2008年7月31日木曜日

あねちっくセンセーション

   妹ブームが去って姉ブーム到来か — 、そう思っていた頃に始まったのが『あねちっくセンセーション』でした。姉にして先生だから、あねちっくセンセーション。ちょっと駄洒落。けど、この漫画が面白かった。主人公は弟の春人、おたくにして忍者? 正直よくわからない設定でありますが、それ以上にわからないのが姉のさくらで、姉戦士? もう、まったくわからないのですが、このふたりが毎回常識外れの姉弟げんかを繰り広げる。時に真っ向から対立し、時に共闘し、そしてなんでかほのぼのとすることもあって、いや、意外と姉弟愛感じさせる話の方が多かったようにも思います。闘うときには人間離れしたふたりだけど、それはそれで仲の良い姉弟であったのだと思います。そして、そんなふたりの物語は3巻で決着を見せて、ええ、最後には驚かされました。ええーっ、そんな展開有りなの!? むしろそれ蛇足っぽくない!? と驚きを持って受け止めたのですが、けれどそれでも面白かった、よかったと思えるラストでした。

春人とさくらの姉弟、そのふたりだけで展開された話ではありませんでした。他にもう二組姉弟があって、そしてクラスメイト、学校の仲間があって、時には対立する人もいたし、かき回されたりすることもあったのだけど、皆なんのかんのいって仲よさそうと思えるところが好きでした。少なくとも回を重ね、ラストに近づくにつれて、そう思える話はぐんと増えていって、ただ表に現れる関係だけじゃない深いところが感じ取れる様になっていって、それは本当に読みごたえがありました。

本当に、ラストに向けての流れはよかったのですよ。悪乗りといってもいいくらいのどたばた劇、過剰で大げさな戦いや思わせぶりでそしてちょっと深刻な悩みなどを描きながら、ひとりひとりの心残りを丁寧に解きほぐし、洗い流していく、その毎回のしめにほろりとなることも度々でした。やりきった、認めてもらえた、そうしたシーンを見るごとに、この漫画は学園ものでもあったのだなと再認識させられて、努力と成長、燃焼する青春、いいようはいくらでもあると思いますが、その描きようの確かさに、ほほ笑ましくも思い、そして振り返ってみてもいい話であったよなと思ったのでした。

だからこそ、卒業式の、ここという山に突如持ち込まれた、驚きの展開には面食らって、だって、それまで単発のネタとしか思ってなかったものがまさかの本設定昇格、ええーっ、あれってそういう伏線だったんだ! しかし、せっかくいい話だったのに! ここでこんな展開おっぱじめて、一体全体どうするんだと思っていたら、けれどそれもまた悪くないしめ方をされて、ああ、そうか、卒業式までの数回は先生としての物語の結末であったけれど、このラストは姉としての物語の決着だったのだなと、理解したのでした。

『あねちっくセンセーション』が第3巻で完結して、さみしくないといえば嘘になる、好きで、楽しみにしていた漫画でしたからね、派手で、面白かったし。けれどこうして綺麗に終わりを迎えたことの方が、なんだかずっと嬉しくて、ああ、楽しい時間でした、ありがとうございましたと素直にいえる、そんな気持ちになっています。

そして最後に一言。やっぱり、栗林撫子、彼女はとっても素敵だったと思います。だから、春人さんはがんばられますよう。このふたりの、進むようで進まんようで、進まんようで結局進んだ? そんな関係がほのぼのとしてもどかしくて、好きでした。

2008年7月30日水曜日

Recht — レヒト

  「まんがタイムKRコミックス」は、もともとの四コマ漫画のラインがあって、そこに『まんがタイムきららフォワード』に連載されるコマ割り漫画のラインが増えて、そして今月から『コミックエール』のラインが加わって、ずいぶん大所帯となりました。なんといっても、ひと月に11冊出ましたからね。好きな漫画があれば買う、応援したいものがあれば買うと決めている私には、かなり大変な状況。でも、好きでやってることだものなあ。文句いうのは筋違いですね。さて、おとつい紹介の『ラジオでGO!』はもともとの流れ、四コマでありました。昨日の『御伽楼館』は『エール』掲載作、男の子向け少女マンガの系列でした。そして今日は『Recht』を取り上げようと思います。

『Recht』、これは『フォワード』掲載の漫画。超管理社会における刑事ものであります。レヒト、この世界における警察機構、で働いていた父の後を追って、レヒト入局を決めた主人公カイは、市民に与えられる自律型エージェントCSのアリスをパートナーに、数々の事件に立ち向かいます。今は一番低い階級だけど、いつかは父がかつてあった最上位を目指し、研鑽の日々。と思いきや、レヒトには隠された闇があって、そしてカイもだんだんにレヒトの裏側に気付いていって……。雑駁にいうとこんな感じの話であるのですが、これが本当に面白く、私は毎号の展開を楽しみにして読んでいます。

当初は、CSアリスとカイの、ちょっとちぐはぐなコンビが一生懸命に事件に取り組むという、読み切り色の強い漫画であったのですが、だんだんに中長編的な読み方も求められるようになってきて、ちょっと目が離せない感じなんです。上の階級を目指したいというカイ、しかし純粋で理想家で直情傾向的で甘さも残しているカイにレヒトは向いていないと多くの人から評されていて、しかしそれでもカイはレヒト内で有望視されているらしいという、謎のシチュエーション。階級が上がるほどに権力も強まるレヒトにおいて、上位階級とは権謀術数のめぐらされる剣呑な世界にほかならなくて、しかしそれでもカイが有望視されている? 誰から? そして、なぜ?

実は、このBlogには私の定める緩い禁止事項がありまして、上記及び以前の記事は、その禁止事項に触れています。その禁止事項とはなにかといいますと、先の予想をしないというものです。ところが、前回、自分でもやりすぎたと思ったくらいにごちゃごちゃ書いてしまって、で、外してしまっているところが私の私たる所以だと思うのですが、しかしそれでも私は、ここで展開の予想をするつもりはないし、なかったんです。なのに、やってしまった。そういう方向に進んでしまいがちなのは、それだけ『Recht』に描かれ、匂わされている事々が魅力的で、近寄り、踏み込みたくさせる、そんな性質を持っているからなのだと思うのです。

1巻から2巻にかけても、カイを有望視しているのは誰なんだろう、という疑問がわいていて、だってもしレヒトの上層が腐敗しているのであれば、そこにカイの出る幕などなさそうに思える。しかしそれでも期待されているのは、もしかしたらそんな体質に染まらないというカイの性格に白羽の矢が立ったから、と考えたらそれっぽいなどと思って、ほらまた予測みたいになってしまってる。こうして、与えられた情報を組み立てたくなってしまうのが私の性だとすれば、そうした私をうずうずとさせるのが『Recht』であって、それはやっぱり面白いってことなのです。それからどうなるの!? という問の答えを待ちきれなくて、こうなるの? ああなるの? って、フライング気味、前倒しに答を求めたくなってしまう、これはやっぱりそのものに面白さがあることが大前提。もう、楽しみでしようがないんですよ。

連載ではもう少し話が進んで、シリアス色は強くなっています。正直、ここまでシリアスに踏み込まれるとは思っていなかったから、気分はやられっぱなし。けれど、そのやられたという感覚も嬉しくて、本当にこれからどうなる? 楽しみで仕方のない漫画であります。

どうでもいいこと

カバーをとると、そこには日常四コマが! いやね、1巻で触れられていたのが『逆転裁判』で、これまさに今私のプレイしているゲームであるんですが、私、夜中に一人黙々と「異議アリ!」とかいいながらゲームしていて、自分に異議を唱えたくなったこと、一度もありません……。

真宵ちゃんかわいいなあ、はみちゃんもかわいいなあ、トノサマンのテーマ、耳コピしようかなあ、などと思うばかりの私。駄目の度合いはもう手を付けられないほどであるかも知れません……。

  • 寺本薫『Recht — レヒト』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 寺本薫『Recht — レヒト』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年7月29日火曜日

御伽楼館

 コミックエール』は男の子向け少女マンガ誌。この、ちょっと思い切ったキャッチフレーズが一部で話題になった雑誌です。これの第一号が出た時に、怖いもの見たさというと失礼ですが、いったいどういう誌面であるのか、興味を持って買ってみたのですが、そうしたら思った以上によい雑誌、気に入ってしまったのでした。それがもう一年も前の話です。雑誌はその後も順調に発行され、そして、この度コミックスが出る運びとなりました。私の好きな漫画も出ました、出ます、きっと出ることでしょう。さて、出ればきっと買う、そう思っていた漫画が最初の刊行分に含まれていたので、早速購入しました。その一冊が『御伽楼館』。不思議な人形を巡る物語です。

人形店真夏の夜の夢の人形が見せる、不思議な世界の魅力。人形を借り受けたものの胸に秘められた思い — 、それはただ美しいばかりのものでなく、悔いや未練といったネガティブなものであることも多く — 、そうした思いが人形を通して取り戻されて、時にはやり直しに似た、あるいはただ自分に向きあうという体験をさせ、そのものの人生にわずかばかりの跡を残す。そうしたプロットが、感傷的に、そしてただただ美しく描かれて、素晴らしい。私ははじめてこの話に触れた時、そのよく作られた感じに感嘆して、けれど、その物語られる内容の毎回の工夫にこそ妙味はあると後に知ることとなりました。物語の中核にある人形そして人形店が、その存在感を主張しすぎることのないストーリー、上質であると思います。

描かれるのは、人形が見せる不思議で、ですが物語られるのは、あくまでも人形に関わったものたちの心のうちであるのですね。人形はきっかけ、チャンスを与えてくれる、それだけの存在なのかも知れません。だから、気付き、動き、変わり、つかんでいくのは、毎回の主人公たちであるのです。思い出される過去の記憶、うがたれる心、その描写は淡々として切なく、丁寧にラストまで紡がれて、そして最後にはきっと幸いな思いに昇華される。ちょっと綺麗すぎると思う人もいるかも知れません。でも、綺麗でなにが悪いんだろう。こうあって欲しいという願望、もしやり直せるなら、もしあの時の思いを伝えられるなら、そうした悔いが洗い流される。そうした物語は、確かに理想的に過ぎるかも知れませんが、だからこそこうした美しい夢として編まれるべきものであるのではないかと、私は思います。

誰しもが持つ悔い、思いに触れながら、それらを美しい夢に変えてしまう甘いおとぎ話、けれどそこには若干の苦さも残る、こうしたところが味だと思います。

  • 天乃咲哉『御伽楼館』第1巻 (まんがタイムKRコミックス エールシリーズ) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年7月28日月曜日

ラジオでGO!

 昔、声優やアニメが好きだった友人は、深夜ラジオを楽しみにして聴いていて、遠くの地域の放送をノイズの中から拾い、また録音したものをポータブルプレイヤーで持ち運んでは聞いていました。私も声優やアニメは嫌いでなかった、どころか好きな口だったのですが、なぜかラジオには興味がなくて、高校、大学に通っていた頃、ラジオを聴いたという記憶はほとんどありません。こんな私ですから、『ラジオでGO!』の第一話を見た時に、自分にはあわない漫画となるかも知れないと思って、それはひとえに私にラジオへの愛が欠けているから、その一点での判断でした。声優とアナウンサーふたりのパーソナリティが送るラジオ番組にきっとなじめないだろうと、勝手に思い込んでいたんですね。

けれど、ラジオの番組制作風景、舞台裏を魅力的に描いた漫画は、私のかたくなさなどなんのその、まっすぐに向かってきて、まっすぐに奪ってしまいましたね。面白かったんです。最初はちょっとずつぎこちなさをみせたパーソナリティが、数度の放送を経てだんだんになじんでいく。その、打ち解けていく様と、個性を発揮してはつらつとしたしゃべりをみせてくれるようになる、その時間がよかったのだと思います。いつにも増してスロースタートだった私を待ってくれたとでもいうべきか、できあがった世界をいきなり見せつけて、入ってらっしゃいとやるのではなく、これからだんだんにできていくから、一緒にいかがとでもいわれたような、そんな親しさと敷居の低さが嬉しかったです。だから、私は今、若い頃にラジオを聴いてこなかったことを、悔やむでもなく、残念がっています。あの頃ね、私はCD聞いてたんですよ。主にクラシックの。それは、やっぱり、人生のその時期に聞いておかないといけないものであったと思うのだけれども、けど、ラジオという後から決して取り返せない、そういう一回的なものに関わりを持たなかったのは、どう言い繕っても惜しいことをしたとしかいいようがありません。

これほどに惜しむというのは、この漫画に描かれるラジオの風景が、楽しそうで仕方がないからなんです。パーソナリティ、声優の佐渡ちとせとアナウンサーの小石川沙絵。このふたりが番組の顔ですね。そして裏方、夢見るプロデューサーの風見綾子、相沢ディレクターにミキサーの藤田、営業の二階堂凛。個性的な面々が、あれやこれやと番組を盛り上げようと工夫したり、自分の持ち味発揮してみせる、その一生懸命さ、打ち込む様がすごくいいなと感じるのです。アットホームで、けれどよりよい番組にしようっていう目標意識を共有しているから、なあなあにはならなくて。そうした姿が見えるものだから、きっとこの番組は楽しいに違いないと思えるのでしょう。ああ、自分もラジオ聞いておけば、もっとリアルに、もっと身体的、肌で感じるような実感で持って、漫画の表現に触れることができたんだろうなあって、残念に感じるのはそんな時なんです。いや、多分そうじゃない。漫画の中でリスナーが、はがきを読まれたであるとか、あるいはイベントなどで、一喜一憂している、その姿をみた時、それが一番に悔しいなあって思う瞬間ですね。

この漫画がラジオの仕事を描いて、すごくそれっぽいと思わせるのは、きっと作者がそのへんの業界にお詳しいからに違いないと思っていたら、実はそうではなく、どうやら取材のたまもののようですね。だから私は驚いてしまって、そうかあ、調べて、構成して、この感じが出ているのかあ。恐れ入りました。けれど、そうした取材と構成の力だけでなく、ラジオが好きだという、その気持ちの力も強いのだろうなと思われて、このへんは本誌を読めばきっとわかります。欄外、柱にてですね、ラジオ番組風テキストが掲載されているのです。これをマニアックと見るか、それとも愛だなあと思うかは受け取り手次第ですが、私は後者でしたね。対象に対する愛があふれている。そして、愛がうまくまわっている。私は、これはそういう漫画であると思っています。

プロ、アマチュアという言葉がありますが、アマチュアの第一義は素人ではなくなんです。この漫画の、楽しませてくれる見せ方は確かにプロのそれであるのでしょうが、楽しんでもらおうという気持ちは、なによりアマチュアのそれ、愛に駆動されるものが感じられます。第一義が愛。ラジオへの、漫画への愛が支える、そんな楽しさが確かにあると思われて、だから、私はこの漫画が大好きです。

  • なぐも。『ラジオでGO!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年7月27日日曜日

速成ペン習字

先日、ペン習字通信講座の手本に『ペン習字三体』を買ったといっていましたが、その時に一緒に買ったのが『速成ペン習字』でした。届いてみればとても薄い一冊で、中を見れば、仮名の練習、漢字の練習が数ページずつ、そして短いフレーズ、手紙などの文章に進むという、速成というにふさわしいカリキュラムです。仮名、漢字の練習編では、注意すべき点が下欄に示してあって、例えば書き順、例えばバランス、手習いを教師についてするのではなく、手本だけを頼りに学ぶ独習者には、こうした細かい気遣いが大変にありがたいです。さて、私がこの手本を眺めて、特に手紙を読んでいた時に、痛く思うところがありました。それはある種私の文字を習うモチベーションを低下させかねないもので、いったいなにかといいますと、読めないという問題です。

読めない、文字通り読めないのです。いうまでもないことですが、書かれている字は美しいし、整っています。なのに読めないというのは、文字の判別ができないためです。手紙の手本は行書にて書かれていました。大半はすらすらと読めます。ですが、まれに読めない文字が混じります。文脈から、また字をなぞってみることでわかるものもあるのですが、どうしてもわからないものが五字残り、これはまいったぞと思ったのでした。行書は習っていないものには読めない。この先、私が行書草書を書けるようになったとしても、おそらく使う場面はあるまいと思われたのでした。

読めない理由は、単純にその字に見慣れがないからです。毛筆を読む機会がないのはもちろんとして、そもそも手書きを見るという機会も、昔に比べて格段に減ってしまっているでしょう。私が学校を卒業して事務作業に従事するようになったのは2000年頃のことですが、その頃には事務文書を手書きしている人はいませんでした。フォーマルな文書において手書きはほぼ姿を消して久しいです。今の職場でも、書類を手書きしている人は見ません。

かつては手書きの独壇場であったと思われる手紙も、最近はほとんど書く機会がなくなりました。大抵が電子メールですんでしまいます。手書きの出る幕なんてまるでなくて、それこそ趣味でやっていますというような人間以外に、行書でのやり取りが可能であるとは思われない。もう、手書きという技術は、半ば失われようとしているのかも知れないとまで思いました。

思えば、最近の若い人は字が汚いなどと悪くいわれたりしますけれど、それも当たり前でしょう。字を書く機会が少ないというのもあるけれど、それ以前に、美しい手書きを見る機会がないじゃないですか。本を開けば活字でしょう。活字というのは、印刷用にデザインされた文字であって、手で書くに適した字ではありません。学校で配られるプリントも、おそらくはワープロ印字によるものでしょう。このように、子供の頃から美しい手書きに触れず育った子らが、綺麗な字を書けるというほうがおかしいのであって、そして活字によって育った彼らが、行書を読めるはずがない。行書で書かれた手紙を受け取っても、判別できない字があるために、手紙としての用がなせないのです。それこそ、私がそうであったように。そしてそれは、非常にまずいことなのではないかと思ったのです。

私が以前図書館で受付をしていた時のこと、貸し出し表に非常に美しい文字で名前を書く学生がありまして、けれど美しいだけなら他にもいます。なにが私をそこまで驚かせたかというと、草書で書かれていたのです。鉛筆書きによる草書、漢字四文字がバランスよく名前欄に収まって、それはそれは美しかった。あまりに美しいものだから声をかけたら、長く習字をやっていて、いくつも賞をとっているとのこと。なるほどなあ、その経歴が納得できる文字でした。

けれど、彼女の文字は、よほどの時間と努力を費やして成ったに違いない彼女の字は、この先、その威力を最大に発揮することはまずないのだろうなと思います。日頃には楷書、けれどおおむね印字による、そうした現実を思い浮かべれば、今という時代は効率的ではあるけれど、実は貧しいのかも知れないとそういう考えが浮かんできて、そして私がいつも非効率なものに引かれてしまうのは、非効率であるがために豊かであるという世界があると、信じたいからなのだと思います。

だから私は、微力ながらも、ペン習字に精を出したいと思います。けど、行書での文通とかできないのは寂しいなあ。楷書は、それはそれは美しい字なんだけれど、たまには行書とかでも書きたいではありませんか。でもこのことを考えるのは、まだ先のことですね。今は、書けるようになることを考えたいと思います。

2008年7月26日土曜日

逆転裁判2

 三日にあげず『逆転裁判』。そうか、慌てず少しずつなんていってたけど、もうクリアしちゃったんだねと思った方は、残念ながら外れです。いやね、風邪を引いてしまいましてね、書けそうなものがちっとも思いつかないものですから、『逆転裁判2』の進捗をお伝えして、今日の更新にしようというのです。しかしその進捗というのが食わせ物です。先日お伝えした時には第二話最初のセーブポイントまで進んでいた、それが今日はといいますと、第二話最初の法廷シーンが終わったところであるのですから、もう全然進んでいない。あきれ果てるほど進んでいないのです。

けれど、状況は変わりました。犯人と目されていた真宵の容疑を、晴らすまではいかなくとも、疑問をさしはさむ余地が生まれて、よしこれで最終日までもつれ込ませることが可能だぞと。しかし、そこまでたどり着くのが本当に難しくて、だってね、早々にゲームオーバーを経験してしまっていますから。前作『逆転裁判』に比べても、なお難しいのが今作だと思います。

このゲームの難しいのは、トリックや犯人など、事件の概要がわかっていたとしても、それをすぐには突きつけられないというところにあると思います。あくまでも、その証言における矛盾をついてやらないといけない。しかも、どの証拠物件が矛盾に関係するのかを判断して、適切に突きつけてやらないといけないのが難しくて、矛盾があることはわかってるんだけど、違った証拠を突きつけて怒られるなんていうこともあります。それが微妙に悔しくてですね、ええい、もういっぺんだもういっぺん、繰り返しプレイしようという原動力になっているように思います。

しかし、わかってしまうとスムーズに進めるこのゲーム、詰まってしまうともうどうもこうもないというくらいに詰まってしまって、異議申し立てたくとも、唱える異議がわからない。と、とりあえず異議を申し立てる。それではいかんわけで、仕方がないから、これと思う証拠品を次から次へ突きつけてみる、けどこれやると、なんだか負けた気がするんですよね。だから、どうしても考えたくなって、だから詰まったところで中断セーブして、一日その証言の穴についてぼんやり考えてみたりして、いけませんね、すっかり生活が『逆転裁判』一色になっています。

今日はコンディションが悪いので、ゲームはお休み。やっぱり、ゲームはよい体調、よい状態でプレイしてこそ楽しいのですから。なのに気持ちのどこかに『逆転裁判』が残っているらしく、寝込んでいるその時に見た夢、法廷でまごまごしているようなものもあったように思います。なんとか証拠を見付けないとと焦っている、その追いつめられ感がたまらないゲームで、私などはすっかりまいってしまっている模様です。

引用

2008年7月25日金曜日

Tree, taken with GR DIGITAL

Summer evening毎月25日はGR BLOG恒例のトラックバック企画だ、と思っていたら、今月の受付は24日までだったんですね。いやはや、しくじりました。昨日で終わってるじゃん。人間、思い込みで生活するとろくなことがないという話であります。ちなみに、7月のテーマはでした。目で捉えることができず、また動きを伴うもの、真面目に向き合えばとてつもなく難しい被写体、テーマであると思います。正直なところを申しますと、私には手に余りました。だから、今月は不参加にしようかと思ったら、それ以前に締め切りを間違えていて……。まあ、仕方がないですね、こんなことだってあります。

風、それを表現するにはいったいどうしたらいいんだろう。いろいろ考えたのです。風に吹かれ煽られる布、シーツでも干そうか? けれどそれを干して映える場所が思いつかず、じゃあ旗でも探そうかとなっても、なかなかそういったものもありませんから、やっぱり難しい題材です。しかしなんとかならないだろうか、私はしばし考えて、空をとることに決めたのでした。夏の宵の、ようやく涼しくなろうという時刻に吹く風を感じられたら、そう思って、天神様の池を撮り、そして木を撮って、それが果たして風を感じさせるものとなりえたか。自問すると、そういう風には到底思えません。やっぱり自分の撮る写真はつまらないなあ、少し落ち込むことにもなったのでした。

Tree

今月は参加できなかったけれど、来月にはちゃんと参加できるよう、気をつけたいと思います。締め切りとテーマを手帳に書くようにするのがよさそうです。

2008年7月24日木曜日

逆転裁判2

 先日、懸賞に応募してあたったといって喜んでいた『逆転裁判』のシリーズ。まずは一本目をクリアしてみて、面白さを実感したということをお伝えしました。けれど同時に、クリアには結構時間を要するということも実感して、続けざまに次作をプレイするというのはためらわれました。だって、生活が『逆転裁判』一色になってしまっては困ります。とはいいながら、楽しみに抗えないのが私という人間であります。『逆転裁判2』、プレイ開始しました。ただしルールを決めた上でのプレイです。慌てず少しずつ進めていく、具体的にはセーブポイントがきたらおしまいにするという約束をして、そして今、第二章に入ったところです。

しかし、のっけから殺人事件です。このゲームをやっていて思うのは、とにかく人が死なないと始まらないんだということで、このお約束にはちょっとへこみそうになることもあります。弁護士ものというか、探偵ものの宿命であろうかとも思うのですが、殺人事件があって、冤罪一歩手前の容疑者が発生して、そして崖っぷちの被告を弁護することで、真犯人を暴くというパターンの連続が時にはつらい。死んだ人間がいい人だったりするとなおさらですね。『逆転裁判2』の第一話がそんな感じだったから、なおさらそう思うのだと思います。だって、今一番私の印象に強い事件がそれでありますから。

殺人事件という、割とハードな題材を扱って、けれどそれで暗くなったりつらくなりすぎたりしないのは、ひとえに登場人物の明るさのためだと思います。どいつもこいつも個性的というか癖のある人物ばかりで、けれどそれが主人公サイド、メインキャラとなると憎めないいいやつばかり、気がつけばなんだか好きになっているといった塩梅です。そうした愛すべきキャラたちが、時にはギャグを交え、時にはきりりと場を引き締めながら、捜査をし、法廷で争う。その時々のメリハリや、生き生きとした様子が本当にいいのですね。楽しく、そして元気になれる。ゲームの面白さもさることながら、キャラクターの力も大きいゲームであると思います。

だからなおさらなのでしょう。主人公成歩堂の助手を務める真宵、底抜けに明るくて元気な彼女が、時に事件に巻き込まれる、その時の彼女の落差が非常に大きいものだから、事件を追うだけでつらいつらい。留置場に会いにいけば、へこんでいる、涙ぐんで見つめてくる、ああ、なんとしてでも助けると成歩堂ならずとも思うところでしょう。こうした感情を引き出すのは、制作側のうまさであると思います。キャラクターが魅力的だからこそ、なにかあった時に動揺する。その揺さぶり方が、本当にうまいと思うのです。

『逆転裁判2』では心理錠、サイコ・ロックという要素が追加されて、これはうまくできていると思いました。第一作では、とりあえず手持ちの証拠を全部突きつけて様子を見るという、考えてみれば無茶な作戦がとれたのですが、サイコ・ロックではやみくもに突きつけるとペナルティが発生します。だから、相手のいうことをよく聞いて、これというものを選別して、もし今手もとに弾がなければいったん退くことも考慮に入れた上で、うまく立ち回らないといけません。このシステム、私はまだ初級のものをクリアしただけですが、後半になると法廷シーンの突きつけるを上回る難度になったりもするんでしょうね。その時が楽しみですが、でも、これと思って間違ったものを突きつけることも結構あったから、今回はノーミスで本編クリアは難しいと思ったほうがよさそうですね。

今現在プレイしている第二話、最初の捜査パートをクリアしてみた時点で、とりあえず事件の概要は把握できていると思います。恨みを持つものと得するものの共謀と考えるのが一番しっくりくる解で、これだと成歩堂の愛する真宵も無罪放免、きっとこの線でいけるから、あとは証拠物件揃えるだけといった感じです。ですが、これはそもそもオープニングで犯人をあからさまに描くようなゲームですから、そのわかったことに安心すると足をすくわれてしまうんでしょうね。気をつけて、なんとしてもノーミスでクリアしたいものだと思います。

あ、一言触れておこう。神秘のキャラクターと思っていた綾里春美が、実は結構ポップだったのが驚きで、けれどこれでいっぺんにファンになってしまいました。こういう、思い掛けなさをぽんと提示して引き込む。本当にうまいなと感心しました。これこそキャッチーというものだと思います。

2008年7月23日水曜日

FLIP-FLAP

 WindowsとMacintoshはいったいどちらが優れているのか。私はこの手の不毛な問い掛けが大嫌いです。だって、罵りあわねばならないほどに両者に違いはないのだもの。ユーザーインターフェイスに関しても、使い慣れたほうがいいOSという程度のものに過ぎず、だからどちらかを必要以上にくさす意見に対しては、この人は見場が変われば本質にたどり着けない程度の人間なのだと、そう思うようにしています。さて、そんな私でも認めなければならないことがあります。それはWindowsのあるアドバンテージなのですが、なにかといいますと — 、付属のゲームです。なんと、Windowsには標準でピンボールがついてくるのですよ。それもしっかり遊べるレベルのピンボールが! これは本当にうらやましかったですね。私はピンボールが好きなのです。残念ながら貧乏なので、実機の経験は乏しいのですが、Macintosh用のピンボールゲーム買って、黙々と打ち込んだ日々もありました。私がコンピュータを買った頃って、ピンボールソフトが結構あったんですよね。最近ではあまり目にしなくなりましたけれど、時に無性に遊びたくなる、ピンボールにはそういう魅力があるのです。こんな私です。とよ田みのるの『FLIP-FLAP』に引きつけられたというのは自然なことでありました。

『FLIP-FLAP』は、世にも珍しいピンボールを取り上げた漫画です。その出会いは運命的。『百舌谷さん逆上する』読みたさに、というか、篠房六郎を追って購読を開始した『月刊アフタヌーン』の、買いはじめた号に連載の第一回が掲載されていたのでした。

それはそれは衝撃的でしたよ。独特の絵柄は、作者固有のセンスを前面に押し出して濃密で、うっと息が詰まるくらいの密度で描き込まれています。題材に目を向ければピンボール、あの地味で、どれくらい潜在プレイヤーがいるのかわからないピンボール。これだけでも充分驚きだったというのに、さらにすごいのが、ラブコメをやるっていうんです。高校卒業をきっかけに、ずっと思い続けていた山田さんに告白した深町君が誘われたのがピンボールでした。つきあうための条件、それはハイスコアを塗り替えるというもの。三十億点あまりのスコアを前に、ひるみながらも未知なる世界に踏み込むことを決意する深町。そして彼がピンボールを通して得たものとはなにであったのか。深町と山田のボーイ・ミーツ・ガールを描きながら、同時に深町の世界との向き合いも描いた、意欲的な漫画であったと思います。

けれど、たかがピンボールです。けれど、そのただボールをはね上げてターゲットにぶつけるだけのゲームが面白いんです。そして、この漫画はピンボールの面白さをよく表現していました。面白さは、ただ深町の変化を見ているだけでも感じられます。最初は、どことなく漫然とプレイしていた彼が、だんだんにのめり込んでいくのですね。ボールの動きに一喜一憂し、ボールのロスに叫び声をあげ、そして渾身の揺らし。ただのゲームに、食らいつかんばかりに前のめりになって打ち込む、その姿が美しい。ピンボールなんて、うまくなってもなんの得にもならないんだけど、でもそれでも一心に打ち込む姿は美しい。山田がいいます。

本気でやってる人間は それだけで人を魅きつけるんです!!

この漫画からは、深町をはじめとする、ピンボーラーたちの本気のほどが伝わってきて、しびれます。いや、ここは彼らの流儀でいいたい。震えるんです。一挙一動に、心が持っていかれてしまって、震えるんです。それはもう震えるんですよ。

この漫画が終わった時、正直戸惑いました。あんなに面白かったのに。好きだったのに、もう終わるのか。なんで!? けれど、一巻もののサイズ、一気に読みきれるくらいの長さがむしろよかったのかも知れないと今では思っています。中だるみなく、深町と山田の、あるいは深町とピンボールの物語を駆け抜けることができて、そして心は震えっぱなし。よい漫画でした。もし私がピンボールを知らなかったとしても、読めばきっと震えたろう、そう思わせる、独特の重力をもった漫画であります。

  • とよ田みのる『FLIP-FLAP』(アフタヌーンKC) 東京:講談社,2008年。

引用

  • とよ田みのる『FLIP-FLAP』(東京:講談社,2008年)112頁。

2008年7月22日火曜日

文章の話

私はもとより文章のうまいほうではないのですが、それでもこのところはひどすぎます。読み返してみて、自分自身つながりがよくわからない、飛躍しすぎたり、あるいは同じことばかり書いてみたり、ああ、もう、駄目だなあと反省するばかりです。しかしなにが悪いといっても、反省しているつもりのくせに、それが生かされていないことでしょう。だってね、もし本当に反省したっていうのなら、少しずつでもましになっていないといけません。ところが、ちっともよくなる兆しもないというんですから、反省なんて口先だけのふりなんでしょう。だから、ここにこうして文章にすることで、本当に反省することにしました。反省をかたちにして残すことで、自分へのいましめにしようと思ったのですね。

自分で自分の文章のひどさが度を過ごしていることに、自分ながらショックを受けて、なんでこんなことになったんだろうと思い返してみたところ、こんなことが思い出されました。文は人なり。以前、まだ学生の頃、読んだ本にあった言葉です。里見弴の『文章の話』に記されていたこのフレーズは、里見弴自身が誰でもが、安ッぽく口にしている言葉と註釈するくらい、当たり前の、それこそわかりきったことでありますが、しかしそれを本当にわかって実践するのは難しい、そんな風に思うのです。

里見弴は続く節「細瑾」で、細瑾すなわち細かな過ちについて触れて、こんなことをいっています。

 それから、これは、「文章の欠点」と呼ぶのも、おこがましいくらい、ただの不注意ですが、誤字、脱字、送り仮名の多すぎ・少なすぎ、敬語のもって行きどころの誤りなど、いずれも「頭脳の構造」を危ぶみたくなるものが、これまた相当の数でした。

(強調は里見弴による。原文では傍点)

私が自分の文章のひどさを目の当たりにしたとき、自分の頭脳の構造を危ぶみたくなったのです。こいつはいったいなにをどう考えているんだろう。わけのわからない文章を書くのは、私自身、わけがわからないでいるということの証明です。ちぐはぐな文章は、考えがちぐはぐであるということに他ならず、ならば独りよがりな様は私の身勝手さ、読む人のことを考えていない傲慢さのあらわれなのでしょう。まさしく文は人なりです。私は自分の文章を読んで、その文章のまずさをではなく、まずい文章を書く私自身を恥じます。

里見弴は『文章の話』で、本当にいろいろなことを書いています。ここにそれをひとつひとつ書き写すことはしませんが、中でも実際的でわかりやすく、役立ちそうなものを書き出しておこうと思います。それは、「内容と表現」という章の、「仮に「内容」と呼ぶもの」という節にあったもので、内容の充実した、すなわち「自」の現れた文章を書くために必要なものとはなにかを説いたものです。

  1. 書きたいことが、胸いっぱいたまって来るまで、筆をとらないこと
  2. 小細工をせず、思ったままを、素直に書くこと
  3. 屁理窟を並べず、感覚的に書くこと

このみっつがいい文章を書くのに都合のいい条件だといっています。私もそう思います。

けれど、私はそれができていませんでした。私は、特にこのBlogに書くにあたっては、まず素直であることを大切にしています。思ったことを、思ったとおりに書く。それも、持って回って書くのではなく、まっすぐ、わかりやすく書く。それを自分への課題にしているのです。けど、これが課題なら落第です。だって、わかりやすくないですから。そのわかりにくさは、さっきも書いていましたとおり、私の「頭脳の構造」の問題です。自分で自分の思っていることを、ちゃんと捉えられていないから、あやふやな、それこそとらえどころのない文章ができあがるのです。つまり、思ったことを、思ったとおりに書けていないといっています。ここでもやっぱり落第です。私の文章は、最初の読者である私の課題さえ満たせない、駄目な文章でした。

最後に、わかりやすさについてちょっと書いておきたいと思います。

私の受講しているPILOTのペン習字通信講座から、毎月『わかくさ通信』が届けられます。その平成20年6月号の「歳時記」に、「わかりやすさとわかりにくさ」と題する石渡佳子先生の文章が載っていました。そこに紹介されていた一節、作物つくりもの何人なんびとにもやさしく理解できてこそ、本物ほんもの作物つくりものであるは、本当にそのとおりだと思わせるものでありました。同じく「わかりやすさとわかりにくさ」には、中国の詩人杜甫が、隣家のお年寄りに自作の詩を聞いてもらい、わからないといわれるたびに、難しい言葉をやさしく改めていったという逸話も紹介されていて、それはつまりどういうことかといいますと、世の中が進んで文化も進むと、わかりにくいものが増えていってしまいがちですが、それでもわかりにくさを減らす努力を惜しんではいけないとおっしゃっているのです。新しくてわかりにくいではなくて、新しくそれでもわかりやすくないといけない。そうおっしゃることの大切さ、本当にそのとおりであると思います。

表向きわかりにくく作ってあるけれど、考えて、あ、そうか、とわかって楽しいといったものも確かにあるのですが、でも、解いて楽しめるように工夫されたわかりにくさと、工夫が足りないからわかりにくいというものは、全然違いますよね。私の文章のわかりにくさは、工夫の足りないタイプのわかりにくさでした。わかりやすくする努力を惜しんでいた、読む人をないがしろにする、そんな態度が見え見えでした。私の横柄で怠けがちな人柄がよく現れていたと思います。だから私は反省しないではおられなかったのです。

以上、こうして反省してみせて、ですがこれがかたちだけのものとなるようでしたら、その時には、この人は心底できていない人であると思ってください。ああ、この人は自分でいったことさえ守れない、惰弱な人だと思ってください。けれど私はさすがにそう思われたくはありません。そう思われないためにも、今日のこの反省を生かし結果につなげられるような、日々の努力を怠らぬものでありたいと思います。

  • 里見弴『文章の話』(岩波文庫) 東京:岩波書店,1993年。
  • 里見弴『文章の話』(日本少國民文庫) 東京:新潮社,1937年。

引用

  • 里見弴『文章の話』(東京:岩波書店,1993年),219頁。
  • 同前。
  • 同前,170頁。
  • 同前,171頁。
  • 石渡佳子「わかりやすさとわかりにくさ」,『わかくさ通信』通巻532号(2008年6月号),2008年,1頁。

2008年7月21日月曜日

ペン習字三体

万年筆を買ったのがきっかけになったのだと思います。身にそぐわない立派な道具を手にして、だったら道具に負けないよう努力すればいいじゃないかと逆転の発想。その行き着いた先というのが、日本の誇る筆記具メーカーであるPILOTが実施するペン習字通信講座であったというのは、以前にもいっていた話です。狙ったとおりに四月入会を果たした私は、毎日毎日コンスタントに練習できるわけではないけど、ちびちびちまちまと稽古して、毎月末には課題を仕上げるという、そんな手習いをしていまして、本当はもっとちゃんと毎日やったほうがいいんだろうなあって思うんですが、さすがに体がもちません。だから、できる範囲でゆっくりと少しずつうまくなろうと思っています。なにごとも焦らないのが一番です。

さて、PILOTのペン習字講座は、AからDまでの四種の系統から好みの書き振りの手本を選べるようになっているのですが、これが一度決めたら変更するんじゃないですよって、練習の効率落ちるからねって、そんな話でありますから、もうはじめる時にはどれを選んだものか、迷って迷って、ぎりぎりまで迷ったものでした。いやね、わかんないんですよ、単純に。手持ちの資料はPILOTのテキストだけ、でもそれだけじゃどうにも決め手にかけて、だってテキスト収録の入門と上級で、全然といっていいくらい書き振りもなにも違って見えるから、この系統はこういう感じということさえつかめない。でも決めないでは先に進めないから、最後には思い切ってB系統、故・鷹見芝香先生流派、高田香雪先生の流れに連なると決心しました。

決心したら後ははやいですよ。ペン字いんすとーるというペン習字に取り組んでいらっしゃる方のサイトがあるのですが、そちらに2ちゃんねるペン習字スレッドのテンプレートが置かれていまして、なんとそこにはPILOTペン習字講座の参考図書がまとめられています。PILOTでは系統を選べるかわりに、詳細なテキストは各自用意されたしというスタンスであるらしく、というか、テキストを用意しないと毎月の課題をこなせません。月替わりの課題は活字にて提示されるから、ペン字のお手本を持っていないと取っ掛かりさえない、そんなことにもなって、だから課題の載る『わかくさ通信』にも各系統ごとの推薦書が紹介されています。そして我がB系統のお手本が『ペン習字三体』であるのです。

これがどういう本であるか、タイトルが示していますね。ペン字による三体、すなわち楷書、行書、草書が収録されている、そういうお手本です。まずは常用漢字、そして人名漢字の手本が示され、これで万全とはさすがにいきませんが、普通の用には充分でしょう。巻末には旧字異体字がフォローされて、実際これだけあれば普通の手習いには困らなそうです。仮に常用範囲外の文字を書くことがあったとしても、偏や旁をそれぞれ手本から見つけ出して組み合わせるという手もありますから、なんとかなるかなというのが実感。少なくとも、今やっている講座では、これで問題が出ないように課題が作られているから、問題なく進めることができそうです。

今、私の習っているのは楷書でありますから、それぞれの文字に示された行書草書の三文字には目を向ける余裕がなく、けれど最後にはこれらも習うのでしょう。その日が楽しみです。とはいえ、いったいそれまでにどれくらいの年月が費やされるか。もしやすると割れた背からページの抜けが出たりするかもなあ。割と堅牢に作られてるとは思いますが、どうしても開ききらないでは使いにくいものでありますから、壊れること前提のものとして使ったほうがよいのだと思っています。しかしそれでも数年はもつでしょう。だったら、使って使って、壊れたら買い替えて、それくらいの気持ちで取り組んだほうがいっそいいのかも知れません。

あ、そうそう。ペン習字の進度についても書いておきます。四五六月の級位認定課題を終えた時点で8級Bに認定されています。これが早いか遅いかはわかりません。今は以前習っていた毛筆の遺産があるから楽だけど、もう少ししたらどんどん大変になっていくんだろうなあという予感がされて、だからいずれ上り坂が急勾配に入ろう頃に慌てることのないよう、基礎の今をしっかり習っておかないといけないのだと思います。うん、がんばろう。ともすれば気を抜いてしまいがちだけど、そういうことのないように気をつけたいと思います。

  • 高田香雪,大久保節子,長尾敏子,宮崎倫子『ペン習字三体』東京:日本習字普及協会,1994年。

2008年7月20日日曜日

逆転裁判 蘇る逆転

 先日、思いがけず入手がなった『逆転裁判』、鋭意攻略しているのでありますが、ええと、これ、結構時間かかりますね。第一話なんかだと、もう証拠からなにから揃った状態での審理のみ、わかりやすいつっこみどころに、異議あり!ってやればいいんですから、ああこりゃ楽勝で終わるなと思ったら、それが浅はかってやつです。次の事件からは、自分で捜査しなきゃならないし、審理も一日では終わらないしで、しかも審理も捜査も長い長い。捜査は、現場がどんどん増えるものだから、移動するだけでも大変だし、それでどの現場で誰と会って、またどんな物証を拾ってというのを、まったくなにも知らない状態でやるわけですから、ロスが多い、無駄が多い、捜査だけで疲れ果てます。けど、そうした無駄、迷いが面白いんでしょうね。ちょっと詰まった感じになったら、微妙に泣けてくるんですけど。

ですが、それでも『逆転裁判』はさすがに最近のゲームといえますか、ずいぶん親切な作りになっていてありがたいです。なんといっても、取りこぼしがある間は次のフェイズに進まないのですから。現場Aでの物証を全部揃えないかぎり、現場Bに人物が現れないであるとか、その人物に物証突きつけるなりなんなりして、必要な証言をすべて聞き出さないかぎりには、法廷の場面に移行しないであるとか、こういうところはすごく親切だと思います。もしこれがですよ、私の子供の頃に遊んでいたようなアドヴェンチャーゲームだったら、取りこぼしがあろうと証言の聞き漏らしがあろうと、容赦なく法廷に入ることになったでしょうね。そして、肝心な時に物証がなくてゲームオーバー。けれど、なにが必要で、いつどこで手に入るなどはアナウンスされない、そういうのが普通でしたから、もうトライ&エラー、何度でも何度でも繰り返しプレイして、よっぽど根気のあるやつならこんな悪条件でもクリアするんでしょうが、普通のプレイヤーなら投げ出してしまいます。けど、これが一昔前の普通でした。どう考えても異常、控えめにいっても意地悪な、そんなひっかけがあったりするのも普通だったような気がします。

その点、『逆転裁判』は本当に遊びやすくて助かります。とにかく証拠が揃わないかぎり次に進まない。法廷シーンに入ったということは、手持ちの証拠で戦えるというわけなんですから、腹くくって、矛盾でもなんでもついてやろうという気持ちにもなれるってものです。ちょっと想像してみてください。物証の揃っているかどうかわからない『逆転裁判』法廷シーン。チャレンジするにあたって、不安が残るというか、ほんまにこれで状況をひっくり返せるのかな、いらぬドキドキを味わいそうじゃないですか。まあ、そういうドキドキも楽しいといえば楽しいのかも知れませんけど、『逆転裁判』においてはちょっと違うかも知れないって思います。だってこのゲームは、確かに捜査も大切な要素でありますが、あくまでもメインは法廷シーンです。弁護士と検察の一騎打ちともいえる、そのやりとりを楽しむものであるのに、その前提が揃っているかどうかがはっきりしないでは、やっぱりちょっとね。けど『逆転裁判』は証拠が揃わないと法廷に進まない。つまり、法廷に入ったということは、機が熟したってことなんですよ。いよいよクライマックス、がんばろうって気になろうってものですよ。ええ、この腹をくくる感じがいいですね。

ええと、進捗状況申告します。今日でクリアしてしまうつもりだったんですけどね、けどもう長くて長くて、この審理が終われば決着だろうと思ったら、まだあった! おおー、あと一日残ってたっけ!? 残ってました。なので、決着は明日です。ええ、今やってるエピソードっていうのはDS版の新エピソード『蘇る逆転』です。科学捜査官目指す女子高生茜とともに謎の事件を追う。しかし、この新エピソードは一味違いますね。もともとはゲームボーイアドバンス用に出たものだからでしょう、最初の4エピソードはボタン操作だけでさくさく進めるのに、新エピソードはカガク捜査によって証拠をつかむんですね。ルミノール試薬を用いて血痕を見付ける、アルミ粉を使って指紋をとるなど、最初は面倒くさいなあ、入手した証拠もくるくる回さないといけなくってまどろっこしいし、なんて思っていたんですが、それが結構面白いんですよ。それこそ、初日の審理で血を水で洗い流した云々となったとき、血痕洗い流した程度じゃ消せないよ、だってルミノール反応が云々とこざかしいこと思ったんですよ。そうしたら、まさしくそのルミノール試薬が登場してきて、しかもばっちり隠滅された血痕も発見できて、やるー。いいじゃん、いいじゃん、って面白くなってきたんですね。それよりも、茜のあの眼鏡は、かわいさをアップさせるアイテムじゃなくて、ルミノール反応を見るためのものだったとは、恐れ入りました。などなど、かなり気に入って遊んでいます。

けど、面白さは、初期のエピソードの、シンプルに進んでいくもの、あれでも充分に負けていませんでした。むしろややこしさが少なく、ストレートさがより強く感じられた、そんな風に思っていて、だからあのエンディングにたどり着いた時、ちょっとじんとしましたね。自分は役に立たないと落ち込んだ真宵に、そんなことはないと証拠を突きつける成歩堂。そのプロセスを、他でもないプレイヤー自身ができるというのがいい。物語は、当然、当たり前のこととして、プレイヤーのものでなく、成歩堂たちのものであるのだけど、けれど彼らの物語に関われている、そういう感覚を持てるのはひとえに嬉しくて、だから、揺さぶる時も異議申し立てる時も、そして物証突きつける時も、ただボタン押すだけの手にあれほどに力がこもるのかもなあ、そんな風に思うのですね。

新エピソードに入った時、茜を見て、パートナーは真宵の方がいいなあなんて思っていたんですが、それも最初のうち、だんだん打ち解けていったというか、心に踏み込まれてしまったというか、それぞれにエキセントリックなふたりのヒロインたち、本当になんかいい感じですよ。魅力的だと思います。法廷で、肩を怒らせてこちらを見る真宵、メモを取る茜、そのへんがお気に入りですが、しかし、ここぞという時に驚きの行動を取ってくれるヒロイン、ヒロインだけじゃないか、あの個性的すぎるキャラクターたち、もう大好きです。そして、こうしたキャラクターが奮闘するものだから、こちらもうずうずとしてしまうんでしょう。ええ、うずうずとさせられっぱなし。事件を暴き、そしてともに喜びを分かち合おうと、そう思える魅力がこの人たちにはある。それは、本当に巻き込む力であるなあと思います。

2008年7月19日土曜日

パティスリーMON

  私がレディーズコミック誌『You』で楽しみにしているもの、その筆頭にくるものはなにかというと、やっぱり『パティスリーMON』なのではないかと思います。ケーキ店で働く女の子、といったら失礼ですね、女性が主人公の漫画です。かつての家庭教師と再会したことをきっかけとして働くようになった、けれどその職場で巻き起こる人間関係の嵐に翻弄されて、ヒロイン音女はいったいなにを思うというのか。というと、なんかものすごいドラマティックなものを思わされますが、けれど実際に読んでみればわかります、地に足のついた、しっかりとした感情を描いていて、だから読んでいて取り残されるということがなく、いやむしろ、引き込まれてしまう、そんな深さがあると感じています。そして、先日発売された第8巻にて、その嵐がおさまりました。その時の風景というものが、あんまりに静かで、あんまりに幸いなもので、私の胸をどんと突いたように感じられたものですから、ああ確かな感情があると、そう思わないではおられませんでした。

和解、であるんですね。ちょっとしたことが発端となって、けれどそれは、その時には、どうしようもなく大きなものと思われて、それでいったんは離れてしまうことになった。どう考えても、離れる必要なんてないはずなのに、けれどその時にはそうならないではおられなかった、そういうことだったんだと思います。そして、その後は先ほどいった通り。新たな人間が入るたびに、軋轢が、不和が顔をのぞかせて、見ていてちょっとつらかった。MONというケーキ店が舞台、そのオリジナルスタッフがですね、あんまりにお人よしで、けれど新たに入ってきた人間も、皆悪い人ばかりというわけでなく、ただ、少しずつその思惑が違ってしまっていたということだったんだと思います。そもそもが新しく入ってきたのが音女でした。以前にはいなかった音女という人物が、働きかけるでもなく影響を及ぼした、その結果がこのしばらくの間吹き荒れた人間関係の嵐であって、そして翻弄されたのがMONのスタッフたち、オーナーシェフの大門で、土屋で、レオンくんで、タロウ、ジロウの兄弟で、そして音女だったのでしょう。けれど、風が吹けば強い草がわかるといいます。この嵐の去った後に残ったのは、MONのスタッフたちの性根のよさで、その信頼であったんだと思うのです。それがわかるエピソードが一段落をみせた時、ああ、いい連中だなって思ったし、いつも人間関係とはこうだったらどんなにかいいだろうと、うらやんだ。ええ、こういうことって現実にもあるんです。気のいい仲間がいて、また少々不和があっても、きっと仲直りできる。あの時の自分を振り返って、悪かったところは悪かったと、どうかしていたところはそのとおりに、納得して、向き合って、関係を新たなものとできる。めったにないけど、それだからこそ貴重だと思うんですけど、そうしたことを思い出しましたね。

MONにおける人間関係が不遇だった時、いったいどうなるのか、どう決着がつけられるのだろう、そんなことを思いながらも、どことなく気が重く感じられたのは、それがまるで他人事でないように感じていたからだと思います。楽しく仕事していたはずなのに、できていたはずなのに、いったいなんでこんなことになったんだろう。そして、あからさまな悪意が投げ込まれた時、なんでこの気のいい人たちが、こんなことで気を揉まされなければならないんだろう、自分のことのように気持ちが揺れ動いて、というのは、やっぱり私がこの漫画に描かれた人たちを好きだからなんだと思うのです。さっぱりとして、すごく魅力的だと思います。現実の人たちじゃない、そんなことはわかってるのに、なのにすごく親しく思ってしまう。こうしたことは、この作者の漫画を読む時にはしばしばあることで、だからもうたまらなくなります。近しく感じる人たちの苦しみや迷いはダイレクトに伝わるようで、それはつまり喜びも同じということです。だから私は、あの大門と土屋の向き合って交わされた言葉、あのシーンに、胸を締めつけられるほどに感じたのだと思います。他人事ではない、自分の友人がそこにいるというような近さでもって感じたのだと思います。

  • きら『パティスリーMON』第1巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2006年。
  • きら『パティスリーMON』第2巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2007年。
  • きら『パティスリーMON』第3巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2006年。
  • きら『パティスリーMON』第4巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2007年。
  • きら『パティスリーMON』第5巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2007年。
  • きら『パティスリーMON』第6巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2007年。
  • きら『パティスリーMON』第7巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2008年。
  • きら『パティスリーMON』第8巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2008年。
  • 以下続刊

2008年7月18日金曜日

逆転裁判 蘇る逆転

 開始しました、『逆転裁判』。面白いとは聞いていました。異議あり!待った!はちょっとした流行語にもなったし、それになんだか漫画にもなってるみたいで、人気あるんだなあ、機会があったら是非遊んでみたいと思っていたんです。そうしたら、当たりました。しかも四本まとめて。わあ、なんだこの幸運。人生の残り、今この瞬間に全部振り絞った!? もしそうだとしたら、この先がやばい。けど、もし運悪く事件に巻き込まれることがあっても、成歩堂龍一のような正義の弁護士が助けてくれるから大丈夫さ。そう、法廷アドベンチャーゲームを謳う『逆転裁判』において、プレイヤーは正義の弁護士成歩堂龍一となり、数々の事件を解決に導くのであります。

けど、実際彼がやってるのは探偵、それも実際の探偵じゃなくて、推理小説の主人公としての探偵だったりして、実際の法廷の審理とは大きくかけ離れているんですね。けれど、それでも楽しいからいいじゃないか。成歩堂の背には無実の罪に問われた被告人の人生が重くかかっていて、だから負けるわけにはいかない。成歩堂は真実を明らかにすべく、足で集めた証拠を手に裁判に挑む。ああ、もうかっこいいじゃないか。それこそ、冤罪一歩手前という状況、崖っぷちを背負ったような位置から一歩一歩前進し、そして悪意に打ち勝つという快感がありますね。揚げ足を取り、突っ込む。基本その繰り返しであるのに、ドラマティックで、そして爽快感がすごい。あの大げさなつっこみ、強烈なキャラクターの魅力もありますが、このゲームの構造がもうプレイヤーを引きつけてやまない。人気が出るのもわかります。

プレイしていると、成歩堂、それお前の仕事じゃない、とか、つうかそれ不法行為なんじゃないのとか、思うところ、つっこみどころはいろいろあるのですが、けれど最大のつっこみどころは、弁護士の仕事というのは冤罪を晴らすことでなく、それが実際に犯罪を犯したものであっても、裁判においては最善の弁護をするという、そこなんじゃないのか、なんて思ったりするんです。なにしろまだすべて遊んだわけではないので、これからどうなるかはわからないのですが、けどもし以降に、犯罪は犯してしまったけれど、故意ではなかった、やむにやまれぬ事情があったんだ、など、そういうのがあったら私の心によりいっそう触れるものになるかも知れない。けど、多分ないですよね。気楽に、爽快に楽しめるゲームであるのですから、そうしたもやもやを胸に残すようなのはないんだろうなあと、けどあったらすごいな。ちょっと期待してみよう。

思った以上にハードな犯罪を扱うゲームで、その点は正直驚きました。もっとライトかなと思ってたんです。それが、まさか、いきなり、この人が殺されるの!? う、嘘だといってよ! そんな気分で開始された第二話、本当、驚きでしたね。この思い切った展開、驚いた人多かったんじゃないかなあ。実際、私も最初信じられませんでした。でも、反則ぎりぎりの捜査や証拠提出、ありとあらゆる手段でもって真実にたどり着こうとする、その強引さ、貪欲さはいいねと思って、そしてやっぱりこのゲームは夢なんだと思いました。夢、それはあやふやにして薄弱というのではなく、世の中とはこうであって欲しいという、理想だと思うんです。実際、社会においては白黒はっきりしないことっていっぱいあります。真実に迫れないなんてことはむしろ普通で、犯人も捕まらなければ、被害者も救済されたとは思えない。そんな、やりきれない現実を前にして打ちひしがれる、世の中ってやつは理不尽だなあ、そんなことばっかりです。自分に力があればいいのに、正義を体現できる人間であったらどんなにかよいだろう、そんなことを思ったことがないっていう人の方がむしろ少ないと思うんです。

しょせんゲーム、解かれることを前提に用意された謎に過ぎない。それはわかっているんです。けれど、このゲームをプレイしている間は、世の理不尽、正直者が馬鹿を見たり、悪人がのうのうとしていたりといった現実を忘れることができる。憂さ晴らしかもしれません、あまりにもささやかすぎるけど — 。けれど、こういう正義があったらば、強者のための正義ではなく、弱者のための、真実のための正義があったら、世の中とはどれほどによくなるだろう。そうした夢想を、かりそめとはいえ体現できるんです。そりゃ悲劇なんてないほうがいいに決まってる。けれど、起きた悲劇に関しては、真実が明らかになって欲しいし、あがなわれないといけない。現実では、物事が複雑に過ぎるから、それが簡単ではありません。けれどゲームなら、そのささやかな理想を夢見ることもできるんです。

真実だ、正義だなんていうのは、結局は子供っぽい、単純な理想に過ぎないんだと思います。けど、シンプルだからこそ、その理想は心のどこかにあって欲しい。そんな風にも思うんです。普通の人が、仕合わせな日常を、邪魔されず送ることができる。悪意や理不尽から守られて欲しい、そうした思いをちょっと取り戻すことができる、そんなゲームであったと思います。けど、それは成歩堂というキャラクターの力も大きいんだろうなあと思えて、迷って、汗をだらだら流して、そしてびしっと異議を唱える。おかしなことに対して、異議あり! 物申す。それは大事だなあ。そんなこと思うゲームでもありました。

2008年7月17日木曜日

ステージママの分際で!

 行き付けの病院の待合には、集英社のレディーズコミック誌『You』が置かれていて、待ち時間に読んでいます。最初は『パティスリーMON』と『Real Clothes』の続きが読みたくって、けれど読んでいるうちにだんだんと手を広げていくというのはよくある話です。ひとつ、またひとつと、好みの漫画を見付けていって、そして『ステージママの分際で!』が始まって、これ、いいじゃないかと思ったのでした。作者は星崎真紀、『ひみつな奥さん』の人でありますね。私はこの漫画も好きで、単行本も買って読んでいたものですから、新作に興味を持ったのも当然であったかと思います。

『ステージママの分際で!』は、タイトルにもあるように、ステージママ、つまり子役の母親が主人公です。それこそ生き馬の目を抜くような業界だっていいますね。自分の子供を売り込むために、あの手この手で、ライバルを出し抜いてみたり、また子供に発破をかけてみたり。テレビでたまに、子役の裏側みたいなのが紹介されていますが、そういうの見るたびに、微妙な気分になってきた私です。だってね、なんだか自己実現を、自分で果たすのではなく、子供を使ってしようとする、そういう歪んだ自己愛が感じられたりもする世界みたいじゃないですか。そこにどうにも納得がいかなくて、って、ステージママをどうこういおうって話じゃないのでした。

私のような人間でも心地よく読めるように、ちょっとした工夫がなされています。それは、主人公藤枝珠子の造形で、彼女はそうした世界に興味を持たない人間として、どちらかというと否定的な人間として描かれているのです。けれどちょっとしたことをきっかけに、思いもしなかった未知の世界に飛び込んでいくこととなってしまう。そう、不可抗力なんですよ。ぎらぎらとした欲望に突き動かされる、そんな母親じゃないんです。ただ、夫の残した借金を返すために、また思いがけず見出されてしまった息子の才能に親心くすぐられて、あれよあれよと深く踏み入ってしまうわけですよ。

これは母親にとってのファンタジーなのでしょうね。自分の子供は一番だって思っている / 思いたい、そんな親心が求めるストーリーがここにあるのだと思います。けれど、あからさまに、うちのマオくんが一番なのよっ! ってやっちゃうと、なぬーっ、不遜なやつめ、ってなっちゃうかも知れないから、ちょっと控えめな母親にして、けれど運命の歯車はもう動き出しちゃったんだよ、大きな力に、魅力的だけど危険な世界に、巻き込まれ、翻弄されてってかたちになっちゃってるんでしょう。

そして、これから踏み込む世界を知らずにいる無力な母子、そんなふたりを助ける人たちの存在です。ふたりの前では悪ぶってみせる、ちょっと危険な匂いのする男。けど、根は純情なのか? あるいは過去に拭えぬ傷があるのか? 思惑はあくまでも隠されて、けれど彼はあの親子になにか特別な思いを抱いているようで、ちょっとミステリアス。足長おじさん的ともいえる、姿を隠し、ひそかに守ってくれている、そんな存在が憎いではありませんか。かと思えば、先輩子役の大塚凛々、その母親こそは油断できない匂いをさせるけれど、凛々はどうもマオを気に入ったみたいで、あれこれと、こっそりと世話を焼いてくれる、導いてくれる。こうした魅力あるキャラクターがふたりをサポートしてくれる、なんでなんだ、けどこれが変に心をくすぐるんですよね。うまいなあと思います。

『ステージママの分際で!』、本誌ではもうちょっと先まで進んでて、だから来月に2巻が出たりするのかな? けど、まだ謎は解かれる気配もさせず、未知の世界はまだまだ深く、どうなるんだ、マオとお母さんは! 目を離せない感じであるのですね。気付けば、マオとお母さんの応援をしてしまっている私は、すっかりやられちゃってるっていう感じで、ええ、心の底から楽しんでいます。先が、マオくんの将来が、楽しみでなりません。

2008年7月16日水曜日

迷彩ハーレム

 少女漫画でも少年漫画でも、男子禁制の場所に紛れ込んだ男子であるとか、あるいはその逆、そういう設定を持ったものは本当に多くて、なんでなんでしょうね? 夢のシチュエーションとでもいうのでしょうか、性別を偽り隠れるようにして暮らすものがあるかと思えば、こちらは男子一人パターンに多いと思うのですが、圧倒的に優位な立場にある女性陣に翻弄されてしまうであるとか、けどいずれにしても夢のシチュエーションなんでしょうね。本来ならいるはずのないイレギュラーとしての異性が、思わず巻き起こしてしまう恋愛のドラマ。性別偽ってるケースなら、好きなあの娘と親友になってしまって、だからこそ自分の真実を明らかにできない! なんてのはパターンでしょうか。そして性別を偽らないケースであれば、身の回りに魅力的な異性が山ほどあって、それはさながらハーレム! というのがパターンとなるのかも知れませんね。

松山花子の『迷彩ハーレム』は、本来ならいるはずのない女性の紛れ込みものにして、そのタイトルが示すようにハーレムものであります。いや、そうか? これハーレムか?

だって、松山花子だもんなあ。一筋縄ではいきません。だいたいにしてヒロイン黒木伊吹がくせ者で、というか松山花子だったら普通のような気もしますが、お家の事情から完全寄宿制の男子高に潜り込む羽目になってしまった伊吹は、少々特異な学校に見事に適応してみせるどころか、それこそ掌握せん勢いを見せつけて、もうやりたい放題。教育の一環で軍事教練を取り入れたエリート養成校、だから男はそれなりの猛者ぞろいであるのだけれど、南の島で少々ワイルドに育った伊吹は、負けないなんてものではなく、あっさりとそれを上回ってみせる。そして、伊吹の魔の手は次々と学内のいい男に向けられて — 、けどそれが伊吹の思ったとおりにならないっていうのもまた松山花子らしいと思います。

だって、普通のラブコメを描こうだなんて思っていらっしゃらないだろうし、そもそも松山花子を読もうという私にしても、普通のラブコメなんて期待してませんから。普通のラブコメはそれはそれで楽しむけど、そうじゃない、それこそ一癖も二癖もある漫画が読みたいんだっていう人が手を出すもの、それが松山花子だと思うんですが、ええ、『迷彩ハーレム』も確かにそうで、癖があって、そのひねたところが面白い。ヒロインは欲望にまっしぐらだし、いい男たちはというと、どいつもこいつも問題ありだし。自分を直視できない男や、微妙に近寄りがたいマニア、そしてかわいいもの大好きだったりという、けれど、そうした難ありの男たちが、必要以上におとしめられることはないというのは安心で、それどころか意外にチャーミングに描かれたりするのを見ると、これこそ松山花子のよさだよなあと思わないではおられません。

そうそう、書いていて思ったんですけれど、松山花子ヒロインといえば欲望に忠実でやり過ぎるくらいに暴走してしまう、そんなのが多いですけど、これはターゲット読者であろう女性が、それだけ普段欲望をあからさまにできないっていうことを意味していたりするんでしょうか。そりゃ男だって欲望全開で生活はできないわけですが、しかしその男に比べてより以上に欲望の発露が制限されている。そう思うと、なんか女性って大変そうだなあって思います。ただ、こういってはなんですが、欲望をあらわにし、自由すぎるほどに自由であろうとする松山花子のヒロイン像は、見ていてすがすがしくて、魅力的と感じます。けど私は、間違ってもそうしたヒロインのターゲットになることはあり得ない。だから、安心して他人事で楽しめるのかも知れません。

  • 松山花子『迷彩ハーレム』(バーズコミックス ガールズコレクション) 東京:幻冬舎,2005年。

2008年7月15日火曜日

ロリコンフェニックス

   そもそもなんでこの漫画を買おうと思ったのか、それがわかりません。だいたいタイトルがタイトルで、『ロリコンフェニックス』。もう、どうしようもない。しかし、タイトルだけならまだしも、中身も結構な台無し感漂うものでありまして、変態大決戦? 半裸、サスペンダー、ゴクラクチョウの覆面で武装(?)した主人公フェニックスが、少女を狙う悪漢、BL団を相手に大立ち回りするという、まさしく正義のヒーローものである、みたいなんですが、どう見ても変態大決戦でしかないという切なさ。というか、あからさまに同類ですから……。フェニックスそしてBL団ともに彼岸にあって、わずかに立ち位置を異にしているだけといった塩梅のこの漫画。それがもう見事にばかばかしくて、しかしそのばかばかしさが面白さの肝でしょう。とはいいますが、あんまり人に勧めて、同意もらえる面白さではないかも知れません。明らかに人を選ぶ、それが『ロリコンフェニックス』です。

私には結構面白かったんですよ。世の中にはね、脳内を火花散らせて情報が駆け巡り、ぶつかり、繋がる、そんな面白さもありますけれど、またその逆の、いったいなにがなんだかわからんといったような、くだらなさこそが命みたいな面白さもあるわけで、『ロリコンフェニックス』はまさしくその後者であります。だいたいがいい加減な漫画です。敵の組織にしたって、そういう組織だっていってるだけで、バックグラウンドがこれと描かれるわけでないし、そもそも主人公が26歳ニートだっていうところからして、なんか脱力気味というか、夢がありません。けどそうした逆境に立ち向かうでもなく、むしろ開き直って、自分の好きなもの(少女ですが)に邁進し、自分の愛する世界を守ろうと日夜努力する、そんなフェニックスの生き様は、 — ごめん、どうやっても褒めにくいです。少なくとも参考にしたり真似したりするようなもんじゃあないよなあ。でも、やり方や戦い方を除外すれば、町田市の少女の平和を守ろうと奮闘するということ自体はいいことなのかも知れない。もし打ち込むものが少女云々でなければ、もっと賞讃される、名実とものヒーローになれたのかも知れない。

とかなんかいってもなあ。正直、ちっともわかりません。

やっぱりこの漫画は、どう言い繕っても同類、変態同士が低レベルな戦いを懸命に繰り広げるという、そこに楽しみがあるんです。理屈やらなんやらはどうでもいい。ターゲットになっている少女、渡部未亜にとってはどっちもどっちの迷惑さであることは間違いなく、けど、一応守っているという大義名分があるだけでも、フェニックスに分があるのか? あったとしても、ごくわずかな差に過ぎないよなあ。と、脱力しつつ、けど思い掛けない変態性の発露に笑わされてしまって、面白いんだか悔しいんだか。不思議なテイストにあふれた漫画です。

ただ、思うんだけど、この漫画を読んで楽しめるという人は、やっぱりちょっと彼岸に足を踏み入れてるんじゃないかなと、そんな気がします。

2008年7月14日月曜日

リカってば!

  2巻では塚田の妹ミツルの出番までいかなかったので、ちょっと残念かなーと思っているから、是非3巻の出ることを楽しみにしたい、だなんていっていました『リカってば!』。めでたくこの度第3巻が発売されて、しかしこれ二年分なのか。確認してみて、改めて驚いて、でも12編収録されてるわけだから、計算したら隔月ペース。『ポップ』が隔月だったから、掲載の頻度はあんまり変わっていないというのはちょっと意外でした。しかし、第3巻が出たのは素直に嬉しいです。この巻には主人公塚田の妹ミツルと姉ミカちゃんが登場して、でもってこの二人が他の登場人物、強烈な個性を持った女性陣に負けず劣らずのいいキャラしてるものだから、もう大好き。本当に待ち遠しかったのですね。

作者は後書きでこんなこといっています。

『このマンガ…弱気な男しか出てこない!』

けど実際は、個性的な女があんまりに多すぎるのが問題のような気がするんですが、実際のところどうなんでしょう。

いや、問題だなんてとんでもないことです。だって私がこの漫画が好きというのは、基本無神経だったり乱暴だったり大味だったりするくせに、いざという時には妙にかわいい大女のリカや、塚田とリカの恋愛模様、ほぼすべてを把握した上で、リカには同情しめすけれど、塚田に対しては妙に面白がっている中川志保、こうした女性陣のちょっとひどくて、あまりに自由な、その姿勢に魅力があるからだと思うんですね。だから、同様に兄に対してひどいいたずらしかけるミツルもチャーミングだし、弟に支配的というか、強権的に接するミカちゃんも素敵だしで、もう読んでいて楽しいやら嬉しいやら。特にミツルのいたずらは最高でした。兄似のボーイッシュな美少女、けど眼鏡と髪形で兄そのものになるっていうのは、高校生女子としてどうなんだろう。いや、いいのか。そもそも兄がかわいすぎるんだもんな。

出てくる男は妙に気弱というか、はっきりしない、煮え切らないところがあるんだけど、あくまでも女性視点で描かれるからでしょうかね、確かに彼らはかわいいんです。一生懸命さ、頑張りみたいなのが見えるといいますか、あるいは女性の前で強がりたい、背伸びしたいというようなところがもろばれしてるといいますか、ああ、お前ら、かわいすぎだっていう、そんな気持ちになるのは仕方がないんだと思うのですね。けど、たまには君らばりっといけ、なんて思うようなことはあって、しかもそういうことができそうな連中でもあると思うんですが、けどなんか最後にはちょっと冷静になって、しんみりといい人に、物分かりのいい人になってしまう。ああ、もどかしいっ。恋愛ものっていうのは、すべてが見える高みから、喜びや不安とともに右往左往する人たちを眺めて楽しむっていう、そんなジャンルであると思っているのですが、だとしたらこの漫画はまさしくその恋愛ものってやつですよ。そこで押せばいいのに、押せ、押せ、と思いながら読んでいるのに、結局押さずに引いてしまう塚田。ああー、もうっ。けど、そのもうっってのが面白さなんだと思うんです。

この漫画はシリアスなのかコメディなのかといったら、それはもうコメディなんだと思うのだけれども、まれに見えるシリアスな表情がいいんだと思います。またその反対に、コメディ一色というような回もある、そうしたばかばかしさ、勢いの面白さというのも無視できなくて、だから、時に軽く、時にしんみりと、思う様気ままにやってくれるのがよいのだと、そんな風に思っています。

けど、3巻以降はちょっとシリアスめにいくのかな。いずれにしても、この漫画のラストは塚田、リカのカップル成立で終わることが期待されるから、ということは今のふたつの恋は破れるわけで、そうすればやっぱりシリアスは避けられない。はたしてそうした局面が描かれるのはいつの日か、楽しみに待ちたいと思います。

  • 長谷川スズ『リカってば!』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 長谷川スズ『リカってば!』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 長谷川スズ『リカってば!』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

引用

2008年7月13日日曜日

Lの季節2 -invisible memories-

 ええと、クリアしました、『Lの季節2』。とはいっても、もちろん全部のエンドを見たわけでもなければ、全ヒロインの攻略を済ませたわけでもなくて、とりあえず幻想界のエンドを見て、それで現実界に移行、メインヒロインのエンドをいくつか見たってところです。けど、これ分岐が厳しそうですね。グッドエンドは三つほど漁ってみたんですけど、どうも最終の分岐は感情値の高低で決められるみたいで、つうことは頭からやり直さないと駄目ってことか。正直しんどいなあとは思いますが、けどいずれ私はすべてのルートを埋めるでしょう。いや、全部Completeにするかどうかまではわかりませんよ。だって、しんどすぎます。けどそれでも、前作『Lの季節』に比べれば、遥かに楽なはずなんですよね。うう、がんばるかあ。けど、テキスト100%はさすがにあきらめておこうと思います。その方が、いろんな意味で健全です。

さて、プレイして、クリアしてみて、ええと、内容に関しては文句なし。もちろん文句0ではないですよ。だって、文句が皆無なんて、そんなことあり得ない。テキストの微妙な食い違いに混乱させられることは何度もあったし、旧キャラ立ちグラフィックはせめて塗り直すなどして、新キャラとのマッチをはかって欲しかった、などなど、さらに細かいところまでつつけば、いくらでも文句は出ることでしょう。けれどそれらを許容する気持ちになれたってことです。

詳しくはここでは申しません。だって、ここで書いてしまうと、サイトの更新で困る……。まあ、あれだ。ストーリーがやっぱりよかったんだと思うんです。前作のストーリーや設定を基礎にして、積み上げられた新たなストーリー。それは、過去を丁寧に取り扱って、台無しと感じさせることがありませんでした。いや、むしろ、前作の悔いややり残しを今一度掬い上げようという思いが感じられるものであったといった方がいいかも知れません。だから、このストーリーにしびれる思いを感じるのは、新規ユーザーよりも前作ユーザーなのではないかと思うのですね。とはいえ、私はごりごりの前作ユーザーであるわけですから、正直なところ新規ユーザーの気持ちはわからない。だから、今作からのユーザーだけど、充分にしびれたぞ!という方がいらっしゃったら、どうぞその旨申し立てていただきたい。その異議申し立ては、きっと私に喜びを与えることでありましょう。

システムのこと。ニューロマンシー / SEというギミックは、もうめちゃくちゃ面白いです。これのレベルが上がることでいろいろな特典がついて、それはプレイしやすさであり、あるいは攻略しやすさで、というか、レベルが上がらないとどう考えても接続できない相手がいるから、やっぱり繰り返しプレイは必要なゲームなんですよ。けど、このレベル、上限はどれくらいなんだろう。30かな?

既読スキップをしながらプレイしていると、口出し、じゃないや、フリートークやニューロマンシー / SEポイントをスキップしてしまうんじゃないかというのはどうやら杞憂だったようで、ニューロマンシー / SEポイントではちゃんと止まってくれますし、未読選択肢のあるフリートークも止まってくれる? これはありがたいですよ。攻略しやすさに繋がります。あとは、システムデータそしてクイックセーブの存在がプレイしやすさに貢献していて、既読未読の管理はセーブデータではなくシステムデータの管轄ですから、クリアデータの引き継ぎなしでどんどん選択肢やルートの回収ができて快適、というか、このせいで頭からプレイしなおすことが減っているんですが、まあそれはそれ。頭からやりたければ自分の意思でやれよ、って話です。そしてクイックセーブ。これ、オートセーブでもあるんですが、新規ブロックの開始時及び選択肢を選んだ時に自動的にセーブされて、これが64箇所、おかげでものすごく回収プレイが楽になって、びっくりです。終了時にも、いきなり電源切るのではなくメニューからゲームの終了(タイトル画面に戻ります)を選ぶことで、前回終了時からプレイできるようになりますから、もう、ほんと、とにかく便利。通常のセーブ・ロードはまず使いません。よっぽどお気に入りのエンドとか場面を見たいとか、そういう時でないと、これは使わないでしょうね。

あと便利といえば、既読テキスト、ログの表示をしている際に、カーソルモードに移行することで、任意に音声の再生ができるかと思えば、連続読み上げさせることも可能で、しかも選んだフレーズまで戻ってやり直しができるんですよ。これはすごく便利。ああ、フリートーク入りそこねたっ! とか、あー、ニューロマンシーポイント逃したっ! なんて時でも安心。慌てず騒がず時間を戻すかのように、狙ったポイントまで遡れるのですね。おそろしいプレイアビリティです。これは本当にありがたい。

おまけ要素のこと。ギャラリーでは、そのイラストに差分が何枚あるかまで表示されるから、取り残しがどれだけあるかを把握しやすくて助かります。ってのは、ええと、ちょっとネタバレね、香野由香エンド (6)なんですが、私これ読んで涙が止まらなくなったんですが、けど、なんかおかしいなって思ってて、だってバスがいつまでたっても発車しない。なんでシナリオエンドでバスの横っ腹見続けないといかんのだろうと思ってたら、これが差分の二枚目。オーマイ、つまりはグッドエンドだったけど、ベストではなかったってことか。これは、これは感情値が足りなかったんだな。つうことは、最初っから香野由香オンリープレイをしろっていってるんだな! OKだ! あ、ごめん、ちょっと泣きそう……。

まだまだプレイします。まだ読めてない部分の方が多いんだ。というわけで、この文書は当然ながら中間報告。けれど、久しぶりにごりごりにはまっているなと感じています。脳がフルに働いている感覚がおそろしいほどの快感で、とりあえずこの感覚が続いている限りはプレイし続けることでしょう。願わくば、息切れしませんように、ですね。少しずつ、焦らず、長く、ゆっくり、進めていきたいと思います。

2008年7月12日土曜日

五訂増補食品成分表2008

 今日は、家族が出かけていてうちには私一人。こんな時にはなにをするかというと、まあゲームなんですが、それ以外にするようなことないんですが、……、……、さ、寂しくなんかないやい! 冗談はさておき、充実した一日を送れるのはまあいいとして、家族がいない、しかも泊まりで出かけているとなると、夕食の準備は自分でやらねばならないわけでありまして、ああ、もう、面倒くさいなあ。などといっても、食べないわけにもいかないわけです。だから、うどんなど茹でてみたわけです。なんでうどんかというと、それは単純に好きだから。他に理由なんてありません。

 さて、うどんを茹でると決めて、そうなるとうどんのつゆが必要になりますな。だしは、粉末のかつおだしでいいや。じゃあ後は醤油とみりんでも入れるとして、けれどいったいどれくらい入れたらいいものか。

私はこうした時には『食品成分表』を参照することにしています。私の持っているのは、2001年版の五訂ですが、まあ別に最新である必要もないので、これで充分です。しかし、なぜうどんのつゆを作るのに『食品成分表』が必要なのかといいますと、巻末の付録にですね、つゆにおけるだし、醤油、みりんの割合が表示されていたりするんですよ。これが実に便利でして、他にはすし飯の合わせ酢だとか、炊き込みご飯であるとか、以上は調味料の割合ですが、調理の基本においては、ごはん・おかゆの水加減だとか卵のうすめ加減、揚物のころもと温度などなど、知っているとちょっと便利なことがコンパクトにまとめられているんです。

こういうの見るよりも、料理のテキストを見るほうが本当はいいのかも知れませんね。けれど、ある程度作り方を知ってしまっているものに関しては、こうした要点を押さえたものの方が早いんですよ。特にうどんとかはちょくちょく食べるものですからね。だから私は主に女子栄養大学の成分表をレファレンスとして使ってきて、そしてそれで充分満足しています。まあ、これで足りなければ、本を探してもいいし、ネットで調べてもいいし、けど私にとって料理の最初のリファレンスは『食品成分表』であるんです。

ただ、今回はつゆに薄口醤油を入れたのですが(こないだ、濃口醤油を使ったら、関東風の真っ黒なつゆになったから)、そうしたら、まあもうなんつうか辛いのよ。うわ、からっ。仕方がないから、だしを増やしました。それでも辛いので、水も足しました。醤油、少なめにしたつもりなんだけどなあ。それでも辛いというんだから、やっぱり調味料入れる時は、ちょっとずつ、味見しながらでなければいけないな。反省しましたとさ。

2008年7月11日金曜日

幼稚の園

 『幼稚の園』は小坂俊史の新作で、四歳児ながら年長組に編入された微妙な幼稚園児、一条ルルが主人公。けど、年長組っていくつなのさ、ええと、六歳だそうです。うん、確かに微妙。でも、子供の一年って大きいから、実際にはかなりの早熟なんでしょうね。って、先生相手に小憎らしいこといってるルルを見ていると、それが到底六歳児相当には見えません。つうか、あんたいったいいくつなんだ。小学生だってそんなのいないだろ、ってひねぶりで、このへんはさすが小坂俊史だと嬉しくなる味わいです。思わずにやりとさせられる、けどこんな子供いやだな。心の底からそう思わされて、けどそんな子供になんのかんのいいながら付きあっているめぐみ先生。ほんと、見上げた人だと思います。というか、この人が突っ込み役か。ある意味、この人がいないと成立しないという、重要な役どころでありますか。

小坂俊史の漫画に出てくる人は、とにもかくにもろくでなしという印象を持っているのですが、さすがにこれは主人公が子供だから、おおっぴらにろくでなしという人は出てこなくて、けどどうやらルルの両親はそこそころくでなしっぽくて、やっぱり小坂俊史というとろくでなしを描く人だという印象を強めることとなりました。とはいっても、そのろくでなしというのが、本当の意味でのろくでなしで、憎々しげなる悪漢ってことはないんですね。大抵は愛すべき人たちで、なんかたがが緩んでいるというか、あるいは最初からたががはまっていないというか、豪快で豪放で、こんなの身近にいるときっと迷惑だろうなあと思うんだけど、なんか見ているとすごく楽しそうで — 。

『幼稚の園』は、さすがにそういう感じは薄くて、だから私としては物足りなかったという気持ちもないではないのです。やっぱり主役が子供ですからね。ろくでなしの幼稚園児っていったいどんななんだという気もしますし、だからといって教師をろくでなしにすればすごく難儀なことになりそうだし。印象としては、突き抜けない、はっちゃけない、そういうものにとどまって、かわりに台詞運びを中心とした皮肉やナンセンスなおかしみが押し出されている、そんな感じに仕上がっています。人によってはおとなしすぎると思うかも。けど、私にはおとなしいながらも面白かった。なんかいい感じになってきたかと思うと、微妙な台無し感で締められるという、その報われなさというかなんというかが好きだったように思います。

  • 小坂俊史『幼稚の園』(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。

2008年7月10日木曜日

ろりぽ∞

  人間っていうのは、いくらでも変わりゆくものなんだなということを実感しました。というのは、『ろりぽ∞』、最新刊である第5巻を読みまして、そうしたらこれがまあべらぼうに面白いわけです。こんなことをいうと申し訳ないけど、この漫画は私にとってはちょっと微妙な位置にある漫画でありまして、それこそ最初の頃は面白がりようがわからないでいたのでした。好きか嫌いかでいえば、好きです。けれどこうして取り上げようとなると、どうにもこうにも書けなくて、だから第4巻で設定の種明かしがされるまで、ずっと沈黙していたのですね。でも、第5巻はべらぼうに面白かった。それは、漫画が熟したということもあるのでしょうが、同様に読者である私も熟したということなのだと思います。設定が出そろい、キャラクターを把握して、漫画の動きに目が追いつくようになった。遅れずついていけるようになった。どうもそのように感じています。

『ろりぽ∞』は、メイド喫茶が星を巡って格付け決定戦、通称メイドコンペを繰り広げる、そんな架空の日本を舞台とする漫画であるのですが、当初、必殺技を駆使してのメイドコンペにどうもついていかれなかった、そういう話は以前にもしていました。けれど、思いもしない展開が私を打ちのめして、うわー、そういう仕掛けだったんか。そして、今、あの悪夢を再びもくろもうという勢力が、着々と準備を済ませて、さあ、どうなる? これが前巻までのあらすじ、というか、私の把握状況。ですが、第5巻読んでさらに驚いたのが、第4巻でのぶちかましはとりあえず置いておいての、大洋、クヌギフォーカス。そしてメイド仙人の下での特訓に明け暮れるというその破天荒ぶりでした。ええーっ! けどこれがべらぼうに面白かったというのですね。

メイド喫茶の最高峰、アンリミテッドのトップウェイトレスである元山クヌギ。同じくアンリミテッドのトップウェイターである鎌ケ谷大洋が火花を散らす! 前代未聞の同店舗メイドvs. 執事コンペ、しかしそれは敵意ましてや憎しみに発するものではなく、笑顔を失ったクヌギを守ろうという、大洋のいじらしくも懸命な愛の表明であるというのが泣かせるではありませんか。けど、コンペにいたるまでのじらしっぷり。大洋はあからさまにクヌギが好きなのにツンデレ、一方クヌギは絶望的に鈍くて、もう報われない報われない。してその関係はコンペ本番にまで持ち越され、三連大告白展開に結実するにいたっては、もう転げ回らん勢いです。というか、まさかの二回不発。普通なら通じるところが通じない。そんなわけで、どんどん直球になっていく告白、ボルテージは上がりっぱなしですがな。面白かった。笑った、笑った。そして、ちょっと泣いた。

ちょっと泣いたといえば、大洋の姉、鎌ケ谷みさきの特訓風景。徹底してのギャグ展開、シリアスよりもコメディ色が強い、そんな描写にて描かれるクライマックスは、いわばお約束、ジャンルに対するパロディとでもいうべきものであったというのに、それがむやみやたらと効きました。私、ちょっと疲れてるのかも知れませんね。災害に巻き込まれた弟を助けるべく、単身荒れた川を渡るみさき。いよいよ危機というその時、自身の得意とするターンを最大限に駆使して、苦境を乗り切ってみせる — 。

冷静な側の私は、これは笑いどころだろうというんです。どう考えても、悪乗りのギャグだろうっていうんです。けれど、情の私が泣いてしまう。そして、みさきに差し伸べられた手の確かさに、ああもう、決壊ですよ。泣いて笑って、笑って泣いて。きっと、今1巻から読み直したら、これまでの評価ががらりと変わるだろうと思われて、ええ、重ねた巻数、読んできた時間が私に働き掛けて、すっかり変化させてしまったのでしょう。だから私は、今自信を持って、『ろりぽ∞』は面白いといえます。距離の取りよう、関わりようがわからず、少し遠巻きにしていた昔が嘘みたいに感じています。

  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第1巻 (REXコミックス) 東京:一迅社,2006年。
  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第2巻 (REXコミックス) 東京:一迅社,2006年。
  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第3巻 (REXコミックス) 東京:一迅社,2007年。
  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第4巻 (REXコミックス) 東京:一迅社,2007年。
  • 仏さんじょ『ろりぽ∞』第5巻 (REXコミックス) 東京:一迅社,2008年。
  • 以下続刊

2008年7月9日水曜日

コンシェルジュ

   書店にいったら『コンシェルジュ』の新刊が出ていて、そりゃ買うに決まってますよね。『コンシェルジュ』は今年出会った漫画で、読みはじめてからそれほど時間は経っていないのですけど、そうした時間の短さを感じないほどにはまってしまって、もう大好きです。今、面白い漫画はなにかと問われれば、これが出てくることは間違いなく、そして今日発売の13巻、これがはじめての新刊購入。やっと追いついたって感じですね。

以前にも私はこの漫画を絶賛しているのですが、その際にこんなこといっていました。

キャラクターが生きている、それは絵の力でしょう。個性、性格が立ち居振る舞いから読める。キャラクターの登場時に見られるぶち抜きの立ち絵は、そのキャラクターの魅力を前面に押し出したピンナップ的サービスでありながら、その実、彼彼女はこういう人なのですよ、そして今この人はこんな気持ちでいるんですと告げる紹介であるのです。

第13巻収録の「冷たい肖像」、それがまさにそうした話で驚いてしまいました。人間の内面はしぐさに表れる。ならば、しぐさを見ればその人となりは知れる。これを説明する漫画家有明光成は、複数の人物のしぐさを例にあげて、その内心を分析してみせて、けどこれって漫画家藤栄道彦の種明かしのような気もして、ちょっと面白かったです。俺達漫画家はそういうことも当然考えて描いてるんだぞっていう自負みたいなものが感じられて、けどそれは充分に自負していいと思います。だって、その試みにおいて、この漫画は成功していますから。私は、涼子さんの弟達也をはじめて見付けた時の谷さんと国広さんが大好きで、あのうきうきとして歩いてくる様子、ものすごく魅力的じゃないですか。そういうのがこの漫画には本当に多くって、エピソード中でメインを張ったことのないようなキャラクターでも、それこそほとんど台詞が与えられないようなキャラクターでも、すごく身近と感じられるのは、こうした絵の端々に語られる人柄のためでしょう。フロントの芳野さん、バンケットの石和さん、皆それぞれに魅力的で、そして芳野さんはついにおまけ四コマの扉ゴマに登場。やったぁ。って、そういえば連載の始まったころは度々やったぁといってた涼子さんですが、最近減りましたね。成長して、落ち着かれたか。いや、それもまたよしです。

私がこの漫画に魅かれるのは、キャラクターの魅力というものもありますが、それ以上にストーリーが大きいと感じています。いや、ちょっと違うな。この漫画に関しては、キャラクターだけ、ストーリーだけという切り分けはしにくいと思います。キャラクターが、ストーリーが、有機的にかかわり合いながら動いていると、そんな風に思わされるのですよ。キャラクターに魅力があるのは、それが単体ではないから。ストーリーが、舞台が、そして他のキャラクターとの関わりが、彼彼女をよりチャーミングに変えているのだと思います。そしてそうしたキャラクターの存在が、ストーリーに躍動感や説得力を与えるのだと、そんな風に思うのですね。

エピソード中で語られる出来事が、登場人物に働き掛けている、そういう実感が得られるのは、読んでいて実に心地いいものです。「機械の可能性」における金城、「最高の風景」における小姫さん、素晴らしかった。直接に語りかけられたわけでもないのに、そこに語られている意味を自ら見出し、自身の可能性を開く金城。後者においては、自ら変わる可能性を閉じようとした小姫に対し、及川サブチーフのかけた言葉が素晴らしい。言葉少なに、私はあなたを信頼していると、だから越えてみせなさいと告げる、そんな言葉に、ああ、この人もいいキャラクターだ。ああいう上司のもとで働ける人は仕合わせだ、そう思わないではいられない。そして、小姫さんは見事越えてみせるのですね。

越える — 、ただ一人で変わるのではない。この漫画に出てくる皆がそう。出会った人、顧客、同僚、上司、協力者、多くの人の影響があって、そして変わる。それは、影響を受け入れる素地がある、変わる準備ができている、そして誰よりも自身が変化を望んでいるから。その伸びようという意思、自分の無力に落胆し、打ちひしがれようとも、歩もうとする意思、そういう心意気がひしひしと伝わってくるから、納得もするし、共感もする。感動もすれば、近しくも感じるというのでしょう。そして、私も変に影響されて、がんばろうって思えてくる。うん、立ち止まってなんかいられないもんな。

あ、そうそう。四コマ読んで、あの涼子さんの姉っぷりのリアルさ、すごいですよ。私の姉もあんなでした。当座使わなくなったものを、やるっていって私に押し付けるのですが、わかってるんですよね、私がそうしたものを捨てずにとっとくってこと。で、また必要になったら、返してっていって引き出していくんです。

他にも涼子さんの行動には、姉の弟に対する理不尽があふれていて、実に素敵です。作者には姉がいらっしゃるのかしら? いずれにせよ、達也登場後の涼子さんの株はうなぎ登りです。というか、バイト先なんていくらでもあるのに、あえて姉のいるホテルで働こうという達也君、君は本当にお姉ちゃん大好きだな。いやいや、そんなに否定しなくていい、本心はお見通しだから — 。実際の話、彼のお姉ちゃん愛には感服しますね。私には真似のできない領域です。

  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第1巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2004年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第2巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2004年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第3巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2005年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第4巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2005年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第5巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2006年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第6巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2006年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第7巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2006年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第8巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第9巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第10巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第11巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2007年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第12巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2008年。
  • いしぜきひでゆき,藤栄道彦『コンシェルジュ』第13巻 (BUNCH COMICS) 東京:新潮社,2008年。
  • 以下続刊

引用

2008年7月8日火曜日

あなたが主役になった時

  松山花子の四コマは、辛辣といえば辛辣だけど、読めば、ああ確かにそうかも知れないと思わされるとこも多分にあって、だからこれは辛辣というよりはむしろ真っ当なのだと思っています。ただ、身も蓋もないということにかけては折り紙付き。通常ならば、建前だとか世間体だとか、あるいは普通はそうだからという思考停止によって、言及されることのない暗黙の諒解ごとが、ぺろんとあからさまにされて、それが妙に快感なのです。基本的にはストーリーを持たない一ネタ完結スタイルの漫画だから、何巻から読んでもいいし、どのページから読んでもいいという、そういう気楽な付き合い方ができるのは御の字で、けれどまとめてがっつり読めば、準レギュラーとでもいうべき人たちもいるとわかります。いわばシリーズとなっている彼ら彼女らの主張、歪んだ認知、偏った認識、性癖がもう楽しくって仕方がなくて、そして時に突き刺さる正論。松山花子、好きだわあ、ひしひしと思います。

この漫画における正論ってやつは、なにもそれがいつも正しいわけでなく、正論ではあるけれど、そうであるがゆえに駄目ってケースも散見されて、こういうところがうまいなと思うんですね。結局の話、常識や普通というものは、その文化においてそうと取り決められているに過ぎなくて、だから突っ込んで考えれば、あるいはちょっと外の世界を見渡せば、その正しさとやらが危うくなってしまう。その、前提が転倒してしまうような感覚、それが楽しいのですね。正しいなんて、大抵はその人の思い込みなんです。そして私もそうした思い込みの強い人間ですから、松山花子の漫画を読んで、思い込みを補強してくれるようなネタがあれば素直に喜び、思い込みを崩してくれるネタがあれば、そうか、確かにそうだよなあと、その思い掛けなさに喜ぶ。どちらにしても喜ぶんだから、いっそ外れがないといえますね。

松山花子の作風は、よくいえばあまりぶれがなく、悪くいえばパターンが決まっているから、好きな人はどれをとっても面白く読めるだろうし、そうでない人はひとつ読めばもう充分、そんな感じであるかも知れません。そして私は好きの部類であるから、この人の漫画は四コマの系列からコマ割り、BLの系列までちょこちょこと手を出しては楽しんでいるのですが、やっぱりそのどれもがにやりとさせられること必至で、面白いんですね。もちろんパターンがあるといっても、どれもが同じわけでなく、ジャンルジャンルに面白さは違っていて、けれどやっぱりベースになるテイストもあるわけで、『あなたが主役になった時』なんかはどうかというと、シニカルなネタにおける松山花子のエッセンスが詰まった漫画であると思います。

フェミニズムから男尊女卑まで、等しくなで切りにして見せたかと思うと、ホモネタがやたら出てきたり、女の(歪んだ)本音が語られたり、かと思ったら男の行動、言動が揶揄されたりする漫画です。もちろんそれらがすべて、作者のいう正しさや理想だったりするわけじゃないですよ。作者はシニカルやナンセンスを武器にして、自分の内部であろうと外部であろうと、切るときゃ切るし、おちょくる時にはおちょくってみせるんです。正義でもって切るんじゃない、そもそもその正義ってなんなのよっていって切るんです。こうした姿勢にある種の平等さが見えるものだから、正論っぽいぶった切りがあっても、歪んだ欲望の歪んだ現れがあっても、自分を棚上げしての勝手な言い分とは感じない。外部に対して厳しく踏み込んだ分くらいは、自分の内側に向けてもやっちゃってますからね。私には、作者の態度は潔さと感じられて、好感が持てます。そしてこの性質があるゆえにべたつかない。変に後を引かないし、すっきりと面白がらせるだけ面白がらせてくれる、そういう取っつきやすさが生まれることにもなるんだろうなって思っています。

2008年7月7日月曜日

L16

 私は控えめな女性が好きです。ゆえに、控えめ女性がヒロインである『L16』はかなりの威力をもって私に迫ってきて、性格が控えめな姉、春香さんに、体型が控えめな妹、奈々香ちゃん。ああ、もう、綺麗だったりかわいかったり、美人だったりキュートだったり、素敵だったり可憐だったりして、もうどうしようもないな。って、どうしようもないのは他でもなく私自身であるんですが、でも見てるだけで仕合わせなんだから仕方ないじゃないか。って、正当化にならない正当化をしたところで、簡単に説明をば。『L16』はレディー・シックスティーンの略でありまして、すなわちヒロインは元気さが魅力の妹さん、奈々香であります。12歳離れた綺麗なお姉さんに憧れて、目標にしている。その頑張りと背伸びと空回りがまたかわいいという漫画であるのですね。

妹はお姉さんが大好きで、姉も妹が大好き。そんな姉妹のラブラブ生活が第一の魅力として押し出されている漫画ですが、けれど美人姉妹のラブラブぶりだけですむなんてことはありませんで、なにしろ作者は『すいーとるーむ?』を描いている東屋めめです。色気感じさせる絵柄でもって、妙にシビアなネタを展開したりする、そういうのが持ち味でいらっしゃるようで、そして『L16』にしても同様のテイストは含まれているから、油断できないというんですね。

『L16』におけるシビアさは、例えばフリーペーパー編集者である姉春香の職場の状況なんかがそうで、使えるものなら社員はもちろん社員の身内までばりばり使う。予算がない、人出もないという状況を乗り越えるのは、熱意とそしてハードワークだ。妹奈々香もそうした現場で揉まれながら、素敵なレディを目指すのですが、女子高生の初々しい職場体験もののテイストの向こうに、剣呑な大人の職場の空気がちらほらとする、そのギャップやらなんやらがおかしくてたまりません。

シビアなおかしさといえば、奈々香の担任みゆきなんかがまさしくそうした要素を凝縮するようなキャラクターになっていて、姉春香が清純派なら、ええと、みゆき先生はなんなんだ? 悪女? お色気係? 豪快にして傍若無人、女であることを最大限に活用し、男を振り回すような身も蓋もない女性であるのですが、奈々香にとっては反面教師に、そして男性読者にとっては夢を壊してシビアな現実にたたき落とすような酷い人になっていて、けどその酷さが面白いのですね。この漫画では、奈々香と春香がどうしたっていい人過ぎ、清純純朴すぎと感じられてしまうから、その反動としてみゆき先生の活躍が重要になってくるといった風があるんです。いわば、汚れ役を引き受けてくれるみゆき先生のおかげでバランスがとれて、きれい事すぎない、理想的すぎない、そんな表現になっている。そして、その上でみゆき先生が奈々香、春香に関係することで、彼女らの日常を表現するにあたっての幅の広さ、キャラクターの多面的な魅力も引き出されるのですね。

奈々香の魅力を引き出すにあたっては、友人のユキちゃんなんかもいい味出していて、小さくて、お人形さんみたいにかわいくて、ゴスロリ衣装も似合う、そんな女の子が微妙に腹黒さ、あるいは自分大好き感を出していて、いい対照になっていました。けど、みゆき先生にしてもユキちゃんにしても、自分に素直で、見事に自由で、そしてそういう風合いがすごく魅力的であるんですよね。私は控えめな女性が好きだから、みゆき先生に関しては女王様なところくらいにしか魅かれないのですが、ユキちゃんは見事にその微妙なきつさも含めて好みであります。実際、こういう自由で闊達な女性を魅力的に描くことにかけては、東屋めめという人はうまいなと思います。

うまいといえば、押しの弱く煮え切らない男を描かせても絶品ですね。ええ、この漫画にも健在ですが、けど男についてはどうでもいいので、『L16』に関しては以上です。

  • 東屋めめ『L16』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年7月6日日曜日

兄妹はじめました!

  2008年6月は『1年777組』が完結し、また『兄妹はじめました!』新刊の発売された月でもありました。ひとつの漫画が終わり、そしてまだ続くものがある。そうした状態は健全な新陳代謝を思わせて、悪くないと思います。『1年777組』が円満な終わりを見せたから、なおさらそう思うのかも知れませんね。さて、『兄妹はじめました!』です。血の繋がらない兄妹の恋模様だかなんなのか、幼なじみでもある二人、兄は妹に妹ではなく幼なじみの顔を見て、そして妹はというと — 、これがとんとわからない。妹葵は、兄茜をどう思っているのか。幼なじみかあるいは兄か。その気持ちのわからないというところが、とにもかくにもこの漫画の面白さのベースになっているように思います。

しかし、これが策略だとすれば、この妹も意地が悪い。きっと兄が自分を、妹としてではなく好いていることは知ってるんだ。けど、それでも妹の位置を確保して、その好意を真っ向からは受け入れず、けれどその好意のあるということをうまく使って、兄をコントロールしてる。でも、その意地の悪さを人の悪さとは感じさせないというところがうまいんですね。ちょっといけずというか、いたずらっぽいというか、それはさながら猫の目のようで、くるくると変わって見せて、それはそれはチャーミングです。一途で不器用な兄、そんな男心をもてあそぶかのような葵の振舞い、それを小悪魔的と見るか、悪女と見るか。けれど、ああした魅力的な女性には、男を振り回しても許されるものがあると思うんですね。などといってしまう私は、結局は葵が好みと白状しているに同じです。

さて、この漫画には茜、葵の兄妹の他にも、緑葉、萌葱の兄妹もあって、そして第2巻からの参加である真黒、真白の兄妹もまた個性的で魅力的。愁一樹においては、キャラクターのかわいさが漫画の魅力を支える大きな要素であると感じているのですが、それは『兄妹はじめました!』でも同様で、葵に対して好きだという気持ちを隠さず迫る萌葱の天真爛漫さもかわいければ、好きなのかどうなのか、よくわからないながらもつんつんとからんでいく真白もまたなんだかかわいさが感じられて、ツンデレなんですか? 好意がないわけではないけれど、素直にそれを表さない不器用さがいいよなあと思えてしまって、そうしたかわいい娘さんたちに取り巻かれている茜さんは、本当に果報者でありますよ。けど、茜にとっては葵が唯一の思い人で、たとえ他の誰が言い寄ったとしても、ぶれることがないんだろうなあ。その一途さは『777組』のねことくんにも通ずるものがあって、そしてそうした性質は、読者である私にしても好感を得るところでありますね。

『兄妹はじめました!』は『1年777組』同様、かわいく個性的なキャラクターがどたばたとして楽しい漫画でありながら、恋に揺れる男心が描かれる、そんな漫画であると思います。けれど『兄妹』は『777組』に比べても一層、恋に揺れる心の景色、切なかったりどぎまぎさせられたり、そうした色が強めです。そして私は、そうした描写、要素にひかれて、振り回されつつも、実は、本当は、という可能性に心を揺らしているのです。

2008年7月5日土曜日

Lの季節2 -invisible memories-

 逆転裁判当たったよ、それで家中ワイワイ大騒ぎ。いや、騒いでるの私だけなんですけど、けどこれは本当に嬉しいなあ。『逆転裁判』、やってみたかったんですよね。一時期、ものすごくはやったでしょう、異議あり! って。このBlogでも一度やったことがあるんですが、実はプレイしたことないんですよ。というわけで、今日は『逆転裁判』

異議あり!

記事タイトルが違っているっ!

あー、本当だ。違ってますね。って、なにいけしゃあしゃあとしてるんだか。そうなんですよ。『逆転裁判』もらっちゃって、それはそれは嬉しかったんですが、先にやるべきゲームがあったんです。それは『Lの季節2』。そう、やるかやらないかだけが問題といっていたゲームです。そして私の選んだ答えはやるであったというのですね。

といっても、シナリオの進捗は微々たるもので、7月3日発売で、4日到着で、だから人によってはメインルートを攻略し終わっているようなタイミングでの開始です。そんなわけで私は完全な情報封鎖をやっていて、検索もしない、ファンコミュニティみたいのには寄りつかない、さらには説明書さえ読まないという、徹底に徹底を重ねてのプレイ。それは、やはりなにも知らない状態からプレイしたいからです。得られる情報は、すべて新しいものであって欲しい。だから理想は、天羽さんや星原さんなど、前作からの引き継ぎキャラが誰であるかも知らずにプレイ、であったのかも知れませんが、まあそれはさすがに無理。けど、ゆかなさんのインタビューでネタバレくらうとは予想外でした。

けど、いいんだ。見ちゃった事実と、そのさりげない一言で気付いてしまった展開の可能性、それはもう消えません。だったら、どしどし進めて、自力でその時点までたどり着きゃいいだけじゃないかあー。ごめんなさい。ちょっとやけになってます。いやね、もしなにも知らない状況でその展開に踏み込んだら、きっと鼻血もんだったろうなあと思うものですから。それくらいに衝撃的なネタバレでした。

プレイしてみての感想。ああ、やっぱり『Lの季節』だなとは思うけれど、前作に比べると相当にこなれて、地の文を読ませるという部分が減っています。前作は、かなりテキスト量が多かったものなあ。さすが東京書籍といわれたりもしたんですが、けどこなれたとはいっても前作の雰囲気は色濃く残していて安心です。

秋の日はつるべ落とし。

まだ初回プレイの未クリア状態なので、この先どういう展開があるか、それはわかりません。前作の通りなら、どんな選択をしていても強制的にメインヒロインのどちらかのルートになだれ込むはずで、そしてそれはおそらく予想どおりでしょう。なんでかといわれると困りますが、2Dチャート見ればわかるんです。前作の経験のある人ならいってる意味がわかると思う。だから、初回プレイはゆったりと好きな選択肢思ったように選びながら、そして最後にドバッとチャートが増殖するのを期待していればいいんです。

操作性は問題なし。今回はオートも付いたので、眺めているばかりプレイも可能です。そして嬉しいことに、男性でも主要キャラには声が付いているから、前作の天羽 vs. 川鍋のようなことはなさそうです。いやね、天羽さんと川鍋先輩がやりあうシーン、結構たくさんあったんですが、声は天羽さんにしか付かないから、どうしてももったいない。目で見りゃ言い合いなんだけど、耳で聞いていると天羽さん独り芝居でしかないんですよ。けど、今作は大丈夫。安心。というか、よかった。

オートモードでのんびりと眺める — 。けど、それはちょっと無理そうです。というのは、メッセージの送りアイコンが碧、おっと、緑になった時に三角ボタンを押すとフリートークモードに入れるのですが、ぼーっとしてたら送られてしまいます。かといって、丸ボタンで手動送りしていても、送りアイコンが出た瞬間にボタン押すように身体が最適化されてますから、ああー、おい、送っちゃったよ! ってことにもなりかねなくて、というか頻発して、クイックロード大活躍。ああこりゃ口出しシステムの再来だわ。前作の口出しシステム、これ結構好きだったんですが、スキップすると口出しまでばんばんスキップされてしまう。まさしくその再来といえるでしょう。けど、フリートークは口出しほど重要じゃなさそうだから、これでもまあいいじゃないか。

異議あり!

読めるテキストは可能なかぎり読みたいじゃないですか。一度読んだら充分という意見もあるだろうけど、そういう問題じゃないんだ。そのプレイ時に、九門 / 河瀬がどれだけ彼彼女らと関わりえたか、その関わりを見たいんだから、既読でもフリートークしたいんだ! って、なにその病的理論。まあいいんです。私のうちに、そういう欲望があるっていうのは間違いないんだから、病的だろうとかまいません。

期待の接続モードは、思ったよりも面白かったです。設問にYes / Noで答えていくのですが、けどこれが失敗するケースも今後は想定する必要があるんでしょうね、全ルート制覇したければ。けど、まあ、今は楽勝でクリアできていて、まあそんなにシビアじゃないものね。なので、今後、もっとシビアになることを期待したいと思います。

全体に遊びやすさが増して、そして楽しませるギミック、会話することでプロフィールデータが増えていくなども楽しくて、いやもういいゲームだなあ。そんな感じ。がっかりするようなところはありませんでした。さて、以後は前作プレイヤーとしての感想。まあ、たいしたことはいいませんが、未プレイの人にはネタバレ食らわす可能性があるから、注意してください。

あの通学路、あの校舎、あの教室、そして屋上。ああ、もう懐かしいなあ。見ただけで一年前のあの事件を思い出してしまうよ、っていうのは前作プレイヤーの特権であります。そして、一年前の事件に関わる人の名前、出来事が会話やテキストの端々にちらほらと現れては消えて、ああ、もう素敵すぎ。私は『Lの季節』とは星原百合を巡る物語であったと思っています。だから、まだ『Lの季節2』に踏み込んだばかりに過ぎない今、現れる情報はすべて星原百合を補足するものとしてプールされていって、本作主人公の立場はどういうものになるのか、もやもやと沸き起こるものがあり、また新たな情報が思いつきを否定して、ああこの情報が繋がっていく感覚、これこそが快楽であるなと思い知りました。

私にとって『Lの季節』の快楽とは、物語のあちこちにちりばめられた情報を集積し、繋げていくということにほかならなかったのだと思います。事件をめぐり明らかになること、ヒロインの過去、そうしたところにあの人の軌跡が見える。情報の断片が集まることで、明らかになるものがある。その知るという快感がすごく濃密、濃厚であったのでした。

だから、その快感を思い出した今、私が『Lの季節2』を投げ出すことはないだろうと思います。そして、私も……ゲームをクリアしたら……『Missing Blue』のリプレイを……。

昨日もいっていましたように、私は変に時間が足りない生活をしているから、このクリアがいつになることか、それはわかりません。けど、100時間かかろうと200時間かかろうと、必ずクリアして、今度こそ『Missing Blue』に取り組みたいと思います。きっと、きっと。時を越えた約束、です。

引用

2008年7月4日金曜日

Lの季節2 -invisible memories- 初回限定版

 Lの季節2 -invisible memories-』が届きましたよ。注文は先月13日と決して早い時期ではなかったから、もしかしたら届かないんではないかと怖れたのですが、よかった、ちゃんと届きました。入手を心配することからもおわかりかと思われますが、購入したのは初回限定版です。先達て、『Lの季節2』のサントラが届いた日にも書きましたけど、初回限定版は値段がちょっと高め、けど前作のガイドブックとサウンドトラックが付いてきます。そして私にはこのサウンドトラックが重要でした。というのもですね、本当の意味でのゲームオリジナルサウンドトラックは、この特典がはじめてのものであるからです。

 これも以前いっていましたね。『Lの季節』のサントラは、主要キャラクターのテーマがアレンジされてしまっていて、オリジナルではなかったって。もちろんアレンジされて魅力の増している部分もあるんです。けどオリジナルの音源をって思う気持ちもあるわけで、これが今ならディスク二枚組とかで、オリジナル版とアレンジ版を収録、って風にやったりするんでしょうか。けど、あの当時は少なくともそんな時代ではなかった。気を利かせてアレンジ版を収録して、それがちょっと不評だったっていうのは、なんだか残念なことではありますね。うん、こうしてオリジナルを久しぶりに耳にしてみて、うん、長く聞くのならアレンジ版の方がいいのかもって思います。

今やPS2が旧型機というような時代、ゲームに使えるリソースはPlayStation時代とは桁外れといってもいいくらいに増大して、画像の質の向上やBGMの質の向上は目覚ましいものがあります。それはこうしてPlayStation時代のゲームのBGMを聴いてもわかります。ちゃちとはいいません。けど、できることはおのずと限られます。音色の選択もそうですし、それになんだかちょっともっさりとして、ゲームのBGMだったらそれほど気にならなかったのかも知れませんが、こうして音楽を単体で聴くと、サントラにアレンジ版を収録しようと思った気持ちもわからないでもないです。

 — けど、私の愛した『Lの季節』の音楽とは、紛れもなくこれだったんです。もっさりしてるかも知れないし、表現においても限界が感じられるかも知れない。少ないリソースの中、がんばって作ったんだろうなあと思える響きが耳に懐かしく、そしてこの懐かしさが胸の奥にこだまして、もうたまらないですね。あの夏の景色さえも思い出せそうです。一日の大半『Lの季節』やってて、そうしたらプレイ時間の半分くらい天羽さんがわあわあいってるから、家族にはちょっと不評だったかも。川鍋を問い詰め、上岡に迫り、そして星原とともに危機に対峙する天羽さん。凛々しかった。いい娘だよー。って、実は天羽さんは『Missing Blue』にも出てたんですが、残念ながら私はこのゲームほとんどプレイしてないからわかんない。今からでもプレイできるかなあ。多分無理だろうなあ。結局、ゲームする時間を持てなくなったのが一番に大きかったんです。こうしたノベル系ゲームって、まとめてガツンとやらないと、どうしてもだれちゃいますから。

 私が『Missing Blue』を中断したのは、ずいぶんとおたく向けシフトがなされてしまったという、そのためだったと思っています。実は私は『Lの季節』においては現実派でありまして、私たちの日常からそれほどかけ離れていない、そんな世界において語られる怪異、そうしたところに魅力を感じていたものですから、どちらかというと幻想よりでスタートする『Missing Blue』はつらかったんです。いや違うな。私は幻想界も嫌いでなかった。じゃあいったいなにが問題だったのかというと、丹雫瑠羽奈がですね、ねえ、キスしてよ、キスしてよー、ってねだるシーンが序盤に出てくるんですが、それがですね、どうにもこうにもなく耐えられなくってですね、多分あの攻撃を耐え、事件に遭遇するまで読み進めていたら違ったんでしょうが、うん、きつかったんだろうなあ。それに、時間がなかったんだ。2001年でしょう? 仕事してたもんなあ。『Lの季節』の頃はまだ学生で、しかも大学って夏休みべらぼうに長いでしょう。朝バイトにいって、帰って『Lの季節』プレイして、夜バイトにいってという — 、いや、んなことねえよ。もう卒業してたわ。けど、私はそんとき浪人中で、時間有り余ってた。週に三日大学図書館でバイト、朝と夕は駅でバイト、つうことは、よけいに時間余ってたわけか。駄目な生活してたんだなあ。いや、今もあんまり変わってないような気がするんだけどさ……。

『Missing Blue』が発売された年、2001年には週五日働いていました。そう、2000年9月から労働時間が増えたんですね。図書館バイトと研究助手やってて、いやあ、それがなんのキャリアにもなってないのが悲しいところですが、けどやっぱり週五日働くとゲームに没頭するとか難しくなるんです。ゲームがメインの趣味だったら違ったのかも知れませんね。けど、なかなかそういうわけにはいかなくて、結局『Missing Blue』は全然遊べてません。ショッピングモールから謎の迷宮じみた空間に入ったところ、これ本当に序盤も序盤、始まってすぐですよ、そこらへんで止まってます。結局、コンシューマ機でプレイするノベル系ゲームって、暇のあった頃しかできてない。つうか、『Lの季節』だけ? 働きだしてからは、クリアしたゲームの方が少なくなって、100%達成どころか、中座したものの方が多いくらいに思います。

 脱線しながら、いったいなにをいいたいのかというと、ゲームできなくて悔しいっていってるんです。安くもないゲームを買って、まともにプレイできてないなんて最低です。特に『Missing Blue』は期待してたんだから。キャラCDとか、ちゃんと買ってたんだから。なのに中座した。悔しい。しかも、『Lの季節』、『Missing Blue』。こうした連なりがあるから、『Lの季節2』は『N』ではないなんていう断わりを入れるんでしょう?

これは本当に悔しいことで、そして今になって思い出しては悔やむことで、けれどこうした悔いやなにかを『Lの季節2』をクリアすることではたせればどんなにかよいことだろう。なんていって、これもまた中座するとかなったら、もう駄目ですね。うん、駄目ですね。けど、現状においてすでに睡眠時間三時間。もうどうしたらいいかわからないっていうのが現実で、ああ、現実か。そうさなあ。『Lの季節2』を華麗にクリアして、それから『Missing Blue』に突入すればいいのかもね。それもまたひとつの冴えたやり方であるのかも知れません。じゃああとは、やるかやらないかだけが問題ですね。

あ、そうそう。限定版に付いてくる『Lの季節』サントラ、開発途中Ver. はかなりいいですよ。オーソドックスなアレンジで、表現にも余裕があって、これはいいです。気に入りました。あとは、本編プレイするだけだ!

2008年7月3日木曜日

Itiad

 Littlewitchのゲームは雰囲気が素晴らしいなんていわれることも多いようですが、確かに、大槍葦人の絵を軸にして作り上げられる世界観、その確かさは特筆すべきものがあると思っています。キャラクターがあり、背景があり、ベースとなる設定があって、そしてパッケージにいたるまで、実に徹底されています。私がLittlewitchを知ったのは『Quartett!』がきっかけだったのですが、これ、ゲーム自体はいうに及ばず、パッケージからインターフェイスから、すごくよくできていましてね、うわあ、なんだかすごいな、ちょっとしたカルチャーショックでした。PCゲームってだいたいが粗削りなものだと思っていたんです。ところが、その印象は見事に払拭されて、多少は抗ったんだけど、結局『リトルウィッチファンディスク — ちいさな魔女の贈りもの』で陥落。今はすっかりLittlewitchファンです。

さて、そんな私が今取り組んでいるゲームは『少女魔法学リトルウィッチロマネスク editio perfecta』なのですが、実は私は旧版も持っていましてね、けどプレイしていなかった。けどそれでもはっとさせられるものがあって、それはひとえに音楽がためでした。中世風を演出する音楽の響きが素晴らしく、だからといって昔風一辺倒にはならないバランス感覚も素晴らしい。テーマ曲も、元気な合唱風があれば、ポップなものもメロウなものもあって、素晴らしい選曲です。そして、耳朶に染みるようにして残った曲がひとつ。Itiad。トラディショナルソングの響きを持った小歌曲。それがどうもこうもなく素晴らしくて、聴いて、驚いて、すごいな、実に感じ入ったのでした。

といったようなわけで、いい曲だったら歌ってみたいよね、というわけで、コードはこないだ取りました。そして今日は、五線紙を人からもらって採譜してみて、たいして難しい旋律じゃないから私でもなんとかなったんですが、しかしこうもシンプルで、ああも美しいんだから恐れ入ります。歌詞は日本語をローマ字に直してから、逆にしたもの。でもそれが異国の言葉の響きを感じさせて、すごく素敵。少数民族ロシタリに伝わる歌、古い言葉だから、よく意味はわからない。けど意味はある — 。いい設定じゃないですか。どこの言葉でもないから、どこかの文化を引き摺ることがなく、新鮮で、懐かしい。素朴であたたかく、やさしい。本当にいい歌です。よければ一度聴いてみてください。

さて、採譜はすんで、歌詞もふって、発音もそれっぽくなるようにちょこちょこ注意書き入れて、後はコードをのせるだけです。でも私はいい加減だから、cis-mollの歌なのに、コードはa-mollで取ってて、そしてそれを3カポで歌うから、c-mollになるのかな? 4カポで原調か。3カポの時点でファルセットなんだけど、4カポだったら出ないよな。まあいいか、明日にでも試してみよう。けど、私は原調とかこだわらないから、3カポのなんちゃってカウンターテナーでがんばることになるんではないかと思います。

しかし、こんなに真面目に楽譜書いたの、大学出て以来なかったんじゃないのかな。というのもめちゃくちゃな話ですが、だって、仕事で歌いにいったりしてるのにさ、楽譜使ってないんだもん。それをこの曲に関しては楽譜を起こしたのは、それだけきちんと歌いたかったってことなんでしょうね。

2008年7月2日水曜日

ふら・ふろ

 『ふら・ふろ』は『まんがタイムきららキャラット』に連載中の漫画、けど四コマじゃありません。一見普通のコマ割り漫画、けれど一ページごとに小さなネタの締めがあって、そしてそれらネタを繋ぐ大きな流れが緩やかにある、そうしたタイプの漫画であるんですね。一ページ漫画という呼び方もするみたいですが、最近の四コマにも見られる、ストーリーを小さなネタの連続で繋ぐという話の運び方と、コマ割り漫画の表現方法、それがこの漫画の持ち味にうまくマッチして、読みやすく、面白いです。ページごとにネタが締められることで生まれる、一定のテンポは小気味よく軽快で、一ネタにページまるまる使われることで、ゆったりとした雰囲気はより強まって、このゆったりしながらも軽快という感じがですね、女の子ふたりの、特になにか事件が起こるわけでもなんでもない日常とそこでのおかしみを描くのに、実によくマッチしていると思うのです。

しかしこの漫画、ついこのあいだはじまったと思ったらもう単行本になって、確認してみたら、はじまったのは2007年の11月号。半年で一冊になるのかあ。けど、この単行本化の早さからかんがみると、人気があるんでしょうね。実際、私もこの漫画はなんだかよくわからないんだけど好きで、読みやすさの割に密度が高く読み疲れしやすい四コマ誌の中にあって、格別ののんびりさを発揮しているものだから、消極的にいえば箸休めとして、けど実際には箸休めどころではないですね、もっと積極的に楽しみにしているところがあるのです。『ふら・ふろ』のページにたどり着くと、ほっとするよりも、なんかぱっと嬉しいような気持ちになって、うきうきと読んでしまって — 、もしかしたら、こういうところが受けているのかも知れませんね。強いストーリーがあるわけでもないし、強烈なギャグがあるわけでもないけど、安心して落ち着ける時間、気の合う友人と過ごす楽しみに似た感触があるから、出会うと嬉しいし心地よい。そんな感触にひかれるのだと思います。

けど、ゆったりやらのんびりやらだけの漫画ではないんです。読めばきっと面白い。ナツとハナ、ふたりの女の子、ええと、アパートの管理人なんだそうですが、貧乏生活の中で、貧乏を苦にしながらも、それでも気楽に楽しそうに暮らしている。ふたりで、馬鹿なこといいあったりしながら、ピントのずれたこといったりやったりするハナに、ナツがつっこみ入れたりしながら、楽しくやってる。その楽しさがいいのかも。安心してぼけて、安心して突っ込んでいる。微妙にぎりぎりのところで分解しないコミュニケーション、それはその安心感が支えているのかも知れません。ハナにしてみればナツだから安心、ナツでもそれは一緒。そうした安心がベースにある漫画だから、読む私にも安心感が伝わってくるのかな。安心して読んで、安心して面白がって、安心して笑って、あーもう、こいつらだから仕方ないよね、となんだか変に嬉しそう。そんな雰囲気が嬉しい漫画であります。

  • カネコマサル『ふら・ふろ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年7月1日火曜日

「Lの季節2 -invisible memories-」オリジナル・サウンドトラック

 『Lの季節』の2が出るってよ! ってはじめて聞いた時、どちらかというと乗り気でなくて — 、もちろん興味はありますよ。けどそれよりも怖れの方が強くって、なぜ今更というのがひとつ。なにしろ1999年発売のゲームです。およそ十年が経って、あまりにも状況は変わりました。ゲームを取り巻く状況も変わった。作り手も、たとえオリジナルスタッフ再結集を謳うとしても、以前と同じではありえないでしょう。そして最も問題なのは、私も変わったということです。十年の月日はあまりにも長すぎます。もう私にとって『Lの季節』は思い出で、それも美しい思い出で、だからその思い出が壊れるようなことがあったらあんまりだと思い、怖れたのですね。けれど、登場人物に天羽さん鵜野杜さんを見て、さらに星原さんも見付けて、これは買わないなんてありえない。思い出の後押しを受けるようにして、購入を決定したということを以前お話しました

『Lの季節2』はゲームが限定版と通常版、そしてサウンドトラックが同日発売、最近ではこういうリリースの仕方が多いみたいですね。昔なら、ゲーム出して、人気があるようならサントラだそうというところなんでしょうが、今はもう人気シリーズともなると、最初から予定されている or 同時発売される or 先行発売されるなんてこともあるようで、私みたいなオールドタイプはその状況の変わりように驚かされます。

私が購入したのはもちろん限定版。当たり前です。限定版には前作のガイドブックとサウンドトラックが付いてきて、そのかわり値段がちょっと高め。正直な話、前作を数年にわたってプレイし続けた私にとって、もうガイドブックは必要ない…….。私は一人で自在に泳げるのだ。けどそれでも欲しいというのは、そりゃもう業でしょう。そこに描かれている内容を余すところなく見たい。ファンブックも攻略本も持ってるのに。サントラは、これはちょっと重要かな。『Lの季節』のサントラって主要キャラクターはアレンジ版が収録されてましたから、ゲームオリジナルの音源というとこれが初になるんじゃないかな。てなわけで、実に大期待ですよ。いやね、昔のもろもろにとらわれてるばっかりじゃ駄目っていうのはわかってるんですよ。けど、それでもやっぱり過去作あってのものかなって。作り手もそのへんおわかりなんでしょう? だから、あえて天羽さんや星原さんを出すんでしょう?

サウンドトラックは実は昨日手に入りました。いきなり発送しましたメールが届いて、えーっ! 前倒しでのリリースかと驚いて、でもって手もとにきたら聴きますわな。私の場合、ここでiTunesに登録するために諸情報入力するのですが、そうしたら一部の曲の作曲家のクレジットがなんだか変で、アルファベットで書いてある。読めば、tonkinhouse。ああ、と理解しました。前作の曲をリアレンジして収録しているんですね。そして聴けば、確かに耳に覚えのある曲、曲、曲です。特に印象に深かったのが星原で、なんでだろう、あの人のテーマを聴けば、厳粛というか、そんな気持ちになる。音楽というのは、極めて高度な精神活動の所産でありながら、理性よりも感性に訴えるところが強く、匂いが忘れていた遠い昔を思い出させるように、音楽もまた懐かしい記憶を一度に鮮やかにしてくれるものですね。私にとって、このゲームの人たちは、極めて大切な友人のようであって、そうした人たちに再び会えた。そんな実感を色濃くさせたのは、間違いなく彼女らのテーマであった。そのように思います。

編曲が一新されているから、昔のようであって昔のままではない。この言葉の意味は、ゲームをプレイすればよりいっそうはっきりしてくるのではないかと思われて、私の住む現実の世界では九年、彼女らの暮らす現実界 / 幻想界では一年が経過した、その時間がなにをもたらすのか、怖ろしくもあり、楽しみでもあり。ええ、やっぱりこうして具体的に触れるものが増えていけば、身に心に迫るように実感はいや増して、ざわざわとした胸の騒ぎに穏やかではおられない、そんな気持ちになろうものです。

といったわけで、ここ数週間、数日は、ダイスロールしながらも、過去の記憶を呼び戻す行為にふけっていて、いやなに、凍結されていた時間は、きっかけさえ与えられれば、なにごともなかったように生き生きと色を取り戻して動き出すものですよ。かくして私の心は一年前の事件に立ち返り、そして7月3日には新たな季節に繋がろうとうずうずしています。