2009年7月23日木曜日

百舌谷さん逆上する

 百舌谷さん逆上する』の第3巻。読み終えて、すごく安らいだ、そんな気分になって、いや、物語はまだまだこれからでありますが、しかしそれでも大きな山場を越えて、一旦の着地を果たした。そのように感じられて、しかし、それにしてもこの安らいだ気持ちはなんなのだろう。それは、ひとしきりの動乱を抜けて、これまで、物語において語られてきたことだけでなく、物語上の過去においても積み残されてきた事々に決着がついた。そのように感じられたことが大きかったのだと思います。その決着は、特に百舌谷さんと家族における物語は、少々急ぎ足だったように思わないでもないけれど、でも充分に納得のいく、それだけの仕掛けはあったと思う。そして、百舌谷さんの決意がはっきりとしたものになる場面、それは言葉にできない、したくない、ただ胸に思っているだけでもう充分と思えるほど。圧巻でありました。

しかし、いったいこの漫画のなにが私をこうもひきつけるのでしょう。やれツンデレだ、やれドMだと、もう本当にどうしようもないネタが頻出する漫画だっていうのに、でも私はそうしたネタで笑い、そして気付けば泣いてしまっている。臆面もなく、ぼろぼろと涙をこぼしてしまっている。それは、胸の奥、心に触れ、しぼりあげる、強い力を持った感情の動き、うねりのためだと思われて、それは疑いもなく、言葉の力であり、表現の力であり、そして作者の主張すること、その力であって、それら力が私を捉えてはなさない、空っぽの私に響いてやまない、だから私はもう参ってしまうのです。

ナツノクモ』でもそうだったと思います。私の心を捉えてはなさなかった。それは、あの不器用な人たちが、どこかしら欠陥を抱えた、そんな人たちが、自分の大切なものを守ろうと奮闘する様にうたれたから。そして彼らの姿に、やはりどこか欠けた自分自身を見てしまったから、なのだと思っています。『百舌谷さん』においても同様と感じていて、この漫画は、ヒロインが大きな欠陥を抱えている。まわりの人たちは、そんなヒロイン、百舌谷小音にふりまわされて、けれど百舌谷さんを見捨てようとはしない。それは、その人たちが完璧だからとかいうのではないのですね。歪んでいる、そうも思わせることがあるし、彼ら自身が無力を感じて打ちひしがれる、そんなことも多くて、けれど迷ったり苦しんだりしながらでも、自分の大切に思う誰かのために懸命になっている。そうした姿が見えるから、どうしようもなく切なくなったり、彼らがむくわれたと感じたときには、どうしようもなく嬉しくなったりするというのでしょう。

この漫画は、あきらかにわざと偏った人たちの、偏った出来事に焦点を当てていて、けれどそれは無力さを笑いものにしようとか、的外れな言動を笑おうとか、そんなそぶりはまったくなく、むしろ偏った彼らが自分たちの幸福をいかに追求するかを描いている、そのように感じます。自分の非力であることを自覚し、時に嘆き、苦しみながらも、もしかしたらまったくの無意味なことになるのかも知れないという怖れさえ抱きながら、それでも踏み出そうとする彼女、彼らの姿には、感動を禁じえません。弱さを知って、それでも誰かのために動こうとする、それは自己満足なんかではなく、その誰かのためであり、自分のためでもある。そうした物語に私はもう参ってしまっているのです。

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