年。
  • 楠桂『鬼切丸』第7巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 楠桂『鬼切丸』第8巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 楠桂『鬼切丸』第9巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 楠桂『鬼切丸』第10巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1996年。
  • 楠桂『鬼切丸』第11巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1997年。
  • 楠桂『鬼切丸』第12巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1997年。
  • 楠桂『鬼切丸』第13巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1997年。
  • 楠桂『鬼切丸』第14巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1998年。
  • 楠桂『鬼切丸』第15巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1998年。
  • 楠桂『鬼切丸』第16巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1999年。
  • 楠桂『鬼切丸』第17巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,1999年。
  • 楠桂『鬼切丸』第18巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2000年。
  • 楠桂『鬼切丸』第19巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2000年。
  • 楠桂『鬼切丸』第20巻 (少年サンデーコミックス) 東京:小学館,2001年。

DVD

VHS

2007年6月14日木曜日

ウッドストック — 愛と平和と音楽の3日間

 なんでか知らないけど、『ウッドストック』のDVDを見てます。たまに見たくなるのです、なぜかわからないけれど。『ウッドストック』というのは、1969年、アメリカはニューヨーク郊外にて開催された音楽フェスティバルの名前です。三日間、全米から集まった四十万という想像を絶する聴衆をわかせた、一種伝説的なコンサート。その模様はドキュメンタリー映画としてまとめられて、今ではDVDにもなっている。というか、なんか毎年のように再リリースを繰り返しているみたいですね。現時点で九種類ほどあるようですが、面白いのが再リリースのたびに値段が下がっていってるところ。私が購入した2005年7月時点では千円ちょっとだったのが、もう千円割ってますからね。でもって、収録時間は224分。驚愕のコストパフォーマンスですよ。けど、時間が長けりゃいいってもんじゃない。問題は内容であるわけですが、こちらも申し分のないもので、つまり私がなにかの弾みで『ウッドストック』を見たいなあと思うというのも、この内容の充実があるからなのだというのでしょう。

私がこの映画を見たくなるきっかけというのは、Richie Havens半分、Sly & The Family Stone半分って感じであるのですが、もちろん見始めればこれだけで終わるものではなく、最後の最後までぶっ通しで見てしまうこともしばしば。映画は音楽がメインであるものの、同時にこの音楽フェスティバルを取り巻く状況の記録もメインであり、音楽が社会と連動している、世相やカルチャーと切り離して音楽だけを語ることはできないということが改めて意識されるできとなっていると思うのです。

全盛期アメリカ、物質面での充実が揺るぎない自信を支える根拠となっていた時代。けれど、若者たちは物質ばかりがあふれる社会にどこか物足りなさをも感じ、新たな価値観を模索していた。東洋に可能性を見出そうとしたり、LSD、マリファナ等の薬物で現実逃避的なトリップを楽しんだり、そんな風な世相が、この映画からだけでも見えるような気がします。愛や相互理解を信じ、自由や希望を求める若者の健全な姿が映し出されるその裏面に、その場限りの刹那的な熱狂や陶酔を求めさせる不安が漠然としてある、 — まあこんなこといえるのはその後のアメリカの姿を知っているからなんでしょうけれど、でも実際あの享楽的で美しい若者たちを見ていると、ともに危うさも感じるんですよね。

けれど、それでも彼らはまだ健全なのかな、と思うのは、少なからずそこに希望や理想があるからなんだと思って、いやね、音楽に逃避するのではなく、音楽をカウンターカルチャーとしてどんっと打ち出せるのは、ちょっとうらやましいかもななんて思ったりするものですから。今はそういう時代ではなくて、特に日本ではそんな感じがするんですが、音楽はあくまで音楽であって、政治だとか主張だとか、そういうのは関係ないみたいな態度が今はもう普通になってる。そういう考えもあっていいと思いますし、私自身あんまり政治や主張まみれのアジじみた音楽というのもどうだかなあ、みたいに思う方の人間なんですが、けれどそれにしても音楽はあくまでも音楽というような言い方がされると、音楽というのはもう終わりかなとも思うんです。音楽にあらかじめ枠をはめてしまっていると感じる、可能性を殺してしまっているような気がする。けれど、『ウッドストック』なんかを見てると、そういう枠なんてまったく最初からなくって、むしろかわりに幻想があるといってもいいかもは知れないんですが、でも小さくまとまってしまうんだったら、幻想でちょっといっちゃってるほうがいいんじゃないかな、なんて思います。

そんなこといってる私はというと、そもそも主張らしい主張もない薄弱なたちであるものですから、自分の音楽の方向性すら見付けられずにふらふらとさまようばかりで、だからこそ『ウッドストック』の若者たち、なかんずく音楽家たちにうらやましさを感じるのかと思います。音楽の時代は過ぎちゃったからな、なんてシニカルこというばかりで、なんらその状況に対抗できない不甲斐なさを叱咤したくて『ウッドストック』見る、といったら言い過ぎかも知れないけど、けれど私はやっぱり音楽の可能性を信じたいんだと思います。

2007年6月13日水曜日

Yotsuba&!

  あずまきよひこの『よつばと!』はやっぱり人気があるようで、評価も実際高いみたいですね。なんか賞貰ったとかってきいてます。でも、それも納得だなあなんていうのは、ちょっとファンとしてのバイアスかかった意見だと思うので、黙殺してくださるとありがたいです。さてさて、この『よつばと!』のいいところはなにかというと、万人が楽しめる可能性を持っている、ってところかと思っているんですが、つまりですね、子供というある種普遍的な存在が世界と出会っていくという物語。子供が読んでも面白いだろうし、また親になった人、あるいはもうおじいちゃん、おばあちゃんになろうという人、なった人が読んでも面白さを見出せるんじゃないかななんて思っているんです。もちろん、私のようにすでに子供でもないし、また親でもないという人間が見ても面白い。こういう、さまざまな年代、性別に訴える漫画というのは、やっぱりちょっと貴重だというように思っています。

で、ここで以前にもお伝えしましたが、この漫画は英語版も出ておりまして、その名もYotsuba&!。これ、出たのずいぶん前の話で、書誌を見れば2005年ですね。おととし。私は英語で漫画を読む趣味はないのですが、けれど好きな漫画が別言語で出ると知れば、読んでみたくなるのも人情で、そしてざっと読んでみて、訳に苦心してるところだとか、あるいは日本にあって現地にないようなものを、別のなにかで代用しているところに、うまいなあと思ったり、あるいは無理があるなあと思ったり。そういう楽しみ方をしています。

『よつばと!』は英語版が出た後も着々と巻を重ねているわけですが、そのわりにYotsuba&!の新刊は出ないので、アメリカではうけなかったのかなとか思っていたのですが、先日のこと、Amazon.co.jpからメールが届きまして、Yotsuba&!新刊が出るから予約しちゃいなよ、ってことみたいです。なお、4巻が8月、5巻は10月に出る模様です。

4巻といえば川遊びの回がある巻ですよ。わたし、あの回が結構好きで、なにごとにも動じず興味津々で取り組む恵那が魅力的だったり、なんかおてんば娘っぽいのに変に気の弱いところのあるみうらが可愛かったりで、そりゃもうどうしようもないんですが、ほんでもって風香の失恋だ。英語になるってんなら、あのグッバイマイラブはどう訳すんでしょう。Good-bye, My Loveならあんまりにもなんてこともない訳で、というか、あえて英語というだささが表現されないわけで、とくれば、こりゃフランス語だな。というわけで、Adieu, mon amour.あたりが本命。けど、amourはloveに対応する愛や恋を指す語なんだけど、恋人への呼びかけにも使われるからなあ。でも、間違ってもAdieu, mes amoursにはならんと思います(複数形で特に恋を指すんだそうです)

4巻ではラジオ体操の扱いあたりもちょっと気になるところです。で、5巻は! また今度書きます。まずは4巻を楽しみにしたいと思います。

  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 1. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 2. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 3. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 4. Texas : ADV Manga, 2007.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 5. Texas : ADV Manga, 2007.
  • あずまきよひこ『よつばと!』第1巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2003年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第3巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第4巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2005年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第5巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第6巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • 以下続刊

引用

  • あずまきよひこ『よつばと!』第4巻 (東京:メディアワークス,2005年),129頁。

2007年6月12日火曜日

ことはの王子様

  web拍手見てたらですね、「ことは〜」はお買いにならなかったのでしょうかとの問い合わせがありまして、このことは〜というのは、このBlogの読者さんには説明せずともおわかりだろうと思うのですが、渡辺純子さんの『ことはの王子様』でありますね。それも、つい先月の末に発売された第2巻をさしていることも明白でしょう。ええ、ええ、買っておりますよ。買わないわけがないじゃありませんか。けど、じゃあ、なんで記事として取り上げなかったのか。これにはちょっとだけ理由があります。

こととねお試しBlogには取り上げる基準ないしは優先順位というのがありまして、それはどんなかといいますと、

  1. 好きなもの
  2. 語りたいもの
  3. 今、自分の中でホットなもの
  4. 今の時期を逃すと取り上げる機会のなさそうなもの
  5. これまでに取り上げられていないもの

だいたいこんな感じかと思います。で、先月末に取り上げましたまんがタイムKRコミックス四タイトルに関してはどういう基準が適用されたかといいますと、だいたいこんな感じ:

雅さんちの戦闘事情
第1巻であり新鮮だった
最初はともかく今は結構好き
ビジュアル探偵明智クン!!
最終巻でありこれを逃すともう機会がなさそう
意外にもこれまで取り上げられていなかった
ワンダフルデイズ
今、自分の中では結構ホットな漫画
その上、意外にもこれまで取り上げられていなかった
ひめくらす
今、この作家は旬だと思う
さらに加えて、意外にもこれまで取り上げられていなかった

そうなんですよ。『ことはの王子様』は5月発売のKRコミックスにおいて唯一過去に取り上げたことのある漫画だったのです。いや、そうじゃないよ。『ROM-レス。』も取り上げてたわ。もちろんこの本も買ってます。しかし、今回完結の『ROM-レス。』を取り上げなかったのは、『みなむーん』の時点で四コマでこんなに引っ張るのもどうだろうと思ったからで、一応ひとつのカテゴリに偏りすぎないように気は使ってるんですよ。そうは見えないとは思いますし、そもそももう手遅れという感じもするんですが。

というわけで、『ことはの王子様』第2巻。第2巻読んでから第1巻読み返すと、そのあまりの雰囲気の違いに驚かされるというか、なんというか割合みんなおとなしくてですね、いやちとせは最初から変態ですけど。それにせのお様は時折にまゆかさんのことを思い出してみたりして、その度にことはの胸中はざわめくのでありました。なんていうような展開もあったりして、そしてそれが基調のカラーになっていたんだなあと思うんです。ですが、今やせのお様とことはの仲はほぼまあ確定ですから、そうした思いのすれ違いというような見せ方はなくなってですね、かわりにメイド連中の暴走ぶりを楽しむという、まあ主にちとせが暴れるんですが、そういう感じです。でも、ちとせのこういう役割が確定するまでは、執事の小清水さんが無茶な案件を持ち込むことが多くてですね、けれど最近、小清水さんってあんまり出てませんよね。それこそ、その他大勢の背景レベルにまで後退してしまって、栄枯盛衰、黄色い悲鳴をあげる役目が関の山という侘びしさです。

漫画の雰囲気が結構変わったというのには、やっぱりせのお様のまゆか熱がお冷めになったことが大きいのではないかと思います。もともとは恋心のすれ違い、ことはの気になるご主人様はことはではない別の人を思っていて、けれどそれでもせのお様は意識しないまでもことはを特別に思っていることは明らかで。こういう、ぱっとは燃え上がらない、穏やかに切ない恋心がドラマの軸だったんですよね。けれど、せのお様は今ではまゆかさんを思い出すことはなくなって、いわば中心となる軸が失われてしまったわけで、そしてその後新たな軸として見出されたのが、暴走するメイドたち、まあ大抵はちとせなんですが、マニアックな趣向でもって状況のかき回される様がメインになったというのでしょう。

けど、それでも当初の軸を継承しているところはあって、例えばそれはせのお様の従姉である秋緒と秋緒付のメイドであるリナなんだろうと思います。秋緒はせのお様を思っていて、しかしリナは秋緒を思っていて、もちろん秋緒はリナを嫌ってなどはいない。この関係は当初のまゆか、せのお、ことはのそれに同じです。けれど、彼女らはかなりメインよりのキャラクターであるけれども、それでも完全にメインにはなり切れないという微妙な位置で、やっぱりメインはせのお様とことはなんですね。だからリナの報われない思いの行方は、ことはの思いに比べ深く取り上げられることは少なく、だからこうした穏やかにして切ない胸中の嵐という要素は第2巻あたりではずいぶん薄れてしまっています。

今の状況は、微妙に迷走しているのかも知れません。第二の軸であった暴走メイドから、新たな軸に移行しようとしている時期なのかも知れません。今はまだその方向は見えませんが、この時期を超えたら新たな着地地点も見つかるのではないかな、なんて私は思っています。私自身、なにを書こうにも、書こうとするもの、いいたいことが見つからないなんてことはありますが、けれどそういう時期を抜ければ、また先に進めるものですから。

というようなわけで、そろそろ原点回帰的な動きがあるのではないかと思っています。

  • 渡辺純子『ことはの王子様』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 渡辺純子『ことはの王子様』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年6月11日月曜日

まい・ほーむ

  あれほどむんこについてはいろいろ書き散らしているにも関わらず、『まい・ほーむ』に関しては口を閉ざしてノーコメントを貫いていたのは、あの親父さんがどうにも好きになれなかったからだと思うんです。『まい・ほーむ』。父一人子一人で頑張る堀川さんちの暮らしの風景が四コマにてつづられた、ちょいギャグ、けれど実際はほのぼのもの、 — と思うんですが、なんかね、読んでると苦労してるのは娘の舞だけかよみたいな気がしてきましてね、まあ、親父さんが子供なんですわ。この、子供という表現ですが、文字通り子供。お前、小学生かよ、ってなのりを家でも会社でもやってて、正直感情移入のしにくさはむんこ漫画における筆頭格であり、というか読んでていらっとくることもしばしばで、だからきっと書けばぼろくそになるだろうと思って黙殺したのです。けど、1巻読んで2巻も読んで、どんなに駄目な大人でも、舞にはこの親父さんじゃないと駄目なんかなと思うところもあって、こと日常を離れて二人でやんちゃに過ごすような話なんかを読むと、それまで親父さんに感じていた不快感なんてのは吹き飛んでしまうような楽しさがあって、そうかあ、こういう関係はあってもいいのかも知れないなと思うところもあるのでした。

けど、一体なにが駄目だったというんでしょう。駄目社会人を主人公(格)に据える漫画は、こと四コマに関しては枚挙にいとまのないほどにたくさんあるというのに(というか、植田まさしの漫画は大抵そんな感じだわね、『かりあげくん』とかさ)、また駄目親父に手を焼きながらたくましく生きる少女の物語というと『じゃりン子チエ』あたりが思い出されますが、これに関しては劇場版のLD買うくらいに好きだというのに、じゃあ『まい・ほーむ』の親父が受け入れられなかったのはなぜか。というと、それはキャラクターなんだと思うんです。当初、この親父はあんまりに浅すぎたように思います。まんま子供。親らしい必要なんてのはさらさらないとはいってもさ、甚だしすぎたのだと思うんです。どこまでいっても悪ふざけ、まともの範疇に入らないのはいうまでもないことで、かといって規範や常識を打ち破れるようなパワーがあるわけでもない。ただ迷惑なだけのアダルトチルドレン親父 — 。

と思ったら、本当にアダルトチルドレンだったというのは参ったな。こういうので免責というのはちょっと勘弁して欲しい。

けれど、最前にも少しいいましたけれど、舞にはこの親父があってるんだということが描かれているから、こうした駄目な大人だけれども、許容され得る部分も出てくるんだと思うんです。舞はむやみにしっかりしている小学生だけれど、子供らしさがないというわけでもなく、むしろ子供っぽいやんちゃや悪ふざけも嫌いじゃないという、そういうキャラクターなんです。だから舞は、時に親父に手を焼きつつも、けれど同じ目線でもって向き合って、対等な関係でもって遊んでいる。2巻収録の自転車の話なんてのはその典型でしょう。金がない。じゃあ、自転車でいこうやという適当なのりで遠出する、それだけの話なんですが、それがむやみやたらと面白い。親父も舞も生き生きとして見えて、普段はこうしたのは生活感あふれる四コマの中に数本紛れてくるといったところが、がつんとまとめてやってきて、そうかあこの親父は親父と思っちゃ駄目なんだと思った。舞の相棒なんだと、そう思ったらそれまでのもやもやみたいのがぱっと晴れて、がぜん面白さが増したのでした。

ただね、この作者の癖だと思うのですが、妙にいい話にしようとしたり、妙にシリアスにしようとしたりするところがあって、あんまりにそういう面が出てくると私はちょっと居心地悪くなってしまうたちなんですが、幸い『まい・ほーむ』はそういう方面薄味で、 — と思ったらちょっとずつ出てきてますね。でも、どうも後書き見ると次巻で完結の予定だそうです。となれば、あんまり人情味だとかなんだとか押し出すことなく、舞と親父の快活おふざけ生活メインのままに終わるのではないかと予想されて、これ正直いい引き際だと思います。仮にその向こうに暗さ、悲しさ、辛さがあるのだとしても、『まい・ほーむ』に関しては、掛け値なしの明るさ、楽しさ、元気さで、底抜けに楽しくいってほしいものだと思います。

  • むんこ『まい・ほーむ』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2005年。
  • むんこ『まい・ほーむ』第2巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2007年。
  • 以下続刊

2007年6月10日日曜日

邪眼は月輪に飛ぶ

 漫画を好んで読む人、とりわけ少年漫画系の人にとっては藤田和日郎という名前は特別の響きを持っているように思うのです。古くは『うしおととら』において一世を風靡して、ヘビーでコアな漫画ファンからもライトな読者からも支持される漫画家、それが藤田和日郎という人だと思います。けれど、ここでちょっと白状しますと、私は藤田和日郎の漫画をきっちり読んだことはないんですよね。『うしおととら』は、最後の方をちょっと読みました。白面と戦うクライマックスの頃だったかなあ。海底にいる敵に人間、妖怪が連合組んで特攻してた、そんな頃を読んでいました(記憶でしゃべってるので違ってる可能性大です)。それと『からくりサーカス』。これは連載開始の頃から読んでいて、けど途中でリタイアしています。面白くないからとかじゃなくて、単純に『少年サンデー』の供給が断たれたから。あの、ゾナハ病の兄さんが死んだかなんだかしたところまでですね。正直なところいうと、これらの漫画きっちり全部読みたいんですが、今から読もうにも巻数が多いから、なかなか手が出ないという、そういう残念な状態になっています。

だから『邪眼は月輪に飛ぶ』を書店にて見付けたときには、そしてこれが単巻ものであると知ったときには、ああ嬉しいと、これでようやく藤田和日郎を読めるという思いでありましたね。買いました。中身も知らないのに。内容はというと、見ることによって生物を死に至らしめる異能を持ったフクロウ、ミネルヴァに命を賭して挑む猟師たち四人の物語。主人公は猟師鵜平に、拝み屋をする血の繋がらない娘輪、アメリカデルタフォースのマイケル・リード、CIAエージェント・ケビン。その誰もがうちに複雑な感情を押し込めながらも、ミネルヴァを追い仕留めるという目標に一致団結し、邁進する — 。その過程が素晴らしかった。

表にはミネルヴァという異形との戦いを配置しながら、その奥には人間のドラマを描いていて、特に主人公鵜平の胸に秘められた思いの鬱屈、この表現が素晴らしかった。どちらかというとシンプルなテーマ、シンプルな話であるのだけれど、それがぐいぐいと読むものの胸に押し込まれるように効いてくるのは、藤田和日郎の描き方の勝利であろうと思います。描き方とは、単に絵の力だけをいっているのではなく、話の運びにおいてもそうで、話の最後、最後の最後に明かされる鵜平の真実、そして鵜平が悔いも恥も乗り越えたあのコマがあれほどまでに力強いものとなったのは、入魂の作画にここに至るまでに少しずつ積み上げられてきた物語が乗ったからでしょう。半ば生きることをあきらめていたとしか思えない鵜平に生きようという思いを起こさせたのは、そして生き残るチャンスを与えたのは、娘輪への情であり、輪の父鵜平に向ける思いであり、そして鵜平とともに走った男たちの執念であったと思うのですね。

そしてそこには間違いなくミネルヴァの存在も効いていて、周囲に死をまき散らすという兇悪な能力のインパクトがまずあって、そして傲った人間どもの思惑を超えて翻弄する強さがあって、けれど生物としての悲しみもともにあって、 — いうならば悲しさを抱いたもの同士が命のやり取りをしていた。そして、その勝者となったものはその悲しみを乗り越えたのだと、そのように思います。

藤田和日郎は、つくづく真っ向勝負の人だと思います。シンプルな話だといいました。今は物語にせよなんにせよ氾濫して、大抵のことは語られてしまっていて、このような状況下で普通のことを語るというのは非常に難しいというのに、藤田和日郎は真っ向から取り組んで、普通を普通でないように語ってしまう。下手に描けばありきたりのそしりを受けるはめになりそうなところが、藤田和日郎にかかれば特別になってしまう。本当に、語る力のある漫画家だと思います。

2007年6月9日土曜日

大航海時代

 歴史もの中国ものがそれほど好きではない私には、コーエーのゲームはあんまり魅力的とは思えませんでね、それこそ『真・三國無双』のシリーズくらいしか遊んだことないのです。とはいっても、実は例外があります。それはなにかといいますと『大航海時代』でありまして、これ、高校生の頃だったと思うのですが、近所の電器屋店頭のワゴンにて投げ売りされているのを見付けまして、五百円とか千円だったのかなあ、これくらいの値段なら買ってもいいかなあなんて何の気なしに買って、そしてはまってしまったのです。どういうゲームかはタイトルが示しています。ヨーロッパは大航海時代、海にフロンティアを見出した冒険者たちの活躍するゲームであります。これが、これがべらぼうに面白かったのです。

ただ、私がプレイしたのはファミコン版で、妙に粗い画面で、地図なんかも微妙な感じの再現性。もし今再びプレイするとしたら、ええーっ、こんなにしょぼかったっけと驚くこと間違いなしであるのですが、けれどそのプレイしていた当時には、その映像の非力さ、表現性の乏しさに対し、不都合を感じたことなんてありませんでした。

プレイヤーはお家再興をもくろむ青年。最初は小さな船で、地中海沿岸にある港みなとを回って、オレンジやらなんやらを安く仕入れて高く売る。つまり貿易しながらお金を稼ぐゲームなんですよね。お金を貯めて、船のグレードアップをして、港にて船乗りを雇っては船長にして、ゆくゆくは船団組んで大交易をやるってわけですよ。けど、その歩みは実に遅々として、最初はそれこそ、地中海から怖くて出られませんでした。船の能力が低いとですね、嵐や時化で流されたりするんですよ。流されるだけだったらいいんですが、2番3番船が行方不明! なんてことにもなって、そうなったら大損。なので、本当に慎重に少しずつ船団を育てていって、スペインからポルトガル、そしてロンドンにまでいけたときにはちょっとした感動がありました。

そしてここからが本当の大航海なんだと思います。北欧へゆき、アフリカを回り、喜望峰超えてインドまでいって。そしてゆくゆくは日本にまで達するんですよね。途中途中で補給しながら、陸伝いにこわごわ航海して、そして自信がつけば大西洋横断ですよ。目指すはアメリカというわけで、本当に世界をまたにかける冒険が楽しめる。本当にふところの広いゲームだったと思います。

このゲームの基本は交易ですが、他にも武装して海賊を退治したり、あるいは自分が海賊になったり。悪事働くと出入り禁止くらったり軍に追われたりするから、海賊船を取り締まるほうがいいんじゃないかと思います。あるいは王室からの頼まれ事をうまくこなして名声やらいろいろあげて爵位貰ったりしましてね。こういう立身出世の面白さというのもあるゲームだと思います。

そういえば、このゲーム、宝探しもできるんですよね。宝の地図を手に入れて、まあこれがミッションだったりすることもあるのですが、断片としか言い様のない地図を手がかりに、目的地にまでいって、探して、宝を持ち帰ってくる。けど私はちょっとずるをしていまして、手もとにですね、世界地図を置いていたんですよ。宝地図に見える地形を、地図帳から探し出すんです。これやると、ほんと、宝探しは楽勝になります。本当なら、そういうずるをしないほうが宝探しの難儀さというのも味わえていいと思うんですが、効率を考えると地図だよと、反則っぽい遊び方もしたものです。

大学にはいって、音楽史の授業、最初の時間に記憶を頼りにヨーロッパの地図を書くという課題が出まして、この地図を誰よりも詳細に書くことができたのは、間違いなく『大航海時代』のおかげです。ヨーロッパのみならず世界の地理に精通することができる、地形を理解し、主要な港を把握し、そしてその土地で産出する品なんてものにも詳しくなって、実際私の世界地理に関する知識は、このゲームで得て、そしてこのゲームからいまだ抜け出せずにいるくらいです。

大学を卒業する頃、友人からPlayStation版の『大航海時代2』を貰いまして、遊びたいなと思いながら、いまだにはじめることなく、積んでいます。余裕ができたら、遊んでみたいですね。長丁場になることが予想されるゲームですから、よほどの余裕がないと駄目だと思いますが、けれどいつか必ず遊びたいものだと思っています。

FAMILY COMPUTER

メガドライブ

SUPER FAMICOM

PlayStation

SEGA SATURN

Windows

Nintendo DS

Sony PSP

2007年6月8日金曜日

ボクの社長サマ

  ちょっと年のいきかけた漫画読みにはおなじみだろう漫画家、あろひろしが四コマ誌にて連載している『ボクの社長サマ』。この漫画が始まったとき、私には実に意外と思われて、いや別にあろひろしが四コマ誌で書いちゃいかんという話はないのですが、しかし昔の馴染みの、結構好きだった漫画家が今読んでいる、どちらかといえばマイナーよりの雑誌にくるだなんて。本当に意外でした。けれど意外である以上に、その当初のぎこちなさには戸惑いばかりが感じられた、というのは以前にもいいましたとおりです。

けど、今やすっかり往年の雰囲気、勢いを取り戻したというか、実にあろひろしらしいと思えるのりになっていまして、読んでいてすごく楽しいのです。萌え要素を盛り込もうとしていた頃とは違って、ネタのいろいろがよく回転してる、機能しているという感じでしょうか。あろひろしに独特な、常軌を逸した設定の数々。以前の漫画でいえば、『優&魅衣』なんて、ヒロインの一方が幽霊なのはまだしも、板金鎧着用一家の娘にいたってはもうとんでもどころの話じゃないし、それに主人公が眼鏡はずれて獣人化だもの。学校は無駄にロボットに変形する。マンホールと戦ってる人がいる。残念ながら、こうした変態設定は『ボクの社長サマ』には出てこなくって、……と思っていたら、やっぱり出てくるんですよね。

幽体離脱して小学生社長を見守るメイドであるとか、根性努力勝利で主人公を無駄にしごく秘書課主任だとか、空間を超えるほどの方向音痴ぶりを見せる後輩女子社員であるとか。こういうあり得ない設定のキャラクターを動かして、ネタとしてはべたかも知れないけれど、勢い、のりで突き進むその推進力はやっぱりあろひろしのそれだなあと思うのです。際限なくエスカレートする悪乗りぶりはあろひろし健在と思わせて、無駄に大風呂敷広げるところや空騒ぎの大騒ぎのしっちゃかめっちゃかな展開なんかも実にいきている感じ。さすがに社屋がロボに変形したりはしないけれど、非常識物件は普通に現れてきて、この非常識を楽しませてくれるところ、実にいい正統派のギャグ四コマであると思います。

しかし、萌えにチャレンジしようとして、どたばたのギャグになってしまったと思われた『ボクの社長サマ』ですが、第2巻の最後の最後に萌えキャラがバーンと出てきて、実に良い感じであったではありませんか。ええ、ひな人形のおヒナちゃんです。この前後編で展開されたひな祭りエピソードは、無駄に大げさな舞台を用意してのどたばた大暴れものにして、端々に現れるギャグも切れ味鋭く、また珍しい乙女主任を見ることもできて、実によい回でありました。爆発落ちなぞは今や古典であるけれど、古典すなわちオーソドックス。久々に見る最高の爆発落ちであったと思います。

蛇足

板見先生の造形は非常に素晴らしいものがあると思います。凛々しいボブ、最高です。キャラクターはあれですが……。

  • あろひろし『ボクの社長サマ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社.2006年。
  • あろひろし『ボクの社長サマ』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社.2007年。
  • 以下続刊

2007年6月7日木曜日

メイド諸君!

 書店にいったら『メイド諸君!』の第2巻が出ていて、以前に読んで、どうにもつかみあぐねて気になっていた漫画でありましたから、なにをおいてもまずこれを読んでみて、そしたらなんか以前にくだくだややこしいこといってたのが馬鹿みたいに、普通に読むことができました。タイトルにもあるように、メイドが主人公の漫画。といっても家政婦としてのメイドではなく、メイド喫茶の従業員を巡る漫画です。おそらくヒロインは二人。お上りさん、関西弁がキュートなちょっとのんびり系、千代子と、メイド喫茶の秩序に命を懸けているのか、妙にかりかりとして官僚的な言説態度が光る歩がそうで、この実に対照的な二人を描くことでなにをかを表現しようとしているのだと思います。そしてそれはおそらくは、自我であるとか自立であるとか、そういった方向なんじゃないかなと思っています。

けど、その反面ものすごくおたくにとって都合のいいファンタジーが、これでもかこれでもかと盛り込んであって、正直私は読んでていたたまれなかったよ。これ、絶対わざとだと思う。自分に自信の持てない、対人関係に自信の持てない、そういった自分が行きつけの店の女の子にほのかに恋心を抱いたと思いねえ。知りあいたいが手段がない、話しかけたいがきっかけがない。そんなとき、都合よくその子の身に起こったトラブルを助けたり、そうしたら向こうから興味を持ってくれたり、ってなにこの妄想を見透かしたような展開は! 絶対これ、わざとですよ。こうした展開を、わざとあざとさをともに見せることで、おそらくはおたくであるだろう読者に対してチャレンジしてるんです。被害妄想なのか知れませんが、けど私にはそうとしか思われない。これはお前たちの、ちょっとずれた妄想の物語なんだよと、耳元でささやく声が聞こえそうなぐらいですよ。

けどそれが面白いんですね。妄想がぶちまけられたような展開をストレートに受けて、思わずにまにましながら読むのもよし、反面そのチャレンジしてくる厳しさに身もだえするのもよし。私は現状では半々かなあ。少なくとも物語が動き出した分、1巻よりも楽しみやすいと思いますし、この時点で通読すればまた新しい読み方もありそうだなと、そういう感じです。

私は思っているのですが、きづきあきら、サトウナンキの漫画は、綿密に作られているように見えるけれど、読者の判断に委ねられる領域というのもかなり広めにとられていて、だから読者はその時々の自分の問題をその余地に注ぎ込んで、漫画を自分に引き寄せるようにして読むのだと思います。なので、こういう読み方がマッチする人にはすごく面白い、あるいは意味のあるものとして読めるのだと、そしてあるいは漫画をその実際以上に広く深くして読むのだと思います。

もしかしたら買いかぶりすぎているのかも知れないということはままあります。ですが、それでも私の突かれたくないところを、絶妙な加減で押してくれるものですから困ります。突かれたくないはずなのに、突かれると嬉しくなる。変な話ですが、けどきづきあきら+サトウナンキファンには多かれ少なかれそういった気があるんじゃないかなと思っていて、だからみんな、これは私の物語なんだ! とか思ってるんです、きっと。そしてそう思わせるうまさがあるのだと思います。

蛇足

三角の口して、変な顔になってる野口歩がむやみやたらと可愛く感じられます。生意気なくせにうぶ、いい感じにおたくっぽいという、私の好きなタイプかも、と思う人は多いはずだ。けど、現実に出会うと厳しいことも多いから、やっぱり歩も千代子もファンタジーなんだよなと思う次第。あーあ、現実ってつまんないよね。

  • きづきあきら,サトウナンキ『メイド諸君!』第1巻 (ガムコミックスプラス) 東京:ワニブックス,2006年。
  • きづきあきら,サトウナンキ『メイド諸君!』第2巻 (ガムコミックスプラス) 東京:ワニブックス,2007年。
  • 以下続刊

プロバイダからの回答

昨日の問い合わせに対する返事をいただきました。

あまりにもデメリットが多いと感じられた、ブラックリストに登録されたIPに対する、閲覧レベルでのブロックですが、これはあくまでも次の処置までの一時的対抗策であるとの回答をいただけました。またアクセス制限も解除されているらしいので、アクセス制限を受けてまごまごするという心配はなさそうです。

とりあえずこれからほどこされるSPAM対策ですが、一体どのようなものになるのか。多少の心配もないではありませんが、今の状況を乗り越えるに充分なものとなることを期待したいと思います。

しかしそれにしても、一番悪いのはいうまでもなくSPAMであるわけですが、いうならばBlogや掲示板という他サービスに寄生する彼らが、DoSまがいのリクエスト攻勢をかけることで、その宿主を殺してしまう。そこに自殺めいた不合理を思います。快楽や利益をあまりに追求しすぎるあまりに、自身の生息する環境を駄目にしてしまうというのはよくある話ですが、ことSPAMの異常ともいえる苛烈さを見れば、人間のこうした側面が人間という種を破滅させるのだろうなと納得できるようにも思えます。

2007年6月6日水曜日

荘村清志のギターで世界の名曲を

 NHK趣味悠々はこのところギターに力を入れているようで、ギター弾いている私には実にありがたい感じ。ほら、フォークソングとかエレキギターとか、とにかく毎年一度はギター関連の講座を開いてくれているんですね。その度に私はテキスト買って、ちょこっと弾いたりしているのです。まあがっつりと取り組んだりしないのが私の悪いところなんでありますが、けど今回はがっつりと見る価値がありそうだぞと。いや、こういうと語弊がありますね。別に今までのが見る価値が低いとかそういうわけではないんですよ。ただ、今回はテーマがクラシックギター。アンプを通すわけでなく、伴奏をやるわけでもなく、ギター一本で音楽の世界を作り出そうというアプローチ。私のやりたいことに関しては、非常にためになるんじゃないかなと思っているというわけです。

テキストは早々に買ってきて、実際に弾いてみたりもしていました。内容は初級編と中級編に分かれ、初級編の曲目は、

  • 夏の思い出
  • 千の風になって
  • オーバー・ザ・レインボウ
  • マリセリーノの歌
  • 鉄道員
  • 禁じられた遊び

対して中級編の曲目は、

  • ロンドンデリーの歌
  • 11月のある日
  • カバティーナ
  • 聖母の御子
  • アルハンブラの思い出

思い出に始まり思い出に終わるようですね。あと、参考曲として、

  • ドナドナ
  • 月光

が収録されています。

私、この曲目を見て、やっぱり『禁じられた遊び』は外せないんだなと面白く思っていたのですが、というのもこの本でいくつ目の楽譜になるんだろう。私はこれまで別の楽譜でもってこの曲をやっていたのですが、いやね、やっぱりギターやるとなるとこの曲は外せないところがあります。自分がというよりも、聴く人のためといってもいいと思うのですが、とにかくこの曲の知名度、人気はものすごいです。ギターというとこの曲といってもいいくらいにまでなっていますからね、聴く人の反応が違うのですよ。ものすごくアピールするということで、もちろん私も弾けるようにしたというわけなのです。

けど、この本に入っている『禁じられた遊び』はこれまで私がやってきたのとは一部、ごく一部ですが違っていて、こっちの方が正しいのかもは知れないのですが、でも長調のケーデンス1小節前には違和感があります。この本ではV-V-Iとなっているんですが、I-V-Iの方がしっくりくるんだけどなあ。だってイエペスもI-V-Iで弾いてるよな、なんて思いながら、結局はI-V-Iで弾いています。

この講座の第一回を見てみての感想はというと、荘村清志が単音で『夏の思い出』を弾くところを聴くことができるというのはなんという贅沢なんだろう、というそんな感じでした。実際問題として、単音でシンプルにメロディを弾くというのは結構難しくて、単純だからこそ誤魔化しにくく、弾くものの音楽性があらわになるという、そういう恐ろしいところがあるです。ですが、さすがプロは違うと思います。すごく美しく弾く。ということで、私もこうしたシンプルなメロディに改めて向き合いたいと思ったのでした。

こととねお試しBlogは現在アクセス制限中

こととねお試しBlog[旧お試しBlog]は現在アクセス制限がなされています。

この措置は、先日私も経験しましたトラックバックSPAMがきっかけとなってほどこされたものです。私が最初の中規模なSPAMを受け取った翌日であったと記憶していますが、まともに閲覧ができないまでに状況は悪化していました。おそらくは大規模なSPAM行為がおこなわれているのだろうと推測して、そしてこの推測は当たっていました。

最初のトラックバックSPAMをうけた時点でトラックバックの受け付けを停止していたため、幸い私はその被害を被らなかったのですが、稼働に対し支障が出るほどのSPAMを受け取って、Blogサービスの提供者は全Blogへのアクセスレベルでの制限を加えることに決めた模様です。なぜこのことに気付いたかといいますと、そのアクセス制限がほどこされたと思われる日に、私自身がアクセスをブロックされてしまったからです。異なるホストからアクセスしたところ正常に表示されたため、自分がブロックされていることがわかった。正直、ショックでした。

私がブロックされるのは、私の利用しているプロバイダの所有するIPのいくつかがブラックリストに登録されているためであるようです。そしてこうしたブロックされるIPは他の大手プロバイダにおいても確認されており、すなわちそのIPが割り当てられている人間は、私のBlogにアクセスすることすらできません。正直それは困る。ただでさえ落ち気味のモチベーションが、ここにきて底を打つほどに下がりそうです。なのでサービス提供者に対して、以下のようなメールを送りました次第です。

お世話になっております。

アクセス制限の件、諒解いたしました。先日のメールを書きました後、IPアドレスを変更させてアクセスできるようにはなっておりました。

この度の措置は、これまではコメント及びトラックバックを受け取るaction.phpにおいて用いられていたアクセスブロックを、すべてのファイルへのアクセスに対し拡大的に施したものと考えましてよろしいでしょうか。以前はコメント及びトラックバックのリクエストを受け取った後にブラックリストに基づきはじいていたものが、今はそのリクエストを受ける以前にアクセスレベルではじくように変更されたものと理解しています。

処理の増大により正常稼働ができなくなったための処置と諒解しますが、それにしてもこの方式はデメリットの方が多いように感じます。コメントやトラックバックがはじかれるのはやむないとしても、閲覧レベルの規制はなんとか回避できないものでしょうか。

正直なところを申しますと、今回の処置は、貴サービスの魅力を決定的に損なうものであると感じています。コメントへの規制の時点でSPAMではない通常の書き込みがブロックされるとの連絡を多々受け取っており、また自分自身のコメントもたびたびブロックされていたのですが、その経験からかんがみますと、今回の規制により、結構な数の善意のユーザーの閲覧がブロックされているものと思われます。

すべての原因は、SPAM行為にあるということは承知しており、貴サービスも被害者であることは理解しています。ですが、もう少しサービス利用者及び閲覧者においてもデメリットの少ない方式をとっていただくわけにはまいりませんでしょうか。現状では、角を矯めて牛を殺す結果にもなりかねないと危惧しております。

これで改善されるのかどうかはわかりません。もし改善が見られない場合は、他サービスに乗り換えるかも知れない。それくらいにまで思っています。

2007年6月5日火曜日

24のひとみ

  Clover』のDVDを買ったときの話なんですが、なんと、このDVD、値引きのために1500円を割りまして、そう、このままだと送料がかかってしまうという事態に陥ってしまったのです。だから私はなにか買って送料無料にしようと、例によっていつものごとくAmazonのおすすめをさまよいまして、そんなときに面白そうかなと思ったのが『24のひとみ』でした。これ、少年チャンピオンに連載されている漫画のようですね。商品の説明見てみれば、どうも嘘つき教師が主人公みたいです。嘘つきであることを公言して嘘をつきまくる、そういう漫画であるようで、なんだか面白そうだから内容も詳しく知らないまま注文したのでした。もし面白くなかったら嫌だけど、まあ漫画の一二冊で済むならたいしたことはないかなと、そんな気分だったのですね。

商品の説明には極悪非道なんて文言もあって、実際どんなにひどい嘘がつかれるんだろうと思っていたのですが、思ったよりもさっぱりとした印象で、さらっときれいに流れる感じ。後味の悪さみたいなものもないから、この点はよかったなあと思っています。いや、だってね、極悪非道の嘘つき教師なんていわれると、妙に大げさなドラマが展開された上にいやな後味が残ったりするかもなんて思うじゃないですか。けど、すごく淡々としています。嘘は嘘で畳みかけるように次々次々重ねられていくのですが、あんまりにテンポよく切り替わっていくものですから、深まる暇がないというか、そもそも深める気がないというか。だから、読後感も爽やか。結構ひどい嘘もある、というか、むしろひどいやつの方が多いんですが、とにかくテンポのよさがすべてのネガティブさを帳消しにしてくれるから、嫌だとかむかむかするとか、そういう悪感情も生まれにくいみたいです。

と、こんな具合に、人間的に間違った主人公がのうのうとしてる様を楽しむ漫画であるわけですが、けどもしかしたらだんだんといい人設定になってきたりするんじゃないかな、だとしたらいやだななんて思ったんです。ほら、よくあるでしょう? 話が進むほどにみんな善人っぽくなっていって、最初の粗削りだったころのが面白かったよなみたいなこと。悪人も善人もみんな馴れあっちゃって、面白いんだけどちょっと違うんだよななんてことは往々にしてあります。けど、この漫画に関してはそういう心配はいらないようで、だってそもそも心の通いあうところが絶無といっていいくらいに希薄です。教師と生徒がいて、また同僚教員とのかかわりもあるというのに、そこに人間的情のゆきあうところが見えません。きれいにぬぐいとってあって、馴れあうどころではありません。

だから、口ではひどい嘘をつきながら実のところ生徒を温かく見守っているひとみ先生とか、嘘ばっかりいってるどうしようもない人だけど、俺達、先生のことわかっちゃってるからさあ、みたいな生徒は出てこないし、今後も出ることはないでしょう。嘘つき教師は、純然たる機能として要請されるままに嘘をつき、生徒を、同僚を、あるいはたまたま関わっただけの人を振り回し、突き放し、傷つけて、そして嘘をつかれるほうは歩み寄ろうとしては阻まれ、理解しようとしてはあきらめ、どうよこの乖離感。ここまで徹底するとむしろすがすがしいと思います。少なくとも、なんとなくいい話にもっていっちゃいましたというような、微妙な展開にむずがゆくなることがありません。この徹底ぶりは素晴らしいと思います。

けれど、ここまで後味の残らないというのは、テンポや型の徹底だけの問題ではないでしょうね。この漫画が基本的に感情移入を拒んでいるからだと思っているのですが、ひとみ先生は悪意ある風なことをいいますが、その台詞に現実味はなく、言葉の向こう、表現の向こうに心のあるようには思われない。この無機的なところ、悪意のあるようでそもそもなにもないという空白な感じが、嫌悪感を増幅させることなく笑いにとどめさせる最大の要因なのでしょう。だから、もし心や感情といった類いを感じさせる表現でもってこの展開をされたとしたら、面白い面白くないの以前に、きっと私は耐えられなかったと思います。

  • 倉島圭『24のひとみ』第1巻 (少年チャンピオン・コミックス) 東京:秋田書店,2006年。
  • 倉島圭『24のひとみ』第2巻 (少年チャンピオン・コミックス) 東京:秋田書店,2007年。
  • 倉島圭『24のひとみ』第3巻 (少年チャンピオン・コミックス) 東京:秋田書店,2007年。
  • 以下続刊

2007年6月4日月曜日

アポロン ゲームミュージックBOX — メモリアル・サウンド・オブ・ウィザードリィ

 「題名のない音楽会21」(テレビ朝日系)の司会者で、ピアニストの羽田健太郎(はねだ・けんたろう)さんが2日、肝細胞がんで死去した。58歳だった。通夜は6日午後6時、葬儀は7日午前10時から東京都港区元麻布1の6の21の麻布山善福寺で。喪主は妻幸子さん。

羽田健太郎氏が逝去されたとのこと。ああ、ショックだな。以前にも少し触れましたが、羽田健太郎氏はピアニストであり作曲家、クラシック方面だけではなくドラマ、アニメなどのBGM作曲といったポピュラー方面でも活躍されていた方で、有名どころは『超時空要塞マクロス』ですけど、私にとっては『名探偵ホームズ』だったかな。あのユーモラスで楽しげなBGM、ハネケン作品だったんですよね。こんな風に、知らないところで氏の作品に触れている。また、演奏家としてのハネケンは、かつてニュースステーションで、桜の下で弾いたり、滝のそばで弾いたりと、生中継で即興で、これはという音楽を聴かせてくれて……、演奏家としても作曲家としても、意外な身近にあった、そういう人が羽田健太郎だと思います。

こんな私がもっとも多く触れてきた羽田健太郎というと、それはWizardryのBGMを抜いて考えることはできないでしょう。Wizardryはファミリコンピュータに移植された際にBGMが付けられたのですが、その作曲家が羽田健太郎氏でした。バロックを思わせる雰囲気でありながら、ロマン派的な重厚さも湛えていた#1の音楽は、そのオープニングテーマの段階でユーザーを魅了してやみませんでした。旧のユーザーの中にはWizにBGMは不要とこの音楽をOFFにするものもあったといいますが、私にはそんなこと考えもできないことです。私がもっとも長時間プレイしたゲームは、ぶっちぎりでファミコン版Wiz #1でありますが、だから私がもっとも長く耳にして、馴染んできたゲームミュージックというのはハネケンの#1、そしてついではWiz #2のBGMだったのではないかと思います。

以前、羽田健太郎氏について書いたというのは、アポロンから出ていたWizサントラが復刻されたという記事においてでした。私、あの時点で迷っていて、欲しいなとは思っているのだけど予算の面で厳しいなんていっていましたが、けれどもう迷うのはやめようと思います。つまり、買った。約一年前に出た完全限定盤ですが、どうやら通常出荷で受け付けている模様で、だから本当に完全になくなってしまわないうちに買っておきたいと思ったのでした。

数日のうちに数年ぶりにWiz #1を聴くことになろうかと思いますが、その際には、 — いや、これは不謹慎だからいうのはやめよう。ただ一言、祈る気持ちは忘れずにありたいと思います。

引用

2007年6月3日日曜日

ウィザードリィ エクス2 — 無限の学徒

  Wizardry XTHをはじめたのは去年の秋。もうじき夏の到来するのを待とうという時期になって、ようやくクリアしたのであります。って、以前、1月ごろにクリアしたとかいってなかったか? いや、いってましたね。過去の記事を探ってみると、1月28日にクリアしたとのこと。で、今またクリアというのはどういうことかというと、そのクリアの質が違うのです。1月時点でのクリアはメインシナリオを消化しエンドロールを見たという意味においてのクリア。で、今回のクリアというのは全クエストをすべて完了したという意味においてのクリア。けど、実際のところをいうとまだまだ先はあるんですよね。スレッド(迷宮)は十ほどが未踏破だし(星が付いてないという意味においてはもっと増えますが)、アイテムもまだまだ集めないといけないし、それにモンスター図鑑だって埋まってない。称号もまだですね。と、まだまだ尽くしではあるのですが、一旦はここでXTHからは離れようと思ったのでした。いやね、ちょっとXTH疲れしたものだから。どうしても勝てない固定敵がいるから、そいつを倒せるまでレベルをあげつつアイテムを集めるというのにちょっと疲れがさしたんです。なので、心機一転XTH2をはじめることにしました。ええ、もうじき廉価版がリリースされるというXTH2ですよ。けど、私は廉価版が出るかどうかさだかでなかったから、市場にあるうちにと思ってばーんっと購入済みなのです。多分、これ買ったの、1月頃だったと思うのですが、通常の値引きで買ってるものですから、ちょっと微妙な気分といえば微妙な気分かも知れません。

本当の意味で最初からXTHをはじめるというのは、XTH1を開始したあの時以来でありますね。いやあ、舐めてましたね。昨今のRPGに比べるとXTHは難しいよなんていわれますが、序盤に関してはオリジナルよりもきついんじゃないでしょうか。少なくとも、オリジナル(本当の意味のオリジナルは別だけど)の序盤に関しては、なんとか勝つことは可能というバランスだけど、XTHに関しては勝つことも難しいなんてことがあるからかないません。ええと、初戦はがたがたで敗退。で、次の戦闘では戦士が一人死亡して敗退。その後、呪文禁止域に踏み込んでしまったうえ敵と遭遇して、逃げそこねてまた死亡。レベル1の時点でRIPが2になってしまいました。いやあ、参りますよ。だって、いきなり十体前後の敵と戦わねばならんわけで、しかも奴ら仲間呼びやがりますからね。勝てるかー、と思って逃げようとしたら逃走できないなんていわれて、まあ今回は最初から超術士いれてたからなんとかなったけど(超術呪文Lvl. 1に逃走用呪文があります、最初忘れてた)、けどもし戦戦盗僧魔魔という旧いスタンダードパーティだったら全滅してたかもなあ。

この非常にシビアなバランスが許容されるのは、新たにパーティスキルという要素が加えられているからだと思います。クエストをクリアしたりするとゲージが増えていきましてね、こいつを消費することで超必殺技を繰り出すことができるのですよ。敵全体をぼこぼこに殴るようなスキルとか、あと絶対に逃げられるというスキルとかがあって、もし最初からこのスキルに意識が向いてたら、RIPは0のままだったでしょう。ああもう、悔しいなあ。無駄に死なせてしまった。蘇生できたからいいけどさ、けど年は取らなかったものの生命力は2ポイント減ってるものなあ。私は初期パーティは基本的に出たボーナスポイントでやるように決めてるから、この2ポイントというのも馬鹿にはならないんですよ。だって、BP8とかのキャラクターですからね。正直、序盤から辛いわ。

XTH2において迷宮探索ができるようになるレベルというのは、だいたい3か4くらいでしょうね。ある程度呪文も揃って、レビフェイト(浮遊呪文、これがないと漏電床に踏み込んでダメージうけたりする、っていうかうけたよ、何度も!)が使えるようになって、それからかなあなんて思うんですが、ああ、後マリト(敵複数攻撃呪文)も使えないときつい。これらが揃ってからかなあ。今、私のパーティは戦戦盗僧超魔なんですが、とりあえず複数攻撃呪文を使えるのが目下一人しかいないので、非常に進めにくいです。後衛のうち一人はいずれ司祭に転職する予定ですが、超術士あたりが転職するのかなあなんて思ってますが、まあともあれ今はそれどころじゃありません。

けど、敵と戦って一撃でH.P.の半分くらいをもっていかれたりすると、ああWizardryやってるなという気分になれるからたいしたものです。というか、オリジナルのWizでもそんなにはきつくなかったでしょう。正直XTHはこのへんのバランスきついです。だって、XTH1での話ですが、君主の献身が状態異常やらなんやらではずれると、それだけでパーティ壊滅の危機ですよ。敵の一撃で300とかダメージくらって、ちょっと待て、こっちは一番H.P.高いやつで1200くらいしかないんだ。それこそ、ノーム僧侶あたりがくらったら、一撃で死にかねない。もう、クリティカルヒットがどうこういうレベルじゃないなあと思います、っていうか、今日なんて2000超えたぞ、2000! ほんま、どういうバランスなんだと思います(まあ、Ω種が相手だったからしかたないけど)。

と憤慨したふりしてますが、けれどこういうのがXTHなんだろうなと思います。下手したらころっといくってわかってるから、慎重に慎重を重ねて進撃する。私は今はちまちま初期クエストをこなす日々ですが(っていうかまだ一日しかプレイしてないけど)、敵と戦う可能性のあるクエストは、極力後回しにしますから。その周辺の敵は漫画読みながらでも勝てる、くらいにしとかないとイベント戦ではもちません。で、漫画読んでると通常戦でも死人が出たりするから、気を抜けないんですよね。

久しぶりに一からはじめるXTHは、アイテムの勝手もシステムの勝手も違って、すごく新鮮な気分です。XTH1に関しては、正直もうあらかたいろいろが見えてきてしまってるから、わくわく感が少ないんですね。けどXTH2は知らないこと、わからないことがいっぱいあって、ただ迷宮もぐるだけで高揚するところがあります。この感覚、Wizをやるっていうのはこいつを味わうためなんだろうなあって心底思いますね。

蛇足

XTH2はXTH1に比べていろいろフレンドリーになってて、だってね、こんな序盤で相性開放アイテムが手に入るとは思ってもいませんでした。なので、通常は盗賊に装備させている恋の指輪、レベルアップ時には貸し借りしながら、少しでもH.P.の伸びるようちまちまやってます。序盤レベルでこれというのは、ちょっと反則気味だと思うけど、正直ありがたいですよ。

2007年6月2日土曜日

とめはねっ! — 鈴里高校書道部

 書店平積みにて遭遇、表紙に大筆掲げた娘が元気一杯にかかれた『とめはねっ!』という漫画、その表紙からもタイトルからも書道ものというのが明らかです。そうかあ、再び書道の漫画が出てきたかと、ここで私は『ラブレター』を思い出して切なくなりました。『ラブレター』は、元気な娘と真面目な娘が書道にて切磋琢磨するという漫画で、面白かったし好きだったんですが、人気なかったんでしょうか、結構残念な終わりかたしました。竜頭蛇尾な印象、残念で仕方なかったです。こんな具合に書道漫画には変なトラウマみたいなんがありまして、だから『とめはねっ!』みたときも素直には手に取ることができず、けれど書道というあえて地味な題材に取り組もうとしているところに敬意を表したいと思い、買って、そして読んでみたのでした。

面白かったです。地味だけど、まあそれは題材が題材だから仕方ないとは思うんだけど、けれどこの漫画自体もちょっと地味目の印象。背景を含む全体的に書き込みはあまりされないタイプ、線も最小限まで整理されていて、そのためか画面が非常にすっきりとして感じられます。でもまた逆にこれでもって不安になるんですが、っていうんは、面白いと思って先を楽しみに読んでたら、急に慌てて畳んで終了みたいになったら嫌ですよってこと。いやね、ほんまに打ち切りというのは、作者もきっとそうだと思うんですが、楽しみに読んでいた読者にしてもショックなものなのです。

『とめはねっ!』は、主人公は男の子、だと思ったんですが表紙からしたらこっちの娘か。柔道部期待の新人望月結希がひょんなことから書道に取り組むことになってしまった、というのが基本のところ。字を書くのが苦手で、コンプレックスといってもいいくらいであるのだけれど、持ち前の負けず嫌いも手伝ってか、腰を据えて習字に取り組もうという、そういう意気込みが気持ちいい漫画であります。

そして、もう一人の主人公格、大江縁、ちょっと気弱な一年生男子。筆まめな祖母の字を手本に、カナダにて八年手紙を祖母と交換し続けたという、そういうバックグラウンドが斬新だなと思いまして、というのはこの主人公格二人で綺麗に対比が作られていると思ったものですから。男子と女子、能筆と悪筆、まったくの未経験と小学校で多少経験、そして気弱と強気。弱っちい男子に強気女子が出会って、男子は女子にほのかな憧れを抱いてるんだけど、女子にはそれがちっとも通じないといったような、繊細と大胆という対比も面白いかも。こうした、まったくもって対照的な二人が、対照的な取り組み方で、対照的な字を書いていくという、こういう構図、仕掛けはすごく楽しいと思えるものでした(そういや『ラブレター』も対照的だったな。天然と努力、破天荒と整然)。

書道という地味ながらも深く、面白い芸術の場を舞台に繰り広げられるボーイ・ミーツ・ガールものとして読んでも楽しそうだけれど、第1巻の時点ではそういう雰囲気はまずもって皆無で、だからこれからどうなるのかなというのがまた楽しみなところで、大江縁は自信を持てばきっと堂々とした字を書くのだろうという気がするからまあいいとして、問題は望月結希でしょう。実は私は習字をやっていたからわかるのですが、書くものの中に美しい字のイメージというものが存在しないと、字というのは上達せんのです。まさしくそれが私。手本を前に習ってみても、長年染みついた悪筆の癖、悪いイメージが邪魔をしてうまく書けない。素直に美しい書字に向かってきたものは、それだけですでに有利。つまり、望月は不利からのスタートなのですよ。だから余計に面白いと思うんです。果たして彼女の字をどのように育てるか、彼女がどのように変わるのか、それがすごく興味深くて楽しみなのです。

さて、実は私は今は字を書いていません。諸般の事情で習いにいけなくなったし、それに時間の問題もあってなかなか書けない。今、私がギターに取り組んでる時間をすべて字に注いだら、きっとがらりと違う字を書けるようになるとはわかっているんだけど、それは結局はギターが弾けなくなるという問題を引き起こすわけで、ああひとりの人間に与えられたリソースはなんて少ないんだろうと悲しくなります。でも『とめはねっ!』読んだら、また無性に字を書いてみたくなってきました。けど今度書くなら、自分一人でやるんではなくて、こうしたクラブ活動するみたいにしてできたらどんなにかいいだろう。刺戟にもなれば張り合いもありそうだと、そんな風に思います。

ところで、河合克敏って『帯をギュッとね!』の人なんですね。そうかあ、道理で投げが綺麗なわけだ。というのは置いておいても、こういう情報を知れますと、長く続いて、長く楽しめそうな予感がしますよね。ほんと、これからの展開を心待ちにしたいと思います。

2007年6月1日金曜日

みなむーん — 4komaDX

 書店で見かけたときには思わずエロ漫画かと思ってしまった『まんがみなむーん』。著者はみなづきふたごで、おおっと、この名前には覚えがありますよ。それもそのはず、裏表紙見てみれば、『港湾署デカビタ誌 — 刑事さんの美しき多忙な日誌』と『美味しくごはん』が収録されているとわかります。いや、懐かしい。この漫画、ずいぶん前に芳文社の四コマ誌に連載されていたもので、結構好きで楽しみに読んでいたのですよ。記憶が正しければ、ちょうどこの頃に私は、実話系を除く芳文社の四コマ全誌を買うにいたりまして、病膏肓に入ったという話ではあるんですけど、まあそれくらい私にとって四コマが熱かった時代であるのです。まだ萌え系、DV系は萌芽の時期であって、主力はオールドスタイルから抜け出したかわいい系。『デカビタ誌』は『まんがタイムジャンボ』にて、『美味しくごはん』は『まんがタイムスペシャル』にて、それぞれ連載されていたのですが、今こうして久しぶりに見てみると、これ初期の『きらら』で連載されてたんだぜー、とかいわれたら信じてしまいそうな感じです。そうかあ、『きらら』というと特別な感じがしたものだけど、別に全然地続きなんじゃね。

『港湾署デカビタ誌』は刑事物、刑事ドラマのりなのかな? 私はその方面は疎いのでよくわかりませんが、この当時って『踊る大捜査線』あたりが大ヒットしてたんじゃなかったかな。けど『デカビタ誌』は力いっぱいギャグ漫画です。ちょっとグータラな女刑事朝子が事件解決、犯人逮捕に向け走り回ったり、けどそれ以上に友人にたかったり遊びに興じたりしているシーンの方が多いという、そんな感じの漫画です。けど、そういう不真面目といえば不真面目な朝子と同僚たちのどたばた、読んでいて悪くないんですよね。いい感じに脱力してるからかな。肩の力抜いて、毎日を楽しくいこうやみたいな感じがいいんだと思います。いたずら心を忘れず、なにか仕掛けてにやにやしながら見てるみたいな、けどやるときには全力疾走だぜ。こういうのりが緩急をつけて、飽きさせないのかなと思います。

こうした感じは『美味しくごはん』にもやっぱり感じられて、こちらはタイトルが示すように料理もの。調理師学校の学生たちのどたばたとした日常を愛でる漫画です。主人公はあほ毛がチャームポイントの元気娘金本恵、かと思ってたら、どうも太郎丸健太っぽいなあ。でも、誰が主人公っていうんじゃなくて、金本に健太、そしていつも眠そうな安藤早苗の三人がそれぞれに主人公なんだろうなあと、そういう感じ。で、私この漫画が好きで、例えばタイトルが好き。『美味しくごはん』。すごくストレートで可愛い感じ。登場人物たちも、真面目かどうかといわれると不真面目方向に振れ気味な娘たちなんですが、けどそのグータラ感はすごく好き。金本の感情にあほ毛が揺れる、その表現も好き。なんか楽しくって、ハイっていうのとはちょっと違う、けどテンションが低いわけでもない、そういう穏やかにぎやかなのりが好きだったんだと思います。

でさ、買ってから気付いたんだけど、表紙の娘って金本なんよね。ええーっ、こりゃわかんねえよ、可愛くなりすぎやっちゅうねん。といいますが、実際絵の雰囲気は違ってますよね。各扉に現れる金本をはじめとする娘たちの表現と、表紙の表現はやっぱりしっかり違っていて、時代の趣味の変化かな。確実に時間は流れてるんだなと思う一コマであります。

あ、そうそう。連載時から思ってたんだけど、112ページの扉に現れる安藤。この絵がすごく好きだったりします。ロングコートのポケットに手を突っ込んで、土筆をみている。足もとはブーツ。やっぱり女の子の可愛さは布の量に比例するのだと実感できるイラストレーション、素敵です。