2008年5月31日土曜日

ようこそ。若葉荘へ

  眼鏡ヒロイン三連続。なんてことはどうでもいいとして、『ようこそ。若葉荘へ』がめでたく完結いたしました。はじまった頃は確かに東宮院華憐がヒロインだったのに、気付けば荒井アラシがメインヒロイン位置に着けていたという漫画です。あまりに意外すぎた展開に、え、今どうなってるの!? とまどいながら読んだのも懐かしい。けれどその戸惑いに再びまみえる日がこようとは思いもしませんでした。ラストに向けての急展開、なんらの心の準備もなく、主人公もヒロイン(荒井の方)もラストステージに放り込まれて、私はついていけなくて目が点。こ、これは終わるな! そう思いはしたけれど、急転直下の大団円、本当になにがなんだかわからんうちに終わりました。

けど、その怒濤の激流に揉まれ、振り回されるのもまた楽しかったかもなあ。先がまったく予想できない、なんてったって、予兆がないんだもん。新たな展開、新たな前提がどしどし現れる中、えっと、これいったいどこに繋がってんだろう、なにぶん月刊連載ですから、前回を忘れてしまっているということはよくあることです。思い出そうとするも思い出せず、確認すれば新事実。でも、第2巻読んでると、明かされなかった新事実はまだあったようで、そうかあ、もっと振り回される可能性があったわけだ。それが実現しなかったのはつくづく残念ですが、けどラストの展開で充分かも知れません。それくらい激動でした。

男主人公がハーレム的シチュエーションに置かれる、そうした舞台を設定する場合、どうしても主人公は優柔不断にならざるを得ないのか、『ようこそ。若葉荘へ』主人公沢井健太郎もそんな具合です。平凡、優柔不断、そんなお前がなぜモテる!? でも、こいつを決断力ある魅力的な男にしたら、早い段階で東宮院に突進して、ものすごい勢いでケリがついちゃうから駄目なんでしょうね。そうしたら、荒井がヒロインの位置に躍り出ることもなかったわけで、だから沢井はそれでいい。むしろそうでないといかんかったのです。

すんません、荒井が好きなもので。

東宮院、荒井二人を筆頭にして、若葉荘住人のどたばたコメディ繰り広げられたわけですが、加藤メインエピソードがなかったのはちょっと残念。というか、他のキャラクターにしてもまだまだ掘り下げの余地、広げられる余裕があったと思うものだから残念です。深く心情を掘り下げていくタイプの漫画ではなかったとは思うのだけれども、それでも主に荒井の気持ちの揺れる様子はよかった。表向きは強気で粗雑で荒っぽいのに、実はプライドと自己否定との狭間に迷っていたというところなんてのは絶品で、沢井の中にあるしーちゃんのイメージと今の自分とのギャップに怯え、しかし今の自分を見てくれるようでないといやだという。だからこの話が荒井シナリオでもって決着した(した?)のはよかったなあ。なんて思うんですが、けどあの沢井はあんまりにも失礼だ。しーちゃんとしての荒井が好きなんでなく、今の荒井が、眼鏡の荒井が好きなんだといってやれ。それを沢井はあんな言い方をして、だからもう二三発殴られるくらいで丁度いい。というか、あんな娘に殴られるだなんて、むしろご褒美だと思います。

あとがきに、面白くなるのはむしろこれからじゃないのかみたいなことがありましたが、実際私もそう思います。私は多分、地の東宮院の方が気に入るはずで、しかしそれがなぜあの沢井を奪いあう!? というのはどうでもいいとして、けど本当にまだまだ広がる余地があった。そんなところで終わったものだからちょっともったいないですね。けれど終わるには終わるだけの理由があるのでしょうから、まだこの人たちの話を読みたいぞと、そう思えるところで終わったことがむしろよかったのだと思うことにします。

  • 阿倍野ちゃこ『ようこそ。若葉荘へ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 阿倍野ちゃこ『ようこそ。若葉荘へ』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。

2008年5月30日金曜日

きつねさんに化かされたい!

  きつねさんに化かされたい!』は実に私のお気に入りの漫画で、それこそ急所をぐさりと突くようなところがあるのです。絵柄、キャラクターの異常性、そして変にドライなところ。もちろんそのドライさは意図されたもので、わあわあと異様な盛り上がりを見せる局面に、冷たく乾いたきつい一言が投下される、その思い切りのよさがよいのですね。しかし、そうした言葉、表現が効果的に響くのは、ある種読者のつっこみを代弁するものであるからでしょう。あからさまな偏りを見せる人たちが、その偏りをむしろ王道と強弁するその際に、そんなわけないだろうと対立する陣営からつっこみが入る。そしてそのつっこみから派生する暴走に、今度は第三者から切り捨てるがごとき勢いでつっこみが入る。変態とは仲良くしない。おおお、なんとひどい一言でありましょう。

それをひどいというのは、以前、こんなこと書いたことがあったからです。

えっと、私が好きなのはこくりさんだけじゃありませんで……、甘ロリ服もいいけど和服もねってやつでして、見た目キツ目の子供で中身は年増って、実は最高なんじゃありませんか!?

ああ、ほんと、もう駄目だ。変態だ。変態とは仲良くしない

きつい一言が飛び交うこともある『きつねさん』ですが、それでもそれがぎすぎすした感じにならないのは、その変態変わり者たちが筋金入りで、ちょっとやそっとじゃへこたれない強さを持っているからかも知れません。それと、そうしたきつさを緩和する要素、あまりに素直で、あまりに無垢、純粋なこくりさんの存在でしょうか。でもここに私は、なんのかんのいって仲が良かったり、相手のこと思いやったりしてるって、そんな要素があるってことをいいたい。特に先生の田中に対する態度などがそうで、どれほど好きだ好きだ愛してると言い寄られようと、無下にあしらう態度は一貫してぶれがなく、でもそれはあくまでも教育者の立場を崩そうとしないためであって、本心では気に入ってるし、憎からず思ってるんじゃないの!? と私は思いたい(すんません、妄想です)。でも、多分、これが本当だと思うんだけどなあ。思いたいだけかなあ。ていうか、もういい加減、愛してるっていってあげたらいいじゃないですか。

ともあれ、仲が悪いのではなく、仲が良いからこそのきつい一言なんだと思うんですね。そして、そういう仲の良いと感じさせる雰囲気、変わり者をも受け入れる懐の深さが、あの保健室の繁盛を生み出している最大の要素なのかもなと、そんなことを思います。入り浸るきっかけこそは眼鏡やらなんやらであったかも知れないけれど、しまいには打ち解けた人のいる場所になったように、獣耳やキュートな美少年が目的の人たちも、いつかはそこが大切な場所になるのかな、なったらいいなと思っています。

というわけで、第3巻でも新規の人たちが出てきて、鷹尾望と山村祐樹。山村祐樹は男だからか、話の中心をとることは本当に少ないけれど、鷹尾に関してはもうかなりの勢いで中央に躍り出て、派手なキャラクター、魅力的な台詞回し、そしてどことなく歪んだ認知が素晴らしく、そしてあんずとのからみ。思想の敵であるにも関わらず、こんなにも惹かれるなんて — 。一種のロミオとジュリエット的展開には、村田先生ならずともわくわくとさせられて、本当によい盛り上がりを見せています。そして、不遇な片思いの連鎖。常に現実が希望願望理想から外れている鷹尾の嘆きには、小生も思わず落涙でありました。けれど思い掛けない内心の発露、普段の態度の裏に隠された本心がぽろりとあらわにされる描写は、鷹尾のみならずすべてのキャラクターにおいてその魅力を増大させて、共感もあらば、人という存在への愛おしささえ感じさせるようで、うまいなあ。ほんと、そういうふとこぼれる人の気持ちの綾に、私はひかれます。

ところで、よくよく考えたら、変態とは仲良くしないは、初対面での台詞じゃないか。いや、でも、まあいいや。彼が変態なのは間違いなさそうだし。ということか、やはり私も変態か……。

蛇足

変態ついでだ。眼鏡の田中さんもべらぼうにかわいかったけれど、機能性重視型こくりさんは、普段よりも数倍素敵であったと思います。それと、これはどうでもいいんだけれども、バレンタイン仕様のあんずはすごくかわいかったし、制服鷹尾さんも結構好みだ。

ところで、山村祐樹ですが、自分の興味の対象を前にして、その関係に参加することなく傍観者であることに徹している彼は、ある意味悟ってるなあと、感心してしまいます。彼は自分が、自らの人生の主人公になることを妄想しない。実に超越的であります。

さらに、ところで。そういうゲームが出るというのなら、予約してでも買います。面白かった。そんだけです。

どうでもいいこと

忘れるところだった。

Amazon.co.jpできつねさんにをキーワードにして検索してみたところ、検索結果第二位に『ごんぎつね』が! ちょっとうなぎが食べたくなりましたの関係ですか?

Searching with the keyword "きつねさんに" on Amazon.co.jp

それはそうと、リストマニア!に紹介されているひよさん。こちら、作者の桑原ひひひさんご本人であります。

引用

2008年5月29日木曜日

あぶない!図書委員長!

 十年二十年前ならいざ知らず、今更眼鏡を云々する気にはなれないし、それに私はメイドにも興味がないときています。委員長という肩書きに心動かされることもありませんし、巨乳なんぞとなればもってのほか。なのにこうした方面への傾きを強く感じさせる西川魯介の本が出ていると察知すれば、きっと必ず買ってしまうというのだから説得力がありません。けれど、西川魯介の漫画はすっかり高度専門化しちゃったなあ、特に眼鏡やらそういう方面の描写、話の展開、それからギャグなどもろもろにそういったこと感じること多く、その特化具合、すっかりできあがった西川魯介的世界に、私はそろそろ振り落とされるのかも知れないなと感じることがあります。特にここ最近の図書委員長ネタにおいてはその傾向色濃く、でもそういいながら新刊が出てるのを見かけたら買う。だから結局は好きなんでしょう。西川魯介を切るか、あるいは切られるか、そのどちらであるとしても、私はまだこの人の漫画をあきらめきれずにいるようです。

西川魯介の専門化、それは結局は、西川魯介の提示するキャラクター、のり、物語世界の雰囲気などなど、そのカバーする範囲がどんどん絞られ、深化しているということだと思うのです。だから、きっとこの提示される趣味にぴったりマッチするような人、同じ世界を見、価値を共有できる人にはこのうえもない楽しさがあって、読めば読むほどにはまる、深まる、どんどん持ってこいってな状況にもなろうというのでしょう。ですが、その先鋭化する世界に違和感を感じたものはどうなるかというと、はじき出される他ないわけでして、そして私はその限界の線上にいるのではないかと、我が身を省みて思います。

ここ数年の状況、薄々思っていた以上のこと、今日『あぶない!図書委員長!』を書店にて見て、こうして新刊が出ることの喜びを感じつつ、しかしいよいよ追いつめられたような気分にもなったのは、これが眼鏡図書委員長を前面に押し出したものだったからでした。ああこれは危険かも知れないなあ、用心しいしい読みはじめ、正直、電車の中で読むのは少々きつい展開。まあ、それでも読むんですが。『あぶない!図書委員長!』は、いつもの魯介節からはじまって、嫌いじゃないさ、嫌いじゃないよ。けれど最初の二話ほどは少々の厳しさ感じたことを白状します。そのきつさが緩和されはじめたのは第3話くらいからだったでしょうか。いや、女装美少年が出てきたからじゃありません、多分。むしろ私がここで心を緩めることができたのは、片岡と高山の間に流れる、ほのかに息づき動き出す心の微細な震えの甘さのためでありました。

そうでした、私が西川魯介を好きだといったのは、こうした震える心のありようを描き出そうとする筆致、叙情感じさせる景色がためだったのでした。だから、『図書委員長!』は、水野委員長が少し退く第3話以降に、そして同時収録作である『dioptrisch! — ディオプトリッシュ!』においても、眼鏡眼鏡とかまびすしい奴らを尻目にふと盛り上がりを見せるかと思われた望月、阿部の交わす視線に漂う色のあでやかにしてうぶである様に心を持っていかれそうになって、ああ、やっぱり直接的な性表現はいらないですよ。誰かに、憧れをともに触れようとする時のしびれにも似た感覚、鮮烈で清冽であるがゆえに、恐れを感じないではおられず、怯えをともにおずおずと伸ばされた指がそっとあの人の心に触れる、そんな世界に再び立ち返るかのような気配を感じて、私は少し嬉しかったです。

こうした傾向、これからも続くのか、それともより以上に専門化が進むのか、それはわかりませんが、まだ私は西川魯介の漫画に触れていたいと思っているようだということが知れて、それはとてもよかったと思っています。

2008年5月28日水曜日

ふおんコネクト!

  ふおんコネクト!』第2巻発売! アレルーヤ! といっても、出ることは確実と確信していたので、ことさらに喜び庭駆け回る必要もないのですが、けどやっぱり嬉しいことですよ。『ふおんコネクト!』はマニア向け小ネタ多めにして、しかしそれだけにとどまらない広がりを持った漫画であります。小ネタに限らず台詞や書き込みも多いものだから、読むのに時間がかかるなんていわれたりもするようですが、けれどその時間のかかる漫画をことさらに時間かけて読んでいるのが私です。小ネタを満喫したいから? そうかも知れませんね。けど多分そうじゃありません。私が『ふおんコネクト!』を異常な時間をかけて読むのは、その描かれている世界に没入し、引きつけられるままにからめとられてしまっているからだと思います。

私の『ふおんコネクト!』の読み方は、なにをおいても反復が特徴的です。ひとつの話を読むにあたり、何度も何度も同じところをなぞって読んでいる。それはわかりにくいからではないのです。わかっても、理解できていても、まだ読む、同じ台詞を、立ち止まり足踏みするかのように読む、ひとしきり読めば戻る、その繰り返し。それは、私の気持ちが、時間に対し追いつかないからなのです。思うところが大きすぎて、一通り読み通す時間では到底足りないのです。だから、後戻りする。後戻りを繰り返しながら、私の感じたところが満足し、収まるのを待つというのでしょう。けれどこうした反復はなおも感動を後押しするから、もうまったく収拾がつきません。雑誌連載一回分、決して多くはないページなのに、それが何十分もかかったりするのは、この漫画が私の気持ち、心を捉えて、振り回すから。そして私は、抵抗なく、いやむしろ自分から飛び込むみたいにして振り回されている。それは、それだけの面白さ、よさ、感動があるからに他なりません。

第2巻はその傾向が強かったですね。雑誌であれだけ読んで、もう壊れたレコードみたいに同じところばっかりリピートして、それこそ目に映像を焼き付けるつもりかというほどに読んだのに、単行本でも読む、まだまだ読める。大枠を読み、流れを読み、細部に目を配り、登場人物に移入して、そして物語に戻る。ああ、もう、負けっぱなしだなあ。けれど、この負けたって素直に思える感じ、それはこの漫画の強さゆえですよ。読んでいる私をぐいぐいと引っ張る引きの強さ。ものすごいドライブ感があります。ドライブするもの、それは、キャラクターであり、小ネタであり、絵であり、張り巡らされた伏線であり、物語ろうとする意思であり、そして情緒。あらゆる要素が一致団結し、ひとつ目標に向かっている、そういうエネルギーが満ちている、そんな漫画であります。

ひとつ目標、そりゃなんだといわれれば、読者を喜ばそう、面白さを作り上げようということなんでしょうが、ちょっとそのレベルは超えつつあるかなというのが私の感じるところです。緻密に構成される物語が生き生きと動き、躍動する。そうした感覚を覚えることがあって、昔から作品をもってひとつの生命になぞらえることってありますが、本当にそんな感じがします。ああ、生きてるなあって思って、そしてこの生きた躍動が私をどこにつれていってくれるのか、たとえそのたどり着く先がわからなくとも、安心して身をまかせていられる。その信頼感のために、私は『ふおんコネクト!』に気を許し、耽溺するというのでしょう。読み終えた時には完全に心が開かれていて、楽しい話なら楽しさにあふれ、深く心に訴えるものなら声もなく、ただ感極まるばかり。そしてこの漫画がこれから先、なお発展し、広がりを持つというのなら、もう私はどうなっちまうのだろう。心配になるくらいですが、いやそんな心配なんのその、存分にやってくださいませい。壊れてしまうこと覚悟で、見事振り回されてみせますよ。

  • ざら『ふおんコネクト!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • ざら『ふおんコネクト!』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年5月27日火曜日

とりねこ

 『とりねこ』、鳥と猫という相容れない存在をタイトルに盛り込んで、そう、この漫画は対照的なるものの同居ものなのであります。鳥と猫、鳥は文鳥、猫は猫、文鳥の名前は大福、和菓子で、猫の名前はマカロン、洋菓子、文鳥の飼い主はボーイッシュ眼鏡の美少女、猫の飼い主はフェミニンな美女。けれどこんなふたりには似たところがあって、それは自分のペット大好きというところです。ペットの文鳥を馬鹿にされて大げんか、結果アパートを追い出されることになった梅田ちはると、ひとり大好き、マカロンがいればそれでいいの、しかし人付き合い苦手が高じて弟にまで心配される七北田亜希。自分のペットを愛して愛して愛しているということに関しては負けず劣らずですが、それ以外は結構違っているふたりの同居をめぐる風景が描かれて、それがなんだか楽しい漫画です。あ、名前が春と秋で対照になっていますね。

けれど、実はそんなにちはると亜希って対照的ではないなあと、はじまった当初なんかは思っていて、それはきっと亜希が猫かぶってたからだな、ってのは別に駄洒落をいいたかったわけじゃありません。人前ではしっかりとしたクールな美女を演じているけれど、プライベートでは結構だらしなくて、しかしそうした性質も魅力的と感じられるのはどうしたもんでしょう。天真爛漫、行き当たりばったり、根は明るくポジティブで、喜怒哀楽が豊か。しかしながら我が強く、わがままをとおす術を知っていて、時には思いやりを示すもののどことなく自分ペースは健在で、けどそれが嫌みに見えないのは美人だから? でもさあ、こんな姉がいたらなあって思いますよ、実際の話。44から45ページにかけてのシーケンス、おかえりちはる!から一緒に食べようと思って待ってたのの流れ、ああ、もう、なんて魅力的なんだ。っていうのは、きっとこの人が私の姉ではないからそう思うんだろうな。もし実の姉がこんなこといい出したら、全力で警戒しなければならないシチュエーションです。

亜希さんがポジティブならちはるは結構ネガティブ。心配性の不幸体質で、わりかし神経質、でもってきっとお人よし。人の顔色うかがうようなそぶり見せる割に、思ったことを思ったままにいうタイプで、つましい倹約家、物事はきっちりこなさないと気が済まないくせに、意外とうかつでおっちょこちょい。クールなふりしてるけど、困った人を見ると手助けしないではいられないような、本心と自己表現がちょっとずれてるようなところがどうしようもなくキュートなお嬢さんです。この人のいいところは、こうした人のよさを亜希さんにすっかり見通されてしまっているとこじゃないかなと思ってて、それどころかマカロンにさえいい感じに振り回されて、でもそれがだらしないとか情けないとかじゃなくて、なによりの魅力と感じられるんですね。ほんと、かわいい人だと思います。昔、学生時分、後輩にこんな感じのお嬢さんがいましてね、私結構好きだったんですが、どうともなりませんでした。ともあれ私は、こういう自分には魅力がないと思い込んでいるお嬢さんが気になるようにできていて、なにをいってるんだ、こんなにも魅力的だのに! とはげましたくなる性質を持っているものだから、ちはる見てると、もうたまらんね。こんな調子だから、『とりねこ』、連載の開始された当初から、一貫して好きであり続けました。ええ、本当、好きでした。

私がこの漫画を好きだというのは、ふたりのヒロインが魅力的ということもあったけれど、ふたりのペットであるマカロンそして大福さんもまた魅力的だったから。ええ、私は猫が、そして鳥も好きなんです。あれは幼稚園に通っていた時だったかなあ、もう小学校に上がってたかな? うちに白文鳥が迷い込んできたことがあったんです。その鳥を母とふたりでうまいこと捕獲して、保護して、しまいにはうちの鳥になったんですけど、その後つがいを買ってきて、雛も生まれて、都合六七年飼っていましたね。いや、迷い込んできた文鳥は八九年あるいはもうちょっと生きてたかも。私が中学生だった頃の、季節は冬、寒さでね、死んじゃいましてね、かわいそうなことをしたと思っています。鳥は自己主張できないから。申し訳ないことしました。

文鳥は雛のうちから人に馴らすと、手乗りになりまして、それはそれはかわいいものなんです。チチ、チチと鳴きながら飛び回って、肩に、手に、頭に乗って、愛嬌をふりまきます。鳥を放している時は、踏んだりしたらおおごとだから、足もとなど細心の注意はらって、ガスなんかも全部消して、危なくないようにして過ごすのですが、本当、楽しかったですよ。子供の頃は籠の鳥に歌いかけたりしましてね、ええ、鳥はよいものです。そんな楽しさ、嬉しさ、かわいさ、心地よさをこの漫画は思い出させてくれたから、なおさらに好きだったのでしょうか。

それほどにストーリーが込み入って盛り上がるような漫画ではなく、細部にこまやかな面白さ、楽しさが込められた、愛らしい連作掌編の趣のある話であったと思います。ペットのいる生活の楽しさは、ペットにいやされる、喜びを与えられるばかりでなく、弱い彼らを守ってやらないといかんのだという、そうした責任も込みであるからこそのものなんだと感じられる漫画でした。自分のペットは大事、だからこそ他人のペットも大事、ましてや大切な同居人のともなれば……。そうした心配りが感じられたところもまたよかったと思っていて、猫好きと鳥好きは同居できる。違った個性、感性をお互いに認めあいながら、楽しく暮らしていける。こうした感じが幸いでした。けど、最後には自立を選択するというところ、甘えすぎず、けれど突き放したりはしない。それぞれが相手を、自分のやり方で尊重し、愛着を示して、そうしたべたべたしすぎない、程々の距離をわきまえた友達のあり方というのは、素敵だな。そう思わせてくれたんですね。

実際の話、もっと読みたい、続きがあるなら! と思うくらいのところで終わったのは残念だったところで、けれどそうした飢餓感を残すくらいが丁度よかったのかも知れませんね。それにこの話が、前後編の『ファミレス☆スマイル』に連なっていたように、この話に多少の関係を持った物語が今後描かれないとも限らない。いや、たとえそれが描かれなくっても、新しい生活を始める二人の関係の広がりが示されたラストは、飢餓感を和らげる、そんなふくよかさを持っていたと感じられます。

ところで、あまりに大福さんがかわいいから、自分でも描いてみたくなりました。

Daifukusan

トラックボールでがんばった! でも、やっぱり野々原さんの描く大福さんの柔らかさ、愛らしさは特別で、私の絵はなんだか鏡餅みたい。野々原さんの大福さんは、リアル志向もデフォルメされたのも、皆かわいく、眺めているだけで嬉しくなるようなチャーミングさにあふれています。ああ、Vol. 07の扉絵などは、このうえもなく魅力的で、なんとか壁紙にとかできないかなあ。無理だろうなあ、私はそっち方面の才能ないから。なので、たまにページ開いて愛でる、そういう感じでいきたいと思います。

蛇足

七北田、梅田、そして広瀬。これってみんな川の名前なんですね。七北田は、よう読めませんでした。ななきた、難読地名ってやつですね。

  • 野々原ちき『とりねこ』(まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。

引用

  • 野々原ちき『とりねこ』(東京:芳文社,2008年)、44頁。
  • 同前,45頁。

2008年5月26日月曜日

わたしの母さん

 先日、朝日新聞のコラム、天声人語に紹介されていた本、『わたしの母さん』が妙に気にかかったので買ってみることにしたのでした。いったのは大阪梅田の紀伊国屋書店。児童書の棚を一巡りして、見付けられず、そうだ、それで『はじめてのこぐまちゃん』を買ったんだった。その支払いの際に、探している本があるんです。これこれかくかくしかじかと説明して探してもらったら、出版社にも在庫があるかどうかわからない、どうしますかとの返事。ああ、せっかく探してもらったんだから注文します。しかし帰宅後Amazonで調べると、注文不可の状況。これは入手できない可能性が高いと思っていたら、昨日、入荷しましたとの電話がありました。ああ、Amazonでは注文できないけれど、書店で頼むと取り寄せが利くみたいですよ。

私がこの本を気にしたのは、その紹介されていた内容のためでした。小学四年生の女の子高子が知った母の秘密。簡単な計算もできない母、漢字が読めないという母に感じてきた違和感の正体、それは母が知的障碍を負っていたということだったというのですね。そして、台詞がひとつ引用されていました。母の恩師が高子にいった言葉。人間の賢さは、学校の勉強ができるか、できないかで、決まるものじゃないわよ。この台詞を引用する前に、苦手なこと、できないことがあっても、工夫しながら乗り切ろうとしている母のエピソードが紹介されていた、これが決め手であったのだと思います。それは、このふたつが併せて紹介されていることで、少しずつどこかが欠けている私たちが、それでも懸命に生きようとするところに価値があるのだといっているように思われたからなんです。

そして、その少しずつどこかが欠けているというのは、私にとっては他人事や、ましてや比喩などではなく、というのは私も欠けた人間だからです。具体的にいうと、脳に器質的な障害を持っているらしいというのですが、アスペルガー症候群と呼ばれるタイプの自閉症であるようなんですね。ようだというのは診断書をまだもらっていないから。けれど、かなりの濃厚さでもってアスペルガーとみなされていて、確かに私がASであるとすれば説明のつくことが多すぎて、ああもう確定だなあと私自身も思っている。けれど、昨年まで、そんな可能性すら考えたことがありませんでした。アスペルガー症候群という症状というか状態があると知っていたにも関わらず、他人事だと思っていた。それが急に当事者と知れて、参りましたねえ。でも、まあいいかと思った。そんな風に違和感なく受け入れられたのは、それだけ生きづらさの前にくたびれていたということなんだろうと思うんですが、けどなにごともはっきりとするというのは悪いことではないとも思うんですね。

話を戻して、私がこの本に興味を持ったというのは、直感で、知的障碍を持つ母親と健常とされる娘の関係を通じて、多様な人間が共生できるということを描こうという本に違いないと思ったからで、だとしたらこの本は私のような人間にとってきっと大きな力になる、参考になると思ったからです。なぜなら、ASである私は、他者との共生に問題を抱えているからです。一般の社会において私はどうしても生きづらさを感じてしまうし、また逆に、一般の人との共同生活において、私は彼らに多大な迷惑を感じさせてしまいます。それはもう仕方がない。よくいわれるのは、両者が属する文化が違うからなのだというもので、ある種相容れない部分を持った文化が衝突する。そうした現場で、少しでも両者が仲良く暮らすには、お互いが敵を知り己を知り、敵じゃまずいか、互いの文化をよりよく理解し、双方ともに相手を受け入れるという努力を怠らないことが大切と思っています。少数派が多数派に遠慮するのではなく、多数派も少数派を荷物のように抱えるのではなく、お互いがお互い様としての関係を良好に築き上げることが大事なのだろうと。そして、こうしたことは私、ASにおいてもそうですが、この本にいう、知的障碍を持った人においても変わらないのだろうということを思ったのです。

『わたしの母さん』、高子の母は、知的障碍を持つゆえに、皆にできることができなかったりします。母は高子に自分の障碍を知られることを怖れ続けていたのですが、しかし本当なら隠したりせず、堂々としていたかった。けれどそれでも告げることができず、びくびくとしてきたという、その気持ちは痛いほどわかります。自分がマイノリティであることを確定的に知られる、ということは、本当におそろしいことです。だから隠す、隠すから引け目がある。そうした、自信を持てない、自分のらしさを押し殺して生きなければならないことはつらく、けれど、その自分らしさが受け入れられないかも知れないという怖れが、自分らしく振る舞うことにブレーキをかけさせるんですね。

この本においての登場人物の役割は、母が少数派の代表、高子が多数派の代表だと考えるのがよいのでしょう。偏見を持ち、少数派を遠ざける。そんな、少数派について知ろうともしなかった高子が、母の抱える現実を見据えることでだんだんと変わっていく。その過程は一言、素晴らしかった。悩みながら、怖れながらも、与えられた現実に負けず、よい母であろうと努力していた母親。そんな母親の真実を知って、また母を理解しようとし受け入れている人たちとの交流を通して、偏見を流し、母に向き合うことのできるようになった高子。ある種、理想かも知れない話です。ですが、自分の障がいに甘えるんじゃない、貴子の母がまだ若かった頃に、恩師にいわれた言葉でありますが、だとしたら私たち、多数派も少数派も、現実の前にあきらめるべきではないのでしょう。現実を前に、よりよい状況を作るべく努力するということ。欠けた部分を持つものは、それを埋める努力、あるいは迂回する努力を放棄すべきではないし、足りているものは偏見を拭い、ともにあれる環境を整える努力を怠るべきではない。そして、こうした不断の努力こそが、人間の価値を決めるのではないか、私はそのように思います。

あと、蛇足。すべての人は多数派であり、また少数派であるということを忘れてはならないとも思っています。私は確かにある面ではマイノリティですが、異なる面ではマジョリティになりえます。自分は少数派だから手を差し伸べられて当たり前なのだ、多数派だから恵まれているのだ、こうした勘違い、驕りが往々に問題をややこしくしていると感じています。私が先にいったように、誰もが多数派であり少数派でもあるから、少数派と多数派の共存可能性の高い社会は、多くのものに多くの利益を与ええます。それを思い違いしてはいけないのだと、私は自らを戒めます。

引用

2008年5月25日日曜日

Reflection, taken with GR DIGITAL

ReflectionGR BLOGのトラックバック企画、5月のお題であります。空というと、夏になるとなんでか私は空ばっかりとる癖があるのですが、いくらなんでも芸がないだろうとでも思ったか、空メインの写真はだんだんと減ってきています。けれどそれでも、印象的な景色に出会った時、ぱっと撮るとその背後に空が広がっているというのはよくある話。なので、今回はそういうものを選んでみました。

休日、雑誌を買いにコンビニまで行く道すがらに出会った光景です。竹林沿いの下り坂、左手には空が広がっていて、ああ気持ちいいなあと思って撮った写真です。そして山吹の向こうに小さな畑、住宅街、山、そして空。こうして写真に撮ってみると、実に田舎だなと思わないではおられませんが、そこにのどかさがあるのだとしたら、自分の暮らしているところが田舎だというのも悪くないと思います。

Bamboo grove

Japanese rose

ついでに。冒頭の写真は、大阪天満橋、オフィス街です。都会の空には都会の空のよさが、田舎には田舎の空のよさがあるということなのでしょう。私がすごいと思った空は、美瑛で見た空でした。普段見る機会に恵まれないからか、大きく開けた空の気持ちよい美瑛は素晴らしかったです。

おまけ、大阪の夜景

Osaka twilight

2008年5月24日土曜日

西部戦線異状なし

 塹壕戦には興味があります、だったらこの映画を見るべきでしょう、なんてことを先日書いていましたが、買ってきました。駅前のレコード店のワゴンにて売られていたものを、適当に買ってきたのですが、パッケージを見ればどうもGPミュージアムソフトの版であるみたいでして、価格は五百円。対してAmazonでは2,100円。この価格差はなんだろう。けど、気にしません。そのへんのもろもろはどうでもいいです。人によっては字幕であるとか、吹き替えの声優であるとか、画質、編集、特典などなど、こだわりをみせるところなのでしょうけど、そして私にもそうした嫌いはないではないのですが、しかし『西部戦線異状なし』に関してはそうしたことは気になりませんでした。それよりも、描かれている内容に対する興味が強く、そして見終えて、これは名作といわれるだけはあるねえと、がっかりしながら思ったのでした。

がっかりしながらっていうのは、つまらないとか期待外れだとかいいたいんじゃなくて、その逆です。第一次大戦を戦うドイツの前線を駆け抜けていった若者たち(おっさんもいたけど)の姿が、あまりにも鮮烈で、儚くて、やりきれない悲しさが胸いっぱいに押し込まれたみたいになってしまったんですね。いや、わかってたんですけどさ。そもそも私がこの映画を見ようと思ったのは、第一次大戦の塹壕戦をよく描いている映画だと聞いていたからですし、そういわれるからには、そこには悲惨悲哀があふれているに違いあるまいと予想がつこうというものです。

そして、実際に悲惨悲哀はあふれていて、しかしそれ以上のものがありました。悲惨悲哀のあるということに対し、まったく目を向けようとしない者たちの姿があったということがあまりにも切なく、主人公ポールに対し真の意味で共感を寄せたものは、家の女達だけではなかったか。この映画を見て、ああ、母というのはありがたいものだとは思ったけれど、それ以上に母から子を奪ってしまう戦争のむごさを思ったものだし、戦地においては塹壕にて消耗し、戦闘にて損耗し、野戦病院においても過酷を味わうという、その非人間性に恐れを抱いたものでした。

実際の殺し合いの現場としての戦場を意識しないでおれば、古い戦争にどことなくのどかで朴訥とした様子を思い起こすこともあるようですが、実際にこうして映画として見せられると、なにいってやがるって話です。砲撃を繰り返した後に突撃、機銃弾浴びせられながら運よく敵陣にまでたどり着ければ、そこでは銃剣サーベルスコップなんでもありの乱戦となって、ああ、もう、むごい。ああした極限の現場に身を置いて、どうして人間性を保ってなどいられようか。実際、戦地で異常な事件が起こったりするというのもわかります。正気の沙汰ではないだなんて思うのは、我々が戦場を知らないからで、そもそも前線で正気を保ち続けるなんてことは可能なのだろうかな。映画を見てさえそう思うのなら、現実の戦場はより以上に過酷でしょう。

塹壕戦については、ちょこちょこ読んだりしているんですが、不衛生な塹壕にこもっての戦いは、戦闘もおそろしいけれど、病気も負けず劣らず怖かったといいます。栄養失調やストレスによる変調に、病原菌や害虫に悩まされる劣悪な環境。この映画でもそのへんは触れられていますけれど、小説だとより詳細に書かれていたりするのでしょうか。なので、いずれ小説も読んでみたいと思います。映画とはまた違ったつらさ、悲しさがあるんだろうなあ。でも、是非読みたいと思います。

CD

2008年5月23日金曜日

山原バンバン

がんばろ・まい!』で名古屋ファンになり、『トリコロ』、『ぴっぴら帳』の合わせ技で広島ファンになり、北海道は『動物のお医者さん』だなあ、きっと。その土地の魅力を伝える漫画に触れれば、あっという間に感化されて、そこのファンになってしまう。私というのはどうもそういう人間で、言葉やら文化、風物に接近したいという気持ちがわーっと盛り上がってしまうんですね。そんな私が沖縄に興味を持ったことがありました。それもやっぱり漫画のせいで、それは『山原バンバン』という沖縄コミック。しかし、この漫画に出会ったというのは、本当に縁でありました。

以前私の勤めていた図書館は事務所の棚に、なんとなく置かれていた漫画、それが『山原バンバン』でした。聞いたことのない出版社の聞いたことのない作者。中を見ればなんとなくのんびりどころか、すごくゆったりとした時間の感じられる漫画で、だってヒロインが女子高生でそれも結構やんちゃな娘だというのに、ちっともがちゃがちゃしてないっていうのは、沖縄は山原という土地の持つ雰囲気なんでしょうね。描かれた時期は1990年代の初頭。もう平成に入っているんですが、なんかそんな感じはなくて、じゃあ昭和かというと私の知っている昭和ともまた違う感じで、それは山原の時間なのかなあ。なんか穏やかでね、引きつけられるところがあったんサー。

私がこの本にであった時期は、大学を出ているわけだから、1999年以降であることは間違いなく、多分2000年くらい。最初、排架しないんだったらもらっちゃおうと思っていたんですが、思い直して整理して排架してしまいました。だってやっぱり読んでもらいたいですから。かわりに、出入りの書店外商さんにお願いして、一冊自分用を取り寄せてもらいました。

2000年頃にはちょっとした沖縄ブームがあったんでしたっけ。それとも私の周辺だけ? バンドブームの残照がまだあったのかな、沖縄バンドの影響でか、三線やってるのが何人かいたっけかなあ。そんな状況だったので、この漫画を読んでくれた人はそこそこあって、感想きいたら、やっぱりもともと好きな連中だからかね、評判よくって嬉しかったです。しかしやつらがあんなに沖縄にはまってたんはなんでだったんだろう。聞いたこともあるかと思うのですが、これといった理由はないようで、いやあ、なんかよくわかんないんですけど、いいんですよー、そんな返事が返ってきて、ほんと、ちっともわかりません。

でもこの漫画を見れば、わからないながらもなんとなくわかるようにも思われて、それは今の自分たちが暮らす土地にはないものがあったからだったんじゃないかなと思うんですね。せかせかとした日常、なんとなく型にはまったような生活に対し、沖縄はまったく違った時間の流れ方、あり方をしていると感じられた。すなわち一種のユートピアの幻想を沖縄に見たのかも知れませんね。『山原バンバン』に描かれる沖縄、山原の暮しや自然を見れば、こういう暮しもあるんだなあ。今自分が必死にしがみつこうとしている現実だけが真実ではないんだと気付かされる思いがして、そうしたら凝り固まった気持ちに少し余裕もできる、そんな効能のある漫画であるのですね。

でも、もちろん、そこが生活の場になればなんと思うかはわかりませんよ。そうしたことはわきまえたうえで、異郷に暮らすということを夢見ることがある。そしてそうした夢のきっかけは、私にとっては漫画であることが多いのだと、そういう話でありました。

2008年5月22日木曜日

がんばろ・まい!

QMAやってる友人の話によると、柴島の読みを答えさせる問題があるんだそうです。これ、大阪の地名なんですけど、普通だったらしばじまとでも読んでしまうところが、なんとこれでくにじまと読みます。読めないですよね、読めないです。こんなの読めるのは、地元の人間かあるいは鉄道マニアか、それくらいなんじゃないかと思います。けど、関西は土地が古いからか、まともに読めない地名は結構あるんです。これもQMAの問題にあったんだそうですが、放出。ええ、関西の人ならおわかりでしょう。あなた車売る? 私、高く買うわ! でおなじみのハナテンです。読めんよね。あと有名どころは、枚方。これでひらかたというんです。そう、ひらパーですよ。

さて、その友人は愛知の方なのですが、名古屋あたりにも難読の地名があるそうで、ピックアップされたのが千種御器所浅間町の三箇所。でもこれ、二つ目は読めますよ。ごきそです。なんでかっていうとですね、漫画で覚えたんです。『まんがタイムファミリー』に『がんばろ・まい!』っていう漫画が連載されていましてね、それに御器所さんって人が出てくるんですよ。

でもって、この漫画がいいんですよ。名古屋出身の女の子、星崎まいが東京にてがんばるって話なんですけど、愛知の言葉でがんばろまいといったらがんばろうってことなんですってね。なんか語感がよいなあと思ったのがきっかけになって、以来ちょっとした名古屋ブームが続いています。少々うかつなOL星崎まいの活躍する四コマは、彼女の持ち味である元気さ、明るさがそのうかつという欠点をさえチャームポイントに変えて、ぱっと明かりの点るようなそんな雰囲気が温かいやら、心地よいやら。読んでいると楽しくて、それでもって嬉しくなってくるのですが、それもこれも星崎まいを中心とした会社、ご近所の人間関係の円満にして、和やかであるためでしょう。

漫画は、OLまいの日常の話、会社でのがんばり、お隣さんとのおつきあいがふたつの軸になって展開されるのですが、そこに加えて名古屋ネタというのが入ってきます。それは食べ物や喫茶店の話しなど、地域性をうまく膨らませて紹介してくれるものなのですが、そういうの読みますとね、なんだか名古屋も面白そうだぞという思いがふつふつと沸いてきて、仕舞には、こりゃいっぺんいってみやんといかんなあ、そんな気分になるのです。

今、『まんがタイムファミリー』には名古屋漫画『がんばろ・まい!』の他に、京都漫画『おこしやす』や北海道漫画『移住イイっしょ!!』があって、どうよこの豊かなる地域性。それぞれに持ち味があって、それがまたいいんですよ。そして『がんばろ・まい!』は明るさがいい。派手さ、けれん味は弱い漫画なんですが、その明るさがために引きつけられてしまうんですね。

回答

千種ちぐさかと思ったらちくさ浅間町あさまちょうかと思ったらせんげんちょう! なんですね。せんげんちょうは無理ですよ。地元の人か鉄道マニアじゃないと読めません。

  • 逸架ぱずる『がんばろ・まい!』

2008年5月21日水曜日

速水螺旋人の馬車馬大作戦

 書店への買い出し、レジ前でのこと。ひときわ大きな表紙とその色、そして魅力的なキャラクターが目を引いて、立ち止まりましたね。鮮やかとはいいがたい、少々くすんだ赤が基調の表紙に、赤毛の女の子がレーション? 食ってる表紙です。娘の服装や描かれている乗り物もろもろ見れば、どうも軍もの臭いのですが、それがどうにも魅力的でありましてね、しかし高いんだろうなあ。本のサイズは26センチ、大型本に分類してもおかしくない判型であるのですが、これなら三千円はとるだろうなあ。そう思って確認したら、なんと千五百円てな具合で、思わず安っ! 買うことが決まった瞬間でした。

しかし、この本は本当に安いですよ。中を見れば、前半分が架空戦記物といいますか、架空の国での架空の戦争、そして架空の兵器が活躍するそんな漫画であったり、詳細解説つきイラストレーションであったりしまして、その名も『馬車馬戦記』。これが面白いのです。著者は、最新兵器とかではなく、ちょっとノスタルジー感じさせるような昔の兵器、第二次大戦からそれ以前といったような頃のもろもろがお好きなのかなあ。実際、あれくらいの時分の兵器は変にロマンが濃厚なところがあって、独特の世界を作り上げているように思います。そしてこの著者は、溢れんばかりの想像力を振るって、そうした時代のテイストを持った架空兵器を描いて書いて描きまくっているんですね。

『馬車馬戦記』第0回「頭上の装甲列車」において描かれたものは、装甲列車ならぬ装甲モノレール。第1回「防空王国」においては空中聴音機なるものを描いて、こうした、ありそうな、けどやっぱりなさそうな、そんな危ういところをついてくる絶妙なさじ加減が面白くてたまらないんです。ないものはないとわかるように描かれてはいるんですけど、実際にあった兵器が比較や導入目的で描かれることもあるから、本当に混乱します。きっとミリタリーに詳しい人たち、この連載がされていた『アームズ・マガジン』の読者とかですね、なら、私みたいにくらくらと混乱したりはないんでしょうが、私はお手上げです。でも、このくらくらとしながら読めるところ、変にリアルというか、あったら面白そうと思わせる雰囲気は、実にたまらんものがありますよ。

この本の前半がファンタスティックアナクロ兵器賛歌であるとすれば、後半はまさしくファンタジー、想像力が支える世界、TRPGリプレイであります。これ、TRPGは知ってるけれどやったことのない私にはその真価をうかがうことはできないと思われて、けれどそれでも、本当に色んなのがあって、世界観からルールから、実に多彩な広がりを持った遊びなのだなあということが伝わってきて、ちょっとやってみたくなったりしましてね、危ないんですよ。いやほんと、肉欲値には笑いましたよ。そんなんあるんだ! 是非プレイしてみたいです! こんな具合。すごい感染力をもった漫画ですよ。

この本の密度の高さは、本当に凄まじいです。緻密なイラストに緻密な解説がのっているから、読むだけでもえらい大変です。その大変さを越えさせるのは、まさしく面白さってやつですね。各話についた解説を読み、本編の手書きの解説も読み、面白いんだけどくたくたになります。だから、正直ちっとも読み込めてなくて、気に入ったところはさすがに何度も読むんですけど、ああ、時間しっかりとって、しっかり読みたいなあ。読み込めば読むほど面白くなることが予感されるから、本当、この本のために休みとろうかしら。

各話解説なんか読んでいますと、どういう本や映画にあったシーンがどうこう、こういう時代、こうした戦争のもろもろはどうした本に詳しいなどということ書かれていまして、ちょっとしたブックガイドにもなるから素敵です。なにしろ私が興味があるのは、戦争の最前線よりも、その裏側。例えば塹壕戦の実際、兵士の暮しや兵站であったりしますから、実に調べにくいのです。でも、この著者ならそういうところ詳しそうで、実際装甲炊爨車なんてきてれつなもの描いてますが、その手書き解説に見えるタイトルなど、見てみたい、読んでみたいって気にさせますからね。だからきっと『西部戦線異状なし』には手を出すことでしょう。つうか、塹壕戦に興味があるなんていって、まだ読んでないとはなにごとか! ですよね。ええ、近々に見ます、読みます。けど、そうやって興味が広がりはじめると、本当に時間が足りないなあ。時間ってやつは、いくらあっても足りないと思いますね。

2008年5月20日火曜日

ドラえもん

 今日、ドラえもんの1巻を懐かしく思い出しながらの帰り道、のび太が昭和の時代の子であったからこそあの話は成立したのかも知れないなと思われて、いや、だってね、のび太にはなんのかんのいっても子孫がいるのですよ。歴史を書き換えるべくドラえもんを送り込んだセワシです。本意だか不本意だかはわからないけれど、それなりに進学して、それなりに職業を持って、それなりに結婚をして、子供も持って、いうならば人並み。人並みが仕合せであるとは限らないけれど、人並みの人生を歩んだのび太は、たとえ晩年が借金まみれであったとしても、多少はましだったんではないかと思ったのですね。なにせ、今では人並みを求めても得られずあえいでいる人がいるっていいます。そう、のび太がもしも平成の子であったら、不登校からひきこもりに、あるいは進学したとしても就職に失敗し、起業も叶わず、フリーターないしはニートと呼ばれるような立場に追い込まれていたかも知れないな。そんなこと思ったんですね。

定職を持たず、収入も乏しければ、結婚という選択も閉ざされ — 、というようなことにでもなれば、彼のもとにドラえもんを派遣したセワシが生まれる可能性も断たれるのです。セワシはのび太に対し、れき史の流れがかわっても、けっきょくぼくは生まれてくるよなんて呑気なことをいっていますが、のび太が結婚できなければ、そして子供を持つことができなければ、そこでアウトです。それでもセワシは生まれてくるのだとしても、そのセワシはのび太とは縁もゆかりもない他人であるのだから、あまりに駄目だった先祖を助けるために、エージェントを送り込もうなんて思わない。だとしたら平成ののび太は、漫画『ドラえもん』を眺めながら、来もしない友人を妄想のうちに待ち続けるしかないのかも知れないなあ。そう考えると切なくて切なくて。

『ドラえもん』は、のび太のもとにドラえもんがいることを当然の前提としていますが、その前提が成立する条件というのが、今となっては非常にシビアになっているということに愕然としたのでした。昭和のころは、もちろん誰もが結婚できたわけではなかったけれど、でもある程度の年齢になれば結婚するものだという常識が存在していて、よほどのできない坊主でも、われ鍋にとじ蓋、なんとか相手を探してくっつけようという社会的システムが働いていたんだろうなあなんて思いまして、ああ、つくづく私は平成ののび太でよかったと思います。だって、そんなの余計なお世話じゃんか。なんていって人並みであることを退けようとするのが私で、だからこんな私は、来もしない友人を妄想のうちに待ち続けなければならないのでしょう。

しかし、久しぶりに読んだ『ドラえもん』第1巻は、もうべらぼうに面白くて、やっぱり『ドラえもん』は初期から中期にかけて、そうさなあ、20巻台中盤くらいまでが最高だと思います。今はもうアニメも見てないし(歌が変わったんだってね、びっくりしましたよ)、興味もなければ注意も払っちゃいない有り様だけど、でもそれは私の中に『ドラえもん』の黄金期が確固としてあり続けているからだと思います。私には、その過去の『ドラえもん』で充分なのですよ。見たくなれば、自分の本棚を探せばいい。それ以上の『ドラえもん』はもういらないなあと、初期中期のシニカルでそれでいて理想主義的な様を愛する私は断言してしまいます。

  • 藤子不二雄『ドラえもん』第1巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1974年。

引用

  • 藤子不二雄『ドラえもん』第1巻 (東京:小学館,1974年)18頁。

2008年5月19日月曜日

トンボ鉛筆 エアプレス

 理想のボールペンを求めての旅路の途中、今現在におけるお気に入りは三菱鉛筆のパワータンクであるというのは先日いいましたとおりですが、もうひとつ気に入っているペンがあります。それは、トンボ鉛筆から出ているエアプレス。加圧式ボールペンのもうひとつのあり方、とでもいいましょうか、あらかじめリフィルにガスを封入したパワータンクとは異なり、ノック機構に加圧用ピストンを追加したという、まったく異なるアプローチが光る加圧ペンです。しかし、これのどこがそんなに気に入ったというのでしょう。全長122ミリという、すごく小ぶりのペンです。握った手の内にほぼ収まってしまうというようなサイズ。しかしこれが意外に持ちやすく、書きやすかったのです。持ち運びにおいて邪魔にならず、筆記時には充分な機能を発揮する。ああ、これは外で使うには理想的なペンかも知れないぞ。そんなところがよいと思ったんですね。

持ちやすさの理由は、軸の太さと素材にあるように思います。樹脂製のボディ素材は指になじんで滑らず、けれどべたつくようでもないという、程よい仕上がり。グリップ部分には指に引っ掛かりを持たせる工夫がされていて、安定感は抜群です。正直、こういう短いペンでこんなに持ちやすいというのははじめてのような気がします。確かにこれはボールペンで、万年筆とは違いボディ中ほどを持つようなことはないから、なおさら長さは必要ないのかも知れません。ペンを立てて持つのなら、拳ほどのペンで充分なんですね。

このペンも加圧ペンだということは、最初に書きましたとおりです。だから、上向き筆記は可能だし濡れた紙にも書けます。実際に試してみて、通常のボールペン以上の機能性を発揮していることは確認済み。さすがに氷点下での筆記実験はしていませんが、常識的な温度でなら問題なく筆記できるでしょう。そしてこうした機能性は、やはり屋外での使用向けで、実際トンボ鉛筆も各種現場で使われることを想定している模様です。室内環境とは異なり、イレギュラーの要素が増える屋外において、安定して使えるペンというのは、きっと力になってくれるのではないかと思います。

興味を持ちつつも、どこか色物っぽく感じていた加圧ボールペンですが、いやね、なんだかオーバースペックな感じがして、日常に使うには大げさなんじゃないかななんて思っていたんです。ところが使ってみて、その印象は劇的に変わって、オーバースペックなもんか、ましてやギミックの面白さだけのペンでもありません。実用において、これはかなりよいという印象。すっかり気に入ったのは、やはり書きやすさ、インクの出の感触です。

エアプレスとパワータンクは、その性質からライバル関係にあると考えてよいかと思いますが、持ち運んで使うなら、屋外での使用をより以上に意識しているエアプレスが便利そうです。なので私は、外での使用、手帳を使う時などですね、にはエアプレスを、対して屋内での使用、ペン習字の練習などにはパワータンクを、というように使い分けていくのではないかと思います。

2008年5月18日日曜日

Filofax Kendal

 手帳問題、一段落いたしました。ええと、買ったんですよ。今なにかと話題のFilofaxです。いや、ほんと、この数日は日ごとに新たな展開があるという、実にエキサイティングな毎日でありまして、発端は14日の水曜日のこと。手帳が欲しいがどんなのがいいのだろうと、ぶらり見回った店頭に発見した茶色の革のシステム手帳。ああ、なんかいい風合いだなあと思ったのですが、値段が少々高めだったので頭を冷やそうと思って、その場は撤退。けれどうっかりブランド名を控えるのを忘れたのですね。だから、翌日木曜日、そのブランドがイギリスのものだったという記憶を手がかりに検索して、FilofaxのKendalというモデルというところまで突き止めました。そしてその翌日、金曜日、RSSリーダが気になるニュースを拾ったのです。

asahi.com:英ブランド手帳、中国製なのに英国旗 不当表示で処分へ - 社会

おーまい、青天の霹靂だ。記事を読むと、輸入代理店が景品表示法違反(原産国の不当表示)の疑いで、公正取引委員会の調査を受けているんだそうでして、つまりは手帳は中国で生産されているにも関わらず、その事実をあやふやにすることで、優良誤認を招く意図があったというのでしょう。確かにあの強気の価格です。Kendal A5でいいますと、イギリスでは77ポンド(15,706.722円)、ヨーロッパでは145ユーロ(23,541.302円)、アメリカでは115ドル(11,986.45円、いずれも2008年5月18日現在)、それがなんで日本だと34,650円にもなるのさって話でして、いやドルは今値を下げていますからあまり参考にはならないとは思いますが、本国イギリスと比べても倍以上。もしこの手帳が本国並とはいわなくとも、ユーロ圏並であったらば、もう少し買いやすかったろうになあと思う気持ちはありまして、それで迷っていた矢先の公取委調査です。ほんと、どうしようかと思いましたよ。

私はこの手帳が中国生産であるとかは割と気にしていなくて、結局はどこで作られていたとしても、きちんとした品質管理体制が整ってたら問題はないわけです。その後調べてみたところ、昔に比べると品質は落ちたなんていわれていまして、そうかあ、だとしたらそれは残念なことです。でももうそれは仕方がないし、たまたま気に入ったモデルであるKendalは2006年の新製品でありますから、質のよかったという十年二十年前のものが手に入ろうわけがありません。じゃあ、まあいいや。あの強気価格で買うことを納得できるのなら買えばいいし、そうでないなら値引きしている店探すなり、個人輸入するなり、はたまた別のブランド、別の手帳選ぶなりすればいいだけの話です。そして私は、店頭購入を選んだのですね。でも、店にいったらこないだは確かに陳列されていた商品が根こそぎ消えていたのには参りました。

Kendal、バインダーはオイルレザーが使われているのですが、そのマットで温かみのある質感が魅力的だと思ったのです。確かにオイルレザーは傷のつきやすい材質で、実際展示品もあちこち触られて、大きなこすり傷がいくつもできていたのですが、逆にそうした傷が風格になってよいなと、そういう印象与えてくれて、実はこれ私にしては珍しいことです。傷なし、綺麗なままがいいと思うような人間だったのですが、ちょっとずつ変わってきているのかも知れません。実際、使っている間にできる傷は、そのものの持つ歴史であると思います。あまりにひどいものは別ですが、大切に、あるいは普通に使っていてできる傷は、私の使い方が刻まれた一種のフィンガープリントでしょう。大量生産品が、他のなにでもない、私の手帳になる。それもまたよいかなと思うのですね。

リフィルはばりばりの欧米仕様で、カレンダーなんかはまさしく日本お断り感が漂っているのですが、そこはまあ気にしません。日本の休日に関してはシールもついてくるから、暇な時に貼ってもいいし、自分で書き込んでもいいし、もうお好きにってところでしょうね。ただ、ちょっと驚いたのが、冒頭に用意されているPersonal Informationに日本語のページが用意されていて、ほー、まったく無視されているわけじゃないんだ。これも、ぼちぼち埋めていこう。ただ私の場合、勤務先住所ががさっと空いてしまうのが空しいところで、いや、働いていないわけじゃなくて、帰属意識が強烈に低いのです。けど、これらの項目見てると、かかりつけ医師や歯科医の欄もあって、このへんは日本人の発想じゃないと思わされます。

さて、こうして手帳を手にして、そこには当座のリフィルが用意されていて、じゃああとは使うだけというところまでこぎ着けました。果たして私はこの手帳になにを書くのでしょう。とりあえず綺麗に行儀よく使うつもりはさらさらありません。とにかくなんでも、覚書を書く、気付いたこと、興味を持って調べたことを書いて書いて書いていくつもりです。アドレスには、コンピュータのAddress Bookから少しずつでも写していくとして、とにかくこの手帳に情報を集約させるのがいいのでしょう。仕事上の気付いたことでも、趣味、日常のなんでも。アイデアから調べものから、気付いただけのことまで、なにでも書くことにしたいと思います。なにか知りたい、思い出したいとなった時、この手帳が助けてくれる、そんな頼もしい相棒、秘書のようになってくれたらどんなにかよいだろうと思うのですね。

ペンは、一応用意したのですが、ペンホルダーにはおさまらないので、ジャケット必須ぽいです。ボーテックスのF字、オレンジ軸にはブルーブラックを入れて、そしてもうひとつ、ボールペン。書く道具もこだわらない。その時その時のベストで、思いついたままに記入、まとめは後日。リフィルを差し替えられる手帳の便利は、あとで編集できることだと思いますから、まずは考えずに書きはじめる。それをやっていこうと思います。

2008年5月17日土曜日

三菱鉛筆 ユニ パワータンク

 私のやっているペン習字は、年に二回ほどボールペンでの筆記を求める課題がありまして、だからその時になっても困らないよう、少しずつ油性ボールペンでの書き味に慣れようとしているところです。そして、より書きやすいペンの開拓もしているとそういうわけで、いろいろと情報を集めつつ、気になるものがあったら買う。とりあえず、ひと月に一本ないし二本くらいのペースで、気になるペンを手にし、使ってみようと思っています。まあ、こういうこと繰り返すうちに、文具マニアになるんだろうなあ……。文具もまた深く果てしない沼であるようなので、あまり深入りしたくはないんですが、まあ仕方ない。悪いのは文具じゃない、私の性格だってのは重々わかっています。

今月買ったボールペンは、三菱鉛筆が出しているuni パワータンクというものです。これはどういうものかというと、ボールペンリフィルにガスを封入することでインクを加圧し、上向きだろうと無重力であろうと、はたまた濡れた紙にも、氷点下であっても書けますという、そういうペンなのです。

ほら、聞いたことあるという方もいらっしゃると思いますが、Fisherのスペースペンですよ。重力の働きによってインクをペン先に送るボールペンは、宇宙空間では使えないということから、巨費を投じて無重力空間でも書けるペンを開発。一方ロシアは鉛筆を使った。ってやつですが、まあこれはジョーク真相とはずいぶん違っているという話なのですが、いずれにせよフィッシャーの作り上げた過酷な条件にも耐えるペンと同質のものが、現代日本では二百円そこそこで手に入ります。こりゃいいや、というわけで買ってみたのですね。

私が選んだのは、ノック式のスタンダードです。キャップ式もあったのですが、小さなキャップがどうもなくしてしまいそうで、それでノック式。私はこれを室内ではなく、屋外での筆記に使おうと思っていますから、使い回しの便利を考えるとやはりノック式に軍配が上がります。ほら、昨日おとついと手帳手帳といっていますが、手帳に書くのに便利なペンもと思っているわけです。小雨の中でノートを取るようなことがあるとは正直思えませんけどね、でもこの先どういう場所にいくかなんてわかりませんでしょう。だから、あらゆる環境で、それこそ小雨そぼ降る夜明け前、低い空の下で、冬の北海道、小雪舞い散る大通り公園で、水中で、極地で、宇宙で、明け方の街、桜木町で、メモを取ることがないとも言い切れません。まあ、ないでしょうが。あって小雨、北国でしょうね。水中なんて、まず手帳がもたへんやん。

冗談はさておいて、手帳で加圧ボールペンを使うという場合、一番のメリットは上向き筆記に強いということではないかと思うのです。もちろん、頭の上に掲げて書くなんていう意味じゃありません。手帳を手に持って書く時に、ペン先が上に向くこともあるでしょう。それでもよどみなく書ける。そういうのがいいかなと思ったのですね。まあ、本当に私がそんなにアグレッシブに活動するかどうか。そんなことはわかりませんけれど、まあ可能性のひとつということで。

ボールペン自体の書き味についてメモしておきます。インクの色は濃く出て、また筆圧軽めでも問題なくインクも出て、割と悪くない感じです。滑り云々に関しては特に取り上げることもなさそうですが、その若干の抵抗感は慣れたペンに近いから、むしろ悪くないと思います。まだそれほど書いていない状態でありますが、ダマが比較的気になりません。確かに多少は出ているのですが、けれど盛大に出るようなことはなく、あめまなどの文字のくるりと返すところの線が多少太る程度です。糸を引くようなところまではいかないのは好感触で、けれどこれは今後も見ておかないといかんでしょうね。

軸の持ち手、グリップが多少太めになっているので、持ちやすいのがよいですね。またグリップ上、クリップのある面とその裏側にインク残量を確認するための窓が開いていて、その片方が丁度中指にかかるから、持った感じが安定するのもよい感じです。だから、ペン習字のボールペン課題は、このペンでやるようになるかも知れません。現時点における最有力候補であります。

ユニ パワータンク スタンダード(ノック式) 三菱鉛筆株式会社

ユニ パワータンク スタンダード 三菱鉛筆株式会社

ユニ パワータンク 三菱鉛筆株式会社

2008年5月16日金曜日

不思議がいっぱいの本 — つい他人に試したくなる

 家庭で作るブルーブラックインクについて書いてみようと、引っ張り出してきた本『雑学おもしろ読本』が外れだったというのは昨日書いたとおりであるのですが、じゃあ目当ての本はなんというものだったのか。どうにも思い出せずにいたのですが、今朝、歯を磨いていた時にぽっとタイトルが浮かびまして、『不思議がいっぱいの本』。そうそう、これこれ、そうなればあとはすぐですよ。この本は引っ越してきた当初こそは、かばんに入ったままクローゼットの奥に仕舞われていましたが、大学卒業時の大掃除によって書棚に移動させられたのでした。子供のころから使ってきた書棚の、一番下の段、本を二重に入れてある奥に入っているはずと思って見てみたら、ドンピシャですよ。ちょっとでも取っ掛かりができれば、ぞろぞろと思い出されてくる。ああ、私はまだまだ戦える — 。そう思って、少し安心して、けれど手帳は買うつもりでいます。

さて、せっかく本も見つかったことですから、目当ての箇所を読んでみましょうか。

お茶とクギで作る青インキ

 万年筆に使う青インキは、タンニン、鉄分、青い染料、アラビアゴム、石炭酸などが混じり合ったものですが、どこの家庭にもある身近な材料を使って自家製青インキを作ってみましょう。その材料とは、でがらしのお茶と、錆びたクギです。色も香りも味ももうダメという、でがらしのお茶っ葉で出したお茶の中に、錆びたクギを五、六本入れておきます。二、三時間すると、次第にお茶は黒ずんできます。そうなったら、この液を筆につけて、白い紙に字を書いてみてください。立派な青インキができているはずです。

そうそう、これです。私の記憶の中では、もう一冊の内容とこんがらがってブルーブラックになっていましたが、こちらでは青インクとありますね。でも、茶に含まれるタンニンと鉄錆を合わせるんだから、ブルーブラックじゃないのん? その茶の黒ずみというのは、タンニン酸第二鉄じゃないのんかと思ったりもしますが、なにぶん私はこうしたところ、ちゃんとわかっていないので、これ以上は申しません。というか、ブルーブラックのブルーは染料だっていう話だったはずだから……。まあいいや。なんだったら、今度暇な時にでも実験してみましょう。お茶は普通にあるし、あとは錆びた釘を調達ですね……。って、そんなのあるかなあ。改めていわれると、錆釘なんてないですよ。

この本は、基本的には手品であるとかトリックであるとかを紹介して、余興やなんかで試してみてくださいというような、そんな趣向の本です。トリックには科学的なものがあったかと思うと、とんちや錯覚を利用したものなど、あるいはいんちきまがいのものまであって、実に楽しいのですが、そんな小ネタ集の合間合間にはさまれるコラムが面白いんですね。基本的に雑学コラムです。影絵や映画、奇術師などにまつわる逸話があったり、パズルや言葉遊びが紹介されて、そして結構オカルトも出てくるんです。昨日いっていたナメクジがエクトプラズムを吐いて小川を渡る話は131ページに、癇の虫については181ページに収録されていて、いやあ、胡散臭い。他にも念写やテレパシーなどのESPや、ブラウン夫人、キルリアン写真なんかもあって、今ではすっかり否定されてしまったようなものもあったりするけど、まあ仕方ないよね。なにぶん古い本ですし、それに当時は、胡散臭いものを胡散臭いといって、笑い飛ばしてくれる雰囲気がありました。まず真っ当な大人は相手にしなかったですよね。そんな時代の本です。まったくの遊び、安心して胡散臭さを楽しむことのできる本だったと思います。

なお、この本は後に判型装幀タイトルを変え、講談社+α文庫に収録されたのだそうです。知りませんでした。中身がまったくそのままであるかどうかはわかりませんが、もとの版に比べると手に入りやすそうではあります。なにぶん古い本ですし、今あえて手にする意味はないかも知れませんが、けど小ネタが好きだという人にはよい本であると思います。

引用

2008年5月15日木曜日

雑学おもしろ読本 — つい他人に話したくなる

またやっちまいました。コーヒーでも入れようと湯を沸かしている待ち時間、今日とりあげる本を探しにいったらですよ、またまた『コンシェルジュ』を読んでしまいました。だから、時間がないんだってば。なのに止まらない。ああ、もうだめだよ。さて、その探していた本というのはなにかといいますと、『雑学おもしろ読本』というもの。これ、子供のころに好きで読んでいたものなのですが、タイトルにもそうあるように、雑学、今でいえばトリビアですか? をとにかくたくさん詰め込んだ本です。出版が1981年6月、うちにある本は同年11月の第20刷。半年で20も刷りを重ねたのですから、ちょっとしたヒット作だったのでしょう。話題だったのかも知れません。なので、父は自分が読むために買ってきたのでしょう。で、それを息子にとられた。そんなところだと思います。

私が今日この本を取り上げようと思ったのはなぜかというと、万年筆のインクに関係する話が載っていたからです。そのインクというのはブルーブラック。書いた時には青いのに、時間が経つと黒くなるというインクですね。いやね、昨日のことなのですが、梅田の紀伊国屋で『ボーテックス』の茶軸を買いましてね、そうしたらインクカートリッジは何色にしましょうなんて聞かれたのです。黒と青とブルーブラックから選べるというじゃありませんか。おお、てっきり黒に決まってるものと思っていたら、嬉しい気遣いでありますよ。ううーん、どうしようかなあ、と悩む間もなくブルーブラック。いやね、私は古い人間なので、万年筆のインクというとブルーブラックなんです。けれど、ただ古い人間だからブルーブラックというわけでもないのです。

この本の影響なんですよ。万年筆なんて使ったこともなければ見たこともなかった子供時分に、まずは知識としてもたらされたブルーブラック。それはどんな記述だったかというと — 、ちょっと引用してみましょうか。

ブルー・ブラックとはどんなインク?

 これは青インクと黒インクの中間の色ではありません。ブルーブラック・インクで書いた文字は、書きたてのころは青い色をしていますが、時間がたつにつれて、だんだん黒に近い色に変化していきます。つまり、時間とともに青から黒に変化するのでブルーブラック・インクというのです。このインクの製法は次のようなものです。タンニン酸水溶液に硫酸第一鉄を加えると、タンニン酸第二鉄の黒い沈殿ができます。これに、その反応を抑える硫酸を加えて青い色素で色をつけます。書いた直後は、青い色素の色ですが、水分が蒸発するにつれて反応が進み、黒いタンニン酸第二鉄の色が現れてきます。このため、インクの色が青から黒へと変わるのです。

子供心に、この色の変わるというインクは実に魅力的でありまして、しかもその後、これが公式に用いられるものということを知って、なおさら好きになった。だから、私が万年筆を使いはじめた大学のころから、メインのペンはブルーブラックと決めています。とはいえ、この化学反応を用いるタイプのブルーブラックは今では染料のものに取って代わられつつあって、いやね、私の使ってるのはParkerのQuink Blue Blackなんですが、それがどうも偽ブルーブラックに変わっているらしく、それ知った時にはショックでした。でもまあ、ブルーブラックは割とペンに優しくないインクですから(強酸性と沈殿物がペンを傷めます)、染料でもかまわんかあと最近では思うようになっています。別に私の書くものなんか、長期保存する価値ありませんから。冷暗所に保管して、あとで読めればそれで充分です。なんなら、写真でも撮っておけばいいし。

『雑学おもしろ読本』に、こうして書かれていたブルーブラックインクの話。もちろん私がこの本から得たものはこれだけではなかったのだけれども、とりわけ記憶に濃かったのがこれという話です。けど、実はちょっと外しているんです。というのはね、私はこの本に、お茶と錆びた釘を使って作るブルーブラックインクの話が載っていると思っていましたから、あれれ、意外、記憶がこんがらがってるや。私も衰えたものですよ。もう一冊の本というのは、ちょっと怪しげなネタも載っているもので、ナメクジがエクトプラズム吐いて河を渡る話とか、そういうオカルティックなものも紹介されていたような本で、あと、癇の虫の話ですね。子供の手に墨でちょいちょいとおまじないを書いて、なんだったか唱えると、にょろにょろと灰白色の物質が出てくるってんですね。わお、うさんくせえ! けど、そういうのも楽しかったんですよ。多分この本は、クローゼットの底に沈んでると思われます。だってこれらの本、こっちの家に引っ越してから、一度も読んだことがないんですよ。だから思い出したのをきっかけにして、また読んでみたい。余裕ができたらサルベージでもやってみるかなと、そんなこと思うのだけど、きっと余裕ができる日はこないから、見つけ出す日もこないものと思われます。

そうそう、実は手帳を買おうかと思っているのです。なんだい薮から棒にって話ですが、いやあ、さすがに私の異常な記憶力も陰りを見せていますから、大量の情報を扱うにはそうしたものの助けも必要になってきたように思われてですね、手帳が欲しいのです。まあ、実は、『コンシェルジュ』の最上さんや涼子さんの手帳、ファイルに憧れちゃってるからなんですが、とにかくあやふやになっていく記憶に頼るだけではいけません。情報をまとめてファイルする。そういう必要もあるなと、このところとみに思うようになっているのです。

目標は、脱コンピュータです。という話を職場でしていたら、係長が以前の職場でもらったという手帳をくださいました。いわゆるバイブルサイズのシステム手帳です。私はスケジュール管理にというより、雑駁な情報をまとめ整理するツールとしての手帳に期待しているので、大振りのA5サイズなどを思っていたのですが、はてどうしましょうか。バイブルサイズでも足りるといえば足りるでしょうし、いただいたものも悪いものではないし、けど実をいうと欲しいのがあったりなんかしてさ、しかもそれA5とバイブルそれぞれあるから、ああ、迷うね、迷うよ。

なお、いただいた手帳はこんなやつです。なんか使うのがもったいなくてですね、っていうのも変な話なんですが、ともあれもう少々迷ってみたいと思います。

Personal organizer

  • 『雑学おもしろ読本 — つい他人に話したくなる』東京:日本社,1981年。

引用

  • 雑学おもしろ読本 — つい他人に話したくなる』(東京:日本社,1981年),107頁。

2008年5月14日水曜日

暁色の潜伏魔女

   その存在を知らないまま、偶然に出会った『暁色の潜伏魔女』。連載されていることも知らず、もちろん単行本になることも知らなかった。別の本を探していたら、袴田めらという作者名に気付いて、危ないところでした。もしあの時、あの本を探していなかったら、私はこの漫画を気付かないままに流していたかも知れない。そうしたら、私はきっとあとで悔やんだでしょう。そして今日買った第3巻。これもまた、別の本を買おうとして立ち寄った書店で見付けて、あ、3巻出てたんだ、当然のごとく買ったら最終巻。あー、終わるんだ。なんだかすごく残念に思って、つまりはよっぽど好きだったのでしょう。今更に気付かされることとなりました。

私が袴田めらの漫画を好きなのは、そのたっぷりとした情緒のためだと思います。設定や絵にも魅力はあるし、キャラクターもかわいいし、けれど設定の精緻さで読ませる漫画ではなく、絵の絢爛さも弱い。じゃあキャラクターかといわれると、そんなにキャラクター性を前に押し出してといった風でもない。だから私はこの漫画の魅力は、情緒であると、彼彼女らを内包して揺れ動く世界が伝える情緒にこそ引きつけられるのだと、そのようにいうのです。

しかし、情緒というのは言葉にして伝えるのが難しくて、私はいつもその詳細に触れようという時、立ち止まらないではおられないのです。私は確かにそれを思い、ありありと手に触れるかのように感じているというのに、言葉にしようとすると崩れてしまって残らない。ところが袴田めらという人は、そんなあやふやな心の景色をうまくすくい取って、漫画という形式を通じてよく伝えてくれます。心と心の出会うところに兆すもの、機微、趣 — 、表現なんてなんだっていいのですが、誰かを好きになるということ、友達と思っていること、その素晴らしさ、舞い上がる気持ちや嬉しさを描いたかと思えば、その裏側にある疑いや不安などもまた描いて、その絡み合う様が読んでいる私の心にも届いて、嬉しくさせたり、悲しくさせたり。感情というのは、本当に一面的なものではあり得ないなと思わされます。ハッピーエンドを迎えても、その時に、友情の美しさが喜びを与えてくれていたとしても、それでもどこかに苦さ、寂しさ、苦しさが残っていることがある。笑っている、それは間違いないのだけれども、その笑いの影に切なさの隠されていることに気付かされることがある。そうした感情、思いの多様なさま、深く複雑に入り組んだ様子が私を捉えてはなしません。そのような時に私は、袴田めらはよいと思うのです。しかしそれを人に伝えようという時には、とにかくいいんだよ、としかいえなくなってしまっている。不甲斐ないなあ。ええ、その魅力に対し、全然力が及ばないです。

『暁色の潜伏魔女』は、第1巻の時点では結構重めの展開を見せたものの、その後は結構軽く楽しいのりを維持して、でもそれは最終話にむけての準備期間でもあったのだなあ。全話読み終えて思ったのはそれでした。第1巻の時点で、すべてが予定されていたのかは私にはわかりません。けれど、1巻2巻と話を広げ、積み上げられてきた小さな要素が最後のあの場面に繋がるものと知ったとき、私は一層にこの漫画を好きになったと感じました。そして、この漫画のテーマが執着や独占欲であることをひときわはっきりとさせる展開を経て、この物語は閉じられました。誰かを自分だけのものにしたい、あの人の視線をずっと私に向けさせたい、きっと誰もが持っている欲張った感情、それを転倒させるラストでした。私のあなたではなく、あなたの私であるということ。ああ、いい話でした。

きっと私はこの漫画を折りに読み返すだろう。そのように思いながら、すっかり心を奪われてしまっている自分を思っています。ええ、本当に好きな漫画なのです。

  • 袴田めら『暁色の潜伏魔女』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2007年。
  • 袴田めら『暁色の潜伏魔女』第2巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2008年。
  • 袴田めら『暁色の潜伏魔女』第3巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2008年。

2008年5月13日火曜日

PILOT デスクペン ペンジ

Pilot Deskpen, Pilot Elite and Parker 45 ballpoint pen昨日がセーラーの黒インクなら、今日はPILOTのデスクペン。あんたまた増やしたのかといわれそうですが、今回は違います。買ったんじゃなくて、もらったんです。PILOTのペン習字通信講座に入会すると、なんとペンがもらえるのですが、それがデスクペン ペンジであります。売り文句は、ソフトな弾力と、書き疲れのないバランス設計でペン習字に最適というもの。そして実際にこれを使ってみての感触はといいますと、結構悪くないんです。もっとなんというか、つけペンじみた書き味と思っていたら、そんなことはなくてですね、ああこりゃ使えるぞ、そう思えるようなタッチだったのです。

つけペンというのは、以前に日本字ペンについて書いていましたが、かなり先が鋭くできているといいますか、紙を削って書くような感触があるんです。実際ざらついた紙や弱い紙だと、表面がけば立ってしまい、にじみも出るような、そんな感じ。軽く、軽く書くように気をつけないといけない。万年筆でも軽く書くことを意識させられますが、つけペンはその比ではありません。つけペン使ったあとに万年筆に持ち替えると、まるで天国のような書き心地と感じられる、それくらい違うのですね。

送られてきたペン字ペンは極細EFのニブがついていて、実にこれが私にとっての初のEFと相成ったのですが、いや、もう細い細い。こんなにも細いのかと不安になるくらい細くて、以前、細い細いといっていたボーテックスが太く見えてしまうほどです。しかしこんなに細いと、逆に使いづらいなあなんて思っていたんですが、いやいや、いくらでも使い道はありますよ。例えばアンケートハガキの自由記入欄。あの狭いスペースに思いの丈をありったけ書きたい時には、この細字が役立ちます。とはいっても、雑誌の紙だとにじみがひどく、逆に書きづらいので、官製はがきの地の部分にしか使えないのですけどね。でもこの細字というやつは、他に代えがたい魅力があります。もちろん中字には中字の魅力があるし、それぞれによさというものがあるのですが、細字には細字にしか出せない世界というのがあって、はまる人がいるというのもうなずけます。

私はこのペンをペン字の練習にも使っていて、そうすると確かに持った感じ、バランスなど、ちゃんとしてるなというのがわかります。長さの割に軽く、しかし手にすればしっくりとおさまって取り回しやすい。握りは若干太くなっていて、すべり止めの溝が入っている、けどその太さがよいのでしょう。書いている最中に持ち直したりするようなことはなく、安いけれどもちゃんとしている、好印象の持てるペンです。インクの出は必要充分、ペン軸尻を持った状態、ペンの重さだけで書いても線が引けるのはさすが。力を加えなくても書けるから、疲れにくいってのはあると思います。というか、力を入れると紙を削る心配が出てくる、いや、実際にはそんなことないと思うのですが、けれどこのペン使う時には、ことさらに脱力を心がけているように思います。

実は私は、このペンは市販されていないと思っていて、けれどこないだPILOTのサイトをぼさーっと見てたら、デスクペンのカテゴリに入っていて、もう一本くらい持っててもいいかななんて思ったりしていたところです。いや、そんなにデスクペンばっかり持っても仕方がないんですけど。というか、うちには父の使っていたデスクペンが黒軸、赤軸そろっていたはず。近々、発掘してみたいと思います。

引用

2008年5月12日月曜日

セーラー万年筆 万年筆用 超微粒子顔料インク 極黒

Sailor Kiwaguro carbon black ink万年筆への興味、いまだ冷めやらず。とはいっても、ずいぶんと落ち着きはしたんですけどね。さてさて、最近の万年筆絡みの買い物はといいますと、インクであります。セーラー万年筆が出している黒インク、その名も極黒。これ、ちょっと話題になったので、文具マニア、特に万年筆に興味を持っている人なら聞いたことがある、当然のように知っている、あるいはもう持っていたりするんじゃないかと思うのですが、普通なら詰まるといって万年筆では忌避されるカーボンインクなんですよ。万年筆の機構上、カーボン系インクは粒子がペン芯に詰まる可能性のあるために、使ってはいけないものとされてきたのが、まさかの技術革新、超微粒子顔料、ナノインクを採用したことで万年筆でも使えるようになったというのです。

顔料系インクのなにがよいのかといいますと、耐水性、耐光性であろうかと思います。染料系のインクだとどうしても水に濡れると流れ、光にあたると色が薄れるという性質がついて回るようで、雨の日に届いた手紙、宛先がぐしゃぐしゃになっていただとか、昔の書き物、文字が色あせて読めないであるとか、そうしたことにもなりかねません。ですが、カーボンインクだとそうした悲劇を回避できるというのですね。なにしろ墨みたいなものですから、ちょっとやそっとのことで消えません。

実験してみました。セーラーの極黒と、うちにある万年筆用黒インク二種の耐水性を確かめるべく、書いた文字を水にさらしてみました。

Sailor Kiwaguro carbon black ink

結果は一目瞭然です。極黒は起筆終筆あたりにこそ多少の色の流れが見られますが、目立ったにじみは皆無。たいしてPilot黒、Parker Penman黒は見事に流れています。これは勝負にならんなあ、なんて思いながら、けれど染料と顔料というのはもともとこうしたものでありますから、比較するほうがおかしいって話であるかも知れません。

さて、私が極黒を買ったのはなぜかといいますと、ペンでスケッチをするためなのです。といっても私が描くのではなく、母ですね。絵を描く母に、耐水性の高いインクがあるから試してみてはどうだと、安いペンでいいからコンバータを仕込んで、カーボンインクを使うといいだろうだなんていって、手持ちの余っていたPelikano Juniorを渡したんですね。そして結果は以上のとおり。ペンで描いたあとに、水彩で色をつけるなんていうのも可能。インクの乾きも速いしで、これは使えそうだという評価を得ました。

ただ、少々問題があるとすれば、多少のにじみが見られることでしょうか。線がにじむまではいかないけれど、水に濡れるとちょっとだけ濁りが出るんですね。おかげで色付けしたところが汚くなって、まあこれはそういう用途のものではないから仕方ないのかも知れませんが、なにに対しても万全ということはないのだと思わせる結果でした。

なお、その後ちょこちょこ調べてみたところ、絵を描くような場合にはプラチナのカーボンインクがよいらしく、極黒に比べてなお一層の耐水性があるのだとか。ただ、耐水性に優れるということはペンを詰める可能性が高まるということでもあるから、実は私はこれらインクを使いたくない。おそらく絵を描くこともないだろうから、私がこの二種のカーボンインクを自分のペンに入れるということは、この先もちょっとないだろうと予想されます。

極黒のインクとしての書き味は、なんというか、油のようなぬめりがあって、独特です。自分のPelikano JuniorにはPelikan Royal blueを入れているのですが、これだと紙をこする感触が指に伝わるのに、極黒は擦過感がまったく消えて、ぬーっという感じで線が引かれます。面白いなあ。なんて思うけれど、さっきもいった理由から私はカーボンインクは使いません。いや、絵を描くために使ってもいいかも知れない……。とはいっても、毎日ギター弾いて、字の練習して、写真も撮って、ここに絵を加えるとなったら、いよいよ時間はなくなります。なので、正直ちょっと無理。絵を描きたいと思う気持ちはあっても、それを実現する余裕がもうありません。

いるかの万年筆やさん

2008年5月11日日曜日

お父さんは年下♥

 昨日とりあげた『はっぴぃママレード。』の北条晶が別雑誌で連載している四コマが『お父さんは年下♥』であります。って、なんだか熟知しているような口ぶりですが、いやいやとんでもない。Amazonのおすすめにあがってこなかったら気付かなかったかも知れない、なんていうのは、私は竹書房の雑誌は購読していないからなのですが、つまり今回単行本が初読となります。まったくの前知識なしに、いきなり単行本にて読んだわけですが、はたしてその感想は!? 正直なところを正直に述べますと、ちょっと微妙でした。

もう少し具体的に書かないといけませんね。『お父さんは年下♥』は、母の再婚によって年下の父ができました、ざっといえばこういう漫画です。『はっぴぃママレード。』が36歳女子高生の漫画だとすれば、こちらは18歳父。20歳の娘が、突然やってきた年下の父にとまどい、最初はわずらわしく思ったりしながらも、だんだんに打ち解けていく、そういうプロットの期待される漫画であるのですが、だとしたらもう少し父のキャラクターに魅力が欲しかったとそんな風に思うところがありまして、よって微妙と感じたのでありました。父のキャラクター、気弱で非力で頼りないちびっ子眼鏡キャラで、だから私にショタ好きの属性があれば、きっとこの漫画を受け入れることもたやすかったのではないかと、そんな風に思います。けれど、残念ながら私にはショタの素養はなく、だからぽっと出の頼りない男が、なぜか娘の男性関係にまで口出しする、そういうのはどうだろうなどと、比較的冷めた目で読んでしまった。そういうことなのであろうかと思います。

『はっぴぃママレード。』について、こういうことを書いていました。ストーリーないしはイベント重視というよりもキャラクター主導型。またこうも書いていました。ただネタを見たいのではなく、見たいのはキャラクターの関係性なのかな。キャラクターの魅力によって引っ張られるということに関しては、『お父さんは年下♥』も同様であると思います。そしてこういうタイプの漫画は、ことキャラクターに魅力を見出せないと、すごく残念なことになってしまう。今回のケースは、まさにそれだったのでしょう。私に、この漫画を受容するためのレセプターがなかった。残念です。読み進めるうちに、面白さにくすぐられ、笑ってしまうこともあった。それだけに、この漫画のもつ魅力にアクセスしえなかったことが残念と思われてなりません。

私は、漫画というものの面白さは、第1巻ではなく第2巻から現れるものだと思っています。初期設定が出そろって、キャラクターがこなれ、舞台の整備が一段落するのは、だいたい2巻に入ってから。経験上ではありますが、そんなこと思っています。そして、それくらいになると、読者と作者の申し合わせもできていて、どういう玉を投げれば受けてもらえるか、投げる側と受ける側、双方ともに諒解が済んでいるから、のびのびと投げて受けてを楽しむことができる。そんな風に感じることが多いのですね。

『お父さんは年下♥』は、第1巻時点においては、正味主要な登場人物といえるのは父母娘くらいで、他のキャラクターは匂わされながらも、まだその魅力を発揮できていないといったところかと思います。だから、面白くなるのは、彼らの立ち位置がよりはっきりとして、生き生きと動き出す次巻以降なのではないかと予感しています。私の読んだ感じでは、まだ場は暖まっていない。だから舞台が整うだろう2巻に期待したいと思います。

ただ、思うんですが、連載で読んでいるうちに充分に暖まった漫画と、いきなり単行本だけで評価される漫画、えらい不公平だよなあと思います。ええ、『お父さんは年下♥』は、今回、アウェイでの勝負でありました。

  • 北条晶『お父さんは年下♥』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2008年。
  • 以下続刊

引用

2008年5月10日土曜日

はっぴぃママレード。

 眼鏡を外すと美少女というのはよくよく見られる設定ではありますが、眼鏡を外すと女子高生になるというのは斬新というか、他に類を見ません。かくしてこの漫画『はっぴぃママレード。』は、世にも珍しい眼鏡を外すと女子高生になる主婦がヒロインの漫画であります。というか単に女子高生というスタイルに非日常性を求めるさなえさんが、普段の自分らしさを感じさせる眼鏡というアイテムを忌避しているだけ、であるような気もするのですが、まあそんなことはどうでもいいことです。36歳の子持ち主婦が、かつて病弱であったために断念せざるを得なかった高校に通いたいと、息子の通う学校に入学、クラスメイトになってしまったことからはじまるドキドキコメディ四コマ、それが『はっぴぃママレード。』であります。

しかし、36歳で16歳に溶け込んで違和感がないというのは、とてつもないことであるなあと。クラスの男子をとりこにし、担任教師を惑わすばかりか、実の息子をさえドキドキさせてしまうその魅惑。てえしたもんだ。と感心しながら、実際この漫画の魅力の根っこには、ヒロイン相羽さなえのキャラクターがあると思っています。成績は悪く、どちらかといえばおっちょこちょいの悪乗りするたちで、けれど前向きで明るく、楽しむことに関しては貪欲、イベント大好き、食べるの大好き、女子高生でいられる限られた時間をフルにエンジョイしようとしていることが伝わってくるような、その前のめりの姿勢はやっぱり素敵だと思うのですよ。それでもってあの外観 — 、とかいっていますが、私は女子高生相羽さなえより、主婦相羽さなえの方が何倍も好みであります。

登場人物は相羽さなえの家族、息子武史と父(夫)丈史、高校クラスメイトでは大崎茉莉花に三田がいて、あとは養護教諭の吉村華子、茉莉花の兄巧弥くらいでしょうか。この中では武史と三田がぱっとしないものの、というか普通なんですが、あとは妙に個性強めで、そうした主張の強いキャラクターがどたばたしているのを見るのが楽しくて、こういうところ見ていると、ストーリーないしはイベント重視というよりもキャラクター主導型。けどキャラクターにこそ魅力があるから、これがよいのだと思えるそんなバランスです。それぞれのキャラクターがもっているネタのパターン、それを繰り返しながら、関係が深まるにしたがって、新たなネタの派生が見えてくる、そんな感じ。けど、ただネタを見たいのではなく、見たいのはキャラクターの関係性なのかなと、さなえと華子のふたりを見ていると思えてきます。最初は対抗心むきだしだった華子だけど、だんだんさなえに取り込まれたみたいになって、そうした様子は純粋に見ていていいなあと思うものですから。

和をもって貴しと為す、仲良き事は美しき哉、そうした言葉もあるように、和気あいあいとした雰囲気、それがなによりと思います。そして、こうした四コマに求められているのは、仲良きことであるのかも知れないと、個性を少しずつ違えたものが仲良くしているという、そういうところがうけるのかも知れないと思うのですね。とすると、この漫画の、年齢も世代も違うもの同士が育んでる友情ってのは、なんだかすごくいいものであります。

2008年5月9日金曜日

そこぬけRPG

  そこぬけRPG』では一回書いてるから、今回は書かない、もしくは後回しでいいかなって思っていたんですが、たまらず読んでしまいました。連載でも読んでるのにさ、なのに読みたさを抑えることができず、よっぽど好きなんだなあと再確認した次第です。しかしなにがいいのかといったら、主人公のゲボキューの扱いじゃないかなあと思うのですがどうでしょう。ゲームを作りたくてゲームメーカーに入社したのに、広報の女王様に見初められたがために、広報で会報誌作る羽目になって、けどそれでもなんだか楽しそうだからいいじゃん。毎月締め切り近づけば修羅場だし、仕事なんて楽しいばかりじゃないけど、それでもやりがいってもんがあるんだよって、そんなメッセージが聞こえるようで、けどじゃああんたはあそこで働きたいかと聞かれたら、即座にノーサンキュー。私じゃあんなのもちません。

けれど憧れの職業があるっていうのは正直うらやましいなあなんて思ったり。だって、私はあんまりそういうのなくて、なんとなくその時々の状況に流されて今まできてしまって、そしてこれからも流されていくんだろうなっていう予感がひしひしとしていて、いやもう、なにこの主体性のなさってな話ですよ。こんなだからがんばれないんだろうなあって、それこそこの漫画に出てくる広報にせよ開発にせよ、会社に泊まり込んで徹夜で働くようなそんな苛烈な働きかたしていますが、私がそれに耐えられないって思うのは、そこに目指したいものがないからなんだろうなとそんなこと思って、だからつらいの苦しいのいいながらも、仕事に打ち込む広報面々見ていると、なんだかうらやましいような気もします。

とまあシリアスぶるのはこのくらいにして、あとはもうほどほどに。この人の描く漫画についての印象はこれまでも散々いってきたわけですが、やっぱり今回もそれに尽きるような気がします。気も強ければ押しも強い女性が、理不尽、横暴、傍若無人に大活躍して、ゲボキューならずともまわりの男性は振り回されっぱなしっという、その勢いやら元気である様やらが素晴らしく、けどああいうの、一般には男受けが悪いんじゃないかなあと思うのですが、でもまあ私は大好きです。いやね、やっぱりね、女性が元気がいいっていうのはよいですよ。姉さん、ついていきます、っていうか、もう好きにしてくださいっていうか。けど、全身ラメピンクは勘弁して欲しい。というわけで、私は広報よりも開発の女王様が好きです。

第2巻での見せ場は東京ゲームショウならぬ東京ゲームエキスポであろうかと思いますが、新作ゲームの発売に合わせて宣伝機会をフルに活用しようという、そこでの悪乗りっぷり、主に社長のですが、なんか面白そうだなあと思って、いやあんなわがまま上司っていうのも困り者だとは思うのですが、横暴女王様がいて、わがままトップがいて、盛大に振り回されながら、日々をがんばる。表舞台にて光をあびる者がいれば、舞台裏にて支える、そんな役割もあって、けれどそうしたいろいろな仕事が全うされているからこそ、できあがるものがある。新作発売に関する一連の流れは、そうした働くということをよく描いて、なんだかいい感じでした。特に同期集まってのわいわいとした雰囲気は、日頃ののりとはまた違ったよさがあったと思います。

ところで、収録されてるかなどうかなと思っていたバレンタイン決戦は、3巻に持ち越しみたいですね。いやあ、あれが大変に素晴らしかったので、こりゃもう3巻今から心待ちです。といっても来年かな? あるいは二誌連載になったから、今年中もありえるのかな? いや、もうほんと、楽しみであります。

  • 佐藤両々『そこぬけRPG』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 佐藤両々『そこぬけRPG』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年5月8日木曜日

乙姫各駅散歩

 『乙姫各駅散歩』の単行本が出ると知った時、嬉しかった。龍宮からやってきた乙姫が浦島太郎の子孫の家に居候をする。それだけの漫画です。けれど、それだけのことがこんなにも豊かに感じられるんだから、まったくもって侮れません。まだ幼さを残す乙姫のまわりには、ゆったりとして穏やかな時間が流れていると感じられて、読んでいるだけでやすらいだ気持ちになれます。浦島太郎の子孫である江太は、少々線は細いけれど、優しくて情の深い少年で、乙姫にちょっと引かれるところもあるのかな。けれど恋愛のそれというほどでもない。だからといって友人のようでもない。ちょっと恋するような憧れをもって、家族というか親戚というか、そういう近しい距離にいる、そんな彼らの出会う風景が愛おしく感じられて仕方がないんです。なんだかすごく幸いな漫画、情の深さ、温かさが染みてきます。

そして私はこの漫画を前にして、なにを書いたらいいんだろう。はじめての地上世界で出会うものことすべてに、驚きと興味を隠せない乙姫が輝いて見える漫画です。乙姫をまるで実の娘のように受け入れてかわいがる江太の両親に嬉しくなってしまう漫画で、引っ込み思案の江太を後押ししてくれるナイスガイ町田に男惚れしてしまう漫画で、そして江太の初々しさに目を細めてしまう漫画。けど、こんなこといくら書いても、ちっともこの漫画の魅力にはたどり着けないような気がします。乙姫や江太、さらには江太の母もなんですが、やたらかわいく思えても、それが魅力のすべてではない。皆がそれはそれは仲が良くて、心配しあったり、助け合ったりする様子に胸の奥がじんとすることがあっても、それを取り上げてなにをか語ったつもりにはなれません。

じゃあ、いったいなにが魅力なのでしょう。そう考えると、実に難しい。今まであげたようなこと、それらがすべて混ざり合った総体が魅力であるのは確かだけれど、そこには言葉にしにくいなにかがあって、どうにもつかみあぐねていると、そのように感じるのです。理性よりも情緒の世界、不確かだけれど確かで、けれど、確かなつもりでいると取りこぼしてしまうような、そういう危うさがある。だから私たちは、驕りを棄て、素直な気持ちで、確かめ続けないといけない。それが大切であると思うなら — 。こうして書いてみれば、私がこの漫画に感じる魅力というのがなにであるか、少し見えてきたように思えます。

それは、愛おしい人や世界が、そこにあってくれるということの幸いであるのではないでしょうか。傍にあれば当然と思い、しかしそれを当然としてないがしろにすれば失ってしまう。この漫画には、その失われるかも知れないことを内心怖れる気持ちがあって、だからこそ今のこの時間を愛おしんでいる、そんな傾きが感じられます。そして、その愛おしむ気持ちが私の心に触れるから、私もなんだか彼らの世界や時間をともに愛おしみたく思うのです。これは、つまりは、愛なのでしょうか。幸いと安らぎが心にあふれてたまらない、その源泉は愛に似た感情であるのかも知れません。

  • 矢直ちなみ『乙姫各駅散歩』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年5月7日水曜日

PEACH!!

 『PEACH!!』は『まんがタイム』の巻末に連載されている漫画、すなわち大トリを飾っているというわけなのですが、これが実に面白くてよいのです。東北のひなびた温泉旅館を舞台としていて、旅館桃の湯では女子高生女将がお出迎え、なんてこといっているくせに、旅館業を取り仕切る細腕繁盛記といった風よりも、もっとこうなんというか、ナンセンスな味わいが利いた逸品、読めば笑わずにはおられない、そんな感じであるんです。第一、設定からがナンセンスです。桃の湯は私立聖愛学園の温泉部がやっている旅館。つまり従業員みんな女子高生、ってのはまあいいとして、部活動ってどうなんだ。描かれることは少ないけれど、女将広能をはじめとする従業員、というか部員は、日中は学校に通っていて、部活すなわち旅館は平日の早朝放課後だけらしい……。

そんなあり得ない設定を作っておきながら、なんの問題もなく旅館は営業されていて、そうしたところもナンセンスです。ヒロインは多分広能、ツインテールのかわいい娘なんですが、女将(部長?)であり板前でもあるという、まさしく桃の湯の屋台骨であります。欠点といえば、うんちくしゃべらすと止まらないことと、打たれ弱いところかね。あと、停学が多いってところか。こうしたうんちくや打たれ弱さ、それから停学なんかはシリーズになっていて、集中的に展開されたり、あるいは思い出した頃に出てきたりしましてね、こちらは心待ちにして読んでますから、出てきたらそれだけでうれしくなってくる、笑う準備もすっかりできているという具合です。そもそもあれらネタは、そうした準備なしでも充分に面白い、単体で勝負して笑いをとれるネタだと思うんです。だからなおさら贅沢。派手さでみせるのではなく、こなれたネタでくすぐりを入れるのが実にうまい、ベテランらしい安定感も魅力であろうかと思います。

こうした定番ネタを持っているのは広能だけではなく、美人仲居武田や常連客岩井なんかも同様で、最近は岩井の後輩相原なんかも活躍しつつあるけど、第1巻の時点では広能、武田、岩井を押さえておけば充分でしょう。というわけで、巻頭の人物紹介にはこの三人だけが載っていて、つうかイラストに名前しか描いてないというのもすごいな。このシンプルな紹介の仕方は、桃の湯が温泉旅館でかつ部活動という情報が提示された時点で、彼女らの役割が完璧に説明されるからなのでしょう。つまり旅館の側の人間は、制服によって女子高生であることが示され、羽織っている法被で旅館で働いていることが充分に知らされるわけです。客なら浴衣ですね。こうした特徴的な小道具で、キャラクターの立ち位置を表現しているから、細々とした説明はいらんわけです。おかげで、少ない時で4ページしかない連載でも、充分に内容を伝えることが可能。一見さんにもナンセンスな旅館コメディは楽しめるし、常連ともなれば、もう彼女らの人となりは充分わかってるわけですから、それ以上の面白さに触れることができる。

ええ、これは実にいい漫画だと思います。シンプルにして味わい深い、目立たぬところに手がかかっている、そんな感じの漫画であります。

  • 川島よしお『PEACH!!』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年5月6日火曜日

GENERATION XTH -CODE HAZARD-

「ジェネレーション エクス」応援バナー 蒼狼ゴールデンウィーク突入のころ、私の迷宮生活もまた開始されたのでありますが、えー、めでたくゴールデンウィークも終わろうという本日、GENERATION XTH、クリアいたしました。とはいっても、シナリオクリアです。本筋をクリアしてエンディングを見たというだけに過ぎず、つまりまだクエストは残っているという状況。パーティは昇龍、ウシワカ、ブリュンヒルト、ヨシュア、エンジェル、ツクヨミという、実にスタンダードな編成。ええと、侍戦士ロード(バルキリー)盗賊僧侶魔術師と思ってくださるとだいたいいいと思う。で、クリア時のレベルは15, 15, 14, 15, 15, 15、一人を除いてみんなマスターになっておりました。まあ標準より少しゆっくりしたクリアなんだと思います。クリアタイムはおよそ26時間。残りクエスト消化して、転職、アイテム集めなど堪能したら40時間オーバーってところでしょうか。死亡回数は6回、全滅は幸い0。今回は救出用パーティを作ってなかったから、全滅しなくて済んで本当によかった。全滅後に新パーティ編成して、拾ってきたら欠けていたとかだったら、そこでへこたれていたかも知れません。

以前にもいっていましたが、G-XTHは少々きびしめのバランス、でも理不尽というほどではない難度が絶妙だったと思います。多分、オリジナルのWizardryの方が厳しいんじゃないかと思うのですが、だって、呪文を使いまくるような敵もいないし、驚かされる、ブレス、全滅という凶悪なパターンもないし、小まめに回復しつつ、余裕を持って帰還を心がければ、死人出まくりというような事態は避けられます。実際、私の死亡者を出したケースは序盤に集中していて、複数攻撃呪文を覚えるまでが厳しかった、なので、最初さえ乗り切れば、おおむねシナリオクリアまでは安定して進められるというバランスであるようです。

とはいえ、まだだいぶ敵リストが空きのままですから、本当の戦いはこれからなんでしょう。ほんと、レベル15のパーティでなんとかなればいいんですけど、Wiz XTHあたりの経験からすると、きついのはおそらくこれから、どう考えてもまともに太刀打ちできないようなやつが出てきそうな気がします。後衛が軽く一撃撲殺されたり、献身(イージス)君主が首切りやら状態異常やらでパーティ全員浮き足立ってみたり、いやそれが楽しいだなんていうのかも知れませんが、正直いやなもんですよ。あと、深瀬にはまって全滅一歩手前パターンっていうのがあるな。Wiz XTHでもWiz XTH 2でもやったからな……。あんときはほんとどうしようかと思ったもんだ。

安全に蘇生するためには、学園に戻らず、オープンパンドラ(マハンマハン)で復活というのがセオリーですが、それは敵が逃がしてくれてからの話なので、状況によってはもうどうしようもないわけです。コールポータル(マハロール)逃げだと石の中に送り込まれかねないし、リターンゲート(ロールフェイト)逃げだと街にまでいっちゃうので、オープンパンドラでの蘇生ができない。ということは、エスケープ(ノードレイ)が頼りになりますが、果たしてそうそううまくいくものか。サイコード(超術呪文)が使える人間が生き残っていることが肝心、けどうちのヨシュアはそんなに打たれ強そうじゃないからなあ。というわけで、クリア後こそが深入り禁止なのでありますね。

シナリオ感想は、ネタバレになるからあんまりいいたくない。楽しい学園もの、罪のないラノベテイストって感じではない、微妙に嫌な感触、後味の悪さの残る話ではあります。とはいえ、最低限の救いはあるのだけれども、けど、あれってやっぱり最低限だよなあ。なんか、悲しくなってくるんだ。私は共感性高目のプレイを心がけているのですが、というかもともとそういう性質であるのですが、だからなおさら。尊厳とか、そういう点であれはきつい。そして、諸悪の根源たるあやつを始末できなかったのがあれだよなあって、いや、奴はこれから裁かれるんでしょうけどさ、でもさなんならあそこで異形化してくれたほうがよっぽどよかった。だって、あの場できっちり片をつけられたわけだからさ、なんて思う私は、きっと裁判員には選ばれてはならない類いの人間です。

そのへんの後味悪さが、シナリオクリア後のクエストで解消されることを望みつつ、そして二学期以降を期待しつつ、これからも地道に進めていきたいと思います。シナリオの後味悪さに関してはWiz XTH 2からの伝統とでもいいましょうか。それはもとより意図されたもので、そしていつか癒えるもの、八方丸くおさまるというおとぎ話でないのは織り込んだうえで、これから先にまみえるものに期待しながら、楽しみを繋いでいこうと思っています。

「ジェネレーション エクス」応援バナー 無双

2008年5月5日月曜日

けいおん!

 去年でしたかおととしでしたか、『のだめカンタービレ』が大ヒットしたせいか、やにわに音楽系漫画が増えました。といっても、私の読んでいる雑誌は主に四コマ誌なので、他のジャンルに関してはよくわからないのですが、ともあれ増えたんです。吹奏楽ものがみっつだっけ? それでバンドものがふたつ? もしかしたら忘れてるだけでもっとあったのかも知れないけど、面白いものもあれば微妙と思うものもあって、けど今残っているものはそれぞれによさを持っていて、面白い。最初は微妙と思っていたものも、だんだんに生き生きとして、売りになる部分を打ち出してきたといいますか、あるいは私がなじんだのか、いずれにせよ、これら音楽系漫画、皆がんばって欲しいものです。

そんな音楽漫画花盛りの中、他に先んじて単行本化された『けいおん!』。正直、私びっくりしました。いや、面白くないなんて思ってない。好きで読んでるし、面白いと思った時には、素直にその旨表明してきて、しかしこんなに早く単行本になるとは思ってませんでした。ということは、よっぽど人気があるのか、よほど反響が大きかったのか。大したものだと思います。

この漫画の主人公は、なんだか妙にうかつな平沢唯。といいたいところですが、彼女が前面に出ることが多いだけで、軽音楽部の面々、皆が主人公という感じであります。タイトルの示すとおり、軽音楽部での活動が描かれる漫画で、ですが、だからといってごりごりの部活漫画ではありません。音楽を追求し、更なる高みを目指す! なんていうような雰囲気は皆無にして、日頃は皆で楽しく茶話会、文化祭などイベントが近くなれば慌てて練習に入るというような、そんなのりが学生時分の日常の緩やかさを思い出させてくれるようなのですね。それこそテスト目前になるまで予習も復習もしたことないぜ、ってタイプの人にはなんだか共感できるところも多そうな、そんな漫画であるんです。

なので、音楽に没頭して、ギター弾きまくり、バンドは練習しまくりといったような漫画を求めている人には向かないんじゃないかなと、そんな風に思うんです。いや、だってね、私にしても、お前らもっと弾け! もっと音楽に打ち込もうよ、なんて思うことが多くてですね、漫画のはじまった当初こそはギターネタやなんかも多かったのに、だんだんと出なくなって、最近ではちょっと物足りなさも感じるほど。これはもしかしたら、高校時分吹奏楽なんてやってたからかなあとも思うんですが、なんと申しましても、あの世界、ちょっとおかしいですから。走り込みやらせたり、腹筋だとかトレーニングやらせて、楽器持ったら基礎練習、パート練習、合奏と追い回されて、そいでもってうまくいかんかったりしたら、総括、反省会だよ。あの異様な雰囲気、全体主義臭さとでもいおうか、私はもう大嫌いで、その割に十年くらい吹奏楽に関わっていたんですが、今はもう駄目、近寄れない。とかいいながら、それでもそうした体質気質が残ってるのかも知れないですね。『けいおん!』ののほほんとした楽しい部活見ていると、お願いだからもっとギターネタ増やしてくださいという気になってしまう。おお、いやだ。そういう小うるさいOBが嫌で仕方なかったというのに、気付けば自分がそうなってるのか!

閑話休題。でも、もうちょっと音楽ネタが多かったら嬉しいんだけどな、などと思いながら連載を追っていた『けいおん!』。ところが単行本で読むと、連載で読んでいた時のようなフラストレーションはなくてですね、むしろこれくらいがいい塩梅と感じたのですね。ページ数が限られているところにネタを詰め込めば、どうしてもぎゅうぎゅうの余裕のない展開になってしまいがちですが、もしそうしたテンションで単行本一冊が構成されてたら、読んでしんどい漫画になっていたかも知れません。ある程度の緩さを売りにするこうしたスタイルであればなおさらで、だから連載時に少し薄いかなと思うくらいで単行本は丁度よいみたいです。単行本なら、数ヶ月のスパンで進行する流れにうまく乗って、読み進めていけるわけですから、本当、この漫画に関しては断然単行本で読んだほうが面白さをつかみやすいと、そんなように感じます。

ところで、ヒロインのうち、ギターの唯はレス・ポールのオーナーで、ベースの澪はレフティであるのですが、どうもこれは作者がレス・ポール弾きでかつレフティであるからだそうです。そしてあとがきには、そのうち左利きの苦悩みたいなのを漫画にできたらいいなあとの発言が。ああ、そうそう、そういう美味しいネタをバンバン出してもらえるとすごく嬉しい、特にレフティの苦悩は私にはわからない世界でありますから、がぜん期待は高まりますね。なので、本当によろしくお願いします。

  • かきふらい『けいおん!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

引用

  • かきふらい『けいおん!』第1巻 (東京:芳文社,2008年),118頁。

2008年5月4日日曜日

S線上のテナ

   『S線上のテナ』は『まんがタイムきららフォワード』で連載中の漫画、作者は岬下部せすなであります。岬下部せすなというと、先日書いた『ふーすてっぷ』の作者、つまり同月に単行本が二冊出ているんですね。こうした傾向見ますと、人気があるんだなあと推察されて、確かに私もこの人の漫画は好きだから、嬉しいこと、ありがたいことだと思います。といいながら、これまで『S線上のテナ』については一度も書かなかった。連載でも読んでるし、単行本も買ってるんですけどね。なのに書かなかったのは、書こうとしてもなにを書いたらいいかわからんかったからなのです。そして今、やっぱりなに書いたものかわからず、この先どうしようと弱っています。

このなんともいえん感、原因はわかってるんです。この漫画の設定もろもろが音楽をベースにしているという、それが私にとっての引っ掛かりになっていて、例えば登場人物の名前は音楽用語や楽器をもとにしているであるとか、そして命の譜面を調える力を持った調律師たちという設定。主人公は駆け出しの音楽家恭介。彼のもとに調律師テナが現れたところから話は始まったのですが、恭介の持つ特殊な譜面を巡り繰り広げられる調律師たちの攻防に巻き込まれるかたちで、恭介は普通の世界から調律師たちの世界へと導かれていく……。とまあ、こんな感じの話であります。

そして私はこれを読む時に、音楽に関するもろもろを遠くに追いやりながら読んでいます。いや、名前が気になったりはしないんです。いや、そうでもないか。ともあれ、音楽をネタのベースにしているものだから、いろいろ音楽絡みの用語やらなんやらが出てくるのですが、その度にそれらのバックグラウンドやらもろもろがばばばっと思い出されてきて、ああ、もう、うるさいうるさい、今は関係ない、って追い払いながら読んでいるわけなんです。おかげで、どうにもこうにも楽しみにくい。こういうたとえが妥当かどうかはわからないけれど、昔のハリウッド製ニンジャ映画を見ようとする時にですね、日本や忍者に対する知識が邪魔をすることってありました。けど、あれらは別に現実の日本を描く映画でないからそれでいいんです。同様に、『テナ』も音楽を描く漫画でないのだからこれでいいんです。瑣末な、枝にもならない部分に引っかかることなく、漫画の本筋を読めばいいんです。

と、わかってはいるんですが、どうしてもつまずく。もうこれは仕方ないんかなあと、へこたれそうになりながら読んでいます。ことに私は没入して読むタイプの人間ですから、引き込まれる前に引き上げられるというのは実につらいもので、おかげでなにを書いたらいいかわからないということにもなってしまって、ああ、これはもう仕方ないんでしょう。などいいながら、仕方ないながらもつくづく残念と思われてなりません。

  • 岬下部せすな『S線上のテナ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 岬下部せすな『S線上のテナ』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 岬下部せすな『S線上のテナ』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年5月3日土曜日

コンシェルジュ

   コンシェルジュ』、これは駄目だ。健康な生活を破壊する。私がこの漫画をはじめて読んだのは、4月30日水曜日のこと。試し読みの1巻があまりに面白かったものだから3巻まで買ってみたところ、それこそ予想した以上の読みごたえでした。それですっかり打ちのめされて、翌日5月1日残る既刊を揃えたらば、その日の就寝午前5時。連休中にゆっくり読めばいいのに、やめられなかったのですね。でも、一通り読んだのだから、もうおさまるだろうと思ったらそれが甘かった。なんの気なしに手に取ると、やっぱり止まらない。昨夜の就寝午前4時。って、いったい私はなにやってるんだろう。面白いのはわかるけど、何周も何周も読んで飽きないっていうのは尋常ではありません。もはや中毒といってもいいくらいです。

いや、本当に考えなければなりません。この数日、漫画読むことに精力傾けすぎて、日課を全然こなせていないのです。かろうじてBlog、サイトの更新はやれているけど、その他がまったく駄目です。ギター弾く時間は減ってるし、ペン習字の練習もとばしてるし、日記さえつけていない。買った雑誌も読んでないし、ゲームだって滞ってる。問題です。ただでさえ時間がなくて、やるべきことをこなせないと日頃からいっているというのに、さらに輪をかけてなにもできない。ちょっと『コンシェルジュ』は箱詰めしておく必要があるかな、そうして隔離しておく必要があるかなと、それが正直なところであるのです。

しかしこれほどはまるとは思いませんでした。読んで面白いし、それにためになる、それくらいのものだと思ったんですが、もうまったくの読み違いです。面白い、それは掛け値なし。ためになる、そう、忘れがちのこと、心を砕くということの意味を思い出させてくれる。けれどそれだけじゃない。その先があるのです。その先、それはこの漫画の語りかけてくることです。私たちの世界にはいろいろな人があって、人が人と関わるというところにドラマがある。これがこの漫画の描くところであるのですが、しかしただ絵として、筋書きとして提示されるだけだったら、私は、ふーん、面白いね、それにためになる、それだけで終わらせたでしょう。ところが、それだけで終わらなかった。終われなかったのは、この漫画が描いていることを漫画そのものが実践している、そう感じさせたからです。読み手に楽しい時間を提供すること、それを当然の前提として出発し、その上に更なる積み上げをやっています。それこそ、細部にまで神経を行き渡らせているというべきか、ホテルの従業員や設備、小道具などは可能なかぎりの一貫性を持って描かれているから、よくよく読み込めば、表立って語られていないことも見えてきます。

例えば、5巻から6巻にかけて展開された「ハート・オブ・ザ・クインシーホテル」。ここで提案された数々の改善案。ストーリーの上で採択されたものはふたつ、そのように感じられますが、実はまだあるんですよ。それは9巻「王様のもてなし」を見ればよくわかります。けど、こうしたさりげないものだけじゃありません。私の特に好きな神戸のシリーズ(9-10巻)。あの一連の話の結論は、実は一番最初にそれと明確に示されています。11巻「人の器」、そのテーマは実に3巻「ニューフェイスは完璧主義者」からのロングパスです。前者は事前に意図して設計されたものでしょう。後者は、ひとつの話を作るにあたり、過去のテーマを掘り起こした例でしょう。この掘り起こしは、ただテーマを反復し印象を強めるというだけでなく、そこで語られていることを理解し、自分の言葉として伝えられるまでになったという成長、人間性の深まりを雄弁に表現しています。

ディテールへの傾き、そして構成の工夫、これらは個々のテーマを強調し、印象づけるだけでなく、『コンシェルジュ』という作品を貫徹するカラーを決定し、その個性を際立たせます。ただ職業ものをやっているだけのつもりはないし、なんだか含蓄ありそうなことをしゃべらせればうけるだなんて思っちゃいない、そういう作り手の自負が感じられて、そしてそれら徹底した作り込みを読者に伝えるための表現が素晴らしい。キャラクターが生きている、それは絵の力でしょう。個性、性格が立ち居振る舞いから読める。キャラクターの登場時に見られるぶち抜きの立ち絵は、そのキャラクターの魅力を前面に押し出したピンナップ的サービスでありながら、その実、彼彼女はこういう人なのですよ、そして今この人はこんな気持ちでいるんですと告げる紹介であるのです。端々に見られる表現の上手は、明らかにこの作品の説得力を支えるしなやかにして強靱なばねです。それは言葉に、筋に、内容に、実を与え、そして実を奪いさえする。そう、心のうちから発せられた声に真実の輝きが与えられたかと思えば、なおざりな言葉、安易な受け売りに対しては、その軽薄であること、うかつな様をはっきり伝えてくる、そんな漫画なのです。

よいものに触れた時など、その感動を俗にしびれるなどと表現することがありますが、実は私は文字どおりしびれるのです。両手の指の関節が、しびれたようになってむずがゆくなるのですが、『コンシェルジュ』を読んでいる時には、本当にしびれっぱなしです。もちろん好きで好きでたまらない話があれば、それほどと思うようなのもある。それは実情、すべてを最高だなどとはいいません。けれどこと『コンシェルジュ』という総体に関しては、最高であると自信を持っていえます。真面目なテーマを扱いながら、遊び、小ネタ、けれん、皮肉なんていうものもたっぷりと盛り込んで、しかしそれがバランスよくおさまってる。いや、たまに遊びが過ぎるようなこともないわけではないけれど、でも真面目ばっかりでもない、遊びばっかりでもない、両者を程よく掛け合わせて、楽しさ、面白さ、こっけいさ、爽快さ、そして深さや感動 — 、多種多様な印象をちぐはぐでなく盛り合わせてくれる、この感触は一級です。しかもここにまだ伸び代を感じさせるというのですから、本当、恐るべき漫画であると思います。

  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第1巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2004年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第2巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2004年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第3巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2005年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第4巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2005年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第5巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2006年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第6巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2006年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第7巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2006年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第8巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第9巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第10巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第11巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第12巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2008年。
  • 以下続刊

2008年5月2日金曜日

コンシェルジュ

   『コンシェルジュ』、これが素晴らしい。その存在は以前から知っていたんですが、なんとなく敬遠してきて、というのは、うんちく系の漫画といいますか、そういうのはちょっともういいかなと思うところがあったものですから。ですが、それは誤解でした。おとつい、水曜日、天満橋のアバンティに寄った時のことです。店内をぐるりと巡ってみたら、棚三本、中段をぶち抜きで使って『コンシェルジュ』全巻が面陳されていたのです。それはすごいインパクトでしたよ。思わず足を止めましたもの。けれどそれだけでは済まなかったのですね。私が次に気付いたのは、第1巻、ご自由にお読みくださいとの表示でした。誘われるままに手に取って、読みました。最初はそれこそパラ見だけのつもりだったのに、引き込まれるままに読んでしまって — 。私は自分にルールを課しています。書店での立ち読み、もしそこで一定量を読んだならば、その本は買うに値する本であるのです。だから買いました。一度に全部というのはきつかったので、とりあえずは3巻まで。そして後悔しました。せめて5巻まで買っておくべきだった。3巻ではおさまらない。どうにも気持ちが収まらなかったのです。

翌木曜、つまり昨日ですが、残りをすべて買いました。できれば出会いを作ってくれたアバンティでといいたいところですが、本買うためだけに天満橋にまでいくのは正直きつかった。なので帰り道に行き付けの書店まで遠回り。ここなら絶対揃っているという信頼があるのです。そしてまさしく揃っていました。書店には書店の傾向があり、こういう本が欲しいならどこにいけばいい、本好きはちゃんと知っています。最近は地上三十階書店でなんでもすませてしまうことが増えましたが、昔はそうではありませんでした。書店にはそれぞれの個性があって、棚の景色が違っていました。町のちょっとした書店でもそれは一緒で、覗いてまわるだけで面白い。出会いがある。ただ新刊を並べただけじゃありませんよという、書店の気概が感じられた。そういう点では、天満橋のアバンティは私にとって今一番新鮮な書店です。私の通うどの書店とも違った棚を作っていて、すごく魅力がある。うん、書店は棚で客に話しかけるのですよ。こんな本はどうですかと、お探しの本はこういったものではありませんかと、棚が雄弁に語りかける書店。私はそんな個性的で人懐っこい書店が大好きです。

そして私が『コンシェルジュ』という漫画にこんなにも引かれたのも、個性と人懐っこさのためであろうかと思われます。この漫画に登場するホテルパーソンたち、皆それぞれにチャーミングで魅力にあふれています。ホテルにおける究極のサービス、ああ、私はこの究極だとか奇跡であるとかを警戒していたのですが、宿泊客の要望に可能なかぎり応えようと奔走するコンシェルジュの仕事をダイナミックに描いた漫画です。

主人公は最上拝。見た目こそはぱっとしないけれど、ニューヨークでコンシェルジュを勤めていたという経歴を持つ一流のホテルマン。宿泊客の要望を叶えるべく、経験、人脈、発想、工夫、そして自らの足でおこなう調査、あらゆる手だてを講じ、無理難題をクリアする。その過程、問題が解決に向かうという様子も痛快であれば、またそこに絡められる人の心の機微。サービスとはただ求められることに応えるだけのものではないのだというメッセージが効くのです。けれどもしこの漫画が、スーパーコンシェルジュとしての最上の活躍のみを描くものであったら、続刊を買いに走るようなことはなかったでしょう。どんな無理難題でも、最上が解決してくれる。最上だから特別なんだ。この漫画はそんなことは決していいません。

ヒロイン川口涼子が秀逸でありました。やっとの思いで潜り込んだホテル業界。しかし特にホテルパーソンを目指したわけでない彼女は、コンシェルジュ部門にまわされるものの、その仕事がどういうものであるかを知りません。まさしくゼロからのスタートをする彼女は、コンシェルジュという仕事を知ろうという私たちの代理人であり、そして漫画の花、彩りであり、そしてうかつな狂言回しである、と思っていたらなんのなんの。最上という上司を得、彼のなすことに感嘆していたばかりの彼女は、自分にできるもの、ことを模索し、奮闘する。悩んだり迷ったりしながらも、ベストを尽くそうと一生懸命で、そして少しずつ様になっていく。それは最上の教えた筋ではあるけれど、最上とは違う、そんな彼女独特のスタイルで、確かにスマートではなかったし、迂遠であったのだけれど、しかしそうした姿が伝えるものは確かにあります。正直、この漫画を読むと、コンシェルジュとは素晴らしい仕事だと思えてきます。いや、コンシェルジュだけでない。数多く描かれるホテルのスタッフ、ただのモブではない彼彼女らの存在がうったえるものがある。誰かのために最上を尽くそうとする、それがサービス業であるというのなら、それはどんなに尊い職業であろうかと、そう思わせる説得力にあふれている漫画なのです。

そしてキャラクターの魅力でしょうね。最上という男、そして涼子だけでない。コンシェルジュ部門の六人、他のスタッフ、常連客から、ライバルホテルの人間まで、それぞれが異なった性格、欠点、得意分野を持っているのですが、有り体にいって極端に強調されたそれら特徴は、読み進めるごと、読み返すごとに彼彼女らの印象を色濃く変えていって、忘れ難くするのですね。一人一人に人格がある、ストーリーがあると感じられて、ああこんな人たちのいるホテルがあるのだとしたら利用してみたいものだ、そう思わせる魅力にあふれているのです。もちろんこれは漫画だから、現実にはこんな破天荒なホテルはないでしょう。だから、本当に夢のホテルなんだと思います。しかしそれが夢のようだというのは、コンシェルジュがお願いを聞いてくれるからではありません。人間が生き生きとしている現場であるからです。人の息吹が、人の存在感がしっかりと感じられるから。つまりこうした感触こそが、この漫画が生み出し、提供してくれる価値であるといっているのですよ。

  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第1巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2004年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第2巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2004年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第3巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2005年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第4巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2005年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第5巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2006年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第6巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2006年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第7巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2006年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第8巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第9巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第10巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第11巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第12巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2008年。
  • 以下続刊

2008年5月1日木曜日

くろがねカチューシャ

 単行本読み終わって、人物紹介見るまでまったく気付いていなかったんですが、この漫画、四人そろって花鳥風月だったんですね。それはさておき、『くろがねカチューシャ』は『まんがタイムきららフォワード』で連載中のメイド漫画であります。あるのですが、あんまメイドだからどうこうってことはない漫画で、だってメイド喫茶が舞台だというのにすでに喫茶分はなし、メイドってのもそんなに重要でなくなってる感じだものなあ。ヒロインは、メイドに憧れて上京してきた羽鳥トキ。彼女は働くことになったメイド喫茶轟で世界初のメイドロボ試作機、ハナと出会うのですが、ここでいわゆる萌えなアンドロイドを期待してはいけないというのがミソ、というかいわゆる出落ちってやつ? 実にあんまりな感じでメイド喫茶のお約束をぶち壊して、じゃあかわりになにがくるのかというと、吉谷やしよらしいどたばたのコメディであります。

いったいなにがらしいであるというのでしょう。

セクハラマシン、ハナに対し決して打ち負けないヒロインがそうであるかも知れません。はじまった当初はセクハラを繰り返すハナにトキが釘バットで応酬というパターンを見せてはいたものの、圧倒的にトキが被害者の立場にあったというのに、気付けば割と対等にやり合うまでにいたっているという不思議。ああ、成長したんだ — 。って、メイドや人としての成長ではなく、バイオレンス方面での成長というのはどうなんでしょうって感じですが、こうした期待されるお約束を台無しな方向に裏切るというのもまたらしさであると思うのです。

漫画といわず映画といわず、すっかりできあがってしまったパターンというのが存在します。よくいえば王道、悪くいえば馬鹿のひとつ覚えでありますが、期待されるパターンに則って作り上げられた形式に、それこそ私なんかはパブロフの犬みたいに反応し、泣いたり笑ったり胸をつまらせたりして — 、けれど吉谷やしよはそうしたパターンをうまく使って、最後に台無しにするというのがうまいのですね。あるいはそれもお約束といえるのかも知れないけれど、約束と裏切りの引きあうバランスをうまく調整し、どたばたとした空騒ぎをよく盛り上げた最後に、脱力のラストを持ってくる。なんだかちょっといい話も、全力の馬鹿話も、なにもかもが軽さの中に精算されて、笑いとともに消えていきます。こうした切れ、離れのよさこそがギャグ漫画の身上であるとすれば、『くろがねカチューシャ』はよくできたギャグ漫画であるといって差し支えないでしょう。

無駄に大げさで、無駄に大騒ぎで、無駄に暴力的な漫画でありますが、その無駄の誇大であることが面白いというのも、やはり吉谷やしよのらしさなのでしょう。本来なら爆発や銃器、バイオレンスの介入するはずもないメイドものであるのに、むしろメイドよりもそうした大立ち回りこそがメインになっているというのがおかしくて、しかもその方がよりうまくまわっているというのも面白い。そしてそれらどたばたを軽さの中に消し去ったあとに残るものがあると感じられる — 。その残るもの、なんのかんのいって楽しそうな彼女らの関係、笑顔の印象といったらいいのかね、それがよいなあ、そんなことを思うのでした。

  • 吉谷やしよ『くろがねカチューシャ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊