2008年10月31日金曜日

ドボガン天国

真田ぽーりんの『ドボガン天国』の2巻が出ています。私はこの人の漫画好きだから、当然のごとく買っているのですが、ちょっと2巻はペンギンの出番が少なかったなあ、なんて思っていたら後半に追い上げがあって、よかった、ペンギンの火は消えない! さて、『ドボガン王国』は、ペットショップドボガンを舞台とした動物四コマであります。ヒロインとんびを筆頭に、動物好きの店員がそろったこの店は、お客様より売り上げよりも、買われていく動物の仕合わせの方が大事ときた。いや、実際ペットショップで働こうなんていう人は、もともとから動物好きであるのが大抵でしょうから、現実のペットショップ店員も内心は彼らと同じなのだろうな、そんな風に思って、ですがペットショップ店員の話を聞くと、現実は決して甘くはない、厳しくつらいことも多いのだということを実感させられたりするからたまりません。

『ドボガン王国』においては、そうしたペットショップの裏側とでも申しますか、そうした部分は描かれず、やはり漫画ですからね、読んで楽しいものに仕上がっています。店長は売り上げ第一で、やたらシビアなことばかり口にするけれど、それこそ非人道的というか、動物愛護の観点から見ると信じられないことをいう人だけれど、でもいわばこの人はペットショップで働くということ、その現実を体現するキャラクターなのだと思います。きれいごとではない。育ちすぎて売れなくなった動物の行く末、どこのペットショップでも同じとは限りませんけど、なかなかにハードな話もあって、あんまりだから引き取って自分で飼ってるんだけど、これ以上はもう無理ですみたいなことも聞いたことがあります。まあ、でも、この漫画にはそうした描写は出てきません。育ちすぎて売れ残ったヨウムがいても、店で面倒みるかなんて話になって、こういうところはほのぼのなのでしょう。

しかし、それでも動物を飼うということ、動物に関わるということの責任、意味を突きつけるようなエピソードも出てくるから、決してやさしい、甘いだけの漫画ではありません。人間の都合で捨てられる動物たち。彼らの行く末は、決して仕合わせにはならない。それは誰もが知っていることであるのだけれども、それでも捨てられる動物は絶えることなく、そして真田ぽーりんはそうした現実を描いて、感傷を多少は交えつつも、そこに人の責任を、なすべきこと、考えなければならないことを提示するのですね。その時に際立つのが、普段はなんだか嫌な人に感じてしまう店長で、あの人のシビアさは現実に一番近いゆえのものなのだ、そう思わせます。これは漫画で、夢のようなこと、あって欲しいと望むことを描くことは可能だけど、現実に起こっている問題はそうはいかない。そうした現実に対する解を担うのがほかならぬ店長で、時に残酷であったり、時に酷薄だったりする彼の態度こそは、この漫画の天国的な状況をより一層尊いものにさせるように思います。

さて、『ドボガン』2巻ではちょっと恋愛にまつわるエピソードが出てきて、趣味がすごく合う異性との出会い。ある種、マニアには夢のようなエピソードであるのですが、深く踏み込んだ二人であるがゆえの悲劇! いや、詳しくはいえねえよ。知りたかったら読んで下されい。でも、趣味である、こだわりである、そうしたものが近ければそれだけ、ゆずれないポイント、見過ごせないポイントが、致命的に存在するのは避けられない。これは、実際にあってもおかしくない。コミカルに描かれていますけどね、うまく運びそうな気配さえ感じさせますけどね、でも現実だったらどうだろう。あるいは私だったら? いろいろ思ってしまうのは、なんかほっとけない、そんな気持ちにさせられてしまうからなんだと思うんですね。

けど、悪いけど、応援はしねえよ。理由はいわないけれど、応援はしないよ。ああもう、絶対するもんか。

  • 真田ぽーりん『ドボガン天国』第1巻 (ヤングキングコミックス) 東京:少年画報社,2007年。
  • 真田ぽーりん『ドボガン天国』第2巻 (ヤングキングコミックス) 東京:少年画報社,2008年。
  • 以下続刊

2008年10月30日木曜日

火星ロボ大決戦!

 火星ロボ大決戦!』、堂々完結です。古き良き七十年代、一世を風靡した巨大ロボットものの雰囲気が、ここにもそこにもあそこにも感じられる、実に希有なスーパーロボット四コマ、それが『火星ロボ大決戦!』です。いや実際、これはなかなか類を見ないタイプの漫画であると思います。全体を貫く大きなストーリーがあり、短いスパンで一区切りつけられるエピソードがあり、そして毎回のネタの流れがあり、四コマごとに落ちがつけられる。なんだストーリー四コマかというなかれ、ここにはロボットものの王道があり、パロディがあり、そしてエロがある。いや、昨日、最近、妙にエロまじりになってきているような気のする『きらら』系列誌だなんていっていましたが、その傾向に先鞭をつけたのは — 、『かみさまのいうとおり!』だとしても、後押しし加速させたのはこの漫画じゃなかったか? というくらいにエロ絡みのネタが多い漫画でした。

でも、それが見事に持ち味になっていて、面白かったのですね。そして、それらエロを上回って熱かったのがロボット同士のバトルでした。ただでさえ紙数を要求するバトルをコマ数に限りのある四コマで扱って、間延びさせなかった。そういう点においても、希有な漫画であったと思います。

間延びしたと感じさせないのは、戦闘シーンにせよギャグにせよ、冗漫にそれを描くのではなく、最低限度の表現で伝えるべきを伝えていた、その整理された表現、展開の妙であろうかと思われます。実際、シーンを繰り返すギャグは多かったし、また落ち優先で流れを止めることも頻繁にあったというのに、肝心の戦闘シーンは基本充実して描かれていたし、大筋が損なわれることもなかった。これはやはり練り上げの結果なのだろうなと思うのですね。あるいは描くべきものを見誤ってなかったということなのかも知れません。

コマ割り漫画にこそ顕著であることかも知れませんが、迫力のバトルを描こうとするあまり、まったくストーリーが進まないっていうことがあります。ですが、『火星ロボ』においては、話が進まないと感じることはむしろ少なくて、これは見開きや大ゴマの概念を基本持たない四コマのフォーマットがためなのでしょうか。毎回8ページ、四コマにして15本、コマ数は60コマか、その最低限決められたコマ数があるため、逆に滞ることがなかったのかも知れないとも思います。小さなコマを目一杯使って表現されるアクションは、ちょっとごちゃごちゃして読みにくかったりすることもあるけれど、迫力において劣るということはなかったと思っています。四コマずつの積み上げが、ギャグに触れ、ストーリーに帰り、またギャグに傾いて、といった感じに右往左往しながら物語を進めていって、実に読ませる漫画でありました。ロボットものの定番がうまく使われる、それが表現を極力切り詰め、読者を引き込む秘訣であったのかも知れませんね。そして、定番の見せ場を期待したら、きれいに裏切られる、その切り返しのうまさ、切れ味が見事でした。

頻繁に挿入されるギャグ、律義に四コマ目で落とされる、そうした要素が、ストーリーの流れを阻害することも多い漫画でした。だから純粋にロボットバトルものを読みたい、そういう人にはちょっと読みにくい、のりにくい漫画であるかも知れないことは重々承知です。ですが、それは『火星ロボ』がストーリー四コマであることよりもパロディ系のギャグ漫画であることを重視しているためと考えれば、仕方のない、むしろ自然なことなのかも知れません。『きらら』系列誌についてよくいわれる、落ちがない、という批判は、この漫画には当てはまりません。ストーリーの流れを重視するか、四コマの様式を重視するか、『火星ロボ』は明らかに後者で、しかしストーリーが軽視されることはなかった、加えてキャラクターの魅力もよく引き出されていた、そのように感じています。

第3巻冒頭のカラーページには、キャラクターと彼らの操るロボットが紹介されていたのですが、そのロボットのイラストがカードダスを彷彿とさせるSDだったところに、ちょっと嬉しさを感じました。以前にもいったことですが、この漫画はロボットものを散々パロディしますが、その根っこにはジャンルへの愛があふれています。それはもう、ほれぼれするほどの愛。よむと みるみる あたまが わるくなる まんがではありますが、そこに愛があるなら、頭なんか悪くたっていいよな! いやむしろ、少年時代がそうであったように、頭悪く没頭するくらいがちょうどいい。賢しく常識人ぶるよりも、頭悪く一緒に楽しむほうがずっといいに決まっています。つまりそれは、全身で楽しさを受け止めようということなんだと思うのです。

  • なかま亜咲『火星ロボ大決戦!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • なかま亜咲『火星ロボ大決戦!』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • なかま亜咲『火星ロボ大決戦!』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。

引用

2008年10月29日水曜日

たまごなま

 この漫画が始まった時には、まさか後に結構好きになってしまうだなんて、想像だにしなかったものでした。『たまごなま』のヒロインは、小学五年生の女の子、こころ。不慮の事故で母は他界、そして父も……。といいたいところですが、なんと父は娘のパンツに、寄生なのか? 融合なのか? よくわからないのですが復活して、ええと取りついてる? とにかく全然意味わからないのですが、まあいるんです。娘のパンツの、その、お尻のところに、なぜか蛙の姿となって住んでいるんです。いやしかし、このぶっ飛んだ設定には瞬間判断力が停止してしまって、受け入れるとかどうとかいう以前の問題でしたよ。実際の話、困ったんだと思います。どう思っていいかに困ったのだと思います。そして、判断力が回復したその瞬間、拒否反応を示したのでした。

いや、だってよ、パンツに住んでる父ってどうかと思うわけですよ。掲載誌は『まんがタイムきららキャラット』。最近、妙にエロまじりになってきているような気のする『きらら』系列誌ですが、しかしそれにしても娘のパンツに父はないだろうって。しかも、この設定があるために、とにかくパンツが出る。思わずタンスをかじりましたよ。もういったいどうしたものだろうか、とりあえずアンケートはふつうに丸をつけておこう……。そう思ったものでした。

でも、評価ふつうおもしろいに変化したのはいつからだったのでしょうね。パンツパンツといってきましたが、描かれるパンツは別にそれほど扇情的なものではない。なんといったらよいか、いわば少女漫画のりと受け取ったらいいんだと思うようになった。少女漫画の特にギャグものには、まれに私にはどうとも受け止めがたい設定、のり、描写が見られることがあって、これもそうした類いなのかも知れないと、そんな風に感じはじめてからは、パンツや父の設定は特に気にならなくなりました。むしろ、ヒロインこころと友人たちの関係、なぜかこころの父に執心する蛙好きのお嬢様滝澤さんや寡黙でシビアでちょっと変わり者の田嶋さん、幼なじみの男の子沼田君、そして長女アキナと三女ゆきこの加わる家族の風景。和気あいあいとした感情の交流するところ、そこに生じるほほ笑ましさが気に入りました。可愛さやおかしさや、楽しさが素直に感じ取れるようになれば、ヒロインを取り巻くほほ笑ましさに対照的な、シビア、シュール、ナンセンスな笑いもまた楽しめるようになって、この落差、コントラストがまたよかったと感じるところです。

私には、まずは慣れるだけの時間が必要な漫画でしたが、慣れてからは面白い、結構好きだなと思える、そんな漫画になりました。単行本になって、最初から読み直してみて、ああこういうところ苦手にしてたなと懐かしく思い出したりしながら、でもやっぱり面白いと感じて、魅力は絵の可愛さだけではないですね。変わり者たちの織り成すハイテンションギャグ、そんな中、心を穏やかにさせるヒロインこころの無闇な無垢さ。いや、穏やかになったか? ともかく、のりにすべてを委ねてしまえば、楽しさがじわじわとわいてくる。でも、それでも酒飲んで産卵というの、あれはやっぱりやめて正解だったかと思います。もしあれがあったら、私がこの漫画の楽しさに目覚めることはなかったかも知れません。だから本当によかったと思っています。この漫画の面白さに出会うことができてよかったと、本当にそう思っているのですよ。

  • あぼしまこ『たまごなま』(まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。

2008年10月28日火曜日

境界恋愛少年少女

 『境界恋愛少年少女』は、『コミックエール』に連載された漫画。繊細な筆致で描かれるボーイ・ミーツ・ガールの物語に、私はすっかり見入られてしまって、しかしなにが私をそれほどに捉えたというのでしょうか。それは、悲しさを心いっぱいにたたえた少女、ウィンセリアの美しさ、儚さと、そして主人公の少年、ハルヒコの一途さ、健気さの出会うその局面に見出されるもののためであった、と思っています。見出されるものは、幼い恋愛のほほ笑ましさがまずあって、そしてそこには呪いというちょっと痛みを覚えさせる設定があって、ですがその痛みもまた心地よかったのです。

ハルヒコの住むことになった屋敷には、触れることのできない少女が住んでいた。それは、もうひとつの世界に暮らすウィンセリア。魔術師の呪いのためにここと似た、しかし違う世界に幽閉されたウィンセリアとハルヒコが出会ったことから動き出すストーリー — 。

ほら、ちょっと疼くでしょう? でも、こうした設定が許される、あるいは求められているジャンルがあると私は思っていて、それは例えば『エール』が掬い上げようとしたもの、ある種の感傷といってもいいかも知れないものがそうであったと思うのです。少年と少女の、非日常における出会いが描かれる。そこには禁忌があり、差し向けられる悪意があり、救いを求める思いがあり、そして子供である自分の無力を嫌というほど感じつつも、なお少女のために前へ進むことをあきらめない、少年のまっすぐなまなざしがあって — 、それがなぜこんなにも私の心に深く突き刺さってくるのだろう。現実感は希薄で、描かれるストーリーは結末にいたるまで、彼彼女らの心、気持ち、思いのうちにひきこもるようであるというのに、しかしそれがこの物語を追う私の心に訴えてやみません。私が実はこうした直球のストーリー、わかりやすさを求めているのだとあらわにするほどに強烈に作用して、そうなんですね、私は結局はまっすぐな思いのあからさまに描かれる、リアリティやギミックよりも、情感のまっすぐに投げ込まれるような、そういうものを求めているのです。

『コミックエール』は隔月刊、それゆえにゆったりとしたペースで物語を追うことができましたが、こうして単行本にまとまると、想像以上に駆け足で、それはちょっともったいないと思うほどのはやさで終わってしまっていました。もう少し紙数があれば、もっと丁寧に表現されただろう伏線、盛り上げもあったように思うのですが、しかしそれがなされなかったのがただただ残念で、そう思うのはハルヒコとウィンセリアの物語にもっと長く触れていたかった、そっと繊細に、そしてより深まる心情にからめとられたかったと、そんな風に思うからなのでしょうね。描かれるのは、おとぎ話めいたボーイ・ミーツ・ガールのストーリー。悲しみをその心にたたえた美しい少女を助けようと奮闘する少年の物語。そしてそれは、かつて少年だった私が夢見る、仮構の物語の反映なのだろうと思います。

  • 水谷悠珠,かえで透『境界恋愛少年少女』(まんがタイムKRコミックス エールシリーズ) 東京:芳文社,2008年。

2008年10月27日月曜日

まん研

 うおなてれぴんは病みつきになる。これは私が『しすこれ』を読んで得た結論であるのですが、なにか事件が起こるわけでもなければ、ドラマチックななにかがあるわけでもない、ちょっとフィティッシュで、コスプレ志向の漫画が、読んでいるうちになぜか気になって仕方がなくなるというのだから不思議です。第一、全身タイツや獣耳、スクール水着に興味を持たない、なんら感慨を覚えない私からが、その緩く畳みかける様にやられてしまう。最初こそはいやいやというかしぶしぶのコスプレだったのが、いつしか当然のごとくというか、日常のありふれた習慣というかになる頃には、その倒錯感がたまらなくなってしまっていて、ああこれが汚染されるということなのですか!? でもまあ、新たな面白さ、楽しさに気付くことが汚染というのなら、いくらだって汚染されてみせます。

しかし、この漫画の第一回を久しぶりに見てみて、のっけから三人が下着姿で乳談義をしているという、その飛ばしっぷりにびっくりというか、でもうおなてれぴんをすでに知っていた私は、この第一回ののりを普通に受け入れたものでしたっけ。多分知らない人の中には、なんじゃこれはと引いた人もあったのではないかと思うのですが、しかし長く読み続けているうちに、汚染されて、このわけわからなさが癖になってしまったという人も多いはず。かつての私がそうであったように、ナチュラルにコスプレをし、そして萌えポイントについて談義、さらには妄想にふけってみせる、そうした彼女たちのよくわからない行動、生態、もろもろに、なんと表現したらいいかわからないおかしみ、興味、共感を覚える自分を発見したのではないかと思います。

この人の漫画の特徴は、それこそ容易に盛り上がらないことだと思っているのですが、別にローテンションでもないけど、決してハイテンションでもないという、ええと、ミドルテンション? そんなの聞いたことないけど、高高度でもなく低高度でもない、普通のテンションを維持するかのような、しかしそれでいて、いってることやってることは微妙に常軌を逸しているというか、そうしたギャップが面白いのかな。ガツンとはこない、けれど気付けば浸透してしまっている。ああ、だから汚染なのかな。変なことばっかりいって、コスプレを強いる先輩ふたり、彼女たちの、自分のいってることはおかしいとわかっていながら、あえてそれを押し通す悪乗りが楽しい、しかもその悪乗りを割と素直に受けてしまう一年生ヒロインがおかしい。そして最後には三人で一緒になって、コスプレでもなんでもやっている、それも妙にナチュラルに! それがなんか笑えてしまって仕方ないんですね。

ヒロインたち三人の所属するのは第2まん研。ということは第一漫研も存在していて、こちらはずいぶんまともというか、普通の人たち。で、例によって部長が第2にライバル意識を燃やすというパターン、かと思いきや、結構類友っぽくて、ええと汚染されているってことですか? また一年生たちは普通に仲がよくて、別に対抗したりはしない。やっぱり微妙なミドルテンションがここにもあって、そうした緩やかな寄ったり離れたりの様子も楽しくて、こうしたところにも私の病みつきになっているという所以があるように感じています。

それはそうと、のっけから下着になった第2の面々ですが、あんまりに普通に脱いでるので、全然いやらしさがないという、そのさっぱり感は特筆ものだと思います。全身タイツや水着など、結構際どく体のラインを出しているのに、エロティックな感じは特にない。これはすごいことだと思います。でも、毒された第一部長が毒されていない一年生にぽろりと研究を持ち出してしまった時、あの拒絶が、今まであらわにされることで消し去られていたエロティシズムを若干取り戻させたように感じて、ああ、私がうおなてれぴんにエロを感じないのは、そのあっけらかんとした解放感、あるいはあまりのナチュラルさのためであるのだと実感した次第です。このナチュラルさがために、この漫画は変に健康的というか、変に健全というか — 、不健全を健全に描くから変だというのですが、しかしそのギャップ、おかしさが私を捉えて離さないのです。

ほんと、病みつきだわ。

ところで萌えポイントについてですが、眼鏡回の裸にメガネなんて超萌えのシチュエーションじゃない。申し訳ないけど、これには同意せざるを得ませんでした。メガネデコ最高、といいたいわけではありませんが、冬のイベントでのゴスコス — 、眼鏡、デコ、ヘッドドレス、大量の布、最高じゃないか! とまあ、これくらいは普通に強弁したくなるくらいに強力です。いや、眼鏡だからそういうわけじゃないんだ。病膏肓に入るというではありませんか。もう私はこののりに抗うことができないと、そういう次第なのであります。

  • うおなてれぴん『まん研』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

引用

  • うおなてれぴん『まん研』第1巻 (東京:芳文社,2008年),97頁。

2008年10月26日日曜日

はらはら薬「翁丸」

ここ最近、なぜか夕食後に腹を壊すことが増えました。毎日ではないけれど、数日に一度、悪い時は連日、食後にお腹の調子が悪くなって、どうも落ち着かない。頭痛も困りますけど、お腹の調子が悪くなるのもまた困ることで、なにしろこちらはタイミングを計り間違えると悲劇が待っています。ああ、お腹が弱いのは嫌だなあ、と思うものの、しかしなぜ突然こんなことになったのか。ここ数年、正直な話、弱っているんです。自宅でならいいけど、外でこんなことになったら嫌でしょう? 下手したら足止めをくらうわけで、おちおちと外食もできません。

実は今日もお腹が壊れたのですが、そんな時にはとりあえずはらはら薬「翁丸」を服用することにしています。はらはら薬という響きがちょっと面白い和漢薬、生薬であるのですが、これが実によく効いて、実際今日も回復しました。しかも一発で。過去にこの薬が効かなかったという覚えがない、それくらいによく効くものだから、うちでは絶大な支持を集めています。旅行に出る時には、小袋に、小さなケースにはらはらを入れ、必ず持っていく。自宅にもこれを欠かさない。我が家における常備薬の王様、それがはらはらです。

しかし、なんでこんなに効くのか。普通に考えると、市販薬であるわけですから、そんなに効くはずはないんです。風邪薬でもなんでも、売薬は強い成分が入っていません。だから、症状緩和が精一杯で、劇的に効くという道理はないはずなのです。実際私は、そうした理屈を知っていますから、風邪薬がまったくといっていいほど効力を発揮しません。プラセボ効果の逆だろうと思うのですが、こんなの気休めだ、そして実際そのとおりなのですから、飲んでも効かない。飲まなかった場合に比べ、若干楽になっているのかも知れませんが、ですがこれを飲めば大丈夫、なおる! と思って飲む人に比べれば、はるかに効きが悪いはずです。

なのに、そのしょせん市販薬であるはらはらに限っては、この道理が通用しません。驚くほどに効く。実際私自身が、こんなに効くはずがないといぶかしむくらいに効きます。これは、効かないと思いながらも、より深層では効くと信じているからかも知れません。だから、本当にこの薬の効果を確かめようというなら、腹の壊れた私を二人用意して、一人にははらはらを、もう一方にははらはらに似せた偽薬を与えて、経過を観察するしかありません。この両方で効いたらプラセボ効果です。けど、はらはらのみに効果が現れたとしたら……。

でも、絶対プラセボ効果だと思っているんですけどね。だって、どこから成分が吸収されるのかわからないけど、いくらなんでも効果の出るのが早すぎます。舌下錠じゃないんだから。でも、それでも私にとっては効くことの方が重要なのであって、そう、これはさぞかし私の体質にあった薬であるのでしょう。

  • はらはら薬「翁丸」

2008年10月25日土曜日

Jets of water through rings, taken with GR DIGITAL

Jet of water毎月恒例GR BLOGのトラックバック企画、2008年10月のお題はなにかといいますと、Ringであります。Ringと聞いてぱっと思い出されるのは、昔はやった怪奇映画であったりしますが、けれど一般的には指輪あたりが連想されるのでしょうね。さて、私が今まで撮ってきた写真には、指輪なんてものはまったくなくてですね、また撮ろうと思っても、都合よくそうしたもの、気の利いたものがあるわけでもなくて、だからより広くリングというものを解釈するしかないと思われたのでした。

けど、どうこじつけようにも思いつかなくて、仕方がないので過去の写真にリングが写っているものをと思って探したのでした。そうして見付けたのが、この二枚の噴水の写真。大阪は阪急三番街にある噴水なのですが、水のジェットがピューと、あたかもチューブの中を通っていくようにして吹き出される、その様子がちょっと不思議で、子供の頃は大阪に出るたびに見たがったような気がします。

で、なぜこれがリングなのか? ほら、噴水の上に輪がいくつか吊られています。噴き出した水が、この輪を通るのですね。今でも、休みの日なんかには子供が飽きず、水の流れを見ているのですが、そうした様子を見ると、時代は変わっても、変わらないものがあるっていう気分になれます。

Jet of water

2008年10月24日金曜日

「カルドセプトDS」オリジナル・サウンドトラック DELUXE

 先日、『カルドセプト』のサウンドトラックについて少し触れましたが、本日はその最新作『カルドセプトDS』のサウンドトラック発売日であります。もちろん私はとうから予約済みだったので、仕事の帰りに受け出してきて、早速聴いています。しかし、最近はCDでもなんでもインターネット通販で買うことが増えてしまったのですが、店頭で予約して、受け取ってというのは通販にはないよさがありますね。そういえばその店は、『カルドセプト』サントラを注文購入した店だったっけ。ちょっと昔を懐かしむような気持ちにもなろうというものです。

さて、『カルドセプトDS』オリジナル・サウンドトラックはCD三枚組、充実の枚数です。収録時間も三時間を越えて、実に聴き応えがあるのですが、その内訳はといいますと、最初の二枚が『カルドセプトDS』のサウンドトラックで、三枚目は先日紹介しましたサターン版(すなわちオリジナル)のサントラを復刻したものであります。その違いはかなりのもので、おそらくは誰もが一聴してその違いに気付くだろうほどに違っています。DS版は、基盤収録との記載があり、ニンテンドーDS音源ver.という表記は伊達ではありません。文言どおりのオリジナル・サウンドトラックであります。

『カルドセプトDS』を持って、プレイしている人ならば、DS音源も一緒に持っているわけで、ならこのサウンドトラックの価値とはなんでしょう。だって音楽聴きたくなったら、実機で聴いたらいいじゃないか、と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、実際聴いてみると、クオリティが違います。実機で聴いた時にはよたよたと不安定だったメロディが、サントラだとしっかりと鳴っていて、これは音源から出た信号を増幅するアンプであるとかなんだとか、そういう回路がきっと違うんでしょうね。DSの音声は、ゲームのBGMには充分ですが、観賞するにはちょっと厳しい感じで、イヤホンをさすとサーッとホワイトノイズが入って、そして鳴りはさっきもいったように少々不安定。サントラはそうした弱い部分を総取っ換えすることで、次元の違う鳴りを実現しているのかも知れません。

サントラに収録されている曲は、各ステージのBGMやオープニング、エンディングの音楽だけでなく、ほこらや勝利時、枯渇時のジングルまで含む、至れり尽くせりの内容であります。正直、このサントラを買わなかったら、聖堂のBGMなんてちゃんと聴くことなかったと思うんですね。変な話ですが、カードショップのBGMは覚えてるのに、聖堂はほとんど覚えがなくて、これはきっと護符の勘定に必死すぎるあまり、余裕をなくしているのでしょう。買わない時は、ボタン連打で素通りの勢いですし。

DS音源ver.は、昨今のCD/DVD媒体をフルに活用したゲームに慣れた耳には、軽く聴こえてしまう曲が少々あって、そのあたりはハードウェアの制限とはいえ、少々残念です。ですが、それでもうまくアレンジをほどこして、重厚さをこれでもかと打ち出す曲がある。また、音の重ねがシンプルにならざるを得ないからか、対旋律の聴こえやすさは旧サントラの比ではありません。むしろ、こちらの方が音楽の組立がわかりやすいくらいです。こういうと言い過ぎ、あるいは的外れのたとえになってしまうかも知れないけれど、オーケストラアレンジに対するピアノアレンジのような、そんな印象の違いが面白いです。いや、たとえとしてはロマン派のオーケストレーションとバロックのそれとの対比といった感じか……。ほら、すごく的外れになった。

実際に聴いてみるまでは、DS音源ver.という表記が少々心配でしたけれど、実際耳にしてみれば、問題なし。むしろその表現の幅に感心するくらいです。アレンジの力なのでしょうね。音源違い、アレンジ違いの同曲を比較して聴ける、ちょっと面白いアルバムに仕上がっていると思います。

2008年10月23日木曜日

脅迫

せっかく買ったものだから、まずは遊んでみよう、そう思って『脅迫』のプレイを開始しました。なぜ『脅迫』なのかというと、まずは知っているものからやってみようと思ったから。けど、これは駄目です……。正直、陰惨で見てられないんですが……。昨日にもいっていたことですけど、『脅迫』をリリースしたメーカー、アイルのゲームで私の知っているものといったら『瑠璃色の雪』くらいなもので、だから私にとってのアイルのカラーとは『瑠璃色の雪』的なもの、純愛系との認識でいたのですね。ところが『脅迫』には、そうした要素はかけらもない模様です。

でもさすがに『脅迫』というタイトルが付いているわけですから、どんなものかは予測します。それに『脅迫』は『瑠璃色の雪』にも少し出てきて、主人公博士が途中入手するビデオがあるんですが、それが『脅迫』なんです。ヒロインの目に隠しが入っています。この仕掛けについて、当時はそれほどどうとも思わなかったのですが、実際に『脅迫』をプレイしてみるとその意図するところが見えてきます。『脅迫』のヒロイン、明日香の強要された行為が撮影されて流通しているという設定なんですね。つまり、『瑠璃色の雪』の時点において、『脅迫』において描かれた陰惨な出来事は事実として確定しているのだということです。

がおー、もう寝込みそうだ。

このゲームが収録された本『遊べる!!美少女ゲームクロニクル《PC98編》』に、アイルではないのですが、ちょっと面白いコメントがありました。

たまに、TRYのアンケートハガキで鬼畜ゲームは苦手って書いてくる方がいらっしゃいます。「苦手なんで明るいの作って下さい」って。パッケージの裏見て下さいって言うしかないんですよ。それはブランドを間違えてるから。

うん、その意見はよくわかります。アイルの得意とするジャンルは、私には向いていないのでしょう。アイルにおける異色作であった『瑠璃色の雪』が、たまたま私にマッチした。というだけの話であるのでしょう。しかし悔しいなあ。繰り返しいいますが、私はリバ原あきの絵は好きなのです。そりゃちょっと、いやかなり? 神村良介の立ち絵がおかしいとか、まあ男キャラはどうだっていいんですが、妹未来が微妙とか、笑顔がどう見ても「ゆっくりしていってね!!!」だとか、友人綾がもっさりとして重そうだとか、まあ思うところはいろいろあるんですけど、はっとするようなイベント絵があるのです。それが本当に魅力的で、思えば『瑠璃色の雪』で私を魅了したのもそれだったのかも。川から子猫を助けるイベントでの絵がすごく魅力的でした。おそらくはあれは16色グラフィックならではの味、256色以上の環境では出せないに違いない。私がなおも16色最強を唱えるのは、きっとあの絵があってのことだろうと思います。とはいっても、一度は投げたんですけどね。

全然『脅迫』に触れませんね。なんか、へこむらしいですよ。最初こそはちゃんとテキストも読んでましたけど、途中からCtrlキー押しっぱなしになって、それでもちゃんとシーンやエンドを回収できるのは、充実のヘルプ機能のおかげでしょう。というか、答機能を早々に有効にして、とにかくだだだっと勢いで終わらせちゃうことにした。だって、つらいんですよ。なんか、陰鬱な気持ちになってきて、まあそれはゲームが悪いというんじゃなくて、ジャンルとの相性の悪さのためなんですけどね。いやだってさ、制作者がこんなこといっているんです。

当時のゲームはレイプとかされててもどこか明るいんですよ。実際にひどい目に遭わされたら帰っても眠れないし、次の日から陰鬱な気分になるし、楽しいことなんて何もなくて、そこにたたみ掛けるように次から次へとやられると精神的に沈んでいく。普通ならこうだろう、って考えたのが『脅迫』だったんです。

うん、その考えは正しいと思います。それは『瑠璃色の雪』でも感じられたことで、普通この手のゲームでは感情値が達していないとイベントは発生しませんが、『瑠璃色の雪』では強引に推し進めることができるようになっていて、そうしたらもうめちゃくちゃ後味が悪いの。陽子なんて、私博士のこと好きだったのに……、なんていって泣いてる。でもって『脅迫』というゲームは、この手の展開でもって畳みかけるんですね。ええ、ヒロインも沈んでいくかも知れませんが、プレイヤーも沈んでしまって、もうどうしようもない感じでありまして — 。制作者の意図するところは功を奏していると、私が確かに肯いますよ。

  • 脅迫

引用

2008年10月22日水曜日

遊べる!!美少女ゲームクロニクル《PC98編》

 知らなかった! こんな本が出ていたなんて。その本の名は『遊べる!!美少女ゲームクロニクル《PC98編》』。これは正直買いだと思い、即座に注文、かくして現在手もとにあるのであります。しかし、なぜそんなに欲しいと思ったのか。PC98ユーザーだったわけでもないのに。後に実機を手に入れて遊んだとはいえ、PC98全盛期の頃は、まったくといっていいほどに関わりを持たなかったというのに。いえ、だからなのだと思います。関わりを持たなかったことが、逆にPC98をプラットフォームとするゲームに、ちょっとした憧れを持たせることになったのでしょう。かつて私は、Sofmapのフリーマガジン『ソフマップワールド』をもらってきては、そこに掲載されているPCゲームを眺め、PC98を内心うらやましく思っていました。なにしろ私はMacユーザーでしたから、ゲームというとほぼ洋ゲー。アクションやシューティングこそはあっても、美少女ゲームはまずありませんでした。人間はえてして手にできないものに憧れを持つものだと思います。そう、私の憧れたゲームとは、そうした系列のゲームであったのでした。

しかし、この本がただPC98時代の美少女ゲームを懐古するだけのものだったら、私はきっと買わなかったでしょう。そう、書名をよく見てください。遊べるんです。この本を買うとゲームが8本ついてくる。それは私には極めて魅力的と映って、そしてそこには、私の知る限りにおける美少女ゲームの最高峰『瑠璃色の雪』、は収録されていないんだけど、同じメーカーの『脅迫』が入ってます。これは、買おう。正直そう思った。そしてこれが売れれば、続編が出るかも知れない。そうしたら『瑠璃色の雪』、は持っているんだけど、も収録されるかも知れない。などと思ったのですね。

収録されているゲームは以下のとおり。

  • May-Be Soft『Coming Heart』
  • May-Be Soft『エスケイプ!』
  • アイル『脅迫』
  • 天津堂『MARTIAL AGE』
  • BLACKPACKAGE『Get!』
  • STUDiO B-ROOM『殻の中の小鳥』
  • PIL『女郎蜘蛛』
  • Melody『NIGHT SLAVE』

このうち、間接的にでもタイトルを知っていたのは『脅迫』と『殻の中の小鳥』のふたつだけ。なんとなくでも内容を知っていたのは『脅迫』だけ。けど、なぜか天津堂の絵は知っていました。38ページにね、中華な衣装を着た女の子の絵があるんですけど、この絵を知っていて、ええと、やんやん? いつだったかに見て、いい絵だなと思ったことがあるんですね。

私がこの時代を好きだというのは、過渡期というか、成長期のエネルギーみたいなものが充満していると感じられるから、さらに、ほら以前にもいっていました。

16色しか使えないところを、パレットを工夫し、ドット手打ちで調整して作り上げられたグラデの職人技、あれは本当に素晴らしかった

うん、本当に素晴らしいと思います。あのハードウェアリソースが貧弱だった時代に、創意工夫を最大限に発揮して、少しでも上質なものを作ろうと取り組んでいた、そんな時代だったのだと思うのです。私はもちろん、今の潤沢なリソースを用いて作られたゲームを否定しようとは思いません。それはそれで素晴らしいものがある。ですが、あのリソースが限られた中、作り上げられたものには、今のものにはない価値が確かに存在しています。それは懐古趣味ではなく、あの時代ならではの様式としての素晴らしさがある、そう私は固く信じています。

この本で面白いのが、クリエイターインタビュー。Mey-Be Softの回、次のような言葉が印象的でした:98時代を総括すると「個性が尊重された最後の時代」ってなるんじゃない? 制限が無くなって自由にできる、はずだったのがみんな一緒になった。そうなのかも知れません。制限があった、できることが少なかった。だから、一番表現したいことに先鋭化するしかなかった、のかも知れません。私は、もともとから際物好きというか、とにかくチャレンジしているものが好きなので、今の潤沢なリソースがあってはじめて実現されるようなゲームにもひかれながら、しかし昔のやりくりに苦労しながら作ったゲーム、それこそ「24バイト入らへんねん」っていわれて「24バイトって、何文字や」と。「え〜と、12文字、12文字、12文字」と削って、そういう感じでフロッピーを作ったり、『小鳥』は実は横が26文字、高さ3行の1ブロックが基本単位で、15ブロックが1シーンになるんです。ばっと書き出すと平気で1000文字とか行ってしまうのを、どうまとめるかという地獄の作業がありました。こうした話を聞くと、なんかいとおしさに胸が熱くなります。

私がこの時代のゲームに、というかキャラクター造形に、なんともいいようもない魅力を感じてしまうのは、私がそれらゲームの作られた時代の空気の中に暮し、育ったからということもあるのだろうと思います。正直な話、最近のはやりの絵よりも、PC98時代の絵にひかれるところがあって、例えばリバ原あきの絵などはかなりど真ん中。だってね、これは『殻の中の小鳥』ですが、ヒロインを「石」よばわりする恋『伝説の勇者ダ・ガーン』の蛍ですときたもんだ。しかも面白かったのが、レンとアイシャはバッドってイメージで作っていて、「[中略]恋は死んじゃう」って言ったら[新井和崎氏が]怒って怒って。怒ってくださって本当によかった!

ともあれ、私の青春の時代、私の知らない世界ではこうした文化が花開いていたのですね。そして私は、今になってそうした文化に触れて、ああ私の好きな時代の匂いがする、そう思って、しかも取り戻せないと思っていたものを、こうして実際に触れることができるのです。なんという仕合わせだろうかと思います。

引用

QMA、フェニックス返り咲き

本日、QMAをプレイしてきました。QMA DS以後、二度目のプレイであります。

まずは本日の記録をば。

2-2-1-0#1-0-0(0-2-1)

表示の見方は、例によってQMA5 Wiki - 用語集(基礎編)の【成績表示方法】によっています。

本日最初のプレイは、フェニックス組でのもの。2位通過、8位通過、6位で敗退という、非常に悲しい成績でありました。前回及び前々回成績はともに14位。足して割るとしっかり10位以下であります。よって、ミノタウロス組に落ちたのでありました。

ミノタウロス組での成績は可もなく不可もなく。三戦ともに決勝までいけましたが、優勝は一度もありませんでした。というか、ミノタウロス組くらいだと、全問正解するくらいの勢いでないと予選落ちしますね。芸能スロット第一回戦でのこと、全問正解して93.73点を取ったにも関わらず12位。おーい、ちょっと待ってくれ。これ以上は正直、がんばれない。同じく第一回戦、学問並べ替えで92.03点をとって11位。正直厳しいです。全部わかったとしても、ゆっくり考えていたら落ちるという、非常にハイレベルな場所になっています。

ミノタウロス組からフェニックス組に戻ってから、なんでしょうか、回線が不調である模様です。復帰初戦ではComが6人もいて、おかげでリラックスして勝ち上がることができました。そして問題は次のトーナメント。最初は確かにみんな人だったのに、始まってみると4人に減ってる! しかも一人脱落したから決勝は3人+Comでの戦いです。ありゃあ正直参りました。おかげで両方とも優勝できたから、結果オーライなのかも知れませんけど、でもちょっと後味よくないですよね。

今回の復習です。

エベレストはネパール語ではサガルマータ。源氏物語は全五十四帖、そのうちで唯一、上下に別れるものは第三十四三十五帖「若菜」。日本で最北の都市は稚内、最南の都市は石垣市。アイスランドの首都はレイキャビクか! 知ってるよ! ああもう! 『紅の豚』に出てきたアメリカ人パイロットはドナルド・カーチス。最後、体操女子で使われる平均台の幅は10cm! そんなに狭いんだ!

本日のプレイで、上級魔術士から魔導士に昇格しました。しかし驚いたことに、学校の名前が変わっていまして、その名もタカツキ丘のパン祭り校。なんだそりゃー!

あ、そうだ。『カルドセプト』を作ったソフトメーカーを問われるタイピングがでましたよ。これは嬉しかった!

2008年10月21日火曜日

日本語の磨きかた

 言葉というのはつくづく難しい。文章といったほうがより正しいのかも知れませんけれど、こうして毎日毎日、なんのかんのと書いていると、だんだんになにをどう書いたものかわからなくなってくるのです。思ってることがあって、それを言葉にしたい。その思っていることに一番近い表現を探すのですが、なかなかしっくりくるものが見つからない。そんな時には、インターネットをむやみにさまよってみたり、ぼさっとしてみたり。これを指して迷走というのだと思うのですが、しかし自分はなんで、こんな誰が求めているわけでもない文章を書くのに、こんなに時間や労力を傾けているのだろう。空しくなったり、嫌になったり、でもまあそれでもなんとかやっつけてきました。

なんだか、変に深刻そうな書き出しですが、別になにか高尚なことをいいたいわけではありません。単純に、文章書く時には迷うことが多い、それだけの話でありまして、例えば漢字で書く/かなで書くというレベルに始まり、アラビア数字にする/漢数字にする、どこに句読点を打つ、慣用句やらもろもろをどう使う、 — 迷ってばっかりだという話なのです。

例えば昨日の文章で、的を得るという表現を使って、もちろんこれは的を射るが正しい、それは知っているのですが、それをあえて得ると書きたかった。自分の語感ではイルではなくエルの方がしっくりくる、それが理由なのですが、一日考えた揚げ句、射るになおしました。たとえ違和感があるとしても、また一概に誤用とはいえないという人があるとしても、それでも言葉には規範となるものがあるわけです。将来こそはどうなるかわからないとしても、現在では的を射るが正しいとされるというのなら、それを受けるべきだろう。迷ったんですけどね、結局は規範に従うことにしました。

規範、それは一度ないがしろにしてしまうと、際限なく逸脱しかねないものです。以前、もう十年以上も前のことですが、枚挙にいとまがない枚挙がないと覚えていたことを思い出します。なにかで使おうと思ったのでしょうね、辞書で調べてみたら、自分の覚えが間違っているとわかって、さすがに認識をあらためました。しばらくの間、枚挙にいとまがないには違和感がいっぱいでありましたが、しかし自分が違和感を感じるからといって、誤りを正さないというのは間違いです。だから私は規範に従いました。今回の的を射るに関しては、一日考えて枚挙と同じ結論にいたった。結論を出すのに一日という時間がかかったのは、こだわりのためであったように思います。

なかでも私が嫌いなのは、「何とかにこだわる」という文章です。これを見ただけで、私は、書いた人の頭の中まで疑ってしまいます。

『日本語の磨きかた』という本に林望が書いていたことです。こだわるという言葉は、今では肯定的に使われることが多いけれど、それでもこれは否定的な言葉だと、林望はいいます。私も同感です。私も昔は、これを肯定的に使ったことがありましたが、しかしいろいろ知るうちに、肯定的にこだわることはなくなりました。だから、私がこだわりを使っていたら、それはほぼ例外なく否定的な意味で使っていると捉えていただいてかまいません。つまらないことに拘泥している、意固地になっている、そうした含みを持った言葉として使っているということです。

林望は『日本語の磨きかた』で、言葉を使う際には自覚的でありなさいというようなことをいっていて、それは実際そのとおりだなとうなずきながら読んだことを思い出します。この本の出版されたのは2000年ですから、もう十年近く前になりますね。その頃の私は、どうも言葉に興味が向いていたらしく、林望に限らず、金田一春彦やら大野晋やらいろいろ読んで、それは結局は迷っていたからだと思うのです。なんらかの指針となるものを欲していて、それがこうした本に向かったのでしょう。

正直なところ、これらの本を絶対視することはできません。私にとっては著者の違和感を理解できないことがあり、また著者が受け入れることに違和感を感じたりもする。しかし、そうした読まれ方は著者も織り込み済みでしょう。絶対的な基準を提示するものではない、あくまでも著者自らの感じるところ、思うところ、考えをつづったものである、そうした前提で読めば、ああこの人はこういう風に言葉に向かっていらっしゃるのかと思えてきて、それはやっぱり参考になるのですね。共感するところもあれば、学ぶところもありました。こうした本を読んで、もちろん他の本も読んできて、いいとこどりをした結果が今の私の文章であるのかも知れません。

引用

2008年10月20日月曜日

カルドセプトDS 公式ガイド — カード&タクティクス

『カルドセプトDS』にもガイド本は出ます。メディアファクトリーからと、エンターブレイン、二冊出て、私はおそらくこのうちの一冊は買うでしょう。

買いました。このタイミングでいうわけですから、もちろん買ったのはメディアファクトリー版「カード&タクティクス」です。いやね、やっぱりカードの情報をしっかり参照したいと思ったものですから、小さくて読みにくい特典カードガイドじゃなくて、本を欲しいと思ったんですね。購入後、帰りの車内で早速中身を確認したらば、ああこれは確かに買ってよかった。特典のガイドは、DSサイズの1ページに12のカードが記載されているのですが、さすがに小さすぎて見づらい。ですが、本はA5サイズの1ページに6枚のカード。おお、目に飛び込んでくるようではないですか!

カードリストには、特典ガイドにも記載されていた情報に加え、コメントが記されているのですが、これが結構いい感じでありました。カードの利点や弱点、相性のいいカード、さらにはワーウルフにイビルアイボール、メデューサ/コカトリスにホーリーシンボルといった、定番ながら凶悪なコンボへの言及も忘れないという親切さ。イビルアイボールなんて記憶になかったよ。種族属性関係なく、当たればウルフにされるというだけでも嫌なのに、そこに即死が追加ですか。これは、無属性対策を重視するならワーウルフ、不死族ならメデューサ/コカトリスを入れるのがよさそうですね。そうすると、仮にキーカードであるそれらクリーチャーを引きそこねてもなんとかなる、などなど、読んでいるだけであれこれと考えはじめて、こうした刺激が得られるというのはありがたいです。

この本のサブタイトルが、「カード&ストラテジー」ではなく「カード&タクティクス」となっているのは、なかなかに的を射たものであるな、そのように感じています。それはつまり、数十ラウンドに及ぶ対戦を通しての戦略よりも、局地で発生するクリーチャー戦やスペル戦に重きを置いていると感じるからで、ブック構築指南もあるにはありますが、それでもやっぱりどういうカードがどういう局面で役立つという、局面待ちの印象は否めません。だからタクティクス。まあ、本の半分弱はカード解説なので、どうしてもそうならざるを得ないとは思うのですけどね。

攻略本のありがたいのは、充実したカードリストもそうなら、マップ情報、ほこら効果の一覧などを参照できるところであろうかと思います。カードショップでなにが売られているかとか、実際に踏んでみないとわからないものでしょう。でもこうして本で確認できれば、カードショップでの購入可能性に期待して、ブックからは外すという判断もできる。もちろんこんなのはただの可能性の問題で、結果しくじることも往々にありえます。でもまあ、どんなでも情報があるっていうのは有利だってことで。とりあえず、ほこら効果を確認して、踏みたくない気分はより以上に高まりましたよ。

ただ、この本にはEカードの詳細、それからメダル等々の条件は載ってません。正直私はそれらはどうでもいいのですが、けれどそのへんがフォローされたものを欲するとなると、完全を謳うエンターブレイン版を待つ必要があるのでしょうね。でも、その頃にはきっとネットにばんばか情報が出ているはず。そうした状況も見越した上で、いったいどういう編集をしてくるか。それはちょっと楽しみであるかも知れません。もし詳細な戦闘時能力発動テーブルとかが載ったりしたら、それはかなり有利な情報になるはず。だから、ちょっと期待しておきたいと思います。

引用

2008年10月19日日曜日

アコースティックギター入門

NHKは、趣味に関する講座番組を放送していますが、ギターの入門番組は昔から人気であるようで、定期的になんだかんだと取り上げられますね。例えば最近では、クラシックギターフォークギター弾き語り、そしてエレキ・ギターなどなど。私はこれらのテキストはとりあえず買うことにしています。当座弾くことがなくとも、後々なんかのおりに役立つことがあるものですから、音楽やるなら、どんなでも楽譜を持っておくに越したことがないと実感します。さて、そんなNHK趣味講座のテキストですが、私にとってのベストといえるものが一冊あります。それは1996年のNHK趣味講座『アコースティックギター入門』です。講師は石川鷹彦と加藤和彦。しかし、私はこの番組は見たことがないのです。

私がギターを始めたのは、2002年の冬になろうという頃。1996年時点ではギターの講座などには見向きもしなかったのですね。そんな私が、何年も前の番組のテキストをなぜ知っているかというと、大学の図書館に所蔵されていたからなんです。ギターをはじめよう、じゃあまずは入門テキストだ、と思って探したら、これが出てきた。見てみると、体系的な練習はないけれど、気の利いた選曲、ちょっと習ってみたいなと思わせるものがいくつも入っていて、そして私はネットオークションで一冊確保したのでした。これは、本当に価値のある一冊です。

収録曲は以下のとおり:

  • あの素晴らしい愛をもう一度
  • スカボロ・フェア/詠唱
  • ジャンバラヤ
  • 22才の別れ
  • ヒア・カムズ・ザ・サン
  • スウィート・ホーム・シカゴ
  • ソ・ダンソ・サンバ(ジャズ・サンバ)
  • TRUE LOVE

ただし、『ヒア・カムズ・ザ・サン』は解説のみで、楽譜の収録はありません。許諾が得られなかったんだそうです。

さて、曲目を見ていただいてもわかると思いますが、そのカバーするジャンルの広さが魅力です。フォークはもちろんある、というかフォーク中心ですが、それ以外ではカントリーあり、ブルースあり、ボサノバあり、そしてポップス。この充実のバリエーションが私には魅力的だったのでした。

私が最初に練習したのは『22才の別れ』でした。私がこの曲をやりたいと思ったのは、『キャプテン・ラヴ』というゲームに出てきたお姉さんが、『22才の別れ』はあっても『23才の出会い』なんてのはないのだ、なんていっていまして、その台詞があんまりに魅力的だったものだから、これはぜひ歌えるようにしたいなって。ごめんなさい、あほな理由で。

次にやったのが『スウィート・ホーム・シカゴ』です。これは、ロバート・ジョンソンの曲。ブルース。この曲、というかこのジャンルに寄稿しているのが憂歌団の内田勘太郎で、こんな具合にそのジャンルのアーティストがコメントを寄せているのもまた魅力でした。『22才の別れ』なら、伊勢正三と石川鷹彦が対談している。なぎら健壱はカントリーなのかな? それからゴンチチ。そして、ボサノバの小野リサ。やっと本題にたどり着いた。

先日聴いたといっていた、小野リサのアルバムBossa Carioca。その第一曲目がSo Danço Samba、そう私は今これを練習しているのですね。昔、ギターをはじめた頃にも少し弾いてみたのですが、ボサノバのコードチェンジは当時の私には難しすぎて、断念。よって今まで持ち越して、しかし今になればなんとかなるなっていうのが印象です。歌詞はすごくシンプルだから、覚えてしまいました。コードも、パターンで覚えればなんとでもなります。こうして、暗譜で弾けるようにして、だから後は数をこなすだけ。指のかたちを意識することなく、自然に弾けるようになったら万歳ですね。

といったわけで、私は図らずもボサノバ練習中の身となって、しかしやってみればはまりそうなくらい楽しい。広くジャンルを経験するのは、飽きがこなくていいなあと思うところであります。

2008年10月18日土曜日

カルドセプト 公式ガイド

 私のはじめての『カルドセプト』は、PlayStationで出た『カルドセプト エキスパンション』であったのですが、いやはや、これははまりました。基本的に一人プレイが中心の私が、大会予選に参じたり、強化合宿に身を投じたりなど、今の自分を考えると信じられないくらいのアクティブさです。とにかく対戦機会、そしてなにより情報に餓えていたんですね。当時にもすでにカルドセプトを扱うWebサイトはいくつもあったとはいえ、今とは比べ物にならないほど少なくて、情報入手に関しては雑誌優位、書籍優位でありました。つまり、戦略及びブック構築例を知ろうとすれば、おのずと書籍に手が伸びたというわけで、そう、書店にいってありったけの『カルドセプト』ガイド本を買ったものですよ。

(画像は『カルドセプトDS 公式ガイド — カード&タクティクス』)

しかし、買った本がなんか変なんですよ。知らないカードが入ってる。あれ、おかしいなあ。そう思ってよく見たら、なんとサターン版、すなわちオリジナル。あら、勢いで古い本まで買っちゃったのか。参ったなあ、とは思ったけれど、まあ戦略を知るには古い本でもかまいやしませんわね。基本的な戦い方、セオリーって奴はそうそう変わるものでもないんですから。そう思ったものだから、これらはしばらく頼りに読んで、しかしほどなく人対人の情報交換に移っていったように記憶しています。

本は、その出た時点での情報に固定されてしまうでしょう。例えば、このゲームの出た当初は、クリーチャーなしのスペルブックなんて想定されてなかったらしいといいます。ところが、それがあまりに猛威を振るったものだから、対処するためのカード、ライフフォースなんてのがエキスパンションで追加されて、しかしそれがあまりに凶悪に働いたものだから、セカンドで弱体化されて、そしてDSでは当初のカードとは似て非なるものとなりました。

こうした変遷、チューニングが必要となるのも、当初の予測を外れた使われ方、新たな戦略、戦術が生じたからでしょうし、そしてそうした変化していくものは本では補足できないのですね。だから、今のインターネット時代では、掲示板などにそうした情報を見出すというのが一般的なのでしょう。これだと、その時々の流行、潮流を追うことができる。特に『カルドセプトDS』はWi-Fi対戦がしやすくなったものだから、昔のように、地域ごとの特色なんてものは、薄らいでいくのかも知れませんね。

『カルドセプトDS』にもガイド本は出ます。メディアファクトリーからと、エンターブレイン、二冊出て、私はおそらくこのうちの一冊は買うでしょう。場合によっては両方買うかも。それはやっぱり、私が本の時代の人間だから。そして、ハードに使えばばらばらになりそうな特典カードガイドでは心もとないですしね。ハードに参照できる堅牢さ、また一瞥して情報を把握しやすいという点においては、やっぱり書籍が一番です。

さて問題は、二冊出るうちのどちらを買うかです。遅く出るから情報が充実するかといえばそうでもない。結局は見て比べて選ぶしかないのだと思います。

2008年10月17日金曜日

カルドセプト ― オリジナル・サウンドトラック

 カルドセプトDS』が出たわけですが、寝ても覚めてもカルドセプトとはなかなかいかず、というか脳が疲れてしまってへろへろになるので、他のこと、まったくできなくなってしまうので、程々で中断して『アーモダイン』をプレイしてます。『アーモダイン』、面白いよ。というか、これも中盤過ぎるとだんだん難しくなってきて、どうもこうもなく勝てないようになってきて、歯を食いしばりながらプレイしている。ってこれは違う話。ええ、今日は変わらず『カルドセプトDS』の絡みでございます。

さてさて、『カルドセプトDS』はセガサターンで発売された『カルドセプト』の移植版であるわけですが、ということはつまり音楽が昔のものと一緒、というのですから、これもまた懐かしい。私は『カルドセプト』はPlayStation版からのユーザーで、『電撃PlayStation』誌についてきた体験版プレイして、その面白さに打たれて、急いで買いに走ったなんてのがまるで昨日のことのように思い出されますが、そのゲーム、よかったのはゲーム性だけではありませんで、カードや勝利時の一枚絵などグラフィックの魅力があり、そして音楽も素晴らしかったのですね。だから、私はサントラを買いました。とはいっても、もともとはサターンのゲームです。出ていたサントラはPlayStation版ではなく、サターン版。でも、同じ曲だから問題ありません。

そんなわけで、DS版のサントラもこれで代用だ、とはいかず、なんとこのアルバムを復刻、同梱するDS版サントラも出るそうです。これは、買わなくっちゃだわ! というか、三枚組だそうで、ゲーム音楽を取り巻く状況はずいぶん変わりました。際物から、音楽を支えるプラットフォームとして充分に成熟した、またそれを受け入れる土壌も充分に育っている、ということなのだと思うのですね。

カルドセプトの音楽、作曲者は二人。古代祐三と柳川剛。特に後者は、これがデビュー作であるのだそうで、しかしそんなことちっとも思わせない、魅力的な曲がたくさんあって、実際私の一番好きな曲ビスティームの作曲者はこの人でした。また多くの人が長時間聴いたに違いない、ブック編集の作者もこの人で、ブック編集の音楽は、静かで、邪魔にならず、けれど心休まるような、そんな素敵な曲でした。

各ステージの雰囲気を決定する、戦い序盤の曲はそれぞれに個性的で、穏やかだったり、のんびりだったり、かといえば重厚だったり、神秘的なものもあって、それが戦いも中盤を迎えると焦りを誘う曲調に一転する。これがすごく印象的なのですよ。トップにつけているものにとっては仕上げを迫る、追いすがる二位以下にとっては鬼気迫る追跡劇を盛り上げる、そんな効果を担って、充分にその役目を全うしていました。

しかし、今聴いてもいい曲が多いです。メロディに世界観をのせて広く展開する古代祐三の音楽、印象的なモチーフを重ね合わせ織り上げられた柳川剛の音楽、そのどちらも魅力にあふれて、好きな曲は一曲二曲ではありません。印象深く、しかしプレイングを邪魔しない。この相反する要素に応えた素晴らしい仕事であると、耳にするごとに実感させられます。

2008年10月16日木曜日

カルドセプトDS

 今日は『カルドセプトDS』の発売日。もちろん買って、早速プレイしていますよ。さて、この度リリースされたDS版は、セガサターンで発売された『カルドセプト』の増補改訂版である、PlayStation版『エキスパンション』の更なる改訂版です。異様に使い勝手のよかったカード、具体的にいうとグレムリンとかデコイですが、こいつらがちょっと便利さを落として、逆にこれまであまり日の目を見なかったカードがちょっと使えるようになったりして、例えば以前は、すべてに貫通しかしST20だったクラステが、属性制限がつくかわりにST40に強化されるなど、ちょっと美味しくなった。いや、火地はどう攻めたらいいんだ? つくづくドルールの優秀さを実感させらることとなりましたが、まあいいか。私は今回も、リトルグレイに期待することにします。

しかし久しぶりにプレイしてみて、やっぱりこのゲームは面白いなって思います。やることは単純。カードを50枚調達して、体力の攻撃力のを足し引きして、削り切ったら勝ち、土地は自分のもの。削られ切ったら負け、投資した土地がまるまる相手のもの。それで、総資産を既定値まで持っていったら勝ち。基本はモノポリー、で土地のやり取りを交渉ではなく、カードを使った戦いでもっておこなう。力でもぎ取ったり、姑息にかすめ取ったりするわけです。

私はつくづく戦闘が苦手で、だからいかに敵の領地を避けるか、また攻め込まれた場合、いかにして守るか、それだけでやってきたように思います。なけなしの攻略クリーチャーは、先ほどあげたクラステ、こんなカードよりカニが食べたいの、そしてカリブディスです。スネフでカリブディスが出た時には、あまりの懐かしさ、あまりの嬉しさに気が遠くなりそうでした。ええ、私はカリブディスが好きで、こいつで高額地を落として一発逆転を狙うなんてことをやっていたんですが、でもセカンドでリストラされてしまいまして、一発逆転要員はドルールが担うことになったのでした。

とかいいながら、対人ではもっぱらコンジャラー使ってたような気がしますが。

『カルドセプトDS』のいいところは、Wi-Fiを使って対人戦ができるという、そこであろうかと思います。とりあえず私も一度手合わせ願ったのですが、時間帯のせいでしょうか、なかなかマッチングせず、一対一の対戦となってしまいました。でも人相手だと独特の緊張感があって、でもまだはじめてすぐといった感じの人で、結果として蹂躙することになったのは申し訳なかったと思います。いや、ビギナーフロアじゃなくて、ノーマルフロアで戦ったんですよ。さすがにビギナーフロアには乱入しません。

今日は初日なので、とりあえずストーリーをメインにやったのですが、明日明後日くらいからは、Wi-Fiメインになろうかと思います。しかし、このゲームが出たおかげで、『アーモダイン』に時間が割けなくなっちゃうな。それと『QMA DS』も。複数のものことを並行しておこなうというのは、本当に難しいことだと思います。なんとか善処したいところですが、しばらくは『カルドセプト』メインになりそうです。

あ、そうだ。一言いっておきたい。セバスチャンは可愛くなったけど、ミランダは以前の方が可愛かったと思う。編み物帝国の野望、むしろ手伝いたかったくらいです。

引用

2008年10月15日水曜日

Robert Johnson : The Complete Recordings

 コンピュータを修理に出している間は、ポータブルCDプレーヤーで音楽を聴いていた。その話もこれで終わり。今日は、第三夜に聴いたCDを取り上げようと思います。さて、その前にちょっとつまらない話。いやね、私も人間だから、暮らしていく上でいやんなったりすることがあるわけですよ。ちょいとそれって違ってないかねと、よしゃあいいのに指摘したら、ねちねちとしつこくやられてしまって、ああもういいよ、あんたが勝ちでいいよ。議論なんてのは勝ち負けじゃないんですが、人によってはどうも勝負事であるようで、そういう人に指摘しちゃいかんですね。とまあ、そんな感じでげんなりした夜、なんぞ音楽をと思って選び出すのがブルースときた。でも私はブルースのアルバムなんて持ってなくて、ということは、そうご存じロバート・ジョンソンです。早世したブルースマン。なんか、後のロックにも影響を与えた、すごい人だそうですよ。

ブルースというと、なんだか泥臭い印象がありますが、ロバート・ジョンソンに関してはあまりそうした泥臭さや地の底から沸き起こるような苦悩の響きとは無縁です。むしろ、結構モダンといいますか、スタイリッシュな印象で、けれどそうかと思うと地獄の猟犬につきまとわれてたりする。ファルセット取り混ぜて歌うスタイルは、当時は異色だったらしいですね。ですが、それが伝説織り交ぜ今にも語り継がれるようになるのですから、なににしても前例にとらわれるのではなく、自分のスタイルを確立して突き進むのが大切なんだろうなと思わせます。

ロバート・ジョンソンは、ブルースを歌う人よりもギターを弾く人にこそ人気のあるブルースマンと思われて、というのは、昔ポピュラー音楽史を履修した時に、それほどクローズアップされていた覚えがないんですね。けれど、いざギターを弾くようになってみると、ロバート・ジョンソンの名前は、あっちにもこっちにも出てくるといった具合に重要度を増して、だから私もいつかロバート・ジョンソンを歌えるように、なんて思いながら、練習しないものだからちっとも身に付かない。まあ、いつかね、いつか。こんなことをいってるから、いつまでたっても駄目なんですけどね。

そんなわけで、今私が興味を持っているのは、アコースティックギター界のジャイアント、打田十紀夫の『ギター・スタイル・オブ・ロバート・ジョンソン』です。これ、リットーミュージックのサイトでサンプルムービーを見られるのですが、それがもうかっこいい。こりゃ自分でもやってみたくなるなあ。というわけで、もうじきしたらブルースに挑戦してみようと思います。もうじきってなんだよ、っていわれそうですが、いやなに、今はボサノバで忙しい。なんでもかんでもいっぺんにというのは、やっぱり無理ですよ。

2008年10月14日火曜日

Bossa Carioca

 コンピュータを修理に出していた間、ポータブルCDプレーヤーで音楽を聴いていたということはもういいました。その時、一番最初に聴いたのがThe Memory of Treesだなんて風にいっていましたが、思い返せば、違いました。初日に聴いたのは、小野リサのアルバム、Bossa Cariocaでありました。これは、私の友人が貸してくれたものです。ギターを弾いている人にはお勧めだろうということで、ボサノバ。確かにボサノバはギターが重要な役割を担うジャンルであります。そして小野リサという人は、よくギターを弾き、また歌をうまく歌う人。さすがに私も知っていますよ。そしてボサノバ。聴けばすごくおしゃれな響きで、美しい、素敵、そういった感想も出るジャンルでありますが、弾いてみればわかる、これがめちゃくちゃ難しいんだ。私がやると、なんちゃってにしかなりません。

私の友人は、自身も音楽をする人で、音楽に関していうならば、私よりもずっと真っ当、というか、スタンダードを押さえた人です。なので、この人のお勧めなら安心して聴くことができます。そしてそれはBossa Cariocaに関してもそう。収録曲を眺めてみれば、So Danço Sambaくらいしか覚えがない? そう思っていたんですが、Chega de Saudade知ってます。Ela É Carioca知ってます。わお、まさしくスタンダードなのではなくて? むしろアントニオ・カルロス・ジョビンの偉大さがよくわかる。なおこのアルバムにはジョビンの息子、パウロ・ジョビンが参加していて、さらにその息子(つまりA. C. ジョビンの孫)であるダニエル・ジョビンも参加している、ってなんだかすごいな。ボサノバ直系、ボサノバ本流じゃんか。

けど、小野リサという人もすごいのですよ。この人はブラジルはサンパウロに生まれて、音楽関係の仕事をしていたお父上の影響で、自身も音楽をするようになったんでしたっけ? なんか、バーデン・パウエルとか親交があったとか聞いてますが、まあそういうエピソード聞いてもすごいななんて思うんですが、それよりもブラジル音楽を聴いて育ったという、そこが大きいんじゃないかと思うのですね。音楽というのは、学んで身に付くところもあるけれど、それ以上に環境から吸収するところというのが大きくて、例えば私たちは日本のリズムを身に付けている、反対に西洋的リズムにはちょっと肉薄できないところがあって、けど若い人とかだと違うのかな? ともあれ、文化環境によって、リズムから節回しから、少しずつ、けれど決定的に違ってくるものなのですよ。

日本で生まれ育って、クラシックでもジャズでも、そしてボサノバでも、たいそううまく弾く人はたくさんいます。だから環境なんかはいいわけにしちゃいかんのだと思うのですが、しかし小野リサの自然なボサノバは、その成育環境にも関係あるんでしょうね。もちろん、ボサノバ聴いて育てば、誰でもうまくボサノバ歌えるようになるだなんて、口が裂けてもいいませんけれど。

このアルバムには、私でも耳に覚えているような有名曲があって、そして小野リサやパウロ・ジョビンによる曲など、新しい曲もあって、それらがそれぞれに個性を発揮しているのがいいのだと思います。明るい曲、心浮き立つような曲があれば、メランコリー、気だるい憂鬱感を感じさせるような曲もあって、けれどそれは陰鬱なんではなくて、さみしげだったりするけれど、ゆったりした心地よさを感じさせる、そうしたものだから、聴いて暗くなったりはしない。明るい曲も物憂げな曲も、そのベースにひとつの情感を抱いているように思えて、それはいったいなんなのでしょう。サウダージと呼ばれたりする、おそらくは日本語でこれと捉えることが難しいものなのだろうと思うのですが、もしこの感情を理解することができたら、いや、同じ感情を抱くことができたら、ボサノバをうまく歌えたりするのかな?

馬鹿なこといっています。その前に、まずは練習ですね。ええ、ちょっとギター弾きたくなってます。

2008年10月13日月曜日

ゲームカードホルダーDS8

 私は今までゲームの周辺商品に金をかけることをしなかったのですが、コントローラにはめ込むとジョイスティック風になるアタッチメントとかああいう類い。昔からいろいろあるわけですが、まったくといっていいほど手を出してこなくて、だからこうしたものを試すのは、DS関連商品がはじめての経験です。ほら、タッチペンとかスタンドとかですね。さて、本日紹介しますのは、DS用のカートリッジ、ええとこれはカードっていっちゃっていいの? そいつを複数枚収納できるケースです。

なぜカードケースを買ったのかといいますと、私には実によくあることなのですが、『クイズマジックアカデミー』のケースを開けたら『逆転裁判3』が入っている。『逆転裁判3』のケースを探してきて開けたら、『フロントミッション』が入っている。『フロントミッション』を開けると、『世界樹の迷宮』が出てくる。いったいどういう順序でゲームをしてきたかが丸分かりですが、私はえてしてこうしたいい加減なことをしてしまいがちで、音楽CDでもそうなら、ゲームでも同じ。後になって困るというパターンを毎回たどります。

だから、複数枚収納できるケースが欲しいと思ったわけです。複数枚入るなら、当座プレイするゲームを収納しておいて、入れ換え入れ替え遊ぶというのも楽でしょう。ひとつところにまとめておけるから、ばらばらになって探すのに苦労するということもなくなるし。って、もともとの整理がきちんとしていたら、そんな苦労なんてないはずなんですが。まあ自分がきちんとしていないことは、自分が一番よく知っています。よって試しにカードケースを買ったというわけですね。

私の買ったのは、山田化学のゲームカードホルダーDS8という商品です。なぜこれにしたかというと、安かったから。これ、任天堂のライセンス商品ではないのですね。ライセンス料を支払っていないから安いのでしょう。とはいっても、ライセンス品のとの価格差は百円二百円程度だから、正直どっちでもよかったのですが。そこをあえてこれにしたのは、八枚収納できるという、容量も魅力だったからです。同時に八つも同時進行することなんかまずありえないと思うんですけどね。

買ってみて、思った以上にカード収納がきついということがわかりました。DSのカードは、横から見てみるとわかるのですが、上側からプラスチックの板をはめ込んでいるんですね。その端が少し切り込み入ったようになっていて、そこに爪がはまるようになっています。でもその爪があまりにきついから、はめ込みにくく、取り出しにくい。奥を上から押すことで取り出しやすくなるみたいですが、でもきついことには違いがないものなあ。DSのゲームのパッケージの仕組みは、本当によくできていると感心します。というか、高くてもいいからあの機構を持ったケースを出して欲しい。

あまりにきついと、取り出し時にカードを傷めそうでちょっと怖い。だから、あの爪は削ってしまおうかと思っています。削ってしまうと、蓋を開けただけで転がり落ちたりしそうですが、なに外に持ち出してプレイするということのない私にとっては、それで充分用が足りるのですよ。大切なのは、傷めないということ。だから、ここはホールドできなくなるというデメリットを甘んじて受けようと思います。

山田化学株式会社

キーズファクトリー

ケムコ

ゲームテック

サイバーガジェット

信誠

ニチガン

ホリ

メガハウス

2008年10月12日日曜日

Nothing Like the Sun

 iMac修理中に聴いたCDは、先頃とりあげましたEnyaのThe Memory of Trees、そしてStingのNothing Like the Sun。初日はこの二枚を聴いて、最初に聴いたものはThe Memory of Treesでしたが、最初にCD棚からピックアップしたのはNothing Like the Sunであったように記憶しています。このアルバムは、私の好きな曲であるEnglishman in New Yorkを収録するものなのですが、よくよく思い返せば、Englishman in New Yorkはテレビで流されていたPVをきっかけとして知り、ちゃんと聴きたくてアルバムまで買ったのでした。PVをきっかけにして買ったといえば、The Memory of Treesもそう。意識していなかったのですが、両者ともにそうだったというのがちょっと面白いです。

しかし、なぜこれをピックアップしたのだろう。まず、クラシックを外したことはよく覚えています。クラシックなぞ聴いてられるか、ってほどではないですが、正直、あんまね、クラシック音楽は好んで聴きたくないのですよ。そして次にインストゥルメンタルを外しました。サントラもインストに含みます。結局は歌が聴きたいなということなのです。でも日本語だと文章書くのに邪魔になる、だから外国語の歌となったのですが、それでもなおStingやEnyaが選ばれたのには、それらのアルバムが私に残した印象がなににも増して強かったからなのでありましょう。

私は日頃ロックを聴きつけているわけではありませんが、Stingの音楽はロックだというけれど他のロックとは一味違う、そんな風に感じられて、なんでなんだろう。Stingの歌のためなのでしょうか。メロディアスで、少し癖のある歌い方が耳に印象深く響いて、たまに無性に聴きたくなる。あるいは、なにか聴きたいなと思った時に、Stingで探す手を止める。そんなことはこれまでにも度々あって、それからしばらくはこのアルバムがかかりっぱなしになる。Englishman in New Yorkを聴きたいということもあるけれど、他の曲、というよりもむしろこのアルバムを聴きたいということも多く、だから音楽は単体で意味を持ちながら、アルバムとしてまとめられた総体としても意味を持つのだとあらためて意識させられます。私のこのアルバムに対して感じている印象は、まさしくそうしたアルバム単位で聴くということの価値を自ら裏付けしているように思います。ゆえに私は、いつまでたってもアルバムでの購入に、さらにいえばCDという媒体込みでの購入にこだわり続けるのだと思います。

CDで買うかデータで買うかなんてのは、アルバムで聴くことの価値には関係しないはずなんですけどね。わかっていながらメディアを捨て切れない。だからこそのこだわりだっていうのです。

2008年10月11日土曜日

電脳フィギュア ARis GTE_AR_001

 表向きには保守的な振舞いをしているけれど、元来私は新しい物好きで、そしてかなりの物好きです。そんなわけで、電脳フィギュア ARisが発表された時には、これはちょっと欲しい! そう思ったものでした。電脳フィギュアというのはなにかというと、カメラで映し出された映像に、リアルタイムでキャラクターを描画、合成するというソフトウェア。もちろんフィギュアにはこちらから働きかけることも可能。これはちょっと面白そうだ。基本的に、フィギュアに興味のない私が、これは欲しいかも知れない、そう思ったのは、コンピュータあるいはエンターテイメントの可能性を思わせてくれるものが具体的にそこに用意されたからであろうかと思います。

しかも、声はゆかな。そう、『Lの季節』で天羽さんを演じられた方ですね。これは、本当の本当に買いかも知れない。Amazonにこの商品が追加されたという時に、危うくクリックしそうになったくらいです。ですが、いったいなにがマイナス要因になるかわかりません。私にとっての最初の打撃は、CNET Japanにおいて報じられた、東京ゲームショウの映像でした。

これを見た時に、どうも私はターゲット層には含まれていないな、そんな風に感じて、例えばそれはARisのしゃべり口調、ちょっと甘えたような、ですね。もうちょっとしゃんとした印象があったんですが、思ったよりも甘すぎて、ううむ、ちょっと違うな。そう思わずにはおられませんでした。

公式サイト商品説明ページにも動画がありました。これを見て、私の心は確実に離れました。私は、フィギュア相手にセクハラしたいわけじゃないんです。可愛く媚を売るフィギュアを求めているのではないのです。もっと、なんというのかな、画面の向こうに映るもうひとつの世界に暮らすなにかと、ささやかな交流ができるくらいがよかった。関わりすぎないくらいの、向こうは向こう、こっちはこっちで勝手にやっているような、それで時に干渉をするような、それくらいの交流でよかったんだけど、映像を見た感じだと、どうも過干渉というか過剰に働き掛けすぎるというか。ご主人様もご一緒にーっ! とかね。ちょっと残念でした。

でも、ちょっと夢を見られた、そんな感じで面白かったです。この技術で、『どこでもいっしょ』みたいなのりで展開してもらえると嬉しいかな。って、よく考えたら、井上トロもかなり干渉してくるタイプでしたっけ。ちなみに私は三原ジュンが好きでした。もう可愛すぎ!

2008年10月10日金曜日

The Memory of Trees

 iMacの光学ドライブが故障したっぽいので、修理に出していたのですが、その間、このBlogの更新を支えたのは、iMacを購入するまで使っていたiBook G4でありました。これも買った当初は、速いCPU、潤沢なメモリと、なにをするにも申し分のないマシンでしたが、その後ソフトウェアの重量化でも進んだか、複数のアプリを起動して作業するのがしんどくなってしまって、だからiMac修理中は、ブラウザとテキストエディタと辞書、それぐらいしか開いていませんでした。でも、作業中に音楽は聴きたい。そんなわけで、ポータブルCDプレーヤーを持ってきて聴く。CDというメディアから直接、アルバムを頭から順に聴くというのは、ずいぶん久しぶりと思われました。その時聴いていたアルバムとは、The Memory of Trees。私がエンヤの音楽を知ることとなった、思い出深いアルバムです。

今までにもiTunesで、もちろんiPodでも、聴く機会は何度でもあったのです。ですが、こうしてCDを、ケースから取り出し、プレイヤーにセットし、再生のボタンを押す。まわり出すディスク、かすかに聴こえるシーク音。なにかが違うと感じられます。それはCDの棚を前にして、これを聴こうと能動的に選び出したというためか、あるいは曲単位からアルバム単位の聴取に回帰したためか。聴いている音楽にエンヤが現れてきたのではなく、聴こうとしてエンヤを聴いている。あらためて美しい曲だなと思う。静かに心にしみる、あるいは私の心がエンヤの音楽に沈み込んでいく、心地よく流されていく。そんな感覚がなぜかありがたいと感じられて、そして少しカタログ的聴取を憎みました。

今こうしてエンヤを聴くと、ええと、このアルバムは1995年のリリース、軽く十年以上経っちまってるわけですが、でもこの十年という歳月を思わせない新鮮さを持っていると感じられて、それはおそらく、これらの曲が、流行や時代の空気になびくことなく、独自の世界を保っているからなのでしょう。どこかクラシカルで、でも絶対にクラシックではなく、どこか民族音楽ぽさをもって、しかしなにか普遍性も感じさせるといった、そうした雰囲気に私はひかれます。すごく身近な、肌身に接するような近しさを感じながら、はるか遠くに眺める異郷を思わせる瞬間もあって、私の中に響き、外から包む。不思議な音楽です。

曲は割合シンプル。結構ワンパターンな感じもする。けど、一面的ではない。電子音楽の響きに少し昔のざらっとした粗い手触りを感じさせるけれど、それもまた味わいのうちかも知れない。逆にいうと、そうしたテクノロジーの進歩、陳腐化する速さにかろうじて時間の経過を感じさせる程度ともいえる。そう、音楽は決して古びていません。聴くたびに、常に新しく生まれる、そうした音楽の生命感がある、そのように感じられるアルバム。私にとっては、常に特別であり続ける一枚です。

2008年10月9日木曜日

三菱鉛筆 JETSTREAM

 いよいよ十月に入り、ペン習字講座では、ボールペン字での筆記課題が登場しました。これは私にとってはかなり厳しい課題でありまして、だって私は日頃ボールペンをほとんど使わないものですから、慣れていないのです。学生時分にはParker 45を愛用していて、修了後は京セラの水性ボールペンを使ってきて、そしてまた万年筆を使うようになって……。なぜ油性ボールペンを嫌うのかというと、嫌いなのですよね、その書き味が。重く、そして書いているうちにこってりとたまったインクが糸を引いて紙面を汚す。不自然に立てて書く、その持ち方が親指に負担をかけて、痛くなってくる。水性ボールペンは好きですが、油性ボールペンは正直なところ使いたくない筆記具の筆頭格です。

でも、課題とあらば、好きの嫌いのといっていられません。なので、少しでも書きやすい、手に負担を強いないボールペンを探していたのでした。といっても評判のいいものを買ってちょっと試しただけなのですが、結局最終候補に上がったのは、三菱鉛筆のJETSTREAM、そして同パワータンク。実際に書いてみて、いい感触を得られたのはパワータンクでした。JETSTREAMは滑らかはいいが滑りすぎる。そんな印象がむしろ逆に働いて、字を書く時には、ある程度の抵抗がないと書きにくい。だから、JETSTREAMはよくないと感じたのですね。こうした経緯を経て、私はボールペン課題はパワータンクで書くと決めていました。

ですが、実際に課題に取り組んでみると、どうも違う。ペンの運びが重いと感じます。でもこんなものだろうと思って書き続けていたのですが、途中試しに持ち替えたJETSTREAMの軽さ。驚きました。以前の評価とはまるで違います。以前の滑りすぎるという印象は綺麗さっぱり消え去って、これはすごく書きやすい。ボールペン課題に使うペンはJETSTREAMにしようと決めた瞬間でした。

この印象の違いは、ペンの持ち方、そして書き方に起因するように感じています。以前、JETSTREAMを駄目と評価した時は、普通に持って、普通に書いた。手先、指先でもって書いた。ですが、課題においてはペンをしっかり立てて、大きく、ゆっくりと、確かな筆致で書き進めていきます。この差なのでしょう。ゆったりとした書き振りには、抵抗はむしろ邪魔であるのかも知れません。手の動きに逆らわずついてくる、JETSTREAMの滑らかさ、ぬらりとしたすべりがあっているのかも知れません。

といったわけで、JETSTREAMはボールペン課題用のペンに、対してパワータンクは全天候型のペンとして活躍してもらうことにしましょう。って、あんたは雨中屋外で筆記することあるのかといわれたら、まあないですよね。だから、実際、どういうシチュエーションで使いましょうかね。まあ、気にせず、使える時に使いたいと思います。

あ、最後に補足。私の嫌いだというボールペンのダマですが、課題においてはパワータンクは盛んにダマを吐いて、ちょいと困りました。この点でも、JETSTREAMの方が好ましい。JETSTREAMでは、気になるほどにダマが出なかったのでした。

2008年10月8日水曜日

みそララ

 みそララ』の第2巻が出ましたね。これを書くために、第1巻が出たときの記事を探してみたら、ああそうでした、1巻はオールカラー版でしたね。すっかり忘れていましたが、こうしたところを見ても、『みそララ』が期待されていること、あるいは人気があることがうかがえるように思います。ですが2巻は通常通りの印刷で、でもあんまり問題とは感じません。『みそララ』は絵の魅力もさることながら、その描かれている内容の魅力もかなりのものですから。でも、カラーはカラーで印刷してもらえるほうが嬉しいのは間違いないから、ちょっと残念だったかも知れません。

『みそララ』は、麦田美苑を筆頭とするマース企画の若きクリエイターたちが、仕事を通して成長していく、その姿、そのプロセスがまぶしい漫画であります。第1巻では、経理として入社した美苑が、ライターとして頭角を現していく? いや、ちょっと違うか。この漫画のいいところは、美苑はもちろん、デザイナーの米原梨絵も、営業の粟屋真琴も、皆、天才でない普通の人であるところだと思っています。仕事を前に悩み、迷う。そして、なにかをつかんで、少し成長する。その四苦八苦する様子が、この漫画の面白さ、笑いをもよおさせる要素であり、同時に、深く思わせもする、その根拠であると思うのですね。私は彼女らのもがく様に、正直少し嫉妬しています。ああ、楽しそうだなって、そして自分が楽しくないのはなんでだろうと。でも、この漫画は私のこの問いにもきちんとひとつの答えを示してくれて、今を価値のないものにしているのは、ほかならぬ自分であるのだなと、きちんと理解しました。

第1巻があっての第2巻であると思います。美苑をはじめ、登場人物の個性を把握するしないで、面白さはきっと違ってくる。だから『みそララ』未体験の人には、まず第1巻をおすすめします。ですが、私には第2巻からが格段に面白いと思われて、それはあのコンペ編の印象が大きい。美苑、梨絵、粟屋の三人が、コンペに挑戦する。もちろん、四苦八苦ですよ。けど、若手三人の結束がこのコンペを通して確実に固まったんじゃないか、そう思われて — 、本当にいいシリーズでしたよ。三人が友人になったのは、1巻収録の飲酒回がきっかけだったと思うけど、三人が信頼しあえる仲間になったのは、このコンペからだったのではないか。そんな風に思っています。苦楽を共にし、仲間になる。なんかうらやましいな。

この漫画の最大の価値は、かっこいい職種、かっこいい業界で仕事しているからかっこいいのではなくて、真剣に仕事に取り組むという姿勢、それこそがかっこいいのだということを、前面に打ち出しているところにあると思っています。実際、三人娘、特に美苑の仕事ぶりは、七転八倒、スマートさからはほど遠い。仕様なので直らないそうです。かわいそうに……。けれど、ヘッポコ? そんなのは関係ない。彼女らは、かっこいいし、魅力的です。それはやっぱり、仕事に取り組む熱意がゆえなのでしょうね。頑張って仕事している人は、皆かっこいいんだ。そうした手応えが残る読後感には、心から素晴らしいといえる。そして、この漫画が好きだと、心の底から思える理由はそこにあるのだと思います。

しかし、今一巻を読み直してみたら、冒頭はつらいね。米原さんがきつい……。いけずすぎる……。けど、今は米原さんが一番好きです。理由はあるけど、いわないでおきます。

  • 宮原るり『みそララ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 宮原るり『みそララ』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年10月7日火曜日

キラキラ☆アキラ

 作者、曙はる、プロフィールにて曰く、かわいい女の子が描きたくて漫画家デビュー。その経歴が語るように、『キラキラ☆アキラ』にはヒロイン美波アキラの可愛さがあふれています。主人公は、アキラとその幼なじみである林桃太郎の二人。マンションの上階に住むアキラは、縄ばしごを伝って桃太郎の部屋のベランダにおりてくる。子供の頃から、ずっと続けられてきたこの習慣は、16歳高校生になっても少しも変わることなく、でもその関係は少しずつ変わりつつあるようです。どんどん女の子から女性に変わっていくアキラを桃ちゃんは意識しないではおられないのですね。けれどアキラはというと、そんな男心をまったく斟酌しない、純真そのものといった具合。そのふたりの感情の対比もほほ笑ましい漫画です。

でも、アキラは桃ちゃんをただの幼なじみ — 、兄弟のように近しい男の子と思っている、それだけではないようだというのも伝わってくるのですね。もちろん、つきあうとか、恋人になるとか、そういう方面には向かわなくて、でもそうしたプロセスなんてすっ飛ばしてしまったかのような寄り添い方には、ただ好きだからというだけではない、特別な繋がりがあるように思います。それは一体なんといったらいいものなのか、愛のように活動するものではなく、一緒にいて嬉しい、嬉しいから一緒にいたいという、そういう関係。情とはそういうものなのでしょうか。お互いをよくわかって、よいところもたくさん知って、なにより優しく向き合ってくれるということに、アキラは仕合せと感じているのかも。そして私がそう思うのは、ひとえに桃ちゃんのキャラクターの、気が優しくて、けれどちょっと弱気で — 、そういうところに触れては、気持ちの凪ぐように感じるところがあるからだと思います。

作者はかわいい女の子を描きたかった。それは最初にもいったことですが、けれどこの林桃太郎という男の子もかわいい、そう思います。活動的なアキラに対し、桃ちゃんはずいぶんおしとやかで、家庭科部所属、アキラのために料理を作り、お弁当を用意し、お菓子、デザートまで準備して、一種男女逆転カップルを思わせる恋女房っぷりですが、けれど彼はやっぱり男の子で、それも純情な男の子で、またアキラも男勝りではなく、女の子で、それも極めてかわいい女の子で、傍目にはすごくお似合いのカップルに見えます。人気抜群のアキラに、多少引け目を感じることもある桃ちゃんですが、アキラは誰よりも桃ちゃん大事なのだから、他の誰でもなく桃ちゃんに見ていて欲しいと思うような娘ですから、安心してふたりを見守ることができる。そんな関係はやっぱり、ほほ笑ましくて、そして心が穏やかになるような、そんな情愛に満ちたものだと思うのです。

この漫画には、そうした、見ていて嬉しくなるような感情の、きらきらとした輝きがたくさんつまっています。それはアキラと桃ちゃんだけでなく、ふたりを取り巻く友人も同様。華やかにきらめいて、けれどそこには落ち着いた関係がしっかりとしているから浮つかない。いや、ひとり浮ついてるかな? けど、そうした気持ちの揺れも含めて青春です。そう、青春。青春の爽やかさが、本当に素晴らしい漫画です。

  • 曙はる『キラキラ☆アキラ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

引用

2008年10月6日月曜日

緋色の研究

 探偵小説といえば、いわずと知れたシャーロック・ホームズ。実は私は、この古典ともいうべき名作をきちんと読んだことがありません。子供の頃、盆暮れに訪れた伯父の家、従姉の書棚には推理小説がばっちり並んでいて、そこには江戸川乱歩、アルセーヌ・ルパン、そしてホームズもあったというのに、私はというと乱歩とルパンをばかり読んで、ついぞホームズに手を伸ばすことはありませんでした。一体なにが原因だったのか、それはわかりません。子供の頃からフランス贔屓、というのはまかり間違ってもない話で、だってその頃は、自分が将来語学を真面目にやるだなんてちっとも思ってませんでしたから。ともあれ、ホームズはまともに読まなかった。私の知っているホームズは、子供向けに要約されたような、そんなものばかりだったような気がします。

そんな私が、今この歳になってホームズをちゃんと読もうと思った。なぜかというと、『ああ探偵事務所』に刺戟を受けたからなんですね。あの、ホームズマニアの探偵が主人公の漫画です。話のあちこちにホームズに関する言及があり、おのずとホームズに興味をひかれてしまう、そんな仕組みになっていて、最初私は『シャーロック・ホームズの冒険』、いわゆるグラナダ・ホームズですが、を欲しいと思ったのですけど、さすがによう手が出ませんでした。うん、ドラマは見てたんです。あと、アニメも見てました。どっちも欲しいなあ。買えない値段じゃないけど、買うと生活が苦しくなるから、ここはちょっと見送りです。そして、代わりというわけじゃありませんが、もともとの大本、原作にあたってみることにしたんです。文庫だから安いしね。

新潮文庫版を選んだのは、すでに持っていた一冊が新潮文庫だったから。なんで『帰還』だけ持ってんだよ、といわれても困りますが、まあ読みたい話があったんです。で、次に買ったのが『冒険』。これは夏の百冊ですね。思いがけず欲しくなって買った。ただその時に、いろいろ買ったので、読みはじめるのはこんなに遅くなってしまったんですけどね。

同じ読むなら、発行順に読みたいですよね。そんなわけで、まずは『緋色の研究』に取り掛かったのでした。アフガニスタン帰りの軍医、ジョン・H・ワトスンが、不世出の名探偵シャーロック・ホームズに出会う、記念すべき第一作です。そしてこれが面白い。正直なところを申しまして、これほどまでに引き込まれるものだとは思っていませんでした。謎めいた変わり者ホームズが、謎めいた殺人事件の捜査に乗り出して、あれよあれよと解明されていく事件の意外性。物語は停滞している、そう思わせて、思いきりよく核心に迫るその迫力には度肝を抜かれる思いで、これはすごいわ、ちょっと興奮しました。ロンドンに起こった事件の因果は、アメリカにまで遡って、その顛末も魅せますね。確かにそこには、巻頭に注意書きされていたように、今となれば誤謬であり偏見にまみれた描写であるのかも知れませんが、不思議な説得力を持って迫ってきて、息もつかせぬとはこのことか。

推理ものとしては非常にシンプルで、それゆえに強く引き込むのかも知れません。シンプルといえばシンプルな事件。それが、あそこまで膨らまされている。それも薄く引き伸ばしたなんて印象は皆無。充実した筆致が先へ先へと読み手を誘って、だから今や私の心は『緋色の研究』の次、『四つの署名』に向かって、それはもう逸るばかりです。明日買おう。明日買って、早速読もうと、おそらくは多くのホームズ好きがたどっただろう道を、私もまたたどろうとしているようですよ。

  • ドイル,コナン『緋色の研究』延原謙訳 (新潮文庫) 東京:新潮社,1953年;77刷改版,1995年。

2008年10月5日日曜日

Pelikan Pelikano Junior

  今年の頭に購入した、Pelikano Juniorに関して続報をお伝えします。私の愛用しているのは赤い軸、職場でのメモに使ってきて、その用途は書きなぐりに近いとはいえ、使っているうちに手になじみ、ずいぶん書き味もよくなってきた、そのように思っています。書き出しでのかすれなんてもうないし、このまま後数年も使えば、手放せないペンの一本になるだろう、そんな予感がします。というところで、今度は悪いニュース。キャップに軽く割れが発生しました。原因は、尻軸にキャップをはめて書くという、そのスタイルですね。尻軸が内部から押し広げる力が、キャップにひびを入れたようです。参ったな。なので急遽、先月くらいから、キャップを尻にはめない書き方に変えたのでした。

そうして思ったのですが、Pelikano Juniorはそもそもキャップを後ろにつけないほうが書きよいペンなのかも知れません。私は大抵のペンでキャップを後ろにつける、そんなタイプなのでありますが、そうすると重心が後ろにきて、自然握りもペン軸の中ほど、ちょうど首軸と胴の継ぎ目あたりにくることが一般です。私にはこれで書きやすい、だから特に問題はないのですが、どうもPelikano Juniorに関しては、重心後ろの寝かせ気味よりも、ちょっと立たせ気味にしたほうがいいようです。もちろん寝かせて書いても、その角度にペン先があうまで書き続けたら問題はなくなろうかと思いますが、出荷時の調整はどうも立たせ気味、45度くらい? を想定したものになっているように感じます。

グリップに付けられた指のガイド、それに添わせてペンを持つと、ちょうどそれくらいの角度になる。といっても、私の手にはあのガイドは先に寄りすぎているから、なおも無視しているのですが、それでも、ほぼあのガイドの意図するような角度に今は落ち着いて、だからこれが正解とはいわないまでも、だいたいこれくらいがPelikano Juniorにおける望ましい角度であるといっていいんじゃないかと思います。

さて、Pelikano Juniorのキャップは、インナーキャップが首軸先端と合わさるようになっているため、ガワの割れは特段問題になりません。でも、真っ二つになったらば、いくらなんでも差し支えあるだろうと思われて、はたしてその際にはどうしたものかと少々迷っています。新しいPelikano Juniorを買う、というのは正直もったいない。Pelikanはドイツのブランドだから、こうしたキャップひとつから購入できそうな気もするのですが、でも日本でそれが可能かというと、まあ無理でしょう。なので、今のひび割れから進行させないことが肝要であると思われて、将来的にはなんらの補強をするなど、今あるキャップの維持策を考える必要がありそうです。

とはいえ、普通に使っていれば、後数年は問題なく使えるでしょう。だから、壊れるその日まで、最前線において、使い続けたいと思います。

2008年10月4日土曜日

Apple AppleCare Protection Plan for iMac/eMac

 ついに購入してしまいましたよ、AppleCare Protection Plan。私はこれまでMacintoshを買ってきて、そのつどおすすめされるAppleCareを、いらん! いらん言うたら、いらん! いるときは始めから言う、と断ってきたのです。なぜか。AppleのアンケートにもなぜAppleCareを買わないかだったかな、そんな項目があるんですが、それには力強く、今まで故障したことがないからと答えてきました。いや、まったくもってそのとおり。私はPerforma 550からコンピュータを使っている、比較的古いユーザーであるのですが、本当に機器故障に当たったことがないんです。あれは短大の二回生の時だったから、1994年の6月くらいかな。十年あまりApple製品と付き合ってきて、故障に出会わなかった。希有な例でしょう。しかし、その奇跡は続きませんでした。我がiMacに故障が出ました。部位は光学ドライブ。って、普段の生活にはあんまりダメージない部位だなあ。

運がよかったのは、iMacの保証期間が今月末まで残っていたというところでした。だから、その保証でもって修理を依頼することが可能です。けれど、ちょっと不安が兆したのでAppleCare Protection Planを購入したのでした。今私の使っているiMacはいうまでもなくデスクトップ機、自分で修理拠点まで運ぶのは至難です。車とか持ってたら違うんでしょうけど、私は電車移動が基本。運べないんですよね。だから、取りにきてくれて、修理完了したら送り届けてくれるピックアップ&デリバリー修理サービスはすごく魅力的に感じられました。

もしこれがiMacでなくてMacBookだったら、AppleCareとか関係なしにApple Store Shinsaibashiに駆け込んでいたところでしょう。ですが、それでも費用はかかる。今回は保証期間中だったからいいけれど、保証が切れたら結構な額がかかると聞きます。だから後二年の猶予を求めたのですね。故障するかどうかなんて、誰にもわかりません。経験上、私のコンピュータは壊れない、コンピュータに限らず、故障の経験なんてほとんどないです。悪名高いSony製品だって壊れない。けどこの奇跡がいつまで続くかなんてわかりません。現に、光学ドライブの故障を経験して、こうした時に保証があるというのはありがたいことだなと、本当に心の底から感じます。

木曜に注文したAppleCareは、今日届きました。CDケース大の小さな紙箱、厚みはありますけどね、の中には、スタートアップガイドとサポートの登録番号の書かれた紙、そしてTechToolという診断ツールが入ったディスクが一枚。TechTool DeluxeはAppleCareのページからもダウンロードが可能です。AppleCareへの登録は、Web上でハードウェアのシリアル番号とAppleCare登録番号を入力するだけで完了。数分も待てば契約が有効になります。スムーズに手続きが完了するのは本当にいいことだと思います。

iMacはデスクトップ機だからでしょう。AppleCareにかかる費用は若干低めです。二万円ってところ、だから一年あたり一万円ですね。それが安いか高いかというと、トラブルがなければ高い、トラブルがあれば安いということになるのでしょう。Macintoshに慣れていなくて、何度も電話するという人ならもとは充分に取れそうな気はしますが、自力解決を基本とする私には電話は不要。ちょっと高いかな? でも、なにかあった時に重いiMac抱えて移動する必要がないというのは魅力です。それに、二万円のもとを取るためにトラブルが発生して欲しいだなんてさすがに思いません。損をするくらいでいいんです。

といったわけで、AppleCare購入です。はじめての経験ですが、今後の二年、どうなるか見物ですね。どうか、損しますように。

引用

  • 杉本つよし『ハンバーガーショップ

2008年10月3日金曜日

プラチナ萬年筆 Preppy

 今年の夏、八月に買った低廉な万年筆、プラチナのPreppyですが、思った以上の質の高さに気分をよくして、その後も少しずつ買い増やしていって、今では手もとに四本ほど揃えております。黒に始まって、赤、ブルーブラック、そして緑で今は止まっているのですが、いずれ黄色とピンクを買う日もくるのかも知れません。いやどうでしょう。正直、今持ってる四色で充分用は足りると思っていて、メモ、落書きに、思考の整理。地の文があって、あとは二三色もあれば大抵分類色分けは可能なものだと思います。でも、210円という安さが囁くのですよね。気軽手軽に全色揃えられるという特性が、更なる買い足しを後押しするように思います。

しかし、この人はこんなにいっぱいペンを買ってどうするんだろう、そう思ってる方もいらっしゃるかも知れませんね。だって、自分が思っています。こんなにペンを持ってどうしたいんだろう。どう見ても必要以上にあるものだから、これは日記用、これはメモ用、これはお出かけ用、これはペン習字の練習用、他にも手帳用やら手紙用やらいろいろあるんですが、ばかばかしいからいちいち紹介はしません。でも、本当にこれだけあれば充分ですよね。そこへPreppyを、四色も揃えたのはなぜかというと、勉強用のペンにと思ったからでした。

勉強というのはなにかというと、ほらこのあいだいっていた、世界史日本史の勉強で、ただ読む、眺めるだけでなく、ちゃんとノートにまとめるつもりでいるのですね。なかなか時間をとれないのだけど、でもちょっとずつでも進めるつもり。ノートも買った、ペンも揃えた。色違いで、日本の出来事は黒で、西洋の出来事はブルーブラックで、それぞれいっぺんにまとめながら読もうかと思っているんですね。で、アクセントやらなんやらを赤、緑で入れていくわけです。

四本Preppyを持ってみて、個体差なのか、インクの質の差なのか、それぞれに書き味、インクの出が違って面白いです。一番出やすいと感じるのは黒、一番渋いと感じるのはブルーブラック。けれど、首軸に透けて見えるフィンにインクが浸透するのが一番早かったのは赤なんです。次いで黒、緑の順です。ここで特筆すべきはブルーブラック、ちっともといっていいくらいに浸透せず、あんまりに出ないものだから、たまに振っています。いずれなじんだら出るようになるんだろうなと思っていますが、まあ出ない場合は振るというのが万年筆の基本ですから。って今はそんなことないのかな。

インクの色に関しては、赤が思った以上に明るく、驚きました。この赤インクは、学校で先生が丸付けに使っているソフトペンと同じものだと聞くのですが、線の太さか、インクの出か、なにかが違うんでしょうね、まったく違う色に思います。Preppyの方がずっと薄く、鮮やかに思います。

実は、ソフトペンも持っています。昔、中学だったな、教育実習にいった時、学校近くの文具店、花久で買ったんです。もちろん、使うからですよ。でも大学に戻ったら使わなくなってしまって、今もあるけど、きっと書けなくなってるだろうなあ。まあ、チップインクを換えれば復活するでしょうけどね。

閑話休題。Preppyのインクというべきか、あるいはプラチナのインクというべきか、赤も緑も、それからブルーブラックも、全体に明るい色という印象で、あるいは薄いというべきかも知れません。使っているうちにフローがよくなれば、その印象も変わるかも知れませんが、でも基本的な色合いは同じでしょう。だから、明るめの色が好きという人には、Preppyは向くと思います。

ただし、ブルーブラックには注意が必要かも知れません。聞くところによると、プラチナのブルーブラックは、本来の意味でのブルーブラックであるらしく、つまり書いて時間が経つと酸化して色が黒くなるというんですね。まだそこまで顕著に色が変わったという感じはないのですが、これが本当だったら、ちょっと嬉しいかも知れません。気軽に使える、本格ブルーブラック。でも、保存性、耐水や耐光性を期待するのなら、ブルーブラックより、カーボンインクを使うべきでしょう。これ、Preppyでも使えます。ペン芯をつまらせる、おそろしいインクであると聞きますが、ペンがPreppyならそこまで気を使わないでもいいかなって気になれますわね。といったわけで、絵を描く母にPreppyとカーボンインクを渡して、だから我が家には今Preppyが五本あるんですね、実は!

だって、欲しかったんだもの。というか、カーボンインク入りPreppyは自分用にも欲しいかと思っていて、それは、ほら、こないだ雨の日に端書の宛名が消えて困ったことがありましたが、そういう悲劇を予防できるのですよ。だから、極黒でもいいけど、水によく耐えるインクがあればななんて思っているんです。

まあ、そんなに増やしても仕方ないから、持たないとは思いますけど、でも210円で買えるのだもの。この安さは、ついつい買い足してしまう自分にとって、後押しとして、いいわけとして、本当によく働き掛けるものであると思います。

2008年10月2日木曜日

2カラーせんせい

 一昨年あたりくらいから、うちに出没するようになったちびすけが、最近ペンに興味を持っているらしいのです。ボールペンを持って、なにやら殴り書きするようになったらしく、こいつは危険だな。自分の持ち物に殴り書きされた日にゃ、たまったもんじゃない。かくして、かねてより計画していたせんせい購入計画を発動させることにしたのでした。せんせい購入計画とは、いわずと知れたタカラのせんせい、あの磁石の力でお絵描きできるロングセラー玩具を買って、おちびに与えようというものです。あれなら、いたるところに落書きされて困るということはあるまい。そうした目論見からのせんせい購入なのであります。

購入は、商店街のおもちゃ屋でです。店頭で、タカラのせんせいはありますかと聞いてみたら、当然のようにおいてありました。しかも、そこにあったのは2カラーせんせいといわれる、上位品。これ、なんと黒一色だったせんせいを、赤も使えるようバージョンアップさせたという代物で、実はずっと前から興味を持っていたんです。マイコミジャーナルで連載されたコラム「あの素晴しいトイをもう一度」で、せんせいが紹介されていたのです。昔ながらのせんせいを懐古しつつ、最新のせんせい、なんと黒赤二色がつかえるようになりましたとの展開は、私を驚かせるに足るもので、こうした古典的といってもいいような定番玩具にも、たゆまぬ技術革新、商品開発の努力があるのですね。素晴らしい。これはいつか手にしてみたいと思ったものでしたよ。

けど、磁気ボードといえばせんせいだからといって、競合品を見ずに2カラーせんせい決めうちというのもよくないでしょう。タカラトミーががんばるように、他社もがんばっているのです。そして、対抗商品として俎上に上がったのが、パイロットインキのおえかきがっこう。まあ、たまたまそのおもちゃ屋にあったというだけなんですけどね、こちらの売りは、部分消しができるというところでした。せんせいは、部分消しに対応しないんですね。これは、正直、ちょっと魅力でした。部分消しは、間違いを修正するという消極的な使い方にとどまらず、一面塗ったところに消して描くという、積極的な利用も可能です。これは揺らぎました。はたして二色がいいか、それとも部分消しか。

結果、選ばれたのは、二色であったのですね。

そんなわけで、おちびに与える前に自分で使ってしまおう。いろいろ描いてみましたよ。

TAKARA Sensei

こちらは、せんせいのイメージキャラクター、キキまるです。パッケージに描かれていたのを、真似て描いてみました。ちょっと痩せちゃったな。

TAKARA Sensei

なにげさんです。これがまあ難しい。どうしても似ない。何度も描き直して、ここまでたどり着きました。

郷土の有名人というのは、冗談ではなくて、どうもなにげさん、うちの近所にお住まいらしい。あるいは、通学? 驚いたというか、嬉しかったので、描きました。

TAKARA Sensei

あまりになにげさんが難しかったので、やけっぱちで以蔵さん。いきなり描いて、それっぽくできあがったので、実は嬉しかったりします。テイク1で採用。ちまちまとこざかしく描くよりも、ドーンと思い切って描くほうが、せんせいの楽しみとしては正解なのかもしれません。

TAKARA Sensei

アリカさん。うわあ、これはだめっすよ。でも、何度も描き直してこれなんです。ごめんなさい。これ以上は無理です。

TAKARA Sensei

そして、旦那様。これは! これは会心の出来かも知れません。実は旦那様も一発描きです。いきなり描いて、手直しなし。でもそれっぽい。でも、本当はとわさん描きたかった……。

以上! しかし、四コマ漫画のキャラクターは、簡略に描かれてるから逆に模写しにくい。実は天子様にもチャレンジしてたのですが、無理……。どこをどうとっても無理なので、あきらめたのでした。

実は今、アリカじゃなくて高崎にしたらよかったのではないかと思っているところ。でも、きっとチャレンジはしません。でも、せんせいでお絵描きは結構楽しかった。自分は絵心ないから駄目だけど(見て写すので精一杯)、ばんばん描けちゃう人だと、きっともっとすごいの描いちゃうんだろうなあ。

QMA DS おまたせ、ドラゴン組になったよ!

クイックモードでのやり直し、フェニックス組からドラゴン組に上がりました。

運が良かったのだと思います。ドラゴン組に上がったのは第15戦目でのこと。つまり、前回報告の後、一戦だけして、それで優勝、昇格したのでした。

予選は芸能四文字、芸能R4と続いて、しかしその問題は私にとって有利なものが多かったように思えます。例えば芸能R4、西沢学園で有名なイタリア人はアダ・○○○? タイピングだったのですが、これ関西ローカルのCMですよね。おそらく誰も答えられるまい、あるいはフェニックス組なら当然のように答えてくるかと思ったら、さすがに誰も答えられず。こうした、私しかわからない問題が予選それぞれに一問二問あったんです。そりゃ、決勝までいけるわけですよ。

決勝は、アニゲ祭。アニゲ並べ替えに始まり、多答、タイピングときて、わかる問題多かったのはありがたかったなあ。私が選んだのは、もちろん学問並べ替えですよ。かくして、回答数にして一問差で優勝。二位かなと思ったのですが、アニゲ並べ替え全問正解と、多答でのアドバンテージが効きました。うん、学問ではちょっと後れを取った。一問わからなかったんだ。

かくして、ドラゴン組に上がりました。出会うことがあったら、よろしくお願いします。

2008年10月1日水曜日

コドモダマシ ― ほろ苦教育劇場

 パオロ・マッツァリーノの新刊がたぶん発売中のはずだそうですので、仕事帰りにちょいと紀伊国屋書店に寄って、買ってきました。ビッグマン側の入り口すぐに平積みされていて、私はいつも茶屋町口側から入店するから、ちょっと歩きました。というか、まるっきり対角だな。ともあれ、買ってきた新刊、『コドモダマシ』というタイトルなのですが、とりあえず一気に読み終えました。なにをするにも取り掛かるのが遅く、読む速度も遅い私にとって、買った翌日に読み終えるというのは快挙でありますが、それはこの本がずいぶんと読みやすくできていたことも関係しています。

この本の読みやすさは、子供が問うて父が答えるという、対話形式あるいはコントのスタイルをとっている、そこにあると思います。ページ一面を埋め尽くす文字文字文字、という感じはなくて、大きめの文字、会話による、ゆったりと余裕をもって進行していくストーリー。ひとつひとつのトピックは四五ページ程度、コンパクトにまとめられているから、これも読みやすさを後押しして、活字慣れしていない人でも楽に読める、けど反面、がっつりと文字を読みたいんだというような人には物足りないかも知れない。私は、ちょっと物足りなかった。食い足りないっていったほうがいいかも知れませんが、はじめてこの人の著作を読んだ時の、あの目がくらむような感覚。わお、自分が今まで疑問に思ってたことを、こんなにも鮮やかにやってくれる人がいるのか。密度は高く、そして衝撃も大きかった。こういった感覚は、『コドモダマシ』にはありません。あるのは、軽妙な会話のなかにさしはさまれる統計やら資料やらの綾であります。

子供が父になぜと問う。

「アメリカのテロで、高層ビルが危険だとみんなわかってるのに、なんでお父さんの会社は高層ビルに引っ越したの?」

こういう、答えにくいことを聞かれる、そうした経験は誰しもあると思うのですが、さてそういう時にどう答えたものか。この本に出てくるお父さんはというと、統計、資料を駆使して答えるのですね。まあマッツァリーノは統計芸の人ですから当然そういった展開になるわけですが、しかしそれって結構な屁理屈だよな、なんてのもあって、資料統計を駆使した屁理屈、しびれます。あるいはマッツァリーノお得意のシニカルだったり、斜に構えたものの見方があちこちに伺われて、やっぱりこの人はいいなと思って、だって私はこの人に、自分とは違う、また一般にいわれているものとも違う、独自の視点を期待しているんです。そうした、ああマッツァリーノらしいな、と思える言説に出会うたびに、もっと、もっとやってくれと思う。グラフでも表でもいいから、データをバンバン出して畳みかけてくれと思う。この本には、その畳み掛けのフェイズがないから、ちょっと物足りないんですね。

畳み掛けがないかわりに、ブックガイドがついてきます。その名も理論派お父さんのためのブックガイド。対象は本だけでなくWebサイトなども含まれていて、そしてそれぞれにマッツァリーノのコメントがついてきます。これ見て思うんですが、本当にこの人の読書範囲は広いなあ。新書から専門書から、本当に幅広い。『カモメ識別ハンドブック』とか『焚き火大全』とか、いったいどういういきさつでその本に出会ったのか、また読もうと思ったのか、それを私は問いたい。まあ、私も人のこといえない変な本読んでたりしますけど、でもこの人の幅広さにはかなわない、素直にそう思われて、自分もいろいろ読もう、そんな気分になっています。とりあえずこのブックガイドから何冊かでも読めるかな。

なお、このブックガイドに取り上げられた中で読んだことある本は一冊だけ、『美術館とは何か』だけでした。これは本当にいい本です。また読みたいな。

さて、『コドモダマシ』からもう一節、引用しておきたいと思います。それは、これだ!

こどものころはみんな感想文なんか書くのいやがってるんです。そのクセ、オトナになると、頼まれもしないのにブログで本や映画の感想ばっかり書きたがるんだから、わからない、わからないよブロガーの気持ち。

ほんと、私もなんでかわかりません。

引用