2007年9月30日日曜日

Littlewitch Vocal Collection vol. 1

 ついに買ってしまいました。Littlewitch Vocal Collection vol. 1。前から買おう買おうと思っていたのですが、とりあえずサントラ手に入れてからだなんて悠長なこといってたら在庫がなくなってしまったようで、なんてこったー! 仕方がないのでオークションで手に入れましたとさ。ええと、新品、大きな箱に入ってる。本当に大きくてびっくりしたんですが、このへん実にLittlewitchというソフトハウスらしいといいますか、思いがけないところに力を入れてくるんです。ゲームだってね、中のボール紙抜いて畳んで終わりみたいなパッケージが一般的というところ、ここのは一味も二味も違います。なんか化粧箱みたいになってるの。だから畳めない。手に入れた喜びという点ではすごいんだけど、かさばるんだよね。でも、捨てられない。マニアだから。ほんと、Littlewitchのパッケージにまで気を抜かないところは、Appleに近いものがあると思います。

手のかかっているといえば、Littlewitch Vocal Collection vol. 1もそんな感じで、普通のプラケース入りかと思いきや、デジパック仕様。そういえばAllow time to Brewもそうだった。これ、金かかるって聞くんですが、それでも躊躇なく投入してくるところがLittlewitchらしいところだと思います。

さて、肝心のアルバムの内容ですが、これ聴いて私はその思いを強くしたのですが、音楽というのはやっぱり、付随する思い出、記憶に左右されますね。もし私がこれをまったくの予備知識なく聴いたらどう思っただろうか。だってね、『白詰草話』のOP、ED聴いたときなどは、ぐっと締めつけられるような思いがした。オープニングのアニメーションが脳裏にひらめき、そして陰鬱なシーンに重なって聴こえてくるEDのイントロ、そのたびたびの情景が思い浮かんでくるようで — 、ああ、好きだと思ってしまうじゃないですか。

けれど、こうしてゲームの雰囲気をともに語ってしまうのはフェアではないと思います。なぜって、ゲームが関係しなければ意味がないような話にでもなれば、私が好きだと思った音楽に対してすごく失礼だと思うから。Littlewitchのゲームを知らないという人が聴いてもきっと伝わるものはあるはずだと、そう思える歌ばかりなのですから。

例えば『白詰草話』のイメージソングなどを思うといいのです。あるいは『リトルウィッチロマネスク』。これらは私ははじめて聴く歌で、けれどやはり感じるところがあるのです。伸びやかな女声の美しさに魅了されるかと思えば、わいわいと元気さを持って楽しげに気分を盛り上げてくれる歌もあって、ゲームという文脈を離れても好きになったろうという歌をいくつも見付けることができます。絶品かといわれるとどうかと思う、極上かといわれてもうなずけないかも知れない、けれど好きかといわれれば好きだと答えること間違いない。しっとりと心に触れてくるような、ノスタルジーかき立てる歌があれば、微笑みをもって迎えたくなる歌がある。このアルバムにはそういう歌がたくさん収められています。

どれが一等に好きかはいわないでおこうと思います。スタート地点が違うもの。これまで何度も聴いた歌があって、このアルバムでようやく聴いた歌もあって、だからこの先何度も聴いて、その上でないと私にはなんともいえない。それくらい、好きになれそうな歌があるってことだと思ってくださったら幸いです。

2007年9月29日土曜日

マンガ能百番

 本日、能を見にいってきました。券をもらいましてね。父がいくつもりだったらしいんですが、ちょいと都合がつかなくなったからいってこいといわれて、まあ、じゃあいこうかと、京都は観世会館まで足を運んだのでした。しかし能なんてどれくらいぶりでしょう。学生の頃、日本音楽に関する講義でいろいろと学んだことを思い出します。能の歴史、そして様式。大学を出てからもこうした芸能に触れる機会はあって、その度に大学で得た知識に感謝する思いでいっぱいになります。やっぱり知っているということは大きいです。もちろん能をはじめとする各種芸能に明るいとはいえないのですが、それでもまったく知らないわけではない。大ざっぱでも概要を知っている、そうすると取っ掛かりがわかるといいますか、どこから近づいていけばいいのかなんてのがおぼろげにもつかめるんですね。本当、教育というのはありがたいものだと思います。

さて、突然いくことになった能、もちろん演目なんてまったく知らず、ぶっつけ本番ならぬぶっつけ観賞です。けどこういうときに私には助けになってくれる本があります。『マンガ能百番』。以前、日本伝統音楽系の展覧会にいったときのこと、ミュージアムショップに売られていたのがこの本でした。漫画というとコミックス、劇画なんかを想像してしまいがちですが、これはそういう意味では漫画ではありません。絵解きものといったらいいのかな? 能の物語を見開きの2ページに絵解きで表現する。コマにして12コマ、シンプルでしゃれの利いた絵に短いキャプションがついて、これで百番扱ってしまう。はじめてみたときには、正直すごいなと思ったものでした。

能のあらすじを12コマで表現してしまうから、ちょっと乱暴、ものすごい省略がされています。背景とかは絵解きに入るまでに少し触れられるけれど、それも一般的な解説本に比べれば不足しているといわざるを得ず、そういう意味では物足りないと思う人もいるかも知れません。けど、がっつりと読みたい、知りたいという人はそういうものを手に取ればいいのであって、この本は、ざっと筋を知りたい、どんな話かつかみたいという人が読めばいいのです。そう、筋をたどりたいのであれば、驚くほどにシンプルに整理されたあらすじの詰まっているこの本はうってつけです。まずは大きくつかみ、興味が出れば詳細に分け入っていけばいい。またまったく知らない演目を見るにあたって、おおまかに知るにも役立って、能を見にいく機会の多いとはいえない私ですが、その少ない機会にこの本は常にそばにあったように思います。

  • 渡辺睦子『マンガ能百番』増田正造解説 東京:平凡社,1986年。

2007年9月28日金曜日

大人の科学マガジン — テルミン

 今日は待ちに待った日でした。学研の人気シリーズ『大人の科学マガジン』第17号が発売される日だったのです。けれど、なんでそれをそんなに心待ちにしたというのでしょう。それは……、それはふろくがためなんですね。そう、ふろく。魅惑の響きではありませんか。思い起こせば私は少年だった頃に学研の科学を講読しておりまして、この雑誌、記事や特集ももちろん面白いんですが、なにより魅力的だったのは付録でありました。磁石や電球、モーターの類いを組み上げて作るギミックの面白さもあれば、日光写真なんかにもものすごく魅了されて、今から思い起こしても楽しかったなあ。あの月の終わり頃、まだかなまだかな、学研のおばちゃんまだかなと、歌にもあったように新刊の届くのを待ち焦がれた日々。そう、ここ数日の私はまさしくあの頃の私に思いを同じくしていたのです。

しかし、なにをそんなに心待ちにしたというのでしょう。それは、それはテルミンがためであったのです。

テルミン、魅惑の響き。ロシアの科学者レフ・テルミンによって発明された、世界初の電子楽器。楽器本体から伸びる二本のアンテナ、一本が音高を、もう一本が音量を司るのですが、特筆すべきはその演奏法。楽器に触れずに弾くのです。アンテナに手を近づけていくと音が鳴りはじめ、さらに近づけることで高くなっていくのです。アンテナと手の距離でもって音程をはかり、音量を調整する。その神秘性、不思議を醸し出す雰囲気も手伝って、広く知られることになりました。日本でも、今から十年ほど前かな、ちょっとしたブームになりまして、その時に知ったという人も多いでしょう。実は私もそうした一人で、興味を持ちつつも踏み込まず、けれど機会があったら手にしたいものだと思っていたのでありました。

そして、ついに機は熟したのです。なんと『大人の科学マガジン』vol. 17にはテルミンがついてくる。もちろん本格的とはいえない、小さくシンプルな、音量調節のアンテナも持たない、おもちゃじみたものであります。けれど、おもちゃだろうがなんだろうが、音が出ればそれで充分じゃないか。シュローダーはおもちゃのピアノをあんなにもうまく弾いてるし、ジョン・ケージはトイピアノのために組曲書いている。おもちゃといって馬鹿にして、はなから相手にしないなんて本当につまらないことですよ。とにかく手に入れて楽しんだものが勝ちなのです!

ということで、手に入れてみました。あまつさえ弾いてみました。

ああ、もう、楽しい! チューニングはシビアで、ちゃんとセッティングできてないと音が止まらなかったりするんですが、そのへんちゃんと調整できると、ああもう楽しい。これ、私にとっての初テルミンなんですが、いい大人がはまるのもわかりますよ。いろいろ改造しようだとか思ってたんですけど、もう我慢できなくて帰宅後、いの一番に組み立てて、チューニングに四苦八苦して、食後音出ししながらいろいろ試してみて、そして一番まともに弾けたのが『むすんでひらいて』ですよ。なんで『むすんでひらいて』!? 理由はわかりません。けど思いついたのがこれだったんだから仕方がない。ジャン=ジャック・ルソーの名曲です。

本当は、ギターアンプに出力できるようにしたいと思っていたんです。そのための改造方法もちゃんと本誌でフォローされていて、さらにはロッドアンテナとアースもつけたいなあなんて思っています。ロッドアンテナなんてどこで売ってるんだろう。寺町の電気街とかで買えるのかな? あるいはごみ捨て場でラジオとか拾ってきたらいいのかな?

ともあれ、夢広がりまくりのテルミンです。近々改造用にもう一台買うのは確定ですね。

2007年9月27日木曜日

火星ロボ大決戦!

  今まさに連載されている四コマは、もちろん今現在を生きる読者に届けるために描かれているのだけれども、『火星ロボ大決戦!』に関しては、時間を超えて、かつて七十年代に少年だった人に向けて描かれているのだと、そのように思えることがままあります。七十年代に完成を見、繚乱の様を呈した巨大ロボットというジャンルへの惜しみない愛があふれているといえばいいでしょうか、あの時分に少年時代を過ごしたものにこそ、その愛はよく伝わる — 、そう思う私は、幼かった日々に『マジンガーZ』、『ゲッターロボ』、『ガイキング』などといった数々のロボットに魅了されていました。超科学により生み出された超兵器であるロボットが、人知を超えた敵に立ち向かう。ときにハードに、ときに人情をほろりと見せる物語、敵の苛烈な攻撃にロボはピンチに陥るものの、最後には必殺の技が炸裂、大勝利! 子供たちはそんなロボットの活躍に、そしてヒーローの強さに心底しびれて、憧れていたのですね。

そしてそこには様式美といえるものが確かにありました。独特の台詞回しは、長年をかけて熟成されて、洗練の極みにあるといってもいい。お約束といった方が通じはいいのかも知れないけれど、私にはあれらパターンを確立した台詞や行動の数々を、お約束といった言葉でひと括りにしてしまうのは好きではありません。だからあえて様式美というのですが、少年漫画には少年漫画の様式が確かにありました。私たち少年だったものはそれら様式を浴びるようにして育ってきたものだから、すっかり身に染みついてしまっていて、ごっこやなにかする際には、様式をきれいに踏襲して、悪の大将は悪の大将らしく、正義の味方は正義の味方らしく、その役割を全うしたものでした。

『火星ロボ大決戦!』にはその様式があふれています。台詞に、コマに、シチュエーションに、少年漫画が長年培ってきた様式がこれでもかと盛り込まれていて、そしてそれらは全うされることがないのです。様式とは、一旦振り出されれば、解決をみないことには収まらないものでありますが、なかま亜咲はきれいにいなしてしまいます。進むべきシーンで退く、指摘されてしかるべきものはあえて無視され、あるべき障害は影もかたちもない。こうした肩透かしの数々に私なんかは思わず笑みを誘われて、それこそ笑いっぱなしなんですが、しかしこうしたギャグがこれほどまでに効くというのは、少年漫画の様式という奴が、私の感性に抜き難く浸透しているという証拠なのだと思うのです。

残念ながら私には四コマを読む年若い知り合いというものがありませんから、今の若い人がこの漫画をどのように読んで、楽しんでいるか知ることはかなわないのですが、大げさな振りに肩透かしのギャグ、そしてちょいエロ、多分普通に面白いギャグ漫画として受け入れられているのではないかなと思うんです。けれどこの漫画の真骨頂は、七十年代に少年だったものにこそ伝わるのではないかと、それこそ肌身に感じる実感として、思い出を揺り動かされるような感覚を持って感じられるのではないかと思っています。古い人間の感傷かも知れないけれど、巨大ロボットとそれを成り立たしめたシチュエーション、それらへの愛が共鳴するのだとあえていいたい。オマージュでなく、リバイバルでもなく、パロディでもない、すなわちオリジナルを源泉に持つと感じられる『火星ロボ大決戦!』は、よきパロディであり、オマージュであり、そして愛そのものなのであると、私は言い切ってしまいたいのです。

  • なかま亜咲『火星ロボ大決戦!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • なかま亜咲『火星ロボ大決戦!』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年9月26日水曜日

リトルウィッチファンディスク — ちいさな魔女の贈りもの

 なんだか私はLittlewitchというソフトハウスのファンであるようで、なんでか知らないけれど、ここからリリースされているタイトルは全部揃えてしまったというのですから、自分のアレさ加減にはほとほと弱ります。そもそもは『Quartett!』に手を出したのがきっかけで、その後『リトルウィッチファンディスク』にチャレンジ。そしたらそれが呼び水になって、『白詰草話』まで買ってしまいましたとさ。『白詰草話』を買ったのは今年の正月(きっかり元旦に届きました)で、その後、『リトルウィッチロマネスク』も購入、PS2版も買って、あほですかあんたは? でもって、今は『ロンド・リーフレット』をちょびっとずつ進めている最中です。

そうしたらひどいんです。まだ私がクリアしていないにも関わらず『ピリオド』なるゲームが開発されているというのだそうですね。しかも来る11月30日を発売日と決めたとか! オーマイ! 一年に二作品というのは勘弁してくださいよ。ただでさえサントラ買うのに四苦八苦してる(というか、一気に買っちゃえばいいのにね)というのに、というか、それでも買っちゃうんですけど。なんのかんのいって好きだから。『ピリオド』がどんなゲームなのか、システムにせよストーリーにせよなにも知らないというのに(調べてないから)、それでも買っちゃう。私って奴はどれだけの馬鹿なんでしょう。いや、いいんです。自分の駄目さ加減は嫌になるほど自覚していますから。

カルドセプト』を遊んでみて、ボード&カードゲーム熱がちょっと再発したようでしてね、それで『リトルウィッチファンディスク』を引っ張り出してきたわけです。なぜか? 「魔女っ娘クライシス2006」のためですよ。これ、さいころを振ってボードを巡り、より強いカードを集めつつ敵方に回ったヒロインたちとカードバトル! というゲームなんです。カードは三属性あって、それぞれに攻撃力と防御力が設けられていて、三つのスタックにカードを置いて、一対一の大勝負! といいたいところだけど、コンピュータはあんまり強くないから、ちょこっと遊ぶには本当にうってつけなのです。

コンピュータが強くないっていうのは、攻撃時にカードの相性を合わせてこないとか、そういうところでして、これがもしばっちり属性あわせて攻撃するようになったら、正直気軽に遊べるゲームではなくなるだろうなあって思います。ガチ勝負? 今は私は、場に出てるヒロイン&サブヒロインカードをすべて集めて捨てないというポリシーでやっていますが、もし敵の思考ルーチンが強化されたら、そういうのやってたら勝てなくなるわけですよ。よりポイントの高いカードを集め、ヒロインだろうがなんだろうが、デッキポリシーに応じて整理、処分を徹底しないと勝てなくなる。そんなのはいやだなあ、と思うから、やっぱりこれくらいに甘めのチューニングの方が嬉しいです。

けど、もしこれがガチ勝負要求するものだったとしたら、それはそれとしてしっかりはまったような気がします。例えば『カルドセプト』にしてもCPU戦やってる場合はそれほどガチってわけでなくて、あり得ない失策をやらかしても充分勝てる程度の強さでしかないのですが、対人戦となるとそんなわけにはいきませんよね。そう、『魔女っ娘クライシス』も対人戦可能だったら面白いなあなんて思っているんです。相手の手札が見えると台無しだから、オンラインゲームみたいにするしかないと思うんですけど、マップに落ちてるカードを拾い、さまようヒロインを確保しつつ、敵プレイヤーと勝負! ダイスキックは毎回三度までとか、トータルで何回までとか制限があったらいいわけで、これは結構はまれるゲームになるんではないかなあ、なんて思うんです。

まあ、夢物語ですけどね。でも、夢を語るくらいはいいじゃない。『カルドセプト』のように、戦果を積み上げデッキをがっちり構築するタイプのゲームも面白ければ、『魔女っ娘クライシス』みたいに、その時その時の場を見てデッキを構成していくタイプのゲームも面白いなと、そんな風に思ったものだから、願わくばその面白さを広げてみたいなあなんて思ったんです。

今、巷にオンラインゲームはたくさんあるみたいですけど、『魔女っ娘クライシス』みたいなのはないんでしょうかね。あったらぜひ参加してみたいなあなんてちょっと思っています。

参考

2007年9月25日火曜日

Bamboo thicket, taken with GR DIGITAL

Bamboo shootsリコーGR BLOGの恒例トラックバック企画、9月末のお題はなにかといいますと、先月に引き続いてのご当地自慢、ご当地自慢、パートIIなのであります。これは、先月、寄せられた写真がこれでもかと興味深かったがためにもう一度やろうという運びになったとかで、実際私も京都市内に写真を撮りにいく(ちょっと嘘、買い物のついででした……)など、張り切ってこれぞという面白名物を探そうとしたものでした。けど、今月は諸般の事情から写真を撮りに出ることかなわず、仕方がないといってはなんですが、地元中の地元、まさしく住んでいるこの地に題材を求めたのでありました。ということで、今月もトラックバック企画『ご当地自慢』に参加します。

さて、私の住んでいるところといいますと、京都は長岡京であります。784年から10年間、長岡京という都があったという土地で、まあ悲しいほど知られていないのですが、それに大極殿は隣の向日市だものなあ。まあ、それはいいや。歴史ロマンを駆り立てる街長岡京には特産として全国に誇れるものがあります。それはなにかといいますと筍。老舗の錦水亭は、日本屈指の筍を食べさせる料亭として知られています。

でも、残念ながら今はもう秋。筍の季節というにはあまりにはずれてしまっています。ということで、薮に入って、竹の写真を撮ってきました。なぜ竹か。それはこういう理由からです。

Stone monument

そう、長岡は日本に孟宗竹が伝来した地であるというんですね。わお、知らんかったよ。この石碑はうちの近所にあるのを撮ったものなんですが、ほんと、長岡に引っ越してくるまで、ここが日本における孟宗竹発祥の地だとは知らぬ存ぜぬでした。ここら乙訓と呼ばれる地域が日本屈指の筍の名産地であるとは知っていましたけど、まさかここが発祥とは……。

土曜に薮に入ったときには、日もさんさんとさしてなんだか妙にあっさりとしてしまったと感じられたものですから、雨でも降ればよいのになあ、そう思っていたら日曜にうってつけ、雨が降ったので、傘さして同じ薮に入りました。そうしたら今度は暗くて、三脚持っていかなかったものですからどうしようもなくて、仕方がないから手ぶれ覚悟、ISO400に設定して白黒で撮ってきました。それがこの写真:

Bamboo thicket

竹薮というのは鬱蒼として重苦しいのがいいと思います。ことこれが夜ともなれば、通り抜けようなんてのもはばかられるおそろしさ。けれど私は一時期ここを自転車で駆け抜けて職場に通っていて、慣れれば夜でも平気。風にざわざわと揺れる薮のシルエットも趣があったなあと、そんなことを思い出します。

2007年9月24日月曜日

カルドセプト

  先日、コミックス版『Culdcept』の新刊が出ていたもので早速確保、読みまして、いやあ驚いた。えらい急展開じゃないですか。今までも結構熾烈な戦いが繰り広げられてましたけど、今回はそれ以上というか、正直開いた口が塞がらない。一方的にやられているだけといっても言い過ぎでないほどの大ピンチ。こちらの切り札に敵がどう対処するかという点にしても、ああお見事というほかなくて、カルドセプトのルールに従って、粛々と事態は進行していって……、これ、本当にちゃんと風呂敷畳めるの? なんて心配になるくらいですが、多分ちゃんと畳めるんでしょうね。その決着のつく日が楽しみでなりません。

さて、久しぶりに『カルドセプト』の世界に触れて、うずうずと思うところありまして、我慢できず遊んでしまいましたよ、『カルドセプト・セカンド・エキスパンション』。実は私はストーリーこそクリアしていますけれど、カードはまだ集めきっておらず、さらにはメダルもコンプリートしていない、非常に不熱心なファンであるんですが、けれどこのゲームは忘れられません。今まで色んなゲームを遊んできましたが、対戦するために夜行バス乗って埼玉までいったなんて、本当、自分でも信じられない。けど、それくらい楽しかったんですね。なにより対戦が楽しくて、そして出会うセプター(カルドセプトする人をそういいます)が皆気持ちのいいのばっかでね、以前ほどカルドセプトに入れ込まなくなって(というか、ゲーム自体に入れ込んでないね)、ちょっと距離も開いてしまったように思いますけど、けど今もなお大切に思っている人たちがいます。それはやっぱり、カルドセプトというゲームを通じた思い出を共有しているためなんでしょうね。ああ、また対戦したいなあ。

なんていってんだったら、Xbox買っちゃえよ、なんて話になるのかも知れませんが、これ、相当ひどかったらしいですよね。いや、『カルドセプトサーガ』ですよ。私の友人にはカルドのためならハード買うことも辞さぬというコアなのが揃っていますから、その様子を眺めていたんですが、最初こそは楽しみだ、わくわくだ、オンライン対戦がんばるぞ、なんて声が聞かれたものの、途中からは怨嗟の声に変わりまして、いやあ、バグが半端ではなかったらしく、パッチを当てても(Xboxのソフトってパッチが当たるねんね。驚いたよ)駄目な部分が残るとか。それでもオン対戦やってる人もいるみたいですが、ちょっと残念な話だなあと、少なくとも今後のカルドの発展に対して冷や水浴びせられたと、そんな思いがします。

ところで、『カルドセプト』って今後はMSのハード用以外は出ないっていう話は本当なんでしょうか。これ、いずれPS2あたりでエキスパンションが出るだろうと思って買い控える人間を牽制したのだと信じたいのですが、いずれにせよ、今は『サーガ』をプレイしようという気はしないから、心機一転、Nintendo DSあたりで出してくれないかなあ、なんてね。これだと、ハード持ち寄って通信対戦するのも簡単だし、WiFi使ったオンライン対戦も可能だし。なにより、どこででも遊べるというのは嬉しい。キャラクターやマップをポリゴンで表現する必要なんてないんだし、それこそオリジナルカルドセプト風にドット絵でオッケー。むしろ、私はその方が嬉しい。だから、DSで出て欲しいなあ。カルドセプトの他人の手札が見える仕様はそのままで、けどオプションで手札を伏せられるようになっても面白いんではなくて? 実現するかどうかなんて私にはちっともわからないけど、希望を書くくらいはいいよね。本当、携帯ゲームに『カルドセプト』は意外にあうと思うんです。

さて、最初SEGA SATURNでリリースされた『カルドセプト』ですが、これ1997年10月30日発売でした。そうですよ。もうじき10周年なんです。というわけで、10周年記念サイトが用意されているとのこと。サイトオープンは10月6日だそうですが、本当、待ち遠しい。なんだかちょっと同窓会気分といってもいいかなあ。朋あり遠方より来るなんて気分なんですよ。

Xbox 360

PlayStation2

Dreamcast

PlayStation

SEGA SATURN

コミックス

  • かねこしんや『Culdcept』第1巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2000年。
  • かねこしんや『Culdcept』第2巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2001年。
  • かねこしんや『Culdcept』第3巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2002年。
  • かねこしんや『Culdcept』第4巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2004年。
  • かねこしんや『Culdcept』第5巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2005年。
  • かねこしんや『Culdcept』第6巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2007年。
  • 以下続刊

CD

2007年9月23日日曜日

ルリカ発進!

  今、部屋の片付けをしている途中なんですが、この片付けというのは積もりに積もったものを掘り起こすことで、記憶や思い出も新たに呼び起こさせる、そういう体験であるのですね、と再確認している次第です。例えば、昨日書いた『篠房六郎短編集』だってそうで、なに、忘れていたわけではないんですよ。ちゃんと覚えていた。しかも、大切な本は大切な本でわけてちゃんと集めてあったんです。ただ、周辺にうずたかく積もるものやらなんやらでアクセスできなくなっていただけ。それらを掘り出して、手に取って、ああ、好きだったと思う。閉じられていた窓が一気に開かれたかのように、さっと明るい日が差し込んで、風が吹き抜ける気分がする。そして心は一気に昔の日々にかえって、懐かしさも愛おしさもともにあふれるよう。そう、私はひらのあゆの『ルリカ発進!』が好きでした。わずか2巻で完結した漫画ですが、そこに描かれている事々は、まるで自分の人生に起こったことであるかのように、身近に、親しみをもって心の奥に跡を残していたのです。

(画像は『星のズンダコタ』)

なんてことを思っていたら、なんと『まんがタイムファミリー』に『ルリカ発進!』が再録ですよ。作者急病とのことなんですが、これ、多分、掛け値なしで本当だろうなあ。ちょっと心配です。無理なさらずに、ご自愛なされませよ、なんてここでいってもよもやご覧ではあるまいから、まあでも気持ちだけでも、思う心がなにかに働き掛けたらいいねと。

久しぶりに読んだ『ルリカ発進!』は、思ったよりも時代が古くて、そうかあ、二千年問題とか世紀の変わり目とか、それくらいの時期の漫画でしたね。今よりも不況の沈み込みは深刻で、とにもかくにも閉塞感で息苦しかった、そんな時分を思い出しますね。就職なんて笑っちゃうほどなくってね、そのせいというかおかげというかで進学を続けた私。将来暗いなあと思っていたあの頃、四コマ漫画の世界では派遣ものが元気でした。一種、世相を反映していたんでしょうね。フリーターや派遣社員が主人公の漫画があって、彼ら主人公たちは元気で前向きで、そうした元気をわけてもらって、私なんかもぼちぼち今までやってきたのかも知れないなあ、なんていったらちょっと大げさですね。

思ったよりも時代の古かった『ルリカ発進!』ですが、漫画からは古さを感じないというのがさすがといいますか。今読んでわからないネタ(外務省って、当時なにがあったっけ?)とかもあるにはあるんですが、そういったものは本当に珍しく、ほんと、どこを切り出してみても、すらすら読めて、楽しいやらほだされるやら。これ、ひらのあゆが小ネタで勝負してないってことなんだと思います。本質的なところ、大きな部分を取り上げて料理する、その腕が確かなんでしょう。

正社員ばかりの職場に、いわば異質な外部である派遣社員がやってくる。軋轢もあれば無理解もあり、また立場の違いが引き起こす様々なハラスメントも描かれて、それはきっといつの時代だってあったし、今もあり続けていることでしょう。けど、ひらのあゆはそれを描いて嫌な話にしない。最初はあんなにもかたくなであった課長が変わった。どこかぎすぎすしていた男子社員と女子社員を取り巻く空気もがらりと変わって、登場人物一人一人が柔らかくなった、温かくなった。いや、人間味が出たんだと思う。そして、この人間味というものを描かせたら、ひらのあゆは一級だと思います。どことなくとぼけた人たちが、その底にしっかり個性を持たされて、ときになれ合うように、ときにシビアにしのぎ削るようにして、その個性を戦わせているんです。けど、戦うといっても罵りあうわけじゃない、暴力振るうわけでもない。いうならば、より互いを高めあおうという切磋琢磨の関係で、だから私はこの人の漫画読むたび思うんです。人は人と出会うことで、新たな自分を見付けていくのだなって。より大きく、よりおおらかな、理想の自分になるには、多くの人と出会って、自分という人間を磨くことを怠けてはいけないんだなと思うんです。

『ルリカ発進!』は、そうした出会いと成長を強く打ち出してくれたから、なおさらですね。そして今こうして私自身を振り返ってみれば、定職就くわけでなく、腕を頼りにあっちこっちと職場を人間関係を変えていく生活を選んだのには、少なからずルリカの影響もあるように思います。それこそ、自分の可能性を開いていきたい、見付けたいだなんて思って、けど今の職場ももう五年か、長くいすぎかな、そろそろ次の可能性を見付けようかな、心の中にうずくそうした思いを、久しぶりに読んだ『ルリカ発進!』にくすぐられて、これはもう本格的に転職気分ですよ。ほんと、どうしようかなあ。

どんな職場でも、離れるときには独特の感慨があるんですよね。だからルリカの気持ちはよくわかる。確かにちょっと不安定で不安もあるけど、後悔はしません。吹き込む風のように、心機一転新たな気分で、走り始める時っていうのはやっぱりすがすがしいものなのです。

  • ひらのあゆ『ルリカ発進!』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2001年。
  • ひらのあゆ『ルリカ発進!』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2002年。

2007年9月22日土曜日

家政婦が黙殺 — 篠房六郎短編集

 今更ですが、私は篠房六郎が好きです。はじめて買ったのが『こども生物兵器』。そこに描かれた読み切り『空談師』の妙にシリアスで、そしてあの小気味いい落ち。非現実に現実を思い暴走した心の切なさ、一方通行の悲しさがあったかと思えば、非現実において格好良さを追求するその背面に押しやられた現実のくだらなさもあって、それが妙に泣き笑いの悲しさを醸し出してて、あの設定はよかったですよ。くだらなさなんていっちゃいけないんだと思いますが、人というのは誰しもいい部分、格好いいところを見せたいとか思っちゃったりするもんだと思うんです。裏っかわにやばい部分、人には見せられない部分を隠してね、それがばれちゃった気まずさと言ったらいいかなあ。けどね、一旦その人の根っこをつかんじゃったら、ちょっとの瑕疵は帳消しかも知れないよ。だから人と深く知りあうことを怖れることなんてないんだよというメッセージにも思えた。そんなわけで、今日は篠房六郎のあまり表立ってはいない側、ダークサイドとはいわないけどね、下ネタ満載、パロディ満載の『家政婦が黙殺』を取り上げてみたいと思います。

(画像は『篠房六郎短編集 — こども生物兵器』)

と、ここまで書いてなんなんですが、この漫画に関しては本当にコメントしにくいんです。もともとはエロ漫画誌に連載されていたものが集められたんでしょうか。けど、作者も冒頭の描き下ろしでいってるんですけど、ちっともエロくなりませんでしたそうで、確かに本編見ててもエロくはないですね……。でも、下ネタは満載です。ええと、ここに書くのにものすごく抵抗あるんですが、バイブとかポコチンとか、そういうのがどかすか出てくる、そんな漫画で、ダイレクトなエロギャグ漫画と認識するのがいいでしょうか。とにかく、そうしたネタが苦手ないしは嫌いという人は、決して読んではならない漫画であると思います。

さて、そういうネタが苦手ないしは嫌いと思われがちな私ですが、読んでどうだったかといわれますと、面白かったですよとしか答えようがないんです。面白さの質、傾向もありますけれど、漫画やアニメ、ゲーム、あるいはよくあるパターンを下敷きにしたパロディを基礎にして、そこにエロ用語連発ないしはダイレクトな描写がのっかってくるという二重構造が面白かったです。たとえば、肉奴隷さんのシリーズにキン肉マンパロディが見られるし(あ、けど、『シックスセンス』はさすがにわかりませんでした)、他にも恋愛シミュレーションパロディや魔法少女パロディがあって、それら要素はエロ交じりギャグとともに小ネタとして機能していたり、またそのパロディとしての面白さが前面に押し出されたりと、見せ方が本当に多様です。

パロディとしての面白さであれば、『男一発六尺魂』なんかはかなりものですよ。やくざ漫画の手法でもって、恋愛シミュレーションを描いてみましたといったらいいのかな。出てくるのは仁侠こわもての兄さんばかりで、男惚れだとかそんな言葉もありますが、そういうのをことごとく恋愛シミュレーションっぽく描いて、好感度アップとかさ、アルバムモードとかさ、ギャップというかそれだけで笑えるわけです。絵も、あのリアル志向でしょう。絵がめちゃくちゃシリアスなのに、内容は馬鹿で、そのシュールさ、くだらなさが最高でした。

基本的には、このくだらないという評価がすべてなのだと思うのです。とにかく、くだらない。くだらない地口、しゃれの類いに、絵と内容のギャップ、どこをとってもくだらないんですが、そのために、くだらないはつまらないとはイコールではないというのがよくわかります。くだらないのが面白いということもある、馬鹿馬鹿しいけど笑えることはあるわけです。そして『家政婦が黙殺』はそうしたくだらなさを面白さにつなげている、そういう漫画の集成であると思います。

引用

2007年9月21日金曜日

牢屋でやせるダイエット

 なんだか最近、というかいつだってそうなんですが、巷ではダイエットが流行っているみたいですね。ビリーのブートキャンプは社会現象っぽく盛り上げられて大人気だし、あの岡田斗司夫だってダイエット本を出してしまう。なんだ、すごいなあ、大はやりだなあ、だなんて今さらながら驚いて見せてますが、私はというとまったくといっていいほどダイエットには縁がなくて、だからこのへんは横目で見て素通りです。とかいっていたかったのですが、流行に疎すぎるというのもまたいけないなと思うものですから、前々よりちょっと興味のあったダイエット本を買ってみました。著者、中島らも。そのタイトルは『牢屋でやせるダイエット』。ほら、実に効果ありそうなタイトルでしょう?

でも、本当は違うんです。この本は、大麻所持で捕まった中島らもが、拘置されていた22日間を振り返ってつづった手記なんです。厚生労働省の麻薬取締官が自宅に踏み込んできた。これを皮切りに、中島らもは一転、拘置所という非日常に身を置くこととなります。拘置所とは一体どういうところなのだろう、普通の生活していればちょっとお世話になりそうにないところですが、この本には中島らもという希代の才人の目で見、肌で感じた拘置所の姿があります。果たしてそこに非人間性を見るのか、あるいは人間の温かみを感じるのか、それは読んだものがそれぞれ胸に抱けばいい感想です。そして私はというと — 、なんか悲しかった。じんわりとしみるように悲しかった。中島らものあんまりな人間臭さが、たまらなかったのです。

最初は反抗的だったらもさんが、この独特のシステムによって運用されている施設になれていくに従って、馴染んでいく経過が悲しかった。非人間的装置であると一度は見限られた拘置所だけれど、だんだんとそこに人の息遣いを嗅ぎ取っていくその過程に、人の悲しさが見えるように思えて、いや悲しさというと勘違いされるかも知れないね。いじらしさであるといってもいいと思う。どんなに血の通っていないと思える冷えきったシステムであっても、人があらば通う心もある、通じる情もあるのだねと。読みながら、もしかしたらストックホルムシンドロームなんじゃないかと思ったりもしたのだけれども、中島らもの通わせようという情は、看守や取締官に対してだけでなく、ついにはまだ見ぬ被疑者たちへと向かい、かつて同じ独房に寝起きしたものへ、そして自分の出ていった後にやってくるだろうものへ、等しく温かく注がれるのです。

昔、グレン・グールドという変わり者のピアニストがありまして、孤独が人を詩人に変えるだなんていっていたのでした。彼は彼自身に対するインタビューの中で囚人をやってみたいとよく思ったなどといっていて、俗世間を脱し孤独に向きあうという一種のメタファであると考えればいいと思うのですが、けれど中島らもはこれを実際にやってしまったわけです。いや、囚人というのはちょっと違うけれど、けれど拘置所の独房で二十日あまり思索の日々を過ごして、深く内省し、人は善と悪という概念を持ったがために、自ら内に抱える悪からは逃れ得ないと、そして人はどこかしら欠けた心を持っているがゆえに、なにかにすがっていなければ生きてかれないのだと、そして自分の場合、それは大麻であったのだと — 。そうしたあまりにまっすぐ過ぎる視線でつぶさに語られる人間観が切なく悲しかった。人の弱さを否定しない。人は弱いものだということを、多分誰よりも知っていたから、私も含めて弱い者たちは、この人を放っておけなかったんだと思う。

実際、この人が大麻で逮捕されたときにしても、テレビや新聞はこの人のことを悪くいったかも知れなかったけれど、私のまわりのらもファンは、この人らしいといって、そんな悪口ちっとも取り合わなかった。むしろ、こんなんで逮捕なんて、逮捕するほうがあほやわ、実刑なんて許されへんと、最後の最後まで中島らもを応援していた。それは、お互いに自分の弱さを知って、それを責めもしなければなじりもしない、ただただ弱さを弱さのまま受け入れて、けどその弱いままではいたくない、進もう、歩いていこう、今のこの混迷を抜け出して少しでも光の当たるところに向かおうと思う、いわば同志のようであった私たちの、仲間意識に似た共感が後押しした思いなのかも知れないと思います。

そしてその共感があるがゆえに、今私はたまらなく悲しくて悲しくて、それこそしようがないのです。吐く息さえも悲しくて、どうしようもないのです。

引用

2007年9月20日木曜日

東方三侠 ワンダー・ガールズ2

 昨日いっていた『東方三侠 ワンダー・ガールズ』ですが、あれで終わりではありません。続編があったのです。しかも、来週この時間で放送しますなんていってくれましてね、ありがとう、ぜひ見ましょう。なんていうくらいですから、わりと気に入ってるみたいですよ。やれ荒っぽいだとか、やれ無駄に人が死にすぎるだとか文句いってたくせに、続きがあるとなれば見たくなる。だって、なんだか妙に興味をそそるんですもの。そしてテレビ放映を見る前の時点で、この映画のDVDが出ていることには気付いていました。最寄り駅前CDショップ店頭のワゴンで見付けて、ざっと裏面解説見たらば、なんと核戦争後の地球が舞台らしい! わお、これはまたえらい張り込みましたな。頑張りすぎにもほどがあります。

前作も結構陰鬱とした暗さが立ちこめた映画でしたが、それでもときに自然を感じさせる風景、日常を感じさせるシーンが挿入されて和ませてくれたものです。ですが、今回はそういったシーンはまずもって皆無。核により汚染されてしまった世界では、水がなによりも貴重品であり、水浄化技術を開発した科学者は水供給会社を作るのみでは飽き足らず、思い余って世界の覇権を握ろうとする。そしてそれを阻むのがワンダー・ガールズだ!

と思っていたんですが、なかなかそういう方向にいかないのが微妙でした。まず、前作で和解(?)したサンを加えたトントン、チャットの三人。この人たちはなにをやっているかというと、サンは前作の敵の手先であったカウ(不死身の怪人)をともなって医療品を運搬するなど、世のため人のために頑張っているのに対し、チャットは水供給会社のトラックを襲って水を奪うなど、しかもその奪った水を皆に分け与えるのではなく、トントンのうちに持ち込んで、シャワーだ風呂だと浪費する、まあ前作同様奔放にやっているってことですね。で、我らがワンダーウーマン、トントンはどうしてるかといいますと、一女の母となっておりました。なお、夫(警察官)との約束でワンダーウーマンになるのは禁止なのだそうですよ。

この映画って金城武のデビュー作なんだそうでして、彼の役はどんなかといいますと、水供給会社を通じて世界を牛耳ることをたくらむ科学者のもとで、民衆を先導するという、いわば新興宗教の教祖、太平道における張角みたいな感じといったらいいと思います。ですが、金城武は実はいい奴。何度か警官隊と衝突はするものの、最終的には和解して……。つまり、ここでトントンの夫と金城武がからむわけですよ。

さて、ここで問題があります。前作ではチャットが問題をややこしくしているっていってました。もちろん、今回でもそうなんですが、金に目をくらませて、事態を悪化させて、けどチャットはまだいいんです。今回の目玉はトントンですよ。一触即発の集会を警備すべく配備されている夫の元に、子供連れで弁当届けにきたりしている。おいおい、それは駄目だよ。案の定暴動に巻き込まれちゃって、大騒ぎになって、そりゃあの夫でなくとも、なんて母親だと罵りたくなるってものです。さらには、うちに子供をおいたまま、またも夫の配備された現場に顔を出したりして、ってちょっと待てよ。あんたがそんなふらふらちょろちょろしてなかったら、ええっと、ちょっとネタバレになるけどいいよね、夫子供と離れ離れになることもなかっただろうし、脱出行もスムーズにいったのじゃないのかい? それに軍に監禁されてからもさ、なんかその意図というか意思というか、つかめないんです。一旦は希望を失って、けれど毒を盛られて死んでいった収容者たちを見て奮起でもしたのか — 、けどその奮起のしかたはおかしかったと思う。食事をもるスコップめいた金属製の食器? それとも柄付きの鍋かな。それを、こっそり手に入れたボルトを使ってこつこつと加工して、なにしてるのかと思ったら、ワンダーウーマンの仮面を作っていた。いや、演出の意図はわからないでもないです。ワンダーウーマンの復活を見せたかったっていうのはわかります。けど、このやり方はどうだろう。別にこの人は仮面をかぶったら強くなるわけでなくて、もともと強い人が仮面をかぶってるだけだから、獄中のネズミを捕まえて餓えをしのいでなんていうシーンをあえて入れて、悲壮感を漂わせる必要もあったんだかどうだかという気もしますし……。

というところを突っ込みながら見るのが多分いいのだと思います。例えばラストなんかでも、ちょっとなんで科学者がそんなに強いんだよ! とか。まあ、身体改造なんかをしてたのかも知れませんね。

昨日もちょっといっていましたが、本来こうした作というのは、ストーリーやらなんやらはベタでわかりやすく、かわりにアクションを爽快にというのが筋だと思うんです。勧善懲悪を基本に、最後にはぼこぼこに悪をやっつけて、さっぱり爽快にいこうぜっていうのが本来だと思うんですが、たまに香港映画ってやってくれます。例えば、スイカ頭が爆死したり(『幽幻道士』ね)、あとジャッキー・チェンの映画でもサモ・ハン・キンポーが爆死したりしてませんでしたっけ? このへんの狙いもわからんでもないんですが、わりと重要な役どころを壮絶に殺して、そのインパクトで感動に持ち込むというか。けどさ、『東方三侠 ワンダー・ガールズ2』はちょっと殺しすぎ。前作でも無駄に死んだ人が多かったなんていってましたけど、今回はそれに輪をかけて無駄死に感が強く、めちゃくちゃ後味悪かったです。なのに、最後の最後、まるでめでたしめでたしみたいに終わって……。

ハリー、見知らぬ友人』では、そうした違和感も含めて意味がありそうだなんていってましたが、『東方三侠2』では多分そういうのはないと思います。だからなおさらやりきれんなあなんて思って、まあこの映画に関してはストーリーに深く移入するなってことなんだと思います。

2007年9月19日水曜日

東方三侠 ワンダー・ガールズ

 先週、漫画雑誌のアンケート書きながら『情熱大陸・ライブ』を見ていたら、このあと引き続き映画をやりますとのこと。アンケートはもう書き終えたのでどうしようかなと思ったんですが、まあつまんなかったら途中で寝ればいいやと思い、オフタイマーをかけて見るだけ見てみることにしました。それが『東方三侠 ワンダー・ガールズ』。ミシェル・ヨー、マギー・チャン、アニタ・ムイの三大美女が大競演。ワイヤーワークでアクションもばりばりにこなしますという、実に香港映画らしい香港映画でした。ただ、最近の映像美云々を謳うものと比べると見劣りするのは確かだから、ちょっと懐かしさ漂う特撮アジア映画が好きだとか、とにかくけれん味あふれる香港映画が好きだとか、そういう人にこそおすすめの映画だと思います。

よくいえばダイナミック、悪くいえば荒っぽい映画でした。登場人物、主要な人だけあげてみると、ワンダーウーマンとして悪を退治するトントン、ハンターという異名を持つ賞金稼ぎチャット、そして犯罪の影に暗躍するサン。次々と赤ん坊が誘拐されるという怪事件を追うトントン、そしてチャットの前にサンの影が。しかしトントンとサンの間には秘められた過去があった!

というのがだいたいのあらすじ。もちろん赤ん坊誘拐事件の影には陰謀があり、そして組織の手先として犯罪をおこなわねばならないサンにも、悲しいドラマがあるのですよ。ベタといえばベタかも知れないし、そのベタをうまく見せられているかというと、ちょっと怪しいところもあるんですが、なにしろ基本はワイヤーワークびしばしのカンフーアクション映画ですから、見せ場はいうまでもなくそちら。けれどドラマ部分も忘れないでねというようなバランスであると思います。

ところで、この映画見ててどうしたものかと首ひねったのは、チャットですよ。彼女は賞金稼ぎだから、正義のために事件を追ってるわけじゃないんです。金になればいい。そのためには、結構あこぎな手も使いましてね、そしてそれが事態を悪化させるというのはどうしたものかなと、正直言うと苦笑気分。基本的にはトラブルメーカーの役割で、彼女の奔放な役柄があるおかげで、アクションの見せ場も増えてという、そういう狂言回しとしてのポジションは理解しますけど、死ななくていい人が死んだりしているように見えたのは、ちょっとなあ。昨今のぬるい筋書きに慣れすぎて、人が無駄に死んだりするの受け付けなくなったかなあ。ともあれ、チャット、君、それ、あかんやろとつっこみ入れたのは一度や二度ではありませんでした。

この映画で気に入ったのは、実は音楽で、特にテーマ曲。あんまりおしゃれとか洗練とかそんな感じではないけれど、泥臭い中に魅力があふれるというか、わりとよかったですよ。それと、各キャラクターにテーマが設定されていて、ワンダーウーマンが活躍するときの音楽も好き。えっと、これテーマ曲だっけ? 覚えてない。ただ、チャットのテーマがロンドン橋落ちたというのはどうかなって思いました。覚えやすくてよかったですけどね。

2007年9月18日火曜日

ハリー、見知らぬ友人

 昨日、ジャン=ポール・ベルモンドの演ずるミシェルを評して、隣人にこんなのがいたらたまらんなあなんていっていましたが、隣人にいるとたまらんということに関しては、ハリーもどっこいどっこい……、いやあるいはそれ以上かも知れません。

ハリー。一体このハリーというのは誰かといいますと、フランスの映画『ハリー、見知らぬ友人』に出てくる、主人公ミシェルの高校時代の友人です。バカンスを過ごすべく別荘に向かう途中、途中立ち寄ったサービスエリア(?)のトイレで、ミシェルはハリーに再会するんですが、ミシェルはこのハリーのこと、まったく覚えていないんですね。けれど、ハリーはミシェルのことをよく覚えている。当時書いていた詩など、すらすらとそらんじるほどに覚えている。そして、そのハリーがどうしようもなく親切な奴で……。親切? いや、本当に親切なんですよ。本当にあり得ないくらいの親切な奴なんです。

どれくらい馬鹿親切かといいますと、ミシェルの車が故障したのを見て、新しいミツビシの四駆を買ってあげるよ、君に必要なのは快適な四駆なんだ、とさらりといってのけるような、そんな男なんですよ。うわ、そんな友達、僕も欲しいよ! って思います? けど現実問題としたら難儀な話ですよ。普通、友人間においても引くべきラインというのがあると思うんですが、これ以上は立ち入ってはならない、これ以上は、たとえその人のためと思っても踏み込んではならないという線を引かれてしかるべきところを、ハリーは頓着しない。すべて、ミシェル、君のためなんだ。僕は君の才能に惚れている。その才能っていうのも、高校時分の学校の文集に載った詩や小説ですからね。当然、ミシェルは当惑しますわね。一体この賞讃ぶりはなんだろう、あまりの崇拝ぶりには見ているこちらも目を丸くして、そしてその親切は暴走をはじめます。

はじめは車を買う、手伝い、援助を申し出るという、比較的視聴者にも納得のいく範囲にとどまっていたハリーの親切ですが、ミシェルの才能を開花させるために邪魔と思われるものを排除するにいたってはありがた迷惑以外のなにものでもなく、しかもなにが恐ろしいといっても、そこには一片の悪意もないのです。ハリーは、本心からミシェルのためと思っているから、ためらいも後悔もなく親切を遂行するのですが、その親切が本当にミシェルのためになっているかどうかというと — 。詳しくは見てのお楽しみ。この映画に親切の危険領域を見ることになろうかと思います。

あんまりここで映画の内容をどしどしいってしまうのもなんですが、でもまあちょっとだけ。ミシェルが何年もかけて修繕している別荘ですが、ミシェルの意向も聞かずに父がバスルームをピンクに改装してしまっていた! これがこの映画において最初にあらわれるありがた迷惑であろうかと思うのですが、木質もあらわに薄暗い別荘において、このピンクのバスルームの異質さっていうのが半端じゃないんですよね。見るたびに笑ってしまう、ある種別世界を作っちゃってるといっていいくらいに浮いていて、けどこのあんまりな異質さって、よかれと思ってどしどし個人の領域に踏み込んでくる親切やらありがた迷惑のメタファーですよね、多分。それで、ミシェルはそのありがた迷惑の王国であったバスルームを、多分別荘内で一番明るい部屋だからだと思うんですけど、最終的に書斎代わりに使っちゃったりしてたわけですけど、これってありがた迷惑もいずれは慣れて受け入れちゃったりするってことなのかな? わかんないけどさ、この映画にはこうした象徴的なシーンや要素がやたらとあるように思われて、ここまでいうと牽強付会も甚だしいけど、情事のあとに生卵を飲むことを習慣にしているというハリーっていうの、創世記における蛇を想起させるための仕掛けだったりするんじゃないかとか思ってしまうわけで、こうした思わせぶりなところも含めて、この映画は受け入れられたんだと思います。

ところで、この映画のラストっていうのがとんでもないと思うんです。すべてが終わって、ミシェルはもとの日常に戻りましたみたいな感じで終わってるけど、いや、全然元には戻ってませんから。だってね、すべてが変わってしまっている。ハリーの最初にいっていたように解法(ソリューション)っていうのは確かにあって、そしてそのソリューションを適用したことによって、家族は円満、お父さんも本来あるべき自分を取り戻せたのでした、めでたしめでたし、え? そんな話だったっけというようなラストですよ。警察は? とか考えちゃいけないんです。けれど、これはやっぱりハリウッド映画ではないから、本当なら解決されるべきことがらが放置されているということは見過ごしにしちゃいけない、ここにもちゃんと意味があるんだと考えるのが自然であると思います。

引用

2007年9月17日月曜日

勝手にしやがれ

 昨日に引き続き、ゴダール作品を見ました。『勝手にしやがれ』。これも『気狂いピエロ』同様に、ゲームショップの閉店セールで買った一枚なのですが、 — つまるところ、ヌーヴェル・ヴァーグは人気がなかったといっていいのかな? けど、そもそもこれをゲームショップに置いたのが間違いというほかなくて、だってこの手の映画を見る人間って、よほど映画ないしは映画史に興味があるような人間だろうし、あるいは青春の頃にジャン=ポール・ベルモンドの格好良さに憧れたみたいな人間、つまりはある程度歳いった人ですよね。この手の人は、あんまりゲームショップに出入りしないと思う。仮に出入りしたとしても、すでに持ってるとか、そういうタイプなんじゃないかなあ。けどまれに私みたいなのが買っていくんだと思います。安くなってるのを見て、お、ラッキーとばかりに買っていく、そういうこともあるのでしょう。

でもね、この映画、今でこそ大人気とはいかないけれど、封切られた当時はそれはそれはすごい人気だったんだそうですよ。どれくらい人気だったかというと、私の父、もう六十を過ぎている、その父が、私が見ているのを途中だけちらりと見て、ジャン=ポール・ベルモンドか、『勝手にしやがれ』見てるのかと、一瞥してわかるわけです。父の若かった時分、この映画はそれくらい若者の間に浸透していて、フランス映画が人気であったということもありましょう、また映画自体が若者のみならず庶民の娯楽として絶大の力を持っていたということもありましょう。けど、それにしてもすごい反応力だった。40年前の映画なんですけど、その歳月を経て記憶に残らしめるほどに浸透したのでしょう。いやはや驚きです。

『勝手にしやがれ』はヌーヴェル・ヴァーグといわれる様式(?)の映画なのですが、ジャンルとしてはフィルム・ノワール。犯罪を描いたものであります。当時の若者に絶大のアピールをしたジャン=ポール・ベルモンド演ずるミシェルは、よくいえば無頼、悪くいえばろくでなし、いやならず者の方がぴったりかな? 本当にとんでもないやつで、隣人にこんなのがいたらたまらんなあと思わせるに充分な悪党です。次々と車を盗んでは乗り換え、金がなくなれば女にたかり、さらには強盗も辞さないという傍若無人っぷりを発揮して、うわ、なにこのサイコパス? たまらん奴だなあ、そんな風に思うのですが、この映画自体は彼の犯罪をテーマにしているわけではありません。むしろ、彼がパリにまで追ってきた女、パトリシアとの掛け合い、彼女との関係の中にこそ意味がある。その場その場に生じる欲求ないしは欲望に素直すぎるミシェル、彼がパトリシアに求めたものってなんなのだろう。ぬくもりや触れ合いなんてやわなもんじゃないですね。安らぎなんかでもない。癒し? は!? なにそれ? そんな生易しいものじゃない。彼の欲望はもっとぎらぎらした、生々しいものですよ。

生きることは欲望をただ充足させることであるとでも言いたげな彼の放埒な生き方。自由どころか、勝手気ままな生き方。あくまでも彼は自分のやりたいことのために生きているのだけれども、その生のスタイルが自分自身を罠にはめるかのように束縛していって、最後には破滅させてしまう。破滅したかったのかといわれるとノンでしょう。けれど、望みのものが手に入らないなら破滅の方がましだと考えていたのは確かで、生きること、得ることを望みながら、同時に失うことを求めている、そういう匂いが映画全体から感じられる。台詞からも、映像からも、そしてなによりジャン=ポール・ベルモンドから、濃厚に感じられるのです。

ミシェルのきわめて刹那的な生を描いたこの映画が、当時、なんでそれほどまでに人気を博したのかは、その当時の世相なんかもあわせてみないことには伺い知れないものがありますが、けれど若者とはえてして快楽を志向して刹那的に生を消費したいと思うものなのかも知れないとはいっちゃいけないものでしょうか。私みたいに、積み上げることにしか興味のないように見える人間でも、刹那の快楽に生を散らす誘惑に駆られることはあるのです。そして、そうした危険な誘惑に挑む若者の姿を、ジャン=ポール・ベルモンドはこれでもかと体現してくれた。明日のある身の我々にはおおよそ真似のできないことを、さっそうと、スタイリッシュにやってのけるベルモンドは、きっとことさらに格好良かったのでしょう。そしてその格好良さは、私にもわからないではないのです。善きものに、光に惹かれるそぶりを見せる私ですが、それでも闇や背徳に憧れる心はあって、そしてそれは、条件さえ許せばミシェルの生に重ね合わされたことでしょう。ただ、私は生まれるのがちいとばかり遅かったと、それだけのことかと思われます。

ところで、刹那的であったミシェルの生ですが、しかし彼が本当に最後に求めて手に入れられなかったものってなんなのだろう。彼は手の届く範囲のものなら片っ端からくすねようとしたわけだけれど、最後には到底手の届きそうにないものに手を伸ばそうとしていたと思われて、そして結局は手に入れられなかったわけで。それがなにかと迫るところがこの映画の謎であり、観客である私がともに踏み分けていくべき深みなのだろうと思います。

DVD

CD

ポスター、他

2007年9月16日日曜日

気狂いピエロ

 ずいぶん昔の話、駅前にあったゲームショップが店を畳んだときのことなのですが、このゲームショップ、いつごろからかDVDなんかも扱うようになっていましてね、むやみにあれこれと手を広げるようになると、いよいよピンチなのではないかなんて邪推してしまうのですが、この店に関してはそれがどうも邪推でなかった模様。おかげでというと申し訳ないのですが、閉店のセールで安くDVDを買うことができました。そのうちの一枚が『気狂いピエロ』。ヌーヴェル・ヴァーグといわれた時代の映画です。あるいはゴダールの代表作といってもいいのかも知れません。

しかし、これがまた理解することを拒絶させるといいますか、少々シュルレアリスティックな色彩も帯びた作でありまして、正直、どう思ったと聞かれても、どうもこうもと答えるの精一杯。冒頭、主人公フェルディナンの人物の把握がまあだいたい終わったかなと思えば、いつの間にか出奔、マリアンヌと一緒に逃避行、あれー??? みたいな唐突さが全編を覆っているのですよ。ふたりは行く先々で犯罪をおこなうのですが、それはどう見ても行き当たりばったりでしかなくて、しかも犯罪が行き当たりばったりどころか、映画としての見せ方も行き当たりばったりとしか見えなくて、まるで夢の中のできごとみたい。これ、迷走といえば迷走なんだけれど、あるいはむしろその迷走をあるがままに見ることを要求する映画なのかも知れませんね。そう思えば、それまでの強烈な違和感も収まって、日常が日常でなくなる異質感や、日常どころか普通の映画には必要なさそうなシーン、人物の唐突さなんかも、その違和感ゆえに許容できるというか、本当、不思議な気分になれる映画であります。

けれど、筋としてはさして真新しいものではありません。ジャンルとしては犯罪を描いたもの、フィルム・ノワールであるといっていいと思います。けど、綿密な計画するわけでなく、なんか、あれ? なんかそんな伏線あったっけ? とまごまごしている間にどんどんシーンが進んでいって、これもまたフィルム・ノワールらしいというか、破滅的なラストに突入するところも、まさしく突入という表現がふさわしすぎるというか、あまりのその唐突さに腰が砕けました。けど、おおよそ人間の衝動ってのはこんなんかもなあとも思うわけで、不条理の中に人間の、男女の機微を見るというのかな、手を取り合い破滅に向かってしまう、そんな人間の狂気じみた情熱みたいなものが、彼らの逃走劇には匂っていたと思います。しかもその逃走というのもまともとは言いがたく、警察やなにかから逃げてたというのは表向き、実際のところは彼ら自身、自分自身から逃げている。日常を捨て去り逃走すると選んだ彼らですから、普通であり続けることは敵わなかったのでしょう。

私にとっては、今回が『気狂いピエロ』の初見です。なので、もしこの先二度三度と見ていけば、一度目ではつかめなかったなにかに気付くこともあるかも知れない。いや、百遍くらい見ないといけないかな? けれど、ある程度の回数を見て、初見で私の抱いた違和感や唐突さが整理されれば、その見るたびに新たな発見のあるという、そういう類いの映画になりそうな予感に満ちています。

そして、その発見というのは、映画に出会い、触発されるかたちで、映画と私自身のせめぎあう局面にこそ見出されるなにかであるのですね。ことこの映画に関しては、シンプルなストーリーに唐突なシーン、そして膨大な情報がぎゅうぎゅうと詰め込まれたかのようでありますから、手ごわいぞとわくわくして、またいつかこの映画を見ようと思うときを待ち望ませるような、そんな魅力にあふれています。ん? なにこれ? ようわからんかったがもっぺん見よう、そんな感じの引きつけ方といったらわかるでしょうか。ともあれ、再見を迫る、そんな映画であるのです。

DVD

CD

ポスター

2007年9月15日土曜日

リバー・ランズ・スルー・イット

 『リバー・ランズ・スルー・イット』を知ったのは映画のソフトのカタログで、多分DVDの時代じゃなくて、LDかな? 印象的なシーン。深い自然の中、投げられた釣り糸が大きく宙を舞っている。美しいなあ。私はまずその美しさに憧れ、そのタイトル『リバー・ランズ・スルー・イット』を記憶にとどめたのでした。けれど、その時点ではこれがどういう映画であるか、ちっともわかっていなかったのです。写真だけ見て、解説とか読まなかったのかな。あるいは読んだけれど忘れてしまったのか。けれど、いずれにしてもこの映画がはっきりと心に刻まれたのは確かなことで、その後DVDを買って……、今日の今日まで見ずにしまい込んでいました。それは、もし自分の思ったような映画でなかったらどうしようと、そういう怖れがあったからなのではないかと思います。

ですが、今私は、なんでもっと早く見ておかなかったんだろうと、そんな思いにとらわれています。すごくよい映画だった。牧師の父を持った兄弟の物語。映画は少年時代から青年時代にかけての彼らの成長を描き、そして家族がともに過ごした最後の夏を描くのですが、やりきれなさというべきか、世の悲しさというべきか、そうした思いが深く刻まれるようなラストに、私は少し絶句して、姉に一言、あまりに悲しいラストだねというのがやっとでした。

この映画は、アメリカはモンタナに暮らす一家の物語であり、そして釣りのシーンが効果的にテーマを引き締め、物語を主導していました。冒頭においても語られますが、彼らにとって釣りとは信仰に同じであり、ただ魚を得るための行為ではないのですね。自然あるいはこの世界を作った神に向き合うための祈り、黙想に同じであり、己を深化させ、現実の地平を越える、そのようなものであるのですね。

弟ポールが、父と兄の前で見せた大物とのファイティング、あれは本当に心を踊らせる、屈指の名シーンでありました。胸まで水に浸かりながらのキャスト。フライに食らいついた鱒にしっかりと食い下がり、リールを巻き、糸を送り、濁流に飲まれながらも決して負けなかったポールは、父がいうように美しく、そして兄がかつて評したように芸術家そのものでありました。私は人の住む地上から飛翔したかのように輝く彼に、なぜ人は美しく善なるものだけでは生きていけないのだろうかと複雑な思いを抱きました。さらには彼の人生の祝福されることを願いました。それくらいに美しいシーンでした、清浄にして幸いな場面でした。

人というのは度し難い。善きものに惹かれながらも、同時にまた俗悪に耽るのが人であり、そのどちらかだけでは駄目なんだろうか。確かに私も、頽廃に宿る魅力を知らないわけでなし、また善なる面だけが表立った人がしばしば魅力に欠けるということも理解しています。実際、この映画にあらわれるブラッド・ピットは魅力的だった。彼の美しさもさることながら、ただルックスにとどまらない魅力が匂い立つようで、これが彼の出世作となったというのもなるほど然りとうなずけます。ですが、だからこそ、彼があまりに美しいからこそ、その美だけでは駄目なのかと思うのです。無理なのはわかってる、また仮にそれが可能としても、きっとそれは深みもなにもない独善に陥るかも知れず、あるいは稚気か。美をなすためには、すべてを飲み込んで、すべてを乗り越える必要があるのでしょうね。そのあらゆるものを乗り越えた地点に真なる美が生じるのだと、私はそんな風に思うものだから、ノーマン・マクリーンがあの時叶えたかったこと、そしてそれが叶わなかったことがあまりに悲しいと思われてしかたがありません。

それは私に胸の痛みとして跡を残して、そして人の世のままならなさ、人の思いのままならなさを、いやというほど思い知らせます。

DVD

CD

  • マクリーン,ノーマン『マクリーンの川』渡辺利雄訳 (集英社文庫) 東京:集英社,1999年。
  • マクリーン,ノーマン『マクリーンの川』渡辺利雄訳 東京:集英社,1993年。

2007年9月14日金曜日

パニクリぐらし☆

  私はつくづく驚くのですが、このBlog、こんだけ手当たり次第に書き散らしているというのに、まだ書いてない漫画があったというのです。藤凪かおるの『パニクリぐらし☆』。『Boy’sたいむ』で書いて、『ひめくらす』でも書いて、そして『サクラ満開!!あかり組』でも書いたというのに、『パニクリぐらし☆』では書いてなかった。わお、すごく意外。なにをおいても書いてそうに思ったのですが、それをあえてしなかったのは、2巻の出るのは間違いあるまいと踏んでいたからなのかも知れません。

そして、めでたく第2巻が発売されました。『パニクリぐらし☆』は『まんがタイムラブリー』連載で、人気あるんでしょうね。表紙で、巻頭掲載で、けれどそれもさもありなんと思える内容の充実。兄一人、弟二人、妹一人、犬一匹の貧乏暮らし。そこに会社の同僚長瀬さんが加わっての、ちょい人情、ちょいどたばた、そしてちょい恋愛がにまにまと楽しい漫画です。

貧しいながらも楽しい我が家。恋愛には不器用なのに、家事節約に関してはむやみに有能な兄貴の存在が漫画の基本性格を決定している、と思うんですが — 、楠一志、派手さに欠けた男です。朴訥として真面目で善良で、家族第一の地味な男です。けどそのこつこつと家族のために働き、家事を引き受ける兄貴が、生き生きとしているのが読んでていいなあと思えます。たまには、というかわりかし失敗しているけれど、そうした完璧でないところ、むしろどことなくのんびりとして抜けているというのも長所でしょう。本当、すごくいい男。いや、二枚目っていってるんじゃなくて(二枚目は弟泰二のポジションです)、心根のいい男っていったらいいですかね、粗忽だけど。こんな男だからこそ、長瀬さんとうまくいってくれたらいいなと思うし、弟妹たちに慕われてるのもわかるわって思うわけでして、この人のよさがまったく漫画のよさに繋がっているのだと、そんなこと思うのです。

人のいい兄貴に、長瀬さんと妹みつきという魅力的な女性キャラクターが関わって、まあ弟二人は割り食わされちゃってるわけですが(征四郎とか地味に輪をかけて地味になっちゃって……)、この二人の女性がそれぞれに違ったよさを持っているのも人気の理由かなと思っています。ちょっとお姉さんで、しっかりしてるんだけど、決して理想的すぎない生身っぽさのある、ほら、長瀬さんってへそ曲げちゃったり見栄張ったりするでしょう。そういう自然なところはいいですよ。実質を見抜く落ち着きがあるといったら言い過ぎか、確かによくできたお嬢さんなんだけど、作者が女性だから? お人形さんじゃないし、女神でも天使でもない、ほんとに生身っぽさがある。まあ、いい人過ぎるとは思うんだけど、それは仕方ない。だってヒロインなんだもの。それに、長瀬さんのこうしたよさがあるから、あの苦労性の兄貴にはこの人がって思えるわけで、本当、いい感じの二人だと思うんです。

ちょっと余談だけど、長瀬さんを意識している兄貴は、みんなから鈍いだなんて思われてますけどね、もしかしたら相手の好意にもしっかり気付きながら、あえて距離おいてるのかもね。いや、作者がそう考えてるかどうかはわかんないんだけど、自分だったらそう読みたいなあなんて思う。ちょっと邪推妄想が過ぎるとは思うけど、あの兄貴ならそういう変な気のまわし方しそうな気がする、なんて思ってます。

『ひめくらす』だと、葵と直江がうまくいったりしたら終了だなんて、そんな不遇がありますけれど、この漫画に関しては、兄貴と長瀬さんがうまくいっても、それはそれでちょっと違った家族ものとして続いていけそうな気がします。兄貴と長瀬さんだけでなく、妹みつきも、それに二人の弟にしても、なんだか放っておけない感じで、だから彼らの物語があってもいいかなって。けど、今はまだ兄貴中心で読んでいきたい。兄貴と長瀬さんの、付かず離れずのそういう間柄を見ていたいだなんて思います。

  • 藤凪かおる『パニクリぐらし☆』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 藤凪かおる『パニクリぐらし☆』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年9月13日木曜日

Nevertheless played by Gidon Kremer

 昔、大学に通っていた頃の話です。大学の近くに輸入CDをたくさん扱っている喫茶店がありまして、学校への行き帰りにちょくちょく顔を出しては、面白そうなのを見付けて買うということをしていました。実際の話、このCDがそうして購入されたものかはわからないのですが、けど当時の状況、行動もろもろをかんがみるに、この手のCDを買うならあそこくらいなんじゃないかなあなんて思うんです。それくらい品揃えに独特の個性がある、またその個性が受け入れられている、いいお店でした。廃業されたのがちょっと残念に思うくらいの面白いお店だったんです。

先ほどからいっているこのCDというのはなにかといいますと、ヴァイオリニスト、ギドン・クレーメルのアルバムFrom My Homeです。これは、二十世紀生まれの作曲家による作品集でありまして、一番古い作曲家がBalys Dvarionas。1904年生まれ1972年没の作家。このアルバムが出た当時亡くなっていたのはDvarionasだけで、残りは当時皆存命。まさしくコンテンポラリー(同時代)の作家による、コンテンポラリーの作品集でありました。

私がこのアルバムを買ったのは、明らかにArvo Pärt聴きたさですね。ヴァイオリンと弦楽、パーカッションのための作品が収録されていまして、タイトルはFratres。1977年の作品、1992年に書き直されているようです。この当時、私はペルトの作品に興味があって、それは大学の紀要に収録されていたペルトのティンティナブリ様式に関する論文があまりに美しく力強かったから。論文なんて無味乾燥なものだと思ってはいませんか? だとしたらそれは間違ってます。論文のなかにはそれはそれはどうしようもない砂を噛むようなのもありますが、これは! と思わせるものだって間違いなくあるのです。

ペルトのために買ったアルバムですが、その後妙に引きつけられることになった、それこそ心奪われた作品がありました。それが今日のタイトルに上げたNevertheless。Georgs Pelecisの作品です。

Georgs Pelecis、ラトヴィアの人らしい。はっきりいって、どんな人なのか、この曲の他にどんなのを書いている人なのか、さっぱりわかりません。だからわたしには、クレーメルの演奏するこの作品だけがすべて。けれど元来音楽とはそのような関係で充分なのかも知れないとも思います。私はこの人についてなにも知らないけれど、少なくともNeverthelessは知っている。滑り落ちるようなピアノの下降音形の繰り返しに、ヴァイオリンのフレーズが軽やかに飛翔する。静かに静かに、ささやくようにささやかにメロディが奏されるかと思えば、ときにその詩情をあふれさせて、豊かな弦楽の響き、郷愁をかき立てる旋律はただただ美しく、私は音に遊び、心を躍らせ、そして思いに沈むのです。この三十分近い曲に永遠を感じます。天上を思わせる清浄さに涙が出そうになります。でもこれはただ美しいだけでなく、けれど私にはこれを美であるとしかいうことができず、生きていることも、いずれ死ぬことも忘れて、その美に包まれたまま私は私という地点から離れ去ってしまって、ああすごい電波文。けど、私にはこれを言葉として語ることができません。こうする以外にどうして語ればよいのかわかりません。

2007年9月12日水曜日

MAROKO 麿子

 私はこないだ『御先祖様万々歳!』を『アニメ大好き』で見たみたいにいっていましたが、正確にいうとこれ間違いです。『アニメ大好き』で放送されたのは、『御先祖様万々歳!』を編集して作られた劇場版『MAROKO』でありました。私はこれを見て、そのあまりのインパクトに圧倒されて、当時私は、とりあえず『アニメ大好き』で放送されるアニメはビデオに録るということをしていましたから、後で数度見返して、その度に強烈な印象を得て、どうコメントしたものか、けれど最後に残る寂寥感。こればかりはいつも変わらないんです。寂しさの質、内実はその時々で違っていたかも知れないけれど、いつも心に寂寥を抱えて立ちすくんでしまうのです。

さてさて、前回ね、『御先祖様万々歳!』、大筋は覚えているけれど詳細は忘れていた旨書いていましたけれど、これは『MAROKO』にも関係しているのですよ。さっきいいましたけれど、『MAROKO』は総集編です。『御先祖様万々歳!』から本筋を損なわない範囲でカットして、再構成して、そうしてできた映画です。だから大筋をつかむには充分。瑣末な部分がないから、テーマをつかみやすいといえるかも知れません。そう、例えば『御先祖様万々歳!』において語られた麿子の真実、なんと『MAROKO』ではそこがカットされている。これはこのアニメにおいては、麿子が何者であるかということはそもそも問題ではなかったということを示していて、つまり最初から主眼は四方田家の三名、父、母、息子を巡る物語でしかなかったことを明らかにしています。

いや、あるいは物語でさえなかったかも知れません。家族という自明に思われていた関係に対する疑義を描くこのアニメは、いわばかつて存在すると信じられていた物語なるものの欺瞞を、あの劇中にさらに演劇手法を持ち込むというやり方でもって露にしようとしていた、のかも知れないのですから。

私は先日、かつてあったものを失ってしまった人の姿が寂しいと、手にさえしていなかったものを失ってしまった憐れさが身にしみるだなんていっていましたが、この手にしていなかったという点、これはもっと深いのかも知れませんね。ないことに薄々気付きながら、あるいははっきりと自覚しながら、あえてだんまり決め込んで、まるでそれがあるように演じてきたんだ。ところが思わぬイレギュラーのために、そのなかったということが白日に下にさらされてしまった。そういう話なんだと思います。わかりにくいですね。ちょっと整理しましょう。

前回私は、麿子の介入でそれまでの日常を失ってしまった、なんていっていました。けど、本当はそんな日常なんて最初っからなかったんです。家族というフィクションを演じ、捏造の日常に甘んじていたことは第1巻の時点ではっきりと告げられていて、だからいつ解体してもおかしくなかった。麿子はその解体を後押ししただけ、いずれは崩壊する予感に満ちたうちだったのですから。最後の最後、ゴミ回収車の運転士のいう、手抜き工事の発覚なんてのもそのへんをいってるのかもね。とにかく、彼らは家族なんて希薄な前提に過ぎないと自覚しながら、それをそれなりに守っていた。ただそれだけ。そしてこの話は、家族というあり方の危うさを、手を替え品を替え見せてくれた。だから、麿子が誰であるかなんてどうだっていいんです。

最後、あの犬丸の憐れさは、ないものに思慕し、求めるものの憐れさだと思うのです。彼は家族の無意味を悟っていて、だから古い家族を否定しようとしたのだけど、その後、新しい家族を手にしたいともがいてしまった。けどね、そんな新しい家族なんてのはもう手にすることなどかなわないのだから、彼はああして一人さまようしかなかったのかなあなんて風に私には思われて、そしてその姿は、近代の色の残る時分に生まれて、近代を脱しようという今に漂う私のような人間には自分の写しのようにしか見えなくて、だからこそ余計に憐れを思う、 — 彼を通して自分自身を憐れんでいるのだと、そんな風に思います。

DVD

VHS

2007年9月11日火曜日

不思議なトワイライト -パティのLOVE SONG-

 昨日もいっていました、私に気に入られると終わってしまうというジンクス。これはなにも四コマ漫画だけに有効なのではなく、もっと広範にあらゆるものに適用される呪いであるようで、例えば『アメリカ横断ウルトラクイズ』、私の応援する人はぼろぼろと脱落帰国の憂き目にあい、さらには野球、首位を目指して調子のいいチームをちょっと応援しようものなら、ばたばたと連敗して手の届きそうだった優勝を逃してしまうという始末。いったいなんだっていうんでしょう。さて、ずいぶん昔のことです。ある日の夕刻、漫然とテレビを見ていた私はなんだか面白そうなアニメを見付けましてね、それは『超力ロボガラット』。二頭身のロボットが巨大化変形して戦うという、コメディ色も強いアニメでありました。でしてね、私、こいつは面白いぞ! と思って毎週見ようと決めたらその矢先に放送終了。おーい、そりゃないよー。

当時、私の周辺ではそんなことがやたらありまして、他にも、眼鏡の科学者ヒロインが可愛いアニメを見付けたと思ったのに、翌週すでに見失ってしまっていたり、そうした巡りの悪さに翻弄されて、いやあへこたれたへこたれた。『ガラット』にしてもそうですよ。はまろうとしたら終わってしまい、私の情熱は一体どこへ向かえばいいというのでしょう。仕方がないので、『ガラット』のプラモデル買ってきて、作って、散々あの特徴的な逆立ち変形を楽しんで、けど悲しかったなあ。

こんな有り様なので、実は歌なんて覚えていないんです。それどころか、彼らがなにと戦ってたかってのもわからんのです。その後再放送とかもあったのかも知れませんが、縁がなく見る機会に恵まれず、だから本当にわからないことだらけ。でも、この名前はしっかり覚えていました。そして、iTunes Storeに『ガラット パック』を見付けて、どうしようかなあ、少し迷った揚げ句に、購入しているのです。

そうしたら、歌、なんとなく覚えているんですね。オープニングでなくてエンディングの方。あのゆったりとして優しげで、いたずらに耳元でささやかれるようなフレーズがくすぐったくて、すごく仕合せな気分にしてくれるあの歌ですよ。正直、覚えているとはいいがたいです。けれど耳が覚えているような気がする。かつて好きで、神妙にして聴いていた歌、真似て歌うでなく、ただただ憧れるように聴いていた。多分、あの記憶はこの歌についてのものだと思います。そして実際そうだとすれば、こうして再会できたことがすごく嬉しい巡り合わせと思えます。

2007年9月10日月曜日

ようこそ紅茶館!!

web拍手、いただきました。ラブリーの昔の目次がよかったと、ありがたいお言葉です。そうなんですよね。時が経つというのは悲しいもので、まさしく去る者は日日に疎しってやつです。あんなに好きだった漫画なのに、いつしか日常の些事に紛れ、記憶も薄れ、ですがちょっとしたことがその薄らいだ記憶をはっと鮮やかにさせてくれることもあります。私の場合は、はじめて買った『まんがタイムラブリー』を再び手にしたことがはずみとなりました。一気に思いは過去に飛んで、好きだった漫画を思い出し、あの記事を書かせるに至ったのです。けれど、件のweb拍手の方はそうではなく、漫画家蒼月ひかりの消息を尋ねていらっしゃったようなのです。好きだった漫画家、その人は今どこでどうしてらっしゃるのだろう、願わくばもう一度、あの人の描く絵に、紡ぐ物語に巡り合いたいものだと……、そういう思いはやはりあると思うのです。私にだってあります。だから、雑誌のアンケートに読みたい作家などという欄が設けてあれば、その人の名前を書くこともある。蒼月ひかりの名を書いたこともあります。そしてまた別の名を書いたこともあります。

私は、まやひろむという人がずっと気にかかっていました。好きだった漫画、けれど私の思いとは裏腹に、その漫画はとうに終わってしまって、お目にかかることもついぞなくなってしまいました。だから、ふと思い出すことあればその名を書くこともあって、しかしこれは未練なのでしょうか。人を思うってことは、やっぱり未練なんでしょうか。

まやひろむという人は — 、そうそう、昔の記事にちょっと触れていたので引用しますよ。

『空にカンパイ!』、『ブックブックSHOW』、『ようこそ紅茶館!!』、『大人ですよ!』、『えびすさんち』を読めた頃が、私と四コマ漫画の蜜月であったと思います。

これらは『まんがタイムジャンボ』に掲載されていた漫画です。先日いっていましたように『おねがい朝倉さん』読みたい一心で講読をはじめた『まんがタイムジャンボ』であったのですが、開けてみればまあ私にとっては好みの誌面といいますか、好きな漫画、好きな雰囲気を持つ漫画がたくさんあったのです。それが先ほどあげました漫画で、けれどあれらは一部、他にも好きな漫画はあって、けれど……、というと愚痴になるのでここはぐっと堪えて、『ようこそ紅茶館!!』を懐かしんでみたいと思います。

『ようこそ紅茶館!!』は、紅茶専門店にて働く春野さんが主人公の漫画でした。これもまた非常にミニマルな四コマで、登場人物は紅茶館アルバイトの春野さん、紅茶館店長さん、そして春野さんの友人リサさん。後はまあゲスト扱いといいますか、こうした最小限度といっていいくらいに限定された登場人物が、限定された舞台において、限定されたテーマに基づくコントを繰り広げる。実に私好みといっていい漫画だったと思います。けど、私に好まれた漫画は早期終了するというジンクスがあります。『ようこそ紅茶館!!』は、雑誌のリニューアルに伴い設定を一新、春野さんと店長という関係はリセットされて、ヤング店長さんなのかな? はやてとになの紅茶館開店ストーリーになっちゃって、ちょっとショックでした。

新設定が気にくわないってわけじゃなくってね、やっぱり私は、そそっかしくて大ざっぱで豪快で、朗らかで元気で素直でミーハーで自然体の春野さんと、完璧主義で心配性で、ちょっとシビアで厳しいところもあるけれど実際は優しくておおらかで面倒見もよくて、見た目キャッチーでちょっとおしとやかお姉さんの店長のコンビが好きだったんです。派手というよりもシックな雰囲気、まとまりある絵柄も好きでした。喫茶店というシチュエーションを生かしたネタの数々も、きびきびとして好みでした。だから当然人気のあるものだと思い込んでいたのですが、実際はどうだったのでしょう。考えるとつらいけれど、見た目に地味で穏当であるがために、まとまった票を得られなかったのかも知れません。けど、仮にそうだったとしても、抜群に面白かったんです。2007年の今読み返しても面白いと思える、そんな漫画なんですよ。

ヤング店長さん編になってからも、私はずっとこの漫画を楽しみにしていて、いつか時が進んで、春野さんのいる時代に追いついたりしたらいいななんて思っていました。そうすれば、ふたつに別れてしまった『ようこそ紅茶館!!』がひとつのものとなって、どちらが好きだなどという不毛なことを考えなくてもよくなる。ひとつの時間の流れの中で異なった層を見せた、そういうことになれば、ベテランになった店長さんと若くまだ経験の浅かった頃の店長(代理)と、多様な側面の見えるのはそれもまた面白かろうなと思っていました。

けれど、私の期待の叶うことはなく、けれど私はそれをただ残念がるわけにもいかなくて — 、やはり好きなら好きと言葉を届ける努力をしなければ通じないのです。私はその努力を怠っていた、自分の好きだという漫画をただ見殺しにしてしまったも同然だから、これらの漫画を懐かしむということは、同時に自分の中に悔いを見出すことでもあります。ええ、悔いています、悔いています。本当に、どうしようもなく悔いているんです。

  • まやひろむ『ようこそ紅茶館!!』

引用

2007年9月9日日曜日

御先祖様万々歳!

   昔、関西では春夏冬の休みの期間に、がっつりとOVAを放送してくれる番組がありまして、休みが近づくとアニメファンたちの話題は、今年のラインナップはなんだろう、寄ると触ると『アニメ大好き』の話題で持ちきりでした。一週間くらいですかね、下手すりゃ午前午後で四時間くらい時間をとってアニメを放送してくれた、ノーカット、ステレオ放送でやってくれた。時間はあるが金はない中高生アニメファンにとっては、OVAに触れることのできる貴重な機会であったのです。万障繰り合わせて、テレビの前に陣取って、あまつさえビデオまでスタンバイさせていた。本当に、そういう仕合せな時代があったのです。多様なアニメに触れる機会を与えてくれた、好き嫌いとか関係なく、とにかく見る。それは視野を広く持つことにも繋がり、またアニメファンの裾野を広げることにもなった。本当に仕合せな時代でした。

この番組がきっかけとなり知ったアニメは数々あれど、強烈なインパクトを残したものというとそんなに多くはないというのが実際です。多くは一過性の楽しみとなって、ビデオに録っても何度も見返すわけでなく、さらにはビデオ、LD、DVD買うわけでもなく、忘れ去られるにまかせられるのがほとんど。けれど、なかには拭いがたい印象を残すものもあって、そうしたものは後でDVDを購入することも多く、例えば今日久しぶりに見返した『御先祖様万々歳!』。もし『アニメ大好き』にてこの作品に出会っていなかったら、私の精神世界は今とは大きく異なっていたろうと、そんな風に思うくらい。それほどに大きなインパクトを残したアニメで、また見るたびに新たな印象を得ることのできる、そういう大きさ、深さを持ったアニメであります。

今回見たのは、DVDボックスの1から3巻、OVA展開された『御先祖様万々歳!』本編です。おおまかに話の流れを覚えてはいたけれど、細かいところは忘れていた。それが逆によかったのではないかなと思います。というのは、詳細に見るほどにいろいろと語るところの見つかりそうなアニメですから、何度も何度も見て、詳しくいろいろを覚えるほどになってしまうと、語ることがしんどくなります。演劇的な演出がなされているアニメです。台詞は多分に観念的な色を帯びて、物語の内部構造からはみ出そうはみ出そうとするがようで、ゆえに物語を追うだけではすまない、いわゆるメタな議論とやらに踏み込みたくさせる、そんな匂いがあるんです。ですが、それは私の望むところではなくて、だって私はここで批評や論評をしたいわけではないんです。私のここでやりたいこととは、私がそれを見てなにを思ったか、なにを感じたかの掘り起こしに過ぎなくて、だから外部の構造やなにかに話を振り向けることは、私の目的から遠ざからせてしまうことにもなるのです。

そんなわけですから、おおまかにしか話を覚えていなかったという状況はよかったというのです。大筋わかっていたから、まったくの戸惑いの中に取り残されることもなく、詳細には覚えていなかったから、瑣末にとらわれることもなく、新鮮な、まだ言葉にならない感情というものを得ることもできた。そして私は文章を書くことで、その感情を捕まえようとしています。

その感情 — 、一言でいえば悲しさややりきれなさであると思います。第1話から家族という構造、虚構に振り回されてきた私は、第4巻で一端の結論めいたものを見せられ、そして第5話で物語の結末を見せられることになって、普通のアニメならここで終わろうところでしょう。ですが『御先祖様万々歳!』はまだここで一話を残していて、それは主人公犬丸による回想、これまで主人公のようで主人公ではあれなかった犬丸の、舞台的虚構から離れての心情吐露ともいえる話、これは私にはまるで駄目押しのように感じられて、そしてその駄目押しの結果が悲しさ、やりきれなさであったのです。

劇中にこんな感じの台詞があったのです:人は自分の物語の主人公として生きてはいるが、自分の物語の作者にはなれないという近代の苦悩、こんな感じの台詞。最後、物語に放り出されたようにしてさまよう犬丸の姿には、まさにその苦悩とやらが突きつけられているかのような思いがして、あるいは人は極限状態におかれると、自分のおかれている現状が現実なのか夢なのかわからなくなってくるとか、そんなことをいいますが、まさしく犬丸はそうだったのかも知れないと、物語の発端からこのラストにおけるまで、ずっとそんな状況にあったのではないかと思えて、そこが物悲しいのです。

あの実際なにが現実で虚構で、舞台的演出で、舞台的演出が求める物語であるかわからない物語において、犬丸はつまらない日常の繰り返しを打破したいと願っており、けれどそのための勇気がなく、反抗さえもごっこのようにしかなしえず、そこで彼はその状況を破壊してくれるなにかが訪れることを願っていた、外部にそれを求めていたわけです。だから麿子(押し掛け女房型ヒロイン、ただ彼女が一般のそれらと大きく異なっているのは、彼女は未来からきた子孫であるがゆえに犬丸の恋人にはならないというそこだ)という日常に投げ込まれるイレギュラーは、まさしく犬丸の待ち望んだチャンスとなり得た。彼女はみごとに日常の反復を打破し、犬丸の望みをかなえたのです。

勇気と覇気を持たない主人公の前にあらわれた美少女、その美少女が永遠に失われたこと、それだけが犬丸にとっての現実であったのかなと、それも実感を伴わない現実だったのかなと、私にはそんな風に思えてくるのです。変化に乏しくともある種安定していた現状を打ち壊せというそそのかしがあの娘であり、そそのかされるままに日常はぶち壊されたのだけれど、後にはなにも残らなかった。いや、ただ失ったという実感だけが残って、しかしなにを失ったかといえば、もとよりなにも得ていなかったのだから、かつての日常が失われたという事実だけ。与えられたように思わされた甘美なるなにか、麿子という美少女にしても、結局は与えられてさえいなかったのだという、認めたくない現実がおまけとして付随している。ここに私のやりきれなさは極まります。

認めたくないから、手にしていなかった幻想、あぶくにしがみついて、残りの人生をふいにしてしまう。あの物語をこのように見てしまう私は、人生において人生をふいにすることをことさら怖れるために、今を無為に足踏みしている自分の姿に気付いていて、二重の意味でやりきれません。いつかこの足踏みの人生を打破してくれる黄色い花の訪れることを夢見ながら(そして私はそんな日が永劫来ないことを重々承知している)、今も自分の温く甘い繭にこもってる。こうした事実がなによりもつらく、そしてかつてまだ少年だった時分の私は、将来このアニメが私にこうした現実を突きつけることになろうとは思いもしていませんでした。にもかかわらず、記憶にしっかりととどめてさせたのですから、このアニメの持つ力というのはただならぬものがあると思います。まるで呪いのよう、あたかも嫌がらせ。けれどその甘美なことったらない、本当、私という人間には必須の作品であると思います。

DVD

VHS

2007年9月8日土曜日

ドボガン天国

 真田ぽーりんの『ドボガン王国天国』、いったいこのドボガンってなんなんだー??? あまりのわからなさに『ボコスカウォーズ』みたいなイメージを抱いていて、つまり中世っぽい世界観の話かなと。『ドボガン王国』っていう王国があって、ドボガン王と臣下たちの繰り広げるどたばたストーリー……、どんな話だよ! とか思っていたら全然違いました。ドボガンっていうのは、ペットショップの名前なんですね。なんだか妙に運の悪いどじっ子ヒロインが、ひょんなことで関わり、働くようになったペットショップがドボガンなんです。で、ドボガンってなんだーっ、っていうと、それはちゃんと作中で説明されます。そうかあ、そんな意味だったのかあ、知らなかったよ。って、どうも私の鳥好きもたいしたことないようですよ(ただ好きってだけだから、知識とか皆無なんですよ)。

(画像は真田ぽーりん『必殺白木矢高校剣道部』第2巻)

真田ぽーりんがこの漫画を描くことになったいきさつっていうのが、なんだか『動物のお医者さん』を彷彿とさせるもので、ちょっと面白かったです。『動物のお医者さん』は、なんでか動物を描きたくなってしまう佐々木倫子の嗜好を最大限に発揮させるために企画されたものだと記憶していますが、『ドボガン天国』もまさにそんな感じなんですよ。作者は鳥が好きで、っていうのは過去の漫画からもばればれなんですけど、ほら、『ウチら陽気なシンデレラ』にはアヒルのモルテンが出ていたし、『白木矢高校剣道部』にもルリコンゴウインコが出ていたし、そんなにも鳥が好きなら動物ものでいきましょうと、そういう決まり方をしたんだそうです。で、選ばれた舞台がペットショップ。鳥が出る、犬猫はじめとする動物出る、小動物もしっかりフォローされて、魚も昆虫もなんでもこいといった塩梅で、こりゃいいなあ。私も結構動物好きだから、もう一巻から心わしづかみって感じであります。

しかし、読んでみればですよ、結構シビアな話もあって、作者、本当に動物が好きなんだなあってしみじみ思います。身勝手な飼い主やペット泥棒など、実際にも起こりうる話が展開されて、そしてそこに作者の憤りが感じられて、いやね、『シンデレラ』でも後期そうだったですけど、そうした憤りが大ゴマ使ってどどーんと表現されるんですけど、もうあれは反則だと思う。泣いちゃうんだよ。

もちろん感動だけが売りの漫画じゃなくて、どたばたとした面白さ、馬鹿なこと言い合ったり、わいわいと騒いでみたりの面白さが基本的にあって、そこに動物大好きのショップスタッフのもだえるような動物への愛があふれ返っている、このあたりがこの漫画の最大の読みどころでしょう。そして、この好きというのが無責任で薄っぺらな好きになっていないというのが重要なところかと思います。例えば餌の話、猛禽や蛇など肉食の動物飼うっていうことのハードさがひしひしと伝わってきて、そのハードさに抵抗を感じながらも受け入れている彼らを見れば、ただの楽天的な動物好きではないのは明らか。こういう現実がしっかりと意識されているから、ファンタジーも効果的であるのだと思うのです。ただの夢の話じゃあない。現実とタッグを組んでいる。この世界の延長線上に、こういう現実があったら素敵だろうなあと、そんなこと感じちゃうものだから、大ゴマで泣くんですよ。もう完全にすっぽりと没頭しているところに大ゴマがくるから、決壊してあふれてしまうんです。

ところで、後書きの写真、すごいですね。もう、まんまじゃないですか。ただでさえ鳥みてるだけでうはうはなのに、あの写真は駄目押しでした。最高でした。

  • 真田ぽーりん『ドボガン天国』第1巻 (ヤングキングコミックス) 東京:少年画報社,2007年。
  • 以下続刊

2007年9月7日金曜日

おねがい朝倉さん

   『まんがタイムmini』を知っているかね? かつてコンビニ売りのペーパーバックコミックスが流行った時代に、芳文社からでていたペーパーバック四コマコミックス。各号ごとにテーマが決められていて、テーマに沿った四コマが三タイトル収録されていた、そういうものがあったのです。その第5号が題して「働くスーパーお姉さん」号。大乃元初奈の『おねがい朝倉さん』、山田まりおの『スーパーOLバカ女の祭典』、ふじのはるかの『むきたまごビューティー』の三本立てでした。そして、これが私の大乃元初奈初遭遇となったのです。

いやあ、面白かったですね。こんなに面白い漫画があったかと思ったものでした。見れば単行本1巻が発売中。即買いにいって、さらに『まんがタイムジャンボ』の講読も開始。この頃ですよ。私が購読誌を拡大させたのって。最初買っていたのは『まんがタイムラブリー』だけだったのが、『ラディカル・ホスピタル』をきっかけとして他誌に手を広げ、『まんがタイムmini』買ったのもその絡みだったんですよ。第1号が「あたしのかわいいお医者さん」号だったのです。『ラディカル・ホスピタル』を目当てに買って、そしてそのまま買い続けた。その結果が『おねがい朝倉さん』からの『ジャンボ』講読開始。こうやって、どんどんと買う雑誌を増やしていったという、もう一種の業ですね。

しかし、それにしても『おねがい朝倉さん』面白かったですよ。けど、そのわりにこのBlogにおいて『朝倉さん』に関する言及はありません。昨日の『大人ですよ?』が初言及でした。なぜかといいますと避けていたんです。書けばきっと愚痴になるから。私は、あまりに初期の朝倉さんが好きすぎたせいで、その後の『朝倉さん』を正当に評価できなくなっているのです。さらにいえば、すべての大乃元漫画に対してもそう。単行本は買っています。けれど言及しない。だって、きっと読んで気持ちのいい文章にはならないってわかっているから書かない。ほら、この文章がすでにそんな感じでしょう? 昔はよかった、初期の頃はよかったなんて書くくらいなら書かないほうがましだと、私はそういう風に考えてこれまで口をつぐんでいたのです。

でも、もしその初期の『朝倉さん』を知らなかったら、男っぽいさっぱりとしたしゃべり口で、武道有段者は普通の人とバトっちゃダメだから私は帯は白 絶対段取らないなんていってた頃の朝倉さんを、オレ朝倉見て女の中にもこんなに男らしい奴がいるんだとわかったよなんていって感謝されてた朝倉さんを知らなかったら、その後の見方はどうだったんだろうって思うんです。多分、あの頃よりも強烈に好きになることはなかったと思う、けどその反面、変に屈折した視線を送ることもなかったと思う。雰囲気の楽しい漫画だなと、そういう穏当な評価で、普通に読んで、普通に楽しんで、Blogなんかにも普通に書いていたんじゃないかなと、そんな風に思うんです。

嫌いかといわれると嫌いじゃないです。けど、男らしいというか、さばさばとしてシビアだった朝倉さんが好きだったから、後の妙に女くさくなってしまった朝倉さんは正直苦手で、けどこれってあれやんね、癒し系なんてのがいっときはやったけど、あれに引き摺られ過ぎたんだと思う。某所では癒し系との評価高かった私(猫かぶってたからな)ですが、実は癒し系なんて大っ嫌いだった。具体的には名前出さないけど、NHKテレビのフランス語会話に出てた癒し系タレントとかも、大っ嫌いだった。あの当時、各種メディアをはじめいたるところで口にされた癒しなるもの、嫌で嫌でたまらなかった。そんな私にとって、朝倉さんの癒し系シフトは血涙ものの設定変更であったといって過言ではありません。

けど、それでも心底嫌いになったわけでなく、漫然とまだコミックス買って、連載も読んで、けどもうあんなには燃えあがれなくて……。

朝倉さんひいては大乃元初奈に関しては、本当そんな感じなのです。

  • 大乃元初奈『おねがい朝倉さん』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2002年。
  • 大乃元初奈『おねがい朝倉さん』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2002年。
  • 大乃元初奈『おねがい朝倉さん』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • 大乃元初奈『おねがい朝倉さん』第4巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 大乃元初奈『おねがい朝倉さん』第5巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 大乃元初奈『おねがい朝倉さん』第6巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 大乃元初奈『おねがい朝倉さん』第7巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊
  • 大乃元初奈『よろしく神田さん』(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。

引用

  • 大乃元初奈『おねがい朝倉さん』第1巻 (東京:芳文社,2002年),9頁。
  • 同前,55頁。
  • 松本隆『Sweet Memories』。

2007年9月6日木曜日

大人ですよ?

 『ごちゃまぜMy Sister』第1巻発売をひと月後に控えた今日、ちょっと懐かしいタイトルを思い出す機会に恵まれたので、それをもって更新に替えたいと思います。そのタイトルというのは渡辺志保梨の『大人ですよ?』。以前、『花の湯へようこそ』で書いたときに少し触れていました。そう、『ごちゃまぜMy Sister』に押し出されるかたちで連載終了してしまったという不遇の漫画です。『まんがタイムジャンボ』2003年6月号にゲスト扱いで掲載、翌7月号から連載開始、そして11月号が最終回となりました。そうか、半年しかやってなかったんだ。思ったよりも短いなあ……。

(画像は『花の湯へようこそ』第1巻)

昔のことだ。あんまりぐちぐちはいわない。

渡辺志保梨の四コマは、どれも基本的にシンプルであるのですが、そうしたなかでもとりわけシンプルなのが『大人ですよ?』であったと思います。基本的に登場人物は四人。見た目中学生の小夜子、この人がヒロインです。ええと、職業は子供服みみやの店員。同じくみみやの店員(あるいは店長?)の富士さんという女性。同フロアにあるぶてぃっく雅の店員京橋君と店長。以上の四人に、そのつど現れるお客さん、子供たちで話は進んでいきます。

一体私はこの漫画のどこが好きだったのかというと、メインの二人、小夜子と京橋君の掛け合いだったんじゃないかなあと思うんです。京橋君は小夜子を中学生と思ってる。どういう事情があるのか、学校にもいかず働いている不憫な中学生だと思っている。かわいそうになあと同情したりして、そんな京橋君に小夜子が私は大人ですとむきになって突っかかる、このパターンが好きだったんですね。どれくらい好きだったのかというと、初期の『朝倉さん』を読んで、そのさっぱりとしてしっかりきっぱりとしたキャラクターにほだされて『ジャンボ』の講読をはじめたというのに、『大人ですよ?』を好きになってしまったために見た目中学生の大人に好みがシフトした(人間がより駄目になったともいえますね)。

余談になるけど、この好みのために『夏乃ごーいんぐ!』にはまり、たかの宗美を追ってさらに購読誌を拡大させることになりまして……。そうなんですね。もし『大人ですよ?』がなかったら、たかの宗美の大半の漫画、知らずに終わったんではないかと思います。『大人ですよ?』はそれくらいに大きく影響を残した漫画でありました。

小夜子がよかったのは、いい感じにピュアで、いい感じにずるいところです。京橋君、ぶてぃっく雅店長に子供扱いされたら怒るのに、都合のいいときは子供扱い受け入れて、お菓子貰ったり、動物園連れていってもらったり、それに子供服の仕入れ、自分の好みで選んでみたり、自分の好みの服取り置いてみたりといった感じにうまく立ち回っちゃうみたいなところ。けれどずるいといっても、お客が欲しいといえば取り置いた服を出してくるし、そのへんしっかりしてる、ちゃんとしてる。根っこに人のよさがあるから悪くは感じないんです。その、ちょこっとずるいってところの、ちょこっとが、私の心のどこかに直撃したんだと思います。

終了して以降、『大人ですよ?』はまったくといっていいほどにご無沙汰、けどたまにはみみやの小夜子に会いたいものだと、そんなこと思うこと年に数度あります(あるんだ! あるのよ)。弓長九天『あさぎちゃんクライシス!』の譬えもあるぞ。なので、今度、ちょいとアンケートにでも書いてみようかなあ。渡辺志保梨の『大人ですよ?』が久しぶりに読みたいです。ゲストでもいい。今連載されてる漫画に、モブで出る程度でもいい。

とかいって、もうすでにモブで出てたりしたらショックだなあ。その存在は『My Sister』に少し触れられたことはあるけれど、それ以外にあったかというと記憶にさだかでない……。

ともあれ、アンケート、書いてみたいと思います。

参考

  • 渡辺志保梨『花の湯へようこそ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 渡辺志保梨『花の湯へようこそ』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊
  • 渡辺志保梨『ごちゃまぜMy Sister』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

資料

掲載号,ページの順に記載しています。

  • 『まんがタイムジャンボ』2003年6月号,103-106ページ。
  • 『まんがタイムジャンボ』2003年7月号,53-58ページ。
  • 『まんがタイムジャンボ』2003年8月号,53-58ページ。
  • 『まんがタイムジャンボ』2003年9月号,47-52ページ。
  • 『まんがタイムジャンボ』2003年10月号,127-132ページ。
  • 『まんがタイムジャンボ』2003年11月号,13-18ページ。
追記 (2007-09-10)

ゲスト掲載分が見つかりました。

  • 『まんがタイムジャンボ』2003年3月号,88-91ページ。
  • 『まんがタイムジャンボ』2003年4月号,88-91ページ。

2007年9月5日水曜日

荘村清志のギターで世界の名曲を

 この三ヶ月ほど、毎週を楽しみに見ていたNHK趣味悠々『荘村清志のギターで世界の名曲を』がめでたく終了しました。駆け足のようにも思えて、もっとしっかりと見たかったなという気持ちもないではないのですが、けれどこれくらいでちょうどよかったのかなあ。私はクラシックギターに関しては聴くばかりで、習ったこともなければ間近に見るということさえもなかったから、今回の講座は勉強になりました。今私は独習で、中級編の曲にチャレンジできるくらいまでなんとかたどり着けているというくらいの位置にあるのですが、初級編のレッスンでも勉強になることはあって、やっぱり人から習うということは大きいと、それがテレビであってさえもですよ、違うなと思ったものですよ。

私はこの講座は全十二回だと思っていたんですけど、最後にもう一回、つまり第十三回目があって、それが発表会。なんだかすごくいい雰囲気の中、これまで講座にて生徒としてレッスンを受けてきた人が一曲を披露するというのですけれど、一人一人の懸命さが伝わってきてよかったなあと。確かにね、そんなにうまくないしミスもいっぱいあるんだけど、しょうがない、プロじゃないんだから。私は思うんですよ。そりゃうまくてミスがないのがいいに違いないけど、けれど楽しみとして音楽に取り組んで、それを発表するという、そういうことがなによりであるんじゃないだろうかって。音楽は、暮らしの中に楽しみとしてあるのがいい。日常の潤いとして、そしてときに緊張感をともなう発表会なんてのもあればなおさらで、自分自身を見つめ直し、鍛え、鼓舞するきっかけにもなれば重畳、同好の士との交流もまた楽しみであって、生きるということを豊かにする、そういうものだと思うのです。

発表会の模様を見ていて、生徒が一生懸命弾いてるのに荘村清志が心配そうに、けれどなんだか応援するみたいに、手を大きく動かして、そういう姿もなんだかほほ笑ましくて、けどすごいなと思ったのはやっぱり生徒さんで、よくあんな曲弾けるようにしたよね。中級の人も結構なチャレンジ、知人友人家族の前どころか全国ネットでやるというプレッシャーは格別だったと思うんですが、それでも弾ききって、ようおやりなすった。そして初級の二人がすごい、はじめて三ヶ月という話、それもこの一曲だけを三ヶ月やったわけではないでしょう。仕事もおありでしょうし。けど、なんとか弾ききって、ほんま、ようお頑張りやした。こうした、人前で弾けた、最後まで弾けたということが自信となって、前へ進み実力を押し上げるための力になっていくのだと思います。

この講座をみて、自分も頑張ろうと思えて、そういう刺戟になったこともよかったです。テキストに収録の十四曲もいい曲多くて、少しずつ弾いていきましょう。そして、またなにか機会を設けて人前で演奏したいものだと、そんな風に思います。

2007年9月4日火曜日

疾風ザブングル

  買っちゃいましたよ、『疾風ザブングル』。試聴しちゃったんですよ。そしたらもう終わり。買わないではおられない気分になって、これ歌ってるの串田アキラなんですね。全然知らなかったんですが、ほら、キン肉マンの歌の人。こんなこというとなんだけど、私あんまり『キン肉マン』って好きじゃなかった(といいながら大はまりしてたんだけど)んですが、それでもオープニングテーマとかめっちゃくちゃかっこいいですもんね。で、この人が『ザブングル』の歌も歌ってたとは知りませんでした。渋く力強い歌声。シンプルにしてものすごい説得力を持った歌い口に、これは惚れるわ。そんなわけで、ボタン押さないわけにはいきませんでした。こんな経緯で購入です。

しかし、すごいというのは歌い手もそうなんだけど、この歌詞もすごいですよね。ここは地の果て流されて、俺。これ、子供向けのアニメの歌詞なのか? エンディングだってそうですよ。生命あったら語ろう真実 / 乾いた大地は心やせさせる。ほんとに子供向けのアニメの歌詞なのか?

昔のアニメと限定したいわけじゃないけど、けれどやっぱり今とは違う空気があったと思うんです。アニメの、当時はもっぱらテレビ漫画っていってたような気もするんですけど、漫画の主題歌、タイアップとかコマーシャリズムとか全然考えていなくて、全力投球でそのアニメのヒーローならヒーロー、ロボットならロボットの名前を連呼するみたいなのりがあって、いまだってそりゃあるけどさ、けどそれはあくまでも昔のアニメののりを懐古してやってるような気がしないでもない。ところが七八十年代は頭っから本気で、というか、そうする以外になにがあるという愚直さでもって、ヒーロー、ヒロインのための歌が熱唱されていた。泥臭いよ。特に『疾風ザブングル』はそう。けど、その泥臭さ、ストレートで真っ向勝負なところがかっこいい。本当、文字通りの意味でしびれます。

とここまで書いて、こりゃやっぱり旧い世代の懐古文ですね。だって、今だってちゃんと思い出していけば、ヒーロー、ヒロインを真っ向から歌ってるような歌はあるものね。だから、やっぱり『ザブングル』に関しては思い出補正というか、子供の頃に聴いて、歌って、青い先公なんて替え歌にして、そんな時分の空気を美化しつつ懐古しているだけなんだと思う。けど、思い出フィルターなくしたとしても、つまりこの歌を『戦闘メカザブングル』という文脈から切り離してみても、かっこよく素晴らしいと感じることは間違いない。泥臭く、男臭く、地をのたうつような愚直さが真っ向からぶつかってくる、そんな熱さが確かにあって、しつこいようだけど、この熱さは七八十年代のそれなんだと思う。今のスタイリッシュにはない、生の感触がばしばしと肌に、心にぶつかってくる、そんな強靱さがあると思います。

多分、時代の空気だと思うんですよね。九十年代二千年代に入ると、やっぱり洗練されてしまって、真面目にこういう歌を作るのはやりにくくなったんじゃないかなって思われて、やっぱりねちょっと狙ったみたいになっちゃいますから。純歌謡曲みたいなのとか、それこそなんとかブルースみたいな、そういうのりの歌が今の感性で生み出されることがほぼないように、『疾風ザブングル』みたいな純アニメソング、それこそ私らの年代がアニソンと聞いて思い浮かべるような歌、それらは七八十年代の感性だったんだと思います。

そして、今、その七八十年代をがっつり聴きたい気分なんですよね。iTunes Storeが扱ってくれると嬉しいんだけど、あくまでもバンダイビジュアルじゃないとだめなのかな? もしできることなら『モスピーダ』が、『機甲創世記モスピーダ』の主題歌が聴きたい。『失われた伝説を求めて』、『ブルー・レイン』ともに、屈指の名曲なのですから。というか、DVDが安いな……。

おっと、話題がそれちまいました。と、子供の頃に見ていたアニメ、好きだったアニメというのは、思い出すとこう胸の奥から熱くなって、語っちゃったりするもんなんだという典型例でした。そこにはやっぱり思い出補正なんかもあるんだけど、その誤差を修正するのは難しいんですよね。それはやっぱり好きすぎるから、そのアニメが、その時代が、好きで好きでたまらないからなんだと思います。私は『ザブングル』、全話見ることができなかったんですが、本当、今からでも全部追ってみたいものだと、時間があればね、時間が許すのなら、昔の思い出取り戻すみたいにして、一話一話慈しみながら見たいものだと思うのです。

DVD

引用

  • 井荻麟『疾風ザブングル
  • 井荻麟『乾いた大地

2007年9月3日月曜日

サクラ満開!!あかり組

 私は竹書房の雑誌は買っておらず(買うといよいよ破綻しそうだから)、なので竹書房系四コマの動きはまったくといっていいほどに知りません。だからもちろん『サクラ満開!!あかり組』についても知らず、それは単行本になることを知らなかったレベルでなしに、そもそもそういう漫画が連載されていたことさえ知らなかったのです。作者は藤凪かおる、『Boy’sたいむ』、『ひめくらす』、『パニクリぐらし』の人ですね。私はこの人をどうやらひいきにしているようで、というのも出ている四コマ単行本、全部揃えているわけで、だから『サクラ満開!!あかり組』も購入。どういう漫画であるかまったくわからないのに買うという、まさしく作者買いをやったわけです。

作者買いしてみてどうだったか — 。わりと面白かったです。基本的にパターンをこなす漫画であるのですが、これはこの作者のらしさともいえるところだから、気になりません。気っ風よく面倒見よく、正義感にも義理人情にも厚いという姐御肌がヒロインの九龍あかりという娘。ちょっとおせっかい、ちょっと荒っぽい、けれどさばさばとした性格ゆえかクラスメイトからの信任も厚い、組長としたわれる委員長であります。

このあかり組長が、幼なじみ(?)のマサと転校生(だった)遠山引き連れて、というかマサは勝手についてきてるだけなんですが、そういえばなんで遠山ってあんなに組長に関わってるんだろう。あかりがなんだか気があるみたいだから? そういやなんであかりは遠山のこと意識するようになったんだろう。ひょうひょうとして自己主張しない転校生と思って心配していたら、それが実はできる男だったから? 謎といえば、後半に登場する新転校生桜坂ふぶきがマサを意識してるっぽい理由がよくわからなかった。なんかバレンタインイベントでフラグが立ったみたいなんだけど、とにかくよくわからない。その後も小イベントあったけれど、マサはとにかくあかり組長一筋だから、多分あれ以上に進行することはなかったろうと思われて、不憫な娘だなあ。と、これらはどうでもいい話。

この漫画は、男気あふれるヒロインあかり組長の、正義の味方としての活躍を楽しみながら、おりに見せる乙女なところ、可愛げや恥じらいを愛でる、そんな読み方が面白いのだと思います。思いがけぬギャップにときめく、だっていくら侠気に富んだ娘といっても、もともとがキュートなヒロインなんだもの。向こう見ずで女臭さがなくて、うじうじやべたべたという感じもなくて、だからさっぱりとした女性が好きという人には魅力的なヒロインなんじゃないかなと、そんなこと思って、ほら実際のところ、公平でさっぱりとして、ぐいっと人の心を引きつけて、明るい雰囲気に引き上げてくれるような女性って、それはそれは魅力的ではないですか。私にもそんな知り合いいたなあって、タイプこそは少しずつ違うけれど、そのさっぱりとした気風でもって皆から好かれるような女性って、誰にも一人くらいは思い出せるんではないかと思うのですが、 — もしそういう人がいるのだとしたら、この漫画を楽しめる素養は充分なのではないかと思います。

2007年9月2日日曜日

えすぴー都見参!

  岬下部せすなという人は、作風としてはわりと地味な方に入る人だと思っていたんです。けれどうまく上昇の機運にのられて、今月はなんと2冊同時発売という快挙。ひとつは『えすぴー都見参!』、もうひとつは『S線上のテナ』。前者が四コマなのに対して、後者はストーリー。また内容にしても、シンプルでほのぼのの『都』に、伏線ばりばりでツンデレの『テナ』。まったくもって個性、見どころを異にしているこの2タイトル。ということは、すなわちそれぞれに異なる面白さがあるということなのだ、そういってもかまわないかと思います。

けど、どちらが好きかといわれると、私は『都』と答えたい。なんでかというと、刷り込みなんかな? この漫画が岬下部せすなという人を知ったきっかけなんです。この漫画はKRレーベルで出ているものの、掲載誌は『まんがタイムスペシャル』、わりとオーソドックスな四コマの載っている雑誌です。そこで連載される『都』は、SPとして直人様(御曹司で好青年!)の身辺警護にあたる美少女剣士都の、ちょっとどたばたで、けどほとんどほのぼのの日常が繰り返される、そういうタイプの漫画であります。だからシンプル。直人様は特に命狙われたりするわけでないし、日常にこれという事件、命のやり取りじみたなにかがあるわけでなく、だからやっぱりほのぼの。都を信頼する直人様と、直人様に心服する都との、心の交流も温かい、そういう漫画です。

でもいくらなんでも直人様、都ばかりじゃ話が広がらない、というわけで直人様のご学友たち(直人様は大学生なのだ)や、都の同僚であるSPあるいはお屋敷付のメイドたち。こうした人たちもからんできて、しかしこの人たちがむやみにいい人ばかりで、特にSPは心配性で可愛いもの大好きで、ネコ(に)まっしぐらといった塩梅。この人たち見てるだけで、頬が緩みます。対してSPたちにはちょっとシビアなメイド諸嬢、でも彼女らにしても都大好きで、着せ替えにしたり甘やかしたりと、もうみんなで都を愛でる。読者も都が可愛いねえと思うところはきっと同じで、都の頑張りの描かれることがあれば、その頑張りをほのぼのと慈しみ、至らぬところあらば、その至らなさもまたよいと思う。まあ、親ばかみたいなもんです。あ、そういえば、都の父も無類の親ばかでしたっけかな……。

ちびっこな剣士、都を愛でながらも、萌えというのとはちょっと違うと思うこの漫画。基本的には日常のほのぼので、そして直人様との微恋愛的な関係もこそばゆく、けどそうした側面はほのめかされても決定的に踏み込まれることのないという、実に微温的な漫画です。だからそうした微温ののりが好きな人なら、きっと気に入るんじゃないかな。そういう私はやっぱり無類の微温好きで、この漫画の持つ程よい暖かさ、たいそう気に入っているのであります。

  • 岬下部せすな『えすぴー都見参!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 岬下部せすな『えすぴー都見参!』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年9月1日土曜日

絶対可憐チルドレン

   買おうかどうかどうしようなんていっていた『絶対可憐チルドレン』ですが、結局買ってしまって、読んでみたら面白いの、ってとこまで話してましたね。最強のエスパー三人が難事件に挑む! って感じの話なんですが、そのエスパーというのが年端のいかない女の子で、そして彼女らを統括するのが皆本という兄さん。で、ちょっと人を信じられなくなっていた彼女らと皆本が信頼の絆を築きつつ、敵エスパー組織と戦いを繰り広げると、大筋そういう理解でよさそうです。で、ここで前回いっていた見透かされてたりしましてって話。これなにかといいますと、まあ焦らずちょっとずつ書いていきましょう。

ポイントはいくつもあると思うんですよ。この作者、椎名高志の癖というか芸風がそもそもそうなんですが、ベタを狙いつつ、そのベタを反転してギャグにしてしまうようなところってありますよね。4巻後書きなんてまさにそう。いうならばお約束。読者が望むパターンがあらば、それを実現して差し上げましょうというのが今の漫画の主流なら、椎名高志はあえてその逆をやっちゃうというか、やらずにはおられないというか。この傾向、ベタの反転利用は短編集収録の『マリちゃんたすけて!』にも見られたし四コマ『Dr. 椎名の教育的指導!!』にも充分に発揮されていました。そしてやっぱり『絶対可憐チルドレン』にもそういうところがあって、具体的にいうと第10巻表紙を飾った梅枝ナオミ(16)と谷崎一郎主任(36)との関係なんかが典型例だと思います。

ほら、前回私はこんなこといっていました:

その能力のために社会に受け入れられない美少女に関係する(性的な意味じゃなくて)というのは、一種男の夢なんじゃなくって? 社会は君を理解しないかも知れないけれど、君さえ望むなら、僕は君のそばを離れない! 君のためなら、この命、散らしたってかまわない! なんて思っちゃったりするわけで(しかもわりと本気で)、それが3人、よりどりみどりですか!?

まんまこの通りではないんですけど、ほぼ同じようなことをやっちまっているのが谷崎主任という人で、いうならば光源氏計画ですよね。この漫画の登場人物は源氏物語から名前とられているわけですが、そういうところからすると、ザ・チルドレンの三人を補佐指導する皆本光一からしても、そうなんでしょう。ただ、皆本は主人公だから、ロリコン呼ばわりされたりしてますけど、彼自身は色んな意味でノーマルで、子供たちをよりよい方向に導こうとする、いわば我々の光の側なんです!

じゃあ、影の側ってなによっていわれたらそりゃまんま谷崎主任であるわけですが、自分の立場を利用して、理想の女性を育て上げちゃおうという、まさにピグマリオン。作者は、きっと読者のうちには横島、おおっと、邪なのがいて、この漫画をピグマリオン的ストーリーに読み替えて妄想にふけるようなのがいるとわかっていたから、それを戯画化すべく谷崎主任を投入したんでしょうね。身勝手な男の欲望の発露、そしてゆがんだヒロイズムはこうしてしっかりおちょくられて、私は私で、やられたー、すっかり見透かされてるわと嬉しくなったとそういうわけでした。

私の好きな椎名高志は、こうした部分、欲望や願望に自覚的で、それらを漫画の中に取り込みながらも、決してとらわれないというさじ加減が絶妙だから、欲望喚起ポイントではぐぐーっと引き込まれて持ち上げられて、後でどどーんっと落とされる、それが最高だと思います。わかってるんですけどね、期待しちゃ駄目って。でも期待するようにできてるわけでしょう? 本当、お約束ってのは偉大だと思いますよ。我々(っていっちゃ駄目?)読者は、パブロフの犬のごとく、お約束的ほのめかしにしっぽを振って飛びついて、全裸の谷崎を喰わされたりするわけさ!

でも、椎名高志はギャグだけの人じゃないというのはにもいったとおりで、こうしたギャグで紛らわせながらも、シリアスの軸をちゃんと立てて、シリアスと思わせてギャグに振り、けれどまたギャグがくるんではないかと油断していたら、まっすぐシリアスが待っていたりもして、そしてこのシリアスが利くんです。すごくまっすぐ、直球を投げてくるようなところがあって、その言葉を待っていたというような、この展開を読みたかったというような、けどそれはありきたりといってるわけではないんです。そこにたどり着くまでの工夫、作劇の工夫から、ギャグも交えた揺さぶりから、そうした働きかけがあるから、あの直球が利くんです。はなからあの直球がきたら、なんや、型にはまったこといいやがって、おもろないわ、ゆうてしまいですよ。けれど、私は椎名高志の投げる直球を真っ向からうけてしまう。心まで動かしてしまう。それは、やっぱりこの人の見せ方の妙だというほかないと、あるいは — 、この人の本気具合の確かさのせいなのではないかと思います。

蛇足

野上葵が可愛い、三宮紫穂は超可愛い、だったのが、三宮紫穂は超可愛い、野上葵はもっと可愛いにかわってしまいました。

椎名高志は小物にまでよく気を配って、不断着やらちょっとしたしぐさからでも登場人物の性格がわかるようになっていて、そしたら、まあ、野上葵がたいそうよかったっていうわけです。ああ、もう、なんといったらいいのか、私は一種の変態ですから(いや、別に野上葵が変態好みといってるわけではないです)。

引用