2009年1月6日火曜日

無伴奏チェロのための6つの組曲

 去年の末にバッハの無伴奏チェロのための組曲の楽譜を買ったといってました。ただしそれはチェロの譜ではなく、サクソフォン用に編曲されたもの。昔、学生のころに練習しはじめて、楽曲の魅力にとりつかれてしまった、そんな話でありました。学生時分に使っていたのはコピーしたもので、今こうして原譜を手にいれて、久しぶりにまっさらの楽譜で吹いてみて、その景色の違いに新鮮味あるいは違和感を覚えたりして、いやあ、ちょこっと変わってるところがあるんですよ。アルマンドの最後から一小節、そこに確かにあったリタルダンドを示すrit. の表記が消されていて、なんでこれに気づいたかというと、そこの音符が手書きしたようにぐにゃぐにゃになってたからなんです。プレートナンバーは同じみたいなんだけど、使いまわしを続けたせいで、傷んじゃったのかな? 年月を経れば、楽譜の風景も変わるものなのですね。

さて、その問題のrit. ですが、コピー譜を見れば鉛筆で塗り潰されていて、どうも私はこのリタルダンドが気に入らなかったみたいですね。けれどこれは元ネタがあって、チェロの譜を頼りに、この編曲者がつけくわえただろう指示を消していったんです。私にとっては、あくまでもバッハの意図しただろうようになっている必要があったんでしょう。しかし、楽譜とは、それがどのようなものであったとしても、どこかに校訂者の意図の入るものであります。そうした中、演奏者はこれという楽譜を選び、そして研究者もまたこれという楽譜を選びます。

演奏者と研究者の好む楽譜は違っていることも多いのですが、最近の傾向だと、その差は縮まりつつあるのでしょうか。そもそも演奏からしても、演奏者の感性の発露よりも、作曲者の意図をいかに汲み取るかという方向にシフトしているわけです。そうした点からしても、両者の向おうとする地点は近いといえる、そんな気がします。その地点とは、できるだけ混じり気のない、作曲者の書いたとおりであろう楽譜です。

こうした、作曲者の意図が最も反映されたであろう資料をもとにして校訂された楽譜を、原典版というのです。作曲者の意図といっても、ことはそう簡単ではないのですが、だって一度出版されてからも変更が加えられるケースもあるわけで、特に、楽譜に書かれたものが音楽の完成品ではなく、あらかたの骨格を示す程度であるようなケースもあるわけで、楽譜にはこうあるけれど、実際にはオクターブ音を重ねて弾かれることが多かったとか、そういうことが書き加えられるようなこともあります。作曲者にとっても常に変化していた、そうした音楽をとどめる楽譜とは一枚のスナップショットに過ぎないのかも知れません。

まあ、そういう問題はあるにしても、校訂者がああだこうだと研究考察して、ひとつの結果を出す。それが原典版として出版されて、演奏者、研究者が手にする。その楽譜が解釈の出発点になっていくんですね。

私が音楽を学んでいた時、バッハといえばウィーン原典版あるいはベーレンライター原典版がよいといわれていたような覚えがあります。ウィーン原典版は赤い表紙、ベーレンライターは青い表紙で、当時私はようわからんままに、こうした楽譜を手にしていました。チェロ組曲に取り組んだときも原典版を図書館で探して、これを参考にしたんですね。ベーレンライターでした。けど、これが人気というか、いったい誰がストップさせるのか、最初のころ、なかなか返却されなくて往生して、しかたがないからファクシミリ(手書き譜の写真版)を借りたら、これがまたよくわからない。やっぱり印刷譜っていいですよ。

こないだ、古い友人と電話で話したとき、この曲の話題になって、彼はチェロ譜を見てやってるといっていました。そうか、それで充分いけるよな。そう思ったものだから、一番がある程度吹けるようになったら、今度はチェロ譜を買おうと思います。その際には、いったいどの楽譜がいいのか。実際に演奏する人は、どこのを使うことが多いのか。そういう情報を持たない私は、きっとベーレンライター原典版を選ぶような気がします。ここには、この楽譜なら間違いないだろうという信頼と、権威への弱さが見てとれて、いやはやいけませんね。ベーレンライターを選ぶなら選ぶで、なぜそれを選んだかちゃんと説明できるのが理想ですが、ちょっとできそうにないなあ。こういう横着さは、重々反省されねばならないところであります。

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