2007年11月30日金曜日

魔法使いしかっ!!

 うおなてれぴんの単行本が出てるよ、って風の噂に教えていただきまして、そ、それはやっぱり買うしかっ! と思って買ってきました。新作と思っていたら、2004年から2006年にかけて連載されていた漫画で、危なくお蔵入りしそうだったところを単行本化されたってところなのでしょうか。いや、だとすればよかった。思わず表紙に引かれて買った『しすこれ』以来、妙にこの人のことは嫌いじゃない感じで、そうしたら購読している四コマ誌にいらっしゃって、変わらぬ芸風になんか嬉しくなったりしたわけですが、いつか単行本が出たら嬉しいなあなんて思っていたら、私の知らなかった漫画が単行本化されました。タイトルは『魔法使いしかっ!!』。魔力の源である星のかけらを巡って繰り広げられる、魔法少女たちの戦いの模様を描いた漫画です。

地上三十階書店にいけば、結構な冊数が入荷していて、平積み。やあこれは嬉しいと手に取って、しかしこの表紙の醸す雰囲気はなんだか意外な感じでありました。ぱりっとメリハリの利いてキャッチーな、なんかすごく普通の漫画っぽいのですよ。こんなことをいうと『しすこれ』や『まん研』が普通じゃないみたいですが、もちろんそんなことをいいたいわけではなくて、ある種のフェティシズム的傾きのある作風が、見事なまでに隠蔽されていて、もしかしたら中身もそうなのか!? とわくわくしながら開いたら、やっぱり作風は変わらずでありました。がっかりはしていない!

この人の作風っていったらなんなんだろう。すごくマイペースと感じられるところ。コスプレ色が強いところ。裸とかそれに近い状況が、結構な割合で出てくるんだけど、なんでかあんまりエロくないところ。これらがごちゃっと混ざり合って、独特のゆったりとしたテンションを出しているところ、なんだと思います。その、ゆったりのんびりのテンション、多分私はそれが好きなんだと思うんです。登場人物みんなが割合に好き勝手しているせいもあって、あんまり話がきりきり前に進まない。停滞気味の面白さ。けどそんなでもしっかり話は展開していくという不思議。実際、『魔法使いしかっ!!』もそんな感じでした。星のかけら争奪戦、ヒロインみうの持つ星のかけらを狙ってくるライバルたちを倒し、星のかけらゲットだぜ! 時にシリアスな表情を見せつつも、マイペースな突っ込みはかかさないから、緊張と弛緩の振れが交互に訪れて — 、いやどちらかといえば弛緩寄りかも。でも魔法少女たちの対決は面白かった。なんだかよくわからないのりで勝つという、脱力落ちとでもいったらいいの? そういうのもあったけど、策略巡らせているものも多くって、しっかりしてる! 結構な満足感の得られる、いい漫画だったと思います。

けど、やっぱりこの人の作風は健在だから、ええと、マイペースの方じゃなくて、コスプレの方。魔法少女戦のルールは、負けるとその人の考える恥ずかしい姿になるというものだから、裸になったりコスプレになったり、けどなかには切なくなるようなものもあって、なんか妙に襟を正すような思いになったんだけど、結局ハッピーな方向に向かうのがこの人のいいところだと思います。そういえば、この漫画、勝っても負けても、特に仕合せになるでなく、ましてや不幸になるでなく、皆で楽しく魔法少女戦を戦い抜きましたっていうあっけらかんとした明るさが最後に残ったのはさすがだなあ。

いつもながらの持ち味崩さず、盛り上がりもあり、後味はすっきりとして晴れやか。その朗らかさがいいじゃありませんか。明るく倒錯。大変よかったと思います。

  • うおなてれぴん『魔法使いしかっ!!』(バーズコミックス) 東京:幻冬舎コミックス,2007年。

2007年11月29日木曜日

○本の住人

  先達てはオール幼女だなんて不穏なことをいっていましたが、『○本の住人』、当初はちーちゃんのダイナミックな無茶さ加減、のりこの兄を筆頭とするいろいろと駄目な男子群に幻惑されたものでしたが、回を重ねるにしたがってだんだんと地の部分が見えてきたというか、兄一人妹一人の、考えてみれば結構ハードな状況に置かれているふたりの関係、そしてそんなふたりを取り巻く人たちの、なんだか優しげで温かな視線みたいなのが感じられて、いいなと、そんなことを思うようになってきて不思議な感じです。奇妙なテンション、どこから発想されているのかわからないネタの飛びっぷり、ちーちゃんの超人ぶりは健在。しかしもっとじっくりつきあえば、ほのかな人の情愛がこまやかで、そしてそこはかとなく漂う叙情性にも心とらわれて — 。なんか、奥の深い漫画だよな。一筋縄ではいかない、読むほどに深まる、そんなところのある漫画なんだと思います。

そうした深まりっていうのは、やっぱり慣れというのもあるんだと思うんです。慣れというのも変かも知れないけど、最初にぱっと目に付く派手な部分、飛び込んでくるネタのインパクトに、あちこちにちりばめられた小ネタのくすぐり、これら一種のけれんは、最初は目新しいからいいんですが、いずれパターンとして落ち着いてしまいます。こうなったときにまだ読ませるものを持っているか。ここに長く読み続けられるかの境目が生じると思うんです。そして、『○本の住人』に関しては、むしろここからが本質、本筋なんではないかと、最近はそんな風に思っています。

こうした要素、読み返してみれば当初からしっかりとあって、第一回の「のりこ5才兄17才」なんかにも充分感じられるものがあると思います。けどしばらくは潜伏して、それが再び表に現れるのは1巻後半くらいからでしょうか。なんのかんのいって妹大事の兄が見えてきます。普段からいい人のようこさんですが、のりこに対しては努めて親身に振る舞っているように見えます。なんだか、のりこはみんなから愛されているなあ。そしてのりこも、素直でいい子で、兄に対してはさすがに屈折しているけれど、けどまっすぐないい子だわ。前面に押し出される不条理的な展開があまりに面白いものだから、ともすれば隠れて見えにくくなってしまう人の心の機微が、実はこの漫画を後ろから支えているように感じます。あくまでも最前面には出ないのだけれど、それはあの兄がのりこに自分の優しさをあらわにしないような、そんな照れ隠しみたいにも思われて、なんかほほ笑ましい。でも2巻では、結構表立っているかな。そうした場面場面で人心地ついたように感じては、いいなあって、そんなこと思うんです。

蛇足

ひさちゃんの登場は極めて戦略的で効果は絶大、けれどあざとさはなく成功していると思います。まあ、なんというか。のりこはかわいいねえ。

けど、こないだ兄のいる妹の人に、やっぱり兄に恋人やなんかがあったら嫉妬を感じたりするものなの? みたいに聞いたら、それどんなアニメ? とむごい突っ込みをくらいました。うううう。なお兄妹仲はすこぶるよろしいようですよ。つうことは、うちの姉弟みたいなものか。

  • kashmir『○本の住人』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • kashmir『○本の住人』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年11月28日水曜日

Explanation to remodel, taken with GR DIGITAL

Street scene月末恒例のGR BLOGトラックバック企画、2007年11月のお題はなにかといいますとスナップです。スナップというと、実は私はわかるようでわかっていなくて、日常の一コマを気取らず撮ったようなものかなあと、そういう理解でいたのですが、辞書で見てみると、本来の意味は速射、瞬間的な動作を素早く写したものをいうそうで、早撮り写真なんていう訳し方もあるようです。被写体の自然な表情、あり方を、ありのままに撮るといったらいいものか。むつかしいな。けど、それが写真の醍醐味なのかもなあ。というわけで、トラックバック企画『スナップ』に参加です。

被写体は、もうずいぶん前に店じまいした楽器店で、長らくシャッターがおりていたのですが、めでたく買い手がついたのか、久しぶりに明かりがついていたのでした。店の前には、工務店の人と施主なのか、それとも近所の人なのか、どこをどうする、どこがどうなるという説明を受けておいでのようでしたから、おそらくは施主なのでしょう。こうして、楽器店は違う店になっていって、少し街の表情も変わるのだろうなと思ったことを覚えています。

なお、スナップは早撮り写真だそうですが、基本的にゆっくりの私です。もたもたしながら撮ったので、全然早撮りじゃありません。まあ、これはどうでもいい話。撮影機材は、GR DIGITALです。

Explanation to remodel

2007年11月27日火曜日

ぼくの生徒はヴァンパイア

 今日はまんがタイムKRコミックスの発売日、ということでいそいそと買い出しに出かけまして、買った漫画の中には『ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド』の4巻があって、そして『ぼくの生徒はヴァンパイア』。もし後もう一冊ヴァンパイアものがあったとしたら、ジャックポット!! オール吸血鬼出ましたー!! となるところだったのに、ちょっと惜しかったです。そういえば『○本の住人』も買っていたのでした。危なかった。もう少しでオール幼女が出てしまうところでした。あ、ああ、違うか。『○本』は幼女じゃありませんでした。つつしんでお詫び申し上げます。

さて、『ぼくの生徒はヴァンパイア』は『まんがタイムきららMAX』にて連載中の四コマ漫画。タイトルからもわかるように、ヴァンパイアもの。けど、このヴァンパイアはちょっと毛色が違っていて、確かにヴァンパイアなんだけれど、妙に気の小さい女の子であるというんです。お化けが怖いというのもどうかと思いますが、それよりなにより人間が怖い。そこへ人間の家庭教師がやってきて — 。

ちょっとずれた吸血鬼と天然の家庭教師が繰り広げる、ほのぼのとしてちょっとどたばたの日常が楽しい、そういう漫画であります。

どたばたとはいいましたが、けどあんまりどたばたの色は強くない漫画です。少なくともスラップスティックではない。すごく穏健で、読むほどに優しい気持ちになれる、そんな雰囲気がありまして、それはそれぞれに少しずつずれた登場人物が、ちょっとずつ毒気や軋轢じみたそぶりを見せたりしながらも、実際には仲がよさそうだなあと感じられるからだと思うのです。軋轢ったってたわいもない、それこそじゃれあっているみたいなもの。毒気といっても、悪意というよりも無邪気、口でいうほどにはみんな悪くないよね — 、ってそういう要素持ってるのは、ヒロイン、カミラの妹であるガブリエラとその使い魔ミナくらいか。肝心のヒロインは、まるで天使のような娘だものなあ。って、吸血鬼なんですが。

人見知りが激しくて、なかなか打ち解けなかったカミラが、家庭教師ブラムにちょっとずつ馴染んでいく、その様が見ていて悪くないんです。いつまでたっても素直になれないし、そもそも自分の感情にも気付いていないような純粋なところのあるカミラがです、ブラムに対して、独り占めしたいような、もっとかまって欲しいような、そういう態度を示しましてね、それがいいのですよ。いわばこの漫画は、カミラのブラムに対する気持ちにならない気持ちを軸に話を進め、そしてそこにキャラクターそれぞれのちょっと意外な一面、不思議と鈍くさかったり、無闇とマイペースだったり(あ、これは意外でもなんでもないや)、 — 素直なその人らしさがアクセントを添えるんです。そのアクセントが、そっと触れてぱっと風合いを変えさせる、目先を変えてくれるから、穏健ながらも単調にはおちいらず、フレッシュで心地のいい気分を持続させてくれる。そしてそこにキャラクターのはなやぎが、やわらかくのせられるんですね。

蛇足

カミラの使い魔、メイベルさんです。

2007年11月26日月曜日

浮上せよと活字は言う

 このところKindleがらみで、電子本やそのための端末について、色んな人が色んな意見を述べています。私なんかもその一人でありますが、つまり私がやっているように、この意見は面白いなと思ったり、凡庸だなと思ったり、そして読むに及ばんなと思ったり — 、私の書いたものもそうして品定めされてるってことです。Kindleあるいは電子本に対しいろいろ思う人が、色んな意見に触れて、またいろいろと思う、そういう状況が生じています。さて、そうした意見の中に、本の価格破壊が進んで欲しいというものがあったのですが、それ読んで私は驚いてしまいました。本、高いですか? そりゃ私も貧乏人ですから安いに越したことはないと思ってますし、もうちょっと低廉ならもっと買えるのにと思ったこともありますが、けれど日本はかなり本の安く買える国であると思っているのも事実です。

ここ数年、著作権絡みでいろいろと議論されているからか、あるいは本当に出版では儲からないからか、そうした界隈の内情のようなものがぼつぼつと漏れ聞こえています。もうネットの世界では古典と思えるような小文、馳星周の「おれたちは絶滅するか?」では、執筆年数三年、原稿用紙一五〇〇枚、ページ数五六〇の本が一九〇〇円じゃ高い?という悲鳴に似た問い掛けが見られるし、森博嗣も本の単価が低すぎる、そもそも本を書いて得られる収入はその内容ではなく体裁で決まる、これってどうなんだという問い掛けをしている。実は彼らの問い掛けは、私が前々から疑問に思っていたことへの回答になっていて、つまり私は本の定価と部数から作家の手取りを類推して、はたしてどれだけの人がこれで生活できてるんだろうと疑問に思っていたんです。そしたら案の定、著述だけで生活できる人はかぎられているんだというわけで、そしてここにさらに価格破壊の波が押し寄せたらどうなる!? なんて、思ったんです。正直、本は安いと思っています。そりゃ消費者としての私は安ければ安いほどいいと思ってるし、書店での支払い、一万円札出して釣りが返ってこなかったりするときついなあと思ったりもしますけど、けどそれは作品としての本ではなくて物質としての本について思うことで、作品としてはもっとこの人に儲けさせたいなと、もっと取ってもいいのになと思うものは確かにあるのです。

本ひいては出版を取り巻く状況を、こと著者の視点から説明したものというと、『浮上せよと活字は言う』に所収された「産業となった出版に未来を発見しても仕方がない」が一番に思い出されます。これ、私にとって結構ショックなことが書かれていたんですね。というわけで、ちょっと長いけど引用してみましょう。

『窯変源氏物語』の一巻が出たくらいの頃、「日本文学の研修」という目的で日本の出版社に来ていたイギリス人と会って、話のついでに彼が訊いた — 「『窯変源氏物語』の初版はどれくらいですか?」と。それで「十万」と言ったら、彼はびっくりして、「橋本さん、ジェフリー・アーチャーの新作だって、全英語圏で十万ですよ」と言った。私は、「もう源氏物語の初版が三十万出るような時代じゃないんだな」と思っていただけだから、ただ「へー」と言うだけである。その後に、映画の『枕草子』を撮るために日本に来ていたピーター・グリナウェイに会っていた時、彼がまた「参考までに」と、「あなたの『桃尻語訳枕草子』はどれくらい売れたのか?」と訊いた。私が、「上巻だけで三十五万」と言ったら、彼は瞬間絶句して、「じゃ、あなたは一生なにもしないですむ大金持ちじゃないですか」と言ったが、生憎私の住むところは、イギリスではない日本なので、私は働かなきゃ食っていけない貧乏人である。

橋本治が上巻だけで三十五万売って大金持ちになれなかったのは、彼が続けていったように日本の税金が高いからなのか、馳星周や森博嗣がいうように、本一冊あたりの単価が低く利潤も抑えられてしまうからか、あるいは山本夏彦がいうように原稿料は物価にスライドしないからか。山本は、人権蹂躙のような原稿料ともいっている。肝心の生産者が儲からない仕組みがある。そういえば、ことのはの人が著作権保護期間延長に寄せて死後の他人の利益より、今現在の本人の生活費を保護してくれといってたな。

正直こういう話を聞くと、私はとてもつらいのですよ。いうまでもなく本が好きで、予算がなく、時間がなく、蔵書するスペースがないためたくさん買えないだけで、可能だったらもっと買いたい、読みたいと思っているのが私です。なんつったって、好きが講じて全集やら著作集買うような人間なのですから、ちょっとの価格じゃしり込みしないぜ。私の好きな作家にはもっとお金がいって欲しいと思っていて、お金がたくさんいったら書かなくなっちゃうかも知れないと心配したりもするけど、でもほれ込んでるんですよ、仕合せになって欲しい、報われて欲しいと思うのは人情じゃないですか。

けど、どうも今の状況じゃそうはならないようになってるようで、私の思いはなんだか空振りしたみたい。なんなんだろうなあ、って冷静な側の私が、一喜一憂する私をさげすむような目で見ています。

あ、最後にまた橋本治から引用しとこう。

出版が“産業”として成り立つためには、「多種多様の人間が、ある時期に限って同じ一つの本を一斉に読む」という条件が必要になる。こんなことは、どう考えたって異常である。出版というものが、“産業”として成り立っていたのは、この異常な条件が生きていたというだけで、つまりは、そんなものが成り立っていた二十世紀という時間が異常だった — というだけの話である。

彼は出版という営為に対して、徹底して冷徹でシニカルな視線を向けています。そしてこの小文の結論、その直前に記された状況はまさしく日本の出版の現状を言い表していているかのようで、それを読んで私はなんだか気が抜けたような気分になりました。

引用

2007年11月25日日曜日

ウインダリア

 ウインダリア』をはじめて見たときの衝撃というか感動というか、それは今もなお新鮮に思い出されます。読売テレビの『アニメ大好き』という番組で取り上げられて、私たちはこの番組で取り上げられるアニメは無条件ですべて見るよう決められていましたから、『ウインダリア』も当然のように見たのです。中学生の頃かと思われます。前評判もなにもまったく知らないまま、まっさらな気持ちで見て、私は涙を止めることができませんでした。陽光の燦々と降り注ぐ村、そして海を臨む美しい街を舞台として始まるこの物語は、その穏やかで仕合せそうな序盤を裏切るようにシリアスに落ち込んでいき、見るものの涙を絞ったのです。人気があったのでしょう、アンコール放送されたときには、一緒に見ていた家族も泣いていました。アニメは子供のものという見方の強かった時代です。ならば『ウインダリア』はその偏見を逆手にとって、シンプルで素直な物語を、わかりやすく丁寧に展開して見せて、見るものの心を直撃してみせたのです。侮っているものにこそ効いたでしょう。アニメは子供やマニアだけのものではない、すでに時代は変わったのだと強く主張するかのようでありました。

『ウインダリア』は1986年に劇場公開された作品。公開後すでに二十年経っているということに驚かされます。確かに見れば、端々に古くささもないではない。けれど、むしろ私のようなものには、これぞアニメーションといえる感触であるのです。セルワークの極みです。押し寄せる水、躍動する肉体は、その1フレーズ1フレーズが演技をしている。絵の連なりに過ぎないはずが、そこに確かな存在を、身体を感じさせるのですね。それら絵は声と音楽をともに物語を紡ぎ出して、そしてひとつのテーマを伝えます。かたちを変え、表現を変えながら、何度も反復されるテーマとは約束。取り交わされた約束、それを信じようとする心の悲しさが描かれています。

しかしなにが悲しいというのでしょう。約束が守られないことが悲しいのではありません。守られなかった約束にすがろうという姿が悲しいのでもありません。悲しいのは、相手を信じようという心が、だんだんと変質していくという、そこであろうと思うのです。つのる猜疑が、周囲のプレッシャーが、そして目先の功が、約束を押し流してしまう。ひとたび疑う気持ちが芽生えれば、あとは育つばかり。疑心暗鬼、疑いは自らを肥やしながら膨れ上がり、約束を違えた相手への憎悪をつのらせながらなおも肥大して、ついには理性を飲み込み、後戻りできないところにまで人を追いやってしまう。なぜこんなことにと自問しようともすべては遅く、悪いのは相手なのか、それとも自分なのか、それとも双方なのか。ここに、不信に生ずる悲劇の形式は極まります。

守られなかった約束、どこかで狂いはじめた信頼に発する悲劇を描いた物語において、揺らぐことなく夫を信じ続けたマーリンの姿が、それこそ救いのようであります。信じるという心の価値を求めるものは、マーリンにすべての希望を見て、そしてその望みが潰える様をありありと、それこそ我が身に起こった悲劇であるかのように感じるからこそ、胸のつぶれるような苦しさにあえぐのでしょう。結局、なにも残らなかった。空しい戦勝への代償はあまりにも大きすぎて、誰もが我が手の握りしめる空虚に耐えきれない。失ってはじめて知る、けれどそれでは遅いのだと、そんなことは誰もがわかっているはずなのに、誰もが止められない。だから悲しさはつのるのです。わかっているはずのことを、人はややもすれば忘れてしまうと、この物語はそうしたことを告げるから、あまりにも悲しいのです。

2007年11月24日土曜日

Words Gear

 先日、AmazonがリリースしたKindleが刺戟となってか、あちこちで電子本及びその端末についての記事ないし話題が出ています。といっても、話題沸騰! とか、話題騒然! とかそういうことは一切なくて、ごく狭い領域での注目にとどまっているというのが実態であると思います。一般市井の人はKindleなんてまったくといっていいくらいに知らず、それ以前に、電子本? は? なにそれ、みたいな反応の方が強いように思うんです。それくらい日本においては電子本はマイナーであるということなのでしょう。そしてそれは、私にとってもそう変わるものではありません。

そもそも私はNintendo DSで本を一冊読んでみるまで、電子本というものを等閑視していた節が見られます。もし友人が『DS文学全集』に触れなければ、ふーん、てなもんで流していただろうし、だとしたら、わりと電子本もいけそうだという流れにはなっていなかった。そう。私の部屋が紙の束に侵食され、だんだん住むに適さなくなってきているという現実があったところへ、電子本もそんなに悪いもんじゃないという体験があって、俄然興味を強めたのです。

そんなわけで、日本における電子本の状況を眺めてみました。より厳密にいうと、今日本で買える電子本リーダーってどんなのだろうと思って調べてみたといったほうがいいでしょう。そして結果に愕然としました。な、なんと、今やWords Gearしか残っていないっていうではありませんか!? ごめん、愕然としたってのは嘘。むしろ、まだ電子本リーダーって売られてたんだっていうほうが正しい感想になると思います。だって、わたしはかつて電器店店頭でSONY LIBRIEやPanasonic ΣBookを見て、あんまりだなあって首ひねって帰ってきた人間なんです。一応興味はあったんです。ですが、その興味以上にわくわくさせるものではなかった。いや、思ったよりも悪くないかもとは思いました。特にLIBRIEにそういう感想を持って、あの電子ペーパーの感触といったらいいのかな、ちょっと反応は鈍いと思ったけど、品質としては悪くないと思ったんです。それよりも視認性の高さの方に興味はいって、将来的にすべてのデバイスの視認性があれくらいになればいいなあと、そんな風に思っていたんです。

けど、手を出さなかった。単純な話で、ストアがMacintoshに対応してないから、これらに手を出す可能性なんてはなっからゼロだったわけですが、そりゃもう当然頭っから等閑視するはずですよ。LIBRIEのストア、Timebook TownはWindows専用、シグマブックもWindowsのみ、Words Gearのストアである最強読書生活もWindowsオンリー。まあ別に文句はないんです。Macintoshを取り巻く環境について、すべてわかったうえでこれを選んでいるわけですから。けど、これは逆にこうした読書端末を検討するしない以前の環境であるわけですから、どこそこが読書端末を出した、ふーん、でもどうせWindowsなんでしょ? 以上。もとより話が広がるはずなんてないんです。

Kindleのメリットは、本の購入にPCが不要というところじゃないかなんていっていましたが、それは上のような状況も考えてのことだったんです。きっとAmazonのことだから、両OSには対応するだろうと考えていた、私の視野の狭さですよ。Kindleは別端末を必要とせず、それだけで完結する。こりゃ、PCを持たない人、苦手な人でも取りこめるかも知れない(Amazonの顧客にPC持ってない人がいるかは疑問ですが)。WinだMacだとつまらないこといって、マーケット範囲を狭めるのではなくて、PCに積極的に関与しない層も取りこめる可能性がある。例えば携帯電話メインの顧客など。ま、携帯メインの人は携帯を読書端末として使うんだと思いますが、まあ可能性としてね。より広い裾野を見据えているのがKindleのサービスなんだと思います。

今回、Kindleのラインナップに漫画があったことがちょっと意外で、私というのは発想が貧困だから、漫画を電子本リーダーで読む可能性について、思いを至らせていなかったってことなんですが、けれどそうなるとカラー対応していて欲しいなあと思うのが人情だと思います。それに、Kindleをはじめとする電子本リーダーは漫画を読む際にちょっと不都合があって、それは見開きという表現をサポートできないんですよね。唯一できそうなのはシグマブックですが、あれはじめてさわってみたときの感想は、わざわざ見開きにして、本のイメージを追わなくてもいいのになってものだったんですが(つまりこの時点の私は、漫画を読む可能性を考慮していない)、だって重いしさ(約520g)、持ちにくくなるしさ、ってわけでLIBRIEの方がいいかもって話であったりもしたのです。

私はKindleには、LIBRIEっぽさを感じているんですが、その実際の触感はどうなのか、ちょっと触れてみたいところです。データさえカラーならば表示はモノクロでもいいかなんて思っていて、けど著作権云々の絡みから、購入時に用いたKindleしか使えません、コンピュータに持ち込んで見るなんてもってのほか! とかなら、私はきっと手を出さないな。とにかく、利用者にとっての便利があるなら欲しい。そうでないなら、くれるといわれてもいらないってところだと思います。いずれにしても、電子本リーダーは発展途上の過渡期であるなという感じは強く、だから完全無欠の読書端末よりも実用に足る電脳メガネを待ったほうがいいのかなあと、いろんなことを思うのです。

2007年11月23日金曜日

SANYO eneloop

 SANYOのeneloopを買いました。eneloop自体は数年前から知っていて、あの、電池はいつまで使い捨てですか?というキャッチフレーズ、正直これがeneloopのブランドイメージを決定づけたよなあと思うのですが、他にも多々ある充電池の中でも、eneloopが高品質、eneloopがエコというイメージを作り上げることに成功しています(イメージといっていることに注意)。実際のところeneloopの利点とは、自己放電しにくく注ぎ足し充電にも対応というそこなのだそうですが、こうした特性は短時間で電力を使いきるような機器には向いておらず、それほど電力を消費しない、長く電池を交換しないでも使えるような、そういう機器に向いているのだろうと思うのですが、ということは、一般の家庭にある一般的な機器にはきっといいのではないかなと、そんな風に思っています。

今、私の身の回りで電池を使っているものはなにかというと、テレビをはじめとするリモコンと毎朝世話になる時計、それぐらいだったんですが、先日これらにキーボードが加わりました。Appleのワイヤレスキーボード。Bluetoothでコンピュータに繋がるこのキーボードは単三電池を三本使うのですが、これがどれくらいもつかわからないのですよ。最初についてきた電池はだいたい二週間くらいで接続があやしくなったから、安定して使いたいと思ったら数週間からひと月くらいで交換が目安なのかも知れません。けど、その最初の電池、チェッカーで計ったらそんなに減っているという感じでもなかったから、本当に微妙です。今後こんなペースで単三電池が、三本という単位で消費されていくとなったらおおおごとです。使いかけの電池は目覚まし時計にまわすといっても、そんなに時計なんてありませんからね。というような理由で、eneloopをいよいよ導入する気になったのでありました。

そして、こういう用途にはeneloopは向いているんじゃないかなと思っていて、だってどうしても注ぎ足し充電することが目に見えているわけですから、それにタイミング良く、ひいきの電器店の割引クーポンにeneloopの電池と充電器セットがあったもんだから、早速買ってきました。といっても、キーボードの接続不安定の原因を特定するために電池を入れ替えたところだったから、使うのはまたひと月後ということになりそうですが、けど今度は慌てたり迷ったりすることなくeneloop、はたしてeneloopは使えるのか、それはまた本家こととねにてお伝えすることになろうかと思います。いや、どうだろう。書くことがなかったらこっちでも書くかも知れない。まあ、そのとき次第ってやつですね。

eneloopにせよどんな充電池にせよ、とりあえず充電器が手もとにあれば、次からのハードルが低くなるから、そういう意味でもよかったと思います。うちは放っておいたら年寄りが電池をばんばかかってくるから、次からはeneloop買ってこいよといっておかないといけない。こうして、うちにある機器のほとんどが充電池で動くようになったら、少しでも環境負荷は下がるのかな? 環境負荷もそうだけど、コストの面でもメリットがあればありがたいと思います。

あ、まだ電池使ってるものあったわ。ギターのチューナーとテルミン。テルミンは購入後三日目にして発熱して、それっきりさわってもいないんですよね。あ、発熱はテルミンじゃなくて私。風邪引いたんですね。あと、ポータブルなアンプを買ったら、これでも使えるか試したいところであります。いつ買うかわかんないんだけどさ。

2007年11月22日木曜日

ゲッターロボ

 仕事帰りに書店に寄ったら、どかんって感じで『ゲッターロボ』が置かれていまして、運よくというのかなんなのか、シュリンクの類いがかかっていなかったので手に取ってみたら、もう止まらない。いや、さすがにはじめてってことはありません。これまでに何度となく読んできた漫画ですが、実は所有していたことってなかったんですよね。けれど、なんでか度々出会ってきて、それがなんでか、ごてっと分厚いものばかりで、愛蔵版なんでしょうか、なんどもそういう決定版みたいなかたちで出てきたものに、今こうして新刊としてまみえてしまった。どうするべきか、はっきりいって止まらない。これは、もうムサシの鬼気迫る決死戦を見、そして恐竜帝国の最後を見届けないことにはすまないのです。というか、立ち読みで三分の一読んじゃったよ。私は自分自身にルールを決めていまして、立ち読みで一定量読んだ本は買うというものなのですが、今回はそれが見事に発動しました。といった次第で、今私の手もとには無闇に分厚い『ゲッターロボ』がごろりと転がっています。

しかし、『ゲッターロボ』といえば私の子供時分のテレビヒーローでありまして、その頃からロボット漫画が好きだったって話ですよ。人類滅亡をたくらむ邪悪な敵に、超科学の粋を集めて作り上げられたスーパーロボットが立ち向かう。ゲッターロボもそうですね、マジンガーZもそうでした。鋼鉄ジーグもライディーンも大空魔竜も、みんな人類の敵に超ロボットで立ち向かって、その戦いはおよそ戦争なんて生易しいものでなく、有り体にいえば殲滅戦。いまにみていろハニワ原人全滅だの世界であります。

けど、多分、アニメ版ではそのへんの苛烈さっていうのはずいぶん薄められていて、だから子供の頃に漫画版を見たときには大層ショックでしたさ。なんというか、有り体にいうと血なまぐさい。腕がとびだすババンバンなんて生易しいもんでない。名もない人たちがばたばたと、時にはばらばらになって、時には焼かれて、時には食われて死んでいくんですね。それを見て子供たちは、うぬぬ、恐竜帝国許すまじって気になって、この高揚感ややばさは残念ながら今の漫画ではもう出せないんじゃないかなあと、そんな風に思っています(表現の規制もあるだろうしさ)。

実は今回『ゲッターロボ』の購入を決めたのは、なかま亜咲の『火星ロボ大決戦!』の影響が少なからずあって、『火星ロボ』には『ゲッター』をはじめとするロボットものへのオマージュが渦巻いているから。また、明らかなパロディも端々に見られて、それらを私は面白がって眺めながら、同時に忘れかけていた超ロボへの愛惜を思い出して、そしてそれが『ゲッター』の過激かつ濃厚な画面を見てたまらなくなってしまったんです。今の若い人にはどう映るかわからない、それこそ古くさいといわれて終わっちゃうのかもしれないけれど、でも私にはものすごい高揚をもたらしてくれる漫画なんです。強烈な作用が、精神にびしばしと届いて、もうめろめろになる。設定の粗なんてどうでもいい、バーバパパ変身合体についても、これのどこに問題が!? と言い切ってしまうくらいに心もっていかれてしまって、やっぱり私は『ゲッターロボ』が好きだったんだなって思いを新たにするのです。

そして、実は、子供の頃の私が一番好きだったのがゲッターロボだったんですね。それもGでなく、旧ゲッター。あのシンプルな造形が気に入っていて、ゲッター1もよかったけど、ゲッター2が好きだった。どうも私はニヒルな二枚目が好きみたいなんですね。だから『ゲッター』では神隼人、『ガンダム』ではカイ・シデン、なのであります。

あ、そうそう。来年1月には『デビルマン』も出るらしい。これは、これは買うな……。

引用

  • 林春雄『鋼鉄ジーグのうた

2007年11月21日水曜日

電脳コイル

 実は私『電脳コイル』を見たことがないんです。番組紹介を見て、これはいけるかもしれんとブックマーク、いたるところでいいふらしたことも懐かしい。なんだか昭和を思わせるような下町感にウェアラブルコンピュータが溶け込んでいるという、懐かしさと新技術が交じり合っている不思議な感覚。キャラクターのデザインも、絶妙のいも臭さで、さすがNHKといっていい? この狙いは確かですよ。私が子供の頃に見ていたアニメのらしさといったらわかってくれる人いるかしら。これは、いけると思ったんです。

けど、第1話を見逃したんですね。ぐわあ、見忘れた。もう駄目だ、悶絶してたら、大丈夫だ。NHKなら再放送やるから安心しろの世界だ! との心強いメッセージをいただき、さらに、電脳コイルは翌週の金曜日に再放送、との追加情報。しかしそれでも見逃すのが私という人間なのです。なので、ちゃおで連載されていた漫画版が、私のはじめての、そして唯一の『電脳コイル』体験となったのでした。

『電脳コイル』、漫画版を読みまして、想像以上にハイパーな世界で驚きました。メガネがウェアラブルコンピューティングデバイスとして普及しているというのは知っていたし、実際にこうしたデバイスがあれば、メガネの捉えたオブジェクトに関連する情報を表示したり、また操作盤を仮想的に提供したりなど、一昔前のSFが描いたようなインターフェイスが実現されることも理解していました。そして、そこに仮想ペットがいるだろうということも、決して想像できないことではなく、でもここまで魔法のようにダイナミックなものにしちゃってるのかと、そこに驚いたのです。実際アニメではどうなのかわかりませんけど、電脳世界のオブジェクトが物理的干渉をしてくる(ように見える)というのは強烈だなあと。またデバイスが脳に干渉したり、果ては仮想世界に囚われてしまうなど……、ここまできたら恐ろしい以外のなにものでもないよなあ。もし実際にここまでの働き方をするものだとしたら、こうしたデバイスは取り締まられ、実用に供されることはないだろうと思うんですね。

ちょっと余談ですが、最近よく話題にしている読書端末。私はこういうものの最終形は、電脳メガネであると思っています。実際そうしたデバイスは出現していますが、これで電子本のデータを、あたかもそこに物質としての本が存在するかのように映してやればいいんです。それを、読む。本への働きかけは、手にものの感触を伝えるバーチャルグローブ(こういうのも存在する)を介せばいい。そこにないはずのものに触れ、情報を五官をもって感じ取る。これはまさしく人間の機能拡張であり、ウェアラブルコンピューティングの目指す先にはこうした世界があるんでしょう。

さらに余談になっちゃいますけど、より高密度の情報のやり取りを欲するなら、サイボーグ化しかないんじゃないかとも思っていて、ほら、体にコンピュータと情報やり取りするための端子を付けていた人がいたじゃないですか、ああいうの(実験が終わったから、もう外したらしいですけど)。その話を聞いた時は、いつか人体にUSBが、なんていってましたけど、今なら断然Bluetoothが有望ですね。よく見ると、歯が一本青いの。それで、眼鏡やグローブと情報をやり取りして、より現実感の強いバーチャルリアリティを実現する。いや、これやると、冗談抜きで脳神経系への不正なアクセスとか、コンピュータウィルスの人体感染とかがあり得そうで、しゃれにならないような気もしますが。

ウェアラブルコンピューティングの未来を想像すれば、やはり眼鏡は有望なデバイスとして浮上してくるかと思います。現実の世界に仮想のオブジェクトを重ね合わせ、世界を拡張する。私の子供の頃を思えば、それは紛れもなく夢の未来として思い描かれた世界の姿そのもので、そしてそれは私の生きているあいだに実現するかも知れないんですね。

けど、そうした夢のような世界があったとしても、きっと私たちの一番に思い悩むことといったら、今に変わるものではないのだろうなあと。あまりにハイパーな世界を描いた漫画版『電脳コイル』ですが、テーマはまさに友達ってなんだろうっていう、素朴でけれど大きなものであり、どんなに情報機器が発達したとしても伝わらないものがある、だからそれは自分自身で伝えなければならないんだよという、そういうメッセージは読んでてちょっと染みました。全2話1冊の短い物語でしたが、それゆえにテーマが身近なものに絞られて、シンプルに伝わるものになったのだと思います。

だから、遅ればせながらもアニメも見たほうがいいのかな? つうか、まだアニメ、終わってなかったのか。つうか、メガネビームって本設定だったんだ。で、12月8日(土)から、「電脳コイル」が第1話から再放送。さあ、どうしよう。けど、絶対見られないんだよなあ。見るならDVDか。うへえ、限定盤とかあるんだ……。どうしたものか、迷います。

  • 久世みずき『電脳コイル』磯光雄原作 (ちゃおコミックス) 東京:小学館,2007年。
  • 宮村優子『電脳コイル』第1巻 磯光雄原作 (TOKUMA NOVELS Edge) 東京:徳間書店,2007年。
  • 宮村優子『電脳コイル』第2巻 磯光雄原作 (TOKUMA NOVELS Edge) 東京:徳間書店,2007年。
  • 宮村優子『電脳コイル』第3巻 磯光雄原作 (TOKUMA NOVELS Edge) 東京:徳間書店,2007年。

2007年11月20日火曜日

Kindle: Amazon's New Wireless Reading Device

 先日、読書端末としてのNintendo DSについて触れました。実際に一冊読んでみた感触はというと、悪くなかった、思ったよりもずっと読みやすかったし、反応もクイックだった。もちろん文句がないわけでもないけど — 、例えば目次がないとか、読み終えたとき、もちろん裏表紙があるものと思っていたらなかった(体験版だから?)、その上ファンファーレまで鳴った(体験版だから?)とか。けど本を読むという体験をエミュレートすべく用意されたインターフェイスの数々、そしてそうした遊びを残しながら読書端末としての最低限をしっかり押さえたところなど、結構好感の持てるものであったと、そういうふうに思っています。だから、私はあれを見て、そう遠くないうちに冊子としての本の優位を揺らがせるようなデバイスが出るんじゃないか、なんていっていたのでした。

そして、本日、Amazonから新しい読書端末がリリースされました。その名はKindle。いくつかのニュースサイトがそのリリースについて報じています。

ざっとまとめると、Amazon.comが電子本リーダーをリリースするとともに電子本販売を始めましたよ、ってことですね。で、話題の中心にその電子本リーダーがあるという構図です。

この電子本リーダー、ざっと仕様を見ますと、電子ペーパーを使ったスクリーンはモノクロ4階調で167ppi、バックライトはないけれど晴天下でも問題なく読めることを売りにしています。重量は292g、ペーパーバックより軽いのだそうで、バッテリーは数日持つらしい。そして、これが最大の売りであると思われますが、携帯電話のデータ通信網を利用するためPC不要。それこそKindle単体で完結するといってもいい仕組みであるわけです。

この端末が399ドル。これを高いと見るか安いと見るか、それは電子本をどれだけ利用するかで変わってくるのでしょうね。約四万円の端末で、冊子で買えば二千円程度の本を千円で読める。ということは、40冊も読めばペイしますね。あるいは新聞の購読なんてのも魅力かも知れません。The Irish Timesが月5.99ドル、一般的な新聞なら、ひと月千円以下で読めるわけですよ(さすがに全記事じゃないとは思うけどさ)。The New York Timesはちょっと高めで、13.99ドル。海外に目を向ければ、仏紙Le Mondeならびに独紙Frankfurter Allgemeineが14.99ドル。果たして将来的にKindleが日本にやってくるかはわかりませんけど、もし上陸して、Le Mondeを千五百円程度で購読できるようになったらですよ、それこそ二三ヶ月くらいでペイしませんか? まあ、そんなの購読しないけどさ、日本語の新聞だって読み切れてないのに、ここに外国語の新聞なんてきたら、あっという間に破綻すること請け合いです。

書籍だけでなく、新聞や雑誌まで扱うKindle Storeですが、これは資源保護の問題からしてもいいんじゃないかななんて思うんです。基本読み捨てにするのなら、それらの紙が無駄になりません。まさに、情報そのものを買うという感じといったらいいのでしょうか。梱包時や爪を切るときなんかに困るかも知れませんけど、無駄にゴミが出ない、かさばらないというのはよいことだと思います。このかさばらないという利点は本においても同様で、たくさん読みたいがもう収納が限界だという人には理想的です。ただ、この場合、その人が物質としての本に魂を引かれているかどうかが大きな分かれ目になりますね。断言しますが、マニアというのは一種の病気だから、本なら本、物質としてのそれをしっかり残したいという人もあって、そういう人だと電子本を買いつつ冊子も買う、もちろん両方残すなんてケースもあるかも知れません。おおおお、恐ろしい話だ。

本当の理想というのは、完全に電子媒体に移行してしまうことかも知れません。データオンリー。それを、好みの読書端末で読めるというのがきっと一番よさそうで、高精細なデータをストレージに保管して、好きなときに引き出して読めたりすると最高だと思います。もちろん冊子としては流通してないから、かさばるばかりの紙の束に悩まされることなんてありません。だから、こうした端末が行き渡ったら、出版と流通というものは様変わりするでしょう。

けど、それでも冊子としての本を所有したいんだという人には、オンデマンド出版で対応するというのがよさそうです。昔のヨーロッパがそうだったように、仮綴じ本を買ってきて製本屋に持ち込む感覚の復活ですよ。それこそ自分の気の済むような体裁にしてもらえる。当座読めればいいだけの仮製本から、納得のハードカバー、さらには革装幀(これ手入れが悪いとえらいことになりますけどね)に箔で押すとかさ。残すまでもないものだったら電子でいいんです。残したいけどデータとしてで充分というのも同じ。これはという思い入れがあるものだけ本にする。ちょっと趣味的ですね。けどもともと本なんてものはそういうものでした。そうした本の本来に戻る可能性が電子本にあるのだとしたら、ちょっと面白いなんて思ったのでした。

さて、Kindleが日本に上陸の暁には買うかどうかですが、実はちょっと欲しい。新書とかなら、別に本として持たなくてもいいわけですから、いくらでも活躍の機会はあるでしょう。また、私はもう戻らないとは思いますが、研究者なんかには恐ろしく便利であると思います。索引がフォローしないようなものを、検索機能使ってピックアップできるのですから。修論書いてたときなんですが、この本にあったはずという記述をどうしても見付けられず、引用、参照をあきらめたものがいくつかあったんです。そういう悲劇がなくなるのは、本当に素晴らしいことだと思います。

私の購読している、四コマ誌が電子出版されて、こうした端末で読めるようになったらいいなと思います。そりゃ、冊子で読みたいですよ。ですが、好きだった漫画のために雑誌を残し続けるにも限界があるのです。単行本にならないマイナージャンルにこそ、こうした在庫を抱えないでもすむシステムは有効だと思うのです。絶版、廃盤という概念は基本的になくなり(発禁はあるけどね、いわゆる出版差し止め)、欲しい本は、電子本としてなんでも手に入る。いつでも、どこでも、電波が届きさえすれば手にして読みはじめられる。そういう現実は果たして素晴らしいのかどうか。賛否両論あろうかと思いますが、読みたい本が読めないという不幸を思うと、実現して欲しい現実であると思います。

2007年11月19日月曜日

プチ・ロワイヤル仏和(第3版)・和仏(第2版)辞典

 こないだ、コンピュータで使えるフランス語の辞書が欲しいなんていってましたが、その時点での結論は、どうも現在私の要求を満足させるものはないようだというものでした。私の要求というのは、EPWING規格に準拠しているものというものでありますが、残念ながらフランス語の辞書に関しては皆無といっていい状況であったという話でしたね。だから、『ロワイヤル仏和中辞典』に付属のCD-ROMをEPWING化するという、一種苦し紛れの手段をとるほかないのかと、けどとりあえずは私の求めるものは手に入るのだからこれでいこうかと、けどこのやり方では仏和は手に入るけれど、和仏が手に入らないんですね。なので、私はあきらめ悪く、更なる手段はないかと探してみたら、あったのですよ、あったのですね。

というわけで、今日はLogoVistaの辞書をEPWING化する話、といっても覚書めいたまとめですけど。

LogoVistaの辞書をEPWINGにするためのツールがなんと存在したのです。その名もdessed。UNIX向けのソースコードとWin32用のバイナリが配布されていて、つまりMac OS Xで完結させたい場合は、gccを使うのじゃってことなんですね。ああ、私は素直にWindowsで変換したいと思います。って、なんだそのやる気のなさ。

dessedのサイト及びネットの検索結果を見る限り、このツールを用いてLogoVista辞書をEPWING化している人はかなりいらっしゃるようです。UNIXユーザーであるため変換せざるを得ないという人もあれば、私みたいに好みのビューアを使いたいという需要もあるようで、しかしこうした裾野の広さはありがたい。ていうのはね、『旺文社プチ・ロワイヤル仏和・和仏辞典』の変換実績がリストに掲載されていまして、おお、これは安心できるではありませんか。フランス語を読むだけでなく書くにも役立つ環境を持つことができる。ほんと、いつ買おうかな、どうしようかなと迷っちゃいますね(高い買い物したばっかだから、ちょっと躊躇しちゃうんですよ)。

しかし、LogoVista辞書をEPWING化できるのは朗報でした。というのは、私はかつてシステムソフトエディタを使っていましたが、OS Xに移行したことでそれを使えなくなって、なにが一番困ったかというと類語辞書なんですね。便利だったんですよ。こうして文章書いているときに、どうしても言い回しがしっくりこないことってあります。出てきそうなんだけど出てこない表現っていうのもありますね。そういうときにすごく便利だったんですが、使えなくなって弱りました。けど、LogoVista辞書をEPWING化できるんなら、『日本語大シソーラス』を導入すりゃいいんじゃん! って、その前に『類語大辞典』を使ってやれよ、折角持ってるんだから! って、そうですね。ほんとです。

けど、こんなこといっちゃなんですが、読むための本と異なり、ツールとしての性格が強い辞書なんかに関しては、積極的に電子化されたものを使うほうが便利がよく、効率もいいと思います。冊子の辞書を捨てきれず、何冊も持ってはあまり使わず、その事実に打ちひしがれながらの結論であります。

2007年11月18日日曜日

Yotsuba&!

  以前、ダンボーで書いたときに、そろそろ英語版5巻が発売されるといってました。実は、もう発売されています。メールボックスを漁ってみると、2007年10月23日に出荷されていました。もちろん到着が遅れたとかいうようなことはなく、一日二日で到着しているんですが、なんやかんやで後回しにしたら忘れてしまった、ってことだと思います。けど、手もとにはずっと置かれていたから、それでも忘れるっていうのはほんと、どういう料簡なんでしょうか。

さて、『よつばと!』第5巻は「よつばとダンボー」の回から始まります。ダンボーとはみうらと恵那によって作られた段ボール製ロボ。夏休みの工作の成果なんですが、実際問題として、小学生であれだけのものが作れたらすごいよな。いや、そうでもないか。肩まわりが凝ってるけど、全体的には段ボール箱のフォルムそのままなんだから、やってできないことはなさそうだ。なんてたって、みうらには恵那もついてるわけだものな。

英語版『よつばと!』は、各巻の収録内容をオリジナルに合わせているなど、非常に好感の持てる作りとなっております。なので当然5巻はダンボーの回から始まり、その名もYotsuba & CardboCardbo ! 私は以前corrugatedあたりをもじってくるのかなあなんていってましたけど、採用されたのはcardboardであったわけですね。だってよくよく考えれば、corrugatedは段、cardboardがボール紙。日本ではさして長い語句じゃないから段ボール箱っていっちゃいますが、英語だとcardboard boxだわなあ。というわけで、ダンボーはCardboになりました。めでたしめでたし。

で、もう一点。もうひとつ楽しみにしていた箇所がありました。それは、いきているからつらいんだ。もちろんこれは『手のひらを太陽に』がもとになってて、原曲ではここはそれぞれ「歌うんだ」、「悲しいんだ」、「笑うんだ」、「嬉しいんだ」であります。そうか一番第二ヴァースは「悲しいんだ」。だったら「つらいんだ」もさして外してはいないわけだな。確かに私も、いきているからつらいものなあ……。

英語にはどう訳されているかといいますと、歌詞をストレートに訳すという方法がとられています。We are all living ! And living is pain ! リビング・イズ・ペイン! いきているからつらいんじゃなくて、いきていることそのものがつらいんだ!

英語版第5巻では、日本語でないと理解しづらいものに関しては、註で対応するというポリシーであるようで、例えば星を見にいった回の正座であるとか(訳はkneeling)、てるてる坊主であるとか(teruteru bozuと記載)、まあこれらを英語に無理矢理訳すのも無茶でしょう。妥当なやり方だと思います。

けれど英語版を読む楽しみというのは、こうした日本独自のもの、あるいは言葉遊びなどがどう訳されているかというだけでなく、なんてこともない日常会話のやり取りがどういうふうに表現されるか、というところにこそあると思います。それはもちろんこの第5巻にもたくさんあって、お姉さんぶろうとしていることにたいする言及や気の早いねーちゃんだななどなど、それらは私なんかじゃ思いもつかない訳がなされていて、そうかこういうシチュエーションではこういう風にいえるのかと、すごく勉強になった。知るということは楽しい、そういう体験が翻訳にはあると思うんですが、それは紛れもなくYotsuba&!にも見られて、そしてそれは日本語版とはまた違う面白さを感じさせてくれるのでした。

  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 1. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 2. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 3. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 4. Texas : ADV Manga, 2007.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 5. Texas : ADV Manga, 2007.
  • あずまきよひこ『よつばと!』第1巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2003年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第3巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第4巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2005年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第5巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第6巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第7巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2007年。
  • 以下続刊

引用

  • あずまきよひこ『よつばと!』第5巻 (東京:メディアワークス,2006年),130頁。
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 5. (Texas : ADV Manga, 2007), p. 130.

2007年11月17日土曜日

ゼルダの伝説 風のタクト リンクの4コマ航海記

よし、なんだ、『風のタクト』も買っちゃおう!

実は、こんなこといっていたときには、すでに注文するのボタンを押したあとだったんです。かくして目当ての本は本日届いて、読みました。感想はというと、面白かった。絵の雰囲気はずいぶん違っている……、これは最初同時期に同じ雑誌で連載を持っていたからかと思ったんですが、どうもそうではないようですね。ゲーム内及びオフィシャルのデザインに則して書かれているようで、確かに見れば見るほどその通りという感じがします。ってことは、この漫画に描かれている内容もゲームそのままと考えていいのかな。 — いや、それはあるまい。だって、まさかこんなにもナンセンスで素っとぼけた雰囲気を持ったゲームじゃないでしょう。すなわち漫画の味はÖYSTERの持ち味そのものといえる。だから、きっとÖYSTERファンなら楽しんで読めることかと思います。

しかし、いきなりサブタイトルで笑わせるのはやめてください。ナニカ イウテクレヤ。ああ懐かしい。それにミンナニハナイショダヨ。こんなのファミコンキッズにしかわかんないって。果たしてメインの読者であるNintendo Kidsにはわかったのでしょうか。

ちょっと余談、思い出のファミコン [ゼルダの伝説]ってページがあって、そこにはちょっといいお話がいっぱいあって、父との思い出系はなんだか懐かしさと暖かみと、そしてほろりと切なさがしみてくるようです。たった一言の台詞、ミンナニハナイショダヨ — 。この一言で、もうはるか昔に置き去りにしてきたと思っていたものに再会できるのです。ゲームっていうのは、ただそのゲームだけで終わるものじゃない。ゲームを取り巻くいろいろ、友達や家族、あの時好きで読んでいた本やテレビ、夜寝る前に、わくわくと想像するゲーム内の世界もあれば、それを絵にして友達に見せたこともある。そんな具合に、ゲームにまつわる思い出がどっとあふれて押し寄せてくるんです。

ÖYSTERの『ゼルダの伝説』は、あくまでも『風のタクト』をベースとして描かれたナンセンスな四コマでありながら、同時に『ゼルダの伝説』第1作をも内包して、そこには脈々と続き、愛されてきた、ゲームとその広がりがつまっているんでしょうね。『Nintendo Kids』を楽しみに読んでいた子供たちは、私が『ファミコン必勝本』を楽しみに読んでいたように、この雑誌をくまなく読んで味わい、もちろんÖYSTERの漫画も楽しんだことだろうと思います。『風のタクト』をプレイした子も、未プレイの子も一緒になって読んで、ああだこうだといいながら、その風景を思い出に焼き付けていったのだろうと思います。そして、ÖYSTERが第1作にたいする愛惜をこめたこの漫画は、将来『ゼルダ』を愛する子供たちに懐かしく思い出されることになるのでしょう。

こうして積み上げられ、深まり広がっていく世界がある。その世界には確かに私もかつて参加していて、その思い出をともに今もなお繋がることのできる世界がある。それはただただ幸いなことであるなあと思います。

引用

2007年11月16日金曜日

ロワイヤル仏和中辞典

 昨日、『広辞苑』について考えてみて、改めて電子辞典の便利というものを確認したように思います。特にそれは、今私のしているように、コンピュータを用いて文章を書いているときにこそ意味があって、手を止めず語義を調べ、すぐさまエディタに戻ることができるという、その連携こそが便利なのです。思えば大学の論文をシステムソフトエディタでもって書き上げたあの時に、この便利を思い知ったのでした。『岩波国語辞典第五版』と『小学館類語例解辞典』が標準で付属していたエディタ、ショートカットで選択中の語を辞書に送ることができるのも極めて便利でありました。記録によればこのソフトを購入したのは1995年だから、12年にわたり『広辞苑』第4版を使ってるってことになりますね。そりゃ慣れるわけだわ。

さて、今日は日本語以外の辞書の話、フランス語の辞書について調べたことを覚書ほどにまとめてみます。

なんでフランス語なのかといいますと、私の第一外国語がフランス語だからでして、実はLeopardに日本語の辞書がつくときいたときに、当然フランス語の辞書もつくに違いないと勝手に期待して、そしたらついてこなくてがっかり。えー、フランス語ないんだ。ほんと、がっかりでした。

私はフランス語を読むにも書くにも、冊子の辞書を使っています。けど、できれば電子辞書を使いたいなあと思いましてね、DVD-ROM版『広辞苑』が呼び水になったわけですが、またこのタイミングでクリスマスのメッセージを和訳してよと頼まれたという、そういう偶然も手伝っていたりします。どうせなら、フランス語も便利に読めるようにしたいなあって思ったんです。

で、調べてみたんですよ。そしたらまたがっかりですよ。かつては隆盛を誇ったというフランス語ですが、今では悲しいかなマイナー言語であります。そうした状況が反映してか、現状購入できるフランス語電子辞書(PC利用のもの)はたったふたつしかないんです。ひとつは『クラウン仏和辞典 コンサイス和仏辞典』、そしてもうひとつが『プチ・ロワイヤル仏和・和仏辞典』。これ、両方冊子で持ってるや。まあそれはさておいても、ここでまたがっかりさせられることがありまして、クラウンはなんとWindowsにしか対応してないんだそうですね。もんじゅー、なんてこったい! マイナー言語フランス語を使う、マイナーOSユーザーである私には選択肢なんてないんです。

けど、Mac OSに対応しているプチ・ロワイヤルにしても、どうもLogoVistaのブラウザでしか開けないらしく、やっぱりうまくないなって思うんですね。LogoVistaの辞書はとにかくいろいろ出てるから、きっとこれで揃えたら素敵環境が完成するんだろうな、なんて予感がしますが、それは結局は今の環境とは別に新たな環境を持つということに他ならず、かくして私のコンピュータには、OSの辞書とegbridgeの辞書、そしてLogoVistaの辞書の三環境が揃うのでありました! ……みたいのはちょったやだな。ごちゃごちゃしすぎてる。

一番いいのは、EPWING対応のフランス語辞書を買うってことなんですが、というのはegbridgeの辞書ビューアはEPWINGの5版に対応しているものですから、私のニーズを満たすにはそれが一番いいのです。ですが、EPWINGの仏和辞典はかつて出ていた形跡こそありますが、現在は入手困難。なんだかうまくいかないなあ、なんてここでもまたがっかりするのでした。

けど、あきらめるにはまだ早いようですよ。なんと『ロワイヤル仏和中辞典』にはCD-ROMがついてくるそうなんですが、それをEPWING化するハックがあるんだそうですよ。そのためのスクリプトはロワイヤル仏和中辞典第2版変換スクリプトにて公開されており、そして私はこれを『ロワイヤル仏和中辞典 for Mac OS X』で知りました。おお、これ、素敵すぎ。EPWING対応の仏語辞書はないけど、いい感じのデータならある。じゃあ、自分で作っちゃえばいいんじゃない!? ってな発想はまさしくクリエイティビティにあふれる、素敵解決法です。しかし、こういう技術のある人は素晴らしいなと思います。これ見て、私、『ロワイヤル仏和中辞典』を買ってこようかなって思ってますから。しかし、ほんとに運のいいというか、こういうスキルのある人がフランス語をやっていたという、そういう巡りが本当に運だと思います。

2007年11月15日木曜日

広辞苑

 広辞苑』の第6版が出ますね。2008年の1月11日発売だそうですが、果たしてこれを買ったものか。ちょっと迷っています。前にもいったことありますが、私は子供の頃から『広辞苑』をメインの辞書として使ってきて、慣れというものでしょうか、いまだに『広辞苑』なんです。正直、『広辞苑』ばかりが辞書ではないぞとあちこちからいわれていて、私も実際そうだよなあと思ってはいるんですが、買う辞書といったら『広辞苑』ばかり。そりゃ駄目だよなあ。これしか買ってないから、辞書の比較なんてできやしないと、そういう悪循環にあるんです。

 けど、買っていないのは冊子としての辞書だけで、電子媒体となれば結構いろいろの辞書を使っているんです。国語辞典だけにかぎっても『新辞林』、『大辞林』第3版、これらはegbridgeに付属してたものですね。それと、Leopardには『大辞泉』が入ってます。これら全部使ってるのかといいますと、少なくともegbridge付属の辞書は使っています。付属の辞書ビューアには『広辞苑』第4版も追加していて、複数の辞書で語義を確認してなんてことは、やっぱり普通にやっていることなんです。

私は学生だった頃に『広辞苑』の第5版を買いましたが、正直これは失敗でした。失敗っていうのは、第5版が駄目っていうんではなくて、その形態です。私は第5版を冊子で購入したのですが、今となってはこれは使いにくいんですね。悲しくなるほど使っていません。例えば私が、コンピュータ使わず手書きするような人間だったら違ったでしょう。机に向かって、原稿用紙なりにペンだか鉛筆だかでがりがりと書きつけている、その傍らには『広辞苑』。絵になります。けど実際は、コンピュータに向かってテキストエディタに文字打つ日々であるわけですから、どうにも冊子の辞書の出番はなくて、それ以前に辞書置くスペースさえありゃしない。そりゃ駄目ですよ。折角の『広辞苑』も宝の持ち腐れになるってもんですよ。

だから、もし次買うなら電子版かなと思っていまして、そして『広辞苑』はついにDVD-ROMに。第4版では鳥の鳴き声が入っていた程度だったのが、第6版ではクラシック音楽や民謡まで収録し、さらには動画まで入っているんだそうですよ。けど、これハードディスクにコピーしても使えるのかな? いや、だって辞書にドライブ占拠されるっていやじゃんか。まあそんな頻繁にマルチメディアデータとやら参照するようなこともないだろうしいいんだけど、できれば丸ごとディスク上に置けるようだといいなあ。

『広辞苑』DVD版にはことといLightというビューアが同梱されているそうですが、多分私はこれを使うことはないと思います。よっぽど便利だったら別ですけど、普通の出来ならegbridge付属のビューアで充分です。複数の辞書を串刺しで検索できるのが便利、語義を知るにはやっぱり辞書ひとつでは足らんと思うこともありますからね。egbridgeのビューアでは人名や地名、季語、作品名といったものを絞ってひくことはできないと思いますが、別にそういう機能はなくても困らないし(実際、過去にそれらを使ったことはほとんどない)、だからもし『広辞苑』買っても、データこそは新しくなれど、その使用感は変わらずといったところかと思います。

で、問題は買うのかどうかってことなんですね。冊子の版は特別定価なんてのがあったりするようですが、DVDに関してはそういうのもないみたいだし、別に第4版で困ってるってこともないしで、本当、どうしたものか迷います。

  • 新村出編『広辞苑』普通版 東京:岩波書店,第6版;2008年。
  • 新村出編『広辞苑』机上版 東京:岩波書店,第6版;2008年。
  • 新村出編『広辞苑 第6版 DVD-ROM版』東京:岩波書店,第6版;2008年。

2007年11月14日水曜日

LaCie d2 Quadra Hard Drive

こととね本家でもお伝えしましたが、先日購入したiMac用に、新しくハードディスクドライブを買いました。というか、本体到着以前に注文していました。このタイミングで買ったのは、ひとえにTime Machineを試してみたかっただけであるのですが、それだったらBoot Camp試すためにWindowsも買えよとかいわれそうですが、Windows用ノートを持っているから、それはいいです。それにどうせWindows動かすなら、デュアルブートじゃなくて仮想環境でやりたいです。ParallelsとかVMwareとか。って、今日はそういう話ではないのでした。

Time Machineを試したい一心で買ったみたいにいっていますが、ただ試したいっていうだけだったらきっとこんなに急いで買ったりはしなかったと思います。なのに、それでも買ってしまったのは、Time Machineがバックアップソリューションであったからだと思います。ローカルのデータをバックアップし、いざというときに備える。なにしろ、その時がいつ訪れるかなんてわかりませんからね。それこそハードディスクなんてものは、いつ何時壊れるかわかりません。壊れてから、ああ、バックアップとっておいたらよかったと思う。そういう状況を仕事上何度も見てきて、だからバックアップを簡単に使いやすくしましたという触れ込みのTime Machineには期待していたのです。それこそ、Leopard搭載のどの機能よりも楽しみにしていたと、そういって間違いありません。

なのでiMac注文に引き続いてハードディスクも注文して、そしてそれがなぜLaCieだったのかというと、FireWireで繋ぎたかったからで、驚いたんですが、今国内のメーカーでFireWireを付けてるハードディスクって見当たらないんです。もっとちゃんと探したらあったのかも知れませんけど、ざっと見たくらいでは見付けられなくて、だからApple Storeも扱っているLaCieを選択したのです。d2 Quadraにしたのは、FireWire付きで手ごろなのがこれだったからっていうだけ、そんなにたいした理由があったわけじゃありません。

FireWireで繋ぎたいと思ったのは、USB2.0に比べFireWireの方が速度で勝るらしいからというのが一点。もう一点は、FireWireの方がマシンへの負荷が低いと聞いたものですから。そして最後に、もうUSBの空きがないんです。ハブ使えばいいだけの話ですが、どうしても本体直結にしたいものがあったものですから、追加のハードディスクはFireWireに決めたかったのです。

さて、LaCieのQuadraですが、これ、想像以上にボディが頑丈で驚きました。鋳物ですか? 金属ボディのディスクドライブって、結構ぺらいのを想像していたんですが、全然そんな予想とは違っていて、めちゃくちゃ重いし、うわあすごいのきてしまったなあと、ちょっととまどいました。これってホームユースじゃなくて、事業者とかをターゲットにしてるんじゃないかって。けど、頑丈であることに越したことはありません。これはこれでわりと気に入っています。

LaCieのd2シリーズは、専用のラックを使うことで、四台横積みにできるのだそうですが、まあ今は一台しかないから普通に立てて使っています。本体の上下に溝が付けられていて、ここにレンチでこれまたずしりと重い足を付けてやるのですが、結構な安定感が得られます。Time Machineでの使用に関しては申し分ないという感じで、ちょっとディスクのアクセス音はごりごり大きいように思いますが、常時アクセスしているわけでもないから特に気にしません。あんまりハードに書き込み読み出ししているわけでもないからか、それほど熱を発しているようでもなく、普通の使い方において問題の出るようなことはなさそうだ。ちょっと高めだったけど、悪くはなかったとそういう印象です。

あ、そうそう。付属のCD-ROMにアプリケーションが入っているのだそうですが、私はそれらは使ってないので、どういうものかはわかりません。ケーブル類は全種付属(eSATA、FireWire 800、FireWire 400、USB)していたので、しばらくケーブルに困ることはなさそうです。

2007年11月13日火曜日

武者武者道中ティラの介

 なんか、双葉社さんが粋な計らいしてくださったものですから、私の方でも、ÖYSTER、二日連続で取り上げたいと思います。どういうことかといいますと、以前『Nintendo Kids』という雑誌に連載されていた『武者武者道中ティラの介』が『光の大社員』と同時発売、なのだそうでして、私、この連載のこと知りませんでしたから、ちょっと興味があったのですね。ずっと以前にいったことがあったと思いますが、私は作品につくというよりも作家につくタイプのファンでして、この作家いいなと思ったら、過去作品に遡りたくなる性質があるんです。そんなわけで『ティラの介』は渡りに船でした。よし、なんだ、『風のタクト』も買っちゃおう!

『ティラの介』はキッズ向け、さらに恐竜のお侍さんが主人公ということで、やっぱりちょっと心配しまして、ほら、対象年齢ってものがあるじゃありませんか。私はわりと低年齢向けでも読んじゃいますが、けどやっぱり限界というのもあると思います。もしあまりに『ティラの介』が低年齢層を対象にしていたらば……。けど、これもやっぱり杞憂でしたね。後書き読めば「低年齢向け」に徹し切れなかった点は、こちらの力不足と認識不足、反省してしておいでのようなのですが、そのおかげといっていいのでしょうか、私のようなとうの立ったものでも楽しく読める漫画に仕上がっていました。全体にはシンプルで楽しい活劇、私の知っていたÖYSTERではちょっと見られなかったようなのりがあって、意外というか若いというか、いや、これが少年向けってことなのかな? そして、やっぱり端々にちょっとシュールだったり、ひねったような、いや表現はあくまでストレートなんですけど、そういうおかしみもありまして、買ってよかった、読んでよかった、そういう実感の得られる漫画でした。

さて、ここからまた馬鹿な話。

結局、この人の描くヒロインっていうのはとてつもなく魅力的なんですよ。おきゃんで明朗、わりとしっかり者、ほんでもって結構ピュアなところもあって正義漢。いや、ヒロインに正義はないか。いや、ヒロインにかぎることでもないか。

この作者、ÖYSTERは、『光の大社員』の時から思っていたんですけど、真面目でまめでまっすぐな人なのかなあなんて、そんな感じがするんですが、さっぱりした気質っていうの? とか思ってたら実は人情派みたいな? いや勝手に思ってるんですけどね。でも、漫画の登場人物見てましたらさ、そんな風に感じてしまうんですよ。ヒロインのスズシロもそうだし、ティラの介もそうだわね。なんかみんないいやつそうで、けど真面目一辺倒のこんこんちきなんて風は一切なくて、人間臭さっていうか、人の完全じゃないってとこが出てるように感じられて、そんなところがすごくいいなあって。だから私がこの人の漫画、ひいてはこの作者を好きだと思うのは、漫画という表現をとおして感じられる人柄みたいなものもあってのことかなって思っています。

この、まっすぐで真面目そうで、けどお茶目だったりやんちゃだったりもするって雰囲気は、キッズ向けとしてはなかなかによかったんじゃないですか。余韻とかっていわれると私もよくわからないけど、安心して楽しんで帰ってこられるみたいな、そういう空気はすごくよかったと思います。

あ、そうそう、これいっとかなくちゃ。お蕎麦が食べたくなりました。明日のお昼はお蕎麦にしよう。

引用

2007年11月12日月曜日

光の大社員

 普段は四コマなんて置いていない書店なのに、なぜか二冊入荷していた『光の大社員』。買ってしまいました。というと、ちょっと嘘ですね。別にその本屋に入ってなくっても買うつもりでしたから、なに買った書店がちょっと変わったってだけの話ですよ。とにかく今日寄った最初の書店で見付けて、どうもこうもなく買ってしまって、それはそれだけ早く読みたかったってことだといっていいかと思います。毎月の『まんがタウン』でかかさず読んでるというのに? 第1巻収録内容にしても、余さず読んでいたというのに? そう、読みたかったんです。なにをおいても早く読みたいと思ったんです。

そして、これがまた面白いんです。どこが面白いかといわれるとちょっと困ります。言葉やロジックを越えた面白さがあるんです。ストレートに変化球を投げ込んでくるとでもいったらそれっぽいでしょうか。真面目な顔をしてどこかずれたことをいって笑わせる芸というのがありますが、それをきっぱりとメリハリ付けてはきはきやっている感じなのです。結果として表現は恐ろしくナンセンスなものになって、はまればちょっと我慢できないほどに鮮烈。電車の中で読んではいけない、人前で読むのも避けたほうがよい。けど、この面白さは誰かに伝えたくなる、誰かと共有したくてたまらなくなるんです。ぬううッとか、『大社員』ファンならきっとこれだけで笑ってしまうはずで、しかもこの笑いの手法は伝染するとでもいうのか、日常のひょんな拍子に自分の口から出てしまいそうで危なくってしかたがないんです。破壊力そして伝染性をもった、シンプルにしてシュールな日常ギャグが、とにもかくにも強烈。描写はむしろスタティックなこの漫画が、こんなにもダイナミックであるのはなぜだろう。そう自問してしまうくらいにインパクトがあるのです。

けど、実はちょっと単行本で読むことを心配している節もあったのでした。単発のギャグが鋭い漫画って、まとめて読むと微妙だったりすることってありますから。けど、これはまったくの杞憂でした。まとめて読んでも面白い。というか、連載では気付かなかった長距離のパスなんてのがあって、そうか、あの時のネタを継承しているんだ! とはたと気付けばなおさら面白さはいや増すわけです。いやはや、私はなにを心配していたんだろうと、自分で自分がおかしくなります。

ここからは、馬鹿な話。いや、さっきまでのもたいがいだったけど、これから下はそれ以上。一応警告しましたからね。

私はどうも眼鏡をかけた女性が好きなのですが、そうですね、秘書のちはるさんのことです。いつもふざけている社長をしかってばっかりのちはるさん、ああ私もあんな彼女にしかられたいものだなあと、世の健全な男子なら誰もが思うところでありましょうが、そのちはるさん、なんとオフでは眼鏡オフ。しかもそれがべらぼうに可愛いってどうよ!

かくして、私は眼鏡必須ではないということがわかりました。いや、眼鏡にはもう何年も前からこだわっちゃいないので今更なのですが、一応はっきりさせておきたいかなって。

ついでに。主人公光とそのライバル伊達の先輩であるたまきさん。この人がまたどえらい可愛くって、ちょっといたずらっぽいんだけど、やっぱり先輩だからか年上の余裕みたいのが見え隠れしてもう最高だ。それに基本温厚ほがらかなのに、しばしば副部長に厳しくしてたり、後輩たちの無軌道ぶりに驚きながらもクールに突っ込み入れたりして、とにかく表情豊か。横長テレビの猫を見て、猫はちょっと太ってかわいくなってたの!!って、かわいいのはお前だーッ。って、ごめんなさい。最近疲れがとれないせいか、今日はちょっとどうかしてました。すいません。

  • ÖYSTER『光の大社員』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2007年。
  • 以下続刊

引用

  • ÖYSTER『光の大社員』第1巻 (東京:双葉社,2007年),99頁。

2007年11月11日日曜日

FRONT MISSION ― THE DRIVE

 FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLE』が思いのほかに面白かったものだから、前作というべきか関連作といったほうがいいのか、『FRONT MISSION ― THE DRIVE』も読んでみたのでした。作者は『DOG LIFE & DOG STYLE』に同じく太田垣康男で、ただ作画が違います。とはいっても、あまり気になるものではありませんでした。両者ともに緻密にしっかりと描くタイプの画風だから場の雰囲気をよく伝えて、ただ違うとすれば、『THE DRIVE』の方が多少泥臭さを感じさせていたかなと。いや、これは欠点といってるのではなくて、この漫画においてはむしろ武器であったと思っています。密林における少人数でのゲリラ戦、自分のための場を組み立て、ヒーロー然と活躍して見せる暁隊長の重厚さがよく表現されていたと思います。

『DOG LIFE & DOG STYLE』はゲーム『フロントミッション』の舞台を膨らませながら、社会情勢ひいては戦争という現実に関わらざるを得なかった人間を描こうとするかのような、そういう感触がありましたが、だとすれば『THE DRIVE』はまったくもって逆であるといっていいのではないかと思います。確かに『THE DRIVE』においても、ハフマン島入植の風景であるなど、FM世界を広げる想像の豊かさは見られますが、けれどフォーカスはそこには当たっておらず、そう、フレームの中心には遊撃部隊を率いる男一匹暁隊長がどしんと立っているのです。戦争のリアルさよりも、戦闘において圧倒的な強さを発揮するヒーローものとしての爽快さが持ち味。すべては男暁の強さを見せつけるために用意されているかのようであります。

例えば、冒頭、敵歩行戦車(クリントン型?)に単騎絶望的な戦いを強いられている兵士の描写などがそうで、狭いコクピットの中、吐瀉物排泄物にまみれながら戦うという、人間の泥臭さ、極限に追いやられれば格好良さや華麗さなんてはぎ取られてしまう — 、そしてこれが前線の現実なんだぜといいたげなる一連のシーケンスの後に、我らが暁愚連隊の登場です。これが、とんでもなく強い。圧倒的といっていい強烈な強さを見せつけて、彼らの戦場には件の兵士がまみれた現実の泥臭さなど微塵も関係しないのだと告げるかのような幕開け。そう、オープニングの時点で、この漫画はファンタジーであると明確にされるのです。読者は、彼のために用意された舞台にて、華麗に、果敢に、過激に戦う暁の雄姿を見て喝采を送ればいい。そして、このヒロイックな戦闘の様というのは、『フロントミッション』というゲームの一種側面であるのです。

以前、いっていたことですが、FMではキャラクターが育ちすぎるのですよ。突出して育ったパイロット、彼彼女を戦場に投入すれば、面白いように敵は片づいて、まさしく彼らのための舞台といえる、そういう場が出現するのです。下位中位のパイロットが苦戦している現場に駆けつけては、華麗に敵を屠っていく。か、かっこいい! たとえ敵に取り囲まれたとて、返り討ちにしてやる、かかってこい! てな、そんな感じ。だから、暁隊長の強さはあり。というか、まさしくFMの戦場というにふさわしい活躍で、おっさん、やり過ぎ、とは思うけど、それが許されるのがFMなんだもの。素直に、かっこいいわといってしまいます。

FMは多様な武器が用意されていますが、いまいちそのメリットがわからないショットガンや火炎放射器、そういった武器の見せ場が用意されてるのがまた面白かったと思います。私はそのビジュアルの面白さを味わうために、必ず火炎放射器装備のバンツァーを用意するようにしていますが、だからなおさら味わい深かった。一巻もので、ちょっと短かった嫌いもあるけれど、逆に全速で走りきれたということもあろうから、『THE DRIVE』はこれでよかったのだと思います。むしろ、彼らの活躍をもっと見たいなあと思った、その一点でこの漫画の面白かったことを伝えられればと思います。

  • 太田垣康男『FRONT MISSION ― THE DRIVE』studio SEED作画 (ヤングガンガンコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2007年。

2007年11月10日土曜日

ママさん

 以前山田まりおで書いたとき、水島さんからくらオリの『ママさん』面白いですよと教えてもらいまして、ちょっとずっと気にしてきました。そして、先月、ついに『ママさん』が単行本となって発売されて、買ってみて、読んでみて、確かに面白い。これまで読んできた山田まりおとはちょっと違うのだけれども、面白さの核にあるものはやっぱり山田まりおだとうなずけるもので、らしさを維持しながらも新鮮な見せ方をしてくれるというところに、この人の実力というものを感じたように思います。

『ママさん』は、血の繋がらない母と息子を描いて、若くて美しい母、そしてそんな母にほのかな思いを抱く息子。ある種、王道といえるシチュエーションであると思います。私がこの漫画に新しい山田まりおを感じたとすれば、おそらくはこの王道でしょう。クールでちょっとシリアスな色を見せる息子アキト、彼を見ている限り、この漫画がいつもの山田まりおらしさに染まるようには思えなくて、むしろ彼の迷いのしっとりと切なく甘美であることに私の興味は傾きを見せるのです。とはいえ、やっぱりこれは山田まりおだから、そうした傾きばかりに浸るというのも無理な話で、やってくれるわあと笑いっぱなしになることも少なくない。こういう多面的な読み方ができるというのは、『ママさん』の魅力であると思います。

やっぱり山田まりおだと感じる、その要素とはなんであるのか — 。それは、的確な変な人表現であると思います。基本的に山田まりおの描く人物は変な人であるとか、迷惑な人であるとか、そんなんばっかりなんですが、そうした持ち味はこの漫画にも健在なんです。ヒロイン和美さんの常軌を逸したマイペースもそうといえるかも知れませんが、そんなのはまだまだ序の口で、極め付けはお隣でありアキトの同級生でもある若葉の母親であるといっていいかと思います。基本的に、彼女を出すと落ちるんです。それくらいの強烈さを持っている、雰囲気は実に昭和、世に言うおばさんなるものを濃縮したようなキャラクター、こういっちゃあなんですが、思春期の少年が自分の母親に感じる恥ずかしさっていうんですか? そういうのを如実に感じさせてちょっと見てていたたまれない。ああ、山田まりおはわかってるわー、そういう思いににやりとしますね。

変わった人はまだまだ出てきて、それら一人一人はちょっとあり得ないくらいの変さなのですが、そのありえないというのは程度の問題で、変さの質においては、ああ、こういう人っているよねと思わせるに足るリアルさがあるんです。そんなやつおらへんで — 、けどああいうタイプの人はいるよね……、みたいな感じ。性的なものを徹底的に忌避しようとする玉美だって、あそこまでじゃないけど実際にいる。若葉の母親や小池の母親にしても、ああいう人はいる。玉美の息子に関しては確実にいる……。若葉や小池の母親は、息子娘の目から見た母親、つまりさっきもいった思春期の少年少女特有の自分の母親への視線がフィルターとなって、常よりもなお過剰な表現になっているってだけの話。そうした表現の巧みさが、山田まりおの持ち味を決定づけているのだと思います。

変な人表現は主に母親たちが担当しているからか、高校生サイドはわりと普通の展開を見せたりして、小池あかりの恋心とその作為なんてのはさりげなく効いていていい感じです。かと思えば、若葉なんかはひどい目に遭わされっぱなしで、けど彼の宿命というべきか、ああいうネタは私大好きです。玉美さんと一緒に、とことんまで突き抜けていただきたいものだと思っています。そして、巻末特別編にはやられました。ずるいよ、山田まりお。なんか、じんときちゃったじゃんか。

私はこの人のこと、天才肌のギャグ作家だと思っていたんですが、とんでもない、多彩な表現力、多面的な魅力を持った、まさしく地力のある人であるんですね。恐れ入る次第です。

蛇足

血の繋がらない母と息子 — 、まさに王道、なんていっていましたが、山田まりおは、血の繋がらない父と息子 — 、まさに王道、な漫画も書いているんですね。山田まりお、実に多彩!

こ、こっちもちょっと読んでみようかなあ。

  • 山田まりお『ママさん』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2007年。
  • 以下続刊

2007年11月9日金曜日

ひいばぁチャチャチャ!

 久保田順子は『おこしやす』以来、いい風を捉えていらっしゃるようですね。『おこしやす』が受けたのは、京都という土地に残る風物やしきたりの向こうに、最近では感じにくくなった昔ながらの関係を見付けてしまうからかなって、いわば京都という異郷にノスタルジーを感じるからだと思うのですが、だとすれば『ひいばぁチャチャチャ!』の魅力というのはなんでしょう。曾祖母とひ孫の女ふたりの暮らしの景色を描いた漫画です。派手さはなく、むしろ穏やかな時間の流れを楽しむような漫画で、けれどただ穏やかというだけではないと思います。

それは、曾祖母とひ孫が互いに思いあっている暖かさのためかなと思うのです。ひいおばあちゃんはやっぱりひ孫のさゆりが可愛くて、さゆりのためにといろいろしてくれる。そして、さゆりもひいおばあちゃんが大好きで、時には心配し、時には助けになりたいと思って — 、こういう肉親の情というものがベースにあるから安心できる、そしてそうした暖かさが穏やかさに相まって、この漫画を読んでいる私を嬉しくさせるのだと思います。

これがベースだとすれば、表にはひいおばあちゃんとさゆりのジェネレーションギャップのおかしみがあって、けど世代の違いがただ提示されておかしいというのではなく、意外に気の若く、いろいろと新しいことにチャレンジし、さらにはさゆりの彼氏にも接近してしまっているようなひいおばあちゃんが可愛くて面白いんですね。しゃんとして、いろいろ知っていて、そして優しいおばあちゃん。私の祖母はもう亡くなってしまいましたが、子供時分、祖母に会うときはいつも嬉しかったなと思い出して、そういう懐かしさが再生されるようなのです。

思い出がこの漫画の価値を決めるのかといわれれば、そういうわけではないと答えます。けれど、少なくともこんなだったらいいなと思うような理想の関係があって、そうしたよい関係が紡ぐ暮らしの楽しさがなんだかすごく心地いいのです。

2007年11月8日木曜日

リトルプリンセス — 小公女

 私はわりと古い人間で、最近の話題、集英社文庫が大宰の『人間失格』の表紙を小畑健に書かせてみたってやつ、結果的に大当たりとなったわけだからそれはそれで意義深いことだと思いながら、どこかに釈然としない感情を抱えていたのです。大宰という文豪の作品に漫画家ごときのイラストなぞを、なんてことはさすがに思わないんですけど、なんか古典ものはポップになっちゃいやだと思っているようなのですよ。そんな私の傾向は高校生の時分にはもうはっきりとしてあって、まだバブルの残照が色濃い時代でした。角川の出していた漱石の文庫、表紙がわたせせいぞうだったんですね。なんてこった! いや、おしゃれで悪くはなかったんですけどね、けど私の買ったのは岩波の文庫でした。私は意固地な、つまらない人間なんです — 。とかいいながら、書店、児童書のコーナー、平に積まれた『リトルプリンセス』を見て、表紙にひかれるままに買ってしまったのですから、ああなんと私の首尾一貫しないことよ! 人間とはかくも矛盾をそのうちに抱えて生きるものなのですね。

 『リトルプリンセス』というのは、かつては『小公女』と訳されてた本ですね。それが、装いも新たになった。ちなみに、青い鳥文庫の旧版の表紙は全然違っていました。申し訳ないけど、この表紙だったら買わなかったろうなあ。きっと私は、偕成社あたりを選んだろうと思われて、そうなんですよ。基本的に私は保守的なのです。児童書となると、偕成社だとか福音館だとかを選びたがって、ちょっと昔っぽい雰囲気、そういうものを求めたく思っているようなのです。

でも、青い鳥文庫を買った。しかも表紙が決め手となった。訳者は曾野綾子。名前に覚えあり、この時点で躊躇はなくなって、そしてこれが私のはじめての『小公女』となりました。 — 実は、名作劇場とか見てなかったんですよ。だから、ミンチン先生とかそういう名前が出てきても、それがどういう人であるか、まったく知らなかったのです。そもそもなぜ彼女が小公女、リトルプリンセスと呼ばれたのかさえも知らず、まさしくまっさらな気持ちで読むことができました。

そして、ちょっと感動してしまいました。

真っ当な筋、善い行いと悪い行いがわかりやすく対比されていて、主人公は一貫して善き人であることを求められる。実に児童文学らしい、というかバーネットらしいというべきかも、そういうお話でありました。けど、こうした素直さ、まっすぐさっていうのはむやみやたらと効きますね。ミンチン先生はひどい人! 彼女のセーラに対する扱いったら! これを、十九世紀当時の福祉の問題と見るか(現実はもっと過酷だった)、あるいはこういう物語が与えられた良家の子女について思いをはせたものか、それはある種自由であるとは思うんですが、けどここで語られているような問題、人はどのような境遇にあっても驕らずくじけず、高貴であらねばならないということ、弱きものがあれば助けの手を差し伸べるということ、noblesse obligeについての諭しがじんわりと効いてきますね。こうした物語は、高い階層における家庭教育に役立ってきたのだろうなと思わされて、私なんかは野蛮な子供時代、決して裕福な家庭にあったわけではないですからね、なんだい結局ハッピーエンドなんだろ、なんて思ったりしそうになりますが、こういう僻み方する時点でもう失格なんだろうなあ。いや、私は基本素直だから、そんなこと思いませんでしたよ。というか、もうたいがい大人ですし。

けど、大人であっても、セーラの境涯の変転にはやきもきするところがあって、児童書を読むというのは、大人の判断を捨てきれないまでも、子供の頃のような感じ方を取り戻す体験であるのだなとつくづく思います。先ほどもいいました、ミンチン先生に対しては憤慨しました。セーラとベッキー、アーメンガードの途切れぬ友情にはなんだかほろりとしました。逆境にあっても凛々しさそして優しさを失わないセーラには私自身がはげまされるように感じたものだし、そしてあの悲しい夜に起こった魔法のような出来事にはわくわくと楽しさをつのらせて、そして奇跡のような巡り合わせにはほっとした気持ちでした。その時々の感情がいちいち素朴で、純粋で、ああ私もかくあらねばなるまいなと思ったのです。セーラの立派な振舞いに心打たれたパン屋のおかみさんがそうであったようにです。

ノーブレスオブリージュとはいいますが、決して高貴であるとはいえない私にしても、できることはあるのだろうと思う、そんな読後感があって、それは最終章「アンヌ」の残した印象によるのかも知れないと思っています。幸いで、そして将来へ向けての広がりを持った、そういう終わり方です。そして、私たち大人は、セーラのなそうとしたことが真に達成していないことをよくよく知っているはずなんですね。

だから — 、といえばあまりに理想的すぎるように感じてしまいますけれど、現実を前に忘れてしまいがちな理想を思い出させるために、児童書はあり続けるのかも知れません。そうでなければ、大人が児童書を読む意味などないではありませんか。なので、私はそのだからの先を模索しなければなるまいと思っている最中なのです。

2007年11月7日水曜日

あさぎちゃんクライシス!

 『あさぎちゃんクライシス!』は、エキセントリックな作者が描いた、エキセントリックな漫画です。もちろん登場人物も皆そこはかとなくエキセントリックで、でもあさぎちゃんは最初それほど変わり者でもなかったはずで……、感化されたか。この漫画の主人公は、タイトルにもあるようにあさぎちゃんなんだけれど、存在感というか、キャラクターの特異さでいうと、やっぱり河野先生が一番主人公らしいのではないかと、そんなことを思ってしまうのです。河野先生、大学生であさぎちゃんの家庭教師。男前なんだそうだが、持ち前のエキセントリックさが全部ぶち壊していると思います。趣味は東洋医学、鍼灸の知識を振り回しことあるごとに実践しようとする危ない人なんだけれども、この漫画を読んでいる限りでは、鍼灸の実践を口実にあさぎちゃんにセクハラするのが趣味なんではないかという気が……。『あさぎちゃんクライシス!』とは、そういう漫画であります。

といいきっちゃったら、ちょっと嘘になるんですが、だってあさぎちゃんは河野先生にツボ押されるの嫌がってないから、セクハラにはならない — 、じゃなくて、別にこの漫画はそうしたセクハラめいた、といったら語弊があるけど、そういう要素を売りにしているわけではないんです。じゃあなにが売りなのか。エキセントリックでしょう。河野先生のエキセントリックがまず最初にあって、先生に振り回されるあさぎちゃんを楽しむというのがまずひとつ。それが次第に、あさぎちゃんとその友達二人との、微妙にはずれていく会話の模様を楽しみ、また河野先生とその友人二人との、微妙に暴走しながらおかしくなっていく会話を楽しむ。そうなんですね。やっぱりエキセントリックなのです。エキセントリックな三人組は次第に接近して、今では互いに混ざり合いながら、また違ったおかしさを醸し出して、中学生(途中高校に進学します)と大学生の、ややもすればぐだぐだになってしまうやりとり、そこに面白さがあるんだと思うんです。だから、多分徹夜明けとかに読んだら、めちゃくちゃ面白いんじゃないだろうか。私はまだ試したことないけど、そんな気が非常にします。

けれど、『あさぎちゃん』のおかしさって、多分に作為的。彼らのエキセントリックさっていうのは、エキセントリックを演出しているところが感じられて、そういう意味においては、この漫画にはいわゆる天然はいないのだと思うんです。まあ、天然だから体にいい、じゃなくて、面白いっていうわけでもないのは周知の通り。特に弓長九天に関してはそうで、『さゆリン』でもそうでした。どこをどうとっても冗談なんだけれど、どこまで本気だかわからないといった、曖昧な領域に生じるおかしみ。『さゆリン』ではそうした要素はヒロインであるさゆりに発していたのですが、『あさぎちゃん』では登場人物がそれぞれに得意な曖昧領域をもって、せめぎあっているのだと思います。突っ込みを入れようとなにをしようと、彼らのマイペースのりは止まらない。対話が成立しそうでしない、かといって破綻するでなくぎりぎり維持されている、そういうグレーゾーンに迷い込んで面白がれる素養のある人には、きっとこのうえなく楽しい漫画であるのではないかと思います。

さて、のっけから散々エキセントリックといいまくっていますが、この漫画においてもっともエキセントリックなのは、疑いなくあさぎの母であると思うのですが……、どうでしょう。これに関しては、おそらく皆様ご同意くださるのではないかと思います。

2007年11月6日火曜日

FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLE

 以前、『アーマード・コア』のコミック化に対して、これが『アーマード・コア』ではなく『フロントミッション』だったらよかったかも知れないなんていっていました。あまりにストイックであるACではなく、FMならこうした成長物語も充分に内包できるだけの膨らみがあるんじゃないかって、そういうことをいいたかったわけです。そして、多分それはあながち見込み違いではなくて、先日見付けた『FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLE』、これが実によくできているんですが、『フロントミッション』というシミュレーションゲームの漫画化にして、ただの漫画化ではないなと、そんな風に思わせるものであったのです。FMの世界、設定、歴史もろもろを、ただ利用するだけでなくてよく膨らませている。ああ、入魂であるなあと、そんなことを思わせる出来でありました。

『フロントミッション』はゲームとしてはシミュレーションでありますが、別の切り口から見ればロボットものであります。戦場にて巨大なロボットを駆り、敵部隊を打ち破る — 。そうした性格を持つFMを漫画化するにあたり、あえて戦争の当事者を主役にしないというのはちょっとした驚きで、FM、懐深いなあ、というのが正直な感想でした。主人公はハフマン島に派遣された特派員。ハフマン島とは、二大連合体がぶつかり緊張高まる、まさに火薬庫といえる土地であり、そして紛争の火ぶたが切って落とされた — 。これって、第1作のシチュエーションそのままじゃないですか。そうなんですよ、本編では語られなかったバックグラウンド、社会情勢というものをここに描いて、ありそう! というリアルさをぷんぷんさせているのです。そして、そのリアルさというものは、イラクにおいておこなわれた戦争を想起させ、平和な状況に浸って安穏と暮らしている私たちに対する皮肉、当事者となりえないことを知っている人間の傲慢さをあげつらうんですね。うまい、うまいわ。

戦争を、巻き込まれたものの視点から描こうとした「戦場の透明人間」、兵士として戦場に赴く男を描いた「防人の詩」、どちらも独特の雰囲気、ありそうな感じを匂わせて、漫画としてすごくよくできていると思いました。ロボット戦を描きながら、ともすると抜け落ちてしまいがちな、その背面にある人間を描こうとしていて、そしてそれが嘘っぽくならない位置に落ち着いているのです。ただ、そうした描写がうまいために、どうしてもこもらない現実味、アクチュアリティの薄さが際立ってしまうのが残念で、惜しいですね。けど、この漫画に真実味がこもってしまったら、正直きつくて読んでられなくなると思う。だから現状のままで、エンタテイメントにとどまってるほうがいいのかなと思ったり、ほんと私ってやつはとことんわがままです。

『DOG LIFE & DOG STYLE』が、ここまで自由にFM世界を描くことができたのは、『THE DRIVE』があったおかげなのかも知れませんね。私はこれ読んでいないのですが、あおりを見る限り、期待されるべく、期待されるような内容を持っているようで、そしてその内容というのが、おそらくは広く受け入れられるだけの質を備えていたのでしょう。だから、ちょっと読んでみたい。読んで、それから『DOG LIFE & DOG STYLE』を再読してみたいなどと思っています。しかし、それにしてもFMはよく育ったものですよ。ゲームとして設定を積み上げてきた、その成果のひとつがこの漫画かと思うと、たいしたものだなあと、心の底から思います。

  • 太田垣康男『FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLE』第1巻 C. H. LINE作画 (ヤングガンガンコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2007年。
  • 以下続刊
  • 太田垣康男『FRONT MISSION ― THE DRIVE』studio SEED作画 (ヤングガンガンコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2007年。

2007年11月5日月曜日

銀河鉄道の夜

  本日、タイトルこそは『銀河鉄道の夜』ですが、実質『DS文学全集』の続きと捉えていただくのがいいのではないかと思います。いやね、面白そうというのなら、口先だけじゃなくて実際に触れてみなよ、っていう声が聞こえたような気がしまして、それで電器店に顔を出してみたんです。買ったのか!? というとそうではなく、ほら、店頭にDSステーションってのが置いてあるでしょう。そう、DSダウンロードサービスですよ。今一押しの『DS文学全集』なら、きっと体験版が用意されてるはずだって思ったんですね。そしたら、ドンピシャ。ありましたよ、ありましたね。『DS文学全集』から4タイトル、ダウンロード可能になっていたのでありました。

して、そのタイトルとはなんだったかといいますと、芥川龍之介『羅生門』、太宰治『人間失格』、樋口一葉『たけくらべ』、宮澤賢治『銀河鉄道の夜』であります。なんと、全部持ってるよ。参ったな。『羅生門』なんて、あの下人が門に上がろうとするとき、太刀が鞘走らないよう押さえて云々というくだり、諳んじるほど読んだものよのう。樋口一葉読んだのは、大学生の頃でしたか。あの連綿の文字の流れる様を思わせる文使い、ありゃあ美しかった。とここまで書いて、『人間失格』は読むには読んだけど、あんまり覚えていないな。大宰にかぶれた時期があったんでこざんすよう。そんときに、文庫手当たり次第に買ってきて、片っ端から読んだら、中身がいまいち区別できなくなってしまって、ああ、また読もう。近々読もうと思います。

今回、私のダウンロードしてきたのは、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』であります。今更説明する必要もないほどのタイトルでしょう。私はこれを、子供向けのなんかで読んで、その後新潮文庫を手に入れて読んで、ついには全集に手を出して読んで、そんだけ読んでてまだ読み足りないんだ。いや、足りないってことはないですけど、でもね、本って読んだらそれで足りるってもんじゃないでしょう? 特に、宮澤賢治みたいなものはなおさらで、読めば充足します。けれどまた時に触れたくなる。本にせよ、なににせよ、素晴らしいものっていうのはそんなもんじゃありませんか。ええ、なにか機会があれば触れたくなる、そんな魅力があるんです。

『DS文学全集』は、思っていたよりも好感触でした。読み込まれたデータを開くと、左側に文庫を思わせる表紙が写って、そこには帯までついている。笑っちゃうのは、その帯なんですが、表紙めくったら、ちゃんとカバーと帯の折り返しがあるんですよ。なにこの凝りよう。くすっと笑ったけど、これって、DSをただの電子ブックリーダーにするんじゃなくて、なるたけ本の本らしさを残そうとしてのことですよね。正直、好感触でした。表紙めくってのタイトルページも凝ってて、実に文庫らしさ感じさせる趣です。『銀河鉄道の夜』は『DS文学全集』の第89巻なんですね。それに、文庫のマークが桐でして、ほら花札の。任天堂っていったら昔は花札やらトランプ作ってたメーカーで、桐の札にはメーカーの名前が入ってるのが常だから、任天堂、花札とくれば、桐が思い浮かぶというもんです。いかすわあ。こういうちょっとした遊びを忍ばせてくれてるところ、小憎らしくていいですね。

読んでみた感触は、悪くないです。もっとレスポンス悪いかと思ってた。それこそ、うまくページをめくれない私の乾いた指先を思うと、確実に一ページずつ繰れるこちらの方がいいのかも知れない。ページめくるのに十字キーが使えるから、片手でホールドして、そのまま読める。満員電車で片手は吊り革つかんでみたいなシチュエーションだと、絶対こちらの方が読みやすいと思います。文字も見やすいし、ルビもよく配慮されているし、ちょっと一行あたりの文字数が少ないという嫌いはありますが、これに関しては仕方がないでしょう。そりよりも、ゲーム機で、あの液晶のサイズで、読書しているという感覚をようも出したもんだと、そこに感心したいと思います。

あと、『DS文学全集』は、ちょっと高齢の人にもいいかも知れません。文字サイズを大きくできるんです。大活字本とか、あるにはありますが、探すの大変だし、すべての本にあるわけでもないし、けど、『DS文学全集』ならとりあえず100冊+サプリメントに関しては大活字で読めるわけで、これは悪くないなと思います。

コンピュータに長けた人なら、好みのビューアで青空文庫を読むというのもいいでしょう。文字の大きさ自在だし、タイトル数も段違いだし、書見台気分でゆっくり吟味しながら読書というのは贅沢な体験でしょう。でも、誰もがコンピュータ使うわけでないし、となると、DSのようなプラットフォームの優位、利点が出てくるのかなと。DSに詰めて帰ってきた『銀河鉄道の夜』に興味を示した母を見て、そんな風にも思ったのでした。

2007年11月4日日曜日

DS文学全集

 お友達ががっかりしていましてね、なにがっていいますと、任天堂の『DS文学全集』のラインナップですよ。なぜ森鴎外のドイツものが未収録なんだと、漱石にしても『夢十夜』がないのはどうしてなんだと。気持ちはわかります。鴎外のドイツものといえば『舞姫』が特に有名かと思いますが、確かにこれが収録されてないというのは意外な話で、ほー、思い切ったなあ。なんて思います。でもまあ、選ぶっていうのは大変なことですからね、きっと泣く泣く削ったというものもたくさんあったはずで、『舞姫』あたりはその代表格なんじゃないかなあなどと思います。あ、そうそう、『夢十夜』に関しては確かにそのようで、サプリメントに含まれています。

気持ちはわかるといいました。そうですね、やっぱり私にも思い入れみたいなのがありますから。大宰に関しては『富嶽百景』があるからいいかなって感じもしますが(私は大宰ではこれが一番好きです)、やっぱり『駆け込み訴え』はなくってね、まあこれは入らなくても仕方がないって感じもしますけど、『女生徒』もないですよね。まあいいかって気もしますけど。

漱石ではどうかというと、九作も収録するこたあないだろ、などと思いつつ(猫と坊ちゃんに関しては、どちらか一方でいいんじゃないかな)、『倫敦塔』はさすがに入らんよなとか、『幻影の盾』も仕方がないか、って、私の好みはやたらマニアックだな。でも『硝子戸の中』は欲しかったような気がします。

とまあ、こんな具合にきりがない。

昔、新潮が百冊選んでCD-ROM媒体で電子ブック詰め合わせを出したことがありましたが、そうした電子ものに対する本読みの評価ってなんだかだいたい辛いなあ、なんて思ってきたのですが、『DS文学全集』にたいしてもどうやらそういう嫌いがあるようで、けど、そういう不満って、むしろ期待なんだろうと思います。電子ブックというものに期待をしつつ、それでも本という古い媒体にとらわれて、それでもやっぱりこうした新しそうなものがでたら気になって仕方がない。そりゃ、こういうのを実際の本と比べちゃいかんですよ。本はやっぱり紙を束ねたあれが読みやすい。けど、かさばるとか場所塞ぎとかそういうデメリットもないではないから(切実です)、こうしたハンディにして収録数も充実というものが出たら、期待しちゃいますよ。

私は、今ではそれほどでもありませんが、やっぱり本が好きでして、azur通して青空文庫読んだりしていましたが、やっぱり紙の本の方が読みやすく、最近azurは起動さえもしていないなあ。でもそれでも電子媒体による読書というものの可能性は拭うことができず、もっといいインターフェイス、もっとダイレクトに反応してくれるようなデバイスが出たら、その時こそは本の優位が崩れるかも知れないと思っています。

でも、できればその日がこなければいいなあと思ったり? わがままなものですよ。

あ、そうそう、まったく関係のない話。iMac買って、常時アクセスポイントが用意されてる環境が整いました。パネポン、復帰してますので、また出会いましたらよろしくです。

2007年11月3日土曜日

iMac (Mid 2007)

 本日、iMacが到着しました。私にとっては5台目のMacintoshにあたります。昼過ぎからセットアップを開始して、夜になろうという時刻には、もう問題なく使えるようになっていました。もちろんOSは10.5 Leopard。といってもプリインストールではないので、同梱のUp-To-Date Kitでアップグレードしてやらなければいけません。と、ここまで書いて疲れ果てました。いやね、やっぱり一日コンピュータの前に座り込んでるわけですから、たいがい疲れますよ。なので、今日はあんまりいっぱいは書かずにおこうと思います。そうしないと、こととね本家更新とバッティングしかねませんしね。いや、バッティングしようが気にせず書いていくとは思いますけど。

一日iMacを使ってなにが疲れたかというと、目ですよ。画面が大きくなりました。今までのiBookなら、視界の中にディスプレイがあるという感じでしたが、iMacとなると、視野いっぱいに広がるディスプレイですからね。まだ新しい液晶の、強すぎるバックライトも厳しくて、だから輝度は最低にまで落としました。けど、それでもまだ明るいんですよね。サングラスでもかけましょうか。いや、冗談なんかじゃなくて。

(本当にサングラスをかけました)

目が疲れるのには閉口しますが、でもまあこれをiMacのせいばかりというのも酷でしょう。しかたのないものと思って、サングラス&ヘッドホンの怪しいスタイルでやっていこうと思います(これが本当に怪しい、iSightで確認したら、逮捕されても文句いえない感じでした)。いずれ蛍光管もへたりますから、その時のくるのを待ちましょう。って、劣化を待つというのもなんかいやな話ではあるなあ。

CPUの処理速度が格段に上がり(Core 2 Extreme 2.8GHz)、メモリも4GBに増強、これまでならもたついたようなことでも機敏に動作して、実にストレスフリーです。まだ広くなった画面には適応しきれていませんが、24インチの広さをフルに使えるようになれば生産性も上がるんじゃないかなあと期待されて、例えばこうしてBlogの記事を書くときもですよ、ブラウザウィンドウとエディタのウィンドウを並べておくことができるわけです。今までなら、どうしても重なってしまうので、Command-Tabでもって切り替えてやらないといかんかった、それがなくなるんですね。ほんと、ありがたいことだと思います。

とりあえず感じたことを書いてみましたが、使い続けるうちにもっといろいろ思うところも出てくるかと思います。それは、またこととね本家で紹介していきたいと思います。

2007年11月2日金曜日

そんな2人のMyホーム

 なんか今日は憑物が落ちたように穏やかな気分でして、なんでなんだろう、毎日がこんな穏やかさに包まれていたらいいのになあと、そんな風に思っています。そして、今日はなにで書こうかと、ペーパーバッグをのぞいてみれば、樹るうの『そんな2人のMyホーム』が見つかって、これ、『まんがタウン』で連載されている漫画なのですが、キャッチフレーズは有能大和撫子。天才肌の彫刻家を父に持つ舞が、そのハイパーさでもって日常を彩っていく、そんな四コマです。

その感触たるや、まるで日だまりのよう。暖かな日差しを受けながら過ごす、穏やかな時間の流れに似て、この多幸感はすごく心地がいいのです。基本的には、娘溺愛父と娘の織り成す日常どたばた系、父娘ともに、ちょっとあり得ないほどのハイパーさで、普通のことでさえも極めて高いレベルでこなしてしまいます。でも、本当ならそういう大げさを楽しむものであろう漫画が、控えめな和装の美女とストイックな芸術家というキャラクター造形も手伝ってか、あんまりどたばたした印象はないのです。むしろあとに残るのは、今の日常をよりよく生きようという朗らかさ、そしてその明るさの向こうにある切なさの影なのだと思います。

切なさというのは、これが父一人子一人ものであるということに由来していて、亡くした妻を、母を、時に偲ぶ話があるんですね。ちょっとしんみりします。この漫画は連載でも追ってたんですが、単行本で読むと正直格別で、切ないねえ。これほどに切ない漫画だったかと、そのことに驚いています。

私は、単行本読むまで、この漫画における時間の扱いがどうであるかに気付いてなくて、その折々の情景を描くタイプの時間の経過しない漫画と思っていたら大間違い、誕生日が過ぎれば、二十歳だった舞もひとつ年をとって、そうなんですよ、時間が流れているんです。そして、この漫画には時間が凝縮されているような、そんな感覚があって、過去に流れた時間を今にしっかりと、それこそ抱き込むようにしてつなげています。そんな濃密な時間をこの父娘は寄り添うようにして生きている。今を今として精一杯に生きながら、今に過去を思う人たち。ああ、切ないね。なんでこんなことに言い知れない切なさを感じるんだろう。私はそんな自分の心の動きが不思議で、こんなに暖かで心地の良い楽しさに触れながら、しんみりとした思いの湧いてくることに、情というもののおかしさを思っています。

けど、やっぱり基本は楽しく明るい、そういう四コマです。有能だけどどこか足りない二人は、父の友人で取引先でもある丸井にサポートされたり、凶暴なチャボ、鯉に守られたりしながら、またちょっと気になる男性もあって? これら決して多くはない登場人物から、情愛といった類いの思いが導かれて、豊かな広がりをみせています。そしてここにこまやかな描写に支えられた情緒の深さが加わって — 、心地よさの源泉はこうした積み重ねのうちにあるのでしょうね。いい仕事であると思います。

  • 樹るう『そんな2人のMyホーム』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2007年。
  • 以下続刊

2007年11月1日木曜日

サイコスタッフ

 水上悟志という漫画家はなんだか妙に味のある人で、最初はちょっと微妙かなあなんて思ったりもするんですが、読んでるうちにそれとなく好きになってるっていうか、癖に取り込まれてしまうっていうか、本当に不思議な感じなんです。持ち味は、力の入ってないファンタジーテイスト、公園にいくと天使に会える、けどおっさんみたいな、微妙に外した設定をぶちかましてきて、こういう味は『サイコスタッフ』においても健在。超能力者に宇宙人、ちょっとマッドなサイエンティスト — 、ベタであるとか今更だとか、そんな評価を振り切るような勢いが感じられるじゃないですか。それこそ二周くらいして逆にかっこいいみたいな位置に着けていると思います。

けどね、こんな豪華な面子を用意して、ストーリーも表現も淡々としてるのはなんでなんでしょう。主人公が枯れてる、親父も枯れてる。じゃあ熱いのは主人公をスカウトしにきた梅子だけか? でも梅子もちょっとずれてるからなあ。多分ですけど、この人の漫画には、一般にいうシリアスのパターンが欠けているんです。こうすりゃシリアスになる、こうすりゃ鬼気迫る、読者ははらはらして手に汗握り、話もきっと盛り上がるというパターンをあえて外してるとしか思えない。それは作者の好みかも知れないし、そもそものスタイルなのかも知れないけれど、一種独特の筆致で、どこかが抜けていて、どこかがずれている、けれど生真面目で朴訥とした、そんな水上悟志のシリアスを追求するかのよう。ストレートに描かれる登場人物の内心そして主張は、ゆったりと緩まされた心に気付けばするりと入り込んでいて、そうか、なんか淡々としてつかみあぐねていたお前さんだけど、そんなことおもっとったんか、普段そんなそぶり見せないくせに、突然あらたまって、実は、みたいに打ち明けてくれたみたいな — 、そんな染み方をするのがたまらないのです。癖になるんですかね。だからか、なんか好きになってしまうんですよね。本当、不思議な感じだと思います。

『サイコスタッフ』の裏テーマは1話1パンチラだったのだそうですが、表のテーマはやっぱり生真面目なのかな、才能と努力、それだと思うんですが、最近は努力とかはやらんでしょう。それこそ、天賦の才みたいなのを喧伝することが多い、DNAとかなんとかいっちゃってね、けどこの漫画では、努力することにも価値があるんだ、泥臭くとも努力して勝ち取ったものっていうのが本物なのだと、そんなことをいいたかったんだと思います。一握りの天才だけがこの世の主人公なんじゃない、凡人でも自分の望むものを手にしようとあがいて、もがいて、苦労して、そんな君の姿は誰よりもかっこいいんだよと、そういう声が聞こえてくるような、ちょっとした気恥ずかしさも嬉しさに変わる、そんな漫画だったと思います。

  • 水上悟志『サイコスタッフ』(タイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。