2007年9月9日日曜日

御先祖様万々歳!

   昔、関西では春夏冬の休みの期間に、がっつりとOVAを放送してくれる番組がありまして、休みが近づくとアニメファンたちの話題は、今年のラインナップはなんだろう、寄ると触ると『アニメ大好き』の話題で持ちきりでした。一週間くらいですかね、下手すりゃ午前午後で四時間くらい時間をとってアニメを放送してくれた、ノーカット、ステレオ放送でやってくれた。時間はあるが金はない中高生アニメファンにとっては、OVAに触れることのできる貴重な機会であったのです。万障繰り合わせて、テレビの前に陣取って、あまつさえビデオまでスタンバイさせていた。本当に、そういう仕合せな時代があったのです。多様なアニメに触れる機会を与えてくれた、好き嫌いとか関係なく、とにかく見る。それは視野を広く持つことにも繋がり、またアニメファンの裾野を広げることにもなった。本当に仕合せな時代でした。

この番組がきっかけとなり知ったアニメは数々あれど、強烈なインパクトを残したものというとそんなに多くはないというのが実際です。多くは一過性の楽しみとなって、ビデオに録っても何度も見返すわけでなく、さらにはビデオ、LD、DVD買うわけでもなく、忘れ去られるにまかせられるのがほとんど。けれど、なかには拭いがたい印象を残すものもあって、そうしたものは後でDVDを購入することも多く、例えば今日久しぶりに見返した『御先祖様万々歳!』。もし『アニメ大好き』にてこの作品に出会っていなかったら、私の精神世界は今とは大きく異なっていたろうと、そんな風に思うくらい。それほどに大きなインパクトを残したアニメで、また見るたびに新たな印象を得ることのできる、そういう大きさ、深さを持ったアニメであります。

今回見たのは、DVDボックスの1から3巻、OVA展開された『御先祖様万々歳!』本編です。おおまかに話の流れを覚えてはいたけれど、細かいところは忘れていた。それが逆によかったのではないかなと思います。というのは、詳細に見るほどにいろいろと語るところの見つかりそうなアニメですから、何度も何度も見て、詳しくいろいろを覚えるほどになってしまうと、語ることがしんどくなります。演劇的な演出がなされているアニメです。台詞は多分に観念的な色を帯びて、物語の内部構造からはみ出そうはみ出そうとするがようで、ゆえに物語を追うだけではすまない、いわゆるメタな議論とやらに踏み込みたくさせる、そんな匂いがあるんです。ですが、それは私の望むところではなくて、だって私はここで批評や論評をしたいわけではないんです。私のここでやりたいこととは、私がそれを見てなにを思ったか、なにを感じたかの掘り起こしに過ぎなくて、だから外部の構造やなにかに話を振り向けることは、私の目的から遠ざからせてしまうことにもなるのです。

そんなわけですから、おおまかにしか話を覚えていなかったという状況はよかったというのです。大筋わかっていたから、まったくの戸惑いの中に取り残されることもなく、詳細には覚えていなかったから、瑣末にとらわれることもなく、新鮮な、まだ言葉にならない感情というものを得ることもできた。そして私は文章を書くことで、その感情を捕まえようとしています。

その感情 — 、一言でいえば悲しさややりきれなさであると思います。第1話から家族という構造、虚構に振り回されてきた私は、第4巻で一端の結論めいたものを見せられ、そして第5話で物語の結末を見せられることになって、普通のアニメならここで終わろうところでしょう。ですが『御先祖様万々歳!』はまだここで一話を残していて、それは主人公犬丸による回想、これまで主人公のようで主人公ではあれなかった犬丸の、舞台的虚構から離れての心情吐露ともいえる話、これは私にはまるで駄目押しのように感じられて、そしてその駄目押しの結果が悲しさ、やりきれなさであったのです。

劇中にこんな感じの台詞があったのです:人は自分の物語の主人公として生きてはいるが、自分の物語の作者にはなれないという近代の苦悩、こんな感じの台詞。最後、物語に放り出されたようにしてさまよう犬丸の姿には、まさにその苦悩とやらが突きつけられているかのような思いがして、あるいは人は極限状態におかれると、自分のおかれている現状が現実なのか夢なのかわからなくなってくるとか、そんなことをいいますが、まさしく犬丸はそうだったのかも知れないと、物語の発端からこのラストにおけるまで、ずっとそんな状況にあったのではないかと思えて、そこが物悲しいのです。

あの実際なにが現実で虚構で、舞台的演出で、舞台的演出が求める物語であるかわからない物語において、犬丸はつまらない日常の繰り返しを打破したいと願っており、けれどそのための勇気がなく、反抗さえもごっこのようにしかなしえず、そこで彼はその状況を破壊してくれるなにかが訪れることを願っていた、外部にそれを求めていたわけです。だから麿子(押し掛け女房型ヒロイン、ただ彼女が一般のそれらと大きく異なっているのは、彼女は未来からきた子孫であるがゆえに犬丸の恋人にはならないというそこだ)という日常に投げ込まれるイレギュラーは、まさしく犬丸の待ち望んだチャンスとなり得た。彼女はみごとに日常の反復を打破し、犬丸の望みをかなえたのです。

勇気と覇気を持たない主人公の前にあらわれた美少女、その美少女が永遠に失われたこと、それだけが犬丸にとっての現実であったのかなと、それも実感を伴わない現実だったのかなと、私にはそんな風に思えてくるのです。変化に乏しくともある種安定していた現状を打ち壊せというそそのかしがあの娘であり、そそのかされるままに日常はぶち壊されたのだけれど、後にはなにも残らなかった。いや、ただ失ったという実感だけが残って、しかしなにを失ったかといえば、もとよりなにも得ていなかったのだから、かつての日常が失われたという事実だけ。与えられたように思わされた甘美なるなにか、麿子という美少女にしても、結局は与えられてさえいなかったのだという、認めたくない現実がおまけとして付随している。ここに私のやりきれなさは極まります。

認めたくないから、手にしていなかった幻想、あぶくにしがみついて、残りの人生をふいにしてしまう。あの物語をこのように見てしまう私は、人生において人生をふいにすることをことさら怖れるために、今を無為に足踏みしている自分の姿に気付いていて、二重の意味でやりきれません。いつかこの足踏みの人生を打破してくれる黄色い花の訪れることを夢見ながら(そして私はそんな日が永劫来ないことを重々承知している)、今も自分の温く甘い繭にこもってる。こうした事実がなによりもつらく、そしてかつてまだ少年だった時分の私は、将来このアニメが私にこうした現実を突きつけることになろうとは思いもしていませんでした。にもかかわらず、記憶にしっかりととどめてさせたのですから、このアニメの持つ力というのはただならぬものがあると思います。まるで呪いのよう、あたかも嫌がらせ。けれどその甘美なことったらない、本当、私という人間には必須の作品であると思います。

DVD

VHS

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