2007年8月16日木曜日

金曜の夜の集会

  夏が佳境ですね。連日、暑く暑く暑く、そして今日は十六日。送り火、京都では大文字はじめとする五山に火が点されて、いよいよ夏も終わりにさしかかるかという風情を感じさせてくれます。私なんかは盆に休みがあるわけでなく、別段なんということもない日常を送っているに過ぎないというのに、夏の盛りが過ぎ、晩夏にさしかかろうというこの時期、不思議な胸のざわめきに襲われることがあってたまりません。夏の午後の気だるさ、秋がくるのはむしろ願ったりというはずが、過ぎようとする季節に寂寥を感じているのですね。あるいはこれは、子供の頃、夏休みの終わりを思うたび、かすかに感じた残念の気持ちがよみがえるためかも知れません。

そしてこの感覚をともに思い出すひとつの短編がありまして、それは萩尾望都の『金曜の夜の集会』です。夏も終わろうとするころ、子供たちの興味は新しく見つかった彗星に向かいながら、気になる女の子も視野に入れて、そして明日へ明日へと伸びていく。そういう若草のような伸び、勢いが感じられる物語。舞台はおそらくはヨーロッパ、多分イギリス、けどもしかしたらアメリカ。詳しくはわからないけれど、けどちょっと昔の海外ドラマに見たような、憧れの生活が繰り広げられています。郊外の住宅地、まったくなんの事件もないというわけにもいかないけれど、子供たちは子供たちで伸びやかに暮らし、成長しようとしている。八月の最後の金曜日。少年は青年期を前にして、過ぎゆく季節をいよいよ見送ろうとする、そんななにげない日常の一コマが、それこそスケッチするように描かれるものだから、最後の最後、どんでん返しするようにすべてが転倒してしまうラストにずきんと胸の痛むように感じてしまうのかと思います。

これ以上は語りたくない、語れない。なぜなら、この本を読む人すべてが、余計な知識を持つことなしに、最後の瞬間にたどり着いてくれることが理想と思うから。だからここではすべてを曖昧のままに終わらせたいと思います。

時間が終わらなければいい、夏休みという特別の時間が永遠に続けばいい。そういう思いを持ったことのある人はきっと少なくないと思うのです。それが夏休みでなかったとしても、もし今が仕合せな時期であると感じたならば、この仕合せの壊れることなく、一日でも長く続いてくれればよいと願うのはすごく自然なことであると思うのです。けれど、それは本当に仕合せなのかと、この物語読むたびに思います。確かに、今あるものを失うことはない、その意味においては、仕合せな時間が続くのかも知れない。でも、あの輝かしい少年の、憧れや夢や希望は、まるで缶詰めにされたようにそこに足踏みすることを余儀なくされて、叶うでなく消えるでもなく、それはなんと切なく哀しいことであろうかと、そういう思いにあふれかえります。

失うことはいうまでもなく悲しいことで、またいつか去らねばならない日がくるということは残酷な事実であります。けれど、その失うことを引き換えに得るものもあるのだと、そういう摂理に気付かされる短編でした。そして、恐ろしいことに、この短編にあらわれる彼らの、明日がくれば得られたかも知れないなにかは、可能性は、あらかじめ失われてしまっているのだということに思いを寄せれば、なんという悲しい物語ではないかと、そのように思うのです。

この短編の描かれたのは1980年。この頃には、こうした未来のくることが漠然とした不安として存在していたのでしょう。決してあり得ないことではないと思う、そんな時代の空気を感じさせてくれます。そして恐ろしいことに、私たちの暮らす今も、まったくその可能性を捨て去ったわけではないというのですから、私は今の仕合せをことのほかいとおしいと思ってしまう。あり得ないほどに悲しみを深めてしまうように思います。

  • 萩尾望都『半神』(小学館文庫) 東京:小学館,1996年。
  • 萩尾望都『A-A’ — SF傑作選』(小学館叢書) 東京:小学館,1995年。

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