2009年2月28日土曜日

雅さんちの戦闘事情

 雅さんちの戦闘事情』は、雑誌での連載も大団円にて無事完結し、そしてこの単行本第3巻の刊行で本当の本当に完結して、実はちょっとさみしい。はじまった当初こそは、ちょっと馴染みにくさも感じたりしたけれど、途中からは本当に楽しかった。特に、2巻くらいからの展開でしょうか、女巨人たちが出てきた頃くらいから。それまでが悪かったとは思わないけれど、私にとってはこれからが楽しくて、それはキャラクターの魅力がこれでもかと前面に出ていたためでしょう。真面目一辺倒のアングルボザ、この人を筆頭にして、個性的な面々が主人公サイドを食ってしまうくらいにクローズアップされ、活躍していました。日常の描写にあらわれる彼女らの素の姿がよかった。敵味方にわかれるはずの彼女らが、主人公たちとだんだんに交流を深め、仲良くなっていくというその過程にひかれました。そして、いつかこの敵対しながらも親しいという関係が壊れてしまうのではないか、その時のくることを怖れていました。

怖れるだなんて大げさな。けれど、あの、変に仕合せそうで、そして楽しげな関係が好きだった私には、その安定が壊れるのはいやだなと、そんな風に思われて、けれどこの漫画が、日常を描くことを中心にするのではなく、物語の結末に向かって進んでいくものである以上は、いつか決着がつけられるのだろうと納得はしていて、それがつらいものにならなかったらいいな、そんなことを思ったものでした。けれど、こうした心配はまったくの杞憂というやつで、ええ、展開しようではいくらでもシリアスにできそうな流れでありながらも、徹頭徹尾コメディタッチに終始して、面白く、楽しく、和やかな雰囲気を保ったままで終了したのですね。それも、第三勢力までもを和やかさのなかに取り込んで。こうした楽しげな展開が可能となったのは、登場人物全員がシリアスというものを放棄していた、それゆえであろうと思われて、けれどまったくシリアスな面がなかったというわけでもないのです。現われるやいなやコメディに融けていく、コメディやギャグの踏み台として利用されるような扱いではあったのだけれど、主に人間関係において現われてくる、ちょっとシリアスな表情、それが私は好きでした。具体的にいうと、3巻ではヤルンサクサの行動に伴なういろいろ。あれはよかったなあ。彼女は実にいいキャラクターであったと思います。

物語は基本的には王道。いわゆるお約束を押えたものでありました。ストーリーを持った漫画ではあるけれど、展開の妙や意外性を売りにする漫画でなく、あくまでコメディであったのですね。お約束的展開は、コメディの舞台としてよく機能していました。シチュエーションを提供し、キャラクターの個性を発揮させるための仕掛けとして働き、その結果、登場人物たちの人となりが強く意識されることとなって、そして彼女らの人となり — 、和やかさが漫画全体を支配することとなったのでしょう。それはすごく心地良いものでありました。過激で過剰なネタ(主にぱんつ)、ちょっとシビアなネタ(主に父の扱い)、そうしたものも柔軟に包み込んで、あたりを和らげていました。漫画全体がずっと親しみやすいものとなって、ああ、私はこの親しみやすさが好きだったんだ。完結した今、そのように思っています。

連載が終了したのは、ついこのあいだだというのに、ずっとずっと前のことのように感じます。そうしたことに驚きながらの単行本、おそらくは私は以前よりもずっとニュートラルな状態で読めたと思うのですが、以前いっていた内部だ外部だという話、それはもうほとんど気にならず、普通に、独立の漫画として楽しんで読んでいたと思います。楽屋ネタは楽屋で、そんなことも書かれていましたが、リアルタイムで連載を追っていた人間だからわかる、そうした面白さがあってもいいと思います。けれど、それがリアルタイムでなくなったときに、後に読み返されるそのときに、その漫画の面白さはどうなるんだろう。古典作品なんかで、註が付けられたりする、そうやって読み解かないと楽しめないというのはちょっと残念かもな。などと思うこともあるのだけれど、今、こうして読み返された『雅さんちの戦闘事情』は充分以上に面白かった。その内部にしっかりと面白さを抱えていたと思います。

ところで、あんな人物紹介、はじめて見ました。過剰で過激。けど、それを許させるのは、この作者の持ち味、これまでの積み重ねのためであろうと思います。ああいう無茶は結構好き。それと、巻末の付録、北欧神話解説というかコメント、ああいうの大好きです。凛々しいを通りこして怖いくらいの昔アングルボザ、素敵すぎ。素敵といえば、表紙の雅花子。いい絵だなあ。かわいすぎ。本当にいい絵です。

  • 鬼八頭かかし『雅さんちの戦闘事情』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 鬼八頭かかし『雅さんちの戦闘事情』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 鬼八頭かかし『雅さんちの戦闘事情』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2009年。

引用

2009年2月27日金曜日

けいおん!

 音楽を題材とした漫画のブーム、その波は四コマ漫画にもやってきて、『けいおん!』、『うらバン!』、そして来月には『ひかるファンファーレ』もひかえていて、もう、なんだか嬉しいなあ。喜んでいるわけですが、しかしそのうちのひとつ『けいおん!』がアニメ化されるいうのですから、驚きです。いやね、長く四コマ漫画読んできたわけですが、こんなにも次々アニメ化される日がくるだなんてこと、夢にも思っていませんでした。私は今は脱テレビしてしまったので、きっと見ることはないでしょうが、でもすなおにうれしいことであるなあ。喜んでいるのであります。

さて、その『けいおん!』は、第2巻に入って皆さん進級しまして、そして新入生も迎えることとなりまして、ひとりは平沢唯の妹、憂。この人は軽音楽部には入ってません。そしてもうひとり、中野梓、軽音楽部に新しく入った一年生でギター。使うギターはフェンダー・ムスタング? なんか、メジャーどころを避けている? そんな風に感じないでもない選択は、わりと私の好みであったりします。いやね、私もエレキギター持ってるんですよ。全然弾いてないけど。ひとつはエピフォン・ジャパンのレス・ポール。もうひとつは、ZO-3の7弦ギター。これもまた全然弾いてないけど。弦もしっかり錆びちゃってるし、いかんよなあ、なんとかしないと。

梓のムスタングを選んだ理由というのは、手が小さいからというもの。ネックが細くないと、といっていたけど、多分、スケールの問題もあるんだろうな、なんて思ったりして、スケールってのはなにかというと、この場合はネックの長さないしはフレットの幅のことです。この漫画に出てくるギターでいえば、唯の弾いているレス・ポールはミディアムスケール、そして梓のムスタングはショートスケールでありまして、ミディアムスケールはネック長(正確にはナットから12フレットまでの長さ)が628mm、ショートは610mmです。そして、フェンダー・ストラトキャスターなどはロングスケール(レギュラースケール)で648mm。この数センチの差から生じるフレットの間隔の違い、それを梓は考慮に入れて、指が短くても弾きやすいショートスケールを選択したのかも知れないなどと思ったりなんぞしましてね、ちょっと面白かった。で、こうした演奏しやすさを考える梓に対し、徹底的に感性の人である唯は見た目の可愛さからレス・ポールを選んだ。あの重いギター(ストラップかけたら、鎖骨が折れるんじゃないかと思うほど重い)。それをこの人は、また感性で、気のおもむくままに弾いているようで、こうしたアプローチの違いみたいなのが出てくるところも面白く、そして梓(理論派なの?)が理屈抜きの唯に感じるもやもや、すごくよくわかるような気がします。ってのは、私もどうやら理屈派であるようでして、けど音楽ってのは理屈なんてどうでもいいから、音が出りゃいいって面もあるわけですよ。指がばたばたでも、コードの押え方が人と違っていても出りゃいいんです。スタンダードでないことを恥じるのではなく、それが個性だ、オリジナリティだっていいはればいい。唯はまさにオリジナリティ志向としてデザインされているようで、で、本番になると輝いて見せるタイプに設定されていて、ああ、ちょっともやもやする。このもやもやは、ちゃんと言葉にすると嫉妬になるんではないかなと思います。

連載で追っていたときには、1巻同様に、やっぱり音楽については薄めかな、なんて思っていたのですが、こうして単行本になって、まとめて読めばやっぱり印象は違ってきて、これくらいでちょうどいいんじゃない? と思える濃さに仕上がっているように感じます。私なんかは、もうちょっと濃くてもいいかなって思うけど、そりゃ自分も音楽やってる人間の言い分で、音楽は聴くだけって人には、これぐらいじゃないと重いでしょう。音楽がほどほどにあって、けれどそれと同じくらい、学生としての日常や遊びたい気持ちが描かれる、そういうバランスが、楽しみとして音楽に取り組む人の温度をうまく表現しています。バンドってのも楽しそうだなあ、そう感じさせるのは、音楽や楽器の魅力もさることながら、仲間たちとわいわいとやる、そうした場がしっかりと描かれているからなのかも知れません。

ところで、作者もギターを弾く人、しかもレフティであるんだそうですが、著者近影の代わりに掲載されたギター三本、みごとにギブソン系で、レス・ポール、同DC、そしてSG。ハム好き? けどこういうの見ると、なんかまたエレキギターが欲しくなるなあ。買いませんけど。バンドなんかもやってみたくなるなあ、友達いないから無理だけど。なんて思ってふらふらしてしまうのは、ちょっと感化されてるのかも知れませんね。正直なところ、楽器店で貼り付いてしまう澪の気持ちはよくわかる。わかるからこそ、ちょっと危険な漫画であるんです。

欲しくて買えない澪の気持ちはよくわかる、といったわけでもないのですが、私のちょっと欲しいと思っていたギター、Les Paul Standard RAW POWER EMGってやつなんですが、どうやら市場から払底してしまってるみたいです……。馴染みの楽器屋のサイトにいったら、消えていました……。ううう、残念。まあ、買えないから、どっちでもいいんですけど。

  • かきふらい『けいおん!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • かきふらい『けいおん!』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

2009年2月26日木曜日

デイドリームネイション

 デイドリームネイション』の2巻が出たというので、買ってきました。しかし、すっかり内容を忘れてしまっていましたよ。舞台は高校の漫画研究部。ヒロインはふたり、眼鏡の小岩井、すくすくとした肢体に釘付け荻野。そしてこの漫研には神さまがついていて、沼の神さま? かえるの神さま? この人はやたら美形で、日がな一日漫画を読んで過している。あとは、久遠寺先輩か。とにかく、わけのわからない人。ある意味、kashmirらしさを担保している人。うんうん、だんだん思い出してきました。そして2巻は、彼女彼らがまんが祭り、漫画のイベント、即売会に参加すべく、コピー誌づくりに明け暮れる、そんなシーンから始まります。

けど、なんといったらいいんでしょう。この漫画には妙に郷愁めいたものを感じないではおられない、そんなところがあって、けれど私にはこの漫画に描かれるような、非日常と日常がないまぜに混じり合うような過去はなかったし、あそこまで常軌を逸した知り合いというのもいなかった。なのに、そう思ってしまうのはなんでなんだろう。そもそも、漫研でもなかったというのに。なにか通ずるところがある、そう思われてならないのは、青春の惑いといったものが、とりわけ小岩井あたりから感じられるからなのではないか。そんなことを思っているのです。

青春の惑い、なんだそれはといわれれば、小岩井とラノベ絵師葉子さんの会話などがかなりそんな感じをかもしだしているのですが、小岩井の、自分の未来に対しての希望を持ちつつ、同時に失望している。失敗する可能性を勘定に入れてしゃべっている、けれど実はほのかに期待をしている、そうした揺らぐ様がたまらなくくすぐったくて、そして懐かしいのです。

ええ、私も惑っていたのだと思います。いや、今も惑っているといった方がいい。自分にはどういう可能性があるのだろう、そうしたことを思いながら、捨てきれずにいる思いを引き摺りながら、いつかくる未来なんてないと失望している。けど、もっとものをわかっていなかった昔は、高校生だとかのころは、もっと無謀に将来を夢見ていた。けど同時に無理だなんて思っていたんだよなあ。そうした思いの中で揺れながら、どこにも落ち着くことなく今まで流れてきてしまったのが私なら、もしかしたら小岩井なんかもこれからそうした道を歩むのかも知れない。そうしたことが語られるところに、胸の詰まるような思いがしたのでした。

この漫画に限らないのですが、kashmirという人は根は真面目なのかも知れません。叙情や感傷がいたるところに顔を出す。時に、気恥ずかしくなりそうなほどに、真っ直ぐな気持ちが表現されることがある。けれど、実際に気恥ずかしいからなのか、そうした面に非現実や荒唐無稽に肉薄しようとするかのような表現を上塗りして、流してしまう。それは、いい話を台無しにするというなのかも知れないけれど、あるいは真正面からいい話をできない、したくないという故なのかも知れないとも思って、けれど、それでも、そうした叙情、感傷、なんでもいいんだけど、伝わってくるんですもの。伝わってくるもの、『デイドリームネイション』2巻においては、心の揺れ動き、希望と失望の間に惑いながらも、ちょこっとずつ現実にその期待を着地させられないか、そんな気になる若人の話であったのかな。そして、もちろん後半に語られた一連のこと、あの心情も切々としてよかったのです。ああ、叙情の人だな、kashmirは。そんなことを思います。

と、ここまで書いて、過去の文章に立ち返ってみれば、なんてこった、『○本の住人』、『百合星人ナオコサン』でも叙情という語を使ってました。まいったな。けど、そのどれもに共通するかのような情緒があり、そしてそれぞれに固有と感じられるようなものもあり。一番強く感じられるもの、それは失われるものに対する強い憧れでありましょうか。もしかすれば、固有であると思えるものも、ベースとなるそうした情緒の変奏であるのかも知れないなどと思っています。

  • kashmir『デイドリームネイション』第1巻 (MFコミックス アライブシリーズ) 東京:メディアファクトリー,2007年。
  • kashmir『デイドリームネイション』第2巻 (MFコミックス アライブシリーズ) 東京:メディアファクトリー,2009年。
  • 以下続刊

2009年2月25日水曜日

I met a cat on a Sat., taken with GR DIGITAL

Cats on a street今月のGR Blogトラックバック企画であります。非常に人気の高い被写体、実際、猫を撮るのが好きという人は多いといいますし、また、どこで聞いたかちょっとわすれたのですが、日本人の猫好きは特筆すべきものがあるとか。多分Flickrあたりだと思うのですが、写真共有サービスで、あまりに日本人が沢山猫写真を公開するものだから、一体あれはなんなんだと、驚かれたり面白がられたりされたんだそうです。けれど、私はそんなに猫の写真は撮っていません。見掛けたら撮るようにはしてるんですが、ほら、猫ってやつはじっとしてくれないでしょう。近づくと、ぱっと逃げちゃう。寄らせてくれないから、広角のGRではきびしいんです。とはいうものの、探せばやっぱりあるわけで、そいつをひっさげてトラックバック企画 猫 に参加します。

ある土曜日、猫に出会った。ということで、タイトルは I met a cat on a Sat. 私は毎日写真を撮ることにしているので、ちょっとしたお出かけでもGRを持って出るのですが、そうしたある日の写真ですね。途中猫に出会って、写真を撮って、去ろうとしたところに寄っていったら、近付いてきてくれました。猫を真上から撮ったのははじめてのように思いますが、すらりと長いものなのですね。

猫はそのまま留まりもせず、足元を抜けていってしまいました。どうも、私は面白みに欠けていた模様です。

I met a cat

I met a cat

I met a cat

2009年2月24日火曜日

トンボ鉛筆 ピットテープMフラット

 テープのりを新調しました。これまで使ってきた、ニチバンのテープのりDSから、トンボ鉛筆のピットテープMフラットに買い替えたのです。して、その理由とはいかなるものであったのか。いやね、実に簡単単純な話であるんですけど、替えのカートリッジを買いにいったら売り切れててなかったんですよ。ありゃあ、参ったなあ。明日明後日に使いたいから、なんとしても今日買いたい。けれど、いつもののりはなし。となると、今、店頭に置いてあるものを買うしかないわけで、それがたまたまトンボのピットテープであったというわけなのでした。

(画像はトンボ鉛筆 ピットテープM)

ピットテープMフラットは、テープのりDSに比べてもずっと小振りなボディ。テープ幅は8.4mmで長さは14m。のりはドットやメッシュではないけれど、スパッと切れると謳っていて、期待してもいいのかな?

買ってきて、実際に使ってみての感想、その第一は、びっくりするほどにローラーが軽く動くということでした。それはちょっと頼りないと思わせるほどであったのですが、しかし紙の表面を見れば、きちんとのりがついています。紙を載せて押さえてみると、確かにしっかりと貼れているようで、ひっぱってもずれる、動く、はがれるということはありませんでした。

のり切れに関しても、当面問題なく使えて、だらしなく糸を引くようなこともありませんでした。ただ、紙面から離すときには、ちょっと意識して真上に持ち上げるようにした方がいいかも知れません。そうしないと、のりが斜めに切れたりして、まあ若干なんですけど、次に使うときのことを考えるとちょっと気になったりしまして、でも今のところ、問題なく連続使用できています。

私はこれを、主に雑誌のアンケートを出すために使っているのですが、雑誌から切り抜いた様式を端書に貼るんですけど、このとき雑誌の切り抜きにのりづけするのは、ちょっとうまいやりかたではありません。黒がべたっと印刷されたようなところには、のりがうまく付かないし、また紙の表面がそんなに強くないものだから、時にテープに貼り付いた紙面が剥がれて巻きこまれることがあるんですね。だから私は端書側にあたりを付けて、そちらにのりづけするようにしているのですが、このピットテープ、この軽さなら、直接雑誌切り抜きにのりをつけてもいけるのでは? そう思って試してみたのですが、やっぱりそれはうまいやりかたではありませんでした。

テープのりDSを使ってきての経験によると、開封してある程度すると、湿気を吸うんでしょうかね、のりがべたつくのかどうなのか、のりづけ動作が重くなってしまいます。あるいは、ローラーまわりに付着するダマのせいなのかな? いずれにせよ、ピットテープも軽いのは最初だけかも知れません。これに関しては、半月もすれば結果が出るでしょう。けれど、最初の軽さを考慮すれば、ちょっとくらい重くなっても問題ないような気もしますけれど。

といったわけで、これからしばらくはピットテープMフラットを使っていくこととします。つめ替えテープも一本、購入済みです。

2009年2月23日月曜日

はなまるっ!

 荒木風羽は私の好きな作家です。詳しく知っているわけではないけれど、『まんがタイムきららMAX』に連載されていた『スキっ!キライっ!』で好きになって、そして現在連載中の『そして僕らは家族になる』、ちょっと辛気臭いところもあるんだけど、そうしたニュアンスも含めてやっぱり好みで、だから既作が単行本化されるというのを知ったときは、ちょっと嬉しかったです。そのタイトルは『はなまるっ!』。『コミックフラッパー』で連載されていた漫画なのだそうですが、私はそのころ、この作者の存在すら知らなかったわけで、けれどその知らずにいたころの漫画をこうして読めるチャンスがやってきた。本当にありがたいことです。『そして僕らは家族になる』の効果でしょうか。一定数のファンが付いて、一定の売り上げが見込めるようになったということなのかも知れません。じゃあ、だったら、その期待に見事応えてみせようじゃありませんか。買ってきたのでありました。

内容は、女学生が楽しそうに学生生活を送っている、その様子を描いたものであるのですが、読み始めの当初、少々混乱しました。あのカラーは描き下ろし? ということは、あの文化祭からスタートしたの? 第一回にしてはやたら唐突なんだけど。人物紹介などもないし、それこそ、これ、第2巻ですといって渡されたら信じてしまいそうなスタートに戸惑い隠せず、まさか、まさか、掲載当初の何回かオミットされてる!? そんな、ひどい、ひどいわ。よよよと泣き崩れ — 、たりはしませんが、しかしオミットされてたりしたら、ちょっと残念かもなあ。とはいいますものの、まずはこうして読めることを喜びたいと思います。初出一覧が見当たらないので、オミットされてるかどうかもわからないのですが、でも気にせずに読んで、楽しんだらいいんです。とにかく、今、手にしているものがすべてである、その意気で読み進んでいったのでした。

しかし、登場人物は結構ベタといいますか。関西弁キャラはあえて外すとしても、腹話術人形を通してしか話せない女の子や、着ぐるみキャラが出てきます。個性的でないことに悩む完璧優等生がいるかと思えば、病弱の流血教師などなど、わりと見掛けるタイプのキャラクターで構成されているところに、最初は微妙さを感じないでもなかったけれど、しかしそうした要素はほどなく気にならなくなって、そうなれば後は荒木風羽のらしさが出てくるばかりであります。強烈なオリジナリティを発揮するわけでもないけれど、なぜだかほどほどに個性的、にじみ出るような独自性、ちょっとしたおかしさ、ああ、ファニーだったりストレンジだったりってことね、が働きかけてきましてね、例えば着ぐるみは着ぐるみでいいんだけど、撞木鮫というセンスはかなりきてます。そうした、はしばしに感じられるセンスの独特さが私の心を捉えましてね、ああ、そうか、私のこの人が好きというのは、まさにこの不思議ささえ感じさせるセンスのためだったんだって再確認したのですよ。

思えば、『スキっ!キライっ!』だってそうでした。よる子の奇矯性。その、あまりの変な子ぶりに心奪われて、なんて可愛いのだろう、釘付けでした。それが『はなまるっ!』でも再現するかも知れない。けれど、まだ足りない。まだ残っているという原稿、2/3が足りない。実際、回を進めるごとに、キャラクターの自然な奇矯性が開花していくと感じられるものですから、このまま先へ先へと進むことができれば、きっともっと好きになるに違いない、そんな予感がするのです。そして、この人のもうひとつの持ち味。心の機微を、ささやかにしっとりと描いて、ほのかに暖かみを残すようなところもじわりじわりと効いてくる。これは、いいな。漫画に加えて、この作者の持ち味がよいな。折々にそう思わせるところがあるのですね。

だから、メディアファクトリーは、続々と続刊させるといいと思うよ。そして、もしも可能なら、『スキっ!キライっ!』も出してください。じわじわと、この人の持ち味が浸透していくとどんなにか素敵だろう。そのように思い、願っているのです。

  • 荒木風羽『はなまるっ!』(MFコミックス フラッパーシリーズ) 東京:メディアファクトリー,2009年。
  • 以下続刊

2009年2月22日日曜日

オリジナル・リガチャー Tシリーズ

Saxophone mouthpiece with T Series rigature昨日に引き続き、Tシリーズのリガチャーについて。ただし、今回はアルトサックス編であります。これまで使ってきたリガチャーは、定評のあるハリソンのゴールドプレート。リードをH型のプレートで支えることで、その振動を妨げない。固定的なファンのあるリガチャーでありまして、さらにいうと、私の持ってるのはオリジナル。このリガチャーには復刻とオリジナルがあって、オリジナルじゃないといやだという人もいるんです。ハリソンは華奢なことでも知られ、ネジを絞めすぎると金属が切れる、そうした事故もあるリガチャーですが、しかしオリジナルを愛する人は、切れても修理して修理して使い続けるのだそうです。その人にとっては代え難い、大切な道具であるのでしょうね。そしてそれは私にとっても同様で、もし壊れたらたまらないと、細心の注意を払って扱ってきました。ネジはそっと、リードを軽く押さえる程度にしか絞めない。キャップはしない。チューニングもしない(嘘です)。マウスピースの抜き差しは、リガチャーに負担のかからないよう、場合によってはリガチャーとリードをはずして行うなど、もう大切に大切にしてきたのです。それは、それだけ気に入ったリガチャーであったからなんです。

というわけで、ハリソンとTシリーズの対決と相成りました。おそらくは、それほどの差異は出ないはず。そのような予想を立てて吹いてみて、はたしてその結果はどのようなものであったのでしょうか。

実際、劇的な違いは出ませんでした。しかし、違いは確かにあるのです。Tシリーズの方が充実して吹けるという印象があります。低音はよく出ます。けど、ハリソンも同じくらい出るからなあ。高音も出ます。でも、ハリソンでも出るんですよ。しかし、その出方がちょっと違います。ハリソンの方が軽い吹奏感です。そして、ちょっと神経質な感じ。よくいえば繊細です。対してTシリーズはというと、結構な抵抗感がありまして、わりと豪快に鳴ってくれます。ただ、息の消費が増えた? なんてったらいいんだろう。マウスピースの開きが大きくなった感じがするっていったらいいか、昔大学で吹いてたバリトンサックス、あの頃の吹奏感を思い出した。特に低音の響きにその感覚は顕著で、大学の備品たって音大なので、そりゃちゃんとしたものが置いてあるんですが、セルマーのSerie IIにS80 Dが付いてたんだっけかなあ、あれいい音したんですよね。低音の魅力、Low Aなんて出した日には、うっとりする。そんな気持ちよさがあったのですが、Tシリーズを使ってみて、そんなこと思い出しました。

ハリソンが神経質なら、Tシリーズは無神経? いや、そんなことはありません。リガチャー側でしっかり音をホールドしてくれているという感触があって、それを私は抵抗感があると表現したのですが、押し返してくるといったような感じはなくてですね、あくまでも抜けのいい音がするんです。私の実感では、ハリソンよりもいいかも。高音をはじめとして、全体に音は太ったと感じます。うまく受け止めてくれる感触があるから、思い切ってどんと渡せるといった感じがいい。ちょっとくらい不用意に吹いても大丈夫。でも、手を抜いた吹き方すると、手を抜いたような鳴りがするぞ。こうした風に感じるのは、奏者の意図によく反応するからなのかも知れません。一生懸命吹いたらそのとおりに応えてくれる。フォルテシモもピアニシモも、ニュアンスを違えて吹こうとした時も、うまく反応してくれて、コントロールがしやすいと感じられます。

ただ、こうした感覚には直に慣れます。ハリソンにはハリソンの長所があって、今は私はハリソンでは得られなかった部分に反応しているのかも知れません。なにしろ、私にとってハリソンの感触は、自然でニュートラルと感じるようにまで慣れていたのですから。けれど、私はTシリーズの鳴り、安定性、ぽんと投げてまかせられる安心感に魅力を感じて、これからはこちらを継続的に使っていこうと思っています(ネジが壊れたりする心配もなさそうだし)。そしてTシリーズが自然に、当たり前になった時にハリソンを使うと、両方の長所短所がよくわかるんだろうなと思います。

あ、そうだ。私の購入したのはピンクゴールドのモデルでした。上記の感想にあった、音の太ったという印象、これはピンクゴールドの輝きもありつつ柔らかくしっとりしていて深みや色気があるという特性によるものなのかも知れません。太ったというとなんか変な表現ですが、ふくよかといいかえるとそれらしいかも知れません。私の実感としては、あくまでも太ったなんですが。

もし、またハリソンの音質が欲しいと思うことがあったら、Tシリーズの金メッキあるいはロジウムを試してみるといいかも知れないなと思っています。説明を読むと、おそらく安定性はそのままに、素直な伸びや発音の明瞭さを得られるのではないか。アーティキュレーションをしっかり表現したい時にはロジウムが有利?

いつか、全種類そろえそうな予感がして危険です。

引用

2009年2月21日土曜日

オリジナル・リガチャー Tシリーズ

先日注文したリガチャー、Tシリーズが到着しました。実際に手元に届いたのは一昨日なんだけれど、実際に音を出すとなると土日を待たないといけなくて、いやあ、実に待ち遠しい。そんな数日を過ごしました。そして今日、Tシリーズを試してみました。まずはソプラノサックスから。なにせ、リガチャーに選択の余地がなかったという、その状況を是正したいと思っての購入であったのですから、まずは主目的からはたしませんとね。そして、その結果はといいますと、まったくもって素晴しい。きっと変わるだろうな、それも格段に変わるに違いない。そうした予感はありましたが、想像していた以上に変わりました。その違いは、吹いている本人どころか、聴いている周囲にもきっとわかるだろうと思われるほどに劇的で、いやはやこれはなかなか。もしあなたにライバルがいるなら、このリガチャーの存在を知らせるな。そうアドバイスしたくなるほどに好感触でありました。

どう変わったか、もうちょっと具体的に書いていきましょう。

私の望んだこと、それは高音の抜けと低音の出でありました。双方、見事にクリアされました。高音はやせず、素直に出る。しかも、響きを抑えないためか、倍音を使った高音域も出やすくなって、High G(実音だとHigh F)も楽に出る。おっと、これはHigh Gキーいらんかったんじゃないの? そう思うくらい、フラジオの方が出やすくて、ありがたいなあ。選択肢があるということはいいことです。

低音は、下線の音域になると、どうにも暴れやすくて困っていたのですが、それが随分改善されました。というか、右手の音域の時点で既に変化は現われていて、楽器の管いっぱいを使って鳴っているという感じが心地良い。素直にレンジが広がったといえる。音量の幅がというだけでなく、表現の幅も広がったという感じです。これまで、この右手あたりの吹奏感に不満は感じてはいなかったのですが、一度経験したら駄目です。これまでのリガチャーに戻して吹いてみたら、拘束されてるような感じがする。全然息が入らないと感じられる。それは息が入らないのではなくて、入れた息がロスしているということに他ならないのですが、つまりこれこそが高尾哲也氏のおっしゃる効率であるのでしょう。

響きが増大していることは、反響して返ってくる音の感覚が違うことからもわかりました。それは音量が増えるということではなく、遠達性がよくなるということでしょう。ソノリテが違う。これは、ホールなどで吹けばきっともっとよくわかるはずで、けどその機会はちょっとなさそうだなあ。残念。

低音の改善には目覚ましいものがありました。油断すればそりゃ暴れることもあるけれど、しかし以前のような暴れかたはしない。というか、暴れさせるつもりで吹いても暴れないし、よっぽど不用意にやらないかぎり大丈夫そう。信頼性がぐっと上がったといっていいかと思います。中音域から最低音域への跳躍に際し、必要以上に気をつかわなくていいというのは素晴しい。高音に関しても、びくびくせずにどーんといける。というか、これが楽器本来の調子であるんでしょうね。

楽器やリードがダイレクトに鳴る、そんな感じがして実によいのですが、逆にいえば、質の差がもろに出るということでもある模様です。リードを本腰入れて選別してやらんといかんという気になっています。鳴らないリード、よくないリードでもそれなりには吹けるけれど、それなりでしかないということも実によくわかって、それは結局はリガチャー周辺で抑えられていた分が開放されたということなのでしょう。良いリードはより良く、そうでないリードはそれなりに。うまい人はよりうまく、そうでない人はそれなりに……?

もっと頑張って練習しよう! そんな気になるリガチャーで、それはつまりは、しっかり吹けば、その分きちんと返ってくることが実感できるということであります。お友達にも教えてあげて、お友達も綺麗にしてあげましょう。いや冗談じゃなくて、人にどうよとすすめてみたくなる、そんなリガチャーであるんですよ。

2009年2月20日金曜日

Hotter Than That

 CDはずいぶん安くなった。などというのは、昨日とりあげましたハルモニア・ムンディの50枚組を受けての感想でもありますが、それ以前に、先月くらいからちょっとブームになっていた、メンブランの10枚組ボックス、これを受けてのものでもあるのですね。ジャンゴ・ラインハルトアストル・ピアソラを買い、そのコストパフォーマンスにはしびれたものでした。私の購入した価格は1680円。輸入盤でも、この価格では1枚くらいしか買えなかった、ちょっと前まではそうだったと思うのですが、今やこの価格で10枚組が実現するというのですから、おそろしいですね。もちろん、これが特殊なケースであることは理解しています。けれど、一度こうした価格での買い物を経験してしまうと、安価になれてしまいそうで、それもちょっと困ったことだと思います。

さて、ジャンゴ、ピアソラに続いて、ルイ・アームストロングも買ったといっておりました。もちろん聴いています。さすがにちょっと昔の人、音質もそれなりといえばそれなりであったのですが、けれど昔の盤だとわかっているから、この音質も特に問題だとは思わない。むしろ、味わいのうちだ、そんな風に思うきらいもあるくらいです。

収録の曲は、有名な曲、聴いたことのあるというようなものもあれば、まったく知らないものもある。というか、私はジャズはそれほど聴いていないから、ほとんどが知らない曲です。しかし、それでも問題なく楽しんで聴いて、それはきっと、ルイ・アームストロングの音楽の、魅力のためであるのでしょう。

ルイ・アームストロングはいわずと知れたトランペット奏者でありますが、この10枚組ではむしろ歌手としての印象が強く、親しみのある声、低音のあたたかいと感じさせる声質に、語りかけてくるような歌い口がひきつけます。かつて全米どころか世界を魅了した歌声。しかしそれは熱狂させるようなものではなく、静かに穏やかに響いて、やさしく心をなぐさめてくれるようであります。それは軽快な曲であっても、スローな曲であっても同様と感じられて、そんなことを思うのは今の私が刺激にとりまかれてしまっているため、なのかも知れせん。ルイ・アームストロングの音楽にことさらの刺激を感じなくなってしまっているのかも。だから、かつて彼に魅せられた人は、穏やかなんてものではなく、まさしく熱狂したのかも知れませんね。伝わってくるエネルギーがあります。それは湧き上がるような力強さを持っていて、私はそれを頼もしさ、安定と感じますが、かつては人々を熱狂させた、そんなエネルギーであったかも知れないな、そのように思わせる強さは確かにあるのです。

ルイ・アームストロングのジャズは、ニューオーリンズスタイルという理解でいいのでしょうか、古典的な、結構端正と感じさせる、そんな佇まいでありますが、けれどうきうきと楽しくさせる、ほっと穏やかな気持ちにさせてくれる、多彩な表現、表情を持っています。ぱっと聴けば素朴と思える古き良きジャズ、けれど骨董品ではない、そのように感じるのは、その音楽が生きて、聴くものの心に触れてくるからでしょう。改めて聴いて、よいなあ、そう感じさせる魅力があったのでした。

2009年2月19日木曜日

50 Jahre Deutsche Harmonia Mundi

 このボックスの存在を知ったのは、購読しているBlog「せろふえ」で取り上げられたのを見てでした。古楽ジャンルで定評あるレーベル、ドイツ・ハルモニア・ムンディの50周年記念ボックスだっていうんですね。なんとCD50枚組が五千円台で買えちゃうという。ええーっ、と驚いて、余裕ができたら買おう、そう思って楽しみにして、待っていたんです。はら、今はどんどん円高が進んでいるとかいいますでしょう。だから、待ったらもっと安くなったりするんじゃないのかなあ、なんて期待をしたんです。そうしたら、六千円台に値が上がってしまいまして、あわてて買いました。いやあ、欲をかいちゃいけませんね。というか、この間の悪さ、これこそが、私のギャンブルや相場に手を出さない理由です。そいつを、まさかCD購入で再確認させられるとは思いもしませんでした。

さて、届きました、50 Jahre Deutsche Harmonia Mundi。

50 Jahre Deutsche Harmonia Mundi

開けました。

50 Jahre Deutsche Harmonia Mundi

驚愕の50枚組!

50 Jahre Deutsche Harmonia Mundi

AstorgaのStabat Materに始まり、

50 Jahre Deutsche Harmonia Mundi

ZelenkaのSimphonieに終わる、長大なコレクション。これだけたくさんあれば、まったく知らない曲どころか、名前を聞いたこともないような作曲家さえ出てくるのですが、けれどしっかり有名どころが押さえられているから、バロックを中心とする古楽の入門にもうってつけかと思われます。バッハなら『ゴルトベルク変奏曲』、『音楽の捧げ物』、『ロ短調ミサ』、『無伴奏チェロ組曲』。ヴィヴァルディの『四季』だってありますよ。もちろんこの他にも有名どころはあるんですが、マショーの『ノートル・ダム・ミサ曲』なんてのは偉大なタイトルだし、ブクステフーデやクープラン、ラッスス、リュリ、パーセル、ラモーなんてのもビッグネーム(フレスコバルディやモンテベルディ、グルックなんかももちろんそうなんだけど、それいうと、ほぼ全員の名前をあげないといかんので……)だし、マラン・マレだとかサント・コロンブはガンバにおいては外すことのできない大家だしで、けど古楽に明るくない人にとっては、このへんはよく知らないということもあるでしょう。

しかし、だからこそ、このボックスが光るのです。50枚組で六千円そこそこという安さは、ただそれだけで魅力ですし、それになにしろハルモニア・ムンディ、質に関しては申し分ありません。入門者にとっては、解説が簡素という弱点もあるかと思いますが、どうせ輸入盤で、日本語解説なんて入ってないんだし、あってもなくても一緒でしょ? というわけで、日本語解説が入っていてもはなから読む気なんてない私は、躊躇なく購入を決定。届いてからは、iTunesに読み込むだけでも一苦労、はたしてどれくらいの日数で全部聴けるだろうと、実に贅沢な悩みでありますよ。

とりあえず、一日に2枚くらいのペースで聴けたらいいかなと思っています。って、それでもおよそひと月かかるのか。脅威のコストパフォーマンス、すごいことになってます。

2009年2月18日水曜日

トミカ No. 014 コマツ 対人地雷除去機 D85MS

 昨日、たまたま知ったのですが、対人地雷除去機のミニカーを買うと、その売り上げから地雷除去などの活動をしているNPO、JMASに寄付がなされるのだそうですね。へー、知らなかった。じゃあ、買おう、そう思って、帰りにヨドバシカメラに寄りました。昨年末にヨドバシカメラにいった時に、対人地雷除去機のミニカーがあることに気付いていたんですね。トミカの棚を眺めていて、へー、面白いものがミニカーになってるんだなあと思ったことを覚えていたのです。実は、その時にも面白がって買おうかどうか迷ったのですが、けれど面白いからといってぽんぽん買い物したら、あっという間に身のまわりがもので埋まってしまいます。というか、既にかなり問題のある状況なので、なんとか買うものをセーブしようと、そのように思っているのですね。ですが、その買い物が人道支援になるとなったら話は別です。買った。これは地雷除去のための寄付活動なんだ、そういいながら買ったのでした。

まあ、本当に人道支援、寄付活動をしたかったら、おもちゃを買ってなんてまどろっこしいことしてずに、直接寄付すればいい話で、それをしないというのは、結局おもちゃが欲しかっただけなのでしょう。ただ、買うには言いわけが必要だった。あるいは、物欲を人道支援のイメージで綺麗に飾って、いい気分に浸りたかった。あとは、ちょっとした話題が欲しかった、そうした気持ちもあったのかも知れません。

買ってみて、実際に手にしてみれば、結構な重さのあるものなのですね。ボディはダイキャストでしょうか。亜鉛合金でできていて、ちょっとやそっとでは壊れそうにないタフさです。このあたりは、さすがトミカと思わせるものがあります。昔から、定番のおもちゃとして、男の子のいるうちにはひとつふたつあって、屋内どころか、どこにだって持ち運ばれたものでした。おもちゃ箱の中に無造作に突っこまれる。砂場に埋められる。それでも滅多に壊れるものではありませんでした。開閉式のドアが動かなくなったり、車軸がまがってしまったりしても、車体は無事。それがトミカというものであったと思います。

ミニカーの楽しいところは、手で走らせて遊ぶというだけでなく、扉の開閉ギミックなど、稼動箇所の作り込みも魅力でありました。だから、普通の乗用車よりも働く車に人気が出るわけでして、荷台の動くトラックとか、はしごの伸びる消防車とか、こうした車は子供心をとらえて、そしてあまりに稼動させられるものだから、荷台がはずれたり、はしごは折れていたり、散々なことになって、けれど子供はそんなちょっと傷ものミニカーでも大好きでしたね。私も好きでしたよ。うちには、収集コンテナのなくなったゴミ収集車がありました。けど好きだったなあ。

地雷除去機もちゃんと稼動箇所があります。キャタピラがまわるのは当たり前。除去ローター(車体前部にある地雷を破砕・爆砕するためのローラー)を支えるフレームは上下に動き、そしてローターもまわります。凝っているのは、ローターフレームに取り付けられたシリンダーもちゃんと動くところでしょう。よくできてるなあ、改めて感心します。

買った当初は、ちびすけにでもくれてやればいいかと思っていたのですが、実際手にしてみると、それはちょっと惜しい。というわけで、結局私のお気に入りとして、無駄にしまいこまれることになりそうです。でも、ほんと、ちょっとかっこいいのよ。といったわけで、私にも男の子回路があったのだなあと再認識することとあいなったのでした。

KOMATSU D85MS Minesweeper

参考

2009年2月17日火曜日

少女Aはまっすぐ

水井麻紀子の『少女Aはまっすぐ』、ヒロインの山本南はA型。ゆえに掃除と整とんが得意。じゃあ、私はA型じゃないや。整頓が苦手だからB型か。いや、一旦スイッチが入ると完璧に片付けようとするからAB型だな。でも、普段からここというところはきちんと整理していて、例えばコンピュータのデスクトップは、アイコン、ショートカットひとつ置いていません。ファイル管理もきっちり形式やカテゴリでもって分類していて、でもすべてがこうきっちりしてるわけじゃないからなあ。気にするところ、しないところが極端だからO型ですね。などと思っていたら、山本さん、大事にしまい込みすぎて、よくものをなくすそうです。そういえば、私の学生時分に使っていた万年筆、まだ出てきません。とにかく大切に仕舞ったことは間違いないんですよ。そうかあ、山本さんと私は似たもの同士なのだなあ。ということは、やっぱり私はA型でいいみたいです。といった具合に、『少女Aはまっすぐ』は血液型に基づいた性格分類をもって話を進めていって、そして私はというと、その流れにいつか耐えられなくなりそうです。

私は、血液型性格判断なるものが、大嫌いなのです。

そんな私が、この人の漫画は面白いなと思っています。絵柄は可愛く、よくまとまっているし、雰囲気もほのぼのとして実に罪のない感じがして好感触。そしてキャラクターひとりひとりの個性がうまく表現されているから、とっつきやすく、好印象。けどその個性は血液型に基づいて逆算されたものなのか……。タイトルからしてそうですが、『少女Aはまっすぐ』は血液型性格判断というギミックがビルトインされてしまっているから、どうしても血液型という要素を意識しないではいられません。初期とは違いこのごろでは、血液型色もずいぶん薄れてきたようにも思うのだけど、そして実際、血液型というギミックを捨てたとしても、充分に回っていくだろうと思わせるのだけれど、それでも要所に血液型は現われて、そのたびに立ちすくむような感覚に襲われます。

しかし、なんでそんなに血液型うんぬんを嫌うのか。それは、血液型を前面に置くことで、その向こうにあるその人の本質を見ずともわかったつもりになる、そうした構造が嫌で嫌でたまらないからです。この記事の冒頭にも書きましたが、片付けが苦手で、けれど分類することには一生懸命で、このBlogなどはその例示となるかと思いますが、数年に渡り、毎日一件以上の記事を起こしてきた、一種偏執的ともいえる几帳面さ、これなどは一体何型の性格なのでしょう。A型でしょうか、B型でしょうか。AB? O? どれだっていいのですが、もし私を血液型で区分してわかったつもりになる人がいるとしたら、私はそのあまりに失礼な態度に気分を害することでしょう。失礼とはどういうことか — 。人を既存の枠組みに押し込むことで、理解したと思っている、そのことが失礼です。その視線は私を離れてしまっており、血液型性格判断という偏見に基づくありもしない虚像ばかり見ている。そういう態度は非常に失礼なものなのではありませんか?

もしあなたが女なら、ちょっと想像してみてください。

君は女だから、判断に際しては、理性よりも感情を優先するだろう。

私はこれは極めて失礼な態度であると思います。目の前にいるあなたをではなく、勝手な思い込みで作り上げられた偏見で推し量る、こうした不快を覚えた経験はありませんか?

『少女Aはまっすぐ』のヒロイン、山本南の性質は、血液型に由来する気質であるというよりも、もっと別の要因で説明した方がしっくりくるようなものです。それこそ、診断名が付きそうな性格だと私は思っていて、具体的には書きませんが、おそらく私の同種だなと、そのように感じています。ある疾患に原因する行動様式、それを漫画にしてはいけないとは思わないけれど、でもそうしたネタが危険をはらみかねないということは理解されやすいのではないかと思います。それがただその人の個性であると諒解されているうちは、問題とはならなかったけれど、その性格はある疾患に特有のものだという表現となったら、事情はちょっと変わります。その表現は偏見を助長しませんか? その疾患は典型的とも思える気質を生み出しはするけれど、それでも各個人によって性格は違っているのです。私の持つ異常性、それを同種の人たちがみな備えているわけではありません。しかし、私の異常性とその原因に気付いている人は、私と同じ疾患を持った人に対し、ああ、この人は私同様の異常者であるのだなと判断するかも知れない。その人が、異常性を有す有さないに関わらず、そのような判断がなされる時、その判断こそを偏見というのではないでしょうか。

去年は血液型性格判断が、近年稀に見るブームであったのだそうですね。苦々しく見ていました。『少女Aはまっすぐ』は、そうした世相を受けて出てきた漫画なのかな、そんな風に思っています。ですが、ブームはいずれ去ります。あるいは、盛り上がったブームを批判する、そうしたブームが発生しないとも限らない。かつてオカルトがブームになり、その後、オカルト叩きがブームになったように。その時、この漫画はどうなるんだろう。できれば長く続いて欲しい、そういう思いもないではないけれど、この漫画に血液型がかたく結びついているかぎり、血液型のブームが去り陳腐化してしまった時のことを思うと、心配は消えません。

けれど、そんな起こるかどうかわからない心配よりも、今は私がこの漫画をいつか嫌いになってしまうのではないかという、そちらの方がずっと重要です。重ねていいますが、私はこの漫画が結構好きです。絵柄が好きです。話のもっていきかた、ふくらませかたが好きです。登場人物が好きです。由井さんが好きです。ですが、血液型に関しては、耐えがたい。今は好きが大きいから、なんとでもなっている。けれど、この耐えがたさが、一定のレベルを超えてしまった時に、好きという気持ちが反転してしまうのではないだろうか。どうでもよくなるならともかく、嫌いにはなりたくない — 。

いっそ、最初からつまらない漫画だったらよかったのに。そこまで思います。けれど、面白い、好感触であるのは事実。だからこそ、揺れるのです。好きと嫌う可能性の間で、複雑に揺れています。

  • 水井麻紀子『少女Aはまっすぐ』

引用

参考

2009年2月16日月曜日

オリジナル・リガチャー Tシリーズ

リガチャーを買うことに決めました。ソプラノサックス用。今使っているのはバンドーレンのマスターラッカーなのですが、これは決してこれがいいと思ったから買ったのではなく、当座、これしか選択肢がなかったから、なんです。もし私がセルマーのマウスピースを選んでいたなら、選択肢は多様にあったのですが、残念なことに私の好みはバンドーレンでしてね、そうなると驚くほどに選択肢が狭まります。バンドーレンはセルマーよりも若干外径が大きいため、セルマー用にデザインされているリガチャーは使えないと考えた方がいい。実際、セルマーのリガチャーは駄目、最有力候補だったハリソンも駄目、試奏しようと思ったリガチャーのことごとくが使えず、純正以外で唯一使えたのがロブナー。しかし、これ重くって、私には到底無理。といったわけで、純正品を買いました。オプティマムでなくマスターなのは、オプティマムが在庫してなかったから。冗談抜きで、選ぶ余地などなかったのです。

けれど、実はもう一種類、候補に入れてもよかったろうリガチャーがあったのでした。それは、Tシリーズ。広島交響楽団のクラリネット奏者、高尾哲也氏の作っているバネ状のリガチャーで、一般にはくるくるという呼び名でも知られているといいます。しかし、なぜこれを選ばなかったのか。それも、店員おすすめの品であったというのに。

簡単な理由です。見るからに華奢で繊細なリガチャーです。それを無理に径の大きなマウスピースにはめて、ゆがめてしまったら一大事じゃないですか。買ってからなら、それでもいいでしょう。でも買う前から無茶はできない。なので、もうしわけ程度に合わせてはみたけれど、おっかなびっくりの試奏、その真価を知るまでいかず、結果最もオーソドックスな、言い換えれば無難でつまらない選択をしたのでした。

実際のところ、Tシリーズは価格がかなり安く、金メッキ、ピンクゴールドメッキで2500円、ロジウムで3000円と、他製品と比べてもコストパフォーマンスに優れています。だから、ひとつ試しに買っておいてもよかったかも知れないけれど、私はあんまりいろいろ小物を揃えるのは好きじゃないんですよ。これと決めたら、それを使い続ければいいじゃないか。って、それは思考停止っていうんじゃないのか? いや、ここは一途と思っていただきたい。脇目も振らぬ(視野が狭い)。それが私という人間です。

なのに、ここでTシリーズ リガチャーを買おうというのは、つまりマスターラッカーがあまり気に入っていないってことです。高音も低音もわりとまんべんなく出るんだけど、もうちょっと高音の抜けはよくなって欲しいし、低音も楽に出て欲しい。リガチャーを替えたら解決するのかといわれれば、替えてみんことにはわからんと答えるしかありません。けれどおそらくは改善するはず。というのはですね、経験上、接点の少なく軽いリガチャーになるほどに音の出はよくなるとわかっているからで、例えばセルマー純正(旧モデル)のリガチャーとハリソンを比べるとその差はかなり大きいのですよ。先日の試奏にしても、慣れている分を差し引いても、ハリソンは優秀でした。セルマーのマウスピースにセルマー純正のリガチャー、さらには他のモデル、逆絞めも含めて試して、ハリソンが高音の出に優位と感じられたものでした。リードを締め付けず、ソフトに、しかししっかりと押さえるからなのか。それはわかりません。ですが、これが愛用される理由は確かにある。そう思わせるリガチャーです。

ですが、もしかしたら、Tシリーズは、そのハリソンを置き替えるものになるかも知れない。

そうした期待もあったものですから、アルト用も注文してしまいました。散財ですね。けれど、それで発音やレスポンス、響きの問題が改善するなら、安いものです。

というわけで、今はリガチャーの到着する日が楽しみで、けれどかつてこれほどにサックスを吹くことが楽しいと思ったことはあったろうか。吹いていれば、思うようにならず、惨めな気持ちになることもあるけれど、でも今はただ吹けるというそのことが嬉しい。数年のブランクは無駄といえば無駄であったけれど、こうして新たな気持ちで向き合えるようになった、それを思えば意味のある期間であったのかも知れません。

2009年2月15日日曜日

フランシーヌの場合

 なぜかわからんのですが、歌声喫茶を今のこの時代にあえてやりたいという人と知り合う機会を持ちまして、それでなんでかわからんのですが、その手伝いをすることになりまして、端的にいいますと、歌います、そして伴奏します。けど、いったいなにを歌ったものか、それがわからず困っています。狙いの客層というものがあります。店主にいわせれば、団塊の世代、つまりリタイアして悠々自適に暮らそうという、そうした人たちをターゲットにしたいのだそうですが、だから若い人の歌はあまり選ばないで欲しい。まあそれはいいんです。私が若い人向けの歌を知りませんから。けど、だからといって六十七十代に訴える歌というのもちょっとわかりません。とりあえず初回のお勤め(といっても給金は出ない)を果たして、自分の父母よりもちょっと上の世代が中心かとあたりを付けたけれど、そうなるとなおさらどんな歌がいいかわからない。頭かかえる思いでいます。

そんな私の支えとなるのは、全音楽譜出版から出ている『歌謡曲のすべて』であります。そしてもうひとつ、デアゴスティーニからリリースされている『青春のうた』。ここからピックアップしていけばよいのかな。前者、曲集はなにしろ戦前歌謡から軍歌から収録しているし、後者は歌声喫茶全盛の時期もサポートしているし、しかしそれでもよくわからんなあ。わからんながらもこれがいいんではないか、そんな風に思う歌もあって、そうした中の一曲が、新谷のり子の歌った『フランシーヌの場合』です。

私ははじめてこれを聴いたとき、てっきりシャンソンに日本語歌詞をつけたものだと思ったんです。実際、この歌のはやった当時にもそう思っていた人は多かったらしいのですが、実はそれは勘違いというやつだそうでして、つまりフランスにオリジナルがあるのではなく、日本で作られた歌であるんです。作詞はいまいずみあきら、作曲は郷五郎。ただし、題材はフランスの出来事に取材していて、パリにて抗議の焼身自殺を遂げたフランシーヌ・ルコントがモチーフになっているのだそうで、それが3月30日。フランシーヌという名前と、3月30日の日曜日という日付は、歌詞にもはっきりと歌われて、つきはなされるような悲しさや世界と断絶されるようなやるせなさ、そうした感情を抱える歌詞と曲調が相俟って、なんともいえない独特の世界をかもしだしています。

私がこの曲を歌おうと思ったのは、『青春のうた』にて聴いてどうにも忘れがたかったということがあって、そして『歌謡曲のすべて』に楽譜を見付けた、その二点がためでありました。しかし、まずは心のどこかにひっかかっていた、そうした事実が重要でした。陰惨ささえ感じさせる歌、それが無理に情感もりあげるでもなく、淡々と歌われる。まるで、フランシーヌを遠くに感じ、ながめるような、そんな距離が切なかった。けれど、その距離感とは、フランシーヌに向けられたものというよりは、むしろ彼女のようにはあれない私に対するものであるのかも知れない。そのようにも感じさせて、素朴で素気ない、そんな歌が、歌うほどに沁みるのです。

だから私はこれを愛称していて、実際この歌は大ヒットしたそうではありませんか。きっと一部の世代には訴えるだろう。そのように思って、信じて、歌っていきます。

2009年2月14日土曜日

晴れのちシンデレラ

 実は、発売日に買っていました、『晴れのちシンデレラ』。毎月の、KRコミックスの買い出しにいったいつもの書店、新刊の平積みの中にあって、なにか訴えかけるものがあって、でもなあ、無闇に買う本を増やしたくない、そんな気持ちもあって、迷って迷って、手にとっては戻し、またとっては戻し、お嬢様学校に通うお嬢様だけど根は庶民、そういう設定に『笑う大天使』思い出したりして、それゆえにひかれつつも抵抗がある、うろうろうろうろ売り場を回り、ええい、もう買っちまうがいいさ! やけっぱちな気持ちで買って、そして今日まで寝かせてしまったのでした。いやね、かなり面白いという人もあって、ならきっと面白いのだろう。Amazonのおすすめにもいつもあがっている、だからこの数ヶ月ずっと気にしてきて、けれどそれでもし自分の性に合わなかったらどうしよう。なにか怖れみたいなものがあって、けれど読んでみれば、ああこれ面白いな。心の底から思いました。というか、MOMOか。雑誌買ってもいいかも、そう思うくらいよかった。いや、もう、買い損ねなくてよかった。あの時の判断、そのぎりぎりの決断に我がことながら安堵しました。

そうした経験を積み重ねていくほどに、表紙買いと称した衝動買いが酷くなっていくというのですが、そのへんのことはどうでもいいので、パスしまして。しかし、この表紙、こちらに向かって駆けてくるお嬢様、晴さんですね、その印象のぱっと引き付けるところ、そこが決め手となったのでした。さて、私は以前表紙で買ったシリーズ、なんていって、自分の表紙買いの傾向について書いたことがありました。それは、いわく、こちらを見つめる表紙シリーズ。そう、『晴れのちシンデレラ』も見事その条件に合致しております。凛々しいお嬢さんが、こちらを真っ向から見つめている。あまつさえ、駆けてくる。実にいい。しかし読み終えて思う、もしこの駆けてくるハルさんを避けなかったら、きっと撥ねとばされてしまうんだろうな……。

この漫画のヒロインは貧困をともに育った春日晴さん。ひょんなことから大金持ちになってしまったけれども、根っからの庶民はいまだ抜けきらず、そうしたところはよくある設定であるかと思います。けれど、その庶民ハルさんが、どうもこうもなくいい人で、じいやさんやメイドのみそのさんの気持ちがよくわかる。ちょっとしたことに喜びをあらわにするハルさんと、その弟あたる。その素直なところ、人柄人品のよさには格別のものがあります。人懐こくて、どうもこうもなくひきつける。そればかりか、その喜びに、なにか共感できるものがある。ささやかな仕合せを、この上もない喜びとして受け取る春日姉弟の笑顔には、こちらもつい笑顔にさせてしまう力がある。うん、すごく身近と感じられる、その距離感がたまりません。

その距離感、親しみやすさがあるから、学校の皆からハルさんが慕われるという、そうしたところもすごく自然と感じられるのでしょうね。実際私も読み終えるころには、健気なお嬢様にすっかり絆されてしまっていて、けれどこの漫画の面白さには、そうしたキャラクターの持つ力だけではない、ネタのあちこちに光るものがあって、だってサンタクロースはまんまトントン・マクートだし(クリスマスの夜に悪い子をさらいにくる、麻袋おじさんの伝承を持つ地域は実在します)、しめじ…、モノクロ、もう最高。これらのネタの面白さは、ネタだけではなくキャラクターがあって光るものなのかも知れませんが、またキャラクターの魅力を引き出すのもこうしたネタの積み重ねであるわけで、いわば車の両輪として互いに作用しあいながら、漫画の魅力を高めているのでしょうね。

ところで、この漫画の見どころのひとつに、姉を慕う弟たちがあるように思います。実際、弟というものは姉を慕い、ああして力にもなれば、助けにもなりたいと思うものなのですよ。などという私は、現在理想の姉を探している最中です。あ、そうそう、素敵なお姉さんの話ですが、目撃者ゼロなら本気で戦える、って、あんたは変身ヒーローですか!? と思ったら、どうもその認識で正しかったみたいです。ついでに、実は、この表紙、あの絵のために、ハルさんのこと、ずっとツンデレ系のお嬢さんかと思ってました。とんだ誤解でありました。

  • 宮成楽『晴れのちシンデレラ』第1巻 (バンブー・コミックス MOMO SELECTION) 東京:竹書房,2008年。
  • 以下続刊

2009年2月13日金曜日

S線上のテナ

  S線上のテナ』については、なにを書いたものかわからない。そんなことを以前いっていました。さらに加えて、音楽の用語がちらつく、そこが気になって、引き込まれる前に引き上げられてしまう。そのため、とても読みにくい。そんなこともいっていました。けれど、撤回します。枝葉末節など気にせずに、本筋を読めばいいといった、その本筋はいまやずいぶんと育って、第5巻においては圧巻。しっかりと太い幹がストーリーを支えて、読み応えのあるドラマを描いて、ああ、いい漫画であるなあ、心からそう思いました。思いがけない展開があった、思いがけない繋りもあった。それらは私が見落としてきたものであり、それゆえに意外性は抜群で、けれど意外性だけが私の感想の源ではありません。私の感想の源泉は、登場人物の感情の発露、そこにあったのでした。

自分でも思いもしなかったくらいに、引き付けられた。それは、その描きだされた表情の持つ力だったのかもな、そのように思うのです。キタラの喜怒哀楽。幸福から悲劇に反転し、そこから一気に駆け上がるかのような盛り上がりは、見せ場であるのは間違いないのだけれども、ただそれを見せ場といってしまうことには抵抗がある。渾身の見開きは、ここぞというポイントに投入されて、最高の効果を上げていた。そのように思うのだけれども、それをただ効果といってすませたくない。そのように思うのは、あくまでもストーリーを語り、状況を説明するそれら描写に、機能以上のなにかを見出したいと思うがためなのでしょう。それは、調律師と恭介の関係を明らかにするために用意されたものであったのだけれど、その目的以上に豊かであった、そのように感じられて、そしてその豊かに溢れる感情は現在に戻り、恭介、テナ、アルンという人たちに繋がっていく — 。

その一連の流れを、うまさという表現ですませたくはありません。

そこには、描かれたこと、それ以上のなにかがあったと思います。それらは決して斬新ではないし、ベタあるいは王道といってもいいものであったかも知れないけれど、あらわされた感情は確かに彼らに固有のものでした。他の誰か、他のなにかから引き写してきたというような、ありきたりのものではありませんでした。そう感じさせたのは、技術技巧という言葉では説明しきれない、心をそこにそっと置いて、優しく丁寧に触れようとする手の持つあたたかさ。どうしてこの思いを伝えようか、その一心で綴られた短かながらも確かに届く言葉の持つ力。そうしたものに似た実感が、ページに、一コマの絵に、しっかりと息づいていたからでしょう。

その実感とはなんなのか。問うてみれば、おそらくは大切に思う気持ち、それに尽きるのだろうと思います。作中の人物が向ける思い、そして作中の人物に向ける思い。それを表わすための言葉を探して、探して、そして見付けたのがあの表現だったのでしょう。その探す過程で、思いはシンプルに、研ぎ澄まされていって、あんなにも綺麗になったのかも知れない。特別な気持ちを伝えるために、特別ななにかはいらない。当たり前の普通の言葉が、当たり前に、私の思う誰かのために紡がれる。そうしたことこそが美しい。そのようなことを思わせる、心に沁みるシーンがあったのでした。

  • 岬下部せすな『S線上のテナ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 岬下部せすな『S線上のテナ』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 岬下部せすな『S線上のテナ』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 岬下部せすな『S線上のテナ』第4巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 岬下部せすな『S線上のテナ』第5巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

2009年2月12日木曜日

くろがねカチューシャ

 くろがねカチューシャ』は第2巻でめでたく完結しまして、しかし早かったなあ、それがまず第一の印象でした。別に終わりに向かいそうな気配なんてなかった、そう思っていたのに、いきなりどんと最終回がやってきて、え、あれ? 終わるの? そんなこと思ったのも懐かしい。けど、終わってから振り返ってみれば、最後に向けての数回は、まるでイベントを次々とこなしていくかの勢いで、昇進試験、メイドロボハナの実際、そしてトキの仕事観が描かれ、その勢いを保ったままで最終回へと雪崩れこんでるんですね。これは、2巻で完結と決定したからなのか。もし続いていたら、もう少しスローペースで、そのへんの必須エピソードが展開されていたのか。どうだかはわかりませんが、もう少し長く楽しんだほうがよかったか、あるいはこの畳みかける勢いに身をまかせて読むほうがよかったか、一概にどちらがいいかはわからない。てのは、きっと私は、そのどちらであったとしても、楽しく読んだろうな、そう思うからなのですね。

その楽しさの根っこには、前にもいってましたけれど、この作者のらしさ、定番展開を期待させる、そんな流れを作っておいて、ページをめくった先で見事に裏切ってみせる、そのやりかたがうまいからだと思っています。ページをめくった先、それは四コマ漫画でいうところの四コマ目に似ている、そのようにも感じられて、ただ決定的に違うのが、めくらないとわからないというところ。昔読んだ漫画の技法だかなんだか扱ってた本には、ページをめくったところに見せ場を持ってこいみたいなこと書いてありましたが、この人の本はその見本みたい。ページをめくるその直前までに、次を期待させる、そんな流れをきっちり用意して、ドンと落ちを付ける。そして、次へ繋げ、また落とす。アップダウンが明瞭で、わかりやすく、面白く、テンポがいいから読みやすい。だから、楽しい。ということなのだと思うのです。

そうした、直前の流れでひきつけて、落とす。そのパターンは、なにも状況をひっくり返す、そうしたギャグ方面に向かうばかりではなかったのですね。ひっくり返すどころか、真っ向から受けてみせる、そんな流れもあります。見事に期待どおりの展開、そこには決めとなる絵がドンと置かれて、一瞬時間がとまる。そして気持ちのなかに、じわっと感情が広がるんですね。うまいなあ。あるいは、これまでに学習してきたバイオレンスに繋がるだろう流れ、それを裏切る展開、これにもすっかりやられましたね。けど、それが二段でひっくり返されて、もう一度やられる羽目になるんですけどね……。

読んでみての感想は、多分、この作者は真面目な人なんだろうなあ、そんな感じ。漫画の構成に真面目で、読者を楽しませることに真面目で、そして真面目であるからこそ自分の真面目さを表立っては出せない。ちょっとテレ隠し? そんな風に感じるなにかもあって、そうしたところは結構好きでした。だから、もうちょっと続いてもよかったのに。あの恒例の嘘予告、あれが実現するなら、きっと楽しみにして読んだろう。まあ、あの予告どおりにはならんでしょうが、続いたなら続いたで、私にはよかった。そんな風にも思うんですね。でも、ここはきれいに終わってみせて、ちょっとさみしくはあるけれど、こうして完結したことを今は喜びたいと思います。

2009年2月11日水曜日

The G7th Performance Capo

 今日、ちょっと歌いにいってきました。といっても、本番とかではなく、顔見せというかリハーサルというか、そんな感じ。でもまあ、どれくらいできるか、そうしたアピールをする格好の機会であるわけで — 、でも特に気合は入らなかったな。こういう、なんとなくだらだらしているところが私の悪いところ。でもいいかげんにはしないですよ。いたって真面目。使いなれた歌集を持って、使いなれたギターも持って、それからカポも、チューナーも。でも、現地ではその店の備品のギターばかり弾いていて、いやね、今後使うのは備品のギターでしょうから、なれておいたほうがいいかなって思って。でも、そうして弾いてみて、やっぱりいつもの使いなれたギターのほうがいいなあと、そう思って、けど次からは大変なので、身ひとつでいこうと思っています。

でも、カポは自前のものを持っていこうかな、というのは、ガットギター用のカポが置いてなくてですね、それではちょっと困る。歌う人の声域によって、上げたり下げたりしないといけない、それにはカポがないと面倒です。

カポというのはなにかというと、ギターのネックに装着することで、開放弦の音の高さを変更するための器具なんですね。正しくはカポタストといいます。それは昔は木製で、ガット弦使って締め上げるようなものが主流だったらしいといいますが、今ではねじ式のものがあったり、ゴムバンド状のものもあったり、さらにはShubbのものがそうですが、ぱこんとワンタッチで止められるものもあったりで、奏者はそれぞれ使い勝手や音に与える影響を考えて、自分の好みにあったものを使っています。

そこで私の好みのものとなるのですが、G7thのPerformance Capo一択ですね。これは実によくできています。閉じる方向には簡単に動き、しかし逆方向には動かない。外すときは、ノブをくいっと動かすと、これまた簡単に開いて、すごく楽に扱えるところが気にいっています。また、弦を押える力は自分の手で閉じる、その時に加減ができますから、絞めすぎて音程を狂わせるということも少ない。ローポジションとハイポジションでネックの厚さは違いますが、事前に調整しておく必要もない。ポジションが違おうと、楽器が違おうと、狙いのフレットに合わせて、きゅっと閉じる。それだけでいいという手軽さは、一度使うと手放せなくなるほどに好感触です。

もしこのカポに難点があるとすれば、ちょっと重めというところでしょうか。けれど、私は気になりません。だから、私はスチール弦のギター用にひとつ、そしてガット弦のギター用にも買って、つまりうちにはG7thのカポがふたつあるのです。

あ、もうひとつ難点があった。ちょっと高い。五千円くらいする。けど、理想のカポを探していろいろ試すより、これひとつで決着させる方がずっと安価ともいえるわけで、だから私はカポに関してはもう迷わない。これ一筋。少なくともこれに優るカポが出るまでは、その一筋を貫くでしょう。けど、これに優るものがそうそう出るとも思えないんですよね。だから、一生もののカポ、つまり壊れたりすることがあれば、またこれを買うだろう、そんな風に思っています。

2009年2月10日火曜日

たまのこしかけ

 『たまのこしかけ』のヒロイン、たまこさんは35歳。バブル期入社のOLだなんていってるけど、そいつはちょいと計算おかしくないかい? 35歳ってことは、平成に入ったその頃は高校生。卒業時にはバブルはとっくにはじけていて、世の中不況だなんていっていた。たまこさんは、勤続15年ということで短大卒。おそらくは、卒業のころには景気も上むいているだろうと予想していた口なんじゃないかと思われますが、いやあ現実はきびしい、その予測は見事にはずれ、景気はなおさら冷え込んでいたんです……。いや、別に厳密にそのへんを追求したいわけじゃないんです。実は、私の人生がまさしくそんな感じで、振り返るその時々に、たまこさんの足跡を見付けることもできるんじゃないだろうか、そんな期待があったりしたんですよ。だから、すごく身近な存在、それがたまこさんだと思います。でも、この連載が始まったのは2006年でしたっけ。ということは、本当ならこの人は今38歳くらいなのかな? うん、いい年頃じゃないですか。女性の魅力は、十代には十代の、二十代には二十代の、そして三十代には三十代に特有のものがあって、ええ、たまこさん、充分以上に魅力的ですから! ああいう女性、現実にあったら、きっと人気があるんじゃないかなあ、少なくとも私はとっても好きそうだ、そんな風に思います。

けれど、私はたまこの上司、川越係長が好きです。ああ、あんた女装美少年好きだもんね、って、いや、そういうわけじゃないんです。ミキティは、女装美壮年です。ときめくね! じゃなくて、係長はたまこと同い年。気があうんでしょうか、いつも一緒になにかしてるって印象があって、気を抜くと女を忘れてしまいがちのたまこさんを、きゅっと引き締める、そんな役割りを担っています。

しかし、係長のような、一歩社会に踏み出すと気張っちゃう、けれどちょっと駄目な部分も持っていて、というキャラクターも魅力ですが、趣味が鉄道で、愛読書が時刻表で、そんなちょっとマニアックなお嬢さん。どことなく抜けていて、どことなくゆるくて、けれど実は結構ちゃんとしてるという、そういうキャラクターも魅力的だと思うんです。ええ、鐵分多めの、マニア好みしそうなキャラクターに仕上がっているたまこさん。もちろん私もかなり好きな感じであるのですが、しかしそのたまこさんも、時に妙にシビアな一面を見せることがあって、ああ女性作家の本領発揮であるなあ。わくわくします。

しかし、私は結局どうあがいても男であるから、女性のもろもろはわかんない。だから、たまこさんの現実、そこが駄目だといわれてしまうようなところが描かれれば、いや、そんな君が素敵だ! といい、肌のハリにはなみだをながし、秋に太ればおろおろあるき — 。けど、そんなたまこさんがまぶしくてしかたないんですが。基本、服の下には身体が存在しないかのような、そんな女性が好きな私であるというのに、たまこさんの身体表現、腰から腿にかけての肉置きのかもしだすアトラクション、私はそうした身体というリアリティを憎んでいるはずだというのに、あらがえない。必要以上に魅惑的と感じられるたまこさんでありますが、あの裏表紙など見ると、係長はいったいどうなのか。いらぬこと考えてしまいますが、まあ、三十代、ちょっと体のラインも崩れてなんていいますが、そのちょっと崩れたところなどなかなかだ、そういったら、あんたはおっさんかといわれたことも懐しい。いや、けれど実際、悪くないものであるのです。

そして、たまこさんはその性格がいいんだと思います。無闇に高望みするようなところがない。自分で自分を楽しませる術を知っている。無理に飾るところがなくて自然体。決して怒らず、いつもほがらかに笑っている。そういう人に、私は会いたい。実際、なにに焦るのでもなく、自適に暮らしを楽しんでいるという、その姿、そのスタイルが魅力的であるから、読んで、いいね、と思うんでしょうね。だからやっぱり私は思うんです。花の命は結構長い。枯れたならば、枯れた魅力もあるでしょうが、35歳は枯れるにはまだ早すぎる。そして実際、たまこさんも係長もいきいきとして、その生命のあふれる感じにまたもひかれてしまうのでした。

  • 荻野眞弓『たまのこしかけ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

2009年2月9日月曜日

花と泳ぐ

 花と泳ぐ』が完結。儚げな雰囲気、ちょっと陰鬱なモノローグが気になる漫画でした。ヒロインは、幽霊。菊子。いつか彼女との別れがくるのではないか、それも不可避のものとして、不幸と直面させられるのではないか。私はそのことをただただ怖れ、それだけにただただ幸いなものとして描かれる、物語上の現在に救いとなる明るさを求めていたように思います。悲しみを内包しつつ語られた『花と泳ぐ』、果してそのラストに辿りついて、私はどのように思ったのか。実は、私は、その不可避なる悲劇、それを心待ちにしていたのかも知れない。引き裂かれるような別れの情景、慟哭の結末、それを見たいと思っていたのかも知れない。そういうのは、エンディングに漂う甘い空気に、むしろ戸惑いを覚えたからです。甘い — 。けれど、それが仕合せなら、それでいいじゃないか。ええ、それでいいと思います。私だって、幸いな方がいい。しかし、なにがあっても驚かないぞと、とうから決めていた私の覚悟は空振りしたのかもなあ。そう思わされたのも事実。ちょっと苦笑した。幸いにほころぶ気持ちの一方に、やれやれと苦笑いする自分を感じていたのでありました。

しかしその苦笑いも、幸いであるからこそのものであった。そういう風にも思います。その一方で、この仕合せな結末は、当初から予定されていたものなのだろうか。そのようにも思います。数年をかけて、少しずつ、大切に大切に紡がれた、そうした印象さえ深い物語。その語られる時間の長さが、作者をして、菊子、そして幸太に情を移させることとなった? 情の移ったがゆえに、つらい展開を避けさせた? それはわかりません。作者がではなく、読者の不安や怖れる気持ち、それをうけて悲劇は回避されたのか。それもわかりません。ただ、確かなのは、その結末が仕合せと感じさせるものであったこと。それだけです。

しかし、私はこの物語を連載で読んで、そうした幸いに落ち着くことはわかりきっていたというのに、第3巻の内容を読みなおしていた時、その沈み込んでいくような幸太、菊子の感情に、思いのゆきかうその様に、泣きそうになってしまったのでした。それはやはり彼彼女らの物語にひきこまれてしまっていたから、なのでしょうね。私はあらためていうまでもなく、この人たちのことが好きでした。日常の、なにげない出来事に仕合せを感じる、そうした彼らの暮らしの光景に、私もささやかながら幸福を感じていたのかも知れません。しかし彼らの仕合せは、いずれゆらぐだろう。そしてついにゆらいだ。その時、私のうちにあった愛おしさが、たまらないほどにふくらんで、胸が詰まりました。それからの展開は、残念ながらお定まり、そういうべきものであったかも知れません。急ぎすぎ、そういってもいいものであったかも知れません。けれど、そんなことは問題にはなりませんでした。それは、このラストに漕ぎつけるまでに積み重ねられてきた幸いの実感、それが静かながらも豊かに、私とそしてこの物語を包んでいたからだろうと思います。

幸いに終わってなによりでした。いや、別に私は、悲痛に泣き暮れたってよかったのですけどね、それだけの準備はしていましたし。でも、やっぱりつらいのはいやかもね。それも、あの花のほころぶように笑う菊子さん、はにかみながら笑う幸太さん、この人たちが悲しい目にあうのはいやかもね。だから、これでよかったのだろうなあ。そう思って、自分の甘さに苦笑いする。けど、胸いっぱいに広がるさいわい。それが自然と笑みを誘って、ええ、私はこのラストを結構気に入ってるんです。

  • 口八丁ぐりぐら『花と泳ぐ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 口八丁ぐりぐら『花と泳ぐ』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 口八丁ぐりぐら『花と泳ぐ』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2009年。

2009年2月8日日曜日

そこぬけRPG

収録されてるかなどうかなと思っていたバレンタイン決戦は、3巻に持ち越しみたいですね。いやあ、あれが大変に素晴らしかったので、こりゃもう3巻今から心待ちです。

心待ちにしていた『そこぬけRPG』の第3巻が発売されました。もしかしたら、昨年中に出るのではないかという期待もありましたが、残念ながら今年に持ち越されて、けれど、いつ出ようとも面白いものは面白いからいいんです。そして期待のバレンタイン回は、冒頭二話目に登場して、いや、もう素晴しかったです。藤崎さんが可愛いったら可愛くないったら、もう乙女ですよ、乙女ですね。素直なんだか素直じゃないんだか、微妙によくわからない藤崎55cmさんですが、第3巻では彼女はじめとして、カナさん、ええとヒトミちゃんも含めていいのか? 女性陣の乙女っぷりが次々あらわにされて、ああ、もう、読んでいてブルブルと震えそうなくらいに素晴しい。もちろん私の一押しは藤崎さんで、ああもう、寅屋ばかりがなぜもてる。というか、藤崎さんのドリームアイやヒトミちゃんのドリームフィルターごしに見るせいか、寅屋までもが可愛く見えてきてしまうというのは、ちょっと問題なのではないかと思っています。

しかし、この第3巻、藤崎さんの可愛さやヒトミちゃんの暴走、社長の傍若無人、そのへんも大変に面白いのでありますが、それに加えて働くということ、社会に出て、仕事をするということの厳しさも語られていた巻であった、そのように思います。普段、この漫画に出てくるフィクションのゲーム会社においては、よっぽどまともではあり得ないような無茶がばんばん描かれて、そのあるんだかあるんだかないんだかわからない、そうしたところを楽しむ、そんなつもりでいたというのに、ほら、あの新人研修を発端とするくだりですよ。あれは、身に沁みました。

真面目に働かなきゃクビよん♥

それは確かに冗談めかした台詞ではあるのだけれども、けれど仕事というのは決して楽なものではあり得ないよな、そのように感じさせたのも事実で、技術が何より自分を守る…。なら、一体私は私自身をどのようにして守っていくというのだろう。そのように思わせる、意外に重い、シビアな言葉でありました。

でも結局は、誰もが代替可能なのです。自分がいなければまわらないなんていっているのは、結局その当人が思い込んでるだけっていうのが相場。いなくなったらいなくなったで、仕事でもなんでもまわるんです。そうした経験はこれまでも散々してきて、自分っていったいなんなんだろうって思ったこともあったのですが、だからこそ自分の場、ポジションを確立させる、そのための努力を怠ってはならんのでしょう。残るには残るだけの努力も必要やっちゅー事ね。それはパワーバランスのゲームに参加するということではなく、ましてや情報や技術を抱え込むということでもなく、他の誰でもないあの人がした仕事だ、なら大丈夫だろうという信頼を獲得するということに他ならない。そして、そうした努力の果てに認められる、その喜びが、仕事という、時に辛くしんどい営為に身を投じさせ、心身を支える原動力になるのだ。そうした、まさしく仕事をするということを描く漫画でもあるんですね。

仕事とは、単に金を得るための手段ではないのだ。そうした、時に忘れがちなことを思い出させてくれる、いい漫画であると思います。それも、説教くささなんてまるでなしに、面白さを第一にして、その上に仕事の厳しさとやりがいを伝えてくる。その実感を手渡ししてくれる、そのことが、この漫画自体がよい仕事であることの、この作者がよい仕事とはどのようなものであるかを知っているということの証左となっている、そのように感じています。

  • 佐藤両々『そこぬけRPG』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 佐藤両々『そこぬけRPG』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 佐藤両々『そこぬけRPG』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

引用

2009年2月7日土曜日

ダマされて巫女

 真田ぽーりんの『ダマされて巫女』が単行本になって、やあ、これは嬉しいことですよ。だいたいにして、私は真田ぽーりんが好きなのです。ヒロインが元気で真っ直ぐなところが気持ちいい。色気がないわけじゃないんだけど、色気よりも元気。間違いなく女の子なんだけれど、不必要に女の子のらしさを担わされているという感じがなくて、さっぱりとして、いい娘さんだなあ、そんな感じが私にはすごくマッチするみたいなんです。そして、その特性は『ダマされて巫女』のヒロイン、安倍晴風においても健在で、元気で真っ直ぐ、いい娘さんだなあ。だもんで、やっぱり好きなのです。ああ、晴風がじゃなくて、いや晴風もなんだけど、漫画が好きなんですよ。

晴風は、歴史の古さを売りとしている神社、平明神社の娘で、巫女をやっている。けれど巫女萌えにならないのは、やっぱり真田ぽーりんの持ち味 — 、元気なヒロイン、気心の知れたお友達、そしてちょっと変な人達のためなんだろうなと思います。変な人、それは他ならぬ晴風の父と祖父。神社の歴史を笠に着ず、新しいものでも積極的に受け入れる。そういったらなんだか美徳みたいですが、そのやることがどうにもこうにもミーハーというか、俗っぽいというか、で、晴風はそうした祖父、父の行状に怒っている。なんのかんのいって、神社のことを思っているいい娘さんじゃないか。なんていって、結局のところそんな晴風が可愛い、そういっていいのかも知れません。

けれど、私は晴風の兄、清明が好きです。ああ、あんた女装美少年好きだもんね、って、いや、そういうわけじゃないんです。清さんは、女装美青年です。ときめくね! じゃなくて、女装して巫女をやっている。その姿に、晴風の友人松島が惚れてしまった。いいぞ、もっとやれ! もりあがるわけです。しかし、本来の姿、男性としての清ちゃん、眼鏡の似合う好青年、その彼に晴風の友人由美ちゃんが参っちゃったわけだ。この微妙に意味不明な恋愛状況。こういうの私は大好きで、しかしそれ以上にいいのが、基本クールな清ちゃん(男の方)が妹晴風のこととなるとちょっとクールじゃなくなってしまう。もう、この家の男どもは、って話になるんだけど、基本困り者のおじいちゃん、お父さんにしても、皆晴風の仕合せを願っている。清さんにしたってそうですよ。そうした気持ちが折に見えるから、なんのかんのいって仲のよいことがわかるから、見ていてほっとする。

ええ、元気で真っ直ぐで気持ちのいい漫画だっていう所以でありますよ。

真田ぽーりんの漫画は、『ウチら陽気なシンデレラ』や『ドボガン天国』なんかがそうなのですが、結構ダイナミックに、ドラマティックに、紆余曲折を演出して、大ゴマでの見せ場で決着させるという、そういうスタイルのものもあるのですが、『ダマされて巫女』は割と淡々と進めていく、そんな印象があって、けれどその淡々の中に、おじいちゃん、お父さんの奇行、兄の女装、晴風の感情のアップダウンが差し挟まれる。じわじわと効いてきますね。そのじわじわとくる面白さ、それもまたよいのであります。

といったようなわけで、バレンタイン兄貴、バーベキュー兄貴、クリスマス晴風あたりは最高でした。由美ちゃんのためにサービスしてみせた清ちゃんには萌えでした。喫茶店の娘、可愛いです。そして、なんのかんのいって晴風も変わり者だと思います。

  • 真田ぽーりん『ダマされて巫女』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

2009年2月6日金曜日

Meyer Rubber 5MM Alto Saxophone Mouthpiece

まさかジャズ向けのマウスピースを買っちまうというのは予想外でした。

ええ、本当に予想外でした。だいたい、ソプラノサックスを買って、アルトと並行して練習する、それだけでもういっぱいいっぱいだっていってるのに、さらにここでマウスピースを増やして、しかもはじめてのジャズ向けときた。どう考えても時間が足りない、それ以前に体力がもたない。けれど、それでもやってみたかったんです。そのきっかけは、昨日いっていたArturo Schneiderのサクソフォン。アルトサックスなんですが、その音といい表現といい、強く感じ入るところがあって、あこがれですかね。無謀とわかっていながらも、やってみないでは気がすまなかったんです。

買ったのは、アルト用での定番といわれるらしいMeyerのラバーです。5MMという、一番標準的といわれるもの。なにぶん右も左もわからないジャンルのことですから、こういう場合にはみんなが使っているものを使うのが一番いいのです。スタンダードというものを知って、それで満足がいかないようなら、違うものを模索するようにする。それまでは、とにかくスタンダードに馴染むよう努力したほうがいい。そもそも、クラシック向けではバンドーレンのマウスピースを使っている私だって、最初はセルマーのC*使ってたんですよ。でも、それは息の入りの悪い、劣った個体であったそうで、ちょっと運の悪い出会いであったというのが口惜しいところであります。

マウスピースにも個体差がある。だから、実際に吹いて、複数の中から一番いいのを選ぶようにしたいものです。ですが、さっきもいいましたとおり、私にジャズ向けマウスピースのよしあしがわかるとは思えない。だから、割り切って通販で買いました。けど、そこはちゃんとプロ奏者による選定品を買っていて、こういう安心できる買い物というのはいいものです。というか、バンドーレンのマウスピースも選定品を出してくれないものか。Optimum AL3の選定品が出たら、その瞬間に買うけどな。それから、SL3も欲しいな。いやね、その後、楽器店まわってAL3何本あるかとか聞いてみたり、探す努力はしてるんです。けど、一本しかないっていうんだもんなあ。選択の余地なしですよ。この状況で買うというのは、正直気が進みません。本当に、なんとかならないものかなあ。愚痴ばっかりいってます。

購入したMeyer 5MM、もちろん吹いて試してます。リードもちゃんとジャズ向けのものを買って、最初は2 1/2にしようかと思ったけど、JAVAはトラディショナルよりも薄く感じられるそうだから、3番にしました。で、吹いてみて、いやはや、音がでかい。開きが大きいせいでしょうけど、息はどんどん入る。ほっといても鳴る感じなんだけど、逆にいえばまとまらない。それを柔軟といっていいのかどうかはわからないけれど、異質な吹奏感。けど、面白い。息の速度はあげぎみの方がいいのかも。切れのある、エッジの効いた音が出て、それは吹いてる自分が思っている以上にぽんと真っ直ぐ出ているらしく、だから心持ちセーブして吹いた方がよいのかも知れません。

高音の出がいいのは、マウスピースの特性なのか、それともこれが選定品だったからなのか、とにかく楽に出るという印象です。普段吹いているバンドーレンA20よりも高音の当たりはよくて、それはオーバートーン(フラジオとかアルティッシモともいうのだけど、高次倍音を使って、本来の音域以上の音を出す技法)においても同様。自分はこのへんの音域がとにかく苦手だったんだけど、それでもHigh C(実音だとHigh Eb)くらいまで苦労なしに出せて、これには驚きました。

運指、それから音の当て方に慣れれば、充分実用に足るなあ。なんだか楽しくなってきたぞ。

けど、マウスピースをジャズ向けのものにしたら、即ジャズの音が出るかというと、そんなに世の中は甘くないんです。ちゃんと音を作っていかないと、いい音にはなりません。多分、今はなんともいえない中途半端な音を出してることだろうと思います。まずよい音、理想の音をイメージして、吹きながら、現実を理想に擦り合せていかんといけないのですね。それが結構たいへんで、頑張ってるつもりだけどなかなか思うようにはいかないもので、もう投げたくなるんだけど、けどそうしたうまくいかなさも含めて音楽なのだと思います。だから、ジャズにどれだけ時間が割けるかはわからんけど、ちょっとずつでも、理想の音というものを模索していきたいと思います。

でも、一番いい練習方法は、セッションする、なんですよね。私はもっぱらひとりで吹いている、サックスひとりなんだけれど、それじゃ面白くないし、上達も遅いし。だから、なんとかセッションの機会を持ちたい。そんなこと考えています。

  • Meyer Rubber 5MM Alto Saxophone Mouthpiece

引用

2009年2月5日木曜日

Astor Piazzolla

 先日、サックスのCDを買おうと思ってCD店にいったら、なぜかジャンゴ・ラインハルトとアストル・ピアソラを買ってしまっていたという話をしていました。実はその時の話を読んだ友人から、ジャンゴを買っといてといわれましてね、じゃあついでにルイ・アームストロングも買っとくか。さらに増えた。買いすぎです。って、単価が低いからいいんだけど、しかし各10枚セットのボックスです。聴くだけでもえらい大変で、こうしてBlogの更新にかかる時間を利用して聴いていたんですけど、それぞれ五日くらいかかってるんですね。なので、本当に少しずつ聴いて、そして30枚全部聴き終えて、いやあ、いい買い物でありましたよ。特にピアソラは気に入って、寝室に持ち込んでまで聴いてたくらいです。

しかし、なにがそんなに気に入ったのか。それは、やっぱり音楽の質でありましょう。10枚入りのBox、購入額は1680円。そんな安価なシリーズ、正直音質とか期待していなかった。音が出れば充分くらいの気持ちでいたのが、しかし見事に裏切られて、結構いい音していて驚き、そして音楽の魅力は掛け値なし。しびれました。

はじめ、まだジャンゴを聴き終えていなかった頃、持ち歩いているiPodのシャッフルに聴いたことのないピアソラが現われて、あ、10枚組だ。ただ漫然と聴いていただけだというのに、はっと気持ちがとらえられた。そんな鮮烈な印象が記憶に残っています。この体験があったから、きっと期待していたんでしょうね。ジャンゴを聴き終えたら、ピアソラを聴くんだ。そう思って、ようやくその時がきて、聴くアルバムはタイトル順。最初に聴くこととなったAños De Soledad、表題曲であるAños De Soledadが最高でした。サクソフォンのソロが胸に迫って、うわあ、こんな風に吹けたらいいなあ。俄然、サックスの練習に熱が入るようになった。それは実にいい影響であったわけですが、まさかジャズ向けのマウスピースを買っちまうというのは予想外でした。サックスを吹いているのはArturo Schneiderという人で、本来はフルートを吹いている人みたいですね。だからか、調べても全然情報が出てこなくて、YouTubeにフルートを吹いている映像があったりはしたんですが、サックスに関しては皆無。音源に関する情報も出ない。当然どんな楽器使ってるとか、マウスピース等セッティングはどうだとか、そういう情報も出ない。残念ですね。もっと、いろいろな演奏を聴いてみたかったんですが。

この10枚組は、音質のいいディスクがあれば、正直あんまりというものもあって、また同じ曲の同じ録音がだぶって入っていたりもして、けれどあんまり気にしてもしかたがない。そうしたばらつきも含めて楽しんでしまった方がよさそうです。なんてったって安価。とりあえず、まとめてピアソラの音楽を体験できる。その手軽さを価値と思うべきボックスでありましょう。火を吹くかのような情熱を感じさせる曲があれば、Años De SoledadAdiós Noniñoのように、切なさ、サウダーデというのでしょうか、そうした感情に溢れる曲があって、非常に多様。そして、そのどちらもが美しく、心を捉えてはなさない。ああ、ピアソラはやっぱりよいなあ。改めてそう思ったのでありました。

2009年2月4日水曜日

GENERATION XTH -CODE BREAKER-

 GENERATION XTH -CODE BREAKER-、全クエストをクリアしました。シナリオのクリアは昨年末、12月30日に果たしていたのですが、その後、残りのクエストを少しずつやっつけながら進めてきて、しかし一ヶ月かかったんですね。なおクエストの終了は2月1日のこと。出かける直前に半時間ほど余裕ができたから、じゃあちょっと進めておくかと思ったら、あれよあれよと連戦。イベント戦をふたつこなして、なんとか運よく打ち勝って、ああ、よかった。正直な話、運が悪かったら全滅していたかも知れない。そんな剣呑な敵が相手でありました。

さて、全シナリオクリアに要した時間は63時間48分。シナリオクリアに45時間51分かけたから、その差分は17時間57分ですか。時間がないないといってた割に、結構遊んでましたね。瀕死回数は34回から54回にどかんと増えて、いやこれはしかたがない。だって、クリティカルヒットあり、それ以前に一撃死だってあるという、そんな凶悪なゲームなんだもの。ラストダンジョンでマナシールド張って、楽勝とか思ってたら一撃で割られて、一撃で後衛が死亡。えーっ……。目が点になりましたね。正直マナシールドには頼ってられないな。なのでプロヴィデンス要員をイージス要員に逆戻りさせて、しかしそうするとこの人が死にかねない。重ねてマナシールドを張るという、そんな弱気なプレイでありました。

しかし、それだけ用心しても、最後の敵を相手にした時は死亡者続出。オープンパンドラ連呼して、防御力を上げ、呪文効果高め、特殊攻撃封じ、敵スペルさえ防いで対処したのに、それでも死ぬ。その都度、瀕死からの治療をやるのだけど、毎回出てくるとは限らないから、運が悪いと全滅だったでしょうね。一度目の復活では、イージスのために複数回攻撃を受けて死亡した王騎士を、二度目には武術士、戦術士、王騎士、学術士を。もしここで聖術士が欠けたら終わってたでしょうな。いや、魔術士が一度も落ちなかったのが勝因というべきか。

でも、オープンパンドラで勝つのはちょっとずるい気がします。なので、これからさらにレベルあげて、余裕で勝てるようにしたいところですが、しかしそれだけの時間が持てるんだろうか。現在のレベルは、一番高い戦術士が38、一番低い王騎士が35、そこそこ育ってはいるのですが、それだけになかなかレベルがあがらず、まあ時間があればちょっとずつ育てる、その作戦でいこうと思います。

というか、時間があれば、別のゲームもやりたいんだけどなあ。

でも、ゲームなんてものは義務感でやるもんじゃないから、その時に面白いと思えるものを遊ぶのがいいのだと思います。というか、これから先、なおゲームをする余裕がなくなりそうなので、ほんと、弱ったなあ。貧乏で暇がないというのは、実に最低なことであると思います。

2009年2月3日火曜日

天より高く

 後から気付くということは、やはりあるのです。ということで、今日も現津みかみ。扱うものは『天より高く』。実は、この漫画に関しては一旦買わないことを決めていて、よって発売日にはスルー。『まんがタイムきららフォワード』は購読しているし、だから単行本で読まなくってもいいかなって思ったんですね。しかしどうしても我慢できなくなって、遅ればせながら購入を決定。いやね、表紙がね、ちょっと気になったんです。ちょっと不機嫌そうなお嬢様がこちらに視線を投げ掛けていらっしゃる、そうした表紙であるのですが、そのお嬢様が素敵だなって思った。いや、本当。制服なんですけど、黄色いワンピースのその下にいかにも胴がありますよという質感があって、私はそうした身体というリアリティを憎んでいるはずだったというのに、これは確保しておかないと、後々悔やむことにもなりかねないぞ — 、そう思った。かくして、今手元に『天より高く』の1巻があるのです。

いや、しかしこの表紙はいい感じです。可愛いお嬢さんは、ちょっとふくれっ面でも変わらず可愛いのだなあ、と実感させられる表紙です。そして本を開けば、照れているのか、不安がっているのか、そうしたお嬢さんがまた可愛い。と、こんな風に可愛い可愛いと連呼するのも非常にあれなものがあるので、話を変えます。

この漫画が面白いのかどうなのか。正直、私にはまだそれを判断できるだけの材料がないといった感じです。好きか嫌いかでいうと、嫌いじゃないよ。そう答えます。だから、余裕があるなら、躊躇なく買いだった。けど余裕がなかったから、見送ろうとした。その余裕とは、貧困よりもむしろ部屋の収容力でありますね。いやあ、もうすごいことになってますから。このまま調子にのって、本、漫画を買い続けたら、どれくらいで寝るスペースがなくなるだろう。現実的にそのリミットが見えてきて、そうなると気持ちの余裕もなくなってくるから不思議です。そして気持ちに余裕がなくなれば、買おうかなどうしようかなという迷いにおいて、買わないという選択肢が浮上することにもなるというのです。

『天より高く』もまさにそうしたお話であります。超お金持ち学校に通うお嬢様、西園寺遥がひょんなことから身を持ち崩す。そのゆきつく先は、学園唯一なのか? 苦学生の近衛浩之のもと。幼くして親を亡くした彼は、それは絵に描いたような赤貧で、そこへ贅沢のかぎりをつくしてきたお嬢様が転がりこんできた! しかも借金付きで!

私がこの漫画が結構嫌いじゃないというのは、お嬢さんが表情豊かで、またいい感じに人が悪くって、そうしたところが気にいっていたからでしょう。けれど、面白いかどうかまで踏み込まないのは、現時点ではまだ導入段階が過ぎたところといった感じで、動く余地は充分にあるし、膨らみもするだろうけど、正直まだわからん。ゆえに迷った。それに、お嬢さんが転落するきっかけとなった借金、というか損害か、それが2000万ぽっちというのはどうかと。ひろくんや私みたいな庶民ならともかく、お嬢さんのお家なら、個人資産でなんとかなりそうな額じゃなくて? 2000万なら、国家予算どころか、地方自治体級って感じじゃないかと思って、せめて一桁、できれば二桁くらい上だったらよかったのに……。

といった、重箱の隅をつつくようなことはどうでもいいのでありまして、気になるのは今後の展開。ひろくんを取り巻く女性たち、ちょっとしたハーレム環境が加速するのか、それともお嬢さんが苦労を通してその魅力を深めていくことになるのか、そうしたところに期待をしたいと思います。

  • 現津みかみ『天より高く』第1巻 (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

2009年2月2日月曜日

からハニ

  遅れて、後から好きになるということがあります。例えばそれは現津みかみ。私は当初『からハニ』については、なんの興味も持たず、ただただ普通に読んで普通に流していたのでした。それはなぜかといわれれば、しごく単純に、私にアイドルの属性のないためでしょう。もう、驚くほどにない。古くはおニャン子クラブ、最近ならハロー!プロジェクトですか? もう全然興味がありませんでした。だから、女の子で構成されているアイドルユニット、Paste*lとそのマネージャーの日常を描くこの漫画にもそれほどの興味を持つこともなく、けどなにがきっかけだったんだろう、途中からなんか意識して読むようになって、遅ればせながら1巻を足で探すことに……。そして、先日、第2巻が発売されました。これで完結。終わってしまう前に面白さに気付けてよかったです。

しかし、なにが面白かったのか。それは、アイドルの女の子の、アイドルらしくない表情。マネージャーの颯太に愛着を持って、迫るというか甘えるというか、そうした様子の可愛さであり、認めてもらいたくて頑張る姿のいじらしさであり、そして仲間でありライバルでもあるメンバーを出し抜こうとするずるさ、けれどそれが皆でじゃれあってるようにしか見えないという罪のなさ、そうしたところであるのではないかと思っています。

和気あいあいとした雰囲気のなか表現される個々のキャラクター。五人五様にみんな違ってみんないい。颯太に対するアプローチもそうだし、メンバー内での立ち位置、そうした諸々から感じられる違いが個性を際立たせて、結果、彼女らを魅力的に見せることとなったのでしょうね。そして、そうした個性の違いは、漫画における役割りにおいても発揮されて、展開を引っぱるもの、主にいじられるもの、不思議さを売りにするもの、などなど。各自の持ち味が連携しあうことで、漫画の面白さが引き出されていました。そして、その持ち味を違えた誰もに、ちゃんと見せ場となるようなクローズアップが用意されているところなどは、それぞれのファンに対する気配りであるのでしょう。

しかし、そのクローズアップが、特に中盤以降に描かれるものが、いいのですよ。前面にキャラクター性を打ち出して、面白さに直結させるようなものがあったかと思えば、普段のわいわいとしたにぎわいの中では現れてこない、キャラクターの内面描写がしっとりとした感触を残すこともあります。そうした表現を見ては、『からハニ』はキャラクターに主導されるタイプの漫画であるのだなという思いを強くしたものです。けれど人間はこと人にこそ興味を示すようにできています。魅力的と思えるキャラクターがそこにあって、その個性に面白さ、楽しさを感じるというのはむしろ自然だろう。漫画内のキャラクターが別のキャラクターに引かれる、そうした引き合う様子、関係性のダイナミクスに面白みを感じるのも自然だろう。そんな風に思わせる要素がありました。それはつまりは、キャラクターが魅力的にいきいきと描かれていた、そうしたことを重ねていっているに過ぎません。ええ、本当にキャラクターたちが素晴しく輝いている、そうした感覚にあふれた漫画でした。

けど、ちょっと颯太さん、この人の一人勝ちという気もしないでもない。いやね、この漫画における黒一点。年若いアイドルにしたわれる、そうした役割りを担う彼は、いわば読者の代理人であるのだろうなあ。そんなことをいうのは野暮だってわかってるんだけど、けどいわずにはおられませんでした。う、うらやましくなんてないんだからねっ!

なお、私はみかちゅーが好きでした。

  • 現津みかみ『からハニ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 現津みかみ『からハニ』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2009年。

2009年2月1日日曜日

0からはじめましょう!

 0からはじめましょう!』がはじまったとき、こんな風に話が進むだなんて思ってもいませんでした。事故にあった、それをきっかけに魂が抜け出てしまった少女、東屋ことりをヒロインとする生霊コメディ。片思いしていた相手のうちに転がりこんで、ばたばたとしながらもどこか楽しい幽霊ライフ(?)。そんな明るくさっぱりとした雰囲気が持ち味の漫画であるのですが、しかしラストに向けて話が動き出してからは素晴しかったの一言です。本来の持ち味は健在、湿っぽさに傾くことはまったくなしに、霊のままでいるということがどういうことか、きれいに描き出して、それは心の奥に届く、そんな深ささえ感じさせました。霊のままでいるということ、その意味は、反転してすなわち生きるということに直結して、本当にこんな方向に向かうだなんて予想もしていませんでした。予想もしていなかっただけに、心理テストの回、突然の反転にドキリとしました。

今年の頭、ちょうど先月になりますか、『ベルリン・天使の詩』を取り上げて、生きるということの意味、その真実味が深くよく表されている映画であるといっていました。より完全であろうはずの天使が、所詮有限に過ぎない人の生に憧れを持つ。そうした映画であるのですが、その時に語られていたこと、人生の瀬に降り、今、まさに生きているという実感をその身にうけることの素晴しさ — 。

『0からはじめましょう!』、心理テストの回、私がドキリとしたのは、いきなりのシリアスさ、それだけではなく、ことりに対してなされた問いかけ、その意味するところがすっと飲み込めたからであったのだろうと思います。それは問いに過ぎず、ことりの答えは描かれなかった。けれどこの漫画を読んできた人間には、容易にその意味するところはわかったはず。それは、ただことりの気持ちが伝わったというだけではなく、生きるということがどれほどに素晴しいことであるか。そうした根源に触れる深いメッセージがあったと思っています。

ああ、生きるということ。表立って、そうしたことをいいたてるような漫画ではありませんでした。けれど、確かな手応えの残る、そんなラストが心地よく、そして感動的でした。その感動とは、押し付けやなんかとは無縁の、しみじみと湧き上がるようなもの。今、こうして命があって、なにかを感じとっているというそのことが、すなわち生きるということであるのだと思わせる、そうした素敵な読後感が嬉しかった。生きるということは、嬉しく思う気持ち、楽しく思う気持ち、今まさに感じとっているそれを積み重ねていくという営為なのですね。確かに、嬉しいばかりじゃない。楽しくないこと、辛いこと、いやなこともあるのが人生だけど、そうしたことごとにおびえるばかりでは、人生の喜びにもまた出会うことはできない。だから、乗り越えてごらんよ。世界は、人生は、君のその頑張りに応えてくれるに違いないよ。そう、ささやかれたような気持ちがします。

『0からはじめましょう!』はわずか2巻。ちいさな物語ではありましたが、しかし傑作であったなあ、そう思っています。基本はコメディタッチ、あくまでも面白さ、楽しさが信条、そうした漫画でありますが、面白さの中に真実がある。それはさりげなく、けれどしんしんと身に染みて、素晴しかった。そうした思いは、この漫画に出てくる人たち、彼らがさっぱりとして気持ちのいい、愛すべき人であったから。身近に感じ、親身に思いもする、そんな人たちの気持ちが伝わるようであったからであろうかと思います。そして、そうした感情もまた、物語を追うなかで積み上げられていった、そのようなものであるのでしょうね。

しかし、いい話でした。まとめ方もうまかった、特に、最後の最後、ご都合主義となりかねないところを見事に乗り越えた、あの展開は見事です。そして、単行本描き下ろし、最後のメッセージ、よかった。むしろこちらこそ、お礼をいいたい。そんな気持ちにさえなったのは、この作者の人柄、優しさなのか真摯さなのか、その気持ちのよさのためであろうと思います。ええ、いい漫画でした。読めて本当によかった。ありがとうございました。私はあなたの漫画が大好きです。