2008年6月30日月曜日

少女魔法学リトルウィッチロマネスク editio perfecta

 面白いとは聞いていたんです。『少女魔法学リトルウィッチロマネスク』、魔法の見習いの女の子ふたりに稽古をつけて三年間で一人前の魔法使いに育てようというゲーム、やることといえば魔法習得に必要なスピリットをためて、魔法を習得させて、そして様々のクエストをこなしていく。ゲーム性のあるのは、スピリットをためるフェイズ、レッスンであるのですが、それが実にさいころを振るだけ。アリアとカヤ、ふたりが三つずつさいころを振りまして、そして私はというとそのさいころをマウスでクリック(ダイスキックといいます)して、目を揃えてやるんです。目が揃えば魔法発動。目にも楽しい効果を伴って、ダイスが増えたり、スピリット大量獲得が叶ったり。クエストの期限が過ぎるまでに必要な魔法を揃え、クエストを受領し、イベントを進め、そしてフラグを立てる! このやりくりがまた面白くて、クエストの期限はあと何週だから、いついつまでに必要となるスピリットをためて、魔法を覚えさせよう、ああそうするとこちらの手が遅れるから、クエストどちらかあきらめないといけないかも。ああ、もう鼻血でそうです。それくらい楽しい。最初こそは、楽勝じゃんと思ったものが、二年目突入する頃から大変さが増してきて、あっちもこっちも手を出すなんて無理! ということはおのずとターゲットを絞ることとなって、そしてそこで悶えるのです。ああ、ほんと、鼻血出そうなくらい楽しんでます。

しかし、本当に楽しいのはダイスロールがためだけなのか? クエストを受ける受けないの仕分け、それだけが楽しいわけではないだろう? うん、そうですね。楽しいのは、イベントパートも同様。というか、素晴らしすぎるんですが。まじで鼻血出そうなんですが。そもそも私は大槍葦人の絵が目当てでLittlewicthのファンをやってるようなもんで、まずは絵柄があって、そしてあの緻密に作り上げられた雰囲気ですか? 世界の空気が濃密にその存在を主張している。そうしたしっかりとした舞台に、生き生きとキャラクターが映えるんですよ。そう、キャラクターの作り込みも素晴らしい。ファンタジー色を強めた結果か、ぶっ飛んだキャラクターがどしどし出てくる『リトルウィッチロマネスク』。けれど、そのどれもがおそろしくチャーミングで、もうたまらんわけです。私はこれが初回プレイで、ゆえに右も左もわからん状態でのプレイであるのですが、しかしそのしっかりと立ったキャラクターは印象深く私の記憶に跡を残していて、なんで? なんで名前知ってるの? そんなにキャラ表とか凝視したことないのに、と思ったら、あー、ファンディスク! Littlewicth主要キャラ総出演のボード&カードゲームにおいて、彼女ら出てたわ、出てました。しかしそれでも異様なくらい覚えている。名前とか覚えるの苦手な私が、あんだけしっかり覚えてるのはまさしく異例で、けどモーリスモお爺様の名前は忘れがちです。ファンディスクにも出てたのに……。ごめんなさい。

しかし、それにしてもキャラクターが魅力的なのは大したものではないですか。言葉にならんですね。いや、アダルトゲームだからそれで鼻血といってるんじゃないです。確かにそうしたシーンも二三経過してるけど、けどこのゲームプレイしてみると、そんなにエロは前面に出てくるという感じがしません。それよりも、むしろ、彼ら彼女らの日常の生活にかいま見える表情、それが魅力的で、もうたまらんね。どれくらい魅力的かといえば、主人公ドミノからがいいんだ。大魔法使い、物腰丁寧で腰が低く、いやそれよりもやけに気弱であかんたれというべきか。けど、そんな彼がいい。やっぱり主役に魅力があるっていうのはいいですよ。で、ヒロインたちがそれを上回って魅力がある。もう、鼻血出そう。アリアの、カヤの、ドミノに対する言葉のひとつひとつに、転げ回りそうです。さらに私は基本教えたがりだから、このゲームは夢のよう。あんな健気でかわいい生徒がいるなら、明日からでも教師を目指すっていうもんだよ。自分の持てる知識、技術をすべて君らに伝えたい! ああ、駄目だ。駄目人間が加速してる。でもいいんだ。一朝一夕で駄目になったわけじゃないんだから。駄目の二文字は、私の人生にビルトイン済みです。

ちょっと落ち着きました。キャラクターについて。事前に魅力的だといっていたマリエラさん。建築士のお姉さんですね。この人、ええー、こんな人だったの!? 正直ちょっとショックだったけど、でも変わらず魅力的。やっぱり好きかも。この人目当てにヨドバシで予約したコンスタンティーヌ。ええー、こんな人なの!? たまげたけど、けど別に悪くない。そして事前に意識していなかった人、セファは凶悪すぎ。ロゼッタかわいすぎ。エルモアお姉さまも素敵すぎ。けどサブキャラクターではオルガさんとメレットさんが双璧です。ふたりともむやみやたらとかわいいのはどうしたもんか。とりあえずこの人たちが出てきたら狂い悶えますね。喜びで。

そして、予想どおりカヤ・シャビエがとんでもないですね。あのキャラクター造形もだけど、やわらかで繊細そうな黒髪の束ねられた様の美しいことったらないね。いや、もちろんアリアもいいんです。ちょっと強気、普段は子供っぽい彼女が、ときに見せる大人びた様子。ああ、もう。でもなんというかカヤ。あの内気なところ、スカートの裾をぎゅっと握ってるみたいなところからはじまって、慌ててあたふたしてみたり、自分の思うところ言い出せなかったり、しかしここぞという時には凛々しかったりして、ああ、もう、Littlewitchはすごいな。あまりのかわいさに、死んでしまうかと思うくらいです。

最後に好きなイベント。といっても、まだ二年目に入ったところだから、ほんとに少しだけ。

地下迷宮イベント、まさかあんなにパロディ多めにもってくるとは思いませんでした。酒場で冒険者募って馬小屋で寝るの、程度だと思っていたら、前衛だ後衛だ、アラームくらいなら大丈夫、そしてしまいには

*おおっと!*

その鮮やかなる様、最高だった。涙出ました。感動しました。そしてやっぱり、地下迷宮のあるゲームとは、すなわちはまる要素があるってことにイコールなのだと、心の底から思いましたとさ!

2008年6月29日日曜日

はなマルッ!

— 可哀相に。

— なんて
なんて悲しいお話なんだ。

不幸系ヒロインが好きだといってはばからない私の心の奥底には、自分を必要とするより不幸な誰かを見付けることで、あまりにも低い自己肯定感から目をそらさせようとする、そんな浅ましさが隠されているのです。だから、そんな私には、『はなマルッ!』というゲームはうってつけで、なにが素晴らしいといってもメインヒロイン三人が三人ともなんらかの不幸的要因を抱えているという設定ですよ。それこそ私のような不幸を餌にしてたかるような人間にはご馳走とでもいうべきでありましょうか、それぞれに問題を抱えたヒロイン、この人を救えるのはあなただけなんですよ、そんなシチュエーション提示されれば、もう身を乗り出さんばかりにして取り組まないではおられない。といったわけで、『はなマルッ!』、やっとこさ全CGオープンいたしました。

ネタバレ気味にいきますね。

前回報告は、椿とスミレのシナリオを終えてのものでありました。性同一性障害を取り扱ったスミレシナリオ、母の死を引き金とする父の発狂をその一身に受けることとなった椿のシナリオ。自分の真実を知られればきっと嫌われてしまうからと、愛し愛されることに対し怖れを抱いているスミレ、狂った父が亡き母と自分を重ね合わせてしまったことからはじまる不幸を、その身に受け続けることとなってしまった椿。両者ともに結構ハードな、それこそ鬱シナリオと呼ばれてもおかしくないような、暗く重い要素を持った話であったのですが、正ヒロインであるヒマワリともなるとその重さはより以上のものとなって、読みごたえたるやかなりのものでありました。正直、スミレ以外のシナリオには期待をしていなかったのですが、それがヒマワリには心底やられてしまい、いや、しかしあのシナリオはよかったと思います。

なにがよかったか。それは結局は、主人公の奮起する、その様であったんではないかと思うのですね。イギリスで出会った幼なじみ、従妹のヒマワリが押し掛けてきた、そんな楽観的な、それこそよくありそうなシチュエーションからスタートしたシナリオでした。かわいくて明るい女の子との嬉し恥ずかし同居譚。それこそなんの憂いもない、そんな雰囲気を持って進行していたシナリオが、個別ルートに入るや否や転倒するという、その落差が強烈でした。死に至る病。彼女のそれまでの振舞いに理由がついて、納得いかなかった部分、ご都合主義に思われたところに理由がついて、ええーっ、ちょっと待ってよ。いきなり直面させられるシリアス展開に戸惑うのは、主人公もプレイヤーも一緒。しかし、そのシリアス展開において、主人公は奮起する。一抹の後悔を胸に抱きながらも、しかしそれ以上の後悔はしたくない。できるかどうかわからない、救えるかどうかわからないけれど、それでも救う努力をあきらめたくないという主人公の前向きさが胸を打ったんだと思うのですね。

遺伝性なのか、移植を必要とする病を設定しての展開でした。ドナーの適合率は極めて低い。そんな中、少しでも多くのドナーをつのろうとする主人公とその関係者たち。ただ主人公だけが動くのではなくて、残るふたりヒロインや友人教員までも動かされるという、その動きが素晴らしかった。さすがに正ヒロインとでもいうべきでしょうか。この時にいたって、すべての設定、すべての要素が、ヒマワリのために用意されたものであったとわかるのですね。ヒマワリが倒れた! そこで語られる真実、引き起こされた混乱、失望、落胆から抜け出して毅然と顔を上げる主人公、それが薄っぺらにならないのは、彼がそうせねばならないという内面のもろもろが少しずつ語られていたからに他ならず、そして他の登場人物たち、彼彼女らの動く理由もほのかに見えるのもよかった。さらに、ふたりのヒロイン、彼女らが動くことによって変わる、それがわかるというのも大きくて、私は椿→スミレ→ヒマワリという順に追ってきましたが、その順番はきっと正しかった。私は彼女らの抱える問題をすでに知っていて、そしてそれがヒマワリルートでもフォローされている、そのことが嬉しかったし、なにより物語の内実を豊かにしたと思うのですね。

スミレシナリオでは性同一性障害、ヒマワリシナリオでは難病とドナーの問題を扱って、けれどその取り扱いはとても丁寧なものでありました。物語の感動を演出するために適当にピックアップしました、そんなあざとさはまったくといっていいほどに感じられず、もちろん演出の要請とでもいいましょうか、不自然な部分、納得いかない部分、気にくわない部分もないわけではなかったのですが、それを帳消しにしてもいいと思えるくらいに力の入ったシナリオ、好感を持てるものであったと思います。印象はそれこそ真面目だなあといったもので、しかしその真面目さゆえに、スミレの正体を隠し通して、結果それがゲームへの苛烈な批判を招くことになったのだとすれば、それは本当に不幸なことであったと思わないではおられません。このへんは、好みの女の子を攻略したいという欲求に応えなければならないという、この手のゲームの宿命と、その上でより内容の充実したシナリオを提供したい、プレイヤーの心になにかを残したいといった制作側の欲求が不幸にしてすれ違った、そんな事例なんではないかと思われてなりません。

さて、妙に作り込まれたキャラクター、スミレのぶりっ娘と桃ちゃん先生のもろもろには耐えにくかったといっていましたが、何度かシナリオをループさせればなんということもなくなれて、それどころかヒマワリシナリオにおけるシリアス桃野先生のしゃべりには、なにしろ普段があれですから、がつんとくる強烈な真実味がのってきて、よかったですよ。これが制作側の思惑であるなら、よくやった、素晴らしかったよといいたいです。ヒマワリにせよ、桃ちゃん先生にせよ、スミレにせよ、椿先輩にせよ、その声をあてられている方たちの力、やっぱり馬鹿にできないなあと思いましたもの。蝶子に関しては最後まで微妙な違和感拭えませんでしたけど、けどそれでも悪いとはいいません。それは結局は、すべてをひっくるめて、いい話だった、お涙頂戴というわけでなく、確かにそれを読んで、通り抜けた私の中になにか残るものがあった、その感触があるためでしょう。その感触がために、忘れ難いゲームとなった、そのように思います。

ところで、このゲームって、攻略可能キャラは全員三つ編みなんですね。さらにいえば主人公まで三つ編み。素敵すぎ。というか、三つ編みに対するフェティシズムがあちこちに感じられて、つまりは三つ編みマニアによる三つ編みマニアのためのゲームだったんでしょうか。攻略対象キャラは三つ編みというルールは実に徹底されていまして、なんと主人公も攻略されてしまうという、そこが実に素晴らしかった。人によっては受け入れがたいものであったそうですが、私はリバオッケーなので、というかどうも私は受け側に感情移入するタイプみたいだから、よかったですよ。二重丸どころか花丸あげたいくらい。

そういえば、メインシナリオはどれも劣らず暗く重いけれど、サブシナリオやifシナリオは、その反動とでもいったらいいのか、あほみたいに明るい、ばかばかしいのが特徴的でした。そして、そのばかばかしさの影に意地の悪い本性みたいなのが感じられた桃ちゃんルート。あのエンドはバッドだったんでしょうね。ああ、このゲームは外に出さないとバッドに向かうんです。最初意味がわからなかったんですが、どうもこのゲームでの常識は外出しは思いやりであるらしく、つまり思いやりを欠いた行動を繰り返すとバッドに向かう。で、バッドエンドだとヒロインが死んだり(がばほー!)、主人公が死んだり(おがーん!)するんですね。もう、たまらん。ヒマワリ攻略時、何度彼女を殺したかわかりません。あまりなつらさに、攻略情報を探そうかと思ったくらいにショックで、けどそれだけにグッドに向かうルートをつかんだ時にはほっとしたものだったなあ。

さて、桃ちゃんルートに関してはちょっと感触が違いました。どこまでも純と思われた桃ちゃん先生は、その攻略時に思いやりを欠いてしまうことによって、本性をちらりと垣間見せてくれます。おおー、やってくれるじゃん! 正直、かなりのショックであったのですが、同時にその意外性、いや真実味といってもいい? 作り手に対するポイントがアップしたことを言い添えておきます。プレイヤーを喜ばせるくすぐりをあちこちに仕込みつつ、はっとさせるような要素もぴりりと混ぜてある。そんなところがうまかったなと思います。

引用

  • 篠房六郎『ナツノクモ』第8巻 (東京:小学館,2008年),78頁。

2008年6月28日土曜日

1年777組

  最初に取り上げたのは、サイトこととね77777カウントを達成した時でした。次に取り上げたのは、2007年7月7日、7並びがめでたい、そんな日でした。そして今日は、最終巻の発売日。長く『まんがタイムきらら』誌に連載されてきた『1年777組』、先日最終回を迎え、そして単行本が出て、ああ終わっちゃいましたね。ちょっと寂しい、けど不思議と悲しくはない。そんな不思議な感想は、漫画の中で語られるべきはきっちり語られていたからと、そんな風に思うんですね。恋愛に疎い女の子こりすと、これまた奥手な男の子ねことの、もどかしくもほほ笑ましい恋愛をめぐる四コマ漫画でした。当初こそはまったく恋心の通じないという、そんなこりすがだんだんと変わってきて、そしてあのラスト。よかったです。長い時間をかけて少しずつ描かれてきたことが、あの一コマに凝縮されて、ああ報われたねと、そう思えるようなラストでありました。

しかしこの漫画に限らずではあるんですが、四コマは単行本になると大化けすることがあって、いや、連載が面白くないなんていってませんよ。連載は連載で面白かった。けど、やっぱりページ数という制限がありますからね、一度にたくさん読むことはできません。ストーリーをもっている漫画なら、それこそひとつの場、ひとつの場を積み重ねるような展開になってしまって、その回だけで完結するならいいんですが、長丁場となるともう — 。この先いったいどうなるのという飢餓感は次の号を心待ちにさせる原動力にはなるけれど、翌月には前回のことなどほとんど忘れてしまっているってことも度々で、このテンションの持続しないというもどかしさがですよ、正直いろいろたまりません。ところが単行本となると、当然ですが、一気に読めます。すると、連載では気付いていなかったような大きな流れというものも意識できて、ああ、こんな風に繋がるのかと思うことも多くって、それになにより気持ちが途切れません。この気持ちを持続させられるというのが一番大きいですね。こりす、ねこと、そしてきつねへの共感、動かされた情感の全部が、束ねられたように太くなってラストエピソードへとなだれ込むことができた。そして、ハッピーエンド、後日談。ああ、いい話だったね、楽しかったね、嬉しかったね。読み終えてしばらく、その余韻に感じている。その余韻が、この漫画の終わったという実感を上回って幸いでした。

うん、幸い。この漫画のよさってこの幸いって感じだったのかなって思います。恋愛のさや当てがあったりする漫画ですけど、結構あこぎな手を使う人もあったりするんですけど、けれどそれでもぎすぎすしない。それはみんなが根はいい子だからで、悪ぶってみたりしてもほんとはいい人、さらに加えて表から裏から外側から中身まで、無垢っていってもいいくらいの善良さもった人がヒロインだから、もう悪くなりようがないですね。友達同士がなんのかんのいいながら楽しそうに、それもただわいわい遊んでるだけじゃなくて、大変なことを乗り越えてみたり、困っている時には助け合ってみたり、そんないろいろが漫画の雰囲気を決定づけて、そして私が受け取ったものというのが幸いっていう感覚だったということなのでしょう。幸いの漫画は、紆余曲折を経て、そしてやっぱり幸いで終わって、けどその紆余曲折、いくつもの出来事がより一層に幸いの感情を後押しして、だから読み終えた時にはもう気持ちが幸い一色で、いい漫画だったなあ、いい漫画でしたよ。終わっちゃったけど、けど私がこの漫画を好きだったこと、そしてこれからも変わらず好きでいるだろうことは確かなんだろうなあと思う。本当にいい読後感であったと思います。

私が『きらら』誌を読みはじめたその時に連載されていた漫画、だんだんと少なくなってきて、ああ変化していくんだなあ、主流のジャンルも雰囲気も変わっていくんだなあ。そんなこと思う昨今。いや、いいんだ。今の雰囲気も好きなんだよ。けどそれでもいいたいことがあります。またひとつ、好きだった漫画が終わって、心に一区切りついた気分です。長らくお疲れさまでした。楽しかった、いい漫画でした。ありがとうございました。

  • 愁☆一樹『1年777組』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • 愁☆一樹『1年777組』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 愁☆一樹『1年777組』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 愁☆一樹『1年777組』第4巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 愁☆一樹『1年777組』第5巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。

2008年6月27日金曜日

少女魔法学リトルウィッチロマネスク editio perfecta

 本日は6月27日。かねてからいっておりましたように、ヨドバシカメラにいってまいりました。かねてから? そう、『Lの季節2』について触れた時にいっていました、6月27日には『少女魔法学リトルウィッチロマネスク editio perfecta』が出る、これですよ。常ならば、店頭購入ではなく通販で済ませてしまうPCゲームを、あえて予約までして買ったのは、特典のテレホンカード欲しさがためでした。今更テレホンカード? 正直そういう考えもなかったわけではありませんでしたけれど、それに私はテレホンカードを集める趣味は(幸い)なかったので、あえて手にする必要もなかったのですが、でもどうせなら記念といいますか、この日この時に立ち会ったという証といいますか、そういうのがあってもいいだろうと思ったのです。お祭り気分といいますか、参加することに意義を見出したかったんですね。

もちろん、通販でもよかったんですよ。通販で特典付きって店もありますから。ですが、どうせなら好みの絵柄がいいじゃないですか。となると、ヨドバシカメラのコンスタンティーヌしかなかった。なにしろ私は着衣系のロリコンですから(すなわち別になんもおかしくない)、ヨドバシのコンスタンティーヌしか選択肢がなかったわけです。しかも加えてウェーブがかった金髪ショートカットに王冠装備、見返り構図のコケティッシュであること、もう完璧じゃないのんか? などという私は、やっぱり金髪好きなのかなあ。人にいわれるまで気付かなかったのですが、どうやら私はなんのかんのいって金髪が好きである模様です。だからコンスタンティーヌ。妖精王だそうですが、まあ詳細はプレイしていきゃ追々わかるのでしょう。というか、そもプレイできるのか? 現時点での問題はそこに集約されています。

先日取り上げました『はなマルッ!』、実はまだクリアしていないのですよ。それどころか、あの記事を書いて以来、一度もプレイしていません。ゲームする余裕がないんですよ。時間がないわけでもないと思うんですけど、でもなぜかゲームする時間がない。日課もこなせない、そんな毎日を送っていて、ああもう、Blogやめりゃいいのか!? 仕事やめればいいのか!? ゲームやりたさにめちゃくちゃなこといいだす始末。でも、仕事やめれば先立つものがなくなるし、Blogやめれば数少ない社会との接点(!)が失われるし、結局は残された時間をうまくやりくりするしかないのでしょう。

一日三十分ほどでも、それこそイベントをひとつこなしたら終わりみたいな、そんなスローペースで、長く取り組めばいいんでしょうね。けどそれができていれば『世界樹の迷宮』ももう終わってるだろうし、ということは『世界樹の迷宮 II』ももうはじめてるだろうし、けどそれがなっていないということは、毎日少しずつというのが難しいということ。Nintendo DSでそうなら、日頃スイッチの入っていないWindows機ならなおさらで、でも『リトルウィッチロマネスク』、面白いと聞くからなあ。なんとしてでもプレイしたいなあ。

そんなわけで、なんとか近々『はなマルッ!』やっつけて、『リトルウィッチロマネスク』をはじめたいと思います。プレイ前におきましては、建築家のマリエラさんが素敵、 — かっちりした服装、それに眼鏡! だといっていますが、多分プレイするとメインヒロインのひとりカヤ・シャビエに強烈に傾いていきそうな気がします。いや、暗いヒロイン好きなもので。それになんか不幸系っぽいからさ……。ともあれ、すべてはプレイしてからでしょう。といったわけで、今日はここらで切り上げて、プレイ開始の段取り、整えたいものと思います。

引用

2008年6月26日木曜日

北京いかがですか?

 私は大学院に通っていた頃、中国語を習っていたのですが、そのきっかけとなったのが小田空の『中国いかがですか?』という漫画であったということ、もう何度も書いてきたことであります。たまたま寄った書店で立ち読みした雑誌がすべての始まりだったのですよね。だからもし、私があの時、あの書店に寄らずにいたら、少なからず私の人生は変わっていました。なにを大げさなとおっしゃるかも知れませんが、中国の知人(といっても、みんな日本在住なんだけど)と知りあうこともなかったでしょう。また、気のいい学習仲間との出会いもなかったはずで、ということは2006年の成都九寨溝旅行もなかった。まあ、だとしても私には中国留学の友人があったりするから、どこかで中国への関わりを得るチャンスはあったのかも知れませんけれど、でもずっと西洋ばかり向いてアジアを気にかけることのなかった私が中国に興味を持ったのは、間違いなく小田空の漫画のあったためでした。別に中国を後進国として見下していたりしたわけではないんです。ただ、視界に入っていなかった。それくらい私にとってはヨーロッパが大きかった。ところが『中国いかがですか?』は鮮やかに私の視野を広げて、中国びいきに変えてしまいました。ええ、閉じられていた目が開かれた、それくらいのインパクトを持った漫画であったというのですね。

そして、今また小田空の漫画が出て、その名も『北京いかがですか?』。見た途端に購入決定。ええ、私は小田空のファンだから、とにかく本が出ているとなれば買うんです。しかもタイトルがタイトルですよ。『中国いかがですか?』の関連本であることは明らかで、これはもう買わないなんて選択肢はあり得ませんでした。

そして読んで、面白かった。小田空という人の目を通して語られる中国のすごく生き生きとして魅力的であること。特に今回は北京という都会がメインです。これまで語られてきた、なんだか微妙に遅れている中国というイメージを見事に払拭して見せて、いや、もうすごいですね。実際、私は成都という都会を見て、今の中国をそれなりに感じたつもりではいたのですが、いやいや、北京はなんだかもっとすごそうです。そういえば、私も北京にはいっているのでした。飛行機の乗り換え、空港の風景しか知らないからいったうちには入らないでしょうけど、でもかいま見るくらいはできたんじゃないかな。待合に置かれたタンク式飲料水、そして携帯電話充電スタンド、これらは外国人も利用するからではなく、中国人が普通利用しているものだからそこにあったんだということが、この本を見てはっきりとわかりました。今中国は猛烈な勢いで近代化が進んでいる、その渦中にあって、変化するもの、新しく現れたもの、失われゆくもの、そして消えず残っているもの、それを小田空はつぶさに観察しているのです。

あ、これおまけ。水はちょいぬる。充電器は線をどう繋いだらいいのかわからんという不親切仕様で、上海のお姉さんと一緒に思案したんだけれど、怖くてよう使えませんでした。

Beijing Beijing

私が中国語を勉強していたのは、今からだいたい十年くらい前でしょうか。十年前にはすでに中国の変化ははじまっていて、北京の駅がものすごいだとか、トイレがものすごい勢いで整備されていっているだとか、ものすごい富裕層が出現してものすごい高級住宅もどんどん建設されてるとか、そういう話を聞いて、へー、中国はがんばってるんだねえなんて思っていたんです。で、十年が経って、小田空の北京レポートを読んで、いやあ、驚きました。中国、えらい変化してますね。例えばペット事情、私の常識では中国のペットは固有名を持たず、白い猫なら白猫とか、そんな呼ばれかたしてるって話だったんですが、とんでもないですね、今は中国でもペットブーム、思い思いに思い入れたっぷりの名前を付けてかわいがってるっていうんですってさ。また買い物も、伝統の市場が消え、近代的なスーパーマーケットが主流になっていくなど、またそこに並ぶ商品も日本のものあり欧米のものあり、もちろん中国のものあり、中国のものも一流品があれば、中国人も眉をひそめる末流品があって、百花繚乱とでもいうべき状況があるんだそうです。

そういえば、中国人民の中でも富裕層はよいもの、安全なものを求めて、海外製品を選んで買っているだなんていう話がありました。そして安全を求めるのは庶民でも変わらないようで、安かろう悪かろうあやしかろうというものは避けているとか。そういうところは、日本においてもかつてきた道でありますね。私が子供の頃は、残留農薬であるとか中毒であるとか、そういう話がありました。もう少し時代が遡れば、もっといろいろあったといいます。そういう時代を経て、なりふり構わない発展から一歩引いてみて、ようやく安心や安全を第一にという状況がやってきたのだとしたら、多分中国もこれからなんだろうと思うのです。小田空もいっていますが、強烈な格差が是正されて、教育が行き渡ればこうしたことは改善の方向に向かうのではないか。一朝一夕にはいかないことだとは思いますが、でも少しずつよくなろうとしているのではないか。だって中国の消費者も品質そして安全を求めるようになっているわけですから、そうした要望が状況に変化をもたらす可能性は充分あるわけで、だから数年後の中国はまた違った顔、違った状況にあるんじゃないだろうか、そんなことを思わせるのですね。

中国の変化は、コンピュータや携帯電話、(制限付きとはいえ)インターネットなど、こうした情報技術の発達においてもかなりのものであるようで、実際私も九寨溝にいった時ですが、インターネットが当たり前に利用できることに驚いたものでした。あそこ、標高三千メートルですよ。いわば、そういう僻地においてもインターネットの利用が可能。小田空いわく、回線の基本インフラはかなり整備済み 中国人はおそらく日本人が想像する以上にネットから情報を得ていると思われるだそうですから、いやあ日本もうかうかしていられません。中国人は、政府のいいなりなんかではなく、自分で情報を得て、自分で判断を下すようになってきているっていうんです。実際、中国帰りの友人や留学生の話によると、中国政府が必死で制限しようとしているような情報は、ある一定以上の階層となるとかなり知られているのだそうで(つうか、周知の事実?)、さらに中国人は歴史的経験から政府は信用しないものと学んでいるらしく、そういうところに体制のきしみはすでにはじまっていると感じたものでした。思えば、私が中国にいったのは丁度共産党の選挙があった時らしく、そうした看板もろもろ見ながら、あんなの茶番だと中国人がいっている。その会話は日本語でなされたものでしたが、小田空のレポートによるとスタバで堂々と中国人と一緒に社会批判できる時代になりました。確かに中国は変わりつつあるようです。

これは是非とも触れておきたかった。2005年に中国で吹き荒れた反日デモの嵐について。中国に留学していた私の友人は、丁度この時期に北京にいたのです。日本政府から安全のため云々と連絡はあったそうなんですが、平気平気と帰国もせずに、普通に北京に暮らしていた。そんな彼女がいうには、北京市民はそんなデモなどちっとも知らない。普通の中国人、少なくとも彼女のまわりにいた人たちは、反日デモに参加するどころか、そうしたことがあったことさえも知らないでいた。そんな程度だったんだそうです。ところが、日本においては、まるで中国人民が皆一斉に蜂起して、街を破壊しながら、日本領事館やレストランに押し寄せたような印象で語られていました。そうした行為がおこなわれたことは一面確かに事実です。そういう不心得者、デモの名を借りて破壊や略奪、暴行をおこなった不埒な連中はおったわけです。けれどもそれはすべてではない。すべてではないのに、それがすべてであるかのように煽るメディアがある。それも双方にある。日本のメディアはセンセーショナルな絵を求め、中国は政府批判をかわすために日本をうまく利用する。そうした思惑が、実際の状況を覆い隠しているのだとすれば、それは不幸としかいい様がなく、そして目を耳を塞がれた私たちは誤った方向に向かわされてしまう — 。

見なければならないことはあるし、知らずにいてはならないこともあるし、だから報道は良いことも悪いことも、できるだけ誇張なしにやってほしい。けどメディアにゆがみがあるのだとすれば、風の吹きようで、いいことばっかりいってみたり、悪いことばっかりいってみたりするような、日和見であるのだとすれば、自分のやるべきことは、多くの情報をいろいろなチャンネルから得ることにつきるのでしょう。そのチャンネルとは、インターネットもそうでしょうが、できれば信頼できる知人など、そういうものであれば望ましい。私にとっては、留学していた友人で、あるいは留学生の中国人など、いろいろな意見、見方があればいい。そして自分で見るのが一番いい。けど、そうしたチャンネルが得られない場合には、小田空をはじめとする、様々な体験記が力になってくれるのだと思います。

最後に。後書きにて2008年の四川大地震について触れられています。私のいったという成都は四川省の省都、九寨溝も四川省です。だからちょっと心配していて、というのは成都を案内してくださった方は、日本で中国語を教えている方のご家族で、いろいろお世話になっているんですね。それに、現地で言葉交わしたお店の方、レストランでバイトしていた学生さん、記憶に残っている人、よくしてくれた人、その人たちはいったい今どうされているのだろうと思って、心配なのです。とはいえ、なにをできるわけでもなく、本当にどれだけ役に立っているというのか、大した支援さえもできずにいて、実はいろいろともどかしいのでした。

この地震では、日本から救助隊が出たりして、またそのことが中国のメディアで取り上げられて、日本への印象がよくなったなんていいますね。そのことは嬉しい。すごくいいことだとは思うけれど、今回はまあそういう風が吹いたってことなんだろうなあ。オリンピックも近いし、チベットの問題でこじれそうになってたりもしたし、そういう風を吹かしたかったんだろうと思って、そうした思惑がまるでこの災害を利用しているかのようで、それで利益を得るのが被害に遭った人たちというより、政府だったりするのがどうにも……。いや、でも長い目で見ると、よかったのだと思いたい。明日は明日の風が吹くものだけれども……。

どうか、できるだけ多くの人が無事でありますように。私の関わった人たちだけでなく、その他多くの人たちも、これ以上の災いを避けられますように。思惑でも無私でもなんでもいいから、援助の手が多くの人に届きますように。そして、決して元通りにはならないとしても、早く日常が取り戻されますように。

引用

2008年6月25日水曜日

Hydrangea, taken with GR DIGITAL

Flower, 100 yenGR BLOGのトラックバック企画、6月のトラックバック企画テーマです。花というと、それだけでひとつのジャンルを形成するような被写体で、撮ってみるとまあ難しいなと思います。漫然と撮ってもそれらしく写ってくれるのですが、それは花の美しさによっかかってるだけであって、写真として美しくかつ花の魅力をひきだした写真となると、それはそれは難しい。もともと私は花を被写体とすることは少なかったのですが、GR DIGITALを買ってからは折々に撮るようになり、その難しさを実感することも増えたと思っています。けどそれでも撮るのは、花がそれだけ魅力的であるからと思います。普段はそれと意識されることは少ないけれど、街のあちこち、それこそ身の回りに花はあふれていて、野の花から、人の手の入ったものまで、多様に暮しを飾ってくれています。カメラを持ち歩いて、一日一枚を心がけるようになってから、そうした花に気付くようになりました。そして私が花の名前を全然知らないということにも気付いて、ああ、私はちっとも風流ではないのだなと気付かされたのですね。

冒頭の写真は、うちの近所にある野菜を売る無人スタンドにあった花のバケツです。新聞紙しんぶんがみに包まれた花、一束百円。その素朴さがいいなあと思って撮った写真です。写真としては微妙かも知れないけれど、ちょっと田舎にいけば残るこういうスタンド、消えつつある日本の風景の記録とでもいえばいいんでしょうか、私はこういうの結構好きなんです。

Self-service stall

スタンド全景

さて、今回の写真はあじさいを選びました。通勤途中、小道の脇にあじさいを栽培されている方がいて、いつもこの時期になれば美しく花をつけています。いつもそれを見て、写真を撮っては、あじさいは日本の季節を表すいい花だなあと思う。それはもう、毎年の恒例行事のようになっています。

出がけに降っていた雨が止み、ちょっと晴れ間がのぞいた朝、葉に落ちた花びら(正確にはがく)が印象的で、足を止めたのでした。私は普段、花なら花をどかんと映すのですが、それが珍しくこういう写真になって、いつもと違った雰囲気、よしこれだと思って選びました。結構気に入っている写真です。

Hydrangea

タテイチモアリマス。

Hydrangea

2008年6月24日火曜日

ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド

  先を楽しみにしている漫画というものは、常時ひとつやふたつくらいはあるものですが、『ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド』は疑いなくそうしたもののひとつです。新刊が出れば一も二もなく買って読む。なにをおいても読む。いうならば最優先タイトルですが、それは当然それだけの理由があるのです。一言でいうと面白い。ヴァンパイアの姫の覇権争いを描いた漫画が、独特のリアルさをもって迫ってくる。実に読ませるのですよ。さて昨日、最新刊である5巻が書店に並んでいました。もちろん買いました。もちろん読みました。そして、やっぱり面白いなあという思いとともに読み終えたのでありました。

第5巻は第4巻から引き続いての追跡劇、その完結巻にあたります。ヴァンパイアの姫君ミナを巡る権力争いに巻き込まれるかたちで命を狙われることとなった主人公アキラが、放たれた刺客に対しいかに戦うかというクライマックスが見どころと思われたのですが、ええ、確かに見どころであるのですが、なぜか私は戦いの行方に関してはあまりのめり込むことができずにいました。第4巻から間が空いたためでしょうかね。テンションが下がってしまったんでしょうかね。これほどに淡々と読めることに自身驚いて、それこそ5巻は穏やかに読み終えられるかなと思ったのです。

見込み違いでした。しっかり見どころ、山場を作っていますね。感情に訴える山場。主人公の少年を、またヒロインであるミナ姫を、応援したくなってしまうような山場。彼女がなそうとしていることの一端が描かれて、そしてアキラは負けるわけにはいかないということも。アキラの戦いは、姫さまをだけでなく、多くの人のささやかな仕合わせをも守るものであったのだと、あの十ページ足らずで説明しきってしまいました。アキラを奮起させたように、読んでいるものも引き込み、肩入れさせてしまう、雄弁なページでした。そしてその雄弁、物語の力強さは、これまでに積み上げられたものがあってなのでしょう。ヴァンパイアたちの人とは違う生き方、しかしそれでも人としての仕合わせを求める人たちがいるということが語られてきた。簡単に壊されてしまう、しまった仕合わせがあること、しかし苦境にあっても仕合わせに手を伸ばすことは、手にすることは可能であるのだと、そういうことが描かれてきたように思います。だから、この十ページは豊かだった。どん、と大きな感情を手渡されるような、そんな実感にあふれたのだと思います。

この漫画のよいところは、よく感情を揺さぶってくれるところ、そして問題の解決に際しスマートな手法が用意されるというところだと思います。確かにご都合主義といえばそうなのかも知れません。事前に計画に穴を開けておけばいんですから。ですが、その穴に気付かせない。そしてあっと思わせるタイミングで、解決策を見せてくれる。それが鮮やかだから、ああやってくれたなと嬉しくなるんです。第5巻においてもそうした見せ方は健在で、ちょっとおとなしめに感じたのは感情方面の描写が強かったからでしょうか、でもいいアイデアだなあと思わせるギミック、素晴らしかったです。

続きを知りたくて第5巻だけを読んだわけですが、おそらく第4巻から一続きに読めば面白さは際立つことでしょう。だから余裕があれば既刊を読みなす機会を持ちたい。そしてその読み直しは、今後新刊の出るたびになされるのではないかと予想されて、というのもそれくらいに引き込んでくれるから。本当に、いい漫画だと思います。

2008年6月23日月曜日

百舌谷さん逆上する

 篠房六郎の『百舌谷さん逆上する』第1巻は本日発売です。その発売が『アフタヌーン』本誌にて告知されたその日、私は手帳にその旨記載して、今日の来るのを待ちに待ったのでした。なぜか? 好きだからです。篠房六郎が、篠房六郎の描く漫画が好きだからです。途方もなくばかばかしいネタ、どこまで本気なんだかわからない妙なテンションの影に、シリアスな顔がかいま見える。はたしてどちらが真実の篠房なのだろう。苦笑、失笑から切々と胸を痛めて涙を流すまでに心は振り回されて、ああもう最高だ。たまたま買った『こども生物兵器』にはじまり、『ナツノクモ』で完全に心持っていかれた。そして今『百舌谷さん逆上する』。『こども生物兵器』の匂いを多少残しつつも、しかしやっぱり篠房六郎。悪趣味悪乗りのふりをして、その実は、胸の奥をぐっと押すよな人の悲しさを切なく唄っている — 。ああ、そうさなあ、不器用者たちのエレジーとでもいった趣があるってわけさ。

不器用者、それはこの漫画のヒロインである百舌谷小音を筆頭にして、樺島がそうであり、竜田がそうであり、千鶴がそうであり — 。ギャングエイジから思春期にさしかかる年ごろ、誰もが自分の思いに戸惑い素直でなんかいられない。そんな時期を過ごす彼らがみな主人公といっていいのかも知れません。しかし、通常の発達過程にある竜田や千鶴とはちがう位置にいる百舌谷小音、ヨーゼフ・ツンデレ博士型双極性パーソナリティ障害を抱える彼女だけはなお重い現実を背負わされて、それが切ないのですね。愛すればきっと傷つけてしまう — 。ツンデレという障碍のあるために。わかっているのに、衝動を止めることができない。そんな彼女は、誰かを傷つけてきたその度に、傷ついてきたのでしょう。その結果が、人に愛されることを望まず、人を愛することも望まない今の生き方。期待することをあきらめ、割り切った人間関係の中で暮らす彼女は、世界を憎み、他人を呪い、しかしそれ以上に自分自身を痛めつけている。それがもう切なくて、悲しくて、心が乱れてたまらないのです。

以前、私はいっていました。

どこかに問題を抱えた人物ばかりが出てきる漫画でした。そして私は彼らのうちに私自身を見ていました。[中略]自尊感情の欠如が引き起こしている諸問題、誰もが愛をせがんでいるのに、愛し方も愛され方もわからずにとまどっている、そんな漫画でした。だからこそ、この漫画は特別であったのです。自分自身の価値を信じられない自分にとって、この漫画の登場人物たちは他人ではなかった、一人一人が厳しい問い掛けを突きつけてくる、そんな存在であったのです。

篠房六郎の『ナツノクモ』についての文章です。そう、私はあの漫画の登場人物たちに自分自身を重ねて見ていた。彼らの問題を自分の問題として見ていたのです。そして、私は今、百舌谷小音の問題を自分に引きつけようとしています。愛を求めつつ得られない悲しさ、愛したくとも愛し方がわからない戸惑い。確かに百舌谷小音の事例は極端で、それはそれはギャグそのものなのですが、しかし人の心に戸惑いと怯えを感じ、自分自身をゴミのように感じている彼女の絶望に似た思いは、私の中にだってあるのです。そして、おそらくは誰もが同じものを持っていて、うずく痛みに苦しんでいるのでしょう。私たちは、多かれ少なかれ同じ苦しみを抱える、いわば同胞であるのです。

あんまり真面目に書くつもりではなくて、それこそ、むごは!!? とか、師匠最高、あんな師匠に巡り合いたかった云々、馬鹿なこと書いて終わりたかったんですが、どうしてもツンデレの悲しみにとらわれて、辛気臭くなってしまいましたね。けれど、私にはうずく感情を無視することができませんでした。私の心のうちが、見たいものも、見たくないものも、なにもかもがあらわにされるような篠房六郎の漫画のコマの運び、台詞の流れ、一挙手一投足に、どうしても黙ってなんていられない、そんな思いになってしまいました。そうなんです。篠房六郎はすごいのです。私の心のうちを覗くかのような漫画を描く。だから私は、この人の漫画を読むたびに、喜びとともに高揚し、悲しみに暮れ悶えるのです。そこには私の欲しかった言葉がある、私を包み、力づけ、叱咤する言葉があるのですから。過去にもあった、そして今も。変わらず氏は私の胸底にどしどし届く漫画を描いて、だから私はこの人から目を離すことができない!

私は全力で『百舌谷さん逆上する』を支持します。

引用

2008年6月22日日曜日

わたしのお嬢様

  ヴィクトリアンと呼ばれた時代は、文化文芸芸術の花がたくさん開いたことから日本でも人気があって、ヴィクトリア朝イギリスを舞台とするものは、漫画、小説、ゲーム問わず、今も次々と生み出されています。最近では『エマ』がそうなんでしょうか(読んだことないからわかりません)。数年前から徐々に高まっていたメイドブームの後押しもあったか、相乗的にヴィクトリア朝への興味、意識も強くなっていったと思しく、ですがもとよりヴィクトリア朝イギリスには興味をそそる題材が多かったではないですか。シャーロック・ホームズのシリーズやアリスに代表される児童文学、これらには昔から分厚いファン層が存在していて、それらは少なからず漫画のファンを兼任しているようでありますから、メイドからヴィクトリアン・リバイバルが発想されるのは自然であったのかも知れません。いやあるいは、メイドブームを受けて、好きなヴィクトリア朝をこれでもかと描きまくれる! と思った人もあったのかも知れません。

かくいう私は『不思議の国のアリス』から入ったヴィクトリア朝ファンで、その後帆船に興味を持ってその関係の本を読みまくった中に、『ニワトリ号一番のり』があったりして、これはティークリッパーと呼ばれる茶の輸送船がロンドンに一番茶を届けんと競い合う模様を描いたものなのですが、蒸気船が帆船を駆逐する前夜です、ヴィクトリア朝イギリスの一側面を描いて、面白かった。しかし、紅茶を誰よりも速く届けることが栄誉となり、また莫大な富をもたらしたという事実、ヴィクトリア朝イギリスの栄華を物語るエピソードであります。

さて、樹るうの『わたしのお嬢様』はヴィクトリア朝イギリスを舞台とする物語、四コマ漫画であります。とはいってもごりごりのヴィクトリアン趣味ではなく、ヴィクトリア風と現代日本がいい感じに混ざりあった、ライトな読み物です。主人公は貿易商の父を持つメリーベル。齢8歳にして大人顔負けの才覚を見せる、そんなお嬢様にはメイドがついていて、それがミリアム。当初はお嬢様の多彩な趣味に突き合わされるどじっ娘メイドという趣だったのが、気付けばミリアムの恋愛を巡る話になって、さらに気付けばホームズよろしく下町の少年少女を組織したメリーが大活劇やらかすような、そんな展開見せまして、いやあ、実に面白かった。

私は第1巻の出た時、株取引のお嬢様という副題と、帯の経済新聞片手に株で大儲けを狙う美少女という惹句を見てですね、迷った末に見送ったんですよ。けれどずっと気になっていて、書店の棚、2年間ずっと監視し続けて、2巻の出たのに合わせて買ったんです。買ってよかった。『そんな2人のMyホーム』にも通ずるテイストがあります。方や有能大和撫子、方や美人でどじだけど基本は有能なナースメイド。恋愛にはからきし不器用で、けどそのあんまりな純粋さのために、応援せずにはおられない。そんなタイプのヒロインがお嬢様のために、そして気になる家庭教師のために心を揺らし、奔走する。けなげです。思うのですが、けなげに萌えがあるのだとすれば、樹るうヒロインはまさしくそれだと思います。彼女たちには大切に思う人があり、その人たちの仕合わせを一心に願う姿が美しい。そしてまた彼女も皆から思われていて、そうした心の繋がる様が心地よいのだと思います。綺麗すぎるかも知れない、現実にはそんな風にはいかんだろう、そう思う人もきっとあることでしょう。けれど、だからこそこうした理想の関係、心がけの綺麗な人たちが登場する漫画には価値があるのだと私は思います。

あんまり心がけ云々言い過ぎて修身臭い漫画と思われてもいやだから補足しますと、基本的にはどたばたのコメディです。やんちゃなお嬢様を筆頭に、変わり者たちが自分の興味関心を満足させるべく全力で走ってる、そんな漫画。読んでいるうちに、善良な変わり者たちが好きになってしまう、そんな漫画です。そして私は、登場人物の鷹揚さ、おおらかな作風にぐっと心をつかまれてしまっていて、というか、あんなお屋敷があるというなら、私もそこで働きたいくらいです。

どうでもいいこと

ヴィクトリアン
パンチラするのが
大変だ

ヴィクトリアンの女性の下着といえばドロワーズが思い出されますが、ドロワーズにはopen crotchといわれる、股が開いたものがありまして……、つまりなにがいいたいかといいますと、ヴィクトリアンのパンチラは現代のそれよりも危険な場合があったってことです。ドロワーズの股がいつごろ縫われるようになったのかは知らないのですが、状況によっては第2巻裏表紙などは、とんでもないことになっていたかも知れないわけです。当時のドロワーズについてはヴィンテージファッションを愛好する人のサイトが参考になります。

ヴィクトリア朝イギリスは性的なモラルが過剰に発達した時代で、机の脚が露出しているのははしたないといって、ストッキングを履かせたりしたんだとか? だから、ひざ下まで防御されているとしても、ミリアムのパンチラ(ドロチラ?)はヴィクトリアン紳士的にはかなりの魅惑であったことでしょう。とはいえ、当時の写真で、海辺かな? で遊ぶ貴婦人たちが、泥濘をふくらはぎまで露出して歩いているのがあるんですが、これは、それくらいなら大丈夫だった、あるいは、今でいうビキニ並のインパクトを持つセクシーショットだった、どっちなんでしょうね。どうでもいいことなんですが、ちょっと気になったのでした。

引用

2008年6月21日土曜日

くじごじ

私にとって川島よしおは『グルームパーティー』を描いていた人という印象が強く、ちょっと癖のある絵や露骨な割にあんまりいやらしく感じない下ネタ、シュールなねたが合わさって、他のどこにもない独特な印象を醸し出していました。私が『グルームパーティ』を読んでいたのは、単行本ではなく職場に置き去りにされた共有雑誌なので、今遡って読むことはできないのですが、機会があるならまた読んでみたいものだと思っていて、それはつまり面白かったといっています。さて、そんな私が今読んでいる川島よしおものといえば『PEACH!!』、部活で温泉旅館をやっている女子高生の漫画ですが、これでは下ネタを封印しているから、ちょっとあたりが違います。対して今回とりあげる『くじごじ』、これは下ネタ全開、実にらしい仕上がりとなっております。

しかし、下ネタ全開でもあんまりいやらしく感じないというのは、この漫画においても同様で、割と露骨というかあからさまなものも多いというのに、絵柄のためなのか、それともエロかつナンセンスだからなのか、いやらしさがない。湿っぽく見せて、からっとしてる。そうしたところに私はこの人のらしさを感じます。舞台は丸の内のオフィス街、メインを張るのは一癖も二癖もあるOLたちで、しかしそうしたOLの筆頭格、OL課長花田の正体が46歳の冴えない中年男というのはなんだかすごいな。しかも変装でもなく女装でもなく、変身だというのがナンセンス極まるところで、花田は女性となった自分の体に欲情し、興奮し、しかし実際はおっさんに過ぎないという現実に打ちひしがれ、それがもう侘びしくも悲しい。おかしくも切ない。ほんと、この感情はなんだろう。

『くじごじ』を読んでみて、一番気に入ったのがOL課長で、しかしそれが本当はおっさんという悲哀。こうしたネタに、目に見えるものとその実質の差ってなんだろうなんて思ったのです。人間は見た目じゃないだなんて人は時々口にするけど、しかし美しいOLと思って好きになったら、実はおっさんでした。あり得ないことです。あり得ないことですが、もしこういうことがあり得るとしたら、私は実際どうするのでしょう。花田キヨテルよろしく幻滅とともに嘔吐するのか、はたして、はたして!? まあ、こんなこと普通は考えないものだと思いますが、けれど愛に一貫性を求めるならば、そして誠実なふりをするならば、46歳花田キヨテルをも愛せるといわねばならんのでしょう。 — ごめん、無理。

この人の描く下ネタは、男の女性に対する幻想をあからさまに口にしつつ、それが幻想に過ぎないということもあからさまにするという、そういうところが味になっているように思います。OL課長花田のネタなんかもそうで、若く色っぽい女の体に興奮するのは実際だけど、それが幻想なら実体に対しては幻滅するしかないんね。この人のネタは、そうした幻想がはげ落ちるかどうかという、ぎりぎりあたりをつくから、ああ、そうだそうだと納得させられるし、ああそうだそうなんだよねと笑ってしまうのだと思うのですね。幻想にすぎないことを知りつつも、それが晴れてしまうことは望まない。そうした暗黙の諒解ごとを根っこに持って、多面多様なネタの展開をしてくれる、その展開のやりようが実にうまいと思います。

ところで、この漫画に出てきたブラのホックの留め方外し方ですが、私が習ったやり方は、ストラップをかけてから背側で留めるではなく、胸側で留めて背に回し、最後にストラップをかけるです。手を背に回して留めるというのはやりにくく思うんですが、特に私みたいに体がかたかったりするとこのやり方きついんですが、一般的にはどちらが主流なんでしょうね。

なおフロントホックは直角でスライドさせて留めてからまっすぐ伸ばすが正解です。以前、わからないとおっしゃっていた方、どうぞ参考になさってください。

  • 川島よしお『くじごじ』(ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2004年。

2008年6月20日金曜日

キルケーの豚

先日読んだ『ああ探偵事務所』、これが面白かったものだから、関崎俊三の既作、『キルケーの豚』も読んでみようという運びとなりました。『キルケーの豚』は『ああ探偵事務所』の前に連載されていた漫画で、この第1巻と第2巻の合間に描かれた読み切りが『ああ探偵事務所』のケース0、なのだそうです。入手には少々手間取りました。というのも、この漫画、すでに絶版していまして、とはいえ今やインターネット時代、探そうと思えばすぐに見つかります。いい時代になりましたね。けど、ちょいと調べると、ネタバレも簡単に見つかってしまう、そんな時代であります。

というのはなにかといいますと、Googleでキルケーの豚をキーワードにして検索するとですよ、一位がAmazonの商品ページ、三位が漫画に登場する自転車に関するページ、四位がWikipedia。さて不自然に二位を飛ばしています。なんでかというと、これ、2ちゃんねるの過去スレッドなんですが、その名もエロマンガ以外で強姦された美少女キャラ。ガバホー! 寝込みそうだ……。いやね、『ああ探偵事務所』で書いた時にね、この作者はやればできる人らしいから、それこそ助手の涼子さんを事件に巻き込んで、あんなこんなひどい目に! みたいなこともできただろうといっていた、その根拠がこれでした。いや、もう、こういう展開いやなんだ……。勘弁してください……。

気を取り直して、届いた漫画、読んでみました。事前情報では探偵ものって話でしたが、読めばむしろアクションもの。探偵ものっぽい雰囲気はありませんでした。というのも、金が必要になった主人公が、顔も指紋も名前も変えて、危ないヤマに首を突っ込むという話です。そこで必要になるのが主人公の能力、といっても探偵力でも推理力でもなく、腕っ節? ターゲットを捕獲する能力であるのですね。主人公は謎の組織の依頼に応じて、ターゲットを確保していく。その確保劇を通じ、主人公がかつて得て失ったもの、レイプされ、自殺した恋人のエピソードが語られるのです。

そうか、過去の事件だったか……。ここで油断したのが失敗でした。おがーん! ああ、もう、ありゃあないよ! まさか、まさか、こうくるなんて。こういうこと書いてると、つくづく自分はナイーブな、打たれ弱い甘ったれだなあと思わないではおられないのですが、でもしゃあないじゃんか。いやなもんはいやなんだ。現実がこんなにストレスフルなのに、漫画でまで心労増やしたくないよ! — 今はこういう人が増えているから、ぬるい日常漫画がうけるのかも知れませんね。そしてそういう読者が多かったものだから、『ああ探偵事務所』においてはヒロインは徹頭徹尾守られている、傷つく人はあっても必要以上の痛みは与えられない、そういう方向に舵が切られたのかも知れませんね。

さて『キルケーの豚』です。先にも書きましたように、大切なものを失ってしまったという苦い過去を持った男が主人公です。そんな男が顔を名前を捨ててまで金を欲したというのは、ひとえに残された仕合わせを守りたかったからに他ならず、だからこそこの展開はつらいというのですね。けれど、そうしたつらい展開をうけて、つらさに打ちひしがれるのではなく、前進しようという意思がある漫画だったのだなあと思います。主人公も、ふたりのヒロインも、自分の過去を引き受けて乗り越えようとしている。ただ負けているばかりじゃない、失ったものを嘆き続けることで、今あるものを失ってはいけないという、そういう漫画であったと思います。

とはいえ、感情を過剰に移入して読むのが私の常ですが、それでも若干情緒面の掘り下げにおいては浅いと思われて、いやこれは事前情報を得ていたために、多少引き離し気味に読んでいたからかも知れません。ただ、オーバーテクノロジーが持ち込まれたりする、一種『スプリガン』を想起させるような漫画だったにも関わらず、はっちゃけ方が足りず、おとなしかった、そうしたところもあったように思えて、だからか、必要な要素は丁寧に提示されたけれど、そこにどかん、がつんとくる感触は少なかったのかなあ。もしこの感想が正しいものであるなら、それは私が『ああ探偵事務所』を経験してしまっていたから、なのだろうと思います。期待の度合いが高かったのだろう、そんなように思います。

  • 関崎俊三『キルケーの豚』第1巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2000年。
  • 関崎俊三『キルケーの豚』第2巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2001年。

引用

2008年6月19日木曜日

絶対可憐チルドレン

   第10巻の表紙が素晴らしいといって、全巻購入にいたった『絶対可憐チルドレン』。本日、第13巻が発売されていました。いやね、朝、通勤途中、駅前の書店兼コンビニによったらですね、どんと平積みにされていまして、しかも見れば初版限定!! DVDつき特別限定版なんだそうですよ。ああ、そういえばアニメになってましたな。おそらくはそれのプロモーションなんでしょう。通常版が420円、限定版が680円。じゃあ、まあ、限定版買っとくかという、そんな軽い気持ちで購入。そうしたらですよ、驚きましたね、帰りの書店、DVDつきがもうないねんね。うわあ、えらい売れてるなあ。もし朝のうちに寄っていなかったら、限定版の存在に気付くことはなかったことでしょう。

でも、私は別にアニメには興味ないから、通常版でもよかったかも……。というのもなんですが、いやね、実をいうとこれがアニメになるというのは、放送の開始される前に気付いていたんですよ。でもって、『絶対可憐チルドレン』はいいといいまくってたものだから、まわりからアニメ化ですよ、よかったですね、なんていわれたりしてまして、そうまでいわれちゃ見ないわけにもいかんだろうと思っていたのですが、結局見逃してしまい今に至ります。参りました。『GS美神』やってた局、時間だと思い込んでしまっていて、いつまでたってもはじまらないなあなんて思っていたんですね。そうしたらテレビ東京系列。ああ、そりゃ駄目だよ。といったようなわけで、このDVDがアニメ『絶対可憐チルドレン』の初視聴と相成りました。うん、だいたいの感じがつかめて仕合わせです。あと、8cm DVDははじめてみました。このサイズだと、iMacにかかりません。

第13巻を読んでみて、驚いたのがサプリメントの数でした。サプリメントというのは四コマ漫画、本編とは違った切り口で、ちょっとブラックなネタを展開して見せるといったらいいでしょうか、これが結構面白いんです。これまでにもちらほらとはあって好きだったんですが、こんなにもたくさん出てくるとは思いませんでした。

椎名高志の四コマは面白いんですよ。既作は『(有)椎名百貨店』にまとめて収録されているのですが、ネタ重視の四コマ群、身も蓋もないようなのがあれば、シュールだったりブラックだったりして、とにかく面白いんですね。今はこの人はストーリー一辺倒でやっているわけですが、『チルドレン』のサプリメント見れば、切れ味は健在だなあと思われて、だからこうしてまた四コマを読めるのは嬉しい。ただ、四コマといえばA5サイズに慣れているから、新書判はちょっと小さくてつらかった。以前はこんなこと思ったことないんですけどね。年取ったのかも知れませんね。

13巻におけるサプリメントの役割は、ちょっとした箸休めというよりも、むしろ積極的にこの漫画を知ってもらうためのものといったほうがいいでしょう。アニメ化したことを機に、新規参入してくる読者にキャラクターのあらましを紹介し、またわかりやすく状況、雰囲気も知らせるといったところでしょうか。もちろんそれだけでなく、既存の読者にとっても面白いものとなるよう、セルフパロディあり、裏話っぽいものありで、このあたりは作者ならではのサービス精神が感じられるところです。しかし、アニメ化、力はいっています。私はというと、日曜朝10時なんていうのは早朝というか、まだ深夜というか、そんなですから見るには大変つらく、これから先も見ることはないと思います。しかし、作者が初期からある種戦略的に意識してきたところが当たったというところ、素直に大したものだと感心しています。

アニメ化によって、原作がどういう風に変わるか、あるいは変わらず自分のペースでつっきるか、そのへんはわかりませんが、うまいこと盛り上がって、漫画もその盛り上がりをうまく取り込んでといったような相乗効果があったらば、きっとよいなと思っています。

2008年6月18日水曜日

キモチとキッカケ

 昨日取り上げました『純愛ストリップ』。これは、蔵書構成を考えて、今まで持っていない類いの本を、つまりバランスよい書棚を作るべく購入されたのでありますが、その二年前に購入された『キモチとキッカケ』、これはTLと呼ばれるものらしいのですが、これに関してはまったくの表紙買いでありました。私にとっては初のTLであったわけですが、男性向けのものとはまた違う感触に、け、結構いいじゃんかと思ったものです。購入は2003年ですね。実は、この時ちょっとこのジャンルにはまろうかと思ったんですが、なにしろ今ほどインターネットが繁盛している時代じゃなかったから、情報とかなかなか入手できなくてですね、それで留保されたのです。けれど、これが強い印象を残したことは事実です。この時のTL体験がなければ、私は少コミ系に手を出そうとは思わなかったことでしょう。それくらいに、決定的でありました。

(画像は雪村理子『あなたが特別!』祥伝社)

なにがよかったかといわれると、それは結局は全体に感じられる雰囲気なのかなと思うのですが、少女漫画タッチの繊細な絵。綺麗で華やかで、そしてあんまり肉感的でない — 、そこが私には重要でありました。これはTLで、だから当然セックスも描かれるのでありますが、さすがにそこは見せ場であるだけ、しっかりと、少女コミックよりも突っ込んだ描写があって、肉感的でないとは口が裂けてもいえません。でも、それでも男性向けのものとは違うんですね。一番の違いはなんなんだろう。それは、例えば行為の最中、男性がリードすることがあったとしても、基本身勝手ではないというそこが大きいのかと。そう考えると、強引に迫る男の多いと感じた少コミ『純愛ストリップ』より、こちら、TL『キモチとキッカケ』の方がいいと感じるのも自然だったように思います。

男が強引な理由は、和久井香菜子がマイコミジャーナルに連載している少女漫画に学ぶ[ヲトメ心とレンアイ学](これがまあめちゃくちゃ面白い、本になったら絶対買う)によれば、どうも女がセックスに甘んじるには、言い訳が必要だかららしい。強引に迫られたから、そしてそこに一途な愛があったから、このふたつがあるとベターらしい。この二点に関しては『純愛ストリップ』は完璧でした。けど私は、このファンタジーの理由については納得したけれど、じゃあそれじゃあ女の方はどうなのよ。取り柄らしいものもなにもなくとも、いい男が、それこそ誘蛾灯にひかれる夜の蝶(蛾ですな)のように寄ってきて、強引に求めて — 。このプロットに乗り切れなかったのは、ひとえに私が男で、いうならば迫る側で、迫られるものの心理にのっかっていなかったからだと思うんですね。やっぱり女性側にも、これという魅力が欲しい。ただ眼鏡でボブでかわいいというだけでなく、他の誰でもないこの娘がよいのだという、納得できるポイントが欲しかったんだと思うのですね。

『キモチとキッカケ』ではそのへんがクリアされていて、付き合っている男に対し、不安から策略を仕掛けるヒロインですから、むしろ強引さを持って迫るのはヒロインの方、けれど二人の気持ちが同じということがわかればまったく違った描かれ方になって、ああこれはまた違った意味での「セックスがこんなにいいものだったらいいのになあ」という願望なのかなと、今の私ならわかります。ちょっと乙女チックなんだけれども、ただやるだけではなくて、気持ちの繋がるセックスをしたいという、そういう願望が私にもあるってことなんでしょう。

けど、『キモチとキッカケ』に収録の全編がそういう願望を満足させてくれるわけではなくて、やっぱりこういうのを描こうとすれば紙数が必要なんでしょう、読み切りものとなると割と強引さが出て、やっぱりちょっと物足りない。そんなわけで私の好みは、長くってもいいから、気持ち重視であるようです。ヒロインの揺れる気持ちがしっかり出ていて、ただ待つだけでないしゃんとした姿勢が見えて、そして愛し愛される理由が欲しい。男女双方の、この人でないといやだという気持ちが、読み手である私にも伝わってきて欲しいのです。そんなことをいっている私は、TLを経由した後、BL/MLに傾きを見せていくのでありますが、けどTLもまた読んでみたい。おすすめがあれば知りたいです。

引用

2008年6月17日火曜日

純愛ストリップ

 このBlogをご覧の方には今更いうまでもないことではあるのですが、私は漫画が結構好きで、いつしか蔵書の大半が漫画に。当初は音楽中心でいくはずだったこのBlogも、すっかり漫画メインになってしまっています。さて、一口に漫画といいましても、多様なジャンルがあって、それはもう一目で見渡すということはもう不可能なんじゃないかというほどの広がりを見せていて、だから漫画好きといわれる人たちも、あれこれと手を出すというよりも、これと決めたジャンルをホームグラウンドとして読む、それが普通であろうかと思います。そして、私の場合においては、軸足は四コマ漫画に置かれているのでしょう。実際買っている雑誌は四コマばかりだし、単行本の割合も四コマが圧倒的に多く、けどひとつのジャンルしか見てないと他の面白い漫画を見付けられなくなるから、時に思い切って知らないジャンルにチャレンジする。私の読み方というのは、実にそんな具合であるのですね。そして、2005年頃の私は、ちょっと過激といわれていた少女コミックに興味を持っていたようです。

新條まゆの『純愛ストリップ』。奥付を見ると2005年7月20日、初版とあります。当時、過激な性描写を売りにした少女向けの漫画が氾濫しているとあちこちでいわれていて、そうかなら一度見てみよう、規制される前に読んでおこう、といった軽い気持ちで何冊か買ってみた、そのうちの一冊です。これを選んだ理由はいろいろありますが、とりあえず新條まゆは外せないだろうというのが大きかった。後は、丁度これが出たところで平積みされてたからとか、単巻もので手ごろだったとか。ヒロインがボブで眼鏡でというのは関係ないと思いたい。とにかく、大した理由はありませんでした。

読んでみて驚いたのは、結局はこれが伝統的少女漫画のプロセスに則っていたっていうところでした。確かに性描写もあって、昔のキス以上は描かないというような漫画(とはいっても、『りぼん』でも平成ともなれば性交渉を絡めるものはあったけどなあ。ただ、行為を描かなかったというだけで)とは違うことはわかります。ですが、それでもヒロインは気になる男の子に見初められるというかたちで承認を与えられるというのは、なんのかんのいって保守的だよなと思ったりもしたのでした。

『純愛ストリップ』は、眼鏡でちびで、ガリ勉といわれる割に成績のよくない、そんなぱっとしない女の子がヒロインです。けどこの娘が、名門校に通うちょいワル天才少年に片思いされていて、しかも強引に迫られて、受験勉強とセックスに明け暮れるという、そんなところが当世風。見た目にもかっこよくて、頭も良くて、とにかく女がほっとかない男に一途に思われるというのは、この漫画が対象とする年代のみならず、あらゆる世代における燃えるシチュエーションではあるでしょうね。願望や興味をかたちにして見せてみましたという点において、まさしくファンタジー。そして漫画は多かれ少なかれそうした要素を持っていますから、読者の見たいものを見せるということにかけては、非常に正しい漫画なのではないかと思います。

昔の少女漫画はキスが限度で、行為にまではいたらなかったというのは、それが男性ないし大人の望む少女像をベースにしたファンタジーだったからではないのか。対して、こうした今の少女コミックは、大人の押し付ける理想の娘像など意に介しない、まさしく自分の願望や欲望に目覚めた少女のためのファンタジーとなっているのではないかと思って、しかしそれを少女の解放と見るか、あるいはチープな夢想にすぎないと見るか — 、私は結局は後者かなあ。

以前レディーズコミックの『You』の購読をやめたって理由を書いていましたけれど、そうそう、これこれ:

なんか平凡な、特にこれといって取り柄もないような女が、イケメン、セレブに見初められてみたいな、はあ? なにその依存心まるだしのプロット、みたいなんを見てはがっかりしてた。正直、そういうのはティーンのうちに卒業していただきたい

確かに『純愛ストリップ』も依存心強めの女の子がヒロインで、昔の少女漫画の核にはヒロインの成長があったなんていいますけど、そういう点ではまったく評価できないタイプのヒロインですけど、だって見た目にかわいいとか、やって気持ちがいいとか、そういう方面で見初められてもなあ。でもさ、私が『You』をいったん見限った原因に比べれば、こちらの方がずっと読めるのですよ。でも、浅い。『You』に載ってたあれより遥かにましだけど、ずっと面白いけれど、心に引っかかるようなものはない。

けれど、これがセックスを見せ場にするものであるなら、引っかからないくらいで丁度いいのでしょう。エロの邪魔にならないよう、ストーリーに重きを置かないという選択は、エロ漫画には往々に見られるものでありますから。しかし、それが少女向けの漫画で見られるというのはどうなのか。あえて明言は避けますが、私は規制は少なくゾーニングは厳しくという立場をとっていることだけはいっておこうと思います。

  • 新條まゆ『純愛ストリップ』(フラワーコミックス) 東京:小学館,2005年。

引用

2008年6月16日月曜日

キャノン先生トばしすぎ

 私にとってゴージャス宝田という人は、ちょっと特殊な位置を占める漫画家です。18歳未満には読めない呪いのかかった漫画を描く人であるのですが、この人の描くエロに関しては本当に受け付けない、まったくもってあわないと、そういいきってしまえるくらいに私の趣味からかけ離れているのです。だというのに、その漫画となるととにかく面白い、読ませるというのだから不思議です。出会いは、『絶体絶命教室』でした。表紙の絵柄から、あわないんじゃないかなあ、いやな予感するなあと思ったのですが、けれどなんだか評判がいい。ああ、じゃあ、思い切って買ってみるかと思ったんですね。最初はしくじったと思いました。あわないのはエロの表現もそうですが、それ以前の好き嫌いもあって、私はこの人の描く人体が受け入れられない。ちょっと気持ち悪く感じてしまうんだ。だから、駄目かなあと思っていたんですが、読み進んでいるうちに、もうそんなことはどうでもいい、いったいこれどういう展開するんだと話に引き込まれてしまって、そして怒濤のエンディング。すごいと思いました。もうまったく呑まれてしまっていました。

とまあ、こんな具合に骨太のストーリーを展開する人だと知っていたんですが、『キャノン先生トばしすぎ』に関してはすっかり出遅れました。単純な理由です。気付いたら出てた。さらにいえば、初回限定版が市場から消えていた。ああー、惜しかったなあ、初回が残ってたら買ったのになあ、なんてクールなふりしていたんですが、ところがですよ、なんだか異様に評判がいい。あちこちで名前を聞く。薦める人がやたら多い。ああ、じゃあ、思い切って買ってみるか。そうしたら、もう、すごいですね、これ。完全に打ちのめされましたわ。本当、確かにこれは読まれるべき本であると思ったんです。

なにがすごいか。それは、一言ではいいにくい。だから、ネタバレします。だから、この漫画を読んでいない人は、ここで逆戻りして、一読してから戻ってきてください。

寡作なエロ漫画家ルンペン貧太が現役小学生漫画家巨砲おおづつキャノンのアシスタントになって、ラブエロ生活を送るというコメディです。けれど、話が動き始める中盤、これからがものすごい。生活の安定を得たことで、すっかり堕落してしまった。そんな自分の姿に気付いた貧太が、自分の漫画を描こうともがく、その姿がすごかったんです。貧太は描けない漫画家だ。思いをかたちにできずに焦り、そして無力感から卑屈の度合いをどんどん強めていって……。もう、情けない、情けなくて涙が出てくる。自分よりもずっと年下のキャノンにみっともない泣き言をぶつけ、編集部においても同様。甘さを拭えず、しまいには最低な逃げを打って出る。もう、ゴミのようで、けれどそんな貧太が変わるんですね。なぜ漫画を描こうと思ったか、なぜエロ漫画でなくてはいけなかったか。みじめだった学生時代を思い出し、そのみじめさを抜け出すための手段として、エロ漫画を選んだことを思い出すんですね。

正直にいいます。感動的でした。鬼気迫る原稿作業。間に合わないことは分かり切っているけれど、それでも描かずにはいられない。やらずにはおられない。そうした貧太の思いの熱さが、絵から、台詞から、紙面から、立ち上ってくるかのようで、そしてそこに巨砲キャノン、剣峰百合子がなぜエロ漫画家になったのか、ならないではおられなかったのか、その理由がかぶってきて、圧巻。主流に紛れることのできなかった二人、ゆえに排斥され続けてきた二人、彼らの思いがぶつかって、そして響いた瞬間、火を吹かんばかりに漫画は赤熱して、凄まじい速度で走り出します。

聞いた話では、読者はページをめくる行為に快感を覚えるのだそうです。ページをめくるという動作が、新たな情報、新たな展開を引き出す。未知の刺戟を生み出すページめくり動作が、パブロフの犬よろしく、読み手の脳に快感をたたき込むのだそうです。この漫画ほど、そうしたことを実感させるものはありませんでした。とにかく、手が止まらない。強烈なドライブ感が、読み手である私を引っ張って、引き摺って、巻き込んで、振り回して、そして私はページをめくって、めくって、めくって、そのめくるごとに驚きが、興奮が、躍動が、感動がたたき込まれて、脳は酩酊、背には、手には、額には汗が浮かび、そして目には涙がにじみましたよ。ああ、すごいもの描きやがるなあ、掛け値なしにそう思いました。

こんだけ褒めたので、悪いことも書いておきます。ストーリー重視のアダルトゲームをプレイしている時にも思うのですが、ストーリーが高まりを見せ、エロシーンが入り、再びストーリーに戻る、そうした時に、どうしてもエロは邪魔と感じられて、だって、これからどうなる、それで貧太は海乃にいったいなにをいうのだろうと気持ちが先を求めてじれている、そんな時に、悠長にキャノン先生のオナニーなんか見てられませんよ。申し訳ないけど、中盤以降のエロシーンは飛ばさないではおられなかった。四回くらい読んで、落ち着いて、ようやく読んだ。私はもうそんな具合で、とにかくストーリーにエロはあわないなあと思ったのでした。

これはつまり、エロに興味がないという人でも大丈夫だといっているんです。エロが嫌いなら、飛ばして読めばいいっていってるんです。骨太のストーリーを追うだけでも充分以上の価値がある。もし漫画が好きだというのなら、これを読めば熱く伝わるなにかがあるはず。それを知らずに過ごすというのはもったいないっていっているんです。そりゃ、この人のエロが趣味にあえば最高でしょうさ。けれど、それがあわないとしても、なんらこの漫画の価値は損なわれない。それはこの漫画がエロのニーズを満足させつつも、それ以上の世界を描いているから。でもそれは、これがエロ漫画でなくってもいいといいたいのではありません。これは、エロ漫画として世に出ることに必然性を持っています。エロ漫画でありながら、エロ漫画を超え、そしてエロ漫画として完成している。かくも特別な漫画なのであります。

2008年6月15日日曜日

はなマルッ!

 先日、『はなマルッ!』というゲームに興味があるといっていました。その続報あるいは中間報告です。まずは続報から。結局買ったのですよ。とはいっても、もうロットアップしているゲームですから、新品購入は断念せざるを得ず、よって中古での入手です。発注は6月3日。到着は6月5日でした。つまり、記事で触れたあと、すぐさまといっていいくらいのタイミングで注文したのです。到着したのは6月5日、プレイ開始は6月8日。このタイムラグはGENERATION XTHが一段落するのを待ったからですね。さて、ここで私には時間の余裕がありました。なぜか。6月9日の月曜日は、体調不良のために事前に休暇を取っていたからです。ゲームのために休んだんじゃないですよ。長く体調不良が続いているっていうのは、嘘偽りのない真実です。

といったわけで、6月8日9日の二日をかけて、『はなマルッ!』を攻略したのでした。目指すゴールは、このゲームを買った理由である、男の子ヒロインであります。ところがですよ。はじめてみて、参っちゃいました。いやね、ずいぶんこの手のものから遠ざかっていたわけですが、その独自の深化が問題です。キャラクターの性格付け、台詞、そして声、しゃべり口、それらにまさしくジャンルの内側で深まっていったもの、洗練により生じる強烈にして独特な趣味、そうしたものを感じてしまったんですね。だから、つらかったですよ。特に桃野桃がきつい。この人、見た目は子供中身は大人、学園の保健医をやっている上に寮母さんもやっていましてね、だから寮に入ることになった主人公拓真はこの人の案内を受けるんです。その時のもろもろ、もうなんともいえない厳しさを感じました。もちろんこの疎外感は、こうしたジャンルにおける外部者である私との温度差に生じるわけで、だから内部の人にはこうでなければならんのでしょう。しかし、そういう趣味があることは理解できるけれど、長く関わりを持たずにいた私にとっては、容易に近寄れるものではありませんでした。

きつい、厳しい、つらいと感じさせたのは、この桃ちゃん先生と、そして桐嶋菫であります。ぶりっ娘のスミレ。その表現、甘ったるいしゃべり方、正直つらい。おお、私はこれからこの娘を攻略せんといかんのか。しかしそれが目的だったわけですからがんばります。すべての選択肢でスミレ有利になるよう心がけて、そして個別ルートに入るバレンタインデー。あれ、なんでだろう。桜坂先輩にチョコレートもらっちゃったよ? あーっ、やっちまったか。スミレに関係ない選択肢で八方美人的に振る舞ってきたのが裏目に出たみたい。かくして初回プレイは椿ルートに入ってしまい、スミレは綺麗にフェードアウト。しかも主人公死亡のバッドエンドにたどり着くという、実に私らしいなにやりたいかわからないプレイになってしまいましたとさ。

でも、先輩は図書委員、三つ編み、眼鏡。私が引き寄せられるようにルート突入したのは、ある種必然だったのかも知れません。

以上が、体調不良の二日間の成果です。そして一週間経って、今度こそ目当てのヒロイン目指してチャレンジしました。再チャレンジですね。現実には難しい再チャレンジも、ゲームなら簡単です。

もう一度最初から開始して、既読部分はすべてスキップ。前回の反省を生かして、完全スミレシフトですよ。みんなにいい顔をしない。スミレ以外にはけんもほろろの対応を徹底して、これでどうだ、はらはらしながら迎えたバレンタインデー。きた、きましたよ。スミレです。よし、これで第一段階の目標は達成です。

もうここまで書いてしまっているのであからさまにいいますが、このスミレが男の子なんですね。そして、この設定、ぎりぎりまで明らかにされないんです。それをうかがわせるような要素は皆無で、知ってみればなるほどそうだったのかと合点がいく、よくいえば巧妙、悪くいえば卑劣、そんなテキストは素晴らしかった。スミレを好きになった拓真に、同じく愛を返すスミレ。最初こそはむしろ無邪気に感情をあらわにしていたスミレが、突然身を引こうとする、その反転にプレイヤーは主人公ともども戸惑いをみせて、いったいなぜなんだ、拓真はスミレが好き、スミレも拓真が好きなら、それでいいじゃないか。じらしてじらしてじらした末に明かされる真実。さあ、君はそんなスミレを受け入れるかい?

受け入れるに決まってるじゃないかー!

もしこれが、スミレの真実を知らないでのプレイなら、いったいどうだったんだろうとは思います。ああ、これはきっとショックを持って受け入れられたろうなあ、特にナイーブなプレイヤー、そしてそうした表現に嫌悪を感じるプレイヤーなら、考慮の余地もなく受け入れ拒否にしてもおかしくない。そんな展開であるのは確かでした。それまで少しずつ高められてきた感情、期待は、高められたボルテージそのままにメーカーへの憎しみに転化されたんだろうなあ。うん、わかる。裏切りだ、詐欺だ。そういう気持ちもわかります。

けど、そうした現実が、自分は愛する誰かに受け入れられないという現実が、過去の体験として切々と訴えられるわけですよ。本当の自分は拒否されても仕方ないんだということを、いわば納得しているんですよ。そして、そうした自分を呪っているんですよ。それらが積み重ねられた上での問い掛けです。そりゃもう、受け入れるに決まってるじゃないですか。ファンブックによれば、このゲームのテーマは究極の選択だったんだそうですね。まさしくそれはスミレルートに凝縮されていたとでもいうのでしょうか。自分を普通であると信じる人にとっては、きっとスミレを受け入れるという選択は、普通というカテゴリーからはじかれているスミレを受け入れるという選択は、究極のものとなったのでしょう。しかし、普通というカテゴリーに属することができない私にとっては、スミレの問題は他人事ではないと思われた。立つ位置こそは違うが同じ悲しみを持つものであると感じたんです。

先日いっていましたね。

私は実は不幸系ヒロインが好きです。なぜこの娘がこんな目に遭わねばならないんだあ、なぜ世の不幸がよりによってこの人に! っていうようなシチュエーションになると、リミッターが外れてしまうんです。

見事に外れましたよ。私が、私がこの娘を愛さないで、誰が愛するというんだーっ! かくして私はスミレルートを驀進し、見事バッドエンドに突っ込みました。

なんでやねん!

でも、実際よかったですよ。スミレルート、ちから入っています。それまで鼻につくと感じていたぶりっ娘スミレが、ルートに入れば様々に違った表情を見せて、その二転三転ぶり、読んでて実によかった。けど私はネタバレの状況からのスタートですから、もしこれがなにも知らない状況でのプレイだったらどうだろうと思われて、もしかしたら七転八倒したかも知れない。苦渋の末、ええいああ、と受け入れを選んだのかも知れない。もしそうなら、うけるショックの大きかった分、その乗り越えるエネルギー、感情の動きも大きくなったはずで、けれど私がその感動を得ることはありえません。私はただただそれが残念というのです。

でも、スミレの秘密を知らなかったらこのゲームをプレイすることもなかったわけで、そう考えると私のifは理不尽そのもの、無い物ねだりというほかない要求でありますね。

以上、中間報告でした。これからヒマワリ他をクリアして、100%達成した頃にもう一度感想お伝えするかと思います。

引用

2008年6月14日土曜日

ああ探偵事務所

   『ああ探偵事務所』を買ったのは、つい先日の水曜日、11日のことでした。パターンとしては『コンシェルジュ』に同じです。天満橋のアバンティにて一押し、例によって第1巻は試し読み可。で、読んだわけです。面白かったわけです。一冊読み切ってしまったわけです。そこで私のルール、書店での立ち読み、もしそこで一定量を読んだならば、その本は買うに値する本であるが発動しました。けれど、今度は『コンシェルジュ』の時と同じ轍は踏みません。ああ、一気に買ったさ! 3冊4冊ずつなんてけちなこといわず、全部買ったんですよ。けど、この時点での最新刊、すなわち最終巻である15巻は売り切れたのか見逃したのか、買うことができず、ゆえに全巻揃うのは翌日に持ち越されたのでありました。

『ああ探偵事務所』はその名の示すように探偵ものであります。ちょっと変な探偵、妻木が主人公。常に左目を前髪にて隠した彼は、その持てる探偵力を駆使し、クライアントのためにベストを尽くす。彼の傍らには、美しい助手、井上涼子の姿があって、彼女の調査報告書を通し、我々読者は彼らの扱った事件を知ることになる — 。そういった仕掛けが、ちょっと古典的名作思い起こさせて、実にいい感じです。その古典というのはなにかというと、もういうまでもないか、シャーロック・ホームズのシリーズですよ。あれも、ホームズという私立探偵が経験した事件を、助手ワトソンの手記を通し知るという仕掛けを持っていました。そうなんですね。『ああ探偵事務所』は、シャーロック・ホームズへのオマージュとなっているんです。そしてそれは、主人公妻木が筋金入りのシャーロキアンであるというところからもうかがえます。ええ、この漫画自体が探偵ものに対する愛の表明であり、そして同時に愛の対象となるにふさわしい内実を持っていて、本当、素晴らしかった。面白く、楽しく、時にはハラハラ、ドキドキとさせて、そしてすごく感動した。ああ、これはいい漫画です。買ってよかった。

『ああ探偵事務所』については、表紙だけ知っていたんですね。美しい女性が表紙にある、その人が助手の涼子さんなんですが(茜ちゃんの時もありますけど)、それが非常に魅力的で、それゆえに敬遠していました。いやね、かわいい女の子、綺麗どころで押すばかりの漫画だったらがっかりじゃありませんか。もちろん、かわいい女の子、綺麗な女性、大好きですよ。実際、この漫画に出てくる女性たち、魅力的で魅力的で、あー、もー、どうしたらいいねん、って思ったこと、一度や二度ではないのですが、けどそれよりも、依頼の解決に取り組む妻木の姿にやられたのでした。

妻木、すごくいいやつ。根は真面目でまっすぐ。けれど、クライアントのためとなれば違法行為も辞さないという、ちょっとブレーキの壊れたところもある男です。しかし人を騙したり、傷つけたりするっていうことが嫌いで、そのへん非常に潔癖。それはこの人にとって探偵という仕事が、敬愛するシャーロック・ホームズに近づくための、神聖なものであるからなんだろうなあと、そんなこと思わせるのですね。探偵業は妻木においては理想の仕事であるから、決して手を抜こうとはしない。仕事の前には誠実、そしてクライアントに対してもそうで、目先の儲けよりも目の前の相手の仕合わせを願うかのような仕事ぶり、思わず熱いものが込み上げる、そんなこともしばしばでした。

けど、ただ感動をちりばめましたってものでもないのです。シビアな話だってあります。ですが、ぎりぎりのところで救われないラストには向かわないようになっていて、基本はハッピーエンド志向。安心して読めるのはよかった。ハラハラ、ドキドキといっても、命綱ついてるんですよ。それこそ、ちょっと調べてみたらですよ、この作者はやればできる人らしいから、それこそ助手の涼子さんを事件に巻き込んで、あんなこんなひどい目に! みたいなこともできただろうと思います。でも、やらなかった。それは、そういうシビアさを押し出そうとする漫画ではなかったから。妻木探偵を巡る、シビアでありながらも楽しく、面白い出来事、そして人の心、思い、情を描こうとしたものだったから。読者に必要以上の厳しさを突きつけるよりもエンタテイメントに徹した、安心して読める、そういう漫画でした。

しかし、面白い。なにが面白いかいちいち書いていったらきりがないから、それこそ思うところはいくらでもあるんだけど、それ全部吐き出したら絶対収拾つかなくなるから、泣く泣くここらでまとめなければならないんですが、最後にひとついうなら、私もがんばろうっていうことでしょうか。自分のこれと思ったものにがんばる。今置かれている状況でベストを尽くす。自分のために、そしてなによりもその時向き合っている誰かのためにがんばりたいと思いました。なに反省してるのって感じですが、けど、探偵さんの仕事ぶり、あれはそう思わせてくれるものでしたよ。ちょっと危うげな人だけど、不器用でほっとけない感じの人だけど、いざという時にはきっと頼れる、そんな信頼感。いやあ、なんのかんのいって、妻木がかっこいいんだ。あんな友人があれば、どんなにかいいだろう。そう思える、本当にいいやつ。常軌を逸したところもあるけれど、まあそれは漫画ですから。とにかく読んでみればわかります。がつんとくる、いい漫画ですよ。

蛇足

わしゃ鈴木杏子が好きじゃーっ!! あの細い手足、細い肩、細い腰、薄い胸、眼鏡、酷い性格。最高だと思う。けど、きっと現実に身近にこういう人がいたら、最低だろうな。きっと私とは共存できないタイプの人間です。けど好き。でも無理。

あと、以下、ネタバレ集。あえて隠さないので、この漫画読んでない人は、読まないように(つまり、漫画を読めといってます)。

レア・シャーロック・ホームズ・スニーカー。中敷にプリントされたホームズのシルエットですが、あれ、妻木はどうしてるんだろう。自分だったら、絶対中敷だけ買ってきて、交換して履くなあと思いながら読んでました。すんません。私も病的です。

病的ついでに。妻木の病的気質が全開になる痛快劇「泉さんフォーエバー」。ゲストヒロインの新條美咲(20)が超好み、というのはどうでもいいとして、それだけにあの男許すまじ、というのもどうでもいいとして、あのシリーズで妻木の棚橋に告げたホームズに対する愛。もういいじゃないスか 知識とか そーいうの! 激しく同感です。人は、特にマニアは、時に知識の量をもって愛の深さに代えようとしますが、私はそういうのにはもううんざりしていて、時に繰り広げられる知識勝負に対してもそうなら、すべてを集めきらないと気の済まないという自分の病的気質についてもそう。本当に大切なのは、ただ愛をもって向き合うということなんです。愛するがために知りたい、所有したいという気持ちはわかるけれど、そしてそれが膨大な知識やコレクションを形成する原動力でもあるのだけれど、でも愛とは量で測れるものではない。たくさん持っているから、詳しく知っているから、昔から知っているから、など、それらはその人が対象に愛着を持っていることは示しても、愛の質を明らかにするものではありません。ああ、私はこの作者、関崎俊三に感じ入りました。この人は愛の実質を知っている。愛するということは、所有し、独占し、ましてや誰かと競うようなものではないということをこの人は知っている。そりゃ、美咲でなくとも惚れる。泉、涼子でなくとも惚れますよ。

ところで、グラナダ・ホームズというのは、イギリスのテレビ局グラナダ・テレビの製作したテレビドラマのことです。以前NHKでも放送されていたから、ご存じの方も多いはず。去年、私がDVD-BOX欲しいっていってたやつですね。ええと、実は、私がグラナダ・ホームズに言及したことは他にもあって、それは『鬼切丸』で書いた時のこと。そう、突かれれば血も出るです。これ、グラナダ・ホームズの第18話「もうひとつの顔」からの引用です。誰がわかんねん! って話ですが、意外とこういう隠し引用あるいはもじり、私の書く文章には多いです。なんでかというと、それはもう愛ですのよ。愛を示すために引用するのではなく、愛がそれをさせずにはおられないといった感じで、最近はずいぶんましですが、昔はひどかったものなあ。ともあれ、いずれ『ああ探偵事務所』からも引用される日がくるでしょう。

あ、そうそう。「最後のあいさつ」を読んで、昔あった事件を思い出しました。2005年の7月ですね。このBlogでは屈折リーベにて言及されていました。

あ、そうだ。この漫画のヒロインは涼子、『コンシェルジュ』のヒロインも涼子でした。ここに私は提唱します。ヒロイン涼子に外れなし! です。

  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第1巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2002年。
  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第2巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2002年。
  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第3巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2003年。
  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第4巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2003年。
  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第5巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2004年。
  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第6巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2004年。
  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第7巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2004年。
  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第8巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2005年。
  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第9巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2005年。
  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第10巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2006年。
  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第11巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2007年。
  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第12巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2007年。
  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第13巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2007年。
  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第14巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2008年。
  • 関崎俊三『ああ探偵事務所』第15巻 (ジェッツコミックス) 東京:白泉社,2008年。

引用

2008年6月13日金曜日

Lの季節2 -invisible memories-

 今日の更新はどうしようかなあ。弱り切ってAmazonなんぞをさまよっていたらですよ、おや、なんか気になるものを見付けましたぞ。なぬなぬ、『Lの季節』? あ、そうね、2が出るっていってたよね。ということは、もう発売されてるの!? と思って商品詳細に飛んだらば、よかった、受付開始しましただ。しかし、こうして続編出るのは嬉しいけれど、そしてきっと私は買うんだろうけど、正直なところ時間が経ちすぎました。今更、彼女らの世界に戻れるかなあ。と思いながら、公式サイトシステム詳細のページなんぞ見ていたら、おや、天羽さんと鵜野杜さんがいる。システムの紹介するのに、前作立ち絵使ってるのかなあ、って、そんなわけないやん! ちょっと待て、天羽さん出るの!? キャラクター一覧見たら、ああ、いらっしゃる! じゃあ、もう、買い決定じゃないか。天羽さんがいて、星原さんがいて、それで買わないなんてありえません!

 まめちしきー。私の環境ではあそうと打つと天羽と変換されます。なぜか? 単純な話ですよ。それは彼女の名が天羽碧あそうみどりだから。忘れもしませんよ。PlayStationでWizardryが出るよって聞いて、うほ、それは買わなくっちゃだわ、と思って買った。最初は、本当にWizardry専用機にするつもりだったんですよ。けれど、だんだんと他のゲームにも興味が出てきましてさ、具体的には『ブレイブサーガ』なんですが、当時、パソコン通信で勇者系パティオだかに所属していたんですが、『電撃PlayStation』誌の表紙が『ブレイブサーガ』だぜ、買っとけ、みんな! という情報が流れたんですよ。で、買った。読んだ。隅から隅まで読んだ。そうしたら、そうしたらですよ、なんかすごく気になる女の子がいてさ、うわ、なんだこの美しい娘は! それが天羽さんですよ。

一目で恋に落ちたってやつさ! ああ、もう、こん畜生。笑いたかったら、指さして笑ってくれ。

ええと、当時の情報が見つかりました。最初は興味を感じながらも、それっきりだったみたいですね。そして数ヶ月後に発売された『電撃PS』誌に掲載された記事、それが決定打、最も古い情報まで遡ったら、さっきの記事にまで行き着くってことですね。私の記憶が確かなら、ライカを構えた天羽さんのイラストと、着替えの途中、背を向けて見返る東由利さんのイラストがあったはず。そのどちらも魅力的だったけど、でも、やっぱり天羽さんだよなあ。彼女は最高です。

けど、プレイしてみれば、天羽さんを好きだと断言しつつ、他のヒロインにも心が揺れるというのが私の情けないところで、前述の東由利さん、この人もいい人なんだ。ちょっと感情が先走る人だけど、魅力的だったね。それから彼女の友人、亜希子さん、ちょっと不器用そうで、けど穏やかさが心地よい人。かわいかった。彼女の妹、さやかさんも、明るくてけどそんな態度の向こうにちょっと寂しさ抱えてて、よかった。などなど、次から次へと褒める言葉は出るけれど(これでもリミッターかかっています)、白眉は星原百合さんですよ。『Lの季節』とは、実質的に彼女を巡る物語といっても過言ではありません。ふたつの世界、過去の事件と今の事件、そのすべてに関わりを持つもの、それが彼女でした。ああ、もう、思い出すだけで泣けてきそうだ。すべてを一身に背負い、単身事件に立ち向かおうとしていた彼女。あえて孤立することで、他のすべてを守ろうとしていた。そんな彼女の真実が明らかになり、そして彼女の思いを知る! 滂沱の涙ですよ。涙なくしては語れない。読めない。ああ、あれは素晴らしいものでした。本当。それまでこうしたゲームをしたことのなかった私でしたが、それが一気に引き込まれて、今も心はとどまり続けているんでしょうなあ。

キャラクター表見ていた時、声が変わっていたらいやだなあと思っていたら、なんと星原さんが星河舞になっていて、ちょっとまって、柳原みわさんじゃないのん!? と思ったら、改名されていたのでした。ふー、ちょっと焦った。あの憂いをともなった声、やっぱり彼女であって欲しいではありませんか。そして改名といえば、野上ゆかなさん、苗字が無くなっちゃったんですね。ともあれ、皆さんご健在でいらっしゃったこと、安心しました。他の、今回ご出演の方以外の皆様もお元気でいらっしゃるんでしょうか。お元気だったらいいなあ。そんなこと思うくらい『Lの季節』は私にとって大切なものであるのですよ。

しかし、6月末にはG-XTHの追加データが出る、6月27日には『少女魔法学リトルウィッチロマネスク editio perfecta』が出る、そして7月3日に『Lの季節2』ときたか。もう嬉し死にしそう、というか、全部プレイできるのかな……。そういえば、『Missing Blue』が未クリアで残ってたっけ。初回プレイ時、あんまりのマニア系シフトに堪えられず断念、そこで終わってしまったのでした。残念なことしてますね。今からだと、もう関連商品探すのも大変でしょう。これも『Lの季節』に関連を持っているんですが、今からできるかな? 無理だろうなあ。というか、リビングのテレビで美少女ゲームに興じるのはちょっと辛いなあ。いや、家にはリビングにしかテレビないんですよ……。だから、さ……。

でも、『Lの季節2』は力強くプレイしたいと思います。

2008年6月12日木曜日

GENERATION XTH -CODE HAZARD-

「ジェネレーション エクス」応援バナー フウマゴールデンウィークの初日、その発売を楽しみにしていたGENERATION XTH開始、5月6日にシナリオクリアしたということはすでにお伝えしましたとおりです。さて、めでたく残りクエストも消化しました。クエスト完了は6月6日。その後、6月8日にマップ埋め終わり、これで一段落かなっていうところです。なので、今はお休み。いろいろあって、ゲームやってるどころではない感じなのですが、まあとにかくG-XTHに関しては小休止であります。

小休止というからには、いずれ再開する予定であるということなのですが、とりあえずは6月下旬予定の追加データパッチ待ちといったところです。新しくフェイスアバターが追加されるそうだから、名簿にも空きは残してありますし、それにイベントも追加されるというのですから、これは期待するなというほうがおかしいです。装備の追加に関しては、申し訳ないけど現状でさえいっぱいいっぱいだから、正直それどころじゃないって感じです。でも、やっぱり嬉しいかなって思います。どんなのが入ってくるんだろう。こういう追加要素があるっていうのは、PC用ゲームのよさであると思いますね。

さて、小休止の時点での総プレイ時間を確認しておきましょう。66時間30分。おおう、えらい遊んでるな。クエスト消化、転職、アイテム収集で40時間オーバーと予想していましたが、アイテム収集に乗り出す前に60時間オーバー。まあこれは、なくてもなんとかなるけど、あった方がいいアイテムを人数分集めるのに時間かけすぎたためなのですが、でも転職可能な職をすべて経験し終える頃にクエスト完了。無駄な時間を費やしたという感触はありません。マップの残りを埋めるのには、育てている途中のセカンドパーティを使って、そして、サードパーティの育成を開始しようとしたところで中断。ほら、まだまだ遊べそうでしょう?

発売前に心配されたボリューム不足は、上記クリアタイムを見ていただければ問題ないことがわかるかと思います。とはいえ、私はちょっと時間かけすぎですけどね。これだけ時間かけるのは、ノーリセットでいくと心に決めているからで、中断時点で、リセット回数は当然0。幸いなことに全滅回数も0。死亡、おおっと、G-XTHでは瀕死か。瀕死回数は20回。いやあ、死ぬ時はやっぱ死にますね。最高レベルに達していても、強い敵を前にすればころりといきます。そうそう、敵といえば、出会ったけれど友好的であるために戦えず、ゆえに倒せずにいる敵が2種類、出会いもしていないのが1種類。セカンドパーティは悪にしているから、彼らが育ったら2種類は埋まります。出会えないのは、まあ仕方ないなあ。

アイテム、廃品はすべて拾い終えました。だから後はユニークやツールの類いを集めるだけ、とはいいますが、出ないものは出ません。ダガーの最上位、ソードの最上位、アックスの最上位、ランスの最上位、カタナの最上位、スタッフの最上位、エグゼの最上位、ボウの最上位、アローの最上位、出てません。またウェア、ローウェア、ヘッドウェア、バックウェア、オプションもそれぞれ抜けがあって、まあ簡単にいえば抜けだらけです。参ったなあ。埋まるんだろうか。そりゃやってりゃいつか埋まるんでしょうが、けれどXTHに限らずWizにおいては、アイテムは埋めねばならないと思わないほうが精神衛生上よさそうです。実際、Wiz XTH 2でもムラマサ出てないもんな。

職業(ブラッドコード)については、一応一通り経験済みです。より正確を期すと、フウマだけまだ未経験です。でもカムイは経験したからいいよね。カムイを経由したのは魔術師ツクヨミだったので、力が弱く、よって攻撃力も弱く、あんまり目立った活躍はしませんでした。けど、ちゃんと戦闘メインの育て方をすれば活躍できるといいますから、この人たちはフォースパーティに入ってもらいましょう。なので再開後の楽しみです。

こんな感じに、再開後に楽しみを残した状態での小休止。まあ、まったく遊ばないと決めつけるのではなく、余裕があればちょっと遊ぶ、そんな感じがよいんではと思います。それでムラマサ出たらラッキーですし!

「ジェネレーション エクス」応援バナー ブリュンヒルト

2008年6月11日水曜日

妹本

 曙はるとむんこの同人誌が商業出版されました。その名も『妹本』。兄のある妹の話であるのですが、読んでみて思ったというのが、こりゃあ『妹本』ってより『兄本』だあなあっていうものでした。いやさ、だってね、この漫画は妹の視線で兄を見ている。特にそれはむんこの側『○○コンプレックス』、『ぴたんと』に顕著だったと思うのですが、それは著者が女性だからか、あるいは実際に妹であるのか、それとも読んでいる私が弟だから、どうしても下の子目線で見てしまうのか。この本には、年の離れた妹にめろめろにされていく兄(曙はる『fairy land』)や妹を見守る優しい兄(むんこ『○○コンプレックス』)、そして大切は大切なんだろうけど、ちょっと意地悪、粗雑に妹を扱って面白がっている兄(むんこ『ぴたんと』)が出てきます。ああ、私にとっての兄観とはこの一番最後のやつだ。なんか兄貴って、変に下に威張ってて、家来扱いするというか、そんなとこありますよね。まあ、なんかあったら守ってやるぜ、ってことなんかも知れませんが、けど実は私、そういう兄タイプってどうもそりが合わないみたいなんです。

けど、じゃあ、自問自答、なぜ弟を下僕扱いする姉タイプは大丈夫なんだろう……。うう、多分それは、俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの的な傾向が少ないからじゃないのかなあと思うのですが、まあ姉の話はどうでもいいや。兄です、兄。じゃないよ。妹でした。

嫌いなものは兄タイプ、なんていってましたが、結構自然体と感じられる『ぴたんと』、面白かったです。むしろ、理想というのでしょうか、そうしたものの感じられる『○○コンプレックス』の理想的の部分、それが自分にはちょいと厳しかったので、『ぴたんと』でだいぶ和らげられた感じです。もちろん、世の中は広いから、妹大好きで、妹の良き理解者で保護者で、というような兄もいるんだろうとは思いますが、それはけれどやっぱり妹の側から見た兄の理想型であって、兄としてはそういう視線、重荷に感じたりはしないんだろうか。だから、そんな重圧なんて存在しない『ぴたんと』の兄、妹をおもちゃにして泣かしちゃうような、そんな兄の方がみていて安心できるみたいです。

さて、『fairy land』もまた兄と妹ものですが、これは兄と妹が19歳差という特殊事情が手伝って、なんせ兄は大人ですから、成人してますから、妹にわずらわしさを感じつつもそのわずらわしく感じる原因に気付き、自分の問題として受け止め、流してしまってからのラブラブ状況。ああ、あり得るかもねえと思うんですね。年の離れた子っていうのはやっぱりかわいいものだと思いますよ。なんのかんのいって私も姪に絵本とか買ってやってるわけです。だから、わからんでもない。それにここの妹はまだ五歳だから、かわいい盛りじゃないですか。うちの姪はまだ二歳だからよくわからないけど。けどまあ、小さな妹にすっかりやられちゃってる兄貴がむしろかわいいなあって感じで、かわいい妹に萌えつつ、実際は兄貴の兄バカっぷりに萌える、そんな仕掛けじゃないのんか。兄貴、いくら妹がかわいいったって、そりゃやりすぎだろー、ってつっこみながら、そんな兄貴をニヤニヤあたたかく眺める。そんな漫画だと思います。

だから、やっぱり『兄本』なのかなあって思うんですね。実際、妹に嫌われたくなくって一生懸命の兄っていうのは、かわいいものなのかも知れません。現実にそんなこといってる兄が存在したら、わあ、勘弁してって思うのかも知れませんけど。姉持ちの意見としては、フィクションに出てくるような弟ラブラブな姉、ああいうの受け付けない、そんな風な勘弁して感がします。ほんと、あんな違和感見せられるくらいなら、妹ラブラブ兄貴の方がずっと萌えると断言します。

  • 曙はる,むんこ『妹本』(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。

2008年6月10日火曜日

まど・レーヌ

 松田円作品集とでもいいましょうか、『まど・レーヌ』が発売されて、けれど私はちょっと微妙な気分でした。いやね、松田円は好きなんですよ。それもかなり好きなんです。一時期、四コマ漫画に疲れてしまっていた時、私を引き止めた漫画のうちに間違いなくこの人のものは含まれていて、だからやっぱり特別なのです。じゃあ、なんで微妙な気分になるのさ。というのは、この本に収録の漫画です。『まんがタイムきららキャラット』にて連載されていた『電化お手をどうぞ!』と『まんがタウン』本誌及びオリジナルで連載されていた『かめびより』。どちらも結構好きでした。けれど、雑誌の統廃合に巻き込まれた『かめびより』はまあ仕方ないとしても、『電化お手をどうぞ!』はなんか煮え切らない状況でぱたっと終わった印象があんまりに強くてですね、ちょっと待って、あれって完結してたのかい? 正直あれが綺麗な幕切れと思っていなかった私は、そんなでも売れるとなれば単行本にするんだねと — 、だからちょっと微妙な気分だというのですね。

でも、こうしてまとまって、読んでみれば、そうした微妙さは払拭されてしまうものなのだなあ。私なぞは実にちょろいという話です。けど、途中から『きららキャラット』を読みはじめた私にとって、『電化』の序盤を読みたかったというのもまた事実。けど、読んでみて驚きました。私は『きららキャラット』購入をずいぶん渋っていたはずだのに、割と序盤を知ってるんですよ。立ち読みはしていませんでした。じゃあ、なぜ? といわれれば、結局は自分が思っていた以上に初期の頃から『キャラット』を読んでいたってことなんでしょうね。

『電化お手をどうぞ!』は近未来もの、デジタル・トーキョー市を舞台にしたラブコメで、いや、これラブコメなのか? コメディであることは違いないのですが、市長の娘ニナ・リッツにいわせれば、恋なんて誤解と勘違いで出来てるようなものであるそうですから。まあ、なんて夢のない、とは口先ではいうけれど、私はおおむねこの意見に賛成で、そして漫画はといいますと、ニナのいったことを証明しようとでもいうがごとく、勘違いによる偽りの三角関係を着々と育てていったのでした。いや、面白かったですよ。子供ばっかりがクールで、いい大人がバタバタしているっていうんでしょうか。けど、恋愛ものの基本は、いい大人が恋に浮かされてバタバタってものだと思うから、これはこれで正解で、誤解やら不安やら戸惑いやら本心やらを、すべて見通せる場所から眺める、そういう楽しみするものだと思っています。ということはニナは劇中においてそうした位置を確保しているわけか。騒動に関わりつつ、騒動の外にいる、そうした視点が内部に用意されているっていうのは面白いけど、でもどうせなら、そんなクールを気取っているニナのバタバタする様も見てみたかったものだ。もし、もしこの漫画がもっと続いていたら、そんなニナを見ることもあったんでしょうか。

『電化』が恋愛を巡るコメディだとしたら、『かめびより』はもっともっと地味な日常を描いた漫画で、いうならば亀と過ごす生活。亀のカメコをペットにする女子高生かなこがヒロインなんですが、恋愛のれの字もなくて、すごく地味、本当に地味。けどその地味さが好きでした。

地味というのは、ぱっとしないってことではないと思います。なんでもないこと、ささやかな出来事を拾い上げる。そういうこまやかな視線があって、なにげないことに隠れている価値があらわにされる、そういうこともあるのですから。もちろん『かめびより』は面白さを第一にした漫画ですから、おかしさや楽しさ、そうしたものが表現されるわけです。そして、それは別に派手である必要はないんですね。派手に、大げさに取り上げて面白いものもありますが、ささやくように告げられて楽しいということもあるんです。たとえるならば、おしゃべりの楽しさに近いと思います。こんなことがあったんだ、聞いて聞いてと、近しい友人がしゃべりかけてくる、そんなさざめく声が聞こえてくるようで、伝えられるのは身近に起こった出来事。けれど、それがことその友人から聞かされたらば、なんでもないことなのにおかしい、それになにより楽しい。『かめびより』から感じられる感触は、そういうのに近かったと思うのですね。

手振り身振りをたっぷりに話してくれる、そうした友人が『電化』なら、『かめびより』はにこにことして穏やなそんな友人。けど、たまにちょっと変なこというんだ。だから思わず笑ってしまう。そういう近しさ、それが松田円の持ち味なのかなあ。けどこれって、希有なことだと思います。希有って、つまり、得難いっていっているんです。

  • 松田円『まど・レーヌ』(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。

引用

2008年6月9日月曜日

こうかふこうか

運がいいとか悪いとか
人は時々口にするけど
そうゆうことって確かにあると
あなたをみててそう思う

さだまさしの歌の文句に、こういうものがありますが、『こうかふこうか』のヒロイン、福沢幸花を見てると、さだまさしならずともそう思いたくなってくる……。というのも、福沢幸花は不幸系ヒロイン。特になにが悪いというわけでもないのに、不幸に見舞われる人っていますが、そういう要素を凝縮しましたとでもいった感じのキャラクターなんでありますね。傘を持たずに出れば雨に降られる。傘をもって出ても、不慮の事故で壊れる、壊される。そうした度に人は運がいいとか悪いとか口にするんでありますが、しかし幸花本人はそうした不運に慣れっこでありますから、結構ひょうひょうとして、不幸を受け入れてしまっている。そんな様がまたまた不憫で、読んでるこちらからしても放っておけんなあという気にさせてしまうというのですね。

さて、このネタはもうちょっと先に使うつもりでいたんですが、まあいいか、プレビューってことで。私は実は不幸系ヒロインが好きです。なぜこの娘がこんな目に遭わねばならないんだあ、なぜ世の不幸がよりによってこの人に! っていうようなシチュエーションになると、リミッターが外れてしまうんです。例えば事件、例えば事故、それから病気、なんでもいいのですが、身に余る不幸、不運を背負わされたような人を見ると、もう放っておけなくなって、感情が暴走する。ああ、うざいことは自分でもよくわかってます。だから日頃から気をつけているんですが、ややもすると、彼女の手助け、私がやらねば誰がやる! いっそ私が身代わりに、みたいになるから、もうどうしようもなくて、母からは詐欺には気をつけろといわれてしまうような始末です。

けど、福沢幸花に関してはちょっと違った感じです。運が悪い。うん、確かに悪い。けどこの人の場合は、神様、なぜこの人がこんな過酷な運命を担わねばならなかったのですかーっ!? と天に向かって叫ばねばならんようなタイプの不運でなくて、なんかただ単に運の巡りが悪いというか、大小問わず不幸不運が五月雨式に降ってくるといった、そういうタイプの不幸系ヒロインなんですね。そしてそうした不幸の中には、あからさまに人災といえるようなものもあって、ひとつは粗雑な青年岩井の引き起こす物損系ネタの被害に遭うといったもの、そして他はといえば、いじめ嫌がらせの類いかね。いや、これも不幸でしょう。それも実際に起こりうる、ありうるという点で非常にリアリティがある。けど、そういうの読むと、ちょっとへこたれそうになるという現実もあって、ああ、うう、世の中ってのは浅ましいものだよねえ、とがっくりきちゃうのさ。

こうした不幸系の話っていうのは、作るのが難しいだろうなあと思います。起こる不幸に人の意図思惑がからんでしまえば、それはもう不幸じゃないよって思う人も出てきます。人によって引き起こされる不幸なら、まったく悪意を持たない、そもそもなんらの意図さえもなかったというアクシデント系、あるいは利害関係のない第三者の行動でといったものでないと、受け入れにくく思う人もあるでしょう。最初は楽しく読んでいるのが、途中で少しでもいらっと感じる瞬間があると、それがほころびとなっていらいらを蓄積させかねない。だから、そうしたいらつく感情を適度に発散させてやるような作りにもしないといけないんではないかと思って、本当、不幸ネタは幸運ネタに比べても、気を使う部分が多いんじゃないかと思うのですね。

この漫画においては、蓄積される負の感想を引き受けようとでもいうのか、岩井という物損系キャラがおるのですが、まあこの男、粗雑、横着、無神経、やることなすこと裏目に出るタイプなんだけれど、幸花と違うのは、圧倒的に自業自得ということで、しかもそのやっちまった結果が他の人間に、とりわけ幸花に振りかかるという、ハザード系キャラであるんですね。さっきもいいましたように、この人の場合は降りかかった不幸というよりも、この人が引き起こした事案といった色が強いから、読んでいる側からしたら、勘弁したってくれって感じが実に強く、実際彼がからまなかったら幸花の不幸も半分、とまではいわんけれど、一定割合はさっ引かれるんじゃないかといった具合。けれど、この人がこういう役割を担わされているのは、読者の心に生まれる黒い感想を引き受ける、いわばサンドバッグ的ポジションだからかなとも思って、けどほんとどうなのかなあ。

1巻読み終えた時点ではまだそれほどポジション確立してないからなんだけど、幸花そして読者に必要なのは、トラブルメーカー岩井より、心優しい同僚たちより、うまくいかなさを共感もって話し合える、慶喜寧々のような人であると思うんです。だから、2巻以降は慶喜寧々の役割が強くなっていくんだろうなあと予想して、けどこの人がからむと、別方向から悪意が注がれる仕組みになっているから、ああもう、なんだ、厳しいなあ。

運のよさに定評のあるという人には、きっと楽しく読める本かと思います。けど、自分はなにをやってもうまくないなあ、人並みにやってるつもりなんだけどなあと思っているような人だと、身につまされすぎるかも知れない漫画です。私ですか? 私は、運の悪さのせいにするには全然努力が足りてないから、読んでて、まだまだ大丈夫です。

  • 佐藤両々『こうかふこうか』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2008年。
  • 以下続刊

引用

  • さだまさし『無縁坂

2008年6月8日日曜日

メルヘン父さん

 こういう漫画を読んでいると、有能主夫が今求められているのではないかと錯覚するのです。炊事洗濯掃除はいうに及ばず、裁縫手芸から日曜大工、家庭菜園、家族の健康管理などなど、家事一般をこなす頼もしいお父さん。ええと、このお父さん、名前ないのか……。妻文月を支え、ふたりの娘葉月とかんなを見守るお父さんの活躍というか、日々のあれこれを描いて、これが結構面白いんです。四コマに限らず漫画には、駄目主婦、有能主婦ものいろいろあるわけですが、それの主夫版。若い夫、若い二人でなく、結構な年数を経てきた家族の様子を描いて、もしこれが主夫でなく主婦ものだったらどうだったんでしょう。単行本で読んでみて、そんなことを思いました。

家事を担うのはおおむね女性である、そうした先入観があるために、男の家事、それも一般にいわれる男の料理のようではなく、丁寧、繊細、こまやかに気を配りつつ、予算も抑え目という、そういう家事を描いて面白いのは、それをやっているのが男、それもぱっとしないおっさんだからかなと思ったりしたのでした。だって、それだけでギャップですから。意外性に富んでいると思えるのは、女性でも大変な家事を、おっさんがしっかりこなしているからなのだとすれば、それは極めて消極的な読み方といわざるを得ないでしょう。そして、私はそういう見方は嫌いです。だって、もしこの見方を受け入れるとしたら、私は同様に有能女性会社員ものを、男の仕事を女だてらにがんばっている漫画である、女であるがゆえにギャップが生じるという見方も受け入れなければならなくなるからです。けれど、今、仕事において男だ女だということはなくなりつつあります。女性の上司、女性の管理職、女性の営業、普段なんということなく目にするものになっています。だから、これからは家事に能力を発揮するメルヘン父さんも珍しいものではなくなる。そうならいいなあと思う私は、実は主夫志望であります。

この漫画が面白いのは、父さんが有能主夫だからというだけではありません。寡黙な父があって、やり手の母があって、すごく普通の長女があって、内気の次女がいて、それで成り立っている家族というのがよいんです。父が家族の皆を愛して大事に思っているように、家族の一人一人も父さんのことが大好きで、そんな家族の集う居心地のいい家庭においては、皆がすごくのびのびとしています。外では厳しい課長をしている母さんもうちでは違う顔を見せ、父さんラブラブを隠さない。娘二人も父を頼り、甘え、ちょっとわがままもいって、そうした様子が楽しそうだ。で、お父さんの有能さが家族の要求に応えるところがいい。充分に、時には過剰に。ちょっとがんばりすぎな様子は笑いを誘うし、なにより家族が笑顔というのは読んでいても嬉しい。ナンセンスな笑いも交えながら、春山家の楽しそうな毎日がぱっと明るくつづられるのは、すごくいいなあ。そんな風に思われてならないんですね。

しかし、お父さんがこんなだと、娘の将来が心配です。あれだけ気のつく男はいません。私も男だからいいますが、あんな風には気がつかないものです。気がついて優しいふりはしますが、本当に気がついて優しいというのはめったにあるもんじゃございません。だから、あの娘たちは間違いなく婚期が遅れます。若いうち、まだシビアに男を見つめないうちならともかく、ある程度したらもう駄目でしょうね。だから、他の男を気にする娘に気が気でない父さんも、ひとまずは安心なんではないかと思うのでした。

  • 吉田美紀子『メルヘン父さん』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

web拍手返信 — 2008年第23週分

この一週間にいただいたweb拍手のメッセージに対し、返信いたします。

2008-06-07T16:12:23, 要返信
DOG LIFE&DOG STYLEの感想、正鵠を射ていると思いました

FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLEへのコメントいただきました。

ありがとうございます。私は、自分の思ったことを、思ったように書くしかできない人間です。そんな人間の書いたものを、拾っていただいたばかりか、お読みくださった上、格別のお言葉くださいましたこと、本当にありがたいです。

DOG LIFE & DOG STYLE』は2巻がこのあいだ(2008年5月24日)出たところですが、もちろん買って、読んでいます。目的達成のために、まるで消耗品のように散っていくものの悲しさがあって、けれどそのひとつひとつの命には意地や誇りがあるのだと思わせてくれる漫画であると思います。

2008-06-05T21:54:31
色々な本の感想ががっつり書かれていて好きさが伝わる素敵なブログでした!

結局私の書くものは、自分がどう思っているか、それでしかありません。それを評価くださったこと、ありがたいです。もうそろそろ限界だと思いながら、それでも続けられるのは、結局好きだからなんだと思います。

それが好きだから書く。嫌いだったら書けない。そんなふうに思います。

以上。要返信のメッセージ及び引用及び返信不許可でないメッセージについて返信いたしました。

2008年6月7日土曜日

ただいま勉強中

 辻灯子の漫画が出た! その名も『ただいま勉強中』。なんだか昔の漫画を思わせるタイトルですが、こちらは『漫画タイムラブリー』に連載中の学園もの。『勤務中』とはまったくの無関係です。人里離れた田舎の女子校が舞台、日常のなにげない一コマを積み重ねるようにしてできあがった一冊です。独特のちぐはぐなやり取りがあって、また少し普通から外れた人たちの優しさ、かわいさがあって、そしておかしみ。辻灯子の読者ならご存じでしょう。辻灯子の現代物は、決して派手じゃないし、描かれる人にしても特別ななにかというわけじゃない。けれど、一人一人が他の誰でもない顔、個性を持って、すごくチャーミングで、そこに私は引きつけられるのですね。もちろんそれは『ただいま勉強中』でも一緒。由良や飛鳥のどたばたとしてけれどなんだか穏やかな時間、私はすっかりとらわれてしまっています。

『ただいま勉強中』のメインキャラクターは二人、と思ってたら四人!? 人の名前覚えられない、要領も成績も悪い眼鏡娘、由良。この人がやたらかわいいんだ。そいで、成績はいいけれど必要以上に自由な娘、飛鳥。どうも美少女であるらしく、かわいいもの好きの先輩からシャルロッテとあだ名されている。あとは、バレー部のかっこいい先輩(そう、かわいいもの好きの先輩だ)に憧れを隠さない陽気な娘、葉菜子。そしてクールでシビア、オカルトに通じまじないをよくする千里。けど、これで全部じゃないですね。先生が加わることもある、バレー部先輩、スポーツ特待生がメインに出てくることもある。美術部面々が大きく関わることもあるといった感じで、登場人物がこれと固定されていません。この流動的なるところ、私はおおいに魅力と感じています。

それがどうして魅力なのか。それは、物語の舞台である学校、その世界が小さくまとまることなく、広がりを持つからなんではないかと思います。どんなクラブがある、どんな同好会があって、それぞれがどんな方針で活動しているか、その違いがわかってくるのも面白い。学校の個性だってわかります。スポーツ特待生が全国から集められているところをみても、この学校がスポーツに力を入れていることがわかるし、けれど良妻賢母育成機関としての女子校の伝統を引き継いでいるところもある。とまあ、こんなことがわかったからどうなのかと思う人もあるかも知れないけれど、背景が感じられるというのはそれだけで強さです。ああ、彼女らはそうした場で、そういう雰囲気の中で過ごしているんだ。一種のリアリティでしょうか。ささやかな描写でも、それが何層にも積み上げられることで、物語られるなにかが生まれるのです。そのコマの背景に描かれている、ほんのちょっとしたことであっても、意味を持って立ち上がってくる。辻灯子の漫画は、どれをとっても、読み込みによって生じる味がありますが、そうした性格は『勉強中』にも健在で、読むほどに、踏み込むほどに、面白さ、楽しさ、近しさは増すのですね。

だから、もしかしたらこの人の漫画は人を選ぶのかも知れません。けど、読み込まなければわからない、一見さんお断りというような漫画でもなく、例えばこの漫画に出てくる人たちの魅力、ちょっとした言葉に感じられるその人のかわいさ、いとしさは、読むものを引きつけるに充分な力を持ったものであると思うのですね。型にはまらない、それこそ変わった娘たちばかりだけど、いやな人はいない。みんな素直でいい子で、まっすぐな頑張り屋で、けどたまにはくじけたりもしてという、本当、人間が愛おしい。そんなところが読むものの心をつかんでしまうのだと思っています。

  • 辻灯子『ただいま勉強中』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年6月6日金曜日

夏色ショウジョ

 怖い顔して変態変態と連呼する女の子のアスキーアートがありますが、私はあれがどうにも気になっていまして、それで調べてみたことがあったのです。変態、アスキーアート、元ネタなどのキーワードで検索、結果を片っ端から開いてみたところ、『うえきの法則』の森あいというキャラクターがオリジナルであることがわかりました — 、ごめん、嘘。そっちは、変態だーの元ネタですね。私のいっているのは、綾瀬さとみ『スケッチ』の一コマ。『夏色ショウジョ』に収録の短編です。エロ漫画らしいのですが、どうも内容を知れば知るほど自分の趣味ではなさそうで、果たしてどうしたものかと思っていたら、あれはいいユリ漫画ですよとのこと。そうなのかあ。じゃあ買ってみようか。以上のような経緯をもって、購入にいたったのでした。

『夏色ショウジョ』は八編収録で、『スケッチ』はその七つ目だったものだから、頭から六編を通過することになって、そうしたらいやあえらいマニアックだな、この漫画。基本的に馬鹿な話が好きなのかなあと思うのですが、それと同じくらいネガティブな話が好きなのか、一般受けしそうのって二三編ってところかなあ。エロを求めて読むというよりも、作者の個性、話の持っていき方、ひねり方、それからギミックを楽しむ読み方が主という感じです。だって、ネタバレになって申し訳ないけど、自慰で怪人(変態?)に打ち勝つだとか、結構嫌いじゃないんだけど、呪いのせいで肥満体になってる男二人と行為の最中焼き肉食べるとか、変にテンポがよくてめちゃくちゃ面白いんですが、そしてヒロインがブサイク好きのうえデブ専だったと明かされるシーンのあの表情、ちょっと待て、ヒロインがこうでいいのんか? この人、美少女だったんじゃないのんか!? 以上が馬鹿な話だとすると、ネガティブな話は、ものすごい泣き顔のあとで年下の幼なじみが転落死するとか、しかも楽観的なラストを二段落ちで裏切りながらの死亡、ぎゃーす! 後味悪すぎ。けど、あの表情は悪くなかった。美少女をあそこまで崩して、なんだか精神のぎりぎりさ加減がよく出ているようで、それで望まれる甘さを提示し、けれど甘さに逃げないところはよいなあと思って、けど、あんまり好んで読みたくないなあ。これが正直なところです。

さて『スケッチ』です。これもまたきつい。ヒロインがふたり、ひとりはおとなしそうな娘、由里、眼鏡、美術部。もうひとりは、ひろみ、小学校中学校と由里を執拗にいじめ続けていた女。由里がスケッチブックに向かうシーンと過去のいじめの場面が次々カットバックされるのですが、これが実に容赦のないもので、私には少しきつすぎます。けれど、そのつらさ、痛ましさが計算づくというのは大したもの。鬱屈に鬱屈を重ねた末に、その鬱屈を反転して見せるというどんでん返しが見事でした。読んでいるものは、由里の内面にたわめられたエネルギーを見たはずで、そしてそれが解き放たれるかと思われた瞬間、見開き大ゴマを埋め尽くすのは由里の投げ上げた大量のスケッチ。続くページ中ほどには問題の変態連呼のコマがあり、そして由里の思い掛けないモノローグ。ページをめくるごとにエネルギーが開放されていく、その畳み掛けは素晴らしかったです。

惜しむらくは、ページの少なさ。24ページにぎゅうぎゅうに押し込まれたコマは少々息苦しくて、けれどその息苦しさはストーリーの印象に少なからず影響しているとも思われて、けれどもう少し余裕があれば、前半の鬱屈の度合いを高めることは可能であったはずだから、ラストに向かう勢いはより以上のものになったんではないか。過去のエピソードがもうひとつふたつあれば、もっと転換時の驚き、開放されていく際の高ぶりを増すことができたんじゃないか。こうしたことを思うのも、漫画の出来がよかったからだと思います。実際、初読ではえっと思わせて、読み返しで仕掛けを満喫させてといった類いの漫画です。読み返すそのたびに屈折した感情に引き込まれると感じる。エロ漫画としては異色ではあるけれど、エロ漫画でなければこの仕掛けは生きなかったかも知れない。そうしたところも面白い漫画であると思います。

ところでこの漫画の一番の被害者、それはとばっちり受けて沈黙させられたあの男だと思います。まったくの当て馬、それも本来の意味どおりの、でした。

  • 綾瀬さとみ『夏色ショウジョ』(ワニマガジンコミックス) 東京:ワニマガジン社,2002年。

引用

2008年6月5日木曜日

たのしいいちにち

 だんだん充実していく、こぐまちゃんの絵本。最初は思い出の絵本『しろくまちゃんのほっとけーき』、次いで『こぐまちゃんいたいいたい』。そして、新たに加わったのが『はじめてのこぐまちゃん』三冊セットです。『たのしいいちにち』、『じどうしゃ』、『どうぶつ』の三冊が一そろいにまとめられているもので、はじめてのと銘打たれているとおり、対象年齢は零歳から。姪は今、一歳半ってところですから、今のこの時期を逃すともう与える機会が永遠に失われる、ってそんなに大げさな話ではないんですが、でもどうせ与えるなら丁度その効果的な時期がいいじゃありませんか。というわけで買ったんですね。

零歳児からということで、内容は極めてシンプルです。『たのしいいちにち』、朝起きてから寝るまでが数葉のイラストで表されていて、あさごはん、はみがき、すなあそび、おふろ、おやすみなさい、五つの場面ですね、左ページにこぐまちゃんが、右ページには歯ブラシ、シャベル、洗面器といった、それぞれの場面で使われる道具が描かれている、これが基本的な構成となっています。

この絵本には、台詞といったものがまったくありません。またストーリーというものもなく、ただ場面が道具とともに淡々と示されるだけ。だから、子供の興味を引くかどうかは読み聞かせをするものの力量次第であるといってよく、子供と一緒にページ見開きに広がる、かわいくカラフルなイラストを見ながら、どれだけ語りかけをできるか、どれだけ物語を紡げるか、その能力が試されるといっても過言ではありません。でも、あんまり難しく考えることはなくて、ええ、大人も一緒に楽しめばいいんでしょうね。子供の頃を思い出して、読み聞かせてもらった絵本のこととか、そして、あさごはんなら、朝ご飯の風景思い出しながら、感じたことを言葉にして、ひとつひとつ伝えていければ素敵だと思います。台詞もなにもないというのは、こぐまちゃんをとおして、私の世界を語りかければいいってこと。ええ、親なら親として伝えたいこの世界のこと、親でなくとも、先に生まれたものとして、後に続くものに伝えたいことを、自由に、それこそアドリブで、即興で、喜びとともに伝えることができたら、どんなにかいいだろうかと思うのですね。

けれど、最近姪は外遊びが好きなんだそうで、絵本の出番は少ないとのこと。でも先日梅雨入りしたから、また絵本を読み聞かせることも増えるでしょう。晴耕雨読、晴れたら外で、降ったら家の中で、その時々の楽しいことをさせてやるのが今は一番なのかなと思います。

  • 若山憲『はじめてのこぐまちゃん』東京:こぐま社,1995年。
  • 若山憲『たのしいいちにち』(はじめてのこぐまちゃんシリーズ) 東京:こぐま社,1994年。
  • 若山憲『じどうしゃ』(はじめてのこぐまちゃんシリーズ) 東京:こぐま社,1994年。
  • 若山憲『どうぶつ』(はじめてのこぐまちゃんシリーズ) 東京:こぐま社,1994年。

2008年6月4日水曜日

Real Clothes

 手帳を見れば、5月19日のメモ書きに、Real Clothes 4, 達也、あれは最低だと書かれていて、そう、達也、あれは最低な男です。病院の待合で連載を追っていた時から、この糞のような男はー、とむかむかしていたんですが、単行本で読むと格別ですね。だって、最初にいっていたことと全然違うんだもの。最初は、仕事がんばれ、応援するよみたいなこといってたくせに、具体的に結婚が見えはじめると、仕事やめてくれ、俺についてこい、そして極め付けはこれ、どうせやめる仕事だろ 適当にしろよ! 殴りまではしなかったものの、手を上げて鉢植え壊してこの台詞。第23話と第24話の間で、アブダクションでもあって改造受けでもしたのか!? と思うほどに人が違ってしまって、いやあ、びっくりしましたね。けど、21世紀になっても、まだこうした台詞、場面が登場する女性コミックの世界。それはつまり、こうした現実があるということなんでしょうね。

でも、実際の話、どうなんだろうとも思うんですが。というのは、あんまりプライバシーに関わることを書くと私の命が危うくなるのですが、うちの姉の話、共働きなんですね。仕事やめるという選択肢もあったらしいんですが、けれど現実問題として、妻は専業主婦というのは、夫側がよほど恵まれた条件でないと成立しない形態と思われて、実際どうなんでしょう。私のまわり、共働き、多いんですが、ほんと、どうなんでしょう。伝え聞くのも、結局家事は私かよ、みたいのが多いんですが、どうなんでしょう。まあ、このへんはどうでもいいや。問題は、達也だな。ああ、もう、綺麗さっぱり切れてしまえ。いったいなにを迷う必要があるんだっていう話です。やつとの関係に意味があるとすれば、それはただ二人の間に流れた時間、共有された経験、いわば歴史のみであって、それがここまでないがしろにされるというのなら、結婚後の不毛は目に見えている。こういう男はだな、結局は都合のいい、自分の理想どおりの女が好みなんであって、ちょっとでも自分の思ったとおりでなくなると、こんなはずじゃなかった、君がそんな人だっただなんて思いもしなかったよ、そんなこと言い出しやがるんだよ。なにいっていやがんだ、お前が勝手に夢見たんだろうよ。ありもしない妄想にとりつかれてたのはお前だろうよ。こういう相手と付き合うと、早晩相手の理想との戦いに疲れ果てることになる、相手の押し付けてくる一方的で勝手なイメージに辟易するというのがパターン。はい、私も気をつけます。こういうことをいっている私からが、相手に勝手なイメージを押し付ける傾向をもっています。

『Real Clothes』第4巻は、約束不履行男達也との別れの巻であります。正直、私はこのへんの流れにかなりげんなりしていたから、この破談は大歓迎。よくやった田渕! けれどこういう反応を返すあたり、私はこの漫画がターゲットとする層には含まれていないんだろうなという気がしまして、だって恋愛と仕事、結婚と仕事を天秤にかけるという、女性にとっては大きな問題を、私は一も二もなく仕事だろうと、考えるまでもなく仕事だろうと、決めつけるがごとく結論づけているわけですから。そう、私は働く女性ものを読みたいんですよ。だから、達也のような男は敵でしかなくて、とりあえず早々に撤退お願いしたい。働きたい、よい仕事をしたい、という気持ちがあって、そこに普通ならあり得ないような絶好の舞台が御膳立てされて、そんな幸運のシンデレラそのもののヒロインが、恋愛の行方云々に足を引っ張られている状況、はっきりいって我慢ならん。こんな私ですから、この先、まだ恋愛の喪失を引き摺っているヒロインが、気持ちのもやもやを吹っ切り、エネルギーを取り戻して、仕事に邁進し、そしてそこでなにを実現するのかに期待してしまうんだと思います。間違っても田渕に恋愛感情をもって云々みたいにはならんでしょう。仕事をする女性としてのヒロインを見初める誰かが出てくる、こんな安易な展開もないでしょう。じゃあ、どうなるのか。仕事に生き、しかし仕事だけではない、仕事も私生活も充実した、そしてその位置をつかみ取ったのは、他でもないヒロインその人だ。そんなところに落ち着くことを期待しているってわけなのです。

待合室に提供されるYouは数ヶ月遅れなので、いま絹恵がどうなってるかはわからんのですが、いつまでもこのぐずぐずとした状況を引き摺ることはないでしょう。状況を乗り越え、力強く歩きはじめる。私はといいますと、その時を心待ちにしているのであります。

  • 槙村さとる『Real Clothes』第1巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社.2007年。
  • 槙村さとる『Real Clothes』第2巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社.2007年。
  • 槙村さとる『Real Clothes』第3巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社.2007年。
  • 槙村さとる『Real Clothes』第4巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社.2008年。
  • 以下続刊

引用

  • 手帳
  • 槙村さとる『Real Clothes』第4巻 (東京:集英社.2008年),71頁。

2008年6月3日火曜日

そこはぼくらの問題ですから

 近況です。バーコード読み取りのできる携帯電話があるという話題から、バーコードファイター、ヒロインが男と話題が飛んで、そして最後に行き着いたのは『はなマルッ!』というゲームでした。これ、ヒロインのひとりが男ということから物議を醸したというんだそうですね。私はその方面には疎いもので、まったく知らずにいたのですが、しかしその男ヒロインについては絵で知っていました。どこだったか画像掲示板に貼り付けられていたのを見て、こ、これはなんなんだ!? 女の子じゃないのか!? ひとしきり混乱して、結果記憶に焼き付くことになって、そしてやっと出会った! とはいえ、今日は『はなマルッ!』で書くつもりはありません。今日の漫画は『そこはぼくらの問題ですから』であります。

帯にいわく、美形変態 VS 女子高生。この変態という文言が私をしたたかに打ったのですね。なんせ女装美少年に強烈なアトラクション感じてしまっている変態ですから、私は。帯裏表紙側を見れば、なにやら変態に愛される女子高生ヤエコが超絶美形にして変態の六朗と同居する羽目になってしまったとかありまして、加えてドS、幼女趣味ロリコン美少年信奉者ショタコンの表記も。わお、こりゃすごいコンプレックス複合体だな。気に入った。ドSというのは少々気掛かりだけれども、ロリコンとショタコンの複合は非常に興味深い。といったわけで、買ってみたのでした。

やられました。ドSとロリコンとショタコンがそれぞれいるのね……。それに、あれ別にサディスティックとは思わないし、だって自分の欲望を遂げるために刃物で脅すのは嗜虐趣味とは違うよ。ただの自制心のないサイコパスだ。でも、この人はまあ変態といってもいいと思う。レズビアンだからじゃなくて、嗜虐性もってるからでも、フェティシストの嫌いがあるからでもなくて、その欲望を抑え適切に処理できないという点において異常性欲の持ち主といっていいんじゃないかと。じゃああとのロリコン、ショタコンはどうかというと、あれくらいだったら普通ですよね。かわいく着飾った少女が好きな男、金髪の美少年が好きな女、別になんもおかしくない。自らの欲望を満足させるために、他人を踏みにじることに躊躇がないようなソシオパスならともかくですよ、これくらいの傾きなら社会は許容するでしょう。それに、自分の性質を理解し、変態であると自覚したうえで、法に抵触するような可能性を極力排除しようというのなら、むしろ安全じゃないか。

じゃあ、この本において危ないやつとは誰かといえば、ひとつは前述の、自分の欲望にブレーキがついていないやつ。そしてひとつは、相手をいったん変態と認識すれば、ありもしない妄想で現実を覆い隠し、相手の人格を否定しないではおられないやつ。そう、ヒロインです。いくら幼少期からのトラウマがあるとはいえ、思い込みから傷害に及ぶは、自分から提示した補償であるのにあたかも無理矢理やらされているかのようなことをいうは、なにもしていない、なにをしようともしていない人間にありもしない罪を着せようとするは。これほど共感できないヒロインも珍しい。そんな風に思います。

だから、多分このヒロインが変態、おおっときちっと区別しておこう、自身の欲望を抑えられないタイプの人間を引きつけるのは、ひとえに同類だからなんですよ。類は友を呼ぶといいます。この人の、自己中心的で相手をまっすぐ見られないところ、自己中心的なのに自分自身も見つめられないところ、自分の現実、思っていることやあるいはコンプレックスを受け止めることができず、ちょっとしたことで過剰な反応を見せる、そうした要素がアクティブな同類を引きつけてしまうとしか思えず、だからこんな女に関わりを持った六朗さんは不幸だなあと心の底から思います。けれど、どうやら愛というのは不条理、不合理、理不尽にできているらしく、思い違い、勘違い、思い込みから、六朗は、よりにもよってこんなヒロインに惚れてしまうときた。なんでやねん!

でも結局は愛というのは理屈じゃないんだろうなあ。この漫画読んで、本当にそう思いました。私もちょっとはわかるんですよ。昔、人を好きになったことがあって、結局どうともならなかったんだけれど、それどころか、思いもかけない邪魔が入って、介入してきた女ともどもその好きだと思っていた人を切り捨てざるを得なくなって、あん時には荒れました。まわりに当たり散らしたりはしなかったけれど、喪失感やストレスから過食におちいり、その後数年引き摺りました。だから、ちょっとわかるんだと思います。気持ちを持て余してしまうってことや、一度好きになれば相手がどんなであっても、自分の本来の対象とは違っていたとしても、かまわなくなるってことなどなど。まあ、そうした気持ちが純粋な愛とか恋などいうものなのか、それともただの思い込みなのかは知りません。でも、そういう状況にはまってしまうと、人間は自分の気持ちすら制御できなくなるのね。極端から極端、多幸感から不安までの落差をいったりきたりする。そんな気持ちの激しく揺れ動く様子なんかは、この漫画の落ち着きなくばたばたとした表現に、また思った以上に暴力的なギャグ表現によく表れていて、ああ、愛だとか恋だとかは、つくづく一大イベントだと思います。けど、当事者にはそれでいいのかも知れないけど、はた迷惑なもんではありますな。けど、それがどんなにいびつでも、できあがった二人にはそれでいいのです。とりあえず冷めるまでは。

しかし、この変態にトラウマありといって異様にかたくなであったヒロインは、結局は美形の前に敗れ去ったわけだな。と、こんなにヒロインに対していけずな私は、つまりは六朗さんに同情しているからで、だって、彼なにも悪いことしていない。困っているヒロインを助けにいったら割れたガラス瓶で切りつけられて、治るまで世話をするといって押し掛けられた上に、あれこれ難癖つけられて、大切なものも壊されて、でもまあ勘違いから好きになっちゃったんだ、円満解決だよね、ってだからこれは冷めるまでだって! この愛の命は短いよ、などと執拗に言い募る私は、どうやらヤエコに嫉妬しているみたいです。

ろ、六朗さんは、あんたなんかには渡さないんだからねっ!

引用

2008年6月2日月曜日

ニチバン テープのりDS

 手紙を書く、雑誌アンケートを書く、そうした際に避けられないのはのり付けでした。封筒をとじる、アンケート用紙を端書に貼る。今までは水のり(合成のり)を使っていたのですが、これ、どちらかといえば使いにくいタイプののりでして、チューブから均等に出すのは難しいし、出しすぎるとべたべたに、少なすぎると貼り付ける前に乾いてしまって台無しに、どうにもやりにくさがつきまといました。手を汚すことをいとわなければ、もう少しうまくできたのかも知れませんね。でも、手にのりのつく感触がどうにもいやだったものですから、なんとかうまいことやろうとして、結局あんまりうまくない結果になっていたように思います。

こんな具合に、長いことのり付けは悩みの種になっていて、なんかうまいやり方ないかなあと思ってきたのです。何年か前にはスティックのりを使っていましたが、あれは最初はいいんですが、だんだん粘着力が落ちてきて、しっかり貼り付けられなくなるという弱点があって、手を汚さないこと、使い回しのよさという点では合格でも、貼り付け強度、信頼性という点では不安が残る。だから合成のり。でも、あんまり好きじゃない。どうしたものかなあ。そう思っていた私にもたらされたのが、テープのりに関する情報でした。

テープのりというのはずっとなじみがなかったのですが、修正テープののり版であるといったらいいでしょうか。プラスチックケースに収められたのり付きテープを転がして、紙にのりを転写して使うようですね。見たところ、使い勝手はよさそう。少なくとも手を汚すようなことはないだろうなあと思われて、そして評判の良い商品があるといいます。それはコクヨのテープのりドットライナーでした。

ドットライナーの評判を聞いて、コクヨのページを見てみたところ、確かに悪くなさそうな感じです。のりをドット状に配置することで、のりの切れをよくし、それでいて粘着力を落とさないための工夫がなされているとのこと。開発ストーリーなんかは、読んでいて実に面白く、よしドットライナー買ってみよう。勇み立って訪れたのは梅田紀伊国屋書店。そしたら、ドットライナーはホールドタイプしか置いていなくてですね、ありゃあ、これは予想外。他にあったのはトンボのピットテープのり。うーんどうしようか、迷っていたら、もう一商品見付けまして、それがニチバンのテープのりDSでした。

テープのりDSのDSとはDot Stamperの略だそうです。普通に引いて貼ってもいいし、あとはスタンプ押すみたいにして小口ののり付けも可能だといいまして、まあスタンプはどうでもいいとして、ドット状ののりがドットライナーを思わせたものだから、しばらく迷った末、これを買うことに決めたのでした。やっぱり詰め替えテープの供給を考えると、通勤途中に買えるものが望ましいし、ボディはちょっと大きめだけど、当座持ち運ぶつもりもないから、これでいいや、迷った割にあんまり考えていません。

実際使ってみた感想はというと、封筒のり付けには理想的といえるでしょう。封の折り返しにテープを走らせてやると、のりがしっかり転写されます。そのあまりの楽さに、粘着力はどうだろうと心配したら、これがこれが、問題ないですね。しっかりと貼り付いて、こりゃなかなかにいいですよ。コストパフォーマンス考えたら合成のりには劣るのかも知れませんが、使い勝手を考えると比較にならないアドバンテージがあります。これまでは、のりをできるだけまんべんなく塗ったあと、ティッシュペーパー使って余分なのりを追い出してきた、そういう面倒な作業がなくなります。台を、手を、紙を汚す心配もないし、水のり特有のべこべこの仕上がり、あれを避けることができるのも、非常に嬉しい。ああ、文具は進歩しているなあ、本当に心からそう思いました。

ニチバン:テープのりDS

2008年6月1日日曜日

すてきなムコさま

   眼鏡ヒロイン特集の四日目。ん? いや、ヒロインじゃないや。『すてきなムコさま』、魅惑の眼鏡は、皆に愛されるムコさま、ツヨシさんです。上村家の婿養子。気が利くムコさま、家事に仕事に精を出すムコさま。表立っての活躍よりも、誰にも気付かれずそっと手助けしておいてくれるような、そんな靴屋の小人的活躍が光るナイスな青年、それがツヨシさんです。そのこまやかさは、誰もが一目置くほどの徹底ぶりで、なにか困ったことがあったら彼に聞くといい。きっと助けてくれるに違いない。いや、聞くまでもなく助けられているのです。知らないうちに、気付かないうちに、彼の気配り、心配りがより快適で暮らしやすい空間を作り上げている。その恩恵は、彼を失ったときに気付かれることでありましょう。

連載のはじまった当初は、ツヨシもそんなにできる男ではなく、妻であるさやかさんとはしょっちゅうぶつかってたし、お義父さんも結構彼を邪険に扱っていたものでした。さやかさんのご機嫌を損ねては、投げられたりプロレス技かけられたりと、散々な目に合わされて、けれどそれではさすがにもたないと思ったのか、ツヨシさんは変わった。完璧な男に。そつなく、家族の、皆の仕合せを支える男に。その結果が、皆に頼られる婿、夫である今のツヨシさん。さやかさんには頼られ、お義父さんには甘えられる、そんな男になったのでした。

しかし、それにしてもツヨシさんの気配りはすごい。これはさすがにないだろうというものでも出してくる。転ばぬ先の杖という表現がぴったりくる先読み力で、家族の生活をサポートしている。あんまりな有能ぶり、その完璧さがネタの根幹になっていて、まさか、いやしかし彼なら! その期待を裏切らないどころかさらに上回るツヨシさん。けど本当にすごいのは、二段三段で意外性を積み上げる作者でありましょう。本当、日常にふと見かける景色風景出来事を出発点として、それをこうひねるんだ! よくよくの発想力。本当、漫画家というのはすごいなと思います。連載の当初から少しずつ積み上げられてきたものが、キャラクターの個性、漫画の世界を支える実質となっていく。富永ゆかりは決して派手な漫画を描く人ではないけれど、地道に漫画の内実を高めていく丁寧な筆致は、ただならぬものがあると思います。あくまでも自然で素直だから、読み手を圧倒したり身構えさせたりはしない。けど、その裏側では並々ならぬ努力があるんだろうなあ。ツヨシさんのあり方 — 、面倒、苦労を決して人に見せない。この作者こそは、そうした人であると思います。

さて、漫画の話に戻りまして、あまりに完璧といってきたツヨシさんですが、実は完璧ではないんです。時にやり過ぎてしまう。こまやかに見えて、いたらぬ部分も持っている。けど、そうした部分があるからこそ、このツヨシさんという人を堅苦しいだけと感じないんだ。それに助けている、支えているのはツヨシさんひとりじゃない。ツヨシさんもまた家族の皆に支えられていることがわかります。妻さやかさんも、父さん、母さんも、それなりに欠点を持ち、また当然ながら強みをもっていて、そうした個性がお互いの足りない部分を埋めている。時に温かく、時にずるく、時にわがままに、時に思いやりをもって、家族としての機能を支えている。皆がお互いに理解しあい、愛しあっている、そんな家族ものなんですね。上村家に入ることのできたツヨシさんは仕合せものだと思います。皆が、お互いを受け入れる苦労を苦労と思わず、努力を努力と思わず、自然に、普通に、ありのままに、自分らしいスタイルでいられるのは、やっぱり家族愛なのでしょう。愛あるからこそ、あんなにも皆チャーミングなんだろうなあ。いや、本当。とりわけお義父さんがそう。信じられないほどチャーミングで、女性陣をかすませる勢いなんですから。

ともあれ、こんなに居心地のよさそうな家庭もの、読んでいるこちらもなんだか仕合せ気分です。だから私も、少しでも現実を仕合せなものにするために、相手のことを思いやれる人間になりたいと思います。上村家の人たちみたいに、愛すべきものとなりたく思います。

  • 富永ゆかり『すてきなムコさま』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2004年。
  • 富永ゆかり『すてきなムコさま』第2巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。
  • 富永ゆかり『すてきなムコさま』第3巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2008年。