2007年7月12日木曜日

ショパンとバイエル

 もう十年ほども前のことになるんですね。よしまさこの『ショパンとバイエル』、そのタイトルがきっかけで買った漫画でした。その頃、私は毎日のように寄る書店があったのですが、そこに新刊として並んでいたのだろうと思います。十年前といえば、ちょうど四コマを読みはじめた頃にあたるでしょうか。当時の私は少女誌そして女性誌を買い、急速に漫画の視野を広げていました。その以前に私の知っていた漫画の世界、主に少年誌に連載されるようなもの、それらが漫画というジャンルにおいては一角を占めるだけに過ぎないということを知って、少年や青年向けには現れない、また異なるシリアス、リアリティを持つ漫画があると知って — 、私はその新しい世界の発見に夢中になったのですね。女姉弟の中で育ってきたのもあるのかも知れません。その新たな世界が持つ実感の方が、より自分にしっくりくると気付いてしまって私は、今もなお少女向け女性向けの漫画にとらわれています。それが絶対とは思わないけれども、けれどその実感は、青年向けの漫画が持つリアリティを凌駕して、 — 心に触れるかのように感じるのです。

『ショパンとバイエル』は少年が主人公。けれど構造としては、少年の思いを寄せるピアノ教師こそが主体なのだと思います。厳しく冷たい言葉を放つ女性教師は……、私としてはそういう態度どうだろうなんて思うのですが、けれどその態度の向こうにある心のかたちに少年は気付いてしまった。その媒介となるのが当時はやりのコンピュータ、そして通信。この漫画が発表された1998年はどんな時代だったろう。実はこととねはもうありました。けれどインターネットはまだ主流といえるほどに成長しておらず、パソコン通信がまだ盛況だった。そんな時代。多分、彼らが言葉を交わしたのはパソコン通信だったのでしょう。画像どころか色彩さえもない、純然たる文字の世界。画面に浮かび、流れ、消えてゆく文字の世界。チャットも盛んで、CD-ROMという媒体が牽引したマルチメディアブームの影、最後の花火打ち上げるように、夜、11時を待って人は文字の世界に没入して、キーボード叩き、心のうちを誰かに届けようとしていた。そんな時代だったと思います。

本当に心が届くのかい? 文字だけで、心が通いあうのかというと、そういうこともあったのですよ。あれは、なんといったらいいんだろう、夢の世界みたいだった。ここではすべてが自己申告制だものね(笑)。画面のこちら側の現実を脱ぎ捨てるようにして、生身の精神が出会うように感じた私たちは、かつて経験もしたことのないような新しい関係に浮かされていたのだと思います。もちろん、その熱の冷めるとともに消えていった関係もあり、けれどその熱さを現実に繋ぎ止めたケースもあることはやはり確かで、だから今『ショパンとバイエル』を読むと、懐かしくて、おとぎ話みたいで、けれどこういう話もあり得たろう。会ったことのないと思っていた、現実には決して触れることのなかった心が、ネットワーク越しに触れるというロマンチックに、なんだか心がほぐされてしまうのですよ。

少年は中学生で、ピアノ教師は27歳、大人の女で、現実の世界ならきみにキスできるのに、けれど現実にはそれはかなうべくもないことと知っていたのはほかならぬバイエル、彼自身でした。その埋まらぬ距離に煩悶する思いに切なさは込み上げ、だから最後に彼の仕掛けたからくりが効いてくる。現実はあくまで現実で、じゃあネットはしょせん虚構に過ぎなかったのかといえば、そんなことはないのだよと、最後の最後、すべての繋がったとき、バイエルであった圭吾の思いは高らかに世界を歌いあげたのだと思います。

引用

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