2013年2月1日金曜日

幸腹グラフィティ

 ついぞ忘れてしまいがちだけれど、食べるということ、それはどれほどにしあわせなことなんだろう。私は今家族と一緒に暮らしていて、当たり前のように同じ食卓を囲んで毎日の夕食をいただいている。時に思うのですよ。こうした当たり前が、本当はかけがえのないことだったんだって知る日がいずれくるのだろうなって。母の作る食事、時に父も作ってくれる、それはきっとしあわせなことなんだ。おいしいと味わいながら食べる食事、そのしあわせ。そして自分が作ったものを誰かが食べてくれるしあわせ。思えば、いい加減にすましてよい食事などないのかも知れない。そうした思いを改めさせてくれた『幸腹グラフィティ』。ええ、ここには食べるということのどれほどに大切であるかが、これでもかと満ちています。

町子リョウ、このところ料理が下手になったと悩んでいる中学生の女の子。お婆ちゃんを亡くして以来、ひとりで食べる食事がおいしくないというのですね。父母ともに仕事で海外へいってしまって、今はリョウ一人で暮らしている。作るのもひとり、食べるのもひとり。それが味気ない。そう思っていたリョウの生活が激変するできごとが起こるのですね。はとこの女の子、森野きりんが毎週末に泊まりにくることになった。きりんのためにご飯を作るリョウ。食べてみたらびっくり、あれほどおいしくないと思っていたご飯がこんなにもおいしいだなんて — 。

一人で食べてたら美味しいはずないよ!

きりんの言葉、それはともすればありきたりに聞こえてしまうかも知れないけれど、それをありきたりにさせないのは、この漫画の力、表現力だと思う。きりんが、リョウが、濃密ともいえる、そんな描写で食べる、その絵の力があってのことか。いえ、違うのですね。それだけじゃない。表現の力が、食べる、そのことを描き出し、また同じく、誰かがそばにいてくれること、誰かのそばにいるということを表して、それらことのかけがえのなさ。人にとって食とは、ただ命を繋ぐための営為だけではありえない。大切と思える誰かとともに過ごす時間でもある。リョウときりんの関係は、誰かと一緒にいることの意味をしみじみと物語って、ああ自分は彼女らのように誰かのことを思って暮らしているだろうか。彼女らがそうであるようにありたい、羨ましく思い、今自分の得ているしあわせに思いをいたすのですね。

リョウときりん、そして同じ予備校に通っている椎名、彼女らの中心にある食という営為。リョウの作ってくれるおいしいご飯。いつものお返しにと、得意じゃない料理に取り組むきりんと椎名。誰かのためにと心をこめて作る料理がおいしいというのは本当なんです。まだ下手かも知れない、けどいい加減にではなく、おいしく食べて欲しいと手をかける。その気持ちが嬉しくさせてくれるんですよね。リョウが、料理上手と思っていたお婆ちゃんの知らなかった側面を知るエピソード、あれなどもとてもよかった。思えば自分も、この人に食べてもらいたい、おいしいと思ってもらいたい、そういう気持ちで作ったものは、いつもよりもずっとよくできていたと思う。最近では、そうした気持ちで料理をすることはなくなったなあ。こうしたこと思い出させてくれたのは、他でもない、リョウたちの食事の風景、食べるところもそうなら、準備から、その前の段階、きりんの、リョウのためにご飯を作ろう、そうした気持ちを温めているところから、とても魅力的に描かれているためなのですね。ただ作ればいいわけじゃない、あなたのために作る、そうした気持ちは時に健気で、時に暖かく包みこむようで、愛や情に似ている。あるいは、そのものなのかも知れませんね。ぱっと発火して燃え上がるものとはまた違った愛のありよう、それが食というものを通じて表現されたのが、『幸腹グラフィティ』という漫画であるのでしょう。

しかし、それにしてもですね。リョウやきりん、椎名、そしてお婆ちゃんの料理のエピソード、これらを追っていると、自分の得ている食というしあわせ、その将来はどうなのだろうと思ってしまうのですよ。今のしあわせ、それが変わってしまった時、私にはしあわせといえるものが残されているのだろうか。食欲とともに人恋しさをも増幅させる『幸腹グラフィティ』。今はただただ読んで、おいしそうと、楽しそう、しあわせそうと、そのあたたかさを感じていたい。そして、あたたかさを分かち合える、そんな誰かのことを思いたいのであります。

  • 川井マコト『幸腹グラフィティ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2013年。
  • 以下続刊

引用

  • 川井マコト『幸腹グラフィティ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2013年),18頁。

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