2008年2月18日月曜日

存在の耐えられない軽さ

 友人の結婚式にいってきたのです。ああ、正確にいうと、時間を間違えて結婚式には間に合わず、披露宴だけの参加だったのですが、いやはや疲れはてました。いや、結婚式、披露宴に疲れたわけではないです(本当によい時間を過ごしました)。その後にちょっとお茶でもなんて話になって、そのいった先ですよ、話が終わらない。何時間でもしゃべる、しゃべる、しゃべる、もうくたびれた。っていうか、もうこんな時間ですよ! みたいな感じであわてて帰ってきました。まあ、いつもの面々なのですが、あの人たちと話をすると、決まって終電を心配しなければならない。ほんと、はらはらするというか、いや、話自体は面白いのでいいんですけどね。

さて、そこでいろいろ話した中で、運命が引きあうみたいな話が出たんです。いや、厳密にいうと違うんだけど、細かく説明できるほど脳がちゃんと機能していないので、詳細は省かせてください。そして、私は運命なんてないよという立場をとっている、その話をした人は私のそのスタンスを実によく理解してくれているのですが、それでもその人は運命的なものはあるよ派なので、そういう話をするわけです。

私が、運命なんてないよと強く思うようになったのは、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の影響が極めて強かった、そんな風に思っています。人生は一度きりの経験に過ぎない。二度三度と繰り返して試してみることができない人生においては、すべての出来事が必然であったか偶然であったか、しょせん計ることなんてできないんだ。そんな印象を強く受けたものでした。そして、そのたった一度の人生は、ドイツのことわざにいう一度きりはなにもないのと同じことを敷延してみれば、極めて軽いものとならざるを得ない。だって、人生とはまさに、ただの一度しか経験できないものであるのですから。ああ、一度きりの人生を生きる我々存在は、どれほどに無に近いものであろうか。そうした問をテーマに繰り広げられる変奏曲、私はこの小説について、そんな感触を得たのでした。

すべては偶然の積み重ねによって起こる人生は、振ったさいころの目が成功値であろうと失敗値であろうと、もう取り戻すことができない過去として確定されたが最後、それを引き受けていかねばならないのだろうなあ。望むと望まざるとに関わらず、起こったことは必然偶然の区別なしに、すべてが自分の人生なんだ。今日の話の結論はそういうものであった、少なくとも私にとってはそうだったと感じています。そして、そうした結論もまた『存在の耐えられない軽さ』に導かれたものではないのか。できてしまったものは、うまかろうとまずかろうと、平らげなければならない。どこかに美食の一皿がある、究極の一皿、その幻想を夢見ながらも、自分には偶然だか必然だか知らないが、とにかく差し出された皿がある。いや、それしかないのかも知れない。そうした時に、その皿をどのように受け入れるか、それが人生なのかも知れないなあ、そして人生の選択肢は、出されたものは文句いわずに食え、それしかないのかも知れないなあ。そんなことを思った一日の終わりでした。

さて、この本、ついこないだに新訳が出てたんですね。それはちょっと興味深いといいますか、読んでみたいですね。以前の訳とはまた違う知見が得られるのではないか、そういう予感がするから、余裕があれば手を出してみたいと思っています。そして、今日この新しい訳本の存在を知ったこと、これもまた偶然、けれど私にとっては必然じみたもののように感じられて、でもそのどちらであるかは一度きりの人生では判明させることのできないことであるのですね。ああ、軽い、人生とは、そして私たちとは、どれほどに軽いものであるのでしょうね。

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