2014年9月26日金曜日

江戸しぐさの正体 — 教育をむしばむ偽りの伝統

 私自身、江戸しぐさにはまったくといっていいほど関わりを持っておらず、テレビで流れていたという公共広告機構の啓発CMも、見たの1回とか2回だけじゃないかなあ。傘かしげ、とか、そのへんの話だったと思う。ふーん。ともなんとも思わず、最近はとにかく江戸っつうのがはやっとるなあ、それくらいの印象だったと思う。けれど、その江戸しぐさとやらが、まったくもっての胡散くさい代物で、その根拠となっている江戸、そこになんらの真実もないのだとしたら、おやおや、なんだこれは、そう思うのもしかたない。ええ、これ、近年の創作だったというのですね。しかも、これが気付けばまことしやかに教育の現場に浸透しつつあるとかないとか聞けば、さすがにちとやばかろう、それくらいは思おうものです。『江戸しぐさの正体 — 教育をむしばむ偽りの伝統』、本書は、そうした江戸しぐさの実際について、多様な資料をもとに解説し、批判しようというもの。出ると聞いた時には、待ってました! そうした思いがしましたね。

江戸しぐさが、架空の江戸を真実といって権威づけするようなことなく、生活の中で気をつけたいマナー集として普及していたら、そもそもこうして批判されるようなこともなかったろうと思うのです。すれ違う時には傘がぶつからないよう互いによけましょう、電車では座席を互いに詰めあいましょう、そういったものであったら、まあそうだねと、大抵の人が素直に受け入れて、けど、批判はされないだろうけど、ここまで普及もしなかったろうなあ。やはり、江戸というフレーバーが江戸しぐさには重要で、マナーとして優れているからではなく、江戸だから、伝統だから、といった面でうけたのだろう。となると、やはり江戸しぐさは批判をまぬがれえない、端からそんな代物でしかなかったのだろうなといわざるをえません。

ひとつひとつのしぐさに対し、ここがおかしい、ここが変だというのは、この本においてもそれなりのページを割かれてはいるものの、本質ではないのだろうと思っています。むしろ、なぜこうした偽の歴史をでっちあげる必要があったのか、なぜこうした偽の歴史がこうもはびこるのか。偽を偽と指摘すれば、偽でなにが悪いのか、そうした開き直りもしばしば見られる始末。人が、社会が時に陥る病的状況。この本が主眼を置くのは、そうした私たちの社会が抱える病理であります。これまでにいくつもあった偽史やオカルトを取り上げ、それらの構造と江戸しぐさのそれを比較してみせる。江戸しぐさを受け入れる時代の素地があれば、それを自分たちにとって都合のいい道具として利用するものもある。真実よりも嘘がまかりとおる背景には、嘘でもいいから信じたい、嘘だとわかっても離れがたい心理があり、また嘘でもいいから自身の利益優先で押し通したい、そうした心理があるのでしょう。

江戸しぐさが流行ったのは、今の日本の社会が弱って、どんなでもいいから立派な過去に飛び付きたい、立派だった日本にすがって、今の自分たちの惨めさを忘れたい、そうした心理もあるのかも知れません。あるいは、今の惨めさは、立派な過去から遠ざかったせいだ、立派な過去を取り戻しさえすれば、今の惨めさは払拭できるに違いない。ええ、江戸しぐさというものは、もともと芝三光氏が、自分にとって気に食わない現状を否定し、自身の求めるユートピアとして作り上げた、ありもしない江戸の昔が発端とのこと。そうした芝氏の心情と、今の社会の精神は、どこか似通っているのかも知れません。現状を否定したいばかりに、ありもしない夢にすがろうという弱さをともに抱えてしまっている。その結果、不誠実なコンサルその他のカモにされてしまっている。これは、歴史にとっても社会にとっても、不幸でしかありえない、そんな状況であるとつくづく思わされるのでした。

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